近況報告『周礼』冬官から見る武器の柄の管理

はじめに

今回も、御絵描きと妄想の回。
武器の柄についての御話です。

図解を描くのは元より、

具体的な
武器の管理その他についての
史料を探すのに
思いの他、
時間が掛かりまして、

まあ、思ったようには
巧くいかんものだと思います。

当初の目的である
「盧人為盧器」
書き下しに手が届くのは
いつのことかしらん。

1、柄の品質管理

早速ですが、
まずは図解を御覧下さい。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版等(敬称略・順不同)より作成。

例によって、

イメージの足しと言いますか、
御参考程度
御願い出来れば幸いです。

要は、現在で言えば、
器具の出荷前の品質管理や
配備後の点検の話かと
思います。

『周礼』冬官の原文によれば、
その具体的な目的は、

1、しない具合、
2、曲がり
3、強度

この3点の確認にあります。

その手順については、
『周礼注疏』や、
同書に引用のある『釈名』
参考にしました。

例えば、『周礼注疏』には、

柄の曲がりの矯正について、
以下の文言があります。

以柱両墻之間、輓而内之、
本末勝負可知也

墻:障壁、囲い、
輓:引っ張る
本末:根本とこずえ

柱をもって
両墻(しょう)の間とし、
輓(ひ)いてこれを内にし、
本末勝負を知るべきなり。

少々補足します。

残念ながら、
柱の立て方は
サイト制作者には
分かりません。

現在の材木の曲がりの
矯正方法も
少し検索しましたが、

その限りでは、

水を含ませる等、
当時とは方法が異なる模様。

不勉強で恐縮です。

また、最後の「本末勝負」は、

柄の上下のどちらが
曲がりが大きいか
確認せよ、

という話だと思います。

因みに、『周礼』の原文には、

この部分については、

図解にある文言の通り、
「諸墻を灸し」とあります。

少しややこしいのですが、

サイト制作者は、
原文の「墻」は障壁≒障害、
ここでは曲がりを意味し、

それを「灸す」=弊害を除く、
つまり、曲がりを矯正する、
と、取ります。

その他、生木から削り出す場合は、
小枝を落としたり
腐食部分を除いたりする作業も
含まれることでしょう。

人力で1本1本やると、
結構手間です、コレ。

さらに、時代が下れば、
生木どころか
他人様の墓の塚を失敬した、
と、話す御仁もいまして、

文言が彫られた部分も
バッサリ切除したのかしら。

それはともかく、

ここまでを整理すると、

『周礼』原文の「墻」は、
障壁や弊害、

『周礼注疏』の「墻」は、
2本の柱を、

それぞれ意味します。

次いで、

柄の強弱を試す際、

膝の上に載せる、
というのも、

『周礼注疏』にある文言を
図解したものです。

横而揺之、
謂横置於膝上、
以一手執一頭揺之、
以視其堅勁以否也

勁:直立して強い様
視:確認する

横にしてこれを揺らすは
横にして膝上に置くをいい、
もって一に手で執り
一に頭でこれを揺らし、
もってその堅勁と否とを
視るなり。

例によって
怪しい書き下しですが、
意味は通じると信じます。

膝の上に載せて手に取り、
次いで頭上で揺らして
曲がりや強度を試しなさい、

という御話。

因みに、最後の行の「以」は、
座右の字引きによれば、

用例のひとつに
「与」(と)と同じ、
というものがありました。

で、サイト制作者が
腹が立ったのは、

この注疏には、

これらの話について
「釈曰」とありながら、

原典の『釈名』には
その件がないと来まして。
(あるいは欠けているか)

同書の「釈兵」以外にも
それらしい部分を
色々探したのですが、

結局、見つけられず終い。

とはいえ、
この『周礼注疏』にある
柄の扱いについては、

サイト制作者としては、

今のところ、
間違いであると
否定する材料もないので、

こういうものかしら、と
図解に至った次第。

少なくとも、

注疏のかなりの部分が
書かれた後漢時代当時は
このやり方であった、

あるいは、
古法はこのようであった、で、
話が通じたのではないかと
思います。

その意味では、

少々夢のある話をすれば、

例えば、
張飛や程普が
振り回した矛なんか、

こういう検査を受けた可能性が
ありそうなもので。

さらに妄想を逞しくすれば、

測定に計器が不要な点や、

後漢時代に入っても
時の軍人や知識人が
『周礼』の他、
それまでの時代の兵法書を
相当意識している様子を見ると、

サイト制作者の
愚見としては、

こういう簡便な方法は
古来から変わっていないように
思いますが、

さすがに、
それを証明することは
出来ていませんので、
ここらで御容赦下さい。

2、春秋時代における
戦時の武器修理の光景

さて、柄の扱いの話について、
もう少し掘り下げて
考えてみようと思います。

とは言っても、
柄の扱いそのものの話は
中々見当たらないのですが、

その周辺領域と言いますか、

平時の武器の管理にまで
話を広げると、

例えば、春秋時代に限ってすら、
管理体制から
担当の官職等にまで及び、

ここで枝葉の話として扱うには
収拾が付かなくなることで、

後日、その概要を
整理するとして、

ここでは、
戦時の差し迫った折の用例
ひとつ挙げるに止めます。

時は春秋時代後半の
成公十六(前575)年6月、

晋楚の数々の決戦のひとつの
鄢陵(現・河南省許昌市)
の戦いの折の御話です。

御周知の通り、
自ら出撃した楚王の共王が
目に矢を受けるレベルの激戦。

さらには、
『春秋左氏伝』の
この戦いにおける件は、

戦闘の前の経緯も含めて、
弓合戦の名場面としての見所や
戦争の考証について
学ぶところの
非常に多い部分ですが、
(和訳様様で御座います。)

今回の引用は、
その中でも、残念ながら、

目下の戦闘が一段落した後で
戦力を整備するという、

地味な箇所です。

子反命軍吏察夷傷、
補卒乗、繕甲兵、展車馬、
雞鳴而食、
唯命是听
晋人患之
苗賁皇徇曰
蒐乗補卒、秣馬利兵、
修陣固列、蓐食申祷、
明日复戦
乃逸楚囚

子反:楚の公子側
察:調査する
夷傷:負傷者
卒乗:ここでは戦車兵か?
甲兵:鎧と武器
展:並べる(=陳・陣)
鶏鳴:夜明け
听:口を開けて笑う
苗賁皇:楚の王族で、晋に亡命。
徇:見回る
蒐乗:兵車を調べる
なお、「蒐」は集める、
調べる、検閲する等の意。
利:鋭くする
修:直す、繕う
蓐:豊かで飽き足りる
申:声を長く伸ばす
祷:祈りの言葉
复:また
囚:捕虜

子反軍吏をして
夷傷を察(み)せしめ、
卒乗を補い、甲兵を繕い、
車馬を並べ、
雞鳴にて食し、
ただここに听(わら)わしむ。
晋人これに患う。
苗賁皇徇(めぐ)りていわく、
蒐乗し卒を補い、
馬を秣(まぐさか)い、
兵を利(と)くし、
陣を修め列を固くし、
食を蓐くし
祷(いの)りを申(うた)い、
明日また戦わん。
すなわち楚囚を逸す。

まず、軍吏が死傷者を数え、
そのうえで、
戦車にしかるべき兵員を充当し、

さらには、鎧や武器を修理し、
馬に飼料を与え、
兵士には朝食を
しっかり取らせ、

締めの手順として、
今で言うところの
神事を行う、

ですが、最後の行だけは
情報戦の一幕で御座い、と、

ハーフタイムの
慌ただしい様子が
色々と記されていますが、

サイト制作者は、

何も決戦に限らず、

人数規模の大小を問わずに行う
戦闘終了時の
事務的な作業手順
見ています。

念の為、確認しましたが、

『春秋穀梁伝』や
『春秋公羊伝』の
成公十六年の記述には
詳しい話はありませんで、

こちらは
空振りに終わったと
言うべきか。

3、武器の修理の肝

因みに、武器の修理については、

上記の引用には
「甲兵を繕い」、
「兵を利(と)くし」、

と、ありますが、

『管子』「問第二十四」にも
以下のような件があります。

斉が臓器売買に手を出した、
という類の内容ではありません、
―何の話か。

疏蔵器弓弩之張、
衣夾鋏鉤弦之造、
戈戟之緊、
其厲何若

器:用具
ニュアンスとして、
用途が決まっていて
融通が効かないものの例え。
疏:軽視する、卑しむ
夾:合わせの着物
造:製作する
鋏鉤:ここでは剣と戈か?
なお、「鋏」は鋳物につかう
かなばさみ、
「鉤」は鍵の意
緊:ぴんと張った様
厲:磨いて鋭くする

器を蔵(おさ)むを疏むは
弓弩の張、
衣夾鋏鉤は弦の造、
戈戟の緊、
それを厲(と)ぐに
いかんせん。

サイト制作者の読み方が
間違っていなければ、

武器や軍服の
保管・製造・整備は、

弓の構造に例えて
三位一体である、
としています。

ここで注目したいのは、
「厲」という言葉。

先述の
成公十六年の引用における
「兵を利し」と同じく、

兵器の整備・修理の肝が
刃先を研ぐことにある、

ということが
言えるかと思います。

今回の御題で言えば、
柄の管理よりも優先される
ということかと思います。

なお、この
『管子』「問第二十四」は、

軍備や
もう少しテクニカルな
戦備を含めた
国力の指標となる項目の
チェック・リストといった
部分でして、

当時の社会構造を
垣間見ることの出来る
非常に興味深い部分です。

後日、軍備の部分だけでも
もう少し詳しく
触れたいと思います。

おわりに

そろそろ、
例によって
要点を纏めようと思います。

1、『周礼』冬官によれば、
武器の柄の点検の目的は、
しない具合、曲がり、強度の
確認にある。

2、後世の注によれば、
点検は五体で行うことが出来る。

3、武器の修理は
戦闘ごとに行う必要があり、
重点が置かれているのは
金属部分の損耗の修復である。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
『周礼』(維基文庫)
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻
杜預『春秋経伝集解』
(上海古籍出版社)各巻
鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)
『管子』(維基文庫)
楊泓『中国古兵器論叢』
陳寿・裴松之注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

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近況報告 『周礼』冬官の定める殳の規格

はじめに

今回は打撃系武器・殳(しゅ)
についての御話。
御絵描きと妄想の回です。

日を開けずに、
などと言いながら、

結局2週間以上掛かってしまい、
大変申し訳ありません。

一度ならずではありますが、
出来ない約束は
するものではないなあと
痛感する次第。

1、殳の形状

それでは、早速、
サイト制作者の愚見ながら、

殳がどういうものか
以下のアレな図解
確認します。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

この殳の図解は、
大体のイメージ程度で
御願いしたいのですが、

サイト制作者としては、

要は、その定義めいたもの
鈍器という程度のことしか
分かっていません。

例えば、頭の本体から伸びる
トゲについては、
戦国時代のものには
ありませんし、

先端の突起(「刺」)
についても、

付いているのは
何も殳だけではなく、
戈に付ければ戟になります。

さらに、矛なんか
刺そのもので、

中国の古兵器どころか、
時代が下れば小銃にも付く、
と来ます。

2、「殳」の後漢・魏晋時代の解釈

一方で、『周礼』冬官
「盧人為盧器」の箇所では、

戈戟を「句兵」、矛を「刺兵」、
そして「殳」を「打兵」
しています。

「打」という字が出たことで、
サイト制作者が応援している
龍の球団の打線が湿っており
悩ましい限りですが、
それはともかく、

字義めいたものについても
少し触れます。

字引き(『漢辞海』第4版
によれば、

「殳」の文字自体が
「殳旁」(ほこづくり)という
部首でして、

「手に武器を持つ」意で
打撃を加える動作
表すそうな。

その他、以下は
漢代の解釈になりますが、
『釈名』释兵第二十三より。
(天涯知識庫さんより)

殳矛、殳、殊也。
长丈二尺而無刃、
有所撞挃於车上、使殊離也。

殳矛(しゅぼう)は、
殳、殊なり。
長丈二尺にして刃なく、
有るところは
車上において
撞挃(とうちつ、か?)し、
殊離せしむなり。

殊:殺す
長:長さ
丈・尺:10尺=1丈
周尺:1尺=18cm余
後漢尺:1尺=23.75cm
魏晋尺:1尺=24.2cm
車:戦車(2~4頭立ての馬車)
撞:叩く、叩き切る
挃:突く

先述の字引きに
上記の和訳と思しき部分が
ありましたので、

どういう言葉を
使っているのかしらんと
原文を読んでみた次第。

まず、長さですが、

『周礼』冬官には、
先述のように
1尋(=8尺)4尺と
ありまして、

周尺換算で約216cm。

また、劉熙の時代の尺だと、
同じ12尺とはいえ
285~290cm余。

因みに、サイト制作者は、

この70cm程度の違い
武器の長さとしては大きい
思っています。

例えば、前回触れたように、
これだけ違えば、

『周礼』冬官で言えば、

殳が車戟に、
車戟が矛に、
それぞれ化ける程の違いでして、

言い換えれば、
運用に支障を来そうもので、

その辺りに
言及されていないこと自体、

この殳という武器が、

通説の通り、

後漢から魏晋の頃には、

既に過去の遺物
謎の兵器の類に
なっていたように思えて
なりません。

3、一応、『左伝』に存在する用例

続いて、その使い方ですが、

そもそも、名称が、
「殳矛」と、
ふたつの武器で一括り。

そのうえ、

刃がないものは、
(恐らく車戦用との対比で)
徒歩戦闘用、

あるものは
車戦用で突き、叩き、
振り放す、と、

先述のアレな図解同様、

鈍器にオプションが付く、
程度のイメージしか
見えて来ないように思います。

次に、殳の具体的な
用例めいたものを、
『春秋左氏伝』(以下『左伝』)から
垣間見ることとします。

まずは、原文で読んでみます。

庚與将出、
聞烏存執殳而立于道左、
惧、将止死。
苑羊牧之曰
君過之、烏存以力聞可矣、
何必以弑君成名
遂来奔。

庚與:莒の国君
烏存:莒の大夫
執:手に持つ、構える
牧之:莒の大夫(杜預注)
聞:伝え広まる
来奔:逃げて来る

庚與まさに出んとするに、
烏存殳を執り道左に立つを聞く。
まさに止めて
死(ころ)さんことを惧る。
苑羊牧之いわく、
君これを過ぎよ、
烏存力を以て
聞こえるべきなり。
何ぞ必ず君を
弑(しい)するを以って
名を成さん。
遂に来奔す。

まずは、時代背景は抜きにして、
状況だけを見てみると、

要は、殳を手にした人が、
他人を脅かして
怪力の評判を得るために
道で通せんぼした、

―という御話です。

殳については、
力のある者が使うと
有効な武器である、
ということかと推察します。

因みに、杜預の注も
『釈名』と同じです。

後、わざわざ原文で読んだ理由は、

殳の描写が『左伝』で
希少なことと、

「執」に
もう少し細かい挙動をあらわす
意味があるのでは、と、
期待してのことですが、

どうも空振りに終わった気が
しないでもなく。

因みに、戦争であれ、
要人襲撃であれ、

『左伝』の人を殺す描写
群を抜いて
よく使われる武器は、戈。

戦争の花形の車戦で
頻度の高いのは弓です。

さて、棍棒で人を脅かした、
という話だけで判断すれば、

何だか、

繁華街の路地裏で
恐喝でもやってる
コワい方々の話かなあと、
なるのかもしれませんが、

脅かす人が大夫、
脅かされる人が国君ともなれば、

政治の話としても
穏やかではありませんで。

【雑談】国のゴタゴタの一例

以降は、殳の話から
逸れますので、
雑談扱いとします。

時代考証というよりは、
『左伝』の和訳の
拙い感想文ですので、

前以て御知らせ致します。

では、先の国君追放の件、
どういう経緯でそうなったか、
と言えば、

『左伝』によれば以下。

時は、春秋時代後半の
昭公二十三(前519)年の
旧暦七月。
(こういうの、数字にすべきなのか
未だに判断が付きません。)

斉の首都・臨淄(りんし)から
南へ150キロ程のところに
莒(きょ)という小国があり、

当時は斉の属国でした。

で、ここの時の国君
庚與(こうよ)が
残忍な人でして、

剣を新調しては
人で試し斬りをやったので
国人の不興を買いました。

で、その結果、

庚與が
斉からの離反を画策したのが
引き金となり、

部下で大夫の烏存
国人を抱き込んで
庚與を追放したのだそうな。

先の引用
その時の出国の際の御話です。

つまり、烏存は、
国君の逃亡に託けて
一芝居打ち、

それを見越した苑羊牧之が、

あれはパフォーマンスで
国君を殺すリスクは取りません、
と、諭した、と。

一応、もう少し、
時代背景について触れます。

まず、国人とは、謂わば、

首都の邑(惣構えの城郭)で
軍事や政治の実務を行う
士大夫の中では
中(の下)下級の社会階層です。

近代軍で言えば、
大体、近衛師団の、大体、
少佐・尉官から下士官・上等兵辺りを
イメージされたく。

文官で言えば、
中央官庁のノンキャリ辺りに
相当するのかしらと思います。

で、この一件も
恐らくそうですが、

諸々の政策は元より、
政変を起こすにしても、

この層の支持が
事の成否を
大きく左右します。

その他、
国君の国外追放については、

諸々の先生方、例えば、
高木智見先生等
御指摘されていますが、

猛烈な勢いで
国が淘汰されていった
弱肉強食の時代の割には、

他国が他国を亡ぼすのを忌み、
(大抵の国は、
周王朝の分家でもあり)

国の内外を問わず、

身分の低い者が
国君を手に掛けるのを畏れたのも
この時代のひとつのリアリズム。

これには、
他国の社稷を亡ぼすと
祟られるという
宗教的な理由もあれば、

中原の諸国が、

周王朝の定めた
秩序や身分制度を守ることで、

小国が大国と棲み分けて
延命を図るための
方便としても
機能します。

例えば、鄭の子産なんか、
まさに、
時代の申し子のような人。

自国が風見鶏のような国の癖に、

周の礼法を盾に、
晋の横暴な要求に対して
逆捩じを喰わせる訳です。

で、そうした
固い身分制度の下で、

臣下が国君を殺せば
エラい悪評が付いて回る訳で、

往生際の悪い部類ともなると、

実際に手を下した癖に、

役人を脅迫して
(終いには〇して)
史書を改竄させようとした
人までいる始末。

そのような社会につき、

政変が起きた国では、

その、色々やらかした
「いらない」元・国君を
国外に締め出し、

飲み食いした後の請求書の如く
申し訳なさそうに
友好国に押し付ける訳です。

で、亡命先に
様子を見に行った臣下が、

中々態度が改まらない、
などとボヤくのが、
御決まりのパターン。

『左伝』の実は主役の
(狂言廻しと言いますか)魯も、
春秋時代の後半に、
これをやっています。

おわりに

最後に、
今回の取り留めない話を
纏めるとすれば、以下。

殳は出土品を見る限り
形状は大体、鈍器であり、

恐らく周尺で
1尋4尺=約216cm、

その他、運用の事例からして、
力のある人が持つ武器である、

という程度のことしか
分からず、恐縮です。

さらに、
漢や魏晋の時代に至っても、

時の識者が、恐らくは、

『周礼』の内容を
尺を当時のものに直さずに
そのまま転載していることで、

殳は、この時代には、
通説通り、過去の遺物にでも
なっていたのかしらと
想像する次第。

もっとも、
人を殴るための棒は
ありふれていたと思いますが。

【追記】

殳の用例として、
『左伝』から
もう一例挙げます。

先述の例と
ほとんど同じ時期の
昭公二十一年(前521)、

宋の内訌が拗れて
晋・斉・呉等が介入して
戦争をやる事態にまで
発展しまして。

で、その最終局面の
戦闘の場面です。

宋の公子城と華豹が
赭丘(しゃきゅう、
詳細は不明ながら
杜預によれば宋の地)にて
恒例の車上の弓合戦に及び、

射殺された華豹の
車右(副官)の張匃(かい)が
殳で公子城の戦車の
軫(横木)を折る、

という、
凄まじい一幕が
ありました。

以下、原文です。

張匃抽殳而下、
射之、折股
扶伏而撃之、折軫
又射之、死

張匃殳を抽(ぬ)き下りて、
これを射、股を折る。
扶(つ)き伏してこれを撃ち、
軫を折る。
またこれを射、死(ころ)す。

抽:取り出す
扶:杖をつく
何かにすがって
体を支え保つ、

張匃が下車して
公子城に
白兵戦を挑むも、
股に矢を受け、

それでも殳を杖に
腹ばいになりながら
公子城の車両に迫り
側面に一撃を加えた、
という御話。

以前の記事でも
何度か引用した箇所ですが、

読み返すと、
色々な意味で
含蓄のある部分だと思います。

因みに、
殳の長さについては、

腹ばいとはいえ
杖にする位につき、

少なくとも
身の丈程度は
あったのではないかと
想像します。

さて、こういう用途の
武器につき、

例えば、戈については、

国君から野盗まで、
身分を問わず
色々な人が使い、

巧い人ともなれば、

相手の五体に引っ掛けて
スマートに
切り落としていることで、

戈との対比を考えると、

やはり、
力任せに振り回す類の
武器なのかしら、

と、思った次第です。

【追記・了】

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻
杜預『春秋経伝集解』
(上海古籍出版社)各巻
楊泓『中国古兵器論叢』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
増淵龍夫「春秋時代の貴族と農民」
高木智見『孔子』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

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近況報告 『周礼』冬官の定める武器の長さ

はじめに

今回は、御絵描きと妄想
回で御座います。

目下、「盧人為盧器」の部分を
読んでまして。

因みに、「盧」は矛や戟の
要は、武器の性質の話です。

1、図解について

それでは、

描き上げて間もない
アレな図解で
御目を汚させて頂きます。

『周礼』(維基文庫)、楊泓『中国古兵器論叢』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、張末元編著『漢代服飾』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

後日、書き下し文を
出したいと思いますが、

これは、
その当該の文章の
一部の図解です。

また、文章の内容も、
それ程難解なものでは
ありません。

では、何故、
図解なんか描いたのか、
と言えば、

サイト制作者自身が、

当時の兵士の平均身長と
武器の長さの関係が
イメージし易かったからです。

で、あるいは、
読者の皆様の中にも、

原文の「何尋何尺」、
周尺のcm換算で、と、
やるよりも、
(それもやる予定ですが)

あるいは、こちらの方が
馴染み易い方がいらっしゃれば、
と、思った次第。

あくまで、サイト制作者の
経験則に過ぎませんが、

武器の話については、

例えば、『周礼』のような
マニュアルめいた書き物の内容と
出土品の写真との比較等の際、

字面の内容と
出土品の模写の双方を
描き起こすことで見えて来る部分が
少なからずありまして、

こういう馬鹿正直な作業で
時間を割くこととなりました。

それでも、こういう
ヘッタクソな絵につき
2週間に1枚は
描き上げたかったのですが、

要領の悪さで申し訳ありません。

2、結構ラリーな馬車行軍?!

以降は、サイト制作者の
想像と言いますか、
妄想の類の話です。

さて、武器の長さが
身長の3倍を超えると
効能に支障を来す、という、

むこうの武器関係では
有名な御話。

恥ずかしながら、
サイト制作者は、

原文を読むまでは
これが白兵戦の話だと
思っていました。

ところが、どうも、
原文の文脈からして、

行軍に支障を来す、
という御話に取れまして、

イラストの左側のような
ぶざけた構図にしました。

これについて、
以前の記事でも、

春秋時代以前の
未開拓の原野の多さや
交通インフラの悪さを
想像させる内容のもの、

例えば、原宗子先生
『環境から解く古代中国』や、
土口史記先生
「春秋時代の領域支配」等を
紹介しましたが、

『左伝』の和訳から、
それを彷彿とさせる
面白い部分を見付けまして、

折角ですので、
原文で読んでみようかと
思います。

頃は成公二(前589)年、

晋の中軍の将・
(ここでは総司令官)郤克が、

斉の頃公自らが率いる部隊を
破った後の停戦交渉の席で、

斉の使者を相手に
言い放った言葉です。

(中略)而使斉之封内尽東其苗

(中略)斉の封内をして
ことごとくその苗を東せしめよ

東(ひがしす):
東に向かって進む

また、杜預は、

使壠苗東西行
壠苗をして東西に行かせしむ。

壠:畦(あぜ)、畝

と、注釈を付けてまして、

小倉芳彦先生
「畝」という邦訳も
これに準拠してかしら。

要は、晋が斉に攻める時に
東向きに進路を取る訳で、

小倉先生によれば、

戦車(馬車)
トラクター宜しく
畝を突っ切るため
こうするのですと!

つまり、当時の
軍人の感覚として、

人が耕すような
開けた土地ですら、

戦車が通れるレベルの
幹線道路が
十分に用意されていたか
怪しい、

という解釈が出来ようかと
思います。

因みに、中略の部分は、

斉公の母親を人質に寄越せ、
という、

当時の士大夫の感覚からしても
正気の沙汰ではない要求です。

もっとも、郤克にしてみれば、

傲慢な態度を取った理由には、

以前、斉に使節として赴いた折、
この人に覗き見されて
笑われた過去があり、

その報復の機会を
窺っていた訳でして、

畝を東に向けろだの、
王様の御母堂を
人質に寄越せだのは、

さすがに、
履行されることは
ありませんで、

積もる恨みがそのまま吐露された、

謂わば、
暴言録の類と
相成ったと見受けます。

で、晋と斉の
激戦の描写も含めて、

こういう香ばしい話が
岩波の和訳の中巻の
ほとんど頭に
出て来ます。

―上巻で飽きが来たり、
本屋さんで
こういうのを立ち読みする
殊勝な読者に、

敢えて、
中巻を売り付けるための
編集側の秘策か。

その他、引用した原文の経緯も
分かり易いと来まして、
優良な和訳本の有難味を
強く感じている次第です。

さて、話が、
何だか訳の分からない方向に
飛びましたので、

武器と交通インフラについて
少し想像(妄想)しますと、

『周礼』にあるような
身長の3倍の話は、

上記の逸話のような感覚の
産物ではなかったか、と、
ふと思った次第です。

おわりに

今回は、取り留めない話につき、
要点の整理は御容赦下さい。

その他、大変恐縮ですが、

もう少々、
下手でも描いた方が良いと思う
図解がありまして、

むこう何回かは
御絵描きの回になると思いますが、

出来るだけ日を開けないよう
努力します。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻
杜預『春秋経伝集解』
(上海古籍出版社、簡体字!)各巻
楊泓『中国古兵器論叢』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

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『周礼』冬官考工記の定める武器の規格 02

はじめに

前回に引き続き、
『周礼』冬官に記された
武器の規格について記します。

1、戈頭・戟体の形式

治氏戈頭・戟体
形状についての
記載があります。

早速読んでみましょう。

戈廣二寸、
內倍之、胡三之、援四之。
已倨則不入、已句則不決。
長內則折前、短內則不疾、
是故倨句外博。
重三鋝。
戟廣寸有半寸、
內三之、胡四之、援五之。
倨句中矩、與剌重三鋝。

戈廣(広)二寸、
內これを倍にし、
胡これを三にし、援これを四にす。
已(この)倨(きょ)
則(すなわ)ち入らず、
この句(く)則ち決(わか)れず、
長き內(ない)は則ち前に折れ、
短き內は則ち疾(はや)からず、
是故倨句外に博し。
重三鋝(れつ)
戟廣寸有半寸、
內これを三にし、胡これを四にし、
援これを五にす。
倨句中矩し、
剌を與(与)え重三鋝。

廣:幅
内・胡・援:戈戟の部位。
図解参照。
三・四:3倍・4倍にする
倨:僅かに湾曲した様
入:ある物に突き入る、
外部から中に進み入る
句:かぎ、曲がる
「倨句」で物事の曲がり具合
疾:鋭い
博:大きい
重:重量
鋝:諸説あり。例えば、
故・関野雄先生によれば、
1鋝=100g前後。
故・林巳奈夫先生の
「戦国時代の重量単位」
『史林』51(2)(無料PDF有)
より。
【追記】
末尾の数表が
潰れているのが残念ですが、
内容が体系的な論文で、
度量衡に対する
考え方についても
参考になりました。
折に触れ、
詳細を見ていきたいと思います。
【追記・了】
寸:周尺で1.8cm余。
1.8cmで計算すると
分かり易い。
10寸=1尺。
有:端数
中:物事が途中である様
矩:四角形、直角
剌:戟刺。柄の先端に付ける
ソケット型で両刃の刃。

2、図解とその要点

この種の文章については、

文言の整理よりも
図解を見た方が早いかと
思いますので、

まずは、以下のアレな図を
御覧ください。

要は、上記の引用の
概要を図解したものですが、

あくまで、
サイト制作者個人の解釈につき、

参考程度の御話
御願い出来れば幸いです。

因みに、図の作成過程や注意点は
前回の記事で綴った通りです。

加えて、ここで注目すべきは、
これも先の記事で
少し触れましたが、

『周礼』冬官にある
戟体の規格
西周時代の出土品のひとつと
周尺で符号する点です。

図で言えば、
上記の引用にある数字と
縮図の大きさの誤差
ミリ単位というもの。

3、戈と戟の違いとその部位
3-1、戈と戟の違い

さて、戈と戟の違いは
あってなきが如しで、

具体的には、

定義から言えば、

には柄の先端戟刺が付き、
干頭と戟体の大きさが少々異なり、

さらに細かいところでは、

援の曲直
少々違う程度のものです。

それも、時代が下れば
形骸化する部分もある始末。

そのためか、
例えば、楊泓先生は、

『中国古兵器論叢』では
戈と戟を同じ章で
説明していらっしゃいます。

3-2、主要な部位である援・胡

それでは、
部位ごとの
定義めいたものの説明ですが、

主な部位として、
援・胡・内の3つ
あります。

因みに、「援」は、

戈や戟の部位
という意味以外には、

「(ひ)く」とも読み、
引く、引っ張る、
という意味もあります。

次いで、「胡」ですが、

「顎鬚(あごひげ)」
という意味もあります。

正直なところ、

当初、サイト制作者は、

胡の長さの定義が
下刃の付け根の
曲がった部分を含むのかが
分かりませんでした。

そこで、字義宜しく、
ヒゲが垂れ下がるという
意味合いと、

原文の比率に近い形状の
いくつかの出土品の
縮図を参考に、

図にあるような説を
採りました。

結果として
正解であったことで、

助かった心地です。

3-3、広(=幅)と柄の関係

さらに、
「広」=幅の定義ですが、

これについて、

実は、
サイト制作者としては、

当初、胡の幅の
柄と重複する部分を
含むのか否かが
分からず
困りまして、

これも原文にある
援・胡・内の比率に近い形状の
いくつかの出土品の縮図を
参考に、

柄からはみ出た部分、
という説を採りました。

その図解が、以下。
以前の記事にも
掲載したものです。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版等より作成。

ですが、
今回の
『周礼』冬官と
西周時代の出土品の縮図の
照合により、

胡の定義
間違いであることが
分かりまして、

要は、
柄と重複する部分も含めた
幅の長さ、

ということになります。

ここは、
サイト制作者の黒星。

3-4、援と反対側の刃・内

そして、「内」。

これは、援と反対側の
横の刃。

因みに、座右の字引き
(『漢辞海』第4版)では、
武器の部位そのものを
意味する言葉は
ありませんでしたが、

動詞では、
「〔人などを内部へ〕
引き入れる」
と、あります。

字義からして、

実戦では、

援のみならず、
内の刃でも
相手に打ち込むなり
引っ掛けるなり
するのかもしれません。

4、各部位の形状
4-1、戈戟を分ける援の曲直

部位ごとの長さや
定義めいたものに次いで、

形状の細かい説明について
触れます。

まず、戈頭の形状ですが、

先の引用では、
以下のようになります。

已(この)倨(きょ)
則(すなわ)ち入らず、
この句(く)則ち決(わか)れず、
長き內(ない)は則ち前に折れ、
短き內は則ち疾(はや)からず、
是故倨句外に博し。
重三鋝。

ここで、
前掲の図解
もう一度見ることとします。

まず、「この倨則ち入らず」
ですが、

実は、ここが、
サイト制作者にとっては
あまり自信がない部分ですが、

一応愚見を開陳します。

「倨」小さい曲がり。

「句」は、その対比で、
恐らく、大きい曲がり
意味することと思います。

さらに、「倨句」は熟語で、
曲がり具合を意味します。

ですが、ここでは、
文字通りの
曲がりの大小というよりは、

倨は援の切っ先の曲がり、
句は胡の曲がり、

と、理解した方が
分かり易いと思います。

詭弁に聞こえるかも
しれませんが、

実際、胡の曲がりの方が
援の先端の曲がりよりも
長さ(≒大きさ)が
あるので、

原文の解釈にも
準拠していると思います。

【追記】

そもそも、『周礼注疏』の
『釈名』の引用に、
以下の文言がありますね。

倨謂胡上、句謂胡下、
倨与句皆有外廣、

倨は胡上をいい、
句は胡下をいい、
倨と句は皆外廣に有り、

【追記・了】

そのように考えると、

援の切っ先が
俯角で収まることではないか、

つまり、「入らず」は、
水平線以下=
仰角(角度がマイナス)には
沈まない、と。

その根拠として、

春秋時代の戈頭の出土品
援の曲直について、

管見の限り、

例外なく水平か
角度がほとんどありませんで、

(困ったことに、
その前の西周時代の戈頭の
縮図や写真等が
座右には多くありません。)

後述の戟の「中矩す」との
対比だと見た次第です。

4-2、戟刺・戟体は実は一体?!

もっとも、

西周時代の戟には
援が水平なものもあります。

これが話を
ややこしくしているのですが、

その一方で、

そのタイプのものは、

先の図解のように
戟体と戟刺が
一体になっていまして、

サイト制作者にとっては、

これが『周礼』冬官の規格との
接点を考えるうえで
大きなヒントになりました。

そのヒントというのが、
「これ句則ち決(わか)れず」です。

因みに、「句」は、
曲がる、かぎ、
意味します。

ここでは、
湾曲するタイプの援、
と、いったところか。

さて、西周時代の
特有の状況として、

戟体も戟刺も一緒くたの
ひとつの鋳物だからこそ、

こういう表現になる訳で、

換言すれば、

「決」れるか否か、ここが、
戟と戈の違いでもあります。

因みに、楊泓先生は、

時代が下って
戟体と戟刺が分かれたものを
「分鋳」と称して
いらっしゃいまして、

形状の変遷を抜きには
見えて来ない
重要なポイントだと
思った次第です。

4-3、一通りではない内の形状

そして、部位の最後に、
「内」の説明です。

長き內は則ち前に折れ、
短き內は則ち疾からず、
是故倨句外に博し。

これですが、

まず、長い内が
下に曲がるタイプ
西周時代の出土品にあります。

むしろ、標準的な仕様は
後者と言えるかもしれません。

で、曲がるタイプの刃、
―つまり前者は、
自ずと外に広がるかたちになる、

―ということかと。

加えて、
「重三鋝」についても
少し触れます。

「重」は重さ、
「鋝(れつ)」はその単位。

故・林巳奈夫先生の説によれば、

故・関野雄先生の説として、
1鋝=100g前後で、

『周礼』の文言と
戦国時代の青銅剣の
重さを照合して
弾き出したとのこと。

【雑談】剣の重さと身分の話

ここで、以前、記事にした、

桃氏の剣の茎(なかご)と
剣の長さの関係が
身分を意味するという
御話ですが、

サイト制作者の忘備として
少しばかりおさらいします。

まず、以下が当該の文言です。

身長五其莖(茎)長、
重九鋝、
謂之上制、上士服之。

身長その莖(けい)長を
五にし、
重九鋝、
これをいうに上制とし、
上士これに服す。

上士の剣の全体の長さは
茎の長さの5倍で
重さ900g前後であり、
これが順守すべき規則である、

という訳です。

以下、中士の剣は
茎の4倍の長さで
700g前後。

下士のそれは
3倍で500g前後。

この長さになると、
片手で振り回せるものと
想像します。

因みに、
士は卿・大夫・士の士で
さらに上・中・下の
ランクがあり、

『周礼』夏官によれば、

外征では、上士が卒長として
100名の兵士を統率し、
中士が両司馬として
25名を、
下士が伍長以下で
5名を統率、
あるいはヒラの兵卒、
というヒエラルキーの
春秋時代以前の軍隊組織。

下士以下の御話は、
『周礼注疏』にて。

余談序に、
あまり調べてもないのに
滅多なことを書くものでは
ありませんが、

これについて、
サイト制作者の妄想をひとつ。

例えば、『史記』に、

戦国時代の終わり頃に
長い剣をぶら下げて
飄々とした生き方をする
食客がひとりならず
いまして。

時に、国の淘汰によって
失業した士大夫が大勢おり、

その一定数が
大国の世家等の食客として
雇われていた時代と言えば
それまでですが、

恐らく、そういう人々の
上澄みの部分であろう
荊軻や毛遂なんかは
外交儀礼に通じていまして、

使節、あるいは
その随行員として
むこうの王様と
首尾良く謁見出来た後、

後世に名を残すレベルの
大騒動を起こしたのは
御周知の通り。

【追記】

以下の話については、

馮煖(ふうかん)と毛遂の話が
どういう訳か、
サイト制作者の脳内で
同一人物になってました。

恥ずかしいので
消したいのですが、
自分への戒めとして
残しておきます。

書いていて何ですが、

このサイトは
こういうヘマ「も」多いので、
御注意下さい。

読者の皆様が、何かの折、
「ここは(ここも)怪しい!」
と、御思いになる部分があれば、

その直感は、まず、
当たっていると思います。

【追記・了】

で、その毛遂なんか、
居候の癖に、

寄生先で、
帯びている剣に向かって
主君にあてつけがましく
待遇が悪いとゴネる辺り、

この『周礼』冬官の件から、

長物を帯びること自体が
士大夫以上の教育を
受けたことの
証左や矜持ではなかったかと、
ふと、思った次第です。

この剣が目に入らんのか、
自分はひとかどの
頭脳労働が出来るぞ、と。

4-4、出土品と重さの相場

重さの話に戻ります。

さて、恥ずかしながら、
関野先生の研究に
目を通していないので、

孫引きの話を出すという
回りくどい書き方になりましが、

関野先生の御説は、

サイト制作者としては、
割合イイ線行っている
ように見受けます。

その根拠めいたものについて、

先述の『中国古兵器論叢』で、
少々確認します。

残念ながら、

西周時代の
戈頭・戟体について、

単体で
形状と重さ双方が
揃って明示されたものが
あまりないのですが、

小さく軽いもので
131g、
重くて断面が厚いもので
594g、
(双方共、河南省浚県出土)

さらに、楊泓先生曰く、
小さく軽いものは
盾と併用して使う
していまして、

つまり、長物の範疇ではない
ということになります。

このように出土品の軽重に
バラつきがある一方で、

図解と同じく
儀仗用と思しきもので
戟体(戟刺)の長さが
25.5cmで
重さが275g
というものもあり、
(甘粛省霊台県出土)

重い部類のものとの誤差が
少々気になりますが、

決して現実味のない数字
ではないように思います。

5、戟の規格

引用の残りの部分についても
触れます。

戟廣寸有半寸、
內これを三にし、
胡これを四にし、
援これを五にす。
倨句中矩し、
剌を與(与)え重三鋝。

戟廣(広)=幅、
その他の大きさについては、
図解の通りです。

「廣」を基準に、
援・胡・内について
一定の倍数を伸ばす訳です。

次に、「倨句中矩し」ですが、

「矩」は直角、
「中」は物事が途中である様。

余談ながら、

人サマが「中」であれば、
宦官を意味します。
「中人」―漢代の解釈です。

それはともかく、

曲がり具合が
90°を切るという御話。

主語が省かれているので
分かりにくいのですが、

先述の戈頭についての件の
「この倨則ち入らず、
この句則ち決れず。」
の部分が、

恐らく、
戟刺の有無も
含んでいることで、

戈頭との対比と見た次第。

で、こちらは、
「剌を與(与)え」る、
つまり、戟体の上部に
戟刺がある、と。

おわりに

最後に、例によって
今回の記事の要点を
整理します。

1、西周時代の戟には
戟体と戟刺が
一体になったものが存在する。

重さは標準で300g前後。

2、『周礼』冬官の戈戟の規格は
1、のタイプに即している。

3、サイト制作者の想像であるが、
戈と戟の援の違いは、
水平か曲がりがあるか、である。

4、西周時代の内には、
外側に張り出して曲がるタイプも
存在する。

5、戟刺の有無は、
1、の形状から判断する必要がある。

6、本文には多くは記していないが、
この件については
時代が下って形骸化した部分が
少なからずある。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
『周礼』(維基文庫)
『周礼注疏』(国学導航)
楊泓『中国古兵器論叢』
林巳奈夫「戦国時代の重量単位」
稲畑耕一郎監修
『図説 中国文明史』3
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
『戦略戦術兵器事典1』
(来村多加史担当箇所)
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

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近況報告 『周礼』冬官の定める戟体・戈頭の規格

今回は御絵描きと妄想話の回で
御座います。

最早、このサイトの宿痾
大変恐縮ですが、

記事のための
図解の作成に
手間と時間が掛かることで、

今のところ、

取り敢えず、
記事のための図解が出来次第、
その都度開陳することに
しています。

さて、『周礼』冬官の
武器に関する件について
読み進めてみよう、

―という目的で
調べ事を進める過程で、

(サイト制作者としては)
思わぬことに気付きまして。

で、それまで
書き進めていた記事を
大幅に書き換えるよりも、

まずは、その「発見」を
図解した方が
読者の皆様にとっては
面白いかと思った次第。

それでは、以下のアレな図を
御覧下さい。

あくまで
サイト制作者の(妄)説、
という扱いで
御願いしたいのですが、

これは、要は、

西周時代の出土品の形が
『周礼』冬官の定める
戟体の規格にほぼ準拠している、

ということを
意味するものです。

これに因みまして、

『周礼』各官の成立時期には
諸説あるのですが、

この戈頭・戟体の
規格については、

形状は元より
各部位の大きさが
周尺でほぼ符号することで、

今のところ、

サイト制作者としては
西周時代のものではないか
考えています。

次いで、図解作成の手順は以下。

楊泓先生の
『中国古兵器論叢』にある
10cm:3.1cmの縮図
要所要所で座標を取り、

それを一定の縮小率で
別氏に書き写し、
さらにそれらの座標を
直線と曲線で結ぶ、
というレトロな方法ですが、

座標が基準につき、
参考文献の縮図との
cm単位の大きなズレは
ないものと信じます。

さらに、補足として、
諸文献の出土品の
縮図や写真にある
破損個所や欠損部分は、

図の意図を優先して
形状を分かり易くするために
省略しました。
(裏目に出ていないことを
祈ります。)

2種類の戟の縮図
楊泓先生の『中国古兵器論叢』
に掲載されているものの模写で、

メインの戟体には、
全体的に浅い刃毀れ
あります。

春秋時代の戈の写真は
稲畑耕一郎先生の
『図説 中国文明史』3より。

援の先端が少し欠けています。

さて、当該の箇所の
書き下し文や諸々の説明は、

近いうちに
別の記事で行うこととして、

今回は、
それに気付いた過程について
少し触れます。

まず、恥ずかしながら、

サイト制作者の固定観念
戈や戟の形状を、

春秋時代以降の
割合整ったものが
スタンダードだと
思っておりました。

その結果、

件の『周礼』の規格で考えると、

春秋時代のものを基準に
援・内・胡といった
各部位の大きさだけ
見ていても、

先に開陳した図解の
ズングリしたものに
行きつく他はなく、
(当然、違和感は感じましたが)

―以下の図ですが、

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版等より作成。

果たして、符号する出土品なんぞ
ありませんで。

では、規格にある形状は
と言えば、

これも、
例えば、内が曲がる等、

サイト制作者基準の
よがった「標準」からすれば
どうも懸け離れており、

『周礼』冬官の定める規格の
真意を掴みかねておりました。

正直なところ、

直訳で御茶を濁そうかと
腹を括りもしました。

ですが、その前に、
今一度、

楊泓先生の
『中国古兵器論叢』の縮図
古いものから一通り見返して、

『周礼』冬官の定める規格と
符号するものがあるのかどうか
確認しようと思いまして、

この最後の賭けが、
恐らくは、当たってくれた、
という次第。

で、その結果、
結構な数の縮図の中でも、

一番奇怪な形のものが
一番イイ線行っているという、

推理小説の犯人捜しのような
イカレたオチでありました。

もっとも、この世紀のナゾナゾ、

むこうの識者
恐らく、大変な苦労
されているようで、

例えば、楊泓先生は、

戴震『考工記図』戈戟の
図解を引用して
「与古代的実物有較大的差异」
―出土品と大きく異なる、

としていまして、
(事実、
「コレジャナイ!」です。)

『周礼疏注』も、
鄭玄の説明だと思うのですが、

部位ではなく
突き方や傷の形の話
していまして、

それでも、サイト制作者も、
最初は、それっぽい、と、
思いました。

余談ながら、内容とは別に、

戈や戟を人に打ち込む際の
「以て人を啄(ついば)む」
というエグい表現が、
個人的にはツボっております。
―巧いこと言うなあ、と。

(因みに、この書物からは、
学ぶことが多かった半面、
この箇所以外にも、
ケムに巻かれている!
と、思しき部分が
少なからずあります。
漢代との時代感覚の断絶を
少なからず感じます。)

まあその、
どこかで見たクイズ番組宜しく、

(恐らくは)実物を見ずに
当時の戈や戟の形で
想像して正解を出せ、

という方に
無理があるのかも
しれません。

【追記】

で、令和の御代にも、

実物の縮図を見てすら
暫くそれと気付かなかった
素人の間抜けが約1名、と。

謂わば、後出しジャンケンで
負けるような
情けなさ。

先人の苦労を嘲笑う資格など
断じてありません。

それでは、まずは、
あまり有益とは言えない
個人的な失敗談迄。
【了】

【追記】

やっぱりなあ、
無知は怖いなあ、
恥ずかしいなあ、
と、言いますか、
(それを気にしたら
そもそも、こんなサイト
やってられん部分もあるですが)

今回の記事のようなことを
100年以上も前に
かなり詳細な図解のレベルで
なさっている知識人が
少なくとも何名かは
いらっしゃいまして、

その話を少々。

周緯先生『中国兵器史稿』
パラパラめくってますと、

例えば、

陳澧の『考工記周戟図』
から引用した「周戟図」や
『東塾集』の「戟戈図説」
といった、
戈戟の部位ごとの解説や、

程瑤田の『考工創物小記』の
「倨句」の角度の表、
といったものが
掲載されています。

サイト制作者は、
恥ずかしながら
初耳でありまして。

で、一見した限りでは
納得出来ない部分も
あるものの、

原文や小難しい注釈の
読み方等の見地からは
色々考えさせられる
ものでもあり。

一方で、
刊行年度が古いだけに、

例えば、
楊泓先生の『中国古兵器論叢』
に比べれば、
出土品の詳細が
不明瞭だったりしますが、

全体的な内容としては、

図録が豊富で
漢籍の内容と出土品の比較が
なされている
しっかりした内容だと
思います。

また、入手についても、

複数の出版社からの再版
という事情を反映してか、

書名で検索を掛ける等して、

ネット経由で
日本の本屋さんから
割合簡単に入手出来ます。
(少し値は張りますが。)

語学に覚えがあり、
中国の冷兵器に興味のある方は
御一読を。

因みに、サイト制作者が
買ったのものは
中華書局さんの簡体字のやつ。

残念ながら、

サイト制作者の拙い語学力では
一息に読み切ることは
出来ませんが、

記事の内容に応じて、

漸次、御本の内容を
少しずつ反映させていければと
思っております。

【了】

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
『周礼』(維基文庫)
『周礼注疏』(国学導航)
楊泓『中国古兵器論叢』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

カテゴリー: 兵器・防具, 言い訳 | コメントする

『周礼』冬官考工記の定める武器の規格 01

はじめに

今回は、予定を少々変更して、
『周礼』の武器(戟・戈・殳・矛)
についての件を読むこととします。

やることが二転三転して
大変申し訳ありません。

と、言いますのは、

諸々の文献
古代中国における武器の
効能や長さ等について
論じる際、

必ずと言って良い程に
典拠に用いるのが、

この『周礼』冬官
当該の部分です。

いえ、古代中国どころか、

時代が下った後の中国武術も、

入門書レベルのものに
目を通すと、
どうも、これを
目安のひとつにしている模様。

したがって、

先の『逸周書』の話での
悪例もあることで、

サイト制作者が
(断片的な引用を典拠に)
拙い自説を述べる前に
これをやった方が、

読者の皆様にとって
何かと役に立つであろう
考えた次第です。

―ホラ、アレです。

素人同士の将棋なんかで
難局で長考した挙句、

名手が浮かばず、

当たり障りない凡手で
御茶を濁すという、
悪い意味でのあるある・・・

1、まずは、原文を読んでみよう

それでは、本論に入ります。

『周礼』とは、
先の回に触れたように
大体は周代の話と思しき
中国最古の行政法典ですが、

官制や末端の行政組織の
詳細はおろか、

車両や武器、船舶、道具、
といったようなものの規格まで
記されています。

で、早速、以下の引用となります。
戦車兵の武器の長さの話です。

なお、書き下し文は
サイト制作者
―素人の御手製です。

自分の書き下しの練習の他は、

特に漢文が苦手の方には、
(あまり人のことは言えませんが)
あった方が意味が組み易いかと
考えた次第。

車有六等之數
車軫(しん)四尺、謂之一等
戈柲六尺有六寸、既建而迤、
崇於軫四尺、謂之二等
人長八尺、崇於戈四尺、謂之三等
殳長尋有四尺、崇於人四尺、謂之四等
車戟常、崇於殳四尺、謂之五等
酋矛常有四尺、崇於戟四尺、謂之六等
車謂之六等之數

車は六等之數を有す
車軫四尺、之をいうに一等
戈柲六尺有(ゆう)六寸、
既に建てて迤(ゆ)く、
崇は軫四尺、之をいうに二等
人長八尺、
崇(「たか」か?)は戈四尺、
之をいうに三等
殳(しゅ)長は尋有四尺、
崇は人(ひとごと)に四尺、
之をいうに四等
車戟常、
崇は殳四尺、之をいうに五等
酋矛(しゅぼう)常有四尺、
崇は戟四尺、
之をいうに六等
車之をいうに六等之數

六等:『周礼注疏』は
「車は天地の象を有す」とし、
『釈名』の説く易の三材六画を
紹介する。
軫:馬車の車載部分の横木。
ここでは、戦車の乗車スペースを
面積と見た場合の前後の長さ。
横長の構造につき、
縦はそれより短くなる。
尺・寸:周制の1尺は18cm余。
1尺=10寸。
1尺=18cmで計算すると
分かり易いと思われる。
柲:武器の柄。
有:端数。
迤:斜めに立て掛ける。
崇:高さ、もしくは長さ。
『周礼注疏』より。
殳:先端に針が放射した
球体が付いた打撃用の棒。後述。
「殳」の動詞は「打つ」の意。
人:ひとりひとり、各々
車戟:戦車兵が使う戟。
通常のものより長い。
常:2尋=16尺。
酋矛:『周礼注疏』によれば、
短い矛を意味する。
「酋これを言うに遒なり」
遒(しゅう)は、迫る、近い、
間近になる、の意。

因みに、書き下しは

今回は、守屋洋先生・守屋淳先生を
御手本に、語順を意識し、

例えば、
「之を諸葛饅頭という」ではなく、
「之をいうに諸葛饅頭」とやりました。

合っているかどうかは元より、
読みにくければ恐縮です。

で、一応、内容を表に起こすと
以下のようになります。(周尺換算)

【追記】

表中の「六等」の「長めの」は
間違いで、
正しくは「短めの」です。

【追記・了】

【雑談】不可解な6つの区分

さて、まず、
「六等の數」ですが、

正直なところ、

サイト制作者は、未だに、

この意味や
6つの区分の理由が
分かりません。

一応、「六」も「等」も、
字引で当たりましたが、
戦車や武器に関連するのものは
ありませんでした。

武器関係の諸々の書籍も、
「六等」に言及するものは
寡聞にして知りません。

御参考までに、

上記にある通り、
『周礼注疏』によれば
の話でして、

したがって、
天之道だの、地之道だの、
易の三材六画の話であれば、

軍事的な合理性とは
無関係ということに
なろうかと思います。

例えば、

T54戦車の球形の
恐らく糞狭いであろう砲塔内で
プラネタリウムが
見られるとすれば、

夢のある話、には、
思えませんね。

むこうの哲学の深淵や
プラネタリウムの
幻想的な雰囲気なんぞ、

露程にも感じられないかと
思います。

―狭い車内につき、

「あれがオリオン座だよ」と
交際相手の肩に
手を回そうとして、

壁に手をぶつけて
奇声を発する訳ですね。

まあその、

こういう僻んだ意訳を
しているうちは、
ロクなことは
出来ないかもしれません。

後、「天」は、天体ではなく
森羅万象を意味するのでしょう。

与太話はともかく、
サイト制作者としては、

現段階でこの易の説を
肯定する材料も否定する材料も
持ち合わせていませんで、

調べ事が進んで
深い意味が分かれば、
またその時にでも補足します。

2、基準となる身長

続いて、数字の目安ですが、

「人長八尺」
当時の成人男子の身長を
8尺と想定していたという
御話でしょう。

周制で1尺=ほぼ18cm。
8尺で144cm。

座右の字引き『漢辞海』では
18cmでして、

サイト制作者も
前回の図解を作成する際、
これで計算しました。

先の記事でも書きましたが、

サイト制作者が
ここでこの数字を採るのは、

次の秦の時代における
成人男子の身長の基準が
6尺5寸でして、

秦尺に換算すると
150.15cmと、

ほぼほぼ、周尺の8尺に
相当するからです。

ですが、この換算は
大体のレートでして、

10cm程度の誤差
折り込んだ方が
良いのかもしれません。

また、1尺の長さは
古代から民国時代まで
少しづつ伸びる傾向
ありましたが、

例えば、
前述の周尺で18cm余、
秦漢時代は23.1cm、

さらに、
魏晋のそれは24.2cm。

で、この間、
若江賢三先生によれば、

春秋時代初期は19cm弱、
その末期には21cm、

そして、戦国時代には、
23cmに伸びたと
考察していらっしゃいます。

この辺りの話が書かれた
論文ですが、

以下は、
以前の記事でも上げた典拠です。

『春秋時代の農民の田の面積』
愛媛大学法文学部論集
人文学科編 (38)
(PDFでダウンロード可)

論文検索サイト
ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を入力。)

で、その場合、

春秋時代初期の1尺を
19cmとすれば
8尺=152cm、

末期の21cmでは
168cm。

ですが、こうなってくると、

人の身長で
田んぼの面積や
軍隊の進退を計測するのが
難しくなってくるので、

春秋時代の1歩=8尺(仮説)から
戦国時代の1歩=6尺に
調整された可能性
説いていらっしゃいます。

先述の周尺換算の「人長八尺」と
秦代の成人男子の身長に
それ程差がないのも、

恐らく、この辺りに
そのカラクリが
ありそうなもので。

因みに、
1歩=5尺に改められた唐代は、
1尺=31.1cm。

以降、民国時代まで1歩=5尺で、
民国時代は1尺33.33cm。

イップ・マンなんかも
このレートで
計算していたのかしら。

さて、1尺の長さとは別に、

身長と
両手を広げた左右の長さが
同じとし、

これを8尺=1尋とするのは、

当時のむこうの
勘定の方法です。

2、「四尺の武器の活用法

先述の数字に対する感覚を参考に、
話を引用箇所の補足に戻します。

「人ごとに四尺」については、

篠田耕一先生
戦車兵が対歩兵用
短い戟を使うとしていまして、

大体この長さの戟や戈が
士大夫の副葬品として
出土していることで、
(河北省藁城・殷代墓)

サイト制作者も
この説がそれらしいと思います。

もっとも、
戦車兵の用例の史料までは
確認出来ていませんので、

その辺りは
もう少し調べる必要がありますが。

また、その他の武器の長さの
定義めいた話ですが、

まず、戈の柄の長さが
6尺6寸。
周尺で118.8cm。

戈は先端には、精々、
銅製のカバー:龠(やく)が
付く程度につき、

柄の長さが
ほぼ全長となります。

次いで、殳。

尋有四尺、
1尋4尺=周尺216cm。

さらに、長短双方ありまして、
短いものは戈と同じ周尺で72cm。

近代戦の戦車における、
主砲と副砲の関係に
近いのかもしれません。

つまり、戦車兵用の長物が、

対戦車用の徹甲弾や
距離の離れた歩兵を叩くための
榴弾等の砲弾を装填する
大口径砲、

短いものが、

近寄ってくる敵の歩兵を
追い払うための重機関銃に
相当するのかしら、

という御話です。

3、全長か柄の長さか

その他、ここで
サイト制作者が気になるのが
殳の長さでして、

具体的には、
全長か柄の長さか、
という御話。

何故、こういう面倒なことを
考えるかと言えば、

詳しくは、
恐らく次回触れますが、

殳の構造を考えると、

この解釈の違いで
恐らく40cm前後のズレが
生じるからでして。

さらに、殳の出土品も
少ないと来ます。

サイト制作者としては、

戈は「戈柲六尺有六寸」と、
わざわざ「柲」と書き、

一方で、「人長八尺」と
ストレートにやっているので、

以降の矛・殳は、

柄の長さではなく
全長の長さが自然な解釈か
思います。

つまり、殳の
1尋=4尺・周尺216cmは、
全長である、と。

4、目安と出土例

ところが、
面倒な実例もありまして。

と、言いますのは、
次の車戟の御話。

まず、先に引用した文には
「車戟常」とあります。

常=2尋、
周尺にして、288cm。

で、有難いことに、

車戟の場合は、

春秋時代までのもので、

柄の長さが判別出来る
希少な出土品が
1980年代の段階で
少なくとも2例あります。

これによると、

何と、全長ではなく、
柄の長さが、
周尺の常とほぼ同じでして、

サイト制作者としては
頭痛の種が増えるばかり。

もっとも、規格外の長さの
戈戟も出土していることで、

如何に行政法典が
定めたものとはいえ、
形骸化した運用例からして
一応の目安であろう、

―星の数程あった車戟の中で
2例に過ぎない、

という見方も
出来るのかもしれません。

サイト制作者の持つ
この辺りの全体像としては、

楊泓先生や薛永蔚先生の
御説宜しく、

まずは、長さ順に、
矛→殳→戟戈、という、
機能に応じた大体の順序があり、

そのうえで、
サイト制作者個人の
愚見として、

『周礼』冬官の定める
各々の長さは
或る程度は合理的な目安である、

―という程度の認識に
したいと思います。

【追記】

先述の2例の車戟ですが、

1尺を19cm弱―
19cmで計算すると、

誤差の大きい方でも
20cmを切るという具合に
イイ線行くので、

この辺りが
時代と長さの相場かしらと
思う次第です。

以下は、前回に掲載した図解の訂正版。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、小佐野淳『図解 中国武術』、『戦略戦術兵器事典1』(来村多加史担当箇所)、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版等より作成。

各々の武器を
出土した時の状態に近付け、
車戟の規格を柄の長さから
全長に改めました。

また、『周礼』の規格を
厳密なものではなく
目安と思うかですが、

長さはまだ大人しいもので、

戟体・戈頭の方が
全長よりも規格外れの
ぶっ飛んだ形状のものが
多いからですが、

この辺りの詳細は、
また後日。

【追記・了】

因みに、にも、
戈は元より、殳と同様、
長短あります。

殷代にまで遡りますが、
64cmの柄
出土しています。

戟体・戟刺の長さを足せば、

引用の通り、
4尺=72cmに近い長さ
なるかと思います。

殷代のものが
次の時代の周尺で推し量れる
不思議、

言い換えれば、

武器の構造自体が
人体のそれとの整合性で
成り立っている
証左だと思います。

出土品の形状の詳しい話は、
また後日。

5、戦車兵の矛は短めの得物?!

最後に、矛について。

まず、短い矛―酋矛ですが、

先の引用には
「酋矛常有四尺」とあり、
2尋4尺=20尺、
周尺換算で360cm。

また、上記の引用にはありませんが、
長い矛―夷矛というものが
『周礼』冬官にはありますが、

この箇所で
省かれていることから、

戦車兵の武器としては
長過ぎるのかしらと
推察します。

ですが、この辺りの話は
次回以降とします。

そろそろ、
この辺りで一区切りして、

続きは次回以降と致します。

なお、これらの話の
全体像をあらわす
図解の作成、及び、

前回の記事で掲載した
図解の若干の訂正は、

日を改めての作成を考えています。

おわりに

例によって、
以下に要点を纏めます。

1、『周礼』冬官には
戦車兵の武器の規格の件がある。

2、戈の長さは6尺6寸、
殳の長さは1尋(8尺)4尺=12尺、
車戟は1常(2尋)=16尺、
酋矛1常4尺=20尺である。

3、ここでは
周尺(1尺18cm)で換算したが、

若江賢三先生の説では、
春秋時代も初期(19cm弱)と
終わり頃では、
1尺で2cm程度の違いがある。

4、武器の長さの
目安のひとつとして、
兵士の平均身長を
8尺として計算している。

5、戈・戟・殳については、
長物の他に
4尺の長さのものもある。

6、各々の武器の長さは
恐らく全長を想定している。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
『周礼注疏』(国学導航)
楊泓『中国古兵器論叢』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
若江賢三『春秋時代の農民の田の面積』
鶴間和幸『秦の始皇帝』
小佐野淳『図解 中国武術』
『戦略戦術兵器事典1』(来村多加史担当箇所)
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

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近況報告 武器の長さの話

まずは、更新が大幅に遅れて
大変申し訳ありません。

恥ずかしながら、今回も近況報告です。

年末年始にゲームにハマったり
除雪で体が悲鳴を上げたり
したのも祟ったのですが、

最大の原因は、
調べ事で行き詰ったことです。

早速ですが、
下記の拙い図を御覧下さい。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、小佐野淳『図解 中国武術』、『戦略戦術兵器事典1』(来村多加史担当箇所)、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版等より作成。

次回、これについて
詳しく書く予定です。

―と、言いますのは、

『司馬法』が、

兵士5名に、各々、
干・戟・殳・矛・弓を持たせて
兵器の長短を組み合わせて
死角なく効率的に戦え、と、

説いたのは、

サイト制作者としては
同書の白兵戦の説明の白眉だと
考えていまして、

で、そもそも、
長い・短いの
具体的な長さは如何程か、

ということを調べ出したら、

これが、
飛んだ泥沼の始まりだった、

―という次第。

因みに、軍隊なんか、
当時から
兵隊レベルで
数にやかましい世間でして、

『周礼』の時代ですら、

訓練で、
やれ百歩ごとに杭を立てて
進退せよだの、言います。

よって、回りくどいとは
思いましたが、

以降の時代の考証にも
応用が利くという
利点もあることで、

これに時間を割くことにしました。

さて、行き詰った言い訳について
少々具体的な話をしますと、

まず、長兵器・短兵器の定義自体、
どうも今日の中国武術ですら
一様ではなさそうで、

まして春秋時代以前の話となると、

サイト制作者自身、
今の力量では分かりかねます。

『司馬法』についての解説も
少々読みましたが、

この辺りについては、

解説者の方々にとって
重要事項ではないためか、

精々『周礼』の武器の規格に
準拠するレベルの御話です。

で、アプローチを変えて、

『周礼』の規格と出土品の比較を行うも、
これまた綺麗に答えが出ませんで、

武器の形状の変遷もあってか、

準拠していそうな部分と
そうでない部分の差が大きく、

一方で、出土品自体も柄の付いたものが
少なかったことで、

思い切って、
まずは、柄の付いた戟干の出土品を
長さ順に羅列することにしました。

こういう次第で、
差し当たって、御知らせまで。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
『周礼』(維基文庫)
『周礼注疏』(国学導航)
楊泓『中国古兵器論叢』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
小佐野淳『図解 中国武術』
『戦略戦術兵器事典1』(来村多加史担当箇所)
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

カテゴリー: 軍制 | 2件のコメント

近況報告 『司馬法』に関する話

はじめに

今回は、申し訳ありませんが
近況報告です。

と、言いますのは、

『司馬法』の説く
小規模戦闘について
記事をいくつか書こうと思い、

その準備を進めていますが、

残念ながら
進捗状況が良くないことで、

せめて、
何をやっているのか位は
御知らせして、

序に、『司馬法』に関する
初歩的な話をすることを
思い立った次第です。

1、大体の内容と調べ事の方法

ただ、「武経七書」
ひとつだけあって
言葉少なながらも
含蓄の多い兵書です。

「小規模戦闘」に絞っても、
(定義自体も曖昧ですが)

どうも、
切り口がひとつならず
ありまして、

例えば、
今のところ
想定しているものでは、

前回の『逸周書』の記事とも
重複する、
装備の長短や軽重に加え、

隊形の疎密戦闘姿勢、
隠密行動といった要素が
あります。

これらの要素を、
例によって
『周礼』や『逸周書』、
その他の史料等と比較し、

同書が言わんとするところ
同時代の相場めいたもの
炙り出すことを考えています。

加えて、たまたま、
ネットで劉仲平先生
『司馬法今註今譯』
見付けました。

以下はそのアドレスです。
ttps://www.doc88.com/p-9035449019763.html
(1文字目に「h」を補って下さい。)

もしくは、「百度一下」
書名で検索を掛けて
それらしいのを探す手も
あります。

さて、この御本、
要は、『司馬法』の
大意や語句の解釈を記した
ものです。

日本人離れした感覚での
細かい言い回しの説明や、

原文の背景にある概念等が
分かり易く書いてありました。
(と、言っても、
中国語古語→中国語→二ホン語
という煩雑な回路!)

これで和訳や解釈の精度を
上げたいと思います。

まあ、その、
こういう本があること自体、

ネイティブの人々にとっても、
古典の解読には
難儀しているのかと
思った次第です。

もっとも、
サイト制作者とて、

インバウンドの
ガイジンさんから、
対〇の境〇仁みたく
ぶっつけで和歌を詠んでくれと
頼まれたところで、
色々誤魔化そうとして
110手にて投了が関の山で、

こういうのは
万国共通かしら。

なお、劉仲平先生
南京政府時代からの軍人で、

キャリアの後半は
台湾で戦史研究に従事
されていた模様。

2、『司馬法』の概要
2-1、内容のあらまし

ここでは、
その成立の背景や内容の
概要について
簡単に触れます。

まず、その内容ですが、

さわりの部分を
簡単にまとめるとなると、

サイト制作者のアタマでは、
思想史的な話しか
思い付きません。

そこで、
書き物の紹介となりますが、

PDFで読めるものとしては、
湯浅邦弘先生の論文
詳しいです。

「『司馬法』に於ける
支配原理の峻別」

ttps://ci.nii.ac.jp/
(論文検索サイトのアドレスです。
1文字目に「h」を補って下さい。)

あるいは、
そのダイジェスト版
と思われる記述のある

『よみがえる中国の兵法』
(大修館書店・あじあブックス)

これらによれば、

まず、今で言えば、

世の中の状態
平時・有事に区別します。

平時を「正」とし、
仁義を理念に治めることを説き、

対して、有事の際の非常措置として
「権」の発動、つまり、
戦争で解決せよ、と、します。

下品な言い方をすれば、

儒家のように
仁義礼智で万事の解決を
図るのではなく、

兵家と儒家のイイトコ取りで
軍隊と仁義を
臨機応変に使い分けて、

これぞ仁義なき戦い、ではなく、

ま~るく納めて見せまっせ。

ただし、その際、
双方とも、
別のルールで運用すべし。

―という理解で
合ってますかしらん。

さらに、以下も重要な部分です。

平時と有事の原理
「国容」「軍容」に分け、

互いに干渉しないように
説きます。

近代国家で言うところの
政軍関係の話かと思います。

「国容」は、
平時における国内の原理。

先述の「正」に相当します。

そして、
「国」と「朝」に分けられます。

サイト制作者の愚見で
誤解があれば恐縮ですが、

例えば、官庁や政策、法規等が
イメージし易いかと思います。

そして、対する「軍容」

これは非常時
軍内における原理です。

「正」に対する「権」
相当します。

これは、近代軍で言えば、

統帥権や戒厳令の発動といった、
軍の命令が絶対な状況かと
思いますが、

これもサイト制作者の
イメージにつき。

因みに、「軍容」は、

「刃上」と「在軍」に
分けられます。

軍中での戦闘行為と
それ以外の部分、
ということだと思います。

そして、「正」と「権」、
「国容」と「軍容」は、各々、
対等の関係にある、と説きます。

序に、泣く子も黙る
秦の商鞅の
耕戦一体のアレは、

湯浅先生によれば、

『司馬法』どころか
平時の国政も
有事のルールで運用するという、

〇4時間戦えますかの
鬼のルールだそうで。
(勿論、こういう言葉は
使っていませんが)

―ざっくり言えば、

『司馬法』のアウトラインは
大体こういう話で、

管見の限り、

いくつかの文献の解説も
大差ないと思うのですが、

何分、素人のあやふやな
読み方につき、

やはり、正確な理解を
御望みであれば

先述の論文か書籍の御一読を
御勧めします。

2-2、穰苴と『司馬法』の関係

続いて、成立の背景について。

同書と不可分の関係にある
田穰苴(じょうしょ)
については、

『史記』
この人の伝があります。

まず、田穰苴は、

後に斉の王族になる
田氏とはいえ、
身分の低い人でした。

で、この人が、
時の斉の実力者である
晏嬰の抜擢で将軍となり、

厳しい統帥で
将兵の信頼を勝ち得て
目の上のコブであった
斉や燕を追い払い、

めでたく
大司馬となり、
これにて一件落着、

ですが、その後、
当の本人はと言えば、
政争に巻き込まれて
ゴニョゴニョ、

―という、

華やかな武功の裏には
陰の部分もある
軍功立志伝の
あるあるな御話。

で、司馬遷によれば、

その後、戦国時代威王が、

その家臣に
この人の兵法を研究させ、

従来の司馬の兵法に
それを追加・編集して
刷り上がったのが、

彼の『司馬法』

という次第。

次に、田穰苴の
生きた時代について触れます。

まず、晏嬰が景公に穰苴を
推薦したことで、

景公の在位は
前547~490年
(何とも長いこと!)

さらに、晏嬰の没年は
前500年。

景公の前の二代の王にも
敏腕を以て仕えていることで、

この人の
重鎮としての政治生命も
実に長いこと。

これらの話からして、

前6世紀後半
御話であることは
確実です。

ですが、
サイト制作者の寡聞にして、

穰苴が活躍した
年代については、

これ以上に
時期を絞り込んだものは
観たことがありません。

あくまで、サイト制作者の
愚見ですが、

例えば、編年体で書かれた
『春秋左氏伝』の
当該の時期には、

田穰苴の名が見えず、
燕の自体話も少ないことで、

学術レベルでは
確実なことが
言えないのかもしれません。

そこで、

こういう怪しいサイトの
特権と言いますか、
暴挙と言いますか、

サイト制作者の妄想次いでに
その時期とやらを想像すると、

田穰苴が
将軍として活躍したのは
前540~30年代辺りで、

その前に、
晋や燕との負け戦を経験した
叩き上げの軍人と思います。

その根拠は、以下。

前6世紀後半の中で、

斉が晋と
何度も干戈を交えて
旗色が悪かったのは
前550~540年代の話で、

これ以上に
対晋関係が悪かった
時期はありません。

【追記】

これは誤りでして、

前6世紀の終わり頃には
再度、晋と揉めました。

一方で、この時は、
前回とは国際状況が異なりまして、

晋の同盟内における行動に
(慢心した類の)ヘマが多く、

同盟の最大の仮想敵国であった
楚の影響力も低下していたことで、

斉以外にも衛等の離反も
招きました。

そうした事情もあり、
それに地理的な要因も絡み、

当初は衛、魯、宋といった
晋や斉の周辺国同士の戦争が主。

したがって、
晏嬰の晩年は、

前6世紀の中頃のような、

斉の国軍の主力が
晋のそれと直接やりあって
敗戦を繰り返して
国境線が後退していく
というレベルの危機感は
なかったものと想像します。

【追記・了】

そもそも、景公の即位自体、

対晋強硬派の先代が
重臣の崔杼に殺され、
(謀殺の直接的なトリガーは
女性関係ですが)

これ(国君の死去)で
晋との戦を手打ちにするという
オッソロシイ経緯がありまして。

その後、前530年代には
燕に攻め込んだり
対外工作を行っていることで、

晋との負け戦は
景公の代ではないものの、

それに悩まされるという
『史記』の文脈から考えれば、

大体このあたりの時期では
なかろうかと
踏んでいます。

あくまで想像の域を
出ませんので
悪しからず。

2-3、『司馬法』の成立

穰苴の生きた時代に続いて、
『司馬法』の成立過程について
綴ります。

同論文によれば、
現段階で有効と思われるのものは
二説あります。

ひとつ目は、穰苴の自著で、
『隋書』等がその典拠。

ふたつ目は、先述の司馬遷の説。

旧来の軍事マニュアルに
穰苴の兵法を混ぜたやつです。

もっとも、残念ながら、

『史記』の穰苴の伝や
『隋書』芸文志には、

誰それが書いた、以外の
細かい根拠めいた記載は
ありませんでした。

ただ、穰苴の関与自体は
間違いなく、という次第。

しかしながら、
残念なことに、

漢代には105篇あったものが、
現状は僅か5篇を残すのみ。

もっとも、

この時代の書物は、
前回の『逸周書』もそうですが、
消失が当たり前だそうな。

その他、偽書の説もあり、

実は、これが長らく有効で、
あまり研究が進まなかったのも
これが原因だとか、

香ばしいことが書いてあります。

詳しくは、同論文を御読みあれ。

余談ながら、

『司馬法』以外にも
有名な兵書が偽書という学説は
少なからずありまして、

これらの説のいくつかが
引っ繰り返ったのが、

1972年の
銀雀山漢墓の発見だそうな。

大人子供の
サイト制作者が生まれる
僅か数年前の御話で御座います。

そう言えば、中公文庫の『六韜』の
解説を読んで
驚いたのを覚えています。

2-4、『司馬法』の影響力や時代的価値観

話を『司馬法』に戻します。

湯浅先生によれば、

前漢の故事・説話集である
『説苑』
『司馬法』の引用が
見られることから、

『説苑』編集以前の段階で
その思想的特質が
広く理解されていたそうな。

その他、薛永蔚先生
『春秋時期的歩兵』にも、

偽書関係も含めて
詳しい解説が
掲載されていますが、

読んだ御仁がアレにつき、
ほんの少しだけ。

湯浅先生の御話に
引き続いて、

この『司馬法』は、

その後、
曹操等、
後漢の要人の書き物の
典拠の要所にあり、

少なくとも唐代までは
一定の階級以上の将校の
必読書であった模様。

また、同書の兵法の
時代的な価値観として、

春秋中期以前までの兵法は
当然この通りで、

春秋末期から
戦国初期までの状況とも
大差ない、

と、しています。

つまり、

時の軍事マニュアルとして
時代考証に使う分には
非常に適している、と。

おわりに

例によって
取り留めない話で恐縮ですが、

「2、『司馬法』の概要」
だけでも、

以下に、
要点を纏めておきます。

1、湯浅邦弘先生によれば、
『司馬法』の特徴は、

平時の対応である
「正」・「国容」と、

有事の対応である
「権」・「軍容器」に分けられ、

両者は対等の関係である。

2、田穰苴と『司馬法』は
不可分の関係にあるものの、
関与の程度には
議論の余地がある。

3、『司馬法』の内容は
春秋時代の戦争の状況を
強く反映している。

また、少なくとも前漢の段階で
広く読まれていた。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

湯浅邦弘
「『司馬法』に於ける支配原理の峻別」
守屋洋・守屋淳『全訳「武経七書」2』
劉仲平『司馬法今註今譯』
薛永蔚『春秋時期的歩兵』
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻

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『逸周書』から観る小規模戦闘 その2

はじめに

今回は、前回の続きです。

『逸周書』に記された、
主に、100名の
小規模戦闘について
綴ります。

それでは、本論に入ります。

1、100名の戦闘配置・伯

前回、『逸周書』では、

25名の部隊を
「卒」と称し、
縦5名横5名の25名で
方陣を組む、

と、記しました。

そして、これを受けて、
次の上位の編成単位ですが、

卒を4隊並べることで
「伯」と称します。

これについて、

『逸周書』「武順」
以下のような文言があります。

五五二十五を元卒といい、
一卒に居りといい、
一卒に居りといい、
左右一卒をといい、
四卒で衛をしといい、

衛:防御。ここでは陣形か。

五五二十五曰元卒、
一卒居前曰開、
一卒居後曰敦、
左右一卒曰閭、
四卒成衛曰伯、

25名の方陣を
前後左右に配置し、

前を「開」、後ろを「敦」、
左右を「閭」と、
それぞれ称します。

で、図にあらわすと、
以下のように
なるのです、が。

『逸周書』(維基文庫)、薛永蔚『春秋時期的歩兵』より作成。

ここで問題になるのは、

卒を十字に配置した後、
真ん中に何が入るのか、

言い換えれば、

開・閭・敦の4隊は、

一体、何者から見て
前後左右にあるのか、

ということです。

で、残念ながら
正解者への読者プレゼントは
御用意出来ません、

と、言いますか、
既に、答えのようなものを
描いてしましましたが、

実は、コレ、
勘の悪いサイト制作者は、

一読した折には、

恥ずかしながら、

そのような疑問すら
持ちませんでした。

と、言いますか、

そもそも、

25名の部隊を
どのように配置するのかが
分かったことで、

舞い上がっていたのが
正直なところです。

で、そのような見落としが
発覚したのが、

『春秋時期的歩兵』
該当箇所を読み直した折のこと。

余談ながら、

サイト制作者
だけなのでしょうが、

初読時のイメージと
記事に起こす際に
読み直した時のイメージで
大きな差異が生じて
面喰うことが
少なからずあります。

そのためか、

高い読解力を
持ち合わせる方が
羨ましい限り。

それはともかく、

野村スコープ宜しく、

縦横3×3のグリッドの中に、

卒が十字に、戦車が真ん中に、
各々配置された図
描かれておりまして、

目からウロコが落ちました。

2、『李衛公問対』の説く「伯」隊形

さて、この陣法、

サイト制作者は、寡聞にして、

史書による
実例めいたものは
確認出来ていないのですが、

どうも後代にも
応用が効いた模様。

『李衛公問対』上巻には、
(唐李問対とも言うそうな)

以下のような件があります。

同書については、
守屋洋先生・守屋淳先生による
書き下しを引用します。

当然ながら、

サイト制作者の作業よりは
遥かに正確で綺麗なことで
こちらの方で。

荀呉、車法を用いしのみ。
車を舍(す)つと雖も
法その中に在り。

一は左角となし、一は右角となし、
一は前拒となし、
分けて三隊となす。
これ一乗の法なり。
千万乗も皆然り。

荀呉:前6世紀前半の晋の武将。
狄討伐の際、戦車を放棄して
歩兵隊を編制して戦った。
角:かど、すみ

荀吳用車法爾、
雖舍車而法在其中焉。
一為左角、一為右角、一為前拒、
分為三隊、此一乘法也、千萬乘皆然。

部隊の前後左右
菱型に見立てて、
前と左右で3隊を編成する、

という訳です。

また、同書上巻の
別の件では、

真偽はともかく
黄帝が例の十字の陣法を始めた、
と説いていまして、

例えば、四隅を「閑地となす」、
―開けておく、

加えて、

「その中を虚しくし、
大将これに居る
―エラい人が真ん中に陣取る、

と、しています。

この方法を採れば、

「大将」にとっては、

四方に睨みが効いて
乱戦の際にも
統制し易いのだそうで、

どの部隊編成の規模にも
当てはまりそうな
陣法の原則めいたもの
なのかもしれません。

で、あれば、

後ろの隊の扱い
どうなるのか、

という疑問が
生じそうなものですが、

先述の薛永蔚先生
『春秋時期的歩兵』によれば、

後ろの一隊が、
後続部隊の「前拒」になるそうな。

つまり、25名×3隊の
凸型の縦隊が
延々と続く訳です。

それ以上の内容は、

細かい解釈や
史料ごとの相違点について
典拠が込み入り、

そもそも、サイト制作者が
分かっていない部分が多いことで、

現段階では
これ位に止めておきます。

要は、ここでは、

『逸周書』にある
「伯」のモデルは、

唐代の軍事研究においても
相当に意識されており、

覚えておいて
損はなさそうである、

といったことが
言えそうです。

【雑談】李靖の解釈する「三国志」の兵制?!

ここで少し脱線します。

さて、この『李衛公問対』、

実は、戦史研究をやる過程で
三国志関係についても
言及していまして、

その件の一部を紹介します。

以下は、同書「上巻」からの引用。

臣案ずるに
曹公の新書に云(いわ)く、

攻車七十五人、
前拒一隊、左右角二隊、
守車一隊、炊子十人、守裝五人、
廄養五人、樵汲五人、
共に二十五人。
攻守二乗、およそ百人。
兵を興すこと十万なれば、
車千乗、軽重二千を用う、と。

此大率(おおむね)
荀呉の旧法なり。
(維基文庫版は「孫、呉之」!)

廄養:廄は馬小屋、養は雑役夫。
馬の飼育係か。
樵汲:薪を拾い水を汲む人。

臣案曹公『新書』云

『攻車七十五人、
前拒一隊、左右角二隊、守車一隊、
炊子十人、守裝五人、廄養五人、
樵汲五人、共二十五人。
攻守二乘、凡百人。
興兵十萬、用車千乘、輕重二千。』

此大率孫、吳之舊法也。

部隊編成の大意を取ると。
以下のようになります。

前衛25名、両側25名の
3隊で計75名。

守備隊の車両部隊
(荷車か)は、
炊事係10名、
守備兵5名、
馬の世話係が5名、
燃料・水の担当が5名の
計25名。

攻車75名、守車25名で、
2車(乗)・計100名。

ここで、少々脱線しますと、

史料中の曹公は、
泣く子も黙る曹操のこと。

因みに、同書に曰く、

漢魏之間軍制」を
調べると、

以上の枠組みを流用して、

五車を隊となし、僕射一人、
十車を師となし、率長一人、
おおよそ車千乗、將吏二人。

―と、来るようで、

一応、計算しますと、

75(1車)×5=
375名で1隊、

75(1車)×10=
750名で1師。

補助の部隊が付けば、
各々500名、1000名、
という規模になりますか。

で、これ、李靖に言わせれば、
後漢・三国時代の
兵制という次第。

さらに、唐代の戦争も、
戦車はともかく
概ねこの延長なのだそうな。

同時代の史料や
『通典』の歩戦令等と
内容を照合されると
面白いかもしれません。

興味のある方は、
御一読を。

3、編成単位と指揮官に必要な資質
3-1、改めて、
卒の隊長と兵士の関係

そろそろ、話を
『逸周書』やその時代に
戻します。

さて、ここでは、

『逸周書』における
軍隊の全体的な編成単位と、

各々の編成単位の指揮官に
必要とされる資質について
綴ります。

その過程で、

前回、誤読した箇所の
添削(公開処刑)も行います。

早速ですが、
少々長くなりますが、
以下が該当箇所となります。

話が込み入る前に、
これを先に出すべきであったと
後悔しています。

『逸周書』「武順」より。

左右の手、各(おのおの)五を握り、
左右の足、各(おのおの)五を履き、
四枝といい、元首を末という。

五五二十五を元卒といい、
一卒は前に居り開といい、
一卒は後に居り敦といい、
左右に一卒を閭といい、
四卒は衛を成し伯といい、
三伯に一長を佐といい、
三佐に一長を右といい、
三右に一長を正といい、
三正に一長を卿といい、
三卿に一長を辟という。

辟は必ず明らかにして、
卿は必ず仁(いつくし)み、
正は必ず智(さと)く、
右は必ず肅(おごそ)かにして、
佐は必ず和(やわ)らぎ、
伯は必ず勤め、
卒は必ず力(つと)む。

辟は明からならざれば
以て官を
慮(おもんぱか)ることなく、
卿は仁まざれば
以て眾(衆)を集めることなく、
伯は勤めざれば
以て令を行われることなく、
卒は力めざれば
以て訓(おし)えを
承けることなし。
均しく卒は力み、
貌は比(たす)けることなし。
比は則(すなわ)ち
順(したが)わず。
均しく伯は勤め、
勞(労)して
攜(携:はな)ることなし。
攜は則ち和らがず。
均しく佐は和らぎ、
敬いて留むることなし。
留は則ち成ることなし。
均しく右は肅かにして、
恭しくして羞じることなし。
羞は則ち
興(よろこ)ばざることなり。
辟は必ず文にして、
聖たれば
度(のっと)るが如し。

四枝:両手・両足
元:最初の
衛:防御、ここでは陣形か
辟:君主、領地を有する者
明:物事に通じている、
はっきりとしている
仁:他人を思いやる
肅:厳格である、
和:仲の良い、睦まじい
勤:力を尽くす、助ける
力:尽力する、全力で、勢い、
慮:深く考える、心配する
眾:軍勢
訓:規則・規範、戒め
貌:挙動・ふるまい
比:助ける、互助する
順:服従する
留:拘泥する
成:成功する
恭:従順である
羞:恥じる
興:好きになる、楽しむ
文:温和で上品である
聖:聡明である、尊崇すべき
度:手本とする

左右手各握五、
左右足各履五、曰四枝、
元首曰末。
五五二十五曰元卒、
一卒居前曰開、一卒居後曰敦、
左右一卒曰閭、四卒成衛曰伯。
三伯一長曰佐、三佐一長曰右、
三右一長曰正、三正一長曰卿、
三卿一長曰辟。
辟必明、卿必仁、正必智、
右必肅、佐必和、伯必勤、
卒必力。
辟不明無以慮官、卿不仁無以集眾、
伯不勤無以行令、卒不力無以承訓。
均卒力、貌而無比、比則不順。
均伯勤、勞而無攜、攜則不和。
均佐和、敬而無留、留則無成。
均右肅、恭而無羞、羞則不興。
辟必文、聖如度。

例によって、
書き下し文は怪しいですが、

大意は御分かり頂けるものと
信じたいところです。

内容の要点にすると、
以下のようになります。

『逸周書』(維基文庫)、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版より作成。

さて、ここらで、
前回の誤読の添削
行いますと、
以下にようになります。

伯や卒といった編制単位
辟や卿といった
身分めいたものが
混在して記されていることが
分かるかと思います。

恥ずかしながら、

サイト制作者は
ここで躓きました。

この辺りは、史料によっては
親切なものもありまして、

編成単位と隊長の名称が
異なったり、

あるいは、伍長、什長、
という具合に、
尻に「長」が付いたりします。

ですが、文脈からして、
「辟は必ず明らかにして、」と、
(「明」は「明にして」等でも
良いのかもしれませんが)

各単位の長の資質に
言及している訳でして、

「卒は必ず力む」、あるいは、

「卒は力めざれば
以て訓(おし)えを
承けることなし。」

このふたつの件は、

部隊長が真面目に
仕事をしなければ
部下の兵隊がサボる、

―という話なのでしょう。

3-2、上位の編成単位

さて、各編制単位についてですが、

上位の単位、特に、
辟や卿といったレベルになると、

兵数が実務に対して
どれ程の意味を持つのかは
分かりません。

また、「辟は必ず文にして、
聖たれば度るが如し。」と、

巨〇軍は紳士たれ、宜しき
君主の理想像からは、

戦争との関係が
どうも見えて来ません。

また、卿に必要な資質である
「仁」は、

後代に流行る儒教の
最大の徳目ではあるものの、

高木智見先生によれば、

教祖様の孔子の生きた
春秋時代の「仁」とは、

当時の戦時道徳
相当するものだそうな。

春秋時代の戦争も、

上級指揮官が
陣頭指揮や
戦車同士のサシの勝負で
血みどろになるのがザラの、

武侠小説さながらの世間です。

とはいえ、その一番の効能たるや、

「卿は仁まざれば
以て眾(衆)を集めることなく、」

と、戦争を始める前の
人集めの能力という訳で、

これは戦争というよりは、
政治の領域かと思います。

そこへいくと、
組織の下から見たほうが
どうも戦争の実務に近そうなもので、

少なくとも、100名までは、

今まで記した通り
具体的な話があります。

3-3、下位の編成単位

そうした中で、
卒と伯の資質の違い
についてですが、

伯は「勞して攜ることなし」
一生懸命やっていれば
部下が離反することはない、と、

卒同様、目先の仕事で
汗を掻くことには
変わりないのですが、

一方で、

「力」
目先のことを必死に行い
兵士の歓心を買うのに対し、

「勤」は、

同じ尽力するにしても、

他人を助ける、あるいは、
ねぎらう、といった意味も
あります。

この辺りは、

部隊の規模や
配置等によって生じる
差異なのかも
しれません。

さらに、伯の上の「佐」、
300名の部隊ですが、

必要な資質は「和」でして、

さらに曰く、

「敬ひて留むることなく、
留むは則ち成ることなし。」

部下は上官を尊敬して
成長する、と、

協調性、あるいは、
人当たりの良さに加えて、
部下の育成が要求される、

という訳です。

また、このレベルの
人数になると、

『逸周書』「大武」に
「佐車旗を挙げ」とありまして、

額面通りの意味であれば、
軍旗を扱う裁量が生じる模様。

【追記】
主語が抜けている言葉が続く
部分につき、
文法通り
「車を佐(たす)け」とすべきか。

兵士の数とは関係なさそうな。

訂正します。

なお、「佐車」は
副将の搭乗する戦車。
御参考まで。

また、300という数ですが、
『春秋左氏伝』に
ちょくちょく例がありまして、

例えば、
春秋時代の終わり頃の
哀公十一年(前484)に
魯と斉が干戈を交えまして、

その折、
魯の左軍の指揮官の
孔子の弟子の冉有(求)が
率いた兵士の数が、
当該の300名。

溝の前で
進軍が止まり、

冉有が兵士に
信用されていないことで
御者(タダのドライバー
ではなく側近)から、
命令を三度出して徹底させろ、
と、突き上げを喰い、

(上記は小倉芳彦先生の和訳。
原文では、「三刻而踰之」
となってますね。
座右の字引きには
刻=回という解釈は
ないのですが、
そういう意味もあるのかしら。

一応、書き下し及び直訳は、
三刻でこれを踰(こ)えよ、
―つまり、300名が
45分で渡河せよ、と。

1刻=14分24秒、
100刻=24時間=1日。

御世話になっている和訳に
ダウトを掛けたりするのが
楽しいのではなく、
原文の表現に興味があるので
結果として、こうなった次第。
念の為。)

やれ、矛を使ったから
敵陣に突入出来ただの、
上に追撃を具申するだのの
記述の生々しさ。

各国の兵士の動員力が
高まっている世相とは
対照的に、

このクラスの指揮官の仕事は、
依然として、
現場で命の遣り取りに
他ならないようで。

【追記・了】

また、サイト制作者が、

この辺りの編成単位までは
指揮官が末端の兵卒にも
睨みが効きそうだと思うのは、

佐の上の編成単位の「右」。

右に必要とされる資質は「肅」。
厳格であることです。

さらに曰く、

恭しくして羞じることなし。
羞は則ち興ばざることなり。

指揮官が厳格であれば、
部下は従順でも卑屈にはならず
意欲的に動く、

と、いったところかと
思います。

加えて、御参考までに、

兵士の人数に対するイメージ
少しばかりしの足しとして、

500名までの範囲で
『周礼』の内容と
照合しますと、

以下のようになります。

『周礼』(維基文庫)、『逸周書』(維基文庫)、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版より作成。

鼙(へい):軍用の小さい太鼓
鐃(どう):小さい鐘
鐸(たく):大きな青銅製の鈴
莖(けい):刀身から突き出た
柄に埋める部分。なかご。
鋝(れつ):重さの単位、諸説あり。

以降、持ち歌、ではなかった、
史料を増やして
確度を高めていきたいと
考えていますが、

身分や指揮兵数に対する
大体の目安として、

剣の茎(なかご)
の倍数相当の長さ、
楽器、指揮官の資質、

といった要素が
あるかと思います。

因みに、太鼓は進撃、
鐘は退却や停止の合図が
相場で、

『周礼』の冬の大閲では
鐃を鳴らして
前進を止めていますが、

鐸は同じ金属製の鳴り物でも、
前進に使われていまして、

詳細については、

恐縮ですが、
調べる時間を頂ければと
思います。

おわりに

誤読の訂正もあり、
想定外に長くなり恐縮です。

最後に、以下に、
今回の記事の要点を纏めます。

1、『逸周書』における
100名の編成単位を
「伯」と称する。

その内訳は、前後左右に
各々卒(25名)を配置する
というものである。

前衛を「開」、両側を「閭」、
後衛を「敦」と称する。

2、1、のモデルは、
少なくとも、
後代の軍事研究の対象となった。

3、各々の編成単位には、
その指揮官に必要な資質がある。

下位の単位程、
兵卒の目線での人心掌握が
必要になる傾向がある。

【主要参考文献】
『逸周書』(維基文庫)
『周礼』(維基文庫)
薛永蔚『春秋時期的歩兵』
守屋洋・守屋淳『全訳 武経七書』2
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版
高木智見『孔子』

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『逸周書』から観る小規模戦闘 その1

はじめに

今回は、『逸周書』
記されている
小規模戦闘について綴ります。

人数については、
1名から25名
想定しており、

その他、白兵戦の原則
兵士に必要な資質等について
言及する予定です。

で、今回は、その1回目。

ただ、史料を読むにあたって、

サイト制作者の浅学にして、

この史料の文言だけでは
意味するところを
理解し辛い部分もありまして、

そうした部分については
他の史料も参考にした次第です。

それでは、
本論に入ることとします。

1、兵士に必要な資質

【注意!】この箇所は、サイト制作者の誤読です。

『逸周書』「武順」には、

軍隊の階級
その地位に必要とされる資質、
隊列の組み方等が
記されていまして、

その意味では、

小規模戦闘についての
核となる部分と言える
かもしれません。

さて、「武順」によれば、

軍隊の編成単位のひとつである
「卒」(25名)
必要とされる資質は、

ズバリ、「力」。

該当する箇所には、
「卒必力」、と、あります。

また、字引によれば、
「力」は、筋肉の働きを
意味します。

その他、勢いや作用、
下僕、といった意味が
あります。

要は、ここでは、

戦争を含めた
末端の肉体労働を
遂行するための能力かと
思います。

さらに、

件の「武順」において、
以下のような文言があります。

卒不力無以承訓。
均卒力、貌而無比、比則不順。

卒、力(つと)めざれば
以て訓を承けること無し。

均しく卒力めば、
貌比(たす)けること無し。
比は則ち順(したが)わざるなり。

貌:挙動・ふるまい
比:助ける
順:服従する

サイト制作者としては、

「力」には、

筋力や武芸の技量の他にも
真面目さが含まれる、

心・身・技の三位一体の意味合いが
感じられます。

一方で、

部隊の中に
不真面目な兵士
少なからずいると、

互いに傷を舐め合い、

程度の低い練度で
慣れ合うことで

上官の命令に耳を
貸さなくなるという、

組織が崩壊する際の法則
見え隠れすると
言いますか。

その他、「大武」にも、
「武を厲すに勇を以てす」
と、ありまして、

『逸周書』の説く
兵士に必要な「力」とは、
心技一体のものなのでしょう。

【追記】
正直なところ、
この部分は削除したいのですが、

素人の読み方の
悪い見本として、

何がしかの御役に立てばと思い、
残しておきます。

結論から言えば、

「力」は、ここでは、
尽力する、一生懸命になる、
といった意味です。

また、これは、恐らく、
兵士個人ではなく
25名の部隊長に必要とされる
資質です。

個人的には、
原文自体も紛らわしいと
思いますが、

それ以前に、

字面よりも文脈を重視して
読むべき文章だったと
後悔しています。

次回にて、
この辺りの話も原文付きで書く予定です。

【追記・了】

2、白兵戦の個人技の原則

『逸周書』の「武稱」に
以下のような件があります。

長勝短、輕勝重、直勝曲、
眾勝寡、強勝弱、飽勝飢、
肅勝怒、先勝後、疾勝遲、武之勝也。

文法が単純なことで、

書き下しは省略しますが、

大意として、
戦争の原則、程度のことは
分かるかと思います。

ここで問題なのは、

例えば、戦略・戦術・白兵戦、
といった、

戦いの規模に応じて
必要とされる箇所は何か、

ということだと思います。

例えば、「飽勝飢、」は
兵站の話ですし、

対して、「肅勝怒、」は、

どの規模の戦いにも
当てはまりそうなものです。

そして、ここでは白兵戦、

それも個人戦のレベルの話が
それに当たります。

因みに、

『逸周書』より
少し下った時代の価値観であろう
『司馬法』にも、

似たようなことについて
言及している件があります。

同じ春秋時代以前の史料として
参考になろうかと思います。

さて、同書の「天子之義篇」に、
以下のような文言があります。

兵雑(まじ)えざれば、
則ち利ならず。
長兵を以て衛(まも)り、
短兵を以て守る。
太(はなは)だ長なれば
則ち犯し難く、
太だ短なれば則ち及ばず。
太だ軽なれば則ち鋭し。
鋭は則ち乱れ易し。
太だ重なれば則ち鈍なり。
太だ鈍なれば則ち済(な)らず。

兵不雑、則不利。
長兵以衛、短兵以守。
太長則難犯、太短則不及。
太軽則鋭。鋭則易乱。
太重則鈍。
太鈍則不済。

犯:攻める
鋭:素早い
乱:秩序がない、秩序を崩す
済:成功する、仕上げる
ここでは敵に攻撃を当てることか。

武器が長過ぎては
こちらから打ち掛かるのは
難しく、

逆に、短ければ届きません。

軽ければ、
素早く斬るなり突くなり
出来るものの、

手数が多くなる分、

空振り等の
無駄な動きも多くなり、

攻防の秩序が乱れます。

また、重ければ動きが鈍くなり、

攻撃が当たらなくなる、
という次第。

因みに、
『周礼』「冬官考工記」にも、

矛について、
以下のような件があります。

凡そ兵は
その身に三を過ぐるなく、
その身に三を過ぎれば、
用に能うなきなり。
のみなくして、
また、以て人を害す。

兵無過三其身、
過三其身、弗能用也。
而無已、又以害人。

兵:武器
三:三倍
而已:「のみ」と訓読。

何だか、
無駄に長い引用ですが、

要は、武器の長さは、

身長の3倍以下にしないと
用をなさないどころか
害になりますよ、

―という御話です。

篠田耕一先生によれば、
しない過ぎるのだそうな。

当時、武器は木製の柄で、

これが鉄だと重過ぎて
振るに振れないという
事情があります。

さて、以上のような話は、

先述の『逸周書』「武稱」
「長勝短、輕勝重、」、
あるいは「疾勝遲」と、

恐らくは、
対応関係にあることと思います。

つまりは、
以下のような御話です。

まず、『司馬法』では、

長兵器にも短兵器にも
一長一短があり、

そのうえ、
機能が極端なものは
使い勝手が悪いことで、

集団を編制して
武器を組み合わせて
運用するのが望ましい、

と、説きまして、
(要は、「伍」か。)

『周礼』も、
武器の長さは
身長の3倍以下にせよ、
と、します。

対して、『逸周書』が、

敢えて、「長勝短、輕勝重、」
特に、「輕勝重」と説くのは、

武器の効能は、
個人技のレベルでは、

(会敵距離が或る程度あれば、)
リーチが長い方が
有利であることに加え、

威力よりも機動性を取る方が
戦場で生き残り易い、

という話かと想像します。

一応図解しますが、
これを描き始めた後で、
必要性を疑問視した次第。

『逸周書』(維基文庫)、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』より作成。

最後の「直勝曲」については、

残念ながら、

他の文献からは、
サイト制作者の浅学にして
思い当たる根拠はありません。

ただ、日本の斬り合いや
剣道の話を
摘まみ喰いする分には、

一点集中で
面的に防ぎにくく
武器も損傷しにくいことで、

攻撃の方法としては
実戦的である、

―という話か、

あるいは、
弓を射る際、

直射か
それに近い角度で射る方が
曲射よりも威力がある、

という話かと
想像します。

3、25名の部隊編成

以上のような
資質と個人技の原則を
有する兵士ですが、

ここでは、
それらの兵士の
小規模の編制単位について触れます。

これについて、

先述の『逸周書』「武順」には、
以下のような件があります。

左右の手、各(みな)五を握り、
左右の足、各五を履(ふ)む、
四枝と曰ひ、元首を末と曰ふ。
五五二十五を元卒と曰ふ、

左右手各握五、左右足各履五、
曰四枝、元首曰末。
五五二十五曰元卒、

履:「履く」でも良いかと。
四枝:両腕・両足。=四肢。
元:はじめの、第一の

文字通り大意を取れば、
以下のようになります。

まず、人間が5人いれば、
各々、両腕・両足が
左右5本づつある。

5名を人体に例えれば、

1名が頭で
これを「末」と言い、

他の4名は
両腕・両足となる。

この5名編制の5隊の25名を
「卒」と言う。

以上のような
サイト制作者の解釈から、

恐らく、人数の話ではあっても
隊列の話ではありません。

ですが、
同じ『逸周書』の「小明武」には、
以下のような文言があります。

戎をその野に遷(うつ)すに
王法を行ふに敦(つと)め、
濟ますに金鼓を用ひ、
降(くだ)すに列陳を以てす

戎其野、敦行王法、
濟用金鼓、降以列陳、

戎:軍隊
遷:移動する
敦:励む
濟:仕上げる
降:破る

ここで注目すべきは
「降以列陳(陣)」。

隊列による陣立てが
野戦の基本、
という訳です。

五五が掛け算の話と仮定して
「列」「陣」と来ると、

図解すれば、
以下のようになるのが
自然な解釈かと思います。

不気味なコピー・ペーストとなり
恐縮です。

『逸周書』(維基文庫)より作成。

もっとも、

サイト制作者の脳裏に
薛永蔚先生の伍のモデルの
バイアスがあるのも
否定出来ませんが。

さらに、ここで見え隠れする
5名の編制単位ですが、

「武順」の箇所以外にも、
先述の「大武」に
「射師伍を厲す」とあります。

これが意味するところは、

「伍」そのものか、

そうでなくとも、
軍の最末端は
5名の編成で動いている
解釈します。

因みに、
『周礼』「夏官司馬」には
「射師」という官職は存在せず、

それらしいものとして、
「司弓矢」という部署があり、

戦時、平時を問わず
弓矢の管理・教育を行います。

最高位の下大夫2名以下、
中士8名、その他、
下士より下の100名を擁する
部署です。

「師」は、責任者が士クラスで、
下級役人が数十名、
という部署が多いように
見受けます。

「射師」のイメージとして、
御参考まで。

また、「小明武」にも、
以下のような文言があります。

子女を聚(あつ)めることなく、
群を振ふこと雷のごとく、
城下に造(いた)り、
鼓行き呼參(まじ)わり、
以て什伍を正し、

無聚子女、群振若雷、
造于城下、鼓行參呼、以正什伍、

聚:徴集する
群:民衆
振:指揮する
呼:ここでは呼び声か
雷:響き渡る様、猛烈な様
造:到着する
參:交わる
正:ここでは整列させる、か
什伍:5戸、10戸ごとに編成する
民政上の隣保・互助組織

大意は以下。

物々しく城下に人を集めて、
既存の民政組織に準じて
整列させる、という話です。

以前の記事にも書きましたが、

サイト制作者が
この文言で思い出すのが、

『周礼』「夏官司馬」の
四季ごとに行われる
軍事演習の件です。

具体的には、

「司馬旗を以て民を致し」と、

下級軍人が旗を振って
民衆に呼集を掛けて
指定した場所に集め、

例えば、夏の場合は夜戦等、

季節に応じた
軍事演習を行う訳です。

また、「民衆」とは言うものの、

一国の首都の城郭に居住する
国人には、

1戸に1名、
それも60歳までの
軍役があります。

近代軍で言えば、

組織としては
予備役か在郷軍人に近い
感覚だと思いますが、

戦争が頻繁に行われることで、

実態は、現役同然の様相を
呈しています。

【追記】
すみません。
これは例えが悪いです。

と、言いますのは、

そもそも、

士以上の身分の
兵役自体が特権という
時代につき、

国民皆兵の社会での
徴兵を前提とした例えには
ムリがありますね。

書いたこと自体、
後悔しています。

【了】

つまり、確証はありませんが、

先述の「大武」の
「射師伍を厲す」の「伍」は、

仮に、『周礼』と同様の背景を
持つのであれば、

既存の民政組織と連動した
5名編制の軍事組織という話かと
思います。

おわりに

そろそろ、
この辺りで一区切りします。

次回はこの続きで、
人数を100名まで
増やす予定です。

最後に、例によって、
以下に結論を整理します。

1、兵士に必要な資質は「力」で、
心・身・技の三位一体の武芸を意味する。

2、武器の扱いとしては、
長い物、軽くても扱い易い物を勧める。

3、最末端の編成単位は5名で、
隊長を「末」と称する。

4、5名×5隊・計25名の編成単位を
「卒」とする。

この25名の隊は、
史料の文言より縦横各5名の方陣と
推測される。

【主要参考文献】(敬称略)
『逸周書』(維基文庫)
『周礼』(同上)
守屋洋・守屋淳訳・解読
『全訳 武経七書』2
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』

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