前漢斉王墓出土の札甲 ~劉永華『中国古代甲冑図鑑』を中心に その3

はじめに

今回は、前漢西王墓出土の札甲の
紹介記事の最終回。

前回までに網羅出来なかった
冑(兜)の御話で御座います。

―「近いうちに」とは書いたものの、

蓋を開ければ2週間を越え、
大変申し訳ありません。

口ならぬ、予告は災いの元、
かしら。

1、冑の全体像

それでは、早速、
モノを見ることとします。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」、劉永華『中国古代甲冑図鑑』より作成。

このアレな図は、

高橋先生の論文
掲載されていた
復元品と思しき図
その解説と、

『中国古代甲冑図鑑』
掲載されていた展開図
その説明を元に
描き起こしたものです。

なお、高橋先生の論文は、
以下のアドレス(論文検索サイト)より
論文名や著者名等で
検索を掛ければ
PDFでファイルが入手出来ます。

ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

毎度、同じようなことを
書いていますが、
このサイトを
初めて御覧になる方々の為。

因みに、冑には
甲片に装飾はありません。

以前の記事でも触れましたが、
前漢斉王墓からは
同じタイプの鎧が
2領出土しまして、

そのもう片方、つまり、

前回に説明した鎧と
同型ながら
甲片に装飾のない
「素面甲」と呼ばれるものと
一組となる冑なのだそうで。

続いて、
甲片の繋ぎ方
後述しますが、

展開図を見る限り、
前回に説明した鎧と
同じ方法です。

また、高橋先生の論文の
復元品と思しき図には
下辺と上辺に縁取りがありました。

冑と鎧の本体が
同じ構造であれば、

冑の縁取りは、
皮革を織物で包んだ裏当てだと
思います。

因みに、上辺には
かすかに
ギザギザになっており、

高橋先生の論文によれば、
繊維質のものが
付着していたそうで。

また、残念ながら、
下辺の縁取りの詳細は
分かりません。

その他、頭頂部は
になっています。

穴を織物で覆ったのか
その他の装飾があったのかは
残念ながら
分かりかねます。

【雑談】冑の穴の理由を想像する

想像と言いますか、
根拠に乏しい妄想話の類です、
一応。

因みに、前漢以前の
冑の出土品や復元品は、

例えば、周代の銅製の鋳型で
装飾の施されたもの、

春秋時代の
甲片を繋ぎ合わせた皮冑、

戦国時代の燕より出土した
鉄製の甲片を繋ぎ合わせたもの、と、

いくつかあるのですが、

自身が浅学なだけ
かもしれませんが、

サイト制作者が知る限り、
頭の形にフィットするタイプしか
知りません。

さらに、後漢の鮮卑と思しき墓からは、

やはり、
「蒙古鉢形冑」と呼ばれる、

冑の本体の形は砲弾型
頭頂部に半球の蓋があり、

後頭部の覆いが浅く
項(うなじ)が
裸になるタイプのものが
出土しています。

この辺りは、
先述の高橋先生の論文が
詳しいので、

PDFで復元図を御覧頂ければ
分かり易いかと思います。

以下は、
あくまで主観と想像ですが、

こうした
高さを求める理由として、

あくまで想像ですが、

当時の男性の
重要な身嗜みである
髷を納める工夫の
ひとつではないか、

と、思う次第です。

図解すると、
このようになろうかと。

そして、鮮卑の墓から
出た理由は、

漢の鉄の加工技術の高さから、

漢よりの渡来品では
なかろうか、と、想像します。

それも、王墓と思しき墓より
出土した、

甲片の小さい魚鱗甲タイプで
漢で言えば王が纏うレベルの
札甲につき、

その調達は、
交易ではなく
政治絡みの話かもしれません。

さて、ここで、
北方の習俗について少々触れます。

『後漢書』南匈奴列傳
「烏桓」の項には、

父子男女相對踞蹲。
髡頭為輕便。

父子男女相對し踞蹲す。
髡頭を以て輕便となす。

踞蹲(きょそん):うずくまる。
(字引の典拠がこの部分!)
髡(こん):頭を剃る

と、あります。

文脈や字引の内容から、

「男女」は息子と娘
解釈します。

で、性別を問わず、
父親の立ち合いで
髪を落して身軽になる、

という話か。

因みに、女性の場合は、

「嫁時乃養髮、分為髻」と、
あります。

「髻(けい)」は髷(まげ)。
頭上や後頭部に結うものです。

よって、

嫁いだ時に伸ばして
分けて纏める、

という話かと思います。

さらに、肝心な
「鮮卑」の伝は以下。

其言語習俗烏桓同
婚姻先髡頭

その言語習俗を
烏桓と同じくす。
ただ、婚姻に先んじて髡頭す。

要は、鮮卑は婚姻の前に髪を剃り、

烏桓はいつ髪を剃るのかは
正確には分からないものの、

女性が嫁ぐ時に伸ばす
ということは、

未婚の段階で行う、
という話かしら。

訳が悪いうえに
話が回りくどくて恐縮ですが、

詰まる所、

丈の長い冑が出土した
鮮卑の土地には、

成人の男性には
髪を結う習慣がない訳です。

で、そこに、
どういう訳か、

髷を納めるための
のっぽな兜が
王墓の副葬品として
存在した、

という、サイト制作者の仮説、
と言いますか、
妄想の類の与太話。

因みに、漢民族はその真逆。

あの曹操も自分の頭をやった
髡刑というのがあります。

この辺りの話は、
故・林巳奈夫先生
『中国古代の生活史』
詳しくあり。

それはともかく、

察するに、
一昔前の話で言えば、

左ハンドルの外車を
輸入する感覚に
近いのかなあ、と。

モノが良ければ、

土地の事情の違いに起因する
実用性に欠ける機能も
そのままの形で入って来る、

という御話と推察します。

その他、
以下も重要な点だと思いますが、

冑が高さを要する工夫が
何故、前漢以降に施されたのかは
残念ながら分かりませんので、

この話は、
これ位にさせて頂きます。

【雑談・了】

2、冑本体の甲片

それでは、以降、

斉王墓出土の冑の
部分ごとの
甲片の繋ぎ方について
触れます。

まず、本体の甲片の繋ぎ方は、
以下のようになります。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」、劉永華『中国古代甲冑図鑑』より作成。

判明している部分は、

高さ5.3cm、幅3.7cm
という大きさと、
縦横の甲片の
規則的な配列だけです。

なお、実線は、に来る甲片、

破線は、そのにある、
―言い換えれば、
内外で重複する部分
意味します。

配列について言えば
前回触れたような
鎧と同じ構造です。

具体的には、

まずは、中央の甲片を決め、

その左右の甲片は、

中央側の甲片と結ぶ側は
内側に入れ、
その横の甲片に繋ぐ側は
外に出します。

こうして横一列になった甲片を
環状にし、

これを3列用意するのですが、

(あるいは、
3列を上下で繋いだ後に
環状にするか)

上下に繋ぐ際は、
下段を外側に出します。

穴の位置については、

先述の高橋先生の論文に
掲載されている復元図より
大体の位置が分かる、

―具体的に言えば、

上下左右の真ん中、
という程度のことで、

前回のようなミリ単位での
推測はあきらめました。

もっとも、どの鎧や冑にも
言える話かもしれませんが、

復元品の写真や
『中国古代甲冑図鑑』の
展開図等を見る限り、

段数や横の枚数が
狂わない程度には、

公差めいた
甲片の大小のバラつきは
少なからず
あるような気がします。

3、耳当ての甲片

続いて、耳当ての部分の
甲片の繋ぎ方は、
以下のようになります。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」、劉永華『中国古代甲冑図鑑』より作成。

作成の要領は
先のものと同じで、

『中国古代甲冑図鑑』の展開図に
近所のモールの文具屋さんで
小銭で買った定規を当てて
計測した、と、称する、

如何にも、
サイト制作者のような
いい加減な文系脳のやりそうな
原始的な手法です。

したがって、
表中の数字は、

あくまで
サイト制作者の推測です。
悪しからず。

さて、耳当ての最上段は、

甲片を本体と上下が逆
千鳥(ジグザグ)
繋がれています。

また、一番後ろに当たる甲片は、
横に0.5枚程度広いもの
宛がわれています。

さらに、下の段には、
下段側を内側に繋ぎますが、
千鳥にクロスさせずに、

真下の甲片と
上下で垂直になるように
繋ぎます。

おわりに

最後に、例によって、
今回の記事の内容を
以下に纏めます。

1、冑の甲片には装飾はない。

2、冑の本体の構造は
鎧と同じである。

つまり、中央の甲片を決め、
両側に繋げたものを複数用意し、
これを上下に繋ぐものである。

3、冑の頭頂部は穴になっている。

4、冑の上下辺は縁取りされている。
内部も鎧と同じ構造であれば、
裏当てがされていた可能性が高い。

5、耳当てについては、
甲片の並べ方は本体と逆である。

その他、本体と耳当てとの接合部は
千鳥で繋ぎ、
耳当ての上下は垂直に繋ぐ。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
劉永華『中国古代甲冑図鑑』
楊泓『中国古兵器論叢』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」
林巳奈夫『中国古代の生活史』
范曄『後漢書』
戸川芳郎監修『漢辞海』第4版

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前漢斉王墓出土の札甲 ~劉永華『中国古代甲冑図鑑』を中心に その2

はじめに

今回は、前漢斉王墓より出土した
札甲の図解の2回目。

前回の周辺環境の網羅に
引き続いて、

今回は、
この鎧の構造に迫ります。
残念ながら、
想像の部分も多いのですが。

1、鎧の全体図
1-1、鎧の類型と裏当て

早速ですが、
以下が全体図です。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』、楊泓『中国古代兵器論叢』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」より作成。

復元品の写真は、

例えば、
百度一下さん等で
「斉王墓 札甲」
画像検索を掛けると
出て来るのですが、

実に艶やかなものです。

さて、全体の形状としては、
垂縁(裾)・肩(けん)甲付きの
魚鱗甲タイプの札甲、
と、言ったところでしょうか。

また、前回触れた
劉永華先生の類型で言えば、

「脇閉じ式」に相当し、

着用者から見て
右側の鎖骨1箇所と
脇2箇所を紐で留める
仕組みとなっております。

因みに、この紐は
絹だそうな。

また、裏当てや縁の部分は、

前回触れたように、

織物で包まれた裏当てを
鎧の裏側に宛がいます。

サイト制作者は、

図にあるように、
織物の縁が
鎧の甲片の縁を覆うものと
理解しています。

図の上部の
コーティングの構造図は、
大変恐縮ですが、
サイト制作者の想像図
ということで御願いします。

それでは、以下、

鎧の上の部分から
各部位ごとに
細部まで見ていくこととします。

1-2、肩部

所謂、披膊(はく)と呼ばれる
部位です。

身甲(胴体の部位)の肩部と
肩甲の双方を
「披膊」と呼称して
良いものかは
分かりかねますので、

ここでは、肩部と肩甲は
別の部位として扱います。

そのうえで、
まずは、(身甲の)肩部について
触れます。

まず、肩部の甲片は
横長の甲片で編まれ、
枚数は横4列×縦11・12段。

着用者から見て
右側が1段多いのは、

着脱のための
開口部の遊びを
確保するためだと思いますが、

確証はありません。

復元写真では、
鎖骨部分は
左右平行になっていました。

1-3、肩甲の甲片の装飾

さて、件の披膊―肩甲について。

その甲片の形状は、

身甲(胴体部分)と同じものを
使用しています。

開口部を
重点的に描きたかったことで、

遠近法の関係で
各部位ごとの
甲片の面積の比率が
かなり歪(いびつ)になり、

その旨が
分かり辛くなったことで
大変恐縮です。

さて、甲片の装飾は、
大別して3種類あります。

まず、アレな図中の
黄土色のものは、なんと、金片。

―とはいえ、

時代柄、金と同義であった
銅の可能性もあります。

決して馬鹿にした話ではなく、
銅自体が貴重であった、
という御話です。

そして、白色の装飾の甲片は
銀片です。

これも、ホンモノの銀か否かは
分かりかねますが、

少なくとも、
それを模した貴重金属だと
思います。

で、この金片・銀片を
甲片の中に菱型に描き、

その縁を朱色に色付けしたか、
あるいは朱色の紐で
縁取るというもの。

この辺りは、
文献やネット等の
復元品の写真が小さいこともあり、
残念ながら詳細が分かりません。

そして、3種類目の甲片は、
紐で装飾の施されたものです。

ふたつの菱が上下にずれた形で
編まれたものです。

『中国古代甲冑図鑑』
展開図に描かれていた甲片を
模写すると、

以下のようになります。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』に掲載されていたp51の甲片の図を模写。

劉永華先生によれば、

これ自体は装飾に過ぎず、
実用的な機能はないとのこと。

甲片の穴は、
接合と装飾で
共用しているものと
想像します。

続いて紋様ですが、

まず、金片・銀片の紋様が
規則的な配列で
大きな菱型を形作っています。

そして、その間隙を
二重の菱の甲片が埋める
というものです。

また、この紋様は、
背面にも続いていまして、

肩部を除いた身甲部位の
上から9段目以降より
施されています。

1-4、甲片の繋ぎ方の基本

この部位の最後に、

甲片の繋ぎ方について
触れます。

その前に、

どの部位であれ、

古代中国における
甲片の繋ぎ方には
基本的な作法があります。

これは楊泓先生の請売りで、
以前の記事でも触れましたが、

一応、サイト制作者の
忘備を兼ねて、
復習することとします。

まずは、以下のアレな図を
御覧下さい。

楊泓『中国古兵器論叢』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

これは、秦代の歩兵用の鎧
有名な咸陽の兵馬俑模写です。

特に、図中の上の真ん中の
作り方の手順を
注目して頂きたく思います。

まずは、鎧の前面の中心の
甲片を設定し、

左右に甲片を繋いで
横一列の甲片を作ります。

そして、これが身甲であれば、
環状に繋ぎます。

さらに、こうして
横一列に繋いだ甲片を
複数本用意し、

それらを縦に繋ぐことによって
各々の部位に
仕立てる訳です。

その際、甲片を固定性にして
堅牢にしたければ
上段の下辺を外側に出し、

可動性を持たせたければ、

その逆、つまり、

上段の下辺を内側に、
下段の上辺を外側にして
上下を接合し、

鎧の外側にを施します。

そして、幸いなことに、

今回の斉王墓の札甲も、

基本的な甲片の繋ぎ方自体は
この鎧と大差ありません。

1-5、可動性のない肩甲

それでは、この流れを受けて、
披膊の甲片の
繋ぎ方に入ります。

これも、上記の法則通りの
繋ぎ方で、

上段の下辺と
下段の上辺を繋ぐという
可動性のものです。

図解すると、
以下のようになると思われます。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』、楊泓『中国古代兵器論叢』 高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」より作成。

実線一番外側に来る
甲片の部分、
破線はその内側に隠れる部分です。

そして、緑の枠の部分の穴は、
その左や上の甲片の穴と
重複しています。

また、残念ながら、
甲片の大きさは分かりませんで、

図中の数字は
相対的な比率です。

で、このような形で、
1段当たり
17枚の甲片を要し、

これが10段で
構成されています。

『中国古代甲冑図鑑』
展開図に添えられた
1cm四方の甲片の図に
定規を宛てて
ミリ単位で測るという
極めて原始的な手作業につき、

残念ながら、
厳密なものではありませんが、

幸か不幸か、
復元品の甲片も、

その大きさや
上下左右の配列には、
列を崩さない程度に
少々バラつきがあります。

さて、この部位ですが、

甲片の上下の配列は、

身甲のそれとは異なり
千鳥(ジグザグ)ではなく、

素直に真上・真下の甲片と
繋がっています。

この辺りは後述します。

また、面倒なことに、

甲片の繋ぎ方自体は
可動性を持たせるものですが、

紐が甲片の表側に来る
縅(おどし)にはなっておらず、

高橋工先生によれば、
可動性はありません。

その理由として、

織物に包まれた
皮革製の裏当て
あるからです。

これはサイト制作者の想像ですが、

甲片を大きく湾曲させるために
こういう繋ぎ方をしたのかも
しれません。

2、身甲の甲片の繋ぎ方

ここでは、
身甲部位について触れます。

鎧の類型は脇閉じ式、
肩部や甲片の装飾は先述の通り、
ということで、

詳述すべきは
甲片の繋ぎ方になろうかと
思います。

早速ですが、
文献の内容や
復元品の写真からして、

サイト制作者は
以下のような繋ぎ方を想像します。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』、楊泓『中国古代兵器論叢』 高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」より作成。

鎧の裏側の
紐の繋ぎ方が分からないので、

残念ながら正確なことは
言えないのですが、

復元品の写真
鎧の表側における
紐の縫い目の位置や、

先述した甲片の繋ぎ方の
法則から言えば、

図中の緑の枠の部分が
接合部分だと思います。

無論、まずは、

横列―つまり、
甲片の両側の上下の穴で
固定したうえで、

横一列になった甲片同士を
縦に繋ぐ手順となりまして、

その際、

上下(斜め下)の
接合部分の穴の位置が
若干横にずれていることで、

この辺りは多少、
遊びになっている、

―言い換えれば、
緩くなっているものと
想像します。

実は、サイト制作者自身、

最初にこの図を
描き起こした時に
各々の甲片の
穴の位置がぴったり合わず、

どのように理解したものかと
悩みましたが、

楊泓先生の説く
先述の鎧の構造を思い出し、
以上の結論に至りました。

で、このような繋ぎ方で
1段当たり
上段66枚、
下段67枚の甲片を
ジグザグで編みます。

その際、

前面の中心の甲片が突起し、
背面の中心の甲片が
凹むのですが、

上下の甲片を
ジグザグに編むことで、

当然ながら、
中心の甲片も一直線にはならず、
自ずとジグザグになります。

魚鱗甲の構造を把握するうえで
面倒な部分のひとつだと思います。

それはともかく、

この繋ぎ方で、
胸部5段と腹部15段で構成され、

その中で、
最上段と一番下の段の甲片には
装飾がありません。

また、ジグザグで編まれて
下段が1枚多くなる代わりに、

左右両端の甲片を
各々の横の半分を端折ることで
上段と幅を合わせています。

3、垂縁
3-1、全体図と重要箇所

最後に、裾部分に相当する
垂縁について触れます。

これも、最初に図を見て頂いた方が
分かり易いかと思います。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』、楊泓『中国古代兵器論叢』 高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」より作成。

これは、鎧の前面中心部分の
身甲の一番下から
垂縁の下辺までの図解です。

これも残念ながら
サイト制作者の
想像図に過ぎません。

その意味では、

裏側の紐の結び方迄は
分からず、

甲片の配置も
正確ではない
かもしれませんが、

甲片の位置関係や縅の位置は
これで間違いないかと
思います。

一方で、

多くの甲片が
混在することで、

それを再現しようとして
薄い配色が多くなり、

結果として
見辛くなり大変恐縮です。

さて、この図のポイントは、
大別して以下の3点。

1、身甲と垂縁の接合
2、垂縁の甲片同士の接合
3、垂縁の縅の位置や縫い目

それでは、
各のポイントの説明に入ります。

3-1、複雑な構造の接合箇所

まずは、1、身甲と垂縁の接合。

実は、ここが本稿でも
一番難解な部分につき、

サイト制作者の想定する
手順を追って
綴ることとします。

まずは、先に挙げた
怪しい図面の一部の
配色を変えました。

前掲図の一部を加工。

まず、甲片の構成について。

身甲の一番下の段の甲片があり、
図中のオレンジの部分です。

これは先述のように、
横の繋がりが軸で、
左右の甲片は
中央側の片側が隠れています。

次に、これらの甲片の
表側に来るのが
垂縁の最上段の甲片です。

図中の水色2種類の部分。

これも、身甲の甲片と同じく、
左右の甲片の中央側が隠れます。

で、この身甲と垂縁の甲片の
接合の際、

ポイントとなるのが、

各々の部位のどの甲片が
中心となるのか、です。

結論から言えば、

図中の一番濃い配色の甲片です。

つまり、真ん中の赤色の甲片
その右下の青色の甲片、
と、なります。

で、この両者を
縅で繋ぐ訳ですが、

この繋ぎ方が少々複雑です。

まず、身甲の甲片の下辺には
縦にふたつ穴があります。

この上側の穴と、
垂縁最上段の
上辺の左側(中央寄り)
を繋ぎます。

次いで、下側の穴は、
位置関係からして、

垂縁最上段の中心の
左側の甲片の
上辺の右側(中央寄り)
を繋ぐものと思われます。

断定出来ないのは、
鎧の甲片の裏側まで
見ることが出来ないからです。

このような要領で、

身甲の甲片の左側も
同じ手順で繋ぎます。

因みに、右側については、
先程の手順と
左右が逆になります。

具体的に言えば、

身甲下辺・上部の穴と、
垂縁最上段・
右側(外寄り)の穴とを
繋ぎます。

また、身甲下辺・下部の穴は、

垂縁最上段の
中央のすぐ右側の甲片の
上辺・左側(中央寄り)と
繋ぎます。

要は、身甲下辺の
1枚の甲片から紐を2本出し、
その真下の左右の甲片を繋ぐ、

―という仕組みです。

3-2、垂縁の甲片と縅

次いで、
2、垂縁の甲片同士の接合、
について触れます。

先程の説明が長くなったことで、
垂縁の図を以下に再掲します。

前掲の図を再掲。

この部分ですが、
甲片の配列は
披膊の甲片と同じパターンで、

方形の甲片の横列を
そのまま真下の甲片に
繋げます。

ただし、繋ぎ方が
少し変わっていまして、
これは後述します。

また、一番下の甲片
少々縦長のものを使います。

当然ながら、
その下辺には穴がありません。

最後に、
3、垂縁の縅の位置や縫い目、
について。

ここが、披博の甲片の繋ぎ方との
最大の違いです。

具体的には、を用います。

先の図中の灰色の線でして、
分かり辛くて恐縮です。

要は、身甲下辺から出た糸
各段の垂縁上端の穴を
結ぶのですが、

その際、
ふたつのポイントがあります。

1、紐が鎧の外側を通る。
2、垂縁の甲片の下端と
真下の甲片の上端の穴の位置が
重複する。

1、は、縅たる所以。

縦糸が鎧の表側と通る形で
垂縁の上辺から下辺までを繋ぎ、
鎧の裾に可動性を持たせます。

そして、2、の甲片の配列を、
1、の方法で繋ぐという訳です。

もっとも、前回触れましたように、
直立の姿勢であれば、

裾は広がらない
円筒形なのですが、

肝心な裾がどれ程広がるのかは、
非常に残念ながら分かりません。

おわりに

最後に、今回の記事の要点を、
整理します。

加えて、大変申し訳ありませんが、

この鎧に附属すると思われる
冑(兜)については、
近いうちに別に記事を用意します。

1、各部位共、甲片の繋ぎ方は、
横一列に繋いだものを
縦に繋ぐという構造である。

2、披膊・垂縁の甲片は、
垂直に編まれている。

ただし、垂縁の縦列の接合は
縅で行われ、
可動性が付与されている。

3、身甲と披膊の甲片は同じで、
甲片の装飾は3種類あるが、
装飾自体に実用性はない。

また、これらを規則的に配置し、
大型の菱を形作り、
背面にも同じ紋様が並ぶ。

4、身甲の甲片は
上下でジグザグに
編まれている(魚鱗甲)。

また、ジグザグの甲片の多い段では
左右の甲片の半分を削ることで、
上下の幅を調整している。

5、身甲と垂縁の接合部は、
ひとつの身甲から
左右に糸を出すことで
下段の甲片を繋いでいる。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
劉永華『中国古代甲冑図鑑』
楊泓『中国古兵器論叢』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』
篠田耕一『武器と防具 中国編』

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前漢斉王墓出土の札甲 ~劉永華『中国古代甲冑図鑑』を中心に その1

はじめに

そろそろ、
以前約束した鎧の話
一度挟みます。

今回は、前漢時代の
斉王墓から出土した
魚鱗甲タイプの札甲について
見ていこうと思います。

もっとも、劉永華先生
『中国古代甲冑図鑑』の内容が
大半につき、

いっそのこと
文献紹介にでもしようかとも
考えましたが、

記事の目的
鎧の観察にあることと、

周辺の事情の説明もあり、

こういう半端な題目
なった次第です。

この御本を紹介して頂いた
読者の方には、改めて、
厚く御礼申し上げます。

一方で、図解の作成にも
時間が掛かりそうなことで、

大変申し訳ありませんが
続き物にさせて頂きます。

今回は、斉王墓札甲
鎧としての類型や、
展開図を通じた
部位の区分等について
触れます。

それでは、本文に入ります。

1、斉王墓より出土した札甲とは?
1-1、先に掲載した図解の添削

今回観察を試みるのは、
以下のタイプの鎧です。

楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。漢~魏晋時代の鎧のパターン

実は、以前の記事でも
何度か触れたのですが、

今回、細部まで描くために
文献を読み直して
腰を落として
何枚か写真を観察したところ、

恥ずかしながら
現段階で判明しているだけで
3箇所も誤りがありまして、

このように
添削させて頂くことと
相成りました。

深く御詫び申し上げます。

多少なりとも、
鎧の観察の御参考になればと
思います。

ヘンな構図で描いた
バチが当たったのでしょう。

因みに、この辺りの話は、

高橋工先生の論文、
「東アジアにおける
甲冑の系統と日本」
に詳しく記されています。

PDFでダウンロード可能です。

ttps://ci.nii.ac.jp/
(1文字目に「h」を補って下さい。)

まず、(兜)ですが、

図の赤枠にある通り、
最上段は前面のみ甲片があり、
頂上は開いています。
内部で布等で覆う模様。

また、披膊は可動性がありません。

この部分は
少しややこしいのですが、

現物を見ると、
甲片の繋ぎ方自体は
可動性―、

つまり、上段の甲片の下端を
外側に出す形で
下段の甲片の上端に繋ぐ
タイプではあるものの、

披膊の内側に
割合堅い裏当てが
施されていることで、
(詳細は後述)

それ程曲がらない、
ということなのでしょう。

したがって、
図のようなポーズは
恐らく難しい訳です。

1-2、出土品の履歴

さて、この種の鎧ですが、
同じタイプ
(前開きではなく
鎖骨と脇を紐で縛る
魚鱗甲タイプの札甲)
と思われるものが
計3領あります。

内、2領は、
山東省臨淄県大武村の
前漢斉王墓第5号から
1979年に出土したものです。

で、その1領は、
鎧の甲片に装飾が施されたもの。

もう1領は、
「素面甲」と呼ばれる
装飾がないものです。

さらに、冑も出土していまして、
これは甲片に装飾がなく、
素面甲と一対
言われています。

因みに、

これに付随して
斉王劉襄の没年が
前179年

劉襄は高祖の孫で、
子がなかったことで、

死後、絶国となるところを
皇帝の恩恵で分国されます。

察するに、
斉国のピークの時代の墓、
ということになりますか。

この辺りの経緯は、

入手し易い本では、

例えば、西嶋定生先生
『秦漢帝国』等を御参考に。

また、残りの1領は、

広州の前漢・南越王墓よりの
1983年の出土品。

南越の鎧は、後でチラと
図を載せます。

因みに、復元されたものは
身甲(胴体)のみで、
披膊(腕)と垂縁(裾)は
ありません。

なお、『中国古代甲冑図鑑』によれば、
この墓の建造が
紀元前128~111年
とのことですが、

どうも、元の論文である、

『考古』1987年9期
中国社会科学院考古学研究所
技術室・広州市文物管理委員会
「広州西漢南越王墓出土
鉄鎧甲的復原」

よりの引用に見受けます。

これに因みまして、
斉王墓の方の論文は、
『考古』1987年第11期
山東省臨湽博物館・
臨湽文区管所・
中国社会科学院
考古研究所技術室
「西漢斉王鉄甲冑的復原」

と、思われます。

―で、サイト制作者は、未だ、
入手出来ずにいまして、

相互貸借等も時節柄
利用しにくいことで、

非常に残念ですが、
今後の課題とさせて頂きます。

アクセス出来る
ツテのある方のために、

せめて存在だけでも
御知らせ致します。

2、漢~魏晋時代の鎧のパターン
2-1 劉永華先生の区分

以前の記事で、
漢代から魏晋時代の鎧について
いくつか触れましたが、

劉永華先生が
『中国古代甲冑図鑑』で
そのパターンの整理
行っていらっしゃいます。

これが興味深いのものでして、
その模写を以下に掲載します。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』、楊泓『中国古代兵器論叢』より作成。

さて、劉永華先生は、

漢代から魏晋時代までの鎧を、
脇閉じ式・前開式・套(とう)衣式の
3種類に分類されています。

で、下段の3種類の鎧が
各々の形式の一例でして、

これは僭越ながら
サイト制作者が選びました。

とはいえ、ほとんど
選択の余地がありません。

まず、脇閉じ式ですが、
これは先述した
斉王墓と南越王墓の副葬品。

埋葬されたと時期としては、
前漢の前半から中頃のもの
ということになります。

次いで、前開式ですが、

図解にある鎧は、
武帝の弟で劉備の先祖の
中山靖王・劉勝の墓よりの
出土品の復元図の模写です。

河北省満城県より
1968年に出土したものです。

絵が潰れていて
分かり辛くて
大変申し訳ありませんが、

披膊が筒袖になっており、

垂縁にも
似たような形状の縅
施されています。

また、鎧のタイプの分類も
一様ではありませんで、

先述の脇閉じ式の3領と
この鎧を「魚鱗甲」とする
分類もあります。

因みに、劉勝の没年は
前113年。

2-2、魏晋時代の筒袖鎧を想像する

最後の形式・套衣式ですが、

残念ながら、
モデルは現物ではなく

いくつかの文献を読む限り、
この時代より出土した現物は
ありません。

そうした事情を受けてか、

劉永華先生が選んだものは
河南省偃師県杏園村より
出土したものの模様。

先生の見立てによれば、
筒袖・魚鱗甲タイプで
垂縁も縅が表に来る可動式。

ただし、着脱は後ろで行う、
というもの。

因みに、サイト制作者は、
晋代の俑の写真からは
これが想像出来ず、

伯仲先生の
『図説 中国の伝統武器』
にあるように、
脇閉じ式かと
思っておりました。

とはいえ、双方共、
出土品の状況や史料に基づいた
具体的な根拠を
示していないことで、

サイト制作者としては
双方共、可能性はある、
という程度の認識です。

ここで、余談ながら、

大体、このタイプの
鎧だと思うのですが、

三国時代の筒袖鎧について
同書に『南史』殷孝祖に云々、
と、ありまして、ああ、これかと。

禦仗先有諸葛亮筒袖鎧、鐵帽、
二十五石弩射之不能入

仗を禦(ふせ)ぐに
まず諸葛亮筒袖鎧、鐵帽あり、
二十五石弩之を射るに
入るあたわず

仗は刃物の付いた兵器の総称、
石は要は矢の威力ですが、

25石はかなり強力なもので、
漢代の平均の倍以上のレベル。

これで有効打を与えられなかった
という訳です。

兵器の考証については、
入手し易い本としては、
篠田耕一先生の
『武器と防具 中国編』
御参考まで。

さらに、劉永華先生によれば、

魏晋時代は鎧の形状には
左程進展が見られなかったものの、

鋼材は別で、
炒鋼法と百錬鋼の合わせ技
堅いものが出来たそうな。

下記の図を御参考に。
以前に掲載したものです。

趙匡華『古代中国化学』・篠田耕一『武器と防具 中国編』・菅野照造監修『トコトンやさしい鉄の本』・柿沼陽平「戦国秦漢時代における塩鉄政策と国家的専制支配」等(順不同・敬称略)より作成。

2-3、前漢の鉄製鎧の変遷

さて、ここで、

前漢に出土した鉄製鎧の中で、
復元されたか
保存状態が良かったもの
時系列(推定)的に並べると、

大体以下のようになります。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』、楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』より作成。

左が一番古いと思われるもので、
右に順に時代が下っていきます。

サイト制作者が、以前、
身の程知らずにも復元を試みた
札甲のアレは、
正確性を欠くので省きます。

因みに、最後の前開きの鎧は、
内モンゴル自治区の
フフホト市郊外の
二十家子漢代古城より
1959年に出土したもので、

楊泓先生によれば、
武帝時代末期のものとのこと。

これを見ると、
一見、筒袖と前開きが
主流になったように見えますが、

後漢時代
鮮卑の王墓から出土した鎧
脇閉じ式の魚鱗甲タイプの
札甲です。

で、サイト制作者は、
成程、鎧が作られた
大体の時代は分かっても、

その鎧の技術が
いつまで現役であったかまでは
正確には分かりません。

その意味では、
先述の劉永華先生の分類は、

恐らく、出土品を最新式と捉え、

その後の後漢・魏晋時代に
色々な技術が交錯している状況
想定した、

かなり慎重で手堅い
見方ではないかと思います。

確かに、王墓の副葬品ともなれば、
当時の最高レベルの
ものだと思います。

3、斉王墓札甲の展開図

『中国古代甲冑図鑑』には、
今回扱う鎧の展開図まで
掲載されていまして、

元の論文の引用かもしれませんが、

いずれにせよ、
サイト制作者は、

そもそも、

その存在や
展開図という考え方に
驚くばかりです。

残念ながら、
展開図の模写は
同文献で御覧頂きたいのですが、

ここではその略図を掲載します。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』より作成。

まず、大体の部位として、
胸・腹・脇(肋)・背・腰・肩
に、大別出来ます。

なお、冑と披膊は
省略しました。

説明は次回にします。

さて、描く視点で驚いたのは、
胴回りを脇で分ける点です。

確かに、この区分は、

その前後の部分と
1段当たりの甲片の数が
異なったりして
面倒なので、
合理的であると思いました。

次いで、長さですが、
これは展開図の等倍のコピーの
実寸(cm)です。

ただ、これをやったのには
理由があります。

この鎧の復元品の写真複数枚と
展開図を比べた結果、

恐らく、縦横の縮尺自体は
かなり実物に近い
判断しまして、

思い切ってこの数字を掲載しました。

甲片の数を含めた図解は
次回にしますが、

絵を描いたり
復元品を作ったりする際に
多少なりとも
参考になればと思います。

また、正面より背中が広かったり、

あるいは、鎧の正面は平坦で
脇腹の当たりで窪ませる
といった点は、

写真と展開図を見ながら
模写を行った段階で
どうも違和感を感じ、

改めて見直して
初めて分かった点です。

―サイト制作者が
服飾の知識に乏しいだけかも
しれませんが。

その他、右肩部が
左より少し長いのは、

この部分で着脱を行うためです。

要は、肩部1箇所と脇に3箇所を
紐で綴じる仕組みです。

最後に、鎧の裏側や縁の部分の
コーティングの方法ですが、

同書によれば、

斉王墓・南越王墓・
劉勝墓には、

「皮革を絹などの織物で包んだ
裏当てがあった。
甲の各部分の縁は
錦織で包まれていた。
裏当てには
皮革や絹布以外に
麻布を用いたものもある。」

―とのことで、

ここまで具体的に書かれた本は
初めてでして、
目からウロコが落ちました。

おわりに

そろそろ、今回の御話を纏めます。
要点は、概ね以下の通り。

1、前漢斉王墓より出土した鉄製鎧は
魚鱗甲タイプの札甲で、
甲片に装飾のないものは
「素面甲」と呼ばれ、
冑と一対とされる。

2、劉永華先生は
漢から魏晋までの鎧について、
脇閉じ式・前開式・
套(とう)衣式の3種類に
区分した。

前漢斉王墓の札甲は
脇閉じ式に分類される。

3、前漢斉王墓の札甲には
展開図が作成されている。

それによると、大体、
胸・腹・脇(肋)・背・腰・肩
に区分される。

4、前漢時代の高級品の鎧には
皮革を織物で包んだ裏当てがあった。
また、鎧の縁は、
錦織でコーティングされていた。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
劉永華『中国古代甲冑図鑑』
楊泓『中国古代兵器論叢』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
西嶋定生『秦漢帝国』
趙匡華『古代中国化学』

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『周礼』の軍事動員モデルと西周末・春秋時代

例によって長くなりましたので、
章立てを付けます。

適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂けば幸いです。

はじめに
1、領土と領民の概念
1-1、国と野、そして竟
1-2、居住地・邑
1-3、国人と野人
1-4、点と線の支配と未開の原野
1-5、国邑と鄙邑の関係
1-6、血族の結束と属邑
1-7、血族を別つ居住区
1-8、国軍の中核・国人の軍
2、『周礼』地官から見る軍事動員
2-1、連動する軍制と民政
2-2、支配者層・卿大夫
2-3、政策の実働部隊・士
2-4、戦闘単位アレコレ
2-5、軍役と身長と加筆の可能性
2-6、【雑談】野の概念と虎
2-7、編制単位と軍役
3、変遷する県の領域
3-1、先行研究の多い春秋県
3-2、名ばかり県と抵抗運動
3-3、集権化の時流
4、耕地面積と動員力
4-1、意外に続く100畝の観念
4-2、肥沃な関中と鉄器
4-3、勧業政策の対価
4-4、勧業入植政策を想像する?!
5、戦車の動員単位・甸
6、西周末から春秋時代を概観する
6-1、その整理作業にあたって
6-2、混沌とした西周末期
6-3、南方の脅威・楚と覇者の時代
6-4、覇者・晋の内訌
6-5、対楚同盟の功罪
6-6、経済の自由化と下剋上
6-7、パンドラの蓋?!晋楚講和
6-8、戦争の革命児・孫子登場
6-9、【雑談】孫子の兵法と孔子様
おわりに
【主要参考文献】
【場外乱闘編・時代を遡って妄想する】

はじめに

今回は、『周礼』より、
軍事動員の箇所について
綴ろうと思います。

『周礼』とは、
前回にも触れたように
中国最古の行政法典でして、

周公旦の考案した
周王朝の制度とされています。

ですが、同書の成立は漢代でして、

そういう事情を反映してか、

識者の見立てでは、
所々に後代における加筆の痕跡も
あるそうな。

サイト制作者が素人目で見る分にも
周尺で勘定が合わない部分があり、
これは後述します。

一方、ツイッターでの
さる博学な方の御話によれば、

小南一郎先生が
「一つの仮想された国家の制度を
体系的に述べる」
と総括されているとのこと。

したがって、

10割を史実とは取らず、

周代の制度を叩き台にした
モデル・ケースとして
理解するべきなのかもしれません。

それでは、そろそろ本題に入ります。

1、領土と領民の概念
1-1、国と野、そして竟

まず、始めに、
『周礼』の内容の前提となろう
領土や領民の大体の概念について
整理を行います。

残念ながら、

サイト制作者の能力不足で
東周時代の事情が
どうもよくわからなかったことで、

同じ封建制の枠組みであろう
西周末や春秋時代前半まで下って
状況を見てみようと思います。

早速ですが、以下のアレな図を
御覧下さい。

これは領土の概念図ですが、

大体、西周末から
春秋時代前半までを想定して
作成しました。

無論、サイト制作者(素人)の
ノート整理程度の感覚で御願いします。

土田史記「春秋時代の領域支配」、稲畑耕一郎監修「図説 中国文明史3」、伊藤道治・貝塚茂樹『古代中国』、原宗子『環境から解く古代中国』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、愛宕元『中国の城郭都市』、飯尾秀幸『中国史のなかの家族』等より作成。

まず、領土は、
大別して
「国」と「野」に区分されます。

そして、国境線を
「竟」・「疆」(きょう)
と言いまして、

土口史記先生によれば、

「疆」は、
国境線を決める手続きも
含む模様。

さて、国と野ですが、

国は、恐らく、
ふたつ意味があります。

ひとつは、
冊封された国家の領土そのもの。

そして、もうひとつは、
これが肝心なところだと
思うのですが、

首都に相当する
城郭都市(国邑)を意味します。

広義としては、
恐らく、城郭の周囲の田畑も
含むかと思います。

因みに、国が国邑の城郭を
意味するようになったのは、

詳しくは後述しますが、

西周末の動乱に対する
備えとして、

各国の国君(≒国家元首)が
国邑に兵力を結集したことが
その理由です。

で、どうも、春秋時代には、

国が国邑の城郭を意味するのが
定着していた模様。

このような「国」の区域に対して、

「国」の周辺に広がる
「野」という区域があります。

この「野」の区域は、
基本的には、

国君の直轄地である公邑も、
配下の大夫の領地である私邑も、
これらの邑の支配下にある
小規模の邑―属邑も、

そして、それ以外の
未開の原野も含みます。

因みに、国邑以外の邑を鄙邑とも
言います。

1-2、居住地・邑

ここで、先程からポンポン出て来る
「邑」(ゆう)という言葉、

これは、規模の大小を問わず、
防御施設のある居住地
意味します。

ただ、ひとつの目安として、

大きい部類の邑は、

人口の規模はともかく、

地理的には、
漢代の県城に相当するかと
思います。

例えば、洛陽近郊に
温(うん)という邑があります。

ここは、元は、
周の大夫・蘇忩生の邑、
それも、その蘇国の国邑でした。

恵王の時代の御家騒動では
蘇氏の邑という立場で
王子頽を匿いました。

その後、漢代に県が置かれ、
河内郡温県となりました。

のみならず、
あの司馬仲達を輩出しまして、

温の地名自体は
廃された時代もありましたが、

現在は、めでたく
河南省温県となっております。

その他、『後漢書』続漢志
郡国(特に司隷)を見ると、

県の略歴に
「邑」と書かれている県
チラホラあります。

見方を変えれば、

そうした履歴の
あるところは、
春秋以前から開けていて
人の営みがあった
土地なのかもしれません。

因みに、住民は防御施設ある居住区で
寝起きし、

昼間は周辺の田畑で
野良仕事に勤しむ訳です。

こういう生活空間の構造は、

少なくとも、
殷周から後漢・三国時代までは
同じです。

1-3、国人と野人

また、国野の関係は、
そのまま身分制による
差別・被差別を意味します。

具体的には、

「国」に住む人々、
つまり国人には、
以下の権利があります。

1、国政の重要事項の決定権
2、兵役(外征)
3、教育
4、重要産品の商取引

対して、「野」の地域に居住する人々、
つまり野人には、

これらの重要事項から弾き出され、
しかも過酷な賦役義務を負う、
と、来ます。

1-4、点と線の支配と未開の原野

さて、周から冊封された国は、

国邑(国)
領内に点在する
その他の邑(鄙邑)
支配・被支配関係を持つことで、

領土という枠組みを持ちます。

ところが、

その後の時代との
大きな相違点は、

愛宕元先生の
『中国の城郭都市』によれば、

面的な支配ではなく、
点と線のそれに近い模様。

と、言いますのは、

西周から春秋時代の前半までは、
中原においても
未開発の土地が多い状態でした。

また、こういう状況との関係は
分かりかねますが、

国家間の国境線も
曖昧な部分が多かった模様。

これに関して、例えば、

原宗子先生
『環境から解く古代中国』によれば、

戦国時代の鉄器の普及
耕作地の拡大以前に
森林伐採の効果が大きく、

極端な例として、

『史記』蘇秦伝の記述を
引用して、

なんぞ森林地帯が多く、
その上がりで穀物を買う
裕福な国情だったそうな。

してみれば、

『周礼』夏官司馬の
王が祭祀と狩猟に
明け暮れる描写も、

このような環境を
前提にしていたのでしょう。

また、未開の原野が
多かった状況は、

交通網の未発達や
インフラそのものの脆弱性
想像させます。

具体的に言えば、

物流や進軍の経路や
大規模兵力を展開出来る戦場が、

以降の時代に比して
著しく限られていたこと
思われます。

地形の影響を受けにくい
合理的な歩兵戦への移行が
中々進まなかったのは、

身分制の既得権益にこだわる
メンタリティ以外にも、

踏み込むと迷うレベルの
広大な原生林等が
多く残っていた事情が
あったのかもしれません。

―が、この辺りは
サイト制作者の想像です。

1-5、国邑と鄙邑の関係

さて、話を、
開発から点と線の支配に戻します。

まず、国邑と私邑の関係ですが、

土口史記先生
「春秋時代の領域支配」によれば、

国邑の主・国君は、
領内の大夫の私邑に
略地(巡察)を行い、

対して、私邑の大夫
国邑に出向き、
朝(謁見)を行います。

双方の行為が
定期的に行われることで、

両者の関係が保たれます。

しかし、国君は私邑の支配には
手を出せません。

また、私邑は、
いくつかの属邑を
支配下に置いています。

私邑とその支配下にある
属邑の関係は、

邑大夫あるいは、
邑長を介した間接支配です。

国君や邑大夫が
直臣や直轄地以外の
家来の邑の人口や耕地面積等を
把握している訳ではありません。

1-6、血族の結束と属邑

こうした分権性を担保する
要因として、
血族集団の関係があります。

要は、同じ先祖を持つ血族同士で
集住する訳です。

当然、居住地・居住区の長は
氏族の長でして、

その結果、邑大夫や邑長の
邑内における支配が
強固であるという次第。

ここで、
国邑―族邑―属邑の
ピラミッド構造の
一事例を挙げますと、以下。

康王(10世紀前半頃か)
の時代に配下を宜侯に封じた
ことが記された青銅器が
出土しまして、

これにその辺りの事務的な話が
記されていたようでして。

この辺りの話は、

入手しやすい本ですと、

例えば、
故・貝塚茂樹先生・故・伊藤道治先生の
『古代中国』、

飯尾秀幸先生
『中国史のなかの家族』
詳しく記されているのですが、

それらによると、

宜の詳細な場所は
分からないものの、

まず、宜なる国には、
宜と鄭という
私邑(族邑)があり、

それらの支配下の属邑は
計35箇所あります。

また、宜には、

大別して、
以下の3種類の人々
居住していました。

「王人」と呼ばれる周王室と同族
17姓の大家族集団。

宜の地への移住者で、
家長を中心に
ひとつの邑に居住し、

自作農で世帯の戸主は従軍します。

さらに、族長レベルは
国の大夫となり、
要職に就きます。

どうも、国邑や国人に相当する
社会階層に見受けます。

次に、鄭の7名の小貴族
率いられた1050名の人々。

これもヨソからの移住組でして、
戦車の管理や牽引馬の飼育等、
色々な雑役に従事します。

そして、庶人と呼ばれる、
616名の土着の人々です。

世帯主だと言われていまして、
1世帯5名と仮定すると、
大体3100名弱か。

これら「庶人」の人々は、

いくつかの邑に分かれて
各々がひとつの血族集団を作って
生活しています。

こうした氏族の血の結束が及ぶ
地理的範囲も氏族の勢力によって
まちまちです。

1-7、血族を別つ居住区

もう一例を挙げます。

先述の
西周から春秋時代前半の
状況についてです。

故・五井直弘先生
「春秋時代の縣についての覺書」
によれば、

故・増淵龍夫先生の研究
踏まえつつ、
(サイト研究者が
恥ずかしながら未読につき、
こういうまどろっこしい書き方に
なりました。)

温の邑内には、

諸(氏)族の族人が
古い氏族的秩序を保持しながら
各々の
(城内で区画された居住区)に
分かれて住み、

その長者里君として
族人の統制に当たっており、

この仕組みは
属邑も同様であった模様。

つまり、国邑であれ、族邑であれ、
一定規模以上の邑内では、
氏族単位で居住区を持つ訳です。

さらには、

蘇公は温邑に住む
諸族の邑長であると共に、
属邑の支配者でもありました。

そこで、

温邑や属邑の各々の里に
分かれて住む諸属を
統制するために諸官を置き、

諸族の中から有力な者を
卿大夫として諸官に宛てる
という仕組みです。

一方、故・伊藤道治先生の
『古代中国』によれば、

西周の邑は、
ひとつの邑が
ひとつの血族集団で
構成されていたことは
間違いない、

と、しています。

この辺りの話を整理すると、

成程、邑のスタンダードな
在り方としては、

ひとつの血族集団が
一邑を成すことなのでしょう。

例えば、人口増加と耕地の不足で
キャパシティを越えた邑で、

分家筋がその本邑を出て
ヨソに新たに邑を作る場合等、

こうした状況が有り得るかと
思います。

してみれば、
属邑レベルでは
邑長の支配が強固なのは
その辺りに起因するのでしょう。

しかしながら、現実には、

一定規模以上の邑となると、
集団での入植者が多くいる訳で、

そもそも周王朝自体が
そうしたルーツを持ちます。

そのうえ、
これが春秋時代になると、
占領政策として
邑の原住民を追い出す、

あるいは、その逆で、
喰い詰めた人々を集めて
特定の邑に大量に入植させる、

といったことも
行われるようになります。

大国がそこまでやる理由は、

亡国の民が血の結束で
息の掛かった近隣の邑を
巻き込み、

大規模な反乱
大国の中枢を抉るレベルの
政治工作を企てるからです。

それはともかく、

属邑レベルでは
ひとつの血族集団で
一邑を成すところが
あったにせよ、

一定規模では、
居住区を隔てることで
複数の血族集団が共存し、

さらに時代が下れば、
血族で固まってすらいない
邑や居住区も増えた、

―という話と推測します。

春秋時代の県や
戦国時代以降の集権制の県にも
繋がる話ですし、

一方で、例えば、「里」という言葉が
漢代の末端の村を意味することで、

当然ながら、

同じ血族で
ひとつの居住地を持つという観念と
並存したということなのでしょうが、

この辺りは、
もう少し調べたいと思います。

1-8、国軍の中核・国人の軍

さて、こうした
邑のレベルで
複数の血族集団の共存する
国ですが、

他国と戦争なんぞ
やろうものなら、

邑自体の規模の大きさによる
兵士の動員力があり、

かつ、特権階級の既得権益である
戦争(外征)のノウハウのある国人が、

必然的に国軍の主力になる訳です。

当然、平時には
威力のある
暴力装置でもありまして、

国君や卿大夫
彼等の利害に背くことを行えば
相応の反撃を受けるので、

反対に、
連中を抱き込もうとする訳です。

2、『周礼』地官から見る軍事動員
2-1、連動する軍制と民政

以上、西周末から春秋の前半の
領土・領民の大体の概念について
触れたところで、

いよいよ、
『周礼』の軍事動員の御話
入ろうと思います。

まずは、以下の表を御覧下さい。

これは、当時の国レベルの
軍の階級と各々の階級ごとの
指揮下の兵数を表にしたものです。

ここで注目すべきは、
階級と兵数はおろか、

身分や平時の行政組織の地位とも
対応関係にあることです。

つまり、有態に言えば、
周代以前は領主の軍隊です。

特に、大夫以上の領地持ちは、
その土地では絶対君主でして、

高木智見先生によれば、

領地の多寡に関わらず
戦士階級という意識を
共有出来た基盤は
ここにあった模様。

言い換えれば、

戦国時代以降の軍人官僚は、
例えば「何処こその領地に〇〇戸」
と言えども、

その領地の支配権はなく、

当該の領地の収穫分だけを
受け取るという仕組みです。

さらには、領民は、

平時には、
家(≒戸か)数単位で
組織されており、

有事の際には、
この組織がそのまま横滑りで
軍事組織となる訳です。

こうした上下の秩序や結束が
保てる基盤として、

個々の領民が祖先を同じくする
氏族という血の繋がりが
ありました。

この辺りの事情は、
鄙邑の状況と同じだと思います。

要するに、
領民=親戚で、
卿大夫はそうした血縁集団の長。

また、故・伊藤道治先生曰く、

世の古今東西を問わず、

民族移動を行う集団には
必ず軍事組織が存在し、

そして、王室の周も
その例外には漏れぬとのこと。

観光史の某書にも、

西洋史の事例をベースに
似たようなことが
書いてありました。

2-2、支配者層・卿大夫

次に、表中の身分についても
少々纏めます。

この辺りは、
『古代中国』の故・伊藤道治先生の
説明の要約です。

サイト制作者がこれまで
テキトーな理解で流して
痛い目を見たこともあり、

折角ですので、
同書の御一読を。

西周時代の国レベルの場合、

上から卿・大夫・士
あります。

各々の上下関係は、
大夫を軸に考えると
分かり易いかもしれません。

まず、大夫以上が貴族で領主様。
そして、大夫の中で大臣になるのが卿。

もっとも、

これが時代が下って
春秋時代の後半、
特に前6世紀の
後半以降になると、

大夫という言葉も、

独立した土地持ち貴族
というよりは、

諸侯や世族(有力氏族)の派遣する
地方官のような意味合いが
強くなって来ますが、

これは後述します。

2-3、政策の実働部隊・士

そして、士。

これが流動的でややこしい
社会階層ですが、

支配階層である大夫・諸侯と
被支配者層である庶人との
間にあり、

庶人の実情に通じて
上下下達の実務をこなします。

で、その出自ですが、

大夫の一族の中の下層の者、

あるいは、

原住農民の邑長その他、
集団の長、

もしくは、

没落して
農村で自作農や小作農になった者、

という具合に、
実に様々です。

要は、大夫の国邑(居城)内の
下層の者か、

大夫の氏族が
領内の農民とかかわった後に
地域の有力者や実力者として
取り立てられた者、

―ということになりますか。

士も最上級となると、

戦闘員75名・
輜重兵25名を統率し
戦車に座上する指揮官クラスで、

木っ端役人とは言い切れない
存在と言えましょうか。

2-4、戦闘単位アレコレ

兵数と戦い方の関係についても
少々言及します。

まず、最小戦闘単位の伍。

これは先の記事で紹介した通り、

5名で縦隊を組み、
弓・長短の得物を持ち寄って
距離で死角を作らないようにします。

次に、両。

これは伍を5個縦隊に組んだ隊形で、

縦横の真ん中に指揮官の両司馬が立ち、
全方位に備えます。

戦車を抜いた防御隊形とも言われます。

さらに、この25名については
各々の兵士の身分に応じた
細かい分け方も
あるようですが、

これは後日の記事にしますので、
悪しからず。

さらに、100名について。

もっとも、

戦車戦の時代と
戦国時代以降とでは、

戦い方が異なることと思います。

春秋以前の戦車戦では、
両が3隊(内、3人乗りの戦車1両)
25名の輜重兵の編成。

戦国時代の場合は、
恐らく100名の歩兵方陣。

また、その下に、
50名単位の組織があり、

伍を最小単位とした
方陣を組みます。

100名を超える組織については、
残念ながら、
サイト制作者の不勉強で
分かりかねます。

と、言いますか、

これを調べたいがために
このサイトをやっているような
ところもあるのですが、

回り道が長いことで、
なかなか辿り着けないのが現状。

それはともかく、

戦車部隊にも
編制単位がありまして、

例えば、春秋時代の
楚の王の直属部隊には、

「広」という
戦車15両の編成単位があり、
(左右があり、計30両)

戦車1両当たり卒・100名の歩兵が
付きます。

また、軍将・卿の1軍以上の規模は、
軍の数で決まる仕組みです。

余談ながら、参考までに、

時代が下ると
どのように変遷するのかについて、
少し見てみましょう。

これは、以前作成した表に
少し加筆したものです。

大体の流れとしては、
戦車戦から歩兵戦に移行する
内容です。

5・10・50・100と、
方陣の布陣を前提にしたものと
言えます。

当然、騎兵は、
これとは別に戦法があります。

また、春秋・斉については
典拠は『管子』で、

これは浅学なサイト制作者が
後日知ったことですが、

『周礼』も『管子』も
後世の加筆があるものの、

『管子』の場合は
事務的な部分については
時代の実情に即しているそうで、

その意味では
どう扱ったものか困っています。

ただ、ここでは、

軍事組織と民政組織が
連動している点については、

この時代の実情に照らし合わせて
参考になろうかと思います。

2-5、軍役と身長と加筆の可能性

続いて、領民の軍役について
触れます。

『周礼』地官・郷師之職に
次のような件があります。

國(国)に中(あ)たり
七尺より以て六十に及び、
野、六尺より六十有五に及び、
皆之に征く。

国地域は身長7尺以上で60歳以下、

野地域は6尺以上、
65歳以下の男性に
外征の義務がある、

という訳です。

で、ここで、面倒なのは、
尺の長さ。

周代は1尺18cm、
秦漢時代は23.1cm。

ですが、若江賢三先生によれば、

秦尺は国家が決めたとはいえ、

それまで民間で
大々的に使われていたもの
国家規格にした経緯があり、

その意味では、
戦国時代のものと考えて
差し支えないそうな。

また、古代中国の
長いスパンで見れば、

歴代の中華王朝の御約束として、

1歩(厳密には2歩分の歩幅)が
大体140~150cm
になるように度量衡を定めており、

例えば、唐が1尺を
6歩から5歩に改めたのも、

1尺の長さが31.1cmと
長くなり過ぎたからとのこと。

王朝がこういう拘り方をするのは、
軍事(行軍や隊列)や
農事(耕地面積)と
不可分の関係にあるからです。

そのように考えると、

周代の7尺は126cm、
秦尺に換算すると、161.7cm。

精兵を選抜する観点からすれば、
後者の方が理に適う訳で、

つまり、この部分は、

どうも戦国時代以降の
加筆の可能性が高そうな。

また、野の地域には
外征の戦闘行為の義務は
ないとしながらも、

こういう基準を
設けること自体、

尺の話と同じく、

戦国時代の感覚で
総力戦の動員基準として
書かれた箇所なのか、

あるいは、
軍夫としての動員の話なのか、

その辺りは浅学にして
分かりかねますが、

文脈から考えると
軍夫の動員基準かと思います。

2-6、【雑談】野の概念と虎

余談ながら、
前4世紀のほとんど終わり頃、

孟子(斉や楚に圧迫される小国)
の文公に後述する井田制を説く際、

「野人」という言葉を
連発していまして、

連中が働かねば税収が入らないので
君子が導け、と、宣う訳です。

その90年弱後には、
秦が全国統一を果たします。

国野の概念自体は、

戦国時代には、大国の場合は、
大規模な軍事動員で消滅するのですが、

地域によっては
この辺りの時代まで
残っていたのかしら、と、
想像する次第。

さらに、与太話を続けますと、

例えば、政治の世界で、
下野するという言葉がありますが、

今日のイメージで言えば、

ピークを過ぎたか
選挙に勝てない政治家が
引退して静かな余生を過ごすか、

あるいは周辺領域で生活するか
他の世界に転身するかで、

必ずしも悪いイメージの言葉では
ないかもしれません。

しかしながら、

周か春秋の時代にまで
その語源をたどれば、

タイガーマ〇クになった
李徴宜しく(唐代の話ですが)、

人間を辞めるレベルの
取返しの付かない話に思えて
なりません。

ですが、周から春秋における
戦乱の長期化に起因する
色々な分野での自由化の流れで、

政治参画する人も出て来る訳で、

例えば、孔子の高弟の子路などは
野人から身を興した人の一例。

抜群の行動力と
垢抜けていない言動の差異や、

散り際に冠を正す痩せ我慢等、

出自や向上心を彷彿とさせるものを
感じます。

2-7、編制単位と軍役

では、国や野のイメージについて
多少なりとも言及したことで、

引き続いて、
国野双方の民政組織の
編成単位について触れます。

早速ですが、
以下の表を御覧下さい。

これは『周礼』地官の内容を
纏めたものです。

国野双方、平時においては、
このような編制単位で
統治されています。

大昔(仰韶文化の時代)から、
大体、田畑は別にして、
1家辺り5名程度の小家族の模様。

よって、表中の数に5を掛けたのが
実数に近い訳です。

上の表のように、
国の地域については、
先に掲載した軍隊の編成単位と
連動する関係にあります。

さらには、各々の組織単位内で
一定の互助関係もあります。

さて、手始めに、表にはない
野の地域の軍役について触れます。

まず遂ですが、

佐藤信弥先生
『周―理想化された古代王朝』
において、

『54史密簋(しみつき)』
という史料で、

「師俗率斉師・遂人左、
〈周〉伐長必」
という文言を、

「師俗は斉地の軍と
在地の民兵を率いて
左から長必の地を攻撃し」

と、訳されています。

これは、西周後半期の
東方での周の防衛戦争
一幕ですが、

この「遂」とは
先述の野の地域の民政の編成単位。

地元の防衛行動への
軍事動員かと思われます。

とはいえ、
野の地域には、

以下のような
国の地域に対する
具体的な動員規定に
相当するものがありません。

乃ち萬民の卒伍を會しこれを用う
五人を伍と為し、五伍を兩と為し
四兩を卒と為し、五卒を旅と為し
五旅を師と為し、五師を軍と為し
以て軍旅を起こす
(『周礼』地官・大司徒之職)

の地域には、
獣害の備え等から
最低限の武力はあるものの、

やはり、概説通り、
外征における戦闘行為が可能な
常備軍めいた戦力は
認められていないのでしょう。

一方、野の地域には、
各々の編成単位ごとの
担当役人職責があります。

組織の上の方から
見ていきます。

まず、地方官としての
遂師(下大夫)の職務には、

「軍旅、田獵に野民を平らげ、
禁令を掌る
(『周礼』地官・遂師)

と、あります。

以下、県の長の県正には、

「もしまさに野民を用い
師、田、行、役に移れば執事し、
則ち帥べるに至り、その政令を治む
(『周礼』地官・縣正)

師:戦争
田:狩猟
行:旅(外征か)
役:労役

執事:その職の中心として働く

大体このクラス以下が、
事務的な実働部隊
なのかもしれません。

さらに、県正の部下の
県師(上士・中士)については、
以下のようになります。

もしまさに軍旅有らば(中略)、
田役はこれを戒め、
則ち司馬において法を受け、
以て眾庶に作(いた)り
馬牛車輦に及び、
その車人の卒伍を會し、
皆をして旗鼓兵器を備えさせ、
以て帥べるに至る。
(『周礼』地官・縣師)

會(会):集まる
輦(レン):手車
卒伍:周代の編成単位、
もしくは編制された兵士

実は、サイト制作者は、
この部分の解釈が
出来かねます。

には、召使いという意味も
ありますが、

文字通り、
卒伍を兵士と解釈すれば、

国の地域の手隙の戦車兵が
武器を製造・修理し、

それを野の地域の官が差配する、
ということになります。

ここでは、あるいは、
卒伍を召使い、
車人を荷車の軍夫と
取るべきか。

次いで、県の下部組織の鄙には
具体的な職務は
明記されていませんが、

その下の酂長には、
以下のような件があります。

各(おのおの)
その酂の政令を掌り(中略)、
もしその民を作し
これを用いれば、
則ち旗鼓兵革を以て
帥べるに至る。
(『周礼』地官・酂長)

作(な)す:任命する
兵革:武器と鎧兜

要は、兵器の管理修繕の話だと
思います。

さらに、酂の下部組織である
についても、
以下のような件があります。

比、その邑の眾(衆)寡と
その六畜、兵器を掌り、
その政令を治む。
(『周礼』地官・里宰)

比:仲間・ともがら・同類
六畜:馬・牛・羊・犬・豕・鶏

このレベルになると、
家畜の管理義務も生じます。

それ以外には、
サイト制作者が気になるのは
「比」という言葉。

これは、国の地域の
5家の単位も意味しまして、

穿った見方をすれば、

後世の加筆であれば、
国野の概念が混在している
ようにも見受けますが、

ここは素直に、
近親者や隣人程度に
理解しておきます。

3、変遷する県の領域
3-1、先行研究の多い春秋県

その他、後世との絡みで言えば、

例えば、都市部で
「州」が付く地名は、

あるいは、
この時代には存在した邑
なのかもしれません。

そして、見るべき点はと言えば、
縣(県)という単位。

この辺りの話は、

新しい研究では、

先述のアレなイラストで
大変御世話になった
土口史記先生

「春秋時代の領域支配
―邑の支配をめぐって」
『東洋史研究』65-4

を挙げておきます。

先行研究の整理も秀逸です。

因みに、PDFで読めます。

国立情報学研究所の
論文検索サイト
ttps://ci.nii.ac.jp/
(1文字目に「h」を補います。)

因みに、サイト制作者は
今回の記事を書くに当たり、

この論文の他にも、

五井直弘先生の
「春秋時代の縣についての覺書」、
『東洋史研究』第26巻・4号、

増淵龍夫先生の
「春秋時代の縣について」
『一橋論叢』38(4)

―等から、『左伝』の読み方を
教わったような気がします。

3-2、名ばかり県と抵抗運動

話を先行研究から
県の内容に戻します。

以下、先述の土口先生の
論文を中心に綴ります。

春秋時代になると、
他国の領土を併合して国君や大夫が
直轄化した土地を
と呼称するようになります。

ですが、この段階では、
まだ制度としての実態を伴わず、

占領地や属領程度の
意味合いです。

故・増淵龍夫先生によれば、
県(縣)は鄙と同義の模様。

本来は、鄙の小邑を
意味していました。

要は、国以外の田舎で、
野暮、卑しいという
ニュアンスもあり、

国野の概念が
背景にありそうなもの。

『周礼』地官の県も、
そのような意味合いなのでしょう。

さて、春秋時代以前の
中原の諸国場合、

大体、前7世紀辺りまでは、

各々の土地における
氏族の政治力が強かったことで、

戦争に勝って併合しても、
中々、完全な直轄化までは
行かないケースもありました。

しかも、周の冊封した国同士の
共喰いという引け目もあってか、

相手国の社稷を滅ぼすと
行き場を失った霊に祟られる、

―という、当時の社会観念と、

恐らくは、表裏をなします。

例えば、周王室の御家騒動で
王の政敵を庇った温(うん)
がそれに当たりますし、

特に、楚が蔡を滅ぼし、

その旧勢力の報復を受けて
戦争に敗れた楚王が
自殺したのは、

前7世紀どころか、
昭公十三年(前529年)
のことです。

3-3、集権化の時流

ですが、こういうタブーとは無縁の
秦・楚・晋の辺境では、
仁義なき直轄化
積極的に行われ、

その後、
このルールが中原に波及し、

県の領域自体も、

抗争の性格が
領土の境界線が意識されるものとなり、

それまで以上に細かい分割を前提にして
細分化されていく流れとなります。

ここで、面倒なのが、
県の具体的な領域です。

状況によって
意味する領域が異なることで、

サイト制作者も、
この辺りの事情の整理には
散々泣かされましたが、

例えば、楚が割合早い段階で
県にした申や息は、
かつては国。

つまりは、
外征軍が編制出来る規模の地域が
楚の県という訳です。

ところが、

昭公二十八年(前514年)の
かつての祀氏の田を7県に、
羊舌氏の田を3県に分ける、

しかも、かつての郤氏等のように
氏族として封建しない、

という具合に、
邑大夫が狭い土地を治める
地方官のような意味合いが強くなり、

あるいは、

昭公五年(前537年)
楚の晋に対する見立てとして、

10家9県で900両の戦車を
外征軍に動員し、

その他40県で
4000両の戦車を
留守部隊として残す、

つまり、1県100両の
均等な動員が可能
≒一律の動員制度の存在を
匂わせる、

という具合に、

時代が下って県の性質が
変って来ている、
という次第。

「酇」という県名も
複数出て来ることで、

郊外の小さい集落が
順調に発展して
めでたく県に昇格したのかと
想像します。

4、耕地面積と動員力
4-1、意外に続く100畝の観念

続いて、
田畑と軍事動員関係について触れます。

残念ながら、
サイト制作者の浅学にして、

現段階では、

家数と耕地面積の相関関係という
肝心な部分を
明らかに出来ていないので、

その辺りの話は他日にさせて頂きたく。

まずは、以下の表を御覧下さい。

これも主に『周礼』の内容の整理です。

先述の話から考えれば、

県だの邑だの、
編制単位と言葉の意味が
一致しなさそうなものが
少なからずあります。

周の御代と春秋時代とでは
言葉の意味するところが
変っているのか、

それとも後世の加筆で
そうなったのかは、

サイト制作者の浅学にして
分かりかねます。

そこで、見るべきところは、
耕地当たりの動員力
ということになろうかと
思います。

1夫という単位は、
1世帯(だいたい5名)で
兵士1名の供出を意味します。

例えば、先述の、孟子の説く
井田制(せいでんせい)は、

9夫の田を井の字に配置し、
中心の田を国営とし、

これを1井とします。

残りの8世帯で1夫を耕作する、
というもの。

で、耕地面積ですが、

漢代の解釈では、
井は1里四方でして、

100平方歩=100畝。

これを周尺(1尺=18cm)
で換算すれば、

100歩=6尺×100で108m。

さらに
これを二乗すると116.64㎡。

つまり、1井=116.64㎡。

ところが、先述の若江賢三先生
「春秋時代の農民の田の面積」
指摘されているように、

時代を問わず
1歩=140~150cmとすれば、
春秋時代までは1歩=8尺。
(しかし、6尺も8尺も確証はないそうで。)

『周礼』考工記の武器の長さもコレ。
人の身長を8尺で計算しており、
周尺で合う計算です。

因みに、秦の成人男子の
身長の基準は6尺半。

秦尺で換算して150cmチョイ。

サイト制作者のカンに過ぎませんが、

実利的に考えると、

確かに、古代中国の話として、
細かい時代を問わず、

1歩=140~150cmの線で
計算すると、
辻褄が合う話が多いように
見受けます。

そのうえ、
穀物(粟)1斛(こく=100升)
当たりのマスは、
戦国時代のものは
春秋の倍の容量だそうで、

詳細は省きますが、

結局、1夫当たりの面積や
100畝当たりの収量は、

現代の数字に換算すると、

中原諸国における
1世帯当たりの耕地面積は、

春秋から戦国時代まで
あまり変わらないそうな。

恐らく、それ以前も
これと大差ないのでしょう。

戦国時代の中原諸国では
100畝で粟を150石(=斛)
収穫出来まして、

当時、1升=0.194ℓで、
これを石換算すると、
2910ℓとなります。

4-2、肥沃な関中と鉄器

とはいえ、

平均は変わらない、
と言いましても、

秦の関中のようなところは
例外でして、

商鞅の改革の際には、

土地が広いうえに
牛耕もパフォーマンスが良い
という事情に鑑み、

古い畦道を潰す等して
耕地整理を行ったうえで、

240畝=1歩で計算しています。

ですが、これも、
自由に開発出来る占領地の中でも
かなり優良な耕地のケースのようで、

漢代の武帝の勅令ですら、

240畝=1歩は
実質的には
努力目標に過ぎなかったそうな。

技術面でも、

例えば、鉄器の普及とて、

そもそも、
古代中国においては、

鉄自体が
今日で言うところの
レアメタルのような
位置付けでして、

生産には膨大な資本を必要とし、
そのうえ
管理を厳重に行います。

漢代ですら、
鉄製農具の管理も
例外には漏れません。

つまり、鉄器の普及
政治力あってのものです。

4-3、勧業政策の対価

また、飯尾秀幸先生
『中国史のなかの家族』
によれば、

の場合、
牛は集落単位の貸出で、

国や県が牛の状態を
厳重に管理します。

こうした状況を受けてか、

漢代においても、
貧困層は木や骨や石で
耕作しています。

そのうえ、

同じ飯尾先生の
御本によれば、

後述するように
集落の階層分解が起きて
邑長の専制支配が
崩れたとはいえ、

収穫から農地保全に至るまで、

集落の人海戦術で
農村を運営する構図は
少なくとも漢代まで変わらず、
(今も或る部分は
変わらないと思いますが。)

依然、行政からも
技術指導を受けます。

孟子が百畝の田と五畝の宅
副業せよ、という
経済モデルを唱えようとも、

これ自体は収支としては
それ程的外れではないにせよ、

社会全体としては、

どうも、

戦国時代に鉄器が普及して
生産効率が上がり、
経済的にも精神的にも
自立した中間層が急増した、

―という類の
めでたい話ではなさそうな。

4-4、勧業入植政策を想像する?!

これはサイト制作者の
想像の域を出ませんが、

春秋時代から戦国時代までの
耕地の全体像としては、

平均的に裕福になった、
というよりは、

鉄器や灌漑整備等で
大々的に資本投下された耕地と
それ以外とでは、

生産効率や収量の格差が
桁外れに大きかったのでしょう。

で、そういう地域の新中間層は、
恐らく国家の集権化の尖兵でして、

先述の県の話と連動して、

流民や貧困層等、
喰い詰めて国家には逆らわない
社会階層か、あるいは、

例えば、秦では、
過酷な軍役が前提の
軍功地主ではなかろうかと
想像します。

そのように考えると、

或いは、
1世帯当たり100畝
という『周礼』のモデルは、

戦国時代辺りまでは、

優良な耕地以外は、

存外、当たらずも遠からず
なのかもしれませんし、

あるいは、
中原諸国が存在して地域においては、

灌漑の整備や
鉄器の普及が進むような
余程裕福な地域でもなければ、

農村の習俗や風景は、実は、

西周末から漢代の初め頃までは
それ程変わっていないの
かもしれません

4-5、戦車の動員単位・甸

兵士数に関する
軍役の話に入ります。

先述の通り、基本は、
1夫=1世帯で
兵士1名の供出ですが、

1甸(=576夫)で兵士75名と、

人数換算
501夫(501名)分の
余力があります。

一方で、この甸という単位で
軍馬4頭(戦車1両分)
・牛12頭
供出しています。

単純に計算して、

1割余の耕地の世帯に
兵役を課し、

残りの9割弱の耕地で
国の領域の兵器・物資を
賄う構図ですが、

野の領域にも
軍夫・物資の供出や
兵器の管理も課すことで、

国の領域の負担は
相対的に軽くなっている
ことでしょう。

もっとも、この構図も、
春秋時代から
段階的に崩れていき、

野の領域にも
兵員の供出
課されるようになりますし、

先述の通り、
戦国時代には
国野の概念自体が消滅します。

6、西周末から春秋時代を概観する
6-1、その整理作業にあたって

この章は、要は、概説書の
パッチワークです。

その編集の方法が悪いとはいえ、

(サイト制作者のような)
初心者にとっては、
初歩的な知識を得る分には、
まあ、大筋は合っているであろう、

という程度の話で
御願い出来れば幸いです。

ここまで、『周礼』より
軍の編成単位や
軍役に関する部分について
考察を行いました。

しかしながら、

サイト制作者としては
出来るだけ史実を意識して
綴ってみたものの、

周代が母体とはいえ、

後世の加筆のある
軍役モデルである以上、

中々、そのままの形での
戦国時代なり
後漢・三国時代なりへの適用は
難しいと思います。

そこで、せめて、

この軍役モデルの
どの辺りに限界があるのか、

あるいは、

前後の時代の比較を通じて、
少しでも虚実の識別に迫るべく、

かなりの荒技ではありますが、

西周の後半から春秋時代までの
政治・経済・軍事面での
大体の動向について、

座右のいくつかの
概説書の内容を整理して
年表を作成しました。

恥ずかしながら、

今回の記事作成に当たり
この作業が殊の外に手間で、
更新が大幅に遅れた
最大の理由です。

また、これに因み、

西周・春秋時代についての
今までのあやふやな理解を
強く悔いております。

とは言いながらも、
各段に賢くなった訳でもないのが
情けないところですが。

それはともかく、
年表の説明に入ります。

まず、歴史的なイベントが
余り書かれていない
ヘンな年表には違いありません。

書く側としても、

各々の事象について、
大体の時期を特定するのに
苦労しました。

それでは、まずは、
肝心の大筋の流れを
負うことにします。

6-2、混沌とした西周末期

やはり、起点は西周の勢力の
ピーク・アウトです。

『周礼』の軍役モデルも、

恐らくは、その存立基盤
それまでの領土拡張路線
ありました。

つまり、戦争で奪った土地を
次男・三男にも
与えられる仕組みです。

ですが、この路線が頓挫した後は、

礼制の整備で
当座の上下の秩序を回復には
成功するものの、

国力の低下に
歯止めが掛かりません。

王室は属国同士の
土地絡みの紛争
裁定が出来ず、

属国も属国で
物資を抱え込んで中央に送らない
と来ます。

そのうえ、
西周と長年対峙している
北方の異民族・戎は
首都の膝元で活発な軍事活動を行い、
ついには西周を滅亡に追いやります。

さて、大体この前後より、

属国の諸侯は、

西周の軍事力を
アテに出来ないことで、
軍隊を国邑(≒首都)に
集結させて領土の防衛を
企図します。

こういう状況が
長らく続いたことで、

先述のように春秋時代には国=城という
認識が定着したそうな。

6-3、南方の脅威・楚と覇者の時代

その後、中原諸国の外圧の中心
に移ります。

楚の北進も硬軟取り合わせたもので、

例えば鄭等、
周辺国を巧妙に懐柔し、
あるいは申や息等のように
属領化しつつ、

前線を北上させます。

そして、中原諸国は、

楚の脅威は元より、

諸国内でも慢性的な紛争
社会の上下が耐えられなくなり、

各諸侯は
盟主を担いで
軍事同盟を結成することを
画策します。

斉の桓公だの、晋の文公だのの
時代です。

三国五鄙や三行の編成といった
各種の改革は、

こうした名君の膝元で
行われた改革でした。

そして、こういう改革の過程で、
野の領域への
段階的な動員も始まり、

歩兵の有効性も少しづつ
証明されていきます。

当然、当の士大夫連中は、
既得権益を脅かされるので
見て見ぬフリを決め込みますが。

6-4、覇者・晋の内訌

さて、諸侯の権謀術策はと言えば、

異民族や楚相手の戦争では
結束するものの、

こういう同盟内の枠組みの範囲で、

当然ながら、国の内外で
ドロドロの内訌
繰り広げていました。

斉なんか、晋にとっては
敵味方定かならない
不気味な存在で、

楚が強ければ
晋・斉・楚の三国志めいた
構図も作り出します。

さらに、西方でも秦が晋に
侮蔑的な会盟を持ちかける等
これまたヘンな動きを見せます。

それでも万難を排して
覇者であり続けたのは、
やはり国君や世族の力量が
大きかったのでしょう。

それでも、晋の国内では
内訌が熾烈を極めており、

いくつもの世族が
刑場の露と消えていきました。

その理由として、

まず、名君の文公
若い頃に御家騒動で
エラい目に遭ったことで、

王の一族である公族を差し置いて
有力な家臣団である世族を
優遇したことが挙げられます。

ところが、
当然ながら当の世族共は、

文公と真逆のベクトル、

即ち、領土や要職を漁って
血の結束で系列化します。

当時、特に争いが激しかったのは、

対楚戦を想定した常備軍である
三軍・三行の
指揮官・副指揮官である
将・佐のポストの争奪戦。

そして、セカンド・ステージは
遷都問題と、

その後1世紀弱にわたって
世族間の熾烈な政争が続き、

いくつもの有力世族が
滅亡の憂き目を見ました。

6-5、対楚同盟の功罪

ですが、内訌はあっても、
対楚の軍事同盟が
上下の階級闘争を
封じていた側面もあり、

後発の家系の台頭は
抑え込まれていました。

むしろ、次の時代への胎動が
大きかったのは、

言葉は悪いですが、
(いつものことながら)

連中のシノギである
経済面かもしれません。

6-6、経済の自由化と下剋上

例えば、村落の統治ですが、

前7世紀の後半には、

西周の終りからその兆候があった
階層分化が激しさを増し、
邑長の支配が崩れました。

逆に言えば、それまでは、

先述のように、

邑と農地と領民
血縁関係で結ばれた
謂わば、三位一体の存在でして、

領主が邑長を介して
属邑を支配していました。

つまり、領主の卿大夫が
地方官を介して
個々の領民を支配していた
訳ではありません。

ところが、階層分化、
つまり貧富の差が開き、

内部分裂が起き始め、

邑長の統制力が弱まった訳です。

折しも、
社会規範となる礼制も緩み出して
地方にも市場が出来、

それまで士大夫の専売特許であった
商行為にも、
野の領域の人間が関与し始めます。

士の身分が流動的で
実務に堪能なことで、

農民が
血縁関係のある士の階層を通じて
商行為に接する機会が増えた
可能性もあるかもしれません。

一方で、田畑の開発と
築城等の過酷な労役
同時並行で進行しており、

農民の条件の良い土地への逃散
少なからず起きています。

こうした農民の階層分化の結果、

領主にとっては、
邑長を抑えるだけでは
必要な軍事戦力を整えることが
出来なくなりました。

要は、対楚戦争や各種内訌の
抗争の戦費工面で
下層階層への締め付けが厳しくなり、

当然、被支配者の側は
既存の枠組みではそれに耐えきれず、

諸々の分野で
なし崩し的に
自由化が進んだのでしょう。

一方の国君の側にとっては、

かつて周王が
画策して頓挫した
個々の農民の直接支配が、

この段階になって
本格的に視野に入って来た訳です。

前6世紀に入ると、

実務を知る大夫が
諸侯に代わって
政治の実権を握り出します。

先述の晋の将佐の争奪戦も
この頃の話です。

そして、その下の階層にある
士の政治参画も増え始めます。

この少し後に、

かの孔子の学団
格安の授業料で
庶人に門戸を開いたのも、

こうした野人・士の台頭という
時代背景があります。

6-7、パンドラの蓋?!晋楚講和

そして、ついに、
既存の社会の歪を
良くも悪くも抑え付けていた蓋が
外れる瞬間が到来します。

具体的には、
長年の不倶戴天の敵同士であった
前546年の晋・楚の講和。

それまでの国際関係の前提が崩れ、

特に、中原諸国では、
対楚戦を想定した軍役が不要となり、

晋の旗頭としての存在意義が
なくなります。

晋の外交関係どころか、

財政の足枷になるタガが外れて
目先の外交関係まで
読めなくなったことで、

社会の上下がひっくり返るような
状態になりまして。

鄭の子産の改革なんか、

軍の中核である国人が暴れて
身内を殺された後のことにつき、

一面では、
時勢に対する反動政策でも
あります。

これとて、
国人の田畑の不法占拠には
背後には軍役の重さが
絡んでいる模様。

6-8、戦争の革命児・孫子登場

さらに、一方の旗頭の
御家騒動で弱体化し、

そのうえ、思わぬ伏兵が登場し、
その楚を滅亡の手前まで
追い込みます

御存じ、伍子胥・孫武を擁する呉。

ここは、そもそも、
文化的には
中原との関係が薄く、

地形も中原に比して
平地が少ないことで、
歩兵戦を受け容れる素地
ありました。

そのうえ、6世紀の前半頃から、
晋がこの国にテコ入れして
楚を牽制させていた
事情があります。

そこに中原を知り尽くした
孫武が仕官し、

さらには、

従来の戦争とは一線を画すレベルの
長期的・戦略的な戦争プラン
大国・楚に牙を剥きます。

具体的には、

複数年のスパンで
執拗な侵略と撤退を繰り返し、

迎撃に出て来る楚の兵を
徹底的に疲弊させ、

そのうえで
漸く決戦を行う訳です。

時に、前511年。

因みにこの10年前、

―『左伝』で言うところの
昭公二十一年には、

晋・斉・宋・衛・曹等の
中原諸国と呉が
激しく鎬を削りまして、

その折、

晋の公子・城と
呂の封人・華豹の
弓合戦がありました。

これが凄まじいもので、

まず、華豹が一矢目を外し、
さらにもう一矢、という所で、

城曰く、
「狎(こもごも)にせざるは鄙なり。」

狎:交互に
鄙:卑しい
ここでは卑怯(小倉芳彦先生訳)

そして、律義に城に射させて
息絶える華豹。

城が華豹の二矢目を
言い逃れたのは
咄嗟の機知かもしれませんが、

射させた行為の背景には、

高木智見先生によれば、
射礼があると言います。

これは交互に弓を射合う
士大夫の社交と武芸を兼ねた
嗜みでして、

こういう流儀で
戦争をしていたことになります。

因みに、
孔子本人も射御―
弓と戦車操縦の名人で、

直弟子の戦車乗りも
戦争の流儀はこの調子。

ところが、
そうした士大夫同士の
息詰まる弓合戦の僅か10年後に、

歩兵を中心にした
それまでにない戦略レベルの
偽装退却を前提とした
奇怪な対楚戦争を発動したのが、

時の呉でありました。

6-9、【雑談】孫子の兵法と孔子様

誤解を恐れずに言えば、

当時の感覚としては、

確かに画期的な反面、

やる方は卑怯で狂っている、

という感覚ではなかろうかと
思います。

とはいえ、
自由化の時代の結果オーライで、

衛の霊公なんぞ、

社長面接に臨む
戦車戦のプロで
何故かフリーターの孔子に
流行りの歩兵「陣」を聞いて
知らん顔されて、
(意訳につき、責任は持ちません)

当然ながら、

志望職種は君子です、な、
高飛車な先生に、

貴意に添えず、
と、やり返します。

スポンサーにとって
抽象的・非実用的なものが
中々売り手の儲けに
なりにくいのは、

世の古今東西を問わぬ模様。

―そのうえ、

孫子のそのイカレた戦法が
戦国時代以降の常識になるのは
御周知の通り。

もっとも、その下地は、
既に、晋の軍拡を中心に、
漸次整えられていたと
言えるかと思います。

とは言え、

実利と秩序を
天秤に掛けた時に、

竿がどちらに触れるのかは、

その時代の状況に
よるのでしょう。

社会に秩序を遵守する
余裕がなければ、
実利に傾く、

という話なのかもしれません。

また、こうした
頭数も兵糧も
大量に必要になる体質の
軍隊を養うには、

相応の資力や官僚組織が
必要になります。

具体的には、
先述の県の支配の話です。

支配者側にとっては、

領土が広かろうが
言うことを聞かない属国よりも

狭かろうが、
息の掛かった地方官を通じて
搾取出来る県の方が
都合が良い訳です。

有力諸侯が、
土地争いの際に
土着の氏族の影響力を
骨抜きにして
土地を寸断するようになるのが、

大体、前6世紀の後半以降の御話です。

もう少し正確に言えば、
呉の対楚戦争の少し前か。

おわりに

そろそろ、今回の記事の内容を
纏めようと思います。

概ね、以下のようになります。

1、周から春秋時代の国は、
国、野に大別出来る。

また、国境を「竟」
あるいは「疆」という。

2、未開の地が多かったことで、
国境の不明確な地域も多かった。

また、国の領土支配は
拠点に対する点と線の支配に
近かった。

3、国は首都に相当する邑、
野はその周辺を意味する。

なお、邑は、防御施設のある
居住地を意味する。

4、国に住む人々を国人といい、
軍事(外征)、政治、教育、
重要産品の商行為を独占していた。

野に住む人々を野人といい、
上記の権益から排除され
過酷な賦役義務があった。

5、邑の序列は、
一、首都に相当する国邑、
二、有力な血族の支配する族邑や
国君の直轄地である公邑
三、二の邑の支配する属邑
上記の3種に大別出来る。

また、二、三を含めて
鄙邑とも言う。

6、規模の大きい邑には
複数の血族が雑居するものの、
各々の血族が別々の居住区を
設けていた。

7、国軍の中核は国人が担った。

国邑の動員力が大きく
戦争のノウハウも鄙邑を
圧倒的に凌駕するのが
その理由である。

8、国人の有事の軍事組織と
平時の民政組織は連動していた。

また、兵士の編成単位は
平時の戸数に相当した。

9、国人は下士から下大夫で
構成されていた。

また、士の階層は、
野の有力者から成り上がった者も
含まれており、

出自は流動的である反面、
政策の実働部隊でもあった。

10、供出する兵士や牛馬
といった軍役は、
耕地面積と連動していた。

1甸(576夫)当たり
戦車1両・兵士75名・牛12頭が
ひとつの目安である。

11、『周礼』の定める行政単位と
春秋時代の実情には、
恐らく相当の乖離がある。

特に、県については、
春秋時代においても
意味する領域は
かなり変化があった。

12、1世帯あたりの耕地面積は、
関中や相当資本投下された地域を
例外として、
漢代の初め頃までは
それ程変わっていない可能性がある。

13、西周後半から春秋時代の
時代区分は、
以下の3時期に区切ると
大分分かり易くなる可能性がある。

1、西周後半から末期の混乱期
2、対楚同盟による覇者の時代
3、晋楚講和以降の下剋上の時代

なお、3の時期も少し下ると、
呉の対楚戦争で戦争の常識が一変する。

14、政治上の動乱と関係を持ちながら
身分や経済上の自由化が進行し、
軍事革命や国家の集権化を助長した。

15、肝心な『周礼』と時代の実情との
相違点はそれ程明確に出来なかった。
他日の再戦を期したい。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』
『周礼注疏』
『漢書』
『後漢書』
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻
土口史記「春秋時代の領域支配」
五井直弘「春秋時代の縣についての覺書」
増淵龍夫「春秋時代の縣について」
「春秋時代の貴族と農民」
若江賢三「春秋時代の農民の田の面積」
古賀登「阡陌制下の家族・什伍・閭里」
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3
愛宕元・冨谷至『中国の歴史』上
愛宕元『中国の城郭都市』
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』
佐藤信弥『周』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
原宗子『環境から解く古代中国』
飯尾秀幸『中国史のなかの家族』
高木智見『孔子』
浅野裕一『孫子』
湯浅邦弘『中国思想基本用語集』

【場外乱闘編・時代を遡って妄想する】

(本論にあまり関係ない雑談の類です。)

更新が大幅に遅れたことについて、
重ねて御詫び申し上げます。

私事で恐縮ですが、

今回は、大きな阻害要因が
なかったにもかかわらず、

身の丈を遥かに越えた内容と
格闘した末に、
とにかく疲弊した心地です。

特に、最後の方は、

一刻も早く書き上げて
試行錯誤の止まらない執筆作業から
解放されたかったのが
偽らざる心境でした。

さて、このブログを開設した当初は、

如何にタイトルが
「古代中国」とはいえ、

まさか、周代まで遡って
モノを考えることになろうとは
思いもしませんでした。

いえ、むしろ、恥ずかしながら
避けていた位でして。

ですが、三国志や戦国時代の
時代考証を進めるうちに、

特に社会の下層部分では
時代ごとの断絶性が
思った程には感じられず、

そうした部分から
目を背けていたツケを
かなり清算させられたような
気がしてなりません。

例えば、三国時代を対象とした
『後漢書』『正史』は元より、
『華陽國志』、『後漢紀』、
『東漢観紀』といった史料は、

あれだけ戦争をやった
時代にもかかわらず、

断片的な逸話こそ
少なからずあれ、

中々、兵隊の世界を
素直に語ってはくれません。

サイト制作者の読み方が
悪いこともあるのでしょうし、

この種の史書自体が
そもそもその種のことを
書かないと言えば
それまでで、

一方で、散逸している
事務的なマニュアルの類も
多いことでしょう。

ですが、そうした要因を
抜きにしても、

戦国時代に書かれた
政体書や兵書の内容を考えれば、
どうも隔世の感が否めませんし、

五胡十六国時代や隋の王朝史も
軍隊の末端の事情については
詳しく書かれている訳では
ありません。

【追記】
すみません。法螺が過ぎました。

曹操の『歩戦令』とか、
孔明先生の兵法関係のものとか、
後から出て来るんですね。

書き上げた後の精神状態が
アドレナリンが出まくって
一番ヤバいことで、
この駄文、消したい心地。

【追記・了】

恐らく、そうした理由として、
あくまで愚見ではありますが、
以下。

魏晋以降に筆を取った
知識人の間では、

軍隊や兵士の概念が
或る程度完成されており、

当時としては、

官兵であれ、豪族の私兵であれ、

彼等にとっては
身近で普遍的な存在であったの
かもしれません。

言い換えれば、

彼等にとっての軍事的な常識は、
その少し前の時代に
出来上がっていたのだと思います。

何名かの先生方が
指摘されているように、

戦国時代に戦争の形が大体整った、
という説は、
恐らく本当なのでしょう。

ですが、後世の視点で
アレコレ考える
サイト制作者としては、

無論、隊列を組んで弓を引いて
刀剣で人を殺したことなど
ある訳もなく、

そうした戦争の「常識」なんぞ、
知る術がありませんで。

―で、上記のような
妄想めいた仮説で
時代を遡って調べることを
思い付いて以来、

結果として、
さしたる成果も上げられず
悪戦苦闘している日々ですが、

差し当たって次回以降は、

当分、もう少し、
内容に地に足が付いたことを
やりたいと思います。

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近況報告

土口史記「春秋時代の領域支配」、稲畑耕一郎監修「図説 中国文明史3」、伊藤道治・貝塚茂樹『古代中国』、原宗子『環境から解く古代中国』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、愛宕元『中国の城郭都市』、小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻、等より作成。

まずは、更新が大幅に遅れて
大変申し訳ありません。

その理由として、

まず、盆に
ゲームに狂っていたのも
悪いのですが、

恐らく、それ以上に、

調べたことを書くに当たって
中々その切り口が見つからず、

その試行錯誤
時間浪費したことが
最大の理由です。

さて、目下作成中の記事は、

『周礼』地官
軍事動員についてのものです。

ですが、史料の性格柄
虚実定かならざる部分
あることで、

思い切って、

これに関する
西周末と春秋時代の
時代背景の整理にまで
踏み込むこととしました。

『管子』や『逸周書』等
一応は、この時代のものとされる
文献を読むための
下準備という
スケベ心があり、

さらには、サイト制作者の
当面の目標である
戦闘単位・「両」の理解にも
役に立つと考えたからです。

もう少し言えば、

戦国時代以降の俸給制の軍隊と、

平時の民政組織が
有事の軍隊組織に横滑りする
封建制の軍隊との違いを
知りたかったことも
ありまして。

―ところが、
サイト制作者の
作業量の見積もりが
あまりにも杜撰でして、

結果として、
これでエラい目に遭いまして。

具体的に言えば、

国野の概念の整理に追われ、

「県」の定義
時代ごとの
支配領域の変遷に攪乱され、

挙句、「邑」そのものの性質
邑と領土との関係
イマイチ分からない、
―という具合です。

因みに、

「県」は、春秋時代は
紀元前6世紀中頃までは
諸侯が他国より併合した
属領を意味し、

それ以降は、
秦漢時代程ではないにせよ、
直轄支配を伴う意味合いが
出て来ます。

ですが、
後日紹介する予定ながら、

周制では、
郊外の地域「野」の
2500戸の行政単位
「県」と呼び、

そのうえ、
「県」の領域自体も
一定ではありません。

国ごとまるっと併合して
県と呼ぶ場合もあれば、

併合した領土を細分化して
県と呼ぶ場合もあり、

挙句、時代が下ると
恐らくは画一的な動員基準で
兵隊を供給する県にもなる、

―という具合で、

こういう概念の整理が
面倒なこと
このうえなく。

また、「邑」は、
規模の大小を問わず
防御施設を伴った居住区です。

一国の中心的な大邑を
「国邑」などと呼びます。
首都でもあります。

―このような次第で、

調べ事を進める度に
1歩進んで2歩後退で、
新な疑問が生じるという悪循環。

そのような中、

冒頭のイラスト中の
参考文献の中にある
土口先生の論文、

土口史記「春秋時代の領域支配
―邑の支配をめぐって」
『東洋史研究』65-4
(PDFで無料ダウンロード可)

に出会ったことで、

漸く解決の糸口
見出せた心地につき、

今回の見苦しい言い訳を
思い付いた次第です。

また、この場を借りて、
イラストの内容の正否はともかく
土口先生に厚く御礼申し上げます。

【主要参考文献】
土口史記「春秋時代の領域支配」
増淵龍夫「春秋時代の縣について」
五井直弘「春秋時代の縣についての覺書」
稲畑耕一郎監修「図説 中国文明史3」

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軍務のイロハ?!『周礼』夏官司馬の軍事演習の件を読んでみよう

はじめに

『周礼』とは、
湯浅邦弘先生よれば、
現存最古の行政法典です。

周公旦が定めた制度を
記録したものと言われています。

前漢の武帝時代に
民間から発見されたようで、

成立した時代は
部分によって異なり、
遅いものは前漢末頃の模様。

具体的な内容は、
行政官の職務分掌法律
軍隊組織、挙句、
工業製品の規格にまで及ぶ、
何とも不思議な書き物です。

で、今回は、『周礼』夏官司馬
四季の軍事演習の件の拙い和訳です。

と、言いますのは、

この件が前回予告した
「両」の部隊編制とも
密接な関係にあるからです。

それどころか、

この書き物が
想定しているであろう
周の時代や春秋時代の初め頃はおろか、

それ以降の時代にも、

長い時の営みの中で
換骨奪胎を伴うとはいえ、

通じる部分が
少なからずありまして、

謂わば、
軍務の歳時記とでも言うべき
示唆に富む内容です。

春秋戦国時代や三国時代等の、
古代中国の軍隊という空間
イメージするに当たって、

一度は目を通して
損はない文章と思います。

特に、軍務の季節性や
戦術レベルの通信インフラ等、

調べ事の起点としては
秀逸な材料かと思います。

また、冬の大閲に至っては、

周以降の歴代の王朝も
時の軍事技術に合わせながら
挙行しており、

清代においても
3年に一度行われるのが
規則でした。

また、内容は元より、

文章自体も、
中々に臨場感があり、
書き物としても面白くあり。

実際、サイト制作者の座右の字引
(『漢辞海』第4版)には、
これが出典の言葉が
いくつもあることで、

昨今の先生方にも
広く読まれていると見受けます。

【追記】

本記事の存在意義を
否定しかねませんが、

木本拓哉先生が、

これについて、

以下の論文において
秀逸な和訳・要約・解説
なさっていることで、

まずは、当該の箇所を。

木本拓哉
「方苞における『周官』の修辞法解釈」
『崇城大学紀要』44号

下記の国立情報学研究所の
論文検索サイトから
PDFを入手!

ttps://ci.nii.ac.jp/
(1文字目に「h」を追加。)

サイト制作者の粗い訳と読み比べて、

嘲笑いながら
添削するのも一興かと。

【追記・了】

そこで、今回は思い切って、

摘まみ喰いで
大意を抜くのを止め、

原文で直に
ニュアンスを掴んで頂くことに
しました。

その方が、
伝わり易いうえに
見世物としても
面白いと思ったからで、

声に出すと、
一層、イメージが
湧き易いかもしれません。

とはいえ、

サイト制作者も含めて
漢文の読解力に自信がない方々
数多いらっしゃるであろうことで、

その対策として、
いくつか工夫しました。

まず、流れとしては、
原文を長くなり過ぎないように
四季ごとに分け、

難解か、あるいは、
文意に即しても訳しにくい字には
説明を付け、
(殆ど字引の転写です。)

見よう見真似で
出来にはあまり自信はありませんが、
書き下し文と和訳も用意しました。

それでは、前置きが長くなって
恐縮ですが、
以下、本文に入ります。

なお、原文は維基文庫のものを
多少加工しました。

1、中春

原文

中春教振旅、司馬以旗致民、
平列陳、如戰之陳(陣)。

辨鼓鐸鐲鐃之用—王執路鼓、
諸侯執賁鼓、軍將執晉鼓、
師帥執提、旅帥執鼙、
卒長執鐃、兩司馬執鐸、
公司馬執鐲—
以教坐作、進退、疾徐、疏數之節。

遂以搜田、有司表貉、
誓民、鼓、遂圍禁、
火弊、獻禽以祭社。

中春:3月(旧暦2月中旬)
振(ととの・う):整備する
旅:群衆、周制における
軍隊の編成単位・500名。
(一説に2000名)下大夫が統率。
致:招き寄せる、受け容れる
辨(べん・ず):治める、処置する
路:天子の車
賁(ふん・ほん):大きい、美しい飾り
晉:腰帯等に挿す(訓読み・はさむ)
師:周制における
軍隊の編成単位・2500名で
中大夫が就任。地方長官。
帥:各階級の最高指揮官。
提:馬上で用いる太鼓
鐃(どう):小さい鐘。
卒長(100名)・下士以上が持つ。
これに付随して、
鐘(鉦:打楽器のひとつ)は退却の時の合図。
両司馬:25名を統率する指揮官。
中士。両は伍(5名)5隊で構成される。
鐸(たく):大きな青銅製の鈴
鐲(しょく):小さな鐘のような鈴。
行軍の折、太鼓を調整する時に鳴らした。
坐作:坐は足の甲を地面から浮かせた正座。
作は立ち上がること。
また、「坐作進退」は練兵の一教科。
疾徐:緩急。
疏數(そすう):まばらな様と密集した様。
搜(捜):狩猟。
田も、耕作地以外に、狩猟の意味を持つ。
禽(きん):古くは獣。
後に、鳥と獣の総称。ここでは、鳥か。
有司:役人
表(あらわ・す):上着を被る。
貉(ばく):イタチ科の哺乳類。
アナグマ、むじな。
誓(いまし・む):訓戒や決意を
号令として示す。
遂(すす・む):前進する。
禁:檻・囲い。
火:松明、明かり、灯
社:土地の神、土地の神を祭る廟。

書き下し文

中春に旅を教え振い、
司馬旗を以て民を致し、
平らげて陳(陣)を
列すること、
戰の陳の如し。

鼓鐸鐲鐃之用を辨ず。

王は路鼓を執り、諸侯は賁鼓を執り、
軍將は晉鼓を執り、師帥は提を執り、
旅帥は鼙を執り、卒長は鐃を執り、
兩司馬は鐸を執り、公司馬は鐲を執る。

以て坐作、進退、
疾徐、疏數之節を教ふ。

遂(すす)むに以て田を搜し、
有司貉を表(あらわ)し、
民に誓(いまし)む。

鼓し、遂みて圍を禁ず。

火を弊し、禽を獻じ以て社を祭る。

和訳

3月に群衆を訓練し、
司馬は旗で民を呼集し、
雑踏を収拾して
戦時のように布陣させる。

軍楽器の用途を確認し点検する。

王は専用車据え付けの太鼓を、
諸侯は大型の太鼓を、
軍将は腰帯に挿す太鼓を、
師帥軍用の小さい太鼓を、
卒長は小さい鐘を、
両司馬は大きな青銅製の鈴を、
公司馬は小さな鐘のような鈴を扱う。

そして、科目としての
戦闘動作を教える。

部隊は前進しつつ狩りを行い、
役人はむじなの毛皮を被り、
民に指示を出す。

太鼓を鳴らし、
前進して狩猟地を封鎖する。

松明を消し倒し、
祭壇に供え物の鳥を献上し、
土地の神を祭る。

2、中夏

原文

中夏教茇舍、如振旅之陳。

群吏撰車徒、讀書契、
辨號名之用、帥以門名、
縣鄙各以其名、家以號名、
鄉以州名、野以邑名、
百官各象其事、以辨軍之夜事。

其他皆如振旅。

遂以苗田如搜之法、
車弊、獻禽以享礿。

中夏:6月(旧暦5月中旬)
茇(ばつ):野宿する、除草する。
舍:家屋。
吏:役人の総称。
漢代以降は下級役人を意味する。
撰(せん・じる):結集する。
車:戦車。
徒:随伴歩兵。
戦国時代以降のような
歩兵の単独兵科ではない。
書契:契約・記録等の文書
號(号、さけ・ぶ):声高に叫ぶ。
門:家、一族。
縣(県):地方の行政区画。
周制では遂に属し、
1県は4郡に分かれる。
その他、畿内を意味する。
天子の住む都城の
周囲1000里(周代:1里=324m)
以内の地域。
鄙:地方の行政単位。500戸。
もしくは、辺境の地。
追記:土地の区分けで、5鄙=1県。『周礼』地官より。
家:卿大夫の領地。
鄉:集落の編成単位。周制では12500戸。
州:周制における集落単位。2500戸。
因みに、100戸=1族、
5族・500戸=1党。5党=1州。
野:王城より200~300里離れた土地。
邑:大夫の領地。
象(かたど・る):則る(のっとる)、
倣う
事:職務・任務、ここでは夜戦を意味する。
享(すす・む):祭って供え物を捧げる。
礿(やく・よう):天子が行う祭。

書き下し文

中夏に茇舍に教ふ。

旅の陳を振(ととの)ふが如し。

群吏は車徒を撰じ、書契を讀し、
號名の用を辨じ、
帥は以て門の名を、
縣鄙は各以てその名を、
家は以て號名を、鄉は以て州名を、
野は以て邑名を、
百官各其事を象(かたど)り、
以て軍の夜事に辨ず。

その他皆旅を振うが如し。

遂むに以て苗田の搜之法が如く、
車を弊し、禽を獻じて以て礿を享す。

和訳

6月に除草された家屋で
軍事訓練を行う。

呼集された群衆は
整然と布陣するように行う。

居合わせる役人達は
戦車と随伴歩兵を結集し、
規則を読み上げ、
呼称の内容や正誤を確認し、

最高指揮官は一族の名を、

【追記】

これは誤りでして、
文字通り門の名前です。

例:「東門」、「桐門」等。

当時の卿以上の軍将は、
城門を在所として統治を行い、
『春秋左氏伝』にも
例文があるそうな。

つまりは、

恐らくは、
或る程度の公共性を帯びた
通り名のようなもので、

門の名前を出せば、
人物を特定出来た、

という話だと思います。

典拠:『周礼注疏』28巻

【追記・了】

縣や鄙はその名を、
卿大夫の領地はその名称を、
郷はその州名を、
王都よりの遠方の地は
大夫の領地の名を、

それぞれの担当の役人は
これに準じて呼称する。

そして、これを
夜間の職務として扱う。

その他は、
群衆を教練するように行う。

耕作地で
狩猟の作法に準ずるように前進し、
戦車を駐車し、
鳥を献上して
天子が行う祭祀の供え物とする。

3、中秋

原文

中秋教治兵、如振旅之陳。

辨旗物之用、
王載大常、諸侯載旗、
軍吏載旗、師都載旃、
鄉家載物、郊野載旐、百官載旟、

各書其事與其號焉。

其他皆如振旅。

遂以獼田如搜之法、
羅弊、致禽以祀祊。

中秋:9月(旧暦8月中旬)。
治(おさ・む):管理する、統治する。
旗:『周礼』春官・司常之職によれば、
「九旗」という概念があり、
漢代の『釈名』にも解説がある。
これは、旗の異なる図柄や飾り
(例えば、斿:ユウ・はたあし、
旗の下辺に付ける、の数等)によって、
等級や用途を表すことを意味する。
常:日月を描いた旗。
旗:虎と熊の図。
斿が5本あり、集合を意味する。
演習に際して、
民衆を呼集する折に使う旗もこれか。
軍吏:軍隊の各階級における
長官の総称。文官も含む。
旃(せん):図柄は無地の赤。
柄は曲がっている。
無事であることを象徴する。
物(ぶつ):多色のもの。
多色の絹を縁に縫い付けて燕尾とする。
物が雑則であることを象徴する。
旐(ちょう):亀と蛇の図柄。
亀と蛇は、災厄を避ける象徴。
出棺を先導する旗でもあり、
先行きの形勢をはかる用途も持つ。
旟(よ):隼の図柄。名誉を象徴する。
獼(び):「獼猴」でサル科の哺乳類。
上半身は灰褐色、
腰以下は黄橙色の毛に覆われ、
群居する猿。

【追記】

獼(せん)は、君主が行う秋の狩猟。

したがって、「獼田」も
狩猟を意味することと思います。
春は蒐(しゅう)、夏は苗(みょう)、
あるいは苗田、そして冬は狩(しゅう)。

【追記・了】

羅:鳥を捕える網。
祊(ほう):宗廟の門内に設けて
祭りを行う場所。
宗廟で祖先を祭る祭礼。

書き下し文

中秋に兵を治むを教う。

旅の陳を振るうが如し。

旗物の用を辨ず。

王は大常載(お)び、
諸侯は旗を載び、軍吏は旗を載び、
師都は旃を載び、鄉家は物を載び、
郊野は旐を載び、百官は旟を載び、

各その事とその号を書(しる)すなり。

その他皆旅を振ふが如し。

遂むに以て獼田を搜すの法が如し。

羅を弊し、
禽を致すに以て祊に祀(まつ)る。

和訳

9月に練兵を命令する。

群衆が整然と布陣するように行う。

旗の用途を確認し、点検する。

王は日月の図柄の旗を、
諸侯・軍の各階級の長官は
虎と熊の図柄の旗を、
都の師は曲がった柄で無地の赤旗を、
郷・家は多色の旗を、
遠方の勢力は亀と蛇の図柄を、
百官は隼の図柄の旗を携帯し、

旗には規則に定められた
図柄と称号を記す。

その他は、
群衆を練兵するように行う。

山野で狩りを行う作法に
準拠するようにして前進する。

鳥を捕える網を倒し、
鳥を招き寄せ、
宗廟の門内で祭礼を行う。

4、中冬

原文

中冬教大閱。

前期、群吏戒眾庶修戰法。

虞人萊所田之野、
為表、百步則一、
為三表、又五十步為一表。

田之日、司馬建旗于後表之中、
群吏以旗物鼓鐸鐲鐃、各帥其民而致。

質明、弊旗、誅後至者、
乃陳車徒如戰之陳、皆坐。

群吏聽誓于陳前、斬牲、以左右徇陳、
曰「不用命者斬之!」。

中軍以鼙令鼓、鼓人皆三鼓、
司馬振鐸、群吏作旗、車徒皆作。

鼓行、鳴鐲、車徒皆行、及表乃止。

三鼓、摝鐸、群吏弊旗、車徒皆坐。

又三鼓、振鐸作旗、車徒皆作。

鼓進、鳴鐲、車驟徒趨、及表乃止、
坐作如初。

乃鼓、車馳徒走、及表乃止。

鼓戒三闋、車三發、徒三刺。

乃鼓退、鳴鐃且卻、及表乃止、
坐作如初。

遂以狩田、以旌為左右和之門、
群吏各帥其車徒以敘和出、
左右陳車徒、有司平之、
旗居卒間以分地、前後有屯百步、
有司巡其前後、
險野人為主、易野車為主。

既陳、乃設驅逆之車、
有司表貉于陳前。

中軍以鼙令鼓、
鼓人皆三鼓、群司馬振鐸、車徒皆作。

遂鼓行、徒銜枚而進。

大獸公之、小禽私之、獲者取左耳。

及所弊、
鼓皆駭、車徒皆躁。

徒乃弊、致禽馌獸于郊、
入、獻禽以享烝。

中冬:12月(旧暦11月中旬)。
閲(えつ):集める、まとめる。
大閲で大規模軍事演習。
前:あらかじめ、前もって。
期:決まった、
あるいは約束した時間・機会。
周期的な時間。
戒(いまし・む):命ずる、告げる。
眾(衆)庶:多くの人々、万民。
虞(ぐ)人:山林・沼沢を担当する役人。
虞師。呉の虞翻の御先祖様の職業か?。
萊(らい):耕作地が荒れ、草が生える。
表:標識。
標識を立てて
距離を計測する方法は、
『蔚繚子』にもある。
歩:周制は1尺18cm。
6尺=1歩=108cm。
質明:明け方。
事もあろうに、
字引の当該の項目の隅に
こっそり書いてあった。
聽(聴、したが・う):勧告や意見に従う。
牲(いけにえ):祭祀や食用に供される家畜。
驟(は・す):速く走る。
趨(はし・る):早足で駆ける。
闋(けつ):楽曲が終止する。
卻(しりぞ・く):後ろに下がる。
狩田:冬に兵を訓練するための狩猟。
旌(せい):五色の鳥の羽を裂いて
飾りとしたもの。
旗頭を、羽を裂いたものと
カラウシの尾で飾る。
兵士の意気を奮わせる。
指揮官用の戦車に立てる。
敘(つい・ず):順序立てる。
和(と、わ・す):~と、双方。合わせる。
屯(たむろ・す):駐屯する。
守りの為に留まる。
險(険):地形が険しい。
山川が危険で交通困難な難所。
驅(駆)逆:獣を追い、
狩場に追い込み逃走を阻止する。
鄭玄注。
枚:兵士が奇襲を行う際に噛む
箸のような木切れ。
例えば、『司馬法』にもこの件がある。
駭(おどろ・く):驚き騒ぐ。
躁(さわ・がし):焦っている、
あるいは、平静でない様。
弊(つか・る):疲れる。
馌(饁、おく・る):狩猟の時、
動物を捧げて神を祭る。
郊:国都から半径50里が「近郊」、
100里が「遠郊」。
烝:火で炙る。

書き下し文

中冬に大閱を教ふ。

前期、群吏眾庶を戒め戰法を修む。

虞人萊所田之野に表を為す。

百步を則ち一とし、三表を為し、
また五十步に一表を為す。

田の日、
司馬は表の中の後ろに旗を建ち、
群吏は旗物鼓鐸鐲鐃を以てし、
各帥その民を致す。

質明、旗を弊し、後に至る者を誅し、
乃ち車徒を陳すること戰の陳の如く、
皆坐す。

群吏は陳前に誓に聽い、
牲を斬り、以て左右の陳を徇し、
曰く「命を用いざる者は之を斬る」。

中軍は鼙を以て鼓令め、
鼓人皆三鼓し、
司馬は鐸を振え、
群吏は旗を作(た)て、
車徒は皆作つ。

鼓行し鐲を鳴らし、車徒皆行き、
表に及んで乃ち止む。

三鼓し、鐸を摝し、群吏旗を弊し、
車徒坐皆す。

また三鼓し、鐸を振るい旗を作ち、
車徒皆作つ。

鼓進し、鐲を鳴らし、
車は驟せ徒は趨り、
表に及んで乃ち止み、
坐作すること初めの如し。

乃ち鼓し、車は馳せ徒は走り、
表に及んで乃ち止む。

鼓は三闋、車は三發、
徒は三刺を戒む。

乃ち鼓は退き、
鐃は鳴り且つ卻(しりぞ)き、
表に及んで乃ち止み、
坐作すること初めの如し。

遂みて以て田狩し、
以て旌を左右に和する門に為し、
群吏各帥はその車徒を以て
敘じて和して出で、

左右の陳の車徒、
有司これを平らぐ。

旗の居する卒の間を以て地を分け、
前後百步屯する有り、
有司その前後を巡り、

險野は人を主と為し、
易野は車を主と為す。

既に陳し、乃ち驅逆の車を設け、
有司は陳前において貉を表す。

中軍は鼙を以て鼓(う)たしめ、
鼓人皆三鼓し、群司馬鐸振るい、
車徒皆作つ。

遂みて鼓行し、
徒は銜枚し進む。

大獸はこれを公にし、
小禽はこれを私にし、
獲は左耳を取る。

弊すところに及び、
鼓は皆駭き、車徒は皆躁がしくす。

徒は乃ち弊れ、
郊において禽を致し獸を馌し、
入りて、禽を獻じて以て烝して享す。

和訳

12月に軍の大規模な巡視を行う。

期間中に先立ち、
諸役人は群衆に命じて
段取りを覚えさせる。

山林沼沢を担当する役人は、
荒地や狩場に標識を立てる。

108mごとに標識を3本立て、
さらに54m先に標識を1本立てる。

狩猟の日に、
司馬は標識の後ろに旗を立て、
諸役人は旗や楽器で合図し、
各指揮官は群衆を呼集する。

明け方に旗を倒し、
遅れる者を斬り、
戦車や随伴歩兵を戦時のように布陣し、
正座する。

諸役人は陣の前で
上官の訓示・命令を拝聴し、
左右の陣を巡視し、
「命令を聞かない者は斬る」と言う。

中央の軍は小さい太鼓を打たせ、
担当役人は規則通りの調べを
三度鳴らし、
両司馬は大きな鈴を鳴らし、
諸役人は旗を立て、

戦車と随伴歩兵は全員起立する。

太鼓を盛んに打ち、
小さな鐘を鳴らし、

戦車と随伴歩兵が
行軍の速度で前進し、
標識に到達して停止する。

太鼓の調べを三度打ち、
両司馬は大きな鈴を鳴らし、
諸役人が旗を倒し、
戦車兵と随伴歩兵は全員正座する。

さらに太鼓の調べを三度打ち、
両司馬は
大きな鈴を鳴らして旗を立て、
戦車と随伴歩兵は起立する。

最初の行動のように、
太鼓で前進し、小さな鐘を鳴らし、
戦車は快走し、随伴歩兵は速足で駆け、
標識で停止して正座する。

さらに太鼓を鳴らし、
戦車は快走し、随伴歩兵は早足で駆け、
標識で停止する。

太鼓の調べを三度打ち、
戦車は三度攻撃態勢を取り、
随伴歩兵には
武器で三度突くことを命じる。

その後、太鼓の担当は後退し、
卒長は小さい鐘を鳴らしながら後退し、
標識の前で停止し、
最初のように正座する。

前進して狩猟を行う際に、
五色の鳥の羽を裂いて飾りとした旗を
左右双方の陣地の門に立て、

諸役人や各指揮官は
指揮下の戦車や随伴歩兵を
秩序立てて結集して出撃し、

担当役人が
左右の陣の戦車と随伴歩兵の秩序を保つ。

各々の旗手間の間隔を108m空け、
担当役人がその前後を巡回し、

険しい地形には歩兵を、
平坦な地形には戦車を配置する。

布陣した後、獣の駆逐用の戦車隊を編制し、
担当役人は陣の前でムジナの毛皮を被る。

中央の軍は小さい太鼓を打たせ、
太鼓の担当は調べを三度打ち、
両司馬達は大きな鈴を鳴らし、
戦車兵と随伴歩兵は全員起立する。

太鼓を鳴らしながら前進し、
随伴歩兵は
木切れを口に挟みながら行軍する。

大きな獣は官有物、
小さな鳥は私物とし、
獲物の左耳を切り取る。

動物を狩る瞬間、
太鼓が鳴り響き、
戦車兵と随伴歩兵はどよめく。

随伴歩兵が疲れたところで、
城の近郊で狩った鳥を集めて
祭礼を行い、

入城後に獣を火で炙って
祭礼の供え物とする。

【主要参考文献】(順不同・敬称略)

戸川芳郎監修『漢辞海』第4版
湯浅邦弘『中国思想基本用語集』
薛永蔚『春秋時期的歩兵』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
その他、過去の記事における
読者の方の和訳等も
参考にさせて頂きました。

【追伸】

大変遅れて申し訳なく思いますが、
井波律子先生の御冥福を
心より御祈り申し上げます。

特に、三国志の正史の和訳には
このうえなく御世話になりました。

また、今回の拙い和訳にあたって、
事の煩雑さを
多少なりとも垣間見た心地です。

その他、これを書くにあたって、
せめて、背景を説明する
論文のひとつでも
読みたかったのですが、

最寄りの国立大学が
学外者の立ち入りを
許可しない等、
コロナで行動が
制約されているうえに、

例によって
サイト制作者の時間管理が甘く、

旗のことを調べて
時間を浪費する等して、

結果として、
投稿が遅れに遅れて
大変恐縮です。

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復習、伍と最末端の戦闘

長くなったことで、
章立てを付けます。

例によって、
適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

はじめに
1、伍は、恐らく縦隊
2、編制の目的
3、薛永蔚先生のモデルの紹介
4、射撃戦・白兵戦のグレー・ゾーン
5、弓弩の射程と装填時間
6、突撃行動の要領
7、白兵戦の様相
8、薛先生モデルの兵士間の間隔
9、武器と鋼材の関係
10、充足状況について考える
11、刑の重さと命の相場
おわりに(結論の整理)

はじめに

今回は、古代中国における
最小戦闘単位であるの御話

以前、伍について、
いくつか記事を書きましたが、

それらをまとめたうえで加筆したものです。

―次回以降、
集団戦の人数を少しづつ増やすべく
サイト制作者の記憶の整理も
含めまして。

それでは、早速、本文に入ります。

1、伍は、恐らく縦隊

まず、伍とは、恐らく、
5名からなる縦隊です。

何故、縦隊であることが
分かるかと言えば、

薛永蔚先生によれば
いくつか典拠がありまして、

例えば、
『通典』兵典・兵一には、

古来の兵法を紹介する件で
以下のような文言があります。

凡立軍、一人曰獨、二人曰比、
三人曰參、比參曰伍、五人為烈(列)、
烈有頭。

2名(比)+3名(参)で5名(伍)、
5名を列にする、という訳です。

因みに、座右の字引(『漢辞海』第4版)
によれば、

「列」には、
縦隊・横隊の区別はありません。
文脈で判断する他なし。

また、『春秋左史伝』
昭公十八年には、

「城下之人、伍列登城」

という文言があります。

火事の対策として、
城下の人員を隊列を組ませて
城壁に上らせるのですが、

その際の隊形が伍の「列」
つまり縦隊。

その他、顧炎武等も、
伍を縦隊としているそうな。

ですが、伍は縦隊ではない、
という意見
あるにはありまして、

例えば、
サイト制作者が
最近知ってたまげたのは、

明代に書かれた『武備志』に、

5名の兵士が「X」の字に
配置され、
それを「伍」と称する図が
ありまして、

その詳細を確認中です。

【追記】

薛永蔚先生によれば、
これは明代の宋征壁が
考案したものだそうです。

で、この「X」字の伍を
5つ編制して
「両」とするのですが、

薛先生曰く、
兵器の原則や
指揮系統を考慮しても
用を為さないとのこと。

【追記・了】

ですが、サイト制作者自身、

今のところ、

伍は縦隊である
という説を取ることで、

このまま話を進めます。

【追記】

根拠が不明確にもかかわらず
縦隊と断定するのも
おかしな話ですが、

今回は、話の便宜上、
ということで御寛恕頂ければ幸いです。

もし、前提を覆す根拠が出た場合、
勿論、別に記事を用意します。

【追記・了】

2、編制の目的

続いて、伍に持ち寄る兵器には、
以下のようなものがあります。

弓、殳(しゅ)、矛(ぼう)
等の長兵器、

手戟、短戈、
刀、剣、等短兵器、

鎧、盾等の防具を持ち寄ります。

(「〇〇兵器」は兵器のカテゴリー。
交戦距離における長兵器・短兵器、
火砲か否かで火兵器・冷兵器、
暗殺用に暗兵器、等があり、
弓を射兵器とも呼称。
詳しくは、篠田耕一先生の
『武器と防具 中国編』参照。)

そうすることによって、

距離や戦闘方法で
弱点を作らず
柔軟な戦い方をすることが、

この縦隊編制の目的です。

『司馬法』定爵篇に、
以下の件があります。

「右兵弓矢禦、殳矛守、干戟助」
右:たっとぶ

3、薛永蔚先生のモデルの紹介

縦隊を構成する
兵器の組み合わせや、

各々の兵士の間隔については、

まずは、薛永蔚先生
『春秋時期的歩兵』で書かれた
伍のモデル
観て頂くのが良いと思います。

薛永蔚『春秋時期的歩兵』、篠田耕一『武器と防具 中国編』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』、守屋洋・守屋淳『全訳 「武経七書」2』等(敬称略・順不同)より作成。

実は、このモデルは、
管見の限り
2、3の文献で引用されています。

例えば、以下。

篠田耕一『三国志軍事ガイド』
来村多加史『春秋戦国激闘史』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史3』

また、先に書いた記事で
相応の根拠のある
このモデルを紹介しなかったことを
非常に後悔しています。

それでは、具体的な内容について。

そもそも、
薛先生が5名の数字を挙げたのは、

縦隊か否かはともかく、

「伍」が最小戦闘単位
であること自体は、

多くの漢籍の内容で
一致を見ているからです。

そのうえで提示されたモデルは、
持ち寄る兵器
各々の兵士の間の距離

その他の補足部分は、
サイト制作者
古典漢籍を含めた複数の文献から
摘まみ食いしたものです。

恐らく、持ち寄る武器や
各々の兵同士の縦横の間隔等で
国や地域、時代ごとに
バラ付きがあり、

それだけ、実態が不明な部分も
多い訳です。

それでは、
同モデルの
具体的な説明に入ります。

まずは、
対敵方向からの順序ですが、

大体は前列に短兵器、
後列に弓を含めた長兵器、
という組み合わせ。

薛永蔚先生によれば、

最後尾の弓兵は、
前の4名の動きが見えることで
伍長である可能性があるそうな。

続いて、各々の兵士の間隔ですが、

図のように、
先頭からふたり目は1.8m、
4人目迄は5.52m、
さらに、5人目迄は7.2m。

詳細は後述しますが、

大体の根拠としては、
各々の武器の長さ
計算されています。

以下は、古代中国における
度量衡の表です。

戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版p1796の表より抜粋。

その際の換算基準は
戦国時代の場合は、
1尺=23.1cm。

また、1尋という単位は、
両手を水平方向に伸ばした時の
左右の長さでして、

同時に、身長も意味します。

そして、このモデルで、

交戦距離に応じて
前後を入れ替えながら
柔軟に戦う訳です。

4、射撃戦・白兵戦のグレー・ゾーン

伍は元より、
歩兵の交戦距離に応じた
戦い方としては、

具体的には、
以下のような図の状況を
想定します。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、守屋淳・守屋洋訳・解説『全訳 武経七書 2』、(敬称略・順不同)より作成。

この図は、主に、
『蔚繚子』の制談篇・兵教上篇
内容をもとに作成したものです。

まず、同書の制談篇に
以下のような件があります。

殺人於百歩之外者、弓也
殺人於五十歩之内者、矛戟也

交戦距離の基準は、
両軍の最前列間の間隔で、

さらに彼我の弓兵が
最前列で弓合戦を行う場合
だと思いますが、

秦尺で換算する場合、

先述の表を基に、
23.1cm×6=138.6
大体1歩1.4mとします。

百歩之外、つまり、
大体140m以上は弓の射撃戦、

五十歩之内、つまり、
大体70m以下は矛戟の白兵戦。

言い換えれば、
70mから140mは
射撃戦と白兵戦とのグレー・ゾーン。

5、弓弩の射程と装填時間

因みに、
篠田耕一先生によれば、

弓の最大射程は300mですが、

内、有効射程は100m程度、

さらに、相手が鉄の鎧を
付けていると
70~80mに狭まります。

それも、恐らく曲射だと思います。

また、例えば、
戦いの出端の場合、

相手が射撃戦を仕掛けて来る
弓兵にせよ、
突っ込んで来る矛戟の兵にせよ、

横一列で隊列を整えているので、

各々の兵士が
目視で好きな相手を射る訳ではなく、

指揮官が仰角を調整して
一斉射撃を行うことでしょう。

その際、
これはサイト制作者の想像ですが、

先頭から2番目の伍では
最前列に弓兵が出張り、

開戦時に敵との交戦距離が短ければ
先頭の伍の最前列の弓兵と連携して
敵に弓を浴びせる、

―という行動を取った可能性も
あるかもしれません。

もっとも、弩の場合、
篠田耕一先生によれば、

戦国時代のもので
最大射程が810m、

また、楊泓先生の
『中国古代兵器論叢』
によれば、

漢代のものは、
さまざまな規格がありますが、
射程距離は大体200m前後。

これは有効射程だと思います。

さらに、篠田先生曰く、

唐代の弩弓手
動かない目標に対して
距離約358mで
4発中2発の命中を要求された
そうです。

また、実戦では、
命中の可否はともかく
150mで目視で射たそうで、

恐らく、直射に近い軌道で
これ位飛んだのでしょう。

ですが、発射には
10~15秒、つまり、
弓の倍掛かり、

そのうえ、
動きながらの装填は
難しいと来ます。

距離を詰められると
物の役に立ちません。

また、数も揃わず、
唐代ですら、
配備率は全兵士の2割。
因みに、弓は全員です。

とはいえ、、
来村多加史先生によれば、

戦国時代後半以降は、

歩兵方陣の前か両翼、
もしくは双方に
弩の部隊を配備し、

会戦と同時に斉射し
後列に下がらせる、

―という、集中運用する戦法が
漸次採られていく
ようになりました。

大国の経済力が
それを可能にしたのかも
しれません。

因みに、『呉子』治兵第三

教戦之令、短者持矛戟、
長者持弓弩

と、あります。

身長の低い者に矛戟を
高い者に弓弩を持たせろ、
という訳ですが、

弓弩が一緒くたにされている、

つまり、先述のような
弩の集中運用を
想定していない訳です。

6、突撃行動の要領

一方、このような
弓弩の側の事情とは別に、

突撃を掛ける側としては、

極端な場合、

既に300歩≒420m位から、
白兵戦を想定する動きをします。

『蔚繚子』兵教上篇には、
以下のような件があります。

大将教之、陣於中野、置大表三
百歩而一
既陣、去表而
百歩而、百歩而

表:目印の柱
決:殺す、白兵戦(先生の良い訳!)
騖:素早く走る、全力疾走
趨:小走りに進む、速足で駆ける

これは訓練の話ですが、

100歩ごとに目印の柱を立て、
各々、全力疾走、小走り、
白兵戦の訓練をさせる、

―という訳です。

さすがに、実戦で、
420mも走り続けた後に
血みどろの白兵戦をやる、

という訳ではないと思いますが、

こちらから白兵戦を
仕掛ける場合は、

全力疾走→速度調整→白兵戦
という手順で
敵との交戦距離を詰め、

その際、これ位走る体力があれば
実戦でも差し支えない、

ということなのでしょう。

交戦距離が縮む程、

攻守双方、
色々な思惑が交錯します。

7、白兵戦の様相

そして、様々な駆け引きの末に
彼我の交戦距離が縮まり、

先頭の伍の最前列同士が
ゼロ距離で遣り合った場合、

恐らく、以下のような状況になります。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、学研『戦略戦術兵器事典 1』、篠田耕一『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

春秋時代から
前漢の前半辺りまでは、

伍の最前列で重宝した武器は
戈や戟。

使い方は、故・林巳奈夫先生
『中国古代の生活史』
民国時代の喧嘩の作法も含めて
詳しいのですが、

元は戦車戦用の長物でして、
これが歩兵用の長さと
なりました。

戈や戟で相手の首を
引っ掛けるか、

あるいは、
体に打ち込みます。

そのうえで、
引き寄せて髪を掴んで
生首を落す、という手順。

その際、相手の首を目掛けて
付き出すか打ち下ろすことで、

横に振り回すのには
向きません。

また、古代中国における
短兵器の兵士は、

長兵器をかわすための
盾を持っています。

敵がもし、短期決着を嫌い、

長兵器の兵士を
最前列に並べた場合でも、

睨み合いを長引かせずに
相手の懐に
飛び込むのであれば、

それ程不利にならなかったの
かもしれません。

ですが、そうなる気配があれば、

敵は最前列の長兵器の兵士と
後列の短兵器の兵士を入れ替え、

後列に下がった戟や長兵器は、

前の列の横隊の隙間から
長物を繰り出して
味方を援護します。

こうなると、条件は互角で、
練度や兵器の質の良し悪しが
モノを言うことでしょう。

このような
長兵器と短兵器の関係について、

『司馬法』定爵篇では、

凡五兵五当、長以衛短、短以救長
迭戦則久、皆戦即強

迭:たがいに

長兵器と短兵器は
相互補完の関係にあり、

入れ替えて戦えば
長時間戦闘可能で、

一度に繰り出せば
強力な戦闘力を発揮する、

(殆ど訳書の訳!)

因みに、白兵戦の場合、
当然、弓兵は最後列に下がり、

引っ切り無しに
弓を射まくります。

先述の『呉子』治兵第三のように、

体格的には、
周囲の見えるのっぽさんが適格。

また、恐らくこの状況下では
交戦距離も短かくなっているで、

隊列の隙間から
直射同然の軌道で
手当たり次第射たものと想像します。

8、薛先生モデルの兵士間の間隔

さて、肝心の、
縦隊における
各々の兵士間隔ですが、

もう一度、
薛永蔚先生のモデル
確認します。

薛永蔚『春秋時期的歩兵』、篠田耕一『武器と防具 中国編』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』、守屋洋・守屋淳『全訳 「武経七書」2』等(敬称略・順不同)より作成。

それでは、
このモデルの根拠は以下。

まず、『周礼』考工記
以下の件があります。

酋矛常有四尺、夷矛三尋
凡兵無過三其身、過三其身、
弗能用也
而無已、又以害人

要は、歩兵用の矛が4尺、
戦車用の矛(夷矛)が3尋
(尋:両手を広げた時の幅=身長)
の長さがあるが、

人の身長の3倍を超えれば
役に立たない、

―と、いう訳です。

で、薛先生、

周代とされる
マニュアルに対して、

大胆にも秦尺に換算しまして、

1尋=8尺=身長
23cm×8=1.84m

(1尺23cmと換算)

さらに、矛の長さが
人の身長の3名分として、

1.84cm×3=5.52m

で、この長さが
意味するところは、

先頭から4番目の
長兵器の兵士が
矛を構えた際、

先頭の短兵器の兵士に届く、
つまり、援護出来る距離です。

さらに、その4番目の兵士と
等間隔で、
真後ろに弓兵が来まして、

〆て縦隊の長さは7.36mと
御本には書いてあります。

ですが、何故か、

先頭とふたり目の間隔が
1.8mとなっており、

それどころか、

以下のような
ぶっ飛んだことまで
書いています。

至于戈、戟及殳、矛的順序、
或前或後就都无関大体了。

戈、戟、矛、殳の順序は
前後は全て相関関係がある、
という訳ではなく
大体である、という訳で、

哎呀、という他はありません。

酒でも飲みながら
書いているのか、と。

要は、縦隊編制を前提に、

4人目の長兵器の兵士が
先頭の短兵器の兵士を
援護出来るのが肝、

ということなのでしょう。

モデルの縦隊の長さは
1.8m×4=7.2m。

これも、御本よりの
そのままの転写で御座います。

こういうところは、

中国人のいい加減さが
出ているのかもしれません。

また、この場合の秦尺換算では
平均身長が184cmとなり、

実情に比して少し高くあり。

例えば、先述の『周礼』考工記に

車有六等之數(中略)
人長八尺、崇於戈四尺、謂之三等

と、ありまして。

つまり、周尺で144cm程度。

また、鶴間和幸先生
『人間・始皇帝』によれば、

秦代の成人男性の身長の基準
6尺5寸だそうで、

秦尺で150cm程度。

したがって、縦隊の間隔は、

当時の実相に近付けると、

このモデルよりも
1.2m程度短い6m程度、
と、思う次第。

話が分かりにくくなり恐縮です。

ただ、薛先生が説くように、

武器の長さが
縦隊の長さの目安になる、

―という考え方は、

参考になさって宜しいかと
思います。

さらに、先生御自身も、

こういうものは
座標ではないので
動き回る余地がある、

と、書かれています。

つまり、縦隊の長さは、

状況に応じてかなり伸縮する、
ということなのでしょう。

『司馬法』定爵篇には、
以下のような件があります。

凡陣行惟疏、戦惟密、兵惟雑
陣行:布陣・行軍
惟:これ
疏(疎):まばら
兵:兵器

布陣や作戦の際には間隔を開け、
戦闘の際には間隔を詰めて
さまざまな武器を使い分けろ、

―という訳です。

そして、これが極端な場合、
例えば、

『春秋時期的歩兵』の
該当箇所の脚注にあった
『太平御覧』の、

唐代の書物である
『太白陰経』からの
引用とされる部分に、

以下のような件があります。

隊有五十人、五人火長、
五九不失四十五人之數
卒間容卒、相去二步

要は、兵士と兵士の間は2歩。

因みに、唐代の1尺は
31.1cm。

同時代以降、
1尺=5歩。

31.1×5(尺)×2(歩)
=3.11m。

この通りであれば、
各々の兵士の間の間隔は
3m余となります。

9、武器と鋼材の関係

さて、伍で使われる武器には、
当然、流行り廃りがあります。

以下の図を御覧下さい。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、学研『戦略戦術兵器事典 1』、篠田耕一『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

この図は、各々の武器における
大体のピークの時代
あらわしたものです。

中でも転機となるのは
前漢から後漢の時代です。

何があったかと言えば、
製鉄技術の大幅な進歩です。

ここで、以下の図を御覧下さい。

趙匡華『古代中国化学』・篠田耕一『武器と防具 中国編』・菅野照造監修『トコトンやさしい鉄の本』・柿沼陽平「戦国秦漢時代における塩鉄政策と国家的専制支配」等(順不同・敬称略)より作成。

具体的には、

炒鋼法と呼ばれる、
銑鉄を脱炭する技術
登場しました。

鉄を高温で熔解するための
フイゴ等の設備も、

鉄のしなやかさの肝である
焼き戻しの時の
炭素濃度の調整も、

この時代の産物という訳です。

そして、ビッカース硬度で
従来の倍の硬さを有し、
そのうえ、よくしなう鉄
(ソルバイト)が登場し、

当然ながら、
これが武器や鎧の材料となります。

その結果、
短兵器には斬撃に強い環首刀
手戟や短戈、剣に取って代わり、

戟も刺突に重点を置いた形状に
変化しました。

図解すると、以下。

学研『戦略戦術兵器事典 1』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

長さが書いてある理由は、

恐らく参考文献の
『戦略戦術兵器〇典 1』が、

引用元の文献から
出土品の長さをそのまま転載したと
想像するからです。

何ともいい加減な話で悪しからず。

因みに、後漢時代の亭卒
(今で言えば、警察官兼兵士か)
装備は、

武器は弓弩、戟、刀剣
防具は盾と鎧だそうな。

集中運用の要員か否かは
分かりません。

尉、游徼、亭長皆習設備五兵
五兵:弓弩、戟、楯、刀劍、甲鎧
『続漢書』(『後漢書』の志!)
百官志・県郷
注『漢官儀』

また、戦国時代の兵装とは違い、
矛と殳が抜けていますね。

この戟も、刺突型の新しいタイプと
推察します。

因みに、亭とは何かについては、
諸説あるのですが、

この場合、今で言えば、

郊外の場合は、
宿泊施設を兼ねた官舎・警察署。

さらに、重要な軍事拠点であれば、
大勢の兵士が駐屯可能でして、

そうしたところには、

兵営や防御施設等も
あったのかもしれません。

亭は、後漢時代の
羌族の治安戦では
重要な係争地となり、

『三国志』の時代でも
街亭や倉亭等で
大規模な争奪戦が
展開されました。

所謂、兵家必争の地。

10、充足状況について考える

さて、先述の『司馬法』には
5種類揃えろとある割には、

その『司馬法』はおろか、
『呉子』や『六韜』等の
大体の兵書には、

機能的には
弓と長兵器・短兵器の区分しか
ありません。

先述の兵器の流行り廃りの図で
漢代に大きな淘汰があった、
と書きましたが、

サイト制作者の暴論としては、

末端の兵隊の世界など
後述するように
結構いい加減なもので、

そもそも、

資力のある軍隊でもなければ、
5種類も律儀に
揃っていたかどうかすら
怪しいと思います。

かなり大胆なことを言えば、

資力がない、あるいは、
連戦で消耗した部隊については、

精々、先の弓・長物・短兵器の
3種類程度が
揃っているのが相場で、

鋼鉄の武器が普及した
前漢の後半以降は
『司馬法』の五兵の建前が崩れ、

先述の『続漢書』の引用通り、
刀と刺突型の戟が主流になった、
と、想像します。

例えば、戦国時代には、

武器の管理は秦が郡単位、
その他が県単位。

漢代は秦の制度を引き継いで
郡が管理していました。

当然、首都は別です。

因みに、武器には、
製造地の刻印まで
入っていまして、

そのうえ、例え平時には
5種類揃っていようが、

戦争で消耗したものが
簡単に追いつくとも
思えませんで、

例えば、叩き上げの軍人で
孔明の陳倉攻めを凌ぎ切った
郝昭なんか、

他人様の墓まで暴いて
そこで徴発した木を武器にした、
と、言っています。

戦争のリアリズムの一端を
垣間見たとでも言いますか。

もっとも、木の矛にしたか、

あるいは、
得物の柄にでもしたかは
分かりませんが。

吾數發冢、取其木以爲攻戰具、
發(発):暴く
冢:高大な墓

『三國志』魏書·明帝紀 注『魏略』

11、刑の重さと命の相場

これまで、兵書の内容を基に、
色々と考えて来ましたが、

当然、戦争の実態、
特に末端のそれなど、

中々教科書通りには
いかないものでして。

以下に、ふたつ例を挙げます。

まずは、曹操の歩戦令。

典拠は失念しましたが
209年頃に書かれたそうで、

そうだとすれば、

軍歴20年弱の経験が蓄積された
年季の入ったマニュアル
ということになります。

言い換えれば、

禁止事項については、

江戸時代の禁令宜しく、

敵味方を問わず
現行犯がいたことの証拠
理解するべきでしょう。

例えば、延津の戦いで、

曹操の軍が
文醜の部隊の混乱を狙って
馬を放った行為については、

吏士向陣騎馳馬者、斬
騎:騎乗する

と、あります。

自軍の将兵で
オウン・ゴールしたら
斬罪に処される訳ですね。

早速、伍の戦闘行為に
関する部分を
いくつか挙げることとします。

不聞令而擅前後左右者、斬
擅:欲しいままにする

伍中有不進者、伍長殺之

吏士有妄呼大聲者、斬
妄:みだりに、無暗に

進戰、後兵出前、前兵在後、
雖有功不賞

『通典』兵二

例えば、周囲の者を
自分の前に突き出す、
後ろの者が進むのを邪魔する等、

進撃の太鼓が
鳴っても進まない、

大声を出して
太鼓や鐘の音、号令等を
聞こえ辛くする、

伍の順番を飛ばして
抜け駆けするかその逆、

―以上のような
戦闘中の背任行為が、

敵味方を問わず
頻発していたことの
証拠でしょう。

サイト制作者の浅学故か、

こういう兵卒レベルの
生々しい話には
中々御目に掛かれませんで。

それでも、まだ、
キルキルやってるうちは
恐らく良心的な方で、

法治の鬼の曹操の軍どころか、

刑罰・労役天国の
戦国・秦に至っては、

最前線で逃げた兵士が
死罪にすらなっていません。

これで、大会戦の度に
捕虜を片っ端から
皆殺しにする訳ですから、

いやはや、何とも。

詳しくは、

鶴間和幸先生の
『人間・始皇帝』第4章
獄麓秦簡の紹介の箇所を
御覧頂きたく。

簡単な経緯として、以下。

戦国末期の
秦の対楚戦において、

戦場で12歩逃げた兵士
処罰しようとして
調査を始めたところ、

甚だしい事例としては、
100歩逃げた者もおり、

結果として、
26名もの兵士が
処罰を受けましたが、

重労働等の
重罪にはなったものの、

誰ひとりとして
死罪にはならなかった、
というオチ。

もし、両軍の実力が
伯仲していたとすれば、

6、7mの縦隊が犇めく中で、
100m以上逆走する
兵士のいる戦場。

そして、こういうのが
裁判記録として
残ったそうな。

無論、サイト制作者は

勝敗を含めた
戦いの経緯は分かりませんが、

恐らくは、

敗因となるような
救いようのない
逃げ方でもなければ、

一々死罪を適用していたら、
味方を皆殺しにでもしなければ
ならないのかもしれません。

後、逃げながらでも
弓は射ることが出来るんですと。

おわりに

長くなりましたが、
そろそろ結論を整理します。

1、伍は古代中国における
5名編制の最小戦闘単位で、
恐らく縦隊である。

2、弓・矛・殳・戟・戈・刀剣
といった武器を持ち寄り、
距離や戦い方において
弱点を作らないのが狙いである。

3、保有する武器の特徴として、
大別して、弓・長兵器・短兵器に
区分出来る。

4、長兵器・短兵器は
相互補完関係にある。

5、武器によっては
流行り廃りがあり、
時代によっては
形状が異なるものもある。

6、薛永蔚先生のモデルは、
身長を秦尺で換算していることで、
これを実情に合わせると
縦隊の長さは6m余となる。

7、また、同モデルの最低条件は
最後尾に弓兵を配置し、
4番目の長兵器の兵士が
先頭の短兵器の兵士を
援護出来ることである。

8、現実には、兵書の内容通りには
いかない部分が少なからずあり、
当然、伍のレベルにおいても
その気配がある。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
薛永蔚『春秋時期的歩兵』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
楊泓『中国古代兵器論叢』
学研『戦略戦術兵器事典 1』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』(訳書)
守屋洋・守屋淳『全訳 「武経七書」2』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
趙匡華『中国古代化学』(訳書)
来村多加史『春秋戦国激闘史』
劉永華著『中国古代甲冑図鑑』(訳書)
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』
鶴間和幸『人間・始皇帝』
湯浅邦弘『よみがえる中国の兵法』
西川利文「漢代における
郡県の構造について」
小嶋茂稔「漢代の国家統治機構における
亭の位置」
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

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次回予告、その他

はじめに

恐らく、次のまとまった記事を書き上げるまで、
今少し時間が掛かることで、

今回は、その予告めいた話を少々。

1、薛永蔚先生の伍のモデル

以前の記事で扱った「伍」について、
復習を試みます。

「伍」とは、
古代中国の戦争における
最小戦闘単位であり、

春秋時代から
少なくとも唐代辺りまで
通用した概念です。

ただ、過去の記事の要約だけでは
読者の皆様に申し訳ないので、

以下の薛永蔚先生のモデルや、
その典拠となる
漢籍の該当箇所についても
紹介します。

薛永蔚『春秋時期的歩兵』、篠田耕一『武器と防具 中国編』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』、守屋洋・守屋淳『全訳 「武経七書」2』等(敬称略・順不同)より作成。

2、殺し合いマス・ゲームのルール

また、今後の当面の方針ですが、

伍に引き続いて、10名の什、
25名の両、50名の属・屯等、
100名の伯・隊等、

―という風に人数を増やしながら、

各々の単位における
指揮官の裁量や戦い方、

もしくは、上位組織からの命令
どのように遂行するか、
といった、

具体的な手順について
調べていこうと思います。

ただ、状況によっては
別の記事も挟む可能性も
ありますが。

3、古の総力戦の構図

また、何故、
鎧の話を止めて
この話をしようと思ったか、ですが、

能動的な理由としては、

末端の戦闘という空間を
自分なりに再現したかったからです。

もっとも、このブログで
サイト制作者がやりたいことの
恐らく1割にも達していませんで、

例えば、戦闘行為だけでも、
馬、弓、城については
纏まった記事を書いていません。

まして、戦略レベルの段取り、
戦力の調達、銃後や戦地の
社会・経済等、

周辺領域まで含めるとなると、
さあ大変。

身近な農作物ひとつとて、

作らせる側は、

什伍や兵戸・屯田に
象徴されるように
(軍制の什伍と民政のそれは
どうも違うようですが)

【追記】
故・古賀登先生の論文
「阡陌制下の家族・什伍・閭里」
によれば、
しっかり連動しているのだそうで。

例えば、商鞅の改革下の
秦の場合、

ひとつのモデルとして、

まず、親と息子兄弟の
核家族3世帯
(大体1世帯5名程度「五口」)
と、それに近い血族の2世帯の
計5世帯を基本単位とします。

で、各々の世帯から
世帯主を兵役で供出し、
これを「伍」とします。

そして、その伍長は父だそうな。

また、5世帯間で相互依存、
という隣保制度は、

実は、『周礼』や『管子』にも
あります。

してみれば、

春秋時代以前のような、

民政の長が
そのまま軍政の長を兼ねる
領邦国家の動員体制が
秦漢の什伍の母胎に
なっていたのかもしれません。

【追記・了】

戸籍を通じて
兵員と田畑を
表裏で考えていますし、

当然、作物は兵糧にも化けます。

その意味では、

戦争の話として、

五穀から酒、御馳走、
そして、禁じ手の人肉まで
やる価値があると思っています。

ですが、大法螺を噴く前に、

せめて、歩兵のそれについては、
何とか形にしたいと思った次第。

4、まだまだ続く、鎧の話

その他、私事で大変恐縮ですが、

鎧の話をぶっ続けでやるのを
止めようと思った
もうひとつの理由は、

サイト制作者が
このテーマに1年弱取り組んで
疲弊したからです。

ですが、恐らく、
大体の定義や作り方等、
最小限の話は既に済ませたことで、

別の記事と並行して、

適当なタイミングで
ひとつひとつ
図解していこうと思います。

鎧の話目標は、
当面は魏晋期がゴールですが、

御要望や時々の流行や需要等に応じて
柔軟に対応するつもりです。

文献や論文の孫引きとはいえ、

まだまだ、自分なりに、
製造する目線に
少しでも近いかたちで図解して
紹介したいものがいくつかあります。

今回はこの辺りにしておきます。
まずは、見苦しい言い訳まで。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
薛永蔚『春秋時期的歩兵』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』
守屋洋・守屋淳『全訳 「武経七書」2』
浜口重國『秦漢隋唐史の研究』
古賀登 「阡陌制下の家族・什伍・閭里」
越智重明「什伍制をめぐって」

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前漢末期の指揮官用の鎧を復元してみよう

章立ては以下。

適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

はじめに
1、現物に忠実と思われる部分
1-1 現物の存在する脛当て
1-2 身甲と垂縁の接合部分
2、筒袖
2-1、長さが判然としない筒袖
2-2、身甲とシームレスな筒袖の甲片
2-3、採寸と甲片の数の算出の目安
3、身甲の甲片の数の算出
3-1、上下で甲片の列が異なる構造
3-2、肩・鎖骨部分の甲片
3-3、腹・胸部分の甲片
3-4、縦1段当たりの甲片の枚数
4、垂縁の甲片
5、縁部分の構造
おわりに

はじめに

今回は、前回の末尾に付けた付録の図
前漢末の指揮官用の鎧
についての解説です。

具体的には、以下。

楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)より作成。

とはいえ、

残念ながら
不明な部分が多いことで、

そうした部分は、
同時代かその前の時代の技術
参考にしました。

1、現物に忠実と思われる部分
1-1 現物の存在する脛当て

それでは、本論に入ります。

まず、学術書・論文の内容や
当時の俑の写真から判断したうえで

確実であろうと思われる部分について
触れます。

早速ですが、以下のアレな図を
御覧下さい。

前掲図を加工。

赤枠の四角が、当該の部分です。

まず、左側の枠について。

これは、御覧の通りの脛当てでして、

元となる資料は
楊泓先生の『中国古兵器論叢』
掲載されていた白黒の写真。

洛陽郊外の墓よりの出土です。

余談ながら、この御本、
和訳も出ていまして、

専門分野ド真ん中の
来村多加史先生の綺麗な訳です。

大学の図書館等に
配架されていることが多いと
思われますが、

古代中国の武器・防具に
興味のある方には
一読を御勧め致します。

さて、ここで困ったのは、
当該の写真が、
図とは上下が逆になっている点。

ですが、解説には
「于人架的足部出土一領鉄鎧」と
書かれてまして、

とはいえ、脛当ての構造上、
下に広がるものはない筈でして、

苦渋の決断ではありますが、

敢えて、参考文献に
若干の異論を呈すこととしました。

後述しますが、

この辺りの話は、実は、
甲片の縛り方にもかかわって来るので
面倒な話につき。

続いて、その甲片について。

この脛当ては、
足1本に対して
左右に分かれるタイプで、

甲片の数は、
片側で縦8段・横6列。

また、甲片の大きさは
分かりかねます。

ただ、脛当ての丈については、

当時の成人男性の平均身長
大体150cm程度と仮定すると、
(秦尺・6尺で換算。
漢尺だと現実味に欠けるかと。
典拠は『周礼』と記憶。)

少なくとも20cmを
超えることで、

後述する、
身甲(胴体の部位)の甲片とは、

恐らくは
種類(面積)が異なるものと
推測します。

また、縁の部分を
直線にならす工夫も、
同じ写真から判明しました。
―かなり見難いですが。

要は、甲片の底辺が
水平になっていまして、

これを利用して、
最上段の甲片は上下を逆にして
平にならす、という方法。

膝裏の傾斜部分にも、
この工夫が施されている
可能性があります。

その他、余談ながら、
モデルの俑は
彩色の長靴を履いておりまして、

楊泓先生によれば、
これが指揮官である証拠のひとつ
なんだそうな。

因みに、兵卒は靴を履きます。

また、図では
脛当てと靴の組み合わせに
していますが、

隙間部分の多いであろう長靴と
脛当ての組み合わせでは
実用性に欠けるかと思いまして、

便宜上、そのようにしています。

また、靴下の普及は
モノの本によれば
三国時代以降だそうで。

もっとも、軍や都市部に
限った話だとも思いますが。

1-2 身甲と垂縁の接合部分

続いて、身甲と垂縁の甲片について。
図の右側の赤枠部分です。

前掲図を加工。

この2種類の甲片の接合部分の
上下逆の図と、

右下の甲片の単片の図が、

有難いことに、縮尺付きで、

先述の『中国古兵器論叢』
掲載されていました。

実は、このタイプの鎧の
身甲部位の甲片の一部が、

呼市二十家子漢城から
出土しています。

したがって、実物を観察のうえ
当該の図を描いたものと
推測します。

では、サイト制作者が、
どうして上下逆という
参考文献と異なる解釈
したかと言いますと、

この2種類の甲片が
縦で連結されている部位は、

身甲と垂縁の接合部分しか
考えられなかったためです。

【追記】

その後の調べから、
身甲と肩甲の連結部分の可能性
考えられることが分かりました。

したがって、

後日、このパターンも
図解します。

【追記2】

で、以下が当該のパターン。

楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)より作成。

【追記・了】

加えて、先述の脛当ての
甲片の上下の並び方
その根拠のひとつです。

2、筒袖
2-1、長さが判然としない筒袖

以下は、部位の構造が
必ずしも判然としない部分について、

図のように描くに至った
根拠めいたものを綴ります。

まずは筒袖について。

早速ですが、例の図の
青枠の部分を御覧下さい。

前掲図を加工。

そもそも、

この図のモデルとなった俑
咸陽は楊家湾から
1965年に出土したものです。

言い換えれば、
衛青・霍去病等の墓のもの。

現物を御覧になりたい方は、

例えば、百度一下のような
中国の画像検索で、

「咸陽 楊家湾 俑」などと
検索を掛けると、

現物の写真がいくらか
出て来ます。

さて、この俑、
右手の人差し指で天を指し、
左腕の袖はまくられています。

ここで注目すべきは左腕。

前腕が剥き出しになり、
まくられた戦袍と下着の襦が
上腕のした半分を占めています。

また、過去の記事で紹介した
武帝時代末期の
盆領(襟)付きで前開きの札甲も、

筒袖は上腕の半分までの長さでした。

一応、図も掲載します。

楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)より作成。

一方で、大体同時代の前開きの
魚鱗甲の復元品も存在しまして、

この鎧の筒袖の長さ
上腕の全てを覆っています。

したがって、
前漢の後半から末期における鉄鎧の
筒袖の長さは、

上腕の下半分から全てを覆う程度
であると言えると思います。

2-2、身甲とシームレスな筒袖の甲片

次いで、筒袖の甲片の種類ですが、

何故、身甲と筒袖が同じであるという
解釈をしたかと言いますと、

現物の俑の双方の部位の
甲片の質感が同で
継ぎ目や境界線といったものが
見えないからです。

逆に、身甲と垂縁は
明らかに描き分けてられています。

これも、現物の写真を
何枚か見比べると
判然とするかと思いますが、

特に、垂縁には
縦の線が入っています。

この流れで、
身甲と筒袖の継ぎ目についても
触れます。

図の青枠の左側の、
枠内の左部分です。

先の武帝時代末期の
筒袖のパターンからすれば、

身甲と筒袖の甲片は
脇の継ぎ目で
垂直に交わります。

その仮定で
この継ぎ目の図を描ました。

ですが、このパターンだとすれば、

特に、身甲の甲片の場合、
甲片の穴が限られていることで、

筒袖の全ての甲片を繋ぐことが
出来ません。

よって、魏晋期の両当甲のように
脇や肩には刃は通さないものの、

過酷な風土で紐が摩耗していた場合、

掴み合いで袖がもげるような
弱点はあったのかもしれません。

また、袖口の直径ですが、

モデルとなる俑では、

デフォルメされているとはいえ、

筒袖から戦袍や襦が
大きなしわも作らずに
伸び伸びと出ていることで、

かなりの大きさであったと思います。

サイト制作者は、
身甲の丈の半分程度と見ました。

2-3、採寸と甲片の数の算出の目安

ここで、筒袖の長さと直径の
長さや比率めいたものに
或る程度の見当が付きましたので、

甲片の大きさと照合して、

縦横の枚数を推測しようと
思います。

その際、似たような形状の鎧
ひとつのモデルにします。

以下は、以前に紹介した
秦の歩兵用の鎧です。

咸陽の兵馬俑の模写です。

楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)より作成。

で、これの何が参考になるかと言えば、

全体の丈と身甲・垂縁の大体の比率が
分かっている点です。

具体的には、丈64cm
身甲・垂縁の比率が大体3:1。

恐らく、今回「解剖」する鎧も、
同じ歩兵用の鎧につき、
各部位の比率自体は
この鎧と大差ないものと想像します。

さらに、以下の図の
右側の青枠を御覧下さい。

前掲図を加工。

この比率は、

『中国古兵器論叢』にあった
先述の秦の鎧の
縮尺付きの図

サイト制作者が
定規を当てて
弾き出したものでして、

古代中国における
少なからぬ歩兵用の鎧に
当てはまるものと
想像しますが、

当然ながら
素人の浅知恵につき
あくまで御参考まで。

何かしらの議論の
叩き台になればと思います。

それはともかく、

今回の鎧の筒袖の長さを
肩から上腕の半分までと
仮定しますと、

概算で、大体以下のような
計算になります。

全高64cmの鎧であれば、
大体11cm程度になろうかと
思います。

また、先述のように、
甲片の繋ぎ方も分かっています。

具体的には、縦2.5cmの中で、
上下の甲片の重複部分を引いた長さが
大体1.6cm。

で、11÷1.6≒6.9で
縦が大体7段程度、

―という勘定です。

因みに、上下の甲片の繋ぎ方は、
下段が外側につき、
可動部のもので、

当時の鉄鎧の甲片の厚さは
大体1mm程度。

この鎧の場合、恐らくは
身甲も同じ繋ぎ方につき、

甲片が小さいことで、

固定部の短所が
それ程露わにならないのかも
しれません。

さらに、筒袖の
縦1段=1周当たりの
大体の甲片の数
ここで計算します。

まず、先述の秦の鎧は
脇部分の穴の直径
身甲48cmの半分の24cm、

また、中心部の奥行、
つまり、背中から腹までの
直線距離は20cm。

つまり、大体の形として、
長半径12cm・
短半径10cmの楕円でして、

弧の長さの産出は
Keisanさん
エンジンを使いました。

円の弧の長さの計算とは異なり、

素人が計算出来るような
ものではない模様。

その結果、≒69.26。
面倒ですので69.3cmとします。

さらに、甲片の横繋ぎで
上下一組当たりの
重複しない部分は0.6cm。

69.3÷0.6=115.5

よって、
横列1列=1周あたりの
甲片の数は、

大体115、6枚となります。

少々分かり易くするため、
120枚弱としますか。

続いて、縦の数と同じ要領で、
断面の甲片の数
弾き出します。

まず、円周の長さですが、
計算は以下。

全高64cmの4分の3が
身甲48cm。

で、この半分が
筒袖の直径24cm。

円周率を3.14として、

24×3.14≒75.4cm

さらに、筒袖の甲片の
横列の繋ぎ方では、

左右の重複部分を引いた幅が
0.6cm。

75.4÷0.6≒125.7

126枚程度となります。
図では120枚程度としました。

計算通りだとすれば
夥しい数の甲片です。

正直なところ、
サイト制作者も
実感が湧かなかったので、

何度も数え直し、
また、図自体も、
出来るだけ甲片の枚数に即して
描きましたら、

結果として、
図のような細かさになりました。

因みに、文献によっては、

この種の魚鱗甲の所有者は、
身分の高い指揮官どころか
王のものとするものもあります。

3、身甲の甲片の数の算出
3-1、上下で甲片の列が異なる構造

筒袖に続いて、
身甲の縦横の甲片についても
考察します。

以下の図の、青枠部分です。

前掲図を加工。

まず、同じ身甲の部位内でも、

上下で甲片の繋ぎ方が異なるのが
注目すべき点です。

この点は、モデルとなる俑からでは
判然としませんが、

同時期の復元品のみならず
この後の後漢時代の
出土品にも見られた特徴につき、

敢えてこのようにしました。

図では見難いので
ここで少し補足しますと、

胸・腹の甲片(縦列)と
肩・鎖骨の甲片(横列)を
垂直に繋ぎます。

当然、双方共
同じ種類の甲片です。

その際の繋ぎ方は、
先述の脇の接合を御参考に。

で、ここで欠かせないのは、

甲片の平たい部分を外側に、
丸まった部分を内側に向けて
繋ぐ点です。

また、後述しますが、

甲片の襟や袖等といった
服や皮膚に触れる部分は、

恐らくは、裏地の布か糸で
コーティングされています。

3-2、肩・鎖骨部分の甲片

それでは、縦列の甲片の段数から
計算しようと思います。

その際、身甲の中の上下の比率を
1:3と仮定します。

まず、先程の要領で、

上の肩・鎖骨部分は
身甲48cmに対して
12cmとなります。

さらに、甲片を横に倒して
上下の重複部分を差し引いた分が
0.6cm。

さらに、鎖骨から肩の頂上までは
曲線を描いていることで、

実際の数は
もう少し多いことでしょう。

因みに、
鎧の奥行は、
先述の秦の鎧
幅の3分の2程度、

つまり幅30cmに対して、
一番深い中心部分で
20余cm程度。

丹田の断面図で
左右3:前後2の楕円になります。

さらには、

鎖骨・肩部分の曲線は
綺麗な円形の弧にはならない
かもしれませんが、

鎖骨・肩部分の
甲片の高さが12cm、
奥行が10cm余ということで、

かなり綺麗な弧を描くように
見受けます。

そこで、少々強引ですが、
高さ=奥行と仮定しますと、

以下のように
計算出来るかと思います。

2×3.14(円周率)×12
÷4=18.84≒18.9

弧の長さは大体18.9cm。

この数字を先述の
横倒しで上下の重複部分を差し引いた
甲片1枚分の高さである
0.6で割ると、

31.5となります。

つまり、鎖骨・肩の甲片は、

多い場合で
縦31、2段程度、

という計算になります。

3-3、腹・胸部分の甲片

そして、胸・腹の部分の
甲片の枚数ですが、

まず、腹・胸の部分の丈
48(身甲)-12(肩・鎖骨部分)、

もしくは、
48×0.75(%)=36で、
36cm也。

次に、甲片の縦列で繋ぐ際に
上下の重複部分を
引いた長さが1.6cm。

で、36÷1.6=22.5で
22、3段程度。
図では22と描いたので、
22段とします。

よって、身甲部分の甲片の段数は、

肩・鎖骨部分が31、2段程度、
腹・胸部分が22段程度となります。

無論、これらの数字は、
鎧全体の丈によって前後しますので、

あくまで丈64cmと仮定した場合
目安ということで
御願い出来れば幸いです。

3-4、縦1段当たりの甲片の枚数

また、縦1段(横列で1周分)
当たりの甲片の枚数ですが、

胸・腹部分のみ算出すると、

全幅30cmに対して
奥行が20余cmという楕円が
モデルに近いという仮定につき、

先述はkeisanさんの
便利な計算エンジンで
長半径15cm・短半径10cm
として算出した結果、

弧の長さは≒79.3cmと出ました。

そこで、
弧の長さ79.3÷0.6≒132
正確には132枚。

要は、縦1段=1周当たりの
甲片の数は、

大体130枚程度
という計算になります。

同じ要領で、
肩・鎖骨部分の甲片の数
計算してみましょう。

まず背面ですが、
弧の長さは、
全周79.3÷2=39.65
39.7とします。

さらに、この場合、

甲片の繋ぎ方が
縦横逆になるので、

左右1組当たりの
重複していない部分は1.6cm。

39.7÷1.6≒24.8

よって、鎖骨・肩部分
背面・縦1列当たりの甲片の数は
24、5枚程度となります。

さらに前面ですが、

首元の一番下の段の狭い部分の計算に
限定しますと、

左右の弧の合計を、
大体半周の3分の2と
仮定します。

39.7(半周)×0.67
≒26.6
(鎧前面左右の甲片部分の弧の長さ)

26.5÷1.6≒16.6
(鎧前面左右の甲片の数)

したがって、
鎖骨・肩部分の一番下の段の
左右の片側の甲片の数は

概算で8~9枚程度となります。

首元の縁が傾斜していることで、
当然ながら、上に行くにつれて
前面の甲片の数は漸減します。

そして、後述しますが、

その際に出来る凹凸は、

恐らくは、甲片の底面分を当てて
縁をならします。

4、垂縁の甲片

続いて、垂縁(裾)についても
触れます。

下記の図の青枠部分。

前掲図を加工。

甲片の大きさや繋ぎ方は、
青枠の右側の図にある通りです。

鎧の丈を64cmと仮定すれば、
垂縁は16cm程度。

この部分の甲片は不明な部分が多く
目分量で恐縮ですが、

上下の重複部分を引いた長さは、
上下の甲片1組当たり、

穴の位置から考えて、
縦2.2cm、横2cm
計算しました。

因みに、図中の甲片の連結図は
身甲の甲片との連結が主でして、

左右の連結を考えると、
図中の幅では重複部分が狭く、

1.2cmの幅では
糸が緩むように思われます。

したがって、
縦列の甲片の枚数
16÷2.2≒7.3で
7段程度。

また、横列の枚数については、

先程鎧の胸囲
大体79.3cmと計測したことで、

この場合、
その半分の39.65≒39.7とし、

先述の、甲片の左右の重複分を引いた
1枚当たりの幅2cmで割ると、

39.7÷2=19.85で、

身甲部分と連結する
一番長さのある最上段の部分
20枚前後に相当します。

さらに、縁の部分の長さを引くと、
これから2、3枚程度少ない数となり、

大体、17、8枚程度と
見積もるのが良いのかもしれません。

また、残念ながら、
垂縁の背面部分の詳細は不明です。

先述の秦の歩兵用の鎧の構造を
参考にすれば、

前面の方が少し長いものと
なろうかと思います。

5、縁部分の構造

次に、縁の部分について。

下記の図の青枠部分です。

前掲図を加工。

これも、詳細が不明な部分です。

まず、赤色としたの理由は、
復元品の色が赤であったことです。

さらに、モデルとなる俑も、
身甲の縁の大部分は
塗装が剥げて灰色になっており、

一方で、垂縁の縁は赤色で、

サイト制作者も
最初はこの矛盾に戸惑いました。

ですが、よく見ると、
ところどころに
赤色が残っておりまして、

これで間違いなかろうと。

むしろ、問題なのは
材質の方です。

以下の図のように、

秦の高級指揮官用の
古いタイプの鎧であれば、
鎧の縁に裏地の生地が付きます。

楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

一方で、同時代の前開きの魚鱗甲
袖や首元が幾重も赤い糸か布で巻かれて
コーティングされていまして、

今回復元を試みる鎧も、むしろ
後者の方法かもしれません。

また、首元の縁部分の場合、
甲片を縦に繋いだ際に出来る
傾斜部分の凹凸に対する処理ですが、

先述の脛当ての
上下の甲片の凹凸への対処と
同じ工夫が考えられます。

つまり、凹凸部分に対して、

甲片を上下逆にして
底面部分を
斜め方向に宛てることで、

平坦にならす訳です。

首元や筒袖の縁部分を
縁を糸でコーティングする前には、

恐らくは、その前の工程で
こういう処理を施したと
想像します。

おわりに

今回は、怪しい計算ばかりの
事務的な内容で恐縮です。

結論をまとめると、
以下のようになります。

1、出土品や参考文献の内容から、
恐らく、モデルの俑に
忠実だと思われるのは、

脛当てと身甲と垂縁の接合部分である。

したがって、以下、2以降は、
同時代かそれ以前の技術に基づく
想像による。

2、筒袖は長さが判然としない。
今回の前漢末の魚鱗甲については
俑に基づき上腕の半分とした。

ただし、同時期の出土品・復元品には
上腕の全てを覆うものと
その半分を覆うものの双方が
存在する。

3、鎧の各部位の採寸の
ひとつの目安として、

秦代の兵馬俑の鎧を
モデルにする手がある。

全高64cm・全幅30cm・
中心部の奥行が20cmと仮定し、

その上で、各部位間の
大体の比率を算出する。

弧の長さは、
楕円であれば検索エンジンを使用する。

3、身甲の甲片は、
上下で繋ぎ方が異なる。

上(鎖骨・首元)は横
下(胸・腹)は縦に繋ぐ。

4、主要な部分の甲片の数は
以下のようになる。

筒袖

縦7段程度
横1列の当たり甲片は120枚弱

身甲

鎖骨・首元部分

縦32段程度
横1列当たりの甲片は
背面で24枚程度

胸・腹部分

縦22段程度
横1列当たりの甲片は130枚程度

垂縁

縦11段程度
横1列当たりの甲片は
最上段で20枚程度

5、袖口・首回り等の縁の部分は、
裏地の布か糸で
コーティングされている可能性がある。

また、傾斜の部分の凹凸は、
脛当てに使われた技術からして、

甲片の底辺を使って
ならされている。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
楊泓『中国古兵器論叢』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」
『日本考古学 2(2)』
鶴間和幸編著『四大文明』
篠田耕一『武器と防具 中国編』

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学術論文を取り敢えず読んでみよう

今回も長くなったことで、
以下に、章立てを付けます。

適当にスクロールして
興味にある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

はじめに
1、学術論文との付き合い方
1-1、論文とは何か?
1-2、学術論文の取っ付き難い理由
1-3、それでも読む価値はあるのか?
1-4、高い敷居をどう潜るか?
1-5、知の橋頭保を確保せよ
2、学術論文の探し方
2-1、検索サイトとキーワード
2-2、タダで読めるナルホド論文
2-3、学術書が分厚くて高い理由
2-4、学術雑誌はどこにある?
3、学術論文の生態
3-1、一番不要な冒頭部分
3-2、論文の常識は書き物の非常識?!
3-3、研究者のセールス御断り
3-4、激辛がクセになる本文
3-5、結論と展望と予告倒れと
【雑談】4、実践?!架空論文を読んでみよう
4-1、して、論文の主題は?
4-2、先行研究は愚策だらけ
4-3、史料読解とその手抜き読み
4-4、イロイロな「難しさ」
4-5、表も説明の助けとなる
4-6、瓦解する壮図と悲劇の英雄
4-7、論文では敗将も兵を語る
4-8、研究者は裴松之にあらず
4-9、出師の表と研究史の行方
おわりに(結論の整理)
【主要参考文献】
【場外乱闘編】多分、こんなの!前漢末の魚鱗甲(完成した図解の掲載)

はじめに

今回は、予定を変更して
学術論文の生態
変わった読み方について綴ります。

恐らく、著者の先生方が読まれたら
卒倒するような邪な内容であることを
予め御断り申し上げます。

予定変更の理由は、

恥ずかしながら、今描いている図が
完成までまだ時間が掛かることで、
代わりの記事を用意した次第。

奇病が流行しているうえに
連休も近いことで、

特に、腰を据えて
読書をなさる方には
多少なりとも御役に立てれば
望外の幸せで御座います。

加えて、最後に、
未完成の図についても
多少言及します。

1、学術論文との付き合い方
1-1、論文とは何か?

さて、学術論文とは、

コトバンクさんによれば、
新しい研究成果を内容とし、
一定の構成を持った論文、と、
あります。

要は、調べ事を
まとめた書き物ですが、
新説でなければなりません。

イメージとしては、

夏休みの自由研究を
各段にアップ・グレード
したもの、

と、でも、言いましょうか。

さて、この種の書き物の
おおまかな流れとしては、

まず、何かを主張する際に、

それまでの研究で
明らかにされなかったことを挙げ、

その課題について、

証拠を提示して
専門的な方法で結論を導きます。

また、理詰めで物事を説明する
必要があるため、

小説のような
情緒的な表現を排した
極めて事務的な文章になります。

具体的な手順を言えば、

アリバイ崩しのようなロジック
好例でしょうか。

例えば、奥様が御亭主を
邪なDVDを隠し持っている、と、
吊るし上げる際、

証拠となる写真を隠し撮りして突き付けたり、

先方が隠すタイミングで
現場にガサ入れを掛ける訳です。

1-2、学術論文の取っ付き難い理由

で、その学術論文の内容は、

実は、細かくて論旨の絞られた
秀逸な話が多く、
その意味ではマニア垂涎モノです。

しかしながら、

大抵のものは
専門的な用語や概念の理解が前提
書かれていまして、

オマケに、初心者には分り難い
研究のルールもあり、

文体自体も
極めて事務的で味気なく、

結果として、
大抵の方にとっては
取っ付き難い書き物、と、
なる訳です。

浅学なサイト制作者とて、

専攻分野以外の論文なんぞ、

その内容の大半を理解せよと
言われたところで、
思考回路がショートするのが関の山。

ですが、読後には得るものも相応にあり。

したがって、サイト制作者が思うに、

当該分野の
研究者や院生でもなければ、

別に、論旨まで理解しなくとも良い
とも思う訳でして。

無論、サイト制作者も
古代中国史も素人です。

1-3、それでも読む価値はあるのか?

それでも、例えば、

物珍しい図版や表を見たり
見慣れない語句を読んだり、

延いては、
高度な考え方の一端に
触れたりするだけでも、

こういう書き物を
読み慣れない方々にとっては
十分な成果だと思います。

と、言いますのは、

商売を意識した
新書や小説、漫画等では
入手の難しい
貴重でレベルの高い情報が
氾濫している世界につき。

何せ、一次情報か
それに限りなく近い
情報源を持っている人が、

そのオイシイ部分を抜き出して
書き物にまとめたのが
学術論文、という訳でして。

1-4、高い敷居をどう潜るか?

―そうです。
モノは考えようです。

例えば、
論旨に拘らなければ、

新聞の見出しで
読む記事を選ぶように、

興味のある部分から読んでも
良いと思いますし、

最後に書かれている
結論から読んでも
良いと思います。

あるいは、結論だけ、
興味のある部分だけ、でも、
良いと思います。

読者の皆様が
本当にその分野に興味があれば、

例え、その時は分からなくとも、

ヨソで知識を増やした後で
再度読み直せば良いだけの話につき。

先程のDVDの話で言えば、

尋問の動機や
隠匿から発覚までの
時系列的な流れはどうでも良くても、

御亭主の好まれるDVDの中身や
険悪になった夫婦間の
生々しい遣り取り等に
興味がある方も
いらっしゃるかと思います。

まあ、他人の喧嘩を楽しむ場合は、
大抵こんなものでしょう。

余談ながら、
サイト制作者の幼少期のプロ野球は
乱闘全盛期でして、

選手の皆様には
生活が掛かっていることで
申し訳ないながらも、

アレがテレビ観戦の楽しみのひとつ
でもありました。

1-5、知の橋頭保を確保せよ

とはいえ、
そのような摘まみ食いのような
読み方でも、

何本も読んでいれば、

共通部分や研究の争点が見えて来て
その分野のイロハは
分かるかもしれませんし、

そうでなくとも、

興味のある1本を大雑把に読み、
難解な言葉をリスト・アップして
辞書やネット等で調べたりしていけば、

或る程度のことが
分かったりするものです。

このような見地から、

そもそもの学術論文の探し方や
大体の構造を説明し、

そのうえで、

美味しそうな部分
労少なくして吸い取るための
コツめいたものを挙げていこうと
思う次第です。

2、学術論文の探し方

2-1、検索サイトとキーワード

前置きが長くなり、申し訳ありません。

さて、まずは、
論文の探し方ですが、

手っ取り早く探したい場合は、

国立情報学研究所の検索サイト
探します。

アドレスは以下。
ttps://ci.nii.ac.jp/
(1文字目に「h」を補って下さい。)

ここで注目すべきは、
打ち込むキーワード。

正確な論文名や作者名を
打ち込む必要はありません。

それどころか、

研究者の先生方の中には、

細かく調べられることで、

若い頃の未熟な書き物を読まれる方が
恥ずかしいという方が
いらっしゃるかもしれません。

それはともかく、まずは、
大体2、3の言葉を打ち込みます。

例えば、三国志関係の場合、

後漢、魏晋、曹魏、孫呉、蜀漢、
西晋、といった時代や国号。

曹操、諸葛亮、劉備、といった
有名人の人名。

因みに、武将よりも文人の方が
研究は多いです。

その他、兵戸制、九品中正、屯田、
租庸調、将軍、名士、都督といった、
制度や職階、属性等の専門用語。

その他、政治、経済、税制、農業、
服飾、といった、漠然とした
カテゴリー等。

これらを、御自分の興味に合わせて
組み合わせます。

ヒットすれば、
論文のリストが出て来ます。

その中で、
色付きのアイコンのあるものは、

リンクを辿っていけば
論文のPDF形式のファイルを
無料でダウンロード可能です。

大抵は、版元が大学の紀要論文です。

2-2、タダで読めるナルホド論文

折角ですので、

上記の検索サイトから
PDFで無料でダウンロード可能な
論文・研究ノート等から、

三国志関係を中心に、
面白いものをいくつか挙げます。

「面白い」というのは、
ここでは、

例えば、図や表が充実している、
武将の考証に
役に立ちそうである、
話のあらすじの理解を助ける、等を
意味します。
(以下、著者名敬称略、副題省略)

当然、サイト制作者の主観が
相当入っていますので、
悪しからず。

石井仁他
「漢六朝の人名に関する覚え書き」

石井仁
「六朝時代における関中の村塢について 」
「六朝都督制研究の現状と課題 」
「赤壁研究序説」
「都督考」

満田剛
「蜀漢・蒋〔エン〕政權の北伐計畫について 」

上田早苗
「後漢末期の襄陽の豪族」

高橋工
「東アジアにおける甲冑の系統と日本」

並木淳哉
「曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次『北伐』」

落合悠紀
「後漢末魏晋時期における弘農楊氏の動向」

門田 誠一
「魏志倭人伝にみえる『邸閣』の同時代的意味」

山口正晃
「曹魏および西晋における都督と将軍」

津田資久
「劉備出自考」

2-3、学術書が分厚くて高い理由

検索サイト以外に
論文を探す方法は、

例えば、

新書や初心者向けの
ガイドブック等も、

大抵のものには、

脚注や巻末に
典拠が書かれています。

複数の論文が1冊の本にまとまっていれば
しめたものですが、
(例え、分厚い本でも、
サイト制作者にとって必要なのは
その中の30ページ程度とか、
ザラにあります。)

中には、雑誌に掲載されている
ケースも往々にしてあります。

研究者の書く分厚い本は、
書き下ろしではなく
論文集が多いと思います。

中には、
学位論文を手直しして
出版したケースも
少なからずあります。

で、よくあるケースとして、

個々の論文の話が
色々な分野に飛び火しているので、

本のタイトルが嘘にならないように
漠然としたものにする訳です。

そういう本がクソ高いのは、

本屋さんも先生方も、

売れないのを見越して
発行部数を絞っているからです。

そりゃ、出版社さんや
著者の先生方とて、

好きで高飛車な値段を
付けている訳では
ありませんで、

新書同様の価格でも、

それだけ売れて
広く読まれて
書評サイトなんかで
賛否両論沢山貰った方が
嬉しいと思いますよ。

一生懸命書いたものにつき。

一方で、こういう本を
自分の講義の受講者に
教科書として買わせる先生方も
いらっしゃいます。

テキストとして
手っ取り早いからでしょうが。

そして、暫くして、
サークルの部室の本棚や
大学近辺の古書店の棚に
並んだりします。

ワルい学生さんも
少なからずいることで。

ところが、
そのような御本の中には、
たまにヒットするものもあるので
不思議なものです。

2-4、学術雑誌はどこにある?

さて、分厚い学術本のユニットをなす
論文が掲載されている
学術雑誌を実際に手に取りたい場合は、

まずは、各種図書館の検索ページで探します。

大学や県立図書館レベルでないと
中々見当たらないかと思いますし、

あっても、新しい号でなければ
書庫に眠っているケースが大半です。

因みに、国公立大学の付属図書館は
一般利用や貸し出しは可能ですが、
一応、利用規約等を
ホームページで御確認下さい。

そうして索敵が成功すれば、
図書館の司書の方に、

「この雑誌のこの号が
読みたいんですけど。」

と、聞けば、

快く引き受けてくれるか、
あるいは書庫に入れてくれます。

付近の図書館にない場合は、

相互貸借という
遠方の図書館から
取り寄せることが出来る
制度があります。

ですが、送料は自己負担。

3、学術論文の生態

3-1、一番不要な冒頭部分

さて、いよいよ、
漸く入手出来た論文の読み方
入ります。

まず、恐らく目にするのは、
冒頭の部分かと思います。

「はじめに」といった
つまらなそうな見出しがありますね。
―このサイトもそうですが。

しかしながら、実は、
研究者以外の人にとっては、
一番不要な部分です。

で、恐ろしいことに、

書く側にとっても、

一番最後に書く
煩わしい部分でもあります。

そりゃそうです。

書く方も書く方で、
調べる過程が面白いのであって、

事務的な書き物が
面白い訳がありません。

筋道としては、
先行研究の流れを見て
モノを書くのが正道なのでしょうが、

そのような殊勝な人は多くはなく、

自分の調べ事の現状に
先行研究の動向を無理やり合わせ、

締め切りを睨みながら
全ての帳尻を合わせるという
高等なテクニックで
モノを書くのです。

で、その結果、
低からざる確率で、

主にスケジュール面で破綻して、
色々見え透いた言い訳をして
編集の方を困らせる、と。

3-2、論文の常識は書き物の非常識?!

―と、言いますのは、
以下のような理由があるためです。

簡単に言えば、
冒頭の部分で自分の調べ事の
存在意義や正当性を主張する訳です。

我こそは常山の趙子龍、下郎推参!
と、やる訳です。

何の話かと言えば、

今迄の他人様の研究の粗探しをし、
そのうえで、

自分の研究は
今からその欠点を克服するぞ、

我こそは正義で
貴様等賊共は刀の錆びにしてやるから
首を洗って待ってろと、

啖呵を切る訳です。

要は、研究のルールに乗っ取った
御約束でして、
書かされる類の部分。

手紙で言えば、
時候のあいさつです。

部外者には中国語の「手紙」の日本語訳、
程度の扱いでも良いかもしれません、
とは、さすがに言い過ぎか。

3-3、研究者のセールス御断り

もっとも、身分の不安定な
気鋭の大学院生の先生方
(特に、博士後期課程)にとっては、

質の高い論文を数多く書けば
それだけ就職先が増えますし、

反対に、コピペ論文発覚でもすれば
キャリアが終わることで、

自己防衛と売り込みという
攻防一体の戦術
必死になる訳です。

ですが、そのようなしがらみのない
読者の方々にとっては、

家電製品で言えば、
説明書に書かれた
法的な免責事項のようなもの。

製品の免責事項を熟読する人は
あまりいないと思います。

したがって、

興味のない方が
こういうものに付き合う必要は
微塵もありません。

ただし、この冒頭部分には
利用価値もあります。

その論文に関係する研究が羅列され、
そのうえ、要点が手際良く整理されています。

細部に神は宿る、とでも言いますか、
研究者の力量が滲み出る訳です。

まあその、読み慣れた方や
似たような書き物を
探したい方は御一読を、という程度で。

3-4、激辛がクセになる本文

続いて、論文の本体に入ります。

第〇章、第〇節、といったように、
章立てになっている部分です。

ここでは、
主張した説を
資料を用いて証明します。

先述の推理モノで言うところの、
犯人のアリバイ崩しの部分に
相当します。

謂わば、論文という読み物の
核心部分ですが、

方法が専門的なことで
最低限の知識がないと
分り難い内容になります。

ですが、その一方で、
ナマのネタが飛び交うことで、

その片鱗に触れるだけでも
一読の価値はあると思います。

例え、何かひとつでも
分かったことや
ためになったこと、
興味が湧いたこと等があれば、

それだけで十分な戦果です。

3-5、結論と展望と予告倒れと

そして、まとめの部分があります。

「おわりに」、「むすび」、
「総括」等の言葉を使います。

各章ごとに出された結論を整理し、
論文全体の結論を導く訳です。

早い話、タイトルに対する結論
手っ取り早く知りたい場合は、
まず、この部分を読まれたく。

そして、最後に、
その論文で証明出来なかったことや
次のステップでなすべきこと
挙げます。

後、謝辞として、
情報提供者等への御礼の言葉が
書かれていますが、
これは、読者には関係ありません。

それと、蛇足ながら、
著者の公約部分については、

校務や副業が忙しい、
興味を喪失した、
宗旨替えをした、
研究費が確保出来なかった、
院生が役所や企業に就職して
研究そのものを止めた、
人様に言えない事件を起こした、

―という具合に、

院生の方々や先生方々の人生にも
色々あることで、

予告は予告で終わることも
少なからずあります。

サイト制作者も、古代中国史の分野において
続編を待って久しい論文が
いくつかあるのですが、

物書きのやることは、
或る部分は、

学者も作家も漫画家も
存外変わらぬものだと思います。

「俺達の戦いはこれからだ」は、
研究者にもある模様。

【雑談】4、実践?!架空論文を読んでみよう
4-1、して、論文の主題は?

どうも抽象的な話が続いたことで、
そろそろケース・スタディ
いきましょうか。

とは言え、
馬鹿話を大量に混ぜているので、
その旨、予め御断り申し上げます。

例えば、仮に、ここに、

「既婚男性の危険物隠匿に関する考察」
という奇怪な論文があるとします。

要は、既婚の男性が、
邪なDVDを奥様にバレないように
隠す場所についてアレコレ考える、

―という内容の、

正直なところ、
褒めようのない書き物です。

具体的には、

既婚男性の劉備さん(仮名)が
無い知恵絞ってDVDを隠すための
最適な場所を考える訳です。

なお、この人、
困ったことに、

本来、ポータブルのプレイヤー等で
人目を憚ってコッソリ見るべきものを、

「男子たるもの
DVDはハイビジョンの大画面で
見ることこそ本懐。」

―などと主張する始末。

既に、この段階で、
作戦行動に
相当の制約が生じます。

4-2、先行研究は愚策だらけ

さて、本文に入る前に、

先行研究の整理として、
過去の戦訓を紐解きます。

まず、弟分の関さんは、
段ボールに隠して
プレハブに突っ込んで
どの段ボールに入れたか失念し、

もうひとりの弟分の張さんは、
そもそも隠さなかったために
奥様に一方的に絞られまして、

劉備さんは
これらの敗報を受けて、

コイツ等アホだ、
自分はその轍は踏まん、
隠すのは自宅の中に限る、と、
宣います。

4-3、史料読解とその手抜き読み

で、いよいよ論文の本体第1章。

この章では、

過去に発覚してしくじった事例を
思い起こし、それを整理します。

例えば、ゲーム・ソフトの
ラックに混入させたり、

キャスター付きの
テレビ台の下に隠したり、

―というような、
涙ぐましい事例があります。

隠した時の写真や
SNSで「絶対バレねー」と
ドヤった時の書き込み等が残っていれば、

それが、当事者がリアルタイムで残した、
所謂、一次史料となります。
(「史」料は、歴史的な資料を意味します。)

古代中国史の場合、

そのレベルの情報の正確さとなると、

後の王朝の史官が
時の皇帝様を忖度しながら編纂した
史書ではなく、

往時の心境を吐露した詩や
事務的な書簡群や出土品、壁画等
それに当たるかと思いますが、

その種のものは
分野が限定的であり、
史書の威力が依然大きいのも現状。

いずれにしても
サイト制作者や初心者の皆様にとっては
難しい漢文を相手にすることとなります。

ですが、これを当面は敬遠したければ、
すぐ後の文章を御覧下さい。

結構な確率で、
その史料の和訳や要約
書いてあります。

新しい論文程、この傾向は顕著です。

一応、用例をば。

史料1
『貂蝉の思春期の野望 昇天録』
その他10本弱を
ゲーム・ソフトのラックに
突っ込んでやったけど、

ゲームしねー
あいつにバレることなんて
ゼッテーありえね~!

(まるでイメージが
湧かないかと思いますが、
この部分が漢文と思って下さい。

史料1は六年春における
劉備のブログの記事の一部であるが、

同史料より、

劉備が妻の趣味を考慮したうえで
件のDVDを
ゲーム・ソフトのラックに隠し、

さらに、発見を回避することには
絶対の自信を持っていたことが
理解出来る。

―ですが、後日、
それまで興味を示さなかった奥様が、

ネットでイケメン主人公の
バナー広告を見て
ゲームに覚醒するという
急転直下の展開で、

ラックに手入れが入って
呆気ない幕切れと相成ります。

なお、この過程は、

奥様の友人との
メールの遣り取りが
事細かに物語っていますが、
詳細は省きます。

4-4、イロイロな「難しさ」

因みに、
例え、史料あるいは資料の
引用部分でなくとも、

文法がデタラメで
他人様が読んで分り難い文章は、
研究者にとっても悪文です。

このサイトなんぞ、
最高の反面教師です。

さらに、現物は、
簡字体や繁字体とも書体が異なり、
そのうえ腐食や破損も激しく、

それどころか、
モノ自体が偽書の可能性も
往々にしてあるそうで、
(贋作のプロも
少なからずいるという話です。)

このレベルの領域になると、目利きも含めて
判読は殆んど研究者の独断場
想像します。

最近は、現物に放射線なんかも当てるそうで。

もっとも、論文の著者も、
訳はおろか、意味の理解の難しいものを
好んで読ませたい訳ではありません。

むしろ、考えていることは
その真逆です。

小説も漫画も学術論文も、

読者が理解出来て
読者の数だけ
感想があってこその書き物です。

エラい先生方も、徒弟の頃には、

訳の分からない雑用と抱き合わせで、

調べ事の作法は元より、
文章の書き方も厳しく指導されます。

それでも、現役の研究者の書く
文章でさえ、

校正前の原稿は、
誤字・誤植・脱字で溢れかえっています。

ですので、
文章の手直しを喰らうことに
抵抗のある方は、

結局は、人間のやることにつき、
それ程気落ちなさらぬよう。

以上のように、
書く方がいくら読者に
配慮したところで、

残念ながら、
前提となる必要知識の多さが
内容を難しくしているのです。

4-5、表も説明の助けとなる

また、こういう生々しい事例を
羅列・整理する過程で、
を作ります。

隠した場所・日時・
隠匿出来た期間等が
一目で分かるようなものがあれば
便利かもしれません。

例えば、以下のようになりますか。

4-6、瓦解する壮図と悲劇の英雄

さて、この不届きな劉備さん、
度重なる失敗にもめげずに、
さらなる挑戦を企てます。

これが、第2章。

先述の失敗を受けて、
居間の大画面のテレビ付近ではなく、

自室に隠すことにしまして、

こういうのを
御丁寧にも写真に撮り、

ブログで自慢し、

そのうえ、
破廉恥にも
鑑賞した内容について
SNSで仲間と語り合いまして、

こういうのが
史料として記録に残ります。

研究者にとっては、
研究材料が増えたことで
実に香ばしい話であります。

ところが、好事魔多し。

頭を使って隠したことで、
確かに、相応の時間は稼げたのですが、

意外なところに伏兵は潜んでいまして。

それが、事もあろうに
愛する我が子という皮肉。

具体的には、以下。

息子の阿斗君が、

父親のこさえた模型で
遊びたいがために、

父の書斎で
イロイロ物色しているうちに、

御目当ての模型ではなく
ヤバいDVDを見付けまして。

で、素直でかわいい阿斗君。

あどけない表情で、
「おかあさん、これ、なあに?」と。

こういう隠匿・発覚の過程については、

第1章でやったような要領で、

劉備さんのブログやSNSへの書き込み、
奥様や阿斗君の証言等で
裏付けを取ります。

で、その結果、第2章の結論は、

第1章でやらかしたような失敗例が
ひとつ増えた、
ということになります。

これは、何と言いますか、
劉備さんにとっては苦難の道である
夷陵の戦いの開戦を意味します。

もっとも、サイト制作者としては、

「おかあさんには
ないしょにしたげるけど、
なにか、かってよ。」

と、親を強請らないだけ
エラいとも思いますが。

いえ、こういう場合は、むしろ、
狡猾な親が子供を贈賄で抱き込む方か。

4-7、論文では敗将も兵を語る

そして、各章の経過を受けて、
1章と2章をまとめた
論文全体の結論を導きます。

具体的には、以下。

悪いことをしても
必ず想定外のかたちで発覚する、と。

まどろっこしいことを嫌う場合は、
実は、ここを最初に読むのも手です。

むしろ、結論を頭に入れてから
その過程を読む方が、
全体的な流れがブレない分、

理解し易いかもしれません。

先述のように、
生々しい図版や表、史料等を先に読むか、
それとも、結論を先読みするかは、

読者の好みや性格に
よるのかもしれません。

無論、一読して論旨が掴めるようであれば、
それがベストだとは思いますが。

さて、修羅場に直面した
劉備さんの後日談ですが、

健闘空しく
奥様にぐうの音も出ない程に絞られ、

オマケに、危険物隠匿の制裁措置で
小遣いのカットまで喰らって
意気消沈し、

息子の阿斗君に、

「悪いことはいかん。
父さんのような駄目人間には
なるな。

漢書、礼記、六韜、
諸子(諸氏百家の書いたもの)、
商君書を読め。

それと、
いやらしいDVDは
結婚後しばらくは観るな」
(同箇所は、サイト制作者が
『蜀書』先主伝第二を意訳)

―と、説きます。

で、今後の展望はと言えば、

自宅の中で、万難を想定出来れば
もう少し見つかりにくい場所を・・・
となる訳で、

次のステージでは、
第四の男の登場と相成ります。

 

4-8、研究者は裴松之にあらず

因みに、論文の巻末には
注釈が付いていますが、

最後にまとめて羅列する時点で、
最早、重要部分ではありません。

最初に論文を読む分には、
無視しても可。

こういうものに構って
脳内で話の流れを整理する作業を
ぶっ壊すよりは、

無視した方が余程マシです。

で、この部分、
大抵は、引用部分の種本と
その該当箇所が書かれています。

本筋の話を補完するための
枝葉の話なども書かれています。

読んでいる最中に
詳しく知りたい部分が出て来たり、

タネ本や資料自体を
読みたくなった場合に使います。

では、どうして、
こういう小細工をするのかと言えば、

話の流れを簡素化するのが
大きいのですが、

実は、論文を書くこと自体が
限られた字数との戦いでもありまして。

著者も人間です。

要は、情報を精査のうえ取捨選択しても、

捨て切れないグレー・ゾーンがあり、
そういうものに対する
未練がましい部分も出て来る訳でして。

やったことを無駄にしたくない、

そういう半端な部分が
脚注というイジケたかたちで
顔を出す側面もあります。

論文とて、
体裁は事務的でも、

或る程度は
血の通った書き物でもありまして。

4-9、出師の表と研究史の行方

ところが、
蜀の歴史、ではなかった、
研究史に終わりはありません。

今度は、
ワルいコンサルの孔明先生
その志を継ぐという
御決まりの展開になる訳でして、

三兄弟は知恵が足らん、
金庫に隠せば済む話だ。

―と、新説を発表しますが、

ダイヤルの番号を失念して
業者に開錠を頼むという大失態を
犯しまして、

先生より一枚上手の奥様
これに乗じて
開錠の折に強引に立ち会い、

当然ながら、事が露見します。

さらには、

それでは私が、と、
何故か名乗り出た
孔明先生の商売仇の仲達先生も、

金庫の番号を秘書に託すも、

秘書と奥様が、実は、
華道サークルの仲間でして、

雑談の際、うっかり口を滑らせて
結局、失敗例の仲間入り。

死せる孔明、生ける仲達を走らす、
という故事の由来は、
実は、この一件にあり。

―というイカレた与太話は、

さすがに小学生でも
真に受けないと思います。

―斯くして、

累々たる英雄の屍のうえに
男子の野望を極限まで追求した
不毛な先行研究が積み上がります。

次世代の研究者は
大変ですよ、コレ。

何か書こうものなら、

その前に、三馬鹿や迷軍師共の
兵どもが夢の跡なアホな論文を
大量に読まされる訳ですから。

例えば、イ〇リスの
産〇革命の先行研究の整理なんか
こういう具合でタイヘンなんだそうな。

―まあ、その、
実際の論文や研究史
このようなマヌケたものではなく
進歩的で論理的なものですが、

ここでは、

ひとつの論文が書かれて、
それに付随して
研究が蓄積される流れについて、

多少なりとも御理解頂ければ、
(こんなデタラメな筋書きで
分かるか人なんかいるのかよ、と。)

一連の駄文の
存在価値があったとしておきます。

おわりに

そろそろ、今回の御話の結論
まとめようと思います。

かなりサイト制作者の主観
入っているので、

あくまで御参考、というよりは、
話半分で御願い致します。

1、学術論文とは、
コトバンクさんによれば、
新しい研究成果を内容とし、
一定の構成を持った論文である。

2、文系の学術論文の大体の構成は、
大別して、以下のようになる。

一、問題提起と先行研究の整理
二、仮説や課題等の検証や証明
三、結論の整理と展望の設定
四、脚注(各種典拠の明示等)

 

3、構成や文体は極めて事務的であるが、
その分、機能的で、情報のレベルは高い。

 

4、研究者相手の論争でも
想定しない限りは、
論旨まで理解する必要はない。

また、研究のルールに合わせて
読む必要もない。

結論や分かる部分から読むのも
ひとつの手であり、

読後、何かひとつでも
学んだことがあれば
大きな成果である。

 

5、学術論文を探す方法は、
ネットによる論文検索が
大変便利である。

紀要論文の一部は
PDFのファイルを
無料でダウンロード可能。

 

6、古代中国史の場合、
学術雑誌が配架されているのは
主に大学の付属図書館である。

国公立大学の場合、
一般利用が可能。

最寄りの図書館から
相互貸借で
取り寄せることも出来るが、
送料は自己負担。

【主要参考文献】

今回は、特にありません。

【場外乱闘編】多分、こんなの!前漢末の魚鱗甲

以下は、当時の俑と出土した甲片から
復元を試みたものです。

タダでさえヘタな絵で、

そのうえ未完成のものを
御見せするのも
恥ずかしい限りですが、

更新まで間が空いたことで、
開陳に踏み切りました。

近いうちに完成に漕ぎ付けたく。

なお、不明な部分は、
前漢末以前の鎧で見られたパターン
参考にしました。

これも、もう少し細かい部分まで
図解出来ればと思いますが、

既存の御説と喰い違う部分もあり、
特にその辺りは自信が持てないので、
あくまで御参考まで。

【追記】以下が、完成したものです。
  諸々の詳細は、後日の記事にて。

楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』より作成。

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