郊外がワンダー・ランドな『三国志』

 

調べたことを精査せずに綴っていましたら
字数にして1万字余に焼け太ったことで、

今回も冒頭に章立てを付けます。
無駄に長くなり、大変恐縮です。

例によって、
興味のある部分だけでも
御目を通して頂ければ幸いです。

 

はじめに

1、魏呉蜀の軍隊と豪族
 1-1 呉の軍隊と開発領主(豪族)
 1-2 蜀の豪族と諸葛孔明
 1-3 曹操と配下豪族とその私兵
 1-4 勉学にも必要な元手

2、豪族集団の構成員とその影響力
3、郊外開発に打って出る豪族
4、税の軽重とその目安
5、豪族の郊外開発のパターン
6、『三国志』の「山賊」・「盗賊」の正体
7、インテリと下級役人の暗躍する
「黄巾の乱」
8、稀有な立地の例・白騎塢

9、平場の荘園のある空間
 9-1 『三国志』の荘園を写生する
 9-2 襄陽の城下の風景
 9-3 荘園の施設「あるある」
 9-4、居心地の悪い天守閣
 9-5 昔も鉄壁、要人の在所
 9-6 検証?!曹操の呂伯奢殺害
 9-7 自給自足で突っ張った豪族のその後
おわりに

 

 

はじめに

先の2回に続いて、
今回も『三国志』の時代における地理感覚
めいた御話をします。

末端の自治体組織である里や郷(離郷)、
そしてその集合体である県城(都郷)、郡城。

そしてこれらは、

徴税や裁判、治安や常設の市、
官吏登用制度等を通じて
相互補完の関係にある、

という話をしました。

ところが、『三国志』の時代には、

こういう儒教の理想郷とも言うべき
旧時代的で割合「マトモ」な
上下下達の郷里社会だけではなく、

むしろ、
その対極に位置する
実力主義的で世紀末な世間も存在します。

具体的には、
郊外の豪族の荘園がそれに当たります。

今回の話は、
この荘園に関する御話。

 

1、魏呉蜀の軍隊と豪族

1-1 呉の軍隊と開発領主(豪族)

 

さて、荘園だの豪族だのと言うと、

何だか戦争というよりは、
奴隷だの搾取だのと
固く古臭い歴史「学」上の社会体制の話になり、

読む気が失せる、
という読者の皆様も
いらっしゃるかもしれません。

しかしながら、豪族連中の私兵は、
『三国志』の軍隊組織の世間でも
極めて重要な存在でして、

特に、呉や蜀の軍隊の
戦力の中核をなしていたことで
無碍には出来ません。

中でも呉など、

陸遜のようなキレ者の都督が
豪族であったりもして、

孫権の辣腕を以てしても
集権的な体制が整いませんでした。

結果として、

拉致した山越族を元手とした
強欲な開発領主と、

洛陽・長安で働くことしか眼中にない
やる気のない中原志向の名士の集合体のまま、

時勢に取り残されて滅亡を迎えました。

 

因みに、名士とは、

簡単に言えば、
生まれが良くて学問(儒学)が出来、
学閥等で同じような人々とのコネを持っている人です。

コーエーの『三國志』シリーズで
知力か政治力が80以上の武将は、
大抵はこのカテゴリーに入ります。
(或いは、この表現の方が分かり易いでしょうか。)

詳しくは、
渡邊義浩先生『「三国志」の政治と思想』
参照されたし。

 

 

1-2 蜀の豪族と諸葛孔明

蜀の場合は、
夷陵の戦いによる荊州喪失以降は、

諸葛孔明
益州の土着の豪族・名士を差し置いて
荊州出身の根無し草のそれを優遇し、

一方で、両者を法律で押さえつける形で
王朝を体裁を保ちました。

言い換えれば、
劉備の軍隊は荊州・益州の豪族、
そして、巴蜀や漢中、荊州等の「異民族」兵隊の
寄せ集めでして、

街亭の戦いなどの肝心な場面で、
そういうシガラミが噴出する訳です。

それはともかく、
劉備の死後は、良くも悪くも、
絶対的な法の執行者としての
諸葛亮の存在が大きかった訳です。

 

 

1-3 曹操と配下豪族とその私兵

また、先進的な曹操の配下にも、
当然ながら、
李典や許褚等のような
豪族上がりの有力な武将がいまして、

この人達の場合は、
曹操が優秀であったのと
豪族の皆様の物分かりが良かったことで、

割合早い段階で、
悶着を起さずに私兵の解体に応じました。
―青州兵以外は。

曹操の軍隊が強かった理由は、
こういうところにもあると思います。

もっとも、曹魏の場合も、
良くも悪くも蜀先を行くと言いますか、

孔明も仲達も、
名士が有事を名目に兵権に手を出す過程は
酷似しているように思います。

 

 

1-4 勉学にも必要な元手

それはともかく、

曹氏政権の末期と司馬氏政権
双方に当てはまる話ですが、

文才があって
権謀術数が得意であっても、

現場を観るのが嫌いで
実務能力の低い連中が台頭して
国政を乱す流れになります。

郷里社会・豪族の荘園の双方が
長年の戦乱で疲弊
移住後に酷使されて並みならぬ不満を抱く「異民族」
国中に溢れ返っている危険な状況を看過し、

これが中国史上の大きな汚点でもある
八王・永嘉の乱の大きな伏線になります。

 

ですが、名士層とて、

資本力があって荘園に私兵を多く抱え
子弟に遊学させる余裕のある豪族層には
違いありません。

 

さらには、文才で権力を握った者とて、

歴代の中共の国家主席宜しく
色々なツテを通じて兵権だけは手放さなかった
という御話。

試験勉強のハナシとしては、

こういう流れは
役人の選抜試験である
九品中正にもつながる訳でして、

―その花形が、
知力90以上の仲達や陳羣だったりします。

 

 

2、豪族集団の構成員とその影響力

ここまでの話で、多少なりとも、
君主と豪族の関係が垣間見えたのではないか、
と思います。

つまり、君主にとっては、

有事の際には、
多数の兵隊を準備してくれる有難い側面と同時に、

家臣の体裁を取る割には、

実力があるうえに、
ヘンなグループ派閥を作ったりして
言うことを聞かない厄介な存在でもあるという。

そういう複雑な側面を持つ豪族さん達は、
そもそもどういう存在なのか
気になるところですが、

ここで、下記のアレなイラストを御覧下さい。

 

石井仁「黒山・白波考」、川勝義雄『魏晋南北朝』等を参考に作成。

これは、当時の豪族の行動パターンについて
図解したものです。

以下は、これに準拠するかたちで話を勧めます。

 

まず、豪族は、モノの本によれば、
大抵は里や郷、大きい部類になると複数の県レベルで
郷里社会に影響力を持っている富裕層です。

その実力の泉源は、
血の結束で掻き集めた
何百・何千という人的資源やそれに付随する資本

当時はタブーである同姓同士の婚姻の禁止が
緩くなっていたことも影響していたようです。

そして、こうした血縁集団の中で優秀な一族が
これを統率し、

さらには、食糧は言うに及ばず、
刀剣や弓矢のような兵器から酒のような商品まで
全てを自給自足する経済圏を持つ訳です。

 

また、郷里社会に影響力を持つ、
ということは、

経済力や政治力の多寡によっては、

県や郡はおろか、国政にまで、
自分達の息の掛かった人間を送り込むことが
可能となる訳です。

早い話、外戚や宦官の金脈が、
大豪族層という御話。

ましてや、こういう社会階層にとっては、

『三国志』の序盤の
太守や刺史レベルの新任の落下傘地方官が、
一から差配出来るような
生易しい連中ではない訳です。

 

 

3、郊外開発に打って出る豪族

次に、こういう豪族層の生活拠点
どうなっているのか、
という御話に入ります。

当然、旧来の郷や県城にも足場はあるものの、
そういう既存の拠点は開発の伸びしろに乏しく、

そのうえ、
郷里社会も富の偏在による
秩序の破壊を嫌います。

 

そこで、余った富を
郊外の田畑に開発に投資し、
住まいを現地に移します。

そして、血族の人員のみならず、
既存の郷里社会から弾き出された人々を雇って
荘園の開発や物品の生産、
そして防衛や周辺の田畑の切り取りに動員します。

 

無論、国家が模範とする
郷里社会から弾き出される人を
大量に出す時点で、
国家の統治としては失敗なのですが、

その理由は、

後漢の時代以降に限っても、

王莽や赤眉の動乱、
飢饉やそれに付随する羌族の大反乱、
北辺の烏丸や鮮卑の暴発、
豪族の小農からの収奪等、という具合に、

まあ、イロイロありまして。

 

さらには、流れ者の中には、
所謂「異民族」も含まれます。

南方の豪族なんか、
山奥に入ってまで山越を拉致しに掛かるので、
何とも始末が悪いもの。

―御明察の通り、呉の孫某の政権のことです。

 

 

4、税の軽重とその目安

これに因んで税の話をしますと、

税率ひとつとっても、
漢代は秦の反省を踏まえて
数字の上では安かったのですが、

王莽関係のゴタゴタで
国中が疲弊していたことに加え、

先述のように
豪族が御用の政治家を抱えていたことで、

低い税率で浮いた分を着服するので

末端の農民の負担軽減という点では
まるで用を為しません。

 

当然、いつの時代でも、
賢明な官僚はそれに気付き
何度も苦言を呈し、

宦官や外戚の横暴に際しては
流血沙汰の政争まで起こるのですが、

大勢としては、

黄巾の乱が起こり
曹操が台頭するまでは何も変わらなかった
と言えるかと思います。

 

もっとも、末端の農民にとっては、
正確には負担の軽減ではなく
法整備によって負担の公平感が増した、という、
切ない御話のようですが。

 

 

5、豪族の郊外開発のパターン

さて、郊外の開発には、いくつかの学術論文を読む限り、
恐らくは、少なくともふたつのパターンがあります。

 

1、山林沼沢を障壁とした「塢(う・お)」の構築
2、県城付近の水利に恵まれた平場の開発

 

1、のパターンは、石井仁先生によれば、
前漢の終わり頃から急増したパターンだそうな。
また、2、のパターンは、
恐らくは古い時代からのもの。

因みに、新県と旧県という概念があるようで、

確か、春秋時代かそれ以前に
共同体としての大体の形が成立した
領民と支配層の結び付きの深い県と、

秦が各国を占領する過程で設立した
人の入れ替わりの激しい県が存在する、

という話と記憶します。

太守・県令といった地方官の担い手の変遷や
地方ごとの人の入れ替わりについても
少なからず研究があるようですが、

サイト制作者の不勉強につき、
ここではキーワードの紹介に止め、
今後の課題とさせて頂ければと思います。

そこで、まずは、2のパターンから話をします。

 

豪族は、
イラストにありますのような
山林沼沢や峻嶮な地形に拠り、

簡単な防御施設を施して「塢」とします。

その過程で、障壁とは関係のない部分は
開墾したであろうと想像します。

 

 

6、『三国志演義』に登場する
「山賊」・「盗賊」の正体

 

この章は、

石井仁先生の
「黒山・白波考 ―後漢末の村塢と公権力―」
『東北大学東洋史論集』・9

による部分が大半でして、

本当に面白い論文ですが、
残念ながらPDF化されておりません。

こういうのを新書でダイジェストすると
売れそうな気がします。

入手方法としては、
例えば、最寄りの国立大学の書庫等で探されるか、
図書館の相互貸借を利用されますよう。

 

さて、「塢」とは、字の意味は砦の類だそうですが、
当時は武装村のような意味合いが強かった模様。

例えば、大きい部類では、
張燕の率いた「黒山賊」というのがありますが、

あの組織の母胎は太行山に存在する
無数の塢に拠る豪族層の連合体だそうな。

 

さらに、あの辺りに無数の塢があるのは、
2世紀の前半に漢王朝が羌族の反乱対策のために
建設・整備したためであり、

こういう武装村の豪族連中が、
時代が変わって
山賊上がりの押しの強い人を担いだというシナリオ。

 

白波賊も似たような話でして、
河東その他の洛陽近郊の先進地域で
何万もの人間に軍事動員を掛けること自体、

政治力のある豪族の連合体のなせる技の模様。

 

その延長として
以前の記事で「ハード・ボイルド楊奉」という
何とも下らない話をした楊奉も、
実は弘農郡の名家である
楊彪や楊修等楊氏の血族のようでして、

当人が天子を奉じたのは
義挙というよりは豪族の外交策の話の模様。

 

(過去の記事です、一応。)

三国志正史、それは盗賊と地方官の織り成すハードボイルドな世界

後日、楊氏や楊奉の話も含めて、
名家の話もしたいと思います。

 

話を戻しますが、
つまりは、『三国志』に出て来る山賊や盗賊の類は、

5万だの10万だのと、
あまりに膨大な数の人間を動員する
組織については、

本当に流れ者の集団なのか否かを疑う必要がある、
という御話です。

 

 

7、インテリと下級役人の暗躍する
「黄巾の乱」

黄巾の乱とて、
色々な社会階層の思惑の入り乱れた
複雑な政権の模様です。

少なくとも、
喰えなくなった小農の暴発だけで
括れるものではありません。

無論、横暴な高利貸しや手下の剣客の狼藉で
土地を取り上げられた側が
積極的に加わったのは、
想像に難くありませんが。

とはいえ、
そもそも、

そういう社会に不満を抱く人々を
駆り立てる側の思惑ですが、

まず、暴発した鉅鹿の辺りは
「学問」の先進地域でして、
政争で敗れた側の学閥の拠点の模様。

確かに、組織化された動きやロジック
ひとつとっても、
インテリの所業の痕跡が見え隠れします。

 

さらには役所が黄巾の張り紙を放置する等の
事務的な「過失」も
平時には在り得ない行為だそうな。

その意味では、実行部隊には
インテリや下級役人が
深くかかわっていると見るべきですし、

黒山にしても白波にしても、
黄巾の残党がゲリラ活動を
継続したものだそうで、

こういう札付きを戦闘部隊として利用して
袁紹や曹操等と対峙し、

隙あらば天子を保護しようとする
豪族層の意図を考えると、

綺麗事では済まされない
地方の群雄割拠の厳しい現実に加え、

中央の政争での劣勢の挽回策という構図
垣間見る心地です。

 

また、上記のように、
政治的な意味で作られた塢が
反体制の拠点に化ける例もあれば、

そもそも漢の高祖の劉邦様が
ああいうところに逃げ込んで
役人稼業を放り出したように、

山林沼沢には、
アジール(避難場所)として
色々な人が逃げ込んだようでして、

19世紀以降の
国民国家時代以降の例で言えば、

恐らくは、
主要な港湾都市に群がった移民が
自衛や政治的発言権を拡大するために
「〇〇人街」を作るような話です。

 

ですが、人の集まるところには、
兵隊も物資もあつまり、

結果として、
時代が下って土豪になり、

その地域の資力を基盤に
政治的な影響力を行使する、と。

 

 

8、稀有な立地の例・白騎塢

その他、イラストの白騎塢」についても
説明します。

敢えて南北朝時代のものを
イラストにしたのは、
他に目ぼしい詳細な例を
見付けられなかったからです。

その意味では、面識のない石井仁先生に
感謝しなければなりません。

 

で、白騎塢ですが、
『水経注』の当該の箇所の原文を確認すると、

ふたつの渓流のクロス地点の高台にあり、
三方に急峻な崖、西に城壁、北に塹壕、
周辺にも集落がある、

と、記してありまして、

これをそのままイラストに起こすと、
左上のようになろうかと。

 

余談ながら、
諸葛孔明が五丈原で陣没するまで本陣を構えたのも、
こういう感じの塢であったそうな。

居住性と防御性に優れ、
長期の在陣にも適していたそうです。

なお、荘園の設備の詳細については、
後述します。

 

 

9、平場の荘園のある空間

9-1 『三国志』の荘園を写生する

当時、見ず知らずの人間が
豪族の荘園で写生なんぞやったら、

軍事機密の関係で
殺されるか、あるいは、
拷問で半死半生の目に遭わされることでしょう。

それはともかく、

先に、豪族の郊外開発には
少なくともふたつパターンがある、
と書きましたが、

ここでは、

「2、県城付近の水利に恵まれた平場の開発」

について説明します。

 

早速ですが、
下記のアレなイラストを御覧ください。

 

上田早苗「後漢末期の襄陽豪族」、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』、林已奈夫『中国古代生活史』等より作成。

毎度ファミコンの一枚絵のような拙さ
恐縮しております。

 

このイラストの典拠は、
上田早苗先生の論文
「後漢末期の襄陽の豪族」
付録地図。

古い論文ですが、
PDFで読めます。

当該の論文のアドレスは以下。
ttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/152809/1/jor028_4_283.pdf
(一文字目に「h」を補って下さい。)

と、言いますか、
貧しいサイト制作者も
ダウンロードして読みました。

因みに、漢代の論文も色々ありまして、

『三国志』の内容を
斬新な分析視覚で掘り下げるものもあれば

例えば緻密な役人研究等
あまり『三国志』とは関係なさそうな
研究もあるのですが、
(当然と言えばそれまでですが)

上記の論文については、

サイト制作者としては、
上で取り上げた
石井仁先生の「黒山・白波考」と同様、
かなり御勧めしたい部類のものです。

 

話が脱線して恐縮です。
イラストの説明に戻ります。

論文に添えられた地図
先述の『水経注』の清代の注釈のもの。

この地図を元に、

漢代の荘園の壁画や
魏晋あるいは南北朝時代の
家屋を模した陶器等、

その他、いくつかの文献に掲載されていた
手書きの壁画等の模写等を
参考にイラストにしました。

したがって、
荘園内の施設の配置は
残念ながらリアリティは
乏しいかもしれません。

何故、魏晋時代のものが充実しているのに
南北朝時代のものも使うかと言えば、
魏晋時代以前のものは
大抵は色彩が剥げているか乏しいからです。

 

 

9-2 襄陽の城下の風景

因みに、イラストのモデルとなる地域は、
劉表統治時代の襄陽。

イラスト上の「県城」は、
劉表の治所である襄陽城がモデル。

加えて、襄陽城のすぐ西には
孔明がヒッキーしていた隆中があります。
西門から徒歩1、2キロ程度の圏内です。

また、イラストの手前側の中洲の邸宅は
蔡瑁が所有しており、
河川の西岸もこの人の荘園。

 

さらには、イラストの下半分の荘園は、
習氏の土地です。
恐らくは、襄陽城から
精々南に2、3キロ程度の距離。

因みに、この習というのは習近平、ではなく、
『漢晋春秋』等を書いた習鑿歯の御先祖様。

当時の御当主は、
劉琮が曹操に降った後、
劉備に従って蜀漢に入り、
関羽の荊州防衛戦で戦死されたそうな。

 

で、イラストは、この習氏の領地の立地を元に、
当時の豪族の荘園には必須の施設を加え、
さらに領主の屋敷を図解したという、

春の大特価の優れ物、とは言えないものです。

 

 

9-3 荘園の施設「あるある」

では、豪族の荘園内にはどういう施設があるのか、
と言えば、凡そ以下のようになります。

 

1、池(水源)と田畑・水門
2、高床式かそうではない精米所・踏み臼
3、倉楼
4、城壁か木柵等で覆われた豪族の住む城邑

 

他には、牛馬を飼育する牧場等があります。

以下、1、から順に説明します。

水源と田畑は食糧を自給する豪族には必須の資産で、
水門は当然ながら、両者の水位や水量を調整します。

今日ではコンピューター制御ですが、

IT化されている分、
却ってサイバー攻撃の対象になり易いそうな。

 

2、ですが、高床式は、穀物の腐敗を防ぐためです。

また、前漢時代の踏み臼の普及により、
脱穀・精米の効率が
それまでの10倍向上したそうな。

これも含めて、漢代自体が
農業技術が飛躍的に伸びた時代でしたが、

その内容は、器具の性能の向上や、
作物の成長リズムに合わせた人の使い方等、
総合的なものであったようです。

 

 

9-4、居心地の悪い天守閣

3、倉楼ですが、この時代の高楼の存在意義は、
防衛・監視のみならず、
富や権力の象徴でもありました。

ですが、こういうところの居住性については、
どうも良くなさそうな。

 

物は試しに、
近場に国宝級の天守閣がある方や
旅行で行かれる方は、

入場料も高くないことで、
一度登られることを御勧めします。

因みにサイト制作者は、
旅行で戦国マニアの友人達と
天守閣の松本城に登ったのですが、

友人曰く、
居住性の悪さを体感出来たことが
良い経験になった、とのこと。

無論、この種の施設からは、
バリア・フリーという概念は
微塵も感じません。

 

因みに、当時の倉楼は、
4層程度が標準の模様。

高い理由は、防衛や権威以外にも、
盗難対策があります。

また、戦乱の長期化によって、
施設自体が大型化したようでして、

そういう部類の施設になると、
1棟で1万石(267トン)以上の穀物が
備蓄出来たそうな。

食糧難の時代につき、

攻略目標に間諜を忍ばせる際、
こういう倉庫をいくつ持つかで、
相手の戦力の多寡を
推し量るのかもしれません。

 

因みに、漢代の壁画には、
農地に併設される形で書かれていたので、
城邑の中に作られている訳ではなさそうな。

実際に戦争にでもなれば、
兵糧の大部分を
城邑の中に搬入するのかもしれません。

 

余談ながら、太平洋戦争の折、

ある島の攻防戦で
(確か、天王山のガ島と記憶しますが)
米軍が日本軍の兵力を推測する時に
目安にしたのが、

何と、トイレの数。

地味ながら、
諜報活動の神髄と言いますか。

 

 

9-5 昔も鉄壁、要人の在所

さて、「4、城壁か木柵等で覆われた豪族の住む城邑」
について。

周辺の施設をひととおり説明して
外堀を埋めたところで、
いよいよ本丸・領主の城邑に突入します。

モノの本によれば、
豪族の在所は村(里や郷)の原型であったそうな。

また当時の県城や先述の白騎塢の状況から察するに、
資力のある豪族は、
村に木柵や土塀・土塁、城壁を施すことも
可能であったと思います。

 

また、魏晋時代の塢の焼き物を見ても、
城郭と四隅の高楼は必須のようでして、

サイト制作者は
豪族の館のみならず村の居住区の外縁にも
何らかの防御機能が施されており、

四隅には監視所としての高楼が
配置されていたのではないかと想像します。

まして、
豪族の寝起きする館は息が詰まるような有様でして、
硬度も耐火機能も揃った堅牢な外壁は当然のこと、

外壁には窓そのものがなく、
2階部分に精々通気口があるといった徹底ぶり。

そのうえ、屋敷内の四隅の高楼や
二層以上の御殿からも監視・防御態勢が取れるので、

寄せ手が守備側と同数の兵力では
正面攻撃では太刀打ち出来ない作りになっています。

 

言い換えれば、
それだけ豪族間の抗争が凄まじかった訳です。

そのうえ、この時代の豪族には、

荘園内の民には善政を施しても
県城や荘園の外で狼藉を働くようなクズ
少なからずおり、

優秀な地方官程、
こういうのを騙し討ちや離間工作などのような
効率的なかたちで、
周囲には「穏便」に排除しました。

 

一方で、豪族の日常生活は、

外の物々しさとは裏腹に、
広い厨房があり、庭には高価な鶴をまわせるわで、
至り尽くせりな状況を想像させます。

こういう内外の空間の差異が大きい部分は、
地方にいくつか存在する
今日の要人の邸宅を観る分にも、

時代が下っても変わらないものを感じます。

社交場という意味合いも強いのでしょう。

 

因みに、屋敷内のイラストは
漢代の壁画の模写ですが、
壁画自体、あくまで大体の略図だと思います。

何千もの血族や
客と呼ばれる剣客等の雇い人を抱える豪族であれば、

身辺の世話をさせる人間を常駐させるだけでも
4区画程度の敷地では到底足りないでしょう。

 

 

9-6 検証?!曹操の呂伯奢殺害

また、これに因みまして、

例えば
『三国志演義』に出て来る
曹操が呂伯奢を殺す話など、

サイト制作者は
先走って居直る曹操を
庇う気はありませんが、

明代の作り話とはいえ、

宿泊者にとっては
富裕層の広い屋敷で厨房が騒がしいことが
どれだけの危険を思わせるか
想像出来るかと思います。

もっとも、旅行関係の統計を見る限り、
アジア人自体が
騒々しいのが好きな面もあることで、

客観性に乏しい話かもしれませんが。

 

 

9-7 自給自足で突っ張った豪族のその後

ただ、こういう利権に安住した豪族にも
良い未来はありません。

例えば、劉表の死後、
こういう古い豪族は曹操にこぞって降り、
この時代は事なきを得ました。

で、この時、徹底抗戦を主張した劉備は、
領内で孤立して散々な目に遭いました。

この時の新野から江夏までの撤退戦が、

『三國志演義』で趙雲が頑張った、
例の長坂の戦い。

先日のBSの『趙雲伝』でも
大袈裟な大立ち回りをやっていました。

 

しかしながら、
豪族連中が独自の経済圏を持って
生活どころか軍事までコストを負担するというような
非効率なことを、
社会全体で1世紀も続けた結果、

国の経済力が完全に疲弊し、
肝心な時に防衛力を発揮出来ません。

結局は、非効率な負担のツケを
「異民族」の強制移住や酷使で辻褄を合わせ、

当然の結果として、
彼等に背かれて先祖伝来の土地を蹂躙されるという
最悪の結末を迎えます。

蔡瑁の一族なんぞ、
それまでは順調であったものの、
永嘉の乱で呆気なく滅亡したそうな。

 

その意味では、後代の南朝文化なんぞ、
サイト制作者には魏晋時代の失政の徒花に思えて
仕方がありませんし、

『三国志』の物語の肝や魅力も、

無数の軍閥や複数の王朝が
後先を考えずに発揮した

ひとつの時代に
最大限に凝縮されたエネルギーめいた部分に
あるのかもしれません。

 

 

おわりに

例によって、纏まりに欠ける話で大変恐縮ですが、
最後に内容を整理すると、概ね以下にようになります。

 

1、豪族の私兵は、『三国志』の時代の前半は、
軍閥の軍事力の中核であり、

特に、呉では滅亡まで変化がなかった。

 

2、豪族は郊外の田畑に投資し、
自らの居館を構築する。

 

3、豪族の居館や居住区には
堅固な防御施設が施されている。

 

4、豪族の郊外開発には、少なくとも2種類あり、

一、県城の付近に城邑を構える
恐らくは古いタイプ

二、山林沼沢に防御施設を施す「塢」

 このふたつに区分可能。

 

5、基本は自給自足であり、
穀物は元より、商品の製造・販売を手掛け、
荘園の防衛も自らの手で行う。

 

6、豪族は既存の郷里社会にも足場がある。

 

7、豪族は血族と雇い人で構成され、

大きい部類では
何千家(当時は一家4、5名)の規模を誇り、
ひとつふたつの県程度に大きな影響力を持つ。

 

8、優秀な子弟に英才教育を施し、

地方・中央を問わぬ政界はおろか、
宦官・外戚等、
宮中にも人送り込んで利益誘導を行う。

 

9、恐らく、一能一芸や労働力として雇う以外では、
外部の人間には排他的である。

 

10、新任の地方官は、
政策の取捨選択にあたって、

実力があって扱い辛い豪族の中で、
政策に応じて敵味方を鑑別して使い分ける。

 

 

以上のような話が、
今回の駄文の骨子となろうかと思います。

 

また、見苦しい言い訳も一応。

本当は豪族の荘園の立地の話だけを
する予定でしたが、

土地の話だけでは
イラスト等に実感が持てないと考え、

敢えて難しいテーマにも手を出しました。

ですが、学会ですら
侃々諤々の議論がなされているであろうテーマに対して、

何本かの論文を拾い読みした程度で
モノを書こうとすること自体が
そもそも失笑モノな話です。

その意味では、
豪族の存在に興味を持たれた方に
おかれましては、

豪族の存在意義にかかわってくるような
理解に膨大な知識を要する部分については、

無責任な話で恐縮ですが、

あくまで調べ事の取っ掛りに過ぎない駄文として、
話半分で御願い出来れば幸いです。

典拠も下記に記しますので、

例えば、手始めの方策としては、

まずは、PDFで読める論文の注釈等を使って、
豪族研究の本丸となる文献を探されると
宜しいかと思います。

 

 

国立情報学研究所の論文検索サイト
ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

 

【主要参考文献】
(今まで書き忘れていましたが、
敬称略です)

上田早苗「後漢末期の襄陽の豪族」
石井仁「黒山・白波考」
「六朝時代における関中の村塢について」
越智重明「後漢時代の豪族」
鶴間和幸「漢代豪族の地域的性格」
張学鋒「曹魏租調制度についての考察」
『史林』第81巻6号
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
金文京『中国の歴史 04』
川勝義雄『魏晋南北朝』
西嶋定生『秦漢帝国』
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』各巻

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『三国志』の時代の農村都市「郷」

今回も000字程度となったことで、
以下に章立てを付けます。

興味のある部分だけでも
御覧頂ければ幸いです。

加えて、
主要部分は以下の御本からの引用が多く、
それに後漢時代の状況を加味しています。
柿沼陽平先生の『中国古代の貨幣』(吉川弘文館)

 

はじめに
1、郡内における
「県」・「郷」・「里」の分布状況
2、ある郡の事情と某国の郡
3、「郷」の顔役と役人達
4、郷里の世間と群雄
 4-1、エリート群雄の登竜門・「孝廉」
 4-2、教育と学問と乱世の姦雄
5、県城の機能
 5-1、県城の規模と城内の里
 5-2、田畑の資産価値
 5-3、常設の市の概要
 5-4、軍事上の係争点としての末端拠点
おわりに

 

短くまとめるのが本当にヘタ
大変恐縮です。

 

はじめに

今回は『三国志』の時代の農村都市「郷(きょう)」の御話。

前回はこの時代の農村の話をしましたが、

『三国志』の時代の村・「里」(当該記事)

今回は、この「里(り)」が密集する、
もしくはいくつか点在して構成する「郷」について、
詳しく見ていこうと思います。

 

1、郡内における
「県」・「郷」・「里」の分布状況

漢代の言葉に「十里一郷」というのがあるのですが、

これが意味するところは、

行政側にとっては、
里が10箇所でひとつの郷を形成するのが
大体の目安ということです。

さて、前回「里」の話をしたことで、
折角ですので、「里」や「郷」を含めた
広域的な地図のモデルを見てみましょう。

具体的には、以下のようになります。
因みに、これはひとつの郡内の地図のモデルです。

 

柿沼陽平『中国古代の貨幣』p131の図を加工。

文献の地図が非常に分かり易いことで、
前回の記事でも
これを使って説明すれば良かったと後悔しております。

この図で、郡―県―郷―里、の、
末端自治体の位置関係がかなり整理出来たかと
思います。

目ぼしい拠点には防御施設があり、
主要な拠点同士は幹線で結ばれています。

青線を施したのは、
サイト制作者の主観ですが
軍道としての側面もあると想像したからです。

恐らく、王朝の治安の拠点である亭も、
こういう道を網羅していることでしょう。

因みに、
始皇帝の開削した主要幹線道路なんか
道幅70がメートルもありまして、

これは官民共用とはいえ、
その中央の7メートルは
自分の馬車専用であったそうな。

今日の田舎の国道も顔負けの規模です。

 

2、ある郡の事情と某国の郡

「郡」と「県」をめぐる話について、
実例も一応紹介しておきます。

例えば、首都・洛陽近郊に、
河内(かだい)郡という郡がありまして、
後漢時代には郡内に野王県・温県・朝歌県等
16の県がありました。

治所は時の政情で変わるようでして、

例えばこの郡も、
反・董卓の兵乱の際に
冀州刺史の某が県の治所を
野王から山間部の温に変えたことで、

住民が動揺して
国境地帯の住民(所謂「異民族」でしょう)
に付け込まれまして蹂躙されましたとさ。

そのうえ、
正義の諸侯の主力がここに集結したことで、
現地で略奪を働いて郡内が壊滅したという
救いようのない御話。

これを諫めたのが仲達の兄の司馬朗ですが、
当時は官界デビュー直後の若造につき
相手にされなかったそうな。

正史の文脈としては
某が無能というよりも、
晋の皇族の手柄話なのかもしれませんが。

後、蛇足ながら、東の何処かの国にも、
奇しくも「河内郡」(読み:かわち)
というのがありまして、

それも、「河内音頭」の大阪府河内郡以外にも、
茨城・栃木の2県も。

良く言われる話ですが、
日出る国と沈む国とでは
郡・県の上下関係が逆です。

―理由はサイト制作者の不勉強で、
御存知の方がいらっしゃれば
教えて頂きたい位ですが。

で、むこうは太守の治める郡の下に、
県令の治める県があります。

先述の反董卓で名乗りを上げた群雄が、
大体は郡の太守クラスです。

言い換えれば、
何十万という人口から徴税し、
さらにその資力で兵権を弄って
兵乱のトリガーを引く訳です。

一方、こちらは、大正時代まで郡長おり、
大抵は県庁の退官者が
形ばかりの試験を受けて就任したのですが、

地方社会への政治的な影響力は
或る程度あったものの、

決済する予算は少なく、
その実態は、
ほとんど名誉職のようなものでした。

広域的な合併が進み、
郊外の工業団地や農村も
「市内」となる前の時代の話です。

 

 

3、「郷」の顔役と役人達

つまらない話を恐縮です。
そろそろ、本題に戻ります。

そして、ここで注意すべきは、
里の分布状況です。

さて、先述のように、
ひとつの郷の中に里が点在している場合もあれば、
1ヶ所に密集している場合もあります。

もっとも、この図はモデルですので、
当然ながら、
6つの里が集まって
県城や郡城を構成するという訳ではありません。

ですが、「郷」クラスの地域になると、
その地域との政治的なつながりが強くなって来ます。

まず、郷の代表を「郷三役」と言います。

これは、役職名ですが、
自民党の「党三役」等とは違い、
構成員は郷の代表1名です。

郷三役は、
各々の里の指導層である「父老」から選出され、
郡や県の命令を、
里の代表である「里正」に下達します。

恐らく、その辺りの当局の政策の内容や意向は、
郷三役や父老、里正で共有されるのでしょう。

また、或る程度大きい郷になると、

訴訟を担当する「嗇夫(しょくふ)」
徴税を担当する「游徼(ゆうきょう)」

といった役人が駐在します。

この辺りは、
秦代からの制度が継承されていると推察します。

 

 

4、郷里の世間と群雄

4-1、エリート群雄の登竜門・「孝廉」

そして、
政策の下達だの、訴訟だの徴税だのと、
地方政治の実務にかかわる話が出て来ることは、

同時に、村落の富裕層にとっては、
中央政界への末端の入り口が
存在することも意味します。

具体的には、
漢代の人材登用制度に
「郷挙里選」というのがあります。

この人物評価システムは、
地方官が中央政府に
在地の優秀な人間を推薦する
というものです。

そして、その前の段階で、
末端の里郷が
地方官に推薦する候補者を選定します。

さらに、この選定の際、
最重要視された科目が、「孝廉」。

つまり、孝行と清廉潔白。

何故こういう小難しい話をするかと
言いますと、

曹操や袁紹、公孫瓚といった、
『三国志』の前半の軍閥で頭の切れる奴は、
大抵はこれをパスした
地域社会の名望家の出身だからです。

言い換えれば、彼等は、
教養の部分で価値観を共有している訳です。

 

 

4-2、教育と学問と乱世の姦雄

当然、その人材推薦のかなりの部分は
富裕層の猟官目的の功利主義
動いていまして、

例え田舎で推薦される人は
人格的にはアレでも、

孝行や清廉潔白をアピールをする
処世術や文言を、
幼少から英才教育で叩きこまれる訳です。

で、このバック・ボーンとなる思想としての
儒教の存在があると。

ところが、前漢の段階で、
孝廉については過度なアピールが目立つだの、

後漢に入って学生が増えてからは、
学生は大学でロクに勉強せず
コネ作りに励むだのと、

官界の人材システムには
色々と悪評はありました。

その意味では、曹操なんか、
試験の出来は悪かったが、
仕事は出来た上に教養もあったことで、

当時の制度と実態の乖離を
体現したような人物であったのかもしれません。

まあその、儒教の勉学は、

現在の感覚で言えば、

人間修養というよりも、
司法試験や公務員試験対策としての
六法の暗記に近いのでしょう。

もっとも、
全部が全部、功利主義ではないでしょうし、
社会道徳を学ぶ側面もあると思いますが。

 

 

5、県城の機能

5-1、県城の規模と城内の里

またしても、話が脱線して恐縮です。
拠点としての「里」の話に戻します。

さて、里が密集した「郷」は
特別な拠点でして、

その地域の中心的な都市として
さまざまな機能を兼ね備えます。

具体的には、

身分の高い役人が常駐したり、
こういう人々が日用品を買うためもあり
常設の市が立ち、

高い城壁のような防御施設も充実します。

で、その規模ですが、
里が10単位も密集すると、
同じ「郷」でも県の治所である「都郷(ときょう)」
となります。

対して、それ以外の郷を「離郷(りきょう)」
と言います。

ここで、密集した郷の実例を見てみましょう。
以下の、アレなイラストを御覧下さい。

なお、識者は
この古城を県城(都郷)と推測しています。
その前提で、以下を綴ります。

なお、周辺の田畑は、
サイト制作者の想像(妄想)ですが、
複数の文献の内容を参考にしました。

さて、まず、城壁の中に、
区画整備された「里」が
規則正しく配置されていまして、

各々の里は土塀で覆われており、
「監門」と呼ばれる門番が常駐し
決まった門限で門を開閉しています。

中の仕組みは、
前回の記事の内容と同じと推測します。

 

 

5-2、田畑の資産価値

また、郷の構内がこれだけ広くなると、
周辺の田畑への通勤の有利不利
出て来ます。

郷の富裕層は城壁の周辺に田畑を持ち、
これを「負郭」と言います。

通勤にも防衛にも有利で、
資産価値が高い訳です。

もっとも、
実際に農作業に従事するのは
使用人だそうですが。

対して、貧困層は、
城郭から遠い
「負郭窮巷」と呼ばれる田畑に通い、
繁忙期は泊まり込みで作業をします。

そのうえ、
籠城戦にでもなろうものなら
真っ先に荒らされる訳です。

守備隊が打って出て野戦を行うのも、
大抵はこういうところでしょう。

 

 

5-3、常設の市の概要

また、物流に関しては
先述のように常設の市が立ちます。

この市は大抵は城門の付近にありまして、

市は土塀に囲まれており
ここでも門番が門限で開閉しています。

また、市の中央の「旗亭」
謂わば警察署に加え、
集会所、飲食スペースを兼ねた施設でして、

地方官が演説をぶったり、あるいは、
塾なんかも開かれています。

施設の責任者である亭長は、
地方で信用のある年配者が担当しています。

村落の亭長とは
任用の基準が異なるのかもしれません。

その他、中央の高楼では、
城壁の外の外敵の監視も行うようです。

 

 

5-4、軍事上の係争点としての末端拠点

その他、注目すべき点としては、
点在する里が道沿いにあるのに対して
この種の主な集落は道を貫通していまして、

これが意味するところは、

侵攻軍の移動に際して
こういう集落を通過する必要があることを
意味します。

実際、『三国志』の時代にも、
「亭」(先述の県城内の「亭」とは異なる)等の
末端の交通の拠点が
戦場になっていまして、

施設の単体での防衛力はともかく、
要衝として争奪の対象になっていることは
注目に値します。

例えば、曹操の対袁紹戦における黄河渡河後の
演義の「十面埋伏」で有名な「倉『亭』の戦い」も、

恐らくその種の戦闘なのかもしれません。

 

 

おわりに

例によって
無駄に長くなりましたが、
纏めに入ります。

 

1、「里」が集まったものが「郷」。
点在するものもあれば、
密集するものもあります。

 

2、密集した「郷」の中でも、
大きな部類は地域の中心となります。

県の治所となる郷は「都郷」
そうでない郷は「里郷」。

 

3、郷の代表は「郷三役」。
里の指導層である「父老」の中から選出されます。

また、或る程度大きい郷になると、

訴訟を担当する「嗇夫(しょくふ)」
徴税を担当する「游徼(ゆうきょう)」

といった役人が駐在します。

 

4、中央政界に推薦する人材の候補者を
最初の段階で絞るのも、里や郷です。

 

5、県の治所である「都郷」になると、
常設の市が立ちます。

市は城門の付近にあり、土塀で囲まれています。

中央には「旗亭」が設置されており、
警察署・集会所等の機能があります。

 

6、城壁で囲まれている郷の中の里は
区画整理のうえ配置されています。

さらに、各々の里は土塀で囲まれており、
門番が門限で門を開閉しています。

 

7、県城クラスの郷の田畑は、
城壁からの遠近で資産価値が分かれます。

城壁から近い田畑は
「負郭」と呼ばれ資産価値が高く、

遠いものは「負郭窮巷」と呼ばれ、
通勤に不利で戦禍にも遭い易い状態にあります。

 

8、規模の大小にかかわらず、
交通の要衝で防衛施設のある拠点は、
戦争の際には係争点になる確率が高くなります。

 

 

【主要参考文献】

柿沼陽平『中国古代の貨幣』
川勝義雄『魏晋南北朝』
西嶋定生『秦漢帝国』
西川利文「漢代における郡県の構造について」
『佛教大学文学部論集』81
小嶋茂稔「漢代の国家統治機構における亭の位置」
『史学雑誌』112 巻 ・8号
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』

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『三国志』の時代の村・「里」

はじめに

今回は、『三国志』の時代の
村とその生活空間についての御話。

以降、何回かに分けて綴っていきます。

因みに、章立ては以下。
本文は4000字程度になってしまったことで、

興味のあるところだけでも
御目を通して頂ければ幸いです。

 

はじめに
1、流亡も旅路
2、可愛い英雄には旅をさせよ
3、定住の地の大小
4、最小の居住地「里」とは?
5、限られる移動手段
6、買い物の生活も徒歩の圏内
7、役人の来ない「里」と
  有象無象が集うアジール・山林叢沢
おわりに

 

 

1、流亡も旅路

さて、高校で世界史Bを履修された方は、
漢代の地方自治制度である「郡国制」
というのを多少なりとも記憶されているかと
思いますが、

当時、平民として少ない資産で
慎ましく生活する分には、

何事も無ければ、
自分の住む郡や国の境界線をまたぐ機会は
滅多に無い「筈」でした。

なお、この時代のは、
中国の東半分のごく限られた地域でして、
小さい郡程度の面積です。
皇族が治めます。

ところが、
3世紀という時代自体が
平均気温が3℃下がるという気候の大変動期であり、

そのうえ、三国志関係の戦乱や
それに先立つ羌族の反乱等に起因する
戦禍の規模がシャレにならなかったことで、

従軍に加えて飢饉・略奪・権力による強制移住等
貴賤を問わず数多くの民がそれまでの住処を追われて
難民のような流亡生活を強いられた時代でした。

長安からの移民で構成された
劉焉直属の「東州兵」など、
恐らくはそうした流民の典型だと思います。

こういう状況を反映してか、
前近代の社会においては
旅≒戦争という認識がありまして、

これは何も、
中国に限ったことではなく、

例えば「旅団」だとか、
旅と軍隊生活が結び付く言葉が存在する理由は
こういうところにあるように思います。

 

 

2、可愛い英雄には旅をさせよ

もっとも、割合ポジティブな旅もあります。

例えば、
行商が生業であれば
旅そのものが生業ですし、

資産家の子弟や高級官吏にでもなれば、
都会への遊学、地方官就任や監察等によって
旅行する機会を得ます。

また、色々あって盗賊にでもなれば、

触法行為である乗馬は元より、
隊商を襲ったり、官憲から逃げ回ったりして、
必然的に行動範囲が広くなりまして、

そういう意味では、
同じ旅でも戦争・戦災以外にも
色々ある訳ですが。

で、行商・遊学・地方官就任・逃亡生活、
そして従軍・戦災―、

因みに、侠の世界に片足を突っ込んで、
戦災に遭う以外は全てやったのが劉玄徳。

もっとも、陣中で食糧不足で人肉を喰うような
戦禍レベルの悲惨な負け戦は
何度も経験しています。

こういうあらゆるタイプの旅を実践した
豊富な人生経験も、
英雄の資質のひとつなのかもしれません。

 

 

3、定住の地の大小

さて、今日の感覚とは異なる
ブッソウな三国の時代にもかかわらず、
従軍以外にも旅をする人がいる―、

何だか、
ダブル・スタンダードで
見えにくい話ですが、

その実相に少しでも近く迫るためには、

そもそも、人々がどのような空間で生活していたか、
ということを知る必要があろうかと思います。

それでは、早速ですが、
以下のアレなイラストを御覧下さい。

 

早い話、当時の人口の大半であろう農村の中国人は、
イラストにあるような
「里」という集落で生活していました。

この単位集落の集合体が「郷」であり、

さらに「郷」でも規模の大きいものになると、
県や郡の県令や太守の所在地「治所」と言います)
であったりする訳で、

都郷、あるいは県城と言います。
郡の治所も、こういう拠点です。

こういう集落の集合体の最大の部類が、
邯鄲や臨淄等の戦国の王都でありまして。

 

ここで少々整理しますと、

里・郷は居住区とその周辺の田畑の
ごく限られた地域。

対して、県・郡・国・州は、
山岳・河川・道路等を含めた
地図で区分出来る広域的な領域を意味します。

―サイト制作者の理解が間違っていなければ。

 

【追記】

「郷」も「県」と同様、
居住区とその周辺の田畑だけでなく、
地図で区分出来る広域的な領域を持っているようです。

サイト制作者の勉強不足で恐縮です。

 

4、最小の居住地「里」とは?

続いて、「里」の構造について説明します。

「里」『三国志』の時代を含めた
古代中国の村と言うべきものでして、

簡単に言えば、
大体100軒程度の密集した住宅を
土塀で囲ったものです。

土塀のような防御施設がないところも
ありますが、
住宅が密集している所謂「集村」である点は
変わりません。

また、当時は1世帯辺り、大体4、5名でして、

単純計算で
大体500名程度の居住区となりましょうか。

そして、こういう小規模な集落は、
大抵は道に面していまして、
その門を「閭(りょ)」と言います。

さらに、入ってからすぐ左の居住区
「閭左(りょさ)」と言います。

ここは、集落でも貧しい部類の人が住んだところで、
粗末な小屋が乱立していたそうな。

その他、貧しい人々の中には、
普通の民家の軒下で風雨をしのいだり
道端で寝転がる人もいたようです。

現在のホームレスの方々のいらっしゃる風景と
似たような印象を受けます。

 

 

5、限られる移動手段

また、仕事である田畑は土塀の外側にありまして、

男性の場合は、朝は土塀の外側で農作業に従事し、
夜には土塀の内側の居住区内に引き揚げます。

因みに、漢代に入ると牛耕が盛んになりましたが、

一方で、三国志の時代は戦争による消耗と徴発で
牛馬が著しく不足した時代でして、

また飼料どころか食糧にも事欠き、
家畜の飼育が農家の大きい負担でもありました。

その意味では、
農村の広汎な層が
耕作・移動・運搬に牛を利活用出来たか否かは、
大勢力の屯田でもなければ難しかったと想像します。

弱小貴族が馬の調達が出来ずに
牛車に乗らざるを得なかったのが当時の実情であり、

戦争では、
敵陣に向けて馬を解き放つ攪乱作戦が非常に有効でした。
敵兵が(高価な)馬の略奪を始めて隊列を乱すからです。

三国志の時代には、こういう策が何度も使われ、
これで足を掬われて戦死した筆頭格が文醜。

 

一方、外で働く男性とは対照的に、
女性の場合は
人前に姿を見せないのが建前でして、

当時の模範的な考え方としては
家内で生地の生産に励むことでしたが、
男性が従事した例も少なからずあります。

残念ながら、サイト制作者には、
農村の末端の社会での
女性の詳細なライフ・サイクルについては
現時点では分かりかねます。

恐らく、上流社会に比べて、
力仕事以外は男女兼用の仕事が多いという具合に、
臨機応変に対処していたように想像しますが。

 

 

6、買い物の生活も徒歩の圏内

さて、里の中で自給出来ないものに関しては、
外に買い出しに行くか、
または定期的に地元民の開く市が立ちます。
行商もこういうものに混じっているのでしょう。

言い換えれば、
「里」クラスの集落が単体で存在する場合は、
徴税・裁判の役人がいなければ
常設の市も存在しないのです。

 

ですが、先述の「里」の集合体である「郷」の中でも、
県の治所である「都郷」クラスであれば
常設の市があります。

因みに、県の治所ではない郷を「離郷」と呼びます。

では、自分の住む「里」から「都郷」
どれ位離れているかと言いますと、

余程峻嶮な地形か辺鄙な場所でもない限りは、
日帰りあるいは2日程度で往復出来る距離にあったと
思われます。

 

その理由はいくつかありますが、

例えば、当時の役人の生活サイクルは、

普段は郡県の治所である都郷の官舎で
単身赴任で生活し、

5日に一度は自宅に帰って体を洗う
というものでした。

また、当時の治安活動の末端拠点である
その責任者である亭長及び部下数名が、

郷の市場や道路網を中心に、
半径2キロの範囲で
面的に配置されていることです。

また、自治体である里と郷、軍事・警察拠点である亭、
この三者の数のバランスを考えても、

遠距離を思わせるようなバラつきが
見られないからです。

こういう徒歩の生活圏に根差した
治安当局の監視体制の存在は、

余程峻嶮な地形や
人の寄り付かない場所でもない限りは、

里や郷の住民にとっては、
最低限の生活物資が
近場で賄えたことを示唆しているように思います。

もっとも、強盗は頻繁に出没したそうですが。

なお、亭の話は、
詳しくは後日と致します。交通の話も含めて。

 

 

7、役人の来ない「里」と
有象無象が集うアジール・山林叢沢

 

また、里を構成する住民の内訳ですが、

里の長を「里正」
年配の指導層を「父老・父兄」、
働き手を「子弟」と言います。

さらに、官の政策の通達に関しては、
郷の指導層から受けることになります。

先述のように、里レベルの集落には
まず役人は来ないからです。

 

最後に、先述のイラストに出て来る「山林叢沢」ですが、
集落から外れた
人の寄り付かないところにあるのが御約束。

サイト制作者の育った団地の外れにも、
ゴミや廃車が不法投棄されているような
区画がありまして、

この時代同様、
開削中の山裾や雑木林であったりします。

他にも、大きい廃墟施設なんかもそうですが、
暴走族の方々等が
こういうところを拠点に使用する訳でして、

この辺りの感覚は、
時代が下っても変わらないものだと思います。

 

で、『三国志』の時代の話ですが、
そもそも漢の高祖様自体が
これを悪用して役人稼業を放棄したこともあり、
推して知るべしです。

王莽政権の時代辺りから武装村と化し、

三国志の時代には
北方では所謂「異民族」もこれに紛れ込み、

山賊の範疇には収まらない
後世の梁山泊も顔負けのカオスな状況を呈して
政権側を大いに悩ませます。

一方で、強兵の泉源もあったりしまして、
程昱なんか官渡の戦いの時期に、
こういうところでも募兵を行っそうな。

ですが、
その御話は長くなるので、また後日。

 

 

おわりに

例によって、
余分な話も随分混在して恐縮ですが、

ここで、今回の「里」の特徴について、
簡単に纏めます。

 

1、まず「里」とは、
三国志の時代を含む古代中国における
居住地の最小単位です。

 

2、大体100軒程度の民家が集中する居住区で、
土塀等の防御施設がこれを囲みます。

 

3、里は幹道等の道沿いにあり、
集落の入り口である閭は
道路に面しています。

また、閭を潜ってすぐ左側の居住区には
貧しい人の民家が集中しています。

 

4、田畑は土塀の周辺にあり、

住民は朝には塀の外に出て
日が暮れるまで働き、

夕方乃至夜には、
塀の中の居住区に戻ります。

 

5、里の統治者を「里正」と言います。

上位の居住区である「郷」の人間から
官の通達を受け、
居住区内の住民にそれを伝えます。

 

6、里で自給出来ないものについては、

常設の市場のある県城に買い出しに行くか、
定期的に立つ市を利用します。

 

そして、こういう居住区の集合体が「郷」であり、

「郷」の中でも規模が大きく交通の要衝であるところは
県の治所である「都郷」(県城)、
さらに大きいものになると
郡の治所さえ兼ねることになります。

 

 

【主要参考文献】
柿沼陽平『中国古代の貨幣』
川勝義雄『魏晋南北朝』
西嶋定生『秦漢帝国』
西川利文「漢代における郡県の構造について」
『佛教大学文学部論集』81
小嶋茂稔「漢代の国家統治機構における亭の位置」
『史学雑誌』112 巻 ・8号
石井仁「六朝時代における関中の村塢について」
『駒沢史学』74
「黒山・白波考」 『東北大学東洋史論集 』9
宮川尚志「漢代の家畜(上)・(下)」

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『三国志』に登場する鎧アレコレ


今回も無駄に長いので、
以下に、章立てを付けます。

適当にスクロールして
御覧になりたい箇所だけでも御読み頂ければ幸いです。

 

はじめに

1、前漢時代の甲冑

1-1、後漢王朝の軍の事情
1-2、古代中国における鎧の部位と前漢時代の鎧
1-3、前漢時代の軍装
1-4、有り触れている被り物と武器
1-5、意外に重要な(?)履物の話

2、後漢・三国時代の鎧の特徴

2-1 兜の主流・蒙古鉢形冑
2-2 泥臭い「文化交流」の産物・両当鎧
2-3 筒袖鎧とその運用
2-4 明光鎧とNHK人形劇の話
2-5 『三国志』の鎧とドラマの考証の話

3、当時の常識?!鎧を纏わない無名の戦士達

3-1、官渡の戦いとそれまでの曹操の用兵
3-2、古代中国の戦闘の流儀と鎧
3-3、昔の民兵?!豪族の私兵
3-4、鎧を必要としない?!南方の兵士

おわりに

 

 

はじめに

 

今回の元ネタは、主にこの論文。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」
『日本考古学 2(2)』

当時の鎧のディティールや発掘場所等、その他について、
詳細に論じられていまして、
オマケに無料でPDFで閲覧可能。

ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/2/2/2_2_139/_article/-char/ja/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

あるいは、
NII学術情報ナビゲータで、
同論文を検索なさって頂ければ幸いです。

ttps://ci.nii.ac.jp/

サイト制作者としては、
マニア必見の価値有と思います。

さて、まずは、
更新が大幅に遅れて大変申し訳ありません。

と、言いますのは、
当初は靴の話をしようかと考えていましたが、

私事で色々と取り込んでいたことと、
氷の上で滑って右手を痛めたという名誉の負傷と、

『三国無双』の新作発売に託けて
少々それっぽい話に変更しようと
色気を出したことが見事に裏目に出、

イラストの準備等に時間がかかり
このような悲惨な結果になった次第です。

それでは、今回の話に入ります。
今回は『三国志』の時代の鎧の話。

この『三国志』の時代というのは、

単に乱世が1世紀続いたこと以外にも
武具や服飾の変遷が大きい時代でもありまして、

その意味では、
時代考証の厄介な時代でもあろうかと思います。

もっとも、戦乱を伴う過渡期は
いつの時代もそのようなものですが、

例えば、中国における衣服や靴等の服飾史の文献では、
王朝ごとに漢、魏晋という区切りをしまして、

『三国志』という枠組みで捉える場合、
後漢・魏晋のふたつの時代の状況を
付き合わせる必要がある訳です。

一昔前の通史なんか目を通すと、
こういう傾向が非常に強い訳でして、

最近までは、
歴史学としては『三国志』という枠組みは
あくまで小説の話でしかなかったような
印象を受けます。

ところが、ここ20年位で、
そのような状況に或る程度の変化がみられまして、

私の知る限りでも、10年程前、
さる若い中国史の気鋭の大学の準教授が、
講談社の『中国の歴史』の刊行に際して、

『三国志』の時代で1冊を使うとは驚いた
おっしゃっていたのが印象に残っています。
(その先生も三国志が大好きな方ですが)

もっとも、そこは、
学術界の悪い面―成果主義と言いますか。

歴史学一般の内部事情として、

中国史に限らず、どの時代の研究ついても、

史料が乏しくて分かりにくかったり、
パラダイムから逸れたりした部分には
中々研究に労力が割かれないという事情がありまして、

私のようなゲーム好きの素人の関心事と
研究者の目線の違いのズレを強く感じる次第です。

もっとも、
先生方の論文を読む分には、テーマからして、
研究者(三国志や関連するゲーム等が大好きな方は
絶対に少なからずいらっしゃると思いますが、
あくまで個人的な妄想の話です)の立場としては、

東洋史の授業で、
政治や経済等の話を差し置いて
ゲームの考証の話なんか
する訳にはいかないのでしょうが。

それでも、
昨今の現役の研究者の書かれた
『三国志』関係の書籍の
ラインナップの豊富さを見るに、

相応の史的・文学的意義の下、

素人目に見ても、
漸く『三国志』の枠組みでの研究に
焦点が当たりつつあるのかしらと思う次第です。

 

 

1、前漢時代の甲冑

1-1、後漢王朝の軍の事情

前置きが長くなりましたが、
鎧の話に入ります。

「はじめに」の話は、
漢・魏晋という時代区分―分け方がある、
という程度の認識で御願いします。

さて、まずは漢代の話から始めたいと思うのですが、

厄介なことに、

『三国志』の幕開けとなる後漢時代は
発掘物の残存状況が悪いようで、
早い話、実情がイマイチ判然としません。

その理由として、恐らく、
まずは後漢王朝の権力基盤が弱いことが挙げられます。

手始めに、
王莽政権以後の乱世を収束して後漢を建国した光武帝
その権力基盤である豪族層の疲弊を緩和すべく、
常備軍を削減したため、

当初の兵力の供給源の大半は
洛陽・長安近郊の兵営でした。

ですが、それ以降は、

時代が下るにつれて
北方の国境地帯への軍備増強や
地方官の勝手な募兵によって
国内になし崩し的に兵隊が溢れ返り、
(その「兵隊」の鎧の話は後述)

そのうえ2世紀に入ると、
策源地の長安以西の地域は
羌族の大反乱でエラいことになるという具合。

―因みに、このゴタゴタの最終局面で
頭角をあらわしたのが董卓。

つまり、後漢王朝には、
或る程度規格の整った鎧を大量に運用する力がなく、

始皇帝や武帝の時代のような
まとまった数の兵馬俑や立派な現物が
出土せず、

実態の把握が難しい訳です。

因みに、小林聡先生の研究から進展がなければ、
後漢王朝は軍の統廃合が激しいこともあり、

或る程度の改廃こそ判明しているものの、
その概要はイマイチ判然としません。

前回の話で少々部曲の話をしましたが、

秦や前漢から時代が下っているにもかかわらず
状況が掴みにくいのは、
政権の事情によるところが大きいように思います。

 

 

1-2、古代中国における鎧の部位と
前漢時代の鎧

 

そこで、まずは前漢時代の鎧を見ていることにします。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」等を元に作成。

例によって、ヘボいイラストで恐縮ですが、
もう少し実感のあるものを御覧になりたい場合は、

「百度検索」等を使って
イラストに出て来るような言葉で画像検索を掛けると
実写の復元品の写真が出て来ます。

プログラムの仕組みは分かりかねますが、

どういう訳か、
同じグーグル系で同じ漢字で検索を掛けても、

中国に関するものでは
むこうのエンジンの方が
それっぽいものが引っ掛かり易いので驚きです。

―ああいう国体につき、
国家の治安対策の副産物かもしれませんが。

さて、手始めに、
古代中国の甲冑の部位ですが、

高橋工先生によれば、

上(頭)から順に、

頸部を守る「盆領」
胸部を守る「身甲」
腕・手を守る「披膞」・「甲袖」
腰から下を守る「垂縁」・「甲裙」

以上の4部位に区分出来ます。

ただし、
残念ながら、以上の語句は、
本場中国でも
あまり馴染みのあるものではなさそうです。

また、盆領や甲袖、甲裙といった周辺の部位は、
この時代の甲冑としては、
付いていないものが多い印象を受けます。

次いで、鎧のタイプですが、
前漢のものは大体、札甲と魚鱗甲に区分出来ます。
因みに、技術的には、秦代のものと大差無いようです。

札甲は、布や革の衣類に一定の大きさの鉄の札を、
あるいは鉄の札同士を概ね規則的に縫い合わせたもの、

魚鱗甲は、小さい鉄片を糸(縅)で
縫い合わせたものです。

恐らく、魚鱗甲は身分の高い将官のものと推察します。

また、前漢と一口に言えど、

武帝の前の時代は
同じ郡国制下でも
皇帝の親戚の王様が東の方で威張っていまして、
王の支配領域が格段に広かったのです。

イラストにある金銀の魚鱗甲が出土した斉等は、
まさにそのような地域であったと推察します。

件の鎧が、
呉楚七国の乱で暴れた王様の
富の象徴ではなかろうかという御話。

もっとも、この兵乱は早々に鎮圧され
戦禍に見舞われた地域も限定的であったことで、

王莽政権以降の乱世の時代にも
武帝時代の武具が使われたそうな。

ですが、これ以降は三国時代まで
武具の変遷が判然としないことと、

(あくまで素人目に見てですが)
魚鱗甲に比して構造が簡単なことで、

前漢時代の札甲と同じ規格のものが
黄巾の乱以降の軍閥割拠の時代まで使用された可能性は
否定出来ないと思います。

因みに、魚鱗甲については後漢時代でも使われますし、
後漢時代の鎧が判然としないことは、
同時にもっとヤバい状況も意味しますが、
それは後述します。

 

 

1-3、前漢時代の軍装

鎧に続いて、軍装についても触れます。

このアレなイラストは、
当時の兵馬俑やネット上の復元写真やらを見て
無い知恵を絞って描いたものです。

如何せん、現物がないことで、

兵馬俑の写真だけでは細部の質感めいたものが分からず、
先学の復元写真が参考になるのですが、

復元写真を付き合わせても納得がいかない部分は
想像(妄想ともいいますが)で描くより他はなく、

その意味では、話半分で御願いしたく思います。

それでも、或る程度、
古代中国の歩兵や騎兵の特徴は浮彫になります。

まず上着ですが、

衣類の長さが膝までないことで、

イラストでは、
「袍」ではなく「襦」と書きましたが、
正確には「戦袍」とでも言うのでしょう。

歩兵に比べて騎兵の戦袍は短く、
腿当てを下着の上から
サスペンダーのように装着します。

 

 

【追記】

さる読者様よりの情報で、
腿当ての名称と次の時代への展望が分かりましたので、
頂いたメールの原文をそのまま掲載させて頂きます。

(大意を伝聞調に書き換えても
同じような文章になりますのでどうか御容赦を。)

「前漢の騎兵が着けていた腿当ては髀褌という名前だそうです。
これが後漢から三国時代にかけて下半身を守る腿裙に
発展したのではないかということです。」

精鋭部隊の優秀な装備が
歩兵の装備へと汎用化されていく過程が
興味深いといいますか。

 

【了】

 

 

もっとも、
「騎士」というのも紛らわしい言葉で、
色々な文献に出て来るので仕方なく使いましたが、

残念ながらサイト制作者には、

集団戦の兵科としての騎兵を表すのか、
騎乗の指揮官を表すのかは分かりません。

靴を履いていることと
馬に乗ること自体がステータスでもあることで、
身分は高いのでしょうが、

兵科自体が
国民国家時代の騎兵や
途上国の空軍パイロット宜しく、
富裕層の子弟や選抜された精鋭で
構成されている可能性もあり、

いずれにしても
平民で構成される戦列歩兵に比して
資力か戦闘技術の裏付けが伴う訳でして、

三国時代の騎兵は
まさにそういう集団であったという説もありますが、

詳細な検討は後日にさせて頂ければ幸いです。

 

 

1-4、有り触れている被り物と武器

さらに被り物ですが、

当時の出土品は、
魚鱗甲を纏って靴を履いた身分の高そうな俑ですら、
兵卒と同じ「幘(さく)」という
平時と同じような被り物をしています。

以前の回でも触れました通り、
色々なタイプが存在する、
当時としてはかなり有り触れた帽子です。

一方で、前漢の俑(人形)には、前後の時代に比して、
兜を被ったものがほとんど見られません。

もっとも、斉の魚鱗甲の現物の出土品もあることで、
戦地に臨んでは一定の身分の将校は
被っているのでしょうが、

如何せんサンプルめいたものが
それ以外になく、
描く方としては困ったものだと思います。

次いで武器ですが、

イラスト中の環首刀と戟は
春秋戦国時代から三国時代までは
歩兵の武器としては最も汎用性のあるものです。

特に前者・環首刀は、
装備の劣悪な兵隊でも必携の装備で、
知っておいて損はないと思います。

戟は両手の武器ですが、
曹操の親衛隊長の典韋位の怪力になると、
小型の戟を左右の手に1本ずつ持ち、連射で投げ付けるという
スイッチ・ヒッターな離れ業をやってのける訳です。

『三国志』の初期の弱小軍閥同士抗争の時代には
こういう曹操配下の命知らずか、あるいは、
呂布や麹義のような
凄腕の傭兵隊長が戦場の花形であったように思います。

 

1-5、意外に重要な(?)履物の話

最後に履物ですが、
サイト制作者個人としては、
実は、この部分が結構重要だと思う次第。

と、言いますのは、
当時の履物の事情として、

漢代には、
貨幣需要や匈奴への貢ぎ物の工面等を背景に
屑糸から絹まで―ピンからキリまで
繊維産業が広汎に伸びたとはいえ、
当時は履物にまで生地が回らない時代でした。

当時の事情として、
農村部の庶民の履物は草鞋が中心で、
布の靴が普及するのは元・宋以降の御話。

まして、靴下に至っては、
広汎に普及したのは三国時代以降の話です。

そうした中で、
正規軍の装備として、
ゲートルや靴下が支給されている訳でして、

軍隊の維持に如何に資金や物資が必要とされるかが
こういう部分に如実に表れていると思います。

そう、「運動戦」や「機動戦」の言葉通り、

少なくとも、遥か2000年も昔から、
兵隊は歩くのが商売であったことの
確たる証拠だと思います。

 

 

2、後漢・三国時代の鎧の特徴

2-1 兜の主流・蒙古鉢形冑

モノの本(天下の共産党様の軍事史研究の御本!)
によれば、

後漢時代の鎧は、

前漢に比して、
鉄の増産により保護される部位が
多くなったのが特徴だそうな。

早速ですが、
以下のヘボいイラストを御覧下さい。

ラインナップは、ほぼ、
篠田耕一先生の『三国志軍事ガイド』と同じですが、

それでも
後漢・三国時代の鎧を平たく言えば、

魚鱗甲タイプの鎧、
鉄片を繋ぎ合わせた袖の付いたもの、
あるいは披膞の付いたものが主体になっていきます。

とはいえ、
この中で後漢時代とされるものは、
鮮卑の魚鱗甲だけです。

また、兜ですが、

高橋工先生によれば、
頭の中心に擂鉢のようなものがあり、
その裾に放射線状に鉄片を繋ぐタイプのものを
「蒙古鉢形冑」と呼ぶそうな。

東アジアでは、
むこう何世紀かにわたって
この形式の兜が主流であったようです。

例えば、左側のイラストは、
後で詳述しますが、晋代の俑の模写ですが、
当時の俑は、鎧はともかく、
被っているのが悉くこのタイプの兜です。

 

 

2-2 泥臭い「文化交流」の産物・両当鎧

また、大体2世紀頃から
北方の「異民族」の(強制も含む)内地移住が
活発になったことと、

前漢の時代には高等指揮官が纏っていた魚鱗甲が
この時代には鮮卑も着用されていたことから、

『三国志』の時代には、
漢民族と「異民族」の間では、

習俗や服飾はともかく、
使用する甲冑の差異は
それ程大きくなかったのかもしれません。

そして、この種の泥臭い民族交流の話の延長として
登場するのが、両当鎧。

向こうの文献を見ると漢字に示偏が付いていますが、
こちらの表記でも間違いはないと思います。

三国時代にこのタイプの鎧の原型が
登場したようでして、
騎兵戦(特に騎射)を想定して
腕の稼働領域が大きいのが特徴だそうな。

因みに、胸部の装甲は、
南北朝時代の俑を見る限り札甲でして、

その意味では、
前の時代と大差無いような印象を受けます。

兵卒の鎧なんか
いつの時代も雑な作りなのでしょう。

さて、このタイプの鎧が
他の鎧に比して興味深い点がひとつありまして、
それは、当時の服飾の派生であったことです。

つまり、民需の衣服の機能性が
そのまま軍需の最たる鎧に化けているという点です。

以前の記事でも触れたような、
褲の普及のように北方民族の衣服の機能性が
そのまま中原に流入するのであればともかく、

衣服の運動性が鎧に活かされ
さらには中原に流入するというのは、

サイト制作者としては珍しいケースに見受けます。

ですが、その話は、稿を改めたいと思います。
悪しからず。

 

 

2-3 筒袖鎧とその運用

次いで、筒袖鎧について。

筒袖鎧のタイプの鎧自体は
既に前漢には存在していたものの、
諸葛孔明が完成させたと言われていまして、

蜀軍では騎兵を中心にこの鎧が標準装備であった模様。

その画期的な特徴は、字面の如く、

前漢の札甲や魚鱗甲に比して
袖の部分全体が鉄片で覆われ、
かつ可動な点なのでしょう。

加えて、前漢の札甲では急所であった
脇の下も保護されています。

また、敢えて諸葛孔明の名前が出て来るのは、

当人が科学オタクという点以外にも、

或る程度大きい資本力のある集権的な政権があって
初めて調達と集中運用が可能になる、という、

武帝や始皇帝と同様の文脈であろうかと
想像します。

もっとも、その割には、
三国時代の鎧は現物が残っておらず
不明な部分が大きいそうですが、

晋代の筒袖鎧の俑をいくつか見る限り、
鉄片の繋ぎ方は、
札甲ではなく魚鱗甲が中心であったと想像します。

 

 

2-4 明光鎧とNHK人形劇の話

次いで、明光鎧について。

その特徴は、
左右の胸部や背面に丸い鉄板を当てるというもの。

私の描いたアレなイラストは
残念ながらその少し後の南北朝時代の俑を
模写したものにつき、
質感が掴めなかったのですが、

私と似たような世代かそれ以前方々は、
NHKの『人形劇 三国志』の

曹操の鎧を思い出して頂ければと思います。

若い読者の皆様は、
「人形劇 曹操」で検索を掛けると
いくつか画像が出ますので、
御参考まで。

あの鎧が明光鎧。
加えて、あのタイプで黒い漆を塗ったのが黒光鎧。

蛇足ながら、
あの人形劇で劉備や張飛が付けているのが
先述の「札甲」タイプの鎧です。

さて、曹魏にはこの類似品の黒光鎧が
まとまった数が存在したようですが、

それが発覚した経緯が
北伐の祁山にて蜀に大敗して
大量に鹵獲されたことで
記録に残ったという、

何とも御粗末な話。

その数5000。

『三国志』を書いた陳寿の父が
馬謖の幕僚であったという
漢に対するノスタルジーというか
当人の性格の悪さを感じなくもありません。

曹植の伝にも、
この種の鎧の話が存在したという話が出て来ます。

ですが、明光鎧・黒光鎧の完成は南北朝で、
最盛期は隋唐時代という、
時代を先取りする存在でありました。

 

 

2-5 『三国志』の鎧とドラマの考証の話

これも程度が過ぎると野暮なのですが、
折角ですので少々致します。

先程人形劇の話をしましたが、
サイト制作者がこういうことを調べる過程で、

故・川本喜八郎氏が人形を制作されるうえで、
敢えてハイテクの明光鎧とロー・テクの札甲を
併存させたのは、

無論、曹操と劉備のキャラクターのイメージが
あるのでしょうが、

失礼ながら穿った見方をすれば、

元になる情報が少ないことで、

何十年も後に
サイト制作者が悩んだような問題に直面した末の
苦肉の策であったのではないかと想像します。

つまり、後漢や三国時代の
スタンダードと言えるような鎧の現物がないことで、

当時の文献の内容やその前後の時代の発掘物という
極めて断片的な物証から
ムリにでもそれっぽいもののイメージを作り出す作業に
迫られたのではなかろうか、と。

また、最近BS12で放送している『趙雲伝』を観ると、

主要な登場人物の派手な装束はともかく、

(確かに、ケニー・リンは格好良いと思いますが、
サイト制作者個人としては、当時の発掘物からは、
形状・色彩共にあのコスプレをどうにも想像出来ません。)

札甲を纏った兵卒が何名も出て来たことで
自分の予想した通り、
前漢の武具のタイプが後漢にも横滑りしている
という解釈で当たっているのかと、

少々安堵する反面、

人形劇やドラマの制作スタッフの方々も、

あるいは、私と同じようなレベルの情報を元に、
同じようなアタマの使い方をしている
可能性もあります。

―当然、実情はそうではないと信じますが。

ですが、言い換えれば、
研究が進展して後漢時代の甲冑の発掘物でも出土すれば、
こういう想像(妄想)の産物は一発で消し飛ぶ訳でして、

その意味では薄氷を踏む心地です。

こういうことを考える割には、
『Three Kingdoms』の武将の鎧には
鋲打ちのものもありまして、

先述の高橋先生の論文を読む分には
鋲打ちはもう少し後の時代の技術で、

この時代の鉄片の接合は縅ではなかったか、と、
余計なツッコミを入れたくなった次第。

【追記】
鋲打ちの技術自体はこの時代にもあったようでして、
例えば、既にこの時代の400年も前に、
始皇帝の専用馬車の製造に駆使されたそうな。

漢代に製鉄技術が躍進したことを考えると、
武具にも使われたと考える方が
妥当かしら。

―もっとも、作品としてはクオリティが高く、
放送当時は丁度夜勤につき、
毎日アレを観るのが
楽しみで仕方なかったことも付言しておきます。

まあその、大人の事情と言いますか、
他の時代の作品に使い廻すこともあるのでしょう。

 

 

3、当時の常識?!

鎧を纏わない無名の戦士達

 

3-1、官渡の戦いとそれまでの曹操の用兵

さて、これまで鎧の話をして来ましたが、

ここでは、
そもそも鎧が全兵士に行き渡ったのか、という、
敢えて、それまでの話の前提をブチ壊す話をします。

と、言いますのは、
サイト制作者自身、少し前まで、

質の違いこそあれ、
兵士である以上は鎧が支給されるのは当然と
思っていまして。

で、色々調べていくうちに、
当時のブラックな事情が色々分かって来たと言いますか。

読者の中に、
こういう疑問を持たれた方がひとりでもいらっしゃれば、
サイト制作者としては、
今回の記事は書いて正解であったと思います。

前回の記事で、秦の弓兵は鎧を纏っておらず、
階級で言えば50人隊長である屯長ですら
纏っているものとそうでない者が混在した、

と、書きましたが、

『三国志』の時代も、どうも、
三国鼎立以前は、これと大差なかった可能性があります。

例えば、官渡の戦いでは、
曹操の軍隊はほとんどが鎧を付けていなかったそうです。
対する袁紹側は、捕虜の鎧の装備率は大体14%程度の模様。

当時の先進地域である
華北・華中を代表する軍閥同士の主戦場ですら
この有様です。

こういうヤバい事情を考えれば、

190年代の段階では
曹操が相手の裏をかくような奇襲を多用したのも
分かるような気がします。

そりゃ、システマティックかつ執拗に突っ込んで来る
呂布の騎兵相手に、
ロクに鎧も付けない兵隊で戦列を組んで
「〇〇の陣」とか気取って正面から迎え撃てば、

まず殺戮されると思います。

もっとも、唐代になると、
兵士の鎧の装備率は6割にまで上がるそうですが。

 

 

3-2、古代中国の戦闘の流儀と鎧

また、古代中国の戦争の流儀を見ても、
鎧の装備率はこの程度のような印象を受けます。

と言うのは、
古代中国の歩兵の用兵には、春秋以前より、
「五兵」という考え方があります。

これは、5名で5種類の武器を運用することで
最小の戦闘集団をなすという意味です。

五は「伍」を意味し、
早い話、秦の什伍制の「伍」の戦闘単位も
恐らくこれに準拠していますし、

テレビ朝日の戦隊モノや
その元ネタであろう時代劇、
テレビゲームの『飛龍の拳』シリーズの
5名の「龍戦士」
(こんなの知ってるのは、大体アラフォー世代でしょう)
なんかも、

存外この「五兵」がモデルではなかろうかと
想像します。

―まあその、見方を変えれば、

近代国家の軍隊でいうところの、
歩兵1個分隊の感覚です。

WWⅡの歩兵が好きな方は、
錐型の陣形で戦闘の兵士が軽機関銃を使うアレを
御想像下さい。

さて、この5種類の武器というのは
諸説あるようですが、
大体は矛や戟、弓、といったような武器です。

で、実際の戦闘では、この伍が縦隊を組み、
この無数の縦隊が横に並ぶことで横隊になります。

ここで漸く鎧の話になるのですが、

古代の手抜きブラック軍隊では、
鎧を纏うのは大体は最前列の1名だけでして、

利腕に得物(短めの戟だったります)、片方に盾を持ち、
敵兵と血みどろの殴り合いを演じます。

因みに、孫子は利腕は右手を想定しています。

くれぐれも、北方の戦線で氷の上で滑って怪我をして、
病院の皆様に御厄介にならぬよう御注意下さい。

―それはともかく、
二列目以降は長い得物でそれを援護し、
あるいは弓や弩で敵兵を狙撃します。

 

 

【追記】
これも交戦距離に応じた作法があります。

敵軍との距離がある場合は、まずは弓合戦。

次いで、次第に距離が縮まると、

長い得物で殴り合う
日本の戦国時代の合戦でいうところの槍合戦、

そして、ゼロ距離では、
使徒の胴体に軍艦の主砲を、ではなかった、

最終フェイズである
先述の甲士同士の
白兵戦に移行するという流れです。

つまるところ、「五兵」の意味するところは、
当座の殺し合いでは

どのような状況にも
或る程度柔軟に対応するための
武器の組み合わせということなのでしょう。

ですが、日本の戦国時代の経験則で言えば、
弓なんかヘタな者が撃っても
飛ばない、曲射(山なりの弾道)につき当たらない、
あるいは威力がない訳でして、

交戦距離の長い野戦では、
弩の破壊力がモノを言う訳です。

既に、戦国時代の段階で、
楚の王墓から連弩の実物が出土したそうな。

飛び道具序に、もう少し言えば、
この千年後の日本で鉄砲があれだけ脚光を浴びたのは、

直射(直線の弾道)で有効射程(殺せる距離)が
弓の倍以上の100メートル以上もあったからです。

さらに、弩の製法はむこうの国家機密で、
日本で弩が普及せずに弓から鉄砲に移行したのは
確か、こうした事情だそうな。

 

【了】

 

ニホンの話はともかく、
袁紹の軍隊の鎧の装備率が14%という数字の背景には、
大体こういう理屈がありそうだ、という御話。

似たような例として、
前漢時代の咸陽の兵馬俑はもう少しマシですが、
それでもこうした特徴がよく出ていると思います。

因みに、鎧を纏っているのは精々二列目までです。

百度の画像検索で「咸陽 楊家 兵馬俑」とやると、
当該の画像が出て来ますが、

こういう戦場の風景を想像すると、
医薬品の調達もままならなさそうな状況につき
ゾッとする心地です。

この兵馬俑が当時の事情を表していたと仮定すれば、

国庫にダブついたカネで匈奴との戦端を開いたという
金満の武帝の軍隊ですら
鎧の装備率は大体4割程度ということで。

 

3-3、昔の民兵?!豪族の私兵

教則としての戦術上の話以外にも、
鎧を纏わない、あるいは纏えない事情があります。

またしても、アレなイラストですが、
以下を御覧下さい。

まずは左側、豪族の私兵について。

後漢の発掘物で比較的多く残っているのが
農民、というよりは民兵めいた豪族の私兵の俑。
このイラストは、その模写です。

大体こういう感じの襦褲に上着を羽織って
腰を環首刀を提げたスタイルでして、

幘を被ったり、裸足であったりするものもあります。

また、農繁期には農作業にも従事します。
さらには血縁による結束が固く、
土地集積や小農からの収奪の際には
暴力装置として稼働したことで、

心ある地方官にとっては
極めて厄介な存在でした。

そう、農繁期には農作業に従事するとはいえ、
黄巾の乱を誘発する豪族の横暴の
実行部隊でもあった訳です。

その意味では、
良くも悪くも、
政府が役に立たない地域社会における
自力救済の究極の在り方なのでしょう。

例えは良くないかもしれませんが、
今で言えば、
途上国の銃を構えた兵隊上がりの警備員や
ギャングと紙一重の武装ゲリラ等が
これに近いのかもしれません。

とは言え、先述のように、
後漢の弱い常備軍を補完して治安活動に当たったのが
こういう豪族の私兵でして、

三国志の時代には、李典や許褚、あるいは、
潼関で曹操と争った馬超傘下の梁興等の私兵が
これに相当します。

史書には、兵力の多寡は、
人数ではなく家で「三千家」だとか記されていまして、
正確な人数が把握出来ていなかったことを示唆しています。

因みに、当時の家族は大体1家辺り4、5名で
夫婦各々が田畑を持ち課税されるという形式ですが、

さすがに全員が戦闘員という訳ではなかろうと思います。

加えて、残念ながらと言いますか、当然と言いますか、
配偶者控除はありません。

で、政権側の曹操等は、
この私兵集団の解体に非常に苦労した訳です。

一方で、鎧の話を絡めますと、

秦代には鎧の製造や出納は
郡の太守以上の地方官に権限がありました。

漢も内政面では秦の制度をかなり継承しており、
漢代にもこれが継承されていたと仮定すれば、

県以下の田舎(?!)では、
太守の裁量如何で
官製の鎧が出回らないケースも考えられます。

資本力が弱く地方官と揉めた豪族は、
タダでさえ数の少ない鎧の調達に難儀した
可能性があります。

 

 

3-4、鎧を必要としない?!南方の兵士

また、鎧を平地程には必要としない地方もありまして、
山岳・森林・河川の多い南方
それに当たります。

右側のイラストは、東晋時代の俑の模写ですが、
諸々の文献を読む限り、
恐らくは前の時代も大差無いと想像します。

見ての通り、
盾と剣、あるいは刀で武装するというスタイルです。

方々旅をして廻ることを意味する
「南船北馬」という言葉がありますが、

騎乗で動き回る北方の兵士と
船でどっしり構える南方の兵士の差異は、
後世のカンフーの流儀にも影響しているそうな。

もっとも、孫呉政権自体は同盟国や馬を欲しがって
陸遜が止めろというのを無視して
方々に使節を送ってエラい目に遭うのですが。

大体230年代から240年代位までの
孔明と同じく毎年にように魏を侵して
連中に「劇賊」と蔑まれた時代のことです。

ただ、一連の孫呉の出兵が略奪に終始し、
一方で孫権が馬を欲しがったところを見ると、

長江北岸での地上戦は、
孫呉にとっては装備面で
不利であったのかもしれません。

 

 

おわりに

例によって、無駄話で長くなり恐縮ですが、
まとめに入ることと致します。

まず、後漢・三国の時代は色々な鎧が混在した時代です。

後漢時代は前漢のタイプのものがそのまま使われたり、

あるいは、
前漢の技術で保護部位が広がったりしまして、

三国時代になると、資本力の大きい政権の元で、
新しい型の鎧の集中運用が始まったり、
北方の技術が流入したりと、
新しい局面に突入します。

ところが、そもそも、
鎧を着ている兵士自体が少ないのが
この時代の大前提でして、

その背景には、
政権の権力基盤の弱さや地域性が関係した、
という御話です。

―あまりゲームの攻略の足しになるような話ではなく
悪しからずです。

 

 

【主要参考文献】

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」
『日本考古学 2(2)』
小林聡「後漢の軍事組織に関する一考察」
張学鋒「曹魏租調制度についての考察」
『史林』第81巻6号
柿沼陽平「三国時代の曹魏における
税制改革と貨幣経済の質的変化」
『東洋学報 第92巻第3号』
菊池大「孫呉政権の対外政策について」
『駿台史学』第116号
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
林漢済編著・吉田光男訳『中国歴史地図』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
冨田健之『武帝』
赵秀昆、他『中国軍事史』第2巻・第3巻
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』
江村治樹『戦国秦漢時代の都市と国家』
学研『戦略戦術兵器事典1』
金文京『中国の歴史 04』
朱和平『中国服飾史稿』
周錫保『中國古代服飾史』
高島俊男『三国志 きらめく群像』
陳寿・裴松之:注
今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』1~6巻
藍永蔚『春秋時代的歩兵』
華梅『中国服装史』
徐清泉『中国服飾芸術論』
呉剛『中国古代的城市生活』
駱崇騏『中国歴代鞋履』

 

【関連記事】(こちらの方が新しい記事です。)

鎧の部位、構造、及び兵科ごとの特徴

鎧の定義といくつかの特徴について

 

カテゴリー: 兵器・防具, | 11件のコメント

解剖?!戦国・秦の軍隊


今回は無駄話も祟ってかなり長くなりましたので、
以下に章立てを付けます。

興味のある部分だけでも、
御目を通して頂ければ幸いです。

 

はじめに

1、泣く子も黙る秦の軍隊の素描

1-1 割符を通じた統帥権の発動
1-2 兵権とその濫用
1-3 中央軍の概要
1-4 郡・県の治安部隊の概要
1-5 国境警備隊と長城建設
1-6 秦の部隊編成
1-7、その後の「部曲」

2 秦軍の兵隊をめぐる環境

2-1 過酷な兵役と労役
2-2 命の対価としての手厚い褒賞
2-3 軍政の反動と滅亡

3、各国の軍隊の共通点・相違点

3-1 遊説家のハッタリに付き合う
3-2 守備隊・老兵・軍属
3-3 各国の兵隊の査定

おわりに

 

 

 

はじめに

 

今回は、秦の軍隊の御話。

以前綴った記事

「春秋時代の部隊の編制単位」

の補遺でして、
年末年始に読んだ本のまとめでもあります。

 

色々と文献を漁るうちに
誤記の発見や書くべきこと等が累積しまして、

そうしたものが、
ひとつの記事に出来る程に溜まったと言いますか。

因みに、今回の記事の主なタネ本は、
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』

 

 

1、泣く子も黙る秦の軍隊の素描

1-1 割符を通じた統帥権の発動

まずは、秦の軍隊の構造について、
その概要を見てみましょう。

早速ですが、
以下の図を御覧ください。

なお、表中の用語は、
文献で使われている用語に加え、
サイト制作者が便宜上付けたものです。

大体、こういう構造である、
という理解で御願い出来れば幸いです。

 

『図説 中国文明史 4』p60-61の内容を元に作成。

 

平時の編成は、中央軍と地方軍に区分されます。

因みに、中央軍・地方軍を統括する
軍の最高司令官の官職は国尉。
秦以外の国にも存在したようです。

有名な人では、
秦の白起や趙の趙奢等が就任しています。

国家の最高指導者として統帥権を握るのは
秦の国王なのでしょうが、

国王が国尉を通じて命令を下す、
ということだと想像します。

また、いつの時代からかは分かりかねますが、
50名以上の兵隊の移動には
国王・皇帝の許可が必要でして、

将軍を任命した時や
部隊の移動の際にも
将軍や司令官に「虎符」と呼ばれる
伏せた虎の形をした銅製の割符
(背中の部分で割れるそうな)を渡し、

命令下達の際に割符を合わせることで
こうした人事や軍令を管理していました。

で、作戦終了後には、
割符と共に兵権を回収して
将軍などの臨時職を解く、と。

その意味では、
国王・皇帝と国尉との関係については
何かしらの先行研究がありそうですが、
これは後日の課題とさせて頂ければ幸いです。

 

1-2 兵権とその濫用

これについて、
『史記』に面白い逸話があります。

秦に王翦というベテラン将軍がいまして、
この人が自称60万の大軍で楚に出征する折、

猜疑心の強い始皇帝(当時は秦王か)に
盛んに土地や金品等の恩賞をせがみ、
始皇帝を苦笑させます。

その様子を見ていた部下が
上官の王翦に、
見苦しいので止めるよう諫言するのですが、

王翦は、こうでもしない限り、
自分に大軍を預けた王は
安心しないであろう、
と、部下を諭します。

つまるところ、
いくら軍の制度が強固であっても、

王の性格以前に
大軍の兵権を預けた王や側近の心理としては
離反のリスクを考えてしまうものでして、

甚だしい場合は、
政争で側近の文官が
優秀な軍人を粛清する類の負の力学にもなります。

果たして、これが漢代になると、
出先で司令官の横暴を牽制するために
「護軍」という官職が設けられます。

この護軍に誅された奴が、例えば、
三国時代に蜀で反乱を起こした鐘会。

 

1-3 中央軍の概要

続いて、中央軍の概要について。

中央軍は、
皇帝警護部隊と首都警備隊で構成されます。

皇帝警護部隊は
その名の通り、皇帝の身辺警護でして、
責任者をの官職を「郎中令」といいます。

さらに、宮中警護の責任者は「衛尉」

余談ながら、
こういう物々しいSPを付けても
刺客に襲われてマトモな対応が出来ずに
大騒ぎになったりしています。

随分前の話ですが、
この騒動が映画にもなっていますね。

むしろ、秦による統一後の、
数回にわたる地方巡察の際に
脚光を浴びた部隊ではなかろうかと思います。

次に、首都警備隊について。

これは平時は首都・咸陽の治安部隊ですが、

有事の際には、
野戦機動部隊(城攻めもやるのですが)の主力として
華々しく出動します。

首都の治安の責任者は「中尉」ですが、
野戦部隊の司令官は、
大将軍等の臨時職だと思います。

いつの時代もそうですが、
近衛部隊は、同時に野戦の決戦部隊でもあります。

ナポレオンの親衛隊も然り、
ナチのSSも優秀な兵器を優先して獲得し、
クルスク等の主要な決戦には必ずといって良い程
出張ります。

日本の近衛師団も、

太平洋戦争の緒戦のヤマ場である
シンガポール攻略戦では、
精鋭の第5師団との先陣争いは
当時は有名でした。

 

1-4 郡・県の治安部隊の概要

続いて、国軍の裾野とも言うべき、
地方軍の概要について。

地方軍は、
郡・県の治安部隊と国境警備隊に分かれます。

まず、郡・県の治安部隊ですが、
首都警備隊同様、
平時は各々の自治体の治安や訓練に勤しみ、

有事の際には、
野戦機動部隊として出征し、
首都警備隊の支援を行います。

―もっとも、
支援と言えば聞えは良いのですが、

そもそも、
咸陽に配属された部隊自体が精鋭につき、

その消耗を避けるという意味では、
実態は野戦や城攻めの際の
弾除けであったと想像します。

この辺りの構図も、
東京の近衛師団が
地方の連隊の精鋭を選った部隊につき、
いつの時代でも行われていることなのでしょう。

加えて、ある段階から俄かに領土が増えたことで、
動員以前に占領地の治安維持に相当な苦労をしたと
想像します。

因みに、
郡の軍務は「郡尉」、県の軍務は「県尉」、
さらに末端の自治体である郷の治安は
「游徼」(ゆうきょう)が担う訳ですが、

これらの人員構成、
例えば、どの階層以上が本国から派遣されるのか、
あるいは爵位との対応関係は、
サイト制作者の不勉強で分かりかねます。

今後の課題とさせて頂ければ幸いです。

ただ、断片的な知識としては、
(最高20級中)7級の公大夫が県令に相当するので、
例えば、県尉はこの少し下だと想像しますが。

 

1-5 国境警備隊と長城建設

話を秦軍の概要に戻します。
地方軍に属する国境警備隊について。

この部隊は、
国境地区での防備と
都市の防衛施設の建設を担当しました。

その人員の構成は、
騎射に長けた北方の人種と罪を得た役人や平民。

その意味では、良くも悪くも、
流れ者や異端児の多い
北方のフロンティアという印象の強い部隊です。

特に後者は長城の建設もあったでしょうし、
同じ長城建設組の燕や趙にも、
同様の辺境部隊が存在したと想像します。

余談ながら、
あちらの昔話に『孟美女』というのがあります。

夫が長城建設の労役に駆り出され、
妻が迎えに行くのですが、
散々探し回った末に亭主は故人という
踏んだり蹴ったりな御話。

実は、この話には続きがありまして。

この婦人が男装して武術と士大夫の教養を身に付け、

「荊軻」と名乗って
咸陽の宮中で剣を抜いて大騒ぎになった話が
『史記』に出て来まして、

―というのは、当然ながらデタラメです。
先述の皇帝警護部隊の話に事寄せて。

与太話はともかく、ここで興味深いのは、
その御話の舞台となったのが始皇帝時代という点。

「孟美女」の話の流れからして
始皇帝の横暴を強調したい意図が
見え隠れするものの、

先述のように、
長城建設に勤しんだのは燕や趙も同じでして、

もう少し言えば、

前300年位の趙の無礼、ではなかった、
武霊王の胡服騎射の話もそうですが、

匈奴の脅威は始皇帝の時代以前からの
各国の頭痛の種。

その意味では、
「孟美女」に類似する労役関係の悲哀話は、
北方の辺境では
枚挙に暇がなかったのかもしれません。

 

1-6 秦の部隊編成

平時の中央・地方の部隊から
戦場の華の野戦軍を選る秦。

ここでは、
その編制単位について触れます。

以下の表を御覧下さい。

注1『図説中国文明史・4』p62、『通典』「兵一・立軍」、
『中国軍事史・第3巻』より作成。
注2 前漢の制度は、「曲」は左右・後等があるものの定数は無し。
「隊」「屯」「官」は兵数等詳細不明、大将軍は5「部」を統率。

 

これは、主に秦とその次の時代の王朝における
部隊編成を比較したものです。

最初に読者の皆様に謝らなければならないのですが、
秦の1000名以上の部隊編成は、
上記の表のようになっていた模様。

10年も前の文献につき、
サイト制作者の不勉強を恥じる次第です。

さらに、「烈」から始まる組織体系は、
司馬穰苴の兵学ではないようです。
要は、サイト制作者の誤読です。

では、いつの時代かと言われれば、

石井仁先生は古代中国一般、
篠田耕一先生は三国志の時代であろう、
という具合で、

秦や前漢には独自の編制単位があることで、
恐らく後漢以降ではあろうが、
正確に特定するのは難しい模様。

また、末端の編成単位については、
魏にも同じような仕組みがあり、

その意味では、秦も魏も、
周の制度の派生であるような印象を受けます。

当ブログでも、本当は、
こういう末端の編成単位同士の
戦闘描写の再現を行いたいのですが、
中々手が回らず恐縮です。

ただ、階級と戦闘について少し言えば、

50人隊長の屯長(5級。士ではなく、キリの大夫!)
以下の指揮官は、
接近戦では、長い得物で敵と渡り合う世界の模様。

このクラスになると、指揮官は剣は帯びておらず、
鎧を付けているのか否かも怪しいそうな。

まして、弓の射ち合いで真っ先に戦死する兵卒など、
なおさらのことです。

 

こういう編制単位の中、注目すべきは、
「部曲」という言葉。

後の世では、特定の社会集団を指すようですが、

稲畑耕一郎先生によれば、

秦代については、
校尉の指揮する「部」が1万、
軍候が指揮する「曲」が数千、という具合に、

兵隊の大動員の代名詞のような
意味合いを持ちます。

ただ、残念ながら、
表中のどの階層以下が平時にも有効かは、
サイト制作者の不勉強で分かりかねます。

肝心な部分だけに、辛いものです。

 

1-7、その後の「部曲」

ところが、この「部曲」という言葉、

時代が下るにつれて、
当初の意味合いが薄れて行くのも
ひとつの事実です。

さて、ここで、
漢代の軍隊について、
時系列的にその流れを整理しますと、
概ね以下のようになります。

建国当初は
大体は秦の制度を継承したとはいえ、

秦の圧政の反省から
ある時期まではかなり緩い政治を行いましたが、

武帝の時代に集権的な政治機構に改編して
大規模な外征を行いました。

また、次の時代には、
王莽の乱と光武帝によるその収拾により、

常設の地方軍を削減する一方で
子飼いの精鋭部隊を辺境守備に廻したことで
軍の構造自体が激変し、

その一方で、
新設の部隊も少なからず編制されます。

さらに、王朝の末期には
刺史以外にも郡太守レベルの小規模な軍閥同士が
無秩序な内戦を始めたことで、

同じ王朝の軍隊とはいえ、
その性格は、
不明な部分も多く要領を得ません。

終わってみれば、

『三国志』に登場する
有象無象の軍閥の軍隊の中規模の編成単位か
豪族の私兵そのものを表す言葉に
落ち着いたような印象を受けます。

 

2 秦軍の兵隊をめぐる環境

2-1 過酷な兵役と労役

以上の組織体系を持つ秦軍は、
他国に比して
どのような性格が顕著であったかと言えば、

一言で言えば、軍事偏重です。

恐らく、国力に対して相当ムリをしており、
組織力とモチベーションにモノを言わせて
躍進した国家です。

こういう原動力こそ、
漫画の題材に適していたのでしょう。

それはともかく、
実態を見てみることにします。

他国の状況が秦以上に不明なことで
末端の兵隊の置かれた環境だけでは
相対的な相違が分からないのですが、

書くだけ書いてみます。

まずは、兵役・軍役ですが、
法的には15~60歳までは兵役義務があります。

当時の平均寿命で言えば、
生涯にわたって
兵隊にとられる可能性があった訳です。

実態としては、最初に赤紙を貰うのは
大体は20代の壮丁のようですが、

戦争が長引くと、兵役の延長は元より、
老人・子供も徴兵されました。

また、成年男性の6、7割は、
先述の労役や国境警備に動員されまして、

銃後にとっては、
このレベルで働き手を取られることを考えると、
家計の痛手には違いありませんが、

兵員確保という意味では、
他国を圧倒した点でもあったそうな。

また、戦地にあっては、
軍服・武器・食糧は官給であっても
その他の下着等の衣類は自弁でして、

特に冬場は、
生死を分ける程に過酷な環境であった模様。

世界発の仕送りを要求したとされる手紙が、
この時代の遺物でもあります。

母親に金品と襦を要求しており、
送られなければ死ぬとか書いてあるそうな。

また、一生に1年は首都の防衛と辺境の防衛、
加えて、毎年1ヶ月は、
郡や県の軍事工事・労務の義務があります。

さらには、犯罪者・奴隷・商人は、
正式な兵士の資格はなく、
軍中の苦役や戦闘中の弾除けに使われました。

射手や城壁をよじ登る役回りだと思います。

 

2-2 命の対価としての手厚い褒賞

では、逆に、
こういう兵役・労役天国の兵営国家に
身を置くことの利点がどこにあるかと言えば、

繁盛したのは兵隊稼業でして。

軍功による褒賞や昇進を明確にし、
槍働きの如何によっては気前よく土地まで
くれてやったことで、

新興の軍功地主が急増したそうな。

まさに、『キングダム』のように、
一山当ててやろうという奴が
命を的に頑張る世界です。

ですが、こういう世界は、
ベクトルがあらぬ方向にも向かう訳でして、

例えば、点数稼ぎのために、

捕虜や占領地の非戦闘員の
体の部位を切り落とすような
惨い仕打ちをする訳です。

また、収奪のみならず、
平時でも戦時と同じ過酷な規律を課し、
支配地域の住民の反発を買いました。

ここまで来ると、
御決まりの富裕層の強欲だけはでなく、

兵営国家の体質が抜け切らなかったことにも
弊害があったということなのでしょう。

 

2-3 軍政の反動と滅亡

戦争の時代に軍隊の羽振りが良いのは
当然かもしれませんが、

ここで不可解なのは、

何故、統一後に平時の体制への切り替えが
出来なかったのか、
という点です。

もっとも、英明な食客の集まる秦につき、

こういう社会の末端の惨状については、

当初から法家の代名詞のような韓非すら
警鐘を鳴らしていたのですが、

オーバー・ワークの始皇帝が早々に崩御し、

韓非を消した丞相の李斯は
後継者問題で宦官を増長させて
政治力を失うという迷走ぶり。

つまり、戦時から平時への体制に
切り替えようにも、

始皇帝本人が、
どういう訳か
現状に無頓着であったばかりでなく、

後代の国家の中枢においても
時宜にかなった政策の
立案・施行能力を失っていた訳です。

確かに、当の始皇帝も何度も
地方を巡察していることで、
占領地の反発は想定していたのでしょうが、

そもそもの病根が国体にあるということには
気付いていなかったということか。

その結果、法規が厳正過ぎる労役天国の体質に
歯止めが掛からず、

圧政の反動で数多の反乱を誘発し、

事もあろうに
戦国時代の合従連衡の逆をやられて
国家自体が一気に潰れます。

その過程で、
身分の低い陳勝と劉邦が同じようなカドで
犯罪者にされてグレたのは、
偶然ではなく有り触れた話であった訳です。

陳勝や呉広の場合は、
ヤケクソになって反乱を企てて成功したので
後世まで名前が残りましたが。

―で、始皇帝にエラい目に遭わされた
劉邦と項羽ですが、

方や、
戦争で楚高官である先祖を殺された項羽は
咸陽で徹底的に略奪して
王家の墓まで暴いて報復し、

次の時代には、
労役人夫護送の手落ちで死刑囚の犯罪者にされて
山籠もりをする羽目になったという、
元祖『水滸伝』な経験のある劉邦は、

統一後に寛政で臨んで
事態の収拾を図ります。

事の善悪はともかく、
双方共、良くも悪くも、
性格と出自が行動に表れていると言いますか。

 

 

3、各国の軍隊の共通点・相違点

3-1 遊説家のハッタリに付き合う

ここでは、秦と他国について、
大体の兵力や軍の性格めいたものを比較します。

まず、兵力ですが、

識者が行う御決まりの作業として、
大法螺吹きの遊説家の話を比較する訳ですが、

当然ながら、ポジション・トークもある訳でして、
聴く方としては、話半分で受け取っています。

で、サイト制作者も、以下で、
それをやることとします。

下の表は、
各国の状況について
御馴染みの蘇秦・張儀、その他1名の法螺
まとめたものです。

 

 

因みに、秦が統一後した時の状況としては、

人口2千万で兵力が200万。
これには、今日で言うところの軍属も含みます。

後の漢の武帝時代以下の人口で
さらにその倍以上の兵力を抱えていたようです。

漢の武帝が経済力にモノを言わせて
外征に明け暮れたことを考えると、
どれだけ危険な状態であったかが想像出来るかと思います。

さて、統一後の秦の兵力が200万、
ということを念頭に置いた上で、
再度、表を御覧下さい。

因みに、張儀・范雎は秦の側、
蘇秦は秦に喧嘩を売る側という構図。

そして、肝心の兵力ですが、

韓と魏を60万、
燕・趙・斉が各々50万、
秦・楚が200万、と、
少な目に見積もっても、

中国一国の兵力の倍である
計410万というアホな数字を算出出来ます。

また、臨淄だけで21万の兵を動員出来る、
の根拠は、蘇秦の妄言ということも、
今回の下調べで分かりました。

今頃気付くサイト制作者は
当然、間が抜けていますが、

遊説家のハッタリも大概でして、
例えば、全兵力が「帯甲」である訳がありません。

鉄を増産に拍車が掛かった漢代以降ですら、
三国時代に魏が蜀の鎧の装備率の高さに
驚いていた位です。

サイト制作者個人の実感としては、

中国全土で200万でも
相当ムリをした数字で、

さらには、大国の斉や楚が、
秦が趙の邯鄲を制圧した後に
何年も持たずに
呆気なく潰れたところを見ると、

秦を除いては、
遊説家共の数字の4割位の兵力が
その実態ではないかと想像します。

それでも、
以前に予想した数字よりはかなり大きいことで
浅学が際立って恥ずかしい限りですが。

 

3-2 守備隊・老兵・軍属

とはいえ、
討論は争点にこそ真実味が隠されているものです。

この場合、
敵国を威圧する際に敵の戦力を言い当てる話には
或る程度の説得力がありますし、

特に、韓や魏といった秦の前線の係争地に
遊説家が入り乱れるのも、
真に迫ったものを感じます。

その意味では、
多くの識者の御意見通り、

絶対的な数字というよりは、
相対的な総兵力の比較や兵力の内訳については
或る程度の真実味があると言えましょう。

例えば、まず歩兵・騎兵の比率ですが、

特に、戦車は貴重な決戦部隊でして。
春秋時代の周制の定数と大差ありません。
この時代でも、千乗持てば超大国です。

また、時代が下って騎兵が登場したことで、
各国共、歩兵の5~10%の数を揃えています。

因みに、当時は騎兵には重装備を施しておらず、
逆に、秦は騎兵に鎧を装備させて優位に立ったそうな。

ただし、装備そのものの質は、
他国の方が質は良かった模様。

次いで、総兵力の内訳ですが、
国内の守備隊が総兵力の3割前後を締め、

正規の兵力とはいえ
軍属めいたものや老兵を多分に含むのは、
各国共通の模様。

「奮撃」という言葉は、
おそらく特定の部隊を意味するのではなく、
「蒼頭」―老兵との対応関係にあるものと
想像します。

さらに言えば。
長平の戦いで捕虜を生き埋めにされた趙が
国内から壮丁が消えるレベルで
ガタガタになったのは、

野戦の機動部隊が
屈強な壮丁で固められ、

さらには、
総兵力の大半を占めていた背景が
あるのでしょう。

一方で、老兵の徴発については、
当然ながら秦に限ったことではなさそうですし、

国内の守備隊が3割も占めることを考えると、
長城を建設して馬の機動力・突進力を削ぎ、
人員を低く抑えるという策も説得力があります。

 

3-3 兵隊の査定アレコレ

この箇所は、先に紹介した
『秦漢時代の都市と国家』よりの要約になります。

まず、ですが、
戦闘技術を尊び、
首級に応じて褒美を出します。
ですが、勝った時には、
これとは別で褒美を出さなかったそうな。

一方では、兵器の技術は高いそうです。

魏は、鎧や弩・矢筒といった重装備と
その行軍に耐えられる兵士の
税金・労役を免除します。

秦の場合は、
資質のある兵士を優遇するような側面は
魏に比して弱い代わりに、

先述のように
戦功の褒賞を気前よく与えます。

一方で、什伍の連座制に代表されるように
刑罰を徹底したことに加え、

他国と異なり、
王族でも無能であれば冷遇したことが
注目に値するそうな。

これは、呉起や楽毅のような
国尉クラスの働きをした食客の末路が
どのようであったかを考えると、
説得力のある話です。

特に呉起などは、
極端な実力制を導入しようとして
楚の王族の反発を買い、

同国での政治生命を断たれました。

また、実力性を標榜した秦においても、
例えば、商鞅は、自分の法律で
政治生命を絶たれていますし、

李斯なんかもロクな死に方をしていないことで、
似たり寄ったりな部分もあるように思いますが、

総じて見れば、
食客の待遇が良かったのでしょう。

また、貨幣や武器の管理についても
他国より集権的です。

貨幣の国家管理は当初から国が握っていましたが、
これは経済的には後進地域だからこそ
可能であった側面もあります。

また、武器の製造・出納については、
郡守以上の許可が必要でした。

他国では、精々、県令以下の決裁事項で、
このレベルでの管理は見られないようです。

もう少し言えば、
武器に限らず、
さまざまな軍事力の発動の場面において、
この種の上意下達が徹底していたのでしょうし、

それを遵守することのインセンティブとして、
信賞必罰が機能していた訳です。

その意味では、
軍の戦力を引き出すことに主眼を置いた体制であったと
言えます。

 

おわりに

漸く、まとめに入ることが出来ます。
読者の皆様、御疲れ様です。
長々と相済みません。

さて、まず、秦の軍隊は、
中央軍と地方軍に分かれ、
中央軍は地方軍より選りすぐった人員で構成されます。

また、中央軍中の首都警備隊は、
有事の際には機動部隊の主力として活動します。

一方、辺境の守備は、
北方の騎射に優れた人種や罪人が
防衛施設の建設や治安活動に当たります。

こういう軍事活動を支えるための
人員確保に当たり、
秦は過酷な兵役や兵役を課します。

他国も似たようなことをやっていますが、
刑罰による強制力がある分、
秦の方が過酷であったのでしょう。

また、兵力やその内訳からすれば、
或る段階までは、恐らくは各国間でそれ程の違いはなく、

秦においても老兵や軍属、守備隊の類は、
匈奴の脅威等、各国と状況が似ていることで、
それ程大差は無かったと思われます。

ただし、集権的な体制に加え、
法の強制力と信賞必罰によって
物動計画の動員力や運動量が大きく、

これが軍隊の戦力に比例したと言えます。

しかしながら、
統一後に平時向けの政策転換に失敗したことで、
これが命取りになりました。

また、大動員の代名詞である「部曲」は、

恐らく、後世の軍関係の当局者は、
秦を参考にしようとしたのでしょうが、

漢代の混乱期を経て
いつの間にか軍閥のショボい編制単位か
有象無象の豪族の私兵そのものを意味する言葉
収まることとなりましたとさ。

 

【追記】

大体、戦国時代から唐代辺りまでの
最末端の兵隊の世界に
興味のある方におかれましては、

宜しければ、
下記の記事を御覧頂ければ幸いです。

最小戦闘単位「伍」と最末端の戦闘

伍の戦闘訓練と連帯責任

 

 

【主要参考文献】
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』
江村治樹『戦国秦漢時代の都市と国家』
赵秀昆、他『中国軍事史』第3巻
石井仁「曹操の護軍について」
『日本文化研究所報告』第26集
金文京『中国の歴史 04』
小林聡「後漢の軍事組織に関する一考察」
張学鋒「曹魏租調制度についての考察」
『史林』第81巻6号
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海 第四版』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
浅野裕一『孫子』
澁谷由里『〈軍〉の中国史』
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』
西嶋定生『秦漢帝国』
司馬遷著、小川環樹・今鷹真・福島吉彦
『史記列伝』1・2巻

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戦国から前漢における特産物の分布とその取引

はじめに

今回は、戦国から前漢までの時代における
各地の特産物と商売の話です。

何だか、テーマの戦争からかなりズレていますが、
総力戦という意味では産業力も戦力のうち、と、
詭弁を弄しておきます。

と、言いますか、
こういう話が兵器や軍需物資の製造の話につながるよう、
努力致します。

 

1、主題に関する御本の紹介

因みに、今回のテキストともいうべき本は、
柿沼陽平先生の『中国古代の貨幣』(吉川弘文館、2015年)。

吉川弘文館は日本史関係に強い本屋さんで、学会も抱えています。

それはともかく、
この御本はサバケた本でして、

マクラの話で半沢直樹の話やら
この本の売れ行きの心配やらの生臭い話をなさっていて、
笑えると言えば笑えます。

ですが、その一方で、
貨幣の定義について
歴史学の枠にとらわれずに非常に広い視野で考察を試みたり、

そうかと思えば、
イキナリ、実際に当時の市場を歩いてみようとか言い出して、

当時の物品の価格決定のプロセスを説明したり、
市場の立地や生々しい商行為風景の再現を試みたりと、

中々、写実的かつ野心的な内容の文献です。

本当は、当初は研究者ではなく、
作家を志していらっしゃったのかしらと思えるような
視角とでも言いますか。

なお、市場の光景については、
別の稿で扱いたいと思います。

また、戦争との絡みでは、
兵卒の供給源のひとつである
ヤバそうな人々が徘徊していたり、
武器なんかも売られている場所の模様。

余談ながら、

柿沼先生御自身が
学部生レベルの目線を意識されただけあってか、
平易な言葉でまとめられて読み易かったと思います。

自分の学生時代にも、
専攻分野に対して
こういう秀逸なアプローチを行う文献に出会えれば、

もう少し勉強もラクに進んだのかしらと
当時を懐かしく思う次第ですが、

その意味では、
その分野の最前線の研究者が
必ずしも教育に向いているとは限らないことの好例です。

名選手名監督に非ずの歴史学版か。

 

2、取引産品のアレコレ

前置きが長くなって恐縮です。

早速ですが、下記の地図にて、
当時の特産品の分布状況を確認しましょう。

柿沼陽平『中国古代の貨幣』p115-p119の文章を元に作成。

文献に出て来る地図を拙い手法で加工したものですが、

こんなものでも、いざ作るとなると、
結構苦労します。

例えば、特定の都市の位置を探ろうとすれば、
時代ごとに河川の流域や地名が異なっていまして、

その意味では、
整合性に欠ける部分も少なからずあります。

したがって、
大体この地域には、こういう特産物がある、
といった大雑把な理解で御願い出来れば幸いです。

それでは、地図の詳細について触れます。

まずは、拙い自作のアイコンについて。

現代の感覚ではイメージにしくいものもあり、
その種の物品の説明を行います。

 

「五穀」
大体は炭水化物の穀類ですが、
国や時代によって定義が異なるので面倒な言葉です。

甚だしい事例として、『周礼』なんぞ、繊維である麻を含みます。

よって、ここでは、稲・麦・豆・粟・黍、
といったものを御想像下さい。

「卮(し)」
辞書によれば、木製で漆塗りの盃。

「薑(はじかみ)」
生姜のことです。

「丹沙(たんさ?)」
硫黄と水銀の化合物です。
朱色で、顔料・薬剤に使用されました。
別名:辰砂(しんしゃ)・丹砂・朱砂・朱丹、等。

「鮑魚(ほうぎょ)」
塩漬け干物の魚のことです。

「棗(なつめ)」
中華料理のデザートによく出て来る果物ですが、
薬用としても使います。

日常的に好んで食べる日本人は少ないと想像します。

サイト制作者が
モノを知らないだけなのかもしれませんが、
今日のスーパーで見掛けることは少ない気がします。

 

3、便利な概念「経済圏」と
金融センターとしての「洛陽経済圏」

続いて、「経済圏」について説明します。

まず、「〇〇経済圏」というのは、

『史記』の貨殖列伝を元に
柿沼先生が独自に設定された分類です。

この中で、
最初に注目すべきは、

恐らく経済活動が活発な「洛陽経済圏」と、

穀倉地帯、あるいは繊維産業も盛んな
「山東経済圏」・「関中経済圏」だと思います。

特に「洛陽経済圏」(洛陽・河内・河東の一帯)は、
「経済」活動が活発、と、簡単に言えど、

その「経済」が意味するところは、
恐らくは、高度に洗練された金融業、あるいは、

政府や軍閥の戦費や政策資金の調達に関連する
債券市場とでもいうのか、

つまるところ、
他の経済圏を圧倒的に凌駕するレベルの
巨額の資金が動く経済活動であり、

全ての経済・産業の中枢を占める、謂わば、

今日の世界経済でいうところの、
ニューヨークや香港といった
(シティは、色々と揉めているので一応外します)
金融センターのようなニュアンスではないかと想像します。

 

4、先進地域の定義

次いで、「山東経済圏」・「関中経済圏」について。

一次産業の比重が極めて高い
前近代の産業構造という視点で見れば、

広い平野に位置する穀倉地帯
繊維生産を副業に持つ経済圏というのは、

言い換えれば、
大人数を養うことの出来る裕福な地域の証拠です。

さらには、
機械化以前の衣類の価値は高く、
そのうえこの時代の布は貨幣にも化けます。

こういう事情があってか、

孟子(出身は鄒:今日の山東省)の母親なんか、

ドラ息子が学業をサボッて勝手に帰省しやがったうえに
偽造通貨を作っていたところを目撃されたので、

当局に通報されるのを恐れて、
逆ギレして一芝居打った・・・

―という解釈は、当然ながらデタラメです。

つまらない話はともかく、

日本で言えば、
明治時代前半までの大阪や名古屋等の地域が
それに相当します。

昭和になってムリしてゼロ戦や戦艦大和なんかこさえても、
その財源は、材料がほとんど自前の生糸の販売で
捻出する訳でして。

それはともかく、古代中国の場合は、
黄河沿いの地域が裕福であるということなのでしょう。

黄河が舟運という交通路でもあることで、
その後背地産業という意味を含めて、
前回の都市の分布の話と軌を一にします。

さらには、臨淄の場合は、
地面からの上がりに加えて海を持つことも長所でして、
特に塩の利権は大きい訳です。

なお、塩と鉄の話は、後で少しします。

因みに、長江以南の本格的な開発が進むのは、
3世紀の孫呉政権の時代です。

ゲームで言えば、強力な破壊力を持つ
山越の歩兵部隊との死闘を繰り広げる
『三国志Ⅸ』の世界。

こういう風に考えると、

斉が経済的な潜在能力の高さという点で、
大国になる条件が揃っていることが
想像出来ようかと思います。

で、余談ながら、こういうポテンシャルの賜物か、
後年、異国の日本が威海衛を欲しがったり、
ドイツ人があそこでビールを作ったりするんですなあ。

因みに、「山東経済圏」は、
春秋戦国時代の国号や地域で言えば、
斉・鄒・魯・梁・宋といった地域に相当します。

また、劉邦の「関中王」の関中は
函谷関の西側の地域ですが、

ここでは、汧・雍~河・華といった
散関や隴関の東側の限られた地域。

 

 

5、北方の経済圏の特徴

次いで、その他の北方の経済圏に目を向けますと、

「燕経済圏」
渤海から碣石間、中山、といった地域でして、

この辺りの緯度になると、
北方の「異民族」との交易が
盛んに行われるようになります。

また、海に面していることで、
塩や魚といった海産の資源にも恵まれます。

個人的に面白いなあと思ったのは、
天津甘栗のルーツめいたものは
この時代からあったのか、という点です。

さらに、斉や燕のような立地になると、
朝鮮半島との交易も射程圏内に入ることと思います。

また、北方との交易の経済圏としては、

楊や平陽、上郡等を擁する「山西経済圏」
天水・北地・隴西(天水の西)を擁する
「西羌経済圏」があります。

戦争は強いが経済力に乏しい匈奴等の騎馬民族が
武器や食糧を欲しがってやって来る訳でして、

商売や移住もやれば、
刃傷沙汰のトラブルや略奪もやる訳です。

で、その結果、怒り狂った趙や漢の軍隊との
ガチの抗争も一度ならず。

―そういう風土に近いためか、
この辺りに経済圏では牧畜も盛んに行われます。

無論、北方だけでなく、
付近の経済圏との取引も当然ありまして、

例えば、楊や平陽は関中との取引があった模様。

 

 

6、南方の経済圏と銅と塩

さて、今度は、打って変わって、
南方に目を向けることとします。

資源依存型という点では、
黄河流域以外の経済圏と似たものを感じます。

まずは、「巴蜀経済圏」。

ここを根拠地として強大な項羽と戦った劉邦は元より、
王莽に関連する動乱期の公孫述もそうですが、

地政学的に非常に恵まれていることで、
ここに籠ると鉄壁です。

結果として、ここの攻略に苦しんだのは、

曹魏(三国志の魏!)どころか
20世紀の日本も含まれていたりするので笑えません。

そのうえ、
中原に比して開発が進んでいないとはいえ、
やはりさまざまな資源に恵まれた地域であることには
変わりありません。

特に、鉱物資源に恵まれ、
この地図には記していませんが、奥地では塩も取れます。

そのうえ、漢代には、
この地に国内有数の軍馬の放牧場が作られ、

三国時代には絹まで作り始めることで、
そうした人口だけでは推し量ることが難しい
経済的・軍事的な付加価値が出来たことで、

魏相手の何十年もの継戦能力はダテではないと言いますか。

次いで、「呉経済圏」。

これは、項羽の策源地である彭城より東の地域、
東海郡、当時は後進地域であった呉、
この後の時代に
孫呉政権(三国志の呉!)の首都になった広陵、
といった地域を指します。

海産資源は元より、
注目すべきは、塩と銅。

これは「巴蜀経済圏」にも言える話ですが、
塩は言うまでもなく生活必需品でして、

『塩鉄論』の桑弘羊とか諸葛某とか、
大抵は国家が専売して税収の足しにします。

で、儒教で理論武装して清貧ぶった
汚職官吏の利権に対して、

盗賊が非合法の廉売をやって
御決まりの密売と摘発のイタチごっこが起き、

そういう食傷気味の活劇の最終回に
主役の盗賊団が暴動を起こして視聴率を稼ぎ、
別の時代で再放送、と。

また、はと言えば、
国家の経済力と暴力装置の両輪とも言うべき
貨幣と武器の双方に使われます。

さらには、この時代はまだ銅が武器の主要な素材でして、
この少し後の曹操の軍隊も、
物の本によれば、鏃は青銅製であったそうな。

この塩と銅の御話、
つまりは、王朝の権力基盤を支えるための
地下資源を有していた、という主旨です。

序に、銅の話からは逸れますが、
漢代の鉄と塩を管理した
鉄官・塩官の分布図も、以下に掲載しておきます。

『中国歴史地図』p37の図を加工。

最後に「楚経済圏」ですが、
ここについては筆者の不勉強につき、
あまり儲かりそうな経済背景が見えて来ないのですが、

未開発地域における山林関係の資源や、
家畜が高価であった時代の皮革というと、
あまり先進的なイメージは沸かないのですが、

産業として外貨を稼ぐレベルで成熟しているとなれば、
相応に高次なのものであったことでしょう。

楚や項羽のファンの方、悪しからずです。

 

 

7、商売を左右する闇コスト?!

さて、これまで特産品の分布について
一通り見て来ましたが、

こういう知識があったところで、

その種の情報さえあれば
ネットの先物取引宜しく
端末を弾くだけで大金持ちなれるかと言われれば、

柿沼先生に言わせれば
世の中そんなに甘くはないそうな。

何の話かと言えば、
取引費用が馬鹿にならなかったのが当時の実情の模様。

で、この「取引費用」の内訳もかなりの曲者でして、

本人やスタッフの旅費や
運搬用の家畜の飼料といった
割合マトモなコストだけであればいざ知らず、

商品の護送部隊の手配や経由地での役人への賄賂といった、
途上国に打って出る商社が負担するような
怪しい支出も生じる訳です。

逆に言えば、
この時代の花形の商人、
―秦の呂不韋、蜀の卓氏、宛の孔氏といった人々は、
各国各地の官吏との昵懇の仲であり、

モノによっては
商品の売買から一歩踏み込んで
製造にまで手を出していたそうな。

つまり、資力・人脈・腕力(カネに換算可能ですが)
が伴ってこその経済力でした。

「政商」という言葉がありますが、

時代背景を考えれば、
こういう泥臭い力が無ければ事は動かなかったのでしょうし、
同時に、国を買おうという発想の源にも成り得たのでしょう。

市場ですら、ひったくりが横行した時代のことです。

ただし、こういう手合いは
貧者の生活を踏みにじってまで買い占めをやりますし、

その意味では、
農本主義で秩序が大好きな儒者が嫌うのも
分かる気がします。

ですが、その儒者が
こういう強欲な商人から平気で賄賂を取るという
非常識な常識が罷り通るのも
古代中国では有り触れた御話です。

それはともかく、

いつかの回で、国家の統廃合が進んだことで
ボーダレスな大商人が登場するようになった、
と綴ったことを思い出しましたが、

これはこれで間違いないにせよ、

それを含めてもなお、

遠隔地での商行為には、

民度やその土地の事情等に起因するリスクや、
距離に応じた物理的な負担が
常に付いて回るということなのでしょう。

因みに、孔子様御一行があれだけ長い行旅が出来たのは、
それ自体、当時の感覚では壮挙でありましたが、

当人の直弟子世代が
孟子や荀子のような戦争に疎い頭デッカチではなく、

春秋時代特有の
戦争巧者や腕自慢の猛者が多かったことが
大きいように思います。

 

 

おわりに

そろそろまとめに入ります。

まず、各々の地域の物産について、
「経済圏」という便利な分類方法が挙げられます。

それによると、目ぼしいものとしては、以下。

経済の中枢の「洛陽経済圏」
穀倉地帯で繊維産業も盛んな「山東経済圏」

地下資源が豊富で、
特に銅・塩が採取可能な「巴蜀経済圏」

海産資源に恵まれ、
やはり塩・銅が採取可能な「呉経済圏」

その他の経済活動としては、
北方では牧畜や騎馬民族との交易で潤い、
南方では木材や皮革、魚の干物等が交易産品としての
稼ぎ頭であった模様。

ですが、こういう情報を活かそうにも、

遠隔地の商行為は色々とリスクが多く、
警護部隊の手配や役人への賄賂といった費用も
少なからず嵩みます。

そして、こういう障壁の向こうに
巨万の富が待ち受けていたのですが、

その恩恵に浴することが出来たのは、
ほんの一握りの人間であった、という、

カネの臭いこそするものの、
その実態は、無慈悲なまでの弱肉強食で
何とも夢のない御話です。

 

 

【主要参考文献】
柿沼陽平『中国古代の貨幣』
江村治樹『戦国秦漢時代の都市と国家』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海 第四版』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
飯尾秀幸『中国史のなかの家族』
沢田勲『冒頓単于』
高木智見『孔子 我、戦えば則ち克つ』
西嶋定生『秦漢帝国』
宮川尚志「漢代の家畜(上)・(下)」
林漢済編著・吉田光男訳『中国歴史地図』

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戦国時代から前漢までの城郭都市にまつわる話

はじめに

遅れ馳せながら、本年も宜しく御願い申し上げます。

さて、今回は中国古代における城郭都市の御話。

年末に本屋を廻って色々な文献を物色する過程で
面白そうな話をいくつか見付けまして、
予定を変更してこの御話を綴ることと致します。

今回の御話の中心となる文献は、
江村治樹先生の『戦国秦漢時代の都市と国家』。
(白帝社・2005年)

戦国時代から前漢までの時代における
都市の成り立ちや構造について、
上手に纏められた本です。

加えて、断片的ではあるものの、
軍事等の周辺領域に対する秀逸な考察もあり、

例えば、『キングダム』等の漫画を読む際にも、
結構重宝しそうな内容だと思います。

因みに、アマゾンでは、現時点でレビューがなく、
中古も少ないことで、

(門外漢の方々にとっては)
隠れた名著と言えましょうか。

 

1、当時の城郭都市の概要

戦国時代から前漢にかけての城郭は、
当然ながら、権力者の軍事・政策の拠点でして、

小さいもので1キロ平方メートル、
大きいもので10キロ平方メートルの面積の敷地を
城壁で囲ったものです。

そして、こういう城郭の大きい部類のものが、
斉の臨淄や趙の邯鄲といった、
大国の国都級の城郭だったりする訳です。

では、こういう城郭都市に
どのような機能があったかと言えば、

この敷地の中に、
宮殿や政庁、兵舎、武器その他の工房、市、
住民の居住区等を抱え込む、

日本の戦国時代でいうところの、
北条氏の根拠地である小田原城のような
「惣構」めいた性格の城郭です。

―余談ながら、以下は
博学でエラそうな二畳庵先生の受け売りですが、

「杜甫の国破れて山河あり、城春にして草木深し」
の詩に登場する「城」は、
この種のホーム・タウンめいた街を意味します。

これは唐代の安禄山の乱の時代の話ですが、

城壁が街の外敵からの防御の切り札として機能するのは
唐代どころか民国時代ですら該当する話でして、

水滸伝の愉快な皆様のような
時代を問わず郊外の山林藪沢に集まる賊徒共は元より、

20世紀に入ってからも、
軍閥や共産党、帝國陸軍等の火砲で武装した近代軍が、

こういう防御施設のアップ・グレード版を
攻めあぐねる訳です。

 

2、設立の条件と分布状況

古代中国―戦国時代から前漢までの時代において
商業の拠点としてのこの種の城郭都市が
出来る条件としては、

江村治樹先生によれば、
まずは、重要な交通路が集中する
交通の要衝であることだそうな。

早速ですが、当時の地図を見てみましょう。

『全訳 漢辞海 第四版』p1778より抜粋。

大体、大河沿いに
目ぼしい都市が集中している様子
確認出来るかと思います。

ただし、これにも例外があるようでして、

三晋地域と呼ばれる黄河中流の地域は、
交通網よりも経済発展の影響が大きいとのこと。

因みに、「三晋地域」とは、
春秋時代終焉の契機となった晋の分裂によって成立した
韓・魏・趙の支配領域が錯綜する地域のことだと思います。

具体的には、大体、
邯鄲付近から黄河沿いに南下して、
開封(旧・大梁)・洛陽を経て
西安(旧・長安)に至る地域と推察します。

三国志の時代も、
邯鄲の辺りは
中央での政争に敗れて黄巾の乱に加わった
スネた知識人共の拠点ですし、

また、洛陽近辺は、最終的に曹操が制圧するまでは、
軍閥の抗争が絶えなかった係争の地。

さらに、長安に至っては、

劉備と曹操の抗争、
そして孔明の北伐から蜀の滅亡までの時代の
半世紀にわたる一連の戦争における
対蜀戦線の魏の策源地であり続けました。

ですが、今日のような、

洛陽や開封近辺は
観光地としての価値はあれども、

そもそも首都が北京にあり、
経済の要地が沿岸部に集中していたり、

観光ガイドを見ても
戦国時代のいくつかの王都やその近郊については
全く情報がなかったり、

―という現状を目の当たりにすると、

少なからず隔世の感があるように思います。

 

3、秦の統一戦争と城郭都市

また、こういう都市の分布が、
本ブログの主要テーマである戦争に
どのような影響を与えるのかと言いますと、

侵攻軍の攻略の難易度に直結する訳です。

当然、敵の領地に城郭が多い程、
その攻略に必要な人員・物資が多くなり、
侵攻の速度も鈍る訳です。

参考までに、以下の地図を御覧下さい。

江村治樹『戦国秦漢時代の都市と国家』p199より抜粋。

例えば、戦国の覇者である
秦の事例ひとつ見ても、

占領地に設置した郡の年次を見ると
一目瞭然なのですが、

この種の城郭の多い地域を抜いた後は
領袖一色という具合です。

無論、城郭の多さだけが
進行速度が鈍かった理由ではありませんが、

防衛側の最高司令官である趙の趙奢等が
それを拠り所に
防衛計画を立案しているフシもあります。

ですが、こういう先進地域にも、
戦時体制としての欠点がない訳ではありません。

具体的には、
住民の都市に対する帰属意識が非常に強く、

国家にとっては武器の集中管理等のような
集権的な政策がやりにくい訳です。

例えば、長平の戦いの戦後処理として、
秦の総司令官の白起が
今日にその爪痕が残るレベルで
捕虜に対してあれだけ惨いことをやったのも、

こういう都市住民の意識が
大会戦の戦果をフイにするレベルで
災いしたからだと言います。

 

ここで話が逸れますが、

この白起という人は兵卒の心情の理解出来る
叩き上げの軍人でして、

何も、残虐なだけの冷血動物であった訳ではありません。

それどころか、
この時の捕虜の生き埋めの命令に対する後ろめたさが、

生涯にわたって
脳裏に焼き付いて離れなかったようです。

しかしながら、
その時代の実情を丁寧に考察すると、

今日の感覚でも当時の感覚でも
到底理解し難い、

しかしながら、
当時においては正しい選択であった
苛烈なまでの必要悪の手立ては、

確かに存在したのかもしれません。

 

 

4、古代史のブラック・ボックス、
黄河の流域の移動

 

序に、都市の成立や分布について、
考古学的な話も付言しておきます。

これは、
将棋でいうところの紛れの一手とでも言いますか、

今までの話の前提を
引っ繰り返すような側面を持つことも
断っておきます。

何の話かと言えば、
具体的には、

黄河の流れが
時代によって大きく変わっていることです。

以下の地図を御覧ください。

 

前掲『戦国秦漢時代の都市と国家』p89より抜粋。

 

確かに、我が国でも、

江戸開発や宝暦の治水等で
利根川や木曽三川の流れが一部の区間で
人為的に変えられていますが、

黄河の場合、その流域の移動が、

その種の人為的な改修工事が霞んで見える位に
大規模なレベルで起きていることが注目に値します。

さらに面倒なのは、
この流域の移動によって
流された遺跡が存在する可能性があったりする訳です。

また、最近の学説の成果も、

80年代以降の開放路線によって
開発の過程で遺跡が発掘されたケースが多いそうな。

前回触れたようなフェイクが横行するのも
こうした事情が祟っているのかもしれませんし、

逆に、開発から漏れた地域は、
そもそも遺跡の有無すら分からない訳でして、

その意味では、
愛好家が多い割には
ミステリアスな部分の多い学術分野に思えます。

 

 

おわりに

今回の御話について、
一通りの流れを整理します。

まず、中国の古代史における城郭とは、
政治・軍事・商工業と、複合的な性格を持ちます。

そして、そもそも、
そうした城郭都市が建設される条件とは、
交通網の結節点であることが最重要。

ですが、黄河中流の地域については、

当時から開発が進んでいたことで
交通の結節点である必要はなかったようです。

因みに、この時代の主要な交通手段は、
河川、次いで道路だと思いますが、

具体的な交通網の話は、サイト制作者の不勉強につき、
詳細は今後の課題にさせて頂きます。

さらには、こういう城郭都市を領内に数多く抱える方が
防衛には有利に働きます。

と、言いますか、
戦術史の話をすれば、
孫子の兵法によって歩兵の機動部隊が多用された結果、

その防御法として、
城郭で足止めすることになった、という御話。

―ですが、
治める方も、占領する方も、その住民は扱い辛い、と。

まあ、その、
今の日本にせよ、善悪はともかく、
古都や城下町の古くからの住民の
自尊心の高さは有名だと思います。

サイト制作者の体験を通じても、
そういう側面は否定しません。

で、これが、面白いことに、
文化レベルの高さや地方政治の迷走にも繋がるので、
一長一短はあると思いますが。

さて、そのオチと言いますか、

こういう一連の説明も、

今までの文献・考古学の成果を
突き合わせた結果に過ぎず、

今後も天変地異や中国人の金儲けによって
真贋定かならざる遺跡や古文書、骨董品の類が
数多出土することで、

その成果によっては、研究が進んだり、
あるいは混乱する危険性も付いて回ります。

その意味では、

未来を感じる
研究やそれに付随する商行為の現状が
そこにはある、

―と言えなくもありません。

 

 

 

【主要参考文献】
江村治樹『戦国秦漢時代の都市と国家』
柿沼陽平『中国古代の貨幣』
加地伸行『漢文法基礎』
ブルーガイド海外版編集部『わがまま歩き 19 中国』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海 第四版』

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後漢時代における平民男性の四季に応じた装い

はじめに

 

大体1週間程度で1記事を更新したいのですが、
イラストを描くのに手間取ってこれもままならず、
本当に恐縮です。

さて、今回は、後漢時代の服飾に戻ります。
その中で、平民男性の四季に応じた服装について綴りたいと思います。

何故、先の回で平民男性のそれについて説明したのかと言えば、
夏や冬場の装いが絡んで来るからです。

そして、『三国志』の戦争の季節というのは、
例外こそあれ、兵糧の刈り入れが終わって馬が肥えた秋から冬、
というのが大体の相場、という事情もあります。

 

1、袍(ほう)

1-1 概要

それでは、早速ですが、
下記のヘボいイラストを御覧下さい。
(服飾のような分野は、下手な絵であれ、
視覚に訴えた方が説明し易いのです)

これは「袍」という、
当時の中国では、身分を問わず、最も馴染みの深い服装です。

 

まず、袍の説明から。

用途は大体は礼装でして、貧富を問わず着用されました。
富裕層が着るものは、生地が良く細かい紋様が入っていたりします。

動きにくいことで、農作業や従軍に適した日常着とは言えないでしょうが、

冠婚葬祭の他には、
郊外の居住区の里から、
人でごった返す城市に買い出しに行く時に着用したと想像します。
所謂、ヨソ行きの服かと思います。

また、後述する裘(きゅう)という、
今日でいうところのコートも存在することで、
袍の着用は季節は年中だと思います。今でいうところのスーツか。

一方で、この「袍」の一類型として、
低品質の麻や屑糸で作ったものは「縕(うん)」というものもあり、
割合厚手のもので、
主に冬場に着用されました。

因みに、袍にせよ、縕にせよ、
粗悪な物を「褐(かつ)」と呼びます。

 

1-2 袖の形状

続いて形状ですが、
まず、襟・袖は別の生地を用い、
これがないものは下等だとみなされていました。

さらに、袖ですが、儒家が幅を利かしたことで、
高価なもの程、裾が長く幅が広いのが特徴。

ですが、前漢に比して、後漢のそれは少し小振りになっています。

また、その中でも形状はさまざまでして、

袖口が広いものを「袂(へい・べい)」、
反対に、絞ったものを「袪(きょ)」と言います。

袪の袖口の幅も様々でして、
イラストのように極限まで絞ったものもあれば、
袂の袖幅より少し絞ったものもあります。

なお、イラストにある袪は、ドラマのものを参考にしました。

 

1-3 裾の形状

裾の丈は、「袍」の定義としては、膝より下まであるもの。

ですが、その範囲でも形状は様々でして、
イラストにあるように地面から少し高いものあれば、
踝が隠れる位のものもあります。

高貴な女性の着物になると、
裾を床に引き摺るものもあります。

また、前漢までは、裾が傾斜した「曲裾」と呼ばれる形式が流行していましたが、
後漢では「直裾」という、地面と並行のものが取って代わりました。

なお、袍の下衣(下半身の衣類)として、
当時の主流は「褲」と呼ばれるズボンでした。

 

 

2、襦(じゅ)

2-1 男性用の「襦褲(じゅこ)」

 

「襦」は、作業・戦争その他に用いる、汎用性の高い上半身の日常着です。
平民の男女御用達。

上記のイラストは、
前回でも触れましたが、当時の労働者・兵士が愛用した「襦褲」。
上半身の「襦」と先述した下半身の「褲」を合わせて「襦褲」と呼びます。

季節は、春から秋まで着用されました。
そして、これのさらに薄手のものを「衫(さん)」と呼びます。

丈は、袍とは逆に、膝から上までのもの。
膝からヘソが隠れる範囲であれば、様々なものが存在します。

一重のものもあれば、裏地の付いたものもあり、
季節に応じて使分けたのでしょう。

また、袖の長さや幅も様々です。

で、これも、粗悪なものを「褐」と呼びます。

 

 

2-2 女性用の「襦裙(じゅくん)」

 

一方、襦は女性の日常着でもありまして、
この場合、裙と呼ばれるスカートを履くので
「襦裙」(じゅくん)と呼ばれます。

また、先の回で触れましたように、
下半身には裙の中に褲を穿くのが主流だったようです。

ストッキングとレギンスの中間のようなものだと思いますが、
残念ながら、一番肝心な、その中のものは、
制作者の浅学にて分かりません。
(男性のソレは後述します)

―余談ながら、時代が下ると、
鍵付きの貞操帯のようなものも出て来ますが、
その種のものが当時の主流だったのかは分かりかねます。

 

因みに、左側の女性は髷を結っていないので、
当時の感覚としては相当だらしない訳です。

まあその、狂言廻しと言いますか、アシスタントと言いますか、
もう少し描き込んで修正して、
図解に役立つように致します。

後、大体、時代劇で人気のあるのが、
軍装と着物につき、
女性の服飾も機会があれば取り組みたいと思います。

 

 

2-3 古代の女性の社会的位置付け

 

さて、申し訳ないのですが、ここで余談。

悲しい話ですが、王朝時代の女性の地位というのは驚く程低く、
今日の感覚で言えば、奴隷という他はありません。

当然、この時代とて例外ではありません。

妻を宴席で他人の前に出すのが恥、
籠城戦では愛妾を人肉にして他人に振る舞うのが美徳という、
21世紀の感覚では到底理解し難い世界です。

それどころか、民国時代も、
どうも農村では王朝時代の慣習が残っていたようで、
(現在でも法と現実の経済結婚の乖離が社会問題になっているようですが)

凶暴な太平天国や今の中共が当時あれだけ支持されたのは、

女性に限らず、
社会的弱者のための政策を本腰を入れて取り組もうとしたことが
少なからずあるような気がしてなりません。

 

 

3、裘(きゅう)、裸(!)

 

3-1 コートとしての「裘(きゅう)」

 

 

 

以上、春から秋の衣類について説明しましたが、
ここでは、冬場の上着「裘(きゅう)」と、猛暑のフンドシについて触れます。

裘とは、皮衣、あるいは今日でいうところの(毛皮の)コートでして、
その形状は、袍のようなものもあれば、
袖が広くて裾が膝より上のものもあるようです。

ただ、漢代のものについては生地以外には詳しい説明がなく、
イラストが漢代のものであるかどうかは分かりません。

一応、情報源めいたものを挙げます。

左側は、漢代の隠士で有名な厳光の絵を参考にしました。

もっとも、この絵というのが何種類もあり、
さらには写実的で鮮やかなタッチからすれば、清代以降だと思いますので、
話半分で御願いします。

また、右側のものは、典拠は失念しましたが、
さる漢文読解用の辞典に掲載されていたイラストを参考にしました。
これも、漢代のものとしては、話半分で御願いします。

 

3-2 創作が不可欠な娯楽作品の世界

 

と言いますのは、

例えば、ジャンヌ・ダルクの絵なんか、
没後600年弱の間、色々描れていますが、
その時代考証はと言えば、時代によっては本当にいい加減なものです。
サイト制作者も本で見て、確かめました。

日本でも、コー〇ーの無双の服飾なんか見ていれば、
素人でも分かろうもの。
ですが、現代の価値観に近い方がウケるのでしょう。
方向性はともかく、描き手も企業も必死なのです。

文化圏が違うとはいえ、こういうことが往々にしてある訳で。
そして、歴史は繰り返す。

中国でも、三国志の絵本に出て来る鎧をよく見ると、
漢代のものにしては妙に装飾が綺麗で、
何だか怪しそうなのが少なからずありますし、

カンフー映画ひとつとるにせよ、
例えば同じ清末民初が舞台ものでも、
全盛期の70年代の作品に比して、
最近のものは麻の生地が多くなった反面、紋様が現代的で鮮やかになり、

サイト制作者としては、浅学にして、
どちらが正しいのか分かりかねます。

もっとも、怪しい時代考証の善悪は、
再現の目的によって異なると思います。

創作の世界で史実に忠実にやったら、
見世物や芸術として成立しないこともあるからです。

また、サイト制作者のように不勉強なケースもあれば、
当時の研究自体が未熟であったケースもあることでしょう。

悪意が弊害をもたらすケースは後述します。これが生々しいもので。

では、真贋の区別が難しい中、
何故、サイト制作者が袍等について、断定したような書き方が出来るのか、
との問いについては、

まず、向こうでは漢代の現物が残っている場合がありまして、

さらには、中国の服飾関係の本には、
当時の(ヘッタクソな)壁画をそのまま書き移したものが
多数載っていまして、
これが、各々の服装に応じて様々なパターンがある訳で、

こういうものと文献の文章と整合性を取って、
サイト制作者が、(これまたヘッタクソな)イラストをでっち上げる、
という次第。

 

 

3-3 歴史学は詐欺師との知恵比べ?!

 

ですが、サイト制作者自身、
こうやってドヤっても内心はビクビクしていまして。

その理由として、
中国というのはカネになれば何でもやる国のようで、

モノの本(柿沼陽平先生の『中国古代の貨幣』)によれば、
墓荒らしどころか古文書の贋作作りまで横行するのが現状の模様。
(これが、研究者も騙される位に精巧なものだそうな。)

日本でも、10年以上前に、
某所で贋作土器を埋めたことが問題になりましたが、
向こうでは贋作製造者と地域がグルになるのが茶飯事で、
その常態化の結果、詐欺のテクニカルタームまであることで、
恐らく、日本の事件が問題にならない位の規模と想像します。

で、研究者ともなれば、こういうものの目利きも必要な資質で、
そのうえ、科学の力まで借りて正確性を期すという、
日本史のような個人プレーでは限界のある大変な世界だそうな。

壁画のケースとて、
交通の便の良い洞窟の壁面にそれっぽくヘッタクソな絵を描き、
「新発見!」とやって見物料を取る位のことをしそうで
何とも不安な限り。

こういうものを掴まされれば、

研究は元より、
教科書の内容どころか場合によっては政策判断まで狂います。

例えば、大金をはたいて買った王朝時代の戸籍簿の同じページに
「李小龍」「習近平」とか書かれていれば、
ファンか支持者以外は泣きたくなるでしょう。

ただ、何物であれ、贋作自体が手の込んだものであれば
必ずしも無価値だとは言い切れませんし、
正規の職業としての贋作製作者の方々もいらっしゃいますが、

その一方で、本物と贋作の価値もそれだけ大きく、
騙す方も騙す方で、その差異が大きいからこそやる訳でして、

買う方としては、溜まったものではないと思います。

とはいえ、ブランド物なんか、

偽物と分かっても手を出す方もいらっしゃり、
出国の際に税関で召し上げらるケースも多々あることで、
この辺りはイタチごっこという現状。

―ただ、古文書の偽造までやるのが、
良くも悪くも中国人らしいと言いますか。

 

 

3-4 裘の生地、これもピンからキリまで

 

話を裘に戻します

その生地ですが、平民が着るものについては、
大体は羊や犬、狼等の毛。

恐らく、中原や華北なんかでは、
軍用でも着用したのではなかろうかと想像します。

で、これが富裕層の着衣となると、
豹やキツネ、鹿、虎等となります。

中でも、特に珍重されたのが白狐。
これらにはとんでもなく高価な値が付きました、
と、言いますか、オーダー・メイドだったのでしょう。

見た目も目立ったと思います。

逆に、粗悪なものを「裘褐(きゅうかつ)」と呼びます。

 

 

3-5 裸も衣装?!「犢鼻褌(とくびこん)」

次は、一転して、夏場の御話。

上半身の衣類じゃ、襦褲や衫の他に、
スッポンポンの裸の大将、ではなかった王様、もありまして、
さすがに下半身は巻物をするという具合。

「犢鼻褌(とくびこん)」という、
向こうで少なくともニ千年の歴史を誇る、
伝統的なフンドシです。

犢鼻というのは、字面は子牛の鼻ですが、
人間の膝頭の中の骨を意味するようです。

これは、後漢の少し後の、
北魏から隋までの時期の挿絵を参考にしました。

これで農作業に従事するそうな。
三国志の英雄にも、こういうのが結構いたと想像します。

―余談ですが、日本でも、
「裸体習俗」と言いまして、
農村では戦前までは広く行われていたそうな。

因みに、今日で言うところの、
ズボンとパンツ関係については、

「大褲」・「小褲」といい、
前者は、普通の丈の長いズボン、
後者は、大褲の中に穿く短いズボンを指します。

腰や尻の感触が悪そうですが、
あるいは犢鼻褌も穿いていたのかもしれません。

また、現存する犢鼻褌は、大分後の時代のものですが、
その形状は局部だけを隠すものでして、
漢代もこういうものを大褲の中に穿いていた可能性があります。

 

 

おわりに

残念ながら、大層な結論めいたものはありません。
そのうえ、例によって、話の腰を折る脱線話が多くて恐縮です。

強いて言えば、袍や襦等、それぞれの形状ごとにさまざまなパターンがある、
ということとなりましょうか。

三国志関係のコンテンツを楽しむ、あるいは、
小説やイラスト等を描く際にでも、
多少なりとも参考になればと望外の幸せです。

一方で、庶民が着用可能な衣類の色については、
不勉強で分からないままです。

例えば、黄色の場合、
時代によっては農民の反乱を意味したり、皇帝を意味したりで、
この辺りの整理も必要です。今後の課題にさせて頂ければと思います。

さて、今後の話も多少しておきます。
後漢時代の平民の服飾については、まだ履物と軍装が残っているので、
まずは、近いうちにこれらについて綴りたいと思います。

さらに、同じカテゴリーの三国時代版、
加えて、富裕層・女性(富裕層・平民)、等々もやりたいと思いますが、
他の話のリクエスト等があれば、そちらを優先します。

一方で、『キングダム』が終わらないうちに、
戦国時代や秦代のそれもやりたかったのですが、

そもそも、後漢・三国時代の服飾自体が、
そのアウトラインをなぞるだけでも(脱線話の尺を差し引いても)
ここまで説明を要するとは想定外でして、
日々苦闘しています。

 

 

【主要参考文献】

林巳奈夫『中国古代の生活史』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
朱和平『中国服飾史稿』
馬大勇『霞衣蝉帯 中国女子的古装衣裙』
周錫保『中國古代服飾史』
高島俊男『三国志 きらめく群像』
華梅『中国服装史』
徐清泉『中国服飾芸術論』
呉剛『中国古代的城市生活』
関西中国女性史研究会『増補改訂版 中国女性史入門』
柿沼陽平『中国古代の貨幣』
高山一彦『ジャンヌ・ダルク』

カテゴリー: 服飾 | 2件のコメント

少々復習、春秋から三国時代までの戦争アレコレ

はじめに

 

今回は、服飾関係の話ではなく、
古代中国の戦争に関して、先に書いた記事について少々復習めいたことをします。

と、言いますのは、

今までこのブログで綴って来た話について
今一度大きい視点で見つめ直すきっかけを
与えて下さった方がいらっしゃいまして、

その方および示唆に大変感謝すると共に、
同時に、私自身も、
原点に立ち返って何かしら考えてみようと思い立った次第です。

 

 

1、春秋時代の戦争

 

さて、対象となるものの本質は同じでも、

それに対する今日の常識と過去の常識が
必ずしも同じであるとは限りません。

さる歴史学者が「歴史とは過去との対話である」との名言を残した通りです。

それは、恐らく、
古代中国の戦争も例外に漏れることはありません。

黄河に文明が興って以来、

春秋時代の終わり頃までの戦争は、

今日の戦争のような政治や経済的な利害対立の延長でやるようなもの、
と言うよりは、

儀式や刑罰の執行、という側面の強いものでした。

したがって、最高指揮官自らが、
太鼓を持参して戦車に乗り込み、最前線で陣頭指揮を行いました。

因みに、「戦車」というのは、
4頭立て3名乗りの馬車のことです。

横に3名が並び、
左が責任者で弓を構え、真ん中が御者、右に大きな得物を構えた兵士が乗ります。

搭乗員は全員貴族階級で、指揮官が搭乗する場合は、
弓ではなく太鼓を持ち込みます。

当初は原則は左旋回でしたが、
時代が下ると役割分担も厳密ではなくなりましたが、
前漢までは平地での戦場の主役でした。

匈奴との戦いで弱点を露呈して
騎兵にその地位を譲るのですが、
後漢・三国時代も史料には登場します。

話を春秋時代の戦争に戻しますが、

面白いことに、身分の高い者程、
危険に身を晒すことが責務であった訳です。

さらには、戦場や日取りを両者で決めたり、
頑なに平地での戦車戦や正面からの一騎打ちめいた対決にこだわる、
という具合の堅苦しいものでした。

戦車の弓合戦なんか
今日から見れば馬鹿正直な位で、

自分が射撃を外したら、
自分が死のうが相手に射させるのだそうな。

 

 

2、原始儒教と戦時道徳

 

こういう儀式めいたルールの前提として、
非戦士階級には武器を持たせないという建前があり、

同時に、老兵・幼兵・負傷兵・撤退する兵の類は一切攻撃しない、
という戦時道徳も存在した訳です。

また、こういう堅苦しい作法を遵守することのメリットとして、

自らが領主や戦士として、
領地の内外で信用を得ることが出来ました。

加えて、有事の際には、
今日で言うところの国際法に則った扱いを受けることが出来まして、

こういうのが和平交渉や軍縮にもつながった訳です。

敵に情けを掛けて敗れることを意味する「宋襄の仁」という諺がありますが、

逆に、もし、あの時代の感覚で、
今日のような合理的な兵学を実践していれば、

自分が部下や領民から信用を失う
というリスクを抱えることになったはずです。

さらに、面白いことに、
こういう春秋時代の戦争の背景にある思想―殊に戦時道徳や人間修養は、

戦争のルールこそ変われど、
そのまま儒教として民衆の道徳観念に横滑りする訳です。

この伝道者こそが、
時の没落軍人・政治家であった孔子こと孔丘。

 

 

3、孫武の型破りな戦争

 

ところが、次の時代には、
春秋時代の頑なな戦争のルールは跡形もなく吹き飛びます。

その掟破りを大々的にやったのが、
孫子こと孫武。

では何故、それを孫武がやったか、と言えば、

まず孫武が仕えた呉という国が中原―華中の平原から程遠く、
その文化圏から外れていたことが挙げられます。

さらには、国の地形自体も当時は未開発で
山岳・河川・森林が多く、
馬の運用が難しかった事情もあります。

実は、この国も戦車の運用を真剣に考えたのですが、
どうも上手くいかなかったようです。

で、こういう、どうも中央のルールの運用が難しい僻地で
孫武のような中央からあぶれた優秀な頭脳が
型破りな仕事をする訳でして、

その研究の成果が、
国家・国民総動員と歩兵の集中運用によるルール無用の機動戦。

それまでの戦争の流儀とは打って変わって、

平地・山岳・森林・河川と、全ての地形が戦場になり
奇襲・伏兵上等の騙し合いに化けます。

そのうえ、工作員まで使って、
敵国中枢の離間工作までやるのですから周到なものです。

その結果、呉は、隣国の強敵であった楚を、瞬く間に蹂躙し、
各国もこぞって呉の真似を始めます。

これが、大体紀元前500年前後の御話。

 

 

4、社会の崩壊と学者の戦争

 

で、孫武の始めた戦争の結果、何が起こったかと言いますと、

国家は貴族の中間搾取を強制的に止めさせ、
領民を片っ端から徴兵し、
国内に城郭を乱立させます。

城郭の乱立は、歩兵の侵攻を喰い止めるためです。

そして、攻める方も、守る方も、
大掛かりな兵器と大量の人員の投入が必要になりました。

こういう戦争は、実は、火砲が登場する明代まで続きますし、

個人的には、
大規模な野戦が脚光を浴びる後漢・三国時代も、
数の上では野戦よりも城の争奪戦が多かったのではないかと予想します。

そして、こういう体力勝負の総力戦の戦争からドロップ・アウトした国は、
早々に大国に吸収される運命にありました。

春秋時代のは200あった国が
戦国の末期には僅かに7国に淘汰されたのですから、
凄まじい潰し合いです。

当然ながら、無数の国家の滅亡は、
その傘下の地域共同体や人間関係をも崩壊に追いやり、
さらには、身分の貴賤を問わず、数多のあぶれ者を生み出しました。

当時、この未曾有の危機に直面した国内の学者という学者は、

自らの立場の危機という事情もあって
戦争の在り方について世紀の大論争を繰り広げまして、
これを諸子百家、あるいは百家争鳴と言います。

兵馬で敵国を蹂躙する孫子は兵家。
それを籠城のノウハウで死守する墨子。

春秋時代の戦時道徳や戦士としての訓練を母胎に
人間修養を説く孔子やその弟子達の教団である、儒家。

さらには、その鬼子のような立場で、
人を法でまとめようとした商鞅・韓非子・李斯等、法家。等々。

で、こういう学術上の果実を最大限に吸収して富国強兵に活用したのが、
後述する秦ではなかろうかと思います。

 

 

5、王権の強化と食客

 

また、こうして弱肉強食による弱小国の淘汰が進行する過程で、
当然、王と貴族は揉めまして、

王様は戦争で勝って他国を併合してその国力・兵力で
国内の貴族に優位性を示すか、

あるいは、
食客と呼ばれる戦争・統治・外交等の即戦力の没落貴族を登用し、
権力・戦力の総合力を高めようとする訳です。

当時は、大国の貴族で食客を何名抱えたかが自慢の種になりましたが、
食客の数・質がそのまま名声や力に直結しました。

そして、こういう兵力につけ、経済力につけ、
数が勝負の戦いに推移していく過程で、

戦争指導の担い手も、

戦場で常に先陣を切る領主から、
今日の参謀本部で無数の情報を管理するタイプのプロの戦争屋に
移行していきます。

こういうのを「食客」として使い捨てにしたのが、
斉や楚等の大国でして、

孫武の他には、

戦国末期で言えば、
趙の李牧や秦の白起のような、
優秀であっても報われない将軍の人々は、

キャリアを見るに、
恐らく、こういう低い身分からの叩き上げの食客か
それに近い立ち位置に見受けます。

ですが、面白いことに、
いかに大人数をまとめる専業のプロとはいえ、

実際に兵隊の信用を得たのは
スマートに貴族然とした人よりも
兵士と寝食を共にした司馬穰苴のような人。

後に諸葛孔明がこういう人を必死に真似ようとしたのは、
中年になるまでマトモな戦争の経験がなかったことも
あろうかと思います。

そして、この300年弱にわたる長期総力戦の戦いの勝者は、秦。

実は秦も呉と同様の後進国でして、
兵器の質など、戦国の末期ですら他国より劣っていました。

ですが、商鞅以下、
長年にわたる雇った食客の命懸けの富国強兵策が結実し、

国内の動員体制は元より、戦争・権謀術数の双方のノウハウ蓄積にも成功し、
中原の王朝の同盟軍を破り、初の中国統一に成功します。

 

 

6、泥臭い漢代の内戦と三国時代への伏線

 

ところが、統一を急いだ秦は、始皇帝の寿命の短さも祟り、
先代の圧政の反動と二代目の失政で呆気なく滅び、

そのドサクサで身を立てた劉邦が興した漢が
後継王朝となります。

この過程で、反秦の旗頭になった楚の項羽と秦の戦い、
さらには、その部下であった劉邦との戦いも確かに熾烈でして、
話自体も非常にドラマ性があるのですが、

恐らくは、
この抗争自体に戦争のルールを変える程の革新性はなかったことで、
ここでは端折ります。

寧ろ、劉邦なんか、
統一後に自ら大軍で匈奴に当たり、
ボロ負けして捕虜になりかけるような有様。

その意味では、その後の呉楚七国の乱も、
王莽関係のゴタゴタも、
三国志の幕開けとなる黄巾の乱も、

大きな視点で見れば、

殺し合いのノウハウよりは、
国家や地域社会の権力構造に根差している部分の方が
戦力の決め手になる部分が大きかったように思います。

その意味では、

戦争というよりもむしろ、
三国時代の社会について何かしら考えるうえでは
参考になる部分が多そうな気もします。

例えば、前漢を滅ぼした王莽の新王朝に対して
開闢早々に赤眉の乱という反乱が起きましたが、

この支持母体というのが
南陽の劉氏(皇族)に連なる豪族でして、
王莽の集権的な政策を嫌っていました。

また、一連の軍乱における勝者・劉秀の
統一事業の戦力の中核を担った部隊は
後漢王朝の開闢後は対匈奴の前線に転属するという具合に、

後の、黄巾の乱や董卓の専横につながるような伏線が
既に見え隠れします。

さらには、兵隊の帰属意識も面白いものでして、
例えば王莽政権の部隊なんか、旗色が悪くなるとすぐ逃げるのですが、

長安の宮殿の防衛戦での戦いはその真逆で
非常に熾烈なものでして、

王莽の側近部隊は宮殿の奥まで退いて徹底抗戦し、
弓を射尽くした後、白兵戦で玉砕するまで戦いました。

王莽本人も乱戦の最中に戦死し、
斬った者も当初はその人と気付かなかったと言います。

赤眉の側にも似たような話はありまして、

自分に合流する勢力にはかなり寛容な劉秀も
さすがに兵乱を起こす政敵は武力で粛清しました。

この辺りの話は、

例えば蜀を滅ぼした鐘会が本国の魏に対して起こした反乱の時にも、
無理やり指揮下に組み込んだ兵隊の支持を得られず
失敗に終わった話を彷彿とさせるものがあります。

 

 

7、軍馬の育成も百年の大計

 

一方、衛青・霍去病等の度重なる外征については、
残念ながら私の勉強不足につき、
後日の機会に。

ただ、馬の話を多少しますと、

漢代の匈奴との戦争は、
高祖のチョンボ以外にも、
王莽が兵站でしくじったり李広利が投降したりしたものの、
概ね戦績は良かったことは注目に値します。

【追記】

北方の情勢については、私が不勉強なところがありまして、
2世紀に入った辺りから、かなり雲行きが怪しくなります。

具体的には、羌族の侵攻に手を焼いたことです。

それ以前も後漢王朝は羌族と
現在の甘粛省辺りで激しく対立していました。

さらに、後漢は捕虜にして長安以西の地域に移住させた者を
酷使し続けまして、

この人々が107年に酒泉で反乱を起こし、
後漢の鎮圧部隊を何度も破り、
そのうえ例年長安以西の地域(三輔や河東辺りまで来ます!)
で略奪を繰り返しました。

この反乱は117年頃には漢の勝利に帰すのですが、
戦火によって涼州・幷州は荒廃し、

さらに悪いことに、
以降、後漢滅亡まで度々このレベルの抗争が
何度となく勃発し、

鎮圧部隊の戦費横領等も祟って
後漢王朝の財政を蝕みます。

その他、北方では鮮卑や烏桓とも揉めており、
南方でも現在のベトナム辺りで反乱も起きましたが、
国境地帯での紛争の枠を出なかったように思います。

―軍馬の話に戻ります。

匈奴から随分多くの優秀な軍馬を分捕ったものの、

大半はこれらを前線で消耗品として扱い、
まして内地でブリーディングなどしなかったことで、
その怠慢のツケは非常に高く付きました。

まず、古来より、馬の生産・飼育自体が
農家にとって非常に大きな負担であったばかりでなく、

三国時代の動乱は、馬どころか人の食糧すら満足に賄えない中で
軍閥だの王朝だのが戦争に明け暮れ、
米や麦は元より、牛馬もひたすら消耗するばかり。

その結果、晋の統一直後の一連の軍乱で
北方の異民族の蹂躙を許すのですが、

この軍事的な主要因が馬の質の差にあったと言われています。

因みに、当然、当時、馬は高級品でして、

今の感覚で言えば、

自動車どころか、
毎月のようにディーラーでのクソ高いオイル交換の必要な
3ナンバーの外車のスポーツ・カーに相当すると言えます。

無論、庶民の乗馬なんか法的に認められていません。

 

 

8、史実でも返り血を浴びる群雄たち

 

以降、いよいよ三国志の話と相成ります。

さて、戦国時代以降の戦いは
強力な権力が大軍を動員する戦争につき、

不運にも戦死するようなことはあっても
最高指揮官が緒戦から陣頭に立つようなことはなかったように見受けます。

劉邦と項羽が対峙した際、
項羽を一騎打ちを申し出、それを劉邦が拒絶するという逸話が、
こういう風潮を示唆しているように思います。

ところが、面白いことに、後漢末からの三国志の時代は、
その幕開けは大抵は郡レベル、大きくても州レベルの地方官同士の抗争でして、

必然的に、少人数の小競り合いが各地で頻発する事態となります。

また、その内情も、
何万人も動員してもマトモに戦争したのは前線の何千人、何百人、
というような怠慢な戦いも少なからずあり、

この辺りは、戦国時代の風潮との逆行はおろか、
同時に、赤眉の乱や劉秀の統一戦争の時代と似た臭いも感じます。

そのような事情を反映してか、

曹操や袁紹、その他の軍閥の長や主だった将軍が
戦場で死に掛けるか実際に戦死する話が、
史書にすら何度も出て来ます。

特に、曹操の宿将など、

当人が国の半分を占領した以降の時代ですら、

高い身分にもかかわらず、
少人数で敵陣に飛び込んだり
陣頭指揮をしたりといった離れ業を
何度となく敢行しており、

夏侯淵や張郃等、
高い身分にもかかわらず、
蛮勇が裏目に出て戦死するケースすらありました。

誤解を恐れずに言えば、戦争の実相は、
意外に武狭小説の斬り合いに結構近かったのではないかとすら思えます。

逆に言えば、
それで勝てたり、あるいは、その種の蛮勇を振わざるを得ないような、
ありふれた兵学マニュアルの教則で割り切ることが出来ない
当時特有の背景を考えることがポイントになりそうに思います。

 

 

 

 

もっとも、次の時代―大体、孔明の北伐以降になると、
政府高官や君主の血縁の二世三世、
あるいは書生上がりのクレーバーな高等指揮官も増えたことで、
こういうのは減るのですが。

一方で、指揮官が小賢しくなったからとはいえ、

司馬氏への反乱に対する呉の介入戦争や
曹爽等が進めた外征、鐘会の蜀侵攻等をみる限り、

必ずしも無謀な戦争や用兵が減ったことを意味するものでは
なさそうな印象も受けます。

まあその、事の良し悪しはともかく、

新王朝の権力基盤が固まり、
文武百官のヒエラルキーが整えられるというのは、
物事が極端に振れることを嫌うことを示唆するのかもしれません。

 

 

9、三国時代までの戦争の概観

~兵書で戦争に勝てるのか

 

以上、中国の古来よりの戦争の有様について、
例によって無駄に長々と綴って来ました。

簡単にまとめれば、
以下のような話になろうかと思います。

戦国時代に大量動員のノウハウが一旦は確立したものの、
その後の内戦では、そうしたノウハウが必ずしも活かされたとは言い切れず、
むしろ、指揮官の蛮勇で戦局を逆転させるケースすら
少なからずありました。

この理由として、個人的には、
大量動員とドクトリンの実践とは別の次元の話で、
数の優位を活かす手立てが未熟であったことを想像しますが、

現段階では、私の浅学なアタマの中では、
それを裏付けるための材料が明らかに不足していますので、
今後の課題にさせて頂きたいと思います。

ただ、参考までに、
後世の話をすれば、

元々八陣図なんてのは実態のあるものではなく、
孔明は古来の奇書より怪しげなものを復元し、
それを妄信した武田信玄は村上や上杉に散々な目に遭わされ、

朝鮮の戦役では、
日本軍は当初は明軍のこの種のマス・ゲームに戸惑ったものの、
結局は陣形もヘッタクレもなく突撃を掛けたそうな。

さらに、それでボロ負けしたという話は聞きません。

そりゃ、儒教官僚共が孫子や六韜だけで戦争に勝てれば、
日本で今程ジンギスカン鍋なんか流行っていなかったと思います。

 

 

おわりに

~錯綜する集団戦と個人戦の幻影

 

さて、冒頭触れた御話の続きとなりますが、

私に貴重な示唆を与えて下さった方は、

三国志演義に出て来る武勇伝と
兵書に書かれているような集団戦の様相とのズレに興味を持ったと
おっしゃっていましたが、

斯く言う私自身も、
三国志の歴史を背景にした群像劇的な魅力に憑りつかれ、
一方で、史実との相違について興味を持った人間のひとりです。

それどころか、
偶然面識を得させて頂いた中国史の先生方の中にも
そのような方が少なからずいらっしゃいます。

そう、恐らくは、誰もが興味を持つ核心的で非常に重要な疑問なのでしょう。

ところが、この疑問について、
数々の研究で判明した部分は少なからずあるものの、

その裏側には、
近代的な戦争の常識や兵書の内容から考えれば在り得ないような
逆説的なことも
現実には少なからず起こっている訳でして、

その意味では、
残念ながら本質的な部分については
(私のような)素人が納得出来るレベルでは明らかにされていないのが
現状に思います。

―単に、私のパッチ・ワーク作業に穴が多いだけなのかもしれませんし、
今後もその穴を埋める作業に忙殺されることは確実ですが。

 

 

【主要参考文献】
宮崎市定『中国史(上)』
飯尾秀幸『中国史のなかの家族』
掘敏一『曹操』
金文京『中国の歴史4』
川勝義雄『魏晋南北朝』
沢田勲『冒頓単于』
湯浅邦弘 編著『概説 中国思想史』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』『武器と防具 中国編』
浅野裕一『孫子』
高木智見『孔子 我、戦えば則ち克つ』
貝塚茂樹伊藤道治『古代中国』
西嶋定生『秦漢帝国』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』各巻
小林聡「後漢の軍事組織に関する一考察」
宮川尚志「漢代の家畜(上)・(下)」
乃至政彦『戦国の陣形』
高島俊男『三国志 きらめく群像』

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後漢時代の男性の被り物アレコレ

はじめに

 

このところ、

三国志の幕開けの時期である後漢時代の服飾について
綴っている次第ですが、

今回もその話の一部、男性の被りものの御話です。

具体的な内容としては、以下の2点となります。

 

1、被りものそのものにまつわる暗黙のルールめいた話。
2、そして、何種類かの被りものの紹介。

 

 

 

1、髪が命な漢の男たち

 

まずは、当時の男性がモノを被る際の御約束とでも言いますか、
暗黙の了解のようなものについて説明します。

古代中国史の大家の故・林巳奈夫先生によれば、

髪の毛は人間の生命を活気付けるエネルギーの宿るところ
考えられていたそうな。

言い換えれば、元気の宿るところだからこそ
結って大切に包んでおく訳でして、

逆に、結われず露出しているのは、
放射性物質が放置されているのを発見したようなものと
考えてられていたようです。

したがって、髪を布で隠す習慣は、
身分を問いませんでした。

「放射性物質」だとか物々しい言葉が出て来ますが、
林先生の御説です。念のため。

こういう事情につき、

曹操の愛馬が麦畑を踏み荒らした際に
自分の髪を切ったのは、
恐らくは髡刑を意識してでしょうし、

中国関係のコンテンツで
髪を結わずに伸ばし放題の道士が出てくれば、

当時の習慣からすれば、
世捨て人の類であった、ということになりますか。

 

また、特に儒教が国教になった漢代以降は、

親からもらった体に傷を付けることは
「孝」に背くということを意味するので、

知識人が下をイジメてツケ上がったり
戦場で兵隊がよく逃げたりするのと並行して、

人々が髪を大事にする観念が
さらに強まったともの想像します。

 

 

2、被り物の色の決め事と黄巾の乱

 

髪にまつわる別の話として、
被りものの色と身分の関係が挙げられます。

具体的には、
被り物は冠や頭巾、帽子の類は、身分・職業等をあらわします。

よって、庶民が冠なんぞ被ったら刑罰モノでした。

また、色については以下。

 

青・・・下級役人(文献では「官奴」)
黒・・・召使・門番(文献では「童仆」)
白・・・下級役人、庶民(文献では「小吏」・「民者」・「百姓」)
赤・・・衛兵・兵士(文献では「衛士」・「武士」)

 

因みに、下級役人の中においても、
青と白とでランク分けされていたのでしょう。

で、こういう王朝の決め事を逆手にとった猛者共が、
かの黄巾の一党でした。

事実、漢王朝を実質的にぶっ壊した兵乱となったためか、
後の王朝がこぞって黄色い被り物をダブーにしましたとさ。

 

 

 

 

3、身分不問の被り物

 

長い前置きとなりましたが、
漸く被り物の紹介と相成ります。

男性の被り物全般に言える話としては、
形状と身分はあまり関係無かったようです。

身分や貧富の差が出るとすれば、被り物の材質や色でして、
庶民や貧民が麻や屑糸、富裕層は絹という具合。

色については、先述の通りです。

 

 

3-1 漢代の帽子、幘(さく)

 

それでは、まずは、当時の帽子に相当する幘(さく)を紹介します。

上のヘッタクソなイラスト以外にも、
この帽子には、本当にさまざまなパターンの形状があり、
そのうえ用途も広範です。

流行したのは紀元の前後が入れ替わる辺りからだそうな。

この幘、今日で言えば、カジュアルな服装と併用するキャップ
スーツと併用するフェドーラ等にも相当しますし、

当時の壁画を見る限り、

後頭部に廂(ひさし)の付いたものは、
農作業にも軍用にも使われています。

旧帝國陸軍の戦中の軍帽のような位置付けかもしれません。

 

 

3-2 髷・頭巾

続いて、髷(まげ)や頭巾の類について。
まずは、下記のアレなイラストを御覧下さい。

左側の緇撮(しさつ)と呼ばれる髷が
当時、花形とも言うべき男性の髪形であったそうな。

頭の上で髷を結い、頭巾で包み(くるみ)、
余った布は後頭部に垂らします。

で、必要に応じて、この上から冠を被ります。

因みに、「撮」は、中国語で「掻き集める」の意。

 

次いで、真ん中ふたつの綃頭(しょうとう)と呼ばれる頭巾。
イラストの字は、「頭」のチューゴクの書体です。

中共政権になって連中がアホな字を使うようになったおかげで
こっちが苦労させられる、などとウッカリ言うと、
私の不見識を問われるんでしょうねえ、やはり。

こういうのは、字引を使う際の主要な面倒事のひとつです。

 

―それはともかく、この「綃頭」とは何ぞや、
という問いに対して、

モノの本によれば、
陝北や甘粛の自治区の農業者が頭に巻く
羊の毛巾に似たものだそうな。

さらに、結ぶ場所は、頭の前後や額という具合に様々。

残念ながら、現存する現物や綃頭と思しき壁画の類を
見付けることが出来なかったことで、

陝北や甘粛の自治区の農業者が
こういうものを頭に巻く写真を参考にしました。

今で言えば、あくまでイメージとしてですが、

ストリートなミュージシャンや、
家系のラーメン屋さんが巻くような
シャレたターバンのようなものが近いのでしょうか。

一方、三国志や水滸伝のゲームに出て来る、
典型的なアウトロー型ファッションとでも言いますか。

 

最後に、イラストの右側の折上巾。

モノの本によれば、
髪を頭巾の中でオール・バックにするのだそうで
(「里髪向后」とありまして、まあその、ヘンな訳ですね)、

別名、「幞頭」(ぼくとう)と言います。

これは、漢代のものよりもむしろ、
隋唐以降のものが有名でして、
時代の変遷と共に何度となくモデル・チェンジしています。

そして、宋代に至っては、これに刺繍の入ったものが、
何と、趙匡胤等、皇帝様のアイテムに出世しております。

因みに、三国時代は袁紹が官渡の戦いで被り、
皆がこれを真似したそうな。

凹んだ冠を直さず被った荀彧、奇抜な頭巾や鉄兜を被った孔明、曹操等、
当時の英雄はファッション・リーダーでもあったようです。
―ホントかよ。

もっとも、周囲が権力者に阿って真似たのが、
そのまま流行になっただけかもしれませんが。

で、そういう事情を鑑みるにせよ、
漢代の折上巾の形状にも興味がありまして、

現物の写真や壁画の類を探したのですが、
残念ながら、これまた見付ける能わずでして、

色々考えた末、
映画やドラマで関羽が被っている頭巾が
モノの本に書かれている形状に一番近いように思いまして、
そのまま描いた次第です。

間違っていたら本当にすみません。

 

 

3-3 笠

 

続いて、笠について。
これは、管見の限りでは2種類あったようです。

まずは、アレなイラストを御覧下さい。

左側は、まあその、
日本でも、前近代の農作業に加えて、チャンバラの渡世人の三度笠等、
時代劇の小道具としてはそれなりに馴染みのあることで、
簡単に、「蓑笠」(みのがさ)としておきます。

モノの本によれば、
中心が隆起しており周囲には廂がある、とのこと。

天下の鄭玄先生によれば、雨よけに使ったんだそうな。
当然と言えば当然なのですが。

その他、農作業の際の日除けにも使われました。
今で言えば、夏場のアウト・ドアの必須のアイテムだったのでしょう。

イラストはこれら情報を元に、隋代の絵画を参考にしました。

残念ながら、こういう大きくて劣化し易い消耗品は、
中々1800年も残ってくれないようです。

因みに、六朝時代の絵画には、
中心の抜けたシャンプー・ハットのようなものもありましたので、
あるいは、当時から色々形状があったのかもしれません。

 

次いで、右側のイラスト・氈笠(せんりゅう)。

これは羌族の笠がこの時代に漢の地に伝来したものです。

これも当時の資料を見付けられず、
時代は不明ですが、それらしい現物の写真を書き写しました。

以前の日記にも触れましたが、
こういう具合に所謂「異民族」の雑貨が中原に流入する傾向は
その後の三国鼎立の時期以降には一層拍車が掛かります。

 

 

おわりに

 

さて、これまで、

帽子にまつわる暗黙の決まり事と、
それを前提として、色々な被り物を紹介しましたが、

何分、後の世に比して、
まだ漢民族の文物という側面が比較的強く、
さらには国体が崩壊する前の状況という事情もあります。

と言いますのは、
例えば、「胡服」という観点から見れば、
先述のように、この時代以降は、
主に北方民族の文物が中原の地に怒涛の如く雪崩れ込みますし、

政体という点では、
職業・身分で被り物の色が決まっていたにもかかわらず、

三国志の口火を切る黄巾の例もあれば、
滅亡直前の呉には、
「丹陽青巾兵」という精鋭部隊も存在しました。

この「丹陽青巾兵」は、
文字通り、頭に青い布を巻き、鎧は着用せず刀と盾で武装するという、
恐らくは平地で密集隊形で襲撃して来る騎兵や弩兵との戦闘は想定外であろう
典型的な南方の兵隊の武装です。

漢の世では、兵隊の被り物は赤でなくてはならなかった筈ですが、
最早、そうした決め事が無効になって久しいことを示唆する
事例のひとつに思えてなりません。

 

 

【主要参考文献】

林巳奈夫『中国古代の生活史』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
朱和平『中国服飾史稿』
馬大勇『霞衣蝉帯 中国女子的古装衣裙』
周錫保『中國古代服飾史』
湯浅邦弘 編著『概説 中国思想史』

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