前漢から北伐前夜までの秦嶺越え

かなり長くなったので(13000字程度)、
章立てを付けます。

興味のある部分だけでも
御目を通して頂ければ幸いです。

 

はじめに
1、秦嶺界隈の地域事情
2、西城はどこにある?!
3、『孫子』・『六韜』の説く山岳戦
 3-1、孫武と一緒に山登り
 3-2、軍令と矛盾する実用知識?!
 3-3、窮地はカンフーで切り抜けよ
 3-4、どこか胡散臭い『六韜』
 3-5、香ばしい過去との対話、
    今ではアレなトンデモ用兵論
 3-6、詰まるところ、
    兵書の説く山岳戦のキモとは?
 3-7、或る愚昧の徒の『孫子』評
4、子午谷道と西城
 4-1、やはり幹道は褒斜道
 4-2、王莽の置き土産・子午谷道
5、劉備と曹操の漢中攻防戦
 5-1、蜀を狙う劉備と曹操
 5-2、陽平関の名物は鹿煎餅と盆踊り?!
 5-3、張郃の巴侵攻とその後の因縁
 5-4、「異民族」部隊の暗躍
6、漢中決戦のヤマ・定軍山の戦い
 6-1、話の見えない夏侯淵戦死の状況
 6-2 羹に懲りて膾を吹く知識人の用兵
 6-3、事態を収拾した人材の面々
 6-4、秦嶺の霧?戦場の霧?
    そもそも「史料の霧」?
7、経済戦争の一戦法・移住のススメ
 7-1、当時の戦争は人の奪い合い?!
 7-2、人材の層に一日の長?!
おわりに

 

はじめに

前回、桟道の話をしましたが、
今回はその続きと言いますか、

桟道のメッカ・秦嶺山脈を挟んだ
漢中-長安間の交通と戦争について
綴ろうと思います。

頃は前漢から北伐前夜迄。

―実は、恥ずかしながら、

桟道に話を絞って
1回の記事で『三国志』の話を終わらせようとか
妄想していたのですが、

色々調べているうちに
書きたいことがボロボロ出て来まして、

少々予定を変更することにしました。

したがって、読者の皆様には
大変申し訳ないのですが、

魏蜀両軍共にナマクラ用兵の北伐と
その対をなす鄧艾の「大冒険」の御話は
次回とさせて頂きます。
―先送りが続きますが、悪しからず御了承の程を。

序と言いますか、
当サイトのアクセス解析を行っていますと、

10分以上も掛けて記事を読んで頂ける方が
少なからずいらっしゃる反面、

閲覧時間が殆どない「直帰率」も
サイト開設当初より高くなっていまして、

察するところ、

更新の頻度があまりに遅いことで
かなりの読者の皆様に
無駄足を踏ませているという
救いようのない状態かと。

ナマクラなサイト制作者の
作業時間・執筆能力双方の不足により
本当に申し訳ない限りです。

 

1、秦嶺界隈の地域事情

さて、そろそろ本題に入りますが、
まずは、下記のヘボいイラストを御覧下さい。

金文京『中国の歴史 04』・篠田耕一『三国志軍事ガイド』・久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(下)」より作成。

このアレな地図は、
前漢から孔明先生の北伐の時代の頃までの
漢中・長安界隈の地図です。

前回の復習も兼ねて
この辺りの地形のその他の事情の
概要を挙げますと、

概ね以下のようになります。

 

1、蜀(現・四川盆地)の喉首にあたる漢中と
西域の玄関口である長安の間には、
交通の大きな障害となる秦嶺山脈が
立ちはだかっている。

 

2、漢中・長安間の交通路は、
渭水の水系(支流)に沿って南北に展開する。
桟道は、主にこのルートに存在する。

 

3、渭水の北岸は東西の移動、
渭水の南岸は南北の移動に適している。

 

4、夏から秋にかけて雨季があり、
その雨量は桟道を破壊するレベルである。

 

5、桟道は脆い道路であり、
維持には定期的な修繕が必要であった。
そのうえ、戦禍により、
頻繁に通行止めが生じた。

 

6、所謂「異民族」(羌族・板循蛮等)が
少なからず雑居しており、
戦争の際にはこれらの勢力の懐柔が
戦況を大きく左右した。

 

7、大兵力の運用・展開が難しく、
輜重にも大きな制約が生じた。

 

以上の点は、

孔明の北伐はおろか、

今回扱う漢代の内乱とそれに付随する
漢中の治所の移転
劉備と曹操の漢中をめぐる抗争にも
大きく影響しています。

 

2、西城はどこにある?!

残念ながら、
先日御亡くなりになられました。

県令や県長になったからといって、
若返ったりブーメランが飛んで来たり、
まして正直者になったりはしません。

いえ、むしろ、正直者どころか、
賄賂を取って私腹を肥やすのが
当時の(今もか)官僚の「常識」でしょう、

というのは、
当サイトとはあまり関係のない分野の
訃報ですが、

御冥福を御祈り申し上げます。

因みに、西城の読み方は、
「せいじょう」。

―それはともかく、

この地図を描く際に、
最初に基準にしたのは、
渭水・漢水の河川の流れでした。

ですが、これが曲者で、
参考文献によって微妙に形が
異なっていまして、
この折衷作業に苦労しました。

また、サイト制作者が自信がないのが
西城の詳細な位置。

ここは魏興郡の治所で、
長安直通で子午谷道の入り口付近に位置し、

北伐の緒戦の段階で
魏から離反を企てた孟達が守っていた
戦略上の要地なのですが、

 

 

【追記】

孟達は当時、新城郡(西城より南東)の太守。
訂正致します。

西城のある魏興郡の太守は申儀でして、

諸葛亮は北伐に先立ち、

申儀と孟達の不仲を利用して
申儀に孟達の造反をリークし
孟達の尻に火を付けましたが、

司馬仲達の対応が早く新城は陥落し、
申儀も公文書偽造のカドで逮捕を喰らいました。

要は、仲達にしてみれば、
危険分子を摘発して国境地帯を安定させた
という御話。

 

 

 

子午谷道の入り口付近で
漢水の北岸で長安の南にあるという点以外は
正確な場所を特定出来ていません。

したがって、
西城の位置に関しては、
他の拠点以上にアバウト
悪しからずです。

大体この位置だ、
という程度の認識で御願い出来れば幸いです。

これに因みまして、

サイト制作者としては、
当時の全県レベルの拠点と街道が記された
正確な地図が欲しいところですが、

浅学が祟って中々見つからず、
何方か当該の文献等を御教授願えれば
幸いです。

 

3、『孫子』・『六韜』の説く山岳戦

3-1、孫武と一緒に山登り

さらに、少し視点を変えてまして、

当時の山岳戦のイロハを
『孫子』や『六韜』(の和訳)
少々おさらいしようと思います。

まずは『孫子』から。

「行軍篇」では、

山を越えるには谷を進み、
高みを見付けては高地に休息場所を占め、
戦闘に入るには高地から攻め下れ、

と、説いております。

その理由として、

稜線を乗り越えるかたちで行軍すると
敵に発見され易く落雷に遭う、
とのこと。

対して、谷沿いの低地は行軍が楽で、
敵に発見されにくく、
オマケに水や飼料となる草を得易いそうな。

この辺りの事情は、
現在で言えば、
アウト・ドアの趣味を持つ方が詳しそうに
思いますが、

サイト制作者の拙い経験からも、

山歩きで山賊(戦前まではいたそうな)
に遭わなくとも、

山間部は平地に比して
天気が変わり易い上に、

落雷も数が多く迫力があり、
落ちるのも早い(近い)ように思います。

 

3-2、軍令と矛盾する実用知識?!

次いで、
「地形篇」にも該当する箇所があります。

例えば、

両側から岩壁が張り出して
急に地形が狭まっている地形では、

自軍が占領している場合には、
隘路に兵力を集中させて迎撃し、

敵軍が完全に制圧している場合には
手を出すな、と、
説きます。

一方で、
敵が占領しても
隘路を埋め尽くしていない場合には
攻撃を掛けよ、と。

 

リクツは分かりますが、

作戦計画がある以上
他の部隊との連携を無視出来ないことで、

時には、
数にモノを言わせて
不利を承知でやらざるを得ないのが
戦争だろう、とも思います。

そりゃ、現場に裁量があれば、

相手を騙したり怒らせたりして
隘路から引っ張り出したり
隊列を乱させたりするような
小細工を用いることが出来ましょうが、

無ければ、
「天佑神助ヲ信ジテ全軍突撃セヨ」で
自分の躯を味方に乗り越えて貰うしか
手立てがない訳で、

100名以下の下級指揮官が
なまじ兵書なんか齧ったら
命の遣り取りが馬鹿馬鹿しくなって
やる気を無くすだろうなあ、

と、穿った見方を。

逆に、
1万前後の兵を指揮して
神出鬼没の用兵で鳴らした
兵書オタクの曹操が、

大軍を指揮するや、

今度は赤壁・潼関・漢中と、
何度もヤバい戦をやらかしたことで、

特に、規模の大きい戦争ともなると、

兵書の理屈だけでは
対応出来ない領域があることを、
身を以って証明したと言いますか。

「帯に短し襷に流し」とは、
良く言ったものです。

 

3-3、窮地はカンフーで切り抜けよ

無駄話はこれ位にして、
話を山岳戦と『孫子』の説教に戻します。

同書には、
こういう教えもあります。

高く険しい地形では、
自軍が先に占領している場合には、
必ず高地の南側に陣取ったうえで
迎撃せよ、

と、説きます。

反対の場合は、
やはり手を出すな、と。

最後に、有名な「九地篇」から。

進軍が難渋する地形を
「泛地(はんち)」と言います。

因みに、訓読みで「うかぶ」。

孫武先生は、
この「泛地」に山林・沼沢を
想定しています。

で、こういう地形は、

足場が不安定で行軍に難渋し、

敵の奇襲や待ち伏せに対して
迅速な反撃が出来ないので、

一刻も早く通り抜けろ、
と、説きます。

さらには、「囲地」・「死地」、
というのもあります。

まず、「囲地」とは、

視界の効かない蛇行した山道を行軍中に
不意に盆地に入り込み、

辺りを見回すと三方は険しい山で
前方は両側に山が迫る、
という具合の地形。

こういう地形で怖ろしいのは、

仮に待ち伏せを受ければ、

包囲を恐れて
山道を引き返した際に、

前方の隘路から
盆地に雪崩れ込んだ敵の追撃を受け、

さらには、
自軍の後方の山道からも
敵軍が迫って来るので、

前後の二方向から攻撃を受け、
双方共、連携が取れないまま全滅を待つ、
という状況。

こういう場合は、
隘路を確保して
余裕を持って引き返せ、

と、説きます。

そして、この延長に「死地」があります。

つまり、囲地に迷い込んだ際、
前方の隘路が敵に抑えられた状況
指します。

こういう時は、
前面の敵に飛び込んで死中に活を得よ、
と、説きます。

最早、兵法とは呼ぶには値しない荒技で、
成程、「死」という字を使う訳ですね。

ジェット・リーのレベルのカンフーでも
齧っていれば、
あるいは生還出来るでしょう。

ですが、こういうのも、
どうも極論の笑い話とも言えませんで、

後述する、名将の張郃ですら、
恐らくは「囲地」や「死地」の類で痩せ我慢して
ボロ負けしていまして、

そこには、
兵書がドヤ顔で説くようなセオリー通りに行かない
山岳戦闘の難しさが
どうもあるようでして。

 

3-4、どこか胡散臭い『六韜』

『六韜』も、「烏雲山兵」という
山岳戦について触れている箇所があります。

この書物、太公望が周の王に
(存命中には存在しなかった)騎兵について
解説するという
何とも奇怪な内容ではありますが、

偽もまた真なりと言いますか、
ナントカと鋏は使いようと言いますか、

戦国時代の後期以降の
戦争の常識という風に考えれば
さもありなん、と。

それはともかく、
まず、軍隊は山の高地に陣取れば進退に不自由し、
低地に陣取れば敵に補足される、

と、山岳戦の前提条件を明示します。

そのうえで、

山の陽である南側に宿営した場合は
山の陰である北側を防備せよ、

山の陰である北側に宿営した場合は、
山の陽である南側を防備せよ、

と、説きます。

陰である北側、陽である南側に
屯集することであり、

これを、
(陰陽を兼ね備えた)「烏雲の陣」というそうな。

白黒の陰陽の話なのか
陣地の死角を守れという意味なのかは、
サイト制作者には分かりかねます。

一方で、

山の左である東側に陣を敷いたら
山の右である西側を防御せよ、

敵兵が山を登って来たら
正面に兵を配置して迎撃せよ、

交差点や深い谷あいの小道では
戦車で通行を遮断せよ、

と、説きます。

孤山に布陣した場合、
稜線を挟んで宿営と反対側に
防御陣地を構築し、

隘路は戦車で封鎖せよ、

という意味かと。

 

3-5、香ばしい過去との対話、
    今ではアレなトンデモ用兵論

因みに、古代中国の兵学思想の話として、

湯浅邦弘先生によれば、

『孫子』のような
理詰めの書物もあれば、

「陰陽流兵学」
(当時の言葉ではないでしょうが)という、

天文・気象・
敵陣から立ち上る「運気」の状態・易の卦等から
攻守の日時・場所の吉凶を判断し、
勝敗を事前に予測しようとする流派も
ありまして、

この流派も
大きな影響力を持っていたそうな。

―そういえば、

『太平記』で楠木正成の軍略に
口出しする公家も、
恐らくこれで勉強したクチに見受けます。

都を捨てろという政治に無感覚な楠公と
生兵法を振り翳す内弁慶な公家衆の
一方通行な軍議。

後世から見れば笑い話に過ぎぬとはいえ、

大局的な打開より
セクショナリズムと非科学が優先される光景は
国や時代を問わぬものなのでしょう。

―それはともかく、

『六韜』は理詰めな部類の兵書だそうですが、

当該の箇所を読む限り、
何だかケムに巻かれている気が
しないでもありません。

余談ながら、『六韜』については、

個人的には成程と思う部分もあれば、
正論ではあっても実行は難しいと思しき部分も
少なからずあります。

「烏雲山兵」の箇所は、
同書の中では
どうもトンデモな部類の部分に思えます。

サイト制作者の理解力が
欠如しているのかもしれませんが。

 

3-6、詰まるところ、
    兵書の説く山岳戦のキモとは?

さて、ここで少し整理しますと、

『孫子』・『六韜』が説く要点は、
以下の2点となるかと思います。

 

1、隘路の対処
2、高低差の対処

 

まず、1、隘路の対処、ですが、

『孫子』・『六韜』双方が説くのは、
山岳戦では
隘路の確保が肝要という点。

また、その対処については、
『孫子』の方が具体的でして、

不利であれば手を出すな、と、
説きます。

さらには、2、高低差の対処、については、

『孫子』は高地に布陣して
低地に対して迎撃せよ、と説き、

一方で、『孫子』も『六韜』も、
高地での移動の不利を説きます。

また、索敵については

『孫子』は、
稜線の移動は発見され易く、
谷あいの移動は発見されにくい、
と、説き、

『六韜』は、
高地の方が敵を発見し易い、
と、説きます。

発見され易いリスクを取る分、
監視や防御には有利である、と。

 

3-7、或る愚昧の徒の『孫子』評

サイト制作者の感想(妄想)
少し差し挟みます。

自身は捻くれた性分でして、

世間様の褒める不磨の大典を、

中身もあらためずに、

まして、
書かれた時代背景を度外視して、

馬鹿正直に有難がるのは
どうも気が進みません。

また、孫武のやった戦争自体も、

例え、当事者としては
悲壮な覚悟で心血を注いで行ったにせよ、

当時の時代背景や結果を考えると、

戦争倫理としてどうかと思う部分も
少なからずあります。

ただ、山岳戦の話については、

後漢・三国時代の戦争を見る限り、
かなり実情に即していたのではなかろうか、

というのが、
サイト制作者の率直な感想です。

 

4、子午谷道と西城

4-1、やはり幹道は褒斜道

これまで、秦嶺界隈の地域事情と
山岳戦のイロハについて
触れたことで、

この辺りの地形については
或る程度イメージし易くなったかと
思います。

次に、漢代における、
秦嶺越えの道路の使用状況の
変遷について
見て行こうと思います。

その種本は、

久村因先生の御論文
「秦漢時代の入蜀路に就いて(下)」

下記のサイトから
論文名か著者名で検索を掛けてたどれば、
PDFのファイルをダウンロード可能です。

ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

ここで、再度、
先程のインチキ地図を御覧ください。

先に挙げたものを再掲。

前回、秦代までの主要な幹線道路は
褒斜道(ほうやどう)で、

劉邦は入蜀の際にこれを焼き、
出撃には故道を通った、

と、説明しました。

その後、武帝から前漢末期までは、
褒斜道が修繕され、
再度、幹線道路として
使用されることとなりました。

 

4-2、王莽の置き土産・子午谷道

ところが、
王莽怪しい王朝を建国した折に
子午(谷)道が開削され、

これが一時的に幹線道路として
機能します。

そして、これを受け、

漢中郡の治所が、
南鄭から
長安と子午谷道を通じて直通である
先述の西城に変更されたとそうな。

もっとも、
更始2年(西暦24年)には
治所が南鄭に戻されており、

その後の赤眉の乱以降の
群雄割拠の時代における
公孫述統治下の蜀においても、

やはり南鄭が漢中郡の治所でした。

このことから、
新の滅亡後の秦嶺越えの幹線道路は
褒斜道に戻っていた可能性が高いそうな。

ところが、
再び子午谷道の存在意義が際立つ時代が
やって来ます。

2世紀に入って羌族の大反乱により、

この界隈―というよりは、
長安以西の地域が
大々的に戦禍に見舞われまして、

事も有ろうに赴任した太守が
2名も殺されるような
カオスな事態に陥ります。

この折、幹線道路も、
褒斜道が不通になったことで
子午谷道がその代用となり、

治所も南鄭から西城に移った模様。

で、そのゴタゴタが収まるや、

治所・南鄭、幹線道路・褒斜道の組み合わせに
戻されたという御話。

その後、子午谷道は、
蜀漢の北伐で使われてからは、
唐代までは余り利用されなかったそうな。

因みに、その幹線道路である褒斜道を
焼き落としたのは
正義の味方の常山の趙子龍。

祁山に出撃した本隊の擬装行動につき、
当然ながら敗退し、

殿を務めてこの措置を講じました。

さらには孔明先生がこれを修繕して
最後の戦いに臨む訳ですが、

この時期は、魏と蜀の双方が、
モグラ叩き宜しくこの界隈のルートを
互いに探り合うという

戦時下の異常な状態であったことは
言うまでもありません。

 

5、劉備と曹操の漢中攻防戦

5-1、蜀を狙う劉備と曹操

こうした秦嶺越えの道路の
使用状況の変遷の中で、

軍隊の秦嶺越えの
特筆すべき事例として、

劉備と曹操の漢中をめぐる攻防戦について
考察を行おうと思います。

さて、このテーマは、
『三国志』における
劉備と曹操の一連の抗争の
ハイライトとも言うべきもので、

当然の如く、
他のサイトさんでも多々扱われており、

中には詳細な地図を用意して
興味深い考察を行っていらしゃることで、

こういうのは(当サイトはともかく)
色々なサイトさんを見てじっくり考えた方が
為になるかと思います。

ただ、当サイトの
このテーマでの売りとしては、

学術研究の成果も踏まえて(つまみ喰いして)
少々広い視野で捉え直すことにあるかとも
思います。

他人様のフンドシで相撲を取ることに
何ら変わりはないのですが。

 

それでは、内容の吟味に移ります。

まず、初動の曹操の漢中攻めですが、

事の経緯は、

曹操は赤壁で敗れたことで
中国統一を断念し、
西進を開始したことが発端の模様。

この敗戦は、物語の名場面のみならず、
中国史においても大きな転換期であったそうな。

一方、勝者の劉備も、

曹操(おに)の居ぬ間に
益州を洗濯しようとして
内応者の手引きで押し込み強盗を企て、

入蜀こそ長江経由で簡単に叶ったものの、

漢中の支配者である張魯をあしらってから
母屋の主の劉璋に牙を剥いた後は、

苦戦の末、
214年に益州の制圧に成功します。

殊に、要地の雒城攻略には1年、
成都の攻略には3ヶ月も掛かりまして、

このレベルの籠城戦になると
餓死者も多数出たことと推察します。

以降の展開ですが、
以下の地図を御覧下さい。

 

『正史 三国志6』巻末地図を加工。

〇で囲んだ数字は、
行動の順番を意味します。

潼関で馬超・韓遂を破った曹操は、
さらに西へと触手を伸ばし、

地図中の⓵となりますが、

215年3月には、
故道経由で
漢中の張魯攻めに着手します。

なお、この時の先鋒を務めたのが、
恐らく、以後北伐までの
一連の漢中の戦いの主役であろう張郃

校尉からの叩き上げです。

 

5-2、陽平関の名物は鹿煎餅と盆踊り?!

さて、この曹操の漢中攻めは、
実はかなり危ない戦いでした。

張魯方の主戦派の張衛が
大軍を掻き集めて陽平関に籠ったことで、

睨み合いが続いて
曹操軍の食糧が尽きます。

―ですが、ここで寄せ手にとって、
冗談のような天祐が到来します。

数千頭の野生の鹿
張衛の陣地を突き崩し、

オマケに曹操軍の高祚の部隊が
誤って敵陣に紛れ込み、
軍鼓を鳴らして軍勢を掻き集めたことで、

張衛の部隊が混乱
自壊したという御粗末な戦闘経緯。

何故この季節に食糧が尽きたかと言えば、
あくまで想像の域を出ませんが、

桟道が壊れる雨季まで戦争を続ける予定は
無かったからだと思います。

後述する劉備との抗争でも、
全軍の撤退は5月につき。

 

なお、この時曹操は、
漢中の守将に夏侯淵・張郃等を残して
鄴に帰還します。

劉備の足場が固まっていないうちに
蜀を取れと息巻く司馬仲達に対して、

「人の欲にはキリがない」と
もっともらしいことを言ったそうな。

何のことはありません。
対呉戦線がキナ臭かったからです。

 

5-3、張郃の巴侵攻とその後の因縁

さて、漢中を制圧した曹操軍は
巴の板循蛮の懐柔にも着手するのですが、

劉備がこの勢力を軍事力で放逐します。

で、恐らく、この撤退を支援したのが、
先述の張郃
地図上の⓶の動向です。

張郃は巴の宕渠近郊で
張飛の率いる迎撃部隊と対峙し、

這う這うの体で漢中に逃げ帰ります。

『蜀書』の張飛の伝によれば、

両軍の対峙は50日に及び、
張郃の部隊は前後の連携が取れずに壊滅し、

10騎前後の側近と共に
馬を乗り潰して南鄭に帰還したそうな。

隘路の制圧が鍵を握る山岳戦そのものの模様。

また、不利な状況で睨み合いを続けたことで、
それを強いられた事情があったのでしょう。

―つまり、友軍の撤退援護。

そして、何の因果か、
この時漢中に収容された板循蛮が
略陽県界隈
(地図で言えば、天水の少し北)に移住し、

後年の北伐では、
どうも当時の庇護者である張郃と
共闘したらしい、と。

その後、216・217年には、
漢中界隈では
目立った軍事行動はなかったものの、

劉備配下の法正は、

217年の段階で夏侯淵や張郃の
行政官としての力量不足を指摘し、
漢中の奪取を進言します。

加えて、軍事面での具体的な筋書きを書いたのが、
黄権だそうな。

共に元・劉璋配下で、
謂わば、地元を知り尽くした土着の行政官です。

 

5-4、「異民族」部隊の暗躍

果たして、次に動いたのは劉備側でして、
218年3月に、
張飛・馬超の部隊が下弁に進駐します。

余談ながら、
地図中に武都がふたつあるのは
誤植ではなく、

劉備と曹操が互いに大人げなく
自分達の支配領域が
ホンモノの武都郡だと言い張るという
面倒な事態になってまして。

で、曹操側が自分達の武都郡の治所を
下弁とまして、

これを蜀の軍閥の義弟の酔っ払いオヤジが
不法占拠した、と。

当然、曹操は迎撃部隊を差し向けまして、
この指揮官が後にケチで身を滅ぼしたという
曹操の弟の曹洪
―早い話、古強者です。

それはともかく、
戦闘の結果、張飛・馬超は
この地を追われ、漢中に撤退します。

蜀軍はこの戦いで
配下の呉蘭・任夔(じんき)を失いまして、

殊に呉蘭については、
陰平(武都の南西)の氐族の強端が
その首を曹操に送ったそうな。

馬超の配下には勇猛な羌族がおり、
曹操側には氐族がおり、という具合で、

「異民族」の陰が
少なからず見え隠れします。

また、巴を攻撃した張郃もそうですが、

恐らく足場の固まっていない地域への突出は
相当なリスクを伴うものでして、

下弁に進出した張飛も、
ひどい負け戦であったと推察します。

ですが、この種のリスクを伴う
無謀とも取れる果敢な運動戦こそが、

実は、恐らくは、
難所である秦嶺越えと
漢中あるいは長安制圧のキモであり、

後年の北伐と鄧艾の奇襲との対比
それを物語っているような気がして
なりません。

そして、この動きを受けて、
曹操が鄴から長安に乗り込んで来ます。

これが、地図上の⓸。
曹洪の下弁での勝利から半年後のことです。

この頃には、孫権との関係は安定していまして、
劉備との抗争に
本腰を入れたということなのでしょう。

 

6、漢中決戦のヤマ・定軍山の戦い

6-1、話の見えない夏侯淵戦死の状況

そして、劉備も動きます。

翌年の頭には
陽平関経由で南鄭の西の定軍山に出撃し、

漢水と西漢水の間にある武興
(南鄭のすぐ西)にも兵力を展開して

曹魏の夏侯淵の本隊と対峙します。
地図上の⓹。

実は、この定軍山の戦い、
『魏書』や『蜀書』における
当事者の伝を整理しても、

徐晃や趙雲等の各々の手柄話ばかりが目立ち、
時系列的にも戦局の推移としても
要領を得ません。

もっとも、列伝なんぞ、
そもそもそういうものでしょうが。

ただ、漠然と見えて来るのものも
ありまして、
それは、以下の2点です。

 

1、主将・夏侯淵の頓死により、
一時的に軍中が混乱した。

2、無数の山岳戦闘が起きたが、
片方を総崩れに追いやるレベルの
決定的なものは無かった。

 

やはり注目すべきは、
1、の夏侯淵の戦死です。

劉備の軍が曹操軍の逆茂木に火を放ち、
夏侯淵が自ら反撃に出たところを
黄忠の部隊が討ち取った模様。

ですが、夜襲を受けた張郃の陣地に
援軍を送り、
夏侯淵の本陣が手薄になったところ狙われた、
という話もありまして。

要は、各人の伝の話に
あまり共通性がないことで、

空白部分を補完する史料がなければ
正確を期す復元作業自体がどうも無駄に思えます。

さて、夏侯淵本人については、

急襲が得意とする反面、
曹操が用兵が軽率だと警鐘を鳴らしていた
そうですが、

サイト制作者の愚見としては、
曹操の宿将なんか、
大体こんなメンタリティに見受けます。

合肥の戦いの張遼や南城の戦いの曹仁も然り。

笑える話として、

南城の戦いで曹仁に救われた牛金が、
石橋を叩いても渡らない司馬仲達の軍の
先鋒大将として活躍しています。

コイツは寡兵で周瑜の陣地に突撃を掛けた奴で、
それを救い出した曹仁も率いたのは数十騎。

【追記】

 またしても、訂正記事。

 牛金が300名の兵で孫権軍に突っ込んだのは、
 (赤壁の戦いの後の)江陵の迎撃戦の折。

 因みに、相手は周瑜の先鋒部隊数千。

他にも何かやらかしていそうで怖いのですが、
苦笑しながら御指摘頂ければ幸いです。

 

 

 

 

6-2 羹に懲りて膾を吹く知識人の用兵

対して、用兵に慎重に慎重を期した北伐なんか、

俄かに兵権に手を出して
腰の引けた知識人同士の

大駒を惜しんだヘボ将棋の末の
千日手・持将棋の如しで、

両軍共、兵隊の命以上に
膨大な量の食糧と時間を無駄にした挙句、
当事者の死亡によって幕引きとなりました。

その内容も、

周到な準備の割には、

孔明も司馬仲達も
本気で勝つ気があるのか怪しいような
ナマクラな用兵ぶり。

その癖、戦功を焦るスケベ心
両人ともしっかりと持っているという。

この辺りの詳細な話は次回とさせて頂きます。

まあその、言葉は悪いですが、

頭がどこかイカレてなければ、

兵卒の心を掴んで
機動力で主導権を握るような戦争なんか
出来なかったのが、

恐らくは当時の実情だったのでしょう。

後世の人間の身勝手な感想としては、

夏侯淵の場合は、
無念ではあろうが、同時に、
当時の軍人としては
本懐であったようにも思えます。

 

6-3、事態を収拾した人材の面々

当然、この頓死のツケは高くつきましたが、

軍中の混乱に際して、
これを郭淮や杜襲といった知恵者
曹操に対して沈着な張郃を後任に推薦することで
事なきを得ます。

因みに、この時、

護軍として
暫定的に組織内の調整の権限を
与えられたのが曹真

この人は曹操の一族の古強者で、
後の孔明先生の好敵手。

また、郭淮についても、
もう少し触れておきます。

夏侯淵戦死の直後に
渡河戦における絶妙な用兵
劉備の追撃を断念させまして、

後の曹魏の対蜀戦線における
主将の一角に喰い込む片鱗を見せます。

因みに、当人の略歴ですが、

当時の高級官吏登用制度である
高廉を突破した
ほとんど最後の世代と推察します。

北方の出身で羌族に対する理解が深く、

地域の利害に積極的にかかわった
当時の古き良き名士を体現したような
人材です。

個人的には、異民族対策も含めて、
秦嶺界隈における
曹魏の屈指のキーマンと思います。

余談ながら、曹魏の終わり頃からは、
いつしか地域の実情から目を背けるのが
地方官や名士の「流行り」になっていたようで、

そんなことやってりゃ、
誰が皇帝になっても国が滅びるわなあ、と。

 

6-4、秦嶺の霧?戦場の霧?
    そもそも「史料の霧」?

さて、次に、
2、の無数の山岳戦闘について。

劉備が陳式等の10程度の部曲を編成して
魏軍を攻撃したり、

趙雲が空城の計で曹操の大軍を破ったり、

徐晃が蜀軍を谷に追い落としたり、

―といった具合に、

何度となく激戦が戦われたことは
間違いなさそうですが、

その記録から透けて見えるのは、

「谷」だの
「閣」(架け橋の意)だのと、
急峻な地形を想起させる文字
踊っておりまして、

中々、大兵力を展開して
短期間で雌雄を決するような
大規模な野戦にはなりにくかったのかしら、
という印象を受けます。

したがって、
両軍が相応の措置を講じたことで
主将が戦死した位では
戦線が動かなかったという次第で、

これを見た曹操が、ついに、
斜谷、つまり、褒斜道経由で
陽平関に出馬しまして、
これが地図上の⓺。

とはいえ、

在陣すること高々2ヶ月で
全軍を長安に撤退させます。

もっとも、
それまでの激戦や
夏侯淵の戦死を考慮すると、

曹操の陽平関着陣以降、
目立った攻勢がなかったという
大人しさも不気味なもので、

思うに、

陽平関への出馬自体が、
撤退戦の陣頭指揮を
視野入れたものである可能性も
ありそうな。

しかし、転んでもタダでは起きない曹操。
この漢中争奪戦には、

実は、トンデモナイ裏の顔がありまして。

 

7、経済戦争の一戦法・移住のススメ

7-1、当時の戦争は人の奪い合い?!

4年にわたる劉備と曹操の漢中争奪戦、

結論から言えば、
土地を手にしたのは劉備、
住民を手にしたのは曹操、という、

奇怪な結果に終わりました。

で、ほとんどもぬけの殻の漢中を
制圧した劉備は、
屯田をやる羽目になりまして。

というのも、

占領地の住民を
根こそぎ移住させるという悪智恵を
曹操に授けた敏腕行政官
少なくとも何名かいた模様。

以下の地図は、
その移住の状況を示したものですが、

これは役人の手柄話で
明らかになったことにつき、

その実態は、
もっと規模が大きかったものと想像します。

『正史 三国志6』巻末地図を加工。同書各巻の当時者の伝の内容を参照。

数の規模としては、
例えば漢代は1県辺り20万程度の人口でして、

そのうえ、『三国志』の時代は、
戦乱が続いて激減し、
慢性的な人手不足の状態が続いていました。

そもそも劉備とて、
新野から江夏に逃亡を図る際に
領民を随行しました。

【追記】
江夏ではなく江陵だそうな。
何ともツッコミどころの多いこと。

―もっとも、
戦闘員と非戦闘員の区別が曖昧で、
一族郎党を含めて
部曲ごと引っ越したからそうなった、
という側面もあるのかもしれませんが。

まあその、人間狩の目的として、
悪く言えば、
異民族に3K(死語ですね)をやらせて
労力の不足分を補う訳でして、

孫呉が山越相手にやったのも
この類。

で、特に北方では、

これにたいする積年の恨みが
八王・永嘉の乱の伏線にもなるという
社会的な動向でもあります。

さて、こういう状況下で、
当時、史書に記されているだけでも、
8万余だの
5万(人ではなく)「部落」だのの規模の人間が
曹操の支配地域に移住するとなると、

漢中や巴の界隈に
ゴースト・タウンが急増する状況が
容易に想像出来る訳でして、

このマンパワーが、
曹魏の主要都市の開発や屯田に
充当された訳です。

無論、それ以前から
許昌等の根拠地で
大体的に屯田を行ったノウハウが
活かされたことと想像します。

 

7-2、人材の層に一日の長?!

さらには、
これを画策した魏の行政官共も
したたかなもので、

早く移住した者には恩賞を出す、
などとやり出す始末。

担い手の具体的な姓名を挙げますと、

張既杜襲といった
恐らくは曹操が門地を問わず
能力主義で抜擢した
実力派の行政官でして
(張既なんか寒門の出身で郷里でもイロイロあったそうな)、

有能かつ
異民族対策も老練な顔触れでもあり、
適材適所と言えます。

こういう地均しの延長に
郭淮のような裏方の人材の
活躍の素地がある訳でして、

北伐についても、
存外、こういう人材の層の違いが
明暗を分けた部分もありそうな。

以後、劉備の蜀漢は、
漢中での予想外のトラブルに加え、

引き際を欠いた
対呉交渉のこじれが祟って
関羽と荊州の双方を失い、

漢魏革命のドサクサ
(譲位後、献帝の死亡説が流布)に紛れて
皇帝を僭称して方々の名士の反発を買い、
(先述の張某や杜某のような人材から
そっぽ向かれる訳です)

関羽の報復と荊州奪回を兼ねた外征も
失敗に終わり、

極め付けの事態としては、

劉備の没後に
事も有ろうに蜀漢の支配地域でも
大規模な反乱が起きるという具合に、

一転して危機的な状況に直面しまして、

この国家未曾有の有事に際して、
例の孔明先生の双肩に
国運が委ねられる、という、

物語も大きなヤマ場を迎える展開と
相成ります。

 

おわりに

例によって
結論を整理しますと、
概ね以下のようになります。

 

1、漢中―長安間の山間部・秦嶺は難所で、
夏から秋には雨季がある。

2、渭水の北岸は東西の移動、
南岸は南北の移動に適している。

3、種々の「異民族」が雑居している
地域でもあり、

戦争にも統治にも、
これらの勢力の懐柔が不可欠であった。

4、古代の兵書によると、
山岳戦は隘路の確保と
地形の高低の利用がキモである。

5、複数存在するうちの
最も主要な幹線道路は褒斜道であり、

戦禍等で使えない場合は、
子午谷道がその代替となった。

6、曹操は最初の漢中攻めで食糧不足に陥り、

劉備との抗争では、
長期間の対峙の末、撤退した。

なお、双方共、
本隊の壊滅や根拠地の失陥はなかった。

7、ただし、曹操は漢中・巴の住民の移住を
積極的に行い、
支配地域の開発に充当した。

 

【主要参考文献】(敬語省略)
久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」
石井仁「曹魏の護軍について」
並木淳哉「曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次「北伐」」
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
坂口和澄『もう一つの『三国志』異民族との戦い』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
金文京『中国の歴史 04』
加地伸行編『諸葛孔明の世界』
浅野裕一『孫子』
林富士馬訳『六韜』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻

カテゴリー: 経済・地理 | 2件のコメント

古代中国の幹線道路のパターンその3・桟道

はじめに

更新が遅々として進まず、
読者の皆様には御迷惑を御掛けして大変恐縮です。

さて、今回は幹線道路の3つ目のパターンである
桟道についての御話。

戦国から前漢までと後漢・三国時代の
二本立てとなりまして、
今回は前者の方。
三国志のファンの方、悪しからず。

 

1、当時の科学技術の粋?!
  桟道とその敷設の区間とは?

で、この桟道ですが、

簡単に言えば、
絶壁に沿って作られた木造の橋桁の道です。

向こうの国には、
「桟道」以外にも
「鳥道」という文字通りブッ飛んだ言葉もあります。

また、前回触れました直道・馳道とは異なり、

急峻な地形に
無理やり道路を開削するパターンにつき、
存在する地域も限られます。

具体的には、
サイト制作者の知る限りでは、

蜀、及び、咸陽―南陽郡の直道の区間の山間部
ふたつの地域。

まず、南陽郡自体は
(始皇帝没後の)前漢時代は
漢民族の開発のフロンティアの南端
であったとはいえ、

そもそも始皇帝の地方巡察や
旧楚の王都である江陵近辺への侵攻ルートである
馳道の終点のひとつ。

さらには、今回のメイン・テーマである
咸陽・長安から漢中までの桟道も、

後述するように
秦の領土拡張の過程で国家戦略として
大々的に整備された経緯があります。

蜀・四川盆地は沃野であり、
銅や塩等の国政に必要な貴重資源も眠る土地。

つまり、ポンコツ道路をデッチ上げてでも
物資や兵隊を往来させる価値があった訳です。

 

2、沃野を守る天険・秦嶺山脈

では、その蜀とはどのような地形をしているのかを、
現在の地図で確認すると、以下のようになります。

『グローバルマップル 世界&日本地図帳』p12を加工。

地形など、
河川の流れは変わっても山の形までは
早々変わらないものでして、

特に、蜀の喉首である漢中から
咸陽・長安までの道のりは、

2、3000メートル級の山々で構成される
秦嶺山脈が大きな障害になっていることが
窺えるかと思います。

その蜀への経路ですが、

この話も含めて
今回の御話のタネ本として紹介するのが、

久村因先生の論文
「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」。

ttps://ci.nii.ac.jp/
(アドレスの一文字目に「h」を補って下さい。)

著者検索「久村因」等で辿って頂ければ幸いです。
PDFがアップ・ロードされています。

さて、現在は、1950年代当時とは異なり、

現地では事務レベルの行政文書が
数多く発掘されていることで、

この分野の研究がどこまで進んでいるのかは
分かりかねますが、

その一方で、

論文検索を行っても
桟道関係の研究がそれ程多くはないことと、

論文の内容自体も
物の考え方としても非常に参考になることで、
ここで紹介させて頂きます。

ただ、この論文を地図なしで読むのは、
都市や道、河川等の位置が想像出来ないことで
苦痛に感じるでしょうから、
(サイト制作者がそうでした!)

ヘッタクソながら、後で図解します。
論文とイラストを照合しながら
御読み頂ければと思います。

また、論文自体も、
イマイチ結論を整理出来ていないところが
ありまして、

着想が面白いだけに、
その辺りも少々残念に思います。

―良くも悪くも、
昔の論文だという感じがしないでもありません。

 

余談ながら、
歴史学であれば、

大体この年代の論文は
文章が支離滅裂であったり
前後で内容に整合性が無かったりするものが
結構多いです。
―ええ、このサイトの駄文のように。

で、エラい先生方が先行研究を整理する際、
そうした複雑怪奇な文章を
しっかりと読み込んで
整理されたのかと言えば、

そういう部分は無視して
実証的な部分のみを相手にした、
という具合。

その意味では、
この論文は相当良心的な部類です。

まあその、
上のヘンなノイズは
ともかくとしまして。

 

したがって、久村先生には大変失礼ながら、

この論文の面白そうな部分を
ツマミ喰いするかたちで
話を進めていこうと思います。

 

3、どれもヤバい?!入蜀の経路
3-1 最も有用な漢中経由

早速ですが、先生によれば、
当時は3つのルートが存在したそうな。

それを地図に表したものが以下。

戸川芳郎監修『全訳 漢辞海 第四版』p1779(前漢時代)を加工。

見ての通り、

1、漢中経由
2、長江経由
3、南方経由

というルートがありまして、

さらにその中で
一番現実的であったのが、

この怪しげな橋桁道で構成される
1、漢中経由という、
ウソのような本当の御話。

 

3-2 長江の東征は危険な香り

こういうものは、
恐らく消去法で考えた方が納得が行きます。

まず2、長江経由ですが、

陸路を踏破する際の
水の確保であればともかく、

船舶を用いた移動ともなれば、

上流の蜀から下流の東シナ海までの
川の流れが大きな阻害要因になります。

で、三国時代に
これを逆手に取って蜀から東へ出撃したのが
劉備と晋の王濬ですが、

攻勢の際には
移動や補給を円滑にするものの、

敗勢になると
川の流れがアダになって
逆に撤退に支障を来すことで、

その意味では
大きなリスクを背負う作戦でもありました。

―これは次回の御話。

また、当時の実情としても、
このルートよりも
咸陽・長安―漢中のルートの方が
人の往来が格段に多かったようです。

人夫や物資等の首都関係の需要に加え、

当時の人民の怨嗟の的であったとはいえ、
馳道開削の恩恵がそれだけ大きかったことを
示唆していると思います。

 

3-3 知る人ぞ知る秘境の補給路

最後に3、南方経由。

古代中国の入蜀については、

商用や旅行であればともかく、

中原の政権の
蜀に対する軍事侵攻ルートとしては
主流とは言えません。

山がちな地形なうえに
インドシナ半島に
策源地が必要だからです。

むしろ、例えば三国時代の蜀漢がそうですが、

この鉄壁の四川盆地を抑える政権にとっては
南方への有用な交易路・軍道であったという御話。

つまり、この3つの入蜀経路の状況が物語るのは、
それだけ往来に難儀する地域であった、
ということです。

 

余談ながら、

20世紀の日本とて
占領地の守備に起因する兵力不足が祟って
この天険を攻めあぐね、

参謀本部は
対米戦が始まっても
暫くは重慶攻略の作戦計画を
練り続けていました。

方や、その日本の侵略に対して、

四川盆地を根拠地として
交戦を続ける国民党は、

英領であるインド・ビルマから
昆明を経由して首都・重慶に至る、

所謂「援蒋ルート」
日本の北仏進駐
(要は、ナチの侵攻で瀕死の
フランス植民地の火事場ドロ)まで
米英から軍事支援を受けていました。

―してみれば、

こういう急峻な地形に起因する
地政学的な構図は、

科学技術の発達を以ってしても
簡単には変わりにくいことを
暗示しているように見受けます。

 

4、図解、秦嶺山脈の山越えルート
4-1 渭水水系沿いに伸びる桟道

それでは、次に、

当時の入蜀の主要ルートであった
咸陽・長安から漢中に至る経路について
触れることとします。

以下の、例によってアレなイラストを御覧下さい。

久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」、篠田耕一『三国志軍事ガイド』、金文京『中国の歴史 04』等より作成。

サイト制作者の浅学で恐縮ですが、

もし、後漢時代以降に登場した地名が
混じっていれば
大変申し訳ありません。

加えて、漢中郡の治所は
特に漢代を通じてコロコロ変わっていまして、

主に南鄭県にあった、
という程度の御話で御願い出来れば幸いです。

さて、長安―漢中間の距離は、
直線で大体300キロ程度。

しかしながら、
両都市の間を秦嶺山脈の天険が
遮っていまして、

劉邦や光武帝はおろか、
蜀漢や曹魏の名将殿各位も、
この山越えに手を焼いた訳です。

その一方で、

秦嶺山脈の北側を流れる
渭水の水系の支流に沿うかたちで

同山脈の南に位置する
漢中に向かう道が伸びており、

このうちのいくつかが
当時を代表する幹線道路となっています。

具体的には東から、
子午(谷)道、褒斜道、故道
存在しました。

子午道前漢の終わり頃から
存在が確認されたそうで、

さらには、後漢に入ると、
子午道と褒斜道の間に
駱谷道が開削されます。

また、この他の入蜀の経路として、
陰平道という道もあるそうですが、

サイト制作者の浅学につき
具体的な経路は不明です。

そして、これらのルートのかなりの区間が
桟道という形で開削されたということ
なのでしょう。

 

4-2 劉邦の足跡、褒斜道と故道

さて、これらの道路の中で
戦国時代から秦代までの最も主要な道路
褒斜道でした。

因みに、この道の北半分の地域
斜谷と言います。

この褒斜道は、
紀元前260~250年頃に
秦の名臣・范雎の肝煎りで
大々的に整備された桟道のようでして、

秦を滅ぼす過程で
項羽に干されて
(公約である関中どころか)
僻地の蜀に飛ばされた劉邦が、

自分の領地に涙目で入蜀した直後に
焼き払ったのも、
この道だそうな。

もっとも、
元々損傷が激しかったことで、

北上の意志がないことを示すための
政治的な理由で破却した可能性がある
とのこと。

そして、その後、
戦後処理で躓いた項羽を後目に、

自力で関中を制圧すべく
劉邦が蜀を出撃した際の経路は
故道でした。

どうもこの道は、当時は、
この少し前まで使われていた道の模様。

さらには、
元々渭水の南は、

東西の移動については
小水系が入り乱れて移動に適さず、

渭水の北で行われていたようです。

事実、劉邦の関中攻略は、

こうした事情の下、
故道を通って渭水の北に出てから
東進します。

ただし、この時点では、
項羽との対立を避けるために
咸陽には手を出さなかった模様。

 

おわりに

今回の御話をまとめると、
概ね以下のようになります。

 

1、桟道が確認出来るのは、
  秦王朝の幹線道路であった。

 

2、古代中国の入蜀の経路は、
  以下の3つの経路が存在する。

一、咸陽・長安から南下し、
  秦嶺山脈に掛かる桟道を超えて
  漢中に入る経路

二、長江やその水系を遡って西進する経路

三、雲南・貴州から北上する経路

 

3、上の3つの経路の中で主流であったのは、
  一、の秦嶺山脈を超える経路。

 

4、秦嶺山脈を超えるルートの中で、
  秦の時代から劉邦の入蜀の時代までは、
  褒斜道が最大の幹道であった。

 

5、劉邦が褒斜道を焼き払い、
  これより西に位置する故道を通って
  関中を攻撃した。

 

6、渭水水系の桟道は南北の移動に適していたが、
  東西の移動は、主に渭水の北で行われた。

 

7、渭水水系の長安―漢中の経路に、
  前漢の終わりには子午道、後漢には駱谷道が、
  それぞれ加わった。

 

【主要参考文献】
久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
金文京『中国の歴史 04』
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻

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古代中国の幹線道路のパターンその2・馳道

稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳『図説 中国文明史4』、劉永華『中國古代車輿馬具』、学習研究社『戦略戦術兵器事典1』、 林巳奈夫『中国古代の生活史』を参考に作成。

はじめに

今回も幹線道路の御話。

更新のペースが遅いのに法螺を吹くのも
何だか申し訳ないのですが、

次回は桟道や入蜀の経路について触れ、
その話が終わり次第、

亭や郵といった施設や旅券発行の手続きといった、
秦から三国時代あたりまでの
(軍事も含めた)逓信政策について
書きたいと思います、が、
いつになることか。

 

1、馳道の構造と建設目的

さて、始皇帝の中国の統一後の代表的な道路建設
もうひとつの代表例が、今回の「馳道」

まずは、どういう道路かと言いますと、

道幅70メートル
そのうち、中央の7メートルが
皇帝専用道路として隆起しているというもの。

因みに、前回触れた「直道」との違いは、
直道程には直線が多くはなく
車両の高速移動には向きません。

次いで、その工法ですが、
「版築法」と呼ばれる、
土を建材に使う方法です。

上記のへぼいイラストのように、
木の枠に建材となる土を入れて
鉄錘(鉄槌)で叩きまくるというやり方。

城壁等のような頑丈な建築物を作るための工法でして、
当時は最新技術でした。

―ウィキによれば、
現在は建材がセメントに変わったようですが。

さらには、道路建設の目的と経路ですが、

制服した各国の連携と報復を警戒し、
その芽を摘むのが目的です。

具体的には、
多方面への派兵を可能にするため
道路建設という訳です。

さらにその経路ですが、
西への経路―隴西郡は、
秦が東進する前の策源地との連絡路を意味します。

雲中郡への経路は、直道と同じく、
北辺への備えと同時に、旧斉・燕地域への派兵も
視野に入っていることでしょう。

この流れで言えば、
函谷関経由の洛陽への経路は旧・魏領等の中原への
幹道、

桟道を経て南陽郡に至る経路は、
荊州や江南の旧・呉楚の地域への睨み
ということなのでしょう。

また、現地の看板によれば、
馳道はコーエーの『三國志』シリーズの全国マップ並の
広範な道路網であったようですが、

残念ながら、筆者浅学さか、
これについては別の文献・史料で確認出来なかったので、
掲載は控えました。

事の真偽の調査は今後の課題と致します。

 

2、県単位での人の管理

さて、こうした巨大な幹線道路の用途ですが、
始皇帝の巡察以外では、

サイト制作者の個人的な意見としては、
利用者の大半は、国家や自治体、
あるいは或る程度大きな資本か無法者の集団
であろうと予想します。

と、言いますのは、
当時は県から出るのに
イチイチ旅券発行という
面倒な手続きを取る必要がありました。

これには、目的や目的地の明記は当然のこと、
経由する関所やら、これを通過する人馬さえも
記入する必要がありまして、

生半可な目的では
遠出が難しかったことを意味します。

まず、識字率の壁があり、
次いで、役人や地域の目があるという具合。

 

3、自治体の枠組みから見る『三国志』

ここで少し脱線話をしますと、

春秋・戦国時代には県レベル
漢代(武帝の時代以降)には郡レベル
三国時代以降は州レベルの地方行政が
実質的に可能になったと言われていますが、

県・郡・州の各々の長が、

官僚機構の整備の進展によって
分相応の権限を手にしたのが
各々の時代であったという話です。

 

例えば、春秋時代の場合は、
小領主の支配地域が大体県レベルであり、

当時は県城(=都郷)と
郷(この場合は離郷、城塞がない)は
上下の関係がなく併存していたこともあり、

当時の領主が実行支配出来る領域が
大体このレベルでして、
この枠組みが次の時代にも横滑りしたことでしょう。

 

例えば、漢代の戸籍の話をしますと、

各々の「里」の戸籍を統括して
個人名のレベルで把握しているのが県だそうな。
(県の組織の中枢を、当時の言葉で「県廷」と言います。)

対して、県の上位の自治体である郡では、
人の数は把握していても
個人名までは分からなかった模様。

その他、以前の記事でも触れたように、
秦の時代は武器の製造や移動は
郡の太守以上の許可が必要であるだとか、

自治体のランクに応じて
独自の権限が付与されるのですが、

については、後漢末までは、
地理上の区分はあっても
その区分された地域を丸ごと治める職階はなかった、
ということです。

 

因みに、当時の自治体の単位である
「里」・「郷」・「県」については、
この回を参照。

 

ところが、後漢末期の動乱の過程で、
暴動や反乱の規模が大きくなったことで
郡レベルでは治安活動が難しくなりまして、

本来は州の監察官であった刺史が
郡太守を指揮して事態の収拾を図る過程で
統治の責任者として実効支配を始めたという御話。

例えば『三国志』では、
荊州の劉表や益州の劉焉なんかが
その典型の模様。

 

要は、始皇帝が中国を統一たものの
圧政が祟って自滅し、
直後に漢がそのオイシイところをさらって
長い歳月をかけて発展させる過程で、

その州の監察官が統治者になるまでに
数世紀の歳月を要した訳です。

 

とはいえ、その頃にはそもそもの国家自体が
ステージ4の末期ガン状態でして、

皇帝様が木偶の坊につき、
州の支配者が必然的に軍閥化せざるを得なかった
というやっつけぶり。

そのうえ、そういう軍閥同士の抗争の結果、
やれ曹氏だ司馬氏だと新しい王朝を造ったところで、

仲達のように
王朝自体を乗っ取ろうとする奴がいれば、

諸葛誕のように
その報復とばかりに
州ごと離反するような奴も出て来る訳で、

安定した王朝の枠組みの中で
州という自治体が
官僚機構の一部として安定的に機能するのは
もう少し後の時代の模様。

もっとも、曹魏の軍政下での
都督だの諸軍事だのといった州の統治者を
こういうのを同等に扱うべきか否かは
議論の分かれるところかもしれませんが。

この話は、
色々と先行研究もあることで、
もう少し私の方でも勉強することと致します。

 

4、人々の度肝を抜く始皇帝の行列

さて、話を馳道に戻します。
今回の最後の話となりますが、皇帝の馬車の御話。

70メートルの大道の中央を走る
始皇帝の専用馬車ですが、
「轀輬車(おんりょうしゃ)」といった
大層な名前が付いています。

意味は、温かく涼しい―つまり、
車内の温度の調整機能がある、
ということです。

とはいえ、
21世紀の現代の視点で見れば、
エアコンも付いていないのに
空調機能があると吹く
何の変哲もない密閉式の馬車ですが、

当時の車両の技術水準からすれば
実に画期的なものでして。

 

と、言いますのは、
大体、漢代までの馬車というのは、
二輪が基本で、
座席と言えば座るスペースしかありません。

そのうえ、悪天候の備えなど、
あって無きが如しでして、

露天なんかザラで
精々、天蓋が付けば上等な位です。

次の時代の漢代における
朝廷の大臣クラスの公用車でさえ、
天蓋と側面に簾か板みたいなものが
付く程度の御粗末なもの。

 

―そういう時代に、

完全な密閉式でドアはおろか開閉式の窓がつき、
オマケに姿勢を崩すスペースのある車両が
どれ程貴重なものであったか
御想像下さい。

今日のセレブ御用達の
胴長のリムジンを彷彿とさせるものを感じる
と言いますか。

 

そうした車両が
1000名程度の親衛隊の
車列や人馬に護衛されながら
道幅70メートルの道路の
隆起した中央の7メートルの部分を走るのですから、

物々しい行列であったことは
想像に難くありません。

 

現に、次の時代には秦に反乱を企てることになる
項羽も劉邦も、
この始皇帝の地方巡察の車列を見て
色々と思うところがあった模様。

まず項羽は、
不敵にも、始皇帝に取って代わってやると言い、

対して劉邦は、
男と生まれたからにはああなりたい、と、
単に憧れた、という逸話がありまして。

後の世の英雄となる若き日の両者ならずとも、
人々が羨望と怨嗟を向けた行列
であったことでしょう。

 

因みに、当時の車両関係の話の種本は、
劉永華『中國古代車輿馬具』(清華大学出版社)。

イラストの轀輬車のカラーも、
この本の復元図を参考にしました。

サイト制作者のヘボいイラストとは違い、
車体は実に緻密な紋様に彩られていたようです。

なお、同書は、

説明の多さは元より、
復元イラストや史料の図版も多いので、
特に考証本として重宝する良書だと思いますが、

如何せん、中文で高い本
(サイト制作者は4000円余で購入!
泣けてきます)なので、

まずは、近くの大学図書館で手に取られるか、
図書館に買わせるのが良いかもしれません。

 

おわりに

今回の取り留めない話の馳道に関する要点を
一応整理しておきます。

馳道は始皇帝が建設を進めた道幅の広い道路で、
中央は皇帝の専用道路です。

首都の咸陽を基点に
多方面への派兵や巡察を可能にしました。

ただ、道路の両側は
一般にも開放されていたとはいえ、

恐らく利用者は
公用者か資本力のある商人に限られていたであろう、
というサイト制作者の見立て(妄想とも言いますが)

専用道路を突っ走る皇帝の馬車は
当時としては極めて居住性に優れていました。

また、馬車自体が壮麗なうえに
親衛隊の車列を引率して
堂々と数度の地方巡察を行ったため、

当然ながら、
良くも悪くも、
人々の耳目を曳く結果となりました。

 

【主要参考文献】
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』
劉永華『中國古代車輿馬具』
藤田勝久「里耶秦簡の交通資料と県社会」
「秦漢時代の交通と情報伝達」
小嶋茂稔「漢代の国家統治機構における亭の位置」
学習研究社『戦略戦術兵器事典1』
林巳奈夫『中国古代の生活史』

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古代中国の幹線道路のパターンその1・直道

まずは、更新が大幅に遅れて大変申し訳ありません。

私事で恐縮ですが、
身の回りの環境が激変したことで
先月までのペースでの更新が難しくなりまして、

色々と考えた結果、

差し当たって、

文章なりイラストなり、
書き起こした分だけでも
小分けにして綴ることにしました。

早速ですが、
今回は交通関係の話。

以前の記事で、
古代中国の城塞都市の設立条件は
交通の結節点である可能性が高い、
と記しました。

こうした文脈を受けてか、
中国の統一に成功した秦の始皇帝は、

首都・咸陽を基点に
巨大な道路網の整備に乗り出す訳です。

さて、当時の幹線道路には
いくつかのパターンが存在します。

そのひとつのが、

「直道」と呼ばれる

今日で言うところの
ナチのアウトバーンのような、

謂わば、
軍用の高速道路に相当する道路です。

咸陽(雲陽の林光宮)を基点とし、
北辺の国境地帯である九原郡までの
1800里(約700キロ)を結ぶ大道です。

 

早速ですが、
以下のヘボいイラストを御覧下さい。

 

稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』p97-99等を参考に作成。

これが、その「直道」の概要です。

広い道幅を有し、
急なカーブや勾配を排したことで
車両の高速移動を可能にしました。

オマケに、
道路に砂利まで敷いて
砂塵が舞い上がるのを防ぐという徹底ぶり。

敷設どころが維持にも相当の予算が掛かることが
容易に想像出来ます。

なお、道幅については、文献によっては、
平地で20メートル程度、
山地で4、5メートル程度、
としているものもあります。

で、中国の統一後、
こんな手の込んだ道路を必要とする仮想敵国
一体どこにいるのか、
と言えば、

当時北方で猛威を振るっていた
匈奴だったりしまして。

ですが、皮肉なことに、
当時のこの道路の用途は、

地方巡察中に身罷った始皇帝の遺体を
迅速に咸陽に運ぶために使われたというオチ。

最後を迎えたのが山東半島付近の沙丘で、
そこから西に転進して直道に乗ったそうな。

そのうえ、その臨終の段階では未完成でした。

 

【主要参考文献】
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』
江村治樹『戦国秦漢時代の都市と国家』
学習研究社『戦略戦術兵器事典1』

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ある地方官の憂鬱~『三国志』の襄陽の人材事情

今回も1万字余に膨張。
無駄なことも随分書いてしまいました。
例によって、章立てを付けます。

未熟な構成で本当に恐縮です。

願わくば、
適当にスクロールなさって
興味のある部分だけでも御覧頂ければ幸いです。

因みに、あるサイトによれば、
日本人は平均で
1分間に500字から1000字程度読むそうで、
御参考まで。

 

はじめに
1 劉表赴任時の荊州
2 長江中流域は「原住民」の戦場?!
 2-1 「異民族」のパターン
 2-2 板楯蛮と王平
 2-3 色々とキナ臭い街亭の戦い
 2-4 南荊州の傭兵・武陵蛮
3 劉表の飛躍
 3-1 カオスの地・襄陽
 3-2 蒯越の献策
 3-3 地方豪族の脅威の政治力
4 老将軍の半生
 4-1 黄忠とは何者?
 4-2 劉備との不思議な縁
 4-3 悪役の郡太守
5 襄陽の人材事情
 5-1 「水鏡」の由来
 5-2 人材や政策を押し売りする地元豪族
 5-3 対外積極策と流浪名士の存在意義
 5-4 諸葛先生の就職とその意義
6 地方官・劉表氏の査定?!
 6-1 安住の地・荊州
 6-2 堅気な劉表とヤクザな袁紹
 6-3 そして、尽きかける寿命
 6-4 性格が歪む?!地方官稼業
おわりに

 

 

はじめに

今回も前回に引き続いて
人材関係の御話をします。

前回は、『三国志』の時代の要人が
幼少から教育を受けて朝廷に出仕するまでを
綴りましたが、

今回は、そうした人材の就職事情について、
劉表統治時代の襄陽を事例
もう少し詳しく見ることにします。

 

1 劉表赴任時の荊州

前々回に襄陽という土地を扱ったことで、
劉表時代のこの土地の事情についても
もう少し見てみることにしましょう。

今回の主役は劉表、字は景升。
優秀なれど、悩み多き地方官です。

さて、この人が『三国志演義』に登場するのは
董卓討伐の際の挙兵でして、

その時分には、
既に、押しも押されぬ軍閥のひとりとしての
存在感を示しています。

ところが、
当時の荊州の内情や劉表の政治的足跡
正史やいくつかの文献を通して
眺めてみると、

周辺の軍閥や原住民とも言うべき異民族との
ゴタゴタが祟り、
中々に波乱含みの状況を呈している模様。

 

 

2 長江中流域は「原住民」の戦場?!

 

2-1 「異民族」のパターン

まず、劉表が荊州の刺史として赴任した頃、

治所の武陵は所謂「異民族」に占領され、

さらには、袁術は魯陽に兵を置いて
南陽の兵を自軍に組み込んだ上に
劉表の武陵入りを妨害するわのトラブル続きで、

やむなく襄陽に治所を移して政治を始めます。

 

さて、この「異民族」というのも
色々パターンがあるのですが、

この武陵の勢力は
世界史で習う類の異民族とは異なる
結構特殊なパターンの模様。

この辺りの事情は、
坂口和澄先生
『もう一つの『三国志』異民族との戦い』
が詳しいので、
以下は同書の該当部分によります。

 

異民族のパターンとしては、
大体以下の3つのパターンがある模様。

 

1、漢王朝の国境周辺の地域を根城にして
越境して王朝や軍閥の兵と揉める勢力。

例:北辺の騎馬民族や南方の山越等。

2、漢王朝との戦争に敗れて強制移住を喰らって
内地で不満を燻ぶらせる勢力。

例:羌族等。

3、加えて、漢王朝の版図内に長らく居住しながら
中原とは言語や文化を異にする勢力。

例:長江流域の「〇〇蛮」と呼ばれる
所謂「原住民」。

 

サイト制作者の浅学で恐縮ですが、

外国史を専攻したことがなく
外国人の方ともあまり接したことがないので、

正直なところ、
故人の悪口を書きまくっている割には、

「異民族」や「原住民」といった
差別的な意味合いを含む言葉をどう使って良いのが
分かりかねております。

したがって、
こういう言葉が出て来る際は、
あくまで世間一般で使われるイメージ程度の認識
御願い出来れば幸いです。

 

 

2-2 板楯蛮と王平

さて、武陵で劉表の治所入りを阻んだ勢力は、

先述の3パターンのうちの最後、

「漢王朝の版図内に長らく居住しながら
中原とは言語や文化を異にする勢力」です。

 

後漢当時の長江の中流域には、
戦国時代の楚の民の末裔とされる勢力が
存在しました。

具体的には、
盤瓠蛮(ばんこばん=武陵蛮)・廩君蛮(りんくんばん)・
板楯蛮(ばんじゅんばん)、
といった勢力です。

盤瓠蛮は南荊州、廩君蛮は南郡や巴、
板楯蛮は巴や漢中が勢力圏。

 

因みに、当時、
戦争が強くて有名だったのは板楯蛮。

『三国志』よりも前の時代から
漢王朝のために他の「異民族」との戦いの
第一線の部隊として奔走したものの、

当の漢王朝の「毒を以って毒を制す」
理論のために冷遇され続けてスネた勢力です。

板の盾で武装するのでこの名が付いたそうな。

有名な武将との関係では、
蜀の王平の母親がこの勢力の出身。

これに関して、最近の研究紹介します。
サイト制作者としては
かなり面白い論文でした。

並木淳哉 『駒沢史学』87
曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次「北伐」
ttp://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/36194/
(1文字目に「h」を補って下さい。)

 

同論文によれば、

『三国志』の時代の
漢中近郊の戦争の少なからぬ部分は、

この板楯蛮の支持を取り付けるための
外交戦の模様。

特に北伐の街亭の戦いでは、
先の漢中での
劉備と曹操の抗争のシガラミもあり、

この板楯蛮の去就が
戦況に大きく関与した模様。

 

さらには、
どうも、馬謖も戦術面でヘタを打ったのではなく、
板楯蛮の動きの怪しさに狼狽して
逃亡を企てた可能性があるそうな。

その一方で、殿として意外に頑張ったのが、
馬謖に内応を疑問視された
板楯蛮の血を引く王平の部隊という結末。

 

 

2-3 色々とキナ臭い街亭の戦い

さて、この街亭の戦い、

確かに馬謖は
軍人としては有能ではないのでしょうが、

それ以外にも、
例えば馬謖以外にも将軍を何名も軍法で処刑したりと
陳寿が隠そうとしたと思われる
ヤバ気な点がいくつか見え隠れしまして。

で、サイト制作者が
並木先生の論文を元に想像(妄想)を働かせて
誤解を恐れずに言えば、

街亭の戦いの実態は、

蜀軍の大半の部隊は、
板楯蛮の造反を恐れて戦意を喪失し
張郃の部隊と対峙する前に
敗走を始めていたのではなかろうかと想像します。

監軍として監督責任のある馬謖と
前線で指揮を執る複数の将軍の、

謂わばライン・スタッフの双方から
処刑者を出した理由は、

どちらかに手落ちがあったというよりは、

双方とも戦意を喪失し、
優勢な魏軍に対して
マトモに戦おうとしなかったからかもしれません。

 

そして、そのような中、
水源を断たれて敗走したのは
割合頑張った部類の部隊ではなかろうか、と。

と言いますのは、
並木先生の論文によれば、

その3年後、
蜀軍は同じ地域で
同じ山に陣取って敗れていまして、
これが守備側の常套手段であったことを
伺わせるそうな。

つまり、
小手先の戦術で引っ繰り返せる程
拮抗した戦いではなかった、
という訳です。

 

もう少し言えば、

馬謖の幕僚の息子であり蜀贔屓の陳寿が、

蜀軍の統帥上の大きな欠陥や
戦地の住民の懐柔工作
―つまり、民族問題の対策の失敗を
戦術面での不備に矮小化したように見受けます。

 

これはサイト制作者の愚見に過ぎませんが、

並木先生にしてみれば、

本当はここまで主張したかったが
史料がないので何とも言えない、

という話かと想像(妄想)します。

 

 

2-4 南荊州の傭兵・武陵蛮

話が何故か北伐に飛びましたが、

先の話の要点は、

内地に永住するタイプの「異民族」の去就
王朝同士の戦争の戦局を左右するレベル
大事であるということです。

さらに、
この勢力の特筆すべき点は、

戦国七雄である楚の民で
何世紀も居住しながらも、

中原とは文化・言語が異なるところです。

 

したがって、中原の漢民族からすれば
自分達の価値観が通用しない訳でして、

最悪の場合、

件の武陵郡のように
本来は州の治所である郡ですら
現地民に離反されるような
みっともないケースも存在する、と。

 

因みに、夷陵の戦いで
劉備が強力を取り付けたのも、

この武陵蛮の一系統である五鷄蛮(ごけいばん)。

この民族も、
例えば「長沙蛮」・「桂陽蛮」という具合に
郡ごとに「蛮」が付くような有様で、
地域性が多様であることも伺わせます。

 

西域の「異民族」を妖怪として描く
『西遊記』にせよ、
軍閥の少なからぬ戦力であった所謂「蛮」の話を
あまり書かない『三国志演義』にせよ、

華夷思想のメンタリティでは
こういう話を大々的には書かんわなあ、と。

曹操の烏丸征伐なんか
曹操直々の出馬で7年掛かり、

戦役自体も特に兵站面では相当に苦労したことで、
当初出兵に反対した者を褒めた程の
大事にもかかわらず、

小説の方ではあまり詳しい話は無かった
記憶します。

 

 

3、劉表の飛躍

3-1 カオスの地・襄陽

さて、赴任早々に
治所の問題で足を掬われた劉表、

ところが、先の武陵どころかこの襄陽も、
交通の要衝故か面倒な土地でした。

 

差し当たって、
襄陽周辺の地図を御覧下さい。

陳寿 裴松之注・小南一郎訳『正史 三国志6』巻末地図を引用。

 

まず、最大の外敵である孫堅は、

董卓討伐の際、
根拠地の長沙から洛陽を突く途中で
そのドサクサに紛れて
劉表の前任者や南陽郡の太守を殺した経緯があり、

その庇護者の袁術も、
先述のように怪しい動きをしています。

 

そう、この荊州の地では、

この頃には対立関係にあった
袁紹対袁術の代理戦争が、
劉表対孫堅という形で行なわれていた訳です。

そのうえ膝元の襄陽でも
宗賊という武装集団が幅を効かせていました。

無論、傘下の地方官も、
自分の兵力を頼んで劉表の命令に服しません。

 

 

3-2 蒯越の献策

そこで新任の地方官で何の後ろ盾もない劉表は、

地元の名士である蒯良・蒯越・蔡瑁等と図って、
まずは宗族を騙し討ちにして
足場を固めます。

ここで、強硬論を吐いたのが蒯越。

袁術や傘下の地方官など
烏合の集で物の数ではないと凄みます。

さらにその上で、

自分の息の掛かった者の中に強欲な奴がいるので
その者やその者の配下を財貨をエサに呼び寄せ、
自分の態度を示すように、と、進言します。

言い換えれば、
領民はこのデモンストレーションに
注目する訳でして、

転じて、
管轄地域に自分の政策指針を示すことが出来る、
という訳です。

劉表はこの蒯越の進言に従い、
宗賊の目ぼしい連中50名余を誘い出して処刑し、

その上で抵抗を続ける江夏の賊も
蒯越と龐季が説得して降伏され、
江南の治安を回復させます。

 

 

3-3 地方豪族の脅威の政治力

つまるところ、
以上の正史の話を鵜呑みにする分には、

話の筋書きを書いたのは蒯越であり、
その策の初歩である交渉の相手とて、
やはり蒯越のコネに他なりません。

 

この話が意味するところは、

大きい部類の地方豪族には、

州の半分程度の領域であれば
当座の治安を保つ程度の政治力は備わっている、
ということなのでしょう。

ただし、それを実行するためには、
監察や地方官のような現場の長の役人のハンコが
必要である、と。

 

この話に因んで、

後年、曹操が劉表の訃報につけ込んで
荊州を占領した折、
「荊州を得るより蒯越を得た方が嬉しい」
宣ったそうな。

 

無論、このリップ・サービスは、
コーエーのゲームで言うところの
知力80程度の武将をひとり得て喜んだ、

という程度のショボい話ではなく、

こういう豪族名士の支持こそが
荊州北部の支配と同義であったという
当時の地方政治の実情を物語っています。

 

―今日の我が国の政治で言えば、
知事選や国政選における
最大の票田を手中に収めるようなレベルの話です。

 

ですが、先述の荊州南部のような
中原とは距離のある
「異民族」が幅を効かせるような地域とは
別の次元の話です。

 

こうして膝元の脅威を一掃した劉表は、

その後、
侵略して来た孫堅や張済を返り討ちにして射殺し、

本人の性格の悪さが祟って起きた
長沙郡太守・張羨の反乱
親子二代相手に大分手こずったものの、
最終的にはどうにか平定し、

結果として、
南は長沙に加えて桂陽・零陵をも制圧し、
兵力10万を擁する巨大軍閥に成長します。

 

 

4 老将軍の半生

4-1 黄忠とは何者?

以上のような経緯で
身に掛かる火の粉を必死に払って来た
劉表の配下の武官の中で、

その経歴が割合明らかになっている人物が、
ここに1名存在します。

それも、劉備配下の
屈指の猛将のひとりだったりするので驚きです。

―黄漢升こと黄忠。

 

さて、この黄忠は、
元は襄陽から少し北に位置する
南陽(後漢の光武帝の根拠地)の出身。

加えて、実は劉表の州牧時代からの部下で、
その時の官職は中郎将―つまり、将軍の手前。

後に裨将軍に任命されるのですが、
まあ似たような地位ですね。

この辺りの話は後述します。

 

さらに、劉表時代は、
劉表の甥の劉盤と共に
長沙の攸県を守備していたそうな。

長沙は先述に張羨の反乱の他、
孫堅の在任時にも反乱が起きた土地でして、

そのうえ恐らくは主君の一族の御守りで
赴任したのでしょうから、
劉表にはかなり信頼されていたのでしょう。

 

 

4-2 劉備との不思議な縁

黄忠はその後、
曹操が荊州を占領した時に、

当時、長沙太守であった韓玄の部下として
裨将軍の地位でそのまま現地で職務を続行し、

劉備の長沙占領後は、
劉備に従って蜀に入ります。

余談ながら、
将軍の副将の「裨将」の職階と同義であれば、
兵1600名を統率したことになります。

 

さて、ここで注目すべきは、

劉表や曹操の息の掛かった黄忠
後ろ盾を失って劉備に投降した点です。

 

後述するように、
劉表は地元豪族の意向が強く、
この地元豪族は劉表の死後は州をあげて
足早に曹操に降伏します。

そのうえ、
その曹操は劉備を不倶戴天の敵と仰ぎ、
黄忠の身元を保証するという具合でして、

こういう経緯を考えると、

赤壁の戦い以前の感覚では、

劉備が黄忠を配下として抱えること自体、
到底考えられないことだと思います。

対して、文聘のように
元は劉表の配下でありながら
曹魏政権下の対呉戦線で活躍した将もいます。

 

 

4-3 悪役の郡太守

黄忠が表舞台に立つ引き立て役として
ブラック上司・韓玄の出番となる訳で、
この辺りの話も少々します。

先述したような
長沙の反乱とその鎮圧という状況を考えれば、

韓玄という人物は
劉表や側近の豪族の息の掛かった地方官でしょうし、
劉表の死後は曹操に従ったものと想像します。

ですが、赤壁の戦いの後の
劉備の荊州南部の平定戦は
詳細が判然とせず、

正史では、
サイト制作者が知る限りは、

桂陽太守の趙範が趙雲に接近し
その後逃亡した以外は
細かい話が出て来ません。

特に長沙攻略については、
『三国志演義』の当事者である
関羽・黄忠・魏延の正史の伝にも
詳しい話はありません。

察するに、
魏延が韓玄を斬ったのは作り話でしょう。

ですが、その後、
黄忠の部隊が定軍山で夏侯淵を斬ったのは
本当のようでして、

その意味では、黄忠の投降は、
曹操の荊州の敗戦での
大きい失物のひとつであったことは
間違いありません。

劉表や曹操の政権の事情に振り回される
家臣の動向の一旦を垣間見る心地と言いますか。

後、コーエーの『三國志』シリーズで、
どうして黄忠が劉表の部下ではないのか。

 

 

5 襄陽の人材事情

5-1 「水鏡」の由来

以上のように、劉表は、

失地回復とでも言いますか、

本来の自分の領地である
荊州全域に影響力を拡大すべく、

彼からすれば
ゴロツキ軍閥ふざけた地方官
盗賊めいた武装勢力との抗争
明け暮れる訳ですが、

その一方で、
有用な人材を求めようとして、
水鏡先生こと司馬徽を利用します。

 

この先生、

大体の向こうのドラマでは、
不敵に笑って相手をケムに巻く
白髪の胡散臭い老人、

という役回りばかりですが、

史実では、
何と、劉備等よりも若かったそうな。

 

で、この司馬徽が
どうして劉表の眼鏡に適ったかと言えば、

簡単に言えば、
ポジション・トークをしないからです。

転じて、人物本位で公平に人を見るので、
「水鏡」というアダ名が付いた、と。

 

逆に言えば、

当時の襄陽の人材事情は、

華北や中原の各地から
戦禍(董卓・袁紹・曹操等が火元)を避けて
この地に流入した逸材が数多おり、

そのラインナップは
多士済々ではあったものの、

その一方で、
影響力を保ちたい地元の名士豪族の意向も紛れ、

まさに有象無象の様相を呈していた訳です。

 

具体的には、各グループの人脈は以下のような具合です。

渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』p106-107より引用。

*パソコンの方は、右クリック→「画像だけを表示」で御覧頂ければ幸いです。

 

さらには、以下は当時の襄陽城近郊の地図。

論文の内容からして、
県城から精々数キロ圏内の地図と想像します。

上田早苗「後漢末期の襄陽の豪族」p22より引用。

地図の引用元である上田先生の論文も
実に面白い論文です。

PDFで読めます。アドレスは以下。
ttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/152809/1/jor028_4_283.pdf
(一文字目に「h」を補って下さい。)

因みに、この楊守敬という先生は
清代に公使の随員として来日し、
日本で中国の文献を集めたそうな。

隋唐研究の材料に
それを模倣した京都を研究するという皮肉。

日本も中国にやったり
米国にやられたりで、

戦災による史料の喪失は
万国共通の頭痛の種の模様。

まあその、『水経注』の脚注とはいえ、
わざわざこういう地図を作ること自体、
相当に『三国志』が好きな方だと想像します。

200年後に御存命であれば、
存外三国志関係のゲームにも
ハマったかもしれません。

 

 

5-2 人材や政策を押し売りする地元豪族

では、その有象無象の中、
劉表がどのグループの意見を
聴いたのかと言えば、

やはり、地元名士のそれです。

しかしながら、劉表にとっては、

こういう郷論の類はシガラミが多く
面白味に欠けるものであったことでしょう。

 

その理由として、

こういう豪族社会で
優秀な役人候補者を探そうとすれば、

地元の名士がそれを利用して
自分達の子弟を捻じ込んで来るからです。

確かに、そうした人材は、
地元の豪族が手塩を掛けて育成した秀才につき、
或る程度の能力は担保されるかもしれません。

 

ですが、その一方で、
スポンサーの意図が明白な以上、

地元豪族の目先の利害に反してでも
時代を先取りする奇策を考え付くような
天才の発掘は
到底出来ないことを意味します。

もう少し露骨に言えば、
飛ぶ鳥落とす勢いの曹操と揉めることを嫌う
グループです。

 

要人の名前を挙げれば、
劉表の荊州赴任時から縁のある
蒯良・蒯越・蔡瑁等の地元名士達。

確かに、
皇帝は曹操の庇護下にあることですし、

さらには戦争にでもなれば、
治所の襄陽を含めた長江北岸では
曹操に分のある陸戦となることで、

曹操と事を構えるのを避けるのは
ひとつの見識でしょう。

 

 

5-3 対外積極策と流浪名士の存在意義

では、他の対外政策はどうか。

例えば、
官渡の戦いや烏丸征伐に奔走する
曹操の背後を突くといったような、

中央の政局に積極的に関わろうとする
政策指針です。

 

かつて孫堅が
荊州の地方官を暗殺しながら洛陽に迫ったように、
客将の劉備を置いた新野から洛陽までは
目と鼻の先です。

曹操は都・洛陽の近郊で
敵味方定かならぬ巨大軍閥と対峙しつつ
あれだけ大胆な外征を二度も行った訳でして、

それを可能にした根拠として、

名士間の情報交換で
劉表政権の出方―荊州の専守防衛のスタンスを
看破していたことは
想像に難くありません。

 

一方で、曹操に降ってしまえば、
潁川その他の派閥が幅を効かせる曹操の政権で
荊州の名士の出る幕はない訳です。

蒯越等が曹魏政権での立ち位置よりも
地元の利益を優先に考えるのは当然にしても、

他地域から流入した野心ある名士
こういう千載一遇の好機を棒に振るのを
潔しとする訳がありません。

その好例が、

董卓の無能な残党に見切りを付けて
この地に逃れた賈詡や、

蔡瑁と縁戚関係にあったものの
劉表とは距離を置いた諸葛亮でありました。

フリーター時代の諸葛先生なんか、

日頃、「自分は当世の管仲だ」
とか吹きながら、

同輩から中原で荀彧等潁川名士が
幅を効かせている状況を聞かされて、

都での出世の目は無さそうだ、と、
落胆なさったそうな。

不世出の天才政治家でさえ、
青春日記の1ページはこんなもの。

何とも泣かせる逸話だと思います。

 

その他、先の表中の杜畿やその子孫
中々に面白い人でして、

襄陽を去った後、
袁紹の甥である高幹の息の掛かった
豪族が治所で狼藉を働く河東郡で
曹操側の太守として急場を凌いだ凄腕地方官。

この人の伝を読むと、
相当にヤクザ気質な人であったと想像します。

確かに、地元自慢の豪族政権の隅っこで
我慢出来る性格ではなさそうだなあ、と。

また、息子は優秀なれど不遇であったものの、
孫は孫呉を滅ぼした晋の名将・杜預
であったりします。

一方の預君の方はと言えば、
凝り性タイプの頭デッカチ(ガチの学者)で、
諸葛先生と同じく理系も大好きな物好きさんですが、

馬にも乗れなかったそうな。

 

 

5-4 諸葛先生の就職とその意義

では、件の諸葛先生は
どのような知識人グループと
接点があったか、と言えば、

ここで、先述の水鏡先生の出番
相成る訳でして。

 

で、この司馬徽に群がるグループというのが、
また異色な連中でした。

具体的には、天下国家を論じる連中でして、

曹操と事を構える想定の議論を
白昼堂々とやって
蒯越等がケムたがられる光景が
容易に想像出来ます。

しかも、このグループの名士の出身地も様々で、

諸葛先生や徐庶のような
州外出身のヨソ者もいれば、

襄陽近郊に領地を持つ習禎や龐徳公、
その他、地元出身の馬良、
諸葛先生の義理の父の黄承元、
といった名士もこのグループです。

 

また、諸葛先生が27歳にして
某ブラック軍閥から内定を貰った時、

一応、三顧の礼という形式を
取ってはいるものの、

そのブラック軍閥の長の劉某と
水鏡先生や諸葛先生のグループとは、
どうも水面下で接触があった模様。

劉某、いえ劉備が諸葛先生を迎えたことの意義は、

曹操が蒯越を得て
荊州名士の信頼を勝ち得たように、

単にひとりの謀臣を得たという話ではなく、

諸葛先生との付き合いのある名士の支持により、
漸くマトモなインテリジェンスや
政治力・交渉力の類を得た点にあります。

 

―ですが、
このコネは襄陽界隈では
決して強いものとは言えず、

しかも、古株の豪族連中には
目障りなものであったことでしょう。

 

と、言いますのは、

実際に、劉表が死去した際、
諸葛先生の就職先である
劉備様御一行には荊州政権の曹操への降伏は伝えられず、

州内で孤立して曹操軍の追撃を受け、
散々な目に遭わされましたとさ。

 

また、関羽のヘマで荊州北部が失陥した際に
劉備が国家総動員で奪還を図り、
さらには諸葛先生が
それを止めなかった理由は、

良く言われる話ではありますが、

劉備本人の権力の源泉である
軍の面子や結束を守る以外にも、

蜀政権の中枢を占める名士の経済基盤が
荊州にあったからでしょう。

 

 

6 地方官・劉表氏の査定?!

6-1 安住の地・荊州

では、地元の豪族名士とのシガラミで
動けなかった劉表はポンコツ地方官か?

―との問いには、

そこまで言うのは酷であろう、と。

高島俊男先生は、
劉表は地方官としては極めて優秀だと
おっしゃってまして、

事実、劉表は10年の在任期間で
内憂外患を払拭して
刺史から牧(兵権付き)に格上げされています。

また、これまで見たように、
劉表の赴任当初の荊州のカオスぶりからすれば、

10万の兵を養う人材センターという状況は、
様変わりと言う他はありません。

 

加えて、重用しなかったことで
数々の人物に去られたとはいえ、

州外から流入したさまざまな名士を
庇護したことで
ひとつの時代を築いたのも
揺るがぬ事実です。

 

この時代における
シェルターやアジールの類の存在意義
どれ程大きいかは、

略奪や殺戮のみならず
飢餓で人肉を喰うのが茶飯事、といった、
戦禍を被った地域における
数々のイカレた逸話が物語っています。

 

少なくとも、
この地でタダ飯にありついた流浪名士共が
劉表の悪口を言う資格はないと思います。

 

 

6-2 堅気な劉表とヤクザな袁紹

また、上田早苗先生は、
地元の豪族の名士の影響力が強過ぎて
劉表自身に野心があっても
積極策は難しかったであろうとおっしゃっています。

確かに、10年かそこらの歳月では、

一介の地方官の職権の範囲内
マトモに足場固めを行おうとすれば
劉表がやった程度が精一杯なのかもしれません。

 

例えば同時代の地方官・軍閥である袁紹など、

自前の皇帝を擁立を目論んだり
他の地方官の領土を掠め取ったりと、

当初から地方官の職域を逸脱して
軍閥として派手に動いたことで、

結果として、
膨張政策が祟って破滅しました。

 

特に官渡の戦いなど、

界境の戦いでのデタラメぶりから判断するに、
曹操との兵力差程には有利ではなかった筈で、

しかも、敗戦後には、
本拠地の冀州で反乱まで起きています。

もっとも、その後に曹操も、赤壁等で
袁紹の二の轍を踏んで死にかかっています。

 

こういうのを踏まえて
サイト制作者が
袁紹と劉表の両者を比較して強く感じたのは、

 

乱世が継続する過程で

一介の地方官が中原で覇権を狙う軍閥に
化け切れなかったのが

劉表ではなかろうか、ということです。

 

本当は本人は、
州外の名士を重用したりして
色々やりたかったのだと想像します。

たまたま時代の流れが早過ぎ、
そして、向かい風が強過ぎただけのことで。

 

 

6-3 そして、尽きかける寿命

ですが、当の劉表にとっては、

目の上のコブである
地元豪族の機嫌を取りつつ
自分の本来の領地である荊州全域を
チンピラ軍閥や
ヒャッハーな反乱軍から守り抜き、

あぶれてもプライドだけは高い流浪名士を
保護するだけで精一杯でありました。

何より、次の時代に何かを為そうにも、
そもそも自らの寿命が尽き掛けていました。

 

言い換えれば、

任期中の10年余の歳月が、
彼にとって、
如何に過酷なものであったか
物語っています。

 

 

6-4 性格が歪む?!地方官稼業

その意味では、
史書にあるような猜疑心が強い性格というのも、

先天的なものか、
地元の泥臭い名士共とかかわって
根性が捻じ曲がったのかは分かりません。

 

例えば、徐州の牧の陶謙も、
劉表と似たような人生を送って
人生の前後半で性格が変わっています。

この人も若い頃は
真面目で積極的な地方官だったそうですが、

歳を取ってから、
地方官の身分で
皇帝を名乗るような連中と組んだりと
デダラメぶりを発揮するようになる、と。

 

劉表にせよ陶謙にせよ、

こういうのは、
真面目に仕事に取り組んだ地方官の
宿命なのかもしれません。

 

もっとも、地方官に限らず、

人間、真面目に仕事をしようとすれば
色々なものを犠牲にするので、

愚痴のひとつも言いたくなろうし
泥を被って根性とてひん曲がるのも
ひとつの真実なのでしょうが。

 

 

おわりに

最後に、今回の記事の骨子をまとめます。

 

1、地方政治は大抵はカオスであり、

内には漢人と「異民族」の反乱、
外には他の地方官・軍閥との抗争

といった、
所謂、内憂外患が常に付き纏う。

その意味では、
地方官の軍閥化は必然の流れでもある。

 

2、地元の豪族には、
この種の内憂外患に対応するための
情報収集力や政治力がある。

一方で、地元の利益を優先して
外部出身者を排斥する傾向がある。

 

3、戦禍に遭った地域の名士は各地に亡命し、
治安の良い地域に避難する。

統治手腕の高い地方官や軍閥は、
こういう名士を登用する好機がある。

自称天才の27歳で就職を焦った
フリーターの諸葛某がこれで成功した。

 

4、一方で、流浪する名士は
地元の利害には固執せず
天下国家を論じる傾向がある。

 

5、放浪する軍閥にとっては、
定住しない名士を登用する好機に恵まれる。

 

6、名士の登用は、
機密情報の情報源や
当該の地方での政治力を得ることを意味する。

 

7、地方官として真面目に仕事をこなそうとすると
報われずに性格が曲がる。

その一方で、派手に動いて
統制の取れていない大軍で機動的に戦争を仕掛けると
大抵は負ける。

 

まあその、
一部ヘンなことも書きましたが、

後漢時代の襄陽の話とは言うものの、
似たようなことは
別の州でも少なからず起きていることで、

この時代の地方政治や人材の在り様を考える上で
多少なりとも参考になればと願う次第。

 

 

【主要参考文献】(敬称略、諸先生方、申し訳ありません。)
上田早苗「後漢末期の襄陽の豪族」
並木淳哉「曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次「北伐」」
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
坂口和澄『もう一つの『三国志』異民族との戦い』
高島俊男『三国志きらめく群像』
陳寿・裴松之:注
今鷹真・井波律子・小南一郎訳
『正史 三国志』各巻

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『三国志』のエリート人材の教育事情

字数にして1万字弱につき、
またしても、最初に章立てを付けます。

短くまとめようとしても、次第にダラダラと。

例によって、
適当にスクロールして
興味のある箇所だけでも御読み頂ければ幸いです。

 

はじめに
1、色々と泥臭い「教育」

2、叩き上げ軍人の生涯教育
2-1 武将の物学びのパターン
2-2、武人達の一念発起
2-3 当時の学問事情

3、幼少期の教育・私学
3-1 私学の対象年齢とカリキュラム
3-2 学閥とその抗争、潁川・汝南
3-3 官渡の戦いと水面下での諜報戦
3-4 シガラミと恩恵、私学の人間関係
3-5 貴族化する名士達
3-6 名士の定義と次世代の力量

4、当時の教育の特権性

5、高等教育の行方
5-1 高等教育機関の花形・太学
5-2 地方の高等教育機関・郡県学
5-3 『三国志』版・学生運動
5-4 「清流派」と袁紹・曹操
5-5 運動の挫折とその後の飛躍
5-6 高等教育の崩壊と政府の惨状
5-7 曹魏政権末期の世相と太学

6、門戸が狭まる高等教育機関

おわりに

 

はじめに

今回は、『三国志』の人物の教育についての御話。

幼少期の初等教育から
洛陽あるいは地方での高等教育を経て、
就職までの経路の御話です。

創作物やゲームに取り組む際にでも、
武将のプロフィール作成等に御活用頂ければと
思います。

 

さて、前回、劉表時代の襄陽の話をしましたが、

色々と文献を読み漁るうちに
この地方の人材事情が
サイト制作者としては中々に面白かったことで、

地理感覚の話を一旦御休みして、
人材・教育関係の話に
焦点を絞ることに決めました。

地理・交通の話を期待されていた方々には、
大変申し訳ありません。

恐らく残り1回程度、
近いうちに再開するつもりです。

 

1、色々と泥臭い「教育」

その「教育」の意味するところは
単なる経典の物学びに留まらず、

師弟・学閥等を通じた複雑な人間関係
それに起因する就職斡旋や機密レベルの情報交換等、

恐らくは今日の大学や大学院における
学閥や研究室の人間関係以上の威力を持つ
有効な社交ツールという顔を持っています。

そして、
こういうものが戦争に応用される場合、
開戦前の戦力分析や占領地の統治に影響するので
無碍には出来ません。

例えば、『三国志』の時代における
前半部分の曹操と袁紹の台頭

こういうコネを活かして
人材を漁った成果でもあります。

人材に情報源や資産・兵力がコバンザメのように
くっ付いて来るのです。

一方で、孝廉エリート出身で戦上手であっても
学歴エリート(名士)を優遇しなかった公孫瓚は、

有効な情報が入らないわ
占領地の統治が巧く行かないわで
華北での勢力争いの馬群に沈みますし、

荊州に落ち延びるまでの劉備も
大体このパターンの軍閥に
過ぎませんでした。

 

2、叩き上げ軍人の生涯教育

2-1 武将の物学びのパターン

さて、主題に「エリート人材」と書いたのは、

『三国志』時代の要人の中には、
蜀の王平のような
異民族出身で文字も読めない叩き上げ武将
いることで、

学歴エリート=名士が受けるような
年端もいかないうちから
儒学の経典を暗記するような教育環境が
当時の標準教育とは言えないからです。

当然のことながら、
何千、何万もの軍隊を動かしたり
内政・外交の政策決定に預かる要人の大半は、

「エリート人材」として
高い教育を受けつつ学閥関係のコネを使って
大きい仕事をします。

曹操や袁紹等がその代表でして、

次の世代になると、
荀彧等のような曹操の幕僚がそれに当たり、

さらに時代が下ると、
諸葛孔明のような劉備の幕僚
これに準ずるようになります。

こうした社会の上澄みのような人材に対して、
王平や呂蒙のような苦労人か
あるいは甘寧のような役人の履歴があっても
グレていた人々は、

当時の既存のハイソな教育環境とは
縁が薄かったのですが、

何かしらの機会を利用して
勉学に励んでいます。

 

2-2、武人達の一念発起

こういう人々の物学びも
決して馬鹿には出来ないものです。

例えば、叩き上げの軍人である呂蒙は
これで知将に化けますし、

王平もその学問の本質に迫る
賢い物学びをしていたそうな。

 

また、その具体的な学習方法としては、

或る程度歳を取ってから、

呂蒙や甘寧のように
一念発起して勉学に励んだり

あるいは、
王平のように書物に明るい人を側に置いて
耳学問をしたりという具合。

今日で言うところの、
生涯教育に近いスタンスなのでしょう。

 

2-3 当時の学問事情

こういう教育の追い風になった
当時の事情として、

まずは、紙の普及により
書物が広汎に出回るようになったことが
幸しています。

これに因んで、

曹操の陣営では、
特に兵法関係の書物を
官の書庫から持ち出すのが触法行為だったりする一方、
甘寧は兵書を読むのが趣味であったりしまして、

この辺のいい加減さが笑えると言いますか。

さらには、
後漢時代の割合平和な時期に
学術普及に関わった人材の層の厚味が
まだ残っており、

曹丕の時代以降、
名士が貴族制めいた人材登用制度=九品中正を
施行する以前の時期につき、

学問の門戸が幅広い社会階層に
開かれていた事情
あろうかと想像します。

 

これに因んで、

天下の鄭玄先生なんか
借地農だったそうで、

学問の資金の規模や内訳、
書籍の価格等については
後日調べたいと思います。

 

もっとも、
後漢・魏晋から時代がかなり下った後でも
中国の王朝時代の識字率は10%程度
言われており、

当時の中国の全人口からすれば、
王平のような文字の読めない人が
標準であったことと想像しますが。

下層社会の生涯教育の話は
この辺りに止めます。

サイト制作者の浅学に起因する
所謂「サンプル」めいたものの欠如
その理由でして、

まとまった話は日を改めることと
致します。

 

3、幼少期の教育・私学

3-1 私学の対象年齢とカリキュラム

この話を始める前に、
以下の論文を御勧めします。

『三国志』の時代の既存の教育機関について
詳しく記されている論文です。

やや難しい内容ですが、
分からない部分は読み飛ばして
大体の流れを掴むように読まれればと思います。

 

陳雁
「後漢・魏晋時代における教育と門閥士族の形成」
(大阪教育大学附属図書館HP)
ttps://www.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=v3search_view_main_init&block_id=631&direct_target=catdbl&direct_key=%2554%2544%2530%2530%2530%2530%2531%2533%2532%2536&lang=japanese#catdbl-TD00001326
(一文字目に「h」を補って下さい。)

 

さて、当時の主に官僚の富裕層の子弟
幼少期から思春期までに四書五経を
暗唱できるレベルで叩きこまれるのですが、

その初等の教育機関を「私学」と言います。

また、その施設「学館」
あるいは「書館」・「小学」と言います。

さらに、私学の対象年齢は6-14歳。

その内訳は、

6-8歳で入学、
8-10歳で経学、
14歳前後に修了。

さらにはこの期間中、

五経(「詩経」「書経」「礼記」「易経」「春秋」)
の中のひとつ、
その他、黄老や詩律等を伝授します。

これが魏晋時代に入ると、
カリキュラムはさらに凝縮されます。

その好例と言いますか、

当時の教育事情の参考例として
色々な論文や文献でよく引用されるのが、

『三国志』の魏書・鍾会の伝。

漸く、今回の主役・鍾会(士季)の登場です。

学歴と職歴が大体分かっていることで、

こういう教育関係の話をする際には
優良な「サンプル」になるのです。

サイト制作者としては、
良くも悪くも新しい世代を代表する
ハイ・キャリアのエリート武将だと思います。

 

で、その伝によると、

鍾会の御母堂が人格的に優れ、
書物にも詳しい
良く出来た人のようでして、

鍾会が勉学に飽きないように
以下のようなカリキュラムで
書物を読ませたそうな。

4歳『孝経』
7歳『論語』
8歳『詩経』
11歳『易』
12歳『左伝』『国語』
13歳『周礼』『礼記』

そして、15歳で洛陽の太学に遊学します。
「太学」は当時の花形の最高学府です。
その後、20歳で朝廷に出仕。

因みに、247年の段階で鍾会は23歳。

件の教育ママのプログラムは、
230年代の御話。

 

ですが、皮肉にも、
この時代の高等教育は
かなり悲惨な状況だったりしまして、
それは後述します。

 

―余談ながら、サイト制作者は、
このカリキュラムの単位は全て落第の「文盲」です。

恥ずかしながら、15の少年にも劣る訳です。

少なくとも、
「エリート人材」の資格はありません。

 

3-2 学閥とその抗争、潁川・汝南

また、私学の場所は、
中原の他には犍為(四川省)、北方の代郡。

そして、特に私学が盛んなところは
潁川・汝南、
次いで青州・徐州・関中。

北海の孔融、徐州は諸葛亮や張昭、
関中は孔農の楊修等の楊氏、といった具合です。

で、戦禍で罹災した場合は、
荊州や江東といった他地域に逃れる
という訳です。

 

そして、以上の5つの地域の中でも、
特に、潁川・汝南は当時の学閥の双璧でして、

そのまま曹操(潁川)・袁紹(汝南)のブレーン集団に
横滑りします。

 

例えば、曹操陣営の潁川グループの筆頭格
容姿端麗で「王佐の才」の荀彧でして、
丞相の陳羣や先述の鍾会の父である鍾繇も
このグループの知識人。

鍾繇の功績を要約しますと、

官渡の戦いで前線の曹操の軍に数多の軍馬を工面し、
(恐らく、延津の戦いの陽動作戦に使われたか)

(功罪はともかく)
曹操の関中侵攻の作戦立案の主導的な役割を果たし、
太傅にまで昇進したという
曹魏政権のトップ・クラスの要人です。
亡くなったのは230年。

 

対する汝南グループの筆頭格は、
袁紹や袁術といった軍閥の総帥であったりします。

その他、人物評価で有名な許劭やその従弟の許靖等。

恐らくは、潁川レベルの大物がいなかった訳ではなく、
母胎となる政権が滅んだことで
史料が残らなかったのでしょう。

 

3-3 官渡の戦いと水面下での諜報戦

官渡の戦いなど、
まさに両グループの学閥同士の諜報戦でもありました。

特に、戦いの最終局面で決定打になった
曹操陣営による許攸の投降受け入れ
こういう諜報合戦の成果の最たるものだそうな。

しかしながら、潁川グループは、
時代が下ると共に
曹操が色々な学閥の出身者を採用したために
優位を保てず、

また潁川自体も戦禍を被ったことで、
頭脳集団として時代を乗り切ることは
出来ませんでした。

また、汝南グループの方も、
官渡における袁紹の敗戦により影響力を失い、

さらには汝南自体も曹操の勢力下にあったことで、

曹操配下の満寵が
袁紹の師弟が籠城して抵抗を続ける現地に
武力で掃討作戦を行い、
その牙城を崩壊に追い込みます。

つまりは、潁川・汝南双方が、
学術の重要拠点としての地位を保てずに
次の時代を迎えた訳です。

 

3-4 シガラミと恩恵、私学の人間関係

次に、幼少期の学問如きが
浮世の政争に強い影響力を有する学閥化する
カラクリについて触れます。

簡単に言えば、師弟関係や同窓での人間関係そのものです。

まず、学館で教鞭を取る教師を「経師」と言いまして、

この経師が少数の「登堂弟子」(都講)に
勉学を教え
この登堂弟子が数多の門弟を指導するという仕組みです。

さらに、この時の人間関係は
その後の冠婚葬祭の世話や就職の斡旋へと続く訳でして、

こういう関係の延長に
学閥の形成や情報交換がある訳です。

 

3-5 貴族化する名士達

ですが、こういう幼少時の初等教育も、
時代が下って閉鎖的になります。

 

特に富裕層は家庭教師を付けて
英才教育を施すようになりまして、

先述の鍾会などは、
恐らくは
そういう効率的だが閉鎖的な環境の中で
勉学に励んだものと想像します。

 

その背景には、

特に曹丕の時代の九品官人法以降、
政権中枢の学問エリートである「名士」が
自身の社会階層自体を貴族化・序列化(ランク付け)
する流れにありました。

 

言い換えれば、

それまでの学問の出来でのし上がる時代から

学問が出来ても、
そもそも貴族でなければ
出世が望めない時代に移行する流れにあった訳です。

 

その過程で、
門弟何千名を抱えた「経師」のような商売が
下火になり、

入学条件を上級貴族の師弟に限った学校が次々に開校し、

挙句の果てには、
孫呉に止めを刺した杜預のような
学者としても軍人としても優秀な人材までもが、

出世のために
司馬氏の簒奪を正当化する曲学阿世に手を貸すような
本末転倒な世の中になります。

そう、羊祜や杜預といった晋の名将が学問が出来たのは
決して偶然などではなく、

貴族の世界に身を置いたからには、

余程の資力がなければ
司馬氏に媚びを売って学問でのし上がるしか
出世の道が無かったのです。

まして、杜氏のように、
曹氏の忠節が仇になった家系ともなれば、
なおさらのこと。

 

3-6 名士の定義と次世代の力量

ですが、羊祜や杜預にとって幸運であったのは、

誤解を恐れずに言えば、

学問エリートの「名士」層の
形骸化(ポンコツ化)により、

彼等の周囲には
中身のない横並び思考の馬鹿が
殊の外多かったと言いますか。

 

まあその、
学問が出来るのが当たり前で
実際の政治にも実績のあった学歴エリート集団(名士層)
自分達が貴族だと言い出しましたが、

その子弟は能力(学識)がなくても貴族であり、

さらにそのような狭い世間の貴族社会の中でも
学問が出来なければ出世出来ない、となれば、

構造上、優秀な人材の絶対数が不足する訳でして、

特に、或る程度まとまった数を必要とする
郡県レベルの地方官の質が落ちるという状況が
容易に想像出来ます。

そりゃ、魏や晋に限って言えば、
曹氏、司馬氏以前に、
誰が政治をやっても世の中オカシクなるわな、と。

―そもそも、何故、
荀彧や司馬仲達等のような
学術エリート「名士」が
あんなに威張るようになったのかについては
後述します。

 

 

4、当時の教育の特権性

さて、現代の感覚で言えば
子供に岩波の訳本あたりで
儒学を学ばせることが出来る程度の話とはいえ、

平均寿命が50を切り
識字率が10%以下であろう時代の、

それも、
大半の人が徒歩で移動するという
郷里社会という狭い世間での話です。

人生の4分の1の時間を学問に使い、

さらに学問を通じて
社会の上澄みの人間同士で社交まで行うということが
どれ程の力強いコネになるのか
御想像頂ければと思います。

 

そのうえ、
こういう学問と社交が一体になったサロンの
最も上澄みの部分
―「太学」への遊学に代表されるような高等教育ともなれば、

そのステータスが
王朝や巨大軍閥の采配を担う層を意味することに
他なりません。

 

5、高等教育の行方

5-1 高等教育機関の花形・太学

先に、鍾会が15歳で洛陽の太学に進学したと
書きましたが、

『三国志』の時代の高等教育機関にも
筆頭格の太学以外にも色々ありまして、

地方の学術機関もあれば、

現代の感覚で言うところの芸大めいたところや
貴族御用達の学府もあります。

まずは、花形の太学ですが、
押しも押されぬ中央官学でして、

現代の日本で言えば、
言うまでもなく
文京区の赤門の東〇大学に相当するかと。

―無論、サイト制作者の母校、
で、ある訳がありません。

 

さて、その仕組みですが、

2年ごとに甲乙科と呼ばれる試験を行い、
成績によって科品という評価がなされ、

高い評価を受ければ
官職が与えられます。

『三国志』の要人の伝をいくつも読むと
太学出の要人の出仕年齢が各々で異なるのですが、
こういう席次の問題もあるのでしょう。

大体は20代の前半で朝廷に出仕します。

因みに、教鞭を取るのは「博士」。

 

5-2 地方の高等教育機関・郡県学

また、これに準ずる地方の高等教育機関には、
「郡県学」というのがあります。

サイト制作者の想像としては、
州レベルの異動のない
下層の地方の役人の養成機関ではなかろうかと。

これに因みまして、
太学には、正規の学生である正学生に加え、
郡国から送られてくる
聴講生のような学生もいまして、

恐らくは郡県学から送られた
優秀な学生ではなかろうかと想像します。

 

5-3『三国志』版・学生運動

太学に話を戻します。

この学府は前漢の武帝の時に
定員50名で発足しましたが、

前漢の末頃には
1000程度の学生を擁するようになり、

後漢時代の146年には、
太学を中心に3万もの学生が
洛陽に遊学していたそうな。

で、こういう学生連中が
その次の時代に何をやったかと言えば、
言論による現政権の攻撃です。

あまり関係ありませんが、
戦前の二・二六事件にせよ、
戦後の学生運動にせよ、

大抵若年のエリート層が暴れるのは、

次世代の主要な担い手を自負するのが
大前提でして、

その次の条件として、
時代の閉塞感が極まっている時です。

 

5-4 「清流派」と袁紹・曹操

それはともかく、

後漢末期当時は、
宦官とその背後の豪族の収奪が
酷い時代でして、

洛陽の学生が
宦官に歯向かう気骨のある官僚と連携して
政争に加担していまして、

正義を気取る官僚達は
「清流派」と自称していました。

曹操や袁紹といった学歴エリートは、
こういう時代の空気で育った世代ですし、

実際に宦官への刑罰の執行や宮中での大量殺戮
露程の躊躇もしませんでした。

特に、曹操の信賞必罰の政策スタンスを表す
「猛政」のメンタリティは、

師である橋玄の政治手法といい、

当人の青春時代の世相と
無縁ではなかろうと想像します。

また、彼等のような
学問を自らの力の拠り所とする「名士」は、

買官や小農の収奪に明け暮れる宦官や豪族の
アンチ・テーゼでもありました。

―ですが、そもそも学問をするには
結構な元手が掛かるのは、
前回でも書いた通りでして。

 

 

5-5 運動の挫折とその後の飛躍

ですが、こういう名士連中は、結局は、
党錮の禁等の当局の弾圧によって
政争に敗れます。

そして、その後は、

清貧を気取って地方政治に積極的に関与したり、
あるいは極左行動に走って
黄色いターバンを巻いたりしまして、

そうして冷や飯を喰っている最中、

幸にも、外戚と宦官が内訌で共倒れして
目の上のコブが取れまして。

で、いよいよ彼等「名士」の時代が来まして、

その次の時代には、
軍閥や三国の政治の主要な担い手になり、
九品中正等の制度で自らを貴族化します。

もっとも、曹操なんか、
親が札片で好き勝手やったことで、

清流派の流れの政治家としては、
その心中には複雑なものがあったと
推察しますが。

 

5-6 高等教育の崩壊と政府の惨状

ところが、「名士」の飛躍・台頭を後目に、

そもそもそういう階層の母胎とも言うべき
洛陽の高等教育の死命を制したのは、

権力の空白に飛び込んで来た董卓の横暴と
これに付随する軍閥抗争でした。

 

本当にコイツは
略奪や狼藉に加えて公金の横領や悪貨の改鋳だのと
ロクなことをしないのですが、
この混乱により、
洛陽が戦禍に遭ったことで太学も灰燼に帰します。

因みに、この混乱によって
人材センターとして脚光を浴びたのが、
劉表統治時代の荊州。

 

さてその後、太学は曹丕の代の黄初年間に復活し、
制度も当時のままで運営を始めるものの、

肝心の体制が整わないことで、
まるで用を為しません。

『三国志』の魏書・王朗の伝
曹叡の時代の太学のその辺りの事情を
詳しく書いているので、
以下は、それを大雑把に纏めます。

 

まず、教える博士の質が低く、
そのうえ大半の学生
兵役逃れやコネ作りのために来ているので
不勉強なうえに途中で抜けます。

しかも、登用試験の及第点が高くて
及第する人が少なく、

試験官も試験官で本質的なことを聞かずに
些細な字面の正誤のような問題を出し、

学生も学生で
これで揚げ足を取るような議論を
盛んに行う始末。

 

その結果、

正始年間の状況として、
政堂に集まる
大臣以下400名程度の官吏の中で、
公文書を書けるレベルの官吏が
10名以下という惨状を呈します。

 

5-7 曹魏政権末期の世相と太学

先述の鍾会はこの時代の太学で学び、

司馬仲達の政敵である曹爽等の派閥が
贅沢を極めて軽佻浮薄だと言われ、

曹叡の時代以降に無用な宮殿の造営が増えて
国庫を圧迫したことからも、

この時代の高等教育と政府の空気が
軌を一にしているように推察します。

曹叡以降の時代は
恐らく「名士」の定義が形骸化し、

曹操が挙兵した時代のように
本物の数多の名士が
戦場で命を散らす状況とは真逆で、

杜預や羊祜のような
ホンモノの名士然とした人物が
少ない時代であったのでしょう。

因みに、晋の三国統一以降の時代になっても、
状況が変わったにようには思えません。

 

6、門戸が狭まる高等教育機関

さて、太学や郡県学以外の高等教育機関についても、
触れておきます。

後漢の最末期の霊帝の時代に
洛陽に「鴻都門学」という学府が出来ます。

これは書画・絵画・文学・芸術といった、
非実学の教育機関でして、

現代で言えば、
文学部や芸大・音大の類だと思います。

この学府がその後どうなったのかは
サイト制作者の浅学につき、
分かりかねます。

設立後、程なく焼け落ちたと想像します。

 

また、俗称「四姓小候」という教育機関がありまして、
これは外戚のための貴族の学校です。

さらには、晋の三国統一の前後には
「国子学」という
これまた高級貴族の子弟のための学校も出来ます。

「前後」というのは、設立の年度に諸説があるためです。

のみならず、この流れを受けて、
先述の地方の高等教育機関である郡県学も、

この影響を受けて門戸を
貴族の子弟に制限するようになります。

 

 

おわりに

そろそろまとめに入ります。

今回の御話の要点は、
概ね以下のようになります。

 

1、サイト制作者が知る限り、
三国志の要人の物学びには
大別してふたつのパターンがあります。

一、叩き上げの武将の独学

二、富裕層の子弟が
幼少期から既存の教育機関で学習

 

2、叩き上げの武将は、

或る程度の年齢や地位に達した後、

独学で書物を読み漁ったり、
あるいは書物に明るい人から
耳学問を行います。

 

3、当時の教育関係の事情として、

紙の普及による書物の増刷や
後漢時代の教育の普及という追い風が
ありました。

しかし、人口全体としての識字率は恐らく低く、
教育の機会自体が特権であったことでしょう。

 

4、『三国志』のエリート人材は、

幼少期は私学(学館)と呼ばれる
教育機関で勉学に励みます。

在籍する年齢は、6歳から14歳位。
読書と五経のひとつ、
その他、場所によっては黄老等も学びます。

 

5、幼少期の私学での
「経師」(経学の教師)と門弟という師弟関係は、
その後の人生でも継続します。

そして、こういう人間関係が拡大して学閥を構成し、
軍閥の情報網としても機能します。

 

6、10代後半以降の高等教育機関があります。
首都・洛陽には「太学」、
地方の郡県には「郡県学」が存在します。

なお、太学では、2年ごとに試験があり、
成績優秀者は官吏として採用されます。

 

7、首都近郊や学閥の拠点の罹災により
既存の教育機関が機能しなくなります。

 

8、また、既存の教育機関で学んだ
学歴エリートである「名士」は、

自分達を人材登用制度を利用して貴族化し、
さらにその中でランク付けします。

しかしながら、
曹丕の時代の太学は
教育現場が崩壊するという惨状を
呈しておりました。

 

9、さらには、
曹魏末期から司馬氏の政府高官が
こういうところで学んでおり、

当時の政策については
史書の評価も芳しくありません。

 

10、既存の教育環境が崩壊する一方で、
外戚レベルの上澄みの貴族は
自前の教育機関を持ち、

こうした高等教育の門戸を貴族に限るような
政策的なスタンスは
地方の教育機関にも波及します。

 

 

【主要参考文献】

陳雁「後漢・魏晋における教育と門閥士族の形成」
落合悠紀「後漢末魏晋時期における弘農楊氏の動向」
上田早苗「後漢末期の襄陽の豪族」
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
山口久和『「三国志」の迷宮』
金文京『中国の歴史 04』
川勝義雄『魏晋南北朝』
高島俊男『三国志きらめく群像』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳
『正史 三国志』各巻

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郊外がワンダー・ランドな『三国志』

 

調べたことを精査せずに綴っていましたら
字数にして1万字余に焼け太ったことで、

今回も冒頭に章立てを付けます。
無駄に長くなり、大変恐縮です。

例によって、
興味のある部分だけでも
御目を通して頂ければ幸いです。

 

はじめに

1、魏呉蜀の軍隊と豪族
 1-1 呉の軍隊と開発領主(豪族)
 1-2 蜀の豪族と諸葛孔明
 1-3 曹操と配下豪族とその私兵
 1-4 勉学にも必要な元手

2、豪族集団の構成員とその影響力
3、郊外開発に打って出る豪族
4、税の軽重とその目安
5、豪族の郊外開発のパターン
6、『三国志』の「山賊」・「盗賊」の正体
7、インテリと下級役人の暗躍する
「黄巾の乱」
8、稀有な立地の例・白騎塢

9、平場の荘園のある空間
 9-1 『三国志』の荘園を写生する
 9-2 襄陽の城下の風景
 9-3 荘園の施設「あるある」
 9-4、居心地の悪い天守閣
 9-5 昔も鉄壁、要人の在所
 9-6 検証?!曹操の呂伯奢殺害
 9-7 自給自足で突っ張った豪族のその後
おわりに

 

 

はじめに

先の2回に続いて、
今回も『三国志』の時代における地理感覚
めいた御話をします。

末端の自治体組織である里や郷(離郷)、
そしてその集合体である県城(都郷)、郡城。

そしてこれらは、

徴税や裁判、治安や常設の市、
官吏登用制度等を通じて
相互補完の関係にある、

という話をしました。

ところが、『三国志』の時代には、

こういう儒教の理想郷とも言うべき
旧時代的で割合「マトモ」な
上下下達の郷里社会だけではなく、

むしろ、
その対極に位置する
実力主義的で世紀末な世間も存在します。

具体的には、
郊外の豪族の荘園がそれに当たります。

今回の話は、
この荘園に関する御話。

 

1、魏呉蜀の軍隊と豪族

1-1 呉の軍隊と開発領主(豪族)

 

さて、荘園だの豪族だのと言うと、

何だか戦争というよりは、
奴隷だの搾取だのと
固く古臭い歴史「学」上の社会体制の話になり、

読む気が失せる、
という読者の皆様も
いらっしゃるかもしれません。

しかしながら、豪族連中の私兵は、
『三国志』の軍隊組織の世間でも
極めて重要な存在でして、

特に、呉や蜀の軍隊の
戦力の中核をなしていたことで
無碍には出来ません。

中でも呉など、

陸遜のようなキレ者の都督が
豪族であったりもして、

孫権の辣腕を以てしても
集権的な体制が整いませんでした。

結果として、

拉致した山越族を元手とした
強欲な開発領主と、

洛陽・長安で働くことしか眼中にない
やる気のない中原志向の名士の集合体のまま、

時勢に取り残されて滅亡を迎えました。

 

因みに、名士とは、

簡単に言えば、
生まれが良くて学問(儒学)が出来、
学閥等で同じような人々とのコネを持っている人です。

コーエーの『三國志』シリーズで
知力か政治力が80以上の武将は、
大抵はこのカテゴリーに入ります。
(或いは、この表現の方が分かり易いでしょうか。)

詳しくは、
渡邊義浩先生『「三国志」の政治と思想』
参照されたし。

 

 

1-2 蜀の豪族と諸葛孔明

蜀の場合は、
夷陵の戦いによる荊州喪失以降は、

諸葛孔明
益州の土着の豪族・名士を差し置いて
荊州出身の根無し草のそれを優遇し、

一方で、両者を法律で押さえつける形で
王朝を体裁を保ちました。

言い換えれば、
劉備の軍隊は荊州・益州の豪族、
そして、巴蜀や漢中、荊州等の「異民族」兵隊の
寄せ集めでして、

街亭の戦いなどの肝心な場面で、
そういうシガラミが噴出する訳です。

それはともかく、
劉備の死後は、良くも悪くも、
絶対的な法の執行者としての
諸葛亮の存在が大きかった訳です。

 

 

1-3 曹操と配下豪族とその私兵

また、先進的な曹操の配下にも、
当然ながら、
李典や許褚等のような
豪族上がりの有力な武将がいまして、

この人達の場合は、
曹操が優秀であったのと
豪族の皆様の物分かりが良かったことで、

割合早い段階で、
悶着を起さずに私兵の解体に応じました。
―青州兵以外は。

曹操の軍隊が強かった理由は、
こういうところにもあると思います。

もっとも、曹魏の場合も、
良くも悪くも蜀先を行くと言いますか、

孔明も仲達も、
名士が有事を名目に兵権に手を出す過程は
酷似しているように思います。

 

 

1-4 勉学にも必要な元手

それはともかく、

曹氏政権の末期と司馬氏政権
双方に当てはまる話ですが、

文才があって
権謀術数が得意であっても、

現場を観るのが嫌いで
実務能力の低い連中が台頭して
国政を乱す流れになります。

郷里社会・豪族の荘園の双方が
長年の戦乱で疲弊
移住後に酷使されて並みならぬ不満を抱く「異民族」
国中に溢れ返っている危険な状況を看過し、

これが中国史上の大きな汚点でもある
八王・永嘉の乱の大きな伏線になります。

 

ですが、名士層とて、

資本力があって荘園に私兵を多く抱え
子弟に遊学させる余裕のある豪族層には
違いありません。

 

さらには、文才で権力を握った者とて、

歴代の中共の国家主席宜しく
色々なツテを通じて兵権だけは手放さなかった
という御話。

試験勉強のハナシとしては、

こういう流れは
役人の選抜試験である
九品中正にもつながる訳でして、

―その花形が、
知力90以上の仲達や陳羣だったりします。

 

 

2、豪族集団の構成員とその影響力

ここまでの話で、多少なりとも、
君主と豪族の関係が垣間見えたのではないか、
と思います。

つまり、君主にとっては、

有事の際には、
多数の兵隊を準備してくれる有難い側面と同時に、

家臣の体裁を取る割には、

実力があるうえに、
ヘンなグループ派閥を作ったりして
言うことを聞かない厄介な存在でもあるという。

そういう複雑な側面を持つ豪族さん達は、
そもそもどういう存在なのか
気になるところですが、

ここで、下記のアレなイラストを御覧下さい。

 

石井仁「黒山・白波考」、川勝義雄『魏晋南北朝』等を参考に作成。

これは、当時の豪族の行動パターンについて
図解したものです。

以下は、これに準拠するかたちで話を勧めます。

 

まず、豪族は、モノの本によれば、
大抵は里や郷、大きい部類になると複数の県レベルで
郷里社会に影響力を持っている富裕層です。

その実力の泉源は、
血の結束で掻き集めた
何百・何千という人的資源やそれに付随する資本

当時はタブーである同姓同士の婚姻の禁止が
緩くなっていたことも影響していたようです。

そして、こうした血縁集団の中で優秀な一族が
これを統率し、

さらには、食糧は言うに及ばず、
刀剣や弓矢のような兵器から酒のような商品まで
全てを自給自足する経済圏を持つ訳です。

 

また、郷里社会に影響力を持つ、
ということは、

経済力や政治力の多寡によっては、

県や郡はおろか、国政にまで、
自分達の息の掛かった人間を送り込むことが
可能となる訳です。

早い話、外戚や宦官の金脈が、
大豪族層という御話。

ましてや、こういう社会階層にとっては、

『三国志』の序盤の
太守や刺史レベルの新任の落下傘地方官が、
一から差配出来るような
生易しい連中ではない訳です。

 

 

3、郊外開発に打って出る豪族

次に、こういう豪族層の生活拠点
どうなっているのか、
という御話に入ります。

当然、旧来の郷や県城にも足場はあるものの、
そういう既存の拠点は開発の伸びしろに乏しく、

そのうえ、
郷里社会も富の偏在による
秩序の破壊を嫌います。

 

そこで、余った富を
郊外の田畑に開発に投資し、
住まいを現地に移します。

そして、血族の人員のみならず、
既存の郷里社会から弾き出された人々を雇って
荘園の開発や物品の生産、
そして防衛や周辺の田畑の切り取りに動員します。

 

無論、国家が模範とする
郷里社会から弾き出される人を
大量に出す時点で、
国家の統治としては失敗なのですが、

その理由は、

後漢の時代以降に限っても、

王莽や赤眉の動乱、
飢饉やそれに付随する羌族の大反乱、
北辺の烏丸や鮮卑の暴発、
豪族の小農からの収奪等、という具合に、

まあ、イロイロありまして。

 

さらには、流れ者の中には、
所謂「異民族」も含まれます。

南方の豪族なんか、
山奥に入ってまで山越を拉致しに掛かるので、
何とも始末が悪いもの。

―御明察の通り、呉の孫某の政権のことです。

 

 

4、税の軽重とその目安

これに因んで税の話をしますと、

税率ひとつとっても、
漢代は秦の反省を踏まえて
数字の上では安かったのですが、

王莽関係のゴタゴタで
国中が疲弊していたことに加え、

先述のように
豪族が御用の政治家を抱えていたことで、

低い税率で浮いた分を着服するので

末端の農民の負担軽減という点では
まるで用を為しません。

 

当然、いつの時代でも、
賢明な官僚はそれに気付き
何度も苦言を呈し、

宦官や外戚の横暴に際しては
流血沙汰の政争まで起こるのですが、

大勢としては、

黄巾の乱が起こり
曹操が台頭するまでは何も変わらなかった
と言えるかと思います。

 

もっとも、末端の農民にとっては、
正確には負担の軽減ではなく
法整備によって負担の公平感が増した、という、
切ない御話のようですが。

 

 

5、豪族の郊外開発のパターン

さて、郊外の開発には、いくつかの学術論文を読む限り、
恐らくは、少なくともふたつのパターンがあります。

 

1、山林沼沢を障壁とした「塢(う・お)」の構築
2、県城付近の水利に恵まれた平場の開発

 

1、のパターンは、石井仁先生によれば、
前漢の終わり頃から急増したパターンだそうな。
また、2、のパターンは、
恐らくは古い時代からのもの。

因みに、新県と旧県という概念があるようで、

確か、春秋時代かそれ以前に
共同体としての大体の形が成立した
領民と支配層の結び付きの深い県と、

秦が各国を占領する過程で設立した
人の入れ替わりの激しい県が存在する、

という話と記憶します。

太守・県令といった地方官の担い手の変遷や
地方ごとの人の入れ替わりについても
少なからず研究があるようですが、

サイト制作者の不勉強につき、
ここではキーワードの紹介に止め、
今後の課題とさせて頂ければと思います。

そこで、まずは、2のパターンから話をします。

 

豪族は、
イラストにありますのような
山林沼沢や峻嶮な地形に拠り、

簡単な防御施設を施して「塢」とします。

その過程で、障壁とは関係のない部分は
開墾したであろうと想像します。

 

 

6、『三国志演義』に登場する
「山賊」・「盗賊」の正体

 

この章は、

石井仁先生の
「黒山・白波考 ―後漢末の村塢と公権力―」
『東北大学東洋史論集』・9

による部分が大半でして、

本当に面白い論文ですが、
残念ながらPDF化されておりません。

こういうのを新書でダイジェストすると
売れそうな気がします。

入手方法としては、
例えば、最寄りの国立大学の書庫等で探されるか、
図書館の相互貸借を利用されますよう。

 

さて、「塢」とは、字の意味は砦の類だそうですが、
当時は武装村のような意味合いが強かった模様。

例えば、大きい部類では、
張燕の率いた「黒山賊」というのがありますが、

あの組織の母胎は太行山に存在する
無数の塢に拠る豪族層の連合体だそうな。

 

さらに、あの辺りに無数の塢があるのは、
2世紀の前半に漢王朝が羌族の反乱対策のために
建設・整備したためであり、

こういう武装村の豪族連中が、
時代が変わって
山賊上がりの押しの強い人を担いだというシナリオ。

 

白波賊も似たような話でして、
河東その他の洛陽近郊の先進地域で
何万もの人間に軍事動員を掛けること自体、

政治力のある豪族の連合体のなせる技の模様。

 

その延長として
以前の記事で「ハード・ボイルド楊奉」という
何とも下らない話をした楊奉も、
実は弘農郡の名家である
楊彪や楊修等楊氏の血族のようでして、

当人が天子を奉じたのは
義挙というよりは豪族の外交策の話の模様。

 

(過去の記事です、一応。)

三国志正史、それは盗賊と地方官の織り成すハードボイルドな世界

後日、楊氏や楊奉の話も含めて、
名家の話もしたいと思います。

 

話を戻しますが、
つまりは、『三国志』に出て来る山賊や盗賊の類は、

5万だの10万だのと、
あまりに膨大な数の人間を動員する
組織については、

本当に流れ者の集団なのか否かを疑う必要がある、
という御話です。

 

 

7、インテリと下級役人の暗躍する
「黄巾の乱」

黄巾の乱とて、
色々な社会階層の思惑の入り乱れた
複雑な政権の模様です。

少なくとも、
喰えなくなった小農の暴発だけで
括れるものではありません。

無論、横暴な高利貸しや手下の剣客の狼藉で
土地を取り上げられた側が
積極的に加わったのは、
想像に難くありませんが。

とはいえ、
そもそも、

そういう社会に不満を抱く人々を
駆り立てる側の思惑ですが、

まず、暴発した鉅鹿の辺りは
「学問」の先進地域でして、
政争で敗れた側の学閥の拠点の模様。

確かに、組織化された動きやロジック
ひとつとっても、
インテリの所業の痕跡が見え隠れします。

 

さらには役所が黄巾の張り紙を放置する等の
事務的な「過失」も
平時には在り得ない行為だそうな。

その意味では、実行部隊には
インテリや下級役人が
深くかかわっていると見るべきですし、

黒山にしても白波にしても、
黄巾の残党がゲリラ活動を
継続したものだそうで、

こういう札付きを戦闘部隊として利用して
袁紹や曹操等と対峙し、

隙あらば天子を保護しようとする
豪族層の意図を考えると、

綺麗事では済まされない
地方の群雄割拠の厳しい現実に加え、

中央の政争での劣勢の挽回策という構図
垣間見る心地です。

 

また、上記のように、
政治的な意味で作られた塢が
反体制の拠点に化ける例もあれば、

そもそも漢の高祖の劉邦様が
ああいうところに逃げ込んで
役人稼業を放り出したように、

山林沼沢には、
アジール(避難場所)として
色々な人が逃げ込んだようでして、

19世紀以降の
国民国家時代以降の例で言えば、

恐らくは、
主要な港湾都市に群がった移民が
自衛や政治的発言権を拡大するために
「〇〇人街」を作るような話です。

 

ですが、人の集まるところには、
兵隊も物資もあつまり、

結果として、
時代が下って土豪になり、

その地域の資力を基盤に
政治的な影響力を行使する、と。

 

 

8、稀有な立地の例・白騎塢

その他、イラストの白騎塢」についても
説明します。

敢えて南北朝時代のものを
イラストにしたのは、
他に目ぼしい詳細な例を
見付けられなかったからです。

その意味では、面識のない石井仁先生に
感謝しなければなりません。

 

で、白騎塢ですが、
『水経注』の当該の箇所の原文を確認すると、

ふたつの渓流のクロス地点の高台にあり、
三方に急峻な崖、西に城壁、北に塹壕、
周辺にも集落がある、

と、記してありまして、

これをそのままイラストに起こすと、
左上のようになろうかと。

 

余談ながら、
諸葛孔明が五丈原で陣没するまで本陣を構えたのも、
こういう感じの塢であったそうな。

居住性と防御性に優れ、
長期の在陣にも適していたそうです。

なお、荘園の設備の詳細については、
後述します。

 

 

9、平場の荘園のある空間

9-1 『三国志』の荘園を写生する

当時、見ず知らずの人間が
豪族の荘園で写生なんぞやったら、

軍事機密の関係で
殺されるか、あるいは、
拷問で半死半生の目に遭わされることでしょう。

それはともかく、

先に、豪族の郊外開発には
少なくともふたつパターンがある、
と書きましたが、

ここでは、

「2、県城付近の水利に恵まれた平場の開発」

について説明します。

 

早速ですが、
下記のアレなイラストを御覧ください。

 

上田早苗「後漢末期の襄陽豪族」、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』、林已奈夫『中国古代生活史』等より作成。

毎度ファミコンの一枚絵のような拙さ
恐縮しております。

 

このイラストの典拠は、
上田早苗先生の論文
「後漢末期の襄陽の豪族」
付録地図。

古い論文ですが、
PDFで読めます。

当該の論文のアドレスは以下。
ttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/152809/1/jor028_4_283.pdf
(一文字目に「h」を補って下さい。)

と、言いますか、
貧しいサイト制作者も
ダウンロードして読みました。

因みに、漢代の論文も色々ありまして、

『三国志』の内容を
斬新な分析視覚で掘り下げるものもあれば

例えば緻密な役人研究等
あまり『三国志』とは関係なさそうな
研究もあるのですが、
(当然と言えばそれまでですが)

上記の論文については、

サイト制作者としては、
上で取り上げた
石井仁先生の「黒山・白波考」と同様、
かなり御勧めしたい部類のものです。

 

話が脱線して恐縮です。
イラストの説明に戻ります。

論文に添えられた地図
先述の『水経注』の清代の注釈のもの。

この地図を元に、

漢代の荘園の壁画や
魏晋あるいは南北朝時代の
家屋を模した陶器等、

その他、いくつかの文献に掲載されていた
手書きの壁画等の模写等を
参考にイラストにしました。

したがって、
荘園内の施設の配置は
残念ながらリアリティは
乏しいかもしれません。

何故、魏晋時代のものが充実しているのに
南北朝時代のものも使うかと言えば、
魏晋時代以前のものは
大抵は色彩が剥げているか乏しいからです。

 

 

9-2 襄陽の城下の風景

因みに、イラストのモデルとなる地域は、
劉表統治時代の襄陽。

イラスト上の「県城」は、
劉表の治所である襄陽城がモデル。

加えて、襄陽城のすぐ西には
孔明がヒッキーしていた隆中があります。
西門から徒歩1、2キロ程度の圏内です。

また、イラストの手前側の中洲の邸宅は
蔡瑁が所有しており、
河川の西岸もこの人の荘園。

 

さらには、イラストの下半分の荘園は、
習氏の土地です。
恐らくは、襄陽城から
精々南に2、3キロ程度の距離。

因みに、この習というのは習近平、ではなく、
『漢晋春秋』等を書いた習鑿歯の御先祖様。

当時の御当主は、
劉琮が曹操に降った後、
劉備に従って蜀漢に入り、
関羽の荊州防衛戦で戦死されたそうな。

 

で、イラストは、この習氏の領地の立地を元に、
当時の豪族の荘園には必須の施設を加え、
さらに領主の屋敷を図解したという、

春の大特価の優れ物、とは言えないものです。

 

 

9-3 荘園の施設「あるある」

では、豪族の荘園内にはどういう施設があるのか、
と言えば、凡そ以下のようになります。

 

1、池(水源)と田畑・水門
2、高床式かそうではない精米所・踏み臼
3、倉楼
4、城壁か木柵等で覆われた豪族の住む城邑

 

他には、牛馬を飼育する牧場等があります。

以下、1、から順に説明します。

水源と田畑は食糧を自給する豪族には必須の資産で、
水門は当然ながら、両者の水位や水量を調整します。

今日ではコンピューター制御ですが、

IT化されている分、
却ってサイバー攻撃の対象になり易いそうな。

 

2、ですが、高床式は、穀物の腐敗を防ぐためです。

また、前漢時代の踏み臼の普及により、
脱穀・精米の効率が
それまでの10倍向上したそうな。

これも含めて、漢代自体が
農業技術が飛躍的に伸びた時代でしたが、

その内容は、器具の性能の向上や、
作物の成長リズムに合わせた人の使い方等、
総合的なものであったようです。

 

 

9-4、居心地の悪い天守閣

3、倉楼ですが、この時代の高楼の存在意義は、
防衛・監視のみならず、
富や権力の象徴でもありました。

ですが、こういうところの居住性については、
どうも良くなさそうな。

 

物は試しに、
近場に国宝級の天守閣がある方や
旅行で行かれる方は、

入場料も高くないことで、
一度登られることを御勧めします。

因みにサイト制作者は、
旅行で戦国マニアの友人達と
天守閣の松本城に登ったのですが、

友人曰く、
居住性の悪さを体感出来たことが
良い経験になった、とのこと。

無論、この種の施設からは、
バリア・フリーという概念は
微塵も感じません。

 

因みに、当時の倉楼は、
4層程度が標準の模様。

高い理由は、防衛や権威以外にも、
盗難対策があります。

また、戦乱の長期化によって、
施設自体が大型化したようでして、

そういう部類の施設になると、
1棟で1万石(267トン)以上の穀物が
備蓄出来たそうな。

食糧難の時代につき、

攻略目標に間諜を忍ばせる際、
こういう倉庫をいくつ持つかで、
相手の戦力の多寡を
推し量るのかもしれません。

 

因みに、漢代の壁画には、
農地に併設される形で書かれていたので、
城邑の中に作られている訳ではなさそうな。

実際に戦争にでもなれば、
兵糧の大部分を
城邑の中に搬入するのかもしれません。

 

余談ながら、太平洋戦争の折、

ある島の攻防戦で
(確か、天王山のガ島と記憶しますが)
米軍が日本軍の兵力を推測する時に
目安にしたのが、

何と、トイレの数。

地味ながら、
諜報活動の神髄と言いますか。

 

 

9-5 昔も鉄壁、要人の在所

さて、「4、城壁か木柵等で覆われた豪族の住む城邑」
について。

周辺の施設をひととおり説明して
外堀を埋めたところで、
いよいよ本丸・領主の城邑に突入します。

モノの本によれば、
豪族の在所は村(里や郷)の原型であったそうな。

また当時の県城や先述の白騎塢の状況から察するに、
資力のある豪族は、
村に木柵や土塀・土塁、城壁を施すことも
可能であったと思います。

 

また、魏晋時代の塢の焼き物を見ても、
城郭と四隅の高楼は必須のようでして、

サイト制作者は
豪族の館のみならず村の居住区の外縁にも
何らかの防御機能が施されており、

四隅には監視所としての高楼が
配置されていたのではないかと想像します。

まして、
豪族の寝起きする館は息が詰まるような有様でして、
硬度も耐火機能も揃った堅牢な外壁は当然のこと、

外壁には窓そのものがなく、
2階部分に精々通気口があるといった徹底ぶり。

そのうえ、屋敷内の四隅の高楼や
二層以上の御殿からも監視・防御態勢が取れるので、

寄せ手が守備側と同数の兵力では
正面攻撃では太刀打ち出来ない作りになっています。

 

言い換えれば、
それだけ豪族間の抗争が凄まじかった訳です。

そのうえ、この時代の豪族には、

荘園内の民には善政を施しても
県城や荘園の外で狼藉を働くようなクズ
少なからずおり、

優秀な地方官程、
こういうのを騙し討ちや離間工作などのような
効率的なかたちで、
周囲には「穏便」に排除しました。

 

一方で、豪族の日常生活は、

外の物々しさとは裏腹に、
広い厨房があり、庭には高価な鶴をまわせるわで、
至り尽くせりな状況を想像させます。

こういう内外の空間の差異が大きい部分は、
地方にいくつか存在する
今日の要人の邸宅を観る分にも、

時代が下っても変わらないものを感じます。

社交場という意味合いも強いのでしょう。

 

因みに、屋敷内のイラストは
漢代の壁画の模写ですが、
壁画自体、あくまで大体の略図だと思います。

何千もの血族や
客と呼ばれる剣客等の雇い人を抱える豪族であれば、

身辺の世話をさせる人間を常駐させるだけでも
4区画程度の敷地では到底足りないでしょう。

 

 

9-6 検証?!曹操の呂伯奢殺害

また、これに因みまして、

例えば
『三国志演義』に出て来る
曹操が呂伯奢を殺す話など、

サイト制作者は
先走って居直る曹操を
庇う気はありませんが、

明代の作り話とはいえ、

宿泊者にとっては
富裕層の広い屋敷で厨房が騒がしいことが
どれだけの危険を思わせるか
想像出来るかと思います。

もっとも、旅行関係の統計を見る限り、
アジア人自体が
騒々しいのが好きな面もあることで、

客観性に乏しい話かもしれませんが。

 

 

9-7 自給自足で突っ張った豪族のその後

ただ、こういう利権に安住した豪族にも
良い未来はありません。

例えば、劉表の死後、
こういう古い豪族は曹操にこぞって降り、
この時代は事なきを得ました。

で、この時、徹底抗戦を主張した劉備は、
領内で孤立して散々な目に遭いました。

この時の新野から江夏までの撤退戦が、

『三國志演義』で趙雲が頑張った、
例の長坂の戦い。

先日のBSの『趙雲伝』でも
大袈裟な大立ち回りをやっていました。

 

しかしながら、
豪族連中が独自の経済圏を持って
生活どころか軍事までコストを負担するというような
非効率なことを、
社会全体で1世紀も続けた結果、

国の経済力が完全に疲弊し、
肝心な時に防衛力を発揮出来ません。

結局は、非効率な負担のツケを
「異民族」の強制移住や酷使で辻褄を合わせ、

当然の結果として、
彼等に背かれて先祖伝来の土地を蹂躙されるという
最悪の結末を迎えます。

蔡瑁の一族なんぞ、
それまでは順調であったものの、
永嘉の乱で呆気なく滅亡したそうな。

 

その意味では、後代の南朝文化なんぞ、
サイト制作者には魏晋時代の失政の徒花に思えて
仕方がありませんし、

『三国志』の物語の肝や魅力も、

無数の軍閥や複数の王朝が
後先を考えずに発揮した

ひとつの時代に
最大限に凝縮されたエネルギーめいた部分に
あるのかもしれません。

 

 

おわりに

例によって、纏まりに欠ける話で大変恐縮ですが、
最後に内容を整理すると、概ね以下にようになります。

 

1、豪族の私兵は、『三国志』の時代の前半は、
軍閥の軍事力の中核であり、

特に、呉では滅亡まで変化がなかった。

 

2、豪族は郊外の田畑に投資し、
自らの居館を構築する。

 

3、豪族の居館や居住区には
堅固な防御施設が施されている。

 

4、豪族の郊外開発には、少なくとも2種類あり、

一、県城の付近に城邑を構える
恐らくは古いタイプ

二、山林沼沢に防御施設を施す「塢」

 このふたつに区分可能。

 

5、基本は自給自足であり、
穀物は元より、商品の製造・販売を手掛け、
荘園の防衛も自らの手で行う。

 

6、豪族は既存の郷里社会にも足場がある。

 

7、豪族は血族と雇い人で構成され、

大きい部類では
何千家(当時は一家4、5名)の規模を誇り、
ひとつふたつの県程度に大きな影響力を持つ。

 

8、優秀な子弟に英才教育を施し、

地方・中央を問わぬ政界はおろか、
宦官・外戚等、
宮中にも人送り込んで利益誘導を行う。

 

9、恐らく、一能一芸や労働力として雇う以外では、
外部の人間には排他的である。

 

10、新任の地方官は、
政策の取捨選択にあたって、

実力があって扱い辛い豪族の中で、
政策に応じて敵味方を鑑別して使い分ける。

 

 

以上のような話が、
今回の駄文の骨子となろうかと思います。

 

また、見苦しい言い訳も一応。

本当は豪族の荘園の立地の話だけを
する予定でしたが、

土地の話だけでは
イラスト等に実感が持てないと考え、

敢えて難しいテーマにも手を出しました。

ですが、学会ですら
侃々諤々の議論がなされているであろうテーマに対して、

何本かの論文を拾い読みした程度で
モノを書こうとすること自体が
そもそも失笑モノな話です。

その意味では、
豪族の存在に興味を持たれた方に
おかれましては、

豪族の存在意義にかかわってくるような
理解に膨大な知識を要する部分については、

無責任な話で恐縮ですが、

あくまで調べ事の取っ掛りに過ぎない駄文として、
話半分で御願い出来れば幸いです。

典拠も下記に記しますので、

例えば、手始めの方策としては、

まずは、PDFで読める論文の注釈等を使って、
豪族研究の本丸となる文献を探されると
宜しいかと思います。

 

 

国立情報学研究所の論文検索サイト
ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

 

【主要参考文献】
(今まで書き忘れていましたが、
敬称略です)

上田早苗「後漢末期の襄陽の豪族」
石井仁「黒山・白波考」
「六朝時代における関中の村塢について」
越智重明「後漢時代の豪族」
鶴間和幸「漢代豪族の地域的性格」
張学鋒「曹魏租調制度についての考察」
『史林』第81巻6号
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
金文京『中国の歴史 04』
川勝義雄『魏晋南北朝』
西嶋定生『秦漢帝国』
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』各巻

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『三国志』の時代の農村都市「郷」

今回も000字程度となったことで、
以下に章立てを付けます。

興味のある部分だけでも
御覧頂ければ幸いです。

加えて、
主要部分は以下の御本からの引用が多く、
それに後漢時代の状況を加味しています。
柿沼陽平先生の『中国古代の貨幣』(吉川弘文館)

 

はじめに
1、郡内における
「県」・「郷」・「里」の分布状況
2、ある郡の事情と某国の郡
3、「郷」の顔役と役人達
4、郷里の世間と群雄
 4-1、エリート群雄の登竜門・「孝廉」
 4-2、教育と学問と乱世の姦雄
5、県城の機能
 5-1、県城の規模と城内の里
 5-2、田畑の資産価値
 5-3、常設の市の概要
 5-4、軍事上の係争点としての末端拠点
おわりに

 

短くまとめるのが本当にヘタ
大変恐縮です。

 

はじめに

今回は『三国志』の時代の農村都市「郷(きょう)」の御話。

前回はこの時代の農村の話をしましたが、

『三国志』の時代の村・「里」(当該記事)

今回は、この「里(り)」が密集する、
もしくはいくつか点在して構成する「郷」について、
詳しく見ていこうと思います。

 

1、郡内における
「県」・「郷」・「里」の分布状況

漢代の言葉に「十里一郷」というのがあるのですが、

これが意味するところは、

行政側にとっては、
里が10箇所でひとつの郷を形成するのが
大体の目安ということです。

さて、前回「里」の話をしたことで、
折角ですので、「里」や「郷」を含めた
広域的な地図のモデルを見てみましょう。

具体的には、以下のようになります。
因みに、これはひとつの郡内の地図のモデルです。

 

柿沼陽平『中国古代の貨幣』p131の図を加工。

文献の地図が非常に分かり易いことで、
前回の記事でも
これを使って説明すれば良かったと後悔しております。

この図で、郡―県―郷―里、の、
末端自治体の位置関係がかなり整理出来たかと
思います。

目ぼしい拠点には防御施設があり、
主要な拠点同士は幹線で結ばれています。

青線を施したのは、
サイト制作者の主観ですが
軍道としての側面もあると想像したからです。

恐らく、王朝の治安の拠点である亭も、
こういう道を網羅していることでしょう。

因みに、
始皇帝の開削した主要幹線道路なんか
道幅70がメートルもありまして、

これは官民共用とはいえ、
その中央の7メートルは
自分の馬車専用であったそうな。

今日の田舎の国道も顔負けの規模です。

 

2、ある郡の事情と某国の郡

「郡」と「県」をめぐる話について、
実例も一応紹介しておきます。

例えば、首都・洛陽近郊に、
河内(かだい)郡という郡がありまして、
後漢時代には郡内に野王県・温県・朝歌県等
16の県がありました。

治所は時の政情で変わるようでして、

例えばこの郡も、
反・董卓の兵乱の際に
冀州刺史の某が県の治所を
野王から山間部の温に変えたことで、

住民が動揺して
国境地帯の住民(所謂「異民族」でしょう)
に付け込まれまして蹂躙されましたとさ。

そのうえ、
正義の諸侯の主力がここに集結したことで、
現地で略奪を働いて郡内が壊滅したという
救いようのない御話。

これを諫めたのが仲達の兄の司馬朗ですが、
当時は官界デビュー直後の若造につき
相手にされなかったそうな。

正史の文脈としては
某が無能というよりも、
晋の皇族の手柄話なのかもしれませんが。

後、蛇足ながら、東の何処かの国にも、
奇しくも「河内郡」(読み:かわち)
というのがありまして、

それも、「河内音頭」の大阪府河内郡以外にも、
茨城・栃木の2県も。

良く言われる話ですが、
日出る国と沈む国とでは
郡・県の上下関係が逆です。

―理由はサイト制作者の不勉強で、
御存知の方がいらっしゃれば
教えて頂きたい位ですが。

で、むこうは太守の治める郡の下に、
県令の治める県があります。

先述の反董卓で名乗りを上げた群雄が、
大体は郡の太守クラスです。

言い換えれば、
何十万という人口から徴税し、
さらにその資力で兵権を弄って
兵乱のトリガーを引く訳です。

一方、こちらは、大正時代まで郡長おり、
大抵は県庁の退官者が
形ばかりの試験を受けて就任したのですが、

地方社会への政治的な影響力は
或る程度あったものの、

決済する予算は少なく、
その実態は、
ほとんど名誉職のようなものでした。

広域的な合併が進み、
郊外の工業団地や農村も
「市内」となる前の時代の話です。

 

 

3、「郷」の顔役と役人達

つまらない話を恐縮です。
そろそろ、本題に戻ります。

そして、ここで注意すべきは、
里の分布状況です。

さて、先述のように、
ひとつの郷の中に里が点在している場合もあれば、
1ヶ所に密集している場合もあります。

もっとも、この図はモデルですので、
当然ながら、
6つの里が集まって
県城や郡城を構成するという訳ではありません。

ですが、「郷」クラスの地域になると、
その地域との政治的なつながりが強くなって来ます。

まず、郷の代表を「郷三役」と言います。

これは、役職名ですが、
自民党の「党三役」等とは違い、
構成員は郷の代表1名です。

郷三役は、
各々の里の指導層である「父老」から選出され、
郡や県の命令を、
里の代表である「里正」に下達します。

恐らく、その辺りの当局の政策の内容や意向は、
郷三役や父老、里正で共有されるのでしょう。

また、或る程度大きい郷になると、

訴訟を担当する「嗇夫(しょくふ)」
徴税を担当する「游徼(ゆうきょう)」

といった役人が駐在します。

この辺りは、
秦代からの制度が継承されていると推察します。

 

 

4、郷里の世間と群雄

4-1、エリート群雄の登竜門・「孝廉」

そして、
政策の下達だの、訴訟だの徴税だのと、
地方政治の実務にかかわる話が出て来ることは、

同時に、村落の富裕層にとっては、
中央政界への末端の入り口が
存在することも意味します。

具体的には、
漢代の人材登用制度に
「郷挙里選」というのがあります。

この人物評価システムは、
地方官が中央政府に
在地の優秀な人間を推薦する
というものです。

そして、その前の段階で、
末端の里郷が
地方官に推薦する候補者を選定します。

さらに、この選定の際、
最重要視された科目が、「孝廉」。

つまり、孝行と清廉潔白。

何故こういう小難しい話をするかと
言いますと、

曹操や袁紹、公孫瓚といった、
『三国志』の前半の軍閥で頭の切れる奴は、
大抵はこれをパスした
地域社会の名望家の出身だからです。

言い換えれば、彼等は、
教養の部分で価値観を共有している訳です。

 

 

4-2、教育と学問と乱世の姦雄

当然、その人材推薦のかなりの部分は
富裕層の猟官目的の功利主義
動いていまして、

例え田舎で推薦される人は
人格的にはアレでも、

孝行や清廉潔白をアピールをする
処世術や文言を、
幼少から英才教育で叩きこまれる訳です。

で、このバック・ボーンとなる思想としての
儒教の存在があると。

ところが、前漢の段階で、
孝廉については過度なアピールが目立つだの、

後漢に入って学生が増えてからは、
学生は大学でロクに勉強せず
コネ作りに励むだのと、

官界の人材システムには
色々と悪評はありました。

その意味では、曹操なんか、
試験の出来は悪かったが、
仕事は出来た上に教養もあったことで、

当時の制度と実態の乖離を
体現したような人物であったのかもしれません。

まあその、儒教の勉学は、

現在の感覚で言えば、

人間修養というよりも、
司法試験や公務員試験対策としての
六法の暗記に近いのでしょう。

もっとも、
全部が全部、功利主義ではないでしょうし、
社会道徳を学ぶ側面もあると思いますが。

 

 

5、県城の機能

5-1、県城の規模と城内の里

またしても、話が脱線して恐縮です。
拠点としての「里」の話に戻します。

さて、里が密集した「郷」は
特別な拠点でして、

その地域の中心的な都市として
さまざまな機能を兼ね備えます。

具体的には、

身分の高い役人が常駐したり、
こういう人々が日用品を買うためもあり
常設の市が立ち、

高い城壁のような防御施設も充実します。

で、その規模ですが、
里が10単位も密集すると、
同じ「郷」でも県の治所である「都郷(ときょう)」
となります。

対して、それ以外の郷を「離郷(りきょう)」
と言います。

ここで、密集した郷の実例を見てみましょう。
以下の、アレなイラストを御覧下さい。

なお、識者は
この古城を県城(都郷)と推測しています。
その前提で、以下を綴ります。

なお、周辺の田畑は、
サイト制作者の想像(妄想)ですが、
複数の文献の内容を参考にしました。

さて、まず、城壁の中に、
区画整備された「里」が
規則正しく配置されていまして、

各々の里は土塀で覆われており、
「監門」と呼ばれる門番が常駐し
決まった門限で門を開閉しています。

中の仕組みは、
前回の記事の内容と同じと推測します。

 

 

5-2、田畑の資産価値

また、郷の構内がこれだけ広くなると、
周辺の田畑への通勤の有利不利
出て来ます。

郷の富裕層は城壁の周辺に田畑を持ち、
これを「負郭」と言います。

通勤にも防衛にも有利で、
資産価値が高い訳です。

もっとも、
実際に農作業に従事するのは
使用人だそうですが。

対して、貧困層は、
城郭から遠い
「負郭窮巷」と呼ばれる田畑に通い、
繁忙期は泊まり込みで作業をします。

そのうえ、
籠城戦にでもなろうものなら
真っ先に荒らされる訳です。

守備隊が打って出て野戦を行うのも、
大抵はこういうところでしょう。

 

 

5-3、常設の市の概要

また、物流に関しては
先述のように常設の市が立ちます。

この市は大抵は城門の付近にありまして、

市は土塀に囲まれており
ここでも門番が門限で開閉しています。

また、市の中央の「旗亭」
謂わば警察署に加え、
集会所、飲食スペースを兼ねた施設でして、

地方官が演説をぶったり、あるいは、
塾なんかも開かれています。

施設の責任者である亭長は、
地方で信用のある年配者が担当しています。

村落の亭長とは
任用の基準が異なるのかもしれません。

その他、中央の高楼では、
城壁の外の外敵の監視も行うようです。

 

 

5-4、軍事上の係争点としての末端拠点

その他、注目すべき点としては、
点在する里が道沿いにあるのに対して
この種の主な集落は道を貫通していまして、

これが意味するところは、

侵攻軍の移動に際して
こういう集落を通過する必要があることを
意味します。

実際、『三国志』の時代にも、
「亭」(先述の県城内の「亭」とは異なる)等の
末端の交通の拠点が
戦場になっていまして、

施設の単体での防衛力はともかく、
要衝として争奪の対象になっていることは
注目に値します。

例えば、曹操の対袁紹戦における黄河渡河後の
演義の「十面埋伏」で有名な「倉『亭』の戦い」も、

恐らくその種の戦闘なのかもしれません。

 

 

おわりに

例によって
無駄に長くなりましたが、
纏めに入ります。

 

1、「里」が集まったものが「郷」。
点在するものもあれば、
密集するものもあります。

 

2、密集した「郷」の中でも、
大きな部類は地域の中心となります。

県の治所となる郷は「都郷」
そうでない郷は「里郷」。

 

3、郷の代表は「郷三役」。
里の指導層である「父老」の中から選出されます。

また、或る程度大きい郷になると、

訴訟を担当する「嗇夫(しょくふ)」
徴税を担当する「游徼(ゆうきょう)」

といった役人が駐在します。

 

4、中央政界に推薦する人材の候補者を
最初の段階で絞るのも、里や郷です。

 

5、県の治所である「都郷」になると、
常設の市が立ちます。

市は城門の付近にあり、土塀で囲まれています。

中央には「旗亭」が設置されており、
警察署・集会所等の機能があります。

 

6、城壁で囲まれている郷の中の里は
区画整理のうえ配置されています。

さらに、各々の里は土塀で囲まれており、
門番が門限で門を開閉しています。

 

7、県城クラスの郷の田畑は、
城壁からの遠近で資産価値が分かれます。

城壁から近い田畑は
「負郭」と呼ばれ資産価値が高く、

遠いものは「負郭窮巷」と呼ばれ、
通勤に不利で戦禍にも遭い易い状態にあります。

 

8、規模の大小にかかわらず、
交通の要衝で防衛施設のある拠点は、
戦争の際には係争点になる確率が高くなります。

 

 

【主要参考文献】

柿沼陽平『中国古代の貨幣』
川勝義雄『魏晋南北朝』
西嶋定生『秦漢帝国』
西川利文「漢代における郡県の構造について」
『佛教大学文学部論集』81
小嶋茂稔「漢代の国家統治機構における亭の位置」
『史学雑誌』112 巻 ・8号
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』

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『三国志』の時代の村・「里」

はじめに

今回は、『三国志』の時代の
村とその生活空間についての御話。

以降、何回かに分けて綴っていきます。

因みに、章立ては以下。
本文は4000字程度になってしまったことで、

興味のあるところだけでも
御目を通して頂ければ幸いです。

 

はじめに
1、流亡も旅路
2、可愛い英雄には旅をさせよ
3、定住の地の大小
4、最小の居住地「里」とは?
5、限られる移動手段
6、買い物の生活も徒歩の圏内
7、役人の来ない「里」と
  有象無象が集うアジール・山林叢沢
おわりに

 

 

1、流亡も旅路

さて、高校で世界史Bを履修された方は、
漢代の地方自治制度である「郡国制」
というのを多少なりとも記憶されているかと
思いますが、

当時、平民として少ない資産で
慎ましく生活する分には、

何事も無ければ、
自分の住む郡や国の境界線をまたぐ機会は
滅多に無い「筈」でした。

なお、この時代のは、
中国の東半分のごく限られた地域でして、
小さい郡程度の面積です。
皇族が治めます。

ところが、
3世紀という時代自体が
平均気温が3℃下がるという気候の大変動期であり、

そのうえ、三国志関係の戦乱や
それに先立つ羌族の反乱等に起因する
戦禍の規模がシャレにならなかったことで、

従軍に加えて飢饉・略奪・権力による強制移住等
貴賤を問わず数多くの民がそれまでの住処を追われて
難民のような流亡生活を強いられた時代でした。

長安からの移民で構成された
劉焉直属の「東州兵」など、
恐らくはそうした流民の典型だと思います。

こういう状況を反映してか、
前近代の社会においては
旅≒戦争という認識がありまして、

これは何も、
中国に限ったことではなく、

例えば「旅団」だとか、
旅と軍隊生活が結び付く言葉が存在する理由は
こういうところにあるように思います。

 

 

2、可愛い英雄には旅をさせよ

もっとも、割合ポジティブな旅もあります。

例えば、
行商が生業であれば
旅そのものが生業ですし、

資産家の子弟や高級官吏にでもなれば、
都会への遊学、地方官就任や監察等によって
旅行する機会を得ます。

また、色々あって盗賊にでもなれば、

触法行為である乗馬は元より、
隊商を襲ったり、官憲から逃げ回ったりして、
必然的に行動範囲が広くなりまして、

そういう意味では、
同じ旅でも戦争・戦災以外にも
色々ある訳ですが。

で、行商・遊学・地方官就任・逃亡生活、
そして従軍・戦災―、

因みに、侠の世界に片足を突っ込んで、
戦災に遭う以外は全てやったのが劉玄徳。

もっとも、陣中で食糧不足で人肉を喰うような
戦禍レベルの悲惨な負け戦は
何度も経験しています。

こういうあらゆるタイプの旅を実践した
豊富な人生経験も、
英雄の資質のひとつなのかもしれません。

 

 

3、定住の地の大小

さて、今日の感覚とは異なる
ブッソウな三国の時代にもかかわらず、
従軍以外にも旅をする人がいる―、

何だか、
ダブル・スタンダードで
見えにくい話ですが、

その実相に少しでも近く迫るためには、

そもそも、人々がどのような空間で生活していたか、
ということを知る必要があろうかと思います。

それでは、早速ですが、
以下のアレなイラストを御覧下さい。

 

早い話、当時の人口の大半であろう農村の中国人は、
イラストにあるような
「里」という集落で生活していました。

この単位集落の集合体が「郷」であり、

さらに「郷」でも規模の大きいものになると、
県や郡の県令や太守の所在地「治所」と言います)
であったりする訳で、

都郷、あるいは県城と言います。
郡の治所も、こういう拠点です。

こういう集落の集合体の最大の部類が、
邯鄲や臨淄等の戦国の王都でありまして。

 

ここで少々整理しますと、

里・郷は居住区とその周辺の田畑の
ごく限られた地域。

対して、県・郡・国・州は、
山岳・河川・道路等を含めた
地図で区分出来る広域的な領域を意味します。

―サイト制作者の理解が間違っていなければ。

 

【追記】

「郷」も「県」と同様、
居住区とその周辺の田畑だけでなく、
地図で区分出来る広域的な領域を持っているようです。

サイト制作者の勉強不足で恐縮です。

 

4、最小の居住地「里」とは?

続いて、「里」の構造について説明します。

「里」『三国志』の時代を含めた
古代中国の村と言うべきものでして、

簡単に言えば、
大体100軒程度の密集した住宅を
土塀で囲ったものです。

土塀のような防御施設がないところも
ありますが、
住宅が密集している所謂「集村」である点は
変わりません。

また、当時は1世帯辺り、大体4、5名でして、

単純計算で
大体500名程度の居住区となりましょうか。

そして、こういう小規模な集落は、
大抵は道に面していまして、
その門を「閭(りょ)」と言います。

さらに、入ってからすぐ左の居住区
「閭左(りょさ)」と言います。

ここは、集落でも貧しい部類の人が住んだところで、
粗末な小屋が乱立していたそうな。

その他、貧しい人々の中には、
普通の民家の軒下で風雨をしのいだり
道端で寝転がる人もいたようです。

現在のホームレスの方々のいらっしゃる風景と
似たような印象を受けます。

 

 

5、限られる移動手段

また、仕事である田畑は土塀の外側にありまして、

男性の場合は、朝は土塀の外側で農作業に従事し、
夜には土塀の内側の居住区内に引き揚げます。

因みに、漢代に入ると牛耕が盛んになりましたが、

一方で、三国志の時代は戦争による消耗と徴発で
牛馬が著しく不足した時代でして、

また飼料どころか食糧にも事欠き、
家畜の飼育が農家の大きい負担でもありました。

その意味では、
農村の広汎な層が
耕作・移動・運搬に牛を利活用出来たか否かは、
大勢力の屯田でもなければ難しかったと想像します。

弱小貴族が馬の調達が出来ずに
牛車に乗らざるを得なかったのが当時の実情であり、

戦争では、
敵陣に向けて馬を解き放つ攪乱作戦が非常に有効でした。
敵兵が(高価な)馬の略奪を始めて隊列を乱すからです。

三国志の時代には、こういう策が何度も使われ、
これで足を掬われて戦死した筆頭格が文醜。

 

一方、外で働く男性とは対照的に、
女性の場合は
人前に姿を見せないのが建前でして、

当時の模範的な考え方としては
家内で生地の生産に励むことでしたが、
男性が従事した例も少なからずあります。

残念ながら、サイト制作者には、
農村の末端の社会での
女性の詳細なライフ・サイクルについては
現時点では分かりかねます。

恐らく、上流社会に比べて、
力仕事以外は男女兼用の仕事が多いという具合に、
臨機応変に対処していたように想像しますが。

 

 

6、買い物の生活も徒歩の圏内

さて、里の中で自給出来ないものに関しては、
外に買い出しに行くか、
または定期的に地元民の開く市が立ちます。
行商もこういうものに混じっているのでしょう。

言い換えれば、
「里」クラスの集落が単体で存在する場合は、
徴税・裁判の役人がいなければ
常設の市も存在しないのです。

 

ですが、先述の「里」の集合体である「郷」の中でも、
県の治所である「都郷」クラスであれば
常設の市があります。

因みに、県の治所ではない郷を「離郷」と呼びます。

では、自分の住む「里」から「都郷」
どれ位離れているかと言いますと、

余程峻嶮な地形か辺鄙な場所でもない限りは、
日帰りあるいは2日程度で往復出来る距離にあったと
思われます。

 

その理由はいくつかありますが、

例えば、当時の役人の生活サイクルは、

普段は郡県の治所である都郷の官舎で
単身赴任で生活し、

5日に一度は自宅に帰って体を洗う
というものでした。

また、当時の治安活動の末端拠点である
その責任者である亭長及び部下数名が、

郷の市場や道路網を中心に、
半径2キロの範囲で
面的に配置されていることです。

また、自治体である里と郷、軍事・警察拠点である亭、
この三者の数のバランスを考えても、

遠距離を思わせるようなバラつきが
見られないからです。

こういう徒歩の生活圏に根差した
治安当局の監視体制の存在は、

余程峻嶮な地形や
人の寄り付かない場所でもない限りは、

里や郷の住民にとっては、
最低限の生活物資が
近場で賄えたことを示唆しているように思います。

もっとも、強盗は頻繁に出没したそうですが。

なお、亭の話は、
詳しくは後日と致します。交通の話も含めて。

 

 

7、役人の来ない「里」と
有象無象が集うアジール・山林叢沢

 

また、里を構成する住民の内訳ですが、

里の長を「里正」
年配の指導層を「父老・父兄」、
働き手を「子弟」と言います。

さらに、官の政策の通達に関しては、
郷の指導層から受けることになります。

先述のように、里レベルの集落には
まず役人は来ないからです。

 

最後に、先述のイラストに出て来る「山林叢沢」ですが、
集落から外れた
人の寄り付かないところにあるのが御約束。

サイト制作者の育った団地の外れにも、
ゴミや廃車が不法投棄されているような
区画がありまして、

この時代同様、
開削中の山裾や雑木林であったりします。

他にも、大きい廃墟施設なんかもそうですが、
暴走族の方々等が
こういうところを拠点に使用する訳でして、

この辺りの感覚は、
時代が下っても変わらないものだと思います。

 

で、『三国志』の時代の話ですが、
そもそも漢の高祖様自体が
これを悪用して役人稼業を放棄したこともあり、
推して知るべしです。

王莽政権の時代辺りから武装村と化し、

三国志の時代には
北方では所謂「異民族」もこれに紛れ込み、

山賊の範疇には収まらない
後世の梁山泊も顔負けのカオスな状況を呈して
政権側を大いに悩ませます。

一方で、強兵の泉源もあったりしまして、
程昱なんか官渡の戦いの時期に、
こういうところでも募兵を行っそうな。

ですが、
その御話は長くなるので、また後日。

 

 

おわりに

例によって、
余分な話も随分混在して恐縮ですが、

ここで、今回の「里」の特徴について、
簡単に纏めます。

 

1、まず「里」とは、
三国志の時代を含む古代中国における
居住地の最小単位です。

 

2、大体100軒程度の民家が集中する居住区で、
土塀等の防御施設がこれを囲みます。

 

3、里は幹道等の道沿いにあり、
集落の入り口である閭は
道路に面しています。

また、閭を潜ってすぐ左側の居住区には
貧しい人の民家が集中しています。

 

4、田畑は土塀の周辺にあり、

住民は朝には塀の外に出て
日が暮れるまで働き、

夕方乃至夜には、
塀の中の居住区に戻ります。

 

5、里の統治者を「里正」と言います。

上位の居住区である「郷」の人間から
官の通達を受け、
居住区内の住民にそれを伝えます。

 

6、里で自給出来ないものについては、

常設の市場のある県城に買い出しに行くか、
定期的に立つ市を利用します。

 

そして、こういう居住区の集合体が「郷」であり、

「郷」の中でも規模が大きく交通の要衝であるところは
県の治所である「都郷」(県城)、
さらに大きいものになると
郡の治所さえ兼ねることになります。

 

 

【主要参考文献】
柿沼陽平『中国古代の貨幣』
川勝義雄『魏晋南北朝』
西嶋定生『秦漢帝国』
西川利文「漢代における郡県の構造について」
『佛教大学文学部論集』81
小嶋茂稔「漢代の国家統治機構における亭の位置」
『史学雑誌』112 巻 ・8号
石井仁「六朝時代における関中の村塢について」
『駒沢史学』74
「黒山・白波考」 『東北大学東洋史論集 』9
宮川尚志「漢代の家畜(上)・(下)」

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『三国志』に登場する鎧アレコレ

今回も無駄に長いので、
以下に、章立てを付けます。

適当にスクロールして
御覧になりたい箇所だけでも御読み頂ければ幸いです。

 

はじめに

1、前漢時代の甲冑

1-1、後漢王朝の軍の事情
1-2、古代中国における鎧の部位と前漢時代の鎧
1-3、前漢時代の軍装
1-4、有り触れている被り物と武器
1-5、意外に重要な(?)履物の話

2、後漢・三国時代の鎧の特徴

2-1 兜の主流・蒙古鉢形冑
2-2 泥臭い「文化交流」の産物・両当鎧
2-3 筒袖鎧とその運用
2-4 明光鎧とNHK人形劇の話
2-5 『三国志』の鎧とドラマの考証の話

3、当時の常識?!鎧を纏わない無名の戦士達

3-1、官渡の戦いとそれまでの曹操の用兵
3-2、古代中国の戦闘の流儀と鎧
3-3、昔の民兵?!豪族の私兵
3-4、鎧を必要としない?!南方の兵士

おわりに

 

 

はじめに

 

今回の元ネタは、主にこの論文。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」
『日本考古学 2(2)』

当時の鎧のディティールや発掘場所等、その他について、
詳細に論じられていまして、
オマケに無料でPDFで閲覧可能。

ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/2/2/2_2_139/_article/-char/ja/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

あるいは、
NII学術情報ナビゲータで、
同論文を検索なさって頂ければ幸いです。

ttps://ci.nii.ac.jp/

サイト制作者としては、
マニア必見の価値有と思います。

さて、まずは、
更新が大幅に遅れて大変申し訳ありません。

と、言いますのは、
当初は靴の話をしようかと考えていましたが、

私事で色々と取り込んでいたことと、
氷の上で滑って右手を痛めたという名誉の負傷と、

『三国無双』の新作発売に託けて
少々それっぽい話に変更しようと
色気を出したことが見事に裏目に出、

イラストの準備等に時間がかかり
このような悲惨な結果になった次第です。

それでは、今回の話に入ります。
今回は『三国志』の時代の鎧の話。

この『三国志』の時代というのは、

単に乱世が1世紀続いたこと以外にも
武具や服飾の変遷が大きい時代でもありまして、

その意味では、
時代考証の厄介な時代でもあろうかと思います。

もっとも、戦乱を伴う過渡期は
いつの時代もそのようなものですが、

例えば、中国における衣服や靴等の服飾史の文献では、
王朝ごとに漢、魏晋という区切りをしまして、

『三国志』という枠組みで捉える場合、
後漢・魏晋のふたつの時代の状況を
付き合わせる必要がある訳です。

一昔前の通史なんか目を通すと、
こういう傾向が非常に強い訳でして、

最近までは、
歴史学としては『三国志』という枠組みは
あくまで小説の話でしかなかったような
印象を受けます。

ところが、ここ20年位で、
そのような状況に或る程度の変化がみられまして、

私の知る限りでも、10年程前、
さる若い中国史の気鋭の大学の準教授が、
講談社の『中国の歴史』の刊行に際して、

『三国志』の時代で1冊を使うとは驚いた
おっしゃっていたのが印象に残っています。
(その先生も三国志が大好きな方ですが)

もっとも、そこは、
学術界の悪い面―成果主義と言いますか。

歴史学一般の内部事情として、

中国史に限らず、どの時代の研究ついても、

史料が乏しくて分かりにくかったり、
パラダイムから逸れたりした部分には
中々研究に労力が割かれないという事情がありまして、

私のようなゲーム好きの素人の関心事と
研究者の目線の違いのズレを強く感じる次第です。

もっとも、
先生方の論文を読む分には、テーマからして、
研究者(三国志や関連するゲーム等が大好きな方は
絶対に少なからずいらっしゃると思いますが、
あくまで個人的な妄想の話です)の立場としては、

東洋史の授業で、
政治や経済等の話を差し置いて
ゲームの考証の話なんか
する訳にはいかないのでしょうが。

それでも、
昨今の現役の研究者の書かれた
『三国志』関係の書籍の
ラインナップの豊富さを見るに、

相応の史的・文学的意義の下、

素人目に見ても、
漸く『三国志』の枠組みでの研究に
焦点が当たりつつあるのかしらと思う次第です。

 

 

1、前漢時代の甲冑

1-1、後漢王朝の軍の事情

前置きが長くなりましたが、
鎧の話に入ります。

「はじめに」の話は、
漢・魏晋という時代区分―分け方がある、
という程度の認識で御願いします。

さて、まずは漢代の話から始めたいと思うのですが、

厄介なことに、

『三国志』の幕開けとなる後漢時代は
発掘物の残存状況が悪いようで、
早い話、実情がイマイチ判然としません。

その理由として、恐らく、
まずは後漢王朝の権力基盤が弱いことが挙げられます。

手始めに、
王莽政権以後の乱世を収束して後漢を建国した光武帝
その権力基盤である豪族層の疲弊を緩和すべく、
常備軍を削減したため、

当初の兵力の供給源の大半は
洛陽・長安近郊の兵営でした。

ですが、それ以降は、

時代が下るにつれて
北方の国境地帯への軍備増強や
地方官の勝手な募兵によって
国内になし崩し的に兵隊が溢れ返り、
(その「兵隊」の鎧の話は後述)

そのうえ2世紀に入ると、
策源地の長安以西の地域は
羌族の大反乱でエラいことになるという具合。

―因みに、このゴタゴタの最終局面で
頭角をあらわしたのが董卓。

つまり、後漢王朝には、
或る程度規格の整った鎧を大量に運用する力がなく、

始皇帝や武帝の時代のような
まとまった数の兵馬俑や立派な現物が
出土せず、

実態の把握が難しい訳です。

因みに、小林聡先生の研究から進展がなければ、
後漢王朝は軍の統廃合が激しいこともあり、

或る程度の改廃こそ判明しているものの、
その概要はイマイチ判然としません。

前回の話で少々部曲の話をしましたが、

秦や前漢から時代が下っているにもかかわらず
状況が掴みにくいのは、
政権の事情によるところが大きいように思います。

 

 

1-2、古代中国における鎧の部位と
前漢時代の鎧

 

そこで、まずは前漢時代の鎧を見ていることにします。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」等を元に作成。

例によって、ヘボいイラストで恐縮ですが、
もう少し実感のあるものを御覧になりたい場合は、

「百度検索」等を使って
イラストに出て来るような言葉で画像検索を掛けると
実写の復元品の写真が出て来ます。

プログラムの仕組みは分かりかねますが、

どういう訳か、
同じグーグル系で同じ漢字で検索を掛けても、

中国に関するものでは
むこうのエンジンの方が
それっぽいものが引っ掛かり易いので驚きです。

―ああいう国体につき、
国家の治安対策の副産物かもしれませんが。

さて、手始めに、
古代中国の甲冑の部位ですが、

高橋工先生によれば、

上(頭)から順に、

頸部を守る「盆領」
胸部を守る「身甲」
腕・手を守る「披膞」・「甲袖」
腰から下を守る「垂縁」・「甲裙」

以上の4部位に区分出来ます。

ただし、
残念ながら、以上の語句は、
本場中国でも
あまり馴染みのあるものではなさそうです。

また、盆領や甲袖、甲裙といった周辺の部位は、
この時代の甲冑としては、
付いていないものが多い印象を受けます。

次いで、鎧のタイプですが、
前漢のものは大体、札甲と魚鱗甲に区分出来ます。
因みに、技術的には、秦代のものと大差無いようです。

札甲は、布や革の衣類に一定の大きさの鉄の札を、
あるいは鉄の札同士を概ね規則的に縫い合わせたもの、

魚鱗甲は、小さい鉄片を糸(縅)で
縫い合わせたものです。

恐らく、魚鱗甲は身分の高い将官のものと推察します。

また、前漢と一口に言えど、

武帝の前の時代は
同じ郡国制下でも
皇帝の親戚の王様が東の方で威張っていまして、
王の支配領域が格段に広かったのです。

イラストにある金銀の魚鱗甲が出土した斉等は、
まさにそのような地域であったと推察します。

件の鎧が、
呉楚七国の乱で暴れた王様の
富の象徴ではなかろうかという御話。

もっとも、この兵乱は早々に鎮圧され
戦禍に見舞われた地域も限定的であったことで、

王莽政権以降の乱世の時代にも
武帝時代の武具が使われたそうな。

ですが、これ以降は三国時代まで
武具の変遷が判然としないことと、

(あくまで素人目に見てですが)
魚鱗甲に比して構造が簡単なことで、

前漢時代の札甲と同じ規格のものが
黄巾の乱以降の軍閥割拠の時代まで使用された可能性は
否定出来ないと思います。

因みに、魚鱗甲については後漢時代でも使われますし、
後漢時代の鎧が判然としないことは、
同時にもっとヤバい状況も意味しますが、
それは後述します。

 

 

1-3、前漢時代の軍装

鎧に続いて、軍装についても触れます。

このアレなイラストは、
当時の兵馬俑やネット上の復元写真やらを見て
無い知恵を絞って描いたものです。

如何せん、現物がないことで、

兵馬俑の写真だけでは細部の質感めいたものが分からず、
先学の復元写真が参考になるのですが、

復元写真を付き合わせても納得がいかない部分は
想像(妄想ともいいますが)で描くより他はなく、

その意味では、話半分で御願いしたく思います。

それでも、或る程度、
古代中国の歩兵や騎兵の特徴は浮彫になります。

まず上着ですが、

衣類の長さが膝までないことで、

イラストでは、
「袍」ではなく「襦」と書きましたが、
正確には「戦袍」とでも言うのでしょう。

歩兵に比べて騎兵の戦袍は短く、
腿当てを下着の上から
サスペンダーのように装着します。

もっとも、
「騎士」というのも紛らわしい言葉で、
色々な文献に出て来るので仕方なく使いましたが、

残念ながらサイト制作者には、

集団戦の兵科としての騎兵を表すのか、
騎乗の指揮官を表すのかは分かりません。

靴を履いていることと
馬に乗ること自体がステータスでもあることで、
身分は高いのでしょうが、

兵科自体が
国民国家時代の騎兵や
途上国の空軍パイロット宜しく、
富裕層の子弟や選抜された精鋭で
構成されている可能性もあり、

いずれにしても
平民で構成される戦列歩兵に比して
資力か戦闘技術の裏付けが伴う訳でして、

三国時代の騎兵は
まさにそういう集団であったという説もありますが、

詳細な検討は後日にさせて頂ければ幸いです。

 

 

1-4、有り触れている被り物と武器

さらに被り物ですが、

当時の出土品は、
魚鱗甲を纏って靴を履いた身分の高そうな俑ですら、
兵卒と同じ「幘(さく)」という
平時と同じような被り物をしています。

以前の回でも触れました通り、
色々なタイプが存在する、
当時としてはかなり有り触れた帽子です。

一方で、前漢の俑(人形)には、前後の時代に比して、
兜を被ったものがほとんど見られません。

もっとも、斉の魚鱗甲の現物の出土品もあることで、
戦地に臨んでは一定の身分の将校は
被っているのでしょうが、

如何せんサンプルめいたものが
それ以外になく、
描く方としては困ったものだと思います。

次いで武器ですが、

イラスト中の環首刀と戟は
春秋戦国時代から三国時代までは
歩兵の武器としては最も汎用性のあるものです。

特に前者・環首刀は、
装備の劣悪な兵隊でも必携の装備で、
知っておいて損はないと思います。

戟は両手の武器ですが、
曹操の親衛隊長の典韋位の怪力になると、
小型の戟を左右の手に1本ずつ持ち、連射で投げ付けるという
スイッチ・ヒッターな離れ業をやってのける訳です。

『三国志』の初期の弱小軍閥同士抗争の時代には
こういう曹操配下の命知らずか、あるいは、
呂布や麹義のような
凄腕の傭兵隊長が戦場の花形であったように思います。

 

1-5、意外に重要な(?)履物の話

最後に履物ですが、
サイト制作者個人としては、
実は、この部分が結構重要だと思う次第。

と、言いますのは、
当時の履物の事情として、

漢代には、
貨幣需要や匈奴への貢ぎ物の工面等を背景に
屑糸から絹まで―ピンからキリまで
繊維産業が広汎に伸びたとはいえ、
当時は履物にまで生地が回らない時代でした。

当時の事情として、
農村部の庶民の履物は草鞋が中心で、
布の靴が普及するのは元・宋以降の御話。

まして、靴下に至っては、
広汎に普及したのは三国時代以降の話です。

そうした中で、
正規軍の装備として、
ゲートルや靴下が支給されている訳でして、

軍隊の維持に如何に資金や物資が必要とされるかが
こういう部分に如実に表れていると思います。

そう、「運動戦」や「機動戦」の言葉通り、

少なくとも、遥か2000年も昔から、
兵隊は歩くのが商売であったことの
確たる証拠だと思います。

 

 

2、後漢・三国時代の鎧の特徴

2-1 兜の主流・蒙古鉢形冑

モノの本(天下の共産党様の軍事史研究の御本!)
によれば、

後漢時代の鎧は、

前漢に比して、
鉄の増産により保護される部位が
多くなったのが特徴だそうな。

早速ですが、
以下のヘボいイラストを御覧下さい。

ラインナップは、ほぼ、
篠田耕一先生の『三国志軍事ガイド』と同じですが、

それでも
後漢・三国時代の鎧を平たく言えば、

魚鱗甲タイプの鎧、
鉄片を繋ぎ合わせた袖の付いたもの、
あるいは披膞の付いたものが主体になっていきます。

とはいえ、
この中で後漢時代とされるものは、
鮮卑の魚鱗甲だけです。

また、兜ですが、

高橋工先生によれば、
頭の中心に擂鉢のようなものがあり、
その裾に放射線状に鉄片を繋ぐタイプのものを
「蒙古鉢形冑」と呼ぶそうな。

東アジアでは、
むこう何世紀かにわたって
この形式の兜が主流であったようです。

例えば、左側のイラストは、
後で詳述しますが、晋代の俑の模写ですが、
当時の俑は、鎧はともかく、
被っているのが悉くこのタイプの兜です。

 

 

2-2 泥臭い「文化交流」の産物・両当鎧

また、大体2世紀頃から
北方の「異民族」の(強制も含む)内地移住が
活発になったことと、

前漢の時代には高等指揮官が纏っていた魚鱗甲が
この時代には鮮卑も着用されていたことから、

『三国志』の時代には、
漢民族と「異民族」の間では、

習俗や服飾はともかく、
使用する甲冑の差異は
それ程大きくなかったのかもしれません。

そして、この種の泥臭い民族交流の話の延長として
登場するのが、両当鎧。

向こうの文献を見ると漢字に示偏が付いていますが、
こちらの表記でも間違いはないと思います。

三国時代にこのタイプの鎧の原型が
登場したようでして、
騎兵戦(特に騎射)を想定して
腕の稼働領域が大きいのが特徴だそうな。

因みに、胸部の装甲は、
南北朝時代の俑を見る限り札甲でして、

その意味では、
前の時代と大差無いような印象を受けます。

兵卒の鎧なんか
いつの時代も雑な作りなのでしょう。

さて、このタイプの鎧が
他の鎧に比して興味深い点がひとつありまして、
それは、当時の服飾の派生であったことです。

つまり、民需の衣服の機能性が
そのまま軍需の最たる鎧に化けているという点です。

以前の記事でも触れたような、
褲の普及のように北方民族の衣服の機能性が
そのまま中原に流入するのであればともかく、

衣服の運動性が鎧に活かされ
さらには中原に流入するというのは、

サイト制作者としては珍しいケースに見受けます。

ですが、その話は、稿を改めたいと思います。
悪しからず。

 

 

2-3 筒袖鎧とその運用

次いで、筒袖鎧について。

筒袖鎧のタイプの鎧自体は
既に前漢には存在していたものの、
諸葛孔明が完成させたと言われていまして、

蜀軍では騎兵を中心にこの鎧が標準装備であった模様。

その画期的な特徴は、字面の如く、

前漢の札甲や魚鱗甲に比して
袖の部分全体が鉄片で覆われ、
かつ可動な点なのでしょう。

加えて、前漢の札甲では急所であった
脇の下も保護されています。

また、敢えて諸葛孔明の名前が出て来るのは、

当人が科学オタクという点以外にも、

或る程度大きい資本力のある集権的な政権があって
初めて調達と集中運用が可能になる、という、

武帝や始皇帝と同様の文脈であろうかと
想像します。

もっとも、その割には、
三国時代の鎧は現物が残っておらず
不明な部分が大きいそうですが、

晋代の筒袖鎧の俑をいくつか見る限り、
鉄片の繋ぎ方は、
札甲ではなく魚鱗甲が中心であったと想像します。

 

 

2-4 明光鎧とNHK人形劇の話

次いで、明光鎧について。

その特徴は、
左右の胸部や背面に丸い鉄板を当てるというもの。

私の描いたアレなイラストは
残念ながらその少し後の南北朝時代の俑を
模写したものにつき、
質感が掴めなかったのですが、

私と似たような世代かそれ以前方々は、
NHKの『人形劇 三国志』の

曹操の鎧を思い出して頂ければと思います。

若い読者の皆様は、
「人形劇 曹操」で検索を掛けると
いくつか画像が出ますので、
御参考まで。

あの鎧が明光鎧。
加えて、あのタイプで黒い漆を塗ったのが黒光鎧。

蛇足ながら、
あの人形劇で劉備や張飛が付けているのが
先述の「札甲」タイプの鎧です。

さて、曹魏にはこの類似品の黒光鎧が
まとまった数が存在したようですが、

それが発覚した経緯が
北伐の祁山にて蜀に大敗して
大量に鹵獲されたことで
記録に残ったという、

何とも御粗末な話。

その数5000。

『三国志』を書いた陳寿の父が
馬謖の幕僚であったという
漢に対するノスタルジーというか
当人の性格の悪さを感じなくもありません。

曹植の伝にも、
この種の鎧の話が存在したという話が出て来ます。

ですが、明光鎧・黒光鎧の完成は南北朝で、
最盛期は隋唐時代という、
時代を先取りする存在でありました。

 

 

2-5 『三国志』の鎧とドラマの考証の話

これも程度が過ぎると野暮なのですが、
折角ですので少々致します。

先程人形劇の話をしましたが、
サイト制作者がこういうことを調べる過程で、

故・川本喜八郎氏が人形を制作されるうえで、
敢えてハイテクの明光鎧とロー・テクの札甲を
併存させたのは、

無論、曹操と劉備のキャラクターのイメージが
あるのでしょうが、

失礼ながら穿った見方をすれば、

元になる情報が少ないことで、

何十年も後に
サイト制作者が悩んだような問題に直面した末の
苦肉の策であったのではないかと想像します。

つまり、後漢や三国時代の
スタンダードと言えるような鎧の現物がないことで、

当時の文献の内容やその前後の時代の発掘物という
極めて断片的な物証から
ムリにでもそれっぽいもののイメージを作り出す作業に
迫られたのではなかろうか、と。

また、最近BS12で放送している『趙雲伝』を観ると、

主要な登場人物の派手な装束はともかく、

(確かに、ケニー・リンは格好良いと思いますが、
サイト制作者個人としては、当時の発掘物からは、
形状・色彩共にあのコスプレをどうにも想像出来ません。)

札甲を纏った兵卒が何名も出て来たことで
自分の予想した通り、
前漢の武具のタイプが後漢にも横滑りしている
という解釈で当たっているのかと、

少々安堵する反面、

人形劇やドラマの制作スタッフの方々も、

あるいは、私と同じようなレベルの情報を元に、
同じようなアタマの使い方をしている
可能性もあります。

―当然、実情はそうではないと信じますが。

ですが、言い換えれば、
研究が進展して後漢時代の甲冑の発掘物でも出土すれば、
こういう想像(妄想)の産物は一発で消し飛ぶ訳でして、

その意味では薄氷を踏む心地です。

こういうことを考える割には、
『Three Kingdoms』の武将の鎧には
鋲打ちのものもありまして、

先述の高橋先生の論文を読む分には
鋲打ちはもう少し後の時代の技術で、

この時代の鉄片の接合は縅ではなかったか、と、
余計なツッコミを入れたくなった次第。

【追記】
鋲打ちの技術自体はこの時代にもあったようでして、
例えば、既にこの時代の400年も前に、
始皇帝の専用馬車の製造に駆使されたそうな。

漢代に製鉄技術が躍進したことを考えると、
武具にも使われたと考える方が
妥当かしら。

―もっとも、作品としてはクオリティが高く、
放送当時は丁度夜勤につき、
毎日アレを観るのが
楽しみで仕方なかったことも付言しておきます。

まあその、大人の事情と言いますか、
他の時代の作品に使い廻すこともあるのでしょう。

 

 

3、当時の常識?!

鎧を纏わない無名の戦士達

 

3-1、官渡の戦いとそれまでの曹操の用兵

さて、これまで鎧の話をして来ましたが、

ここでは、
そもそも鎧が全兵士に行き渡ったのか、という、
敢えて、それまでの話の前提をブチ壊す話をします。

と、言いますのは、
サイト制作者自身、少し前まで、

質の違いこそあれ、
兵士である以上は鎧が支給されるのは当然と
思っていまして。

で、色々調べていくうちに、
当時のブラックな事情が色々分かって来たと言いますか。

読者の中に、
こういう疑問を持たれた方がひとりでもいらっしゃれば、
サイト制作者としては、
今回の記事は書いて正解であったと思います。

前回の記事で、秦の弓兵は鎧を纏っておらず、
階級で言えば50人隊長である屯長ですら
纏っているものとそうでない者が混在した、

と、書きましたが、

『三国志』の時代も、どうも、
三国鼎立以前は、これと大差なかった可能性があります。

例えば、官渡の戦いでは、
曹操の軍隊はほとんどが鎧を付けていなかったそうです。
対する袁紹側は、捕虜の鎧の装備率は大体14%程度の模様。

当時の先進地域である
華北・華中を代表する軍閥同士の主戦場ですら
この有様です。

こういうヤバい事情を考えれば、

190年代の段階では
曹操が相手の裏をかくような奇襲を多用したのも
分かるような気がします。

そりゃ、システマティックかつ執拗に突っ込んで来る
呂布の騎兵相手に、
ロクに鎧も付けない兵隊で戦列を組んで
「〇〇の陣」とか気取って正面から迎え撃てば、

まず殺戮されると思います。

もっとも、唐代になると、
兵士の鎧の装備率は6割にまで上がるそうですが。

 

 

3-2、古代中国の戦闘の流儀と鎧

また、古代中国の戦争の流儀を見ても、
鎧の装備率はこの程度のような印象を受けます。

と言うのは、
古代中国の歩兵の用兵には、春秋以前より、
「五兵」という考え方があります。

これは、5名で5種類の武器を運用することで
最小の戦闘集団をなすという意味です。

五は「伍」を意味し、
早い話、秦の什伍制の「伍」の戦闘単位も
恐らくこれに準拠していますし、

テレビ朝日の戦隊モノや
その元ネタであろう時代劇、
テレビゲームの『飛龍の拳』シリーズの
5名の「龍戦士」
(こんなの知ってるのは、大体アラフォー世代でしょう)
なんかも、

存外この「五兵」がモデルではなかろうかと
想像します。

―まあその、見方を変えれば、

近代国家の軍隊でいうところの、
歩兵1個分隊の感覚です。

WWⅡの歩兵が好きな方は、
錐型の陣形で戦闘の兵士が軽機関銃を使うアレを
御想像下さい。

さて、この5種類の武器というのは
諸説あるようですが、
大体は矛や戟、弓、といったような武器です。

で、実際の戦闘では、この伍が縦隊を組み、
この無数の縦隊が横に並ぶことで横隊になります。

ここで漸く鎧の話になるのですが、

古代の手抜きブラック軍隊では、
鎧を纏うのは大体は最前列の1名だけでして、

利腕に得物(短めの戟だったります)、片方に盾を持ち、
敵兵と血みどろの殴り合いを演じます。

因みに、孫子は利腕は右手を想定しています。

くれぐれも、北方の戦線で氷の上で滑って怪我をして、
病院の皆様に御厄介にならぬよう御注意下さい。

―それはともかく、
二列目以降は長い得物でそれを援護し、
あるいは弓や弩で敵兵を狙撃します。

【追記】
これも交戦距離に応じた作法があります。

敵軍との距離がある場合は、まずは弓合戦。

次いで、次第に距離が縮まると、

長い得物で殴り合う
日本の戦国時代の合戦でいうところの槍合戦、

そして、ゼロ距離では、
使徒の胴体に軍艦の主砲を、ではなかった、

最終フェイズである
先述の甲士同士の
白兵戦に移行するという流れです。

つまるところ、「五兵」の意味するところは、
当座の殺し合いでは

どのような状況にも
或る程度柔軟に対応するための
武器の組み合わせということなのでしょう。

ですが、日本の戦国時代の経験則で言えば、
弓なんかヘタな者が撃っても
飛ばない、曲射(山なりの弾道)につき当たらない、
あるいは威力がない訳でして、

交戦距離の長い野戦では、
弩の破壊力がモノを言う訳です。

既に、戦国時代の段階で、
楚の王墓から連弩の実物が出土したそうな。

飛び道具序に、もう少し言えば、
この千年後の日本で鉄砲があれだけ脚光を浴びたのは、

直射(直線の弾道)で有効射程(殺せる距離)が
弓の倍以上の100メートル以上もあったからです。

さらに、弩の製法はむこうの国家機密で、
日本で弩が普及せずに弓から鉄砲に移行したのは
確か、こうした事情だそうな。

ニホンの話はともかく、
袁紹の軍隊の鎧の装備率が14%という数字の背景には、
大体こういう理屈がありそうだ、という御話。

似たような例として、
前漢時代の咸陽の兵馬俑はもう少しマシですが、
それでもこうした特徴がよく出ていると思います。

因みに、鎧を纏っているのは精々二列目までです。

百度の画像検索で「咸陽 楊家 兵馬俑」とやると、
当該の画像が出て来ますが、

こういう戦場の風景を想像すると、
医薬品の調達もままならなさそうな状況につき
ゾッとする心地です。

この兵馬俑が当時の事情を表していたと仮定すれば、

国庫にダブついたカネで匈奴との戦端を開いたという
金満の武帝の軍隊ですら
鎧の装備率は大体4割程度ということで。

 

3-3、昔の民兵?!豪族の私兵

教則としての戦術上の話以外にも、
鎧を纏わない、あるいは纏えない事情があります。

またしても、アレなイラストですが、
以下を御覧下さい。

まずは左側、豪族の私兵について。

後漢の発掘物で比較的多く残っているのが
農民、というよりは民兵めいた豪族の私兵の俑。
このイラストは、その模写です。

大体こういう感じの襦褲に上着を羽織って
腰を環首刀を提げたスタイルでして、

幘を被ったり、裸足であったりするものもあります。

また、農繁期には農作業にも従事します。
さらには血縁による結束が固く、
土地集積や小農からの収奪の際には
暴力装置として稼働したことで、

心ある地方官にとっては
極めて厄介な存在でした。

そう、農繁期には農作業に従事するとはいえ、
黄巾の乱を誘発する豪族の横暴の
実行部隊でもあった訳です。

その意味では、
良くも悪くも、
政府が役に立たない地域社会における
自力救済の究極の在り方なのでしょう。

例えは良くないかもしれませんが、
今で言えば、
途上国の銃を構えた兵隊上がりの警備員や
ギャングと紙一重の武装ゲリラ等が
これに近いのかもしれません。

とは言え、先述のように、
後漢の弱い常備軍を補完して治安活動に当たったのが
こういう豪族の私兵でして、

三国志の時代には、李典や許褚、あるいは、
潼関で曹操と争った馬超傘下の梁興等の私兵が
これに相当します。

史書には、兵力の多寡は、
人数ではなく家で「三千家」だとか記されていまして、
正確な人数が把握出来ていなかったことを示唆しています。

因みに、当時の家族は大体1家辺り4、5名で
夫婦各々が田畑を持ち課税されるという形式ですが、

さすがに全員が戦闘員という訳ではなかろうと思います。

加えて、残念ながらと言いますか、当然と言いますか、
配偶者控除はありません。

で、政権側の曹操等は、
この私兵集団の解体に非常に苦労した訳です。

一方で、鎧の話を絡めますと、

秦代には鎧の製造や出納は
郡の太守以上の地方官に権限がありました。

漢も内政面では秦の制度をかなり継承しており、
漢代にもこれが継承されていたと仮定すれば、

県以下の田舎(?!)では、
太守の裁量如何で
官製の鎧が出回らないケースも考えられます。

資本力が弱く地方官と揉めた豪族は、
タダでさえ数の少ない鎧の調達に難儀した
可能性があります。

 

 

3-4、鎧を必要としない?!南方の兵士

また、鎧を平地程には必要としない地方もありまして、
山岳・森林・河川の多い南方
それに当たります。

右側のイラストは、東晋時代の俑の模写ですが、
諸々の文献を読む限り、
恐らくは前の時代も大差無いと想像します。

見ての通り、
盾と剣、あるいは刀で武装するというスタイルです。

方々旅をして廻ることを意味する
「南船北馬」という言葉がありますが、

騎乗で動き回る北方の兵士と
船でどっしり構える南方の兵士の差異は、
後世のカンフーの流儀にも影響しているそうな。

もっとも、孫呉政権自体は同盟国や馬を欲しがって
陸遜が止めろというのを無視して
方々に使節を送ってエラい目に遭うのですが。

大体230年代から240年代位までの
孔明と同じく毎年にように魏を侵して
連中に「劇賊」と蔑まれた時代のことです。

ただ、一連の孫呉の出兵が略奪に終始し、
一方で孫権が馬を欲しがったところを見ると、

長江北岸での地上戦は、
孫呉にとっては装備面で
不利であったのかもしれません。

 

 

おわりに

例によって、無駄話で長くなり恐縮ですが、
まとめに入ることと致します。

まず、後漢・三国の時代は色々な鎧が混在した時代です。

後漢時代は前漢のタイプのものがそのまま使われたり、

あるいは、
前漢の技術で保護部位が広がったりしまして、

三国時代になると、資本力の大きい政権の元で、
新しい型の鎧の集中運用が始まったり、
北方の技術が流入したりと、
新しい局面に突入します。

ところが、そもそも、
鎧を着ている兵士自体が少ないのが
この時代の大前提でして、

その背景には、
政権の権力基盤の弱さや地域性が関係した、
という御話です。

―あまりゲームの攻略の足しになるような話ではなく
悪しからずです。

 

 

【主要参考文献】

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」
『日本考古学 2(2)』
小林聡「後漢の軍事組織に関する一考察」
張学鋒「曹魏租調制度についての考察」
『史林』第81巻6号
柿沼陽平「三国時代の曹魏における
税制改革と貨幣経済の質的変化」
『東洋学報 第92巻第3号』
菊池大「孫呉政権の対外政策について」
『駿台史学』第116号
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
林漢済編著・吉田光男訳『中国歴史地図』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
冨田健之『武帝』
赵秀昆、他『中国軍事史』第2巻・第3巻
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』
江村治樹『戦国秦漢時代の都市と国家』
学研『戦略戦術兵器事典1』
金文京『中国の歴史 04』
朱和平『中国服飾史稿』
周錫保『中國古代服飾史』
高島俊男『三国志 きらめく群像』
陳寿・裴松之:注
今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』1~6巻
藍永蔚『春秋時代的歩兵』
華梅『中国服装史』
徐清泉『中国服飾芸術論』
呉剛『中国古代的城市生活』
駱崇騏『中国歴代鞋履』

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