「攻國」と崤の戦い・その1

7000字弱。
章立てを付けます。

興味のある
部分だけでも
御笑読頂ければ
幸いです。

はじめに
1、寄せ手の負荷と
崤の戦い
2、遠征反対の諫言
3、蹇叔の逸話
【雑談・年齢の話】
4、出征時の悶着
5、名言の裏事情
6、幽霊様の軍略
7、遠征の背景
7-1、
晋秦の亀裂
7-2、
東方を占領せよ
おわりに

はじめに

今回も、
主に地理の御話です。

1、寄せ手の負荷と
崤の戦い

『周礼』「考工記」
廬人為廬器の中で、

次のような件が
あります。

故攻國之兵欲短、
守國之兵欲長
攻國之人衆、行地遠、
食飲饑

且涉山林之阻、
是故兵欲短
守国之人寡、食飲飽、
行地不遠

且不涉山林之阻、
是故兵欲長

衆:多い
饑:飢える
寡:少ない
阻:険しい場所

故に攻国の兵は
短きを欲し、
守国の兵は
長きを欲す。
攻国の人は衆にして、
地を行くに遠く、
食飲に饑す。

かつ山林の阻を渉り、
これ故兵は短きを欲す。
守国の人は寡にして、
食飲に飽き、
地を行くに遠からず。

かつ山林之阻を渉らず、
これ故兵は長きを欲す。

国を攻めるには、

取り回しの良い武器と
大人数の兵士と
大量の食糧を必要とし、

オマケに
険しい地形を
踏破する必要がある、

という、

今日日の某所の
痛ましい大戦争でも
何処か
通用しているように
見受ける
一般論。

2、遠征反対の諫言

この文言について、

サイト制作者の
感覚に過ぎませんが、

この件の実例
どうも
近そうな話として、

『春秋左氏伝』
(以下『左伝』)は、

僖公33
(前627)年の
崤の戦いの
前年における、

秦の大夫・
蹇叔(けんしゅく)
予言が、

それに当たると
思いました。

秦の穆公
同盟国の晋に内緒で
鄭を攻め取ることを
企てまして、

今回の主役の
蹇叔その中止
具申する訳です。

その際、
蹇叔は、

タダでさえ
目的地が遠いうえに、

敵国の晋は、
必ず、

険峻な
(河南省三門峡市の
南を東西に広がる
山岳地帯)
―北嶺と南嶺の間の
山道に
迎撃に出て来る
言います。

以下に、
当該箇所の原文を
引用します。

労師以襲遠、
非所聞也。
師労力竭、
遠主備之、
無乃不可。
師之所為、
鄭必知之。
勤而無所、
必有悖心。
且行千里、
其誰不知。

労:疲弊する
竭:出し尽くす
悖:背く、外れる

『春秋穀梁伝』の
当該の箇所には、
「虚國(国)に
入りても、
進みて守るあたわず、
その師
徒(いたずら)に退敗し、
人に子女の教えを
亂(乱)し、
男女の別なし。」
とある。
これを受けてか、
『春秋経典集解』は
「悖」について、
「まさに
良善を害す」と
注釈する。
要は軍紀の弛緩か。

労師をもって
遠を襲うは、
聞くところに
あらざるなり。
師は労して
力竭(つ)き、
遠主はこれに備え、
無にしてすなわち
可ならず。
師のなす所は、
鄭必ずこれを知る。
勤んで
無きところに、
必ず悖(はい)心あり。
且千里を行くに、
其を誰か知らざる。

要は、

目的地が
遠過ぎることで、

軍隊が疲弊する
のみならず、

相手に気取られて
備えられる、

という訳です。

地図で
策源地と目的地
確認すると、以下。

譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻の河川の位置・名称をベースに、杜預『春秋経伝集解』等の内容を踏まえて作成。

秦の国邑の
(現・陝西省
宝鶏市鳳翔区)から、

鄭の国邑の
(現・河南省
新鄭市)までの
直線距離は、
約600キロ。

周尺は約18cmで、
1里=1800尺
≒324m。

比喩に突っ込むのも
何ですが、

馬鹿正直に
数えると、

文字通りの千里行、
それどころか、
倍近くの
遠さになりますね。

3、蹇叔の逸話

さて、

国君・穆公に
耳の痛い諫言を
呈した
この蹇叔ですが、

『史記』秦本紀
当人について
多少記述があります。

この一件から
遡ること
30年弱の
穆公5年のこと。
(前655)

が有能で評判な
百里傒(けい)を
要職(五穀大夫)への
抜擢を試みた折、

当人は既に齢70を
超えており、

代わりに推したのが
この蹇叔。

若い頃に
仕官先を求めて
諸国を放浪した際、

何でも
その蹇叔より、

方々で、

あそこの国は
採る気がなかったり
面倒事が多かったり
するので
止めておけ、

といった
忠告を受けたことで、

難を逃れた
殺されずに済んだ
そうな。

この御仁、要は、

外国事情に明るく
目先が効く、

ということ
なのでしょう。

とはいえ、

その百里傒の
秦の前の仕官先は、

晋に道を貸して
同盟国の虢(かく)
共々滅んだ
虞(ぐ)と来ます。

―苦労人ですワ。

4、出征時の悶着

さて、

こうした
推薦書付きの
硬骨漢の諫言を
ものともしない
秦・穆公は、

孟明・西乞(きつ)
・白乙(いつ)の
三将と、

少なくとも
300両の戦車
雍より鄭に向けて
進発させます。

標準の編成で
大体2、3万
程度の兵力か。

『史記』
「秦本記」の内容を
西暦に換算すれば、

時に、
前627年春のこと。

蹇叔は
軍の出征を
見送るのですが、

その際、

「これを哭して」
総司令官の孟明に
帰還には
立ち会えそうにない、
―生きては帰れない、

と、出征前の軍中で
不吉なことを
言う訳です。

当然、
怒った穆公は、

勤続30年の
蹇叔に対して、

使者を介して
ジジイ呼ばわり
します。

臣下や将兵の手前、

こういう行為が
捨て置けぬ
という事情も
あるのでしょう。

【雑談・年齢の話】

穆公や蹇叔等の
年齢を
推測するに
当たって、

イロイロと
思うところ
ありまして、

その辺りを少々。

まずは、

先述の穆公の
蹇叔を
ジジイ呼ばわりした
暴言を、

一応、原文で
声に出して
読んでみましょう。

中寿、
尓墓之木拱矣。

中寿にして、
なんじが墓の木は
拱(きょう)する
なり。

中寿:ここでは、
小倉芳彦先生は、
6、70とする。
当時の蹇叔の
年齢か。
中寿は、長寿の
三段階中の中位。
上寿・中寿・下寿
が存在する。
具体的な年齢は
諸説あり、
各々の階層ごとに
10~20歳
程度の間隔がある。
さらに、最大で、
100歳を
上寿とする
史料もある。
拱:一抱えある様。
もしくは、
両手を胸の前で
重ね合わせて
敬意を表す。
杜預によれば、
「手を合わせるを
拱と曰う。」

因みに、
小倉芳彦先生は、

岩波文庫の
訳書にて、

この部分を
以下のように
訳されています。

中寿で
死んでくれて
いたら、

汝(なんじ)の墓に
植えた樹は
もう一抱えほどに
なっているぞ。

成程、

原文の文法に
忠実な
綺麗な訳だと
思います。

ただ、
サイト制作者は、

コレについて、

原文自体の
言い回しとして、

どうも
不自然なものを
感じます。

大胆なことを
言えば、

恐らくは、

「(我)
拱尓墓之木矣。」

なんじが墓の木を
拱するなり。

と書くべき
原文の誤記かと
思います。

そうであれば、

くたばったら
貴様の墓標を
拝んでやる、

程度の意味では
解釈出来るかと
思います。

もっとも、

誤記の有無を
抜きにしても、

老人呼ばわりして
罵倒することに
変わりは
ありませんで、

古人暴言録の
頁を彩る訳ですね。

恐らく
試験には
出ませんわナ。

受験生の皆様、
安心されたし。

まあその、

当ブログでは、
残念ながら、
漢文読解の足しには
ならんと思いますが。

―それはともかく、

人を
ジジイ呼ばわりした
穆公の年齢を
推測するに当たって、

『史記』「秦本記」
内容を整理すると、
以下。

穆公の父の徳公
33歳で国君となり
在位僅か2年、
35歳で死去。

徳公には
子が3名おり、
各々が年齢順に
即位しまして、

その期間は、

長男の宣公は12年、
次男の成公は4年、

そして三男の穆公は
何と39年。

で、先述の、
墓がどうたらの
一件は、

何と、
在位32年目
イベント。

察するに、

穆公も穆公で
結構な年齢に
見受けます。

極端な話、

先代の徳公が
息子の穆公を
20歳で孕ませた
としても、

齢50越え
という勘定に
なります。

要は、
大体同世代の
老人に対する罵倒。

さて、

年齢関係で
どうも
整合性の
付かない話が
もうひとつ。

先述の、

蹇叔が
穆公を諫めた
場面では、

実は、

もうひとり
居合わせた人物
いる模様。

『史記』「秦本記」
によれば、

穆公を諫めたのは
蹇叔と百里傒
なっています。

一方、

『公羊伝』や
『穀梁伝』は、
これを「百里子」
しています。

倭人の
「ゆりこ」では
ありません。

サイト制作者は、

さすがに
「秦本記」は誤記で、
(齢90越えと
なります)

あるいは、

「百里」は氏姓で
百里傒の血縁者
かしらん、

と、見ていますが、

憶測の域を出ません。

【雑談・了】

5、名言の裏事情

さて、

良かれと思い
諫言したところ
主君・穆公に
キレられた
蹇叔ですが、

スネて、ではなく、
哭して曰く。

―実は、以下が、

歴代の地理書に
引用される
名言となります。

晋人禦師必于崤。
崤有二陵焉
・・(ママ)
其南陵、
夏后皋之墓也、
其北陵、
文王之所辟風雨也。
必死是間、
余収尓骨焉。

禦:防ぐ
于:赴く
崤:崤山山脈
陵:大きな丘、山頂
夏后皋:殷の紂王の
祖父
文王:周の文王
辟:かわす、逃れる
尓:あなた。
ここでは蹇叔の息子。
引用箇所の前文に
「蹇叔の子、
師に与(くみ)し、
哭してこれを
送り」と、ある。

晋人は師を禦ぐに
必ず崤に于(ゆ)く。
崤には二陵有るなり。
・・(ママ)
その南陵は、
夏后皋の墓なり、
その北陵は、
文王の
風雨を辟(く)
ところなり。
必ずこの間に死し、
余は
尓(なんじ)が骨を
収むるなり。

の界隈には
南北に
ふたつの頂きがあり、

友軍は
その間の地点で
秦に敗れる、

と言う訳です。

「二陵」の
場所や性格を
示唆している
貴重な部分。

そして、恐らくは、

大体の地形は、

現在も、
当時とは
それ程
変わっていない
印象を受けます。

一応、
現地の地図を
以下に。

過去の記事で
使ったものの
再掲です。

辛徳勇『崤山古道瑣征』、杜預『春秋経伝集解』、グーグル・マップ、百度地図、中国の方々のサイトさん等の内容を照合して作成。

この辺りの地理の
細かい話は
また後日。
悪しからず。

そして、

唐突に出て来る
原文中の「尓」
というのは、

事もあろうに、

この遠征に従軍する
蹇叔の息子と来ます。

稚拙な作戦で
我が子を
殺されかねないので
シャレにならん
訳です。

察するに、

レトリックとしても、

我が子の死を
予言する体の
痛ましいものにつき、

後世に残る言葉と
なったのかも
しれません。

因みに、

『穀梁伝』や
『公羊伝』、
『史記』「秦本紀」
といった
他の史料等も、

この辺りの内容は
大同小異。

そのうえ、

秦にとって
悪いことに、

同年冬の
晋・重耳の葬式の折、

の上層部は
この秦の秘密裡の
領土侵犯を
把握します。

『史記』秦本紀の
解釈を採れば、

既に、

秦の出征前の段階で
露見したことに
なります。

6、幽霊様の軍略

事が漏れる過程が
怪談めいて
オモシロいので、
以下に少々。

『左伝』
僖公32年の件の
原文は以下。

冬、晋文公卒。
庚辰、将殯于曲沃、
出絳、柩有声如牛。
卜偃使大夫拝。
曰君命大事。
将有西師過軼我、
撃之、必大捷焉。

庚辰:干支の
60日中17日目。
当該部分の
「経」には
「冬十有二月己卯、
晋公重耳卒。」
とあり、その翌日。
殯:浅く埋葬して
改葬を待つ
曲沃:現・山西省
臨汾市曲沃県
絳:臨汾市翼城県。
曲沃県より
北東40キロ程。
当時の晋の首都。
卜偃:卜官、郭偃。
大事:杜預によれば
戦争。
西師:師は軍隊。
ここでは秦軍。
過軼:ここでは
飛び地を襲う、か。
軼は、突然襲う、
追い越す、といった
意味がある。

冬、晋文公卒す。
庚辰、まさに曲沃に
殯(かりもがり)す。
絳を出るに、
柩に牛の如き
声あり。
卜偃使大夫をして
拝せしむ。
いわく、
君は大事を命ず。
まさに西師は我を
過軼(かいつ)し、
これを撃つに、
必ず大いに
捷(勝)つなり。

仮葬の
野辺送りの折、
柩から
低い声
したんですと。
ゾ~。

で、
そのエラい
幽霊様が
おっしゃるには、

秦が自領を
通過するので、

これを攻撃せよ、
さすれば
味方の大勝利は
間違いなし、と。

とはいえ
この怪談話、

種明かしをすれば
何のことは
ありませんで。

杜預によれば、

卜偃が
秦の「密謀」を
聞いたそうな。

弔問に訪れていた
要人の密談かしらん。

で、晋の卜偃は
その「密謀」を受け、

柩から声がした、
これは君命である、

というロジックで
人心を
纏めたのですと。

ところが、

このレベルの報告が
上がってすら、

晋の上層部の中には、

喪中を理由に
出兵を渋る声
出ます。

まず、原軫は、

穆公が
蹇叔の諫言を
無視したことを、

「天は我を
奉ずるなり。」

とします。

この遣り取り
―廟算
(出陣を決める軍議)
だと思うのですが、
の段階では、

晋は秦の内部の
意見対立を
把握している訳です。

対して、
欒枝(らんし)は、

未だ、
秦の恩義に
報いていないので、

迎撃は
先君(重耳)の
意向に反する。

と、反対します。

余談ながら、
原氏も欒氏も
晋の屈指の勢家。

それはともかく、

これについて
原軫は
重ねて反論します。

喪に服さず
同姓を
(周王室・姫姓)
討たんとするのは
秦の方である。

これを
野放しにすれば
後々面倒なので、

晋の子孫のため
—長期的な視野で、
事を起こす。

先君に対しては、

これで
申し開きが出来る、

と、します。

―モノは言いようで。

結局、

この原軫の居直りが
決め手になり、

ついに晋も、
出撃に踏み切ります。

ですが、

この
原軫と欒枝の
遣り取り自体が
いつの話かは、

残念ながら
サイト制作者には
分かりません。

後に、

崤で晋と秦が
干戈を交えたのは、

翌、前627年の
のこと。

恐らくは、

重耳の葬式からは
或る程度
時が経過していたか、

あるいは、

重耳の葬式の折の
密儀の時点で、

既に、

崤での迎撃には
手遅れであったの
かもしれません。

少なくとも、

秦の初動の山越えを
見送っている
訳です。

さて、
遠征の結果は、

蹇叔の予言通り、

秦の軍隊は
増長するわ、

鄭には
動きを気取られるわ、

挙句、

本国への
撤退の途中に、

その崤にて、

欺いた筈の
同盟国の晋の
待ち伏せを受けて
殲滅されるわと、

散々な結果に
終わりますが、

この過程も、
今回は端折ります。

7、遠征の背景
7-1、晋秦の亀裂

秦の遠征には、

上記のような、

国君が
賢臣の意見を
無視した
経緯があるのですが、

このような
在り来たりな話が
罷り通る理由
について、

もう少し
掘り下げてみます。

『左伝』を中心
大雑把に纏めます。

出来れば
一言二言で
片付けたいのですが、

状況が
結構ややこしいので、

大体の流れを
抑えるかたちで
以下に綴ります。

頃は春秋時代半ばの
前7世紀後半。

情勢は
晋楚の覇権争いの
真っただ中でして、

それも晋の最盛期の
文公・重耳の時代。
—絵に描いたような
苦労人の人格者。

で、その時分、

関中(西安界隈)で
勢力を張っていた
秦の穆公は、

その東の
絳(こう、
現・山西省翼城県)
を根拠地とする
最強国・晋との
姻戚関係を
ダシに、

その晋を
後押しするかたちで
中原の戦争に
積極的に
介入します。

さて、

そうした流れの中の、
前630年のこと。

鄭の計略により
晋秦の同盟関係に
亀裂が入ります。

事の起こりは、

晋秦両国
その他による、

楚に付いた
鄭の包囲と
城下の誓いの強要。

その鄭は、

晋楚の国境地帯に
位置して
気苦労の絶えない
国です。

さらには、

その少し前の
城濮の戦いで
宗主国・楚が
敗れたことで、

後ろ盾を
失っています。

とはいえ、

その鄭も
亡国に
リーチが掛かって
必死でして、

燻っていた老臣の
奇計を採用して
起死回生を
図ります。

具体的には、

盟主の晋を
差し置いての
秦との単独講和、

という挙に出ます。

その結果、

鄭は秦に
国邑(河南省新鄭市)の
城門の鍵を預け、

そのうえ
部隊の駐屯
認めます。

対する晋は
両国の蚊帳の外。

謂わば、鄭の、

毒(秦)を以て
毒(晋)を
制せんとする
苦肉の分断策。

当然、晋は、
秦への不信を
募らせ、

即時の
秦の野営地の
攻撃まで
検討されますが、

これを制したのが
かの重耳。

自分の擁立に動いた
キングメーカーの
秦への恩義に
他なりません。

—蛇足ながら、

諸国の盟主として
権勢を誇る立場で、

目先の利害に
とらわれずに
かつての恩義に
報いるのが、

この人の
エラいところか。

何せ、

盟主の国が
傘下の国と
頻繁に会合を持ち、

多額の財貨を
徴発する代わりに
コチコチの儀礼で
信義を守ることで、

どうにか
同盟国を繋ぎ止める
という時代の御話。

そのうえ、

そうした
息苦しい時代にも
かかわらず、

晋の先の代の
国君の中には、

ここでは
誰とは
言いませんが、

散々
空手形を切って
不義理を働いて
秦の怒りを買い、

戦場で
捕虜になった人も
います。

そういうのを
知っている故
かもしれませんが。

それはともかく、

関係が拗れつつある
晋秦両国にとって
さらに悪いことに、

その重耳
程なくして
この世を去ります。

7-2、東方を占領せよ

そして、
この訃報によって、

両国の関係の破綻は
決定的になります。

は、
事もあろうに、

重耳の喪中を
突いて、

動けない晋を
出し抜くかたちで、

鄭を電撃的に
占領すべく
動き出します。

鄭の駐屯部隊からの、

現地の占領の好機
という報告を
受けての出撃。

今で言えば、

やくざ映画の
悪役さながらの
蛮勇ですワ。

対して、

その報復に
応じる晋
目には目を。

その辺りの
生臭い経緯も、

外交・社交としての
信義の時代に潜む
リアリズム
かしらん。

そして、

蹇叔の
先述の諫言は、

まさに
このタイミング
なされたものです。

ただし、
当人の立場も、

外交政策として
鄭の占領そのものに
反対した訳ではなく、

軍事作戦として
やり方が悪いので
中止せよ、

というもの。

当然、晋の介入も
折り込んでの
ことです。

その辺りの打算が、

当時の秦の
メンタリティを
反映しているように
思えます。

その背景として、

それまでの
領土拡張の結果、

東の境が
同盟国の晋と
接したことで、

同方面での
領土拡張が頭打ち
という現状。

その国境も、

晋と散々
戦争をやった末に
確定した
血の対価。

さらには、

その後の
穆公の時代の
中原での戦争は、

晋の同盟軍
というかたち
行われています。

したがって、

目上の瘤の晋を
出し抜いてでも、

中原への足場が
喉から手が出る程
欲しかったことは、

想像に
難くありません。

しかしながら、

見方を変えれば、

難所における
軍隊の先導や
兵站の確保について、

それまでの
晋への依存から
脱却することを
意味します。

そのうえ、
それを、

初手から
正攻法ではなく
奇襲でやると
来ます。

懸念する人が
いない方が
ヘンな話ですが、

実際の両軍の
行軍経路等の御話は、
また後日。

おわりに

今回の御話の内容
整理すると、以下。

1、サイト制作者は、

『周礼』「考工記」
廬人為廬器の
「故攻國之兵」の件の
実務レベルの一事例
として、

前627年の
崤の戦いを
想定している。

2、崤の戦いは、

秦が晋に秘密裡に
晋の傘下の鄭の
占領を企図して
起こった。

3、秦の蹇叔は
これに反対した。

秦から鄭への
距離が遠いことで、

軍紀が弛緩し、

さらには、

敵に発見される
確率が高いのが
理由である。

結果として、
諫言は無視された。

4、蹇叔は

晋の迎撃地点を、
現・河南省
三門峡市付近の
崤であると
予想した。

崤は、
当時の中国の
国内では、

屈指の難所の
峡谷である。

5、晋は、
秦の背信的な行動
については
かなり早い段階で
把握していたが、

喪中の派兵には
反対意見があった。

それとの因果関係は
不明であるが、

具体的な軍事行動は
出遅れた
可能性がある。

【主要参考文献】

(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』(国学導航)
聞人軍『考工記訳注』
左丘明・小倉芳彦訳
『春秋左氏伝』各巻
杜預『春秋経伝集解』
『春秋穀梁伝』
(維基文庫)
『春秋公羊伝』
(維基文庫)
司馬遷『史記』
(維基文庫)
酈道元『水経注』
(維基文庫)
譚其驤
『中国歴史地図集』
辛徳勇
「崤山古道瑣征」
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』
第4版

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長安から洛陽まで

【追記】23年7月7日

譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻の河川の位置・名称をベースに、杜預『春秋経伝集解』等の内容を踏まえて作成。

少々長いので、
章立てを付けます。
(6000字程度)

はじめに
1、崤で武器を振り回す
2、中原の要衝・崤
3、リアル落鳳坡と二嶺
4、羊の群れが幹道に
5、曹操の新道
6、洛陽へ行きたいか
6-1、
秦から鄭への千里行
【雑談】花の都で西部劇
6-2、
晋秦の最前線
・桃林塞
6-3、
崤以東も要衝続き
おわりに
【主要参考文献】
【補足】

はじめに

長らく更新が滞って
大変恐縮です。

今回は地理の御話。

長安・洛陽間の
幹道についての
大雑把な御話と、

両都市の往来の
障壁となる
要衝・の界隈の
図解の開陳です。

これに因んで
恐縮ですが、

以降何回かは、

崤の戦いに
関連する話を
予定しているため、

史料等の
正確な引用や
崤界隈の
細かいルートの話
については、

次回以降に
回します。

1、崤で武器を振り回す

さて、

これまで
武器の話を
続けて来たにも
かかわらず、

ここで唐突に
地理の話を
始めた理由は以下。

これまで
綴って来た
『周礼』「考工記」の
廬人為廬器
文言の中に、

「攻國の兵は
短きを欲し」云々、

遠征を行う側は
短い兵器を望む
等々、

という件があります。

要は、
攻める側は、

物量・地形・
武器の長さ等で
物理的な制約が
生じる、

という御話です。

さらに
サイト制作者は、

この件の
実務レベルの
一事例として、

春秋時代は
僖公33年
(前627年)の
崤の戦いを
想定しています。

まあその、

前提が怪しいと
言われれば
御手上げですが。

要は、

元の史料の
文脈に沿った結果、

斯様な次第に
相成りまして。

2、中原の要衝・崤

まず、は、
ざっくり言えば、

洛陽と長安の
中間点の
山岳地帯。

河南省三門峡市より
東南に15キロ程の
地点です。

この辺りは
両都市の障壁となる
古来よりの要衝。

『淮南子』の説く
「九塞」のひとつ
です。

春秋時代以降も、

例えば
戦国時代には、

「崤塞」として
(戦国策)
長らく
秦と東の国々とを
隔て、

前漢末の内乱に
おいても
赤眉と劉秀が
洛陽の玄関口
として
ここで干戈を交え、

三国志の時代には、

長安に遷都した
董卓の政権の
東の防衛線として
機能しました。

3、リアル落鳳坡と二嶺

で、
この界隈の
詳細な地理ですが、

個人的には
グーグルマップ等で
確認なさって
頂いた方が
為になるかと
思いますが、

こちらでも
主要な山河を軸に
図解すると以下。

酈道元『水経注』その他の史料、辛徳勇「崤山古道瑣征」、グーグル・マップ、百度地図、中国の方々のサイトさん等の内容を照合して作成。

大体は
『水経注』の内容の
図解ですが、

その理由は、

他の史料に比して、

山河や都市の
位置関係が明確で、

そのうえ、
恐らくは、

この界隈については、

書かれた時代の
状況と
現在の地理とで
大差なさそうな
でして。

さて、

この辺りの地形を
グーグルマップ
写真を見る限り、

ざっくり言えば
急峻な山岳地帯
ですが、

その中で
ポイントになる山が
ふたつあります。

少なくとも
春秋時代には
北嶺・南嶺
称された山。

辛徳勇先生
によれば、

現在の名前で
北嶺は金銀山、
南嶺は响屏山。
(きょうへい、
あるいは、
きょうびょう、か?
チュゴクゴ
難しアルヨ!)

図解の典拠である
「崤山古道瑣征」
中文ですが、

ほとんど頭の
「崤山古道示意図」
だけでも
必見の価値がある
思います。

以下は、
同論文のアドレス。

道客巴巴さんより。
ttps://www.doc88.com/p-6945684119641.html
(1文字目に「h」)

そして、

『春秋左氏伝』
その注釈によれば、

どうも
この辺りの山道で
崤の戦いが
起こった模様。

4、羊の群れが幹道に

先の図解を
もう少し
フォーカスしたもの
以下。

辛徳勇「崤山古道瑣征」、杜預『春秋経伝集解』、グーグル・マップ、百度地図、中国の方々のサイトさん等の内容を照合して作成。

さて、

今回の2枚の図解
先述の
崤山古道示意図」が
ネタ元でして、

先生すげ~、謝謝!
と、拝みつつ、

多分『水経注』が
大体の典拠かしらん、

と、当たりを付け、

これを自分なりに
目ぼしいポイントを
史料や地図等で
確認したうえで、

色々付け足しました。

―まあその、

それが裏目に出て
「不純物」が
混入しているかも
しれませんが。

それはさておき、

現在の崤界隈は、

急峻な山岳地帯を
高架の高速や
トンネルが
ブチ抜き、

隔世の感も
極まれり
という訳ですが、

これ位はやらんと
文明社会自体が
成り立たんの
でしょう。

以下、
御参考までに、

現地の映像も
紹介します。

「好看視聴」
游崤函古道之
雁翎关、
吃三门峡特色
美食小酥肉

(アドレスが
コロコロ変わるので、
「百度一下」等で
上記の言葉を
コピー・ペースト
なさって下さい。)

上記の動画の
1分前後、

249号線の
雁翎関
(がんれいかん)
の辺り等、

高低差だの、
ヘアピン・カーブ
だの、

道を羊の群れが
占拠するだの、

初見で
ハ〇ジの世界かと
思いました。

それはともかく、

南嶺から北嶺に
向かう道としては、

グーグルマップを
見る限り、

以下の2本
考えられます。

ひとつ目は、

南嶺から
北上するルート。

ふたつ目は、

南嶺より
さらに東南に進み、

宮前郷から
北上するルート。

ですが、

『左伝』や
その注釈によると、

どうも、

当時通行出来た道が
前者に限られていた
印象を受けます。

そのうえ
『西征記』によれば、

この道の様子として、

凄まじい風雨で
戦争用の楽器の音が
聞こえなかった
そうな。

事実、

晋が秦を破ったのも
史書によれば奇襲。

一方で、

部分的には、

道の両側に
切り立った峰
あることで、

風雨を避けられる
場所がある模様。

—風雨を避けたのが
周の文王だそうで、

といった
エラいところ。

もっとも、
そういうところは

風雨の代わりに
矢や落石が
飛んで来るの
でしょうが。

そして、

こういうのを
危惧して
遠征に反対した
秦の重臣が、

北嶺と南嶺の間の
山道で
晋の要撃を受けると
予言し、

これが
的中するという、

何だか、

孔明の得意技
のような
芝居掛かった予言が
話の幕開けに
なる訳です。

―と、言いますか、
こういう
レトリックの
元ネタかしらん。

5、曹操の新道

そして、
さらに興味深いのが、

そのような
凶悪な
ボトルネック
について、

崤の戦い
—春秋時代から
1000年弱も下った
後漢時代に、

かの曹操が
この道を嫌った、と、

孫世代の杜預が
書き残している点。

で、実は、

その旧道の
二嶺近辺の
正確なルートが、

どうも
諸説入り乱れる
議論の的の模様。

そして、
その曹操が、

旧道を回避すべく
北嶺・金銀山の
北側に
新道を開削した模様。

先述の
1枚目の
図解で言えば、

地図の
真ん中辺りの、

張茅郷から
清水河沿いに
観音堂鎮に抜ける
でして、

『水経注』に曰く、
「二道を
纏絡(てんらく)
し」。

で、曹操が
この道を嫌って
新道を開削した
という事は、

言い換えれば、

それまでは、

この悪路が
現役であった事を
意味します。

献帝や
その女官の皆様も、

董卓の遷都で
この山越えを
やった事に
なりまして、

王朝の引っ越しに
半年掛かった模様。
—難儀なことで。

6、洛陽へ行きたいか

6-1、
秦から鄭への
千里行

最早、死語。

次いで、

長安・洛陽間
における
崤の位置付け
について、

崤の戦いを参考に
少し考えます。

まず、

崤の戦いにおける
秦の策源地
目標ですが、

秦の策源地は雍
(陝西省宝鶏市
鳳翔区)。

そして、

鄭(現・河南省
新鄭市)を
目指します。

現地の
駐留部隊の
武装蜂起に
呼応するためです。

ですが、

この阻止に動く晋の
秦に対する
綺麗な防衛戦とも
言い切れませんで、

洛陽の東
到達した段階で
目論見が頓挫して
撤退する秦が、

崤で
晋の待ち伏せを
受けた戦いです。

これに因んで、

以下に、
位置関係を
整理します。

雍は
長安(現・西安市)
から
距離にして
西に170km程。

洛陽
(現・洛陽市)は
春秋時代の周で、

長安より東に
330km弱。

鄭は洛陽より
東に120km弱。

〆て延べ
600km余の
長征
相成ります。

そのうえ、

それを
万単位の軍隊で
奇襲として
行うという
破天荒な計画。

当然ながら、

この作戦計画は
当時の感覚でも
イカレてまして、

反対した人の言葉が
秀逸につき、

歴代の地理書に
引用されています。

先述の
予告ゲッツーですワ。

【雑談】花の都で西部劇

本論から脱線します。
念の為。

さて、ここでは、

その中でも、

隘路の要衝続きで
割合経路が
絞り易いであろう、

長安・洛陽間の
行程について
考えたい
ところですが、

その前置きとして、

その起点となる
西安界隈の
春秋当時の
状況について、

少し考えたいと
思います。

さて、春秋当時、

特にその前半の
長安の辺りは、

どうも
周の西遷の
空白を突いて
諸勢力が
混在してまして、

これを
秦が掃討する
構図の模様。

言い換えれば、

当時の
この辺りは、

鎬京や咸陽の
ような
存在感のある
大都市のイメージでは
ありませんで。

例えば、

譚其驤先生の
『中国歴史地図集』
「春秋」秦、晋
によれば、

まず、
西安の辺りには、

少なくとも、

涇陽(けいよう)と
杜という
ふたつの主要拠点
あります。

以下は、
当該のアドレス。
ttp://www.ccamc.co/chinese_historical_map/index.php#atlas/03/%E7%A7%A6%E3%80%81%E6%99%8B.jpg
(頭に「h」を。)

とはいえ、

その前の
西周時代の状況と
比べると、

随分閑散とした
印象。

さて、
そうした中、

まず、涇陽は、

渭水の北岸
あります。
(東の方で
黄河に
合流しますが。)

正確には、

渭水のすぐ北を
東南に流れる
涇水の北。

河川の北につき、
「陽」。

西周の膝元の
畿内とはいえ、

異民族の
獫允(けんいん)の
制圧下に
あった模様。
『詩経』より。

杜は、
西周支配下の
杜(伯)国。

もっとも、

前685年には
秦の武公
ここをとします。

亳という国も
この辺りですが、

サイト制作者の
浅学にして
詳細は不明。

因みに、
当時の秦は、

西安以西で
征服戦争を
手広く
やっていたようで、

この辺りは
『史記』秦本紀
始めを参照されたく。

余談ながら、

攻める側の秦も
国君が
殺されたりと、

まさに、
血を血で洗う
仁義なき抗争。

さらには、

ここでの敗者が
遺恨をもって
晋の傘下に入り、

先述の崤の戦いで
報復に及ぶ訳です。

散らかった話を
感傷的に
纏めますと、

大王朝の首都が、

その衰退と
遷都により、

周辺国の
拡張戦争の
フロンティアと
した、

―という、

栄枯盛衰な
御話かしらん。

先述の地図が
空白になってる辺り、

秦漢の遺跡の下を
掘ったら
色々出て来るかも
しれませんねえ。

夢のある話で。

維新期に、一時、

諸藩が退去して
ゴーストタウン化した
江戸を御想像下さい。

―知らんけど。
(便利な言葉!)

したがって、

言い出して
何ですが、

この時代の目線で
洛陽・長安間、

と、言うのも、

どうも、
コレジャナイ感が
少なからずあると
言いますか。

もっとも、

その後に
咸陽となるので、

地政学的な価値が
落ちた訳ではない
思いますが。

―で、こういう
身も蓋もない
オチにつき、

「雑談」扱いに
した次第。

【追記】

この箇所については、
もう少し調べ直します。

【追記2】

以下、御参考まで。

小寺 敦
清華簡『繫年』
譯注・解題
『東洋文化研究所
紀要』170号

ttps://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224624287744
(1文字目に「h」)

史料の
ヘンな漢字の対策も
含めた
書き下しどころか、

読み易い和訳
丁寧な解説まで
添えられてまして、

まさに
必読の価値あり。

さて、

『清華簡』は、

要は、

中国の名門、
精華大学さんの
所有する
戦国時代の竹簡。

で、その中の
『繫年』には、

周の東遷の時期
についても、

色々と
書かれています。

ところが
その内容たるや、

上記の解説論文
によれば、

新規の発見が
ある反面、

『史記』や
『竹書紀年』等の
他の史料と
突き合わせると、

内容や時系列等で
矛盾する点が
続出するそうな。

もっとも、

そうした矛盾点を
炙り出す過程の
説明が
充実してまして、

繰り返しますが、
個人的には、

これだけでも
御勧めしたい
次第。

6-2、
晋秦の最前線
・桃林塞

さて、

雍から
渭水沿いに
西進して

先述の西部劇な
西安界隈を
抜けると、

黄河との
合流点である
潼関に出ます。

もっとも、
春秋当時は、

その呼称は
なかったようで、

後漢時代から
だそうな。

その辺りの話は、

塩沢裕仁先生の
「函谷関遺跡考証」
を参照されたく。

「函谷関遺跡考証
―四つの
函谷関遺跡に
ついて―」
『東京大学
東洋文化研究所
紀要』
169号

アドレスは以下。
PDFです。
ile:///C:/Users/monog/Downloads/ioc169009%20(7).pdf
(頭に「f」。)

その他、

今回の記事の
函谷関関係の
御話も、

大体は
この論文からです。

さて、
潼関を過ぎると、

黄河南岸の
南に山岳地帯に
なっている
回廊に出ます。

ここが桃林塞。

史料によれば、

文字通り
桃林が名物
だそうな。

『左伝』によれば、

崤の戦いの
少し後の
前615年に、

渭水と黄河の
合流点の
すぐ東北岸の
河曲において、

晋と秦が
干戈を交えて
痛み分けて
います。

さらに
その少し後の
前607年には、

秦が
この少し東の焦を
包囲するのですが、

晋がしっかり
迎撃に出て来る
という次第。

やはり
潼関の辺りは
当時から
西の玄関口で、

関所でなくとも
兵家必争の
要衝中の要衝
なのでしょう。

で、晋が
これを受けて、

件の桃林塞の
真ん中の
瑕(か)に
守備隊を
置きます。

この戦いは、

崤の戦いのような
隠密裡の
越境ではなく、

両国の
正面衝突につき、

ここらが、

当時の両国の、

実質的な
最前線では
なかったか
見ています。

さらに、
ここを抜けると、

焦(現・三門峡市)
出ます。
—時代が下って
地名が峡となります。

東は周(洛陽)、
北(東)は晋の国邑の
絳(こう)に通じる
要衝です。

6-3、
崤以東も要衝続き

で、秦の東進で
本当の意味で
悩ましいのは
ここから!

峡(三門峡市)
以東は、
幹道が黄河から
逸れます。

黄河北岸の地形が
急峻な為です。

そこで、

水源や目印を
その支流に変更する
という訳です。

ですが、

その支流にも
切れ目がありまして、

そのうえ、

その界隈は
急峻な峡谷
来ます。

ここが
泣く子も黙る

その図解が
先述のもの、
という訳です。

南嶺の麓に
関所が
置かれたのも、

随分と
時代が下ってからの
明代辺りの話。

言い換えれば、

遠征軍にとっては、

敵の所在の
分かり易い
城塞攻撃ではなく、

分の悪い
遭遇戦を強いられる
恰好の要撃ポイント
なのでしょう。

さて、

ここを抜けると、

観音堂鎮から
澗河沿い
一路、洛陽を
目指す訳ですが、

崤同様、

渓谷沿いの難路には
変わりなく。

『水経注』の
この辺りの描写の
エグいこと!

その中で、

澗河沿いの
めぼしい
拠点としては、

現在の地名で
言えば、

西から、澠池県
(めんち、あるいは、
べんち)、
義馬市、新安県
あります。

澠池県
崤の界隈の
歴代の治所

―後漢時代に
蠡(れい)城
(現・洛寧県)に
移ったり
するのですが。

因みに、

戦国時代の
後半に、

秦の昭王と
趙の恵文王が
会合を持ったという
俱利城は、

大体
この辺りに
あります。

義馬市には
千秋亭があります。

版築が
標準の時代に
石造りですと。

さらに
新安県には、

前漢時代から
曹操の時代まで
函谷関
置かれていました。

余談ながら、

その前後の時代の
函谷関は、

潼関の西の
霊宝県の辺り。

曹操が移した
函谷関も
その辺りですが、

交通の便が
重視されて
少し黄河寄りの
立地。

西を攻める側の
論理ですね。

この辺りの御話は、

先述の塩沢先生の
論文を
参照されたく。

その他、
白超塁
函谷関のすぐ北。

黄巾賊に備えて
白超が防塁を建て、

南北朝時代に
城に化けたそうな。

説明が
長くなりましたが、

要は、

上記の三拠点は、

澗河沿いの
東西の往来に
おいては
不可避の要地
という訳です。

とはいえ、

新安県まで
来れば、

洛陽はもう
目と鼻の先。

ここらの
春秋時代の
詳細な状況
については、

サイト制作者の
浅学にして
分かりかねます。

ただ、
人の往来の痕跡は
なきにしもあらず。

例えば、
『左伝』や『国語』
には、

前6世紀の中頃に、

周が斉と結んで
晋に備える文脈で、

洛陽の王城の西
宮殿や門を壊して
築城した、

という話が
出て来ます。

当時の穀水沿いに
幹道があった
証拠でしょう。

その他、

新安県の
函谷関の遺跡から、

春秋時代にも
使われていたと
思しき
道路の存在
確認出来た模様。

これも
塩沢先生の論文より。

土地勘と発掘調査の
威力の凄まじさ。

結論

そろそろ、
今回の御話の結論
整理すると、以下。

1、長安・洛陽間の
往来は、
河川沿いの隘路が
多いことで、
割合、経路が
特定し易い。

2、その中で、
際立って
急峻な山岳地帯
である崤は、

古来から
軍事的に重要な
係争点であった。

3、さらに、
崤の東西には、

歴代の王朝が
堅固な防衛拠点を
置いた。

4、史書にある
崤の主峰や
その周辺の幹道は、

現在の研究で
或る程度は
判明している。

【主要参考文献】

(敬称略・順不同、
副題省略)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』(国学導航)
聞人軍『考工記訳注』
小倉芳彦訳
『春秋左氏伝』各巻
杜預『春秋経伝集解』
酈道元『水経注』
(維基文庫)
譚其驤
『中国歴史地図集』
辛徳勇「崤山古道瑣征」
塩沢裕仁
「函谷関遺跡考証」

【補足】

武器の話を
続けるつもりが、

元の史料・
『周礼』考工記が
どうも
地理の話を
混ぜてそうなことで、

それに引っ張られて
この1年は
地理関係の調べ事で
悪戦苦闘中です。

サイト制作者の
土地勘や
基礎知識の欠如も
さりながら、

識者のレベルで
意見が割れている
重要箇所も
ありまして、

そのうえ、

史料に出て来る
地名と
現在地の照合にも
かなり苦労しました。

で、これらの整理に
想定外の時間を
要したことで、

結果として、
更新が
長らく滞った次第。

本当に
申し訳ありません。

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『周礼』「考工記」廬人為廬器を読む 01

はじめに

今回は、

『周礼』「考工記」
廬人為廬器

―謂わば、
西周時代と思しき
戦車用の武器の
マニュアル

について、

書き下し文、
語句の意味、
関係する図解
記します。

個人的な話で
恐縮ですが、

解読の過程で、
誤読等
イロイロ
やらかしまして、

こういうのは
サイト制作者の
あるあるで
申し訳ない限りですが、

結果として、

読者の方に
助けて頂く等の
紆余曲折を
経まして、

漸く、
(自分なりにという
レベルですが)
原文を一通り
読むという作業に
着手出来ます。

改めて
御礼申し上げます。

とはいえ、

素人の手作業につき
未熟な部分の
多いことで、

例によって、
あくまで御参考まで。

1、原文を読む

早速、以下に原文
掲載します。

『維基文庫』さんに
掲載されているものを
多少加工しました。
(読点・句読点・
改行・字体等。)

書き下し文は
サイト制作者の手製にて
あくまで御参考まで。

その他、
アルファベットは、

文章全体の中で、
話の内容が
変わるであろう部分
区切りです。

廬人為廬器


戈柲六尺有六寸
殳長尋有四尺
車戟常、
酋矛常有四尺、
夷矛三尋

凡兵無過三其身、
過三其身、弗能用也
而無已、又以害人


故攻國之兵欲短、
守國之兵欲長
攻國之人衆、行地遠、
食飲饑

且涉山林之阻、
是故兵欲短
守国之人寡、食飲飽、
行地不遠

且不涉山林之阻、
是故兵欲長


凡兵、句兵欲無彈、
刺兵欲無蜎
是故句兵椑、刺兵摶、
擊兵同強


舉圍欲細、細則校
刺兵同強、舉圍欲重、
重欲傅人
傅人則密、是故侵之

凡爲殳、五分其長、
以其一爲之被而圍之

參分其囲、
去一以爲晉圍
五分其晉圍、
去一以爲首圍

凡爲酋矛、參分其長、
二在前、一在後而圍之
五分其囲、去一以為晉圍
參分其晉圍、去一以為刺圍


凡試廬事
置而搖之、以視其蜎也
灸諸墻、以視其橈之均也
横而搖之、以視其勁也


六建既備、車不反覆、
謂之國工


:矛や戟の柄
:柄
:周尺換算で
1尺=
18.1cm余。
因みに、
『考工記訳注』には
「一尺之長、
各諸侯国不尽相同」
―1尺の長さは
各国で同じとは
限らない、とあり、
悩ましいことである。
一方で、
古代から
民国時代まで
一貫して、
時代が下る程
長くなっている。
戦国時代の
終わり頃は
23.1cm。
この数字は、
商取引の活発化等で
秦の統一以前に
実質的な国際規格に
なっていた模様。
因みに、
サイト制作者は、
例えば
春秋時代の場合、
大雑把な目安として、
周尺と戦国尺の
中間程度―
大体20cm前後と
取っている。
:10寸=1尺
:ここでは、~と。
6尺と6寸
:全長
:1尋=8尺。
周尺で約144cm。
当時の成人男性の
身長と、
両手を広げた間隔が
同じである、
という前提。
:常=2尋=16尺
:ここでは、短。
対して、夷は長。
『周礼注疏』
巻四十一に、
「酋近夷長」とある。
なお、酋夷は
他にも意味があるが、
武器についての
機能的な意味
ではないので
省略する。
:兵器
:身長
:ここでは3倍。


:多い
:飢える
:少ない
:険しい場所


句兵:戈・戟
彈(弾):振り回す
刺兵:矛
:くねくねする
:楕円
ここでは
柄の断面が楕円形。
:円
ここでは、
柄の断面が円形。
擊兵:殳
同強:ここでは、
柄の先端から
末端までが同じ硬さ。
『周礼注疏』
巻四十一に、
「本末及中央
皆同堅勁」
とある。
舉(挙):両手で
持ち上げる


圍(囲):武器の柄に
何かを巻く部分。
:短い
:ここでは、素早い。
『春秋左氏伝』
昭公元年の
虢(かく)の会盟の
件を参照。
:辞書的な意味は、
重視する、重用する。
サイト制作者は、
ここでは、
物理的に力を入れる、
と解釈。
:安定する
:武器で攻撃する。
『周礼注疏』
巻四十一に、
「能敵」敵する能う、
とある。
「敵」は
武器で攻撃する。
五分:5等分する。
その「一」は、
5分の1。
晉圍(晋囲)
柄の末端の石突、
鐏(そん)。
首圍(首囲)
殳の柄の先端の
金属の塊の部分。
刺圍(刺囲)
矛の矛頭。


:弊害を除く。
ここでは、
柄の曲がりを
矯正する、か。
墻:障壁、囲い。
ここでは、恐らく、
1、障害≒
曲がりや傷等と、
2、柄を挟み込む
ための2本の柱、
以上のふたつの
意味がある。
:曲がった様
:平坦な様
:直立して
力強い


六建:『周礼注疏』
巻四十一によれば、
「建」は「在車上」、
言い換えれば、
軫(しん)―
車体上部側面の
フレームがない
タイプの
戦車(西周時代)に
立て掛ける。
「六」は「五兵与人」
とある。
「五兵」は
5種類の兵器で
諸説あるが、
ここでは、
戈・戟・殳・
酋矛・夷矛。
反覆:ひっくり返る
:技術、
巧くいっている様

廬人は廬器をなす

戈柲(ひ)は
六尺有六寸。
殳長は尋(じん)有四尺。
車戟は常、
酋矛は常有四尺、
夷矛は三尋。

おおよそ兵は
その身の三を
過ぐるなく、

その身の三を
過ぐれば
用いるあたうこと
なきなり。
しかるのみなく、
またもって人を害す。


故に攻国の兵は
短きを欲し、
守国の兵は
長きを欲す。
攻国の人は衆にして、
地を行くに遠く、
食飲に饑す。

かつ山林の阻を渉り、
これ故兵は短きを欲す。
守国の人は寡にして、
食飲に飽き、
地を行くに遠からず。

かつ山林之阻を渉らず、
これ故兵は長きを欲す。


おおよそ兵は、
句兵は弾くなきを欲し、
刺兵は蜎(けん)なき
を欲す。
これ故句兵は椑、
刺兵は摶。
擊兵は
強きを同じくす。


囲を挙げるに
細きを欲し、
細はすなわち校。
刺兵は
強きを同じくし、
囲を挙げるに
重きを欲し、
重を欲して人に付く。
人に付くに
すなわち密にして、
これ故これを侵す。

おおよそ殳をなすに、
その長を五分し、
その一をもって
これが被するをなし
これを囲とす。

その囲を参分し、
一を去りもって
晋囲となす。
その晋囲を五分し、
一を去りもって
首囲となす。

おおよそ
酋矛をなすに、
その長を参分し、
二は前にあり、
一は後にあり
これを囲とす。
その囲を五分し、
一を去りもって
晋囲となす。
その晋囲を参分し、
一を去り
もって刺囲となす。


おおよそ廬を試すこと
置いてこれを揺り、
もってその蜎を
視るなり。
諸墻(しょう)を灸し、
その橈(とう)の
均を視(み)るなり。

横にして
これを揺り、
もってその勁(けん)を
視るなり。


六建既に備うれば、
車は反覆せず、
これを謂うに国工。

2、各部分の図解

ここでは、
AからFの
各部分の図解を
掲載します。

基本的には、

以前の記事で
使用したものを
再掲しますが、

一部、
加工修正
加えたものも
あります。

なお、

後世の識者の
解釈や現代語訳
であっても、

サイト制作者が
納得出来なかった
部分については、

独自の解釈
描きました。

その意味でも、

誤読や誤解の
可能性があることで、

あくまで
御参考まで。

A、武器の全長

『周礼』(維基文庫)、楊泓『中国古兵器論叢』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、張末元編著『漢代服飾』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

B、行軍・兵站 図解なし

C、戈・戟の柄の形状、使用方法

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

矛の柄の形状、使用方法

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

D、矛・戈戟の使用方法

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

矛の部位及び部位ごとの長さ

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

殳の部位及び部位ごとの長さ

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

E、柄の状態の確認

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版等(敬称略・順不同)より作成。

F、諸々の準備の効果 図解なし

その他、「考工記」の説く戈頭・戟体の形状

!上記の図はサイト制作者の個人的な解釈。

武器の形状の変遷

学研『戦略戦術兵器事典 1』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

おわりに

今回は、
結論めいたものは
ありません。

なお、次回は、

過去の記事でも
触れていない、

BやFの
行軍や戦車に関する
部分について、

『春秋左氏伝』から
参考に
なりそうな話
引用して、

少々、
考察を加えよう
思います。

【主要参考文献】
(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』(国学導航)
劉熙『釈名』(天涯知識庫)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
周緯『中国兵器史稿』
篠田耕一
『武器と防具 中国編』
稲畑耕一郎監修
『図説 中国文明史』3
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版
香坂順一編著
『簡約 現代中国語辞典』

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『春秋左氏伝』における車戦と矛

例によって、
無駄に長くなったので、
章立てを付けます。

適当に
スクロールして、
興味のある部分
だけでも
御笑読頂ければ
幸いです。

はじめに
1、武勇の象徴としての矛
2、矛で御す国君の車右
3、矛を構えて陣頭に立つ
3-1、戦の前の御約束
【雑談】蒯聵を取り巻く
政治情勢
【雑談】戦闘前の舞台裏
3-2、で、矛は何処に?!
2-3、車上の戦士の手柄自慢
2-4、負傷する車左
2-5、車戦から白兵戦へ
、歩兵陣を切り裂く
車上の矛
4-1、呉の北進と魯
4-2、どのように矛を用いたか
【雑談】300名の戦闘単位
4-3、魯軍の概要
4-4、車戦の影での歩兵戦
4-5、意味深な杜預の注
【雑談】魯の厭戦の理由を考える
おわりに(論旨の整理)
【主要参考文献】
【言い訳】

はじめに

更新が
大幅に遅れて
大変恐縮です。

さて、今回は、
矛の御話。

『春秋左氏伝』
(以下『左伝』)に
見られる
矛の件について
綴ります。

とはいえ、
事細かい使用例
とまでは
いきませんで、

代わりに、
個人レベルの戦車戦を
掘り下げることで、

春秋時代の戦闘における
矛の位置付けを
探ることを試みます。

1、武勇の象徴としての矛

ここでは、まず、
『左伝』における
矛の登場する部分状況
確認します。

管見の限り
僅か3箇所ですが、

見落としている部分が
あるのかもしれません。

ただ、戈に比べて
明かに少ないのは
間違いないと思います。

で、当該の箇所は、
具体的には、以下。

なお、例によって、
書き下し文は手製につき
御参考まで。

1、魯・成公16年
(前575)

使鍼御持矛
鍼(けん・人名)をして
矛を持して御せしむ

2、哀公2年
(前493)

蒯聵不敢自佚、
備持矛焉
蒯聵あえて自らを
佚(うしな)わず、
矛を持して備えるなり

3、哀公11年
(前484)

冉有用矛干斉師、
故能入其軍
冉有(ぜんゆう)は
斉師に矛を用い、
故にその軍に入るをあたう。

以上の3例とも、

敵兵を
ザクリとやる類の
使用例というよりは、

むしろ
所持している状況が
共通している
考えます。

具体的には、

戦場における
武勇の象徴、

といった解釈を
しています。

誰それを刺したり
ドツいたりするよりも、

持って直立したり
執って陣頭に
出張ったりすること
意味がある、と。

もっとも、

3、の冉有の例
については、

背後の状況に加えて、

使用例も
含まれているとも
考えていますが、

これは後述します。

さて、
このように考える
理由として、

については、

彼我の大軍の
戦車同士が対峙する
戦場とは言い切れない、

内乱や要人襲撃、
いえ、それどころか、

痴話の絡んだ
私闘めいた場面でも
持ち出される
或る種の「利便性」
あるように見受けます。

子路の冠の紐を
切ったのも戈。

以上のことから、

あくまで
サイト制作者の
個人的な感覚
過ぎませんが、

『左伝』全体の
ニュアンスとして、

には、

戈のような
日常生活に
溶け込むような
汎用性を感じない、

というのが
率直な感想です。

矛の登場例が
少ないことが、

何とも
心もとないのですが。

2、矛で御す国君の車右

それでは、
各々の引用箇所の
詳しい状況について
触れます。

まずは、
1、「使鍼御持矛」
について。

春秋時代の
メイン・イベントとでも
言いますか、

晋楚の激戦のひとつである
焉陵の戦いの一幕。

晋の行人(使節)が
楚の陣地に
挨拶に出向いた折
言葉です。

「鍼」欒鍼(らんけん)は、

当時、晋軍の
実質的な総司令官である
中軍の将・
欒書(らんしょ)の甥、
かつ欒黶(らんえん)の弟。

また、欒氏は、
晋の有力な世族
ひとつです。

さらに、欒鍼はこの時、
晋の国君の戦車の車右
務めていました。

車右は、字の如く、

4頭立て・3人乗り
戦車の右側に搭乗する
近接戦闘要員。

搭乗人数や馬の数は
時代や状況によって
異なりますが、

これが春秋時代
オーソドックスな仕様。

加えて、

座右の字引きによれば、

3名乗り合わせることで、
車体の左右の重心を
保つんですと。

で、この場合、

司令官クラスの
車右ともなれば、

戦場にあっては
周囲に少しでも
臆病なところを見せると
即刻免職になるという
シビアな職務です。

こういうのは
『左伝』に
いくつか例があります。

要は、
バリバリの武闘派の
やる仕事。

それを前提に、

この時の晋は、
国君と中軍の将の双方が
出張って来てまして、

欒鍼の立ち位置は、

悪い言い方をすれば
謂わば、神輿の護衛。

と、言いますのは、

国君よりも
重臣の力の方が強い
という国情。

したがって、
先の引用箇所の
要点は以下。

楚の陣地に
挨拶に出向いた
晋の行人曰く、

本来、その欒鍼
使者に立つところを、

当人は矛を手にして
国君の護衛に
当たっているので、

自分のような
身分の低い者を
寄越すことになった、と。

について言えば、

相応の身分で
文武両道の猛者が、

矛で国君を
警護している
という凄み。

『左伝』が大好きで
昼夜を問わず
劉備を警護していた
関羽なんかも、

あるいは、

こういう古の猛者の姿を
意識していたのかも
しれません。

3、矛を構えて陣頭に立つ
3-1、戦の前の御約束

次いで、2、
「蒯聵不敢自佚、
備持矛焉」
について触れます。

「佚」は、逃げ隠れする。

自分は逃げ隠れせず
矛を手に
目前の戦闘に備えている、

という訳です。

これは、
衛の太子である
姫蒯聵(きかいがい)が、

春秋時代の終わり頃の
鉄の戦いに臨んだ折の、

戦闘の前の
祈りの文句の一部。

蒯聵は
後の衛の壮公です。

で、件の引用部分を
含めた口上の大意は、

自分の先祖
周王や衛の国君に
戦いの大義名分を説いて
戦勝を祈願する、

というもの。

名文だと思います。

【雑談】蒯聵を取り巻く
政治情勢

以下は、
少し長くなりますが、

当時の国際情勢を
整理します。

矛の話とは直接関係ないので
雑談扱いにします。

サイト制作者自身が
この辺りの経緯を
理解するのに
苦労したことで、

少々御付き合い
頂ければ幸いです。

次の3、の前提にも
関係する話につき。

さて、その蒯聵は当時、

継母の暗殺を企てて
しくじったことで
祖国・衛より宋に亡命し、

その後、
晋の趙鞅を後ろ盾に、

范・中行氏の
根拠地である朝歌から
(現・河南省安陽市)
東に80キロ弱離れた
籠っていました。

その戚から
10キロ程度南に位置する
鉄の戦いに際しては、

趙鞅の搭乗する戦車の
車右の職務に
ありました。

こういうのは、

この時代の
亡命貴族あるある
(世族―有力な家、もやる)
構図とはいえ、

先代・霊公の乱脈で
太子を亡命させた衛も
大概ですが、

—これに苦言を呈したのが、
ここで就活をしくじった
彼の孔子様で、
南氏も南氏でゴニョゴニョ、

実は、それよりも
遥かにヤバかったのが、
その蒯聵を飼い慣らす

と、言うのは、
当時の国情は、最早、
断末魔。

以前から激しかった
世族間の抗争が、

徒党を組んでの
内戦にまで
発展していました。

具体的には、

国君側の
知・韓・魏・趙氏対、
范・中行氏の抗争。

これが前497年から
490年まで
7年も続きます。

また、御存じのように、
勝者のうちの韓・魏・趙は、

この一連の抗争の少し後、

晋を三分し、
(正確には晋を含めて四分)
春秋時代を終わらせます。

近未来の話はともかく、

晋に国防を依存する
傘下の諸国とも
ギクシャクしており、

この内乱でも
各国で対応が異なります。

例えば、

この鉄の戦いにおける
趙鞅の相手は、

晋の同盟国
ではあるものの、

国君に背く
范・中行氏を
支持する

そして、范・中行氏が
朝歌を根拠地とし、
趙氏がこれを攻めます。

鄭は
こうした状況の最中、

斉の穀物を
大軍で范氏に
搬送する最中に、

朝歌から程近い鉄で
趙氏の襲撃を受けまして、

これが、
鉄の戦いです。

因みに、鉄については、

地名に詳しい
杜預の注には
「丘名」とありまして、

小倉芳彦先生は、

「丘」を「丘の上」と
訳されています。

単なる地形の話か、

あるいは、
当時の行政単位である
「丘」と
同義なのかどうかは
分かりませんが。

それはともかく、

こういうグダグダな
勢力図のもと、

自らの存亡を賭けて
大勝負に出る
亡命太子・蒯聵の
運命や如何に。

【雑談・了】

鉄で鄭を待ち受ける
蒯聵の搭乗する
戦車ですが、

その蒯聵は車右で、
格闘要員。

車左司令官の
趙鞅(趙簡子)。

因みに、
車左の役割は、

司令官の場合は
戦車に据え付けの
太鼓を打ち、

その指揮下の戦車では
弓の射撃を行います。

そして、
馭者の郵無恤
(ゆうぶじゅ)ですが、

鄭の大軍を
目の当たりにして
怖がって
戦車から降りた
蒯聵に対して、

「婦人也」と言いつつ
搭乗用の綱を渡すという
肝の据わり方。

現在の感覚ではアレですが。

【雑談】戦闘前の舞台裏

余計な話が
立て続けに出てきて
恐縮ですが、

ドンパチを始める前に、
その前の雰囲気を
垣間見ることに
しましょう。

蒯聵が気後れして
戦車から降りたやつは、

恐らく、

叩き上げの車右で
コレをやれば
一発退場の行為かと
思います。

城下で戯れ歌を聴いて
継母の存在を恥に思い、

恐らく衝動的なレベルで
家臣に斬らせようとしたり、

引用のように
戦場で気後れしたりと、

まだ若いのだろうと
想像しますが、

良くも悪くも、

命の遣り取りは、

生死の境目が近い程
度胸が必要とされる
空間かと思います。

サイト制作者が
その種の資質に
欠けることで、

余計にそう思う次第。

対して、

馭者が
身分の上下の隔てなく
隣に座す車左や車右に
アレコレ言うのも
この時代の御約束。

一蓮托生の
運命共同体
という訳です。

とはいえ、

大軍に気後れしたのは
蒯聵以外にも少なくとも
もう一方。

この車左の某さん、
事もあろうに
軍吏に戦車に縄られ、

その軍吏曰く、
「痁作而伏」
痁(おこり)を作して伏す

詐病・仮病も病気のうち、
いえ、這ってでも
戦うんですと。

何処かの国の
去就を決めかねた
投票で悩む
政治家さんみたいな御話。

その他、

この時代の
「軍吏」さん達ですが、

開戦前は軍事作戦に関与し、
個々の戦闘終了後には
事務勘定
消耗した戦力の整備に奔走し、

そして、

場合によっては
こういう嫌われ役と、

総務な何でも屋の
黒子役の模様。

因みに、

『周礼注疏』巻二十九
—「夏官司馬」の
軍事演習の件によれば、

兵隊のマスゲームの
誘導等を行う
「群吏」というのが
出て来ます。

これが「軍吏」に
相当するのであれば、

「謂軍将至伍長」
だそうな。

下は5名を受け持つ
下士まで含む
という訳で、

身分の話は
あまり用を為さなそうな。

因みに、

この時代の
士大夫であれば、

読み書き勘定と
弓・戦車の操縦を
セットで叩き込まれる
ことで、

裏方の事務や
雑用ばかり
やっている訳では
ないとは思いますが、

今のところ
それを
証明出来ないことで、

これは
サイト制作者の
想像の域を出ません。

【雑談・了】

さて、『左伝』では、

趙鞅や蒯聵の口上の後に
唐突に武勇伝の描写に
なりまして、

引用すると以下。

鄭人撃簡子中肩、
斃于車中、
獲其蠭旗
大子救之以戈、
獲温大夫趙羅
大子復伐之、
鄭師大敗、
獲斉粟千車

蠭旗:旗名(杜預注)
サイト制作者には詳細不明。
なお、『釈名』「釈兵」
の説く九旗には該当せず。

鄭人簡子を撃ち
肩に中(あた)り、
車中に斃れ、
その蠭旗(おうき)
を獲る。
大子これを救うに
戈をもってし、
温大夫趙羅を獲る。
大子またこれを伐ち、
鄭師大敗し、
斉粟千車を獲る。

敵味方双方、
まずは戦車を繰り出す
御約束で、

そのうえ、

彼我の指揮官が
陣頭指揮で敵に突っ込む
空間につき、

今回のように
車中でもしばしば
負傷します。

それにしても、

戦闘前には
気後れした蒯聵も、

いざ戦いおこるや、

車左を庇って
敵方の大夫を
生け捕るという具合に、

獅子奮迅の活躍
相成りまして、

このあたりは
エラいものだと
思います。

3-2、
で、矛は何処に?!

ですが、

矛の話としては、
オカシイと思うのは、

大子救之以戈、

そう、矛を手に
戦勝を祈願した蒯聵が、

矛ではなく戈で
趙鞅を庇った、
という部分。

バ〇キルト、だとか、

切っ先が変形する
マホウを使った訳でも
あるまいし、

その辺りのカラクリ
少し考えてみます。

具体的には、
車右の持ち物の話。

楊泓先生
『中国古兵器論叢』
によれば、

殷墟―
殷代の出土品の中に、
車右の装備品一式
あった模様。

穴の名前は、
「小屯C区M20
車馬坑」と
ありまして。

で、それによると
内訳は以下。

まずは、長柄の戈。

次いで、
銅製・石製の盾が
各々1枚、

さらに
長さ32cmの
馬頭刀が1振、
(柄が馬の頭の形)

護身以外にも
暴れた馬の
鞅(むながい)を
切ったり
するのでしょう。

その他、飛び道具は、

柲が銅製で
遠射用の弓が1張、

さらに矢筒が2本あり
その中身は、

ひとつの矢筒に
銅製の鏃が10本、
もうひとつには、
石製の鏃が10本。

最後に、
数は不明の砥石。

これらの備品について、

著者の楊泓先生
゛戎右゛那一組最典型
としています。

「戎右」は車右。

馭者や車左の役割の
詳細については
後述しますが、

ここで言えるのは、

春秋時代ではなく
殷代の御話とはいえ、

上記の持ち物から
すれば、

短戈は
積んでいないようで、

蒯聵は
他の方の戈を
拝借したのでしょう。

後述するように、

馭者も車左も
降車戦闘を行うことで、

車内には、

少なくとも
長柄の武器を
3本配備することに
なります。

因みに
武器の運搬ですが、

『周礼』「考工記」
によれば、

長物は戦車に斜めに
立て掛けるんですと。

で、この状態で
移動する際に、

武器の全長が
身長の3倍を越えると
支障を来す、と。

加えて、
以下は想像ですが、

敢えて
矛を収めたか
捨てたとすれば、

戦車の
馭者を挟んで
反対側に座る人間を
庇って
相手の切っ先を
受け流したことになり、
(相当器用な話!)

こういうのは、

戈よりも矛の方が
向いていたということ
かもしれません。

3-3、
車上の戦士の
手柄自慢

そして、
この戦いの話の最後に、

『左伝』における
戦場の描写の
御約束のひとつである
戦後の手柄自慢
引用します。

これも、
当時の戦闘の流れ
について調べるうえで
興味深い内容につき。

簡子曰
吾伏韜嘔血、鼓音不衰、
今日我上也
大子曰
吾救主于車、退敵于下、
吾右之上也
郵良曰
我両靷将絶、吾能止之、
我御之上也
駕而乗材、
両靷皆絶

韜:隠す
嘔:吐く
上:等級や品質が高い
ここでは成績が良い、
戦功が一番である、
といったところか。
下:地面。
ここでは、降車戦闘。
右:車右
靷:馬に繋ぐ綱、
むながい。
胸帯と車軸に繋ぐ。
御:馭者
駕:またがる
材:戦車の横木、軫。
・杜預注。
左右の上部のフレーム。

簡子(趙鞅)いわく
吾伏して血を嘔くを
韜(かく)し、
鼓音衰えず、
今日我上なり。
大子(蒯聵)いわく
吾車に主を救い、
下に敵を退け、
吾右の上なり。
郵良(郵無恤)いわく
我が両靷(いん)
まさに絶たんとし、
吾これを止むをあたい、
我御の上なり。
駕(またが)り
材に乗り、
両靷皆絶つ。

三名が
各々の手柄を披露して
それぞれの職務の
MVPだと言い放ち、

最後に、

馭者の郵無恤が
戦車の横木に
乗った弾みで、

当人が戦闘中に
切らさなかったと自慢した
むながいが切れた、

という御話。

『左伝』には
こういう話の締め方は
ひとつならず
ありまして、

オチを付ける
レトリックは、
少なくともこの時代には
あった模様。

3-4、
負傷する車左

さて、
肝心の戦後報告ですが、

まず、車左の趙鞅

車内での吐血となると、

先の引用と
照合すると、

彼我の戦車同士が
交錯した際、

敵の武器による
強打を受けたでしょう。

もう少し詳細な状況を
想定します。

以下は、想像ですが、

まず、車左の趙鞅が
敵の車右の
打撃を受けたとなると、

確率が高そうな
状況としては、

彼我の戦車が
並走していたことが
考えられます。

これは危険な話で、

高木智見先生
『孔子』によれば、

戦車は基本
左周りが原則だそうな。

これは、

旋回する時に
指揮車の車左を
敵の正面に
向けないための
手順だと思います。

ところが、この場合、

指揮者で
太鼓を叩く車左、
―長柄の武器を
持っていない、と、

格闘要員の車右が
至近距離で
交錯するという、

太鼓を叩く側
としては
最悪の組み合わせ
なった、

という可能性が
考えられます。

さらに、
吐血を隠せた
—負傷したこと自体を
隠せたことから、

弓や刃物による
外傷でないとすれば、

例えば、

胴体を殳で
叩かれたのかも
しれません。

それでも
太鼓の音が止まない、
太鼓を打ち続けた、
ということで、

これが意味するのは、

乱戦の中でも
味方の指揮車両が
健在であることを示す
極めて重要な行動です。

言い換えれば、

指揮車は
戦闘の出端から
敵に狙われて
射られ続ける訳でして、

例えば、

成公2年(前589)の
鞌(あん)の戦い
そうした一幕があります。

したがって、
その種の場面での
痩せ我慢が
指揮官の武勇の見せ所。

3-5、
車戦から白兵戦へ

さて、
打たれて吐血した
趙鞅を庇う
蒯聵ですが、

先述のような
車内での
趙鞅の救出以外にも、

「下に敵を退け」と、

戦車を降りて
白兵戦で敵を撃退した
という訳で、

乗車と徒歩の双方を
臨機応変に使い分ける
柔軟な用兵であることを
意味します。

武器も武器で、

臨機応変に
取っ換え引っ換える
やるのでしょう。

今回は
原文は引用しませんが

例えば、
『左伝』
宣公12年
譲公24年に、

個人レベルの車戦
―威力偵察と言うべきか、
詳細な描写があります。

いつか、
こういうのを精査して
手順を図解しようと
思うのですが、

絵に描いた餅の
妄想レシピはともかく、

それら描写によると、

前進して会敵の後
(恐らく車上で)
弓の射撃を行い、

さらに、

降車して
敵の防御陣地に斬り込み
白兵戦を行う、

という流れがあります。

で、今回の
鉄の戦いの場合は
遭遇戦につき、

白兵戦によって、

敵陣の攻撃ではなく、
荷車を護衛する部隊を
蹴散掃討する、

ということに
なりますか。

3000両も
鹵獲したそうな。

で、この、
ゼロ距離での戦い、

「人に付きもって投げ」
と、肉弾戦の様相。

投げ飛ばすんですと。

こういうのは、
時代が下っても
やっているのでは
なかろうかと
思います。

例えば、

後漢から三国時代の
状況として、

『釈名』
「釈兵」によれば
後漢末の矛頭は
松であったそうで、
(金属のものもあった
とは思いますが)

これで
俑や実物の出土品に
見られるような
魚鱗甲の鉄の鎧を
確実に抜ける
とも思えませんで。

さらに、
馭者とむながいの関係は、

今回のように、

切そうなものを
なんとかもたせる
ケースもあれば、

馬が暴れて
収拾出来ないので
やむなく切る、

という話が
『左伝』には一度ならず。

蒯聵のその後
については、

記事の主旨からして
書かぬが華かも
しれません。

そろそろ、
次の矛の件に
話を移そうかと
思います。

余談ながら、杜預は、

鉄の戦いについて、

以下のように
付言しています。

伝言簡子不譲下自伐

伝:言い伝え、
譲:退く

伝は言うに
簡子は譲らず
下りて自ら伐つ。

趙鞅は、
言い伝えによれば、

負傷して
蒯聵に庇われた
だけではなく、

その後の降車戦闘で
果敢に戦った、と。

当時から
数百年以上も経った
後漢・三国時代でさえ、

この種の伝聞が
少なからず
あったのでしょう。

4、歩兵陣を切り裂く
車上の矛

4-1、呉の北進と魯

哀公11年の
「冉有斉師に矛を用い」
(見出し)

これは鉄の戦いから
10年弱後の魯の御話。

先述の晋の内乱で
中原は依然荒れてまして、

そのうえ
南方では呉が台頭して
北進を企てます。

で、これが
中原の東半分の勢力図を
散々に引っ掻き回す
大事になりまして。

そして、
その矢面に立つ
呉と干戈を交えた末、

呉の傘下に降り、

その後ろ盾で
斉と事を構えることと
なります。

3、哀公11年
(前484)の
「冉有斉師に矛を用い」
は、

以上の流れで起こった
斉の侵攻に対する
魯の本土防衛戦、
郊の戦いの一幕です。

因みに、「郊」は、

具体的な地名ではなく、

魯の国邑(国都)である
曲阜の郊外、
という訳です。

念の為。

さて、ですが、

座右の字引きによれば、
国都の城外。

城から50里を近郊、
100里を遠郊
称するものの、

時代が下って
城外や野外を指すように
なったのですと。

4-2、
どのように
矛を用いたか

さて、件の
「斉師に矛を用い」
ですが、

これに対して、
孔子「義なり」
誉めています。

今風に言えば、
親指を立てて
「ぐっじょぶ!」
とでもやる
感覚かしらん、
ホントかね。

サイト制作者の
浅学につき、

この「矛を用い」と
「義なり」の
意味するところを
掴みかねていまして、

以下に
ふた通りの解釈を
用意しました。

1、矛の使用の
軍事面での合理性。

2、司令官の車左が
自ら矛を手に執って
敵陣に突入する武勇。

まずは、
1、の合理性について
触れます。

『左伝』における
哀公11年の
郊の戦いの描写は、

いくつかの引用を
見る分には、

春秋時代の
激戦のひとつ
というよりも、

嫌味な言い方を
すれば、

孔子の弟子の
冉有のカッコイイ話で
有名になっているように
見受けます。

郊の戦いの話は初耳だ、
という方は、

すぐに読めるもの
としては、

九去堂様の
訳や書き下しが
良く出来ている
思いまして、

そちらで
大体の内容を
御確認頂ければ
思います。

『論語』全文・現代語訳
『春秋左氏伝』
現代日本語訳・哀公十一年
ttps://hayaron.kyukyodo.work/fuki/saden_aikou11-2.html
(1文字目に「h」を
補って下さい。)

個人的には、

細かい部分では
気になるところも
多少ありますが、

全体としては、

漢文の読み方や
言葉の理解の方法等、
色々と
勉強になりました。

この場を借りて
御礼申し上げます。

さて、
この曲阜郊外の戦いは、

孔子の弟子の冉有が
戦車で頑張った描写
目立つものの、

一方では、

相当に、
歩兵が入り乱れた
戦いであった模様。

【雑談】
300名の戦闘単位

余談ながら、

冉有の直属の部隊
武城から引率した
「徒卒」300名。
杜預によれば
「歩卒、精兵」。)

実は、
300名の編成単位

『左伝』でいくつか
例があることで、

これについて
少し考えてみます。

『逸周書』「武順」
300名の編成単位
「佐」としています。

その指揮下には
100名の部隊
である「伯」
3隊あります。

さらに、その下には
25名の「卒」

そして、
「佐」と「伯」の
関係は以下。

均伯勤、労而無携、
携則不和
均佐和、敬而無留、
留則無成

勤:力を尽くす
労:真面目に勤める
携:離れる、分離する
和:調和する、整える
留:拘泥する
成:実現する

均しく伯は勤め、
労たりして、
携(はな)れるなく、
携(はな)れれば
すなわち和ならず
均しく佐は和し、
敬いて留まるなく、
留まればすなわち
成すなく

大意を取れば、

100名の部隊は
勤勉さと
他の伯との連携が
必要とされ、

対して、

300名の部隊は
上位部隊との協調性と
戦術面での柔軟性
必要とされる、と。

要は、
300名の意味は、

指揮官に
或る程度大きい
裁量があり
戦術面で独立性の高い
戦闘部隊。

さて、
『左伝』で
いくつか見られるのが、

特別な作戦を
行うために
精兵を選抜して
部隊を編成する
ケース。

次に挙げる事例は、

残念ながら
『逸周書』に
基づいている
確証はないのですが、

謂わば、

300名あるある
につき、
御参考まで。

襄公17年
(前556)に
斉が魯に侵攻した際、

曲阜から
20キロ程度東に
位置する
防が包囲されまして、

これを守る魯の守備隊
城外の友軍と呼応して
夜襲を行うのですが、

その部隊の内訳として、

郰叔紇、藏畴、藏賈
帥甲三百

郰叔紇(すうしゅくこつ)、
藏畴(ぞうちゅう)、
藏賈(ぞうか)
甲三百を帥いて

と、あります。

この郰叔紇
(すうしゅくこつ)が
孔子の父の叔梁紇
(しゅくりょうこつ)。

藏畴・藏賈の詳細は
残念ながら
分かりません。

で、先述の
『逸周書』「武順」
前提に読めば、

叔梁紇が
2名の部下と自分で
各々100名、
計300名を率い、

さらに、
伯1隊は直属であった
ということかと
思います。

さらには、
「甲」というのは、

ここでは
夜戦が出来る―

『管子』
匡君小匡・第二十
にあるような、

敵に目立つ
旗や鳴り物に頼らず、

互いの声で
意思疎通が出来る程
結束力のある、

言い換えれば
巧妙な夜襲が出来る、

(地縁・血縁のある
兵士より選抜された)
精兵であろう、と。

因みに、
『管子』の
この部分の解釈は、

高木智見先生の
『孔子』
参考にしました。

【雑談・了】

4-3、魯軍の概要

さて、

武城発の300名の
冉有様御一行が
いくら強いと
言えども、

これだけで
戦争する訳では
ありませんで、

戦いの詳細について
考えるための
材料として、

一応、魯軍の概要
少しばかり。

直近の再編は
昭公5年(前537)。

その折、

魯の国軍を
季孫・叔孫・孟孫が
2:1:1の割合で
保有する、

で、国君の兵は?

―という、
どうもヘンな内容。

もっとも、

再編の本丸は、

兵士というよりも
動員を下支えする
領地・領民でして、

その30年弱前の
襄公11年(前562)
の「改革」を
前進させたもの。

早い話、

国君の力を削ぐための
政争の御話です。

大人の事情はともかく、

今回の郊の戦いでは、

最有力の卿の季孫
7000の兵を有し、

相手の斉の兵車の数
叔孫・孟孫のいずれか
よりも下回る、

という明らかな戦力差。

軍の、中・左右という
割り振りが
平時から存在するのかは
分かりませんが、

以上の経緯から、

先発して斉に突っ込んだ
左軍が季孫の軍、

寄せ手の先発部隊を
迎撃して
エラい目に遭った
右軍が、

その顔ぶれからして
叔孫の軍、

ということになるかと
思います。

さらに斉軍ですが、

この時の司令官は
国書で、
国氏は斉の有力勢族。

郊の戦いの
翌年に勃発した
呉・魯と斉の
大会戦である
艾陵の戦いも、
この人の指揮。

艾陵の戦いでは
上・中・下の三軍
呉に当たり、

国書は中軍に
属していたことと、

晋楚は元より鄭にせよ、
艾陵の戦いの呉も
然りで、

野戦で
三軍を並べるのが
当時のスタンダード
であることから、

兵の多寡はともかく、

は、さらにもう1隊を
展開させていた
可能性がある
思います。

4-4、
車戦の影にある歩兵戦

さて、武城の300名の
冉有様御一行を含めた
魯の左軍、
—額面通り7000も
いたのかは不明、は、

自分の息が
掛かった筈の
兵隊共が
言うこと聞かんわ、

それを見かねた
同門で若くて
血の気の多い
某(後述)に
アレコレ言われるわと、

紆余曲折を経たものの、

首尾良く
斉軍に殴り込みを
掛けまして、

挙げた戦果は
「甲首八十」。

余談ながら、

少なくとも当時から
死体から耳を切って
ボディ・カウント
するんですと。
―「馘」。

いえ、正確には、

車上の戦士が
同僚が気に喰わん
とかで、

生きてる人間の耳も
バッサリやる世間。

ゾ~っ。

それはともかく、

「甲首八十」の
被害によって、

斉のこの部隊
態勢を立て直せず
戦線離脱と相成ります。

この時代の「甲」は
身分の高い人か
選抜された精鋭か、

今のところ
厳密な定義は
サイト制作者には
分かりかねます。

その他、余談ながら、

甲士とは
恐らく
別のカテゴリーの
猛者として、

「大力」というのが
います。

残念ながら
座右の字引きには
なかったのですが、

用例からして、

身分の高い人が
身辺警護等のために
抱えている武芸者で、

城中の要人襲撃等で
活躍します。

【追記】

「大力」というのは
『左伝』を和訳された
小倉芳彦先生の
言葉です。

原文では、
「力臣」「有力」等
と称し―、

まあその、
名称がないような
ものです。

ですが、

「武芸者」
というよりは、

怪力の人が
有事の暗闘の
殺し屋として
重宝されたのは、

恐らく事実です。

エラい人々は、
普段は、

こういうのに
馬の飼育等を
させています。

対して、その政敵は、

どこそこの館には
誰其というのがいる、

という具合に、

平時から情報を集めて
警戒します。

社交で
方々の館に
足を運んだりする
訳でして。

『左伝』荘公32年、
襄公23年等を参照。

【雑談・了】

話を本筋へ。

さて、ここで、

魯が取った
斉の甲士の
首の数の意味
考えてみましょう。

斉軍の数は、

総数
どうも3500未満。

仮に、
2部隊展開していれば、

単純に考えれば、
1隊あたり
2000名を
切ります。

さらには、

当時の車歩の
大体の割合、

『逸周書』
100名当たり1両、

『司馬法』
後世の引用
75名当たり1両、

からして、

件の首80は、
戦闘に参加した
車上の戦士を
上回る数。

負傷者など
言うに及ばずで。

これが
意味するところは、

御約束の
車戦に加えて、

戦車が
敵の戦列歩兵に
突っ込っこむどころか、

歩兵同士でも
激しい白兵戦をやった
可能性が高い、

ということだと
思います。

こういう経緯から、

「斉師に矛を用い」の
軍事面での解釈は、

九去堂様が
解釈されているような
突破戦における
矛の威力、

もう少し言えば、

歩兵陣に対する
車上の矛の威力
なのでしょう。

4-5、
意味深な杜預の注

さて、サイト制作者が、

2、司令官の車左が
自ら矛を手に執って
敵陣に突入する武勇。

という
仰々しい解釈
用意した理由は、

戦いの件の末尾の
杜預の注
あります。

引用すると、以下。

言能以義勇
不書戦、不皆陣也
不書敗、勝負不殊

言うをあたうに
義勇をもってす
戦いを書かざれば、
皆陣せざるなり
敗れるを書かざれば、
勝負は殊にせず

書いて
後世に伝えるにも
勇気や正義感が
必要である。
書かなければ
何も残らない、と。

直接的には、

『西部戦線異状なし』な
『穀梁伝』や『公羊伝』
のことかと想像します。

さて、
これが意味する
ところですが、

サイト制作者の
想像ですが、

魯の太史を務めた
左丘明が
自分の国の恥を
暴露したことかと
思います。

と言うのは、

この郊の戦いの
構図として、

冉有の奮闘と
対をなすかたちで、

本来、

軍事力の中核を
担うべき立場にある
国人が、

実際の戦闘での
不甲斐さを
露呈しました。

その背景には、

直接的には、

寄せ手の斉の兵力が
少なかったことで、

その対応が
魯を牛耳っていた
三卿の政争が
見え隠れします。

【雑談】
厭戦の理由を考える

とはいえ、
サイト制作者としては、

この郊の戦いの件を、

孔子側の武勇伝だけで
済ませて良いものか、

どうも
疑問に思う部分も
見え隠れしまして。

ですが、

矛の話とは
どうも関係なさそうで、

春秋時代の
捻くれた捉え方、

あるいは、
『左伝』の歪な読み方の
ひとつとして
御参考まで。

さて、

郊の戦いの
何年か前の段階では、

魯と斉は、
姻戚による
同盟関係にありました。

この辺りは
季氏の動きが
になるので、

以下に記します。

まず、

魯の最高実力者である
季康子が、

自分の膝元に
亡命していた
公子時代の悼公に
妹君を嫁がせたのですが、

身内の痴話が拗れて
そのさんが
魯を出ないと来ます。

その後、

陳(田)氏の
後ろ盾で斉に帰国して
首尾良く国君になった
悼公の怒りを買い、

魯は斉の侵攻を
受けます。

で、その
後始末として、

魯は妹君を斉に出して
失った領土を
取り戻して
手打ちにする、

—という具合に、

スッタモンダの上に
斉と結んだ同盟が、

事もあろうに
北進して来た
呉の圧力で
御破算になった、

という
ややこしい経緯が
あります。

季氏と呉の事情で、

御隣の強国・
斉との関係が
猫の目にように
変わる訳です。

しかも、

北上する呉の
目の前でやった
小国・邾(ちゅ)
への侵攻も、

それらしい成果を
得られません。

これも、

季氏が
周囲の反対を
押し切って
強行するという
曰く付き。

で、その台風の目の
はといえば、

恐らく中原の目線では、

自分達の流儀の
軍事教練を
受けておきながら、

魯に周王以上の
過剰な接待を要求する
という
イカレ具合。

そのうえ、

その呉の影響力の強い
武城から
精兵を引率し、

その兵で
斉と戦おうと
息巻くのが、

季氏の家臣の冉有。

当然、
冉有の背後には、

その少し前に、

現職の司寇として
国君の権力強化を
推し進め、

反対分子の兵乱を
武力で鎮圧した
師匠・孔子の影が
見え隠れ。

例えば、

冉有は弟弟子の樊遅を
車右に抜擢しますが、

周囲の
若い(当時31歳前後)
という意見を
押しのけています。

当時、は、
呉の勢いを
一時的なものと
看破しており、

長い目で見れば、

策源地が
曲阜やから程遠い
(当時の感覚で3ヶ月)
呉の勢いが
盛りを過ぎれば、

拗れた斉との関係を
見直さざるを
得ません。

穿った見方をすれば、

呉に振り回される
季氏と、

その勝ち馬に乗って
自分達の利害に反して
暗躍する
怪しい政策集団の
台頭、

—という構図で、

曲阜の中で
対斉戦への消極論が
燻るのも
分からん話ではないと
思います。

【雑談・了】

まあその、

いくら国内で
ゴタゴタが
あるとはいえ、

目先の国防にも
手を抜かないという
心ある人々
いまして。

崩れた右軍の話として、

御丁寧にも、

気骨のある人や公族が
戦死する描写まで
網羅されています。

左丘明が生きた時代が
近かったか、
あるいは存命中に、

それも郷里で起こった
戦いにつき、

見聞きした話が
多かったのではないかと
想像します。

こうした状況を受けて、

サイト制作者は、
敢えて、

「斉師に矛を用い」は、

国人の劣勢を尻目に
奮闘した冉有の武勇を
象徴している、

という解釈も
出来るでのはないか、と、
考えた次第です。

と、言うのは、

はじめに挙げた
3箇所の
「矛」の件のうち、

先述のように、

焉陵の戦いの欒鍼、
鉄の戦いの蒯聵と、
この2箇所については、

機能的な話ではなく
武勇の象徴
取りまして、

この郊の戦いの
それにも、

機能的な理由以外にも
同じニュアンスを
感じたからです。

おわりに

無駄話で焼け太って
長くなりましたので、

以下に要点を纏めます。」

1、『左伝』における
矛の描写は、
少なくとも3例あり、

いずれも
戦場における武勇を
象徴していると思われる。

2、もっとも、3例中、
哀公11年の1例は、

歩兵陣に対する
車上の矛の有効性を
示している可能性がある。

3、春秋時代の車戦には、

まず、車上での射撃戦、
次いで、長柄の武器での
斬り合い、

そして、降車後の
白兵戦という流れがある。

4、実際の戦闘では
かなり臨機応変に
武器を使い分け、

特に降車戦闘では
肉弾戦も行う。

5、長柄の武器や
弓については、

車戦に加えて
降車戦闘も
行うことから、

搭乗員全てが
所持している
可能性を考えたい。

6、以上の1~4、の
項目より、

当時の武器に対する
効能として、

臨機応変に使い分ける
機能的なものと、

外見の与える
精神的なものが
存在する。

後者は、
本文では触れなかったが、

管見の限り、例えば、

飾りのついた
儀仗的な戈や斧等が
少なからず出土している。

【主要参考文献】
(敬称略・順不同)

左丘明著・小倉芳彦訳
『春秋左氏伝』(各巻)
杜預『春秋経伝集解』
『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』
(国学導航)
司馬遷
『史記』(維基文庫)
金谷治訳注『論語』
劉熙
『釈名』(天涯知識庫)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
周緯『中国兵器史稿』
篠田耕一
『武器と防具 中国編』
稲畑耕一郎監修
『図説 中国文明史3』
薛永蔚
『春秋時期的歩兵』
高木智見『孔子』
愛宕元・冨谷至編
『新版
中国の歴史 上』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版
香坂順一編著
『簡約 現代中国語辞典』

【言い訳】

思い出すのは、

トイレに籠って
長時間粘った割には
戦果の乏しかった時の
徒労感と絶望感。

あまり
論旨とは関係ない
魯・呉・斉の
関係の整理に
思いの他
手間取りました。

その他、
孔子関係の話は、

弟子や本人を
誉める話の裏で
色々ありそうで
ムツカシアルヨ。

サイト制作者の性格が
曲がっているといえば
それまでですが。

それはさておき、

御笑読頂いている
皆様には
本当に申し訳なく
思います。

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「考工記」と「釈兵」の説く矛について

はじめに

今回は、
自身の悪癖が出て
無駄に長くなったので、
先に章立てを入れます。

適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

はじめに
1、原文の説く柄の上下の固さ
2、ポイントになる「重」の解釈
2-1、まずは、原文と注釈を
2-2、今風に言えば、ドウシる?!
3、「釈兵」の説く矛と戈
3-1、疑問提起、矛戈の「堅」
3-2、何かと便利な『釈名』
3-3、出土品の形状との比較
3-4、ノーカットで読んでみる
3-5、矛頭の定義
3-6、後漢時代の実物
【雑談1】存外アバウトな百歩?!
【雑談2】 出土品の墓の話
3-7、定義が変遷する?槊
3-8、多様化する矛
3-9、「考工記」より短い夷矛
おわりに (結論の整理)

はじめに

今回の御話は、
『周礼』「考工記」の説く
矛の使い方について。

図解の下書きを描く過程で
またも誤読が
発覚しまして、

それ以外にも、

話の流れで
どこかの大きい国みたく
イロイロと
身の丈に合わないことを
やらかしまして、

結局、ひと月以上も
掛かってしまいまして、
大変申し訳ありません。

1、原文の説く柄の上下の固さ

それでは、早速、
本文に入ります。
図解の方を
見てみましょう。

例によって、

あくまで
参考程度で御願いします。

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

まず、「刺兵同強」
(刺兵は強きを同じくし、)
ですが、

『周礼注疏』は、

「上下同也」
(上下同じなり)、

柄の前後の硬さが同じ、
と、しています。

想像するに、

『周礼注疏』の解釈に
準拠すれば、

車戦で使うための
3m程度の長物を
一定の数量を
確保する、

という話につき、

或る程度の高さの木の
幹でもない限りは、

硬さにバラつきが
出易いのかもしれません。

2、ポイントになる「重」の解釈
2-1、まずは、原文と注釈を

続いて、「考工記」原文
以下の部分について。

挙囲欲重、
重欲傅人則密

囲:武器の取っ手
重:増やす、重視する
傅:付く
密:安定する

囲を挙げるに重を欲し、
重は人に傅すを欲し、
すなわち密。

例によって、
書き下しも手製につき
これも参考程度
御願いします。

この部分については、

サイト制作者は、
図解の如く、

矛を手に執って
突く時に、

囲に力を入れれば
切っ先が安定する、

と、解釈します。

さらには、
『周礼注疏』には、

操重以刺則正

操:持つ、握る
正:まっすぐな様

重んじて握り
もって刺すは
すなわち正

と、あります。

力を入れて握れば
まっすぐ刺さる

という訳でして、

別の言葉に言い換えて
説明しています。

こうやって、一見、
すんなり訳せたように
見えますが、

サイト制作者は
ここで躓きまして。

2-2、今風に言えば、ドウシる?!

言わないと思います。

ただ、最近の言葉では、

バグる、ググる、
といったような言葉を
イメージされたく。

さて、ここで肝心なのは、
「重」の意味。

コレ、古語としては、
座右の字引きによれば、

動詞としては、

大事なものと見なす、
増やす、

ある基準よりも
目方がある
=重い、

といった意味が
あります。

これを受けて、
サイト制作者は、最初、
馬鹿正直に、

形容詞として
物理的に「重い」と
解釈しました。

武器の「囲」に
細工する、

例えば、

コーティングする部分が
重くなる、

といった解釈に
なる訳です。

一方で、

心理的な面での「重」は、
例えば、

人を重用する、

あるいは、

多い情報量の中での
取捨選択として
「重視」する、

というような意味しか
頭にありませんでした。

ですが、ここでは、

これらの解釈から
もう一歩踏み込んで、

手に執った人間が
物理的に力を入れること
「重」と言うのでしょう。

果たして、
『周礼注疏』には
この部分について、

謂矛柄之大者
在人手中者

矛柄の大いなるは
人手中にあることを
いう

大:強い、激しい、

とあります。

矛の柄の中で
力が入るのは
手で握る部分である、

—と。

教訓としては、

少しでも
日本語として通じないと
感じた部分については、

徹底して
字引きを引きなさいよ、

ということなのでしょう。

さらには、

この「大」
クセモノで、

ここでは、
「大きい」という意味
以外にも、

強い、激しい、ひどい、
といった、

恐らく、ニホン語からは
想像するのが難しい意味も
あります。

文脈から考えれば、

ここでは
「重」も「大」も同じ、

力を入れる、
という意味なのでしょう。

3、「釈兵」の説く矛と戈
3-1、疑問提起、矛戈の「堅」

この章では、
『釈名』「釈兵」を中心に、

矛と戈の使い方を
比較してみます。

そうすることで、
矛の特徴が
より浮き彫りになります。

さて、前章に因んで、

『周礼注疏』
少し気になる文言が
ありまして、

それは、

矛と戈は
前後のいずれが「堅」か、
という御話。

以下の部分です。

句兵堅者在後、
刺兵堅者在前

句兵堅きは後にあり、
刺兵堅きは前にあり

句兵:戈・戟
堅:しっかりして
揺るぎない
落ち着く・安心する
刺兵:矛

戈や戟は
柄の後ろの方が
しっかりしていて、
矛はその逆。

その理由については、
以下。

前置きで「釈曰」、
―『釈名』「釈兵」を
典拠とする、
と、しつつ、

戈戟については、

句兵向後牽之

句兵後ろに向かい
これを牽く

については、

向前推之

前に向かいこれを推す

と、します。

要は、
柄そのものの固さ
ではなく、

持ち手が力を加えた時に
どの部分が
しっかりしているのか、

という話なのでしょう。

これも、
字引きを引くのを
躊躇したツケでして、

「堅」=硬さ、という
日本語のニュアンスで
足を掬われました。

3-2、何かと便利な『釈名』

一応、
件の「釈兵」についても
触れます。

前置きとしては、

『釈名』は、要は、
万物の字引きです。

一読する分には、

ほとんど
『三国志』の時代の感覚で
万物の語源を辿る
という内容に見受けます。

兵器のみならず、
服飾、車両、地理、
という具合に
何でも御座れで、

諸分野の考証の
足掛かり
なろうかと思います。

原文に興味のある方は、
以下のサイトにて。

『天涯知識庫』さんの
『釈名』目次
ttp://book.sbkk8.com/gudai/shiming/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

『中国哲学書
電子化計画』さん、
同上
ttps://ctext.org/shi-ming/zh
(一文字目に「h」を補って下さい。)

3-3、出土品の形状との比較

話を矛と戈の「堅」に
戻します。

まず、「釈兵」中の
戈の件は以下。

戟、格也、旁有枝格也
戈、句孑戟也
戈、過也
所刺搗則決過所鈎、
引則制之、
弗得過也

格:打ち殺す
枝格:樹木の長い枝
句:まがる
孑:小さい、単独の
ここでは干戟の援か。
過:通る、勝る、過失
ここでは貫通する、か。
決:裂く、嚙み切る
鈎:かぎに掛けて取る
制:断ち切る

戟、格なり。
旁に枝格あるなり。
戈、句孑の戟なり。
戈、過なり。
刺し搗(と)るところは
すなわち決(き)り
過は鈎(か)くところ、
引くはすなわち
これを制し、
過を得ざるなり。

参考までに、

後漢当時の
武器の先端の形状
見てみましょう。

以下は、
以前掲載した図解です。

学研『戦略戦術兵器事典 1』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

時代区分がヘンですが、
後漢時代も
右側に入りますので
念の為。

この図解も、
出土品の明示等で
精度を上げるかたちで
描き直したいと思いますが、
いつになることか。

さて、
「釈兵」の話が
仮に後漢時代のものだと
仮定すれば、

成程、戟の特徴を
よく表していると
思います。

と、言いますのは、

この時代の戟の特徴は、

それまでの戟のような
戈に先端の戟刺を
足したものとは異なり、

刺突系の攻撃に
かなり重心を置いた構造
なっています。

矛に近い形状。

言い換えれば、

本来、戈の本質
とも言える援が、

幹に対する「枝格」
―この部分が主役ではない、
と表現される辺り、

そうした特徴を
よく表していると思います。

因みに、

当時の戟については、
『中国古兵器論叢』
詳しいです。

著者の楊泓先生によれば、

こういうのを
『「卜」字形戟』
称するのだそうで、

洛陽や南昌(江西省)の
後漢時代の遺跡から、

大体このサイズのものが
出土している模様。

一方の戈は、

「句孑の戟」、つまり、
曲がる部分がひとつ。

言い換えれば、
戟刺がありません。

この部分は、
後漢時代の出土品を見ると
逆に分かり辛いのですが、

「考工記」・冶氏為殺矢の
次の部分にある
戟の件との対比だと
思います。

恐らく「〇氏為〇」が
欠けているところ。

で、その件は、

以前の記事でも
触れましたが、

具体的には、

戟の援・戟刺・内が
3本共曲がっている
ものがある、

という御話。

機能性はともかく、

西周時代の出土品にも
こういうものがあります。

一応、図解を再掲。

『釈名』の著者の劉熙
実物を見たかどうかは
サイト制作者は
分かりませんが、

「句孑」を
「考工記」の文言との比較
考えると、

少なくとも、
内容は一致していると
思います。

で、肝心の、
戈戟の使い方ですが、

「釈兵」によれば、

刺し切っても
引いて切っても大丈夫、
というもの。

その他、「過」が
何度も出て来るので
紛らわしいのですが、

最後のものは、恐らくは、
失敗を意味し、

引いて切れば間違いない、
ということだと
思います。

3-4、ノーカットで読んでみる

「釈兵」
矛の部分についても
触れます。

ここでは
無関係な部分が
多いのですが、

矛が主題であることに
加えて、

考証の材料として
オモシロいこともあり、

今回は敢えて
ノーカットでいきます。

長いので、
区切りを付けました。

因みに、

この「釈兵」の
「殳矛」以下の件は、

矛というよりは
「殳」の説明につき、
今回は省きます。
(過去の記事で触れたため)

A
矛、冒也、
刃下冒矜
下頭曰鐏、鐏入地也
松櫝長三尺、
其矜宜軽、以松作之也、
櫝、速櫝也、前刺之言也

B
矛長八尺曰矟、
馬上所持、
言其矟矟便殺也
有曰激矛、激、截也
可以激截敵陣之矛也

C
仇矛、頭有三叉、
言可以討仇敵之矛也
夷矛、夷、常也
其矜長丈六尺、
不言常而曰夷者、
言其可夷滅敵、
亦車上所持也
矛芍矛、長九尺者也
矛芍、霍也
所中霍然即破裂也

冒:覆う
矜:柄
鐏:いしづき
櫝:箱、ひつぎ
速:ここでは、
意味する、早い話、
といった意味か。
尺:後漢時代は
1尺=23.75cm、
魏晋時代は
1尺=24.2cm。
矟:騎兵用の長い矛
矟矟:ほっそりした
激:突く、
激しくぶつかる
截:切る、断つ
常:いつまでも
守り続ける
霍:素早い
霍然:たちまち

A
矛、冒なり。
刃下に矜(きん)を
冒(おお)う。
下頭をいわく鐏、
鐏は地に入るなり。
松櫝は長三尺にして、
それ矜は
よろしく軽くすべく、
松をもって
これを作るなり。
櫝、
櫝を速(まね)くなり。
前刺の言なり。

B
矛長八尺をいわく矟、
馬上に所持し、
それ矟矟(しょうしょう)
として
殺すに便なり。
いわく激矛あり、
激、截なり。
もって
敵陣を激截すべきの
矛なり。

C
仇矛、頭に三叉あり。
もって仇敵を討つべきの
矛なり。
夷矛、夷、常なり。
その矜長丈六尺にして、
常と言わず、
いわく夷とするは、
それ夷は
敵を滅すべきを言い、
また車上に
所持するなり。
矛芍(けき)矛、
長九尺のものなり。
矛芍、霍なり。
中(あた)るところ
霍然として
すなわち破裂するなり。

3-5、矛頭の定義

さて、
まずAの部分ですが、

「釈兵」によれば、

所謂「矛」の字は、

先端の金属部分
矛頭を意味します。

邪な解釈をすれば、

先端を取れば、
何の棒だか
分からん訳で、

杯型のゴムを付ければ
トイレで使う
ラバーカップ。

むこうの言葉で、
馬桶柱塞
と言うそうな。

んなものは
あの時代にはないと
思いますが、

余分な話はともかく、

件の矛頭―矛、

どうも金属ではなく、
松で製作する模様。

その場合、
柄は軽い方が望ましい
とします。

サイト制作者の
想像ですが、

鉄自体が
貴重な時代につき、

炒鋼法で
鉄製の武器を大量に
確保しようと思えば、

労力はもとより、
大量の鉄鉱石や
木炭を使用することで、

まして
戦争の時代ともなれば、

こういう方法に
頼らざるを得ないのかも
しれません。

で、この櫝=前刺、
言い換えれば、
松製の矛頭は、

長さ3尺とありまして、

後漢時代の尺で言えば
71.25cm。

これは矛頭としては
結構な長さです。

後代の尺を用いれば
さらに長くなります。

さらに、
計測方法を変えると、

これまた違った側面も
見えて来ます。

具体的には、

「考工記」廬人為廬器の
「酋矛」における
全長と「刺囲」の比率から
弾き出す方法です。

当該の件を参考に、

「刺囲」の
全長に対する比率
8/45とします。

その結果、

周尺換算で
全長360cm余に対して
刺囲は64cm余。

先述の「釈兵」の説く
「長三尺」が
後漢時代の尺で
71.25cmにつき、

両者の差は
10cmを切ります。

後述するように、

この「釈兵」
「考工記」の内容の一部が
下地になっている痕跡
あります。

3-6、後漢時代の実物

ところが、

事実は小説よりも奇なり、
でして、

漢代の出土品も
これに近い数字と来るので、
ややこしくなっています。

順を追って
見ていきましょう。

まず、以前の記事で、

殷から戦国時代までの
銅製の矛頭は
かなり長いものでも
大体50cm程度、

という話をしました。

一応、図解を再掲します。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

(以前掲載した際、
「常」の換算方法が
誤っていましたので、
今回訂正します。)

対して、

先述の
矛や戈の形状の変遷の
図解にあるように、

漢代の鉄製の矛の2例は、
48.5cmと
65.3cm。

後漢時代の3尺の
71.25cmに対して、

特に、
下の1例については、

結構イイ線行っている
思います。

これに因んで、
この時代における
矛の状況は詳しくは
分からないのですが、

については

先述の
『中国古兵器論叢』
詳しくありまして。

例えば、
長いものでは、

洛陽の後漢の
光和2年(179)
王当なる人の墓から
1974年に
出土した戟は、

何と、
長さ69cm。
形状は卜字戟。

管見の限り、
戦国時代までの戟で
これ程の長さのものは
ありません。

それどころか、

戦国時代までの
出土品の感覚で言えば、

飛び抜けた長さだと
思います。

ですが、

後漢時代の
戟の出土品はと言えば、

「考工記」にある
戟体の規格からは
逸脱の甚しさ。

「釈兵」の戟の件
どちらかと言えば、

その「現状」に準拠して
書かれている
言えます。

サイト制作者は
これを受けて、

「釈兵」の説く
「松櫝」の長さは、

後漢時代の現状を
反映している
考えます。

ただ、当時の知識人の
こうした時代ごとの
尺の長さの
違いについては、

どこまで正確に
勘定しているのかは、

サイト制作者は
分かりかねる部分が
少なからずあります。

よって、
記事の末尾の結論では、

少なくとも、

1、後漢の出土品の状況
に準拠

2、「考工記」
廬人為廬器の内容に準拠

以上のふたつの捉え方が
ありそうである、

と、書こうと思います。

【雑談1】存外アバウトな百歩?!

余談ながら、
ここで、

古代中国における
数字の捉え方について、
オチのない話を少々。

以前の記事でも
触れましたが、

例えば、

『春秋経伝集解』
―杜預の付けた
『左伝』の注釈では、

昭公二十一年の件で、

殳の長さについて
「考工記」の数字を
そのまま掲載しています。

その他、

『周礼』「夏官司馬」の
大閲の件で、

百歩則一、為三表

百歩をすなわち一とし、
三表をなし、

百歩ごとに標識
(あるいは、単なる杭か)
を立て、

これを3単位設置し、

これを目安に
部隊の前進・停止の
訓練を行う、

という御話。

戦国時代の
『尉繚子』「兵教上」にも、
百歩ごとに標識を立て、
―「置大表三」

百歩ごとに
鶩:全力疾走
趨:小走り
決:白兵戦

という流れの
突撃訓練を行う
件があります。

両者の「百歩」は
時代ごとの尺を
厳密に当てはめれば、

2割以上の差が
あるのですが、

サイト制作者としては、

どうも、

その辺りを
正確に計測している
ようなニュアンスには
取れませんで、

つまるところ、

目先の事務の
ソロバン勘定
であればともかく、

時代ごとの
尺の違いについては、

余程専門性の高い
実務官でもなければ、

結構アバウトでは
なかったのか、

と、すら思います。

とはいえ、
サイト制作者の
感覚レベルの話につき、

妄想はこの辺りで。

【雑談1】・了

【雑談2】 出土品の墓の話

墓についても無駄話を。

黄巾の乱の数年前で、
限りなく
『三国志』の空間に
近い御話。

余談ながら、
「王当」
検索を掛けたところ、

墓の説明書きのある論文
見付けましたので、
アドレスを掲載します。

残念ながら
熟読はしていないのですが、
(まずは、
記事を更新してから
読もうと思います・・・。)

どうも、
墓の土地の売買という
生臭い話のようで、

個人的には
非常に興味があるのですが、
それはともかく、

当時の人々は、

墓の中も
現世の生活空間の延長
という発想で、

副葬品として
高級品から空手形まで
実にイロイロなものを
持ち込み、

内壁に
レリーフまで彫るので
オモシロいものです。

こういう話のタネ本は、
以下。(著者敬称略)

柿沼陽平
『中国古代の貨幣』

蘇哲
『魏晋南北朝
壁画墓の世界』

当時の
富裕層・知識人層の価値観に
興味のある方はどうぞ。

で、件の王当さんの墓に
言及した論文は、
以下。(著者敬称略)

江優子
後漢時代の墓券を中心に
ile:///C:/Users/monog/Downloads/KJ00005440895.pdf
1文字目に「f」を補われたく。
(注意!「h」ではありません。)

後、どうでも良い話ですが、
論文の中で
個人的に笑えたのが、

件の王当の墓の欄の
「トラクター工場」の記載。

時代が下れば、

富裕層の墓の上にも
こういうものが
建つのか、と。

いえね、
何の偶然か、

斯く言うサイト制作者の
勤務先の工場の
ほとんど隣の空き地でも、

遺跡の発掘調査を
やってまして、

ヘタすりゃ、
ウチの工場の地下にも
何が眠ってんだか。

当時の産廃の
投棄場にもなっていれば
制作者としては笑えます。

さらに、発掘現場の隣の
大通りの反対側では
何をやってるのかと言えば、

それまでは
田んぼや畑ばかりで
吹きっ晒しの場所に、

ここ数年で
大型モールだの
カー・ディーラーだのが
乱立し、

沿道の開発が
急ピッチで進む有様。

古代遺跡が
点在する地域につき、

先程の洛陽の話と、

多少なりとも
似たような雰囲気を
感じなくもありません。

3-7、定義が変遷する?槊

Bの部分について。

「矟」は、
座右の字引き・
『漢辞海』第四版
によれば、

騎兵用の長い矛、
「槊」(さく)に通じる、
と、ありまして、

「槊」は長い矛、
としています。

さらに、
篠田耕一先生の
『武器と防具』中国編
によれば、

「槊」は
3世紀以降に登場する
重装騎兵が使う
長い槍としています。

恐らく、曹操が
袁紹は300騎持ってる
と嘆いた騎兵かと
思います。

一方で、8尺は、
後漢時代の尺
換算すると、
190cm。

これで
敵陣を切り裂くんですと。

ですが、

どうも、
話が矛盾していますね。

例えば、

春秋時代の出土品の
3メートルの車戟に
比べると、

日本の戦国時代の
騎馬武者が持つ、
短くて取り回しの良い
騎乗槍や、

さらに時代が下って
騎兵の持つ
四四式騎銃のような、

歩兵用の小銃に比べて
銃身の短い
カービン銃のような
イメージです。

で、サイト制作者の
知るの限り、

これに近いものとして
思い当たるのが
「鏦」(しょう)。

小さい矛、
という意味でして、

『孫臏兵法』の
「陳忌問塁」に出て来ます。

陣地を守る際、

弓弩とは別に、
前から順に、
撒き菱、遮蔽物(車両)、
盾、長兵器・短兵器の順に
敵に備えよ、

という文脈で使われる
武器でして、

長兵器の中に、
この「鏦」が入ります。

仮に、「釈兵」の説く槊が
こういう類の
短い矛であるとすれば、

今のところ、
サイト制作者は、

重装騎兵の登場によって、
言葉の意味が
変遷したのではないか、

と、想像します。

この辺りの
経緯については、

サイト制作者としては
理解不足につき、

詳しい話は
後日とします。

3-8、多様化する矛

次は、Cの部分について。

ここはBの部分の延長で、
矛にも色々ありますよ、
という御話。

仇矛・夷矛・芍矛
他に3種類あり、

ざっくり言えば、

仇矛は三又、
これで
仇敵を討つのですと。

あるいは、

機能ではなく、
礼の話かもしれません。

夷矛は車戦用、
芍矛はヨクワカラナイ。

あくまで想像ですが、

尺の長さや
「破裂」という
エグい描写から、

イメージとしては、

恐らく、
柄や矛頭の直径が
大きいことで、

大口径の銃や
ショットガンで
モノを打ち抜いた時
のように、

突いた対象が
原型を留めなくなる類の
武器かしらん、ゾ~ッ。

(説明になっていない!)

3-9、「考工記」より短い夷矛

さて、この中で、

「考工記」の矛に
関係ありそうな
夷矛について
少し突っ込みますと、

まず、
「常」と「夷」の話は
武器の機能的な話では
ありません。

次いで、

柄の長さが6尺、

これを後漢時代の尺に
換算すると、
142.5cm。

さらに、
矛頭を先述の3尺と
仮定すると、
71.25cm。

〆て計9尺=
213.75cm。

周尺に換算すると
さらに短くなりまして、

やはり、
短いと言わざるを
得ません。

「考工記」原文の
「夷矛三尋」
(周尺:432cm)
との開きが気になります。

で、恐縮ですが、

サイト制作者としては、

現段階で
この空白部分を
埋める材料を
持ち合わせていません。

これも、

逃げ口上の常套句ながら、
今後の課題と
させて頂きます。

『周礼注疏』にしても
『釈名』にしても、

結局は、

西周時代と後漢時代の
感覚の違いの理由を
探る作業になるのかしらん、

と、改めて思った次第です。

おわりに

そろそろ、
例によって、

以下に、
今回の記事の要点を
整理します。

1、「考工記」原文によれば
矛の柄の上下の硬さは
同じである。

2、一方で、
『周礼注疏』によれば、

持ち手の
力加減によって
武器の状態が変化する。

力を入れれば
切っ先が安定して
対象に刺さり易い。

3、2、について
さらに言及すれば、

矛は前に押すように
突くので、
柄の前の方が
しっかりしている。

戈戟はその逆で、
後ろに引きながら
斬るので、
柄の後ろの方が
しっかりする。

4、日本人の漢文解釈の
コツのひとつとしては、

時には、
品詞区分に
捉われないことも
必要である。

5、『釈名』「釈兵」の説く
戟の形状は、恐らく、
漢代の「卜字戟」を意味する。

6、「釈兵」の説く
矛頭の長さ3尺は、
後漢時代の状況を
反映していると思われる。

一方で、

「考工記」廬人為廬器
の説く矛頭の長さにも
かなり近い。

少なくとも、
上記のような
ふたつの捉え方があると
考えられる。

7、騎乗用の矛である
槊の長さも、

「釈兵」が書かれた
とされる後漢と
その後の時代で、

かなり変遷している
可能性がある。

8、「考工記」と
「釈兵」の説く
夷矛の長さの
違いの理由は、

現段階では
サイト制作者は
理解出来ていない。

さて、見苦しい
言い訳ですが、

今回の更新が遅れた
最大の理由は、

記事を書く流れで
「釈兵」に
手を出したことです。

いずれは
やることになるのですが、

戦国時代以降の状況
史料で使用例を確認する
といったレベルで
分かっていない中で、

その辺りの変遷について
適当に摘まみ喰いを
しようとしたのが
祟りました。

結果的に、

段取りの悪い
調べ事となり、

誤読の後始末よりも
時間を喰いまして、

大変恐縮しております。

さらには、

後日、
調べ事を進める過程で、
その粗の後始末も
やることになるかと
思います。

なお、次回は、
予定を変更して、

今回出来なかった
『左伝』における
矛の件について、
少々綴ろうと思います。

使用例という程
具体的な描写では
ないのですが、

何かしらの参考には
なろうかと。

【主要参考文献】

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)
劉熙『釈名』(天涯知識庫)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
周緯『中国兵器史稿』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版
香坂順一編著『簡約 現代中国語辞典』、

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近況報告:『周礼』「考工記」廬人為盧器図解その他

はじめに

まずは、更新が滞ってしまい
大変申し訳ありません。

どういう訳か、
年末に記事を書いたと
勘違いしており、

正月は、例によって、
ゲームで溶かして
しまいました・・・。

さて、今回は、

前回に引き続いて
『周礼』「考工記」
廬人為盧器
矛に関する図解2枚と、

その他、
長めの「オマケ」をひとつ。

1、「考工記」の説く矛の形状

早速ですが、
矛の形状に関する図解
掲載します。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

以前に掲載したものの
誤読部分を
描き直したものです。

原文をそのまま訳すと、

取っ手である「囲」
石突である「晋囲」
重複しています。

さらに、
囲の長さから
晋囲の長さを引くと、
30cmを切る短さ。

要するに、
石突の長さが
気になります。

とはいえ、
「考工記」の現代語訳
とでも言うべき
『考工記訳注』にも、

人所握持之処離
末端為全長的三分之一
以其周長的五分之四作為
末端銅鐏敵周長

周尺換算で、

全長に対して
末端から3分の1を
取っ手とし、

その5分の4を
銅鐏(石突き)とする、

―と、していまして、

サイト制作者の誤読では
なさそうな。

では、実例はどうか、
と言えば、

残念ながら、

随分時代が下って
戦国時代のもの
なるのですが、

管見の限り1例だけ
ありまして。

長沙の楚の王墓よりの
出土品で、
以前の記事でも
紹介したものですが、

図解の下段部分の下の矛。

これを見る限り、
20cmを切っています。

折れて欠損している部分が
無ければの話ですが。

因みに、この矛の元の写真は、

楊泓先生
『中国古兵器論叢』
あります。

約14分の1とあったので、

馬鹿正直に定規を当てて
14倍しましたので、
多少の誤差はあるかと
思います。

一方で、矛頭の長さは
戦国時代の他の出土品と
大体同じ位。

こういうのを見る限り、

車戦用のものは
矛頭が少し長そうな
事情を考慮するにせよ、

「考工記」の説く
矛の規格は、

どうも、時代が下っても
通用するものでは
なかった、

と、捉えた方が
良いのかもしれません。

もしくは、

敢えて
「考工記」の規格にある
「囲」の短さの意味を
考えるとすれば、

前回触れた、

『周礼注疏』に曰く、
「細きは則ち手に
執るの牢なり」

両手の間隔が短ければ
しっかり握れる、か。

もしくは、

実際に握る分には、
囲も晋囲も
一緒くたであったか。

2、「考工記」の説く矛の使い方

次いで、
矛の使い方について。

これも、
まずは図解を掲載します。

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

1枚も使って描くような
内容ではないのですが、

もう少し詰めると
ゴチャゴチャして
今以上に見辛くなるので、

一旦はここで切りました。

これについて、
次回にもう1枚
描く予定です。

さて、この図解の要点は、

1、柄を振ったりして
しなわせないこと。

2、柄の断面が
円形であること。

以上の2点です。

で、ボウフラさんの
ザワザワは、
矛の柄がしなう様の
例えです。

この辺りの感覚は、
時代を問わないもの
なのでしょう。

3、目からウロコの『曹沫之陣』
3-1、原文と解説論文

以降は
オマケの部分の
でしたが、

サイト制作者の
悪癖が出て
結構長くなりました。

とはいえ、

この部分の方が、
読者の皆様にとっては、

サイト制作者の
誤読の後始末よりも
有用かもしれません。

それはともかく、

「考工記」の考証も含めて
何か面白い文献や史料は
ないかしらん、と、

佐藤信弥先生
『戦争の古代中国史』
参考文献を
少々当たる過程で、

同書に紹介されていた
『曹沫之陣』の原文や
そのニホン語の解説論文
ネット上で
今頃見付けまして。

双方共、
10年以上前に
公開されていますが、

サイト制作者のような
初耳の方への紹介を
思い立ちました。

以下、そのアドレスです。
1文字目に「h」を補われたく。

『曹沫之陣』原文
ttps://baike.baidu.com/item/%E6%9B%B9%E6%B2%AB%E4%B9%8B%E9%99%88/23597400

浅野裕一
上博楚簡『曹沫之陣』の兵学思想
(論文PDF)
ttps://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61257/cks_038_160.pdf

大意を取るには
難しい内容だなあ、
漢文苦手だなあ、

と、思われる方は、

例えば、
戦闘場面の書き下し文の
解説だけ、

あるいは、
後半の解説文だけでも、

目を通されることを
御勧めします。

論文の著者である
浅野裕一先生ですが、

この分野の大家で、

サイト制作者も、

『孫子』『墨子』といった
文庫本の
邦訳や書き下し、解説等で、
大変御世話になりました。

もう少し言えば、
説明が体系的で
興味深かったことで、

調子に乗って
あることないこと
書くための
揮発性の極めて高い
燃料になりました。

で、今回の同論文も、

綺麗な書き下し文
詳細な解説はおろか、

原文の欠損部分の
内容の推測まで
付いているという
至り尽くせりの親切仕様。

斯く言うサイト制作者も、

これで、
書き下し文の練習を
させて貰っています。

3-2、
毀誉褒貶、曹沫の人物像

さて、曹沫という人は
春秋時代の魯の軍人ですが、

かなり悪く言えば、

『史記』刺客列伝にある、

敵国である斉の桓公に
懐刀を突き付けて
分の悪い講話条件を
白紙に戻させたという逸話で、

尻に火が付いた国が寄越す
狂暴な使節の走りとして
名前が残った人、

と、言いますか。

ですが、
この『曹沫之陣』は、

そういう任侠プレイの
実録物ではなく、

かなりマトモな
戦争マニュアルでして、

と、いいますか、

そもそも曹沫自身が
『左伝』の
(魯の)荘公の件にあるような
良識ある人物のようで、

その辺りのカラクリ
かくかくじかじか、と、

論文の後半部分で
しっかり説明されています。

で、『曹沫之陣』は、

ざっくり言えば、

侠客路線の『公羊伝』と
軍人路線の『左伝』の
バランスを取る
内容なんですと。
(いい加減な理解!)

3-3、
『左伝』の戦いの行間を綴る

以降は、
原文や解説について、

ここでは、
取り留めない感想を少々。

小規模戦闘の話です。

さて、同論文では、

『曹沫之陣』が
会戦に強く執着するのは、
春秋時代の
戦車中心の戦争では、
会戦以外に
勝敗を決する形式が
想定できないからである。
(186頁より)

と、あります。

制限戦争の時代の
『曹沫之陣』と、

時代が下って
総力戦を説く『孫子』とで、

対をなすのだそうで。

言い換えれば、

重点が置かれている分、

局地戦の説明には
説得力がある訳でして。

例えば、
布陣の際、

車間に伍を容れ、
伍間に兵を容れ、
常に有るを貴ぶ

という文言があります。

浅野先生の説から逸脱して
少々妄想を逞しくし、

「車間」の「間」が
横のみならず
縦も含むと取れば、

サイト制作者が
思い当たるのが、

『逸周書』に出て来る、
前後左右の十字に
25名・計100名を
配置し、

恐らくは、
真ん中に戦車が陣取る布陣。

また、別の話をすれば、

身分の高い者や
国君の血族を
積極的に前線に出せだの、

武器を修繕して
神に祈って
戦いに備えろだの、

『左伝』に
書かれていること
そのまんま。

そうすることの理由を
説明して
行間を補うとでも
言いますか。

その他、

いつ書かれたのかは
ともかく、

成程、
春秋時代の価値観を
色濃く反映している
のかなあ、と。

こういう具合に、
イロイロと
興味深い要素が
詰まっており、

今後、さらに精読して
何かの考証の折にでも
参考にさせて頂きたいと
思った次第。

3-4、
「正邪」入り乱れた
春秋時代の戦い

一方で、

浅野先生の御説で
気になった点
ありまして。

例えば、
鉄の戦いなんか

高級指揮官が
先陣を切って
最前線で
血反吐を吐いてまして、

こういう
士大夫のメンタリティを
体現したような戦いが、

大量動員時代に
入ったとされる
春秋末期になっても
行われています。

ところが、

こういうのと並行して、

伏兵や別動隊といった
ヒキョ臭い戦法も、

少なくとも、
前8世紀以降、

春秋時代全体を通じて
ちょくちょく
行われています。

例えば、
荘公の時代の鄭なんか。

さらに、
『周礼』「夏官司馬」にも、

中冬の大閲の際、
(最大レベルの軍事演習)

険野に人を主となし、
易野に車を主となし、

という文言があります。

険しい地形に歩兵を
なだらかな地形に戦車を
各々重点的に配置する、

―という訳です。

つまり、

当時の感覚では、
どうも
正攻法とは言えない戦法も、

昔から、
存在する基盤が
あったのでは
なかろうか、と。

古の戦いがどうたら
書いてる『司馬法』すら、

隠密行動の際には
兵士に木切れを
噛ませろ、と、

どこか歯切れが悪いのが
個人的にはオモシロくあり。

こういう
春秋時代の戦争の二面性
向き合うのも、

この時代の調べ事の
面白さのひとつかしらと
思っています。

【おわりに】

今回も、
結論めいたものはありません。
無駄に長くなった割に、
恐縮です。

その他、久しぶりに
集団戦に触れたことで、

興奮して
放言癖が出まして、

普段以上に余計なことを
書いてしまいました。

さて、図解は、予定では、

誤読が見つかる等の
ポカ等がなければ、
矛について、
後1枚描きたいと思います。

そのうえで、
「考工記」廬人為盧器の
書き下しに入る予定です。

そうやって予告して、

想定外のヘンなこと
やらかすのも
このブログのあるあるですが。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
周緯『中国兵器史稿』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
Baidu百科『曹沫之陣』
浅野裕一
上博楚簡『曹沫之陣』の兵学思想
左丘明著・小倉芳彦訳
『春秋左氏伝』(各巻)
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

カテゴリー: 兵器・防具, 学術まがい, 言い訳, 軍事, 軍制 | 6件のコメント

近況報告 『周礼』の説く戈の使い方

はじめに

今回も前回同様、

『周礼』「盧人為盧器」
図解の一部を
描き上げたことで、

とはいえ、
その実態は
手直しに近いのですが、

その説明を少々。

1、細かい説明は注疏が中心

それでは、早速、
描き上げたものを
掲載します。

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

例によって、
内容や書き下し等は
参考程度で
御願いしたく。

さて、図解の下半分は
前回に掲載したもので、

今回は、
上半分の御話となります。

要は使い方の話でして、

ほとんどが
注釈部分の図解です。

以前の記事にも書いた通り、

恐らく、

『周礼』の筆者と
鄭玄等とは
見ているものが
少々違っているかと
思うのですが、

この図解の部分では、
本質的な違いは
なかろうと思います。

個人的な感覚としては、

少なくとも戦国時代までは
この内容が通用したと
想像します。

後漢・三国時代以降は、

戈頭・戟体の形状が
刺突向きになるので、

浅学なサイト制作者
としては、

コレが通用したかどうかは
正確なことは言えませんで、

さらに調べる必要が
あります。

ただ、後漢から唐にかけて
書かれた『周礼注疏』が、

恐らくは、
当時の形状であろう
戈について、

図解にあるようなことを
説いているので、

強ち的外れでもないようには
思います。

2、前後で異なる硬さ

ここでは、
具体的な使い方について
触れます。

まず、「椑」の話ですが、
柿の季節とはいえ、

柿ではなく、

柄の形が楕円形、
という御話。

先日、職場の年配の方から
関西の外れの某所の
美味しい柿を頂きまして、

忘れようとした誤読の話を
思い出しました。

で、『周礼注疏』によれば、

引っ張る武器につき
柄の下の方が硬い、
と、ありますが、

これについては、

サイト制作者の
知る限りでは、

残念ながら、

実例で確かめる術が
ありません。

想像するとすれば、

例えば、

「考工記」廬人為廬器
にあるような、

矛や殳宜しく
取っ手を何等かで
コーティングする
「囲」を意味するのか、

もしくは、

上下で硬さの異なる枝を
わざわざ選んで
製材するかしら。

【雑談】柄の硬さと戦場リアル

参考までに、
以前に何度か紹介した話
挙げます。

柄の話をする度に
思い出すのですが、

『周礼』の時代からは
かなり歳月が下るにしても、

『周礼注疏』の
鄭玄没後間もない話として、

『三国志』「魏書明帝紀」、
要は曹叡の伝記に、

陳倉で諸葛亮を破った
郝昭を紹介する話が
出て来ます。

さて、この御仁は
叩き上げの軍人でして、

戦場で
何をやったかと言えば、
以下。

他人様の墓を
荒らしたうえで、

取其木以為攻戦具

その木を取り
攻戦の具となし、

―と、墓標を武器の柄にした、
という訳です。

時代を遡ること
少なくとも春秋時代以来、

戦争で食糧に事欠けば
人様の肉ですら
口にするのを厭わない
社会につき、

有事に際して
墓標を失敬する位は、

驚くには値しないの
かもしれません。

あまり関係ないのですが、

二ホンとて、

国定忠治の墓の墓石を
博奕の縁起物として
削り取る人が
多かったので、

墓石に周囲にフェンスが
張られたんですと。

それはともかく、

ここでポイントとなるのは、

墓標でも武器の柄に代替出来る辺り、

実情としては、

どうも、
上下の硬さの異なる製材
という線は怪しいか、

仮にあったとしても、

有事には
場当たり的な補充で
済し崩しになっていたことが
往々にしてありそうな。

4、日中で異なる「細」の解釈

次に、柄を持つ時のコツですが、

結論から言えば、
両手の間隔を
短くすることです。

前回で触れたように、

原文である
『周礼』
「盧人為盧器」には、

撃兵同強、擧圍欲細、
細則校

撃兵は強きを同じくし、
囲を挙げるに細を欲し、
細はすなわち校。

と、あります。

文字の解釈には饒舌な
『周礼注疏』にも、

「細」の解釈については
言及していません。

さらに、現代語訳である
『考工記訳注』にも、

若手持之処稍細、
就握得牢固

もし取っ手が
やや「細」であれば、
握りが牢固になる、

という訳です。

つまり、「細い」は、
古語も現代語も
恐らく同じ意味。

しかも、
当たり前の感覚で
使用している言葉
と来ます。

実は、ここが、
サイト制作者が躓いたポイントです。

ここで、視点を変えて、
実物の柄の太さ
見てみると、

数少ない実物の戟には
柄が垂直でないものが
ありません。

そのうえ、先には、

『周礼注疏』

柄の前後で硬さが異なり
後ろの方が硬い、
と、説いてまして、

これらの話を整理すると、

柄の下の部分の
引っ張る方が
細くて硬い、となり、

殳どころか戈も
野球のバットのような形状
ということになり、

なんだかヘンだなあ、と、
なるかと思います。

と、なれば、
「細」の解釈は、

日本語と中国語の違いに
起因する
他の意味を考えた方が
良さそうだ、

と、考えました。

果たして、

座右の中国語の
古語・現代語の字引きの
双方にも、

細い以外に、

「幅がない」=短い、

という意味がありました。

「細」の意味は、
日本語と中国語で
異なっていた、
という訳です。

確かに、
柄の太さよりも
両手の間隔の方が、

武器の機能としては
自然な解釈かと思います。

野球で言えば、

バットで構える際、

バントとヒッティングで
両手の間隔が異なるのが
分かり易いかと
思います。

もっとも、

長物を振り回す時には、
両手を上下で
くっ付けませんが。

後、こういう、
サイト制作者の
昭和末の少し入った
生半可な野球脳が
解釈の癌になっている気が
しないでもありません。

で、またも誤読ということで、

前回の殳の図解も、
この内容で
描き直す必要があります。

ヘマが続いて
大変恐縮です。

【追記】

その改訂版がこちら。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

以前に掲載したものとの
違いは、
以下の2点です。

1、柄の太さが上下で同じ。

2、中段右の図解の説明等
内容に合わせて変更。

【追記・了】

おわりに

今回も、
もっともらしい結論は
ありません。

敢えて言えば、

細=短で
チュゴクゴムツカシアルヨ!

という、
身勝手で投げ遣りな話位か。

サイト制作者の
調べ方が悪いのだと
思いますが、

大体の内容を
一通り整理した後でも、

当該の文章を読み返して
図に描き起こす度に、

疑問や誤読が
ボロボロ出て来るので
本当に困ったものです。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)
陳寿作・裴松之注釈『三國志』(維基文庫)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
周緯『中国兵器史稿』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版
香坂順一編著『簡約 現代中国語辞典』、

カテゴリー: 兵器・防具, 言い訳 | 2件のコメント

近況報告 殷周時代の戈頭・戟体の出土品を図解する

はじめに

今回は、
描き掛けの図解について
アレコレ言う回です。

完成まで
更新を引っ張ると
結構な日数を
要することで、

その一部でも
御見せして
記事にしようと
思った次第です。

1、殷代の戈の出土品

描き掛けの図解
具体的な内容は、

『周礼』「考工記」・
「盧人為盧器」の
戈戟の件に関する
図解一部です。

まずは、以下。

楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、等(敬称略・順不同)より作成。

さて、このアレな図解の
抑えるべき重要事項は、
以下の2点。

1、柄の断面が楕円形。
2、援・戟刺・内が
一体の戟体。

次に、

図解の
左右の出土品について
ひとつひとつ
見ていきます。

まずは、左側の戈ですが、

これは
『中国兵器史稿』にある
殷代の戈の図の模写です。

で、同書によれば、
これは転載のようで、

以下のような解説文
付いています。

原形二分之一大
見李済氏著
《殷墟銅器五種及
其相関之問題》

因みに、李済という人は、
内戦以前の中華民国・台湾の
中国考古学の先生で、
既に亡くなられています。

さらに、
『殷墟銅器五種及
其相関之問題』も、

サイト制作者の
やり方が悪いのか、

検索を掛けた限りでは
詳細不明で、

つまり、

元となる図解の
正確な大きさが
分かりません。

そもそもそれを引用した
『中国兵器史稿』
1940年代以前
文献です。

そこで、仕方なく、

『中国兵器史稿』
にある図解を
定規で測り、

馬鹿正直に2倍したものを
図解中の「比率」として
書き込みました。

したがって、
図解の1=実寸1mm
想定しています。

例えば、援の長さ
図解の数字では42で、
実寸は4.2cm
となる訳です。

で、さらに注意したいのは、

『中国兵器史稿』は
再版であるという点です。

言い換えれば、
初版のサイズは
判然としない点です。

以上のフクザツな経緯を
纏めると、

元となる図と
それを転載した文献の
双方共、

困ったことに
正確な大きさが
分かりません。

【追記】

図解中の数字
絶対値は想定しておらず、

あくまで
比率という御理解で
御願いします。

早速やらかした、
とでも言いますか、

読み返すと、どうも、
脇が甘かったようです。

どういう話かと
言いますと、

サイト制作者には、
肝心の「原型」が
何を指すか、が、
分かりません。

つまり、

出土品の現物の大きさか、

もしくは、
李済先生の御本の
図の大きさか、

という御話。

例えば、

座右の中華書局版の
『中国兵器史稿』の
当該の図の柄の長半径が
僅か4mm。

ヨソの出版社の初版との
大きさの比率は分からず、

一方で、

その4mmの半分が
実物の大きさである、
というのもヘンな話。

早い話、

大きさの推測は
不確定要因が多いことで
用を為さないことで、

藪蛇な部分で御座います。

【追記・了】

一方で、

本や論文に
原寸大の2倍のサイズで
掲載出来ることから、

それ程大きいものではない、

―サイト制作者の
感覚としては、
大きく見積もっても
幅10cm以下か、

ということが
言えそうなもので。

そして、
援がこれ位の大きさ
しかなければ、

人様の首を
横から引っ掛けて
切り落とすのは
難しいと思います。

そうなると、
『戦争の中国古代史』
にある通り、

この殷代のものと
思しき戈は、当時は、

相手の盾に打ち込んで
引き寄せるための武器
考える方が
自然なのでしょう。

2、出土品の柄の形

さて、「句兵」が、

相手の首にせよ、
盾にせよ、

引っ掛けて引き寄せる、
となると、
重宝するのが柄の形。

『周礼』原文に曰く、
「句兵は椑」。

図解の形の戈の
注目すべきな点は、

まさにこれです。

つまり、この戈は、

戈頭の柄との接続部分が
柄の周囲を
楕円形に取り巻くタイプ。

こういう形状につき、
柄の断面形が
分かった訳です。

言い換えれば、

それ以降のように
戈頭・戟体の
側面に穴があり、

柄とその穴を
紐で連結する
タイプではありません。

余談ながら、

サイト制作者は、最近、
と、いいますか、今頃、

仕事で使う鋸の柄の
断面図の形が
楕円形であったことに
気付きまして。

確かに、曳く分には、

円形に比べて
指や手の形が
柄に馴染むことで
力が入り易いと
感じました。

そういえば、
日本刀も包丁もそうですね。

仮に、鎧同様、こういうのも
渡来系だとすれば、

古の技術が
今日の日常生活に
溶け込んでいる実例か。

3、西周時代の戟体の一例

続いて、
西周時代の戟体について。

図解を再掲します。
右側のものを御覧下さい。

楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、等(敬称略・順不同)より作成。

これは、

『中国古兵器論叢』にあった
西周時代の戟体の
の中で、

特に多かった
タイプのひとつ
模写したものです。

描き方について、
一応、触れます。

さて、まず、
元の図中で
中心となる点を
適当に定め、

重要な部分を、
(例えば、
援や戟刺の頂点等)

先に定めた中心点から、
縦何cm、横何cm、と、
座標を割り出し、
(二次元だから
コレで何とかなってますが)

それを線で結びます。

こういう方法につき、
元の図に対して
それ程大きな誤差はないと
考えています。

さて、過去の記事でも、

この時代の戟体は
援と戟刺が一体であった、と、
何度も書きましたが、

こういうのは
百聞は一見に如かず、で、

その機会を窺っていた次第。

で、楊泓先生曰く、

この形状では、

相手の首を
引っ掛けることと、
戟刺で突くことの、

ふたつの動作を
こなすには脆かったそうな。

果たして、

次の春秋時代には、
援・内と戟刺が「分鋳」、
つまり、分離した、

という次第。

例えば、

春秋時代や
戦国末期の『キングダム』、
そしてそのン百年後の
『三国志』の数々の戦いで
使われた戈戟も、

援の角度等の詳細は
異なるものの、

そうした
援・内と戟刺が
別の鋳物という形状です。

おわりに

今回も、残念ながら、
箇条書きでまとめるに
値するような
結論はありません。

強いて言えば、

柄の形が楕円形の戈、
援・戟刺・内が一体の
戟体、

これらの実例の模写を
見て頂いた、

という程度の御話です。

この流れで、
恐らくは、

次回も、
戈戟の図解の手直しを
行うかと思います。

一昔前の
テレビ番組の予告であれば、
乞う御期待、
といった台詞が入る
ところですが、

自身のヘマの
後始末が続くことで、

読者の皆様には
申し訳ない限りです。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』(国学導航)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
佐藤信弥『戦争の中国古代史』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版

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近況報告:『周礼』「考工記」の説く殳の図解の改訂

【追記】21年12月9日

こういう記事
書いといて何ですが、

再度の改訂です。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

記事本文の図解との
変更点は、
以下の2点。

1、柄の太さが上下で同じ。

2、中段右の図解の説明等を
内容に合わせて変更。

度々恐縮です。

【追記・了】

はじめに

今回から何回かは、
先の記事の訂正
行います。

中々、次の話に
移ることが出来ない
もどかしさを
感じる次第ですが、

足場を固めずに
それをやるのも
コワいことで、
まずは、誤読の後始末を
行います。

その手始めとして、
殳の図解を描き直します。

もっとも、
それ以外では
無駄な話の多い回につき、

予め断っておきます。

1、重要部分を覆う「囲」

早速ですが、
殳の図解の改訂したもの
見てみましょう。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

80年代の現代語訳
参考にする分には、

ほぼほぼ『周礼注疏』に
準拠しているように
見受けますので、

サイト制作者も
これを受けて
描き直しました。

ここまで時代が下ると、
相当数の出土品との比較が
出来ているためです。

サイト制作者も
始めから
そうすれば良かったと
後悔していますが、

その辺りの
やっちゃった過程の話は
後述します。

さて、先の回の誤読の
一番大きな誤りである
「囲」の解釈ですが、

囲とは、要は、
武器の主要な部位―
先端・取っ手・末端の石突、

この3つを
何等かのかたちで
コーティングしたものです。

で、先端の部位は、
殳は「首囲」、矛は「刺囲」、
と、なります。

取っ手は、
そのままの「囲」

さらに、末端の石突
「晋囲」

図解にある
「細いタイプ」というのは、

長沙市の瀏城橋より
出土した
戦国時代(前4世紀)の
戈の末端に
付いているものです。

現物の模写は、以下。

先の記事で掲載したものの
誤記を訂正しました。

林巳奈夫『中国古代の生活史』、楊泓『中国古兵器論叢』 (敬称略・順不同)等より作成。

晋囲に相当するとはいえ、

字義からすれば
「囲」ではなく、

さらには、

丈もかなり短く
全長の15分の1程度。

時代が下ると
このように
コンパクトに変遷する、
ということなのかも
しれません。

2、柄の硬さと断面のかたち

その他、

「撃兵同強」は、
『周礼注疏』によれば、

「同(とも)に強(はげ)む」
ではなく、

「素直に強きを同じくし、」
と、やるのが正しいか。

で、問題なのは、

何の「強」を同じくするか、
ですが、

これは、
柄の先端と末端の強度
の模様。

因みに、

先端と末端の強度が
異なるのは戈。

戈は柄の後方部分が硬く、

その理由として、

「向後牽之」
後ろに向かいこれを牽く、

と、しています。

因みに、

については、その逆、
即ち柄の前方部分が硬く、

その理由として、

「向前推之」
前に向かいこれを推す、

と、しており、

肝心の「考工記」にある、

「刺兵同強」
刺兵強きを同じくす、

と、矛盾しています。

で、この『周礼注疏』は、

この辺りの理屈については
『釈明』を典拠と
しているので、

『釈明』の中で
関係ありそうな
「釈兵」は元より、
「釈用器」、
船、車、楽器、と、
当たりましたが、

それらしいものは
ありませんで、

何を「釈曰」だか
分からず
困ったもの。

その他、殳の―取っ手は
細いのが望ましく、
断面の形は円形。

細い方が
早く振れるのが
その理由。

もっとも、

断面の形が円形、
というのは、

「考工記」には
直接書かれてはおらず、

『周礼注疏』のみの言及
なっています。

断面の形や
囲の太さ等については、

矛や戈の図解を
描き直した折にでも、
再度触れようと思います。

3、首囲の規格と実物

「首囲」そのものについて。

これについては
肝心の出土品の大きさが
分からないので
大きな話は
出来ないのですが、

「考工記」の説く長さを
再計算し、

それと
春秋時代の出土品の一例
比べる限り、

前者は、23cm余、
後者は、一例のみながら
半分以下の9cm余と、

かなりのズレ
あるように思います。

参考までに、

以前の記事で触れましたが、

西周時代の戟体の
出土品の中には、

形状は「考工記」の定める
規格そのもので、

細かい部位も
差異が1cmを切るものが
ありました。

【雑談】殳の首囲の重さの話

参考までに、

以下は、まあ、
妄想めいた雑談につき、
適当に読み飛ばされたく。

さて、「考工記」の定める
殳の首囲の重さと
件の実例の差異
大体どれ位かについて、

後者の実物の
断面図の面積をベースに、
計算してみようと思います。

かなり乱暴な計算ですが、
以下。

銅の比重
1cm3(立法cm)当たり
8.96gですが、
概数で9gとします。

次に、件の出土品の体積を、

半径5cm・円周率3.14、
高さ9cmの円柱として
計算します。

5×5×3.14×9÷3
=235.5cm3

この体積に比重を掛けると、
2119.5g、
2.1kg程度。

次に、「考工記」の
それですが、

同じ面積に対して
高さを概数で
23cmとします。

≒601.8cm3

で、同じく比重9gで
銅の重さに換算すると、

5416.2g。
5.4kg程度。

厳密には、

実物は短半径が5cmの
かなり緩い楕円につき、
もう少し重いかと
思いますが。

(写真の角度の関係で
長半径が分かりませんで)

感覚的に
重さが実感しづらい、
という方は、

スーパーで売っている
米袋を御想像下さい。

2000円程度で
一番売れてるものが
5kgのもの。

それより少々小振りで
1000円程度のものが
2kgのもの。

要は、この違いです。
結構な差だと思います。

で、少なくとも
戦国時代になると、

末端の兵卒も
殳を手にするように
なりますが、

「考工記」の規格よりは
軽めのものではないかと
想像します。

つまるところ、

ああしたものが、大体、

「考工記」や実物の
首囲の重さである、

ということになります。

【追記】

今頃気が付いたのですが、

こういう場合、

重さが
足枷になるとすれば、

極端なことを言えば、

長さが倍=重量が倍、
というよりも、

重量を変えずに、
断面の面積を抑えた
細長い形状になる、

と、考える方が、
合理的ですね。

その意味では、
西周時代の殳の形状が
非常に気になるもので。

【追記・了】

因みに、

サイト制作者は
底辺のブルーワーカーで、

仕事柄、たまに、
銅の5kgのインゴットを
触るのですが、

現物の大きさは
「考工記」の規格より
もう少し細長いです。

投機は横行するわ
ドロボーさんは
方々に出没するわで、

kg単位の単価が
1000円を超えて
会社や現場は泣いてまして、

インゴットどころか
諸々の廃材から
手作業で搔き集める仕事も
増えました。

金属だけは払い下げない
秦漢の役人の気持ちが
少し理解出来た
ような・・・。

そういう
生臭い話はともかく、

ただ持ち上げるのであれば
ともかく、

崩れたものを
いくつも積み上げるとなると
結構な重労働。

あ、フォークで崩すのは
ワタシではないのですが、
んなことは
どうでも良いかしらん。

それはさておき、

まして、
2メートルの柄に挿して
振り回すともなれば、

余程足腰を鍛えて
『左伝』宜しく
肉を食べる生活でも
していなければ、

振り回すどころか、
逆に、体の方が
もっていかれると思います。

ああ、現代は肉ではなく、
プロテインか何かか。

で、薬局で
調達しようとして、

あるだけ下さいと言ったら、
店主がカードが使えないと
ノタマうので、
「ジャ、イ~デ」(以下省略)

4、誤読の経緯とその対策

(サイト制作者もそうですが)
特に、初心者の方々には
何かの御参考にでもなればと
思いまして、

誤読の原因についても
触れます。

一番の原因は
注釈の内容を
疑ったことですが、

この理由は、
「考工記」の
冶氏為殺矢の注の内容が
どうも腑に落ちなかった
ことで、

実は、これは今も
変わっていません。

ですが、
今にして思えば、

サイト制作者よりも
西周や春秋時代に
遥かに感覚が近い識者が、

戈頭の規格のような
細かい話はともかく、

武器の部位自体の解釈を
間違えるような
ヘマをすると思う方が
オカシイなあ、と。

謂わば、
素人が無手勝流で転ぶ
悪い見本か。

で、このリカバーに
大いに役に立ったのが、

実は、行動力のある
読者の方の
ファインプレー。

ベースは中文の訳と
思しき洋書を
御勧め頂いたことで、

残念ながら、

この御本には
経済的な理由で
―オカネがないので
手が出ないせよ、

本国の先生の現代語訳で
大体を意味を確認すれば、

分かりにくい言葉の意味に
当たりを付けることが出来、

差し当たって、

初歩的なミスを防ぐ確率は
上げられるのでは
なかろうか、

―ということを
思い付きました。

そこで、

近所の図書館の中では
この種の蔵書が豊富な
最寄の国立大学さんの
付属図書館のサイト
蔵書検索を掛け、

(コロナの入場制限緩和と
入れ替わりで
付属図書館の繁忙期が来る
という不運!)

それっぽい安値のものを
古書で購入するに
至りました。

S様の努力に対して、
改めて御礼申し上げます。

その結果、

1980年代の段階、

つまり、出土品の調査や
当時に至るまでの
各種注釈の精査を
踏まえたうえで、

「考工記」の現代語訳が、

どうも、

原文以外では
『周礼注疏』の内容に
かなり準拠している
模様である、

と、いうことが
分かった次第です。

おわりに

なお、今回の記事については、

図解の多少の補足と無駄話が
中心となってしまったことで、

結論の整理は行いません。

悪しからず。

【主要参考文献】

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』(国学導航)
聞人軍『考工記訳注』
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』
(各巻)
楊泓『中国古兵器論叢』
稲畑耕一郎監修
『図説中国文明史 3』
伯仲編著
『図説 中国の伝統武器』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版

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『周礼』考工記の説く、武器の使い方と囲

【追記】21年10月21日

大変な誤読に気付きましたので、
その旨御知らせします。
まずは、申し訳ありません。

で、誤読の部分ですが、
「囲」というのは、

柄の中の手に持つ部分、
上端の金属部分、
末端の石突―「鐏」の部分です。

特徴となる部分を
何かしらで
コーティングすることで、
文字通り、「囲」か。

昨日の更新では
手に持つ部分、と書き、

恥ずかしながら、

これも誤りにつき、
訂正します。

実は、『周礼注疏』にも、

原文の舌足らずな部分を
補うかたちで
そのように
書いてあるのですが、

「晋」と「刺」で
理解が前のめりになり、
敢えて武器の先端と取り、

これが祟った次第。

後日、図解を描き直して
訂正記事を書く予定です。

恐らくは、
こういうのが
素人の独学のコワさで、

むこうの古典を読む際、
内容が分かりにくいと
感じた場合には、

中国語の現代語の訳文にも
目を通した方が良いことを
痛感した次第。

中文の文献の入手が
難しい場合でも、

訳本の転写と思しき
古典の訳文のサイトが
結構ありまして、

例えば、「百度検索」で
「周礼」や「司馬法」等で
検索を掛けると、

原文と訳文の揃ったものが
出て来ます。

で、こういうものを
見る際、

例え、
中国語が分からなくても、

いくつかの漢字を
見るだけでも、

中国人の常識と
サイト制作者のような
素人の危うい読解の
認識の隔たりを
或る程度は埋めることが
出来るかと思います。

で、今回のような
(他の箇所でもやってる気が
しないでもありませんが)
サイトを辞めたくなるレベルの
誤読を防ぐ確率が
高くなる、と。

聞人軍『考工記訳注』

【追記・了】

はじめに

今回は、

『周礼』考工記
「廬人為盧器」における

戈戟・矛の使い方と、
矛・殳の囲
―先端の金属の部分と
柄との接合する部分、
の御話。

今回をもって、

「廬人為盧器」の内容を
漸く、一通り、
整理出来たことになります。

もっとも、

大意を正確に
取れているかどうかは
全くもって別にして。

加えて、

短い文章にもかかわらず、
何とも時間と労力を
要したこと!

自分で自分を誉め、
られる筈もなく。

1、当該部分を書き下す

それでは、まずは、
当該の箇所を、
原文で確認します。

なお、書き下しや
字義の解釈は、
サイト制作者の愚見
基づきます。

あくまで御参考まで。

凡兵、句兵欲無彈、
刺兵欲無蜎
是故句兵椑、刺兵摶
撃兵同強、舉圍欲細、
細則校
刺兵同強、舉圍欲重、
傅人則密、
是故侵之

句兵:戈・戟
彈(弾):弾を発射する、
琴を奏でる、
悼(ふる)う=振る・回す、
と同じ。(鄭玄注)
刺兵:矛
蜎:くねくねと曲がる
さっと飛ぶ
椑:柿の一種。
ここでは、動詞で、
柿の木から
実を枝から捥(も)ぐ、
といった意味か。
その他、平たく円形の杯、
斧の柄(鄭玄注)
摶:集中する
撃兵:殳
強:励む、強い、
ここでは、「硬い」か。
【追記】注釈によれば
「同強、上下同也」。
『考工記訳注』も
これに準拠してか、
「各部分要同様堅勁剛強」
とあり、
柄の先端から末端まで
同じ硬さ、つまり、
「同じく強くして」と、
書き下した方が自然か。
【追記・了】
舉:ふたり、あるいは両手で
持ち上げる
圍:柄の手の持つ部分
上端の金属の部分、
末端の石突。
校:素早い、
「校、疾也」(鄭玄注、
『春秋左氏伝』昭公元年に
用例有)
傅:迫る
密:安定する

凡そ兵は、
句兵は彈(ひ)くなきを欲し、
刺兵は蜎なきを欲す。
これ故句兵は椑(へい)、
刺兵は摶(もっぱ)らにす。
撃兵は同(とも)に強(はげ)むに、
圍を舉(あ)げるに細きを欲し、
細は則(すなわ)ち校。
刺兵は同に強むに、
同じく強くして
圍を舉げるに重を欲し、
人に傅すに則ち密にして、
是故これを侵す。

で、この文章の前半部分
図解したものが、以下。

なお、この解釈には
実は相当問題があるのですが、
それは後述します。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版等(敬称略・順不同)より作成。

2、戈戟・矛の使い方

次いで、
大体の意味について
触れます。

句兵―戈や戟は
振り回さない、

刺兵―矛は
くねくねさせないのが
望ましい、

というのが、
戈戟や矛の各々の使い方。

因みに、
「彈」は、鄭玄曰く「悼」。

オー〇ニサンみたく、
アッパー・スイングで
本塁打を量産するための
得物にあらず、と。

二ホン人で
メジャーの投手から
逆方向の柵越えを
打つのですから、
まあ、大したもので。

それはさておき、

矛をくねくねさせない、
というのは、

サイト制作者の解釈ですが、

柄をしなわせないことだと
思います。

サイト制作者が
未だに理解しかねるのが、

次の「句兵は椑」の部分。

「椑」柿の一種、
楕円、棺桶や丸く平たい容器、
その他、斉の方言で斧の柄、
といった意味があります。

で、ここでは、

当該部分についての
「椑」の主流と思われる解釈は
楕円。

『周礼注疏』によれば、
原文は以下。

云椑、隋圜者、
謂側方而去楞是也

隋:こわす
圜(円):円形の様
側:偏った様
方:四角
楞:角

椑を云うに、
圜(えん)を隋(こぼ)つは、
側方をいい去是也
楞(りょう)を去る
これなり。

確かに、

「椑」を楕円、
「摶」を丸いと解釈すれば、

句兵は椑、刺兵は摶

戈や戟は楕円で、
矛は円である、

という具合に、
ひとつの対比としては
意味は通じます。

しかしながら、
その前の「これ故」との
関連性を考えると、

振り回さないので楕円、
くねくねさせないので円、

という話になり、

サイト制作者としては、
意味が分かりません。

先述の『周礼注疏』も、
字義に言及するに
止まります。

2、キワモノ解釈、
「椑」は動詞?!

そこで、
「椑」の他の意味の
可能性等、
色々考えた挙句、

「椑」を馬鹿正直に柿とし、
この線で調べ事を進めました。

―と、言いますのは、

勘めいた話で恐縮ですが、

以前、この『周礼』考工記の
「冶氏為殺矢」を
捻った解釈をせずに
素直に読んだところ、

西周時代の出土品の
戟の中に、

その規格に
ほぼ準拠したものが
あったことが
理由のひとつです。

以下、「椑」を
キワモノ解釈とする
怪しげな考察
あらましで御座います。

さて、その
「椑」なる柿ですが、

残念ながら、
手に取って食べたことは
ないのですが、

百度検索さん
検索を掛けると
画像が数多く出て来ます。

余談ながら、

朱元璋が若い時分に
飢えを凌ぐために
これを摘み喰い
したのだそうな。

写真を見る限りは、
日本のものよりも
少し小振りだと思います。

で、その柿の仲間と
戈との関係ですが、

日本の農家さんの
柿の収穫の風景について
画像検索を掛けたところ、

竹や木の棒の先端に
三角の切り込みを入れ、

これで枝ごとへし折って
鈴なりになった実を
収穫する、

―というものが
ありました。

これを見て、

「椑」は恐らく動詞で、
―椑を採る、
もう少し言えば、

(戈のように)
得物で引っ掛けて
枝を折る、

だと思った次第。

ただ、これも、

文法に則った訳
というよりは、

ニュアンスと言った方が、

サイト制作者の感覚に
近いです。

しかしながら、

確かに、
学術的な話としては
乱暴な話ですが、

「摶」を
「摶(もっぱ)らにす」
―集中する、と、
読むことで、

「椑」と「摶」の対比は
楕円と円に比べて
弱くなるものの、

大体、以下のような訳で
意味が通じるかと
思います。

戈は振り回さず
矛は切っ先を
くねくねさせないのが
望ましい。

したがって、

戈や戟は引っ掛け、
矛は切っ先を
一点集中させる。

もっとも、

サイト制作者としても、
楕円と円の意味が分かれば、

『周礼注疏』の解釈に
乗り換えたい位に
迷ってはいますが。

その意味では、
教養として知っておく分には
『周礼注疏』の
解釈の方が無難で、

願わくば、

モノの考え方のひとつ、
程度で御願い出来れば
幸いです。

3、やっつけか極意か?!
戈の変則用例

さて、流れをぶっ壊すようで
恐縮ですが、

ここに、
もっともらしく
「〇兵」と説明があるものの、

実際の殺し合いの場面なんぞ
武器の用例については
結構いい加減なところ
あります。

春秋時代の終わり頃、
定公四(前506)年
の話ですが、

呉の伍子胥の用兵の前に
楚が大敗を喫し、

事もあろうに
首都の郢
(えい:後の江陵)まで
取られました。

その折、楚の昭王が
逃避行の最中に
盗賊に寝込みを
襲われまして、
さあ大変!

王の命運や如何に。

以下、
『春秋左氏伝』の原文で。

王寝、盗攻之、
以戈撃王
王孫由于以背受之、
中肩

盗:盗賊・群盗
撃:叩く・突き刺す
中:当たる

王は寝、盗之を攻める
戈をもって王を撃つ
王孫由、
背をもって之を受け、
肩に中(あた)る

盗賊の戈による一撃を
孫の由が
王の身代わりになって
肩で受けた、

―という御話。

因みに、
この由という御仁、

後日、城郭改修の不備を
咎められた折、

逆ギレして、

出来ぬことを無理やり
押し付けるからだ。
こういうことは出来るが
デスク・ワークは無理だ、

と、例の桜吹雪の入れ墨、
(若い方には通じませんか)
ではなく、
肩の傷を見せ付ける、

という豪傑肌の人。

こぼれ話はともかく、

定石通り、
首に引っ掛けて
スマートに斬るのではなく、

力任せに
打ち掛かっている訳です。

こうなると、

戈は「句兵」なんだか
「撃兵」なんだか
判然としません。

因みに、『左伝』には、

他にも、
戈で人を殴る描写が
ひとつならずありまして。

余談ながら、

幕末の斬り合いでは
日本刀で突くのが
実戦的であったそうで、

どうも、
それと似たような話に
思えます。

【雑談】戈の形状の変遷に事寄せて

さて、ここで、

西周時代の前後の
武器の変遷という観点から
粗い見立てを行うと、以下。

佐藤信弥先生
『戦争の中国古代史』
によれば、

故・林巳奈夫先生の
学説の引用として、

殷代中期には、
戈で敵兵の盾を付いて
自分の側に引き倒す、
という使い方であったのが、

後期には、
甲冑の発達とその対策で
(戈や戟の直角部分に付いた
湾曲した刃)が付く、

という大きな変化が
あったそうな。

実際、殷代の戟の出土品には、
胡のない短戟もあります。

したがって、
『周礼』が西周時代の書き物と
仮定すれば、

当時は、
戟や戈の形状や使い方が
大きな変遷の最中に
あったことになります。

それを受けて、
あるいは、

当面は使用に足る
マニュアルめいたものが
必要とされた状況
あったのかもしれません。

穿った見方をすれば、

政治の話はともかく、

当座の武器の規格までもが
儒教の理想国家の礼という形で
後世に残ってしまったことで、

当世一流の賢者は元より、

サイト制作者のような
箸にも棒にもかからない
愚者も巻き込んだ、

何とも息の長い
謎解きや伝言ゲームに
発展したような気が
しないでもなく。

で、どうも、コレ、
書いた方は、存外、
泉下で笑ってやせんか、

―と、感じる薄気味悪さ。

因みに、戈頭・戟体の
形状の変遷が
一旦落ち着くのは、

春秋時代に入ってからの
ことです。

西周時代も西周時代で、

戟刺・戟体が一体の
が作られたものの、

これも楊泓先生によれば
作りが脆いことで
刺突・斬撃の双方を
こなすことが出来ない、

という具合に
大きな試行錯誤が続き、

次の時代には
分鋳されることとなりました。

【雑談・了】

4、殳の囲の性質

さて次は、
囲、つまり、

得物の先端の
金属の部分と
柄との接続部分、

―の御話です。

ここで、一応、
殳という武器の概念
大雑把に確認します。

以下に、
以前の記事で掲載した図解
再掲します。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

次いで、

冒頭にあげた
書き下し文の当該箇所を
再度見てみます。

撃兵は同(とも)に強(はげ)むに、
圍を舉(あ)げるに細きを欲し、
細は則(すなわ)ち校。
刺兵は同に強むに、
圍を舉げるに重を欲し、
人に傅すに則ち密にして、
これ故これを侵す。

まずは、言い回しですが、

「同に強み」というのは、
恐らくその後の部分に
係ります。

つまり、ここでは、

撃兵(殳)も刺兵(矛)も
囲については
かくかくしかじか、

と、いうような意味かと
思います。

これを踏まえた上で、
以下のような意味に
なろうかと。

得物を両手で
持ち上げる際、

殳は細いのが
望ましく、
機敏に動けることを意味する。

矛は敵を刺す際に
重い方が安定するので
望ましい。

因みに、『周礼注疏』
当該部分を見ると、

校読為絞而婉之絞
校を読むに
絞にして婉の絞となす

玄謂校、疾也
玄(鄭玄)謂うに校、疾なり

―と、ありまして、

前者の「絞而婉」は、
『春秋左氏伝』の引用箇所。

果たして、

この注釈に従って
同書の
昭公元(前541)年の件
確認すると、

叔孫絞而婉
叔孫、絞にして婉

という文言があります。

何の話かと言えば、以下。

この年、
当時鄭の領地であった
(河南省三門峡市)にて
諸国の要人
会合を行いまして、

その折、行人
(外交官、
ここではホスト国の接待役)
子羽(公孫揮)
子皮(罕虎)に対して、
言った言葉です。

小倉芳彦先生の訳も
活用させて頂くと、

魯の叔孫豹の外交辞令が
このブログと真逆で
手短に要点を纏め、
かつ婉曲である、と、
誉めて見せた、

と、いったところかと、
思います。

座右の字引きによれば、
「絞」は、

悪く言えば、
切羽詰まって余裕がない、
といった意味もあります。

余談ながら、
子皮という人は、

その後の子産と並ぶ
鄭の大黒柱的政治家。

武器の話に戻ります。

殳が軽快に振り回せるのが
望ましい、
というのは、

察するに、

元々が重く
取り回しが悪いことで、

少しでも軽快に動ける方が
分の悪さを軽減出来る、

という話なのでしょう。

残念ながら、

管見の限り、

戈頭・戟体や矛頭に比べて
殳の出土例が少ないことで、

金属の鈍器であり、
モノによっては
トゲが付いている、

という以外の
実物ベースの話は
出来ません。

とは言え、

以前の記事で
何度か引用した通り、

昭公二十二
(前521)年の
晋楚の代理戦争も兼ねた
宋の内戦の折、

華豹の車右の張匄(かい)が
公子城の戦車の横木を
殳でへし折った、

という用例があります。

因みに、春秋時代当時の
城攻めの戦法のひとつに、

複数名の兵士が
鈴なりに戦車に乗り込み、
突入して
城門前に乗り付ける、

というものがあります。

言い換えれば、

それ位荒々しい使い方に
耐えうるフレームを
殳で叩き割れる訳で、

それだけの
威力(≒硬度・重量)がある
ことが、

囲が細いのが
望ましいことの
前提にある、

ということになります。

5、重きを欲して軽くなる?!

次いで、矛の囲について。

圍を舉げるに重を欲し、
人に傅すに則ち密にして、

ですが、

「密」を、
字引きにある通り
安定する、と、解釈すれば、

矛頭が重い方が
刺さり易いので望ましい、

という話だと思います。

確かに、長さ≒重さ
仮定すれば、
当然の話なのかも
しれません。

事実、
以前の記事でも
触れた通り、

西周時代の矛頭の中には、

『周礼』冬官が
説く程ではないにせよ、

50cm余の長いもの
あります。

まずは、当該の記事で
掲載した図解を
再掲します。

周緯『中国兵器史稿』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説中国の伝統武器』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 3』、林巳奈夫『中国古代の生活史』(敬称略・順不同)等より作成。瀏城橋出土の矛を「戦国時代」に訂正。

しかしながら、

時代の変遷をたどれば、
別の側面
見え隠れします。

確かに、
どの時代の矛頭にも
長い短いはありますが、

中でも先述の西周時代の
50cm超えの矛頭は
管見の限り戦国時代以前は
他に例を見ません。

また、
全体的な傾向としては、

戦国時代までは、

時代が下るに連れて
短くなる傾向にあるように
見受けます。

先の矛頭の図解で言えば、

呉と燕の国君の矛頭の比較が
分かり易いかもしれません。

つまり、

『周礼』冬官の説く、

重いのが望ましい、という、
至極もっともな理屈が、

時代が下るにつれて
実利面から
乖離していった可能性
あると考えられます。

とは言え、
残念ながら、

サイト制作者は、

現段階では
この理由は分かりません。

大体の話としては、

歩兵の集団戦の普及や、

それに伴う
武器の持ち手の兵士の
体力的な制約等の
可能性を考えますが、

史料で確認した訳では
ありませんので、

個人的な感覚としては、

想像の域を出ないのが
正直なところ。

で、さらに興味深いことに、

漢代以降、

「圍を舉げるに重を欲し」への
回帰が始まった可能性
考えたいと思います。

以前の記事の図解を
再掲します。

過去の記事や図解を
読み返すのは、
正直なところ、
汚物に触るが如しで
かなり怖ろしいのですが、
それはともかく―。

学研『戦略戦術兵器事典 1』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

『戦略戦術兵器事典 1』
図解の模写です。

来村多加史先生の
担当箇所で、

残念ながら、

図解にある武器が
出土した地域は
分かりません。

とは言え、

詳細な長さが
書いてあることで、

この通りであれば、

については、

戦国時代まで続いた、

短く軽いことによる
取り回しの良さを追求する
戦い方から、

前漢以降の
鉄の普及によって、

重さにモノを言わせて
突くという戦い方へと
一転した、

ということが
言えるかと思います。

所謂『三国志』の戦いも、
このような背景を
持つものの、

鉄も鉄で
量の限られた資源につき、

消耗品の鏃を
銅で作っていたところを
見ると、

むしろ銅製の武器の方が
鉄製より多かったと
考える方が
自然かと思いますが、

その銅で鉄製の武器と
同じ形状のものを
製造する不思議。

この辺りの事情の解明は、
また後日。

話が膨らみ過ぎたことで
矛の囲の話を纏めますと、

囲が重い方が良い、
というのは、

どうも、
西周時代特有の事情
によるもので、

普遍的な概念とは
言えないのではないか、
と、考える次第。

おわりに

そろそろ、

例によって、
今回の記事の内容
以下に纏めることとします。

1、『周礼』冬官の
説くところによれば、

戈戟は振り回さず、
矛はくねくねさせないのが
望ましい。

2、ただし、春秋時代には、
戈を相手の体に打ち込む
用例も見られた。

3、『周礼』冬官は、
矛の囲は重い方が
安定して刺さるので
望ましい、と、説く。

4、しかしながら、
戦国時代までは、
時代が下るにしたがって、
矛の囲は短く≒軽くなる
傾向にあった。

5、3、の内容は、
西周時代特有の事情に
起因すると考えられる。

6、『周礼』冬官によれば、
殳の囲は、
機敏に動けることで
細い(=軽い、か?)方が
望ましい。

7、6、の前提条件として、
打撃による
相応の破壊力がある。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
『周礼注疏』(国学導航)
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』
(各巻)
杜預『春秋経伝集解』
周緯『中国兵器史稿』
楊泓『中国古兵器論叢』
稲畑耕一郎監修
『図説中国文明史 3』
伯仲編著
『図説 中国の伝統武器』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
佐藤信弥『戦争の中国古代史』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版

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