三国志正史、それは盗賊と地方官の織り成すハードボイルドな世界

はじめに

後漢の部隊編成の話に入る前に、
三国志・正史に出て来る部隊運用の話を整理する過程で
色々と思うところがありまして、今回はその話。

なお、グロい話もするので、食事中には読まれないことを御勧めします。

三国志のような戦争群像劇の主役と言えば、
まず連想するのは君主や軍師、花形武将になるのでしょうが、

正史のような型にハマった人物評を読んでいると、

個人的には、かえって人間観察よりも、
当時の世の中の事情の方に目を奪われたと言いますか。

 

「正義」の軍隊の「補給」と食糧難

結論から言えば、エゲツない世の中だと思います。
統計上とはいえ人口が100年で数分の一に減るのも分かります。

とにかく、「兵匪一体」そのものの時代でして、

どのような正義の軍隊であろうが、
連中が通った後にはぺんぺん草も生えません。

戦場となった地域は食糧の価格が暴騰し、

逃げられる者は逃げ、
そうでない者達は人間同士で喰い合いを始めるような惨状が頻発します。

 

特に傑作なのは、董卓討伐の挙兵。

コイツの無法も大概ですが(識者によればかなり誇張もあるようですが)、
負けず劣らずなのは、
エンショーだのソンケンだのソーソーだのの諸侯様。

何十万という軍隊が河内と滎陽に集結したため、

現地で食糧の調達が出来ずに
諸侯がこぞって略奪を始めた
ことで、

やはり、共喰いが始まり、
当然逃亡もあったでしょうが、結果として住民は半減したそうな。

曹操が屯田を始めたのは、

当時の諸侯が1年先の食糧計画すら持たずに盗賊化する惨状
目の当たりにしてショックを受けたのも一因だそうな。

張繡を攻めた時、
愛馬が田を荒らしたので首の代わりに髪を切ったという故事も、

住民の食糧難がそれだけ深刻だったことの裏返しでしょう。

19世紀頃までの中国人の感覚としては、
こういう形で髪を切るのはかなりの恥辱です。

喧嘩や戦争での白兵戦は、髪の掴み合いでもありました。

 

城壁があっても喰い詰める

では、郊外ではなく城市に住めば安全かと言えば、
籠城戦にでもなれば、大抵は2~3ヶ月の籠城で食糧が尽き、
これまた共喰いが待っています。

例えば曹操の袁尚の本拠地の鄴攻撃や、司馬仲達の襄平攻撃等では、
2ヶ月から半年程度の籠城戦で大量の餓死者が出ており、
その意味では、無駄な籠城戦に付き合わされる側は本当に悲惨です。

さらに悲惨なのは、

県や郡の城郭を包囲する連中は、

正義の(ホントかよ)劉玄徳様の部隊のような
多少なりとも軍規のありそうな軍隊であればともかく、

有象無象の喰い詰めた盗賊団の方が圧倒的に多かったということです。
落城の後に何が待っているかは、想像に難くありません。

後述する李カクの軍隊なんかひどいもので、
無数の天子の側近を手に掛け、後宮漁りまでやりました。

 

三国時代の「盗賊」の素描

さて、当時の知識人のように
非常に博識なれど口も悪い高島俊男先生によれば、

中国では、ケチな犯罪者ではなく、
大人数で武装蜂起する連中を「盗賊」と呼ぶそうな。

ヘタすれば、こういう集団が国を造るケースもあった訳で、

事実、この時代にも、
そういう御身分で将軍や皇帝を僭称した人が多数いました。

劉備に徐州を進呈した好々爺の陶謙翁なんか
若い時は正義感溢れる秀才官僚だったのですが、

浮世に揉まれていつの間にかやさぐれて、
漢の公務員にもかかわらず
一頃は、天子を僭称した奴の片棒なんか担いでいました。

 

ババ引いた地方官と何人もの「盗賊」

で、上記の次第で、生半可な地方の軍隊など、

いくら中央から派遣された高学歴の地方官が正論を唱えたところで、

この種の千単位・万単位の数で武装蜂起した盗賊には
到底太刀打ち出来ない訳です。

ヘタを打って戦争に敗れて落城の憂き目を見、

はたまた、そうでなくても、
土着の争いの巻き添えを喰って殺されたり、
あるいは城を放棄したりして処分を受けた人も何人もいます。

一方で、この「盗賊」というのも色々パターンがありまして、

家柄なんぞクソ喰らえで
腕っぷしにモノを言わせて略奪一本の奴もいれば、

出自は古い家柄で役所の主簿として名を連ねて地元では大きい顔をして、
裏の顔として、郡外で強盗を働くような狡猾な奴もいたりします。

ですが、その一方で、
時の政権が強かったり、地方官が優秀であったりすると、

馬鹿な部類は抵抗して殲滅されます。
大抵は、斬り合いの前に政権側の謀略に掛かって内部崩壊を起こします。

対して、利口な部類は地域の治安維持に貢献したり募兵に応じたりします。
当然、「利口」な部類で飛び抜けて優秀な者の中には、
君主の片腕になる者も現れます。

要は、その地域の土着の有力者や新興の山賊団が、
治安を維持する側・乱す側のどちらにも転んだ訳です。

辺境(特に北)なんか、
こういう事情に加えて異民族が絡むので
さらに話がややこしくなります。

極論すれば、今の感覚で言えば、
早い話、武力を持った者は、ほとんど例外なくクズと言える時代でした。

もっとも、今のメキシコの麻薬戦争も、この時代の兵乱もそうですが、

国家の治安機能が正常でない以上、

手段は非合法であれ非常識であれ、何であれ、

それぞれの立場に応じて自力救済を強いられるという
とんでもなく過酷な状況にあると言えます。

 

曹操も、元は、
命知らずのハードボイルド地方官

こういう、上では天下国家を語る三国志の皮を被りながら、
下では地方官よりも盗賊の方が強い水滸伝の後漢末期。

このドン・ウィンズロウの『犬の力』さながらの、

国教の儒教の教えが霞んで見えるような弱肉強食の時代における
裏の主役は、

こういう縁の下の力持ちである、

コーエーのゲームに出て来るかどうかも怪しい
無名の腕利きの地方官や、
群雄の軍事力を支えた荒くれ盗賊団ではなかったかと思います。

恐らく、英才教育を受けて若くして孝廉を通るような優秀な頭脳でも
賄賂を取るのが仕事だと居直るクソな地方官が大勢いたであろう中で、

(でなかったら、大土地所有による小農の没落と富の偏在や、
その弊害が国体の否定という最悪の形で露呈した黄巾の乱なんぞ、
そもそも起きていないと思います。)

一握りの真面目な地方官やその部下の官吏達が、

例え我が身が賊の凶刃で朽ちようが、

朝廷を牛耳る曹操に漢の未来を託して
目の前の武力に優る盗賊共と虚実の駆け引きを行う訳でして、

肝の据わった人の場合、
交渉の席で盗賊の頭を斬ったりします。

事実、曹操の若き日も、こういう正義感の強い地方官そのもので、

もう少し言えば、曹操のような優秀な人が星の数輩出しては、
命の遣り取りで呆気なく命を散らした時代でした。

あの時代の知識人階級が自ら剣を取って募兵して寡兵を指揮し、
若き日の向こう見ずさで生き残ったことの方が不思議な位だと思います。

 

穢れ仕事と綺麗事

当然、こういう泣く子も黙る叩き上げの地方官が、
群雄の目に留まって中央で大きい仕事をする、というケースもあります。
劉曄や程昱等がその典型。

(追記:エラい間違いを犯して大変恐縮です。

 程昱も劉曄も、地元で切った張ったをやった時は、
 地方の名士であっても官には就いていません。

 気骨のある地方官としては、例えば梁習や王脩等。)

 

 

ですが、程昱なんか本当に可哀想な人で、

曹操が食糧に困っている時に自分の出身地を略奪してまで
3日分の食糧を工面したのですが、

そのうえそれに人の乾肉を混ぜたことが朝廷の不興を買い、
大臣になれなかったそうな。

また、王忠も人の肉を食べて、
そのことで曹丕にからかわれ続けたそうで、

当人達にしてみれば、恐らくは、
人間辞めたいのを我慢して死に物狂いでやっているのに、

現場の苦労を見てみぬフリの
こういう無神経なのが文帝だの宮廷官僚だのやっている訳で、

人間、環境で如何様にも変わるもので、
王朝文化も、度が過ぎれば待つのは亡国だと思います。
曹爽が政策でも政争でも司馬懿に勝てない訳です。

 

妄想・楊奉伝・その1

ハードボイルド盗賊、その名は楊奉

また、盗賊の中にも、
損得勘定だけで動く人ばかりでもなく、

例えば楊奉なんか、ピカレクスを体現して格好良いと言いますか。

この人、元は白波賊(大規模盗賊団)の頭目だったのですが、
人生のハイライトを迎える直前は、董卓配下の李カクの部下でした。

 

妄想・楊奉伝・その2

ヒャッハーな街角から天子様を救出

転機は董卓の横死。

その跡目争いで首都の長安は灰燼に帰し、
天子様は側近を殺されるという具合に散々な目に遭いました。

さすがに元は盗賊はいえ、傍で観ていて、
こういう状況を潔しとはしなかったのでしょう。

まず李カクの暗殺を企て、
これに失敗した後は李カク・郭汜と全面抗争を始めます。

それだけであればやっていることは李カクと同じですが、

韓暹等、白波賊の仲間を呼び寄せて戦力増強を図る傍ら、

彼の陣地に逃げ込んで来た天子と僅かな側近を保護
長安を脱出するという離れ業をやってのけます。

楊奉にしてみれば、
ここらが人生で一番運が向いた時期だったのかもしれません。

ですが、その後は、一転して運命の歯車が狂い始めます。

 

妄想・楊奉伝・その3

美味しいところは曹操が・・・

元の都の洛陽へ向かう途中の弘農で
李カク等に敗れて李カクの略奪・狼藉を許したり、

安邑で臨時の政権を開いて
楊奉は政権の中枢に参画し韓暹等は上位の将軍の称号を貰うも
肝心の食糧が尽きて張楊の支援でどうにか洛陽入り出来たり、

洛陽に入ると、今度は董承と韓暹が抗争を始め、

楊奉も楊奉で決断力を欠き、

部下の徐晃が曹操に帰順すべきと説き(この辺りは役人出身だけあります)、
当初はそれに従おうとするも、結局は撤回し、

終いには曹操を敵に回して追討されるというグダグダぶり。

それでも、楊奉等の手回して天子が洛陽に戻ったことで、
早い段階で曹操の保護を受けられたことは大きかった訳です。

地方行政にコネ・手腕を持つ知識人層「名士」層の支持を得たことで
社会の混乱の収拾がそれだけ早まったことだけは間違いないでしょう。

 

妄想・楊奉伝・その4

ハッピー・エンドは似合わない

その後、楊奉等は盗賊の気質が抜けず出奔し、
元の稼業に手を出して徐州や揚州で略奪を繰り返し、

最後は、楊奉は民の味方の劉公叔に成敗されましたとさ。

さらに、孤立した韓暹は幷州に向かう途中、地方官との戦いで戦死。

何だか、古い映画ですが、
『明日に向かって撃て』のブッチ一味を見ているようで、

やっていることは手放しに褒められないものの、

7割のクズさと3割の義侠心という意味では、
ハード・ボイルドの主人公としては絵になると言いますか。

 

おわりに

さて、三国志の「正史」の原文ではなく和訳を中心に、
思ったことをツラツラを綴った次第ですが、

当時の世相の話をするつもりが
結局は人の話になってしまいまして、

オマケに冗長になってしまい、
中々思い通りに巧くいかないものだと思います。

その一方で、その内容を全て額面通りに受け取る訳にはいかないにせよ、
また、さまざまな文献と照合しても、

時代のカオスぶりについては、正史の内容と一連の文献との間には、
それ程の差異は感じられなかった、というのが率直な感想です。

また、曹操も孔明や仲達も、当時の真面目な地方官も、
無論、優秀ではあったが決して超人的な人間ではなく、

ましてや称えるべき正義感やそれに基づく行動・清貧さにも、
当時の「名士」階級に流行した考え方が反映された瘦せ我慢
少なからず見え隠れします。

こういうのを、もう少し整理したうえで、
コーエーにゲームに出て来るような武将の出自や類型、仕事等を
少しでも整理出来ればと思う次第。

例えば、寒門出身の武将の生き様なんか、悲哀そのものだと思います。

 

【主要参考文献】

陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』1~3巻
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
高島俊男『中国の大盗賊』
堀敏一『曹操』
澁谷由里の『<軍>の中国史』
ドン・ウィンズロウ『犬の力』上・下
ヨアン・グリロ『メキシコ麻薬戦争』

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戦国時代・三国時代の人口と兵力動員の話

 

はじめに

先の記事の追記につき、
何か大層な結論を導く程の話ではなく、かなり大雑把な話になります。

細部は後日の記事で詰めさせて頂ければ幸いです。

さて、国家の動員兵力に生産力や人口の話を絡めると、
家族制度や農業事情まで話が脹らみ
そのうえ実態も定かならぬ部分もあるので

個人的には、正直なところ、
専攻の方でなければ答えが出ないような泥沼に片足を突っ込んだ心地です。

成程、博学でクレーバーな先生方が、

個々の研究論文であればともかく、
通史レベルでは、こういう事務的かつ曖昧な話をしたがらない訳です。

ただ、参考になると思しき話を少し挙げておきます。

 

1、戦国時代の斉の動員事情

 

中国史の大家の故・宮崎市定先生によれば、

戦国時代の斉の首都・臨淄(りんし)の戸数は7万戸で、
一家から3名の壮丁(当時の年齢の限界は60弱)を動員すれば
臨淄だけで21万の兵力を動員出来たそうな。

三国五鄙の制の時代とは違い、
郊外の(鄙)の地域での徴兵も始まっていることで、
たしかに、数字のうえでは数十万の規模は見込めると思います。

一方で、あの時代の小家族は、今の日本の核家族と変わらず、
その状態で全世帯に動員を掛ければ治安や生産等の機能は止まると思います。

さらに、臨淄は中原では、大規模な遺跡が残るレベルの都市で、

特に、臨淄のレベルの都市ともなると場合
大規模な武器・兵器の工場を抱えていることで、
これに充てる労働力も馬鹿になりません。

因みに、中国の武器は、刀剣の類であっても、
余程の高級品でなければ、使い捨てでよく壊れるものだそうで、

諸事、手作業で作る時代のことにつき、
大量に供給しようとすれば、相応の人数を要すると思います。

さらに、戦争を仕掛ける場合は、
第三国の侵略に備えて国内にもある程度兵力を残すことを考えると
実働数はかなり少ないのではないかと推測します。

では、分母の総人口はどれ位か、という話になるのですが、
大変申し訳ありません。これは後日の課題にさせて下さい。

 

後漢末期における人口の推移と北伐の動員兵力

また三国時代の話で恐縮ですが、

戦国時代に明代までの戦争のスタイルが確立し、
この時代も大体はそれを踏襲していることで、
動員についてある程度の指標になるかもしれないと思った次第です。

さて、漢代は確かに開発時代でしたが、
その最末期―三国時代は、一転して、戦乱による凄まじい飢餓の時代に突入したようでして、
統計のスタンダートや正確性はともかく、以下の数字の模様。

157年   戸数1067万・口数5648万

263年頃  戸数 146万・口数 767万

100年で人口が7分の1に減少、言語に絶する話です。

この時代の状況として、
各勢力が戦争と同じレベルの熾烈さで人口の奪い合いを演じ、

(例えば官渡の戦い等)戦地の穀物の価格が暴騰して人肉を喰らったり、
あるいは、ゴースト・タウンが急増するような悲惨な状態が、
時期を問わず各地で多発していることからも、

統計の数字は、ある程度の大勢を反映していると思います。

因みに、この間の時期に行われた諸葛孔明の北伐。

500とか1000の兵力の話がよく出て来る中で、
(因みに、官渡・袁紹軍15万、夷陵で孫権・5万、赤壁は孫権・3万、曹操・不明)
双方、他に類を見ない位の動員兵力でして、その数、魏が20万、蜀が8万。

263年の数字で考えれば、魏は人口450万弱で、蜀は100万弱の人口。

魏の場合は、呉方面にもかなりの兵力を置き、実際に大きい戦役も多発しています。

漢代の戸籍が充実しているのは、
制度上は貴族の土地支配を排除出来たからなのですが、

身分とは別に、土地の集積を始める奴が出て来て貧富の差が開き、
こういう連中が買官して支配下の小作からの搾取を合法化したので、

社会不安が増幅し、黄巾の乱の伏線になりました。

それはともかく、北伐の段階で人口をもう少し多く見積もるにしても、

各国の動員兵力は、人口の数%程度乃至10%未満ではないかと推察します。

時代の事情が異なることで
あまり参考にならないかもしれませんが、
WW2の敗戦国の中で一番動員体制が厳しかった日本でさえ、
大体このレベルです。

因みにあの時代は、フィリピン戦辺りから大分老兵も徴兵されましたが、
年齢や体格の関係で戦地に行かない男性は、片っ端から軍需工場に動員されました。

これとは別に、特に漢代以降、北方の脅威となる匈奴も、

遊牧民族につき工業的な生産拠点が少なかったことで
常に軍需物資と食糧の欠如に悩まされていたそうな。

これらの話が意味するところは、
世の東西を問わず、国が本気で戦争をしようとすれば、

前線で斬り合いをやる人間と同じ位、武器や食糧の生産に充てる人間が必要になる、
ということなのでしょう。

 

【主要参考文献】

宮崎市定『中国史(上)』
飯尾秀幸『中国史のなかの家族』
掘敏一『曹操』
陳寿・裴松之注・井波律子訳『正史三国志5』
金文京『中国の歴史4』
川勝義雄『魏晋南北朝』
沢田勲『冒頓単于』

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戦国時代の部隊編成

はじめに ~減少する定員

まず、簡単に春秋時代の部隊編成のおさらいをします。

戦争は野戦の戦車戦が中心であったことで、
大本となる周の制度では、最小単位「伍」・5名、そして、次に小さい編成単位は「卒」・100名。
そして覇権を握った斉の制度では、

最小単位「伍」・5名、次に「小戎」・50名、さらに卒・「200」名。
この「卒」という編成単位は、

また、周の「卒」や斉の「戎」は、
戦車1台とそれに付随する歩兵で構成される「乗」という単位に
対応すると思われます。

 

1、大量動員時代の戦争の風景

ところが、孫武・伍子胥の呉が農民歩兵の大量動員を始め、
他国がこれに倣うと、戦争の風景は一変します。

平地の戦いでは密集隊形の歩兵が出現し、

また、平地だけでなく丘陵・森林地帯等の広汎な地形で戦争が行われ、
奇襲・伏兵、何でも御座れの騙し合いになります。

この戦争のノウハウ本が、『孫子』や『六韜』等。

また作戦区域の急拡大により、守る側も国中を城郭だらけにしたことで、
その争奪戦が主になります。

それまでの堅苦しく古めかしい戦争の流儀も、
互いにそれを遵守することで、

国家レベルでは軍縮になり得
将兵の目線では戦地では命が助かる等して
互恵的な関係の維持に役立っていた訳ですが、

各国が互いに禁断の果実を舐めたことで、後には退けなくなります。

 

2、食客は凄腕の軍事顧問様

さて、そういう世相の中で、斉は兵制改革を行うのですが、
その担当者・司馬(嬀)穰苴のモデル・ケース。

遅刻した上官を処刑したり、統帥権を盾に王様の命令をゴネたりして、
有名になった人です。

自分の言うことを聞かない王様の側室を斬った孫武といい、
良くも悪くも、後世の所謂「意識高い系」の軍人が好きそうな人ではないかなあと。

当時の大国には、小国の統廃合によって、
即戦力となる亡命貴族が大勢集まるのですが、
大国はこういう所謂「食客」を使い捨てにして勢力を拡大します。

そう、「士は己を知る者の為に死す」は、
まさに、こういう尻に火が付いた状況下での食客の心情を吐露した名言。

とはいえ、この「食客」の層の厚味は、中々面白いものです。

戦闘部隊の立ち上げや指揮、徴税や法令関係の決裁、各種外交交渉、
といった国家の統治にかかわる実務のみならず、斬り合い・モノマネと多士済々でして、

後世ではむしろ、後者の異能ぶりの方が有名になっている感が無きにしもあらず。

で、こうして再就職した「食客」は、ひとかどの仕事をしようとすれば、
必ず身分が足枷になる訳でして、
有能で勝気な人程、古株の貴族と揉めるリスクを取って荒療治を行います。

その典型が、孫武や司馬穰苴。

 

3、戦国時代の編成単位と後世への影響

 

【表3】

さて、本題の編成単位の話に戻ります。

やはり、注目すべきは、100名以下の小規模な編制単位だと思います。
烈・5名、火・10名、隊・50名、官・100名と、
5名単位、10名単位の組織が整備されている訳です。

因みに、隊や官といった名詞は、恐らくここから来ているのかと思いました。
加えて、文字の由来が分かりにくいところから、古い制度なのかしらと想像します。

分かりにくい序(ついで)に、
「部」・「曲」は、後の世の三国時代の有象無象の私兵集団を指す言葉でもあり、
良くも悪くも、色々な意味で、後世への影響の大きさが垣間見えます。

余談ながら、ネットで、それも分かり易い活字で「通典」が読めるのですから、
いい時代になったものだと思いますが、
私のアヤフヤな理解で、ヘンな解釈になっていることを予め御断り申し上げます。

 

4、受爵制度と連動する部隊編成

次に掲載する【表4】は、最終的に覇者となった秦の二十爵の制度。

前359年に有名な商鞅が行った政策です。

当時問題になっていた貴族の世襲の存在を否定し、
軍功爵体制を図ったことが主眼にあったそうな。

当然、貴族の反発を受け、政争に敗れた商鞅は刑死するのですが、
制度は残ります。

『キングダム』の幼少期に赤貧を洗った政の話も、
多分こういう改革が背景にあるのでしょう。

【表4】

残念ながら、これは貴族の受爵の制度につき、士大夫・卿はあっても、
中国文明下の下層の身分である「庶」の部分がありません。

したがって、50名未満の小規模編成の実態は筆者の浅学で分かりかねます。

ただ、この国が各国の制度改革の上澄みの部分を取捨選択して富国強兵を図ったことで、
庶と軍事に関する制度は必ずあると思います。

【追記】
商鞅が先述の二十爵と連動させる形で前359年に始めた什伍制というものがあり、
これが生産と軍事で連動していることで5名・10名の単位は説明が付きます。

民を5戸単位と10戸に分け、各々の単位で刑罰の連座制を取るという仕組み。

これが軍事の編成単位として横滑りするということは、
1戸につき1名徴兵するという想定なのでしょう。

また、11以上の級は、俸給も兵権も「客卿」と同じにつき、省略しました。
後述しますが、このような少ない兵権も重要な点のひとつかもしれません。

さて、ここで注目すべきは、貴族の受爵制度と兵権が連動している点です。

どこの国のゴタゴタもそうだと思いますが、
特に秦の場合は、食客がよく働き国力も増強されたことで、

真面目に仕事をして勢力の拡張を図りたい食客と
既得権益の温存を図りたい旧貴族との政争が
シャレにならないレベルに発展しており、

それを調整する仕組みが不可欠になったのでしょう。

また一方で、先の記事で取り上げた、斉の「三国五鄙の制」とは違い、
行政と軍事が乖離している点も垣間見えます。

600家分の税金が俸給、というのは、
恐らく、大国の有力な家臣が持つ政治的な影響力を考えれば、
それだけの権勢で領地を直轄して得られる財貨にしては少ないと考えられます。

つまり、この制度からは、同じ君主の臣下でも、

春秋時代のような、自分の土地では何でも屋である小領主の連合体ではなく、
軍事なり行政なりに特化した官僚という存在が浮かび上がる訳です。

物の本によっては、こういう歩兵の大量動員と集権化の段階で、
身分制度上の貴族は一旦消滅した(後漢~晋の過渡期に復活)と説くものもあります。

 

5、少ない兵権と、何とも多い最大動員兵力

そして、こういう「官僚国家」めいた秦の指揮官の兵権についてですが、
驚くべきことに、最大でも1000名。

後の世のように、臨時の将軍職でもあるのかもしれませんが、
それでも、平時のシステマティックなものにしては少ない気がします。

特に、秦が楚を滅ぼす時の戦争など、公称60万もの軍隊を動員しています。

さらに、秦だけかと言えば、先述の司馬穰苴の斉にしても、
「将軍」職で3200名。

このような脆弱な組織体系で、史書にあるような数十万の軍隊をどう動かすのか、
個人的には不思議でなりません。

因みに、戦前の帝國陸軍は、
太平洋戦争直前の段階で大陸に100万の兵力を送っていましたが、
戦時の師団は大体2万程度の兵力です。
さらに、師団の下には、指揮下の歩兵を二分する
「旅団」という組織もあります。

周代の「旅」が語源なのでしょうが。

さらに、戦時の上位組織として、いくつかの軍に分けていました。
当時の各国の実情も、これとあまり変わりません。

帝國陸軍の話は参考程度にしても、

春秋時代の周代の制度と戦国時代の斉や秦の制度を比較した際、
小部隊の編成単位が整備されている反面
大部隊の編制単位の整備が等閑になっているところを見ると、

平時の最大組織と公称の最大動員兵力の乖離が
どれ程大きいかを示唆していると思います。

もっとも、幕僚組織めいたものがあったのかもしれませんが、
それでも、一人の優秀な将軍が数百名もの指揮官に逐一指示を出したのか、

若しくは、何十万の人数を動かすための組織力として、
軍隊とは異なる上位組織や貴族の人脈で動いていたのか。

軍事は元より、もう少し広い視野(政治史等)で見るべく、
通史等をいくつか紐説いても、どうも納得出来る応えが見つかりません。

 

7、実は、動員兵力は、

一桁もサバを読むハッタリだった?!

ですが、前後の時代の実情を考えれば、
思い当たるフシが無い訳でもありません。

愚見を開陳すれば、答えは、そもそも実数は一桁小さいのではないかと思います。

つまり、周の時代の制度に基づく最大動員数が、
存外いい線いっていた、という御話。

どの本を読んでも、数十万の兵力が、と書いてあるので、
中々こういうことを考え付かなかったのですが、

こういうのが的外れであれば、笑って下さい。

確かに、社会を狂わせるレベルの歩兵の大量動員はあったと思いますが、
兵力が一桁増える程ではなかった、ということなのでしょう。

逆に言えば、
周の時代には乗もしくは卒の定員100名に対して極めて充足率は極めて低く、
さらには、時代が下って春秋時代の斉の三国五鄙の制の50名は、
恐らく実数に近かったと思われます。

そして、戦国時代には、多くても周の時代の3倍程度であったと邪推しますが、
その程度でも戦争をやる側にとっては銃後も含めて大きい負担であり、

戦争に勝つためには、
前線での戦法どころか兵力・物資の動員体制まで変えざるを得なかった、という御話。

 

8、小部隊が活躍する大開発時代の戦争

戦国の七雄共の兵力の鯖読みの根拠として説得力のあるのは、
恐らくこの時代より500年弱後の後漢末期の御話。

秦が滅亡した後の漢は、大規模の外征をやって財政は逼迫したものの、
国内では、前漢の滅亡時の内乱以外は目立った内乱がなく、

経済的には生産力が大幅に向上した大開発時代でした。

ところが、その戦国時代に比して増強された生産力を前提にした
三国時代の戦争でさえ、

演義では100万だとか物々しい数字が出て来るものの、

戦国の七雄以上の支配地域を有する勢力が、
国運を賭けて国力を総動員して行った「官渡の戦い」や「夷陵の戦い」等の
大きな戦役ですら、

大抵は、双方合わせても20万の兵力にも満たないのが実相の模様。

さらに、その三国時代の正史を読むと、

編成単位と兵数の話を整理した場合、

先鋒や陽動といった単独で作戦を預かる支隊、
他勢力に離反する部隊、
挙兵に際に君主に合流する部隊等の兵力が、

大半は200名~3000名以下、という話が非常に多いのです。

しかも、その中でも1000名前後かそれ以下、というケースが大半。

これが意味するところが、
ひとりの指揮官が単独で作戦行動を行う場合、

当時の戦闘のノウハウやインフラ事情からすれば、
これ位の人数が適正であったことを示唆していると思われます。

そして、戦時の大部隊の実態は、
平時の小規模な部隊の連合体ではなかったのかと推測します。

つまり、派遣兵力が何万という単位になると、

指揮下の部隊も、自分の息の掛かった直系部隊だけではなく、
さらにはその規模の兵力に見合った指揮官なり組織体系がないことで、

兵力の規模が逆にアダになり、
寄り合い所帯と化し、効率的な動きが難しかった、
ということなのでしょう。

―三国時代のこの辺りの話については、後日、別の記事を書く予定です。

また、どの時代にも通ずる調べ事の原則としても、

こういう事務的な話は、人の耳目をひく大言壮語の逸話の類とは異なり、
登場する回数が多いことで真実味を増します。

例えば、江戸時代の法令等、
贅沢・殺生・喧嘩沙汰といった類の禁止令が何度も出ていれば、
違反者が多かったのが実情だと解釈する訳です。

こういうロジックにつき、

個人的に、部隊の末端の編成単位にこだわったのは、
戦闘の実相が知りたかったのが最大の理由ですが、
要は、こういうヘンな仮説を立てるに至った点にもあります。

【追記】

『尉繚子』に記された単位編成も掲載します。

下記のようになりますが、漢代の部隊編成と内容が近いことから、
成立年代はかなり新しいのかなあと思います。

 

余談ながら、『六韜』といい『尉繚子』といい、
執筆の経緯が怪しかったり成立年代が不明なところを見ると、

中国では、当時から、
思想関係の書物以外の
こういうハウツー本の価値が低かったのかなあと邪推します。

なお、特に漢代以降は、
読書とは、儒教関係の本を読むことを意味したのだそうな。

つまり、今日で言えば、
『キングダム』も『ナミヤ雑貨店の奇蹟』も本のうちには入らない訳で、

さらには、西洋の本なんか禁書扱いでコピーが出回るという位で、

そりゃ、19世紀に現体制に嫌気が指して洪秀全が兵乱を起こした時も、

少しばかりキリスト教をかじった程度では、
新政権の枠組みが王朝しか思い付かなかったのも分かる気がします。

【主要参考文献】
高木智見『孔子 我、戦えば則ち克つ』
貝塚茂樹 伊藤道治『古代中国』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
浅野裕一『孫子』
西嶋定生『秦漢帝国』
川勝義雄『魏晋南北朝』
宮崎市定『中国史(上)』
飯尾秀幸『中国史のなかの家族』
掘敏一『曹操』
陳寿・裴松之注・井波律子訳『正史三国志5』
金文京『中国の歴史4』
岡本隆司『中国の論理』

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色々ブッ飛んでいる戦国時代

はじめに

戦国時代の部隊編成の話に入る前に、
この時代のアウトラインについて書きます。

何故、これをやるかと言いますと、
識者の方の御意見によれば、中国史上でも社会変革が極めて大きかった時代だからです。

特に、戦争については、
この時代に歩兵中心の大部隊の運用、大量の攻城兵器投入による大規模城郭の攻略が主体、
という骨格が定まり、

以降、ある程度の兵器の改良はあったものの、

この枠組みが、火砲の登場する明代まで継続します。

 

1、辺境国・呉の兵制改革とその背景

春秋時代の戦争は、平地での少数精鋭の貴族による戦車戦が主体でしたが、
こうした構図が一変するのは、その終わり頃の前500年前後ことです。

呉という辺境の国が、平民の大量動員と歩兵主体の巧みな部隊運用を行い、
これによって急速に勢力を拡張しまして、
中原の国々がこれをこぞって模倣し始めました。

この背景には、以下のふたつが挙げられます。

 

1、呉自体が当時の感覚で言うところの、
中原の文明や中華思想の範囲外・適用外の所謂「異民族」の支配地域であり、
卿・大夫・士に象徴されるような
他国と価値観を共有出来る貴族社会が存在しなかったこと。

2、国土の地形自体が山岳・河川・森林地帯が多く、
戦車の運用に適していなかったこと。

 

因みに、「南船北馬」は各地を忙しく駆け回ることを意味する言葉ですが、
戦争はおろか、交通手段やカンフーの流儀等の南北の違いも示唆しています。

そして呉は、こういう特異性を活かし、

中原から腕利きの軍事顧問を招聘し、工作員を使って質の良い情報を集め、
緻密な作戦計画を練った上で、隣国の大国・楚を蹂躙するのですが、
その立役者となった軍事顧問こそが、有名な孫武と伍子胥。

辺境の地でこそ、
中央でくすぶっていた潜在能力のある人材や技術が活気付くという構図は、

中原での政治・兵制の改革の波が最後に波及した(同じく辺境の後進国の)秦が
一番新しいものを吸収したという皮肉を彷彿とさせます。

 

2、戦争の総力戦化

さて、この呉の大立ち回りの結果、戦争の質が劇的に変化しまして、
中国の戦争は、モラルのある制限戦争から、
情報戦や戦時体制の構築も含めた総力戦の時代に突入しました。

その意味では、『孫子』の革新性は、

本屋さんや(私も大好きな)ゲーム・メーカーが喜びそうな、
今日に通ずるような人を騙すための普遍的なノウハウを提示した、というよりは、

それまでの一定の秩序のある制限戦争と差別化を図る前提で、
仁義なき総力戦のノウハウを説いたことにありそうです。

誤解を恐れずに言えば、
事の善悪はともかく、弱小国が核を持って実際に撃ったのが呉。

ところが現在と異なるのは、

楚が「核」なるものの炎で丸焼けになった城下の誓いの憂き目を見るまで、
呉や一部の専門家以外はその有用性を理解していなかった、ということです。

そして、こういう戦争の流儀が各国のスタンダードになるや、

それまでは、長くても1ヶ月を切るような野戦の短期決戦が中心であったのが、

巨大な城郭を夥しい数の攻城兵器で何年も掛けて攻略する
土木工事めいた攻城戦・籠城戦が主体になりました。

当然、銃後も巻き添えを喰う訳で、

例えば、領内の壮丁が兵士として大量に駆り出されることで、
隊列を組んで凄惨な白兵戦を展開する一方で、後方の田畑は荒れますし、

城に籠る側も安全という訳ではなく、

籠城戦が長引くのが常態化する中で、
自分の妻子を隣家と取り換え、互いに食用の肉にするような悲惨な故事も、
こういう極限状況に起因します。

その結果、中原は、春秋時代には国の数が大小200以上あったのに対し、

戦国時代には大幅な淘汰が進み、
こういう桁違いの規模の消耗戦を戦える強国の寡占状態となります。

 

3、総力戦のもたらす社会の変容

戦争の在り様は、社会の様相も一変させます。

まず、戦争の総力戦化の過程で、

勝つ側の国王は、
他国の勢力を自分の勢力に組み込む形で、
自国内における自らの影響力の強化を図ります。

そしてこの時代、国境が消えることは、
同時に経済活動の活発化と富の集中をも意味しました。

その結果、広大な土地を所有し、広い交易圏で活動する大商人も現れるようになりました。
始皇帝のパトロンである呂不韋も、こういう文脈で登場した富商です。

その一方で、血縁・地縁・祖先崇拝でつながっていた
旧小国の地域的な人間関係・社会関係は崩壊し、

この間隙を縫うかたちで「俠」という人間本位の社会関係を結ぶ動きも現れます。

また、社会の在り方が激変したのに対して、
学問の在り方も影響を受けた訳でして、世に言う諸子百家。

学者連中も、世の中を変えた戦争を哲学的にとらえようとして、
長きにわたり活発な議論を展開します。

無論、その中には、実学として重宝されたものもありまして、
例えば、孫子・呉子等の兵家、平和を説きながら籠城戦では無類の強さを誇った墨家、
儒家の鬼子の法家等。

儒家の場合は、失業軍人の孔子が身分を問わず人間修養を説いたのですが、

面白いことに、弟子の出来が良かったことで、
世の中が平和になってから国教として2000年の我が世の春を謳歌しました。

もっとも、その一方で、
軍隊を軽視する風潮を作り、国軍の弱体化につながった面も見過ごせませんが。

 

4、王朝時代への胎動

三国時代が好きな方は、思い当たるところがあろうかと思いますが、

面白いことに、
戦争によって、国家が貴族の権力基盤を侵食し集権化を進め、
その延長で王朝国家の骨組みが整えられていく過程で、

土地の集積や「俠」の概念等、
漢代以降の王朝国家の支配を揺るがしかねない火種も同時に燻ぶり始めていた訳です。

土地の集積は、貧農の増加による社会不安につながりますし、

「俠」の概念は、今日でいうところの(非合法も含む)職業団体や地域等、
横のつながりを多く作ることで、
事を起こす際に、これに加担する人の数が桁外れになる危険性があります。

 

皮肉なことに、こういう戦争を始めた呉は、
当初は隆盛を誇ったものの、その勢いは続かず、100年で馬群に沈みました。

そして、孫武らの始めた戦争は、
自らの説いた速戦即結どころか、ぼくらの300年戦争の幕開けに過ぎなかったのです。

 

【主要参考文献】

高木智見『孔子 我、戦えば則ち克つ』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
浅野裕一『孫子』
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』
西嶋定生『秦漢帝国』

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春秋時代の部隊の編制単位

春秋時代(前770~403)の周王朝の天子および諸侯の軍隊の編成単位は以下。
色々なサイトでも触れられていますが、一応確認しておきます。

1、規模を意味する「軍」と戦車の単位を示す「乗」

さらに、当時の戦争は平地における戦車戦が主体。
そこで、特に春秋時代には、
「乗(じょう)」という単位が表中の編成単位とは別に使用されました。

では、どういう単位かと言いますと、まず、定員は、一乗:30~100名。
卒長クラスがこの単位の隊長に相当すると思われます。

『論語』で孔子の弟子の子路が、
「戦車を千乗出せる国であれば」というような話をするのですが、

1乗30名と考えても3万の兵力を動員出来る国ということで、
こういう国は、諸侯の中でもかなり上位の部類の国を意味します。

また、軍隊そのものを意味する「三軍」という言葉は、
ここでいう軍の数=規模の話ではなく、

縦隊で行軍する時の、上軍(先鋒)・中軍(本隊)・下軍(後衛)の隊形のことで、
歩兵の大量動員という禁じ手を犯した孫武の『孫子』の概念です。

例えば、出先の軍隊を統率する将軍が、統帥権を盾に君命を無視して居直る時などに、
ちょくちょく、こういうシャレた言葉が登場します。

 

2、「一乗」の内訳

そして、その内訳は、戦車の搭乗員である「甲士」と、これに付随する歩兵・補給要因。

戦車1台には3名の甲士—完全武装した搭乗員が乗り込み、
これに付随する歩兵は最大で72名。

戦車は漢代の前半まで野戦部隊の主力ですが、

春秋時代の終わり頃に各国で歩兵の大量動員が始まることで
歩兵の数は時代が下る程増えます。

また、補給要員は25名で、これに輸送車1台が付きます。

序に、最小単位の「伍」という単位についても触れておきます。
旧軍の12名の分隊長の「伍長」の語源だと思います。

発掘された前5世紀の盥(たらい)に書かれた戦争の影絵によれば、

文字通り、「伍」は5名の編成単位で、内訳は、2名が戟(十字の矛)、2名が弓。
戟で相手を引き寄せて髪を掴み、剣で止めを刺します。

隊長の伍長は戟と弓の双方を持ち、部下を指揮しながら、状況に応じて弓か戟で参戦。

 

3、「乗」の構成員

3-1 戦車戦は貴族同士の殺し合い

続いて、構成員の属性について触れます。

まず、甲士は当然貴族ですが、

当時の戦争は、後の時代とは異なり、
諸侯だろうが小領主だろうが、身分の高い者が率先して突撃を掛け、
陣頭指揮で敵の戦車と斬り結ぶのが流儀につき、

独ソ戦のタンク・デサントの随伴歩兵とは趣を異にします。

戦車長に当たる車左が、左側に乗り込み、弓や弩を構えて指揮することで、
車左を正面に向けないために、左旋回が鉄則でした。

もっとも、時代が下ると共に、
こういうルールはいい加減になっていったようですが。

 

3-2 戦車長・孔丘

恐らく、司馬遼太郎が戦車兵だったことよりも真に迫る逸話ですが、

儒学の祖・孔子は、学者どころか当時の花形の戦士様で、
戦車の操縦と弓の名手でした。

さらに孔子は元より、その弟子の何名かもこういう貴族≒戦士階層の出身であり、
戦車戦を得意としておりました。

で、偉大な孔子様は、
衛で就活した際に、霊公に戦陣=歩兵の集団戦に詳しいか、と聞かれて、
機甲科につき、普通科のことは分かりません、と、答え、
御祈りメールをもらう前に、衛を後にします。

岩波本の解説によれば、孔子は霊公の好戦性を嫌ったようで、

事実、この王様の策士策に溺れるデタラメで、当人の没後間もなく、
衛は御家騒動で滅亡します。

ただ、その一方で、方々の文献から判断するに、

当人は、単なる平和主義者でもければ、
戦列歩兵の登場によって戦車の乗り手としての
貴族の地位が下がるのを恐れるという了見の狭い話でもなく、

戦士・行政官僚としての経験から、

平民歩兵の大量動員が、勝敗如何にかかわらず、
どれ程戦禍を大きく広げ、国の経済に重い負担を掛けるかを、
よく弁えていたように思います。

因みに、当時、子路は兵隊ひとりを育てるのに7年かかると言ってまして、
大体その頃に歩兵の大量動員が始まり、質が劣悪になりました。

参考までに、帝國陸軍の兵役は、当初は3年で、後に2年。
それでも、試験で体格の良い者を選抜した精鋭です。

古代中国の実情と単純な比較は出来ませんが、

自国で戦争をやると兵隊は逃げるとか、孫武の兵書は、
7年もかけて育てる精鋭の用兵を想定しているようには到底思えません。

 

3-3 歩兵の出自

次いで、脇を固める歩兵。

これが細部がよく分からないのですが、
一般には農村や都市で掻き集めた兵隊と言われています。

しかしながら、日頃から軍事訓練を欠かさない、
共同体(国や領地)の軍事力の中核を担う社会階層も含まれていたと思います。

因みに、当時は武芸、殊に弓の修練は、
(今日の感覚でいう)学問や組織の昇進試験の一部でした。

「兵匪一体」に象徴されるような後の世に比して
武芸と学問の領域がかなり重複している時代だったのです。

したがって、孔子は頭デッカチではなく文武両道で、
これが当時の優秀な人間の花形。

そして、後の世の儒者が、儒教の国教化だの色々あって、
点取り虫で戦争嫌いの頭デッカチになったということになります。

その癖、兵権を欲しがる煩わしさ。
孔明や司馬仲達のことです。

 

3-4 電信柱に花を咲かせない補給要員

さて、最後に補給要員ですが、
こういう部隊こそ、徴募の数合わせの集団ではないかと思います。

その理由として、当時の戦争では、
老兵や幼兵、負傷兵、態勢の整わない敵には手に掛けないのも流儀でして、
実は、こういうマナーこそが、孔子の説いた儒教の母胎でした。

戦時下という極限状態の中での倫理が儒教を生んだ訳です。

一方で、皮肉にも、この思想が発展してあの国の軍事力を腐らせるのですが、
その話はまた別の機会に。

こういう事情につき、全部が全部でもないかもしれませんが、
基本的には、マトモな戦闘部隊と見なされていたようには思えません。

 

4、大国・斉の統治制度(追記)

また、この時代は、大小200余りの国があったことで、
当然ながら、国の規模によって統治の方法も変わって来ます。

下記の【表2】は、斉の三国五鄙の制。

孔子も孔明も褒める管仲が、桓公に献策したとされる政策で、

簡単に言えば、領内をいくつかの地域に区分し、
この行政区域と軍事組織を連動させる制度です。

 

 

具体的な内容について触れます。
斉の国内を、まず、1、首都と2、郊外に区分します。

1、首都の地域には、貴族の領地と商工業者の領地があり、
これらを3つの「国」という単位に分け、
それぞれの編成単位ごとに、軍事・行政を兼ねる責任者を置きます。

余談ながら、「国」という言葉が、この段階では、
必ずしも支配地域全体を意味しない時代であったことを知った次第です。

2、郊外の地域は、首都周辺の地域と、東西南北の4つの地域に区分され、
この5つの地域を「鄙」という単位とし、
首都周辺の地域は、斉王の直轄地。
なお、この「鄙」の地域には、兵役は存在しません。

また、軍隊の編成単位、特に、
現代の軍隊でいうところの中隊以下の小規模のところが
注目に値すると思います。

まだ前650年前後の段階では、
「伍」・5名の次に小さい編成単位が「小戎」・50名。
しかも、その次の編成単位は「卒」・200名。

周の制度では100名であった単位が、さらに100名増えています。

盛んに戦車戦が行われていた時代背景を考えると、
1乗当たりの歩兵は100名も要らないという程度の話だと思われます。

要は、首都に色々な機能を集中させて、
郊外の地域を生産に専念させる制度で、
軍事面で言えば、部隊運用の効率化を図った、といったところか。

後の世との絡みで言えば、
小国の諸侯が軍事・政治の何でも屋であった時代において、
大国の実情に見合う政策の担い手の分業化の嚆矢になった制度なのでしょう。

【主要参考文献】

高木智見『孔子 我、戦えば則ち克つ』
貝塚茂樹伊藤道治『古代中国』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
金谷治 訳注『論語』
浅野裕一『孫子』
澁谷由里『〈軍〉の中国史』

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