孫権と名士の微妙な関係

はじめに

更新が滞りがちで大変申し訳ありません。

さて、漢中・長安間の交通と北伐の話をする予定でしたが、
通勤の間に、断片的に目を通して本棚の肥やしになっていた
孫呉の正史の和訳を読んでおり
このネタが少し溜まったことで、
この話も忘れないうちに
少しやろうかなあ、と。

もっとも、
交通の話も近いうちにする予定です。

 

1、黒幕・先代の無責任時代の泥沼抗争

さて、以前の記事に、孫呉政権について、
中原で働くことしか眼中にない名士の集合体
書きましたが、

孫家にとって
本当に面倒であったのは
張昭等の外来名士よりも、

むしろ顧氏(顧雍等)や陸氏(陸遜等)のような
江南近辺の地元名士の方の模様。

と、言いますのは、以下のような御話。

 

まず、孫策の代
袁術の暴力装置として揚州に手を出した際、

上記の数々の地元名士様および
劉繇や王朗等のような
既存の地方官(こちらは外様の名士様)と
血で血を洗う抗争を繰り広げ、

オマケに代理戦争の黒幕の袁術との主従関係
御存知、皇帝を僭称したことで絶縁と相成り、

 

(ただし、袁術の娘を介して、
一応姻戚関係にはあるという不思議。

この方は、孫権の妾として、
袁家の衰退後も長らく後宮に身を置いており
聡明な婦人であったそうな。)

 

謂わば、孫家としては、
大黒柱と頼む後ろ盾を失った訳でして、

 

しかも台風の目である孫策本人も
こういう仁義なき戦いの渦中で
ヒットマンの手に掛かって横死を遂げるという
終局の見えない泥沼の展開。

 

余談ながら、あのシリーズが好きな方
(年配の方々と想像しますが)は、

1作目のラストの
「山守さん、弾はまだ残っとるがよ。」を
連想して頂ければ幸いです。

つまり、
目ぼしい連中が残らず抗争で倒れて
残った者も統率力が欠如している、
という具合で、

何人も死者を出した割には
誰が真の勝者だか判然としない状況を。

何の話か。

しかしながら、
孫策には別の顔もありました。

彼は単なる
戦争屋のトラブル・メーカーではなく、

名士から札付きの侠客まで
色々な社会階層の人と付き合い、
そして手厚くもてなしたことで、

彼の陣営には
文武を問わずに優秀な人材が
数多く集まったことも
見落とせません。

文にあっては
周瑜を筆頭に
呉の二張の張昭・張紘、

武あっては
太史慈・甘寧・蒋欽・周泰、
という具合に、

その後の孫呉政権の屋台骨を支える面々の
かなりの部分が、
既にこの段階で顔を揃えておりました。

無論、先代の孫堅の時代よりの
古参の武将も健在です。

 

 

2、ツンデレ名士共との馴れ初めは・・・

さて、孫家は飛ぶ鳥落とす勢いながらも
江南の地は未だ混乱状態で、
そのうえ当主が若くして斃れるという
カオス状態の中で、

孫策の跡を継いだのが、
今回の主役である

有名な孫仲謀こと孫権。

或る意味、袁術や孫策のやった
無責任な外交の負の遺産を整理すべく
江南界隈の名士に頭を下げ続けることと
相成りました。

陸遜との姻戚関係も恐らく
そうした文脈上のことですが、

この人の場合は
血統だけではなく、

地方官時代から
若年にもかかわらず
陽の当たらない辺境の治安対策で
桁外れの成績を上げたことに加え、

畑違いの荊州戦線についても
現実的な関羽の打倒策を腹蔵していたことで
呂蒙の眼鏡にかないまして、

関羽に無警戒な形で
最前線の要職に抜擢されました。

 

ただし、この時に陸遜が関羽に送った書面には
同盟関係を続けたいとありまして、

陸「遜」名前の如く、
遜(へりくだ)った文面ではあるものの、

浅学につき胸を借りる、
という類の宣戦布告ではありません。

 

その意味では、

警戒を怠る一方で
樊城攻略の際に呉の食糧を
ネコババしたりした関羽にも
非があるとはいえ、

こういう、

同盟を装い、
そのうえ兵隊を民間人に擬装して
狼煙大を制圧するような
呉の呂蒙や陸遜のやり口にも
どこか釈然としないものを感じます。

 

もっとも、

手紙は社交辞令で
軍人の擬装も常套手段というのが
当時の慣習がそういうものであれば、

どのような戦いであっても
勝てば官軍で戦後処理も円満にいくのでしょうが。

 

 

3、良薬は口に苦し

仕事は出来る儒家名士様。

―ですが、名士連中なんぞ、

実際に任用するとなると
面倒を起こす人が多いことで、

使う側としては
気苦労が絶えないものです。

公孫瓚なんか孝廉上がりの癖に
居直ってこういう連中を排除した位。

 

さて、具体的には、孫呉の顔ぶれは以下。

まずは、誰とでも揉める虞翻、

そして、張昭のように
やることは公明正大でも
頑固でワガママで口うるさい奴か、

(コイツに嫌われた魯粛なんぞ、
言うに及ばずです。)

顧雍のように、
温厚な人格者でも
酒席でもシラフの時と態度を変えないという具合に
(今の感覚で言えば、酒乱よりはマシなのでしょうが)

クソ真面目で付き合いにくい奴が多く、

 

そこへ行くと、

周瑜は非の打ちどころのない優等生で、
(演義に書かれたような陰湿さはありません)

闞沢は庶民の出の独学の苦労人ですが
性格が曲がらなかった円満な人で、

後、諸葛瑾も外様の苦労人で
有能ながら性格の丸い珍しい人。

あの政権連中の列伝を読むと、
知識人層はこういう人の方が稀な位です。

 

むしろ、蒋欽のような兵隊上がりの方が
人付き合いは丸そうな位。
呂蒙も年をとって学問を始めて
丸くなった印象を受けます。
(甘寧のようにブッ飛んだのも多いのですが)

 

とはいえ、稀有な軍歴のある陸遜でさえ、

学問大好きで
張昭と顧雍を足して2で割ったような感じの
真面目でズケズケとモノを言う人で、
しまいには島流し同然で憤死します。

―もっとも、時代も相当に悪かったのですが。

 

つまり、有能でもアクの強い人ばかりで、
人目も憚らずに
主君にとって耳の痛い諫言を
連発する訳でして、

こういう人材を使う方にも
相当な器量を要求される訳です。

 

しかも、家柄自体も
家臣の方が良かったりする訳で、

例えば魯粛なんか、
孫権に曹操との開戦を煽る際、

自分は名家だから心配ないが
あなたの場合は家柄が低いので
降伏してもロクな官職にはありつけない、と、

露骨なことを言う訳です。

 

魯粛としては
こういう嫌味は本意ではないにしても、

社会の実情がその通りであればこそ、
孫権の退路を絶つための言葉としての重みが
出て来る訳でして。

 

張昭等の名士も、この赤壁の開戦前の段階では、

事実、曲りなりにも
漢を背負った曹操への降伏こそが
主君や漢への忠節だと
大真面目に考えていました。

そして、曹操がグレて
本格的に簒奪を考え出して
荀彧等の儒家名士と揉めるのも、

この敗戦を契機とします。

 

4、酒と涙と名士と妾

ところが、
孫権も孫権で、元はかなりヤンチャな性質で、

幼少の頃には、
小遣い欲しさに下級官吏を抱き込んで
官金をチョロまかしたり、
(曹丕も同じようなことをやっていますが)

酒乱は元より
狩が大好きで、

家臣が下の者が心配するから止めろと諫言しても
多少の安全策を講じたものの
止めなかったり、

のみならず、特に、

歳を取ってからは
女性関係のトラブルが多く、
恐らくはこれが政権の致命傷になりました。

―詰まりは、無能な外戚の台頭です。

 

言い換えれば、

そういう生来は破天荒な人が
プライドの高い儒家連中に頭を下げ続けるという
胃薬の手放せない状態が
孫呉の一面でした。

 

―もっとも、
俗物・劉備の蜀漢も似たようなものですが。

 

まあその、人間社会、
不浄・不潔の中にこそ真理があると言いますか。
下情に通じていないと
得てして人の心も掴めないものでして。

 

また、孫権の人材起用の特徴のひとつに、

能力が高ければ、
過失や品行の悪さには目を瞑ったことが
挙げられます。

例えば、呂範や賀斉は浪費癖があり
身分不相応の派手な装いをしていたようで、

甘寧(名士ではなく軍人ですが)は
粗暴でよく人を殺すだとか
まあイロイロありまして。

で、仕事に支障が出ない限り、

こういうのを我慢し、
かつ、不満を言う人を宥めて
使い続ける訳です。

 

曹操の人材起用と或る意味似ていますが、

そもそも叩き上げの軍人や商人出身の武将と
衣食の心配をしたことがないような
儒家名士の政策通とでは
持って生まれた価値観が異なるでしょうし、

名士の間でも、
出身地域や学派等、
様々な対立要因があります。

 

ですが、
そうしたイザコザを少しでも丸く収めつつ
実力主義で仕事をさせなければ、
軍閥同志の熾烈な抗争を
勝ち抜けなかったのかもしれません。

 

名士を嫌って足場固めに失敗した公孫瓚、

特定の名士に好きにやらせて
大局を見失った呂布、

数多の名士の招聘には成功したものの
その調整に失敗した袁紹や劉表、
という具合に、

それまで馬群に沈んだ反面教師は
いくらでもいた訳でして。

 

しかしながら、
孫権が己の懐の深さを以って断行した
名士起用の対費用効果は
極めて高かったと言わざるを得ません。

民の心を掴むと称して
周辺の「異民族」を平らげて
その資力で国力・軍備の増強に貢献したのは
言うまでもなく、

その次のステップとして、
古典の重箱の隅を突いて
無理やり王朝をでっち上げるロジックまで
考え出すので恐るべし。

 

 

5、元祖、名士宅の放火犯?!

さて、孫権の名士関係の苦労話は
枚挙に暇がないのですが、

特に張昭との絡みは抱腹モノですので、
少し紹介します。

 

ある時、
孫権に非があって
張昭が怒ってヒッキーになりまして、

何度も詫びたのですが、
事態は改善しません。

そのような中、

孫権が何かの序に
張昭の自宅に出向く機会があったのですが、

門前で声を掛けても出て来ないので、
ついに逆ギレして
門に放火して燻り出そうとしました。

 

―何だか、襄陽近辺の
何処かの庵で聴いたような話ですが、

正史の〇飛や諸葛某の伝には出て来ないので、
存外、この話が元ネタなのかもしれません。

 

因みに、中国の歴代の三国志関係の古典では、
張飛にムチャクチャなことをやらせる
作品が多いそうで、
庶民のヒーローなんだそうな。

要は、『水滸伝』のコワいアンチャン宜しく、
破天荒に暴れ回る侠客のメンタリティを
この人に重ね合わせている模様。

 

さて、放火しても張昭は出て来ないので、
仕方なく門の火は消したものの
そこを動かずにいまして、
(孫権も孫権で意地になっていたのでしょう)

張昭の家の方でも
これをタダ事ではないと見たようで、

いい歳して駄々をこねる父親を
息子が無理やり引っ張り出して
主君・孫権に面会させました。

これで孫権も面子が立ち、
張昭を車で宮中に連れ帰って正式に謝罪し、
漸く張昭も出仕するようになりましたとさ。

 

孫権の名士層の家臣の中では
名声も実績もズバ抜けていた張昭が
丞相にも太傅(皇太子の教育係)
にもなれなかったのは、

当人のこういう「幼い」性格が災いした模様。
―因みに、当時の丞相は顧雍。

 

孫権曰く、
張昭に敬意を払わなかったのではなく、
あくまで適性の問題とのこと。

ゴネて引き籠ると政治が進まない、
ということなのでしょう。

 

6、落日の孫呉とキナ臭い魏呉の国境地帯

で、軍閥時代から王朝開闢までの
名士優遇の反動と言いますか、
「俗人」は易きに流れるとでも言いますか、

孫権の時代の末期から
孫静(孫堅の弟)の家系や外戚の無能連中が
台頭して来る背景には、

孫権が不運にして嫡子を早くに失い
後継者の選定が難しくなったことと、

本人がモウロクして
名士の諫言に耳を貸さなくなったことが
ありました。

 

さらに、こういう御家の危機にかこつけて
政策の主導権を名士層からの奪取を目論む
親族・外戚の醜い政治工作があり、

行き着くところは
二宮事件のような泥沼の御家騒動。

 

ここで注目すべきは、
一連の粛清で失脚したのは
陸遜だけではないことです。

孫権の代のかなりの数の名士の子息が、
優秀で品行方正にもかかわらず
粛清されています。

 

そして、ラスト・エンペラーの
孫晧の代になっても
政権自体からこういうメンタリティが抜けず、

加えて、当人の行いも醜かったことで
晋への投降者が続出し、
呉の王朝軍はその討伐に明け暮れることになります。

 

家臣の離反の大体のパターンとしては、

都の建業に召喚命令が出されたのを
粛清の兆候と受け取り、
籠城や亡命を企てるというもの。

要は、宮廷の政争の長期化で
地方の行政や軍隊の人心が離反している訳です。

 

もっとも、それ以前から魏呉の国境線では、
双方の陣営から投降者を出してはいましたが、

投降する兵力はそれ程多くはなく、
謂わば「埋伏の毒」とも謂うべき
フェイクも混じっており、

これに引っ掛かって軍歴を汚した者も
何名もいました。

 

7、切り札・陸抗の登板と三国統一前夜

ところが、司馬氏の簒奪辺りの時代から
政権の中枢で強大な軍権を掌握した者からも
離反者を出すケースが続出します。

 

司馬氏が毌丘倹・諸葛誕
「膿」を出し切った後、

今度は、内情がボロボロの呉からも
一族部曲を挙げての離反が常態化しまして、

皮肉にも、その鎮圧のMVPが、
かの陸遜の次男の陸抗

 

余談ながら、存命中の余命短い孫権が、
この若者に父親の非業の死について
泣いて謝ったそうな。
(孫権については、こういう逸話の多いこと。)

 

で、一連の家臣の離反の中で
特に規模が大きかったのは、
歩隲の息子の歩闡(ほせん)の離反です。

皮肉なことに、
歩闡が立て籠ったのは
かつて陸抗が修繕した西陵でして、

その守備の堅牢さがアダになり、
長期戦を強いられました。

 

諸葛恪がデタラメな補強して
任地を転々とするのに対して
この人は完璧主義を期すので、

諸葛恪がそれを知って
いたく恥じ入ったそうな。

当時の人間のメンタリティを考えれば、
陸抗のようなタイプが
少なかったのでしょうが。

 

そのような中、陸抗は、
こういう相次ぐ兵乱で軍隊が疲弊して
兵力も不足していたことで、

中央に上奏して内治の充実による
国力増強を進言すると共に、
国境では敵将の羊祜と慣れ合ったのですが、

この現実に即した措置が、
内応を疑った孫晧の怒りを買うという
末期状態を呈します。

 

謂わば、今年の〇足農業の吉田君や
90年代の中日や広島の新人王投手、
後にうどん屋さん(美味しいそうな)に転職された
巨人の某投手のように、

この人が戦列を離れればチーム自体が終わる、
というような状況か。

 

国力の疲弊と宮廷の腐敗が
末期レベルで同時進行しているという点では、

蜀漢の諸葛亮の時代とは
比べ物にならない程のヤバさだと思います。

 

なお悪いことに、その頃には、
荊州からの西進を阻んでいた同盟国の蜀も
滅んでいまして、

長江の天険も
以前のような神通力を
発揮出来なくなっていました。

それでも晋が呉への侵攻に着手するまでに
結構な歳月を要したのは、
晋の褒めようのない「大人の事情」のなせる技です。

 

その意味では、

めでたい三国時代の終焉、というよりは、

何だか既にこの段階から、

怠慢王朝の発足と失政による
さらなる動乱
結果的として、三国どころか
「国際色」豊かな十六国のバトルロイヤル
予兆
見えつつあった、と言いますか。

 

識者の説によれば、
大体孫権の時代辺りから、
地元の豪族が皇帝をないがしろにするという
南朝の風土が出来上がった模様。

もっとも、
孫家のような外様政権が
イロイロやった後にも、

三国統一後の
永嘉の乱による亡命政権の東晋も
当初は傑出した政治力で
地元豪族を飼い慣らす訳ですが、

次第に取り込まれていくという
流れになります。

(余談ながら、
むこうの言葉で前漢を「西漢」、
後漢を「東漢」と呼びます。
ネット検索等で御活用されたく。)

 

 

おわりに

例によって、ハナシの大筋を纏めますと、
以下にようになります。

 

1、袁術配下の孫策は揚州に出兵し、
  在地勢力との熾烈な抗争の結果、
  孫家と地元名士との仲は険悪になった。

 

2、孫策の跡を継いだ孫権は、
  その関係の修復に奔走し、
  国力の増強や王朝の樹立に成功した。

 

3、名士層は能力こそ際立っているが
  剛直な人士が多く、
  孫権にとっては
  その起用には多くの困難が伴った。

4、孫権の時代の末期から、
  外戚や親族が名士層を弾圧する類の
  政治工作が激増した。

5、政争の長期化に伴い、
  人心の離反を招いて国力が著しく低下した。

 

ただ、今回の御話は正史の和訳と
概説書による部分が多く
孫呉関係の学術論文を当たっていないので、
(プロの書いた概説書の内容を疑う訳ではないのですが)

正直なところ、
書き終わってからも内容が不安な部分が
いつもの記事以上にあるような気もします。

まあその、サイト制作者の
ノミの心臓が祟ってか、
細かい部分を抑えていないと
何だか不安になるものでして。

したがって、
例によって、
参考になると思われる部分以外は
話半分で御願い出来れば幸いです。

 

 

 

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻
金文京『中国の歴史 04』
石井仁『曹操』
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
川勝義雄『魏晋南北朝』
岡田由美『漂泊のヒーロー』
井波律子『三国志演義』

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肩肘張らずに読める?!良書アレコレ

残念ながら、前回の続きを
盆までに書けなかったことで、
せめて、その時間稼ぎの方法とでも言いますか、

古代中国の戦争や『三国志』の人物に関する
割合入手しやすい良書
いくつか紹介させて頂こうと思った次第です。

以前の記事においても、
書名・著者名だけは
参考文献として何度も掲載してはおりますし、

ここで紹介する本の要旨も、
何度となく
記事で書いているような気もしますが、

今回は、少々説明も付け足します。

 

「良書」の条件としては、

 

1、2018年8月現在、絶版ではないこと。

 

2、税抜で2000円以下でかつ、
地方都市でも大型書店であれば
店頭に並んでいるであろうこと。
田舎の県在住のサイト制作者も店頭で購入)

 

3、高校の世界史程度の大体の流れ
(高得点である必要はありません。)
分かっているか、もしくは、
三国志に興味がある程度の知識
気軽に読めるレベルの本。

 

以上の3点を想定しています。

 

ですが、博識な方の書かれた本というのは
実に不思議なものでして、

入門書程度の平易な内容でも
物事の核心部分をズバズバ突くもの
ありまして、

サイト制作者も
こういう御本からも随分と示唆を得た次第です。

ただ、研究者の書いた本につき、
視野の広い理解を行うために
話が多岐にわたる宿命にあり、

興味のない部分は
読み飛ばすか後から読むかするような工夫も
時には必要かもしれません。

また、文体や内容との相性等もあることで、

店頭で見付けた際には、
立ち読みして感覚を確かめられんことを。

 

それでは、
前置きが長くなりましたので、
そろそろトップ・バッターをコール致します。

後、著者名は敬称略です、悪しからず。

 

1、高木智見『孔子―戦えば則ち克つ』
山川出版社・世界史リブレット

「世界史リブレット」のシリーズで
100ページにも満たないのですが、
内容は非常に濃い本です。

さらに、一見、儒教関係の本と
思われるかもしれませんが、

同書は孔子が戦士の子弟で
職業訓練を受けている点や、

原始儒教自体が
春秋時代の戦時道徳をベースにしているという
興味深い考察を行います。

さらには、

中国史上でも稀である、
春秋から戦国への社会変動の様相、

―具体的には、
騎士道を体現したような
ストイックな戦車戦から
権謀術数の権化のような
ルール無用の歩兵の機動戦への変遷と、

それに伴う銃後の体制の整備、

―具体的には、領内に巨大城郭が乱立し、
人員・物資の大量動員を可能にする
集権体制の確立等について、

本質的な部分を
分かり易く説明しています。

 

『キングダム』の戦国時代の戦争や
三国志の戦争も、
まさにこの本の内容の文脈で
登場したタイプの戦争につき、

三国志や戦国時代を理解するために
数世紀のスパンでモノを見たい、
という方に御勧めする御本です。

 

―後、何と言いますか、

文学的な内容ではないのですが、

読後の感想としては、
良い意味で、こういうタイプの本には珍しい、
結構情熱的な御本だと思いました。

 

 

2、渡邊義浩
『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』
講談社・講談社選書メチエ

 

このサイトで記事を書くにあたって、
渡邊先生の御本を使うのが当たり前のようになり、
中々御礼を申し上げる機会がなかったのですが、
漸くその機会に恵まれました。

同書は、恐らく、
先生の学術論文のダイジェストだと思います。

さて、サイト制作者にとっては、
三国志の武将の見方が激変した御本でして、

仕事を辞めてこの本を読んだ折、
あまりの内容の面白さに、
丸1日掛けてノートを取りました。

 

社会の上澄みは、
学問を資力とした人脈が無ければ
何も動かない狭い世界。

大国や官僚制度の存在が前提で
初めて成立する
文武両道の盧植等「儒将」のカテゴリー。

脇を学歴名士で固める袁紹と、
学歴エリートにも拘わらず
北辺の修羅場で揉まれて
名士を排除し商人や傭兵と付き合った公孫瓚。

儒教名士でありながら
そのしがらみに嫌気が指して
ポエムやろうぜと居直った曹操。

ゴリゴリの法治主義「猛政」の
曹操と孔明に対して、
その反対の「寛治」をやってのし上がった、
と、ドヤる劉備。
そして、滅びる袁紹。

地元名士と揉めまくって
身を滅ぼした孫策と、
その後始末で連中(陸遜とか!)
に頭の上がらない孫権。

―と、言う具合に、

この時代の価値観や、
それを通しての人物・政策の評価方法等について
丁寧に説明されている御本。

 

少し難しい内容ですが、
『三国志』ゲーム好きの方には
難しい部分を読み飛ばしながらでも
一通り読んで頂きたい御本です。

 

3、渡邊義浩『三国志 運命の十二大決戦』
祥伝社・祥伝社新書

残念ながら、内容とタイトルが
どこか一致していない御本。

この辺りは、思想史に強い先生の性格が
滲み出ているような気もします。

しかしながら、豊富な史料の解析から
三国時代の時系列的な流れの
行間を説明する本として捉えれば、
成程と思う部分が多くもあり。

特に、意外に実証的な
『三国志演義』の話の盛り方や、
劉焉・劉璋政権の構造や始末の説明等が
核心部分を突いて、かつ、分かり易かったと
思います。

 

4、高島俊男『中国の大盗賊・完全版 』
(講談社・講談社現代新書)

イロイロな意味で4番打者な御本。

アカポスを辞めて
作家に転向された先生の書かれた
御本だけあって、
文体も内容もブッ飛んでいます

笑えるという意味では、
今回紹介する中では一番だと思います。

―それはともかく、
真面目な話、
具体的な内容としては、

王朝時代(民国時代にも片足を突っ込む)
の中国における
向こうで「盗賊」と呼ばれる
アウト・ローの武装集団の定義や、

末端の社会の
「兵匪一体」に代表されるようなカオスさ、

人が集まって兵乱になるロジック等が、

丁寧で分かり易く説明されています。

 

後、最終章の毛沢東の悪口については、

このサイトとしては、どうも、
本格的に扱うこと自体が
テーマから外れていそうなことで、

一読の価値のある
中々面白い余興としておきます。
古典の底力とでも言いますか。

 

5、篠田耕一『武器と防具 中国編』
新紀元社・Truth In Fantasy13

篠田先生の『三国志軍事ガイド』が絶版につき、
こちらにしました。

出版社自体が歴史系その他の
サブカルチャーの考証に滅法強いところ
なのですが、

 

中でも同書は、

古代から火砲が登場した直後までの
王朝時代における

冷兵器・暗器・火器といった
向こうでは基本である
武器のカテゴライズや、
時系列的な発展の系譜、製法、
城郭攻防時の多種多様な兵器の用途、

―といった具合に、

実際に戦争や乱闘で使用された
武器・防具・兵器等について
詳細な説明を行っております。

無論、有用なイラストも豊富です。

 

さらに、戦争は元より、
カンフー等の武術が好きな方にも
色々と示唆を与えるであろう御本です。

ヌンチャクが元は籠城側の武器で
墨子の本に出て来るとか、
目からウロコが落ちました。

 

6、浅野裕一『孫子』
講談社・講談社学術文庫

『孫子』の解説書です。
原文・書き下し文・和訳と、
それに付随する説明が記してあります。

この種の識者の和訳本の有用なところは、
訳の分かり易さ以上に、

度量衡や部隊の編制単位等、
当時の用語の説明が
分かり易いことです。

また、この御本については、
巻末の『孫子』の時代背景や
成立の経緯の説明が充実しています。

あくまで個人的な意見ですが、

企業人や自衛官の方が
御書きになったものよりは
こちらの方を御勧めします。

孫子の兵法の限界めいたものも
見え隠れすることで、
物事の良し悪しを公平に見ることが
出来ると思うからです。

 

 

最後に、
まとめという程のことではありませんが、

ここで紹介します御本が
皆様の御役に少しでも役に立てばと
願うばかりです。

カテゴリー: 人材, 軍事 | コメントする

交通網から観る北伐 前編

毎度のこととはいえ、

計画通りに行かずに

とにかく、
起承転結を付けて早く終わらせよう
焦りながら綴っていましたら、

書けば書く程
泥沼でもがく様相を呈しまして、
孔明先生の北伐を
笑えなくなりました、などと。

で、その結果、中身がない割には
15000字(除・追記分)に膨れ上がってしまいまして、
(日本人は1分間に500字程度読むそうな)

無駄な話も多いことで、

例によって、
章立てを付けます。

適当にスクロールして
興味のある箇所だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

 

はじめに

1、仲達と張郃の用兵観を垣間見る
1-1、祁山出撃時の魏軍の軍議
1-2、陣頭で罵り合う秦漢時代の英雄達
1-3、デフォルメされる黥布の入れ墨
1-4、仲達の恐れたものとは?

2、北伐開始と街亭の戦い
2-1、魏の天水界隈の治安政策
2-2、祁山に出撃する蜀軍主力
2-3、古代中国における亭
2-4、蜀軍の異民族対策と馬謖の起用
2-5、蜀の軍中で一体何が起きたのか?
2-6、後漢・三国時代の地縁の話

3、城郭攻防の教材・陳倉攻防戦
3-1、蜀軍出兵の御粗末な経緯
3-2、郝昭の履歴書
3-3、城攻めの「歴史は繰り返す」
3-4、古代中国の籠城戦あれこれ
3-5、王双が切られた経緯を邪推する?!
3-6、張郃の恐るべき強行軍
3-7、郝昭の放言VS儒教の死生観

4、やっとこさ僻地で初勝利の蜀軍
4-1、魏の主力の野戦部隊はいずこ
4-2、端歩の橋頭保・陰平と英雄達の棋風?!

おわりに

 

 

はじめに

私事で恐縮ですが、

タダでさえ更新が遅れているうえに、

先日、安い肉ですき焼きをやった結果
生卵を食べて伏兵のサルモネラ菌にやられ、
(皆様は絶対になさらないように!)

腸炎を患って1週間入院するという
職場にも迷惑を掛けるという
大失態を犯しまして(アホの極みです)、

その結果、
読者の皆様には空振りばかりさせて
大変恐縮です。

季節も季節につき、
兵糧の管理は
くれぐれも慎重になさいますよう。

 

1、仲達と張郃の用兵観を垣間見る

1-1、祁山出撃時の魏軍の軍議

さて、長安~漢中間の交通網の話
いよいよ北伐に突入する訳ですが、

そのマクラとして、
『晋書』の司馬仲達の伝
以下のような話を挙げることとします。

まずは、この辺りの地図を挙げます。
ヘボい絵ながら。

久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」 篠田耕一『三国志軍事ガイド』 金文京『中国の歴史 04』 渡邊義浩『三国志 運命の十二大決戦』より作成。 赤の矢印は蜀軍、 青の矢印は魏軍の行軍経路。

頃は、北伐も佳境の
孔明先生の祁山出撃(231年春)の折、

全兵力で蜀の迎撃を企図する仲達に対して、

魏の名将・張郃は、
後方の雍や郿にも守備隊を置くよう
具申します。

しかしながら仲達は、

前衛の部隊が勝てば良いが
敗北した場合は、
軍を三分して黥布に敗れた
楚のようになる、と、

これを却下します。

因みにこの楚というのは、
劉邦の漢が中国を統一後、
弟の劉交を王に立てた国でして、

早い話、
劉邦が項羽を滅ぼして
不要になった猟犬・黥布を
処分しようとして、

逆に、その弟が獰猛な飼い犬に
手を噛まれたという御粗末な話。

 

1-2、陣頭で罵り合う秦漢時代の英雄達

余談ながら、この黥布という武将は、
泣く子も黙る項羽の軍の先鋒大将という戦歴は
決してダテではなく、

劉邦が繰り出す鎮圧軍を大いに苦しめます。

『史記』にある笑える逸話として、

黥布の軍が劉邦の軍と直接対峙した折、

何の恨みがあって乱を起こしたか、
という劉邦の問いに対して、

居直った黥布は、
皇帝になりたかったから、
と、言い放ち、

このラテンのノリの入ったような
人を喰った返答に対して、

怒り狂った劉邦は、
散々に黥布の悪態を突いたそうな。

 

因みに、
劉邦の時代の戦争の流儀のひとつに、
大将同士が
陣頭で丁々発止の遣り取りをすることが
少なからずあった模様。

今回の場合、
劉邦が城中から
野戦陣地の黥布に呼び掛けるという状況。

 

その他、この戦いの前にも、
劉邦と項羽が
広武山の野戦陣地から遣り合いまして、

項羽は劉邦に
一騎打ちを持ちかけまして、

頭で戦おうとかわす劉邦に対して

項羽も抜け目なく、

予め伏せた弓の名手に
劉邦を狙撃させて負傷させます。

 

 

1-3、デフォルメされる黥布の入れ墨

さらに現代史上でも、
黥布についての
多分笑える逸話も挙げておきます。

黥布の「黥」という字は、
何と、イレズミの意味。

本名は「英布」というのですが、
通名の方が有名になったという御仁。

歴史の表舞台に立つ頃には
罪状は不明ながら
履歴にマエが付いていました。

因みに、字引によれば、
罪人の額に刺し傷を付けて
入れ墨をするのが作法だそうな。

 

これに関して、
彼是30年程前に
本宮ひろ志先生の
『赤龍王』という漫画が描かれました。

確か、司馬遷、ではなく、
司馬遼太郎先生の『項羽と劉邦』を
叩き台にした作品と記憶しますが、

これに出て来る黥布の面相が
ブッ飛んでいまして、

髭モジャの坊主頭で
顔の上から下まで
瞼の幅で入れ墨が入るというもの。

—史実とは異なると思います。

 

さらにサイト制作者が驚いたのは、

その数年後に
光栄さん(現・コーエーテクモHD)の出した
『項劉記』というゲームで、

黥布の顔のグラフィックが
件の漫画のそれに
かなり似ていたことでした。

 

そもそも90年代自体(それ以前もか)が
版権についてかなりアバウトな時代でして、
(今が過剰な気がしないでもありませんが)

特に、当時はまだ利用者が少なかった
パソコンの(御子様がやってはいけない部類の)
ゲーム・ソフトなど、

有名キャラクターが無断で使われる例は
枚挙に暇がありませんでした。
(『項劉記』はコンシュマー機にも移植)

 

—もっとも、当時のパソコン・ゲームの
無法地帯な実態を知ったのは
少し後のことですが。

 

それはともかく、

本宮先生の描いたブッ飛んだ絵柄を
当時はまだ堅い歴史ゲームを作っていた光栄さんが
恐らく参考にした辺り、

当時、サイト制作者自身は
社会人どころかまだ中高生でしたが、

バブルが弾けた後とはいえ、
あの時代のエネルギッシュでいい加減な空気を
少し懐かしく思った次第。

 

もっとも、その10年後には、

ゲーム機の性能向上と相俟って、

この黥布の他にも
黒狼将軍・王離や
怪しい拳法を使う『龍狼伝』の仲達といった、

当時の漫画に出て来る異端児が
霞んで見えるようなのが
次々に登場するのですが。

 

で、こういう史実をモチーフにした
文学作品のデフォルメ化
エスカレートする現象について、

一時仕事で御世話になった
中国文学の博識な先生が、確か、
以下のような御話をされていたと
記憶します。

当時公開されていた
『レッド・クリフ』を例に、

こういうものは
後世の書き手によって
如何様にでもなるもので、

むしろ、それを、
個々の作品として楽しむための
度量を持つことこそが肝要だ、と。

例えば、時代劇の合戦や殺陣のシーンなど、
学術研究の進展と
その成果を反映した上でのデフォルメ化の
繰り返しなのかもしれません。

 

 

1-4、仲達の恐れたものとは?

話が脱線して恐縮です。
仲達がこだわった故事の話
戻します。

で、その『史記』によれば、
この折、劉交は自軍を三分して
互いに連携させようとしたものの、

ひとつが負けた後、
残りふたつが連携するどころか
逃げ出したという故事です。

仲達は、この二の轍を踏むのを恐れたのです。

 

さて、祁山の戦いは、

結果として、
魏は恐らく有りっ丈の兵力を注ぎ込んで大敗
不幸にして張郃も戦死しましたが、

敗北とは言うものの
戦線が崩壊する程の損害でもなく、

一方のも、
魏と睨み合って挑発する過程で
兵糧を消耗し、
撤退を余儀なくされました。

 

—兵力の分散を嫌う仲達と
後方の守備隊配置を説く張郃。

 

あくまで結果論としては、

蜀軍は後方には来ず、
さらに敗れても戦線を維持したことで、

どちらかと言えば、
仲達の見立てが正しかったように
思えますが、

良くも悪くも、

当時の戦争の経験の浅い知識人と
叩き上げの軍人の用兵思想の特徴が
浮彫になっているように見受けます。

そして、秦嶺界隈の急峻な地形の存在が、
両者の用兵思想の違いを
一層際立たせる訳でして。

 

この逸話を記憶の片隅に止めて頂きながら、
以下の北伐の話を御笑読頂ければ幸いです。

 

 

2、北伐開始と街亭の戦い

2-1、魏の天水界隈の治安政策

さて、夷陵で呉に大敗した劉備の死後、

諸葛孔明が生前の劉備のヘマの後始末を終え、

さらには塩鉄の専売等により
戦費捻出の体制を整え、

ついに悲願の北伐へと踏み切る訳ですが、

その頃には、魏も魏で、
秦嶺界隈の治安政策に目途が付く段階へと
突入していたようです。

例えば、郭淮は220年の曹丕の即位の折に
雍州刺史を代行して以降、
羌族の反乱の鎮圧や懐柔に勤しみます。

懐柔の方法も、
実に手の込んだものです。

降伏する羌族に対しては
親類関係や歳の長幼等の履歴を徹底的に洗い、

引見の際には
そうした情報に基づいて
肌理(きめ)の細かい対応をしたそうで、

こうした硬軟取り合わせて
粘り強い治安政策を展開した結果、

孔明の北伐の際には、
魏の兵站活動への動員に成功します。

 

2-2、祁山に出撃する蜀軍主力

久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」 篠田耕一『三国志軍事ガイド』 金文京『中国の歴史 04』 渡邊義浩『三国志 運命の十二大決戦』より作成。 赤の矢印は蜀軍、 青の矢印は魏軍の行軍経路。

孔明も孔明で、
恐らくそうした魏の事情も
弁えていたと思いますし、
それは後述しますが、

純軍事的な話としては、
自ら率いる本隊は祁山に出撃し、

当時の秦嶺の主要幹線である褒斜道には
趙雲を主将とする陽動部隊を
差し向けます。

さらに、事前には、
褒斜道経由で長安を攻撃すると
大々的に喧伝していたことで、

魏にとっては
虚を突かれた形となりました。

時に228年正月のことです。

 

ただ、事前の作戦計画策定の段階で、

魏延が5000の騎兵と
同数の輜重部隊で
子午谷経由での長安攻撃を具申し、

これを孔明が却下するという一幕が
ありました。

 

ですが、
ここで注目すべき
奇襲の成否ではなく、

先に挙げた張郃が
後方の奇襲を警戒するという用兵思想。

 

ただ、現実の侵攻経路は、
先述のように、祁山と褒斜道。

兵站関係のリスクを排除した正攻法と言えます。

 

対する魏も、
皇帝の曹叡は気鋭な君主でして、
即位早々に長安に出張ります。

 

さて、当時の漢中から関中に抜ける幹線のひとつに
関山道という道がありまして、
天水に至ります。

長安からは距離がありますが、
地形は険しくなく
兵站の制約が少ないのが特徴です。

 

歴史の追求様によれば、
詳細なルートは
漢中から陽平関を出て、下弁、岐山(祁山か?)
を経るとのこと。

非常に博学なサイト様です。
ww.rekishinoshinzui.com/entry/8879924
(一文字目に「w」を補って下さい。)

ただ、
西漢水の東西のどちらに出るのかは
サイト制作者の浅学で不明です。

恐らく、蜀軍の祁山への出撃は、
2回共この経路だと思うのですが、

この秦嶺界隈の、
渭水の北は東西の移動に有利、
南側は南北に有利、

—という地理上の性質を考慮すれば、

天水界隈で橋頭保を固めて
渭水の北岸に進出し、

本丸の長安を目標とした東進に
弾みを付けたかったのでしょう。

 

この折、蜀軍にとって幸いなことに、

刺史の郭淮が視察に出ていたこともあって
天水を含む三郡が蜀軍に離反しました。

この人の珍しいヘマとでも言いますか。

そして、ここで登場する橋頭保が
有名な街亭。

 

2-3、古代中国における亭

因みに、「亭」とは、

戦国時代には存在が確認出来る
軍事通信基地であり、

また、有事の際の
軍隊の野営地・集合地でもありました。

したがって、
例えば漢代の場合、

反乱が起きると
政府軍と反政府軍の間で
亭をめぐって熾烈な争奪戦が起きる
宿命にありました。

 

一方で、平時には、
役人御用達の宿舎である以外にも、

亭長以下数名の兵隊が常駐し、
管内を巡回して
犯罪を取り締まるという具合で、

そうなると
亭長は地域の顔役という側面も
ある訳ですが、

こうした施設や職務上の性格から
現在で言うところの「警察署」などと
称される訳でして、
それ自体は間違ってはいないと思います。

ただ、軍隊と警察の職務領域の境目が
不明確な前近代の話につき、
訳す方も悩ましいと言いますか。

余談ながら、
「亭」の責任者である亭長は、

職務放棄して飲んだくれた劉邦

その子孫で
上司の督郵を殴って
職務放棄した劉備経験したという、

由緒正しき官職です。

 

 

【追記】

誤記の訂正ですが、

劉備が亭長をやったのは演義の御話。
正しくは、安喜県の尉。

 

以下は、先の記事の復習となります。

尉は、県の軍隊(≒警察)の責任者ですが、
小規模の県では県の責任者が尉官を兼任します。

当時の地方行政には二系統ありまして、

具体的には、
民政部門の郡(太守)―県(令・長・相)―
郷(郷三役)―里(里正)の系統と、

治安部門の都尉(郡)―尉(県)
游徼(一部の郷)―亭長(亭)の系統が
存在します。

ただし、後漢になると都尉が廃止され、
県の責任者が兵権を手にします。

因みに、三国志の猛将の中には、
若い頃にこの「尉」をやった人が
少なからずいます。

(これ以下の役人の序列は、
研究のレベルでは、
定説がある部分と議論が分かれる部分が
混在します。)

さらに、治安部門の系統の末端には、
亭の他に郵という拠点もあり、
亭と郵が併設された拠点もあります。

で、これを統括したり、
あるいは監察の役目も帯びたのが
例の督郵でして、

後漢の動乱期には、

州の刺史や牧が、
治安部隊の下級指揮官である亭長や
監察官である督郵に直接指示を出し、

郡県の頭越しに支配力を発揮し軍閥化したそうな。

 

【了】

 

 

 

 

—それはともかく、
こういう風に考えると、

「亭」は、
当時の感覚としては、

地名というよりは
拠点の名称といった方が
恐らくは実相に近いのかもしれません。

 

例えば、現在で言えば、
ドラマの影響で某県警が開設した「湾岸署」、
サイト制作者が好む安酒の「フォート・ウィリアム」、
(西部劇なんかも、この感覚だと思います。)
—という具合。

県城のように場所の特定が難しいのは、
恐らくこういう事情かと想像しますし、

「街亭」という名前自体、
当時としては、何処の郡県にもありそうな
有り触れた名前にも思えます。

(これはサイト制作者の浅学の極みですが、
以下の追記分は、その件に関する善処と言いますか、
夏休み、ではない、休日の「自由研究」の成果です。)

 

 

【追記】

『グローバルマップル 世界&日本地図帳』p12を加工。

 

街亭略陽県について少々。

 

サイト制作者自身、

記事を書く前に、
多少なりとも
ネットで調べれば良かった
非常に後悔しております。

今更ながら思い知る、文明の利器の有難味。

「百度百科」・街亭
ttps://baike.baidu.com/item/%E8%A1%97%E4%BA%AD
(一文字目に「h」を補って下さい。)

これによりますと、
街亭は、正式名称「街泉亭」。

現在の甘粛省天水市秦安県
(例のヘンな地図の「街亭」の位置!)
に位置します。

 

この地は前漢時代には
天水郡「街泉県」と言いまして、

交通の要衝という事情に加え
文字通り年中枯れない泉があってか、
所謂「兵家必争之地」であったそうな。

 

さて、ここからが面倒なのですが、
後漢時代に「略陽県」と改称されました。

光武帝の時代のことだそうで、
1世紀の中頃の話かと思います。

 

―既に御気付きの方もいらっしゃるかと
思いますが、

この「略陽県」という地名、
実は雍州・武都郡にも存在しますが、
この話は後述します。

 

で、(街亭のあった)現・秦安県の話
戻りますが、

この地は、南北朝時代には
「略陽県」から「隴城県」に改称され、

隋代に「河陽県」に変わったかと思えば
また「隴城県」に戻され、

隋唐時代には大体は「隴城県」と呼ばれ、
金の時代以降、現在の「秦安県」の名称が
定着したようです。

 

因みに、現在のこの辺りの地理について
もう少し詳しく触れますと、

街亭の辺り
同県の「隴城鎮」という
県道462号沿いの集落でして、

渭河(渭水)の支流の南を県道が走り、

街道沿いには中華料理屋だの
バイクや自動車の販売店だのが
何軒か軒を連ねるという、

昨今の日本で言えば、察するに、
典型的な地方の郊外の風景と
似たようなものなのでしょう。

―もっとも、航空写真で観ると、
実際の県道や各々の店の位置が
グーグル・マップのそれと結構ズレているのが、
機密にうるさい共産圏らしいと言いますか。

 

現地の同地の写真については、
他の数多のサイトさんが興味深いものを
掲載していますので、

「街亭古戦場」で画像検索を掛ければ
「へえ~!」と思うものが
色々と出て来ます。

 

今度は雍州・武都郡の「略陽」の御話。

サイト制作者自身、以前から、
現・略陽と街亭の位置が離れ過ぎているのが
腑に落ちずにいました。

現在の略陽を治所と仮定すると、
ひとつの県の管轄地域にしては
街亭との距離が開き過ぎているからです。

で、その謎が、
事もあろうに百度検索で氷解したという
とんでもなくマヌケなオチ。

―それはともかく、

武都郡の「略陽県」は、
現在は陝西(せんせい)省略陽県
と言います。

秦の時代には蜀郡葭萌県
(葭萌関があったところでしょうか)、
前漢時代の前111年に武都郡略陽県と
相成りました。

で、229年の第3次北伐
蜀の陳式の部隊がこの地を制圧した後、
「沮県」に改称。

その後、ここも、イロイロありまして、
北魏の時代には「武興県」、
西魏の時代には「漢曲県」、
隋から五代王朝時代までは「順政県」

そして、宋代には再び「略陽県」となり、
今に至るという御話。

 

【了】

 

 

2-4、蜀軍の異民族対策と馬謖の起用

さて、蜀軍の侵攻に対して、

一方の魏も、当然ながら、
この方面において反撃に出て来まして、

部隊の指揮官は歴戦の古強者の張郃です。

この辺りの経緯については、

先の記事で何度となく触れましたように、
やはり並木先生の下記の論文の一読を
御勧めしたいと思います。

並木淳哉「曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次「北伐」」
ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を補って下さい。
また、同サイトで検索を掛けると
PDFのファイルが掲載されているページに
行けます。)

ここでは、
同論文の当該の箇所の要約となりますが、

この張郃は、

曹操の漢中攻略時には先鋒を務め、

板盾蛮の懐柔の折には、
足場の固まっていない劉備の足元を見る形で
漢中から巴郡まで進撃したという
過去があります。

したがって、
漢中・蜀の地理に精通し、

さらには、天水郡界隈に移住した
板循蛮にとっては救世主という、

類稀な軍才以外にも
戦地の事情にも精通した
うってつけの人材であった訳です。

対する蜀側は、
御周知の通り先鋒大将は馬謖、
副将は王平。

並木先生は、
特に王平については
板循蛮との生活が長かったことで、
その懐柔を期待したとおっしゃっていますが、

その文脈で考えれば、

これはサイト制作者の憶測(妄想)に過ぎませんが、
馬謖の起用についても
同じような側面が見え隠れします。

 

と、言いますのは、

孔明の南征の際、
南蛮地域の人心掌握を最優先するよう
孔明に具申したのが、
他ならぬ馬謖でありました。

 

その折の馬謖のこの言葉は、

劉備に口達者の烙印を押された
イメージから想像するような
(中国の知識人の大好きな)
何処ぞの書物からの孫引きめいた
根拠の薄弱な妄言ではなく、

成都より遥か南西のド田舎の
越嶲(えっすい)郡の太守として、

中原との生活習慣の違いは元より、
言葉もロクに通じないような住民相手に
治安政策に苦心した経験からの
金言でした。

これに因みまして、

孔明が劉備の失策の尻拭いとして
南蛮政策に奔走する過程で
若い人材を発掘したためか、

馬謖のみならず、

蜀の武将には、
例えば馬忠や張嶷等、
南蛮の事情に精通した武将が多いのですが、

反面、孔明の息の掛かった部下には、

身分の高い者の中では
北辺の事情に通じた者が
少なかったのでしょう。

この辺りは、
俄かに大権を掌握した孔明が
膝元(蜀・南蛮)の安定に
奔走せざるを得なかった事情
祟っているように思います。

 

結果として、

街亭の確保という重要な任務を帯びた
蜀軍の蜀側の先鋒の指揮官は、

御周知の通り馬謖、
副将は王平、

と、相成った訳ですが、

異民族の懐柔という観点からは、

刺史の身分で
この地の羌族を何年も掛けて懐柔した郭淮
一軍の指揮官として
敵地で張飛と50日も対陣して
板楯蛮の撤退を援護した張郃に対して、
(郭淮も広義では街亭の戦いに参戦しています。)

南蛮の治安政策の経験があるとはいえ
この地の異民族との接点のない馬謖と、

板楯蛮の事情に精通しているとはいえ
高々一介の雑号将軍で
人脈は大きいとは言えない王平では、

いささか役不足であることは
否定出来ないと思います。

言い換えれば、
蜀の人材不足を露呈している訳です。

で、挙句、後述するように、

どうも、
かつて板楯蛮の居住した
巴西郡の出身者で固めた部隊を
先鋒として送った模様。

そのやっつけぶりが、
結果として
孔明先生の足元を掬うことになりまして。

 

 

2-5、蜀の軍中で一体何が起きたのか?

果たして、戦いは蜀側の大敗に終わり、
軍は一部を除いて四散しました。

純軍事的に見れば、
直接的な敗因は水源を絶たれて
戦意を喪失したことなのでしょう。

 

一方で、
『魏書』の曹叡の伝によれば、
蜀軍は魏の軍旗を見ただけで逃走したとか
書いてありまして、

伝の文脈から考えれば
曹叡を褒めるための誇張にしか
取れないのですが、

サイト制作者としては、
存外真実に近かったのではないか
想像(妄想)します。

言い換えれば、

用兵の手違いどころか、

軍規の崩壊に相当するレベルの
ヤバい事情があったことを
匂わせてるとでも言いますか。

と、言いますのは、
先述の並木先生の論文に加えて、
先の記事にも少々書いたのですが、

確かに馬謖の指揮には
煩雑な命令が多く
王平が苦言を呈したそうで、

対して、敵将の張郃は、

当人の伝によれば、
作戦計画の綿密さやその遂行能力には
定評のある指揮官でして、

指揮官としての力量の差は
言わずものがなでしょう。

 

しかしながらその一方で、

有名な山に陣取る戦法自体は
この地域の防衛戦では
どうも常套手段であったようで、

実は後年の祁山界隈での戦の折、

かつて馬謖に平地に陣取るように指示した
孔明先生も、

鹵城の防衛の際、
仲達率いる魏軍との睨み合いでこれをやり、

やはり魏軍に水源を抑えられて
撤退しています。

―ですが、軍自体は崩壊には至っておらず、
魏軍の追撃に対して
逆襲して追い散らす余裕すらありました。

 

その意味では、
並木先生の御指摘の通り、

馬謖とて、あくまで用兵上は、
或る程度は現地の事情に即して
動いていた訳です。

 

さらには、
王平が軍鼓を掻き鳴らして
伏兵を擬装して善戦した話が
後世に残ったのは、

張郃の用兵以前に、

王平以外の部隊の動向が
あまりに醜かったことを

暗に示唆しているように見受けます。

 

サイト制作者が
何故そのように考えるのかと
言いますと、

(逃亡を企てた)馬謖以外にも、
戦後に処刑や兵権剥奪といった
キツい処分を受けた将軍が何名かいまして、

主将の用兵がアレなだけで
部下の将にも
こういう過酷な処分が下るものかと思う次第。

 

言い換えれば、
裁きが公平で職務怠慢を嫌う孔明が
こういう処分を降すこと自体、

少なからぬ部隊の間で
敵前逃亡のような醜態が横行した可能性は
否定出来ないと思います。

 

見方を変えれば、

色々な方が指摘されるように、
単に敗戦すれば重罪を喰うというルールであれば、

褒斜道を進んだ陽動部隊の趙雲や鄧芝も
降格処分程度では済まない筈です。

加えて孔明の死後、

北伐の終了により、
馬謖のレベルで責任を追及された将軍殿が
いらっしゃったでしょうか。

 

さらには、馬謖に連座して
処刑・処分された将軍―
張休・李盛・黄襲は、

王平と同じ巴西出身の可能性が
あるそうで、
(これは中国人の研究者の御説で
裏付けにはもう少し検討を要する
そうですが)

つまりは、
略陽県界隈に移住した板循蛮とのかつての地縁者で
構成される部曲(部隊)を
そのまま馬謖に預けて前線に送り出した、

とも取れる訳でして。

 

そう考えると、

王平は敵の懐柔こそ不首尾に終わったものの、

私情を滅して
蜀側の司令官としての責務を全うした訳で、
確かに孔明が好みそうな
見上げた仕事ぶりなのでしょう。

 

2-6、後漢・三国時代の地縁の話

余談ながら、
この時代における地縁(大体は郡レベル)による
連帯感の強さは相当なものです。

例えば、いつかの記事で触れたような
学閥や山賊を装った豪族の話もそうですし、

春秋時代は県単位の小領主が
支配地域を集権的に統治し、

孫臏の兵書にも
兵隊は里や郷のレベルで部曲を編成しろ
などと書かれています。

下々の世界どころか、
朝廷のゴタゴタのレベルですら、

例えば、曹操の後継者争いも、
特に曹植の側には
曹氏の出身地の地縁・血縁集団である
「譙沛集団」が背後に控えており、

この集団が、次の時代には、
曹叡の司馬仲達の牽制にも
一役買います。

 

―それはともかく、

穿った見方をすれば、

蜀軍が地縁者を使って
切り崩しに掛かったものの、

反対に、
魏軍に取り込まれたか、

あるいは、
兵隊のレベルで
巴西人同士の抗争を嫌って
露骨な戦闘放棄を行った、

と、いったような状況すら
想像出来るかと思います。

 

そのように考えると、

蜀軍の敗因は、

馬謖の実務レベルでの軍才の欠如も
さることながら、

それ以外にも、

現地での「異民族」関係のゴタゴタが
相当なものであったようにも
思えます。

 

で、蜀軍にとって
最悪の仮定を考えれば、

例えば、馬謖
「異民族対策」の観点から
先鋒部隊の部下の指揮官を選抜したとすれば、

自らの選んだ部曲の指揮官や兵卒
かつての同郷の連中と干戈を交えるのを嫌って
露骨な戦闘放棄を行い、

軍規の崩壊と敵前逃亡の罪状で
部下共々処刑された、と。

 

―もっとも、
この辺りは、サイト制作者の
想像(妄想)の域を出ませんが。

 

そして、この本隊の先鋒部隊が
敵の支隊に敗退した結果、

橋頭保の確保に失敗した蜀軍は
全軍の撤退を余儀なくされます。

 

一方、褒斜道・斜谷方面で
魏の曹真の本隊と対峙していた
趙雲・鄧芝の陽動部隊は、

桟道を焼き落として漢中に撤退します。

この正義の味方の器物損壊により、
進撃ルートに褒斜道を使うという選択肢は
最後の北伐まで消滅します。

 

 

3、城郭攻防の教材・陳倉攻防戦

久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」 篠田耕一『三国志軍事ガイド』 金文京『中国の歴史 04』 渡邊義浩『三国志 運命の十二大決戦』より作成。 赤の矢印は蜀軍、 青の矢印は魏軍の行軍経路。

3-1、蜀軍出兵の御粗末な経緯

第2回目の北伐は、
同228年12月のこと。

石亭で陸遜が曹休を破ったことを
受けての出兵で、
数万の兵力を動員します。

 

因みに、ルートは散関経由の故道ルートで、
陳倉が係争点となりました。

 

しかしながら蜀側にとっては、

機を衒ったためか、
結論から言えば、

蜀軍にとっては
大軍で寡兵に追い散らされるという
屈辱的な結果に帰しました。

 

まず、大将の曹真が、
蜀の陳倉攻撃を予想していたことで、
防衛の準備に抜かりがありません。

蜀軍が攻める前の段階で、
既に城の増築が始まっていました。

 

さらには、守備隊の指揮官として
叩き上げの武将の郝昭
恐らく経歴不明の王双を派遣します。

 

3-2、郝昭の履歴書

この郝昭という人は、

出身は太原郡
若くして軍人の道に飛び込み、
河西(長安の北西で黄河の西側の地域)で
10年以上異民族と戦って武名を馳せ、

部曲督から雑号将軍に
のし上がった叩き上げ。

謂わば、北辺の戦線の
エキスパートというべき人選です。

また、出身が太原郡ということで、

あるいは、
雍州刺史で同郷出身でもある
郭淮の引きがあったのかもしれません。

 

孔明も孔明で、
同郷の者を通じて
郝昭の投降を促すのですが、

郝昭は当然ながら拒絶します。

 

この時の蜀側の戦況判断としては、

相手が寡兵のうえに
援軍が来るまでには日がある
踏んだことで、

大軍での総攻撃に踏み切ります。

 

3-3、城攻めの「歴史は繰り返す」

そして、いよいよ戦いの火蓋が
切って落とされるのですが、

郝昭が率いた兵卒は
1000名程度でしたが、
蜀側の予想を覆すレベルでの善戦をします。

蜀軍は雲梯(梯子車)・
衝車(箱型で背の高い車両)といった
大掛かりな攻城兵器を押し出し、

女墻(城壁の上にある射撃用の狭間)
を壊そうとしたり
城壁を乗り越えようとするのですが、

守備側は火矢で雲梯や兵士を焼き、
縄で縛った石臼で衝車を潰して応戦します。

さらに蜀軍は、
井蘭(高い櫓)を組んで
城内に矢を射掛けますが、
その城内には二重の城壁があり、

城の地下に出る坑道を掘れば
守備側も城側から掘り返す、という、

謂わば、『墨子』の兵法の実践編のような
ベタな展開に終始します。

取り敢えず、
桟道のような険しい道でも
大掛かりな攻城兵器をバラして運ぶことは
出来るようです。

その分、労力を喰われて兵糧の運搬には
支障が出ているようにも見受けますが。

 

―で、結果として、
兵書に対して教条的な消耗戦が20日続きまして、
魏側の援軍が長安に到着したことで、

蜀軍は万策尽きて撤退します。

孔明が国力の不足を補うべく、
騎兵に重武装を施し、
連弩だの木牛・流馬だのの開発・運用を行ったとて、
(戦国時代の楚が連弩を運用し
現物が残っていたそうですが)

城郭や野戦陣地に立て籠る相手に
何か特別な戦法や兵器を繰り出せる訳でもなく、

加えて、兵站の脆弱さを解消出来た訳でもなく、
(五丈原では軍屯に手を出しています。)

マニュアル通りの
凡庸な総攻撃以外に打つ手がない時点で、

御世辞にも、
当時の戦争の常識を覆すようなレベルの
軍事改革とは言えなかった訳です。

 

 

3-4、古代中国の籠城戦あれこれ

—その、「当時の戦争の常識」とは、
ズバリ、何ヶ月も続くのが当たり前である
堅牢な城郭をめぐる攻防戦。

曹仁が関羽の大軍相手に善戦した
樊城のように、

防御施設が充実し
守備側の指揮官の力量があれば、
寡兵でも持ち応えることが出来るのです。

 

ですが、こういう戦いをする城内は、
当然ながら悲惨です。

件の樊城では、

籠城に際して、
守将の曹仁が牛を水に沈めて
将兵と玉砕を誓うという
凄まじい一幕がありますし、

かの韓愈の文にも人を喰う話が出て来るのは、

別にグロい趣味があるのではなく、
籠城で人を喰うという涙ぐましい時代背景があるからです。

当然、古代中国の戦争のド真ん中に位置する
『三国志』の籠城戦においても、
人肉を喰う話は枚挙に暇がありません。

この800年後の『水滸伝』のアレな饅頭も、
存外こういう文脈なのかもしれませんが、
これはサイト制作者の想像です。

 

一方で、あの戦上手の曹操
下邳や鄴の城攻めにおいて、

落城までに
どれだけの月日と労力を要したか
思い起こして頂ければ幸いです。

下邳は大規模な土木工事で水没させましたし、
袁尚配下の審配の守る鄴の熾烈な攻防戦も
やっていることはこの陳倉と大差ありません。

守備側の援軍や城中の内応者が
あるか無いかの違いです。

 

そして、その「常識」は、
事もあろうに、

孫子や伍子胥のやった
掟破りの平民歩兵の大量動員と機動戦に対する
苦肉の策として編み出されたものでした。

因みに、その中心的な技術集団が、
博愛を説き、儒学を偽善と罵り、
大国間の侵略戦争を否定し、
一方で、籠城の技術の研磨に余念が無かった「墨子」

—余談ながら、サイト制作者としては、
共〇党が軍事に詳しいのと似た臭いを感じますが、

そもそも、
諸子百家自体が戦争を哲学的に捉えて
学術論争に明け暮れていたこともあり。

したがって、

攻城側が城郭の攻撃に際して
大道具を用いるのは戦国時代からの伝統で、
必然的なことでもありました。

 

―で、孔明先生の引率する蜀の精兵は、

恐らく当時の戦争の常識よりも
かなり情けない形で
一敗地に塗れたと言えるでしょう、合掌。

 

3-5、王双が切られた経緯を邪推する?!

一方で、この陳倉の戦いでは、

確かに、
郝昭はしんどい戦いを貫徹したとは
思いますが、

二重の城壁や
大量の攻城兵器を潰すための
資材や燃料の存在は、

曹真の有益な準備の意義を匂わせます。

さらに、曹真の事前準備のみならず、

実は魏の陳倉への援軍は
ふたつの部隊が出動していたようです。

 

一隊は、恐らくは陳倉に向かう部隊。

指揮官は曹真だと想像しますが、
サイト制作者の調査不足で
詳細は分かりません。

この部隊が長安に到達したことが
蜀軍の撤退の引き金になります。

因みに、蜀軍の
数少ない戦果らしい戦果として、

騎兵で追撃を仕掛けて来た魏軍を撃退して
王双を斬ったのですが、

この王双という人物は
郝昭と共に陳倉に立て籠ったことで、

郝昭に対する王朝の軍監か護軍の類か
あるいは部下の部曲督かと想像します。

また、先述のように、
城の守備隊は1000名程度で、

さらには、蜀軍撤退直後の陳倉には
魏の大規模な野戦部隊が
存在しなかったことで、

如何に疲労困憊で敗勢の蜀軍が相手とはいえ、

数百程度の寡兵で
数万の敵の大軍に突っ込むという
イカレた状況であったことになります。

やり方から察するに
叩き上げの軍人の流儀で、

戦闘の経緯としては
奇襲を仕掛けてしくじったと想像します。

 

今日の後知恵があれば
無謀にも取れますが、

正史の色々な戦いの書かれ方を
読む分には、

あまり有名でない人物の伝にも
寡兵で大軍を急襲して
機制を制する戦いが少なからずあり、

これ位の蛮勇が無ければ
そもそも攻勢を掛ける戦争なんか
出来ないような気もします。

 

 

3-6、張郃の恐るべき強行軍

そして、魏の援軍のもう一隊の攻撃目標は、
なんと、蜀軍の策源地である南鄭。

 

指揮官は、かの張郃で、

3万の兵に加え、
皇帝・曹叡より武衛・虎賁といった
親衛隊の一部まで付与されます。

 

実は、この折、

曹叡は鄴から河南城(洛陽付近か?)まで
出張って来て
宴席を設けて張郃を慰労しており、

当人に戦況を確認しております。

その際、
張郃は蜀軍の兵糧が乏しいことを
看破しており、
撤退が始まる頃と回答します。

 

さらには、その足で、
昼夜を分かたぬ強行軍で
南鄭に到着したそうですが、

残念ながら
具体的な経路は分かりません。

蜀軍と遭遇していないところを見ると、
子午谷道か駱谷道だと想像します。

 

もっとも、最終的には
曹叡が帰還命令を出したことで
状況終了と相成る訳ですが。

 

残念ながら、
その企図するところは分かりかねますが、

サイト制作者が
無い知恵を絞って考えるに、

速攻で漢中を制圧した後で
疲弊して引き揚げて来た蜀軍に
決戦を挑むか、

あるいは、
長安まで到達した友軍と連携して
南北から蜀軍を挟み撃ちするか、

と、いったところでしょうか。

 

オフサイド・フラッグが上がって
頓挫したものの、

兵書の理論を体現したような
怖ろしいカウンターだと思います。

 

この奇襲に対する
蜀側の反応は分かりかねますが、

囲魏救趙の故事宜しく、

こういう敵の手薄な後方を急襲する用兵が
相手に動揺を与えて
ボロを出させる例は、

戦史上、枚挙に暇がありません。

 

張郃の用兵については
次回で詳しく綴ろうかと思います。

ただ、以降の戦いとの絡みで言えば、

別動隊の動きが
極めて敏捷であった点は、

後に魏が蜀を滅ぼす際の奇襲めいた用兵に
大いに示唆を与えるものと言えます。

 

 

3-7、郝昭の放言VS儒教の死生観

後、蛇足ながら、
郝昭の後日談として、
思想史「的」な話もひとつ紹介します。

この御仁、
無数の戦争で揉まれたためか
かなり合理的でアケスケな性格であったようで、

戦いの勝利後、
程なくして亡くなるのですが、

その遺言が振るっていまして。

具体的には、

将軍なんぞエラくもなんともない、

人間は死んだら終わりだから
自分の埋葬方法なんか適当にやれ、

と、息子に遺言します。

 

まるで、

課長、部長、包丁、盲腸、
頭とナントカは生きているうちに使え、
と、宣った、本〇宗一郎のようなヒト。

 

―それはともかく、

埋葬方法に拘らないのは、

自分が人の墓を暴いて
軍需の資材―戈の柄のための木材、
に宛てたからだそうな。

無論、戦場自体が
それだけ過酷な状況であったのでしょう。

 

ここで、儒教の話をしますと、

覆面レスラーの二畳あ・・・、
ではなかった、
(サイト制作者は
受験関係の〇会には縁がないのですが)

本気モードの
加地伸行先生によれば、

儒教を崇拝する人々は、

人が死ぬと
魂は雲となるものの、
骨(≒肉体)と融合させると再生する
信じていたそうな。

この考え方の延長に、
骨を管理する場所としての
墓の存在があり、

先祖を崇拝する祭祀があります。

もう少し露骨に言えば、

自分の存在を
この世から消したくないために、

子や孫に
先祖を祀ることを教える訳です。

で、こういう
当時の知識人のモノの考え方を、

兵隊上がりの郝昭の遺言が
自分の人生経験に基づくかたちで
真向から否定していることで、

戦時と平時の死生観の違いが
浮き彫りになっていると言いますか。

 

いえ、現実には、

孔明先生に卑劣な政争を仕掛けて
免職された李厳の息子が
太守になったりと、

こういうメンタリティが
現世における御利益を保障する側面も
少なからずあるような。

 

また、当時の将校と兵卒の世界で言えば、

孔明や仲達が
儒教のオピニオン・リーダーで
文化の支配者・体現者でもあり、

そのうえ、
大軍の兵権を握って
兵書の文言をそれらしく引用し、

方や、郝昭のような叩き上げの軍人は、

その種の上官の部下として
綺麗事ではどうにもならない戦場の現実を
ニヒルに達観するという、

何ともイカレた構図が
そこにあるような気がしてなりません。

 

 

【追記】

博学な読者様からの御指摘で、
曹操や諸葛亮も薄葬を望んだ模様。
(サイト制作者は知りませんでした!)

儒教から距離を置こうとした人も
儒教名士の典型のような人も望んだことで、

まして、件の郝昭といい、

当時としては
割合広範に行われていたと観るべきか。

 

以下は、論理の飛躍(妄想)かもしれませんが、

 

戦争に起因するカオスで
平時の死生観ブッ飛ぶ状況につき、

極端な例え話として、

集落の長や老人達が
先祖や父母の大切さや
墓や骨の重要さを説く傍らで、

敵味方を問わぬ兵隊が
墓荒らしに勤しむという
イカレた光景を目の当たりにすれば、

 

国教や体制学としての儒教とは別の次元で
仏教や道教が流行るのも
何だか、分かる気がします。

 

【了】

 

 

4、やっとこさ僻地で初勝利の蜀軍

久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」 篠田耕一『三国志軍事ガイド』 金文京『中国の歴史 04』 渡邊義浩『三国志 運命の十二大決戦』より作成。 赤の矢印は蜀軍、 青の矢印は魏軍の行軍経路。

4-1、魏の主力の野戦部隊はいずこ

さて、蜀軍は、
翌229年の春にも魏に出撃します。

この折は、諸葛亮の本隊が
迎撃に出た郭淮を武都近郊で破り、

陳式の先鋒部隊が
武都・陰平の両郡を占領します。

もっとも、
両軍が干戈を交えるまでには至らず、

数に優る蜀軍が
郭淮の軍の退路を絶つべく動き、
郭淮がそれを恐れて軍を返したという
経緯ですが。

 

渡邊義浩先生は、
先の陳倉攻撃が
この攻撃の陽動であったとしておりますが、

陳倉の戦いから1年も経過しており、
本当かなあとも思います。

もっとも、先の陳倉の戦いの結果、

魏側の防衛構想の重点が
秦嶺山脈の北側に置かれた可能性は
あるのでしょうが。

 

さらに、金文京先生によれば、
孔明先生の北伐における
唯一の勝利らしい勝利だそうな。

元々が、地理的に
蜀側に張り出している
地域であったこともあり、

魏の野戦部隊の主力級が出て来なかったのも
大きいように思いますが。

 

4-2、端歩の橋頭保・陰平と英雄達の棋風?!

さて、ここで、

記憶の片隅にでも
止めて頂きたいのは、
「陰平」という地名です。

何処ぞの省庁や鍾会の「得意技」である
公文書偽造やらの組織の体質の話では
ありません。

―それはともかく、

後に、司馬氏の曹氏に対する権力闘争や
その後の論功行賞により、

敗者側の夏侯覇
この地の道なき道を経由して
身一つで蜀に亡命し、

さらには、
鍾会の蜀攻めの際には、

魏の鄧艾の率いる別動隊が
この地を経由して
常識外れの山越えを成功させ、

蜀軍が漢中界隈に気を取られて無警戒であった
自国の膝元の四川盆地に
雪崩れ込む運命にあったからです。

 

余談ながら、
将棋の格言に
「手が無い時は端歩を突け」
というものがあります。

攻撃にも防御にも
良い手が見当たらない時には
盤面を広く見なさいよ、

という意味なのですが、

実戦では、

確かに端の筋は
小駒の移動先が集中して
守りが固いものの、

これを逆手に取って
香車の筋に大駒や小駒を集中させる
奇襲めいた戦法も存在します。

さらには、

別の筋で陽動攻撃を掛けた飛車を
機を見て端に持ってくるような
「地下鉄飛車」といった
戦法もあることで、

技量のある人程、
こういう大駒小駒の結節点を
面白がって利活用するものです。

この魏と蜀の抗争の場合、

恐らくは、
(決戦主義的で運動戦としての面白味に欠ける)
度重なる北伐が
魏蜀双方にとって反面教師となり、

次の時代には
係争点が秦嶺界隈からさらに北に移り、

さらには魏も大規模な反撃に出ることで
戦線自体も広がり、

この過程で、
思わぬ拠点が
俄かに脚光を浴びることになりまして、

そのひとつが、この陰平という訳です。

 

将棋の話の序に
つまらない例え話をすれば、

まずは、孔明と仲達の
大駒の切り合いしか眼中にない
居飛車対振り飛車のヘボ将棋。

それを岡目八目で観戦していた
姜維と郭淮(特に姜維)は、
先の試合を反面教師に
入玉・千日手を避けるべくイロイロ考えます。

姜維は居玉の急戦で
端攻めやら捻り飛車やらの
派手な空中戦を仕掛け、

対する郭淮は囲いを組んでの受け将棋。

で、晋の代になり、

狡猾な司馬昭は、
同じ規格の大駒を
懐に忍ばせるという反則をやり、

飛車が3枚とかいう狂気の盤面で
姜維は居玉のまま
受け将棋を強いられる、と。

 

【追記】

はい、ダウト!

唐突ながら、ここで問題です。

くだらない将棋の例え話の中で、
かなりアホな誤記はどこでしょうか?

正解は、以下。

 

蜀を滅ぼしたのは、
晋ではなく、断末魔の魏。

 

265年8月に司馬昭が死去し、
その長男の司馬炎が跡を継ぎ、

同年12月にめでたく禅譲と相成りました。

曹丕の時の同じ流れで、
代替わりと禅譲がセットになっています。

ですが、この王朝は、
ここでデカい不発弾を抱えまして。

 

と、言いますのは、

御存知、司馬昭は
先に急逝した司馬師の弟でして、

本来であれば甥に跡を継がせる筈が、
(当の司馬昭もこれを公言していたのですが)
何故か土壇場で弟の息子が継ぐことになり、

曹家からの簒奪より
まだ日が浅かったことも祟り、
後に、亡国モノの乱脈や御家騒動の火種
なりましたとさ。

 

秩序の大好きな儒家名士が
艱難辛苦のうえに樹立した王朝で
開闢当初からこういうことが起きるのですから、

歴史とは本当に皮肉なものだと思います。

 

―さて、基本的なことを間違った癖に、
かなりエラそうですね。

皆様はこういうのを絶対にマネをなさらぬよう。

正直なところ、
サイト制作者としては
情けなくて泣きたくなります。

年号で覚えられる類の知識につき、
世界史が得意な受験勉強中の高校生でも
間違えないでしょう。

こういう脇の甘いところが門外漢の急所か、
それとも人間的な欠陥か。

 

【了】

 

 

おわりに

例によって、締まりのない文章で恐縮ですが、
(ヨタ話を除いた)結論をまとめることとします。

 

1、祁山の戦い(第4次北伐)では、

兵力の集中を企図する司馬仲達が
後方の守備隊配置を具申する
張郃の意見を退けたが、

この背景には、
恐らくその履歴も関係するであろう
各々の用兵思想の違いが見え隠れする。

 

2、第1次北伐の際、
諸葛亮の本隊は関山道を通り、
秦嶺山脈の幹道には陽動部隊を派遣した。

つまり、急峻な山岳地帯や桟道を通るという
兵站上のリスクを極力排除した反面、

行軍距離は長くなった。

 

3、天水郡界隈は
魏が蜀の数多の「異民族」を
移住させた地域である。

さらには、街亭の戦いでは、
蜀軍が先鋒部隊を巴西人で固め、

結果として、
これが裏目に出た可能性がある。

 

4、第2次北伐は、
魏と呉の戦いの経緯を受けての
出兵であったが、

当時の戦争の様相から言えば、
何の変哲もない城攻めに終始し、

数万の兵で1000名程度の寡兵相手に
攻め切れずに撤退した。

恐らくは、
曹叡が蜀軍をナメる契機になった
可能性がある。

 

5、張郃は蜀の撤退を見据えて
恐らくは子午谷道か駱谷道経由で
昼夜兼行の強行軍で南鄭に到着したが、

曹叡の撤退命令で戦闘には至らなかった。

 

6、桟道のある故道経由での出兵であったが、
大掛かりな攻城兵器を
解体して運ぶことは可能であった。

 

7、第3次北伐では、
蜀軍が蜀側に張り出した
武都郡・陰平郡を占領した。

迎撃部隊は雍州刺史の郭淮の軍のみで、
魏の中央の野戦主力部隊の出撃はなかった。

 

 

 

さて、残念ながら、
今回の北伐の話も後編が存在しますが、

翌年の魏軍の反撃が長雨で頓挫した後に
古強者の曹真が寿命を迎えたことで、

いよいよ孔明先生のライバルである
司馬仲達の登場と相成ります。

 

北伐の山場である祁山の戦いも、

兵力に劣り、そのうえ、
どうも野戦しか取り柄のなさそうな
蜀軍の無謀さは元より、

(この歳になって、自分で調べて思うに、
驚く程、蜀側に褒める要素が
乏しいと言いますか。

昔やりこんだファミコン・ソフト(死語)の
『天地を喰らう2』のような
仮想戦記に面白味を感じる要素に乏しく、

逆に、猿のように
無理ゲーにハマるような心地で
少々ガッカリしまして。

余計なチエが付いて
心が醜く曇ったのでしょう。)

魏の側にも、

自分の戦争(対呉戦線)に熱中したい曹叡

王朝簒奪のための
ハク(≒軍功)が欲しい仲達

弱腰な上官と息が合わずに
得意の機動戦を封じられて
悶々とする張郃と、

イロイロとキナ臭い不協和音が見え隠れして
面白いのでありまして、

と、言いますか、

どうも仲達とその一族
一身上や一族の都合で、

蜀の正当性を主張したい陳寿を使って
孔明を強敵に仕立て上げた観が否めないのが
さる秀逸な論文から学んだ
サイト制作者の不毛な感想です。

で、そのロジックや、
そもそも孔明先生
アレな外征に拘った理由等も少々書きたいと
思います。

 

 

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」
並木淳哉「曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次「北伐」」
佐藤達郎「曹魏文・明帝期の政界と名族層の動向」
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
金文京『中国の歴史 04』
渡邊義浩『三国志 運命の十二大決戦』
『知識ゼロからのCGで読む三国志の戦い』
坂口和澄『もう一つの『三国志』異民族との戦い』
西川利文「漢代における郡県の構造について」
『佛教大学文学部論集』81
小嶋茂稔「漢代の国家統治機構における亭の位置」
『史学雑誌』112 巻 ・8号
加地伸行編『諸葛孔明の世界』
加地伸行『漢文法基礎』
『孝経』
浅野裕一『孫子』
『墨子』
金谷治訳・注『孫臏兵法』
小川環樹・今鷹真・福島吉彦 訳
『史記列伝 ニ』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻

カテゴリー: 経済・地理 | 2件のコメント

前漢から北伐前夜までの秦嶺越え

かなり長くなったので(13000字程度)、
章立てを付けます。

興味のある部分だけでも
御目を通して頂ければ幸いです。

 

はじめに
1、秦嶺界隈の地域事情
2、西城はどこにある?!
3、『孫子』・『六韜』の説く山岳戦
 3-1、孫武と一緒に山登り
 3-2、軍令と矛盾する実用知識?!
 3-3、窮地はカンフーで切り抜けよ
 3-4、どこか胡散臭い『六韜』
 3-5、香ばしい過去との対話、
    今ではアレなトンデモ用兵論
 3-6、詰まるところ、
    兵書の説く山岳戦のキモとは?
 3-7、或る愚昧の徒の『孫子』評
4、子午谷道と西城
 4-1、やはり幹道は褒斜道
 4-2、王莽の置き土産・子午谷道
5、劉備と曹操の漢中攻防戦
 5-1、蜀を狙う劉備と曹操
 5-2、陽平関の名物は鹿煎餅と盆踊り?!
 5-3、張郃の巴侵攻とその後の因縁
 5-4、「異民族」部隊の暗躍
6、漢中決戦のヤマ・定軍山の戦い
 6-1、話の見えない夏侯淵戦死の状況
 6-2 羹に懲りて膾を吹く知識人の用兵
 6-3、事態を収拾した人材の面々
 6-4、秦嶺の霧?戦場の霧?
    そもそも「史料の霧」?
7、経済戦争の一戦法・移住のススメ
 7-1、当時の戦争は人の奪い合い?!
 7-2、人材の層に一日の長?!
おわりに

 

はじめに

前回、桟道の話をしましたが、
今回はその続きと言いますか、

桟道のメッカ・秦嶺山脈を挟んだ
漢中-長安間の交通と戦争について
綴ろうと思います。

頃は前漢から北伐前夜迄。

―実は、恥ずかしながら、

桟道に話を絞って
1回の記事で『三国志』の話を終わらせようとか
妄想していたのですが、

色々調べているうちに
書きたいことがボロボロ出て来まして、

少々予定を変更することにしました。

したがって、読者の皆様には
大変申し訳ないのですが、

魏蜀両軍共にナマクラ用兵の北伐と
その対をなす鄧艾の「大冒険」の御話は
次回とさせて頂きます。
―先送りが続きますが、悪しからず御了承の程を。

序と言いますか、
当サイトのアクセス解析を行っていますと、

10分以上も掛けて記事を読んで頂ける方が
少なからずいらっしゃる反面、

閲覧時間が殆どない「直帰率」も
サイト開設当初より高くなっていまして、

察するところ、

更新の頻度があまりに遅いことで
かなりの読者の皆様に
無駄足を踏ませているという
救いようのない状態かと。

ナマクラなサイト制作者の
作業時間・執筆能力双方の不足により
本当に申し訳ない限りです。

 

1、秦嶺界隈の地域事情

さて、そろそろ本題に入りますが、
まずは、下記のヘボいイラストを御覧下さい。

金文京『中国の歴史 04』・篠田耕一『三国志軍事ガイド』・久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(下)」より作成。

このアレな地図は、
前漢から孔明先生の北伐の時代の頃までの
漢中・長安界隈の地図です。

前回の復習も兼ねて
この辺りの地形のその他の事情の
概要を挙げますと、

概ね以下のようになります。

 

1、蜀(現・四川盆地)の喉首にあたる漢中と
西域の玄関口である長安の間には、
交通の大きな障害となる秦嶺山脈が
立ちはだかっている。

 

2、漢中・長安間の交通路は、
渭水の水系(支流)に沿って南北に展開する。
桟道は、主にこのルートに存在する。

 

3、渭水の北岸は東西の移動、
渭水の南岸は南北の移動に適している。

 

4、夏から秋にかけて雨季があり、
その雨量は桟道を破壊するレベルである。

 

5、桟道は脆い道路であり、
維持には定期的な修繕が必要であった。
そのうえ、戦禍により、
頻繁に通行止めが生じた。

 

6、所謂「異民族」(羌族・板循蛮等)が
少なからず雑居しており、
戦争の際にはこれらの勢力の懐柔が
戦況を大きく左右した。

 

7、大兵力の運用・展開が難しく、
輜重にも大きな制約が生じた。

 

以上の点は、

孔明の北伐はおろか、

今回扱う漢代の内乱とそれに付随する
漢中の治所の移転
劉備と曹操の漢中をめぐる抗争にも
大きく影響しています。

 

2、西城はどこにある?!

残念ながら、
先日御亡くなりになられました。

県令や県長になったからといって、
若返ったりブーメランが飛んで来たり、
まして正直者になったりはしません。

いえ、むしろ、正直者どころか、
賄賂を取って私腹を肥やすのが
当時の(今もか)官僚の「常識」でしょう、

というのは、
当サイトとはあまり関係のない分野の
訃報ですが、

御冥福を御祈り申し上げます。

因みに、西城の読み方は、
「せいじょう」。

―それはともかく、

この地図を描く際に、
最初に基準にしたのは、
渭水・漢水の河川の流れでした。

ですが、これが曲者で、
参考文献によって微妙に形が
異なっていまして、
この折衷作業に苦労しました。

また、サイト制作者が自信がないのが
西城の詳細な位置。

ここは魏興郡の治所で、
長安直通で子午谷道の入り口付近に位置し、

北伐の緒戦の段階で
魏から離反を企てた孟達が守っていた
戦略上の要地なのですが、

 

 

【追記】

孟達は当時、新城郡(西城より南東)の太守。
訂正致します。

西城のある魏興郡の太守は申儀でして、

諸葛亮は北伐に先立ち、

申儀と孟達の不仲を利用して
申儀に孟達の造反をリークし
孟達の尻に火を付けましたが、

司馬仲達の対応が早く新城は陥落し、
申儀も公文書偽造のカドで逮捕を喰らいました。

要は、仲達にしてみれば、
危険分子を摘発して国境地帯を安定させた
という御話。

 

 

 

子午谷道の入り口付近で
漢水の北岸で長安の南にあるという点以外は
正確な場所を特定出来ていません。

したがって、
西城の位置に関しては、
他の拠点以上にアバウト
悪しからずです。

大体この位置だ、
という程度の認識で御願い出来れば幸いです。

これに因みまして、

サイト制作者としては、
当時の全県レベルの拠点と街道が記された
正確な地図が欲しいところですが、

浅学が祟って中々見つからず、
何方か当該の文献等を御教授願えれば
幸いです。

 

3、『孫子』・『六韜』の説く山岳戦

3-1、孫武と一緒に山登り

さらに、少し視点を変えてまして、

当時の山岳戦のイロハを
『孫子』や『六韜』(の和訳)
少々おさらいしようと思います。

まずは『孫子』から。

「行軍篇」では、

山を越えるには谷を進み、
高みを見付けては高地に休息場所を占め、
戦闘に入るには高地から攻め下れ、

と、説いております。

その理由として、

稜線を乗り越えるかたちで行軍すると
敵に発見され易く落雷に遭う、
とのこと。

対して、谷沿いの低地は行軍が楽で、
敵に発見されにくく、
オマケに水や飼料となる草を得易いそうな。

この辺りの事情は、
現在で言えば、
アウト・ドアの趣味を持つ方が詳しそうに
思いますが、

サイト制作者の拙い経験からも、

山歩きで山賊(戦前まではいたそうな)
に遭わなくとも、

山間部は平地に比して
天気が変わり易い上に、

落雷も数が多く迫力があり、
落ちるのも早い(近い)ように思います。

 

3-2、軍令と矛盾する実用知識?!

次いで、
「地形篇」にも該当する箇所があります。

例えば、

両側から岩壁が張り出して
急に地形が狭まっている地形では、

自軍が占領している場合には、
隘路に兵力を集中させて迎撃し、

敵軍が完全に制圧している場合には
手を出すな、と、
説きます。

一方で、
敵が占領しても
隘路を埋め尽くしていない場合には
攻撃を掛けよ、と。

 

リクツは分かりますが、

作戦計画がある以上
他の部隊との連携を無視出来ないことで、

時には、
数にモノを言わせて
不利を承知でやらざるを得ないのが
戦争だろう、とも思います。

そりゃ、現場に裁量があれば、

相手を騙したり怒らせたりして
隘路から引っ張り出したり
隊列を乱させたりするような
小細工を用いることが出来ましょうが、

無ければ、
「天佑神助ヲ信ジテ全軍突撃セヨ」で
自分の躯を味方に乗り越えて貰うしか
手立てがない訳で、

100名以下の下級指揮官が
なまじ兵書なんか齧ったら
命の遣り取りが馬鹿馬鹿しくなって
やる気を無くすだろうなあ、

と、穿った見方を。

逆に、
1万前後の兵を指揮して
神出鬼没の用兵で鳴らした
兵書オタクの曹操が、

大軍を指揮するや、

今度は赤壁・潼関・漢中と、
何度もヤバい戦をやらかしたことで、

特に、規模の大きい戦争ともなると、

兵書の理屈だけでは
対応出来ない領域があることを、
身を以って証明したと言いますか。

「帯に短し襷に流し」とは、
良く言ったものです。

 

3-3、窮地はカンフーで切り抜けよ

無駄話はこれ位にして、
話を山岳戦と『孫子』の説教に戻します。

同書には、
こういう教えもあります。

高く険しい地形では、
自軍が先に占領している場合には、
必ず高地の南側に陣取ったうえで
迎撃せよ、

と、説きます。

反対の場合は、
やはり手を出すな、と。

最後に、有名な「九地篇」から。

進軍が難渋する地形を
「泛地(はんち)」と言います。

因みに、訓読みで「うかぶ」。

孫武先生は、
この「泛地」に山林・沼沢を
想定しています。

で、こういう地形は、

足場が不安定で行軍に難渋し、

敵の奇襲や待ち伏せに対して
迅速な反撃が出来ないので、

一刻も早く通り抜けろ、
と、説きます。

さらには、「囲地」・「死地」、
というのもあります。

まず、「囲地」とは、

視界の効かない蛇行した山道を行軍中に
不意に盆地に入り込み、

辺りを見回すと三方は険しい山で
前方は両側に山が迫る、
という具合の地形。

こういう地形で怖ろしいのは、

仮に待ち伏せを受ければ、

包囲を恐れて
山道を引き返した際に、

前方の隘路から
盆地に雪崩れ込んだ敵の追撃を受け、

さらには、
自軍の後方の山道からも
敵軍が迫って来るので、

前後の二方向から攻撃を受け、
双方共、連携が取れないまま全滅を待つ、
という状況。

こういう場合は、
隘路を確保して
余裕を持って引き返せ、

と、説きます。

そして、この延長に「死地」があります。

つまり、囲地に迷い込んだ際、
前方の隘路が敵に抑えられた状況
指します。

こういう時は、
前面の敵に飛び込んで死中に活を得よ、
と、説きます。

最早、兵法とは呼ぶには値しない荒技で、
成程、「死」という字を使う訳ですね。

ジェット・リーのレベルのカンフーでも
齧っていれば、
あるいは生還出来るでしょう。

ですが、こういうのも、
どうも極論の笑い話とも言えませんで、

後述する、名将の張郃ですら、
恐らくは「囲地」や「死地」の類で痩せ我慢して
ボロ負けしていまして、

そこには、
兵書がドヤ顔で説くようなセオリー通りに行かない
山岳戦闘の難しさが
どうもあるようでして。

 

3-4、どこか胡散臭い『六韜』

『六韜』も、「烏雲山兵」という
山岳戦について触れている箇所があります。

この書物、太公望が周の王に
(存命中には存在しなかった)騎兵について
解説するという
何とも奇怪な内容ではありますが、

偽もまた真なりと言いますか、
ナントカと鋏は使いようと言いますか、

戦国時代の後期以降の
戦争の常識という風に考えれば
さもありなん、と。

それはともかく、
まず、軍隊は山の高地に陣取れば進退に不自由し、
低地に陣取れば敵に補足される、

と、山岳戦の前提条件を明示します。

そのうえで、

山の陽である南側に宿営した場合は
山の陰である北側を防備せよ、

山の陰である北側に宿営した場合は、
山の陽である南側を防備せよ、

と、説きます。

陰である北側、陽である南側に
屯集することであり、

これを、
(陰陽を兼ね備えた)「烏雲の陣」というそうな。

白黒の陰陽の話なのか
陣地の死角を守れという意味なのかは、
サイト制作者には分かりかねます。

一方で、

山の左である東側に陣を敷いたら
山の右である西側を防御せよ、

敵兵が山を登って来たら
正面に兵を配置して迎撃せよ、

交差点や深い谷あいの小道では
戦車で通行を遮断せよ、

と、説きます。

孤山に布陣した場合、
稜線を挟んで宿営と反対側に
防御陣地を構築し、

隘路は戦車で封鎖せよ、

という意味かと。

 

3-5、香ばしい過去との対話、
    今ではアレなトンデモ用兵論

因みに、古代中国の兵学思想の話として、

湯浅邦弘先生によれば、

『孫子』のような
理詰めの書物もあれば、

「陰陽流兵学」
(当時の言葉ではないでしょうが)という、

天文・気象・
敵陣から立ち上る「運気」の状態・易の卦等から
攻守の日時・場所の吉凶を判断し、
勝敗を事前に予測しようとする流派も
ありまして、

この流派も
大きな影響力を持っていたそうな。

―そういえば、

『太平記』で楠木正成の軍略に
口出しする公家も、
恐らくこれで勉強したクチに見受けます。

都を捨てろという政治に無感覚な楠公と
生兵法を振り翳す内弁慶な公家衆の
一方通行な軍議。

後世から見れば笑い話に過ぎぬとはいえ、

大局的な打開より
セクショナリズムと非科学が優先される光景は
国や時代を問わぬものなのでしょう。

―それはともかく、

『六韜』は理詰めな部類の兵書だそうですが、

当該の箇所を読む限り、
何だかケムに巻かれている気が
しないでもありません。

余談ながら、『六韜』については、

個人的には成程と思う部分もあれば、
正論ではあっても実行は難しいと思しき部分も
少なからずあります。

「烏雲山兵」の箇所は、
同書の中では
どうもトンデモな部類の部分に思えます。

サイト制作者の理解力が
欠如しているのかもしれませんが。

 

3-6、詰まるところ、
    兵書の説く山岳戦のキモとは?

さて、ここで少し整理しますと、

『孫子』・『六韜』が説く要点は、
以下の2点となるかと思います。

 

1、隘路の対処
2、高低差の対処

 

まず、1、隘路の対処、ですが、

『孫子』・『六韜』双方が説くのは、
山岳戦では
隘路の確保が肝要という点。

また、その対処については、
『孫子』の方が具体的でして、

不利であれば手を出すな、と、
説きます。

さらには、2、高低差の対処、については、

『孫子』は高地に布陣して
低地に対して迎撃せよ、と説き、

一方で、『孫子』も『六韜』も、
高地での移動の不利を説きます。

また、索敵については

『孫子』は、
稜線の移動は発見され易く、
谷あいの移動は発見されにくい、
と、説き、

『六韜』は、
高地の方が敵を発見し易い、
と、説きます。

発見され易いリスクを取る分、
監視や防御には有利である、と。

 

3-7、或る愚昧の徒の『孫子』評

サイト制作者の感想(妄想)
少し差し挟みます。

自身は捻くれた性分でして、

世間様の褒める不磨の大典を、

中身もあらためずに、

まして、
書かれた時代背景を度外視して、

馬鹿正直に有難がるのは
どうも気が進みません。

また、孫武のやった戦争自体も、

例え、当事者としては
悲壮な覚悟で心血を注いで行ったにせよ、

当時の時代背景や結果を考えると、

戦争倫理としてどうかと思う部分も
少なからずあります。

ただ、山岳戦の話については、

後漢・三国時代の戦争を見る限り、
かなり実情に即していたのではなかろうか、

というのが、
サイト制作者の率直な感想です。

 

4、子午谷道と西城

4-1、やはり幹道は褒斜道

これまで、秦嶺界隈の地域事情と
山岳戦のイロハについて
触れたことで、

この辺りの地形については
或る程度イメージし易くなったかと
思います。

次に、漢代における、
秦嶺越えの道路の使用状況の
変遷について
見て行こうと思います。

その種本は、

久村因先生の御論文
「秦漢時代の入蜀路に就いて(下)」

下記のサイトから
論文名か著者名で検索を掛けてたどれば、
PDFのファイルをダウンロード可能です。

ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

ここで、再度、
先程のインチキ地図を御覧ください。

先に挙げたものを再掲。

前回、秦代までの主要な幹線道路は
褒斜道(ほうやどう)で、

劉邦は入蜀の際にこれを焼き、
出撃には故道を通った、

と、説明しました。

その後、武帝から前漢末期までは、
褒斜道が修繕され、
再度、幹線道路として
使用されることとなりました。

 

4-2、王莽の置き土産・子午谷道

ところが、
王莽怪しい王朝を建国した折に
子午(谷)道が開削され、

これが一時的に幹線道路として
機能します。

そして、これを受け、

漢中郡の治所が、
南鄭から
長安と子午谷道を通じて直通である
先述の西城に変更されたとそうな。

もっとも、
更始2年(西暦24年)には
治所が南鄭に戻されており、

その後の赤眉の乱以降の
群雄割拠の時代における
公孫述統治下の蜀においても、

やはり南鄭が漢中郡の治所でした。

このことから、
新の滅亡後の秦嶺越えの幹線道路は
褒斜道に戻っていた可能性が高いそうな。

ところが、
再び子午谷道の存在意義が際立つ時代が
やって来ます。

2世紀に入って羌族の大反乱により、

この界隈―というよりは、
長安以西の地域が
大々的に戦禍に見舞われまして、

事も有ろうに赴任した太守が
2名も殺されるような
カオスな事態に陥ります。

この折、幹線道路も、
褒斜道が不通になったことで
子午谷道がその代用となり、

治所も南鄭から西城に移った模様。

で、そのゴタゴタが収まるや、

治所・南鄭、幹線道路・褒斜道の組み合わせに
戻されたという御話。

その後、子午谷道は、
蜀漢の北伐で使われてからは、
唐代までは余り利用されなかったそうな。

因みに、その幹線道路である褒斜道を
焼き落としたのは
正義の味方の常山の趙子龍。

祁山に出撃した本隊の擬装行動につき、
当然ながら敗退し、

殿を務めてこの措置を講じました。

さらには孔明先生がこれを修繕して
最後の戦いに臨む訳ですが、

この時期は、魏と蜀の双方が、
モグラ叩き宜しくこの界隈のルートを
互いに探り合うという

戦時下の異常な状態であったことは
言うまでもありません。

 

5、劉備と曹操の漢中攻防戦

5-1、蜀を狙う劉備と曹操

こうした秦嶺越えの道路の
使用状況の変遷の中で、

軍隊の秦嶺越えの
特筆すべき事例として、

劉備と曹操の漢中をめぐる攻防戦について
考察を行おうと思います。

さて、このテーマは、
『三国志』における
劉備と曹操の一連の抗争の
ハイライトとも言うべきもので、

当然の如く、
他のサイトさんでも多々扱われており、

中には詳細な地図を用意して
興味深い考察を行っていらしゃることで、

こういうのは(当サイトはともかく)
色々なサイトさんを見てじっくり考えた方が
為になるかと思います。

ただ、当サイトの
このテーマでの売りとしては、

学術研究の成果も踏まえて(つまみ喰いして)
少々広い視野で捉え直すことにあるかとも
思います。

他人様のフンドシで相撲を取ることに
何ら変わりはないのですが。

 

それでは、内容の吟味に移ります。

まず、初動の曹操の漢中攻めですが、

事の経緯は、

曹操は赤壁で敗れたことで
中国統一を断念し、
西進を開始したことが発端の模様。

この敗戦は、物語の名場面のみならず、
中国史においても大きな転換期であったそうな。

一方、勝者の劉備も、

曹操(おに)の居ぬ間に
益州を洗濯しようとして
内応者の手引きで押し込み強盗を企て、

入蜀こそ長江経由で簡単に叶ったものの、

漢中の支配者である張魯をあしらってから
母屋の主の劉璋に牙を剥いた後は、

苦戦の末、
214年に益州の制圧に成功します。

殊に、要地の雒城攻略には1年、
成都の攻略には3ヶ月も掛かりまして、

このレベルの籠城戦になると
餓死者も多数出たことと推察します。

以降の展開ですが、
以下の地図を御覧下さい。

 

『正史 三国志6』巻末地図を加工。

〇で囲んだ数字は、
行動の順番を意味します。

潼関で馬超・韓遂を破った曹操は、
さらに西へと触手を伸ばし、

地図中の⓵となりますが、

215年3月には、
故道経由で
漢中の張魯攻めに着手します。

なお、この時の先鋒を務めたのが、
恐らく、以後北伐までの
一連の漢中の戦いの主役であろう張郃

校尉からの叩き上げです。

 

5-2、陽平関の名物は鹿煎餅と盆踊り?!

さて、この曹操の漢中攻めは、
実はかなり危ない戦いでした。

張魯方の主戦派の張衛が
大軍を掻き集めて陽平関に籠ったことで、

睨み合いが続いて
曹操軍の食糧が尽きます。

―ですが、ここで寄せ手にとって、
冗談のような天祐が到来します。

数千頭の野生の鹿
張衛の陣地を突き崩し、

オマケに曹操軍の高祚の部隊が
誤って敵陣に紛れ込み、
軍鼓を鳴らして軍勢を掻き集めたことで、

張衛の部隊が混乱
自壊したという御粗末な戦闘経緯。

何故この季節に食糧が尽きたかと言えば、
あくまで想像の域を出ませんが、

桟道が壊れる雨季まで戦争を続ける予定は
無かったからだと思います。

後述する劉備との抗争でも、
全軍の撤退は5月につき。

 

なお、この時曹操は、
漢中の守将に夏侯淵・張郃等を残して
鄴に帰還します。

劉備の足場が固まっていないうちに
蜀を取れと息巻く司馬仲達に対して、

「人の欲にはキリがない」と
もっともらしいことを言ったそうな。

何のことはありません。
対呉戦線がキナ臭かったからです。

 

5-3、張郃の巴侵攻とその後の因縁

さて、漢中を制圧した曹操軍は
巴の板循蛮の懐柔にも着手するのですが、

劉備がこの勢力を軍事力で放逐します。

で、恐らく、この撤退を支援したのが、
先述の張郃
地図上の⓶の動向です。

張郃は巴の宕渠近郊で
張飛の率いる迎撃部隊と対峙し、

這う這うの体で漢中に逃げ帰ります。

『蜀書』の張飛の伝によれば、

両軍の対峙は50日に及び、
張郃の部隊は前後の連携が取れずに壊滅し、

10騎前後の側近と共に
馬を乗り潰して南鄭に帰還したそうな。

隘路の制圧が鍵を握る山岳戦そのものの模様。

また、不利な状況で睨み合いを続けたことで、
それを強いられた事情があったのでしょう。

―つまり、友軍の撤退援護。

そして、何の因果か、
この時漢中に収容された板循蛮が
略陽県界隈
(地図で言えば、天水の少し北)に移住し、

後年の北伐では、
どうも当時の庇護者である張郃と
共闘したらしい、と。

その後、216・217年には、
漢中界隈では
目立った軍事行動はなかったものの、

劉備配下の法正は、

217年の段階で夏侯淵や張郃の
行政官としての力量不足を指摘し、
漢中の奪取を進言します。

加えて、軍事面での具体的な筋書きを書いたのが、
黄権だそうな。

共に元・劉璋配下で、
謂わば、地元を知り尽くした土着の行政官です。

 

5-4、「異民族」部隊の暗躍

果たして、次に動いたのは劉備側でして、
218年3月に、
張飛・馬超の部隊が下弁に進駐します。

余談ながら、
地図中に武都がふたつあるのは
誤植ではなく、

劉備と曹操が互いに大人げなく
自分達の支配領域が
ホンモノの武都郡だと言い張るという
面倒な事態になってまして。

で、曹操側が自分達の武都郡の治所を
下弁とまして、

これを蜀の軍閥の義弟の酔っ払いオヤジが
不法占拠した、と。

当然、曹操は迎撃部隊を差し向けまして、
この指揮官が後にケチで身を滅ぼしたという
曹操の弟の曹洪
―早い話、古強者です。

それはともかく、
戦闘の結果、張飛・馬超は
この地を追われ、漢中に撤退します。

蜀軍はこの戦いで
配下の呉蘭・任夔(じんき)を失いまして、

殊に呉蘭については、
陰平(武都の南西)の氐族の強端が
その首を曹操に送ったそうな。

馬超の配下には勇猛な羌族がおり、
曹操側には氐族がおり、という具合で、

「異民族」の陰が
少なからず見え隠れします。

また、巴を攻撃した張郃もそうですが、

恐らく足場の固まっていない地域への突出は
相当なリスクを伴うものでして、

下弁に進出した張飛も、
ひどい負け戦であったと推察します。

ですが、この種のリスクを伴う
無謀とも取れる果敢な運動戦こそが、

実は、恐らくは、
難所である秦嶺越えと
漢中あるいは長安制圧のキモであり、

後年の北伐と鄧艾の奇襲との対比
それを物語っているような気がして
なりません。

そして、この動きを受けて、
曹操が鄴から長安に乗り込んで来ます。

これが、地図上の⓸。
曹洪の下弁での勝利から半年後のことです。

この頃には、孫権との関係は安定していまして、
劉備との抗争に
本腰を入れたということなのでしょう。

 

6、漢中決戦のヤマ・定軍山の戦い

6-1、話の見えない夏侯淵戦死の状況

そして、劉備も動きます。

翌年の頭には
陽平関経由で南鄭の西の定軍山に出撃し、

漢水と西漢水の間にある武興
(南鄭のすぐ西)にも兵力を展開して

曹魏の夏侯淵の本隊と対峙します。
地図上の⓹。

実は、この定軍山の戦い、
『魏書』や『蜀書』における
当事者の伝を整理しても、

徐晃や趙雲等の各々の手柄話ばかりが目立ち、
時系列的にも戦局の推移としても
要領を得ません。

もっとも、列伝なんぞ、
そもそもそういうものでしょうが。

ただ、漠然と見えて来るのものも
ありまして、
それは、以下の2点です。

 

1、主将・夏侯淵の頓死により、
一時的に軍中が混乱した。

2、無数の山岳戦闘が起きたが、
片方を総崩れに追いやるレベルの
決定的なものは無かった。

 

やはり注目すべきは、
1、の夏侯淵の戦死です。

劉備の軍が曹操軍の逆茂木に火を放ち、
夏侯淵が自ら反撃に出たところを
黄忠の部隊が討ち取った模様。

ですが、夜襲を受けた張郃の陣地に
援軍を送り、
夏侯淵の本陣が手薄になったところ狙われた、
という話もありまして。

要は、各人の伝の話に
あまり共通性がないことで、

空白部分を補完する史料がなければ
正確を期す復元作業自体がどうも無駄に思えます。

さて、夏侯淵本人については、

急襲が得意とする反面、
曹操が用兵が軽率だと警鐘を鳴らしていた
そうですが、

サイト制作者の愚見としては、
曹操の宿将なんか、
大体こんなメンタリティに見受けます。

合肥の戦いの張遼や南城の戦いの曹仁も然り。

笑える話として、

南城の戦いで曹仁に救われた牛金が、
石橋を叩いても渡らない司馬仲達の軍の
先鋒大将として活躍しています。

コイツは寡兵で周瑜の陣地に突撃を掛けた奴で、
それを救い出した曹仁も率いたのは数十騎。

【追記】

 またしても、訂正記事。

 牛金が300名の兵で孫権軍に突っ込んだのは、
 (赤壁の戦いの後の)江陵の迎撃戦の折。

 因みに、相手は周瑜の先鋒部隊数千。

他にも何かやらかしていそうで怖いのですが、
苦笑しながら御指摘頂ければ幸いです。

 

 

 

 

6-2 羹に懲りて膾を吹く知識人の用兵

対して、用兵に慎重に慎重を期した北伐なんか、

俄かに兵権に手を出して
腰の引けた知識人同士の

大駒を惜しんだヘボ将棋の末の
千日手・持将棋の如しで、

両軍共、兵隊の命以上に
膨大な量の食糧と時間を無駄にした挙句、
当事者の死亡によって幕引きとなりました。

その内容も、

周到な準備の割には、

孔明も司馬仲達も
本気で勝つ気があるのか怪しいような
ナマクラな用兵ぶり。

その癖、戦功を焦るスケベ心
両人ともしっかりと持っているという。

この辺りの詳細な話は次回とさせて頂きます。

まあその、言葉は悪いですが、

頭がどこかイカレてなければ、

兵卒の心を掴んで
機動力で主導権を握るような戦争なんか
出来なかったのが、

恐らくは当時の実情だったのでしょう。

後世の人間の身勝手な感想としては、

夏侯淵の場合は、
無念ではあろうが、同時に、
当時の軍人としては
本懐であったようにも思えます。

 

6-3、事態を収拾した人材の面々

当然、この頓死のツケは高くつきましたが、

軍中の混乱に際して、
これを郭淮や杜襲といった知恵者
曹操に対して沈着な張郃を後任に推薦することで
事なきを得ます。

因みに、この時、

護軍として
暫定的に組織内の調整の権限を
与えられたのが曹真

この人は曹操の一族の古強者で、
後の孔明先生の好敵手。

また、郭淮についても、
もう少し触れておきます。

夏侯淵戦死の直後に
渡河戦における絶妙な用兵
劉備の追撃を断念させまして、

後の曹魏の対蜀戦線における
主将の一角に喰い込む片鱗を見せます。

因みに、当人の略歴ですが、

当時の高級官吏登用制度である
高廉を突破した
ほとんど最後の世代と推察します。

北方の出身で羌族に対する理解が深く、

地域の利害に積極的にかかわった
当時の古き良き名士を体現したような
人材です。

個人的には、異民族対策も含めて、
秦嶺界隈における
曹魏の屈指のキーマンと思います。

余談ながら、曹魏の終わり頃からは、
いつしか地域の実情から目を背けるのが
地方官や名士の「流行り」になっていたようで、

そんなことやってりゃ、
誰が皇帝になっても国が滅びるわなあ、と。

 

6-4、秦嶺の霧?戦場の霧?
    そもそも「史料の霧」?

さて、次に、
2、の無数の山岳戦闘について。

劉備が陳式等の10程度の部曲を編成して
魏軍を攻撃したり、

趙雲が空城の計で曹操の大軍を破ったり、

徐晃が蜀軍を谷に追い落としたり、

―といった具合に、

何度となく激戦が戦われたことは
間違いなさそうですが、

その記録から透けて見えるのは、

「谷」だの
「閣」(架け橋の意)だのと、
急峻な地形を想起させる文字
踊っておりまして、

中々、大兵力を展開して
短期間で雌雄を決するような
大規模な野戦にはなりにくかったのかしら、
という印象を受けます。

したがって、
両軍が相応の措置を講じたことで
主将が戦死した位では
戦線が動かなかったという次第で、

これを見た曹操が、ついに、
斜谷、つまり、褒斜道経由で
陽平関に出馬しまして、
これが地図上の⓺。

とはいえ、

在陣すること高々2ヶ月で
全軍を長安に撤退させます。

もっとも、
それまでの激戦や
夏侯淵の戦死を考慮すると、

曹操の陽平関着陣以降、
目立った攻勢がなかったという
大人しさも不気味なもので、

思うに、

陽平関への出馬自体が、
撤退戦の陣頭指揮を
視野入れたものである可能性も
ありそうな。

しかし、転んでもタダでは起きない曹操。
この漢中争奪戦には、

実は、トンデモナイ裏の顔がありまして。

 

7、経済戦争の一戦法・移住のススメ

7-1、当時の戦争は人の奪い合い?!

4年にわたる劉備と曹操の漢中争奪戦、

結論から言えば、
土地を手にしたのは劉備、
住民を手にしたのは曹操、という、

奇怪な結果に終わりました。

で、ほとんどもぬけの殻の漢中を
制圧した劉備は、
屯田をやる羽目になりまして。

というのも、

占領地の住民を
根こそぎ移住させるという悪智恵を
曹操に授けた敏腕行政官
少なくとも何名かいた模様。

以下の地図は、
その移住の状況を示したものですが、

これは役人の手柄話で
明らかになったことにつき、

その実態は、
もっと規模が大きかったものと想像します。

『正史 三国志6』巻末地図を加工。同書各巻の当時者の伝の内容を参照。

数の規模としては、
例えば漢代は1県辺り20万程度の人口でして、

そのうえ、『三国志』の時代は、
戦乱が続いて激減し、
慢性的な人手不足の状態が続いていました。

そもそも劉備とて、
新野から江夏に逃亡を図る際に
領民を随行しました。

【追記】
江夏ではなく江陵だそうな。
何ともツッコミどころの多いこと。

―もっとも、
戦闘員と非戦闘員の区別が曖昧で、
一族郎党を含めて
部曲ごと引っ越したからそうなった、
という側面もあるのかもしれませんが。

まあその、人間狩の目的として、
悪く言えば、
異民族に3K(死語ですね)をやらせて
労力の不足分を補う訳でして、

孫呉が山越相手にやったのも
この類。

で、特に北方では、

これにたいする積年の恨みが
八王・永嘉の乱の伏線にもなるという
社会的な動向でもあります。

さて、こういう状況下で、
当時、史書に記されているだけでも、
8万余だの
5万(人ではなく)「部落」だのの規模の人間が
曹操の支配地域に移住するとなると、

漢中や巴の界隈に
ゴースト・タウンが急増する状況が
容易に想像出来る訳でして、

このマンパワーが、
曹魏の主要都市の開発や屯田に
充当された訳です。

無論、それ以前から
許昌等の根拠地で
大体的に屯田を行ったノウハウが
活かされたことと想像します。

 

7-2、人材の層に一日の長?!

さらには、
これを画策した魏の行政官共も
したたかなもので、

早く移住した者には恩賞を出す、
などとやり出す始末。

担い手の具体的な姓名を挙げますと、

張既杜襲といった
恐らくは曹操が門地を問わず
能力主義で抜擢した
実力派の行政官でして
(張既なんか寒門の出身で郷里でもイロイロあったそうな)、

有能かつ
異民族対策も老練な顔触れでもあり、
適材適所と言えます。

こういう地均しの延長に
郭淮のような裏方の人材の
活躍の素地がある訳でして、

北伐についても、
存外、こういう人材の層の違いが
明暗を分けた部分もありそうな。

以後、劉備の蜀漢は、
漢中での予想外のトラブルに加え、

引き際を欠いた
対呉交渉のこじれが祟って
関羽と荊州の双方を失い、

漢魏革命のドサクサ
(譲位後、献帝の死亡説が流布)に紛れて
皇帝を僭称して方々の名士の反発を買い、
(先述の張某や杜某のような人材から
そっぽ向かれる訳です)

関羽の報復と荊州奪回を兼ねた外征も
失敗に終わり、

極め付けの事態としては、

劉備の没後に
事も有ろうに蜀漢の支配地域でも
大規模な反乱が起きるという具合に、

一転して危機的な状況に直面しまして、

この国家未曾有の有事に際して、
例の孔明先生の双肩に
国運が委ねられる、という、

物語も大きなヤマ場を迎える展開と
相成ります。

 

おわりに

例によって
結論を整理しますと、
概ね以下のようになります。

 

1、漢中―長安間の山間部・秦嶺は難所で、
夏から秋には雨季がある。

2、渭水の北岸は東西の移動、
南岸は南北の移動に適している。

3、種々の「異民族」が雑居している
地域でもあり、

戦争にも統治にも、
これらの勢力の懐柔が不可欠であった。

4、古代の兵書によると、
山岳戦は隘路の確保と
地形の高低の利用がキモである。

5、複数存在するうちの
最も主要な幹線道路は褒斜道であり、

戦禍等で使えない場合は、
子午谷道がその代替となった。

6、曹操は最初の漢中攻めで食糧不足に陥り、

劉備との抗争では、
長期間の対峙の末、撤退した。

なお、双方共、
本隊の壊滅や根拠地の失陥はなかった。

7、ただし、曹操は漢中・巴の住民の移住を
積極的に行い、
支配地域の開発に充当した。

 

【主要参考文献】(敬語省略)
久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」
石井仁「曹魏の護軍について」
並木淳哉「曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次「北伐」」
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
坂口和澄『もう一つの『三国志』異民族との戦い』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
金文京『中国の歴史 04』
加地伸行編『諸葛孔明の世界』
浅野裕一『孫子』
林富士馬訳『六韜』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻

カテゴリー: 経済・地理 | 2件のコメント

古代中国の幹線道路のパターンその3・桟道

はじめに

更新が遅々として進まず、
読者の皆様には御迷惑を御掛けして大変恐縮です。

さて、今回は幹線道路の3つ目のパターンである
桟道についての御話。

戦国から前漢までと後漢・三国時代の
二本立てとなりまして、
今回は前者の方。
三国志のファンの方、悪しからず。

 

1、当時の科学技術の粋?!
  桟道とその敷設の区間とは?

で、この桟道ですが、

簡単に言えば、
絶壁に沿って作られた木造の橋桁の道です。

向こうの国には、
「桟道」以外にも
「鳥道」という文字通りブッ飛んだ言葉もあります。

また、前回触れました直道・馳道とは異なり、

急峻な地形に
無理やり道路を開削するパターンにつき、
存在する地域も限られます。

具体的には、
サイト制作者の知る限りでは、

蜀、及び、咸陽―南陽郡の直道の区間の山間部
ふたつの地域。

まず、南陽郡自体は
(始皇帝没後の)前漢時代は
漢民族の開発のフロンティアの南端
であったとはいえ、

そもそも始皇帝の地方巡察や
旧楚の王都である江陵近辺への侵攻ルートである
馳道の終点のひとつ。

さらには、今回のメイン・テーマである
咸陽・長安から漢中までの桟道も、

後述するように
秦の領土拡張の過程で国家戦略として
大々的に整備された経緯があります。

蜀・四川盆地は沃野であり、
銅や塩等の国政に必要な貴重資源も眠る土地。

つまり、ポンコツ道路をデッチ上げてでも
物資や兵隊を往来させる価値があった訳です。

 

2、沃野を守る天険・秦嶺山脈

では、その蜀とはどのような地形をしているのかを、
現在の地図で確認すると、以下のようになります。

『グローバルマップル 世界&日本地図帳』p12を加工。

地形など、
河川の流れは変わっても山の形までは
早々変わらないものでして、

特に、蜀の喉首である漢中から
咸陽・長安までの道のりは、

2、3000メートル級の山々で構成される
秦嶺山脈が大きな障害になっていることが
窺えるかと思います。

その蜀への経路ですが、

この話も含めて
今回の御話のタネ本として紹介するのが、

久村因先生の論文
「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」。

ttps://ci.nii.ac.jp/
(アドレスの一文字目に「h」を補って下さい。)

著者検索「久村因」等で辿って頂ければ幸いです。
PDFがアップ・ロードされています。

さて、現在は、1950年代当時とは異なり、

現地では事務レベルの行政文書が
数多く発掘されていることで、

この分野の研究がどこまで進んでいるのかは
分かりかねますが、

その一方で、

論文検索を行っても
桟道関係の研究がそれ程多くはないことと、

論文の内容自体も
物の考え方としても非常に参考になることで、
ここで紹介させて頂きます。

ただ、この論文を地図なしで読むのは、
都市や道、河川等の位置が想像出来ないことで
苦痛に感じるでしょうから、
(サイト制作者がそうでした!)

ヘッタクソながら、後で図解します。
論文とイラストを照合しながら
御読み頂ければと思います。

また、論文自体も、
イマイチ結論を整理出来ていないところが
ありまして、

着想が面白いだけに、
その辺りも少々残念に思います。

―良くも悪くも、
昔の論文だという感じがしないでもありません。

 

余談ながら、
歴史学であれば、

大体この年代の論文は
文章が支離滅裂であったり
前後で内容に整合性が無かったりするものが
結構多いです。
―ええ、このサイトの駄文のように。

で、エラい先生方が先行研究を整理する際、
そうした複雑怪奇な文章を
しっかりと読み込んで
整理されたのかと言えば、

そういう部分は無視して
実証的な部分のみを相手にした、
という具合。

その意味では、
この論文は相当良心的な部類です。

まあその、
上のヘンなノイズは
ともかくとしまして。

 

したがって、久村先生には大変失礼ながら、

この論文の面白そうな部分を
ツマミ喰いするかたちで
話を進めていこうと思います。

 

3、どれもヤバい?!入蜀の経路
3-1 最も有用な漢中経由

早速ですが、先生によれば、
当時は3つのルートが存在したそうな。

それを地図に表したものが以下。

戸川芳郎監修『全訳 漢辞海 第四版』p1779(前漢時代)を加工。

見ての通り、

1、漢中経由
2、長江経由
3、南方経由

というルートがありまして、

さらにその中で
一番現実的であったのが、

この怪しげな橋桁道で構成される
1、漢中経由という、
ウソのような本当の御話。

 

3-2 長江の東征は危険な香り

こういうものは、
恐らく消去法で考えた方が納得が行きます。

まず2、長江経由ですが、

陸路を踏破する際の
水の確保であればともかく、

船舶を用いた移動ともなれば、

上流の蜀から下流の東シナ海までの
川の流れが大きな阻害要因になります。

で、三国時代に
これを逆手に取って蜀から東へ出撃したのが
劉備と晋の王濬ですが、

攻勢の際には
移動や補給を円滑にするものの、

敗勢になると
川の流れがアダになって
逆に撤退に支障を来すことで、

その意味では
大きなリスクを背負う作戦でもありました。

―これは次回の御話。

また、当時の実情としても、
このルートよりも
咸陽・長安―漢中のルートの方が
人の往来が格段に多かったようです。

人夫や物資等の首都関係の需要に加え、

当時の人民の怨嗟の的であったとはいえ、
馳道開削の恩恵がそれだけ大きかったことを
示唆していると思います。

 

3-3 知る人ぞ知る秘境の補給路

最後に3、南方経由。

古代中国の入蜀については、

商用や旅行であればともかく、

中原の政権の
蜀に対する軍事侵攻ルートとしては
主流とは言えません。

山がちな地形なうえに
インドシナ半島に
策源地が必要だからです。

むしろ、例えば三国時代の蜀漢がそうですが、

この鉄壁の四川盆地を抑える政権にとっては
南方への有用な交易路・軍道であったという御話。

つまり、この3つの入蜀経路の状況が物語るのは、
それだけ往来に難儀する地域であった、
ということです。

 

余談ながら、

20世紀の日本とて
占領地の守備に起因する兵力不足が祟って
この天険を攻めあぐね、

参謀本部は
対米戦が始まっても
暫くは重慶攻略の作戦計画を
練り続けていました。

方や、その日本の侵略に対して、

四川盆地を根拠地として
交戦を続ける国民党は、

英領であるインド・ビルマから
昆明を経由して首都・重慶に至る、

所謂「援蒋ルート」
日本の北仏進駐
(要は、ナチの侵攻で瀕死の
フランス植民地の火事場ドロ)まで
米英から軍事支援を受けていました。

―してみれば、

こういう急峻な地形に起因する
地政学的な構図は、

科学技術の発達を以ってしても
簡単には変わりにくいことを
暗示しているように見受けます。

 

4、図解、秦嶺山脈の山越えルート
4-1 渭水水系沿いに伸びる桟道

それでは、次に、

当時の入蜀の主要ルートであった
咸陽・長安から漢中に至る経路について
触れることとします。

以下の、例によってアレなイラストを御覧下さい。

久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」、篠田耕一『三国志軍事ガイド』、金文京『中国の歴史 04』等より作成。

サイト制作者の浅学で恐縮ですが、

もし、後漢時代以降に登場した地名が
混じっていれば
大変申し訳ありません。

加えて、漢中郡の治所は
特に漢代を通じてコロコロ変わっていまして、

主に南鄭県にあった、
という程度の御話で御願い出来れば幸いです。

さて、長安―漢中間の距離は、
直線で大体300キロ程度。

しかしながら、
両都市の間を秦嶺山脈の天険が
遮っていまして、

劉邦や光武帝はおろか、
蜀漢や曹魏の名将殿各位も、
この山越えに手を焼いた訳です。

その一方で、

秦嶺山脈の北側を流れる
渭水の水系の支流に沿うかたちで

同山脈の南に位置する
漢中に向かう道が伸びており、

このうちのいくつかが
当時を代表する幹線道路となっています。

具体的には東から、
子午(谷)道、褒斜道、故道
存在しました。

子午道前漢の終わり頃から
存在が確認されたそうで、

さらには、後漢に入ると、
子午道と褒斜道の間に
駱谷道が開削されます。

また、この他の入蜀の経路として、
陰平道という道もあるそうですが、

サイト制作者の浅学につき
具体的な経路は不明です。

そして、これらのルートのかなりの区間が
桟道という形で開削されたということ
なのでしょう。

 

4-2 劉邦の足跡、褒斜道と故道

さて、これらの道路の中で
戦国時代から秦代までの最も主要な道路
褒斜道でした。

因みに、この道の北半分の地域
斜谷と言います。

この褒斜道は、
紀元前260~250年頃に
秦の名臣・范雎の肝煎りで
大々的に整備された桟道のようでして、

秦を滅ぼす過程で
項羽に干されて
(公約である関中どころか)
僻地の蜀に飛ばされた劉邦が、

自分の領地に涙目で入蜀した直後に
焼き払ったのも、
この道だそうな。

もっとも、
元々損傷が激しかったことで、

北上の意志がないことを示すための
政治的な理由で破却した可能性がある
とのこと。

そして、その後、
戦後処理で躓いた項羽を後目に、

自力で関中を制圧すべく
劉邦が蜀を出撃した際の経路は
故道でした。

どうもこの道は、当時は、
この少し前まで使われていた道の模様。

さらには、
元々渭水の南は、

東西の移動については
小水系が入り乱れて移動に適さず、

渭水の北で行われていたようです。

事実、劉邦の関中攻略は、

こうした事情の下、
故道を通って渭水の北に出てから
東進します。

ただし、この時点では、
項羽との対立を避けるために
咸陽には手を出さなかった模様。

 

おわりに

今回の御話をまとめると、
概ね以下のようになります。

 

1、桟道が確認出来るのは、
  秦王朝の幹線道路であった。

 

2、古代中国の入蜀の経路は、
  以下の3つの経路が存在する。

一、咸陽・長安から南下し、
  秦嶺山脈に掛かる桟道を超えて
  漢中に入る経路

二、長江やその水系を遡って西進する経路

三、雲南・貴州から北上する経路

 

3、上の3つの経路の中で主流であったのは、
  一、の秦嶺山脈を超える経路。

 

4、秦嶺山脈を超えるルートの中で、
  秦の時代から劉邦の入蜀の時代までは、
  褒斜道が最大の幹道であった。

 

5、劉邦が褒斜道を焼き払い、
  これより西に位置する故道を通って
  関中を攻撃した。

 

6、渭水水系の桟道は南北の移動に適していたが、
  東西の移動は、主に渭水の北で行われた。

 

7、渭水水系の長安―漢中の経路に、
  前漢の終わりには子午道、後漢には駱谷道が、
  それぞれ加わった。

 

【主要参考文献】
久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
金文京『中国の歴史 04』
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻

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古代中国の幹線道路のパターンその2・馳道

稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳『図説 中国文明史4』、劉永華『中國古代車輿馬具』、学習研究社『戦略戦術兵器事典1』、 林巳奈夫『中国古代の生活史』を参考に作成。

はじめに

今回も幹線道路の御話。

更新のペースが遅いのに法螺を吹くのも
何だか申し訳ないのですが、

次回は桟道や入蜀の経路について触れ、
その話が終わり次第、

亭や郵といった施設や旅券発行の手続きといった、
秦から三国時代あたりまでの
(軍事も含めた)逓信政策について
書きたいと思います、が、
いつになることか。

 

1、馳道の構造と建設目的

さて、始皇帝の中国の統一後の代表的な道路建設
もうひとつの代表例が、今回の「馳道」

まずは、どういう道路かと言いますと、

道幅70メートル
そのうち、中央の7メートルが
皇帝専用道路として隆起しているというもの。

因みに、前回触れた「直道」との違いは、
直道程には直線が多くはなく
車両の高速移動には向きません。

次いで、その工法ですが、
「版築法」と呼ばれる、
土を建材に使う方法です。

上記のへぼいイラストのように、
木の枠に建材となる土を入れて
鉄錘(鉄槌)で叩きまくるというやり方。

城壁等のような頑丈な建築物を作るための工法でして、
当時は最新技術でした。

―ウィキによれば、
現在は建材がセメントに変わったようですが。

さらには、道路建設の目的と経路ですが、

制服した各国の連携と報復を警戒し、
その芽を摘むのが目的です。

具体的には、
多方面への派兵を可能にするため
道路建設という訳です。

さらにその経路ですが、
西への経路―隴西郡は、
秦が東進する前の策源地との連絡路を意味します。

雲中郡への経路は、直道と同じく、
北辺への備えと同時に、旧斉・燕地域への派兵も
視野に入っていることでしょう。

この流れで言えば、
函谷関経由の洛陽への経路は旧・魏領等の中原への
幹道、

桟道を経て南陽郡に至る経路は、
荊州や江南の旧・呉楚の地域への睨み
ということなのでしょう。

また、現地の看板によれば、
馳道はコーエーの『三國志』シリーズの全国マップ並の
広範な道路網であったようですが、

残念ながら、筆者浅学さか、
これについては別の文献・史料で確認出来なかったので、
掲載は控えました。

事の真偽の調査は今後の課題と致します。

 

2、県単位での人の管理

さて、こうした巨大な幹線道路の用途ですが、
始皇帝の巡察以外では、

サイト制作者の個人的な意見としては、
利用者の大半は、国家や自治体、
あるいは或る程度大きな資本か無法者の集団
であろうと予想します。

と、言いますのは、
当時は県から出るのに
イチイチ旅券発行という
面倒な手続きを取る必要がありました。

これには、目的や目的地の明記は当然のこと、
経由する関所やら、これを通過する人馬さえも
記入する必要がありまして、

生半可な目的では
遠出が難しかったことを意味します。

まず、識字率の壁があり、
次いで、役人や地域の目があるという具合。

 

3、自治体の枠組みから見る『三国志』

ここで少し脱線話をしますと、

春秋・戦国時代には県レベル
漢代(武帝の時代以降)には郡レベル
三国時代以降は州レベルの地方行政が
実質的に可能になったと言われていますが、

県・郡・州の各々の長が、

官僚機構の整備の進展によって
分相応の権限を手にしたのが
各々の時代であったという話です。

 

例えば、春秋時代の場合は、
小領主の支配地域が大体県レベルであり、

当時は県城(=都郷)と
郷(この場合は離郷、城塞がない)は
上下の関係がなく併存していたこともあり、

当時の領主が実行支配出来る領域が
大体このレベルでして、
この枠組みが次の時代にも横滑りしたことでしょう。

 

例えば、漢代の戸籍の話をしますと、

各々の「里」の戸籍を統括して
個人名のレベルで把握しているのが県だそうな。
(県の組織の中枢を、当時の言葉で「県廷」と言います。)

対して、県の上位の自治体である郡では、
人の数は把握していても
個人名までは分からなかった模様。

その他、以前の記事でも触れたように、
秦の時代は武器の製造や移動は
郡の太守以上の許可が必要であるだとか、

自治体のランクに応じて
独自の権限が付与されるのですが、

については、後漢末までは、
地理上の区分はあっても
その区分された地域を丸ごと治める職階はなかった、
ということです。

 

因みに、当時の自治体の単位である
「里」・「郷」・「県」については、
この回を参照。

 

ところが、後漢末期の動乱の過程で、
暴動や反乱の規模が大きくなったことで
郡レベルでは治安活動が難しくなりまして、

本来は州の監察官であった刺史が
郡太守を指揮して事態の収拾を図る過程で
統治の責任者として実効支配を始めたという御話。

例えば『三国志』では、
荊州の劉表や益州の劉焉なんかが
その典型の模様。

 

要は、始皇帝が中国を統一たものの
圧政が祟って自滅し、
直後に漢がそのオイシイところをさらって
長い歳月をかけて発展させる過程で、

その州の監察官が統治者になるまでに
数世紀の歳月を要した訳です。

 

とはいえ、その頃にはそもそもの国家自体が
ステージ4の末期ガン状態でして、

皇帝様が木偶の坊につき、
州の支配者が必然的に軍閥化せざるを得なかった
というやっつけぶり。

そのうえ、そういう軍閥同士の抗争の結果、
やれ曹氏だ司馬氏だと新しい王朝を造ったところで、

仲達のように
王朝自体を乗っ取ろうとする奴がいれば、

諸葛誕のように
その報復とばかりに
州ごと離反するような奴も出て来る訳で、

安定した王朝の枠組みの中で
州という自治体が
官僚機構の一部として安定的に機能するのは
もう少し後の時代の模様。

もっとも、曹魏の軍政下での
都督だの諸軍事だのといった州の統治者を
こういうのを同等に扱うべきか否かは
議論の分かれるところかもしれませんが。

この話は、
色々と先行研究もあることで、
もう少し私の方でも勉強することと致します。

 

4、人々の度肝を抜く始皇帝の行列

さて、話を馳道に戻します。
今回の最後の話となりますが、皇帝の馬車の御話。

70メートルの大道の中央を走る
始皇帝の専用馬車ですが、
「轀輬車(おんりょうしゃ)」といった
大層な名前が付いています。

意味は、温かく涼しい―つまり、
車内の温度の調整機能がある、
ということです。

とはいえ、
21世紀の現代の視点で見れば、
エアコンも付いていないのに
空調機能があると吹く
何の変哲もない密閉式の馬車ですが、

当時の車両の技術水準からすれば
実に画期的なものでして。

 

と、言いますのは、
大体、漢代までの馬車というのは、
二輪が基本で、
座席と言えば座るスペースしかありません。

そのうえ、悪天候の備えなど、
あって無きが如しでして、

露天なんかザラで
精々、天蓋が付けば上等な位です。

次の時代の漢代における
朝廷の大臣クラスの公用車でさえ、
天蓋と側面に簾か板みたいなものが
付く程度の御粗末なもの。

 

―そういう時代に、

完全な密閉式でドアはおろか開閉式の窓がつき、
オマケに姿勢を崩すスペースのある車両が
どれ程貴重なものであったか
御想像下さい。

今日のセレブ御用達の
胴長のリムジンを彷彿とさせるものを感じる
と言いますか。

 

そうした車両が
1000名程度の親衛隊の
車列や人馬に護衛されながら
道幅70メートルの道路の
隆起した中央の7メートルの部分を走るのですから、

物々しい行列であったことは
想像に難くありません。

 

現に、次の時代には秦に反乱を企てることになる
項羽も劉邦も、
この始皇帝の地方巡察の車列を見て
色々と思うところがあった模様。

まず項羽は、
不敵にも、始皇帝に取って代わってやると言い、

対して劉邦は、
男と生まれたからにはああなりたい、と、
単に憧れた、という逸話がありまして。

後の世の英雄となる若き日の両者ならずとも、
人々が羨望と怨嗟を向けた行列
であったことでしょう。

 

因みに、当時の車両関係の話の種本は、
劉永華『中國古代車輿馬具』(清華大学出版社)。

イラストの轀輬車のカラーも、
この本の復元図を参考にしました。

サイト制作者のヘボいイラストとは違い、
車体は実に緻密な紋様に彩られていたようです。

なお、同書は、

説明の多さは元より、
復元イラストや史料の図版も多いので、
特に考証本として重宝する良書だと思いますが、

如何せん、中文で高い本
(サイト制作者は4000円余で購入!
泣けてきます)なので、

まずは、近くの大学図書館で手に取られるか、
図書館に買わせるのが良いかもしれません。

 

おわりに

今回の取り留めない話の馳道に関する要点を
一応整理しておきます。

馳道は始皇帝が建設を進めた道幅の広い道路で、
中央は皇帝の専用道路です。

首都の咸陽を基点に
多方面への派兵や巡察を可能にしました。

ただ、道路の両側は
一般にも開放されていたとはいえ、

恐らく利用者は
公用者か資本力のある商人に限られていたであろう、
というサイト制作者の見立て(妄想とも言いますが)

専用道路を突っ走る皇帝の馬車は
当時としては極めて居住性に優れていました。

また、馬車自体が壮麗なうえに
親衛隊の車列を引率して
堂々と数度の地方巡察を行ったため、

当然ながら、
良くも悪くも、
人々の耳目を曳く結果となりました。

 

【主要参考文献】
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』
劉永華『中國古代車輿馬具』
藤田勝久「里耶秦簡の交通資料と県社会」
「秦漢時代の交通と情報伝達」
小嶋茂稔「漢代の国家統治機構における亭の位置」
学習研究社『戦略戦術兵器事典1』
林巳奈夫『中国古代の生活史』

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古代中国の幹線道路のパターンその1・直道

まずは、更新が大幅に遅れて大変申し訳ありません。

私事で恐縮ですが、
身の回りの環境が激変したことで
先月までのペースでの更新が難しくなりまして、

色々と考えた結果、

差し当たって、

文章なりイラストなり、
書き起こした分だけでも
小分けにして綴ることにしました。

早速ですが、
今回は交通関係の話。

以前の記事で、
古代中国の城塞都市の設立条件は
交通の結節点である可能性が高い、
と記しました。

こうした文脈を受けてか、
中国の統一に成功した秦の始皇帝は、

首都・咸陽を基点に
巨大な道路網の整備に乗り出す訳です。

さて、当時の幹線道路には
いくつかのパターンが存在します。

そのひとつのが、

「直道」と呼ばれる

今日で言うところの
ナチのアウトバーンのような、

謂わば、
軍用の高速道路に相当する道路です。

咸陽(雲陽の林光宮)を基点とし、
北辺の国境地帯である九原郡までの
1800里(約700キロ)を結ぶ大道です。

 

早速ですが、
以下のヘボいイラストを御覧下さい。

 

稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』p97-99等を参考に作成。

これが、その「直道」の概要です。

広い道幅を有し、
急なカーブや勾配を排したことで
車両の高速移動を可能にしました。

オマケに、
道路に砂利まで敷いて
砂塵が舞い上がるのを防ぐという徹底ぶり。

敷設どころが維持にも相当の予算が掛かることが
容易に想像出来ます。

なお、道幅については、文献によっては、
平地で20メートル程度、
山地で4、5メートル程度、
としているものもあります。

で、中国の統一後、
こんな手の込んだ道路を必要とする仮想敵国
一体どこにいるのか、
と言えば、

当時北方で猛威を振るっていた
匈奴だったりしまして。

ですが、皮肉なことに、
当時のこの道路の用途は、

地方巡察中に身罷った始皇帝の遺体を
迅速に咸陽に運ぶために使われたというオチ。

最後を迎えたのが山東半島付近の沙丘で、
そこから西に転進して直道に乗ったそうな。

そのうえ、その臨終の段階では未完成でした。

 

【主要参考文献】
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』
江村治樹『戦国秦漢時代の都市と国家』
学習研究社『戦略戦術兵器事典1』

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ある地方官の憂鬱~『三国志』の襄陽の人材事情

今回も1万字余に膨張。
無駄なことも随分書いてしまいました。
例によって、章立てを付けます。

未熟な構成で本当に恐縮です。

願わくば、
適当にスクロールなさって
興味のある部分だけでも御覧頂ければ幸いです。

因みに、あるサイトによれば、
日本人は平均で
1分間に500字から1000字程度読むそうで、
御参考まで。

 

はじめに
1 劉表赴任時の荊州
2 長江中流域は「原住民」の戦場?!
 2-1 「異民族」のパターン
 2-2 板楯蛮と王平
 2-3 色々とキナ臭い街亭の戦い
 2-4 南荊州の傭兵・武陵蛮
3 劉表の飛躍
 3-1 カオスの地・襄陽
 3-2 蒯越の献策
 3-3 地方豪族の脅威の政治力
4 老将軍の半生
 4-1 黄忠とは何者?
 4-2 劉備との不思議な縁
 4-3 悪役の郡太守
5 襄陽の人材事情
 5-1 「水鏡」の由来
 5-2 人材や政策を押し売りする地元豪族
 5-3 対外積極策と流浪名士の存在意義
 5-4 諸葛先生の就職とその意義
6 地方官・劉表氏の査定?!
 6-1 安住の地・荊州
 6-2 堅気な劉表とヤクザな袁紹
 6-3 そして、尽きかける寿命
 6-4 性格が歪む?!地方官稼業
おわりに

 

 

はじめに

今回も前回に引き続いて
人材関係の御話をします。

前回は、『三国志』の時代の要人が
幼少から教育を受けて朝廷に出仕するまでを
綴りましたが、

今回は、そうした人材の就職事情について、
劉表統治時代の襄陽を事例
もう少し詳しく見ることにします。

 

1 劉表赴任時の荊州

前々回に襄陽という土地を扱ったことで、
劉表時代のこの土地の事情についても
もう少し見てみることにしましょう。

今回の主役は劉表、字は景升。
優秀なれど、悩み多き地方官です。

さて、この人が『三国志演義』に登場するのは
董卓討伐の際の挙兵でして、

その時分には、
既に、押しも押されぬ軍閥のひとりとしての
存在感を示しています。

ところが、
当時の荊州の内情や劉表の政治的足跡
正史やいくつかの文献を通して
眺めてみると、

周辺の軍閥や原住民とも言うべき異民族との
ゴタゴタが祟り、
中々に波乱含みの状況を呈している模様。

 

 

2 長江中流域は「原住民」の戦場?!

 

2-1 「異民族」のパターン

まず、劉表が荊州の刺史として赴任した頃、

治所の武陵は所謂「異民族」に占領され、

さらには、袁術は魯陽に兵を置いて
南陽の兵を自軍に組み込んだ上に
劉表の武陵入りを妨害するわのトラブル続きで、

やむなく襄陽に治所を移して政治を始めます。

 

さて、この「異民族」というのも
色々パターンがあるのですが、

この武陵の勢力は
世界史で習う類の異民族とは異なる
結構特殊なパターンの模様。

この辺りの事情は、
坂口和澄先生
『もう一つの『三国志』異民族との戦い』
が詳しいので、
以下は同書の該当部分によります。

 

異民族のパターンとしては、
大体以下の3つのパターンがある模様。

 

1、漢王朝の国境周辺の地域を根城にして
越境して王朝や軍閥の兵と揉める勢力。

例:北辺の騎馬民族や南方の山越等。

2、漢王朝との戦争に敗れて強制移住を喰らって
内地で不満を燻ぶらせる勢力。

例:羌族等。

3、加えて、漢王朝の版図内に長らく居住しながら
中原とは言語や文化を異にする勢力。

例:長江流域の「〇〇蛮」と呼ばれる
所謂「原住民」。

 

サイト制作者の浅学で恐縮ですが、

外国史を専攻したことがなく
外国人の方ともあまり接したことがないので、

正直なところ、
故人の悪口を書きまくっている割には、

「異民族」や「原住民」といった
差別的な意味合いを含む言葉をどう使って良いのが
分かりかねております。

したがって、
こういう言葉が出て来る際は、
あくまで世間一般で使われるイメージ程度の認識
御願い出来れば幸いです。

 

 

2-2 板楯蛮と王平

さて、武陵で劉表の治所入りを阻んだ勢力は、

先述の3パターンのうちの最後、

「漢王朝の版図内に長らく居住しながら
中原とは言語や文化を異にする勢力」です。

 

後漢当時の長江の中流域には、
戦国時代の楚の民の末裔とされる勢力が
存在しました。

具体的には、
盤瓠蛮(ばんこばん=武陵蛮)・廩君蛮(りんくんばん)・
板楯蛮(ばんじゅんばん)、
といった勢力です。

盤瓠蛮は南荊州、廩君蛮は南郡や巴、
板楯蛮は巴や漢中が勢力圏。

 

因みに、当時、
戦争が強くて有名だったのは板楯蛮。

『三国志』よりも前の時代から
漢王朝のために他の「異民族」との戦いの
第一線の部隊として奔走したものの、

当の漢王朝の「毒を以って毒を制す」
理論のために冷遇され続けてスネた勢力です。

板の盾で武装するのでこの名が付いたそうな。

有名な武将との関係では、
蜀の王平の母親がこの勢力の出身。

これに関して、最近の研究紹介します。
サイト制作者としては
かなり面白い論文でした。

並木淳哉 『駒沢史学』87
曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次「北伐」
ttp://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/36194/
(1文字目に「h」を補って下さい。)

 

同論文によれば、

『三国志』の時代の
漢中近郊の戦争の少なからぬ部分は、

この板楯蛮の支持を取り付けるための
外交戦の模様。

特に北伐の街亭の戦いでは、
先の漢中での
劉備と曹操の抗争のシガラミもあり、

この板楯蛮の去就が
戦況に大きく関与した模様。

 

さらには、
どうも、馬謖も戦術面でヘタを打ったのではなく、
板楯蛮の動きの怪しさに狼狽して
逃亡を企てた可能性があるそうな。

その一方で、殿として意外に頑張ったのが、
馬謖に内応を疑問視された
板楯蛮の血を引く王平の部隊という結末。

 

 

2-3 色々とキナ臭い街亭の戦い

さて、この街亭の戦い、

確かに馬謖は
軍人としては有能ではないのでしょうが、

それ以外にも、
例えば馬謖以外にも将軍を何名も軍法で処刑したりと
陳寿が隠そうとしたと思われる
ヤバ気な点がいくつか見え隠れしまして。

で、サイト制作者が
並木先生の論文を元に想像(妄想)を働かせて
誤解を恐れずに言えば、

街亭の戦いの実態は、

蜀軍の大半の部隊は、
板楯蛮の造反を恐れて戦意を喪失し
張郃の部隊と対峙する前に
敗走を始めていたのではなかろうかと想像します。

監軍として監督責任のある馬謖と
前線で指揮を執る複数の将軍の、

謂わばライン・スタッフの双方から
処刑者を出した理由は、

どちらかに手落ちがあったというよりは、

双方とも戦意を喪失し、
優勢な魏軍に対して
マトモに戦おうとしなかったからかもしれません。

 

そして、そのような中、
水源を断たれて敗走したのは
割合頑張った部類の部隊ではなかろうか、と。

と言いますのは、
並木先生の論文によれば、

その3年後、
蜀軍は同じ地域で
同じ山に陣取って敗れていまして、
これが守備側の常套手段であったことを
伺わせるそうな。

つまり、
小手先の戦術で引っ繰り返せる程
拮抗した戦いではなかった、
という訳です。

 

もう少し言えば、

馬謖の幕僚の息子であり蜀贔屓の陳寿が、

蜀軍の統帥上の大きな欠陥や
戦地の住民の懐柔工作
―つまり、民族問題の対策の失敗を
戦術面での不備に矮小化したように見受けます。

 

これはサイト制作者の愚見に過ぎませんが、

並木先生にしてみれば、

本当はここまで主張したかったが
史料がないので何とも言えない、

という話かと想像(妄想)します。

 

 

2-4 南荊州の傭兵・武陵蛮

話が何故か北伐に飛びましたが、

先の話の要点は、

内地に永住するタイプの「異民族」の去就
王朝同士の戦争の戦局を左右するレベル
大事であるということです。

さらに、
この勢力の特筆すべき点は、

戦国七雄である楚の民で
何世紀も居住しながらも、

中原とは文化・言語が異なるところです。

 

したがって、中原の漢民族からすれば
自分達の価値観が通用しない訳でして、

最悪の場合、

件の武陵郡のように
本来は州の治所である郡ですら
現地民に離反されるような
みっともないケースも存在する、と。

 

因みに、夷陵の戦いで
劉備が強力を取り付けたのも、

この武陵蛮の一系統である五鷄蛮(ごけいばん)。

この民族も、
例えば「長沙蛮」・「桂陽蛮」という具合に
郡ごとに「蛮」が付くような有様で、
地域性が多様であることも伺わせます。

 

西域の「異民族」を妖怪として描く
『西遊記』にせよ、
軍閥の少なからぬ戦力であった所謂「蛮」の話を
あまり書かない『三国志演義』にせよ、

華夷思想のメンタリティでは
こういう話を大々的には書かんわなあ、と。

曹操の烏丸征伐なんか
曹操直々の出馬で7年掛かり、

戦役自体も特に兵站面では相当に苦労したことで、
当初出兵に反対した者を褒めた程の
大事にもかかわらず、

小説の方ではあまり詳しい話は無かった
記憶します。

 

 

3、劉表の飛躍

3-1 カオスの地・襄陽

さて、赴任早々に
治所の問題で足を掬われた劉表、

ところが、先の武陵どころかこの襄陽も、
交通の要衝故か面倒な土地でした。

 

差し当たって、
襄陽周辺の地図を御覧下さい。

陳寿 裴松之注・小南一郎訳『正史 三国志6』巻末地図を引用。

 

まず、最大の外敵である孫堅は、

董卓討伐の際、
根拠地の長沙から洛陽を突く途中で
そのドサクサに紛れて
劉表の前任者や南陽郡の太守を殺した経緯があり、

その庇護者の袁術も、
先述のように怪しい動きをしています。

 

そう、この荊州の地では、

この頃には対立関係にあった
袁紹対袁術の代理戦争が、
劉表対孫堅という形で行なわれていた訳です。

そのうえ膝元の襄陽でも
宗賊という武装集団が幅を効かせていました。

無論、傘下の地方官も、
自分の兵力を頼んで劉表の命令に服しません。

 

 

3-2 蒯越の献策

そこで新任の地方官で何の後ろ盾もない劉表は、

地元の名士である蒯良・蒯越・蔡瑁等と図って、
まずは宗族を騙し討ちにして
足場を固めます。

ここで、強硬論を吐いたのが蒯越。

袁術や傘下の地方官など
烏合の集で物の数ではないと凄みます。

さらにその上で、

自分の息の掛かった者の中に強欲な奴がいるので
その者やその者の配下を財貨をエサに呼び寄せ、
自分の態度を示すように、と、進言します。

言い換えれば、
領民はこのデモンストレーションに
注目する訳でして、

転じて、
管轄地域に自分の政策指針を示すことが出来る、
という訳です。

劉表はこの蒯越の進言に従い、
宗賊の目ぼしい連中50名余を誘い出して処刑し、

その上で抵抗を続ける江夏の賊も
蒯越と龐季が説得して降伏され、
江南の治安を回復させます。

 

 

3-3 地方豪族の脅威の政治力

つまるところ、
以上の正史の話を鵜呑みにする分には、

話の筋書きを書いたのは蒯越であり、
その策の初歩である交渉の相手とて、
やはり蒯越のコネに他なりません。

 

この話が意味するところは、

大きい部類の地方豪族には、

州の半分程度の領域であれば
当座の治安を保つ程度の政治力は備わっている、
ということなのでしょう。

ただし、それを実行するためには、
監察や地方官のような現場の長の役人のハンコが
必要である、と。

 

この話に因んで、

後年、曹操が劉表の訃報につけ込んで
荊州を占領した折、
「荊州を得るより蒯越を得た方が嬉しい」
宣ったそうな。

 

無論、このリップ・サービスは、
コーエーのゲームで言うところの
知力80程度の武将をひとり得て喜んだ、

という程度のショボい話ではなく、

こういう豪族名士の支持こそが
荊州北部の支配と同義であったという
当時の地方政治の実情を物語っています。

 

―今日の我が国の政治で言えば、
知事選や国政選における
最大の票田を手中に収めるようなレベルの話です。

 

ですが、先述の荊州南部のような
中原とは距離のある
「異民族」が幅を効かせるような地域とは
別の次元の話です。

 

こうして膝元の脅威を一掃した劉表は、

その後、
侵略して来た孫堅や張済を返り討ちにして射殺し、

本人の性格の悪さが祟って起きた
長沙郡太守・張羨の反乱
親子二代相手に大分手こずったものの、
最終的にはどうにか平定し、

結果として、
南は長沙に加えて桂陽・零陵をも制圧し、
兵力10万を擁する巨大軍閥に成長します。

 

 

4 老将軍の半生

4-1 黄忠とは何者?

以上のような経緯で
身に掛かる火の粉を必死に払って来た
劉表の配下の武官の中で、

その経歴が割合明らかになっている人物が、
ここに1名存在します。

それも、劉備配下の
屈指の猛将のひとりだったりするので驚きです。

―黄漢升こと黄忠。

 

さて、この黄忠は、
元は襄陽から少し北に位置する
南陽(後漢の光武帝の根拠地)の出身。

加えて、実は劉表の州牧時代からの部下で、
その時の官職は中郎将―つまり、将軍の手前。

後に裨将軍に任命されるのですが、
まあ似たような地位ですね。

この辺りの話は後述します。

 

さらに、劉表時代は、
劉表の甥の劉盤と共に
長沙の攸県を守備していたそうな。

長沙は先述に張羨の反乱の他、
孫堅の在任時にも反乱が起きた土地でして、

そのうえ恐らくは主君の一族の御守りで
赴任したのでしょうから、
劉表にはかなり信頼されていたのでしょう。

 

 

4-2 劉備との不思議な縁

黄忠はその後、
曹操が荊州を占領した時に、

当時、長沙太守であった韓玄の部下として
裨将軍の地位でそのまま現地で職務を続行し、

劉備の長沙占領後は、
劉備に従って蜀に入ります。

余談ながら、
将軍の副将の「裨将」の職階と同義であれば、
兵1600名を統率したことになります。

 

さて、ここで注目すべきは、

劉表や曹操の息の掛かった黄忠
後ろ盾を失って劉備に投降した点です。

 

後述するように、
劉表は地元豪族の意向が強く、
この地元豪族は劉表の死後は州をあげて
足早に曹操に降伏します。

そのうえ、
その曹操は劉備を不倶戴天の敵と仰ぎ、
黄忠の身元を保証するという具合でして、

こういう経緯を考えると、

赤壁の戦い以前の感覚では、

劉備が黄忠を配下として抱えること自体、
到底考えられないことだと思います。

対して、文聘のように
元は劉表の配下でありながら
曹魏政権下の対呉戦線で活躍した将もいます。

 

 

4-3 悪役の郡太守

黄忠が表舞台に立つ引き立て役として
ブラック上司・韓玄の出番となる訳で、
この辺りの話も少々します。

先述したような
長沙の反乱とその鎮圧という状況を考えれば、

韓玄という人物は
劉表や側近の豪族の息の掛かった地方官でしょうし、
劉表の死後は曹操に従ったものと想像します。

ですが、赤壁の戦いの後の
劉備の荊州南部の平定戦は
詳細が判然とせず、

正史では、
サイト制作者が知る限りは、

桂陽太守の趙範が趙雲に接近し
その後逃亡した以外は
細かい話が出て来ません。

特に長沙攻略については、
『三国志演義』の当事者である
関羽・黄忠・魏延の正史の伝にも
詳しい話はありません。

察するに、
魏延が韓玄を斬ったのは作り話でしょう。

ですが、その後、
黄忠の部隊が定軍山で夏侯淵を斬ったのは
本当のようでして、

その意味では、黄忠の投降は、
曹操の荊州の敗戦での
大きい失物のひとつであったことは
間違いありません。

劉表や曹操の政権の事情に振り回される
家臣の動向の一旦を垣間見る心地と言いますか。

後、コーエーの『三國志』シリーズで、
どうして黄忠が劉表の部下ではないのか。

 

 

5 襄陽の人材事情

5-1 「水鏡」の由来

以上のように、劉表は、

失地回復とでも言いますか、

本来の自分の領地である
荊州全域に影響力を拡大すべく、

彼からすれば
ゴロツキ軍閥ふざけた地方官
盗賊めいた武装勢力との抗争
明け暮れる訳ですが、

その一方で、
有用な人材を求めようとして、
水鏡先生こと司馬徽を利用します。

 

この先生、

大体の向こうのドラマでは、
不敵に笑って相手をケムに巻く
白髪の胡散臭い老人、

という役回りばかりですが、

史実では、
何と、劉備等よりも若かったそうな。

 

で、この司馬徽が
どうして劉表の眼鏡に適ったかと言えば、

簡単に言えば、
ポジション・トークをしないからです。

転じて、人物本位で公平に人を見るので、
「水鏡」というアダ名が付いた、と。

 

逆に言えば、

当時の襄陽の人材事情は、

華北や中原の各地から
戦禍(董卓・袁紹・曹操等が火元)を避けて
この地に流入した逸材が数多おり、

そのラインナップは
多士済々ではあったものの、

その一方で、
影響力を保ちたい地元の名士豪族の意向も紛れ、

まさに有象無象の様相を呈していた訳です。

 

具体的には、各グループの人脈は以下のような具合です。

渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』p106-107より引用。

*パソコンの方は、右クリック→「画像だけを表示」で御覧頂ければ幸いです。

 

さらには、以下は当時の襄陽城近郊の地図。

論文の内容からして、
県城から精々数キロ圏内の地図と想像します。

上田早苗「後漢末期の襄陽の豪族」p22より引用。

地図の引用元である上田先生の論文も
実に面白い論文です。

PDFで読めます。アドレスは以下。
ttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/152809/1/jor028_4_283.pdf
(一文字目に「h」を補って下さい。)

因みに、この楊守敬という先生は
清代に公使の随員として来日し、
日本で中国の文献を集めたそうな。

隋唐研究の材料に
それを模倣した京都を研究するという皮肉。

日本も中国にやったり
米国にやられたりで、

戦災による史料の喪失は
万国共通の頭痛の種の模様。

まあその、『水経注』の脚注とはいえ、
わざわざこういう地図を作ること自体、
相当に『三国志』が好きな方だと想像します。

200年後に御存命であれば、
存外三国志関係のゲームにも
ハマったかもしれません。

 

 

5-2 人材や政策を押し売りする地元豪族

では、その有象無象の中、
劉表がどのグループの意見を
聴いたのかと言えば、

やはり、地元名士のそれです。

しかしながら、劉表にとっては、

こういう郷論の類はシガラミが多く
面白味に欠けるものであったことでしょう。

 

その理由として、

こういう豪族社会で
優秀な役人候補者を探そうとすれば、

地元の名士がそれを利用して
自分達の子弟を捻じ込んで来るからです。

確かに、そうした人材は、
地元の豪族が手塩を掛けて育成した秀才につき、
或る程度の能力は担保されるかもしれません。

 

ですが、その一方で、
スポンサーの意図が明白な以上、

地元豪族の目先の利害に反してでも
時代を先取りする奇策を考え付くような
天才の発掘は
到底出来ないことを意味します。

もう少し露骨に言えば、
飛ぶ鳥落とす勢いの曹操と揉めることを嫌う
グループです。

 

要人の名前を挙げれば、
劉表の荊州赴任時から縁のある
蒯良・蒯越・蔡瑁等の地元名士達。

確かに、
皇帝は曹操の庇護下にあることですし、

さらには戦争にでもなれば、
治所の襄陽を含めた長江北岸では
曹操に分のある陸戦となることで、

曹操と事を構えるのを避けるのは
ひとつの見識でしょう。

 

 

5-3 対外積極策と流浪名士の存在意義

では、他の対外政策はどうか。

例えば、
官渡の戦いや烏丸征伐に奔走する
曹操の背後を突くといったような、

中央の政局に積極的に関わろうとする
政策指針です。

 

かつて孫堅が
荊州の地方官を暗殺しながら洛陽に迫ったように、
客将の劉備を置いた新野から洛陽までは
目と鼻の先です。

曹操は都・洛陽の近郊で
敵味方定かならぬ巨大軍閥と対峙しつつ
あれだけ大胆な外征を二度も行った訳でして、

それを可能にした根拠として、

名士間の情報交換で
劉表政権の出方―荊州の専守防衛のスタンスを
看破していたことは
想像に難くありません。

 

一方で、曹操に降ってしまえば、
潁川その他の派閥が幅を効かせる曹操の政権で
荊州の名士の出る幕はない訳です。

蒯越等が曹魏政権での立ち位置よりも
地元の利益を優先に考えるのは当然にしても、

他地域から流入した野心ある名士
こういう千載一遇の好機を棒に振るのを
潔しとする訳がありません。

その好例が、

董卓の無能な残党に見切りを付けて
この地に逃れた賈詡や、

蔡瑁と縁戚関係にあったものの
劉表とは距離を置いた諸葛亮でありました。

フリーター時代の諸葛先生なんか、

日頃、「自分は当世の管仲だ」
とか吹きながら、

同輩から中原で荀彧等潁川名士が
幅を効かせている状況を聞かされて、

都での出世の目は無さそうだ、と、
落胆なさったそうな。

不世出の天才政治家でさえ、
青春日記の1ページはこんなもの。

何とも泣かせる逸話だと思います。

 

その他、先の表中の杜畿やその子孫
中々に面白い人でして、

襄陽を去った後、
袁紹の甥である高幹の息の掛かった
豪族が治所で狼藉を働く河東郡で
曹操側の太守として急場を凌いだ凄腕地方官。

この人の伝を読むと、
相当にヤクザ気質な人であったと想像します。

確かに、地元自慢の豪族政権の隅っこで
我慢出来る性格ではなさそうだなあ、と。

また、息子は優秀なれど不遇であったものの、
孫は孫呉を滅ぼした晋の名将・杜預
であったりします。

一方の預君の方はと言えば、
凝り性タイプの頭デッカチ(ガチの学者)で、
諸葛先生と同じく理系も大好きな物好きさんですが、

馬にも乗れなかったそうな。

 

 

5-4 諸葛先生の就職とその意義

では、件の諸葛先生は
どのような知識人グループと
接点があったか、と言えば、

ここで、先述の水鏡先生の出番
相成る訳でして。

 

で、この司馬徽に群がるグループというのが、
また異色な連中でした。

具体的には、天下国家を論じる連中でして、

曹操と事を構える想定の議論を
白昼堂々とやって
蒯越等がケムたがられる光景が
容易に想像出来ます。

しかも、このグループの名士の出身地も様々で、

諸葛先生や徐庶のような
州外出身のヨソ者もいれば、

襄陽近郊に領地を持つ習禎や龐徳公、
その他、地元出身の馬良、
諸葛先生の義理の父の黄承元、
といった名士もこのグループです。

 

また、諸葛先生が27歳にして
某ブラック軍閥から内定を貰った時、

一応、三顧の礼という形式を
取ってはいるものの、

そのブラック軍閥の長の劉某と
水鏡先生や諸葛先生のグループとは、
どうも水面下で接触があった模様。

劉某、いえ劉備が諸葛先生を迎えたことの意義は、

曹操が蒯越を得て
荊州名士の信頼を勝ち得たように、

単にひとりの謀臣を得たという話ではなく、

諸葛先生との付き合いのある名士の支持により、
漸くマトモなインテリジェンスや
政治力・交渉力の類を得た点にあります。

 

―ですが、
このコネは襄陽界隈では
決して強いものとは言えず、

しかも、古株の豪族連中には
目障りなものであったことでしょう。

 

と、言いますのは、

実際に、劉表が死去した際、
諸葛先生の就職先である
劉備様御一行には荊州政権の曹操への降伏は伝えられず、

州内で孤立して曹操軍の追撃を受け、
散々な目に遭わされましたとさ。

 

また、関羽のヘマで荊州北部が失陥した際に
劉備が国家総動員で奪還を図り、
さらには諸葛先生が
それを止めなかった理由は、

良く言われる話ではありますが、

劉備本人の権力の源泉である
軍の面子や結束を守る以外にも、

蜀政権の中枢を占める名士の経済基盤が
荊州にあったからでしょう。

 

 

6 地方官・劉表氏の査定?!

6-1 安住の地・荊州

では、地元の豪族名士とのシガラミで
動けなかった劉表はポンコツ地方官か?

―との問いには、

そこまで言うのは酷であろう、と。

高島俊男先生は、
劉表は地方官としては極めて優秀だと
おっしゃってまして、

事実、劉表は10年の在任期間で
内憂外患を払拭して
刺史から牧(兵権付き)に格上げされています。

また、これまで見たように、
劉表の赴任当初の荊州のカオスぶりからすれば、

10万の兵を養う人材センターという状況は、
様変わりと言う他はありません。

 

加えて、重用しなかったことで
数々の人物に去られたとはいえ、

州外から流入したさまざまな名士を
庇護したことで
ひとつの時代を築いたのも
揺るがぬ事実です。

 

この時代における
シェルターやアジールの類の存在意義
どれ程大きいかは、

略奪や殺戮のみならず
飢餓で人肉を喰うのが茶飯事、といった、
戦禍を被った地域における
数々のイカレた逸話が物語っています。

 

少なくとも、
この地でタダ飯にありついた流浪名士共が
劉表の悪口を言う資格はないと思います。

 

 

6-2 堅気な劉表とヤクザな袁紹

また、上田早苗先生は、
地元の豪族の名士の影響力が強過ぎて
劉表自身に野心があっても
積極策は難しかったであろうとおっしゃっています。

確かに、10年かそこらの歳月では、

一介の地方官の職権の範囲内
マトモに足場固めを行おうとすれば
劉表がやった程度が精一杯なのかもしれません。

 

例えば同時代の地方官・軍閥である袁紹など、

自前の皇帝を擁立を目論んだり
他の地方官の領土を掠め取ったりと、

当初から地方官の職域を逸脱して
軍閥として派手に動いたことで、

結果として、
膨張政策が祟って破滅しました。

 

特に官渡の戦いなど、

界境の戦いでのデタラメぶりから判断するに、
曹操との兵力差程には有利ではなかった筈で、

しかも、敗戦後には、
本拠地の冀州で反乱まで起きています。

もっとも、その後に曹操も、赤壁等で
袁紹の二の轍を踏んで死にかかっています。

 

こういうのを踏まえて
サイト制作者が
袁紹と劉表の両者を比較して強く感じたのは、

 

乱世が継続する過程で

一介の地方官が中原で覇権を狙う軍閥に
化け切れなかったのが

劉表ではなかろうか、ということです。

 

本当は本人は、
州外の名士を重用したりして
色々やりたかったのだと想像します。

たまたま時代の流れが早過ぎ、
そして、向かい風が強過ぎただけのことで。

 

 

6-3 そして、尽きかける寿命

ですが、当の劉表にとっては、

目の上のコブである
地元豪族の機嫌を取りつつ
自分の本来の領地である荊州全域を
チンピラ軍閥や
ヒャッハーな反乱軍から守り抜き、

あぶれてもプライドだけは高い流浪名士を
保護するだけで精一杯でありました。

何より、次の時代に何かを為そうにも、
そもそも自らの寿命が尽き掛けていました。

 

言い換えれば、

任期中の10年余の歳月が、
彼にとって、
如何に過酷なものであったか
物語っています。

 

 

6-4 性格が歪む?!地方官稼業

その意味では、
史書にあるような猜疑心が強い性格というのも、

先天的なものか、
地元の泥臭い名士共とかかわって
根性が捻じ曲がったのかは分かりません。

 

例えば、徐州の牧の陶謙も、
劉表と似たような人生を送って
人生の前後半で性格が変わっています。

この人も若い頃は
真面目で積極的な地方官だったそうですが、

歳を取ってから、
地方官の身分で
皇帝を名乗るような連中と組んだりと
デダラメぶりを発揮するようになる、と。

 

劉表にせよ陶謙にせよ、

こういうのは、
真面目に仕事に取り組んだ地方官の
宿命なのかもしれません。

 

もっとも、地方官に限らず、

人間、真面目に仕事をしようとすれば
色々なものを犠牲にするので、

愚痴のひとつも言いたくなろうし
泥を被って根性とてひん曲がるのも
ひとつの真実なのでしょうが。

 

 

おわりに

最後に、今回の記事の骨子をまとめます。

 

1、地方政治は大抵はカオスであり、

内には漢人と「異民族」の反乱、
外には他の地方官・軍閥との抗争

といった、
所謂、内憂外患が常に付き纏う。

その意味では、
地方官の軍閥化は必然の流れでもある。

 

2、地元の豪族には、
この種の内憂外患に対応するための
情報収集力や政治力がある。

一方で、地元の利益を優先して
外部出身者を排斥する傾向がある。

 

3、戦禍に遭った地域の名士は各地に亡命し、
治安の良い地域に避難する。

統治手腕の高い地方官や軍閥は、
こういう名士を登用する好機がある。

自称天才の27歳で就職を焦った
フリーターの諸葛某がこれで成功した。

 

4、一方で、流浪する名士は
地元の利害には固執せず
天下国家を論じる傾向がある。

 

5、放浪する軍閥にとっては、
定住しない名士を登用する好機に恵まれる。

 

6、名士の登用は、
機密情報の情報源や
当該の地方での政治力を得ることを意味する。

 

7、地方官として真面目に仕事をこなそうとすると
報われずに性格が曲がる。

その一方で、派手に動いて
統制の取れていない大軍で機動的に戦争を仕掛けると
大抵は負ける。

 

まあその、
一部ヘンなことも書きましたが、

後漢時代の襄陽の話とは言うものの、
似たようなことは
別の州でも少なからず起きていることで、

この時代の地方政治や人材の在り様を考える上で
多少なりとも参考になればと願う次第。

 

 

【主要参考文献】(敬称略、諸先生方、申し訳ありません。)
上田早苗「後漢末期の襄陽の豪族」
並木淳哉「曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次「北伐」」
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
坂口和澄『もう一つの『三国志』異民族との戦い』
高島俊男『三国志きらめく群像』
陳寿・裴松之:注
今鷹真・井波律子・小南一郎訳
『正史 三国志』各巻

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『三国志』のエリート人材の教育事情

字数にして1万字弱につき、
またしても、最初に章立てを付けます。

短くまとめようとしても、次第にダラダラと。

例によって、
適当にスクロールして
興味のある箇所だけでも御読み頂ければ幸いです。

 

はじめに
1、色々と泥臭い「教育」

2、叩き上げ軍人の生涯教育
2-1 武将の物学びのパターン
2-2、武人達の一念発起
2-3 当時の学問事情

3、幼少期の教育・私学
3-1 私学の対象年齢とカリキュラム
3-2 学閥とその抗争、潁川・汝南
3-3 官渡の戦いと水面下での諜報戦
3-4 シガラミと恩恵、私学の人間関係
3-5 貴族化する名士達
3-6 名士の定義と次世代の力量

4、当時の教育の特権性

5、高等教育の行方
5-1 高等教育機関の花形・太学
5-2 地方の高等教育機関・郡県学
5-3 『三国志』版・学生運動
5-4 「清流派」と袁紹・曹操
5-5 運動の挫折とその後の飛躍
5-6 高等教育の崩壊と政府の惨状
5-7 曹魏政権末期の世相と太学

6、門戸が狭まる高等教育機関

おわりに

 

はじめに

今回は、『三国志』の人物の教育についての御話。

幼少期の初等教育から
洛陽あるいは地方での高等教育を経て、
就職までの経路の御話です。

創作物やゲームに取り組む際にでも、
武将のプロフィール作成等に御活用頂ければと
思います。

 

さて、前回、劉表時代の襄陽の話をしましたが、

色々と文献を読み漁るうちに
この地方の人材事情が
サイト制作者としては中々に面白かったことで、

地理感覚の話を一旦御休みして、
人材・教育関係の話に
焦点を絞ることに決めました。

地理・交通の話を期待されていた方々には、
大変申し訳ありません。

恐らく残り1回程度、
近いうちに再開するつもりです。

 

1、色々と泥臭い「教育」

その「教育」の意味するところは
単なる経典の物学びに留まらず、

師弟・学閥等を通じた複雑な人間関係
それに起因する就職斡旋や機密レベルの情報交換等、

恐らくは今日の大学や大学院における
学閥や研究室の人間関係以上の威力を持つ
有効な社交ツールという顔を持っています。

そして、
こういうものが戦争に応用される場合、
開戦前の戦力分析や占領地の統治に影響するので
無碍には出来ません。

例えば、『三国志』の時代における
前半部分の曹操と袁紹の台頭

こういうコネを活かして
人材を漁った成果でもあります。

人材に情報源や資産・兵力がコバンザメのように
くっ付いて来るのです。

一方で、孝廉エリート出身で戦上手であっても
学歴エリート(名士)を優遇しなかった公孫瓚は、

有効な情報が入らないわ
占領地の統治が巧く行かないわで
華北での勢力争いの馬群に沈みますし、

荊州に落ち延びるまでの劉備も
大体このパターンの軍閥に
過ぎませんでした。

 

2、叩き上げ軍人の生涯教育

2-1 武将の物学びのパターン

さて、主題に「エリート人材」と書いたのは、

『三国志』時代の要人の中には、
蜀の王平のような
異民族出身で文字も読めない叩き上げ武将
いることで、

学歴エリート=名士が受けるような
年端もいかないうちから
儒学の経典を暗記するような教育環境が
当時の標準教育とは言えないからです。

当然のことながら、
何千、何万もの軍隊を動かしたり
内政・外交の政策決定に預かる要人の大半は、

「エリート人材」として
高い教育を受けつつ学閥関係のコネを使って
大きい仕事をします。

曹操や袁紹等がその代表でして、

次の世代になると、
荀彧等のような曹操の幕僚がそれに当たり、

さらに時代が下ると、
諸葛孔明のような劉備の幕僚
これに準ずるようになります。

こうした社会の上澄みのような人材に対して、
王平や呂蒙のような苦労人か
あるいは甘寧のような役人の履歴があっても
グレていた人々は、

当時の既存のハイソな教育環境とは
縁が薄かったのですが、

何かしらの機会を利用して
勉学に励んでいます。

 

2-2、武人達の一念発起

こういう人々の物学びも
決して馬鹿には出来ないものです。

例えば、叩き上げの軍人である呂蒙は
これで知将に化けますし、

王平もその学問の本質に迫る
賢い物学びをしていたそうな。

 

また、その具体的な学習方法としては、

或る程度歳を取ってから、

呂蒙や甘寧のように
一念発起して勉学に励んだり

あるいは、
王平のように書物に明るい人を側に置いて
耳学問をしたりという具合。

今日で言うところの、
生涯教育に近いスタンスなのでしょう。

 

2-3 当時の学問事情

こういう教育の追い風になった
当時の事情として、

まずは、紙の普及により
書物が広汎に出回るようになったことが
幸しています。

これに因んで、

曹操の陣営では、
特に兵法関係の書物を
官の書庫から持ち出すのが触法行為だったりする一方、
甘寧は兵書を読むのが趣味であったりしまして、

この辺のいい加減さが笑えると言いますか。

さらには、
後漢時代の割合平和な時期に
学術普及に関わった人材の層の厚味が
まだ残っており、

曹丕の時代以降、
名士が貴族制めいた人材登用制度=九品中正を
施行する以前の時期につき、

学問の門戸が幅広い社会階層に
開かれていた事情
あろうかと想像します。

 

これに因んで、

天下の鄭玄先生なんか
借地農だったそうで、

学問の資金の規模や内訳、
書籍の価格等については
後日調べたいと思います。

 

もっとも、
後漢・魏晋から時代がかなり下った後でも
中国の王朝時代の識字率は10%程度
言われており、

当時の中国の全人口からすれば、
王平のような文字の読めない人が
標準であったことと想像しますが。

下層社会の生涯教育の話は
この辺りに止めます。

サイト制作者の浅学に起因する
所謂「サンプル」めいたものの欠如
その理由でして、

まとまった話は日を改めることと
致します。

 

3、幼少期の教育・私学

3-1 私学の対象年齢とカリキュラム

この話を始める前に、
以下の論文を御勧めします。

『三国志』の時代の既存の教育機関について
詳しく記されている論文です。

やや難しい内容ですが、
分からない部分は読み飛ばして
大体の流れを掴むように読まれればと思います。

 

陳雁
「後漢・魏晋時代における教育と門閥士族の形成」
(大阪教育大学附属図書館HP)
ttps://www.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=v3search_view_main_init&block_id=631&direct_target=catdbl&direct_key=%2554%2544%2530%2530%2530%2530%2531%2533%2532%2536&lang=japanese#catdbl-TD00001326
(一文字目に「h」を補って下さい。)

 

さて、当時の主に官僚の富裕層の子弟
幼少期から思春期までに四書五経を
暗唱できるレベルで叩きこまれるのですが、

その初等の教育機関を「私学」と言います。

また、その施設「学館」
あるいは「書館」・「小学」と言います。

さらに、私学の対象年齢は6-14歳。

その内訳は、

6-8歳で入学、
8-10歳で経学、
14歳前後に修了。

さらにはこの期間中、

五経(「詩経」「書経」「礼記」「易経」「春秋」)
の中のひとつ、
その他、黄老や詩律等を伝授します。

これが魏晋時代に入ると、
カリキュラムはさらに凝縮されます。

その好例と言いますか、

当時の教育事情の参考例として
色々な論文や文献でよく引用されるのが、

『三国志』の魏書・鍾会の伝。

漸く、今回の主役・鍾会(士季)の登場です。

学歴と職歴が大体分かっていることで、

こういう教育関係の話をする際には
優良な「サンプル」になるのです。

サイト制作者としては、
良くも悪くも新しい世代を代表する
ハイ・キャリアのエリート武将だと思います。

 

で、その伝によると、

鍾会の御母堂が人格的に優れ、
書物にも詳しい
良く出来た人のようでして、

鍾会が勉学に飽きないように
以下のようなカリキュラムで
書物を読ませたそうな。

4歳『孝経』
7歳『論語』
8歳『詩経』
11歳『易』
12歳『左伝』『国語』
13歳『周礼』『礼記』

そして、15歳で洛陽の太学に遊学します。
「太学」は当時の花形の最高学府です。
その後、20歳で朝廷に出仕。

因みに、247年の段階で鍾会は23歳。

件の教育ママのプログラムは、
230年代の御話。

 

ですが、皮肉にも、
この時代の高等教育は
かなり悲惨な状況だったりしまして、
それは後述します。

 

―余談ながら、サイト制作者は、
このカリキュラムの単位は全て落第の「文盲」です。

恥ずかしながら、15の少年にも劣る訳です。

少なくとも、
「エリート人材」の資格はありません。

 

3-2 学閥とその抗争、潁川・汝南

また、私学の場所は、
中原の他には犍為(四川省)、北方の代郡。

そして、特に私学が盛んなところは
潁川・汝南、
次いで青州・徐州・関中。

北海の孔融、徐州は諸葛亮や張昭、
関中は孔農の楊修等の楊氏、といった具合です。

で、戦禍で罹災した場合は、
荊州や江東といった他地域に逃れる
という訳です。

 

そして、以上の5つの地域の中でも、
特に、潁川・汝南は当時の学閥の双璧でして、

そのまま曹操(潁川)・袁紹(汝南)のブレーン集団に
横滑りします。

 

例えば、曹操陣営の潁川グループの筆頭格
容姿端麗で「王佐の才」の荀彧でして、
丞相の陳羣や先述の鍾会の父である鍾繇も
このグループの知識人。

鍾繇の功績を要約しますと、

官渡の戦いで前線の曹操の軍に数多の軍馬を工面し、
(恐らく、延津の戦いの陽動作戦に使われたか)

(功罪はともかく)
曹操の関中侵攻の作戦立案の主導的な役割を果たし、
太傅にまで昇進したという
曹魏政権のトップ・クラスの要人です。
亡くなったのは230年。

 

対する汝南グループの筆頭格は、
袁紹や袁術といった軍閥の総帥であったりします。

その他、人物評価で有名な許劭やその従弟の許靖等。

恐らくは、潁川レベルの大物がいなかった訳ではなく、
母胎となる政権が滅んだことで
史料が残らなかったのでしょう。

 

3-3 官渡の戦いと水面下での諜報戦

官渡の戦いなど、
まさに両グループの学閥同士の諜報戦でもありました。

特に、戦いの最終局面で決定打になった
曹操陣営による許攸の投降受け入れ
こういう諜報合戦の成果の最たるものだそうな。

しかしながら、潁川グループは、
時代が下ると共に
曹操が色々な学閥の出身者を採用したために
優位を保てず、

また潁川自体も戦禍を被ったことで、
頭脳集団として時代を乗り切ることは
出来ませんでした。

また、汝南グループの方も、
官渡における袁紹の敗戦により影響力を失い、

さらには汝南自体も曹操の勢力下にあったことで、

曹操配下の満寵が
袁紹の師弟が籠城して抵抗を続ける現地に
武力で掃討作戦を行い、
その牙城を崩壊に追い込みます。

つまりは、潁川・汝南双方が、
学術の重要拠点としての地位を保てずに
次の時代を迎えた訳です。

 

3-4 シガラミと恩恵、私学の人間関係

次に、幼少期の学問如きが
浮世の政争に強い影響力を有する学閥化する
カラクリについて触れます。

簡単に言えば、師弟関係や同窓での人間関係そのものです。

まず、学館で教鞭を取る教師を「経師」と言いまして、

この経師が少数の「登堂弟子」(都講)に
勉学を教え
この登堂弟子が数多の門弟を指導するという仕組みです。

さらに、この時の人間関係は
その後の冠婚葬祭の世話や就職の斡旋へと続く訳でして、

こういう関係の延長に
学閥の形成や情報交換がある訳です。

 

3-5 貴族化する名士達

ですが、こういう幼少時の初等教育も、
時代が下って閉鎖的になります。

 

特に富裕層は家庭教師を付けて
英才教育を施すようになりまして、

先述の鍾会などは、
恐らくは
そういう効率的だが閉鎖的な環境の中で
勉学に励んだものと想像します。

 

その背景には、

特に曹丕の時代の九品官人法以降、
政権中枢の学問エリートである「名士」が
自身の社会階層自体を貴族化・序列化(ランク付け)
する流れにありました。

 

言い換えれば、

それまでの学問の出来でのし上がる時代から

学問が出来ても、
そもそも貴族でなければ
出世が望めない時代に移行する流れにあった訳です。

 

その過程で、
門弟何千名を抱えた「経師」のような商売が
下火になり、

入学条件を上級貴族の師弟に限った学校が次々に開校し、

挙句の果てには、
孫呉に止めを刺した杜預のような
学者としても軍人としても優秀な人材までもが、

出世のために
司馬氏の簒奪を正当化する曲学阿世に手を貸すような
本末転倒な世の中になります。

そう、羊祜や杜預といった晋の名将が学問が出来たのは
決して偶然などではなく、

貴族の世界に身を置いたからには、

余程の資力がなければ
司馬氏に媚びを売って学問でのし上がるしか
出世の道が無かったのです。

まして、杜氏のように、
曹氏の忠節が仇になった家系ともなれば、
なおさらのこと。

 

3-6 名士の定義と次世代の力量

ですが、羊祜や杜預にとって幸運であったのは、

誤解を恐れずに言えば、

学問エリートの「名士」層の
形骸化(ポンコツ化)により、

彼等の周囲には
中身のない横並び思考の馬鹿が
殊の外多かったと言いますか。

 

まあその、
学問が出来るのが当たり前で
実際の政治にも実績のあった学歴エリート集団(名士層)
自分達が貴族だと言い出しましたが、

その子弟は能力(学識)がなくても貴族であり、

さらにそのような狭い世間の貴族社会の中でも
学問が出来なければ出世出来ない、となれば、

構造上、優秀な人材の絶対数が不足する訳でして、

特に、或る程度まとまった数を必要とする
郡県レベルの地方官の質が落ちるという状況が
容易に想像出来ます。

そりゃ、魏や晋に限って言えば、
曹氏、司馬氏以前に、
誰が政治をやっても世の中オカシクなるわな、と。

―そもそも、何故、
荀彧や司馬仲達等のような
学術エリート「名士」が
あんなに威張るようになったのかについては
後述します。

 

 

4、当時の教育の特権性

さて、現代の感覚で言えば
子供に岩波の訳本あたりで
儒学を学ばせることが出来る程度の話とはいえ、

平均寿命が50を切り
識字率が10%以下であろう時代の、

それも、
大半の人が徒歩で移動するという
郷里社会という狭い世間での話です。

人生の4分の1の時間を学問に使い、

さらに学問を通じて
社会の上澄みの人間同士で社交まで行うということが
どれ程の力強いコネになるのか
御想像頂ければと思います。

 

そのうえ、
こういう学問と社交が一体になったサロンの
最も上澄みの部分
―「太学」への遊学に代表されるような高等教育ともなれば、

そのステータスが
王朝や巨大軍閥の采配を担う層を意味することに
他なりません。

 

5、高等教育の行方

5-1 高等教育機関の花形・太学

先に、鍾会が15歳で洛陽の太学に進学したと
書きましたが、

『三国志』の時代の高等教育機関にも
筆頭格の太学以外にも色々ありまして、

地方の学術機関もあれば、

現代の感覚で言うところの芸大めいたところや
貴族御用達の学府もあります。

まずは、花形の太学ですが、
押しも押されぬ中央官学でして、

現代の日本で言えば、
言うまでもなく
文京区の赤門の東〇大学に相当するかと。

―無論、サイト制作者の母校、
で、ある訳がありません。

 

さて、その仕組みですが、

2年ごとに甲乙科と呼ばれる試験を行い、
成績によって科品という評価がなされ、

高い評価を受ければ
官職が与えられます。

『三国志』の要人の伝をいくつも読むと
太学出の要人の出仕年齢が各々で異なるのですが、
こういう席次の問題もあるのでしょう。

大体は20代の前半で朝廷に出仕します。

因みに、教鞭を取るのは「博士」。

 

5-2 地方の高等教育機関・郡県学

また、これに準ずる地方の高等教育機関には、
「郡県学」というのがあります。

サイト制作者の想像としては、
州レベルの異動のない
下層の地方の役人の養成機関ではなかろうかと。

これに因みまして、
太学には、正規の学生である正学生に加え、
郡国から送られてくる
聴講生のような学生もいまして、

恐らくは郡県学から送られた
優秀な学生ではなかろうかと想像します。

 

5-3『三国志』版・学生運動

太学に話を戻します。

この学府は前漢の武帝の時に
定員50名で発足しましたが、

前漢の末頃には
1000程度の学生を擁するようになり、

後漢時代の146年には、
太学を中心に3万もの学生が
洛陽に遊学していたそうな。

で、こういう学生連中が
その次の時代に何をやったかと言えば、
言論による現政権の攻撃です。

あまり関係ありませんが、
戦前の二・二六事件にせよ、
戦後の学生運動にせよ、

大抵若年のエリート層が暴れるのは、

次世代の主要な担い手を自負するのが
大前提でして、

その次の条件として、
時代の閉塞感が極まっている時です。

 

5-4 「清流派」と袁紹・曹操

それはともかく、

後漢末期当時は、
宦官とその背後の豪族の収奪が
酷い時代でして、

洛陽の学生が
宦官に歯向かう気骨のある官僚と連携して
政争に加担していまして、

正義を気取る官僚達は
「清流派」と自称していました。

曹操や袁紹といった学歴エリートは、
こういう時代の空気で育った世代ですし、

実際に宦官への刑罰の執行や宮中での大量殺戮
露程の躊躇もしませんでした。

特に、曹操の信賞必罰の政策スタンスを表す
「猛政」のメンタリティは、

師である橋玄の政治手法といい、

当人の青春時代の世相と
無縁ではなかろうと想像します。

また、彼等のような
学問を自らの力の拠り所とする「名士」は、

買官や小農の収奪に明け暮れる宦官や豪族の
アンチ・テーゼでもありました。

―ですが、そもそも学問をするには
結構な元手が掛かるのは、
前回でも書いた通りでして。

 

 

5-5 運動の挫折とその後の飛躍

ですが、こういう名士連中は、結局は、
党錮の禁等の当局の弾圧によって
政争に敗れます。

そして、その後は、

清貧を気取って地方政治に積極的に関与したり、
あるいは極左行動に走って
黄色いターバンを巻いたりしまして、

そうして冷や飯を喰っている最中、

幸にも、外戚と宦官が内訌で共倒れして
目の上のコブが取れまして。

で、いよいよ彼等「名士」の時代が来まして、

その次の時代には、
軍閥や三国の政治の主要な担い手になり、
九品中正等の制度で自らを貴族化します。

もっとも、曹操なんか、
親が札片で好き勝手やったことで、

清流派の流れの政治家としては、
その心中には複雑なものがあったと
推察しますが。

 

5-6 高等教育の崩壊と政府の惨状

ところが、「名士」の飛躍・台頭を後目に、

そもそもそういう階層の母胎とも言うべき
洛陽の高等教育の死命を制したのは、

権力の空白に飛び込んで来た董卓の横暴と
これに付随する軍閥抗争でした。

 

本当にコイツは
略奪や狼藉に加えて公金の横領や悪貨の改鋳だのと
ロクなことをしないのですが、
この混乱により、
洛陽が戦禍に遭ったことで太学も灰燼に帰します。

因みに、この混乱によって
人材センターとして脚光を浴びたのが、
劉表統治時代の荊州。

 

さてその後、太学は曹丕の代の黄初年間に復活し、
制度も当時のままで運営を始めるものの、

肝心の体制が整わないことで、
まるで用を為しません。

『三国志』の魏書・王朗の伝
曹叡の時代の太学のその辺りの事情を
詳しく書いているので、
以下は、それを大雑把に纏めます。

 

まず、教える博士の質が低く、
そのうえ大半の学生
兵役逃れやコネ作りのために来ているので
不勉強なうえに途中で抜けます。

しかも、登用試験の及第点が高くて
及第する人が少なく、

試験官も試験官で本質的なことを聞かずに
些細な字面の正誤のような問題を出し、

学生も学生で
これで揚げ足を取るような議論を
盛んに行う始末。

 

その結果、

正始年間の状況として、
政堂に集まる
大臣以下400名程度の官吏の中で、
公文書を書けるレベルの官吏が
10名以下という惨状を呈します。

 

5-7 曹魏政権末期の世相と太学

先述の鍾会はこの時代の太学で学び、

司馬仲達の政敵である曹爽等の派閥が
贅沢を極めて軽佻浮薄だと言われ、

曹叡の時代以降に無用な宮殿の造営が増えて
国庫を圧迫したことからも、

この時代の高等教育と政府の空気が
軌を一にしているように推察します。

曹叡以降の時代は
恐らく「名士」の定義が形骸化し、

曹操が挙兵した時代のように
本物の数多の名士が
戦場で命を散らす状況とは真逆で、

杜預や羊祜のような
ホンモノの名士然とした人物が
少ない時代であったのでしょう。

因みに、晋の三国統一以降の時代になっても、
状況が変わったにようには思えません。

 

6、門戸が狭まる高等教育機関

さて、太学や郡県学以外の高等教育機関についても、
触れておきます。

後漢の最末期の霊帝の時代に
洛陽に「鴻都門学」という学府が出来ます。

これは書画・絵画・文学・芸術といった、
非実学の教育機関でして、

現代で言えば、
文学部や芸大・音大の類だと思います。

この学府がその後どうなったのかは
サイト制作者の浅学につき、
分かりかねます。

設立後、程なく焼け落ちたと想像します。

 

また、俗称「四姓小候」という教育機関がありまして、
これは外戚のための貴族の学校です。

さらには、晋の三国統一の前後には
「国子学」という
これまた高級貴族の子弟のための学校も出来ます。

「前後」というのは、設立の年度に諸説があるためです。

のみならず、この流れを受けて、
先述の地方の高等教育機関である郡県学も、

この影響を受けて門戸を
貴族の子弟に制限するようになります。

 

 

おわりに

そろそろまとめに入ります。

今回の御話の要点は、
概ね以下のようになります。

 

1、サイト制作者が知る限り、
三国志の要人の物学びには
大別してふたつのパターンがあります。

一、叩き上げの武将の独学

二、富裕層の子弟が
幼少期から既存の教育機関で学習

 

2、叩き上げの武将は、

或る程度の年齢や地位に達した後、

独学で書物を読み漁ったり、
あるいは書物に明るい人から
耳学問を行います。

 

3、当時の教育関係の事情として、

紙の普及による書物の増刷や
後漢時代の教育の普及という追い風が
ありました。

しかし、人口全体としての識字率は恐らく低く、
教育の機会自体が特権であったことでしょう。

 

4、『三国志』のエリート人材は、

幼少期は私学(学館)と呼ばれる
教育機関で勉学に励みます。

在籍する年齢は、6歳から14歳位。
読書と五経のひとつ、
その他、場所によっては黄老等も学びます。

 

5、幼少期の私学での
「経師」(経学の教師)と門弟という師弟関係は、
その後の人生でも継続します。

そして、こういう人間関係が拡大して学閥を構成し、
軍閥の情報網としても機能します。

 

6、10代後半以降の高等教育機関があります。
首都・洛陽には「太学」、
地方の郡県には「郡県学」が存在します。

なお、太学では、2年ごとに試験があり、
成績優秀者は官吏として採用されます。

 

7、首都近郊や学閥の拠点の罹災により
既存の教育機関が機能しなくなります。

 

8、また、既存の教育機関で学んだ
学歴エリートである「名士」は、

自分達を人材登用制度を利用して貴族化し、
さらにその中でランク付けします。

しかしながら、
曹丕の時代の太学は
教育現場が崩壊するという惨状を
呈しておりました。

 

9、さらには、
曹魏末期から司馬氏の政府高官が
こういうところで学んでおり、

当時の政策については
史書の評価も芳しくありません。

 

10、既存の教育環境が崩壊する一方で、
外戚レベルの上澄みの貴族は
自前の教育機関を持ち、

こうした高等教育の門戸を貴族に限るような
政策的なスタンスは
地方の教育機関にも波及します。

 

 

【主要参考文献】

陳雁「後漢・魏晋における教育と門閥士族の形成」
落合悠紀「後漢末魏晋時期における弘農楊氏の動向」
上田早苗「後漢末期の襄陽の豪族」
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
山口久和『「三国志」の迷宮』
金文京『中国の歴史 04』
川勝義雄『魏晋南北朝』
高島俊男『三国志きらめく群像』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳
『正史 三国志』各巻

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郊外がワンダー・ランドな『三国志』

 

調べたことを精査せずに綴っていましたら
字数にして1万字余に焼け太ったことで、

今回も冒頭に章立てを付けます。
無駄に長くなり、大変恐縮です。

例によって、
興味のある部分だけでも
御目を通して頂ければ幸いです。

 

はじめに

1、魏呉蜀の軍隊と豪族
 1-1 呉の軍隊と開発領主(豪族)
 1-2 蜀の豪族と諸葛孔明
 1-3 曹操と配下豪族とその私兵
 1-4 勉学にも必要な元手

2、豪族集団の構成員とその影響力
3、郊外開発に打って出る豪族
4、税の軽重とその目安
5、豪族の郊外開発のパターン
6、『三国志』の「山賊」・「盗賊」の正体
7、インテリと下級役人の暗躍する
「黄巾の乱」
8、稀有な立地の例・白騎塢

9、平場の荘園のある空間
 9-1 『三国志』の荘園を写生する
 9-2 襄陽の城下の風景
 9-3 荘園の施設「あるある」
 9-4、居心地の悪い天守閣
 9-5 昔も鉄壁、要人の在所
 9-6 検証?!曹操の呂伯奢殺害
 9-7 自給自足で突っ張った豪族のその後
おわりに

 

 

はじめに

先の2回に続いて、
今回も『三国志』の時代における地理感覚
めいた御話をします。

末端の自治体組織である里や郷(離郷)、
そしてその集合体である県城(都郷)、郡城。

そしてこれらは、

徴税や裁判、治安や常設の市、
官吏登用制度等を通じて
相互補完の関係にある、

という話をしました。

ところが、『三国志』の時代には、

こういう儒教の理想郷とも言うべき
旧時代的で割合「マトモ」な
上下下達の郷里社会だけではなく、

むしろ、
その対極に位置する
実力主義的で世紀末な世間も存在します。

具体的には、
郊外の豪族の荘園がそれに当たります。

今回の話は、
この荘園に関する御話。

 

1、魏呉蜀の軍隊と豪族

1-1 呉の軍隊と開発領主(豪族)

 

さて、荘園だの豪族だのと言うと、

何だか戦争というよりは、
奴隷だの搾取だのと
固く古臭い歴史「学」上の社会体制の話になり、

読む気が失せる、
という読者の皆様も
いらっしゃるかもしれません。

しかしながら、豪族連中の私兵は、
『三国志』の軍隊組織の世間でも
極めて重要な存在でして、

特に、呉や蜀の軍隊の
戦力の中核をなしていたことで
無碍には出来ません。

中でも呉など、

陸遜のようなキレ者の都督が
豪族であったりもして、

孫権の辣腕を以てしても
集権的な体制が整いませんでした。

結果として、

拉致した山越族を元手とした
強欲な開発領主と、

洛陽・長安で働くことしか眼中にない
やる気のない中原志向の名士の集合体のまま、

時勢に取り残されて滅亡を迎えました。

 

因みに、名士とは、

簡単に言えば、
生まれが良くて学問(儒学)が出来、
学閥等で同じような人々とのコネを持っている人です。

コーエーの『三國志』シリーズで
知力か政治力が80以上の武将は、
大抵はこのカテゴリーに入ります。
(或いは、この表現の方が分かり易いでしょうか。)

詳しくは、
渡邊義浩先生『「三国志」の政治と思想』
参照されたし。

 

 

1-2 蜀の豪族と諸葛孔明

蜀の場合は、
夷陵の戦いによる荊州喪失以降は、

諸葛孔明
益州の土着の豪族・名士を差し置いて
荊州出身の根無し草のそれを優遇し、

一方で、両者を法律で押さえつける形で
王朝を体裁を保ちました。

言い換えれば、
劉備の軍隊は荊州・益州の豪族、
そして、巴蜀や漢中、荊州等の「異民族」兵隊の
寄せ集めでして、

街亭の戦いなどの肝心な場面で、
そういうシガラミが噴出する訳です。

それはともかく、
劉備の死後は、良くも悪くも、
絶対的な法の執行者としての
諸葛亮の存在が大きかった訳です。

 

 

1-3 曹操と配下豪族とその私兵

また、先進的な曹操の配下にも、
当然ながら、
李典や許褚等のような
豪族上がりの有力な武将がいまして、

この人達の場合は、
曹操が優秀であったのと
豪族の皆様の物分かりが良かったことで、

割合早い段階で、
悶着を起さずに私兵の解体に応じました。
―青州兵以外は。

曹操の軍隊が強かった理由は、
こういうところにもあると思います。

もっとも、曹魏の場合も、
良くも悪くも蜀先を行くと言いますか、

孔明も仲達も、
名士が有事を名目に兵権に手を出す過程は
酷似しているように思います。

 

 

1-4 勉学にも必要な元手

それはともかく、

曹氏政権の末期と司馬氏政権
双方に当てはまる話ですが、

文才があって
権謀術数が得意であっても、

現場を観るのが嫌いで
実務能力の低い連中が台頭して
国政を乱す流れになります。

郷里社会・豪族の荘園の双方が
長年の戦乱で疲弊
移住後に酷使されて並みならぬ不満を抱く「異民族」
国中に溢れ返っている危険な状況を看過し、

これが中国史上の大きな汚点でもある
八王・永嘉の乱の大きな伏線になります。

 

ですが、名士層とて、

資本力があって荘園に私兵を多く抱え
子弟に遊学させる余裕のある豪族層には
違いありません。

 

さらには、文才で権力を握った者とて、

歴代の中共の国家主席宜しく
色々なツテを通じて兵権だけは手放さなかった
という御話。

試験勉強のハナシとしては、

こういう流れは
役人の選抜試験である
九品中正にもつながる訳でして、

―その花形が、
知力90以上の仲達や陳羣だったりします。

 

 

2、豪族集団の構成員とその影響力

ここまでの話で、多少なりとも、
君主と豪族の関係が垣間見えたのではないか、
と思います。

つまり、君主にとっては、

有事の際には、
多数の兵隊を準備してくれる有難い側面と同時に、

家臣の体裁を取る割には、

実力があるうえに、
ヘンなグループ派閥を作ったりして
言うことを聞かない厄介な存在でもあるという。

そういう複雑な側面を持つ豪族さん達は、
そもそもどういう存在なのか
気になるところですが、

ここで、下記のアレなイラストを御覧下さい。

 

石井仁「黒山・白波考」、川勝義雄『魏晋南北朝』等を参考に作成。

これは、当時の豪族の行動パターンについて
図解したものです。

以下は、これに準拠するかたちで話を勧めます。

 

まず、豪族は、モノの本によれば、
大抵は里や郷、大きい部類になると複数の県レベルで
郷里社会に影響力を持っている富裕層です。

その実力の泉源は、
血の結束で掻き集めた
何百・何千という人的資源やそれに付随する資本

当時はタブーである同姓同士の婚姻の禁止が
緩くなっていたことも影響していたようです。

そして、こうした血縁集団の中で優秀な一族が
これを統率し、

さらには、食糧は言うに及ばず、
刀剣や弓矢のような兵器から酒のような商品まで
全てを自給自足する経済圏を持つ訳です。

 

また、郷里社会に影響力を持つ、
ということは、

経済力や政治力の多寡によっては、

県や郡はおろか、国政にまで、
自分達の息の掛かった人間を送り込むことが
可能となる訳です。

早い話、外戚や宦官の金脈が、
大豪族層という御話。

ましてや、こういう社会階層にとっては、

『三国志』の序盤の
太守や刺史レベルの新任の落下傘地方官が、
一から差配出来るような
生易しい連中ではない訳です。

 

 

3、郊外開発に打って出る豪族

次に、こういう豪族層の生活拠点
どうなっているのか、
という御話に入ります。

当然、旧来の郷や県城にも足場はあるものの、
そういう既存の拠点は開発の伸びしろに乏しく、

そのうえ、
郷里社会も富の偏在による
秩序の破壊を嫌います。

 

そこで、余った富を
郊外の田畑に開発に投資し、
住まいを現地に移します。

そして、血族の人員のみならず、
既存の郷里社会から弾き出された人々を雇って
荘園の開発や物品の生産、
そして防衛や周辺の田畑の切り取りに動員します。

 

無論、国家が模範とする
郷里社会から弾き出される人を
大量に出す時点で、
国家の統治としては失敗なのですが、

その理由は、

後漢の時代以降に限っても、

王莽や赤眉の動乱、
飢饉やそれに付随する羌族の大反乱、
北辺の烏丸や鮮卑の暴発、
豪族の小農からの収奪等、という具合に、

まあ、イロイロありまして。

 

さらには、流れ者の中には、
所謂「異民族」も含まれます。

南方の豪族なんか、
山奥に入ってまで山越を拉致しに掛かるので、
何とも始末が悪いもの。

―御明察の通り、呉の孫某の政権のことです。

 

 

4、税の軽重とその目安

これに因んで税の話をしますと、

税率ひとつとっても、
漢代は秦の反省を踏まえて
数字の上では安かったのですが、

王莽関係のゴタゴタで
国中が疲弊していたことに加え、

先述のように
豪族が御用の政治家を抱えていたことで、

低い税率で浮いた分を着服するので

末端の農民の負担軽減という点では
まるで用を為しません。

 

当然、いつの時代でも、
賢明な官僚はそれに気付き
何度も苦言を呈し、

宦官や外戚の横暴に際しては
流血沙汰の政争まで起こるのですが、

大勢としては、

黄巾の乱が起こり
曹操が台頭するまでは何も変わらなかった
と言えるかと思います。

 

もっとも、末端の農民にとっては、
正確には負担の軽減ではなく
法整備によって負担の公平感が増した、という、
切ない御話のようですが。

 

 

5、豪族の郊外開発のパターン

さて、郊外の開発には、いくつかの学術論文を読む限り、
恐らくは、少なくともふたつのパターンがあります。

 

1、山林沼沢を障壁とした「塢(う・お)」の構築
2、県城付近の水利に恵まれた平場の開発

 

1、のパターンは、石井仁先生によれば、
前漢の終わり頃から急増したパターンだそうな。
また、2、のパターンは、
恐らくは古い時代からのもの。

因みに、新県と旧県という概念があるようで、

確か、春秋時代かそれ以前に
共同体としての大体の形が成立した
領民と支配層の結び付きの深い県と、

秦が各国を占領する過程で設立した
人の入れ替わりの激しい県が存在する、

という話と記憶します。

太守・県令といった地方官の担い手の変遷や
地方ごとの人の入れ替わりについても
少なからず研究があるようですが、

サイト制作者の不勉強につき、
ここではキーワードの紹介に止め、
今後の課題とさせて頂ければと思います。

そこで、まずは、2のパターンから話をします。

 

豪族は、
イラストにありますのような
山林沼沢や峻嶮な地形に拠り、

簡単な防御施設を施して「塢」とします。

その過程で、障壁とは関係のない部分は
開墾したであろうと想像します。

 

 

6、『三国志演義』に登場する
「山賊」・「盗賊」の正体

 

この章は、

石井仁先生の
「黒山・白波考 ―後漢末の村塢と公権力―」
『東北大学東洋史論集』・9

による部分が大半でして、

本当に面白い論文ですが、
残念ながらPDF化されておりません。

こういうのを新書でダイジェストすると
売れそうな気がします。

入手方法としては、
例えば、最寄りの国立大学の書庫等で探されるか、
図書館の相互貸借を利用されますよう。

 

さて、「塢」とは、字の意味は砦の類だそうですが、
当時は武装村のような意味合いが強かった模様。

例えば、大きい部類では、
張燕の率いた「黒山賊」というのがありますが、

あの組織の母胎は太行山に存在する
無数の塢に拠る豪族層の連合体だそうな。

 

さらに、あの辺りに無数の塢があるのは、
2世紀の前半に漢王朝が羌族の反乱対策のために
建設・整備したためであり、

こういう武装村の豪族連中が、
時代が変わって
山賊上がりの押しの強い人を担いだというシナリオ。

 

白波賊も似たような話でして、
河東その他の洛陽近郊の先進地域で
何万もの人間に軍事動員を掛けること自体、

政治力のある豪族の連合体のなせる技の模様。

 

その延長として
以前の記事で「ハード・ボイルド楊奉」という
何とも下らない話をした楊奉も、
実は弘農郡の名家である
楊彪や楊修等楊氏の血族のようでして、

当人が天子を奉じたのは
義挙というよりは豪族の外交策の話の模様。

 

(過去の記事です、一応。)

三国志正史、それは盗賊と地方官の織り成すハードボイルドな世界

後日、楊氏や楊奉の話も含めて、
名家の話もしたいと思います。

 

話を戻しますが、
つまりは、『三国志』に出て来る山賊や盗賊の類は、

5万だの10万だのと、
あまりに膨大な数の人間を動員する
組織については、

本当に流れ者の集団なのか否かを疑う必要がある、
という御話です。

 

 

7、インテリと下級役人の暗躍する
「黄巾の乱」

黄巾の乱とて、
色々な社会階層の思惑の入り乱れた
複雑な政権の模様です。

少なくとも、
喰えなくなった小農の暴発だけで
括れるものではありません。

無論、横暴な高利貸しや手下の剣客の狼藉で
土地を取り上げられた側が
積極的に加わったのは、
想像に難くありませんが。

とはいえ、
そもそも、

そういう社会に不満を抱く人々を
駆り立てる側の思惑ですが、

まず、暴発した鉅鹿の辺りは
「学問」の先進地域でして、
政争で敗れた側の学閥の拠点の模様。

確かに、組織化された動きやロジック
ひとつとっても、
インテリの所業の痕跡が見え隠れします。

 

さらには役所が黄巾の張り紙を放置する等の
事務的な「過失」も
平時には在り得ない行為だそうな。

その意味では、実行部隊には
インテリや下級役人が
深くかかわっていると見るべきですし、

黒山にしても白波にしても、
黄巾の残党がゲリラ活動を
継続したものだそうで、

こういう札付きを戦闘部隊として利用して
袁紹や曹操等と対峙し、

隙あらば天子を保護しようとする
豪族層の意図を考えると、

綺麗事では済まされない
地方の群雄割拠の厳しい現実に加え、

中央の政争での劣勢の挽回策という構図
垣間見る心地です。

 

また、上記のように、
政治的な意味で作られた塢が
反体制の拠点に化ける例もあれば、

そもそも漢の高祖の劉邦様が
ああいうところに逃げ込んで
役人稼業を放り出したように、

山林沼沢には、
アジール(避難場所)として
色々な人が逃げ込んだようでして、

19世紀以降の
国民国家時代以降の例で言えば、

恐らくは、
主要な港湾都市に群がった移民が
自衛や政治的発言権を拡大するために
「〇〇人街」を作るような話です。

 

ですが、人の集まるところには、
兵隊も物資もあつまり、

結果として、
時代が下って土豪になり、

その地域の資力を基盤に
政治的な影響力を行使する、と。

 

 

8、稀有な立地の例・白騎塢

その他、イラストの白騎塢」についても
説明します。

敢えて南北朝時代のものを
イラストにしたのは、
他に目ぼしい詳細な例を
見付けられなかったからです。

その意味では、面識のない石井仁先生に
感謝しなければなりません。

 

で、白騎塢ですが、
『水経注』の当該の箇所の原文を確認すると、

ふたつの渓流のクロス地点の高台にあり、
三方に急峻な崖、西に城壁、北に塹壕、
周辺にも集落がある、

と、記してありまして、

これをそのままイラストに起こすと、
左上のようになろうかと。

 

余談ながら、
諸葛孔明が五丈原で陣没するまで本陣を構えたのも、
こういう感じの塢であったそうな。

居住性と防御性に優れ、
長期の在陣にも適していたそうです。

なお、荘園の設備の詳細については、
後述します。

 

 

9、平場の荘園のある空間

9-1 『三国志』の荘園を写生する

当時、見ず知らずの人間が
豪族の荘園で写生なんぞやったら、

軍事機密の関係で
殺されるか、あるいは、
拷問で半死半生の目に遭わされることでしょう。

それはともかく、

先に、豪族の郊外開発には
少なくともふたつパターンがある、
と書きましたが、

ここでは、

「2、県城付近の水利に恵まれた平場の開発」

について説明します。

 

早速ですが、
下記のアレなイラストを御覧ください。

 

上田早苗「後漢末期の襄陽豪族」、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』、林已奈夫『中国古代生活史』等より作成。

毎度ファミコンの一枚絵のような拙さ
恐縮しております。

 

このイラストの典拠は、
上田早苗先生の論文
「後漢末期の襄陽の豪族」
付録地図。

古い論文ですが、
PDFで読めます。

当該の論文のアドレスは以下。
ttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/152809/1/jor028_4_283.pdf
(一文字目に「h」を補って下さい。)

と、言いますか、
貧しいサイト制作者も
ダウンロードして読みました。

因みに、漢代の論文も色々ありまして、

『三国志』の内容を
斬新な分析視覚で掘り下げるものもあれば

例えば緻密な役人研究等
あまり『三国志』とは関係なさそうな
研究もあるのですが、
(当然と言えばそれまでですが)

上記の論文については、

サイト制作者としては、
上で取り上げた
石井仁先生の「黒山・白波考」と同様、
かなり御勧めしたい部類のものです。

 

話が脱線して恐縮です。
イラストの説明に戻ります。

論文に添えられた地図
先述の『水経注』の清代の注釈のもの。

この地図を元に、

漢代の荘園の壁画や
魏晋あるいは南北朝時代の
家屋を模した陶器等、

その他、いくつかの文献に掲載されていた
手書きの壁画等の模写等を
参考にイラストにしました。

したがって、
荘園内の施設の配置は
残念ながらリアリティは
乏しいかもしれません。

何故、魏晋時代のものが充実しているのに
南北朝時代のものも使うかと言えば、
魏晋時代以前のものは
大抵は色彩が剥げているか乏しいからです。

 

 

9-2 襄陽の城下の風景

因みに、イラストのモデルとなる地域は、
劉表統治時代の襄陽。

イラスト上の「県城」は、
劉表の治所である襄陽城がモデル。

加えて、襄陽城のすぐ西には
孔明がヒッキーしていた隆中があります。
西門から徒歩1、2キロ程度の圏内です。

また、イラストの手前側の中洲の邸宅は
蔡瑁が所有しており、
河川の西岸もこの人の荘園。

 

さらには、イラストの下半分の荘園は、
習氏の土地です。
恐らくは、襄陽城から
精々南に2、3キロ程度の距離。

因みに、この習というのは習近平、ではなく、
『漢晋春秋』等を書いた習鑿歯の御先祖様。

当時の御当主は、
劉琮が曹操に降った後、
劉備に従って蜀漢に入り、
関羽の荊州防衛戦で戦死されたそうな。

 

で、イラストは、この習氏の領地の立地を元に、
当時の豪族の荘園には必須の施設を加え、
さらに領主の屋敷を図解したという、

春の大特価の優れ物、とは言えないものです。

 

 

9-3 荘園の施設「あるある」

では、豪族の荘園内にはどういう施設があるのか、
と言えば、凡そ以下のようになります。

 

1、池(水源)と田畑・水門
2、高床式かそうではない精米所・踏み臼
3、倉楼
4、城壁か木柵等で覆われた豪族の住む城邑

 

他には、牛馬を飼育する牧場等があります。

以下、1、から順に説明します。

水源と田畑は食糧を自給する豪族には必須の資産で、
水門は当然ながら、両者の水位や水量を調整します。

今日ではコンピューター制御ですが、

IT化されている分、
却ってサイバー攻撃の対象になり易いそうな。

 

2、ですが、高床式は、穀物の腐敗を防ぐためです。

また、前漢時代の踏み臼の普及により、
脱穀・精米の効率が
それまでの10倍向上したそうな。

これも含めて、漢代自体が
農業技術が飛躍的に伸びた時代でしたが、

その内容は、器具の性能の向上や、
作物の成長リズムに合わせた人の使い方等、
総合的なものであったようです。

 

 

9-4、居心地の悪い天守閣

3、倉楼ですが、この時代の高楼の存在意義は、
防衛・監視のみならず、
富や権力の象徴でもありました。

ですが、こういうところの居住性については、
どうも良くなさそうな。

 

物は試しに、
近場に国宝級の天守閣がある方や
旅行で行かれる方は、

入場料も高くないことで、
一度登られることを御勧めします。

因みにサイト制作者は、
旅行で戦国マニアの友人達と
天守閣の松本城に登ったのですが、

友人曰く、
居住性の悪さを体感出来たことが
良い経験になった、とのこと。

無論、この種の施設からは、
バリア・フリーという概念は
微塵も感じません。

 

因みに、当時の倉楼は、
4層程度が標準の模様。

高い理由は、防衛や権威以外にも、
盗難対策があります。

また、戦乱の長期化によって、
施設自体が大型化したようでして、

そういう部類の施設になると、
1棟で1万石(267トン)以上の穀物が
備蓄出来たそうな。

食糧難の時代につき、

攻略目標に間諜を忍ばせる際、
こういう倉庫をいくつ持つかで、
相手の戦力の多寡を
推し量るのかもしれません。

 

因みに、漢代の壁画には、
農地に併設される形で書かれていたので、
城邑の中に作られている訳ではなさそうな。

実際に戦争にでもなれば、
兵糧の大部分を
城邑の中に搬入するのかもしれません。

 

余談ながら、太平洋戦争の折、

ある島の攻防戦で
(確か、天王山のガ島と記憶しますが)
米軍が日本軍の兵力を推測する時に
目安にしたのが、

何と、トイレの数。

地味ながら、
諜報活動の神髄と言いますか。

 

 

9-5 昔も鉄壁、要人の在所

さて、「4、城壁か木柵等で覆われた豪族の住む城邑」
について。

周辺の施設をひととおり説明して
外堀を埋めたところで、
いよいよ本丸・領主の城邑に突入します。

モノの本によれば、
豪族の在所は村(里や郷)の原型であったそうな。

また当時の県城や先述の白騎塢の状況から察するに、
資力のある豪族は、
村に木柵や土塀・土塁、城壁を施すことも
可能であったと思います。

 

また、魏晋時代の塢の焼き物を見ても、
城郭と四隅の高楼は必須のようでして、

サイト制作者は
豪族の館のみならず村の居住区の外縁にも
何らかの防御機能が施されており、

四隅には監視所としての高楼が
配置されていたのではないかと想像します。

まして、
豪族の寝起きする館は息が詰まるような有様でして、
硬度も耐火機能も揃った堅牢な外壁は当然のこと、

外壁には窓そのものがなく、
2階部分に精々通気口があるといった徹底ぶり。

そのうえ、屋敷内の四隅の高楼や
二層以上の御殿からも監視・防御態勢が取れるので、

寄せ手が守備側と同数の兵力では
正面攻撃では太刀打ち出来ない作りになっています。

 

言い換えれば、
それだけ豪族間の抗争が凄まじかった訳です。

そのうえ、この時代の豪族には、

荘園内の民には善政を施しても
県城や荘園の外で狼藉を働くようなクズ
少なからずおり、

優秀な地方官程、
こういうのを騙し討ちや離間工作などのような
効率的なかたちで、
周囲には「穏便」に排除しました。

 

一方で、豪族の日常生活は、

外の物々しさとは裏腹に、
広い厨房があり、庭には高価な鶴をまわせるわで、
至り尽くせりな状況を想像させます。

こういう内外の空間の差異が大きい部分は、
地方にいくつか存在する
今日の要人の邸宅を観る分にも、

時代が下っても変わらないものを感じます。

社交場という意味合いも強いのでしょう。

 

因みに、屋敷内のイラストは
漢代の壁画の模写ですが、
壁画自体、あくまで大体の略図だと思います。

何千もの血族や
客と呼ばれる剣客等の雇い人を抱える豪族であれば、

身辺の世話をさせる人間を常駐させるだけでも
4区画程度の敷地では到底足りないでしょう。

 

 

9-6 検証?!曹操の呂伯奢殺害

また、これに因みまして、

例えば
『三国志演義』に出て来る
曹操が呂伯奢を殺す話など、

サイト制作者は
先走って居直る曹操を
庇う気はありませんが、

明代の作り話とはいえ、

宿泊者にとっては
富裕層の広い屋敷で厨房が騒がしいことが
どれだけの危険を思わせるか
想像出来るかと思います。

もっとも、旅行関係の統計を見る限り、
アジア人自体が
騒々しいのが好きな面もあることで、

客観性に乏しい話かもしれませんが。

 

 

9-7 自給自足で突っ張った豪族のその後

ただ、こういう利権に安住した豪族にも
良い未来はありません。

例えば、劉表の死後、
こういう古い豪族は曹操にこぞって降り、
この時代は事なきを得ました。

で、この時、徹底抗戦を主張した劉備は、
領内で孤立して散々な目に遭いました。

この時の新野から江夏までの撤退戦が、

『三國志演義』で趙雲が頑張った、
例の長坂の戦い。

先日のBSの『趙雲伝』でも
大袈裟な大立ち回りをやっていました。

 

しかしながら、
豪族連中が独自の経済圏を持って
生活どころか軍事までコストを負担するというような
非効率なことを、
社会全体で1世紀も続けた結果、

国の経済力が完全に疲弊し、
肝心な時に防衛力を発揮出来ません。

結局は、非効率な負担のツケを
「異民族」の強制移住や酷使で辻褄を合わせ、

当然の結果として、
彼等に背かれて先祖伝来の土地を蹂躙されるという
最悪の結末を迎えます。

蔡瑁の一族なんぞ、
それまでは順調であったものの、
永嘉の乱で呆気なく滅亡したそうな。

 

その意味では、後代の南朝文化なんぞ、
サイト制作者には魏晋時代の失政の徒花に思えて
仕方がありませんし、

『三国志』の物語の肝や魅力も、

無数の軍閥や複数の王朝が
後先を考えずに発揮した

ひとつの時代に
最大限に凝縮されたエネルギーめいた部分に
あるのかもしれません。

 

 

おわりに

例によって、纏まりに欠ける話で大変恐縮ですが、
最後に内容を整理すると、概ね以下にようになります。

 

1、豪族の私兵は、『三国志』の時代の前半は、
軍閥の軍事力の中核であり、

特に、呉では滅亡まで変化がなかった。

 

2、豪族は郊外の田畑に投資し、
自らの居館を構築する。

 

3、豪族の居館や居住区には
堅固な防御施設が施されている。

 

4、豪族の郊外開発には、少なくとも2種類あり、

一、県城の付近に城邑を構える
恐らくは古いタイプ

二、山林沼沢に防御施設を施す「塢」

 このふたつに区分可能。

 

5、基本は自給自足であり、
穀物は元より、商品の製造・販売を手掛け、
荘園の防衛も自らの手で行う。

 

6、豪族は既存の郷里社会にも足場がある。

 

7、豪族は血族と雇い人で構成され、

大きい部類では
何千家(当時は一家4、5名)の規模を誇り、
ひとつふたつの県程度に大きな影響力を持つ。

 

8、優秀な子弟に英才教育を施し、

地方・中央を問わぬ政界はおろか、
宦官・外戚等、
宮中にも人送り込んで利益誘導を行う。

 

9、恐らく、一能一芸や労働力として雇う以外では、
外部の人間には排他的である。

 

10、新任の地方官は、
政策の取捨選択にあたって、

実力があって扱い辛い豪族の中で、
政策に応じて敵味方を鑑別して使い分ける。

 

 

以上のような話が、
今回の駄文の骨子となろうかと思います。

 

また、見苦しい言い訳も一応。

本当は豪族の荘園の立地の話だけを
する予定でしたが、

土地の話だけでは
イラスト等に実感が持てないと考え、

敢えて難しいテーマにも手を出しました。

ですが、学会ですら
侃々諤々の議論がなされているであろうテーマに対して、

何本かの論文を拾い読みした程度で
モノを書こうとすること自体が
そもそも失笑モノな話です。

その意味では、
豪族の存在に興味を持たれた方に
おかれましては、

豪族の存在意義にかかわってくるような
理解に膨大な知識を要する部分については、

無責任な話で恐縮ですが、

あくまで調べ事の取っ掛りに過ぎない駄文として、
話半分で御願い出来れば幸いです。

典拠も下記に記しますので、

例えば、手始めの方策としては、

まずは、PDFで読める論文の注釈等を使って、
豪族研究の本丸となる文献を探されると
宜しいかと思います。

 

 

国立情報学研究所の論文検索サイト
ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

 

【主要参考文献】
(今まで書き忘れていましたが、
敬称略です)

上田早苗「後漢末期の襄陽の豪族」
石井仁「黒山・白波考」
「六朝時代における関中の村塢について」
越智重明「後漢時代の豪族」
鶴間和幸「漢代豪族の地域的性格」
張学鋒「曹魏租調制度についての考察」
『史林』第81巻6号
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
金文京『中国の歴史 04』
川勝義雄『魏晋南北朝』
西嶋定生『秦漢帝国』
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』各巻

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