【小記事】図解、武帝時代末期の鎧

 

はじめに

今回は、いよいよ鎧の図解と参ります。

具体的には、漢代は
武帝時代末期とされる鎧のひとつで、
前開きの鉄製の札甲です。

保存状況が割合良かったことと、
先行研究にも恵まれたことで、

今回のようなレベルで
描き起こすことが出来ました。

 

1、秦代と変わらない基本構造

それでは、早速、
自筆のアレなイラストを御覧下さい。

楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)より作成。

 

【追記】

参考にした文献の
肝心な部分を
読み飛ばしておりました。

で、今更それに気付いて
イラストを描き直した次第。
恥かしい限り。

なお、当時の鎧の高さは
大体70cm程度。

身甲の甲片の高さが4段で
垂縁が付くのであれば、

1段10cm位(訂正前は23.4cm)
でないと計算が合いません。

また、披膊の甲片の段数は、
図では4段になっていますが、
正確には6段です。

【追記・了】

 

まず、全体的な特徴について。

以前の記事で、

秦の歩兵用の鎧を例に、

古代中国における
鎧の基本構造は
この時代に定まった、という、

楊泓先生の御説を
紹介しましたが、

前漢は武帝時代末期頃とされる
この鎧についても、
それは該当するかと思います。

ひとつ目は、

身甲(胴体)部分の
甲片の綴り方です。

具体的には、

まず、横一列に環状に繋ぎ、
その複数の環状の甲片を縦に繋ぐ、
という手順です。

その際、上下に甲片を繋ぐ場合は
上の甲片を表に出し、

その甲片の下の部分と
次の段の甲片の上の部分を
接合します。

ふたつ目は、
可動部の甲片の繋ぎ方です。

具体的には、

身甲部分のような固定部とは逆に、
下の段の甲片を
に出します。

この鎧の場合は、

披膊(腕の肘より上)
・垂縁(裾)部分が
魚鱗甲になっていますが、
原則は同じです。

因みに、甲片の厚さは、

サイト制作者は
大体1ミリ程度と踏んでいます。

その根拠として、

図にもある通り、
重さと面積が
分かっていることで、

炭素鋼の比重を
7.87(鉄も、ほぼ同じ)と仮定して、
方程式でその数字を
弾きました。

もっとも、この数字も、

恐らくは、
腐食分やら夾雑物やらで
正確ではないことで、

薄い、という程度の
目安になさって頂ければ
幸いです。

 

2、特徴的な前開きと盆領

次いで、

この時代の特徴と思しき
部分について。

具体的には、前開きです。

実は、同じ時代の
似たような魚鱗甲の
復元品の鎧も、

前開きのタイプがありました。

しかしながら
サイト制作者の管見の限り、

少なくとも
後漢から南北朝辺りまでは、

兵馬俑等の出土品や
当時の壁画等からは、

前開きの鎧を
見なくなりました。

構造自体が
実戦的ではなかったの
かもしれません。

また、この鎧の兵科ですが、
モノの本(『図説 中国の伝統武器』)には
騎兵とあります。

垂縁部分の尻の部分が
欠けているのが
気になりますが、

これは、欠損が構造上の仕様かは
分かりかねます。

因みに、サイト制作者は、

秦代の戦車兵の鎧にも
大きな盆領が
付いていることで、

やはり斜陽の時代の
戦車兵のものと見ています。

弓を引いたり俯瞰するには
死角が多いのも
気になります。

さらには、秦・前漢および魏晋の
騎兵の鎧の一部には、

肩や袖を守る部位が
ありません。

また、秦・前漢時代については、

強力な国力を反映して
精巧な兵馬俑や現物が
残っていまして、

魏晋の鎧のひとつは、
有名な両当甲です。

 

3、後漢・三国時代への技術的布石

最後に、
『三国志』との接点ですが、

少なくとも、

この時代から
魚鱗甲が存在したことは
注目に値します。

後漢時代の
数少ない出土品の鎧兜
(華北の鮮卑の墓から出てるんですワ!)や
西晋時代の兵馬俑にも
魚鱗甲のものが存在することで、

甲片の繋ぎ方自体等は、

当時そのままとは
言い切れないにしても、

大いに参考になろうかと
思います。

今回は、結論めいたものは
整理しません。

以降、いくつか、
参考になりそうな事例を
紹介しつつ、

後漢・三国時代の技術についての
主要なパターンを炙り出せれば
考えております。

 

【主要参考文献(敬称略・順不同)】
楊泓『中国古兵器論叢』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』

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武器にも使える?!古代中国における鉄の作り方

例によって長くなりましたので、章立てを付けます。興味のある箇所だけでも御笑読頂ければ幸いです。

はじめに
1、鋼の二大製法、鍛鉄と鋳鉄
2、鉄鉱石イロイロ
3、鍛鉄の手順と塊錬鉄
4、硬さの目安、炭素含有量
5、心技一体の狂気の技術?!百錬鋼
6、炒鋼法の軍事利用とその威力
7、高温加熱と爆発事故
【雑談】授業と火事と宇宙人
8、ハイテク鋼材の原料・銑鉄
9、仕上げの脱炭・焼き戻し
10、炒鋼法の屑鉄再利用・灌鋼法
11、漢代の鉄器の考察
11-1、鋳造鉄器
11-2、鍛造鉄器
12、甲片の材質と繋ぎ方についての愚考
おわりに

 

はじめに

今回は鉄を作る御話、製鉄関係です。

鎧の話を期待された方には
残念ながらガッカリ回となるのでしょうが、

実は、鎧の話に因んで
何をやるのか色々考えたのですが、

鎧の話をするにしても
今後、武器の話をするにしても
避けては通れないと思いまして、

またもや回り道をすることとしました。

と、言いますのは、

先の記事でも触れましたように、

鎧の甲片の作り方どころか
設計思想にもかかわってくるからです。

故に、どうか御寛恕の程を。

後、鉄鋼に造詣の深い方に対しては
これまでにも増して
サイト制作者の浅学を露呈する回
なろうかと。

 

1、鋼の二大製法、鍛鉄と鋳鉄

そろそろ本題に入ります。
まずは、以下のアレな図を御覧下さい。

趙匡華『古代中国化学』・篠田耕一『武器と防具 中国編』・菅野照造監修『トコトンやさしい鉄の本』・柿沼陽平「戦国秦漢時代における塩鉄政策と国家的専制支配」等(順不同・敬称略)より作成。

これは当時の製鉄の手順の略図でして、
過去の記事でも掲載したものです。

要は、鉄鉱石に加熱と冷却繰り返して
鋼(鉄と炭素の合金)を作る訳です。

小難しく言えば、

原子の構造を変え、
作る鉄器の目的(武器や農具等)に応じて
炭素含有量(重量%)を調整する訳です。

【追記】

原子構造ではなく、
正しくは、結晶構造を変え、です。

(以下、原子構造→結晶構造に書き換えました。)

で、モノの本によれば、

ひとつひとつの原子が
規則正しい並び方で
配列した状態「結晶格子」
言うそうな。

(少なからぬ方がそうかもしれませんが)
イメージしにくい方は、

画像検索「結晶格子」
当たって頂ければ、
概念程度であれば、何となくは
イメージ出来るのではないかと思います。

―例えば、

低温の鉄であるフェライト(α鉄)
体心立方格子を組んでいます。

911℃面心立方格子(γ鉄)を組み、
さらに高温になるとδ鉄になり、
1536℃で溶けます。

さて、この辺りの話については、

ツイッターで知り合った
さる博学な方より
御指摘頂きまして(御本まで紹介して頂く有難さ)、

大変感謝致しますと同時に、

付け焼刃の知識の危うさ
改めて感じた次第。

中高の化学(以外の教科も)
もう少し真面目に勉強すれば良かった
かなり後悔しております。

これに因んで、学生の読者の皆様、

義務教育であれ、それ以上のレベルであれ、

ガッコウで学んだ教養は
何かと応用が効くという意味では
意外に馬鹿に出来ないものですヨ。

大学浪人したアホが言うのも
何ですが。

【追記・了】

また、前回の記事で、
鍛鉄と鋳鉄の話をしましたが、

時系列的に整理すると
以下のような区分となります。

上記のものを再掲

図の左側が、
鉄鉱石を低温加熱して(最低数百℃!)
柔らかくして叩く鍛鉄で、

右側が、
高温で溶かして
鋳型に流し込む鋳鉄

因みに、の意味は、
登場して最先端の技術であった時代、
ということです。

当然ながら、
低予算のローテクであれ
次の時代にもバリバリの現役でして、

しかも、一品モノには
欠かせないと来まして
馬鹿には出来ません。

この図で具体的に言えば、
漢代以降も
鍛鉄でも武器や農具を作っていました。

また、後漢時代に入れば、
鋳鉄と鍛鉄のハイブリッドで
作られた剣も登場します。

では、ハイテクとローテクの
分け目がどこにあるかと言えば、

高ければ結晶構造(鉄の性質)をも
変換可能な
鉄鉱石の過熱温度や、

鉄にしなやかさを出すための
炭素含有量の調整にあります。

そして、こうした技術の
レベル如何によっては、

作り出せる形と
そうでない形がありまして、

サイト制作者が
当時の出土品の形状を観る限りは、

こういう話が、延いては、
鎧の形状の話に繋がってくる
想像しまして。

具体的に言えば、例えば、
『三国志』の時代の最先端技術は
鋳鉄の炒鋼法です。

ただし、三国時代当時、恐らくは
鉄で薄型のプレートを作れる
までには至らず、

鉄製の鎧の場合、
甲片を繋ぐタイプのものしか
作ることが出来なかったと想像します。

この辺りの話は後述します。

2、鉄鉱石イロイロ

それでは、製鉄の手順について
少し踏み込んで見ていくことにします。

まず、鉱石の種類について。

先程のデタラメな図の赤枠の部分。

さらには、以下の表を御覧下さい。

佐藤武敏「漢代における鉄の生産―製鉄遺蹟を中心に―」『人文研究 』第15巻第5号

これは、当時の主要な鉄鉱石
その大体の産出地域を表したものです。

さて、古代中国における鉄鉱石の中で
最も中心的なものは赤鉄鉱。

ブラックダイヤモンドだの、
アイアンローズだの、

流行歌のタイトルか
競走馬の馬名のような
麗しい別名がありますが、

写真で観ると、
タダの褐色の石ころにしか見えません。

もっとも、ダイヤの原石も
似たようなものでして、

発見当時、南アの子供が
蹴って遊んでいたようなシロモノです。

こういうのを、古の諺で、
豚(サイト制作者)に真珠と言います。

―冗談はさておき、

以下は、佐藤武敏先生の御説ですが、

華北は磁鉄鉱等の
火成岩系のものが中心です。

火成岩は、要は、
マグマが冷え固まったものでして、

溶かすのに高い温度が必要な訳です。

で、坩堝(るつぼ)製錬による
赤鉄鉱、褐鉄鉱の利用から始まり、

フイゴ(送風設備)の進歩によって、
磁鉄鉱の利用も始まったそうな。

もっとも、金属を高い温度で
溶解すること自体は、

春秋時代以前から
銅で行われていました。

そう、銅を製錬する技術を応用して
製鉄を行う訳です。

因みに、戦国時代に燕や斉、中山国等が
高い製鉄技術を持っていたのは、

従来の高い銅の精錬技術のみならず、
現地で産出する鉄の種類による部分も
少なからずあったのでしょう。

また、製鉄でフイゴの利用となると、
前漢以降の御話です。

高温を出して鉄の性質を変えるために
こういう設備が必要なのですが、
それは後述します。

一方で、今エラいことになってる
河南や湖北(戦国時代の魏や楚の辺り)
で採鉱される鏡鉄鉱や砂鉄は、

水成岩系―要は、砂・砂利・粘土等が
海底で固まったもの、につき、

低温で還元し易いので、
錬鉄=鍛鉄から始まったそうな。

因みに、単なる鍛鉄のような
低い温度でしか加熱されていない鉄は、

叩いて形状を変えたり、

あるいは、微量の炭素を含ませて
しなやかさを出したりすることは
出来ますが、

後述する銑鉄や
ソルバイト(=微細パーライト)程の
堅さがありません。

この辺りのカラクリは、
後程詳しく触れます。

さて、北から、華北、河南・湖北、
―と、来まして、
その南の江南は、と、言えば、

割合新しいタイプの炉である
竪炉の遺跡が多いことで、

製鉄が盛んになったのは
漢代以降の話とのこと。

残念ながら、
採れる鉄鉱石の性質は不明です。

また、中原の製鉄技術が
南の果てまで普及したのは、
三国時代以降の話だと思います。

3、鍛鉄の手順と塊錬鉄

それでは、いよいよ、
具体的な製鉄の手順の説明
入ります。

因みに、この辺りのタネ本は、
趙匡華先生の『古代中国化学』。

和訳が手頃な価格で出版されています。

まずは、初歩的な製鉄法である
鍛鉄=錬鉄について。

早速ですが、表の左側の赤枠を御覧下さい。

上記のものを再掲

要は、ふたつの手順です。

まず、鉄鉱石(≒酸化鉄)を木炭を燃料に
最低数百℃~911℃未満で
加熱します。

鉄に炭素を含ませることによって
しなやかさが出るのです。

しかしながら、
この温度では鉄は熔解しません。

先述のように、
911℃を越える温度に達するには
相応の設備が必要です。

で、低い温度の意味するところは、
結晶構造が変わらない(後述)
以外には、

酸化鉄は完全には還元されず、
浸み込む炭素もそれ程多くはありません。

さらには夾雑物(不純物)
色々残っています。

そこで、熱いうちに
繰り返し打ち鍛えます。

こうすることによって、
夾雑物を除くことが出来ます。

そして、これで出来た鉄を
「塊錬鉄」と言います。

さらに、その塊錬鉄を原料に
同じく低温で加熱して柔らかくして
叩きまくります。

これによって、
夾雑物は除かれ、
表面に炭素が浸み込みます。

しかしながら、鉄鉱石の内部には
炭素が浸み込んでいません。

そこで職人は、
鉱石を伸ばして折り畳み、鍛打、

あるいは、いくつかの鉄片を
「鍛」接します。

まだ、「溶」接する技術はないのです。

で、最後に、
熱い鉄を冷水で冷却する
所謂「焼き入れ」を行います。

後述するマルテンサイト変態で、
向こうの言葉で「淬火(さいか)」
と言います。

(ただし、厳密には、この経路は、後述する銑鉄を経由してはいませんが。)

これで硬度を高めます。

以上、原料の塊錬鉄を
加熱・鍛打・冷却する一連のサイクルを、
「浸炭鋼」と言います。

これが、戦国時代の最先端技術で、
燕の剣はこの技術で作られたそうな。

また、還元が不完全なことが幸いして
炭素の含有量が非常に少ないのも
長所です。

少なければ少ない程しなう
―鋭利で折れにくいので、
武器としては重宝します。

4、硬さの目安、炭素含有量

因みに、塊錬鉄の炭素の含有量(質量%濃度)は
大体、0.1~0.25%程度。

少ない程、柔らかいのです。

これも後述しますが、
「鋼」の定義
炭素含有量0.0218~2.14%の
鉄と炭素の合金。

その中で、
0.25%以下のものを低炭素鋼と言います。

後述する銑鉄は4%程度ですが、

これくらいの含有量になると
確かに堅いものの、しなわず脆いので、

大抵の場合、
そのままの鋼材としては使いません。

また、純鉄(ナマの鉄鉱石)の炭素含有量は
0.03%。

何だか小難しい話で恐縮ですが、

要は、塊錬鉄は引き延ばせばよくしなう、
程度の理解で御願い出来れば幸いです。

5、心技一体の狂気の技術?!百錬鋼

ところが、話はこれで終わりません。

この浸炭鋼は、やればやる程、
夾雑物を飛ばして
強度が増すことで、

質の良いものを作ろうと思えば、

このサイクルを
気が狂う程の回数を繰り返す訳です。

こういうのを「百錬鋼」と言います。

王侯貴族の帯びる宝刀なんかは
まさに心技一体の労力の賜物でして、

当時でさえ、
やる方は重労働というのが
世間の相場だったそうな。

曹操が名匠に作らせた
5振りの宝刀なんぞ、
完成までに3年掛かったそうな。
(原料は恐らく銑鉄だと思いますが)

そう、こういうところは
高価な日本刀も似たようなもので、

大枚はたいて求める武家達を見て
コイツ等アホかと首を傾げたザビエルと、

陣地を守れるからと、
ひと振りの名刀よりも100のナマクラと
言い放った毛利元就。

そういう領域になると、

当然ながら、
兵器よりも美術品や工芸品に近い
位置付けなのでしょう。

今日日の女の子も、何も、

ひとかどの美術館や資料館の展覧会に
足を運んでまで
錆びだらけのナマクラを
観たい訳ではなかろうと。

もっとも、
宝刀であれナマクラであれ、

後世の調べ物が好きな人間にとっては
残ってくれるだけ
有難いとは思いますが。

5、鋳造の最低条件、高温加熱

続いて、高温による鉄鉱石の加熱について。

いよいよ、
漢代における
世界レベルのハイテク・
炒鋼法の説明に入ります。

アレな略図で言えば、
最初の工程は以下の赤枠の部分。

上記の図を再掲。

は、911℃を越えると熔解を始め、

1392℃までのレンジで、
先述のように、
結晶構造―つまり、性質が変わります。

911℃未満の鉄をフェライトと言い、

911℃以上で加熱されて熔解した鉄
オーステナイトと言います。

そして、この違いは、ズバリ硬度です。

以下は、ネットの拾い読みで
浅学の極みですが、

モノの堅さを計測するにあたって、
ビッカース硬度(硬さ)という
世界的な基準があります。

ミリタリー・マニアは
一度は耳にしたことがあろう、
今はなき重工業メーカーの、
あのビッカースです。

あそこの造った軍艦で
本国のイギリスと戦う訳ですから、
歴史とは皮肉なもので。

それはともかく、この基準の手順は、

簡単に言えば、

物体にダイヤモンドの方錐を押し込み、
その面積(単位:HV)を計測するというもの。

その結果、

フェライトは70~200HV、

オーステナイトは液体につき
計測不可能ですが、

オーステナイトを冷却した
後述するマルテンサイト(≒銑鉄)は
500~1000HV、

しかし、脆くしなわないので、
鋼材としてはあまり役に立ちません。

そして、これも後述しますが、

そのマルテンサイトの鉄を
低温で再加熱して
炭素含有量を調整した
ソルバイト(微細パーライト)形態は、
280HV。

フェライトの硬度を
上下の平均値の
大体140HV程度とすると、

炒鋼で出来たソルバイトのものは
サイト制作者の理解が
当たらずも遠からずであれば、

従来のフェライトの倍の硬さがある訳です。

しかも、よくしないます。

もっとも、鉄鉱石の性質や
炭素含有量の管理等の不確定要因で、

硬さは或る程度上下するとは
思いますが。

6、炒鋼法の軍事利用とその威力

そして、当然ながら、

こういう欧州大戦時のクルップな
ハイテク鋼材の登場は、
戦争の風景をも一変させます。

同じ鉄製でも、
刀の切れ味が
それまでとは桁違いになったため、

騎兵の戦術が騎射から突撃による
接近戦にシフトし、

歩兵の主要な短兵器には
それまでの剣より刀の方が
重宝されます。

そう、日本刀のルーツの
ひとつとされる
環首刀の登場でして、

これはむこう数世紀にわたって
戦場でも現役を張ったロングラン。

また、騎兵の場合、

馬の突進力があることで、

刀の切れ味が良いと
刀身を相手に当てるだけで
斬れる訳です。

むこうの活劇で、一騎打ちの際、

馬同士のすれ違い様に
首ちょんぱになるのは
そうした理屈。

騎馬民族との戦争の場合、

相変わらず
馬の扱いや騎射に劣る分、

一方では、接近戦には
鋼鉄の刀の存在が
かなり有利に働く訳で、

まして、本国の平地での
歩兵相手の白兵戦など
推して知るべしです。

オーステナイトの効能の話が
無駄に長くなり恐縮ですが、

ここでは、一度高温で
加熱された鉄は、

相当の硬度になることを
御理解下さい。

7、高温加熱と爆発事故

それでは、温度を上げるための
具体的な手順の話に入ります。

実は、鉄の温度を上げることが
それまでの時代には
出来なかったのです。

で、その技術革新というのが、
フイゴ(送風機)や竪炉といった
設備の導入です。

漢代のフイゴは、
アコーディオン式の
幌が伸縮するタイプで、
これを大人数で動かします。

また、炉の形式については、

従来の地坑式(地面に穴を掘るタイプ)から
漢代からこのタイプに漸次移行します。

鉄の製錬技術が高まるにつれて
炉も高くなり、
フイゴの威力もあって
温度が高くなったという次第。

当然、炉の内壁は陶質でして、
つまり耐火性があります。

因みに、現在の製鉄所の炉も
理屈は同じです。

因みに、古代中国の竪炉は、

下から鉄鉱石と木炭を
順にミルフィーユ状に交互に
積み上げまして、

現在の炉は、
木炭が石炭に変わっただけです。

当然、燃料や環境負荷などの
諸々の効率は
当時のものとは比になりませんが。

一方、漢代の事例で言えば、

地坑式で内壁に耐火煉瓦を施している
製鉄所でさえ、

結構な頻度で爆発事故を起こしている
痕跡があるそうな。

まして、三国時代のような
動乱の時代など、

戦争需要につき
平時の比にならない程
設備に負荷が掛かることで、

火事や爆発事故の頻度など
なおさらのことでしょう。

銃後の人間も命懸けだと思います。

後、これ、サイト制作者が
恐ろしい話だと思うのは、

山奥の工場で起こすならまだしも、

例えば、南陽などのような、
(爆発事故の実例がココ!)

当時の高々2~3キロ平米の
猫の額のような区域に
政庁も亭や常設市も兵営も丸抱えする
城郭都市の内部で、

事もあろうに
火事や爆発事故を起こす訳でして、

現地の惨状は元より、
リアルタイムでの周囲の動揺も
相当なものだったと想像します。

【雑談】授業と火事と宇宙人

サイト制作者の思い出話で恐縮ですが、

以前、失業中に通所していた
ポリテクさんの近くで
小さい工場が火事を起こしまして。

ポリテクさん自体が
県庁所在地郊外の
小規模な工業団地の集中する地区に
あったのですが、

そこから、恐らく1キロ程度も
離れているにもかかわらず、

先生や私を含めた
20名弱の大の大人の受講生が
座学を中断して
呆気に取られて眺めるレベルの
物凄い黒煙が舞い上がっていました。

―そして、その日の夕方の
地方のニュースにもなりました。

別の視点からは、
アナウンサーの久米宏さん曰く、

改革開放前の中国は、
通りで「宇宙人だ!」と空を指指して叫ぶと
大勢が家から飛び出して来るような
ヒマな国だったそうで。(ホントかよ!)

まして、モータリゼーション化して
人通りの少ない郊外の工業団地ではなく、

城郭付近の田畑が「負郭」と呼ばれ
高値が付くレベルの
人口過密地帯の話ともなれば、

事故後の混乱は推して知るべしです。

8、ハイテク鋼材の原料・銑鉄

無駄は話を恐縮です。
話を鉄の高温加熱に戻します。

さて、鉄を加熱することの長所は、

高温で結晶構造を変えて
硬くする以外にも、
もうひとつあります。

炭素を化合させて
柔らかさやしなやかさを
出すことです。

そのために、
燃料に木炭を使う訳です。

そして、高温加熱後に冷却して
固体になったもの
「銑鉄」と言います。

因みに、製鉄メーカーの「銑鋼一貫」は、
この銑鉄から
鋼の最終製品までを
自社で製作するという意味です。

何故こんなことを
エラそうに書くかと言えば、

サイト制作者が
今回の調べ事で
漸く意味が分かって
目からウロコが落ちたからに
他なりません。

ここで、例の図の赤枠部分を御覧下さい。

上記の図を再掲。

 

さて、そうして出来た銑鉄ですが、
実は、古代中国にもいくつか種類があります。

以下の表を御覧下さい。

趙匡華『中国古代化学』p88~89の文章を表にしたもの。

これは、当時の銑鉄
(生金:鍛えていない鉄)の種類をあらわしたものです。

また、「炭素含有量」は、
その銑鉄が鍛えられた後に
どのレベルの鋼鉄になるかを意味します。

例えば灰口鉄の場合、低炭素鋼になります。

そして、肝心な「性質・用途」ですが、

割合炭素含有量の高い白口鉄は、

硬いがしなわず脆いことで、
開墾のための
農具等を作るための銑鉄として使われます。

逆に、低炭素鋼のための銑鉄となる灰口鉄は、

成形に融通が効きしなうことで、
同表の参考文献には、
用途として「小さく精巧なもの」とあります。

一方、これは後述しますが、

別の文献では、

漢代における鉄の鋳造物に、
消耗品の工具や武器等がありまして、

恐らく、これらの材料となる銑鉄は
この灰口鉄である可能性が高い
想像します。

つまり、先述のように、

武器専用の塊錬鉄のような
鍛造で作られた手の込んだ鉱石もあれば、

武器や農具といった
用途に応じて銑鉄も異なる訳です。

そして、鍛えるとしなう銑鉄
(炭素含有量が少ない)は武器や工具等、

硬くて脆い
(炭素含有量が多い)銑鉄は農具等、
というように、
用途に応じて使い分けます。

打撃系の武器も、
後者ではなかろうかと。

9、仕上げの脱炭・焼き戻し

銑鉄を選択した後は、

いよいよ、
炒鋼法の肝である
焼き戻しに入ります。

例のアレな図で言えば、先程と同じ、
以下の赤枠の③の部分に相当します。

上記の図を再掲。

これをやる理由を再度確認すると、
次のようになります。

先述のように、
熔解された鉄を冷却しただけでは
使い物になりません。

硬度こそ高いものの、
しなわずに脆いからです。

有態に言えば、

衝撃を与えれば
曲がらずに折れるかボロボロになります。

余談ながら、銑鉄を単に硬いからと、

例えば、ヘタに線路なんかに使うことを
御想像下さい。

今日日の某地方の
30分に1本のローカル線では、

J〇西日本さんも、乏しい予算で
必死に遣り繰りしているのでしょうが、

「線路に違和感が、」と、
ちょくちょく電車を止めて
補修を行います。

ところが、これが銑鉄であれば、

少しの破損でも、
違和感どころか、
即、脱線事故に繋がると思います。

エラいぜ、カーネギー!

―それはともかく、

そのようになる理由は、
炭素を含み過ぎているからです。

具体的な数字を挙げれば、
銑鉄の炭素含有量は1.7~4%。

そして、古代中国の場合、
これを大体0.6%以下に落とします。

因みに、先述の塊錬鉄の浸炭鉱は
僅か0.3%程度。

そこで、炭素含有量を調整すべく、

低温で再加熱しながら
フイゴで空気(≒酸素)を吹き込む訳です。

そうすることによって、

炭素含有量を調整し(減らし)、
鉄の内部のひずみを除き、
組織を軟化し、

展延性を向上させます。

簡単に言えば、
加熱や送風の匙加減によって、
硬さやしなやかさを調整する訳です。

この工程を、
むこうの現代語で
「退火」あるいは「焼鈍」と言います。

また、それっぽく言えば、

銑鉄の状態を「マルテンサイト」、
焼き戻した後の鉄
「ソルバイト(今は微細パーライトと言うそうな)」
と言います。

先述のように、

鉄の原子がソルバイト形態のものは、
原子の性質に限って言えば、

高温加熱前のフェライト形態のものより
倍の硬さがあり、
さらに、よくしなうスグレ物。

後漢時代に入ると、
このソルバイト形態の剣に
百錬鋼を掛けるような
イカレた魔剣まで出て来ます。

曹操が名匠にオーダー・メイドしたのは、
恐らく、このレベルのものではなかろうかと
想像します。

10、炒鋼法の屑鉄再利用・灌鋼法

話を焼き戻しの説明に戻します。

炒鋼法が確立した当時、

確かに、銑鉄の利用は
西洋のパドル法に先立つこと
1000年以上の
ハイテクではありましたが、

炭素含有量の管理自体は
未熟でありました。

具体的に言えば、
焼き入れで脱炭が進み過ぎた、
所謂「熟鉄」も少なからず出ました。

炭素含有量が極めて少なく

柔らか過ぎることで、
道具などの用を為さないのでしょう。

で、恐らく、こうした状況は
三国時代末まで
続いたと思われます。

そして、次の技術革新はと言えば、

残念ながら
三国時代の後になるのですが、
下の図の、
赤枠は④の部分を御覧下さい。

上記の図を再掲。

西晋から南北朝時代に入ると、
「灌鋼法」という技術が生まれます。

これは銑鉄と熟鉄を同時に加熱するというものです。

そうすることによって、

前者が後者に浸み込み、
前者の硬さと後者の柔らかさが
折衷・融合されます。

つまり、炭素含有量の異なる
銑鉄同士を
交配する合金という訳です。

そして、この用途は
剣や鎌等の刃物。

ここまでのおさらいとして、

名刀制作の手順としては、

まずは、鍛造の場合は原料に隗錬鉄、
次に、鋳造の場合は銑鉄に白口鉄、
そして交配用に熟鉄を用意し、
さらに焼き戻し、

そのうえで
百錬鋼を掛ける訳でして、
まあ手の混んだこと。

無論、兵卒の刀を作るために
ここまでやったか
どうかは分かりません。

因みに、向こうの武術は、
得物は使い捨てなんだそうな。

余談ながら、北朝は東魏時代の
道士・綦毌懐文は、

この灌鋼法で作った刀
30片の甲片で作られた鉄兜を
真っ二つに割ったそうで。

さて、この逸話で
ひとつ注目すべき点がありまして。


それは、鉄兜が30枚の甲片で作られている、
という点です。


この東魏という国は
534~550年に存在した
短命王朝ですが、

言い換えれば、時代を特定し易い訳で。


つまり、三国時代から3世紀も下った
6世紀中頃でさえ、

チップ状の甲片を繋いだ
兜を使っていた、

―逆に言えば、
鉄のプレートを接合した兜を
使っていないということです。

11、漢代の鉄器の考察

11-1、鋳造鉄器

続いて、当時の鉄器と
その製作方法(鋳造および鍛造)について触れます。

まずは鋳造について。

先述の佐藤武敏先生の論文に
漢代は主に河南省における
鉄器の出土品の製法や発掘地ごとに
整理されたリストが掲載されています。

それを、さらに、サイト制作者が
今回の記事の目的に合わせて
整理しました。

改悪になっていないことを
切に祈りますが、以下。

まずは鋳造の鉄器から。

佐藤武敏「漢代における鉄の生産」、篠田耕一『武器と防具 中国編』、稲畑耕一郎監修『中国文明史』4、林已奈夫『中国古代の生活史』、伯仲『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、香坂順一編著『簡約 現代中国語辞典』等(敬称略・順不同)より作成。

灰色の部分は、
鋳造・鍛造の双方
製作されたことを表します。

一般に世間の工場では、

言うまでもなく、
ハイテクもローテクも
同居するものです。

そして、手作り品の機械の
メンテに手を焼いたり、
最新の機械でも
グズって
ラインを止めたりします。
機械を診ること嬰児の如し。

特に21世紀前半の今日日の
末端の世間では、
後者の方で改善改善言いまして、

中には、アイデアにカネを出す
殊勝な企業さんもありまして。

それはともかく、技術は各々の特性に応じて
使い分けられるものでして、

この時代も、恐らく
その例外に漏れる訳ではなかろうと。

また、むこうの漢字の
使い方の特徴のひとつに、

ひとつひとつの字が
細かい意味を持つケースもあれば、

物の原理や仕組み
意味するケースもあるので、
敢えて、備考欄に意味を付しました。

と、言いますのは、
例えば、「鏟」という字があります。

意味は、かんなちょうな、
そして、少し意味の違うものはと言えば、
元は除草用のスコップ、
それどころか、
後代には武器にまで化けます。

一応、出土品を図解しますと、以下。

稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』4、林已奈夫『中国古代の生活史』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

大体、今日のものと
それ程変わらないような気がしますが、
右下の秦代のものは、
扇状に左右に広がっている
可能性もあります。

実は、無謀にも、
こういうのを全て
図解しようと思ったのですが、
さすがに挫折しました。

民具の図解について
皆様からのリクエストでもあるか、
農村の生活空間を再現する機会があれば、
その折にでも
リトライしようと思います。

それはともかく、
上記のように、
漢字の意味ひとつとっても
掴みどころのないもので、
かと言って、
民生品中心の論文で武器、
というのも考えにくいので、
困ったものです。

因みに、この鏟が武器として登場したのは、
篠田耕一先生曰く、明代の模様。

沙悟浄や魯智深が
振り回した得物は、
先端が湾曲して二股に分かれたタイプですが、
宋代というよりは、
話が書かれた当時の感覚なのでしょう。

もっとも、
この前身となるような武器も
あったようですが。

呂布の方天戟
王双の流星「錘」も、
残念ながら、
後漢・三国時代の武器ではなく、
少なくとも宋代以降のもの。

突っ込むのは野暮かもしれませんが、
一方で、
脚色の過程を楽しむのも
調べ事の醍醐味かもしれません。

もう少し言えば、

リストにある鋳造品は、

剣や戟、鏃等のような
あからさまな武器以外は、
まず、民生品を意味するものと思います。

先の記事でも触れた通り、
鉄は重要な戦略物資でして、

そのうえ、
打撃系の武器が多様化するのは、
時代が下ってからの話だからです。

漢字の概念や
武器と民生品の区別の話は
これ位にしまして、

鋳造品の大体の傾向としては、

或る程度の大きさ・重さ・厚味が
あるものが多いかと
思われます。

例えば、車軸や釜、犂、歯車等のような、
農具や機器の部品です。

さらには、缶や盆も、

漢字の古語の意味や
当時の鉄の使い方から考えれば、

恐らくは、
今日の日本人が想像するような
コーヒーや鯖の水煮でも
入ったようなスチール缶や
アルミ等の薄手のトレー等とは異なり、

厚味のある容器であったと想像します。

一方で、剣や戟、鑿、鋤、鉤、といったような、
武器や一部の鋭利な小物については、

鋳造・鍛造の双方
製作されているのも事実でして。

この辺りのものについては、

他のものに比べて
製法ごとの個性が出にくく、
柔軟に製作されていたと
想像します。

11-2、鍛造鉄器

さて、鋳造に引き続いて、

漢代の、主に河南省で製作された
鍛造の鉄器の出土品は、
概ね以下の通り。

佐藤武敏「漢代における鉄の生産」、篠田耕一『武器と防具 中国編』、稲畑耕一郎監修『中国文明史』4、林已奈夫『中国古代の生活史』、伯仲『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、香坂順一編著『簡約 現代中国語辞典』等(敬称略・順不同)より作成。

この界隈で製作された刀は、
鋳造ではなく鍛造です。

その他、輪、取手、鉄条、釘と、
鋳造品に比して、
細いか、あるいは小物が多い点に
御注目下さい。

一方で、剣・戟、鑿、鋤、鑿と、
細身でも鋭利なものについては、

鋳造・鍛造の双方で
製作されているものがあるのも
特筆すべき点かと思います。

そして、の話をするうえで、
サイト制作者が外せないと思う鉄器が、
「薄鉄片」。

ここでは民生品の部品だと思いますが、

見方を変えれば、
鎧兜を構成するための甲片に
転用可能とも取れる訳です。

鉄片の大きさについても、
他の鍛造製品の大きさを考えれば、
決して大きいものではないと思います。

因みに、楊泓先生は、

当時の鉄製の鎧の出土品は
鍛造としておられます。

以上の点から、

兵器・民生品双方の観点より、

薄型の大型プレートは
製造出来なかったであろう、

当時の技術水準の限界を
垣間見ることが出来るかと
思います。

12、甲片の材質と繋ぎ方についての愚考

さらには、
先述の東魏の鉄兜の御話
思い出して下さい。

例の、宝剣で兜を砕く
というデモンストレーションも、

相手が現役の兵器でなければ
話としての用を為さないことを考えると、

東魏から時代を遡った
『三国志』に出て来る鉄鎧も、

数多くの鍛造の鉄片を
繋ぎ合わせたもの
≒魚鱗甲あるいは札甲、が最先端、
あるいは主流
考える方が自然かと思われます。

その他、後半の北方では、
鎖状の鎧も使われていたようですが。

御参考までに、
前漢末の魚鱗甲の甲片の繋ぎ方は、

高橋工先生によれば、

実は、少なくとも、
5世紀の中頃までは
現役の技術でした。

こういうことを書くのも
野暮だとは思いますが、
サイト制作者の愚見としては、

むこうの三国志関係の
ドラマに出て来る鎧(特に将のもの)は、
甲片の繋ぎ方や
彫刻の精巧さを考えれば、

銅製でなければ
説明が付かないように思います。

得物は、無論、
銑鉄を鍛造し直した
ヒッタイトも顔負けの
世界レベルのチート兵器です。

もう少し踏み込めば、

『魏書 』 にチラと出て来る明光鎧も、

故・駒井和愛先生によれば 、

当時の「明光」の
言葉の使い方からすれば、
銅製の可能性が高いそうな。

また、当時の出土品の状況から、
札甲の可能性がある、
とも、書いておられます。

無論、時代が下って
同型の鉄製も登場する訳ですが。

さらには、篠田耕一先生によれば、
明光鎧の最大の特徴は
胸部の左右のプレートだそうですが、

サイト制作者の愚見としては、

後漢・三国時代は
このプレートを
鉄で作ることが出来なかった可能性が高い、
という御話です。

あるいは、王侯貴族の使用品につき、

装飾性を重視して
敢えて銅(当時は金と同義)を
使用したのかもしれません。

因みに、銅の胸当て自体は、
既に春秋時代の段階で
使用されていました。

おわりに

最後に、これまでの話の要点を整理します。

1、鋼は鉄と炭素の合金である。

古代中国においては、
これを、鉄鉱石を低温で加熱する鍛鉄、
あるいは熔解して
鋳型に流す鋳鉄の
2種類の製法で製造した。

2、古代中国における
中心的な鉄鉱石は
赤鉄鉱であった。

また、華北産出の鉄鉱石は
火成岩系で溶解温度が高いことで、
坩堝製錬から始まった。

鋳鉄技術の獲得も
早かった可能性がある。

湖北・河南産出の鉄鉱石は、
溶解温度が低く、鍛鉄から始まった。

3、鍛鉄は、低温加熱した鉄を
鍛打・冷却して作る製法である。

そして、この方法で出来た鉄を
「塊錬鉄」と言う。

また、塊錬鉄は夾雑物が少なく
炭素含有量が低いことで、
武器等の原料となる。

さらに、鉄鉱石から塊錬鉄を製造する
一連のサイクルを
浸炭鋼と言う。

そして、浸炭鋼のサイクルを
無数に繰り返すのを百錬鋼と言う。
宝剣等を作る際に行われる。

4、炭素含有量は
鋼の硬さとしなやかさのバランスを表す。

多ければ硬い一方で脆く、
少なければよくしなう。
武器が適するのは後者である。

5、鉄を高温加熱すると、
性質が変化する。

高温加熱して熔解した鉄(オーステナイト)を
冷却すると銑鉄になる。

これ自体は硬いが脆く、
鋼材としては用を為さない。

しかし、銑鉄を
低温で低温加熱後、

冷却(マルテンサイト)しつつ
炭素含有量を
調整する(減らす)と、

低温加熱した鉄(フェライト)の倍の硬度に加え、
しなやかさが備わった鉄となる。

このサイクルを炒鋼法と言う。

6、炒鋼法の軍事利用によって、
騎兵の戦術が刀による
接近戦が主体になり、
歩兵の主要な短兵器が
剣から刀に移った。

7、銑鉄は、高温加熱後に溶解した鉄を
冷却したものである。

銑鉄にも種類があり、
武器や農具等の用途ごとに応じて使い分ける。

8、銑鉄を低温加熱後に
冷却する工程を、

焼き戻しと言う。

炒鋼法の最終工程である。

送風・加熱・冷却の匙加減で
炭素含有量を調整するという
難しい工程であり、
これに失敗して
脱炭が進み過ぎた

「熟鉄」≒不良品が少なからず出た。

9、熟鉄と銑鉄を加熱して
鋼を製造する方法を
灌鋼法と言う。

熟鉄のしなやかさや柔らかさと
銑鉄の硬さが
折衷・融合する効果があった。

10、鋳造では大型で硬いものが、
鍛造では小型で柔らかいものが
各々製造される傾向にあった。

例えば、前者は農具、
後者は消耗品や工具等である。

また、鋳造・鍛造の双方で
作られるものも存在した。

一方で、漢代の段階では、
鎧の甲片は鍛造であり、
これに類似する民生品も
鍛造で作られた。

11、5世紀までは
前漢の魚鱗甲の
甲片の繋ぎ方が継続され、

南北朝時代の東魏の段階でさえ
鉄兜も甲片を繋ぐタイプが現役であった。

したがって、少なくとも6世紀辺りまでは、
大型で薄手の鋼のプレートは、
鋳造・鍛造の双方でも
製造出来なかった可能性がある。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

佐藤武敏「漢代における鉄の生産」『人文研究 第15巻第5号』
趙匡華『古代中国化学』
佐原康夫「南陽瓦房荘漢代製鉄遺跡の技術史的検討」『史林』第76号第1巻
楊泓『中国古兵器論叢』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』『武器と防具 中国編』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』
駒井和愛「漢魏時代の甲鎧」『人類學雜誌』第58号
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』4
林已奈夫『中国古代の生活史』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版
香坂順一編著『簡約 現代中国語辞典』
田中和明『金属のキホン』
菅沼昭造監修・鉄と生活研究会編著『トコトンやさしい鉄の本』

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【雑談】鏟と鋳造品

はじめに

鎧の話をするつもりが
いつの間にか鉄の話になるという具合に、

サイト制作者自身も
自分でやってる癖に、

こういう回りくどさに対して
いい加減気が滅入って来た次第ですが、

あきらめずに続けていく予定です。

1、鉄にこだわる理由

さて、そもそも、

どうしてこのような
訳の分からないことを
やっているかと言いますと、

過去の記事にも書きました通り、

要は、三国志関係の
さまざまな創作物に出て来る鎧と
出土品や学術論文等の内容との差異が大きく、

作品のデザインの関係上
或る程度フィクションが入るにしても、

両者の整合性をどこで取れば良いのか
分からないからです。

しかも、あの時代の現物が極端に少なく、
俑も儒家共の影響で
ヘッタクソなものしか
残っていないという具合。
(当時の人を責めても仕方がないのですが)

後漢・三国時代の鎧自体、

大体どういうものがあったかは分かっても、
(例えば、篠田耕一先生の
『武器と防具 中国編』等を参照)

そのディティールについては、
分からない部分が多いのです。

それならば、当時の製鉄の技術水準から
アプローチを掛けていけば
何かしら見えて来るものがあろう、

―という想定の下、
その斜め上を行くこと久しいのですが、

当分は、漢代に鉄で何を作ったかを
羅列していこうと思います。

2、鋳造と鍛造

さて、当時、鉄でモノを作る際、その方法は、
大別して、鋳造と鍛造の2種類あります。

鋳造は、溶かした鉄を鋳型に流し込む方法。

大雑把なものを作る時に
良く使われる方法です。

鋳型を外した直後は
表面がザラザラしています。

また、往々にして、
溶かした鉄の中に気泡が入ったまま
冷え固まったりしまして、

その結果、モノの中に
「巣」と呼ばれる穴が出来ることで、

現場の方は、
現在でもこれに苦しめられています。

で、鋳造製品の一例として、
今回、自筆のヘッタクソな絵を
掲載するのが、鏟(さん)

稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』4、林已奈夫『中国古代の生活史』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

字引によれば、かんなやスコップ
と、あります。

【追記】

篠田耕一先生によれば、

農具としての鏟は、

新石器時代には既に存在したものであり
先端の部分は刃になっていて
除草にも使えたそうな。

また、武具としての利用は
明代以降だそうで、

これは先端の左右が広がっています。

【追記・了】

こういうところが
漢字の面倒なところでして、

時には、同じ漢字で
武器と民具の双方の意味を持つ
ケースもあり、
困ったものです。

3、実用大国・秦

また、道具をめぐる
零れ話のひとつとして、以下。

は遊牧から国を興した経緯もあり、
儀礼よりも実用性を重視したそうな。

その結果、もっとも完成度の高い生産品は
青銅製の武器で、
次いで、大型の建築部材、馬車、
生活用具の類なんですと。

逆に、他国に劣るのは、
精巧な装飾が施された
儀礼用の器の類。

日本の都市で言えば、

観光資源の多い東京や大阪
というよりは、

文化面では弱いが
モノ作りに強い名古屋のメンタリティに
近いという話かしら。

鍛造は、鉄の塊を数百℃で
加熱して叩くやり方。

比較的繊細でしなやかなものを作る場合
この方法でやります。

例えば、刀剣や矛の頭のような鋭利な武器、
ノコギリのような切るための工具、
あるいは、ワイヤー、釘等の細い消耗品、等。

【追記】

正確には、漢代の剣や戟等は
鍛造だけでなく
鋳造で製作されたものもあります。
(河南省鶴壁市出土)

【追記・了】

ですが、精巧な装飾品のレベルとなると、

サイト制作者の愚見としては、
後漢や三国時代ですら
銅が主流だったのではないでしょうか。

そうだとすれば、
創作物で武将が身に纏う
精巧な装飾の施された鎧は
銅製ということになります。

これで鋭利な鉄器と遣り合うのですから、
さあ大変。

おわりに

今回は、結論めいた話はしません。

後日、もう少し体系的な話をして
然る後、論点を整理しようと思います。

加えまして、
雑談序と言っては大変失礼ですが、

鉄の御話で大変勉強になりました
佐藤武敏先生は
昨年夏に御亡くなりになられたとのことで、

御冥福を御祈り申し上げます。

過去の記事にて
折角和訳して頂いた『塩鉄論』の悪口を書いて
罰の悪いことこのうえなく。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
佐藤武敏「漢代における鉄の生産」
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』4
林已奈夫『中国古代の生活史』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

【余禄・病気の話】
武漢発のヘンな肺炎で東アジア全体が
大騒動になっていますね。

邦人の方からも死者を出したそうで、
ともあれ、国を問わず、
亡くなられた方々の御冥福を
御祈り申し上げます。

さて、このブログで取り扱う範囲で
少々無駄話をしますと、

恥ずかしながら、今回の件で、

外征中の軍隊内で
現地の風土病が流行る怖さが
或る程度リアルに
想像出来るようになったと言いますか。

病気そのものの感染の速度の速さに加え、
医療品の不足や衛生環境の悪さが
それに拍車を掛けるのでしょう。

『三国志』の世界で言えば、
赤壁や北伐と連動して行った孫権の親征もそうで、
その他、『呉志』を読むと、周瑜父子等、
少なからずの数の要人が30代以下で亡くなっています。

あの政権の母体は、程普や韓当、張昭等の
北来の士も少なからずかかわっていることで、
(北も色々で、張昭は徐州、程普なんか右北平!)

残念ながら確証はありませんが、

夭折した人の中には、
彼等は慣れない風土で心身を酷使したことが
祟っているケースがあるのかもしれません。

もっとも、古代中国だけかと言えば、
太平天国も北伐で精兵がこれにやられて
国自体が勢いを失っています。

換言すれば、
前近代の戦争は
外征に風土病が付いて回るのが
当たり前なのでしょう。

もそっと調べると、
何かしら見えて来そうなもので。

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鉄官の分布と江南開発

以下に、章立てを付けます。

例によって、

適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

はじめに
1、秦代の鉄の管理
【雑談】劉邦と項羽の
意外に場当たり的な政権構想
2、前漢代における郡の分布
3、漢代における鉄官の分布
【雑談】戦国時代の兵隊御国自慢
4、秦代の鉄官の配置
5、全ては、南陽から始まった
5-1、簒奪者の見たディストピア
【雑談】搾取と失政、また搾取、
南陽版・歴史は繰り返す
5-2 前漢の漢人フロンティア
6、秦の戦争経済とその後
6-1、君主と山と管理権
6-2、君主対大資本
【雑談】大地主様の戦前戦後
6-3、開発の切り札?!鉄製農具
6-4 資本力と表裏をなす政治力
【雑談】市に集うワルい人々
1、劉邦の捨て身の「地域貢献」
2、商売と人集めと武装蜂起
6-5 秦の製鉄業統制政策
6-6、漢代の経済自由化の副産物
7、漢代の製鉄業を俯瞰する
7-1、「都市型」と「深山型」
【雑談】街と田舎のワルい人
1、都市と郊外を結ぶ「少年」
2、何処か似ている戦前の「壮士」様
3、市の風景を妄想する
4、謀臣とワルい人の『三国志』
7-2、結構複雑なサプライ・チェーン
8、江南開発と製鉄業
8-1、地力の滲み出た赤壁の戦い
8-2、秦が開けたパンドラの箱
【雑談】「異民族」はどこにいる?!
1、案外狭かった漢人勢力圏
2、「異民族」国家・呉と
「異民族」で儲けた趙
3、異色の国・中山国
4、巨額予算による高度防衛システム
5、黒山賊の梁山泊の今昔
6、三国時代の「異民族」政策
7、『三国志』の勝者は民族抗争の敗者
8、戦争と搾取は異文化交流の尖兵?!
8-3、会稽郡と先住民
8-4、対山越の治安作戦と軍拡
8-5、開発と表裏一体の教化策
8-6、地の果てにでも行く名士様
【雑談】命懸けの豪族の御引越
1、大所帯が大前提
2、祖逖おすすめの引っ越し術
3、許靖の見たこの世の果て
3-1 実は、董卓政権のエース格
3-2、南海行路は生き地獄
8-7、職能集団の移動の可能性は?
8-8、会稽太守と丹陽兵
おわりに

【主要参考文献】

はじめに

まずは、長期間更新が滞って
大変申し訳ありません。

転居作業とネット不通と
制作者の怠慢が主な原因で御座います。

加えまして、
今回は特に、
サイト制作者の忘備を兼ねた
無駄な話が多いことで、

取り敢えず結論を知りたい方は、
「おわりに」で論旨を整理していますので、
まず、そちらを御覧下さい。

1、秦代の鉄の管理

さて、今回は、

鎧の原材料である鉄の生産・取引拠点
それに付随して華南開発の幕開けについて
何かしら綴ろうと思います。

秦漢時代、大体の期間において、

大口の鉄の生産・流通は
戦略上の重要物資として
国家の強力な統制下にありました。

その理由は、
武具や生産力の高い農具として
必要不可欠なうえに、

鉄の生産自体にも
当時としては大規模な設備や
膨大な資源・労力を必要とするためです。

で、その鉄の生産過程を掌握する
政府の役人を
「鉄官」と言いました。

これは、少なくとも
秦の時代には置かれていまして、
採鉱から鉄器の製作までを担っていました。

因みに、政府が鉄の農具―犂を
農民に貸与する場合、
県レベルで相手を精査するので、

厳密には、
政府が鉄の流通過程をも
掌握している訳です。

当然、武器なんぞ言うに及ばずでして、

モノに産地が刻印されており、
戦国時代の七雄は県レベル、
秦は郡レベルで、
郡県の長が出入りの数を把握していました。

後世の研究者も
こういうのをみて
政権の集権性を判断する訳です。

そして、秦の国体の
美味しいところを持っていった漢も、

こういうところも御多分に漏れず、
秦の制度を継承します。

【雑談】劉邦と項羽の
 意外に場当たり的な政権構想

―と、言いますか、

最近の研究、
柴田昇先生
『漢帝国成立前史』によれば、

存外、前職・駄目役人の劉邦の前漢も
当時の世間の目からすれば、
ほとんどやくざ者の項羽の楚も、

発足から運営から戦乱続きが祟って
マトモな政権構想もなく、

結果として、
場当たり的な運営を迫られた模様。

例えば、項羽の場合は
戦時体制下の兵権しか
権力の拠り所がないことで、

秦を倒した後の暫定措置として
王が並列する体制
作らざるを得ません。

一方の劉邦の場合も、

その場限りの政局で
烏合の衆を纏める多数派工作に
終始したことで、

長期的な政策展望を持とうとすれば
秦の方法を真似る以外になかったそうな。

こういう具合に、

当時の流動的な政治状況について、

戦国時代の枠組みとの兼ね合いや
治安のような社会状況等も踏まえて
丁寧に考察されています。

難を言えば、
軍事史的な話が少ないことですが、

それでも、
政局の推移の事務的な説明ですら
項羽の圧倒的な強さが浮き彫りになるという
何とも言えぬ不気味さがあります。

内容の難しさという点では、

初心者向けではないと思いますが、
恐らく、御書きになった数々の学術論文を
好事家向けに平易な言葉で書き直したものと
拝察します。

また、漢文史料の引用には訳文が付いています。

興味のある方は、是非、御一読を。

【雑談・了】

2、前漢代における郡の分布

さて、話を本筋に戻します。

それでは、採鉱から鉄器製作まで行う
鉄官の分布状況について、

前漢の状況を中心
見ていきましょう。

以下のアレな図は、
前漢の地図(呉楚七国の乱以降)に
前漢・後漢の鉄官の位置を
落とし込んだものです。

譚其驤『中国歴史地図集』(西漢部分)、戸川芳郎監修『全訳漢辞海』第4版、佐藤武敏「漢代における鉄の生産」等(敬称略・順不同)より作成。

因みに、赤い点が漢代を通じて
鉄官が置かれた場所、

オレンジが前漢時代のみ、
紫が後漢時代のみ、
それぞれ鉄官が置かれた場所です。

〇の中に色があるものは、
郡国の治所に鉄官が置かれたこと
意味します。

この地図を作るにあたって
まず制作者が思ったことは、

鉄官の話以前に
自身が想像していた以上に隔絶した
南北のパワー・バランスです。

そもそも華南には、
鉄以前に、郡自体がそれ程ありません。

要は、「異民族」のテリトリー
という訳でしょうねえ。

後漢末の動乱の時代に
劉表が荊州の統治で
「異民族」相手にどれ程を苦労をしたのか、

あるいは、劉備と曹操
漢中をめぐる一連の抗争や
諸葛亮の北伐の背景には、

巴蜀から長安以西の地域での
労働力の奪い合いがあったことを
御想像下さい。

まして、昨今、途上国のメンタリティで
先進地域の統治に失敗して泡を喰っている
某半島都市の辺りなんか、

この時代は、
逆の意味で外国の感覚でしょう。

後述する上海の辺りにしても、

漢民族にとっては
孫呉の時代に
漸く開発の最前線に達する訳です。

因みに、向こうでは
「北京愛国 上海出国 広東売国」
という言葉がありまして、

これは北京人の言い分だそうですが、

ここ200年弱の、
割合新しい言葉と想像します。

その北京とて、
秦漢、三国時代には地方都市に過ぎません。

3、漢代における鉄官の分布

それにしても、

やはり鉄官が置かれているところは
黄河下流域から長江上流域の北岸が
大半でして、

中原に鹿を追う宜しく、

連中の古代文明が栄えて
戦国時代の抗争が激しかった地域と
軌を一にしていると思います。

これに因みまして、学術用語で
「三晋地域」という言葉があります。

春秋時代に
晋が治めていた
大体黄河中流域の辺りを指しまして、

「三」の理由は、
この国が内部抗争で
韓・魏・趙に分裂したことです。

制作者がいくつかの文献や論文を
読む限りでは、

この言葉は、
ほとんど遺跡の発掘や経済史的な
意味合いで使われておりまして、

要は、この地域の経済価値なり
遺跡の埋蔵量が
他の地域を圧倒的に
凌駕しているという御話。

【雑談】戦国時代の兵隊御国自慢

これに絡んで無駄話をすれば、

兵書の『呉子』「料敵」
戦国七雄の各国の兵隊の特徴をあらわす
くだりがありまして。

例えば、韓や趙の兵隊は、

祖国が先進地域、
言い換えれば
中世ヨーロッパにおけるイタリアのような
係争地になっているためか、

穏やかな性格だか、
戦争慣れして俸給にうるさくなり
決死の覚悟が乏しいんだそうな。

で、こういうメンタリティが
昔話かと言えば、
どうも、そうとも言い切れませんで、

モノの本によれば、

洛陽のある河〇省の出身者には、
今でも詐欺系の犯罪者が
多いんだそうで。

序でに、勝者のはどうかと言えば、

人々の性格は強靭で政治は厳しく
賞罰の適切なことで、

功名を他に奪われぬよう譲らず
勝手に闘おうとする傾向がある、
と、言います。

その実、捕虜も味方も有能な官僚も
散々殺して全土を平定しました。

まさに、商鞅の政策を体現したような
敵国の評。

―彼を知り、己そ知れば、
百戦危うからず。

人当たりの良さと狡猾さが
表裏一体になっている都会人、
―という構図が
何処の国にもあるという、

またも負けたか八連隊、
それでは勲章九連隊な御話。

【雑談・了】

4、秦代の鉄官の配置

脱線して恐縮です。
話を鉄官に戻します。

秦の鉄官が置かれた場所は、
実は、咸陽・臨湽・成都の3箇所以外は
分かりませんで、

しかも、首都の咸陽は項羽の略奪で
灰燼に帰すという
オチが付いてきます。

また、識者によれば、
戦国時代の他の大国にも、
鉄官と似たような官職が置かれていた
可能性があるとのこと。

臨湽は、大国・斉の首都でして、
発掘調査の結果、
城内には大規模な製鉄所の所在が
確認されています。

そして、恐らく、
この3箇所の中で、
秦の政策的なスタンスが
最も色濃く反映されているのが成都。

まず、成都のあるは、
秦が関中から東進を始める前からの
占領地でして、

当時から
兵站を支えるための
重要な後背地でした。

そして、ここの鉱山開発に
占領地の富豪を動員しまして、

こういう政策自体が
同国の富国強兵策と
密接な関係を持つのですが、

その話は後述します。

5、全ては、南陽から始まった
5-1 簒奪者の見たディストピア

さて、始皇帝の御代から
前漢代の時代に下りますと、

漢民族の開発のフロンティアは
南陽まで南下します。

そう、コー〇ーさんの
『三國志』シリーズで言えば、
袁術の治める宛の辺り。

と、言いますか、
南陽郡の治所(県庁所在地に相当)が宛県。

ここは面白い地域でして、
実は、前漢を簒奪した王莽は、

劉備が曹操相手にオラ付いていた
南陽郡新野県の都郷に
封土を持っていました。
(駅前の一等地の感覚です。)

で、中央の政争で干されて
ここで3年暮らしたのですが、

まあ、ここで、儒教名士にとっては
見てはいけないものを見た、
とでも言いますか。

―具体的には、

現地の開発地主が
零細な農民を
奴隷の如く使って暴利を貪るという、

ラジカルな資本主義の狂態でした。

そういうことを言い出せば、

三国時代における蜀漢の南中も
孫呉の江南も、

原住民を武力を背景に使役するという
鬼畜なデタラメさが
荒野・原野の開発の推進力でもありまして、

王朝の上澄みの部分や国軍の戦力が
こういうアコギな経済基盤で
成り立っているのもまた、
当時の現実です。

その意味では、

三国志という御話自体が
僻地の搾取という構図を抜きには
成立しないという
救いようのない御話です。

【雑談】搾取と失政、また搾取、南陽版・歴史は繰り返す

それはともかく、

こういう格差社会の現実
目の当たりにしたことが、

王莽が、これまたデタラメな経済政策
立案する背景のひとつになったそうな。

―ところが、どこをどう間違ったか、

その王莽の政権は、

外征でも大コケしたりと
イロイロあって、

結果として人の望むところのナナメ上を
突っ走ることとなります。

さらに、その王莽政権を倒した光武帝も、

先述のデタラメな搾取を経済基盤とした
それも南陽の開発地主層でして、

当然ながら、
連中の言いなりになります。

かなりざっくり言えば、

開発地主や豪族層が
軍縮や軽い租税によって浮いた経費を
中央の政治資金に使って政治を壟断し、
(もっとも、光武帝の時代は、
戦乱平定後につき時宜に適っていたのですが)

体を張って
『三国志』というコンテンツを
世に生み出すという
中国史上最大の文学的貢献をなす訳です。

―アコギな中抜きをやる豪族層がいる以上、
皇帝様の仁政が
下々にとって
必ずしも善政とは限らんようで。

【雑談・了】

5-2 前漢の漢人フロンティア

一方で、そういう潤沢な
富の結晶とも言うべきか、

既に前漢時代から
宛の城内には大規模な製鉄所がありまして、

そのうえ、ここは後漢まで使用された
痕跡があります。

もう少し地理的に視点を広げると、

漢代を通じて
鉄官の配置が集中している地域も、

確かに、この南陽の辺りが
南限になっていますね。

そして、後漢末期から三国時代になると、
この開発のフロンティア
さらに南下しまして、
長江南岸以南に及びます。

これが何を意味するのかと言いますと、

南方の政権の軍事力を増大させて
早い話、赤壁の戦いや
孫呉発足の伏線となる訳ですが、

その御話は、また後程。

6、秦の戦争経済とその後
6-1、君主と山と管理権

さて、地理の話は一旦置きまして、
ここでは製鉄業と政策の話をします。

先に、文明あるところに鉄あり、
という話をした訳ですが、

今度は、その鉄は、
そもそも誰がどのように管理しているのか、
という御話をします。

因みに、この個所の主なタネ本は、
角谷定俊先生の論文

「秦における製鉄業の一考察」
『駿台史学』第62号。

さて、まず、
鉄鉱石は鉱山にありまして、

角谷先生によれば、

古代中国では、
「山沢」と言えば、
鉱山地・林山地・塩産地を含む
幅広い概念であり、

国家の管理・規制の下に
用益が行われる
「公利共利」の地なんだそうな。

さらには、ここに、
『管子』という書物がありまして、
君主のあるべき姿が説かれている訳ですが、

その中に、山は冨の泉源につき
争いの元になるので
君主が管理せよ、と、説く件があります。

もっとも、落合淳思先生曰く、

管仲が宣った、とか言いながら、
御本の成立自体は
戦国時代後半から前漢なんだそうで。

(あそこの古典は、そういうものが多いもので!
後、太〇望だの、有名人の名前を無断借用して
適当なことを書くなりきり芸の場合は、
「仮託する」と言います。便利な言葉!)

つまり、大体その頃の認識と理解した方が
間違いなさそうな。

要は、戦国列強の王家や官僚
集権体制を整えて
林野の管理権を地主貴族から取り上げて
国営化した、
という文脈です。

6-2、君主対大資本

その背景には、
当然ながら戦時体制の構築があります。

何十万もの大軍を動員して
大国間の大戦争を行うためには、
相応の物資が必要になる訳です。

特に、の場合、

当初はこういう体制の構築に
出遅れたことで、
挽回に必死でして、

有名な商鞅の改革
そのあらわれでもありました。

大体の方向性としては、

所謂「耕戦の民」を確保すべく、

末端の国民の最低限の生活を保障し、
厳しい軍役を課します。

また、法家の知恵を借りて
賞罰を厳正に行います。

土地と軍役が一体という政策自体は
秦の時代よりも前からあるのですが、

恐らく、他国との最大の相違点は、

規律が厳しい反面
恩賞も手厚かったことでしょう。

―もっとも、戦時はともかく、
平時の統治の場合は、実は、
儒家のスタンスを
少なからず受け入れていたそうですが。

ところが、
こういう戦時体制の構築を
阻む要因もある訳でして。

それが商業資本の存在です。

冨が偏在すると
末端の国民の軍役に支障が出る訳でして、

秦の政府はそうした状況を
極度に警戒します。

『史記』の「列伝」には、

呂不韋以外にも
投機で儲けた資金で土地を買い漁るのが
出て来ますが、

秦が当初手本としたような国においても
こういう冨の偏在に伴う
階層分化が起きていまして、

こういう手合いを野放しにすれば、
国政にまで口を出すことは
言うまでもありません。

商人栄えて国滅ぶ、とは、
こういう状況を指すのかもしれません。

【雑談】大地主様の戦前戦後

余談ながら、

先の日中戦争以降の日本でも
似たようなことが起きていました。

時の農林省
前線に供給する兵隊を確保するために
地主の搾取から
銃後の零細な農家を保護する
政策を進めており、

戦後にGHQが
農地解放を円滑に進めることが出来たのも、

連中の手柄というよりは、

戦時農政という強力な基盤が
あったからだそうな。

もっとも、地主が悪かと言えば、

中には、地域密着型で
小作農の面倒見が良い方々も
いらっしゃいますが、

如何せん、
大戦の反動不況から昭和恐慌、
戦中の民需統制と、

上も上で、
糸価や米価、株式相場が暴落したり
商売が戦争で邪魔されたり

まあ、踏んだり蹴ったりの状況でして、

上下共に、
互いに妥協出来る余地がありません。

そりゃ、満州という棚ボタがあれば、
藁をもすがる思いで
飛び付くのも自明の理ですが、

そういう身勝手な話を
既得権益にがめつい列強が
容認する筈もなく、

領土の広さでは
世界新記録を更新するも、

結果は、御周知の通りです。

大地主様の戦後は戦後で、

どこの共産国家かと思うような
農地解放と相続税で
滅多切りにされるという末路。

それだけ、戦前の日本は
冨が偏在していた証左でして、
戦後に中産階級が潤ったことが
経済発展の伸びしろにもなったのですが、

やられた方は
たまらなかったと思います。

30年程前の制作者の幼少期ですら、
その種の恨み言を
随所で漏れ聴きました。

―話が脱線して申し訳ありません。

ですが、敗戦国の富裕層がどうなったか、
という点だけは、
少し御注意下さい。

【雑談・了】

6-3、開発の切り札?!鉄製農具

さて、秦の政府が
蛇蝎の如く嫌う商業資本。

しかし、
こういう社会階層の
最終兵器とでも言いますか、

戦国時代の後半に、
冨の偏在の引き起こした
イノベーションというのが、

鉄製の農具の普及でした。

そもそも、

鍛鉄(数百℃程度で加熱して柔らかくする)で
一品モノの剣をあつらえたり
鍋釜を補修する程度であればともかく、

鋳鉄(千℃以上で溶かして鋳型に流し込む)で
農具や車具・武具を量産するレベルの
製鉄業自体、

半端な財力で出来る芸当ではありません。

今で言えば、
街の修理工場と大手メーカーとの
資本力の差に相当しましょうか。

一方、社会の裏側の貧農層の状況など、
農具の材料は木と石、骨等。

それも、充足率も低く、
親子で貸し借りするような惨状です。

鉄器なんぞ高嶺の花。

もっとも、鉄器―鉄の犂による牛耕が
戦国時代の後半に
普及したとは言うものの、

出土例が急増したのと
毎年使うレベルの普及率とは
どうも別の話のようで、

しかも、牛による犂耕の用途は、
実質、荒地の開墾であった模様。

要は、黄河流域の平地で
威力を発揮した可能性がある、
という御話。

対して、鉄官まで置かれた四川なんか、

秦のテコ入れで
農業生産が割合高いレベルにあった
にもかかわらず、

山がちな地形に準じた農法のためか、

漢代ですら
鉄の農具の出土例が極めて少ないそうな。

【雑談】市に集うワルい人々

1、劉邦の捨て身の「地域貢献」

さて、秦の農本主義で
マトモな戸籍も
高級軍人になる機会も与えられずイジメられる
商人も商人で、

広域的かつ安全に
商売が出来るような環境には
ありませんで、

秦代に比して
経済が自由化した漢代ですら、

県城の常設の市に出入りするようなのは
不良と蔑まれるような世相。

例えば、商売にうるさい秦の御代の段階で
こういうところで
日頃からタダ酒を喰らって
エラそうにしていた劉邦なんか、
即アウト。

当然ながら、世間様は、
この御仁をカタギとは見ていません。

だからこそ、
下級の官職(亭長)という足枷を掛け、
(それでも、大金の空手形を手土産に
要人に面会するというデタラメを
やらかします!)

地域ぐるみで反乱を起こす際には
人柱として担ぎ出される訳です。
(こういうのは、勝てば官軍です。)

2、商売と人集めと武装蜂起

また、そういうヤバ気な空間で
商売を上手にやろうとすれば
同業者同士の付き合いも出来るのですが、

この「付き合い」というのも
かなり胡散臭いものです。

具体的には、

結構な頻度で
アウトローに片足を突っ込んだ人とも
その種の契りを交わすことになりまして、

兵乱なんぞ企てる際には、
こういう付き合いのネズミ算で
恐ろしい程の人数が集まります。

―中国の歴代の権力者が
市や宗教を嫌うのは、
こういう方程式もあろうかと。

因みに、どうも劉備や関羽なんか、
その種の商売上(製塩業)の縁の
フシがあるそうで、

正史その他によれば、
関羽は当初は雇用関係のある
劉備のボディ・ガードのような
位置付けでした。
―そりゃ、強い訳です。

また、識者によれば、

道教絡みの黄巾や張魯の五斗米道も、

種々の人集めのひとつとして、
商売上のツテで人を集めた気配
あるそうな。

対して、郊外の村落では
月に何度か細々とした市が
立つ程度でして、

それだけ末端の社会は
自給性が強かったのが実情でした。

【雑談・了】

6-4 資本力と表裏をなす政治力

以上のように、
末端の村落社会と商売が
今日に比してかなり疎遠な世間で、

メーカーのレベルの資本力と販路
用意しようとすれば、

担い手の背後に、必然的に、
政治力や武力が見え隠れするようになる、
という御話。

以前の記事でも少し触れましたが、

戦国時代の商人の母体は、
春秋時代の地主貴族の
外商部門だったりします。

落合淳思先生の御知恵を
拝借すれば、

純粋な農業経済の話というよりは、

政治闘争の一環としての
経済戦争と見た方が
宜しいようで。

6-5 秦の製鉄業統制政策

そして、戦勝国たる秦の政府と
敗戦国の斉や趙等の商業資本
対峙した結果が、

本貫地から僻地に飛ばされたうえに、

政府の紐付き資本を元手に
鉱山開発に駆り出されるという結末。

実名や転出先を挙げますと、以下。

卓王孫(趙)・鄭定(山東)は、
蜀の成都近郊の臨邛(キョウ)へ強制移住。

孔氏(梁)は、例の南陽郡へ強制移住。

その後、ここで何が起きたかは、
先述の通りです。

当時の鉱山開発の最先端であった
三晋地域の業者、
―当然、田畑も私兵も持っていた連中、が、

牙を抜かれて
後進地域の鉱山開発の音頭を取らされた、

―という、屈辱的な御話です。

このように、の政府は、

本国や占領地の鉄を独占し、

そうやって獲得した鉄で
主に農具を製作し、
これを優良な農民に貸与します。

それどころか、
官有物の払い下げについても
銅や鉄はその対象外。

つまるところ、

生産から管理、再利用までの全てを、
国家が担っている訳です。

6-6、漢代の経済自由化の副産物

さて、片や、
僻地に飛ばされた
先の三晋地域―敗戦国の富豪連中
どうなったかと言いますと、

人生万事塞翁が馬、
捨てる神あらば拾う神あり、でして、

程なくして
秦の滅亡によって、
コイツ等の目の上のコブが取れます。

そのうえ、次の前漢の御代は、

御承知の通り、当初は、
秦の圧政からの解放がテーゼでして、

おまけに、民力休養による経済発展の結果、
国内で貨幣が足らなくなりまして、

何と、貨幣の私鋳まで認可されます。

こういう追い風に乗って、
鉱山の利権をテコに
周辺の土地を買い漁り、

『史記』に、
富豪として名を遺すというオチ。

実に、したたかなものです。

国内外のさまざまなツテを使って
息を吹き返した
先の大戦における
枢軸国の軍産の戦後と、

何処か似ているような。

そりゃ、資本の経営者にとっては、

構成員の生活が掛かっているので
形振り構っていられないのも
当然だと思いますが。

7、漢代の製鉄業を俯瞰する
7-1、「都市型」と「深山型」

―で、秦代の政府の後進地域の鉱山開発や
勢力圏における鉄の統制、

漢王朝発足後の経済自由化、

そして、武帝の時代以降の
匈奴との戦争による戦時統制、といった、

歴代政権による猫の目行政の結果、

漢代の製鉄業は如何相成ったかと言えば、

さまざまな立地に製鉄所が建設され、

これまたさまざまな分業体制で
運営がなされます。

以下に、具体的な話をします。

まず、立地ですが、

割合年代の古い識者の御説では、

「都市型」と「深山型」
に大別されるそうな。

都市型政府の息の掛かったところ、
深山型豪族の民営のところ、

―という類型です。

前者は、先述の臨湽や宛のような
製鉄所あるいは工場が
城内にあるところでしょう。

で、後者は、国家権力が及びにくく、
ガラの悪い労働者が群れて
治安の悪化につながったそうな。

【雑談】街と田舎のワルい人

1、都市と郊外を結ぶ「少年」

ですが、世の中、
ワルい人なんか、何処にでもいる訳です。
しかもつながってたりします。

まず、前者も前者で、

狭い城郭都市の中には、

業者からの賄賂が
手際良くロンダリングされ
美辞麗句で中身のない道徳の説かれる、

外観ばかりは
清く正しく美しい政庁や講堂もあれば、

不浄・不潔・不道徳とはいえ
人の物欲には正直な
常設市もありまして。

で、先述の通り、
どうもソッチ系みたいなのが
こういうところにタムロしています。

それどころか、連中は、

後者―つまり、
城市付近の山林沼沢に潜む愉快な人達
パンクな付き合いがあり、

そいつらと連携を取って
ワルい遊びや政治ゴッコに興じる訳でして、

こういう人々を、何と、
「少年」と呼びました。

この種の話も、
先述の柴田先生の『漢帝国成立前史』
詳しく書かれています。

2、何処か似ている戦前の「壮士」様

まあその、
戦前の日本の感覚で言えば、

政治の世間では、

政府や政党、大企業、
田舎の大地主等の工作資金で、

政治活動と称して、

街宣は元より
強訴や恐喝などまだ可愛い方で、

敵対勢力の運動員との
仕込み杖での斬り合いや
拳銃での撃ち合いまで、

集票につながることなら
何でもやった、

末端の政治工作員・通称「壮士」のような
院外勢力にでも相当するのでしょうが、
(こういうのと外交官の顔もあった荊軻を
同列視するのも、
どこか釈然としませんが)

3、市の風景を妄想する

まあその、
「少年」の日本語のイメージからすれば、

制作者としては、
何の冗談かと思います。

「少年隊」、「少年少女合唱団」、
「青少年保護育成条例」、

―漢字の理解の難しさ。

ついでに、私も司〇遷あたりに仮託、
ではなかった、
少しばかり悪ふざけをしますと、以下。

設問:
ひとりの少年が
亭長時代の劉邦に
市で「少年よ、大志を抱け」と
激励を受けたと仮定し、

少年のおかれた状況やその心理について
1000字以内で論述せよ。

解答例:

また酔ってんのかよ、このオッサン、
マジうぜー。
(〇大の関係者の皆様、悪しからず)

蕭何による添削結果:

1、亭長の酩酊状態の根拠、
2、「マジうぜー」の心理状態に至った原因、
3、再発防止策及び不良役人の綱紀粛正の対策
以上の3点を、計800字以上で書き直せ。

―資料を解析すると、

劉邦は始皇帝の行列を見て感激して
息の掛かったうぇーい系の若者に
ハッパを掛けるも、

自らの日頃の素行が悪いことが祟って
相手にされず、

一方で、こういう軽率な言動で
上役の神経を逆なでするのを恐れた
郷里の優等生で地方公務員の蕭何は、

事を矮小化して
そして、丸く収めようとする、と。

燕雀、焉んぞ鴻鵠の志を知らんや。

―ホント、どうでも良い話をすみません。

4、謀臣とワルい人の『三国志』

ですが、平時のアウトローも
要人に顔が効くレベルとなると
中々に捨てたモノではありませんで、

漢代にも、
まっとうな史書にまで顔を出すような
コワモテの侠客がイロイロいます。

こういうのは井波律子先生
『中国侠客列伝』が詳しいのですが、

そのテの個々人については
ここでは触れません。

また、秦や前漢から時代が少し下ると、

曹操幕下の知恵者の程昱や郭嘉
こういうのと付き合いがありまして、

世が乱れると、

先述のような
人足集めや情報収集、
世論工作等の実働部隊として、

さまざまな局面で活躍する訳です。

曹操の能力主義は、
その種の水面下の政治力をも
意味したことでしょう。

【雑談・了】

7-2、結構複雑なサプライ・チェーン

いい加減、ワルい人の話から
カタギの商売の製鉄場の話に戻します。

どうも80年代までの研究では、
「都市型」と「深山型」
に大別されていた製鉄場。

ところが、

佐原康夫先生の93年の研究、

「南陽瓦房荘漢代製鉄遺跡の
技術史的検討」
『史林』76
によれば、

漢代の有名な製鉄場の遺跡の中には
城址近郊の河川沿いの郊外にあったりで、

こういう類型には例外が多く
あまりアテにならない模様。

要は、人が数多住むところか、その近く、
もしくは、鉱山の付近に立地していた、

という程度の理解に止めておいた方が
無難そうな。

生産・消費の焦点、
ということになりますかね。

また、製鉄場の用途もさまざまな模様。

南陽のように、
農具・武具、
車具や装飾のような民生品といった
鉄器の製作一本のところもあれば、

今日の大手メーカー宜しく製鋼一貫、
あるいは鋼材から鉄器製作まで
担うところもあります。

また、原材料の鉄鉱石、
あるいは鋼材についても、

郡境をまたいで
方々の鉱山や製鉄場間で
融通し合うという具合に、

複雑なサプライ・チェーンと分業体制
出来上がっていた痕跡があるそうな。

また、その南陽は、
製作一本とはいえ、
材料の調達は柔軟でして、

鋼材も屑鉄も併用するという具合。

立地も分業の形態も
多種多様な訳です。

さて、以上は、
前漢末までの
南陽以北の製鉄業の御話。

8、江南開発と製鉄業

8-1、地力の滲み出た赤壁の戦い

では、これより南の状況は、と言えば、
残念ながらサイト制作者の不勉強につき、
正確な状況は分かりかねます。

しかしながら、
それを推測するに足る材料
多少はありまして。

―具体的には、
江南の会稽郡辺りの開発の御話です。

漢人の住むところに
概ね郡や製鉄場があるのは
先述した通りですが、

この方程式が江南に及んだ時、

現地民が北の政権に対して
牙を剥くことと相成ります。

―識者によれば、

それが、彼の赤壁の戦い、
という訳でして。

石井仁先生の御見立てと記憶しますが、

この戦いの孫権の軍の継戦能力は
江南開発あってのものだそうな。

確かに、孫権の軍の、

南方の軍隊の御家芸ともいうべき
水上における卓越した戦闘力は
言うまでもありません。

しかしながら、

そもそも、
戦略レベルの話として、

数万人の軍隊を徴発して
曹操の軍に疫病が流行るまで
粘り強く抗戦し、

のみならず、

形勢が逆転した後は、

水陸両用の反攻作戦で、

東は江夏から長江を遡って
敵の策源地の江陵まで攻め込む程の
強靭な国力を指すことと思います。

8-2、秦が開けたパンドラの箱

さて、このように、
従来の南北のパワー・バランスの前提を
大幅に狂わせた
漢代の江南開発ですが、

その経緯について、
少し時代を遡って見てみることにします。

まず、戦国時代の後半に
この辺りを支配していた楚の
滅亡直後の状況について、

少し触れておきます。

この辺りの御話も、
柴田先生の御本が詳しいのですが、

秦の占領地の中で
最も荒れていたのが、実は、
旧・国の地域です。

特に、始皇帝の崩御後は
さまざまな武装勢力が蜂起し、

ハチの巣を突いたような
兵乱状態になっていました。

楚は、先に、
昔からの王都(先述の江陵の辺り)を
奪われたこともあり、

この界隈に遷都してからは
足場が固まっていなかったことの
証左なのでしょう。

因みに、その文脈で、
劉邦や項羽も
このドサクサで台頭するのですが、

劉邦の特異性としては、

魏と楚の境界線で活動していたことで、
当時としては国際感覚
あったのだそうな。

そもそも、
この辺りで秦が嫌いな連中の
大同団結の台風の目である
陳勝からして、

国号を「張楚」としています。

―下品に言えば、
「デカい楚」とでも訳しましょうか。

この政権は、建前としては、
楚の王族に敬意を払っており、

当時、甥の項羽を従えていた項梁も
合流を考えていました。

もっとも、陳勝の軍の崩壊が
早かったために
実現には至りませんでしたが。

―つまるところ、江南の地は、

春秋時代は呉越同舟だの言ってまして、
楚の統治下でも、上記の通りでして、

元から人心の安定しない
地域だったのでしょう。

さらには、先述の通り、

前漢の終り頃までは、

漢民族の開発の前線の南限が
南陽辺りであったとすれば、

恐らく、当時はまだ、

漢民族の文化圏ですら
なかったことでしょう。

こういう状況の中、

辛うじて、
この不安定な地域を
統治するにあたって、

国としての体裁を
辛うじて保っていた
楚の滅亡によって
パンドラの蓋が開いたことで、

秦にとっては最悪の展開とも言うべき
五月雨式の武装蜂起による
ヒャッハー天国に変じます。

要は、春秋時代・戦国時代の
双方のとしての枠組みから観ても
人心が安定していない土地柄でして、

漢代に入ると、
経済的な発展や武帝時代の遠征もあってか
漢人の開発の前線が南下し、

そのうえ後漢末になると
戦災を嫌った北方からの移住者も増え、
この地域は混沌として参ります。

【雑談】「異民族」はどこにいる?!

1、案外狭かった漢人勢力圏

余談ながら、ここで、

古代中国のフロンティアの感覚について、
少し触れておきましょう。

斯く云うサイト制作者も、
実は、こうした感覚は
調べるまで分かりませんでした。

まず、『キングダム』で
山の民の御姫様が
秦に加勢する話がありますが、

ああいう漢民族から見た
「異民族」の勢力は、

周王朝が冊封した国の内外や
戦国の列強の領土の周辺には、

実は、たくさんいたのです。

例えば、太公望・呂尚は
羌族の人でして、

教養にイチイチ突っ込むのも
野暮な気もしますが、

釣糸を垂れながら王に説教を垂れた、
という呑気な逸話自体が、

漢民族のヒマな知識人の価値観に
思えてなりません。

一方で、そうやって興った
西周が滅んだのも、

周辺の異民族との関係が
王室の乱脈が祟ってこじれたためです。

2、「異民族」国家・呉と「異民族」で儲けた趙

孫武だの伍子胥だののなんぞ、

そもそもが
漢民族の国ではなかったことで、

中原ではうだつの上がらなかった軍人が
後進国の軍事顧問として
列強の流儀を無視して
好き勝手やれた訳です。

自分の友人の徐庶が
中原であまり重用されないのを嘆く諸葛亮が
劉備の軍で辣腕を振るうことになるのと、
どこか似ています。

とはいえ、呉も呉で、
或る程度のコンプレックスはあったのか、

当初は戦車に狭隘な地形を走らせたりして
悪戦苦闘だったようですが。

さらに、戦国時代の場合の北方では、
匈奴が外患、というよりは、

来村多加史先生によれば、

趙の場合、武霊王の故事こそあれ
当時の北方の長城のすぐ内側まで
森林が広がっており、

長城の建設目的は、
むしろ趙の攻勢限界点的な意味合いが
強かったのではないか、
と、しています。

つまり、趙は、

匈奴が国力を蝕む癌などころか、
逆に、北方の上がりで秦と戦っていた
可能性がある、

という御話。

因みに、古代中国において、
戦国時代から2世紀頃までの気候は
割合暖かく、

北京の辺りは
広大な原生林が生い茂っていた模様。

そして、3世紀の寒冷化で
北方の騎馬民族が南下し、

三国時代の漢中界隈のような
ややこしい状況になりました。

もっとも、それ以前の状況として、

近代農法を先取りする

乱伐・乱開発・塩田化
守銭奴ルーチンは、

当然ながら、
世紀を問わず外せない中華クオリティ。

水量の少ない暴れ河な黄河の
複雑怪奇な事情も
これに拍車を掛けます。

3、異色の国・中山国

さて、時を戦国時代に戻しますと、

南の楚とて、

蛮族の扱いを受けながら、
中原の流儀を貪欲に吸収して
列強の中に喰い込みました。

また、燕と趙の国境あたりには
中山国という千乗の国がありまして、

峻険な山岳地帯に
居城を持っていました。

ここも、漢人とは系統の異なる
「異民族」に相当する人々の系譜の国です。

また、ここは、

卓越した製鉄技術を有しており、

軍の鉄の武器の装備率が
高かったこともあってか、

長らく独立を保ちました。

漢代にも国が置かれたのですが、

武帝の異母兄で
劉備の先祖とされる劉勝は、
ここの職人集団を従えていました。

のみならず、

民族的な柵がこの時代まで残ったのか、
後漢末の黄巾の乱のドサクサで
ここの長の地方官が反乱を起こします。

以上のように、

漢人が自国の周辺の
この種の「異民族」あの手この手で
勢力下に置いて同化させていき、

あるいは、「異民族」が、
漢民族の文化を有難がって吸収して
その秩序の中に入っていく流れもあり、

それが長い歳月にわたって継続して
漢民族の勢力圏が広がっていきます。

4、巨額予算による高度防衛システム

また、こういうループに増長して
所謂「華夷秩序」の思想も生まれ、

歴代の金満政権をして
大規模な外征に駆り立てます。

殊に、前漢の武帝時代は、
恐らく古代史におけるピークでして、

来村多加史先生によれば、

北方の長城線の防衛システムの完成度は
その前後数百年を通じて
抜きんでたレベルだそうな。

その理由は、恐らく、

時代が少々下っても
城郭攻防の流儀が
それ程変わらなかったり、あるいは、

李世民の唐のように
軍事ドクトリン自体が
防衛拠点を軽視したりという具合で、

それ以外の点は、
前漢のそもそもの国力自体が
ズバ抜けていたからです。

5、黒山賊の梁山泊の今昔

例えば、後漢の北方防衛は、

主に太行山脈の山麓に
大量の武装村「塢」を建設するという
場当たり的なもの。

城壁内の司令部と
城外の駐屯基地との連携で
体系的な監視網を持ち、

両者で共有する情報の質も高かった
前漢時代のものとは、

比べるのも失礼なシロモノです。

因みに、後漢末期に黒山賊の張燕
自称100万だかの流民を従えて
籠ったのは、

大体はまさにこの一部で、こういう
山間部に武装村が乱立するタイプの
防衛拠点です。

ええ、元は国軍の最前線基地の一部が、

時代が下って
地元ギャングの根城になるという
さらにみっともないオチ。

フォート・マーサかよ、と思います。

因みに、こういう長城をめぐる攻防について、
戦術や構想の変遷に詳しいのが
以下の御本。

来村多加史『万里の長城 攻防三千年史』

(講談社現代新書)

同書は読み易いうえに図録も豊富で、
絶版なのが勿体ない限り。

特に、漢代の状況説明は
詳細を極めていまして、

先生御自身が御書きになった論文の
ダイジェストかと拝察します。

後、以前の記事でも紹介しました、

石井仁先生の
「黒山・白波考–後漢末の村塢と公権力」
『東北大学東洋史論集』9

同書の内容と
この論文の内容を突き合わせると、

山籠もりして
黄巾だの黒山だのと
覆面を取っ換え引っ換えしながら
中央の情勢を睨み続けるという、

あの辺りの「群雄」達の
色々な意味での
胡散臭さやデタラメさが垣間見えて
笑えて来ると言いますか。

6、三国時代の「異民族」政策

さて、漢民族が、
上記のように
せっせと縄張りを広げる過程で、

支配民をあの手この手で
同化させる訳ですが、

この「同化」には、

被征服民にとっては、

兵役や経済的な搾取、

そして、度し難い侮蔑
付いて回ることは
言うまでもありませんで、

やられた方は、古今を問わず、
恨みと葛藤を抱えるものです。

例えば、後漢時代の漢族なんか、

羌族の人々を耕作や水害対策等で
散々扱き使った癖に、

言語も生活習慣も大きくことなるので
付き合い辛いだとか言う訳です。

―ええ、無論、タダで済む筈もなく、
兵乱になって長安以西は焼け野原です。

因みに、軍閥の総帥として
この鎮圧で焼け太ったのが、

あの董卓で御座い。

そのすぐ後の三国時代なんか
さらにエゲツないものです。

真っ先に、屯田制・兵戸制
「異民族」様御一行を
諸手を挙げてウェルカムしたのが曹操。

その後、予想外に兵乱が長引いて
抜き差しならぬ事態になった後は、

その「異民族」様御一行を、

今で言えば、
片っ端から本国に強制送還しろと
吠えたのが、

彼の司馬仲達がドラフト外で発掘した
大型ルーキー・鄧艾

呉を滅ぼした晋の名将・杜預とて、
同様の事態を憂慮しながら
鬼籍に入りました。

もっとも、鄧艾の意見も、
羌族の兵で成都を陥としたりと
現場の人間のナマの声ではあるものの、

今日における
アメリカにおけるヒスパニックやら
欧州の外人労働者よろしく、

本国人の手前勝手な理屈だけで
そのように出来るものなら
とうの昔にそうしていまして、

社会の末端を
いつの間にか浸食されている状況下での
机上の空論。

それをやったら、

耕作や兵役のような
一昔前で言うところの
3K仕事の担い手がいなくなる訳で、

世の中、タダより怖いものはなし。

7、『三国志』の勝者は民族抗争の敗者

とて例外ではなく、

出師の表やその続編
隈なく御覧頂けると、

軍の複雑な性格が垣間見えて
中々笑えるかと思います。

そして、
五丈原の戦いの蜀軍の唯一の戦果である
渡河攻勢の担い手は南中の兵。

そう、『三国志』の、
特に後半部分の最末端の戦場の光景は、

穿った見方をすれば、

漢人のメンツを賭けた
外人部隊による代理戦争です。

そして、そうした民族的な社会矛盾が
最悪のかたちで噴出して
主客逆転に及んだのが、

「異民族」の反乱軍の侵攻によって
晋朝の首都・洛陽が灰燼に帰し、

事もあろうに皇帝様まで手に掛けられた
永嘉の乱、
ということになりますか。

言うまでもなく、

あの三国時代の勝者が
統一後、僅か30年で迎えた
最悪レベルのバッド・エンディングです。

司馬家の御家騒動の実力部隊に
母屋の王朝ごとブッ潰される訳で、

そりゃ、文学的な群像劇にしたければ、
赤壁や五丈原で筆を置きますわな。

8、戦争と搾取は異文化交流の尖兵?!

以降、まず南北朝時代は、

南朝の漢人政権が
北からの騎馬民族の侵攻に
如何に耐えるかの時代。

隋唐時代は、
そもそも王族が「異民族」の系譜。

最早、エラそうな漢人士大夫の
独断場のような
由緒正しい史書の世界でさえ、

漢民族が主役という構図が
成り立たなくなっているのです。

―そんなこんなで、

例えば、

いつの間にか、
満人由来のチャイナドレスが
中国の伝統衣装になっているかと思えば、

その一方で、
ラーメンが日本食の様相を呈しているという
摩訶不思議な今日この頃。

因みに、むこうの感覚では、

味の濃淡な麺の太い細いの違い等は元より、
丼物のような一品料理という概念が
ないのだそうな。

まとめますと、

所謂、外交的な華夷秩序の拡大
「異民族」の下部構造浸食による主客逆転、

そして、本国における漢人と「異民族」の
差別・被差別が同時進行し、

オマケに、混血や異文化交流
積極的にやるという具合に、

時代の事情により
これらの要因が複雑に交錯する訳ですね。

ウ〇グルどころか、
池〇や西〇が将来どうなるかは、

この記事を最後まで読めば分かる、
筈もなく。

もっとも、サイト制作者としては、

公用語で你好とやるのは
御容赦頂きたいものの、

近畿地方か東海地方に、

中文の書籍やむこうの雑貨を
豊富に扱う店が
少々増えて欲しいとは思います。

例えば、神戸の南京町は
雑貨や中文の書籍を扱う店が少なく、

大阪や京都、名古屋は、
中文の書籍を多くを扱う本屋が
平日開いていないという具合で、

田舎に住む身としては、
これは何とかならんものかと
思う次第。

残念ながら、
随分潰れたようですね。

【雑談・了】

8-3、会稽郡と先住民

さて、話が大分脱線して恐縮ですが、
そろそろ江南開発の話に移ります。

まず、この個所の主なタネ本は、以下。

故・大川富士夫先生の御論文、
「御漢代の会稽郡の豪族について」
『立正大学文学部論叢』81

因みに、無料で読めます。

国立情報学研究所の論文検索エンジン
ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

さて、再び、鉄官の地図を御覧下さい。

上記の地図の再掲

江南―長江南岸の
中下流域を指すと記憶しますが、

この辺り、先述の通り、
鉄官どころか郡自体が
見事な迄にスッカスカですね。

その中で、
会稽はどこかと言えば、

現在の浙江省紹興市。

酒の名前の方が有名か。

いい加減なことを書くと
土地勘のある方に叱られそうですが、

今の感覚でアバウトに言えば、
大体、上海の辺りです。

『三国志』で言えば、
孫策だの王朗だの厳白虎だのか
角突き合わせたエリア。

さて、先述の通り、
戦国時代には「異民族」、
主に越族の勢力の強い地域でしたが、

武帝の時代の南征を契機に、
漢人の進出が始まります。

で、元々の現地政権であった
東甌国や閩越国の先住民
どうなったかと言えば、

当然ながら、

山間部に追っ払われるわ、

山奥に逃げ込んでも
漢人地主の人間狩りに遭い、

耕作や戦争に駆り出されるわ、

そのうえ、生活習慣が合わないので
漢人との軋轢を増幅させるわで、

まあ、踏んだり蹴ったりな訳です。

まさに、亡国の民。
そう、山越の皆様のことです。

余談ながら、安徽・江西・福建の
山間部には、
閩語という独特の方言があるそうで、

私の理解が間違っていなければ、
これがルーツがかと。

8-4、対山越の治安作戦と軍拡

そして、こういう漢人の醜い収奪を
軍事面で支えておきながら
主君に儒教を説いたのが陸遜でして、

まあその、何の冗談かと。

もっとも、
この人だけを責めるのは酷というもので、

孫呉の将には、
これで兵馬を養ったのがゴロゴロいます。

しかしながら、
金文京先生によれば、

この山越の動向は
孫呉にとっては
面倒な盲腸でもありまして。

と、言いますのは、

まず、曹操や魏が連中を扇動して
孫策・孫権の勢力を
事ある度に牽制します。

具体的には、孫策の時代には、
息の掛かった郡太守に
将軍位を与えて攻撃させます。

また、孫権の時代には、
部族の有力者に
印綬を与えるというやり口です。

で、こういう離反策が、何と、
蜀との連携にも支障を来す訳です。

したがって、
孫呉も孫呉で死活問題につき、

抵抗する者は惨殺し、
残りは平地に強制移住させるという
苛烈な治安作戦で臨みます。

その結果、『呉志』の数字を総計すると
孫呉に編入された山越の兵士は
15、6万とのこと。

これは呉軍の半数に相当するそうです。

例えば、孫権の親征や
2度の司馬氏への反乱の介入戦争で、

各々、自称10万の外征軍を
動員したことを考えれば、

国内全域の守備隊を含めると
大体これ位の数字に
なるかと思います。

因みに、確か、
戦国時代の韓の事例ですが、
外征軍は全軍の3割程度。

参考にでもなればと思います。

また、蜀漢の動員兵力が
戸籍も実働も10万余で、

さらには、当時の呉の人口が
蜀の2~3倍という事情を
考慮しても、

当たらずも遠からずの
興味深い数字だと思います。

もっとも、蜀漢の北伐の折、
常時2割の兵を休ませたそうですが、

その2万の兵だけで
全ての国境線を守れたのかどうかは
分かりかねます。

そして、こういう
ソルジャー・ブルーな征服戦争は、

孫権が皇帝を自称する頃には
終局を迎えたそうな。

8-5、開発と表裏一体の教化策

で、漢代から孫呉の時代にわたる
漢族の開発、

と言いますか、

土地泥棒な話以外には、
漢族と越族の交渉・混血・同化が
同時進行します。

蜀漢≒諸葛孔明の、
大姓の篭絡を軸にした南中支配の過程と
よく似ていると言いますか、

蜀の側が参考にしたのかもしれませんね。

ですが、漢族も漢族で、

取るばかりではなく、

それこそ身銭を切って
大規模な開発も行う訳です。

具体的には、現地に、
9000頃(1頃=100畝=6000平方cm)
もの田畑に漑田する水利施設を
建設します。

因みに、当時、

従来の越族の農法は
粗放な低湿地の水稲栽培でしたが、
(焼畑とも言われていますが)

9000頃の開発の規模からして、

例の、農地に水路を引く
漢人の灌漑農法とのハイブリッドになった
可能性があるそうな。

さらに、この技術を
何処から持ち込んだのかと言えば、

現地の地方官の
門生故吏―役人の上司部下の関係、
の人脈を考えれば、何と、

先述の南陽郡の大規模開発を
トレースした可能性が高い模様。

漢人の地方公務員は、
そうやって、飴を与える一方で、

御得意の礼教の普及・実現
勤しむ訳です。

で、納税のための戸籍も
漏れなく付いてくる、と。

とは言うものの、

編戸の民が
納税に耐えられずに逃散して
無戸籍になり、
挙句、豪族の私兵になる、

―というパターンが
後漢末の断末魔の状況につき、

その後の細かい話が気になるところで。

後、何だか、
アーメンの宗教と
やってることが似ていますね。

もっとも、ナンマナダ―とて、
我が国の江戸時代は
戸籍把握の方便に使われた訳ですが。

余談ながら、サイト制作者は、

そのナンマンダーのシンシューの
あまり敬虔ではない
信者のひとりでして、

アーメン関係の訪問勧誘の時だけ、

「〇教徒ですので」と、
もっともらしい文句で逃げています。

8-6、地の果てにでも行く名士様

さらに、門生故吏どころか、

遠隔地間の名士間の関係
少なからずあったのが、
この後漢時代のひとつの顔。

特に、北来の名士との関係
注目すべきところです。

彼等も彼等で戦災を避ける等の理由が
あるのです。

三国志の時代でも、

と、言いますか、

三国志の時代だからこそ
こういうのが頻繁に起きまして、

例えば、若き曹操が
徐州でやらかした略奪沙汰。

以前の記事でも書きましたが、

アレで、諸葛亮や魯粛、張昭等の
地元名士が郷里を追われまして、

結構な数の名士が
この揚州の地に渡りました。

中でも、特に、
諸葛亮と魯粛は、

この時の狼藉に対して
凄まじい恨みを抱いていまして、

赤壁の戦いの前に
反曹操のプロパガンダを
大々的にやりました。

【雑談】命懸けの豪族の御引越

1、大所帯が大前提

で、こういう名士様の御引越、

ヒマな知識人が
行李をぶら下げて
馬でノホホンと長旅をするような
牧歌的な風景ではなく、

一族郎党で構成される無数の人馬
キャラバンのように群をなして
動く訳です。

当然、武装もする訳で、
謂わば、流浪軍。

アニメの『北〇の拳』の
オープニングで、

虚ろな目をした人々が
砂嵐の砂漠の中を歩くシーンが
ありますが、

この種の引っ越しのイメージは、
アレに近いのかもしれません。

ですが、後漢王朝の救世主は
徐州や華北、江南の
侵略者であったりする訳で、

万人に都合の良いヒーローなんぞ
虚構の世界以外に存在した試しがありません。

で、どうも、
官位が欲しくて
仕方がなかったらしい
名医・華〇より
是非にと勧められた手術を断り、

「お前はもう、(以下省略)」
と、宣告されたかどうかは、

無論、定かではありません。

版権沙汰になりそうな際どい話はさておき、

名士はそもそも、

豪族がその冨を以て
洛陽の太学等で遊学させて
帝王学を学ばせた
学歴エリートです。

中には、
闞沢のような叩き上げもいますが、

大抵は富裕層の出で、
支えるスタッフがいてナンボ。

一族郎党を差配するのが仕事です。

そして、こういう集団となると、

動く方も、通過される方も、
そして、落ち着く土地の人間も、
戦々恐々とします。

2、祖逖おすすめの引っ越し術

一例を挙げますと、

東晋の軍人に、
祖逖という人がいました。

この人、元は、
范陽郡(河北省)の名家の出ですが、
勉強そっちのけで
侠の道にハマりまして。

で、当然ながら
一族中の鼻つまみ者
ではありましたが、

その一方で、

日頃から
兄の命令と噴いては、

荘園内の貧者に
何がしかの差し入れを
やっていたんだそうな。

ところが、

先述のように、
有事の際にはこういう人の方が
頼りになるもので。

永嘉の乱
華北がカオスになった折、

彼の一族郎党数百家は
南への避難を余儀なくされましたが、

その一族郎党の危機に際して
指揮を執ったのが、
この侠のアンちゃん。

因みに、当時、
一家族は父母と子供2、3名で
5名程度です。

で、この御仁は
その逃避行に際して、

老人や病人を車馬に乗せて
自らは徒歩でこれに従い、

そのうえ
食糧・衣服・薬といった物資を
共有としたため、

皆の信頼を勝ち得たそうな。

言い換えれば、
こういうのが
逸話として残ること自体、

豪族の逃避行なんぞ、

共同体の精神どころか
資産や身分がモノを言う
弱肉強食の世界で、

飢えたり歩けなくなった人から
野垂れ死んでいくような
生き地獄なのでしょう。

3、許靖の見たこの世の果て
3-1 実は、董卓政権のエース格

さらに、漂泊者の
メンタリティを垣間見るべく、

今回の主役ということにして、

蜀漢の重鎮・許靖の伝を
紐説いてみましょう。

この人は、例の有名な、
曹操に「乱世の姦雄」という
官界の血統書を書いた
許劭のイトコです。

また、最後は、
蜀漢の司徒・太傅として
位人臣を極めた人ですが、
(劉禅の教育の責任者
でもあった訳ですね)

その前に、

劉璋の旧臣の癖に、

土壇場の成都の籠城戦で
城壁を乗り越えて
逃亡しようとして失敗し、

戦後に劉備に睨まれた
駄目なオッサンでもあります。

また、位を極めた理由は、

所謂「隗より始めよ」で、

劉備政権による
益州人士の人心掌握の餌に
他なりません。

ですが、この御仁の過去を見ると、

人の普遍の心理として
同情出来る部分もあると思います。

まず、この人は、
当時の学閥の筆頭格である
汝南閥にもかかわらず、

若い頃は馬洗いをして
生計を立てたそうな。

で、蛍雪の功あって、
孝廉にも挙げられまして、

官界では尚書で人事畑を歩み、

董卓政権では、
人事で綱紀粛正を図って
正義派官僚を抜擢する等して
辣腕を振るいます。

謂わば、有能な人格者タイプ。

事実、この政権も、
出足の頃は
本気で国政を安定させようとして
特に人事面では積極的でして、

その旗頭がこの許靖という訳です。

しかしながら、
平時であればともかく、

有力な外戚も宦官も
共倒れになったことで生じた
権力の空白という
異例の状況下において、

官僚同士が結束する理由が
なかったのかもしれません。

抜擢した地方官の一部は、

事もあろうに、

赴任先で董卓に牙を剥いて
兵乱に手を出しまして、

そのうえ、
イトコのひとりまで
これに加担したことで、

洛陽からの逃亡を
余儀なくされました。

―失脚です。

3-2、南海行路は生き地獄

その後、イロイロあって
会稽郡の王朗を頼りましたが、

今度は孫策が攻めて来やがって、

そのうえ、
後ろ盾の汝南閥は
官渡の戦いで勢力を失いまして、

結果として、

南海の果ての
交趾まで逃げることになり、

現地政権の士氏に匿われます。

さて、会稽から交趾までの
流転の日々における
この人の行動は、

例えば、旧知の遺族の面倒を見たり、
逃げる時は他人に先に
長江を渡河させてやったりと、

実は、かなり見上げたものでした。

こういうところは、

良心的な儒教官僚の矜持が
よく出ていると思います。

ですが、その逃避行の様子は、
まさに、この世の果ての生き地獄。

当人の曹操に仕官の拒絶を
書き送った手紙によれば、

会稽から交州までの行程の間に、

飢え、風土病、反乱軍の狼藉で
8割もの人間が命を落とすという
悲惨極まりないものでした。

その中には、
親しい名士や伯母までもが
含まれており、

自分を登用したければ、その前に、
為政者として治安やインフラを
何とかしろ、といった、
恨み言まで綴っています。

もっとも、許靖が
ここまで手厳しくやったのは
曹操の使者のやり方が
横着であったためでして、

それ以外にも、
郷里の汝南を曹操に焼かれた恨みも
あったのかもしれません。

さてその後、劉璋の招聘を受けて
やっとのことで安住の地を得、
そのうえ太守の職まで得る訳ですが、

事もあろうに、
その後やって来たのは
送り狼の劉備様御一行。

その絶望感たるや、
察するに余りあります。

元々この許靖という人は
官界の中枢である尚書の人事畑で育ち、

先述の祖逖のような
軍だの侠だの切った張ったとは
恐らく無縁であったことでしょう。

一方で、官界では中々の仕事をして、
実際、曹操からも
呼び声か掛かっていますし、

生き地獄のような逃避行の最中でも
行儀良く、理性を失ってはいません。

ですが、そのような常識人にも、
イカレた状況の我慢には
限界があるのでしょう。

そういう部分に、
当時の戦災を避けるための
先行き不透明な逃避行のリアリティを感じます。

如何に戦乱の時代でも、

国民の半分が
昼間から飲む買う打つの侠の人では
銃後の経済が成り立ちません。

許靖のような分別のある人が
極限状態の連続で
人間的な弱さを露呈したことに、

この時代の生き辛さがあったように
思えてなりません。

してみれば、このような
リスクまみれの豪族御一行様の
御引越、

まして、その許靖の上司で
飛ぶ鳥落とす勢いの劉備が
程なくして夷陵で負けて
荊州の失陥が確定した後、

祖逖や許靖の豪族なんぞ
問題にならない位の流浪集団が、

着の身着のままで
益州に雪崩れ込んでくる訳です。

これを裁いた孔明先生が
どれだけ優秀であったかが
分かろうかというもので。

【雑談・了】

8-7、職能集団の移動の可能性は?

さて、豪族は、

軍事力から経済力から、

土地さえあれば自給出来ることに
強味があります。

製鉄の技術者もこれに含まれます。

言い換えれば、

南陽の開発技術が
会稽で転用されたような
パターンもあれば、

どのような経緯であれ、

職能集団の流入による
技術移転をも意味する可能性
あろうかと思います。

つまりは、

三晋地域や南陽等の製鉄技術が
郷里を追われた豪族の移動を通じて
江南に渡った可能性です。

そして、諸葛亮や魯粛が
曹操にブチ切れる、
ということは、

今の世で言えば、

親族の経営する
鉄工所が、

戦争特需による
イカレた生産計画を叩き付けられ、

パチモノのト〇レフや弾薬を
せっせと作るべく
交代制の残業休出を強いられる、

ということを意味すると想像します。
―ホントかよ。

8-8、会稽太守と丹陽兵

また、先述のように、

郡のあるところに鉄もある、
という構図を考えると、

例えば、後漢時代及び孫呉の開発の結果、

会稽郡の南には
臨海郡・東陽郡・建安郡

その領域には18県が新設されました。

また、揚州という枠組みにおいても、

後漢時代、
会稽郡・九江郡・盧江郡には
それ程人口増加がなかったものの、

呉郡・丹陽郡・予章郡は、
人口・人口密度共に
数倍に相当する顕著な増加が見られました。

例えば、孫策は、
会稽郡太守を自称しましたが、

これは、会稽郡
当時の揚州及び江南の
中心地的な位置付けであったからです。

つまり、ここを抑えた者が
江南の主だと宣言した訳です。

しかし、開発自体は、
既に頭打ちになっており、

前漢から後漢にかけての
人口の伸び方が、
洛陽近郊で学術都市の潁川郡と
似ているそうな。

九江も、既に、
秦代には黥布の根拠地で、
前漢時代には国でした。

対して、新興地域である丹陽郡。

ここで若き日の曹操
董卓討伐に際して募兵し、
陶謙もここで集めた兵を劉備に貸し、

大分時代が下った後も、
寿春で大規模な反乱を起こした諸葛誕も、
それに先立って親衛隊をここで募りました。

口の悪い高島俊男先生によれば、

ここはヨソから人が集まる郡につき、

「丹陽兵」というのは
丹陽郡出身というよりは、
ガタイの良い人の代名詞なんだそうな。

―斯様な次第でして、

戦乱の時代につき、

上記のような、
開発が進み、あるいは、
募兵まで行われる地域に、

鉱山があっても
製鉄所や鉄を監督する役所が
置かれない、

というのも、

逆に不自然な話だと思います。

おわりに

さて、漸く、今回の結論の整理に入れます。
余分な話を随分してしまい恐縮です。

『三國志14』等で遊ぶ際、
多少の考証の足しにでもなれば幸いです。

1、秦漢代の鉄官は、
採鉱から鉄器製作までを担った。

また、戦国時代の列強も、
似たような制度を運用していた可能性がある。

2、鉄官は、秦代には、少なくとも、
咸陽・成都・臨淄には置かれていた。

また、漢代の分布は、
三晋地域と南陽郡以北の地域に集中していた。

前漢における漢人の開発の南端が
南陽であった。

3、秦は鉄の生産から流通までを統制し、
払い下げは行わなかった。

用途は、主に農具であり、
有能な農民に貸与した。

4、秦は敗戦国の製鉄大資本から
本貫地を接収する一方、
元手を貸し付けて後進地域に当てた。

その開発の対象地域が蜀や南陽郡であった。

5、漢代になると、貨幣需要から
私鋳を認めた時代もあったが、
戦時には強力な生産・流通統制を行った。

6、後漢から江南開発が本格化するが、
サイト制作者は同地域の製鉄業の状況を
把握出来ていない。

7、ただし、会稽郡の事例では、
南陽郡の田畑開発技術が流入しており、
北来の名士との交流も活発であった。

また、江南は、戦災回避を目的として
大規模な人口流入が起きていた。

8、豪族は自給自足が強味であり、
さまざまな技術集団も抱えている。

9、孫呉の物動面での戦力は、
江南開発と山越の人員の吸収による
軍事力・経済力で成り立っていた。

10、後漢から三国時代の江南は、
会稽郡が中心地であったが
開発が頭打ちになっており、
丹陽郡等が新興開発地域となっていた。

郡県の新設もあった。

11、以上、7~10の理由により、
戦争面での需要もあることで、
江南では各地から製鉄技術が流入して
製鉄所が急増した可能性がある。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
角谷定俊「秦における製鉄業の一考察」
大川富士夫「御漢代の会稽郡の豪族について」
佐原康夫「南陽瓦房荘漢代製鉄遺跡の技術史的検討」
佐々木正治「漢代四川に鉄犂牛耕は存在したか」
趙匡華『古代中国化学』
柴田昇『漢帝国成立前史』
金文京『中国の歴史』04
落合淳思『古代中国の虚像と実像』
井波律子『中国侠客列伝』
柿沼陽平『中国古代の貨幣』
原宗子『環境から解く古代中国』
来村多加史『春秋戦国激闘史』
『万里の長城攻防三千年史』
石井仁『曹操』
東晋次『王莽』
高島俊男『中国の大盗賊・完全版』
『三国志 きらめく群像』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻
高橋基人『こんなにちがう中国各省気質』
宮崎正弘『出身地を知らなければ中国人は分からない』

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鉄の話を始めるにあたって【雑文】

はじめに

 

更新が滞り、そのうえ、
次の記事の投稿にもまだ日が掛かりそうなことで、
進捗状況について少々綴ります。

 

 

1、白兵戦(こまったとき)の鉄頼み

 

具体的には、
鉄についての御話を予定しています。

鎧の話の延長で素材の話ということで、
斜め上のベクトルでガッカリされた方も
少なからずいらっしゃるかと思います。

 

しかしながら、
前回の記事でも触れました通り、
後漢・三国時代の戦争と鉄とは
不可分の関係にあります。

 

ビスマルクの時代どころか、

古代の戦争とて
鏃も刀剣の刃も消耗品につき、

鉄であれ銅であれ、
金属がなければ話になりません。

 

それも、地球自体が鉄の塊とはいえ、

文明の利器として
マトモに使えるように加工するためには、

膨大な量の資源や動力を必要とします。

 

参考までに、

例えば、以下のような状況は
どうでしょうか。

 

三国時代の呉や蜀のような
分権的な政権で
軍事力の中核を成す豪族連中は、

自分達の領地から
自前で武器と人員を調達して
政権内で大きい顔をしています。

特に、孫権没後の呉なんか、
ひどいものです。

孫晧があれだけの専横をやったのも、
こういう弊害が背景にありました。

 

ところが、
名士や軍閥として皇帝様の足を引っ張る
コイツ等にも泣き所はありまして。

 

具体的には、
在籍する勢力が大敗して
連中が本領を失陥すれば、

食糧どころか
武器の調達・補充もままなりません。

 

領内の鉱山や製鉄所とて、
経済力や軍事力の大きな泉源のひとつです。

 

そのように考えると、

関羽のヘマによる荊州の失陥が
劉備政権にとってどれ程危機的な状況かが
垣間見えようかと思います。

 

単に劉備政権が領土を失って
直接的な軍事力・経済力を
喪失するだけではなく、

豪族の軍事力を背景にした政治力にも、

そして、劉備政権の、
本国・荊州と植民地・蜀という
支配・被支配の関係にも、

危機的なレベルの悪影響を及ぼす訳です。

 

 

2、どこまで続く理系学習(ぬかるみ)ぞ

このように、
鉄の生産が軍事力の決定的な要因
ということもあってか、

この分野の先行研究が多いことで、

理系がダメな素人の浅学では
一筋縄ではいきません。

 

以下が日本の学術研究の
生臭いところでもあるのですが、

論文が書かれた時代に盛んであった産業、
思想、政治、政争といった
天下国家な分野は、

大抵どの時代の研究でも
先行研究が多いのが相場に見受けます。

 

しかも、読んだ論文自体も、
技術史を扱っているとはいえ
当然ながら文系の内容の域を出ておらず、
土俵際で辛うじて残った心地。

 

とはいえ、専門家の方が
入門書で噛砕いて教えて下さった
初歩的な知識を以て
漸く或る程度理解出来るという、
我が身の不甲斐なさ。

 

そのうえ、サラッと記事を書くつもりで
こういうものを読んだのが、
当然ながら、そもそもの誤りでして。

 

具体的には、

製鉄のイロハは元より、
(先の記事にも炭素含有量についての理解に
誤りがありました!)

当時の製鉄所の立地や間取り、
炉、鉱石、銑鉄の用途別の種類、
鍛造か鋳造か、といった、武器の製造方法等、

整理すべき事項が続出した次第。

 

後、漢代の鉄官が置かれた地域
採鉱区や製造拠点というよりは
鉱石や鋳鉄、製品の
集積地という印象を受けますが、

【追記】

これは間違いです。
鉱山と木炭の生産地を兼ねた場所が多く、
生産地を抑えているのだそうな。

事実、郡の治所ではない所にも
置かれています。

【了】

分布自体は、
何かしらの参考になろうかと思います。

 

さらに、上記の事項も、或る程度は、
図解する必要があろうかと思います。

製鉄に対する予備知識が全くない状態で
文字だけ読むのも相当な苦行だと思います。

―ええ、サイト制作者からして、そうでした。

 

こんなの、
鉄鋼や機械関係の御仕事や研究等を
されている方以外は、

言葉自体が分からないか
イメージが沸きにくいかもしれません。

 

ええ、斯く云う無教養なサイト制作者がそうでして、

篠田耕一先生の御本で
鉄と武器の因果関係について
興味を持つまでは、

太平洋戦争で
日本は鉄やレアメタル不足に苦しんだ、

鉄は銅より硬い、―程度の御粗末な認識でした。

もっとも、今も、
それに少し毛が生えた程度ですが。

 

ああ、そういや、

ス〇イリムで、
ドワーフだのオリハルコンだの、
得体の知れない金属のインゴットを溶かして
武器を作ったり、

フォー〇・アウト4で、
家電のジャンクをバラして
銅やアルミニウムをせっせと回収しましたが。

 

後、仕事柄、
銅のゴツゴツした汚いインゴットや廃材は
毎日見てますよ~!

もっとも、製造部門ではありませんが。

 

実に恥かしいノイズは無視して下さい。

 

もっとも、ここ10年位は、
理系分野の初心者向けの分かり易い本が
数多く刊行されていることで、

個人的には、本当に助かっています。

 

最後に、中身の無い駄文だけでも何ですので、

御参考までに、
描き上げたアレな図解を掲載致します。

この図解も、間違いがないかヒヤヒヤしています。

 

趙匡華『古代中国化学』・篠田耕一『武器と防具 中国編』・菅野照造監修『トコトンやさしい鉄の本』・柿沼陽平「戦国秦漢時代における塩鉄政策と国家的専制支配」等(順不同・敬称略)より作成。

 

 

【主要参考文献(順不同・敬称略)】
佐藤武敏「漢代における鉄の生産」
佐原康夫「南陽瓦房荘漢代製鉄遺跡の技術史的検討」
趙匡華『古代中国化学』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
山口久和『「三国志」の迷宮』

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戦国時代から三国時代までの武器の形状の変遷(小記事)

はじめに

 

2年もやってる癖に
記事配信の段取りが安定せず恐縮です。

どうも、次のまとまった記事を書き上げるまで
時間が掛かりそうなので、

今回は予告程度に武器について少し綴ります。

 

 

 

1、意外に変わらない戦争の常識

 

さて、前回にも少し書きましたように、

鎧の話の中に鉄の話を混ぜ込む理由は、

それだけ鎧の製造技術に与えた影響が
大きいからです。

 

正確に言えば、
攻撃系も含めた武器そのものへの影響が
極めて大きかった訳です。

 

さらに言えば、

サイト制作者の考えとしては、

戦国時代と後漢三国時代の戦争の
最大の違いは、

鉄器の普及の程度だとすら思っております。

 

例えば、曹操は古の兵書に脚注を施しましたが、
あれは単なる古典趣味ではなく
実学の一環としてやったと思います。

何せ、軍府からの兵書の持ち出しが
機密に抵触する時代です。

―もっとも、昔の書物であれば、
機密以前に写本は随分出回っていたとも
思うのですが。

 

そう考えると、

当時の武将が孫呉の兵書を読むのも、

今で言えば、
売れっ子経営者の書いた
最新のハウツー本でも読むような感覚と
想像します。

 

ええ、間違っても、

文学は不良のやるものだと蔑まれた時代に
まさに国費での留学先の某国でやらかした森〇外に、

(そういう話が娯楽小説どころか
高校の現代文の教材になるのが
教育の不可解なところだと思うのですが)

文章上達の秘訣に「春秋左史伝を読め」と言われて、
(小説家志望者を薫陶する類の話ではないと信じます)

先生の人生で言えば、陸〇省で権謀術数に明け暮れるよりも
ド〇ツで恋愛とか青春する話の方がいいのに、と、

顔を顰めるような類の話ではなかろう、と。

 

事実、後漢・三国時代も、

戦国以来の伍や什で隊列を組んで
戦争をやっていましたし、

曹魏の弩兵・弓兵も銅の鏃を使っていました。

 

幕末の戦争のように、

火縄銃の射程距離外から
伏せ撃ちのミニエー弾を喰らって
浦島太郎になっていた訳ではありません。

 

一応、数百年前の兵書の内容が
そのまま実学として通用するという、

一定の凝り固まった常識の範囲で
事が動いていたように思います。

 

―もっとも、三国時代どころか、
火砲が登場するまでそれで事足りる訳ですが。

 

 

2、鉄器の普及が個人技を変える?!

 

ですが、そうした中でも、
少なくとも、個人レベルの白兵戦については、
かなり様変わりしていたようでして。

 

具体的には、以下。

例によって、アレなイラストで図解します。

 

学研『戦略戦術兵器事典 1』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

 

簡単に言えば、

鉄器の普及によって、
刺突系の攻撃が主流になった訳です。

そして、武器の形状も
それに特化するという御話。

モノの本には、
これによって戦闘も凄惨になったとあります。

 

例えば、互いに相手の首を狙い
鍔迫り合いになるどころか、

いきなり急所や下半身を
グサリとやれる成功率が高くなったからでしょう。

 

筆者はこんなブログやっている割には
武道の経験は殆どないのですが、

漏れ聞く話によれば、
幕末の数々の実戦の斬り合いで
有効だったのは突きで、

剣道でも、
熟達者が殺せるのもコレなんだそうな。
(危ないので初心者には教えないとのこと)

この辺りの話は、当然ながら、
経験者の方々の方が詳しいと思いますが、

余談として、あくまで御参考まで。

 

言い換えれば、

銅製の武器に対して
皮革製の防具は貫通を防げたようでして、

戦国時代までの攻防の相場は
恐らくその辺りだったと想像します。

 

そして、その構図を一変させたのが、
鉄の普及による
刺突系の攻撃に特化した
武器の形状の変化。

 

 

 

3、故事「矛盾」の裏側を邪推する

 

ですが、守る方も鉄の鎧を装着する訳でして、
まさに、「矛盾」という故事を想起させる
展開になる訳です。

 

さて、この「矛盾」という故事は
『韓非子』に出て来る御話です。

つまり、戦国時代以前―鉄の武器の使用が
かなり限られた時代です。

 

サイト制作者が邪推するに、

街頭で口上売りなんかやるような程度の
小商いにつき、

恐らくは、銅製の矛の話と想像します。

 

【追記】

とはいえ、
干将・莫耶の故事宜しく、

鉄鉱石に数百度程度の低温で
焼き入れ・焼き戻しを何度も行う、
所謂「百錬鋼」による掘り出し物という可能性も
否定出来ないのですが、

どの道、
矛が盾を綺麗にブチ抜いたところで、

法家連中のロジックでは、
貫通力を褒めるような殊勝な話にはならず、

詐欺の現行犯を咎める
哎呀な展開になるのでしょうねえ。

 

因みに、こういう手の掛かるローテクは、
資本力の小さい製鉄業者の製法。

加熱温度が低いことで不純物が少なく
また、炭素濃度が極めて低いことで、

堅くてよくしなうスグレ物。

 

とはいえ、こういう、
資本力=品質とならないところが
当時の技術の面白いところでして、

曹操が作らせた宝刀はこの製法。

 

【了】

 

 

で、盾が革製であれば、
先述のような話であれば
通さない可能性も少なからずありまして。

 

ですが、実際の戦争では、

こんな小賢しい理屈でカタが付くような
生易しい話ではありません。

 

大口の国や諸侯の軍であれば
消耗品と割り切って矛も盾も大量に買いますし、

買うどころか、
そもそもの原料の統制から
国策で行います。

 

まあ、中には、南北戦争の時に
モ〇ガンから廃銃を300丁も掴まされて
怒り狂ったリ〇カーンのような人もいますが、

ク〇ップはそうやって鋼板も大砲も売り捌き、
これに味をしめてナチと心中仕掛けて
軍産から足を洗い、

何処かの島国も、
必死に戦闘機やミサイルの開発を行う傍ら、
最新鋭の戦闘機も対空ミサイルも
大枚はたいて買う訳です。

 

少なくとも、戦国時代の斉や秦も、
各々の兵器のレベルでは矛盾しようが、
そうやって国営の軍需工場を経営する訳です。

しかも、売る方は、
特に春秋時代辺りまでは
諸侯の外商部門だったりする訳です。

【追記】

恐らく、春秋時代の領邦国家の外商部門が、

戦国時代には主家が没落して
土地や軍事力の裏付けを持たない
「純粋な」商業資本として独立し、

各地で土地を買い漁る展開になると
想像しますが、

中には徒手空拳から成り上がった者も
いたことでしょうし、

その辺りは、系譜の話も含めて、
もう少し裏付けを取った後、
後日大きな記事にしたいと思います。

ところが、農本主義の戦時体制を
敷きたい法家連中は、

その種のボーダレスな商業資本を、
蛇蝎の如く嫌い、

甚だしい場合は
罪人同様の徴兵で弾除け部隊(弓弩兵)に
ブチ込むのですが、

一方で、呂不韋のようなのが
各国で幅を効かせていたのも
戦国時代の国家のひとつの顔でした。

【了】

 

こういうレベルの話になると、

寅さん宜しく街頭の口上売りで
クレーム対応に追われるどころか、

壱岐君宜しく
キック・バックとして
多額の袖の下を掴ませる光景の方が
余程真に迫っていると言えると思います。

 

死の商人と軍隊の関係なんか、

いつの時代も、
表裏一体の関係とでも言うのか
人を呪わば穴ふたつとでも言うのか。

 

そして、矛盾どころか、

鉄製の武器が出回っても
皮革製の鎧を作り続けたのも
兵器史のひとつの側面です。

こういう話は漢代に止まらず、

後の時代になると、
明光鎧の形状の革製なんかも登場するそうな。

 

 

おわりに

 

何だか、例によって、
話がヘンな方向に飛びましたが、

 

結論として、

鉄の普及によって、
刺突系の攻撃が盛んになり
殺傷力が飛躍的に高まり、

鎧の製造もこれに影響されていく流れ
多少なりとも読み取って頂ければ幸いです。

 

 

【主要参考文献(敬称略・順不同)】
学研『戦略戦術兵器事典 1』
楊泓『中国古兵器論叢』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
岡倉古志郎『死の商人』

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鎧の部位、構造、及び兵科ごとの特徴

更新が遅れて大変恐縮です。

また、今回も長くなったことで、
以下に、章立てを付けます。

適当にスクロールして頂き、
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

 

 

はじめに

1、鎧の部位
1-1 どのような部位に分けられるのか?
1-2 冑
1-3 カッコいいものは、実は銅製?!
1-4 盆領
1-5 披搏
1-6 身甲の開口部
1-7 垂縁
1-8 膝裙
1-9 後漢・三国時代へのアプローチの一手法?!

2、鎧の構造
2-1 基本構造はいつ整ったか?
2-2、鎧の大雑把な作り方?!
2-3、可動部の甲片の繋ぎ方
2-4、甲片を繋ぐ紐とその特徴

3、兵科ごとの鎧の特徴
3-1 歩兵・騎兵・戦車兵の3区分
【雑談】飛び道具を扱う人々
3-2 歩兵の鎧の特徴
3-3 騎兵の鎧の特徴
【雑談】異文化交流は危険な香り
3-4 戦車兵の鎧の特徴

おわりに

 

 

 

はじめに

後漢・三国時代の鎧の話をする前に、
鎧そのものの基本を
もう少し掘り下げよう、という御話の2回目。

今回は、部位と構造について
綴ります。

 

 

1、鎧の部位

1-1 どのような部位に分けられるのか?

まずは、以下のアレなイラストを
御覧下さい。

楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

 

一応説明しますと、

自撮りをやってるおねえさんが
着ているのは、
前漢の斉王の墓からの出土品の
そのまた復元品です。

何処の国でも
古代の出土品の現物でこんなことやったら
エライ事になると思います。

―それはともかく、

 

甲片の編み方は魚鱗甲につき、
少なくとも武帝期の後半以降と
推測します。

さて、イラストの主目的である
部位の解説ですが、

篠田耕一先生
『武器と防具 中国編』
設定された区分を元に、

サイト制作者が
諸々の文献や字引から
それっぽいと思うものを書き足すという
少々横着な内容です。

それはともかく、

古代中国の鎧の部位は
大体このような区分に
分けられるかと思います。

 

また、この中でも、

魏晋―つまり、
大体、三国志の時代までは
存在そのものが怪しい部位
ありまして、

これは後述します。

それでは、まずは、
頭―日本でいうところの兜から
順に観ていくとしましょう。

 

 

 

1-2 冑

古代中国では、
頭を守る部位を「冑」といいます。

そう、時代劇や軍記物に出て来る
所謂、甲「冑」とは、
鎧・兜を意味する訳です。

別名、首鎧・兜鍪(とうぼう)。

 

さて、「冑」は部位のみならず、
頭を守る武具も意味します。

 

例えば、イラストにあるような皮冑

これは、戦国時代の戦車兵が
装備したものです。

具体的な武具の名称は、
当然ながら別に存在します。

 

また、盔(かい)や鍪(ぼう)は
金属製の兜を意味します。

 

因みに、鍪は元は釜の意。
兜と形状が似ていることから
派生したそうな。

 

戦国時代の雑兵が
陣笠を食事の器にしたという話が
何かの本に書いてあったと
記憶しますが、

戦国時代の士大夫が
鉄兜をこういう使い方をしたのかは
残念ながら分かりかねます。

 

 

 

1-3 カッコいいものは、実は銅製?!

 

また、後漢末から大体5世紀位までの兜は、

サイト制作者が出土品を見る限りは、
鉄製であれば甲片(小さい鉄のプレート)を
繋ぎ合わせたものばかりです。

 

専門用語で蒙古鉢形冑と言いまして、

兜全体を小さい鉄の甲片で繋いで
頭頂部に半球形の蓋を付けるタイプ。

 

つまり、鋳型を用いて
左右対称の大型のプレートを
接合したタイプのものは
観たことがありません。

 

NHKの『人形劇三国志』や
横山光輝先生の漫画等に出て来るような
鋳型で作って左右を接合するタイプの兜は、
恐らくは銅製だと想像します。

 

と、言いますのは、
この時代の製鉄技術から考えれば、

過去の記事で触れましたように、

 

炒鋼法という
当時世界最先端の
製鋼技術自体は存在したとはいえ、

大型で複雑な形をして
人命を預かるレベルの
相応の強度を持った製鉄製品を
鋳型で作る段階には
至っていなかったからでしょう。

 

駒井和愛先生の
三国時代の明光鎧は
銅製であった可能性が高い、
という学説についても、

技術史的には、恐らくは、

鎧の核となる胸部の大型の金属板を
鋼鉄で作ることが出来ないという
背景があったことと推測します。

 

 

 

1-4 盆領

 

首を守る、謂わば、
襟に相当する部位です。

別名:鐚鍜(あか)。
これは、偶然字引で見つけた言葉です。

 

さて、実は、この部位は、
戦車兵の鎧の大きな特徴です。

 

ですが、さるモノの本には、

イラストにある
前漢時代の盆領付きの筒袖鎧は
騎兵のものと紹介されています。

 

兵科あるいは兵種ごとの特徴については
詳しくは後述しますが、

あくまでサイト制作者の愚見としては、
戦車兵の鎧と思います。

その根拠として、

袖・盆領があり、
甲片の繋ぎ方が
武帝時代以前のものだからです。

つまり、戦車が匈奴との本格的な戦いで
弱点を露呈して戦力的に下火になる
以前のものと推測します。

 

 

 

1-5 披搏

 

次に、腕の上半分に相当する披搏。

兵科あるいは兵種ごとの
鎧の特徴については後述しますが、

この部位に即して掻い摘んで言えば、

歩兵や戦車兵の鎧には、
肩乃至腕を防護する機能があります。

 

例えば、イラストの中心に描かれている
前漢の鎧は歩兵用のものです。
―歩兵どころか、
王様の愛用のものの可能性がありますが。

また、後述する秦の戦列歩兵用のものには
肩甲が付いていますし、

イラストにもありますように、
戦車兵のものともなると、
腕の上半分が完全防御となります。

 

さらに、前漢に入ると、
歩兵の鎧にも
筒袖が標準装備となりまして、

時代が下って
三国時代の蜀や西晋の筒袖鎧へと
継承される流れになると想像します。

 

また、鎧の腕の下半分の部位
臂護(ひご)と言います。

 

ただ、この部位については、
サイト制作者の浅学故か、

少なくとも南北朝時代辺りまでは、
秦代の戦車兵の例を除いて
存在を確認出来ませんでした。

出土品は元より、
どの時代のを観ても、
戦袍の袖が剥き出しになっています。

 

 

 

1-6 身甲の開口部

 

鎧の定義ともなるべき部位です。

そうした事情もあり、
基本的な構造については後述します。

また、甲片の材質や繋ぎ方については、
後の回の話とします。悪しからず。

 

材質の話は、

製鉄が絡むことで
少々取っ付き難い内容ですが、
(サイト制作者もド文系!)

鎧を含めた武器の話をするうえでは
不可欠だとも思いますし、

一旦学び始めると、

少なくとも雑学としては
色々な分野に応用が効くことで、

ハマる要素もあろうかと思います。

したがって、ここでは、
話を鎧の開口部に絞ります。

 

結論から言えば、
色々なタイプがありまして、

不明な部分もあれば、
試行錯誤の痕跡もある、という具合。

 

後述する
秦代の戦列歩兵の鎧のように、

セーターのように鎧の裾から被って
首回りを紐で調整するタイプもあれば、

先述の前漢の
盆領付きの筒袖鎧のような
前開きのタイプもあります。

 

これまた、先述の前漢の斉王墓の鎧は、

右の鎖骨、脇、そしてその真下の腰と、
謂わばチャイナ服のような
切れ目のラインがあり、
この3箇所を紐止めします。

 

もう少し時代が下ると、

例えば、三国時代以降の両当甲は、

肩の部分にベルトがあり、
これと帯の上下で固定・着脱します。

 

残念ながら、
この時代のそれ以外のものは
開口部の詳細は不明です。

 

以下は、
あくまでサイト制作者の推測ですが、

蜀や西晋の筒袖鎧については

当時の俑を観る限り、

魚鱗甲という甲片の繋ぎ方に加え、
前漢に比して
前開きを止めていることから、

先述の前漢斉王墓の鎧と
同じタイプではないか
睨んでいます。

 

また、4、5世紀位になると、
朝鮮や日本では、
かなり大きめの甲片を接合した鎧
登場します。
―当然、技術は大陸のものと思いますが。

 

で、この種の鎧は、
両当甲に脇を補強したような形状で、
脇部分を蝶番で開閉します。

 

隋唐の明光鎧も
モノによっては
肩の部分にベルトが付いていることで、
こういうのは被るタイプと想像します。

 

さらに、もう少し時代が弱下ると、
宋代の歩人甲という鎧がありまして、

これは何と、
身甲・垂縁(裾部分、後述)が一体で
エプロンのような形状で、
背面を紐で縛るタイプでして、

我が国の胴丸やその前の大鎧の
先祖のようなものかもしれません。

さらに披搏部分はこれとは別にあり、
両腕が一体で
前面と背面に分かれるという形状。

蓑の肩部分のような形をしています。

 

 

 

1-7 垂縁

 

鎧の裾部分の部位です。

ですが、兵科によって丈が異なりまして、
股間や尻までスッポリ覆うとは
いかないようです。

この辺りの事情は後述します。

 

さて、変遷めいたものについても、
すこし触れます。

 

まず、殷周時代以前は、
鎧も戦車も
貴族階級の専有物のような状態です。

 

その理由は、
平地での戦車戦が主流の時代につき、

平民が構成員の大半を占める歩兵は、
謂わば添え物のような存在です。

したがって、
鎧≒戦車兵の鎧、という構図。

 

さらに、戦車兵は
車体の防護設備があることで
下半身への攻撃を想定していないためか、

身甲と垂縁が一体になった、
腰のくびれのない
ズングリした鎧となる訳です。

 

言い換えれば、

身甲と垂縁の区別のある鎧は、

御貴族様の戦車の添え物の
謂わば、随伴歩兵のような存在ではなく、

単独での作戦行動の可能な
独立兵科としての歩兵部隊の登場と
軌を一にするかと思われます。

 

つまり、早くとも
春秋時代の末期以降かと。

 

次いで、武霊王の胡服騎射による
騎兵の登場と相成りますが、

秦の重装騎兵、
つまり、鎧を着用した騎兵の存在は
戦国時代では珍しかったようで、

騎兵用鎧の登場については、
さらに時代が下ると思います。

 

騎兵用の鎧は、
大体秦も前漢も、
そして、三国時代の両当甲も、
似たような形状をしています。

 

歩兵より動き易いが
防護の死角も多い作りをしています。

垂縁も、歩兵用の鎧よりも
丈が短くなっています。

これも、後程図解します。

 

 

 

1-8 膝裙

 

残念ながら、
男子の証たる股間の部位は
サイト制作者の浅学につき不明です。
悪しからず。

まあその、

今日で言うところの
ファール・カップのようなものの
存在が確認出来れば、

性格の悪さから
ドヤ顔で図解していると思います。

 

それはともかく、
垂縁の下の部位
膝裙というのがあります。

字義から察するに、
膝を守るためのスカート、
といったところでしょう。

ですが、
どうもスカートにしては
スリットが大き過ぎて
露〇狂を疑わせる何かがあり、
―ではなく、

膝掛や腿当てに近い形状の模様。

 

もう少し具体的に言えば、

西洋の鎧のように、
膝関節の前面を
金属で隙間なく覆うタイプの
防具ではなく、

膝とその周辺の前面を
一枚の大きめの板で覆う
タイプのものです。

日本の戦国時代後期の
当世具足なんかに付いている
膝を覆うための板を御想像下さい。

 

この部位、
読者の方よりの貴重な情報や
むこうの復元品によれば、

前漢の騎兵が
髀褌(ひこん)という腿当てを
着用していた模様。

さらには、西晋時代の俑の中には、
足首まで魚鱗甲めいた装甲に
覆われているものがあります。

これも、さる読者の方の御指摘
気付いた点です。

慧眼の至り。

 

 

 

1-9 後漢・三国時代へのアプローチの一手法?!

 

以前、鎧関係の記事で、

兵器―この場合、鎧、の、
著しい技術向上の背景には、

必ず長きにわたる戦乱があると
書きました。

無論、サイト制作者の妄言の類ではなく、
楊泓先生の受け売りです。

 

例えば、魚鱗甲が登場した背景には
武帝の対匈奴戦があります。

また、始皇帝の兵馬俑の甲片と
前漢前期の出土品の甲片は、

前者が正方形に近く、
後者は長い短冊型をしています。

この技術革新を長期化した戦乱に
見出すとすれば、

秦末の反乱から楚漢戦争までの
動乱の時代に他なりません。

 

そして、このような思考パターンで、

膝裙の導入の契機となった
軍事的な画期を
その西晋時代の
少し前の戦乱の時代と仮定すると、

何と、三国志の時代の
終り頃と相成る訳ですワ、これが。

 

戦火を蒙った当事者としては
忌まわしい事実でしょうが、

三国志のファンとしては
何とも夢のある話で。

 

つまり、強気なことを言えば、

三国志の鎧には身甲や垂縁に加え、
膝裙付きの、
食前酒も食後のスイーツやコーヒーも付いた
フルコースな鎧があった!

―と、言えなくもありません。

まず、兵卒の鎧ではないと思いますが。

 

 

 

2、鎧の構造

 

2-1 基本構造はいつ整ったか?

 

一通り、部位について確認したところで、
次は、鎧の構造の話をします。

早速ですが、
以下のアレなイラストを御覧下さい。

楊泓『中国古兵器論叢』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

 

楊泓先生によれば、

古代中国の鎧の基本構造は
大体戦国時代に出来上がった
しています。

 

戦車兵、歩兵、そして騎兵の
3つの兵科が確立し、

各々の兵科ごとの戦術も
或る程度完成したことに起因すると
想像します。

 

また、時代が下るにつれて
鎧に色々なパーツが付いたり
甲片の繋ぎ方が複雑になったりしますが、

そうした鎧の進化の際の
最大公約数めいた御約束も、

この段階で出揃った、
ということなのでしょう。

 

サイト制作者が
他人様の褌で鎧の構造を図解するに当たって、

イラストにあるような
秦の歩兵用の鎧を事例にしたのも、

上記の点が理由です。

 

 

 

2-2、鎧の大雑把な作り方?!

 

それでは、まず、
鎧の作り方から見ていきます。

復元品を作ったり
イラストを描いたりする際、
一儲けを企むため
参考にでもなればと思います。

 

さて、最初に胸部正面の甲片を作り、
その左右に甲片を繋いでいき、
環状のものを作ります。

つまり、胸囲に相当する
横一列の環状の甲片を作ります。

 

それを、何本も作り、
上から順につないでいきます。

 

因みに、イラストでは
鎧の中央の縦一列の甲片の色
薄くしてありますが、
これは説明用の色分けです。

残念ながら、
シ〇レー・カマロのような
ツートン・カラーだった訳ではありません。

 

後、漫画や小説でも書く際、

3倍速く動ける設定で赤く塗ろう、
というような
何処かで聴いたような話の盛り方は、

当然ながら、
法務関係の話も含めて
自己責任で御願い致します、などと。

―それはともかく。

 

 

 

2-3、可動部の甲片の繋ぎ方

 

また、胸部と腹部の違いは、

胸部の甲片は、
鎧の内側で紐で縛って固定します。

また、上下の甲片が重なる部分は、
上の甲片を外(前)に出します。

 

腹部の甲片は、
鎧の外側にも綴じ紐を出し、

上下の甲片が重なる部分は、
胸部とは逆に、
下の甲片を外(前)に出します。

これは可動部であることを意味します。

悪く言えば、
遊びの部分があることで
多少腹が出てもキツくはならない訳です。

そのための機能かどうかは
分かりませんが。

 

また、こうした可能部は、
歩兵用の鎧の場合は、
肩甲―つまり、披搏にも同じことが言えます。

 

ただ、恐らくデメリットもありまして、
いくら可動部とはいえ、

そもそも肩甲があること自体、

腕の可動域が狭まることも
意味するのでしょう。

 

もう少し具体的に言えば、

サイト制作者の想像の域を出ませんが、

鎧を付けない秦の弩兵・弓兵と
肩の防護のない鎧を着用する
秦・漢・魏晋の騎兵を観る限り、

この時代の肩甲のある鎧では
可動域が狭いことで
弓が引きにくいものと想像します。
(特に、仰角で曲射を行う場合)

 

また、全長約64cmとあるのは、
種本の兵馬俑の鎧の丈だと思います。
色々なサイズがあるのでしょう。

因みに、当時の兵士の身長は
大体150cm弱。
戦国時代の趙の精鋭は平均171cm。

御参考まで。

 

 

 

2-4、甲片を繋ぐ紐とその特徴

 

最後に、鎧の甲片を繋ぐ紐についても
言及します。前漢の事例です。

まず、紐は麻縄です。

次いで、3つの特徴があります。

 

1、細いものを大量に使用。
鎧の全ての部位に言える話だと思います。

2、1、より細いものを3本撚ったものを
可動部位に使用。

3、撚られていない紐を1本乃至複数本を
重要でない部位―恐らく固定部位、に使用。

 

つまり、動きが激しく摩耗し易い可動部位には、
頑丈なものを使うという御話です。

 

 

 

3、兵科ごとの鎧の特徴

 

3-1 歩兵・騎兵・戦車兵の3区分

続いて、兵科ごとの鎧の特徴について触れます。

 

因みに、以下は
サイト制作者個人の意見に過ぎませんが、

兵科は国家や軍が法や命令で決めるもの、
兵種はもう少し抽象的・概念的なもの、

―という具合に考えています。

 

 

【雑談】 飛び道具を扱う人々

例えば、この時代で言えば、
同じ矢を扱う兵士でも、

密集隊形で弩を放つのと
伍の戦列で弓を射るのでは、

軍隊の中でも
運用の方法が異なるのですが、

そもそも、
弓弩を扱う徒歩の兵士は、
基本的に鎧を付けないという―。

 

とはいえ、厳密には、
秦代の兵馬俑には
鎧を着用して弩を構えたものも
あるのですが、

この国の場合、そもそもの前提として、

飛び道具を扱う兵士は、

商人や囚人等、
(農本)国家にとって
体制上、都合の悪い人々で
構成されています。
―要は、弾除けのための人員です。

 

さらには、

どうも、この種の人員の存在は、
古今東西を問わぬようです。

 

例えば、
『阿呆物語』なんか読むと、

ドイツの三十年戦争の時も、
火縄銃の銃手を「全滅小隊」と
呼んだそうです。
(先込めで装填速度も遅く、
暴発も多い時代です。)

 

で、こういう人員を
どこから連れてくるのかと言えば、

前線から少し離れたところに、
喰い詰めたあぶれ者が
群れて野営しており、
(勿論、自給自足略奪もします!)

こういうのを
「マロード」(確か、狼の群の意!)
とかいうそうで、

悪く言えば、
戦地の住民の癌ですが、

良く言えば、
対峙する軍や傭兵団にとっては
戦力の供給源になっている訳です。

 

要は、劉邦や李自成みたいな
所謂「余剰人員」
―やくざ者とも言いますが、を、

国家が集めるか
傭兵団が集めるかの違いです。

―武器と身分の関係について、
御参考まで。

【了】

 

 

 

また、ここで扱う
歩兵・騎兵・戦車兵の3種類は、

恐らくは、先述の「兵科」のレベルで
それぞれ異なった運用が
なされています。

さて、早速ですが、
下記のこれまたアレなイラストを御覧下さい。

楊泓『中国古兵器論叢』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

 

イラストにある各々の兵科ごとの鎧は、
秦代の兵馬俑のヘッタクソな模写です。

あれだけ強大な権力の王朝ともなれば、
自ずと軍隊の構造自体も
体系的なものになるようでして、

こういうもを説明するには
打って付けの事例となるかと思います。

 

さらには、少なくとも魏晋の頃までは、

歩兵・騎兵の鎧については
このイラストにあるような
特徴が保たれます。

 

ただし、戦車兵については、
前漢の匈奴との戦争以降は
兵科自体が廃れていきますが、

曹魏の時代にも
『三国志』の魏史に
訓練を行ったという記録があることで、

実態はともかく、
消滅した訳ではありません。

 

 

 

3-2 歩兵の鎧の特徴

 

それでは、各兵科ごとの
鎧の特徴の説明に入ります。

恐らくは、もっとも大量に
製造されたと思しき
歩兵用の鎧から観ていきます。

まず、部位で言えば、
身甲・披搏・垂縁に区分出来ます。

 

披搏は腕の上半分を防護する
肩甲が付きます。

これが前漢の武帝期以降になると、
筒袖のタイプのものも登場します。

 

三国時代は、蜀や西晋を観る限り、
筒袖タイプが主流だったのでしょう。

呉、と言いますか、南方の王朝は、
少なくとも東晋辺りまでは、
ヒラの兵士は鎧を付けません。

 

また、垂縁は、
丈は股間辺りまであります。

実は、この点は、
騎兵の鎧との大きな相違点につき、
御注目下さい。

 

 

 

3-3 騎兵の鎧の特徴

 

次いで、騎兵用の鎧。

 

胡服騎射の時代は、

騎射等、戦闘用のレベルで
馬を乗りこなすこと自体が
曲芸に近い間隔であった模様。

恐らく、秦の「重装」騎兵が
物珍しかったのも、
練度の賜物だったのかもしれません。

 

その一方で、
騎兵の用兵思想のひとつに、
軽量化による機動力の重視があります。

 

具体的には、
北方の騎馬民族の常套手段でして、

極力接近戦を避け、
距離を取って相手の疲弊を待ち、

頃合いを図って
狩りの要領で包囲して
弓で仕留めに掛かるという戦法を取ります。

 

匈奴との戦いで揉まれた
前漢の軍隊には、

鎧を着用して
敵軍を白兵戦で駆逐する騎兵もいれば、

この種の鎧を付けない軽弓騎兵も
あったようです。

 

それでは、騎兵の鎧の特徴ですが、

秦から魏晋の頃までは、

簡単に言えば、

披搏がなく、
垂縁が臍の辺りまでの
丈の短い鎧でした。

今風に言えば、

女性の下着の一種である
キャミソールのような形状。

で、前後二枚の板、
あるいは脇も覆われた胴巻を
肩のベルトなり紐なりで固定します。

 

 

 

【雑談】異文化交流は危険な香り

以前の記事でも
触れたと記憶しますが、

騎兵用の鎧の一種である
両当甲の「両当」は、

北方の遊牧民の衣類の一種。

ええ、そのキャミソールが
前後に分かれた形をした上着です。

で、この衣装を
軍事転用したのが両当甲。

 

欧州大戦の泥沼の塹壕戦で重宝した
トレンチ・コートが
戦後にファッションになったのとは
逆の話ですナ。

その他、六合帽だの、長靴だの、
色々入って来るんですワ。

 

そもそも、こういうものが
中原に入って来た背景に、

主に、後漢以降の遊牧民の強制移住やら
反乱やらのゴタゴタの副産物
文化交流も急速に進んだことがあります。

世界史で習う
北魏の孝文帝の漢化政策は、
そうした文脈の中で行われたものです。

 

―で、大抵の場合、

南下してこういうことをやった王朝は、
軍事的には弱体化し
馬の調達経路も閉塞し、

オマケに王侯貴族共は
人類の叡智を享受するどころか、

贅沢を覚えて堕落して
宮中政争に明け暮れ、

その結果、

次の時代には、

雨後の竹の子の如く現れる
北辺の凶悪な異民族に絡まれる、と。

 

これも、何世紀も連綿と続く、

華北界隈に足を踏み入れた異民族王朝が
ダメになるという
御約束のパターンです。

 

―ですが、その一方で、

こういう先進文明に対する憧憬が
原動力となり、

そもそもの物理的な距離やら身内の反対やら、

血の滲むような苦労の末に、
標準規格の浸透が進むのでしょうねえ。

 

そして、洒落た言語や文化や
卓越した化学技術も、

一方で、大人の事情で売るに売れない
基軸通貨国の国債や

高価な癖にブラック・ボックスが多くて
奇怪な事故ばかり起こす主力戦闘機も、

品行方正でコスト・パフォーマンスも良く
何年も在籍するような優良外国人選手も、

誰とは言いませんが
破格の年俸を満額受け取った癖に
怪我と不振で早々に帰国する
ダメ外国人選手も、

ヒト・モノ・カネの往来がある以上、

同時並行でイロイロ入って来るのが
浮世の摂理か。

【了】

 

 

 

さて、高橋工先生の研究によれば、

実は、ほぼこの時代である
4~5世紀のものとされる
朝鮮や日本で出土した鉄製の鎧
これに似た形状でして、

胸・脇・腰が覆われており、
脇の部分を蝶番で開閉します。

また、前面は鎖骨より上、
背面は背中の上半分がありません。

 

さらに分かり易く言えば、

女性の下着の一種である
ビスチェのような形状。

 

―ヘンな話ばかりしていますが、

本当にこういう形状をしているので
困ったもので。

 

まあその、
サイト制作者の変態趣味は否定しませんが、

ヒトの体形にフィットするということは、
それだけ無駄のない作りであることをも
意味します。

 

因みに、当時は、
日本・朝鮮の両地域共、内戦状態でして、
大陸からの輸入か模倣品と想像します。

 

さて、部位の話をしますと、

恐らく、披搏がないのは
騎射の射角や視界確保に有利なためで、

丈が短いのは、
乗馬の際に
鞍に干渉しないためだと思います。

 

とはいえ、
南北朝時代になると、

エプロン・タイプの両当甲は
前後の装甲板をつなぐベルトが
肩の少し上の辺りまで高くなり、

肩甲と身甲のつなぎ目が
前後の装甲板の中に収まる作りに
なります。

こういうタイプの鎧の騎兵は、
騎射をやらない
接近戦専用なのでしょう。

 

余談ながら、
秦代の騎兵用の鎧には
少し特徴があります。

残念ながら、イラストの方は、
縮小で潰れて見辛くて
申し訳ありませんが、

身甲部分の胸部と腹部で、
装甲の形が異なります。

具体的には、
胸部が立方体、
腹部が円柱になっています。

 

 

 

3-4 戦車兵の鎧の特徴

 

最後に、戦車兵の鎧について。

戦車兵は、

戦場の花形であった
殷周時代は元より、

戦国時代においても、

歩兵戦が盛んになったとはいえ
平地の決戦部隊として
重要な兵科でした。

 

それ故、例えば、
秦においては、

戦車兵には定期的に
技量検査が行われまして、

スコアが悪ければ
罰則の対象になりました。

 

また、馭者がやられれば、
左右の精鋭2名も
巻き添えを喰う訳で、

こういう実用的な観点からも、
万全を期した重装備になるのでしょう。

 

因みに、戦国時代の場合、
馭者の左右の戦闘員は、
歩兵用の鎧だそうな。

 

それでは、
鎧の具体的な機能の話に入ります。

まず、首を守る部位・盆領ですが、

これは、同じ戦国時代における
秦以外の地域の出土品にもありました。

 

また、前漢の前期と思しき
短冊型の甲片を綴った鎧にも
コレが付いていました。

 

で、愚見として、

盆領付きの鎧が
戦車兵のものと思う理由は、

弓を引いたり
馬を乗りこなす際に
視界を狭めるからです。

 

参考までに、『三国志』の董卓の伝に、

この御仁は騎射の際、
左右に射ることが出来た、

と、ありまして、

つまり、これは、利き腕の反対である
弓手(ゆんで)でも
射ることが出来るという離れ技。

 

ですが、言い換えれば、
真正面には馬の首があることで
射ることが出来ない、

―という御話なのでしょう。

 

恥かしい話、サイト制作者は、

馬も弓もやったことがないので
実務レベルでは分からないのです。

 

ただ、その、
仮に、騎射の際、
左右にしか射ることが出来ないとすれば、

例えば、高地から低地の敵を
俯角で敵を射る場合、

盆領があると視角を遮る訳です。

 

また、についても、

筒袖タイプもあれば、

イラストにある秦の戦車兵のように、
腕の外半分と手の甲が
覆われているものもあります。

 

サイト制作者の想像の域を出ませんが、

このタイプの鎧は、

甲片の形を観るに、
腕の可動域は
相当小さいように思います。

 

また、腰の部分の割れ目は
歩兵や騎兵の鎧より小さくなっています。

 

先述のように、

どういう形であれ、

必要条件として、

恐らくは、
戦車の車体からはみ出た上の部分が
甲片で覆われてさえいれば良い訳です。

 

余談ながら、
脚絆=ゲートルについても少々触れます。

裾を絞ったズボン=褌に
脚絆を巻くかどうかは、

兵馬俑を観る限り、
あまり兵科とは関係なさそう
思います。

あまり歩かなそうな戦車兵が
巻いており、

鎧を着た歩兵が
巻かなかったりしているからです。

要は、常時携帯し、
長い距離を行軍する際に
巻くのでしょう。

 

 

おわりに

 

最後に、今回の内容を整理すると、大体、以下にようになります。

 

1、大体、五体ごとに防護部位が存在するが、
  時代によっては防護されない部位もあった。

  例えば、臂護は南北朝時代の鎧にも確認出来なかった。

 

2、魏晋の頃までは、鉄製の部分については、
  小さい甲片を繋ぐものしか存在せず、

  大型の金属のプレートのあるものは、
  銅製の可能性が高い。

 

3、大体の鎧の身甲部分の製作手順は、
  最初に中央の甲片を作り、
  横の甲片を環状に繋ぎ、それを何列も縦に繋ぐ。

 

4、可動部(腹部・肩)は外側から縦の甲片を紐で縛る。
  また、上下の甲片の重複部分は、
  下側の甲片を前に出す。

 

5、固定部(胸部)の甲片の繋ぎ方は、可動部と逆。

 

6、鎧の甲片を繋ぐ紐は、接合部分の重要度によって、
  太い細いを選ぶ、本数を変える、あるいは、
  撚るか撚らないかを調整する。

 

7、歩兵用の鎧の特徴は、
  裾が大体股間を覆う位まであり、
  肩や腕を守る部位が存在する。

  前漢の武帝期以降は筒袖型が登場する。

 

8、騎兵用の鎧の特徴は、
  裾が臍辺りまでしかなく、
  後漢以降登場するごく少数の重騎兵を除いて、
  腕を守る部位もない。

 

9、騎兵用の鎧の特徴は、
  乗馬や騎射に支障を来さないための
  機能である可能性がある。

 

10、戦車兵の防護部位は上半身は多彩で、
  特に、袖への部位は戦国時代から存在した。

  一方で、下半身への防御はあまりなされていない。

 

 

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

楊泓『中国古兵器論叢』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』
駒井和愛『漢魏時代の甲鎧』
西野広祥『「馬と黄河と長城」の中国史』
学研『戦略戦術兵器事典 1』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』
峰幸幸人
「五胡十六国~北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給」
『東洋学報100(2)』
高木 智見『孔子』
来村 多加史『万里の長城 攻防三千年史』
朱和平『中国服飾史稿』

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実録?!五十歩百歩(小記事)

はじめに

鎧の話の続きを纏めている最中で恐縮ですが、

以前の記事に関して、
興味深い御本を見付けましたので、今回は、その御話。

 

 

1、罪と罰~敵前逃亡

 

当該の記事は、以下。

伍の戦闘訓練と連帯責任

要は、以前、当時の戦闘訓練の御話に事寄せて
孟子の五十歩百歩について、
怪しい考察を試みたのですが、

実は、サイト制作者がやる大分前に、

それも、遥かにマトモな方法で
この種の考察をなさっていた先生が
いらっしゃいまして。

 

その種本は、以下。

 

鶴間和幸先生の
『人間・始皇帝』(岩波新書)

 

早速、事の経緯について、
同書の当該の部分を要約します。

要は、今で言えば、
裁判の審議の記録が残っていた、
というようなお話です。

 

まず、事の起こりは、

統一戦争も大詰めの前221年9月、
秦の軍中で戦闘中の敵前逃亡が
発生したことです。

 

もう少し具体的に言えば、

前進すべき局面で
12歩(1歩=1.38メートル)後退し、
追撃してきた敵兵に弓を射た兵士
いました。

 

そして、この兵士に対して
どのような罰則を与えるべきか
焦点になる訳ですが、

実は、この案件自体が、
現場で決裁出来ずに
上級官庁に送られるという
由々しきものでありました。

 

そうした事情もあってか、

取り調べの過程で、
掴みどころのない
前線の実相が見えて来る訳でして―。

 

例えば、
12歩どころか、46歩逃げた奴もいれば、
孟子の言葉通り100歩逃げた「猛者」も
おりまして、

そういう不誠実な兵士ばかりかと思えば、

弓で殺された者や、
短剣で敵と渡り合って戦死した殊勝な者もいる、
という具合。

 

で、結局、
どのような沙汰が下ったかと言えば、

先に逃亡した12名には
完城旦鬼薪という罰則。

前者は、頭髪を剃らないまま
辺境の築城と防衛。

また、城旦は、
昼は見張り、夜は築城や補修。
要は、休みなしの重労働。

後者は、鬼神祭祀の薪を集める労役。
これも、ヤバ気なことを
やるのかもしれません。

 

次に逃亡した兵士14名には、
耐刑という罰則。

これは、髭を剃っての労役。

―ということは、
当時の成人男子の身嗜みには
髭は不可欠、ということになりますか。

 

つまり、戦場で逃げた歩数は
量刑の材料となった、
という御話で御座います。

 

 

 

【追記】弓矢の運用と隊列の間隔

 

1、弓矢の自己中な使い方

 

この逸話から、

当時の小規模戦闘について、
興味深い点をふたつ
垣間見ることが出来ます。

ひとつ目は、弓矢の運用について。

軍法に反して、
本来前進すべきところを
逃げながら追手に矢を放つ、

―という行為について、
もう少し踏み込んで考えてみます。

 

弓兵同士でびっしり隊列を組んで
一斉射撃を行うのではなく、

最小戦闘単位「伍」の枠組みの中で、

(まあ、厳密に言えば、
敵前逃亡を企てる時点で
枠組みから逸脱しているのですが)

 

近距離でやり合う歩兵の武器のひとつとして、

形勢や交戦距離に応じて
射ているように思います。

 

兵書の想定する模範的な内容を
現場の史料で裏付けることが出来る
稀有な事例だと思います。

 

―ただし、記録に残った理由は
触法行為という不名誉なものですが。

 

 

 

2、敵前逃亡のススメ?!

 

ふたつ目は、敵前逃亡の距離について。

軍法に問われた兵士の逃げた歩数は12歩、
つまり、高々17メートル弱。

小学校のプールより短い距離です。

ですが、ここで、
少し考えてみましょう。

前近代の戦列歩兵同士の戦いは、
兵士間の間隔をびっしり詰めて
隊列を作ります。

つまり、自分の伍の後ろには、
後詰の伍が臨戦態勢で
控えている訳です。

 

因みに、『尉繚子』経卒令によれば、
各両(縦5名×横5名、指揮官は両司馬)
ごとに色のことなる記章が配布され、

指揮下の伍の兵卒には
先頭から首→項→胸→腹→腰と、
記章を付ける位置が決まっています。

 

つまり、順番を抜かせば
瞬時に発覚するという
仕組みになっています。

 

実際、曹操の『歩戦令』なんぞ、
こういう奴は即刻斬れと
書かれています。

 

―で、このような管理システムを前提に、
部隊の間隔について
考えます。

 

以前、サイト制作者は、

『李衛公問対』を典拠に
伍の縦隊間の間隔を
唐代の2歩=3.11m、
としましたが、

これは、当然ながら、
かなり緩い場合の間隔です。

 

藍永蔚先生など
『春秋時期的歩兵』において、

当時の武器の長さやその運用から
5名(内、弓兵1名)分の間隔を
7.2mと算出しています。

 

いくつかの古代中国の
軍事関係の文献(日本語文献)も、
この数字をそのまま掲載していますので、
信憑性があるのでしょう。

因みに、サイト制作者は、
双方が短兵器で渡り合えば
もう少し距離は縮むと思います。

 

―それはともかく、

ひとつの伍の縦隊間隔を7.2mと仮定すれば、

先述の兵士が逃げた17メートル弱の距離は、
伍の縦隊ふたつ分を越えるものとなります。

これが、実際の戦場で
どれだけ危険で戦意を喪失させる行為かは
言わずものがな。

 

余談ながら、こういうのが頻発して
敵軍のなすがままになったのが、

日本の事例ですが、
戦国末期の徳川の大坂攻め。

喰い詰めた戦闘のプロの浪人部隊を相手に
戦争未経験の寄せ集めが挑んだ結果です。

島原の乱もこのパターンだそうですが、
特に戦国の末期は
こんなアウトローな逆転劇が
方々で起こっていたそうな。

まあその、
17世紀の日本自体が物騒な時代で、

有名な赤穂浪士の討入りなんかは
その名残でもあった訳ですが。

話を古代中国に戻します。

 

―さて、泣く子も黙る秦軍の軍中で
こういうことをやった連中は、

極刑を喰らったのかと言えば、

意外にやれなかったのが
この時代の面白いところでして。

 

当時の兵隊の質を考えれば、

命の相場が
建前よりは少しばかり高かった、
というような話なのかもしれません。

もっとも、北方での長城建設なんか
生き地獄そのもので、
重罪には変わりないのでしょうが。

 

【了】

 

 

2、対決?!司馬遷対現代歴史家

 

さて、この御話、
そもそもどういう本かと言えば、

1970年代以降の
書簡群の発見の成果を元に、

司〇遷に喧嘩を売ろう、ではなく、
始皇帝の生涯の実相に迫ろうという
野心的な御本。

先の軍法会議の御話は、
謂わばその副産物とでもいうような
逸話です。

 

鶴間先生によれば、

司馬遷も時代の人、人の子でして、

始皇帝を意識した武帝に忖度したり、
一方で、秦の時代との常識のズレもあったり、
という具合。

 

したがって、

一次史料
(リアルタイムで当事者によって書かれたもの)
である事務的な文書である
一連の書簡群と各種史料を照合すると、

『史記』の内容が
必ずしも正しいとは言えないとして、

当該の箇所について、

時には、例えば暦や字の用法、避諱、
天体観測の作法等のような
当時の慣習にも照らし合わせて
丁寧に指摘されています。

 

(こういうキメ細かい芸当が出来るのが、
研究者とサイト制作者のような素人との
決定的な違いだと拝察します。)

―後、始皇帝の姓名は、
正しくは趙「正」なんですと。

 

 

 

3、井戸端や書簡投げ込む水の音

 

さて、1970年代以降に発見された
書簡群の威力については、

サイト制作者も
種々の文献によって
何となくは知っていまして、

例えば、戦争関係で
明らかになったことで知る限りは、

目下、思い付くだけでも、

武人としての孔子像、
前漢時代の前線や後方での兵器の配備、
通信制度の詳細、等。

 

民政関係など言うに及ばずでして、

サイト制作者がこれまで読んだ
僅かな数の論文だけでも、

例えば、漢代の下級役人の
ヒエラルキーや生活等の実相が
かなり明確になって来ている、
という具合です。

 

無論、研究者の方々の視点からすれば、
こんなレベルの話ではないと思います。

 

そして、こういうものの成果が
中国史関係のゲームや小説等の娯楽にも
本格的に反映されてくると、

関連する娯楽そのものの概念が
劇的に変わる予感すらします。

 

さて、こういう一見華のない事務書類の威力
どの時代の研究にも共通する話ですが、

一方で、その出処については
各々の文化圏や時代ごとに
事情が異なるようでして。

 

例えば、古代中国の場合、

面白いことに、
こういう書簡が
どこから発見されたのかと言えば、
古井戸だったりしまして、

多いケースとしては、

役人が井戸に竹簡や木簡を投棄し、
水脈が枯れて程々の湿度が保たれたことで
残っているというパターン。

 

井戸が新しければ、
民国時代の軍閥のハンコでも
出土するのかしら。

夢のある話ですね、などと。

 

ただ、贋作も横行していることで、
出土状況やら入手経路やら、
あらゆる点からチェックを入れる必要が
あるそうな。

この辺りの事情は、確か、
柿沼陽平先生も
御書きになっていたと記憶します。

 

要は、現地で一山当てたければ、
仲買と結託して古井戸と偽書を用意すべし、と。

漢中近辺の古城を狙い、

諸〇孔明には女装趣味があった、とか、
あまり歴史の本筋に関係ない話であれば、

あるいは信じる人がいたり
買い手が付く、かもしれません。

―バレた後が怖そうですが。

 

 

【追記】

先日、確かNHKのBSで、

後漢・三国時代の成都から
漢中界隈までの道のりを
ドローンの空撮でたどるという
番組をやっていまして、

面白く観させて頂きました。

 

成程、秦嶺界隈の映像は想像を絶するものでして、

殊に剣門関など、
両側に絶壁のある隘路で
関所が行く手を阻むことで、

姜維が数万の兵力で
鍾会の軍勢10万を
足止め出来た難所だけのことはあると
感心した次第です。

 

一方で、肝心の諸葛孔明の
北伐の道のりについては、

陳倉攻撃の際に通った故道と街亭、
五丈原の映像があっただけでした。

 

言い換えれば、

趙雲が陽動部隊を率いたり
諸葛亮が五丈原に出撃した時に通った
当時の幹線道路であった褒斜道や、

魏軍と激戦を戦った
秦嶺界隈の魏軍の最重要拠点である
祁山堡近郊の映像がありませんで、

穿った見方をすれば、あの辺りは、
今以て軍事機密にでも
なっているのかしらと思った次第。

サイト制作者の想像と言いますか、妄想の類です。

 

【了】

 

 

 

おわりに

 

一応、結論をまとめます。

 

1、戦闘中の敵前逃亡は、
逃げた歩数が量刑の目安のひとつになった。

 

2、1970年代以降の書簡群の発見により、
既存の歴史研究の内容に
大きな変更点が生じつつある。

 

3、古代中国では、
井戸に行政文書を投棄したことで、
遺跡の古井戸から
書簡群が発見される事例が多発した。

 

 

【追伸】
これだけでは申し訳ないので、
次回掲載予定の説明用イラストも
載せておきます。

楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

これ以外に、もう1枚、あるいは2枚描いた後、
記事本文をまとめる予定です。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
鶴間和幸『人間・始皇帝』
柿沼陽平『中国古代の貨幣』
高木 智見『孔子』

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鎧の定義といくつかの特徴について

楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

相変わらず、
無駄に長くなったので章立てを付けます。

興味のある部分だけでも
スクロールのうえ御笑読頂ければ幸いです。

 

はじめに
1、追跡!魚鱗甲の300年
1-1、炎ちゃんに叱られる
1-2、魚鱗甲の登場
1-3、昔もあった、低コスト版
1-4 300年の意味とは?
2、鎧の定義と藤甲
3、実は違う?!甲と鎧
4、鎧も衣服?!気になる肌触り
5、鎧の収納性について考える
6、百聞に如く現物は何処(いずこ)
【雑談】野暮な時代考証を試みる
7、鎧の重ね着の事例
8、重ね着のパターンを妄想する?!
【雑談】騎兵の本質を考える
1、馬を取り巻く環境・要因
2、案外難しい騎兵の重装化
3、攻勢の軍隊は拙速を聞く
おわりに

 

 

はじめに

 

今回は、古代中国の鎧の
定義や特徴めいた初歩的な御話を致します。

 

―で、その前に恒例の見苦しい言い訳ですが、

最早悪弊と言いますか、

タダでさえ少ない持ち時間に加えて
中文の読解と説明用のイラストの作成に
時間が掛かり過ぎたことで、

取り合えず、
五月雨式にでも綴ることとします。

 

そして、最終的には、
後漢・三国時代の鎧について
詳しく触れたいのですが、

その前に、
何回かに分けて、
先の記事で出来なかった
鎧そのものの定義や構造・材質等について
整理することを試みます。

 

そもそもの構造以外にも、

兵科ごとの形状、
甲片(中国語:大体数センチ四方の板)の
材質・形状・綴り方、
製造・管理等が、

時代の状況と相俟って
複雑に絡み合うことで、

文献の内容を整理して
説明する側としても、

一筋縄にはいかんのですワ、これが。

 

しかも、肝心の後漢・三国時代の出土品と言えば、

ごく僅かな現物
数百年前の秦代の兵馬俑に比べれば、
デフォルメとすら呼べぬようなレベルの
ヘタクソな人形しか残っていないという
ブラック・ボックスに近い状況、
という・・・。

―もっとも、
その人形の制作者も、

サイト制作者のような
ヘッタクソな絵を描く奴に
言われたくはないでしょうが。

 

 

【追記】
こういうものを残す側にも言い分がある模様。

鶴間和幸先生によれば、

人の魂を移したようなリアルな俑を
作るべきではない、

というのが、
儒家の発想だそうな。

この時代の家屋の俑は
割合丁寧に作り込まれているので、
その違いの理由が氷解した心地です。

 

また、北朝時代の俑も
写実的で精巧なものにつき、
儒教の影響は小さいのかもしれません。

 

一方、秦の兵馬俑が作られた
目的のひとつは、
モノの本(タイトル失念!)
他の六国の怨霊から国を守るためだそうで。

さらに、あの握手を求めるように
手を差し出すヘンなポーズの理由は、

平和を求める証、などではなく、

その怨霊対策の要となる銅剣を
持たせるためのもの
なのだそうな。

 

剣が消失した理由は、

―詮索しない方が
夢があって良いのかもしれません。

現在とて、キロ単価700円もするので、
銅線だのマンホールだのが、
窃盗の対象になっていることにつき。

 

【了】

 

 

1、追跡!魚鱗甲の300年

 

1-1、炎ちゃんに叱られる

 

さて、その辺りの事情を邪推すれば、

例えば、西晋代の魚鱗甲の俑なんぞ、

サイトの製作者のような
妄想癖のあるファンが
如何に鉄製を期待しようが、

枕元で司馬炎の亡霊に、
「アレは皮甲ぢゃ、
ぼーっとゲーム(以下省略)」と叱られ、

ガックリと肩を落として、
「はあ、左様で。」となろうかと思います。

否定出来る程の材料がないからです。

 

その一方で、心の中で、

「そんなフェイクばかり使ってるから
アンタ等の王朝は短命で潰れたんだよ!
孔明先生に謝れ~!」

と、舌を出す、と。

 

 

1-2、魚鱗甲の登場

斯様な、
つまらない与太話をする理由として、

既に前漢末の段階で、
当時の鉄製の鎧(魚鱗甲)と同じ形状の皮甲が
出回っていました。

以前使用したイラストの再掲
恐縮ですが、

前漢末の魚鱗甲は、
以下のようなものです。

 

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略)等より作成。

呼んで字の如く、
小さい甲片を
魚のウロコのように綴ります。

 

因みに、それ以前の鎧は、
短冊状の甲片を縦3、4列に綴る、
あるいは、
垂縁(裾部分)が付いて
もう1列増えるタイプが
主流でした。

 

具体的には、
以下のようになります。

これも再掲で恐縮です。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略)等より作成。

因みに、左が歩兵用で、右が騎兵用。

 

で、魚鱗甲は、

武帝の対匈奴戦の戦訓を反映して
開発された
当時の漢王朝における
最新型の鉄製の鎧です。

 

 

1-3、昔もあった、低コスト版

そして、
これと同型の皮甲が
登場したということは、

早い話、

鉄製の鎧の製作技術を流用した、
謂わば低コスト版。

 

北方の前線に
最新式の鉄製の魚鱗甲を配備する一方で、

こういうのが内地の軍隊に
数多く支給されていた可能性があります。

 

その具体的な根拠として、

当時の東郡―河南省濮陽市の辺りの、
さる亭の亭卒に関する事務的な記録
残っておりまして、

それによれば、
皮甲の配備が記載されておりました。

 

また、別の地域からは、

当時の魚鱗甲の皮甲の現物が
発掘されたという次第。

 

以上のような事例から、

後世の政権、
―特に、深刻な物不足の三国時代の王朝が
「廉価版」の大量生産を
やっていないという証拠もなく、

それどころか、唐宋時代ですら、
革製の黒光鎧が出土したこともあり、
(この辺りは、多少、後述します。)

あの種の人形だけでは、
恐らく、大体の形状だけで
材質は判断出来ないものと想像します。

 

ですが、侮る勿れ。

皮甲は、
銅製の武器であれば
貫通しなかったそうな。

同時代の曹魏の鏃は銅製です。

 

―とはいえ、
こういうのも
ケース・バイ・ケースでしょう。

近距離で弩の直射を受けて
無傷で済むとは
到底思えません。

 

 

1-4 300年の意味とは?

さて、魚鱗甲をめぐる一連の状況について
少々堅く纏めるとすれば、

概ね以下のようなことが
言えるかと思います。

 

以前、サイト制作者は
軍事技術の開発期間について、

有事の1年は平時の10年に相当する、

という言葉を聞いたことがあります。

 

WWⅡの戦車や航空機等の開発競争等が
その一例でして、

目先の戦争に勝つために、

平時の経済体制では
到底工面出来ないような
予算や人員を投入し、

そのうえ、

潤沢な量の
血塗られた実戦「データ」を
恐るべきスピードで解析して、

その成果を兵器開発に
素早くフィードバックさせることが
出来たからだと思います。

 

そしてそれは、恐らく、
魚鱗甲その他の鎧の開発についても
当てはまる話ではないかと思います。

 

具体的には、

西晋時代の鎧の
甲片の詳細は不明ながら、

前漢末から300年近く
似たような綴り方をしていたことが
注目に値するかと思います。

 

特に、後漢時代の最初の100年は、

辺境や主要都市にこそ精鋭部隊を
駐屯させていたものの、

基本的には
地方の常備軍をほとんど全廃するような
軍縮の時代

 

そして、次の100年は、

主に西部の地方が
なし崩しに軍備を拡大したとはいえ、

相手は組織力のある
遊牧民族の強大な王朝ではなく、

暴発当初は
武器さえ所持していなかった
羌族の反乱軍です。

 

その意味では、

董卓の軍隊が並外れて強かったのも、

長きにわたって国防方針で優遇された
国軍中の最精鋭部隊だったからに
他なりません。

 

そして、こうした状況を受けて、

博学な先生方の中には、

王朝時代の軍隊の宿痾とも言うべき、
そして、どうも中共の軍隊をも
浸食していそうな

文を尊び武を卑しむメンタリティも
この時代に形成された
指摘される方もいらっしゃいます。

 

あくまでサイト制作者の意見ですが、
三国時代の軍事を調べるのが手間なのは、

理由のひとつとしては、

その直前の時代が
軍事的には空白に近かったのが
大きいように思います。

―つまり、兵站や武器等の事務的な史料が
残りにくかったものと想像します。

 

そして、延いては、

対外戦争の切り札として登場した魚鱗甲が、

王朝が乱立して抗争する
謂わば内乱状態の三国時代に入るまで
鎧の進化がそれ程進まなかったのも、

恐らくは、
こうした事情が影響しているように思います。

 

―というような、
ややこしい話を
少しづつ整理することで、

少しでも、
三国志の時代の実相に
近付くことを試みる次第です。

 

で、今回は、

差し当たって、
古代中国における鎧について、
定義や特徴といった御話を少々。

なお、中心となる参考文献は、

恐らく、古代中国の武具関係の
大抵の文献の主なタネ本であろう
楊泓先生の『中国古兵器論集』。

 

サイト制作者の場合、
灯台下暗し、でして、

在住する田舎県の最寄りの国立大学の、
それも、何故か理系の学部の
附属図書館にありました。

 

 

2、鎧の定義と藤甲

さて、まずは、
鎧の定義めいたものについて触れます。

 

件の楊泓先生によれば、

最低限の機能として、

胸の背中を防護する点を
挙げていらっしゃいます。

 

なお、原始時代は
材質は皮革や藤、木等でして、

機動性を重視して
四肢は守らなかったそうな。

 

で、その際、

鎧の原始的な形状として参考となるのが、
台湾の藤甲だそうで、

こういうのは
民族学的なアプローチとのこと。

そう、『三国志演義』において
孔明先生の南征で登場して、
油でコーティングしたのがアダになって
火矢で丸焼けになったというアレ。

 

そして、恐らく、
こういうものが
演義に登場した理由として、

『中国古兵器論集』を読む分には、

南宋時代の雲南地方で
藤甲の現物を見たという
記録が残っているからだと思います。

 

ですが、愚見を開陳させて頂ければ、

『中国古兵器論集』の図録に
掲載されていた写真は、

アレなイラストに描いたような
20世紀初頭に存在した
前開きのものだの、

現地で12世紀に使用されたという
まさに、日本の鎌倉時代の大鎧に
似たようなやつだの、

どこかしらの文化圏の手垢が付いたとしか
思えないようなシロモノです。

 

したがって、

この種の鎧の存在が
いつの時代まで遡ることが出来るのかは

残念ながら、
サイト製作者には分かりかねます。

 

もっとも、民族学の立場にしてみれば、

文献史料とは無縁の
周辺地域からの物証等が
数多あるのかもしれませんね。

 

因みに、この藤甲

骨格部分に藤蔓を使うのを
最低条件に、
形状も材質も色々あるようです。

 

まず、形状については、

冒頭のヘンなイラストにあるような
胸部をスッポリ覆うものもあれば、

エプロンのような形状で
背中は網羅するものの
脇がガラ空きのものもあります。

 

次いで、藤甲の材質については、

表面には藤蔓以外に、
皮や魚皮等を使うものもあります。

 

なお、油の塗装については
説明はありませんでした。

元ネタも分かりかねます。

 

もっとも、

黒や赤の漆の塗装により
防御力や防腐効果を高めるのは、

少なくとも戦国時代には
行われていました。

 

 

 

3、実は違う?!甲と鎧

 

その他、鎧の材質が
時代が下って皮革→銅→鉄と
進化するのは御承知のことと
思いますが、

面白いのはその呼称。

 

古来より、

 

皮革製の鎧は「甲」、
金属製の鎧は「鎧」、と、

 

呼ばれていましたが、

唐宋時代以降は
その区別がなくなり、

「鎧甲」となったそうな。

 

と、なれば、
北伐で蜀が鹵獲した黒光鎧も、

一応、金属製、
ということになるのかしら。

 

ですが、この話、
どうも正確なものとも言い切れず、

例えば、前漢の鉄製の鎧を
「玄甲」と呼んだりしています。

因みに、玄は黒を意味します。

 

 

 

4、鎧も衣服?!気になる肌触り

以下の章では、大体は、

古代中国における鎧の特徴について
いくつか挙げることとします。

 

ひとつ目の大きな特徴として、

鎧の肌触り対策について記します。

何だか、兵器の癖に、
衣料関係の
テレビ・ショッピングのようなことを
書いていますが、

実用とは、
得てして身近なものでもありまして。

それはともかく―、
篠田耕一先生によれば、
大別してふたつあるようです。

 

1、鎧の首・袖・裾等を布で裏打ちする方法。

2、鎧の中に厚手の戦袍を着込む方法。

 

この他にも、種々の文献によれば、
後漢時代には戦袍の中に鎧を着込むものも
あったようですが、

サイト制作者の調べた限りでは、
その詳細は元より、
古典や書簡、出土品等による典拠は
残念ながら不明です。

願わくば、
どなたか御教授頂ければ幸いです。

 

それでは、
1、首・袖・裾を布で裏打ちするもの、
について。

 

これは、無論、堅い部分で
皮膚を切るのを防ぐための措置です。

 

具体的には、例えば、
秦の、謂わば将校用(等級は不明)の
鎧でして、

暴騰のイラストにあるもの以外にも、
何種類か存在します。

今日で言えば、
防弾性のあるコートのような
感覚なのかもしれません。

 

また、この種の鎧は、形状としては
割合古い世代のものだそうな。

兵馬俑の戦列歩兵用の鎧を
最新型と仮定すれば、

この型の鎧も歩兵用につき、

春秋時代の戦車用の皮甲よりも
後の世代と考えられることで、

登場した時代を推測すれば、
戦国時代前期辺りまで
遡れるのかもしれません。

 

また、この鎧の別の特徴として、

主要な部分は、
材質は不明ながら、
金属で覆われています。

 

因みに、
冒頭のイラストにあるタイプのものは、
背中の金属部分が腹のそれよりも
やや高く(長く)なっています。

 

また、次に紹介する、
厚手の戦袍を着込むタイプの鎧にも、

復元品には、
首・袖・裾の先端が1、2cm程
布で裏打ちされていました。

 

次いで、
2、鎧の中に厚手の戦袍を着込む方法。

 

古代のみならず、前近代を通じて、
こちらの方がイメージし易い
かもしれません。

 

特に、騎兵の鎧の場合、

魏晋の頃までは
肩や脇腹が
剥き出しになっているものが
多かったのです。

厚手の戦袍が重宝したのは、
そうした事情もあったことでしょう。

 

 

 

5、鎧の収納性について考える

 

次に、モノによっては
折り畳む、あるいは、巻くのが可能、
という性質。

古典に出て来る、
甲を巻くという言葉通り、
或る程度の収納性があったようです。

 

ただ、鎧の構造から考えると、

サイト製作者としては、
モノによるのではないか、と、
考える次第。

 

詳しくは、
恐らく次回以降触れるかと思いますが、

具体的には、
以下のような理由です。

 

特に、古代中国における
戦列歩兵用の鎧は、

先述の無数の「甲片」を
縦横に繋いだものです。

 

通称、「札甲」と呼ばれるもので、

冒頭のアレなイラストで言えば、
右側の秦のヒラの歩兵用の皮甲。

主に、先述の、
2、鎧の中に厚手の戦袍を着込む、
というタイプのものです。

 

そして、ここが重要なのですが、

この種の鎧は、

横の列の甲片は固定されており、

さらには、各々の甲片が
漆で塗装されて堅くなっています。

 

したがって、

甲片が厚ければ、

恐らくは、
胸囲に相当する空間を
潰すことが出来ません。

つまり、巻くのも畳むのも出来ません。

 

―あくまで、サイト制作者の理解が
間違っていなければの話ですが。

 

で、具体的に、

どのような鎧が
畳んだり折ったりするのが
難しそうかと言えば、

 

これも、あくまで私見ですが、

例えば、戦国時代の戦車兵の皮甲
兵馬俑の戦列歩兵用の皮甲です。

 

特に前者は、
袖部分の各々の甲片が湾曲しており、

胴体の甲片の最大の長さが
26.5cmもあるという具合。

無論、漆で塗装されております。

 

その他、

時代が下ると、

折ったり畳んだりとはいかずとも
バラせるものが出て来まして、

例えば、宋代の歩人甲なんか、
少し後の時代に
各々のパーツが
兵書で図解されています。

 

一方で、唐代の紙甲のような
布・紙製のものもあれば、
(これも、鎧やベスト等、
色々形状があるので説明が難しいのですが)

漢代の札甲のように
時代が下って
甲片が小型化していることで、

その収納性に
或る程度融通が利きそうな
ものもあります。

 

もっとも、
実物の甲片の厚さが不明につき、

サイト製作者が
動画や写真等で観た復元品が
たまたまチャチでペラかった、

―という、
情けない話なのかもしれませんが。

 

 

 

 

6、百聞に如く現物は何処(いずこ)

 

では、肝心のその実物はどうかと言えば、

先述の『中国古兵器論集』によれば、

特に、漢代の兵卒用の鎧
―特に魚鱗甲
ともなると、

出土品が腐食した数珠繋ぎの甲片、
といったケースが大半で、

残念ながら、
完全無欠の綺麗な現物が存在しません。

 

その結果、

発掘物の甲片と俑、
文献史料等を照合して
全体像を推測する、

という方法にならざるを得ぬ模様。

 

もっとも、
これは1980年代の研究水準ですが、

ネットに掲載されている写真等を見る限り、
発掘をめぐる状況には
あまり変化はないように思います。

 

で、浅学なサイト制作者の場合も、
無い知恵絞って色々調べたものの、

特に、鎧の内側の構造や着脱の方法、
可動部も含めた形状の変化の程度等が
どうも分からず終いとなりました。

 

 

 

【雑談】野暮な時代考証を試みる

 

余談ながら、時代も近いことで、

ここで、公開中の『キングダム』について少々。

 

写真で観る限り、

山崎賢人さんの鎧の
甲片のサイズや綴じ方は、
前漢のものだと思います。

ここは、
当たらずもイイ線行っている、
と、言うべきか。

後、衛兵の鎧は
金属製で甲片が多く、

腕の防護も
袖状ではなく肩甲が付いているので、
魏晋時代ですら最先端の技術水準。

さらには、
甲裙(裾部分)が長く膝までありまして、

裾の形状は、
残念ながら南北朝まで下ると思います。

恐らく、こういう備品は、
向こうからレンタルしたものかしら。

 

とは言え、そもそも、
フィクションに突っ込むのは
野暮でしょうし、

本場の向こうの映像物にも
いい加減なものが多いのも
事実です。

 

一方で、映像で観れば、
そういうものが気にならない位に
迫力と説得力があるのでしょう。

 

あくまで、
モノの見方のひとつ、

あるいは、

鎧の細部や時代ごとの進化に
興味を持つための

契機のひとつとして、

御寛恕下されば幸いです。

 

 

 

7、鎧の重ね着の事例
  ~孫権の夏口攻略戦

 

今回、最後に挙げる鎧の特徴として、

二重の着用―重ね着について触れます。

 

これは、史書にも事例があります。

例えば、
サイト制作者が唯一知っているのは、
後漢時代―『三国志』の、
208年の孫権の黄祖攻めの時の御話。

『呉書』・董襲の伝にありまして、
概要を以下に記します。

 

まず、黄祖の軍は沔口を守備しており、

2隻の蒙衝(小型の軍用船)を横に並べて
碇を落して河川を封鎖していました。

なお、甲板には、
弩で武装した兵士1000名が待機。

 

対する孫権の軍は、

大型船(原文:大舸船―艦種不明)に
決死隊100名を乗船させ、

さらに、
この部隊に鎧を重ね着させます。
(原文:各將敢死百人、人被兩鎧)

で、この時の斬り込み隊長が、
猛将で名高い董襲と淩統。

 

結果として、
決死隊は矢の雨を掻い潜って
首尾よく敵船に乗り込み、

碇の縄を切って
河川の封鎖を解くことに
成功しました。

 

要は、ここぞという大一番で、
作戦の成否を担う
少数の精鋭部隊に支給された、

という御話です。

 

また、董襲の伝からは、

重ね着した鎧の詳細は、
金属製の可能性があること以外は
不明です。

 

 

 

8、重ね着のパターンを妄想する?!

 

先の話だけでは、どうも全貌が見ませんで、

春秋戦国から前漢末辺りまでの
鎧の形状から、

在り得る選択肢を
少々考えることとします。

まあその、

如何に史上の実例があるとはいえ
そもそもがムチャクチャな話なので、

こちらも相応の荒技で臨もうかと
思います。

 

さて、まず、重ね着する鎧の外側ですが、
四肢の可動性の高いものが考えられます。

 

サイト制作者としては、

冒頭のイラストにあるような、

肩甲がなく首元に余裕があって
着脱が容易な、

騎兵用の鎧が適していると思います。

 

それも、
その中に鎧を着込むことを考えれば、

胸囲のサイズも
一回り大きいものと想像します。

 

もっとも、こういう妄想も、

甲片の厚さや縛り方等によっては、

鎧の形状が
殊の外強く固定されている等して
用を為さないかもしれません。

 

逆に、重ね着が難しいパターンを考えると、
以下のようになるのかもしれません。

 

例えば、前漢の前開きの袖付き鎧や、
堅牢な袖の付いた戦車兵の鎧、

あるいは、
秦代以降の戦列歩兵が着用するような
肩甲付きのものは、

重ね着の際、
表側に着るものとしては
不適当かもしれません。

 

因みに、
前漢の前開きの袖付き鎧
以下のイラストの右側。

これも再掲で恐縮です。

篠田耕一『三国志軍事ガイド』・高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

当時はサイト制作者は
浅学にして知らなかったのですが、

右側のタイプの鎧は、

少し前の世代の
甲片が短冊状で盆領(襟)付きの現物

割合良好な状態で
発掘されていました。

 

なお、左側は、
先述のアレな俑の模写ですが、

大雑把に言えば
筒袖付きの魚鱗甲でして、

諸葛孔明が開発に携わったという
「筒袖鎧」も、
大体この形状なのでしょう。

 

―話を重ね着に戻します。

さて、
肩甲付きの歩兵用の鎧を
強引に重ね着しようとすれば、

例えば、
身甲(胴体部分)と肩甲を繋ぐ紐を外し、
一旦両者をバラすだとか、

色々とやりようはあるのかもしれませんが、

 

重ね着するものは、
やはり一回り大きいサイズ
なろうかと思います。

 

因みに、先述の冒頭のイラストに描いた
秦代の歩兵用の鎧は、

首回りに巻かれている紐を緩めて
頭から被るタイプです。

 

ただ、前漢の歩兵用の鎧は、

前開きの袖付き鎧(現物有)以外は
着脱や胴を開く方法等は不明です。

首回りの隙間が広いことで、
頭から被るタイプだとは思いますが。

 

秦代の兵馬俑は、
そうした着脱に関する細かい部分も
丁寧に彫られているところに
有難みがあるように思います。

 

―もっとも、統一早々
そういうことをやっていたから
滅亡も早かったのでしょうが。

 

その辺りの事情は、

現世の負債は後世の遺産、
そのように理解すべきなのかしら。

 

とは言え、泉下の始皇帝様は、

かつては
自分の国の木っ端役人であった
不良中年が建国した漢に
美味しいところを持っていかれるわ、

そのブレーンである後世の儒家連中からは
クソミソにけなされるわ、

オマケに、『キ〇グダム』その他の
知財関係の恩恵には預かれないわ、

こういうアホが勝手なことを喚く
怪しいブログで
玩具にされるわで、

何とも散々なことで。

 

 

【雑談】騎兵の本質を考える

 

1、馬を取り巻く環境・要因

色々やりたいテーマのひとつ
騎兵というのがあります。

具体的には、

易戦の法等の集団戦法から
装備・品種・産地・「燃費」、
農業における他の家畜との相関関係等に
至るまで、

整理したい項目が
いくつもあるのですが、

今回は、テーマに沿って、
騎兵の鎧について少々触れます。

 

と、言いますのは、
優良な文献に出会ったからでして。

 

したがって、以下は、

 

西野広祥先生の
『「馬と黄河と長城」の中国史』
(PHP文庫)

 

―の内容にかなり準拠します。

 

同書は残念ながら絶版ですが、
2019年6月時点では
ネット中古市場では捨て値の模様。

 

著者の先生の
馬そのものは元より、
対象となる地域(主にオルドス)
の地形や気候といった要因に対する
造詣の深さにより、

サイト制作者にとっては、

馬・騎兵やその用兵思想について
根本から考えさせられた
一書となりました。

 

 

2、案外難しい騎兵の重装化

 

因みに、
兵科ごとの鎧も、
後日の記事で触れたいと思うのですが、

秦代、漢代、そして、
魏晋以降の裲襠甲
(両当甲でも良いような気もしますが)と、

実は、騎兵用の鎧のコンセプトは
それ程変わりません。

 

色々な先生に言わせれば、

馬狂いの武帝以降の
漢の歴代政権が、

目先の食糧事情に窮して
馬の改良を怠ったことで
その積載量や速度等が自ずと頭打ちになります。

何だか、限られたエンジンの排気量の中で
武装やエアコン、足回り等のオプションを
遣り繰りするという
戦中の航空機や最近のEV車の話、

その他、『フロントミッション』や
『メタルマックス』といった、
機械いじりのゲーム等を
思い出した次第。

 

しかも、漢民族の乗馬のセンスたるや、

鞍や鐙(三国末~晋代に実用化)が無ければ
行動に大いに支障があるという具合で、

こうした点が騎兵の重装化の足枷
なっていたようです。

 

―もっとも、現実的には、
こういう部隊は
烏丸や鮮卑等の異民族が
下請けしたことでしょう。

例えば、劉備の軍もかなり早い段階で
異民族の騎兵を抱えていました。

 

 

3、攻勢の軍隊は拙速を聞く

とはいえ、
事はそうは簡単ではありません。

 

今日の感覚で言えば、

武帝が
競走馬タイプと思しき
血汗馬を求めた
謂わば、ハイ・スペックの外車狂い
だとすれば、

その真逆と言いますか、

軽のジープの大量配備で
連戦連勝したのがジンギス・カン
であったりする訳でして。

 

具体的には、以下。

元朝が、

粗食に耐えて悪路に強い小型の馬と
軽装騎兵による運動戦によって
ユーラシアを制覇したのも
揺ぎ無い事実。

 

しかも、

小型の馬で運動戦を展開するのは
昔からの北方遊牧民の
御家芸と来ます。

 

言い換えれば、

遊牧民族が
大型の馬に穀物を喰わせると、

行動範囲が極端に狭まるどころか
食糧不足で軍が破産するのです。

 

その意味では、
騎兵の装備や馬の質以前に、

漢民族と遊牧民族の
馬に対する知識量の差が
そのまま戦力の差として
如実に表れているそうな。

 

要は、重装騎兵は、

配備に手間暇掛かるうえに、
特に戦略的な運用面で
大きな弱点があるので、

勇壮なイメージとは裏腹に
中々具現化しない、という、
あまり夢のない御話です。

 

 

おわりに

例によって、結論を整理します。
概ね、以下にようになります。

 

1、前漢末の段階で、
  既存の鉄製鎧と同じ規格の皮製の鎧が
  製造されていた。

 

2、前漢末から三国時代までの300年弱に
  鎧がそれ程進化しなかったのは、
  軍事的な空白が影響している可能性がある。

 

3、古代中国における鎧の定義は、
  胸と背中を防護する機能である。

 

4、鎧を着易くするための工夫として、
  裏側や首・袖・裾等を布で裏打ちしたり、
  あるいは、厚手の衣服の上に鎧を着用した。

 

5、モノによっては、
  巻いたり畳んだり、
  あるいは重ね着も可能であった。

  しかしながら、現物が少ないことで、
  不明な部分が多い。

 

6、資本力や戦力の大きい勢力同士の
  激しい戦乱があると、
  技術開発の速度が上がる。

  魚鱗甲は対匈奴戦の産物であり、
  明光鎧や筒袖鎧といった
  三国時代に登場した新種の鎧も、
  そうした事情が背景にある可能性が高い。

 

 

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
楊泓『中国古兵器論叢』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』
駒井和愛『漢魏時代の甲鎧』
西野広祥『「馬と黄河と長城」の中国史』
学研『戦略戦術兵器事典 1』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』
峰幸幸人
「五胡十六国~北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給」
『東洋学報100(2)』
浜口重国『秦漢隋唐史の研究』上巻

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鉄と鎧にまつわるこぼれ話・与太話

はじめに

 

実は、伍の次の記事として、
什だの両だの、

野戦における
100名以下の歩兵戦の話をしようと
考えておりましたが、

サイトのアクセス状況を見るに、
鎧の話の需要があまりにも大きいことで、

まずは、このテーマで
まとまった話をするべきかと
思った次第。

 

今回は、差し当たって、
現段階で御話出来るものを
いくつか選った次第。

逸話程度で、
残念ながら仰々しい結論を出すような
大層話ではありませんので、

あくまで御参考まで。

 

 

1、古代中国の金属事情

 

当時の鉄、というよりは、金属自体が、
今日で言うところの
レアメタルそのものでした。

 

その理由のひとつに、

 

例えば、鉄の場合は、

特に、炭素の含有量の多い
銑鉄を経て鋼を作る場合は、

 

原料の鉄鉱石のみならず、

炉の温度を上げるための大量の酸素、
―を、送り込むための動力や労働力、

水や木炭等の資源を大量に
消費するという事情があります。

も銅で、
精錬には相当な手間が掛かりまして、
零細な資本が
安易に手を出せるものではありません。

事実、銅が武器の中心であった秦など、
用途や種類ごとに技術集団を編制して
生産体制を整える訳です。

 

 

2、鋼材の隠し味・炭素の含有量

因みに、炭素の含有量は
鋼材の質の生命線でして、

もう少し詳しく言えば、

コンマ何%の違いが、
武器ガッカリ農具かの分水嶺。

 

例えば、銑鉄は1.7%以上で4%程度。
これ位高いと固くてもろく、
そのままでは製品になりません。

 

そして、サイト制作者の理解が正しければ、

大体0.5%前後
或る程度硬度としなやかさの双方を備え、
このレベルになると農具に使えます。

恐らく、武器となると、
0.25%程度かそれ以下の濃度。

 

このレベルを追及するとなると、

戦国時代の段階では
銑鉄を加熱して濃度を調整するのは
難しいことで、

鉄鉱石を加熱・冷却して
何度も叩きまくり、
このサイクルを繰り返すという面倒な方法で
製作する訳です。

 

あの時代の出土品の名剣は、
ほとんど例外なくこの方法と記憶します。

 

さらに、刀身と刃で使う鋼材が異なるだとか、
まあイロイロ面倒な構造でもあり。

 

ええ、精巧な紋様の施されている剣にせよ、
金属製の甲冑にせよ、

御大層な墓から出て来るような
この種の出土品は、

少なくとも、
兵卒が帯びるようなシロモノでは
決してありません。

 

とはいえ、前漢の時代には、

炭素の含有量をかなりの精度で
コントロールすることを可能にした
「炒鋼法」という技術が確立されました。

 

コレ、実は、何と、

西欧のパドル法に先んずること1000年という
当時としては世界レベルの
ハイテク中ハイテクの技術でして、

そのベースには銅の精錬技術があるという。

 

で、その技術や生産体制を背景に
ガチで切れる汎用性のある武器―
環首「刀」の普及と相成ります。

もう少し言えば、
刀が剣に取って代わる訳でして。

 

 

3、墓と副葬品と曹操

余談ながら、当時の墓は
死者の死後の世界を体現するものでした。

 

例えば、資産家が大真面目に大枚はたいて
貴重な副葬品を添えて
キメ細かい壁画を彫ったりする一方で、

 

その反対の方々の中には、

大金の空手形を大書して
自分の墓に入れるといった
パンクな奴も少なからず居たようでして、

その辺りは、何とも、
良くも悪くも利に聡い
中国人らしいと言いますか。

 

ところが、『三国志』の時代になると
戦乱の長期化に伴い盗掘が横行し、
既存の倫理観をブチ壊します。

 

そうした事情があってか、

そういうのを散々目の当たりにした
魏晋の曹魏政権―曹操の政権
法令で厚葬を禁止します。

この御仁、当時は、
反董卓連合の略奪に
心を痛めるような真面目な人です。

 

また、陳倉で蜀軍を寡兵で撃退した
叩き上げ上げの軍人の郝昭なんか
散々盗掘をやったと居直る訳で、

果たして、
次の時代の司馬氏の晋も
この政策を継承します。

以前、博学な読者の方から
貴重な情報を頂きまして、

今回、後述する文献の裏付けを得るに至り、

成程、当時のコンセンサスだったのかと
改めて理解した次第。

 

さて、どうしてこんな話をしたかと言えば、

魏晋時代の出土品が少なく、
娯楽コンテンツの考証が
難しいことに対する
サイト制作者の愚痴に他なりません。

鉄の腐食に加えて、
時の政権のシブチン事情もあるようで。

 

因みに、最近の当人の墓の盗掘、ではなく、
発掘調査が話題になっていますが、

曹魏政権の墓の話の種本は、

蘇哲先生の『魏晋南北朝壁画墓の世界』。
(白帝社アジア史選書008)

 

誤植がチョコチョコみられるのが
難点ですが、

鄧艾が成都を落した時の兵は
羌族が中心だったとか
三国志関係の裏話がいくつか書いてあり、

その他、当時の社会事情について
色々と勉強になった本でした。

 

4、秦漢の鉄の国家管理

さて、鉄の生産水準は、

唐代の段階ですら
年間の徴税分の鉄が1200トンだそうで、
税率を1割と仮定しても
生産量自体が12000トンにしかなりません。

 

因みに、大体1万トンという数字は、
日本の大型製鉄所の日産の水準です。

 

したがって、戦国時代
前漢の武帝の時代以降は、

戦時中という事情もあり、

鉄器は生産から使用まで
厳密な国家統制の下にありました。

 

例えば、漢代は『塩鉄論』で有名な桑弘羊の時代など、

国家が製鉄業者に対して、

鉄官として製鉄やその管理に従事するか
資本を安値で政府に引き渡すか迫った訳でして、

そりゃ、外戚に擦り寄って献金して
担当官庁に口達者な論客をけしかける位
するわな、と。

 

また、の場合、
武器は元より、農具についても、

今日で言うところの
脱税を企てないような
真面目な生産者に貸与あるいは支給し、

摩耗しても払い下げずに
鋳潰してリサイクルする訳です。

 

さて、戦国時代の鉄の先進的な生産拠点は
三晋地域や斉の辺り。

 

秦の場合、というよりも、
どこの国もそうなのかもしれませんが、

限られた鉄を、実は武器ではなく、
農具の生産に重点を置いて
供給していました。

 

そして、占領した製鉄の拠点から
既存の大資本を締め出して官営とし、

これらの資本家を
後進地域―例えば、南陽郡
(当時の漢民族の南側のフロンティア)等の
開発に宛てます。

 

 

5、本当に鉄製か?!黒光鎧と明光鎧

で、恐らく、

こういう金属の脆弱な生産事情
時の武器―特に鎧の生産量にも
暗い影を落としていたものと想像します。

 

それらしき例え話として、

例えば、三国時代の北伐で
蜀軍が押収したという
「黒光鎧」という鎧がありますが、

 

その定義たるや、

この時代における最新型の鎧である
明光鎧の仲間などではなく、

 

材質はともかく
札甲の鎧の表面を漆で黒く塗装したもの
そう呼ぶのだそうな。

 

さらに救いようのない話をすれば、
唐宋時代の出土品に
皮革製の「黒光鎧」があった模様。

 

蜀軍が祁山で鹵獲した鎧が
全て皮革や銅とは言いません。

 

ただし、その一方で、

官渡の戦いの前の
飛ぶ鳥落とす勢いの曹操が、

「自軍の馬鎧は10両しかなく、
袁紹軍は300両保有している」

と、嘆いた話の背景を考えると、
鉄製の比重が高かったとは
言えないと思います。

 

因みに、南北朝自体ですら、
馬鎧は大国で1000両だとかその水準。

 

また、故・駒井和愛先生によれば、

「明光鎧」の「明光」は、
銅鏡が光り輝く様を言うのだそうで、
転じて、鎧自体が鉄製とは限らないのだそうな。

 

察するに、
物資不足の魏晋の時代なんぞ
言わずものがな。

 

因みに、『三国志』の時代から
数百年経った唐宋当時ですら、

どうも、鉄製の鎧が
末端の兵士の標準装備とも言えないようで、

「紙甲」と呼ばれる
布製でも割合堅牢な鎧が
大量に出回っておりました。

 

 

おわりに

おさらいとしては、

古代中国では金属自体が貴重で
大体、戦時下では国家統制下にあったことと、

そのような経済統制を通じても
どうも鉄製の鎧は
それ程出回っていなかったのではないか、

という御話で御座います。

 

次回以降、図解の改訂も含めて
以前やった鎧の話を
もう少し詳しくやることに加え、

鋼材等の話についても、
もう少し踏み込んでかつ平易な形
行いたいと思います。

 

さて、余談ながら、

確か宋代だか、
民間人の鎧の着用自体が違法行為でして、

昨今の革命権が背景にある
銃社会のアメリカでも、
同じく、民間人の防弾チョッキの着用は
違法なんだそうな。
(連中の場合は、都市部で乱射事件を起こすので
話が拗れている気もしますが)

 

もっとも、犯罪者が真面目に順守するとは
思えませんし、

つい最近でも、普通の民間人ですら
ふざけて防弾チョッキで撃ち合いをやった
という事件すら起きていまして、

こういうのも州によって法規が異なるのかとも
思います。

グラセフなんかやると、
ドンパチ必携のアイテムだったりしまして。

 

まあその、例外めいた話はともかく、

今回の記事とこれらの御話を見るに、
多少なりとも治安政策と人殺しの本質を
少しばかり垣間見たような心地がします。

 

【主要参考文献(敬称略・順不同)】
角谷定俊『秦における製鉄業の一考察』
『秦における青銅工業の一考察』
駒井和愛『漢魏時代の甲鎧』
柿沼陽平『戦国時代における塩鉄政策と国家専制支配』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
『三国志軍事ガイド』
田中和明『金属のキホン』
菅沼昭造監修・鉄と生活研究会編著
『トコトンやさしい鉄の本』
趙匡華著、廣川健監修、
尾関徹・庚凌峰訳『古代中国化学』
蘇哲『魏晋南北朝壁画墓の世界』

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