近況報告 『周礼』の説く戈の使い方

はじめに

今回も前回同様、

『周礼』「盧人為盧器」
図解の一部を
描き上げたことで、

とはいえ、
その実態は
手直しに近いのですが、

その説明を少々。

1、細かい説明は注疏が中心

それでは、早速、
描き上げたものを
掲載します。

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

例によって、
内容や書き下し等は
参考程度で
御願いしたく。

さて、図解の下半分は
前回に掲載したもので、

今回は、
上半分の御話となります。

要は使い方の話でして、

ほとんどが
注釈部分の図解です。

以前の記事にも書いた通り、

恐らく、

『周礼』の筆者と
鄭玄等とは
見ているものが
少々違っているかと
思うのですが、

この図解の部分では、
本質的な違いは
なかろうと思います。

個人的な感覚としては、

少なくとも戦国時代までは
この内容が通用したと
想像します。

後漢・三国時代以降は、

戈頭・戟体の形状が
刺突向きになるので、

浅学なサイト制作者
としては、

コレが通用したかどうかは
正確なことは言えませんで、

さらに調べる必要が
あります。

ただ、後漢から唐にかけて
書かれた『周礼注疏』が、

恐らくは、
当時の形状であろう
戈について、

図解にあるようなことを
説いているので、

強ち的外れでもないようには
思います。

2、前後で異なる硬さ

ここでは、
具体的な使い方について
触れます。

まず、「椑」の話ですが、
柿の季節とはいえ、

柿ではなく、

柄の形が楕円形、
という御話。

先日、職場の年配の方から
関西の外れの某所の
美味しい柿を頂きまして、

忘れようとした誤読の話を
思い出しました。

で、『周礼注疏』によれば、

引っ張る武器につき
柄の下の方が硬い、
と、ありますが、

これについては、

サイト制作者の
知る限りでは、

残念ながら、

実例で確かめる術が
ありません。

想像するとすれば、

例えば、

「考工記」廬人為廬器
にあるような、

矛や殳宜しく
取っ手を何等かで
コーティングする
「囲」を意味するのか、

もしくは、

上下で硬さの異なる枝を
わざわざ選んで
製材するかしら。

【雑談】柄の硬さと戦場リアル

参考までに、
以前に何度か紹介した話
挙げます。

柄の話をする度に
思い出すのですが、

『周礼』の時代からは
かなり歳月が下るにしても、

『周礼注疏』の
鄭玄没後間もない話として、

『三国志』「魏書明帝紀」、
要は曹叡の伝記に、

陳倉で諸葛亮を破った
郝昭を紹介する話が
出て来ます。

さて、この御仁は
叩き上げの軍人でして、

戦場で
何をやったかと言えば、
以下。

他人様の墓を
荒らしたうえで、

取其木以為攻戦具

その木を取り
攻戦の具となし、

―と、墓標を武器の柄にした、
という訳です。

時代を遡ること
少なくとも春秋時代以来、

戦争で食糧に事欠けば
人様の肉ですら
口にするのを厭わない
社会につき、

有事に際して
墓標を失敬する位は、

驚くには値しないの
かもしれません。

あまり関係ないのですが、

二ホンとて、

国定忠治の墓の墓石を
博奕の縁起物として
削り取る人が
多かったので、

墓石に周囲にフェンスが
張られたんですと。

それはともかく、

ここでポイントとなるのは、

墓標でも武器の柄に代替出来る辺り、

実情としては、

どうも、
上下の硬さの異なる製材
という線は怪しいか、

仮にあったとしても、

有事には
場当たり的な補充で
済し崩しになっていたことが
往々にしてありそうな。

4、日中で異なる「細」の解釈

次に、柄を持つ時のコツですが、

結論から言えば、
両手の間隔を
短くすることです。

前回で触れたように、

原文である
『周礼』
「盧人為盧器」には、

撃兵同強、擧圍欲細、
細則校

撃兵は強きを同じくし、
囲を挙げるに細を欲し、
細はすなわち校。

と、あります。

文字の解釈には饒舌な
『周礼注疏』にも、

「細」の解釈については
言及していません。

さらに、現代語訳である
『考工記訳注』にも、

若手持之処稍細、
就握得牢固

もし取っ手が
やや「細」であれば、
握りが牢固になる、

という訳です。

つまり、「細い」は、
古語も現代語も
恐らく同じ意味。

しかも、
当たり前の感覚で
使用している言葉
と来ます。

実は、ここが、
サイト制作者が躓いたポイントです。

ここで、視点を変えて、
実物の柄の太さ
見てみると、

数少ない実物の戟には
柄が垂直でないものが
ありません。

そのうえ、先には、

『周礼注疏』

柄の前後で硬さが異なり
後ろの方が硬い、
と、説いてまして、

これらの話を整理すると、

柄の下の部分の
引っ張る方が
細くて硬い、となり、

殳どころか戈も
野球のバットのような形状
ということになり、

なんだかヘンだなあ、と、
なるかと思います。

と、なれば、
「細」の解釈は、

日本語と中国語の違いに
起因する
他の意味を考えた方が
良さそうだ、

と、考えました。

果たして、

座右の中国語の
古語・現代語の字引きの
双方にも、

細い以外に、

「幅がない」=短い、

という意味がありました。

「細」の意味は、
日本語と中国語で
異なっていた、
という訳です。

確かに、
柄の太さよりも
両手の間隔の方が、

武器の機能としては
自然な解釈かと思います。

野球で言えば、

バットで構える際、

バントとヒッティングで
両手の間隔が異なるのが
分かり易いかと
思います。

もっとも、

長物を振り回す時には、
両手を上下で
くっ付けませんが。

後、こういう、
サイト制作者の
昭和末の少し入った
生半可な野球脳が
解釈の癌になっている気が
しないでもありません。

で、またも誤読ということで、

前回の殳の図解も、
この内容で
描き直す必要があります。

ヘマが続いて
大変恐縮です。

【追記】

その改訂版がこちら。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

以前に掲載したものとの
違いは、
以下の2点です。

1、柄の太さが上下で同じ。

2、中段右の図解の説明等
内容に合わせて変更。

【追記・了】

おわりに

今回も、
もっともらしい結論は
ありません。

敢えて言えば、

細=短で
チュゴクゴムツカシアルヨ!

という、
身勝手で投げ遣りな話位か。

サイト制作者の
調べ方が悪いのだと
思いますが、

大体の内容を
一通り整理した後でも、

当該の文章を読み返して
図に描き起こす度に、

疑問や誤読が
ボロボロ出て来るので
本当に困ったものです。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)
陳寿作・裴松之注釈『三國志』(維基文庫)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
周緯『中国兵器史稿』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版
香坂順一編著『簡約 現代中国語辞典』、

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近況報告 殷周時代の戈頭・戟体の出土品を図解する

はじめに

今回は、
描き掛けの図解について
アレコレ言う回です。

完成まで
更新を引っ張ると
結構な日数を
要することで、

その一部でも
御見せして
記事にしようと
思った次第です。

1、殷代の戈の出土品

描き掛けの図解
具体的な内容は、

『周礼』「考工記」・
「盧人為盧器」の
戈戟の件に関する
図解一部です。

まずは、以下。

楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、等(敬称略・順不同)より作成。

さて、このアレな図解の
抑えるべき重要事項は、
以下の2点。

1、柄の断面が楕円形。
2、援・戟刺・内が
一体の戟体。

次に、

図解の
左右の出土品について
ひとつひとつ
見ていきます。

まずは、左側の戈ですが、

これは
『中国兵器史稿』にある
殷代の戈の図の模写です。

で、同書によれば、
これは転載のようで、

以下のような解説文
付いています。

原形二分之一大
見李済氏著
《殷墟銅器五種及
其相関之問題》

因みに、李済という人は、
内戦以前の中華民国・台湾の
中国考古学の先生で、
既に亡くなられています。

さらに、
『殷墟銅器五種及
其相関之問題』も、

サイト制作者の
やり方が悪いのか、

検索を掛けた限りでは
詳細不明で、

つまり、

元となる図解の
正確な大きさが
分かりません。

そもそもそれを引用した
『中国兵器史稿』
1940年代以前
文献です。

そこで、仕方なく、

『中国兵器史稿』
にある図解を
定規で測り、

馬鹿正直に2倍したものを
図解中の「比率」として
書き込みました。

したがって、
図解の1=実寸1mm
想定しています。

例えば、援の長さ
図解の数字では42で、
実寸は4.2cm
となる訳です。

で、さらに注意したいのは、

『中国兵器史稿』は
再版であるという点です。

言い換えれば、
初版のサイズは
判然としない点です。

以上のフクザツな経緯を
纏めると、

元となる図と
それを転載した文献の
双方共、

困ったことに
正確な大きさが
分かりません。

【追記】

図解中の数字
絶対値は想定しておらず、

あくまで
比率という御理解で
御願いします。

早速やらかした、
とでも言いますか、

読み返すと、どうも、
脇が甘かったようです。

どういう話かと
言いますと、

サイト制作者には、
肝心の「原型」が
何を指すか、が、
分かりません。

つまり、

出土品の現物の大きさか、

もしくは、
李済先生の御本の
図の大きさか、

という御話。

例えば、

座右の中華書局版の
『中国兵器史稿』の
当該の図の柄の長半径が
僅か4mm。

ヨソの出版社の初版との
大きさの比率は分からず、

一方で、

その4mmの半分が
実物の大きさである、
というのもヘンな話。

早い話、

大きさの推測は
不確定要因が多いことで
用を為さないことで、

藪蛇な部分で御座います。

【追記・了】

一方で、

本や論文に
原寸大の2倍のサイズで
掲載出来ることから、

それ程大きいものではない、

―サイト制作者の
感覚としては、
大きく見積もっても
幅10cm以下か、

ということが
言えそうなもので。

そして、
援がこれ位の大きさ
しかなければ、

人様の首を
横から引っ掛けて
切り落とすのは
難しいと思います。

そうなると、
『戦争の中国古代史』
にある通り、

この殷代のものと
思しき戈は、当時は、

相手の盾に打ち込んで
引き寄せるための武器
考える方が
自然なのでしょう。

2、出土品の柄の形

さて、「句兵」が、

相手の首にせよ、
盾にせよ、

引っ掛けて引き寄せる、
となると、
重宝するのが柄の形。

『周礼』原文に曰く、
「句兵は椑」。

図解の形の戈の
注目すべきな点は、

まさにこれです。

つまり、この戈は、

戈頭の柄との接続部分が
柄の周囲を
楕円形に取り巻くタイプ。

こういう形状につき、
柄の断面形が
分かった訳です。

言い換えれば、

それ以降のように
戈頭・戟体の
側面に穴があり、

柄とその穴を
紐で連結する
タイプではありません。

余談ながら、

サイト制作者は、最近、
と、いいますか、今頃、

仕事で使う鋸の柄の
断面図の形が
楕円形であったことに
気付きまして。

確かに、曳く分には、

円形に比べて
指や手の形が
柄に馴染むことで
力が入り易いと
感じました。

そういえば、
日本刀も包丁もそうですね。

仮に、鎧同様、こういうのも
渡来系だとすれば、

古の技術が
今日の日常生活に
溶け込んでいる実例か。

3、西周時代の戟体の一例

続いて、
西周時代の戟体について。

図解を再掲します。
右側のものを御覧下さい。

楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、等(敬称略・順不同)より作成。

これは、

『中国古兵器論叢』にあった
西周時代の戟体の
の中で、

特に多かった
タイプのひとつ
模写したものです。

描き方について、
一応、触れます。

さて、まず、
元の図中で
中心となる点を
適当に定め、

重要な部分を、
(例えば、
援や戟刺の頂点等)

先に定めた中心点から、
縦何cm、横何cm、と、
座標を割り出し、
(二次元だから
コレで何とかなってますが)

それを線で結びます。

こういう方法につき、
元の図に対して
それ程大きな誤差はないと
考えています。

さて、過去の記事でも、

この時代の戟体は
援と戟刺が一体であった、と、
何度も書きましたが、

こういうのは
百聞は一見に如かず、で、

その機会を窺っていた次第。

で、楊泓先生曰く、

この形状では、

相手の首を
引っ掛けることと、
戟刺で突くことの、

ふたつの動作を
こなすには脆かったそうな。

果たして、

次の春秋時代には、
援・内と戟刺が「分鋳」、
つまり、分離した、

という次第。

例えば、

春秋時代や
戦国末期の『キングダム』、
そしてそのン百年後の
『三国志』の数々の戦いで
使われた戈戟も、

援の角度等の詳細は
異なるものの、

そうした
援・内と戟刺が
別の鋳物という形状です。

おわりに

今回も、残念ながら、
箇条書きでまとめるに
値するような
結論はありません。

強いて言えば、

柄の形が楕円形の戈、
援・戟刺・内が一体の
戟体、

これらの実例の模写を
見て頂いた、

という程度の御話です。

この流れで、
恐らくは、

次回も、
戈戟の図解の手直しを
行うかと思います。

一昔前の
テレビ番組の予告であれば、
乞う御期待、
といった台詞が入る
ところですが、

自身のヘマの
後始末が続くことで、

読者の皆様には
申し訳ない限りです。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』(国学導航)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
佐藤信弥『戦争の中国古代史』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版

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近況報告:『周礼』「考工記」の説く殳の図解の改訂

【追記】21年12月9日

こういう記事
書いといて何ですが、

再度の改訂です。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

記事本文の図解との
変更点は、
以下の2点。

1、柄の太さが上下で同じ。

2、中段右の図解の説明等を
内容に合わせて変更。

度々恐縮です。

【追記・了】

はじめに

今回から何回かは、
先の記事の訂正
行います。

中々、次の話に
移ることが出来ない
もどかしさを
感じる次第ですが、

足場を固めずに
それをやるのも
コワいことで、
まずは、誤読の後始末を
行います。

その手始めとして、
殳の図解を描き直します。

もっとも、
それ以外では
無駄な話の多い回につき、

予め断っておきます。

1、重要部分を覆う「囲」

早速ですが、
殳の図解の改訂したもの
見てみましょう。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

80年代の現代語訳
参考にする分には、

ほぼほぼ『周礼注疏』に
準拠しているように
見受けますので、

サイト制作者も
これを受けて
描き直しました。

ここまで時代が下ると、
相当数の出土品との比較が
出来ているためです。

サイト制作者も
始めから
そうすれば良かったと
後悔していますが、

その辺りの
やっちゃった過程の話は
後述します。

さて、先の回の誤読の
一番大きな誤りである
「囲」の解釈ですが、

囲とは、要は、
武器の主要な部位―
先端・取っ手・末端の石突、

この3つを
何等かのかたちで
コーティングしたものです。

で、先端の部位は、
殳は「首囲」、矛は「刺囲」、
と、なります。

取っ手は、
そのままの「囲」

さらに、末端の石突
「晋囲」

図解にある
「細いタイプ」というのは、

長沙市の瀏城橋より
出土した
戦国時代(前4世紀)の
戈の末端に
付いているものです。

現物の模写は、以下。

先の記事で掲載したものの
誤記を訂正しました。

林巳奈夫『中国古代の生活史』、楊泓『中国古兵器論叢』 (敬称略・順不同)等より作成。

晋囲に相当するとはいえ、

字義からすれば
「囲」ではなく、

さらには、

丈もかなり短く
全長の15分の1程度。

時代が下ると
このように
コンパクトに変遷する、
ということなのかも
しれません。

2、柄の硬さと断面のかたち

その他、

「撃兵同強」は、
『周礼注疏』によれば、

「同(とも)に強(はげ)む」
ではなく、

「素直に強きを同じくし、」
と、やるのが正しいか。

で、問題なのは、

何の「強」を同じくするか、
ですが、

これは、
柄の先端と末端の強度
の模様。

因みに、

先端と末端の強度が
異なるのは戈。

戈は柄の後方部分が硬く、

その理由として、

「向後牽之」
後ろに向かいこれを牽く、

と、しています。

因みに、

については、その逆、
即ち柄の前方部分が硬く、

その理由として、

「向前推之」
前に向かいこれを推す、

と、しており、

肝心の「考工記」にある、

「刺兵同強」
刺兵強きを同じくす、

と、矛盾しています。

で、この『周礼注疏』は、

この辺りの理屈については
『釈明』を典拠と
しているので、

『釈明』の中で
関係ありそうな
「釈兵」は元より、
「釈用器」、
船、車、楽器、と、
当たりましたが、

それらしいものは
ありませんで、

何を「釈曰」だか
分からず
困ったもの。

その他、殳の―取っ手は
細いのが望ましく、
断面の形は円形。

細い方が
早く振れるのが
その理由。

もっとも、

断面の形が円形、
というのは、

「考工記」には
直接書かれてはおらず、

『周礼注疏』のみの言及
なっています。

断面の形や
囲の太さ等については、

矛や戈の図解を
描き直した折にでも、
再度触れようと思います。

3、首囲の規格と実物

「首囲」そのものについて。

これについては
肝心の出土品の大きさが
分からないので
大きな話は
出来ないのですが、

「考工記」の説く長さを
再計算し、

それと
春秋時代の出土品の一例
比べる限り、

前者は、23cm余、
後者は、一例のみながら
半分以下の9cm余と、

かなりのズレ
あるように思います。

参考までに、

以前の記事で触れましたが、

西周時代の戟体の
出土品の中には、

形状は「考工記」の定める
規格そのもので、

細かい部位も
差異が1cmを切るものが
ありました。

【雑談】殳の首囲の重さの話

参考までに、

以下は、まあ、
妄想めいた雑談につき、
適当に読み飛ばされたく。

さて、「考工記」の定める
殳の首囲の重さと
件の実例の差異
大体どれ位かについて、

後者の実物の
断面図の面積をベースに、
計算してみようと思います。

かなり乱暴な計算ですが、
以下。

銅の比重
1cm3(立法cm)当たり
8.96gですが、
概数で9gとします。

次に、件の出土品の体積を、

半径5cm・円周率3.14、
高さ9cmの円柱として
計算します。

5×5×3.14×9÷3
=235.5cm3

この体積に比重を掛けると、
2119.5g、
2.1kg程度。

次に、「考工記」の
それですが、

同じ面積に対して
高さを概数で
23cmとします。

≒601.8cm3

で、同じく比重9gで
銅の重さに換算すると、

5416.2g。
5.4kg程度。

厳密には、

実物は短半径が5cmの
かなり緩い楕円につき、
もう少し重いかと
思いますが。

(写真の角度の関係で
長半径が分かりませんで)

感覚的に
重さが実感しづらい、
という方は、

スーパーで売っている
米袋を御想像下さい。

2000円程度で
一番売れてるものが
5kgのもの。

それより少々小振りで
1000円程度のものが
2kgのもの。

要は、この違いです。
結構な差だと思います。

で、少なくとも
戦国時代になると、

末端の兵卒も
殳を手にするように
なりますが、

「考工記」の規格よりは
軽めのものではないかと
想像します。

つまるところ、

ああしたものが、大体、

「考工記」や実物の
首囲の重さである、

ということになります。

【追記】

今頃気が付いたのですが、

こういう場合、

重さが
足枷になるとすれば、

極端なことを言えば、

長さが倍=重量が倍、
というよりも、

重量を変えずに、
断面の面積を抑えた
細長い形状になる、

と、考える方が、
合理的ですね。

その意味では、
西周時代の殳の形状が
非常に気になるもので。

【追記・了】

因みに、

サイト制作者は
底辺のブルーワーカーで、

仕事柄、たまに、
銅の5kgのインゴットを
触るのですが、

現物の大きさは
「考工記」の規格より
もう少し細長いです。

投機は横行するわ
ドロボーさんは
方々に出没するわで、

kg単位の単価が
1000円を超えて
会社や現場は泣いてまして、

インゴットどころか
諸々の廃材から
手作業で搔き集める仕事も
増えました。

金属だけは払い下げない
秦漢の役人の気持ちが
少し理解出来た
ような・・・。

そういう
生臭い話はともかく、

ただ持ち上げるのであれば
ともかく、

崩れたものを
いくつも積み上げるとなると
結構な重労働。

あ、フォークで崩すのは
ワタシではないのですが、
んなことは
どうでも良いかしらん。

それはさておき、

まして、
2メートルの柄に挿して
振り回すともなれば、

余程足腰を鍛えて
『左伝』宜しく
肉を食べる生活でも
していなければ、

振り回すどころか、
逆に、体の方が
もっていかれると思います。

ああ、現代は肉ではなく、
プロテインか何かか。

で、薬局で
調達しようとして、

あるだけ下さいと言ったら、
店主がカードが使えないと
ノタマうので、
「ジャ、イ~デ」(以下省略)

4、誤読の経緯とその対策

(サイト制作者もそうですが)
特に、初心者の方々には
何かの御参考にでもなればと
思いまして、

誤読の原因についても
触れます。

一番の原因は
注釈の内容を
疑ったことですが、

この理由は、
「考工記」の
冶氏為殺矢の注の内容が
どうも腑に落ちなかった
ことで、

実は、これは今も
変わっていません。

ですが、
今にして思えば、

サイト制作者よりも
西周や春秋時代に
遥かに感覚が近い識者が、

戈頭の規格のような
細かい話はともかく、

武器の部位自体の解釈を
間違えるような
ヘマをすると思う方が
オカシイなあ、と。

謂わば、
素人が無手勝流で転ぶ
悪い見本か。

で、このリカバーに
大いに役に立ったのが、

実は、行動力のある
読者の方の
ファインプレー。

ベースは中文の訳と
思しき洋書を
御勧め頂いたことで、

残念ながら、

この御本には
経済的な理由で
―オカネがないので
手が出ないせよ、

本国の先生の現代語訳で
大体を意味を確認すれば、

分かりにくい言葉の意味に
当たりを付けることが出来、

差し当たって、

初歩的なミスを防ぐ確率は
上げられるのでは
なかろうか、

―ということを
思い付きました。

そこで、

近所の図書館の中では
この種の蔵書が豊富な
最寄の国立大学さんの
付属図書館のサイト
蔵書検索を掛け、

(コロナの入場制限緩和と
入れ替わりで
付属図書館の繁忙期が来る
という不運!)

それっぽい安値のものを
古書で購入するに
至りました。

澤田様の努力に対して、
改めて御礼申し上げます。

その結果、

1980年代の段階、

つまり、出土品の調査や
当時に至るまでの
各種注釈の精査を
踏まえたうえで、

「考工記」の現代語訳が、

どうも、

原文以外では
『周礼注疏』の内容に
かなり準拠している
模様である、

と、いうことが
分かった次第です。

おわりに

なお、今回の記事については、

図解の多少の補足と無駄話が
中心となってしまったことで、

結論の整理は行いません。

悪しからず。

【主要参考文献】

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』(国学導航)
聞人軍『考工記訳注』
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』
(各巻)
楊泓『中国古兵器論叢』
稲畑耕一郎監修
『図説中国文明史 3』
伯仲編著
『図説 中国の伝統武器』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版

カテゴリー: 兵器・防具, 言い訳 | コメントする

『周礼』考工記の説く、武器の使い方と囲

【追記】21年10月21日

大変な誤読に気付きましたので、
その旨御知らせします。
まずは、申し訳ありません。

で、誤読の部分ですが、
「囲」というのは、

柄の中の手に持つ部分、
上端の金属部分、
末端の石突―「鐏」の部分です。

特徴となる部分を
何かしらで
コーティングすることで、
文字通り、「囲」か。

昨日の更新では
手に持つ部分、と書き、

恥ずかしながら、

これも誤りにつき、
訂正します。

実は、『周礼注疏』にも、

原文の舌足らずな部分を
補うかたちで
そのように
書いてあるのですが、

「晋」と「刺」で
理解が前のめりになり、
敢えて武器の先端と取り、

これが祟った次第。

後日、図解を描き直して
訂正記事を書く予定です。

恐らくは、
こういうのが
素人の独学のコワさで、

むこうの古典を読む際、
内容が分かりにくいと
感じた場合には、

中国語の現代語の訳文にも
目を通した方が良いことを
痛感した次第。

中文の文献の入手が
難しい場合でも、

訳本の転写と思しき
古典の訳文のサイトが
結構ありまして、

例えば、「百度検索」で
「周礼」や「司馬法」等で
検索を掛けると、

原文と訳文の揃ったものが
出て来ます。

で、こういうものを
見る際、

例え、
中国語が分からなくても、

いくつかの漢字を
見るだけでも、

中国人の常識と
サイト制作者のような
素人の危うい読解の
認識の隔たりを
或る程度は埋めることが
出来るかと思います。

で、今回のような
(他の箇所でもやってる気が
しないでもありませんが)
サイトを辞めたくなるレベルの
誤読を防ぐ確率が
高くなる、と。

聞人軍『考工記訳注』

【追記・了】

はじめに

今回は、

『周礼』考工記
「廬人為盧器」における

戈戟・矛の使い方と、
矛・殳の囲
―先端の金属の部分と
柄との接合する部分、
の御話。

今回をもって、

「廬人為盧器」の内容を
漸く、一通り、
整理出来たことになります。

もっとも、

大意を正確に
取れているかどうかは
全くもって別にして。

加えて、

短い文章にもかかわらず、
何とも時間と労力を
要したこと!

自分で自分を誉め、
られる筈もなく。

1、当該部分を書き下す

それでは、まずは、
当該の箇所を、
原文で確認します。

なお、書き下しや
字義の解釈は、
サイト制作者の愚見
基づきます。

あくまで御参考まで。

凡兵、句兵欲無彈、
刺兵欲無蜎
是故句兵椑、刺兵摶
撃兵同強、舉圍欲細、
細則校
刺兵同強、舉圍欲重、
傅人則密、
是故侵之

句兵:戈・戟
彈(弾):弾を発射する、
琴を奏でる、
悼(ふる)う=振る・回す、
と同じ。(鄭玄注)
刺兵:矛
蜎:くねくねと曲がる
さっと飛ぶ
椑:柿の一種。
ここでは、動詞で、
柿の木から
実を枝から捥(も)ぐ、
といった意味か。
その他、平たく円形の杯、
斧の柄(鄭玄注)
摶:集中する
撃兵:殳
強:励む、強い、
ここでは、「硬い」か。
【追記】注釈によれば
「同強、上下同也」。
『考工記訳注』も
これに準拠してか、
「各部分要同様堅勁剛強」
とあり、
柄の先端から末端まで
同じ硬さ、つまり、
「同じく強くして」と、
書き下した方が自然か。
【追記・了】
舉:ふたり、あるいは両手で
持ち上げる
圍:柄の手の持つ部分
上端の金属の部分、
末端の石突。
校:素早い、
「校、疾也」(鄭玄注、
『春秋左氏伝』昭公元年に
用例有)
傅:迫る
密:安定する

凡そ兵は、
句兵は彈(ひ)くなきを欲し、
刺兵は蜎なきを欲す。
これ故句兵は椑(へい)、
刺兵は摶(もっぱ)らにす。
撃兵は同(とも)に強(はげ)むに、
圍を舉(あ)げるに細きを欲し、
細は則(すなわ)ち校。
刺兵は同に強むに、
同じく強くして
圍を舉げるに重を欲し、
人に傅すに則ち密にして、
是故これを侵す。

で、この文章の前半部分
図解したものが、以下。

なお、この解釈には
実は相当問題があるのですが、
それは後述します。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版等(敬称略・順不同)より作成。

2、戈戟・矛の使い方

次いで、
大体の意味について
触れます。

句兵―戈や戟は
振り回さない、

刺兵―矛は
くねくねさせないのが
望ましい、

というのが、
戈戟や矛の各々の使い方。

因みに、
「彈」は、鄭玄曰く「悼」。

オー〇ニサンみたく、
アッパー・スイングで
本塁打を量産するための
得物にあらず、と。

二ホン人で
メジャーの投手から
逆方向の柵越えを
打つのですから、
まあ、大したもので。

それはさておき、

矛をくねくねさせない、
というのは、

サイト制作者の解釈ですが、

柄をしなわせないことだと
思います。

サイト制作者が
未だに理解しかねるのが、

次の「句兵は椑」の部分。

「椑」柿の一種、
楕円、棺桶や丸く平たい容器、
その他、斉の方言で斧の柄、
といった意味があります。

で、ここでは、

当該部分についての
「椑」の主流と思われる解釈は
楕円。

『周礼注疏』によれば、
原文は以下。

云椑、隋圜者、
謂側方而去楞是也

隋:こわす
圜(円):円形の様
側:偏った様
方:四角
楞:角

椑を云うに、
圜(えん)を隋(こぼ)つは、
側方をいい去是也
楞(りょう)を去る
これなり。

確かに、

「椑」を楕円、
「摶」を丸いと解釈すれば、

句兵は椑、刺兵は摶

戈や戟は楕円で、
矛は円である、

という具合に、
ひとつの対比としては
意味は通じます。

しかしながら、
その前の「これ故」との
関連性を考えると、

振り回さないので楕円、
くねくねさせないので円、

という話になり、

サイト制作者としては、
意味が分かりません。

先述の『周礼注疏』も、
字義に言及するに
止まります。

2、キワモノ解釈、
「椑」は動詞?!

そこで、
「椑」の他の意味の
可能性等、
色々考えた挙句、

「椑」を馬鹿正直に柿とし、
この線で調べ事を進めました。

―と、言いますのは、

勘めいた話で恐縮ですが、

以前、この『周礼』考工記の
「冶氏為殺矢」を
捻った解釈をせずに
素直に読んだところ、

西周時代の出土品の
戟の中に、

その規格に
ほぼ準拠したものが
あったことが
理由のひとつです。

以下、「椑」を
キワモノ解釈とする
怪しげな考察
あらましで御座います。

さて、その
「椑」なる柿ですが、

残念ながら、
手に取って食べたことは
ないのですが、

百度検索さん
検索を掛けると
画像が数多く出て来ます。

余談ながら、

朱元璋が若い時分に
飢えを凌ぐために
これを摘み喰い
したのだそうな。

写真を見る限りは、
日本のものよりも
少し小振りだと思います。

で、その柿の仲間と
戈との関係ですが、

日本の農家さんの
柿の収穫の風景について
画像検索を掛けたところ、

竹や木の棒の先端に
三角の切り込みを入れ、

これで枝ごとへし折って
鈴なりになった実を
収穫する、

―というものが
ありました。

これを見て、

「椑」は恐らく動詞で、
―椑を採る、
もう少し言えば、

(戈のように)
得物で引っ掛けて
枝を折る、

だと思った次第。

ただ、これも、

文法に則った訳
というよりは、

ニュアンスと言った方が、

サイト制作者の感覚に
近いです。

しかしながら、

確かに、
学術的な話としては
乱暴な話ですが、

「摶」を
「摶(もっぱ)らにす」
―集中する、と、
読むことで、

「椑」と「摶」の対比は
楕円と円に比べて
弱くなるものの、

大体、以下のような訳で
意味が通じるかと
思います。

戈は振り回さず
矛は切っ先を
くねくねさせないのが
望ましい。

したがって、

戈や戟は引っ掛け、
矛は切っ先を
一点集中させる。

もっとも、

サイト制作者としても、
楕円と円の意味が分かれば、

『周礼注疏』の解釈に
乗り換えたい位に
迷ってはいますが。

その意味では、
教養として知っておく分には
『周礼注疏』の
解釈の方が無難で、

願わくば、

モノの考え方のひとつ、
程度で御願い出来れば
幸いです。

3、やっつけか極意か?!
戈の変則用例

さて、流れをぶっ壊すようで
恐縮ですが、

ここに、
もっともらしく
「〇兵」と説明があるものの、

実際の殺し合いの場面なんぞ
武器の用例については
結構いい加減なところ
あります。

春秋時代の終わり頃、
定公四(前506)年
の話ですが、

呉の伍子胥の用兵の前に
楚が大敗を喫し、

事もあろうに
首都の郢
(えい:後の江陵)まで
取られました。

その折、楚の昭王が
逃避行の最中に
盗賊に寝込みを
襲われまして、
さあ大変!

王の命運や如何に。

以下、
『春秋左氏伝』の原文で。

王寝、盗攻之、
以戈撃王
王孫由于以背受之、
中肩

盗:盗賊・群盗
撃:叩く・突き刺す
中:当たる

王は寝、盗之を攻める
戈をもって王を撃つ
王孫由、
背をもって之を受け、
肩に中(あた)る

盗賊の戈による一撃を
孫の由が
王の身代わりになって
肩で受けた、

―という御話。

因みに、
この由という御仁、

後日、城郭改修の不備を
咎められた折、

逆ギレして、

出来ぬことを無理やり
押し付けるからだ。
こういうことは出来るが
デスク・ワークは無理だ、

と、例の桜吹雪の入れ墨、
(若い方には通じませんか)
ではなく、
肩の傷を見せ付ける、

という豪傑肌の人。

こぼれ話はともかく、

定石通り、
首に引っ掛けて
スマートに斬るのではなく、

力任せに
打ち掛かっている訳です。

こうなると、

戈は「句兵」なんだか
「撃兵」なんだか
判然としません。

因みに、『左伝』には、

他にも、
戈で人を殴る描写が
ひとつならずありまして。

余談ながら、

幕末の斬り合いでは
日本刀で突くのが
実戦的であったそうで、

どうも、
それと似たような話に
思えます。

【雑談】戈の形状の変遷に事寄せて

さて、ここで、

西周時代の前後の
武器の変遷という観点から
粗い見立てを行うと、以下。

佐藤信弥先生
『戦争の中国古代史』
によれば、

故・林巳奈夫先生の
学説の引用として、

殷代中期には、
戈で敵兵の盾を付いて
自分の側に引き倒す、
という使い方であったのが、

後期には、
甲冑の発達とその対策で
(戈や戟の直角部分に付いた
湾曲した刃)が付く、

という大きな変化が
あったそうな。

実際、殷代の戟の出土品には、
胡のない短戟もあります。

したがって、
『周礼』が西周時代の書き物と
仮定すれば、

当時は、
戟や戈の形状や使い方が
大きな変遷の最中に
あったことになります。

それを受けて、
あるいは、

当面は使用に足る
マニュアルめいたものが
必要とされた状況
あったのかもしれません。

穿った見方をすれば、

政治の話はともかく、

当座の武器の規格までもが
儒教の理想国家の礼という形で
後世に残ってしまったことで、

当世一流の賢者は元より、

サイト制作者のような
箸にも棒にもかからない
愚者も巻き込んだ、

何とも息の長い
謎解きや伝言ゲームに
発展したような気が
しないでもなく。

で、どうも、コレ、
書いた方は、存外、
泉下で笑ってやせんか、

―と、感じる薄気味悪さ。

因みに、戈頭・戟体の
形状の変遷が
一旦落ち着くのは、

春秋時代に入ってからの
ことです。

西周時代も西周時代で、

戟刺・戟体が一体の
が作られたものの、

これも楊泓先生によれば
作りが脆いことで
刺突・斬撃の双方を
こなすことが出来ない、

という具合に
大きな試行錯誤が続き、

次の時代には
分鋳されることとなりました。

【雑談・了】

4、殳の囲の性質

さて次は、
囲、つまり、

得物の先端の
金属の部分と
柄との接続部分、

―の御話です。

ここで、一応、
殳という武器の概念
大雑把に確認します。

以下に、
以前の記事で掲載した図解
再掲します。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

次いで、

冒頭にあげた
書き下し文の当該箇所を
再度見てみます。

撃兵は同(とも)に強(はげ)むに、
圍を舉(あ)げるに細きを欲し、
細は則(すなわ)ち校。
刺兵は同に強むに、
圍を舉げるに重を欲し、
人に傅すに則ち密にして、
これ故これを侵す。

まずは、言い回しですが、

「同に強み」というのは、
恐らくその後の部分に
係ります。

つまり、ここでは、

撃兵(殳)も刺兵(矛)も
囲については
かくかくしかじか、

と、いうような意味かと
思います。

これを踏まえた上で、
以下のような意味に
なろうかと。

得物を両手で
持ち上げる際、

殳は細いのが
望ましく、
機敏に動けることを意味する。

矛は敵を刺す際に
重い方が安定するので
望ましい。

因みに、『周礼注疏』
当該部分を見ると、

校読為絞而婉之絞
校を読むに
絞にして婉の絞となす

玄謂校、疾也
玄(鄭玄)謂うに校、疾なり

―と、ありまして、

前者の「絞而婉」は、
『春秋左氏伝』の引用箇所。

果たして、

この注釈に従って
同書の
昭公元(前541)年の件
確認すると、

叔孫絞而婉
叔孫、絞にして婉

という文言があります。

何の話かと言えば、以下。

この年、
当時鄭の領地であった
(河南省三門峡市)にて
諸国の要人
会合を行いまして、

その折、行人
(外交官、
ここではホスト国の接待役)
子羽(公孫揮)
子皮(罕虎)に対して、
言った言葉です。

小倉芳彦先生の訳も
活用させて頂くと、

魯の叔孫豹の外交辞令が
このブログと真逆で
手短に要点を纏め、
かつ婉曲である、と、
誉めて見せた、

と、いったところかと、
思います。

座右の字引きによれば、
「絞」は、

悪く言えば、
切羽詰まって余裕がない、
といった意味もあります。

余談ながら、
子皮という人は、

その後の子産と並ぶ
鄭の大黒柱的政治家。

武器の話に戻ります。

殳が軽快に振り回せるのが
望ましい、
というのは、

察するに、

元々が重く
取り回しが悪いことで、

少しでも軽快に動ける方が
分の悪さを軽減出来る、

という話なのでしょう。

残念ながら、

管見の限り、

戈頭・戟体や矛頭に比べて
殳の出土例が少ないことで、

金属の鈍器であり、
モノによっては
トゲが付いている、

という以外の
実物ベースの話は
出来ません。

とは言え、

以前の記事で
何度か引用した通り、

昭公二十二
(前521)年の
晋楚の代理戦争も兼ねた
宋の内戦の折、

華豹の車右の張匄(かい)が
公子城の戦車の横木を
殳でへし折った、

という用例があります。

因みに、春秋時代当時の
城攻めの戦法のひとつに、

複数名の兵士が
鈴なりに戦車に乗り込み、
突入して
城門前に乗り付ける、

というものがあります。

言い換えれば、

それ位荒々しい使い方に
耐えうるフレームを
殳で叩き割れる訳で、

それだけの
威力(≒硬度・重量)がある
ことが、

囲が細いのが
望ましいことの
前提にある、

ということになります。

5、重きを欲して軽くなる?!

次いで、矛の囲について。

圍を舉げるに重を欲し、
人に傅すに則ち密にして、

ですが、

「密」を、
字引きにある通り
安定する、と、解釈すれば、

矛頭が重い方が
刺さり易いので望ましい、

という話だと思います。

確かに、長さ≒重さ
仮定すれば、
当然の話なのかも
しれません。

事実、
以前の記事でも
触れた通り、

西周時代の矛頭の中には、

『周礼』冬官が
説く程ではないにせよ、

50cm余の長いもの
あります。

まずは、当該の記事で
掲載した図解を
再掲します。

周緯『中国兵器史稿』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説中国の伝統武器』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 3』、林巳奈夫『中国古代の生活史』(敬称略・順不同)等より作成。瀏城橋出土の矛を「戦国時代」に訂正。

しかしながら、

時代の変遷をたどれば、
別の側面
見え隠れします。

確かに、
どの時代の矛頭にも
長い短いはありますが、

中でも先述の西周時代の
50cm超えの矛頭は
管見の限り戦国時代以前は
他に例を見ません。

また、
全体的な傾向としては、

戦国時代までは、

時代が下るに連れて
短くなる傾向にあるように
見受けます。

先の矛頭の図解で言えば、

呉と燕の国君の矛頭の比較が
分かり易いかもしれません。

つまり、

『周礼』冬官の説く、

重いのが望ましい、という、
至極もっともな理屈が、

時代が下るにつれて
実利面から
乖離していった可能性
あると考えられます。

とは言え、
残念ながら、

サイト制作者は、

現段階では
この理由は分かりません。

大体の話としては、

歩兵の集団戦の普及や、

それに伴う
武器の持ち手の兵士の
体力的な制約等の
可能性を考えますが、

史料で確認した訳では
ありませんので、

個人的な感覚としては、

想像の域を出ないのが
正直なところ。

で、さらに興味深いことに、

漢代以降、

「圍を舉げるに重を欲し」への
回帰が始まった可能性
考えたいと思います。

以前の記事の図解を
再掲します。

過去の記事や図解を
読み返すのは、
正直なところ、
汚物に触るが如しで
かなり怖ろしいのですが、
それはともかく―。

学研『戦略戦術兵器事典 1』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

『戦略戦術兵器事典 1』
図解の模写です。

来村多加史先生の
担当箇所で、

残念ながら、

図解にある武器が
出土した地域は
分かりません。

とは言え、

詳細な長さが
書いてあることで、

この通りであれば、

については、

戦国時代まで続いた、

短く軽いことによる
取り回しの良さを追求する
戦い方から、

前漢以降の
鉄の普及によって、

重さにモノを言わせて
突くという戦い方へと
一転した、

ということが
言えるかと思います。

所謂『三国志』の戦いも、
このような背景を
持つものの、

鉄も鉄で
量の限られた資源につき、

消耗品の鏃を
銅で作っていたところを
見ると、

むしろ銅製の武器の方が
鉄製より多かったと
考える方が
自然かと思いますが、

その銅で鉄製の武器と
同じ形状のものを
製造する不思議。

この辺りの事情の解明は、
また後日。

話が膨らみ過ぎたことで
矛の囲の話を纏めますと、

囲が重い方が良い、
というのは、

どうも、
西周時代特有の事情
によるもので、

普遍的な概念とは
言えないのではないか、
と、考える次第。

おわりに

そろそろ、

例によって、
今回の記事の内容
以下に纏めることとします。

1、『周礼』冬官の
説くところによれば、

戈戟は振り回さず、
矛はくねくねさせないのが
望ましい。

2、ただし、春秋時代には、
戈を相手の体に打ち込む
用例も見られた。

3、『周礼』冬官は、
矛の囲は重い方が
安定して刺さるので
望ましい、と、説く。

4、しかしながら、
戦国時代までは、
時代が下るにしたがって、
矛の囲は短く≒軽くなる
傾向にあった。

5、3、の内容は、
西周時代特有の事情に
起因すると考えられる。

6、『周礼』冬官によれば、
殳の囲は、
機敏に動けることで
細い(=軽い、か?)方が
望ましい。

7、6、の前提条件として、
打撃による
相応の破壊力がある。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
『周礼注疏』(国学導航)
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』
(各巻)
杜預『春秋経伝集解』
周緯『中国兵器史稿』
楊泓『中国古兵器論叢』
稲畑耕一郎監修
『図説中国文明史 3』
伯仲編著
『図説 中国の伝統武器』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
佐藤信弥『戦争の中国古代史』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版

カテゴリー: 軍制 | 5件のコメント

殷代~戦国時代の矛について

【追記】21年10月21日

大変な誤読に気付きましたので、
その旨御知らせします。
まずは、申し訳ありません。

で、誤読の部分ですが、

「囲」というのは、

柄の中の手に持つ部分、
上端の金属部分、
末端の石突―「鐏」の部分です。

後日、図解を描き直して
訂正記事を書く予定です。

恐らくは、
こういうのが
素人の独学のコワさで、

むこうの古典を読む際、
内容が分かりにくいと
感じた場合には、

中国語の現代語の訳文にも
目を通した方が良いことを
痛感した次第。

中文の文献の入手が
難しい場合でも、

訳本の転写と思しき
古典の訳文のサイトが
結構ありまして、

例えば、「百度検索」で
「周礼」や「司馬法」等で
検索を掛けると、

原文と訳文の揃ったものが
出て来ます。

で、こういうものを
見る際、

例え、
中国語が分からなくても、

いくつかの漢字を
見るだけでも、

中国人の常識と
サイト制作者のような
素人の危うい読解の
認識の隔たりを
或る程度は埋めることが
出来るかと思います。

で、今回のような
(他の箇所でもやってる気が
しないでもありませんが)
サイトを辞めたくなるレベルの
誤読を防ぐ確率が
高くなる、と。

聞人軍『考工記訳注』

【追記・了】

はじめに

まずは、更新が大幅に遅れて
大変申し訳ありません。

春秋時代の
100名、あるいは75名の
戦闘隊形について
調べているうちに、

サイト制作者としては
これといった収穫がないまま
1ヶ月以上を溶かしまして、

生半可な時間と準備で
余分なことを
するものではないことを
痛感した次第です。

後、こんなブログ
やってる割には、

軍隊の指揮や
作戦計画立案の統括なんか
絶対にやってはいけない
人種だと思います。

それでは、
戈、殳、に引き続いて、
矛の話をしようと思います。

1、『周礼』冬官の説く矛の構造

1-1、矛の前史と全長

まず、故・周緯先生
『中国兵器史稿』には、

矛の殷代までの進化について、
次のように記されています。

・「初期人類」の段階では、
(原人の類だと思います。)
獣角・竹木・尖った石を
矛頭とした。

・矛は戈の前から存在し、
戈戟よりも進化が早く、
殷代には精巧なものが
存在した。

そして、以降の話として、

銅製以前の矛には
銎管(きょうかん)があり、

周代のものは
殷代のそれよりも長く、
玉矛(装飾の施されたもの)が
少ない、と説きます。

長さや銎管については、
後述します。

次いで、矛の全長ですが、

サイト制作者の忘備も含めて
以前掲載した図解を
ここに再掲します。

『周礼』(維基文庫)、楊泓『中国古兵器論叢』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、張末元編著『漢代服飾』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

以前の記事でも
紹介したように、

「車有六等之数」の箇所には
「酋矛常有四尺」とあります。

要は、戦車に搭乗する兵士が
用いる武器です。

「常」は2尋、
さらに、1尋=8尺。
(これが、西周時代辺りの、
成人男子の平均身長で、
同時に、両手を広げた時の幅。)

で、「常有四尺」=20尺。
周尺換算(1尺=大体18cm)
約360cm。

春秋時代の尺であれば、
これに+5%程度。

さらに、
「廬人為廬器」の部分では、
「夷矛三尋」とあります。

周尺換算で、
24尺=432cm。

で、この長さを超えると、
武器としては
使い物にならない、と、
説かれています。

因みに、「車有六等之数」では
夷矛について
言及されていないことで、

「夷矛」は歩兵用、
あるいは白兵戦の
武器なのかもしれません。

一方で、
『釈名』「釈兵」には、

「夷矛」は
「車上に持つところなり」
と、あります。

戦車に搭乗する兵士の武器、
という訳で、

後漢・魏晋時代の解釈では
そうなるのか、と。

もっとも、

サイト制作者としては、
確実な史料が
見当たらないことで、

残念ながら、
これ以上のことは言えません。

どうも、個人的には、
漢から魏晋時代の
周の時代考証に、
信用が置けない部分も
少々ありまして。

1-2、矛頭の部位

次いで、部位の説明に入ります。

以下のアレな図解は、
いくつかの文献の内容を
まとめたものです。

周緯『中国兵器史稿』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説中国の伝統武器』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 3』(敬称略・順不同)等より作成。

如何せん、
柄が残っている出土例が
少ないことで、

必然的に矛頭の説明が
多くなりますが、

まずは、その矛頭から。

前掲図を加工のうえ再掲。

図解自体が
ゴチャゴチャしているので
ひとつひとつ
触れていきます。

左上の赤枠の部分
御覧下さい。

矛の定義は、

先端が尖って
底面に穴が開いた鋳物に
柄を挿し込む武器です。

で、その
「銎」(きょう)と言います。

余談ながら、逆に、

柄の上端に穴、
先端の鋳物に
茎(なかご)がある
槍状の武器を、

鈹(ひ)と言います。

さて、銎以外の部位ですが、

先端「鋒」(ほう)、

鋒の後方の左右の
切れる部分「刃(じん)、

さらに、
刃の内側の平たい部分
「葉」(よう)と言います。

事例の矛が六角形につき、

分かりにくくて
恐縮ですが。

また、葉に中心線が入ると、
その線を、

「脊」(せき)と
言います。

脊は、座右の字引きによれば、

背骨のように隆起した部分、
という意味です。

以下は後述しますが、

矛の種類によっては、

この脊の部分
レール状になっているという
凝ったものもあります。

次いで、この出土品についても
少々触れます。

この矛は、
燕の最後の王となった
のものだそうな。

『図説 中国文明史 3』
にあった写真の
ヘッタクソな模写です。

で、どうして
時代や人物名等が
特定出来るか、
と、言いますと、

出土状況や形状
特定する他、

文字が彫ってあるもの
存在します。

この矛の場合は、その中で、
文字が彫ってあるという
パターン。

次に、矛頭の全長が
17.5cmというのは、

サイト制作者の管見の範囲では
短い部類のものです。

さらに、

先端「刺囲」
柄の装着部分である「晋囲」
長さの比率大体2:1程度で、

後述しますが、
この点は『周礼』冬官の内容と
合致します。

因みに、
「推定約」という表現は、

サイト制作者が
文献の写真に定規を当てて
計ったことによるもので、

大変申し訳ありませんが
アバウトな数字です。

何cmも誤差があるとは
思いませんが、

mm単位での正確さは
ありません。

サイト制作者の未熟さで
巧く説明出来ませんが、

目安となるような
大体の長さめいたものを
弾き出したかったことで、

敢えて、こうした
正確さに欠ける措置
取りました。

最後に、
この矛を所有する易県ですが、

地図で確認すると、

燕の首都である薊のあった
北京市から
南西に100キロ余の地点に
位置します。

この矛よりも、

清朝の陵墓群で
世界遺産でもある
清西陵の方が
有名な土地の模様。

因みに、易県の上位自治体は
河北省保定市。

余談ながら、

日本と中国では
市と県の関係が
逆転していますが、

「県」という文字には、
古語では
辺境という意味もありまして。

2、矛頭と柄の関係

2-1、矛頭と柄の比率

次いで、について触れます。

『周礼』冬官
「廬人為廬器」によれば、

これについて
以下のような件があります。

凡為酋矛、参分其長、
二在前、一在後而囲之
五分其囲、去一以為晋囲
参分其晋囲、去一以為刺囲

おおよそ酋矛をなすに、
その長を参分し、
二は前に在り、
一は後に在りこれを囲む
その囲を五分し、
一を去りもって晋囲となす
その晋囲を参分し、
一を去りもって刺囲となす

参:三

要は、
全長の先端の5分の1が「囲」
「囲」の5分の4が「晋囲」
「晋囲」の3分の2が「刺囲」

と、言う訳です。

図解すると、以下。
真ん中の太い矛の部分。

前掲図を加工のうえ再掲。

この矛頭は、

呉の最後の王となった
夫差の矛をモデルに、

『周礼』冬官の説く長さに
無理やり合わせた
歪(いびつ)なものです。

それはともかく、
「矛頭」と呼ばれて
出土品が数多残る
金属部分は、

ここでは、
「刺囲」と「晋囲」を
合わせた部分に相当します。

残念ながら、
両者の機能は
『周礼』には記されていません。

その中で、
いくつかの出土品を見る限り、

大別して、

・「刺囲」は相手を殺傷する部分、
・「晋囲」は柄を差し込む
「銎」の部分、

で、両者の長さの比率が、
『周礼』によれば2:1。

と、考えております。

さらに、「囲」の部分ですが、

いずれの時代に出土した
矛頭にも
紐を結ぶ穴があることで、

サイト制作者としては、

矛頭と柄を繋ぐ紐を
柄に結んだ部分であると
見ています。

以前、「殳」の記事で、
布を噛ませて太さを調整する、
と、書きましたが、
(断定は避けましたが)

確かに、こちらの方が
仕掛けとしては
合理的に思えます。

2-2 『周礼』の内容と出土例

次いで、『周礼』の内容と
出土例の比較を試みます。

幸い、管見の限りでは
一例あります。

以下の再掲図の
赤枠の部分です。

前掲図を加工のうえ再掲。

以前の記事でも
触れましたが、

柄の部分は
腐食が激しいことで
出土例が少なく、

漆痕でも残っていれば
御の字という状況です。

これに因みまして、

図解の柄の黄色い部分も
写真の模写なのですが、
(対象が白黒の写真につき、
この着色は想像です。)

塗装が剥げたか、

あるいは、
巻いてあるものが
欠落したのかも
しれません。

で、今回挙げる
木製ではなく、
藤か竹の模様。

赤枠の上の矛は、
湖南省長沙市の瀏城橋より
出土したものです。

因みに、楊泓先生
『中国古兵器論叢』には、
この遺跡について
「東周木椁墓」
書かれていまして、

さらに、
故・林巳奈夫先生の
『中国古代の生活史』には、

ここの「一号墓」から
出土した戈を、
「前4世紀」のもの
しています。

したがって、
ここに挙げた矛も
同じ墓からの出土につき、

戦国時代のものと
考えるのが妥当か
思います。

恥ずかしながら、

以前の記事で
ここから出土した戈を
春秋時代のものと
書いてしまいました。

当該部分には
訂正を入れましたが、
ここでも念の為。

大変申し訳ありません。

さて、この矛の長さですが、
写真の解説によれば、
「約1/14」とありまして、

馬鹿正直に14倍で
計算したのがこの図解。

その結果、
長さは大体3メートル前後で、

『周礼』の定める
酋矛の長さからは
数十cmの違いがあります。

以前紹介した記事で、

西周時代の戟体の形状が
『周礼』の内容と
ほぼ一致したことからすれば、
実用面での隔たり
考えてしまいます。

さらには、
矛頭と全長の比率も
『周礼』の説くような
数字どころの話ではありません。

矛頭の長さも
大体約16cm程度と、

図解の上段・左右両端の
戦国時代末期から
秦代の出土例の長さに近く、

時代が下って
歩兵戦が主流になると、

この辺りの長さに
落ち着くのかしらと
想像します。

最後に、
矛の後端の「鐏」(そん)
について。

所謂、石突きの部分です。
長物の尻にある、
地面に刺す部分。

瀏城橋出土の矛と戈のそれ
細長い以外は
内部のよく分かりませんで、

武器の解説書の図解に
あるような
銅製の鋳物か彫刻のような
立派なものでは
ありませんでした。

3、矛頭の類型
3-1、スペード型の矛頭

ここでは、
矛頭の形状について触れます。

例の図解を
再度見てみましょう。
右上の赤枠部分です。

前掲図を加工のうえ再掲。

この類型は、

周緯先生
『中国兵器史稿』にある
「矛頭之形式」の模写に、

サイト制作者
恐らく該当するであろう事例を
添えたものです。

ただし、浅学故か、
一番右のものについては、

矛頭側面の突起部分である
「英」(えい:はなびら)が
縦にふたつ並んだものを
見つけることが
出来ませんでした。

よって、
この事例は
少々怪しいかもしれません。

また、この周緯先生
提示された類型
以外のタイプも存在します。

例えば、
先述の夫差の矛頭は、

当時の剣の
剣身(柄より上)の部分に
晋囲を足した形状
しています。

図解で言うところの
右下のチャチな絵です。

この矛頭については
後述します。

それでは、
件の類型について
ひとつひとつ
見ていきます。

一番左の類型は、
殷代が主流のものです。

また、この出土例は
殷墟から出土したもので、

スペード型の葉・刃
側面の環紐(かんちゅう)
と呼ばれる
紐を通す穴が特徴です。

類型図の下にある要領で
柄と矛頭を繋ぎますが、

残念ながら細かい結び方は
分かりません。

後代のものと比較すると、

矛頭の結び目が
側面に剥き出しに
なっている点が
レトロに思えます。

一方で、この形状の矛頭
戦国時代の遺跡からも
出土しているのが驚くべき点。

河南省淅川県出土の
楚の令尹(今で言う宰相相当)
の矛で、

『図説 中国文明史3』
カラー写真があります。

で、写真を見ると、
矛頭の尻に折れた木の柄が
そのまま付いています。

因みに、サイト制作者は、
これを見て、
布を噛ませて太さを調整する、
という自らの怪しい推測を
疑いました。

もっとも、その矛頭には
装飾が施されていることで、

あるいは
古風な儀仗用の武器かも
しれませんが、

色々な時代の矛頭が
使われていた可能性も
否定出来ないと思います。

とはいえ、
周代や戦国時代に使われたものが
殷代に存在した、
という逆のパターンは
考えにくいとも思いますが。

3-2、片刃型の類型

次に、右からふたつ目の
周代の矛頭。

残念ながら、
これについては
詳細が分かりません。

ただ、長さが50cm余
ありまして、
『周礼』の規格に
一番近いのがこれ。

とはいえ、仮に、
この矛頭の長さを
規格通り5倍にしても
2.5m余にしか
なりませんで、

全長と「囲」の比率を
どう考えたものかと思います。

戦前に、
那法叶というロンドンの方が
所有していたことについては、

同書には、他にも
西洋人の方の所有する
矛頭の図が掲載されています。

と、言いますのは、

1935年にロンドンで
「中国芸術国際展覧会」が
開催されたようで、

こういう類の展覧会の陳列品等、
骨董品というカテゴリーで
存在が発覚したのかもしれません。

3-3、両刃型の類型と
美術品との接点?!

この流れで、
周代の片刃の矛頭の右にある、
両刃で環紐のない類型
触れます。

事例の品は、
戦前・戦後双方に
首相を輩出した
細川家に伝来する美術品の
博物館である
都内の永青文庫さんの所蔵品。

【追記】

戦前・戦後の双方は
誤りです。

細川護熙氏の祖父が
故・近衛文麿氏という
先入観が祟って
間違ったことを書き、

大変失礼致しました。

【追記・了】

HPによれば、
10年弱前の展覧会の
展示物であった模様。

以下は、当該のページの
アドレスです。

小さいですが、
現物の写真が載っています。

このサイトのチャチな絵よりも
現物の写真の方が
遥かに実感が湧くかと思います。

優美な矛頭だと思います。

(一文字目に「h」)
ttps://www.eiseibunko.com/end_exhibition/2013.html

惜しむらくは
写真が上から撮った平面図で
立体的作りが
分かりにくいのですが、

恐らく、
晋囲の中央の装飾が
柄と矛頭を繋ぐ
紐を通すための
輪になっている
想像します。

後述する、
夫差の矛と同じ構造かと。

周緯先生の最後の類型は、
側面に「英」のあるタイプ。

これも、最早、
美術品の範疇のようで、

ニューヨークの
メトロポリタン美術館が
所有する模様。

ここまで来ると、何だか、

古兵器の調べ事自体が
『〇ャラリーフェイク』の
世界に思えて来ます。

余談ながら、
美術品に疎い身としては、

あそこの
HPやドメインを見て、

漫画にある通り、
ホントに「メット」と
呼ぶんだなあ、と。
(モノの価値が
分からないので、
地に足が付かない感じが
増幅している心地!)

で、これも、
現物の写真を御覧になった方が
絶対に宜しいかと思います。

以下は、当該の矛頭の
写真のアドレスです。
ttps://www.metmuseum.org/art/collection/search/640808

保存状態が良いのか、
後で緑青を落としたのか、

金色の地肌が見え、

そのうえ、
葉・刃・脊、
紐を通すための穴等が
明確に浮かび上がり、

武器としての
機能や凄みを感じます。

ただ、残念ながら、
自身の浅学につき、

この矛頭が作られた時代を
特定した根拠は
分かりません。

もっとも、その形状は、
明らかに戦国時代の
ものですが。

【追記】
同ページの英文の説明に、

秦代に入っても
使われ続けた、と、
書いてありますね。

横文字を適当に読み飛ばす
怠慢な悪癖が祟った模様。

図解中の
「統一後」のみならず、
戦国時代の段階で
現役の模様。

ここに、訂正します。

同ページの左下の年代にだけ
目が行ってしまいました。
申し訳ありません。

【追記・了】

4、夫差の矛頭アレコレ

ここでは、
夫差の矛(頭)について
触れます。

図解の右下の赤枠です。

前掲図を加工のうえ再掲。

この矛頭は、恐らくは、
周緯先生が挙げた類型とは、
別のタイプかと思います。

繰り返しますが、
剣身に晋囲を加えたような
形状。

脊の部分が
レール状になっており、

真ん中の線が凹んで
「血槽」となっています。

文字通り、

人を斬った時に、
返り血をここに流すための
工夫かと想像します。

その他、

晋囲と剣身の
境界線の辺りに
獣面の装飾があります。

これが「鼻紐」
つまり、矛頭と柄を繋ぐ紐を
通すための
になっています。

こうした細部の工夫が
この図解では
分かりにくいことと、

幸いにして、
ウェブサイトに
写真が数多あることで、

この矛頭の写真のアドレス
二例添えておきます。

ウィキペディアさんの「呉王夫差矛」
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E7%8E%8B%E5%A4%AB%E5%B7%AE%E7%9F%9B

Doctor’s Gateさんのコラム
https://www.drsgate.com/company/c00071/54.php?

写真をクリックして
拡大すると
分かるかと思いますが、

葉の部分に
ひし形の紋様の入った
実に見事な矛頭です。

素人目に観ても、

日本刀の銘刀宜しく、

武器でありながら
美術品の範疇にも
入ろうかというもの。

因みに、
菱形の紋様を
矛頭に付ける方法
『中国文明史図説 3』
にあります。

引用すると、以下。

まずは、
高錫(すず)合金の粉末を
天然の粘着料に混ぜて
ペーストにします。

次に、これを
武器の表面(ここでは葉か)
に塗り、
さらに、紋様の刻みを入れ、
刻んだ部分を剝がします。

で、この状態で
炉で加熱すると、

ペーストを塗った部分は
銀白色、
周囲を刻んで剥がした部分は
銅黄色に、

それぞれ変化します。

この方法で、
紋様の色分けをしたそうな。

余談ながら、

夫差の好敵手である
越の句践の剣にも
同様の紋様が入っています。

はじめ、
サイト制作者は、

『左伝』における
夫差の浪費癖の件から
こういう凝ったつくりの矛は
その一端かしら、とも、
考えたのですが、

成程、手間暇掛かった
優美な逸品には
違いないとはいえ、

剣の製造で
有名な地域における
国君の持ち物で、

そのうえ、

句践の剣にも
同じ装飾が施されている、
―独自性がない、
と、あっては、

それとの因果関係は
分かりかねます。

おわりに

そろそろ、例によって、

今回の御話の結論
以下に整理しようと
思います。

矛の使用例については、
大変恐縮ですが、
稿を改めさせて頂きます。

1、矛は戈よりも進化が早く、
矛頭の材質は、
石・骨・竹木から銅に変化した。

2、柄を挿し込むための
銎管があるのが定義である。

また、矛頭には、
柄とそれを繋ぐための
穴がある。

そして、その穴は、
矛頭の側面の
剥き出しの状態から、
矛頭の内部に収める型に
変遷していった。

3、『周礼』冬官によれば、

矛頭の長さは
周尺換算で96cm、
全長の27%弱である。

しかしながら、
これに見合うか
近い長さの出土品は
管見の限り存在しない。

柄は出土品自体が少なく、
一例は全長で3メートル前後。

4、ただし、
『周礼』冬官の説く
刺囲・晋囲の長さの比率が
2:1という件については、

戦国時代の出土品を見る限り
かなり近いものが
いくつかある。

5、周緯先生の類型をもとに
いくつかの出土品を見る限り、

時代が下るにつれて
矛頭の長さは短くなる
傾向にあり、

15~20cm程度に
収まる傾向にあるように
推察する。

ただし、これについては、
サンプルを増やして
考察を深めたい。

6、殷代に主流であったと
思しき矛頭が、
戦国時代にも使われていた
可能性がある。

時代が下っても
それ以前時代に
登場した型の矛頭も
使われていた可能性を
考えたい。

7、周緯先生が提示した
以外の矛頭の類型も存在する。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
『周礼』(維基文庫)
『釈名』(天涯知識庫)
周緯『中国兵器史稿』
楊泓『中国古兵器論叢』
稲畑耕一郎監修
『図説中国文明史 3』
伯仲編著
『図説 中国の伝統武器』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版

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近況報告『周礼』考工記から見る武器の柄の管理

はじめに

今回も、御絵描きと妄想の回。
武器の柄についての御話です。

図解を描くのは元より、

具体的な
武器の管理その他についての
史料を探すのに
思いの他、
時間が掛かりまして、

まあ、思ったようには
巧くいかんものだと思います。

当初の目的である
「盧人為盧器」
書き下しに手が届くのは
いつのことかしらん。

1、柄の品質管理

早速ですが、
まずは図解を御覧下さい。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版等(敬称略・順不同)より作成。

例によって、

イメージの足しと言いますか、
御参考程度
御願い出来れば幸いです。

要は、現在で言えば、
器具の出荷前の品質管理や
配備後の点検の話かと
思います。

『周礼』考工記の原文によれば、
その具体的な目的は、

1、しない具合、
2、曲がり
3、強度

この3点の確認にあります。

その手順については、
『周礼注疏』や、
同書に引用のある『釈名』
参考にしました。

例えば、『周礼注疏』には、

柄の曲がりの矯正について、
以下の文言があります。

以柱両墻之間、輓而内之、
本末勝負可知也

墻:障壁、囲い、
輓:引っ張る
本末:根本とこずえ

柱をもって
両墻(しょう)の間とし、
輓(ひ)いてこれを内にし、
本末勝負を知るべきなり。

少々補足します。

残念ながら、
柱の立て方は
サイト制作者には
分かりません。

現在の材木の曲がりの
矯正方法も
少し検索しましたが、

その限りでは、

水を含ませる等、
当時とは方法が異なる模様。

不勉強で恐縮です。

また、最後の「本末勝負」は、

柄の上下のどちらが
曲がりが大きいか
確認せよ、

という話だと思います。

因みに、『周礼』の原文には、

この部分については、

図解にある文言の通り、
「諸墻を灸し」とあります。

少しややこしいのですが、

サイト制作者は、
原文の「墻」は障壁≒障害、
ここでは曲がりを意味し、

それを「灸す」=弊害を除く、
つまり、曲がりを矯正する、
と、取ります。

その他、生木から削り出す場合は、
小枝を落としたり
腐食部分を除いたりする作業も
含まれることでしょう。

人力で1本1本やると、
結構手間です、コレ。

さらに、時代が下れば、
生木どころか
他人様の墓の塚を失敬した、
と、話す御仁もいまして、

文言が彫られた部分も
バッサリ切除したのかしら。

それはともかく、

ここまでを整理すると、

『周礼』原文の「墻」は、
障壁や弊害、

『周礼注疏』の「墻」は、
2本の柱を、

それぞれ意味します。

次いで、

柄の強弱を試す際、

膝の上に載せる、
というのも、

『周礼注疏』にある文言を
図解したものです。

横而揺之、
謂横置於膝上、
以一手執一頭揺之、
以視其堅勁以否也

勁:直立して強い様
視:確認する

横にしてこれを揺らすは
横にして膝上に置くをいい、
もって一に手で執り
一に頭でこれを揺らし、
もってその堅勁と否とを
視るなり。

例によって
怪しい書き下しですが、
意味は通じると信じます。

膝の上に載せて手に取り、
次いで頭上で揺らして
曲がりや強度を試しなさい、

という御話。

因みに、最後の行の「以」は、
座右の字引きによれば、

用例のひとつに
「与」(と)と同じ、
というものがありました。

で、サイト制作者が
腹が立ったのは、

この注疏には、

これらの話について
「釈曰」とありながら、

原典の『釈名』には
その件がないと来まして。
(あるいは欠けているか)

同書の「釈兵」以外にも
それらしい部分を
色々探したのですが、

結局、見つけられず終い。

とはいえ、
この『周礼注疏』にある
柄の扱いについては、

サイト制作者としては、

今のところ、
間違いであると
否定する材料もないので、

こういうものかしら、と
図解に至った次第。

少なくとも、

注疏のかなりの部分が
書かれた後漢時代当時は
このやり方であった、

あるいは、
古法はこのようであった、で、
話が通じたのではないかと
思います。

その意味では、

少々夢のある話をすれば、

例えば、
張飛や程普が
振り回した矛なんか、

こういう検査を受けた可能性が
ありそうなもので。

さらに妄想を逞しくすれば、

測定に計器が不要な点や、

後漢時代に入っても
時の軍人や知識人が
『周礼』の他、
それまでの時代の兵法書を
相当意識している様子を見ると、

サイト制作者の
愚見としては、

こういう簡便な方法は
古来から変わっていないように
思いますが、

さすがに、
それを証明することは
出来ていませんので、
ここらで御容赦下さい。

2、春秋時代における
戦時の武器修理の光景

さて、柄の扱いの話について、
もう少し掘り下げて
考えてみようと思います。

とは言っても、
柄の扱いそのものの話は
中々見当たらないのですが、

その周辺領域と言いますか、

平時の武器の管理にまで
話を広げると、

例えば、春秋時代に限ってすら、
管理体制から
担当の官職等にまで及び、

ここで枝葉の話として扱うには
収拾が付かなくなることで、

後日、その概要を
整理するとして、

ここでは、
戦時の差し迫った折の用例
ひとつ挙げるに止めます。

時は春秋時代後半の
成公十六(前575)年6月、

晋楚の数々の決戦のひとつの
鄢陵(現・河南省許昌市)
の戦いの折の御話です。

御周知の通り、
自ら出撃した楚王の共王が
目に矢を受けるレベルの激戦。

さらには、
『春秋左氏伝』の
この戦いにおける件は、

戦闘の前の経緯も含めて、
弓合戦の名場面としての見所や
戦争の考証について
学ぶところの
非常に多い部分ですが、
(和訳様様で御座います。)

今回の引用は、
その中でも、残念ながら、

目下の戦闘が一段落した後で
戦力を整備するという、

地味な箇所です。

子反命軍吏察夷傷、
補卒乗、繕甲兵、展車馬、
雞鳴而食、
唯命是听
晋人患之
苗賁皇徇曰
蒐乗補卒、秣馬利兵、
修陣固列、蓐食申祷、
明日复戦
乃逸楚囚

子反:楚の公子側
察:調査する
夷傷:負傷者
卒乗:ここでは戦車兵か?
甲兵:鎧と武器
展:並べる(=陳・陣)
鶏鳴:夜明け
听:口を開けて笑う
苗賁皇:楚の王族で、晋に亡命。
徇:見回る
蒐乗:兵車を調べる
なお、「蒐」は集める、
調べる、検閲する等の意。
利:鋭くする
修:直す、繕う
蓐:豊かで飽き足りる
申:声を長く伸ばす
祷:祈りの言葉
复:また
囚:捕虜

子反軍吏をして
夷傷を察(み)せしめ、
卒乗を補い、甲兵を繕い、
車馬を並べ、
雞鳴にて食し、
ただここに听(わら)わしむ。
晋人これに患う。
苗賁皇徇(めぐ)りていわく、
蒐乗し卒を補い、
馬を秣(まぐさか)い、
兵を利(と)くし、
陣を修め列を固くし、
食を蓐くし
祷(いの)りを申(うた)い、
明日また戦わん。
すなわち楚囚を逸す。

まず、軍吏が死傷者を数え、
そのうえで、
戦車にしかるべき兵員を充当し、

さらには、鎧や武器を修理し、
馬に飼料を与え、
兵士には朝食を
しっかり取らせ、

締めの手順として、
今で言うところの
神事を行う、

ですが、最後の行だけは
情報戦の一幕で御座い、と、

ハーフタイムの
慌ただしい様子が
色々と記されていますが、

サイト制作者は、

何も決戦に限らず、

人数規模の大小を問わずに行う
戦闘終了時の
事務的な作業手順
見ています。

念の為、確認しましたが、

『春秋穀梁伝』や
『春秋公羊伝』の
成公十六年の記述には
詳しい話はありませんで、

こちらは
空振りに終わったと
言うべきか。

3、武器の修理の肝

因みに、武器の修理については、

上記の引用には
「甲兵を繕い」、
「兵を利(と)くし」、

と、ありますが、

『管子』「問第二十四」にも
以下のような件があります。

斉が臓器売買に手を出した、
という類の内容ではありません、
―何の話か。

疏蔵器弓弩之張、
衣夾鋏鉤弦之造、
戈戟之緊、
其厲何若

器:用具
ニュアンスとして、
用途が決まっていて
融通が効かないものの例え。
疏:軽視する、卑しむ
夾:合わせの着物
造:製作する
鋏鉤:ここでは剣と戈か?
なお、「鋏」は鋳物につかう
かなばさみ、
「鉤」は鍵の意
緊:ぴんと張った様
厲:磨いて鋭くする

器を蔵(おさ)むを疏むは
弓弩の張、
衣夾鋏鉤は弦の造、
戈戟の緊、
それを厲(と)ぐに
いかんせん。

サイト制作者の読み方が
間違っていなければ、

武器や軍服の
保管・製造・整備は、

弓の構造に例えて
三位一体である、
としています。

ここで注目したいのは、
「厲」という言葉。

先述の
成公十六年の引用における
「兵を利し」と同じく、

兵器の整備・修理の肝が
刃先を研ぐことにある、

ということが
言えるかと思います。

今回の御題で言えば、
柄の管理よりも優先される
ということかと思います。

なお、この
『管子』「問第二十四」は、

軍備や
もう少しテクニカルな
戦備を含めた
国力の指標となる項目の
チェック・リストといった
部分でして、

当時の社会構造を
垣間見ることの出来る
非常に興味深い部分です。

後日、軍備の部分だけでも
もう少し詳しく
触れたいと思います。

おわりに

そろそろ、
例によって
要点を纏めようと思います。

1、『周礼』考工記によれば、
武器の柄の点検の目的は、
しない具合、曲がり、強度の
確認にある。

2、後世の注によれば、
点検は五体で行うことが出来る。

3、武器の修理は
戦闘ごとに行う必要があり、
重点が置かれているのは
金属部分の損耗の修復である。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
『周礼』(維基文庫)
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻
杜預『春秋経伝集解』
(上海古籍出版社)各巻
鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)
『管子』(維基文庫)
楊泓『中国古兵器論叢』
陳寿・裴松之注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

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近況報告 『周礼』考工記の定める殳の規格

【追記】21年10月21日

大変な誤読に気付きましたので、
その旨御知らせします。
まずは、申し訳ありません。

で、誤読の部分ですが、

「囲」というのは、

柄の中の手に持つ部分、
上端の金属部分、
末端の石突―「鐏」の部分です。

後日、図解を描き直して
訂正記事を書く予定です。

恐らくは、
こういうのが
素人の独学のコワさで、

むこうの古典を読む際、
内容が分かりにくいと
感じた場合には、

中国語の現代語の訳文にも
目を通した方が良いことを
痛感した次第。

中文の文献の入手が
難しい場合でも、

訳本の転写と思しき
古典の訳文のサイトが
結構ありまして、

例えば、「百度検索」で
「周礼」や「司馬法」等で
検索を掛けると、

原文と訳文の揃ったものが
出て来ます。

で、こういうものを
見る際、

例え、
中国語が分からなくても、

いくつかの漢字を
見るだけでも、

中国人の常識と
サイト制作者のような
素人の危うい読解の
認識の隔たりを
或る程度は埋めることが
出来るかと思います。

で、今回のような
(他の箇所でもやってる気が
しないでもありませんが)
サイトを辞めたくなるレベルの
誤読を防ぐ確率が
高くなる、と。

聞人軍『考工記訳注』

【追記・了】

はじめに

今回は打撃系武器・殳(しゅ)
についての御話。
御絵描きと妄想の回です。

日を開けずに、
などと言いながら、

結局2週間以上掛かってしまい、
大変申し訳ありません。

一度ならずではありますが、
出来ない約束は
するものではないなあと
痛感する次第。

1、殳の形状

それでは、早速、
サイト制作者の愚見ながら、

殳がどういうものか
以下のアレな図解
確認します。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

この殳の図解は、
大体のイメージ程度で
御願いしたいのですが、

サイト制作者としては、

要は、その定義めいたもの
鈍器という程度のことしか
分かっていません。

例えば、頭の本体から伸びる
トゲについては、
戦国時代のものには
ありませんし、

先端の突起(「刺」)
についても、

付いているのは
何も殳だけではなく、
戈に付ければ戟になります。

さらに、矛なんか
刺そのもので、

中国の古兵器どころか、
時代が下れば小銃にも付く、
と来ます。

2、「殳」の後漢・魏晋時代の解釈

一方で、『周礼』考工記
「盧人為盧器」の箇所では、

戈戟を「句兵」、矛を「刺兵」、
そして「殳」を「打兵」
しています。

【追記】

「打兵」ではなく、
「撃兵」です。

サイト制作者の誤りです。

図解の「打兵」
「撃兵」の間違いです。

【追記・了】

「打」という字が出たことで、
サイト制作者が応援している
龍の球団の打線が湿っており
悩ましい限りですが、
それはともかく、

字義めいたものについても
少し触れます。

字引き(『漢辞海』第4版
によれば、

「殳」の文字自体が
「殳旁」(ほこづくり)という
部首でして、

「手に武器を持つ」意で
打撃を加える動作
表すそうな。

その他、以下は
漢代の解釈になりますが、
『釈名』释兵第二十三より。
(天涯知識庫さんより)

殳矛、殳、殊也。
长丈二尺而無刃、
有所撞挃於车上、使殊離也。

殳矛(しゅぼう)は、
殳、殊なり。
長丈二尺にして刃なく、
有るところは
車上において
撞挃(とうちつ、か?)し、
殊離せしむなり。

殊:殺す
長:長さ
丈・尺:10尺=1丈
周尺:1尺=18cm余
後漢尺:1尺=23.75cm
魏晋尺:1尺=24.2cm
車:戦車(2~4頭立ての馬車)
撞:叩く、叩き切る
挃:突く

先述の字引きに
上記の和訳と思しき部分が
ありましたので、

どういう言葉を
使っているのかしらんと
原文を読んでみた次第。

まず、長さですが、

『周礼』冬官には、
先述のように
1尋(=8尺)4尺と
ありまして、

周尺換算で約216cm。

また、劉熙の時代の尺だと、
同じ12尺とはいえ
285~290cm余。

因みに、サイト制作者は、

この70cm程度の違い
武器の長さとしては大きい
思っています。

例えば、前回触れたように、
これだけ違えば、

『周礼』考工記で言えば、

殳が車戟に、
車戟が矛に、
それぞれ化ける程の違いでして、

言い換えれば、
運用に支障を来そうもので、

その辺りに
言及されていないこと自体、

この殳という武器が、

通説の通り、

後漢から魏晋の頃には、

既に過去の遺物
謎の兵器の類に
なっていたように思えて
なりません。

3、一応、『左伝』に存在する用例

続いて、その使い方ですが、

そもそも、名称が、
「殳矛」と、
ふたつの武器で一括り。

そのうえ、

刃がないものは、
(恐らく車戦用との対比で)
徒歩戦闘用、

あるものは
車戦用で突き、叩き、
振り放す、と、

先述のアレな図解同様、

鈍器にオプションが付く、
程度のイメージしか
見えて来ないように思います。

次に、殳の具体的な
用例めいたものを、
『春秋左氏伝』(以下『左伝』)から
垣間見ることとします。

まずは、原文で読んでみます。

庚與将出、
聞烏存執殳而立于道左、
惧、将止死。
苑羊牧之曰
君過之、烏存以力聞可矣、
何必以弑君成名
遂来奔。

庚與:莒の国君
烏存:莒の大夫
執:手に持つ、構える
牧之:莒の大夫(杜預注)
聞:伝え広まる
来奔:逃げて来る

庚與まさに出んとするに、
烏存殳を執り道左に立つを聞く。
まさに止めて
死(ころ)さんことを惧る。
苑羊牧之いわく、
君これを過ぎよ、
烏存力を以て
聞こえるべきなり。
何ぞ必ず君を
弑(しい)するを以って
名を成さん。
遂に来奔す。

まずは、時代背景は抜きにして、
状況だけを見てみると、

要は、殳を手にした人が、
他人を脅かして
怪力の評判を得るために
道で通せんぼした、

―という御話です。

殳については、
力のある者が使うと
有効な武器である、
ということかと推察します。

因みに、杜預の注も
『釈名』と同じです。

後、わざわざ原文で読んだ理由は、

殳の描写が『左伝』で
希少なことと、

「執」に
もう少し細かい挙動をあらわす
意味があるのでは、と、
期待してのことですが、

どうも空振りに終わった気が
しないでもなく。

因みに、戦争であれ、
要人襲撃であれ、

『左伝』の人を殺す描写
群を抜いて
よく使われる武器は、戈。

戦争の花形の車戦で
頻度の高いのは弓です。

さて、棍棒で人を脅かした、
という話だけで判断すれば、

何だか、

繁華街の路地裏で
恐喝でもやってる
コワい方々の話かなあと、
なるのかもしれませんが、

脅かす人が大夫、
脅かされる人が国君ともなれば、

政治の話としても
穏やかではありませんで。

【雑談】国のゴタゴタの一例

以降は、殳の話から
逸れますので、
雑談扱いとします。

時代考証というよりは、
『左伝』の和訳の
拙い感想文ですので、

前以て御知らせ致します。

では、先の国君追放の件、
どういう経緯でそうなったか、
と言えば、

『左伝』によれば以下。

時は、春秋時代後半の
昭公二十三(前519)年の
旧暦七月。
(こういうの、数字にすべきなのか
未だに判断が付きません。)

斉の首都・臨淄(りんし)から
南へ150キロ程のところに
莒(きょ)という小国があり、

当時は斉の属国でした。

で、ここの時の国君
庚與(こうよ)が
残忍な人でして、

剣を新調しては
人で試し斬りをやったので
国人の不興を買いました。

で、その結果、

庚與が
斉からの離反を画策したのが
引き金となり、

部下で大夫の烏存
国人を抱き込んで
庚與を追放したのだそうな。

先の引用
その時の出国の際の御話です。

つまり、烏存は、
国君の逃亡に託けて
一芝居打ち、

それを見越した苑羊牧之が、

あれはパフォーマンスで
国君を殺すリスクは取りません、
と、諭した、と。

一応、もう少し、
時代背景について触れます。

まず、国人とは、謂わば、

首都の邑(惣構えの城郭)で
軍事や政治の実務を行う
士大夫の中では
中(の下)下級の社会階層です。

近代軍で言えば、
大体、近衛師団の、大体、
少佐・尉官から下士官・上等兵辺りを
イメージされたく。

文官で言えば、
中央官庁のノンキャリ辺りに
相当するのかしらと思います。

で、この一件も
恐らくそうですが、

諸々の政策は元より、
政変を起こすにしても、

この層の支持が
事の成否を
大きく左右します。

その他、
国君の国外追放については、

諸々の先生方、例えば、
高木智見先生等
御指摘されていますが、

猛烈な勢いで
国が淘汰されていった
弱肉強食の時代の割には、

他国が他国を亡ぼすのを忌み、
(大抵の国は、
周王朝の分家でもあり)

国の内外を問わず、

身分の低い者が
国君を手に掛けるのを畏れたのも
この時代のひとつのリアリズム。

これには、
他国の社稷を亡ぼすと
祟られるという
宗教的な理由もあれば、

中原の諸国が、

周王朝の定めた
秩序や身分制度を守ることで、

小国が大国と棲み分けて
延命を図るための
方便としても
機能します。

例えば、鄭の子産なんか、
まさに、
時代の申し子のような人。

自国が風見鶏のような国の癖に、

周の礼法を盾に、
晋の横暴な要求に対して
逆捩じを喰わせる訳です。

で、そうした
固い身分制度の下で、

臣下が国君を殺せば
エラい悪評が付いて回る訳で、

往生際の悪い部類ともなると、

実際に手を下した癖に、

役人を脅迫して
(終いには〇して)
史書を改竄させようとした
人までいる始末。

そのような社会につき、

政変が起きた国では、

その、色々やらかした
「いらない」元・国君を
国外に締め出し、

飲み食いした後の請求書の如く
申し訳なさそうに
友好国に押し付ける訳です。

で、亡命先に
様子を見に行った臣下が、

中々態度が改まらない、
などとボヤくのが、
御決まりのパターン。

『左伝』の実は主役の
(狂言廻しと言いますか)魯も、
春秋時代の後半に、
これをやっています。

おわりに

最後に、
今回の取り留めない話を
纏めるとすれば、以下。

殳は出土品を見る限り
形状は大体、鈍器であり、

恐らく周尺で
1尋4尺=約216cm、

その他、運用の事例からして、
力のある人が持つ武器である、

という程度のことしか
分からず、恐縮です。

さらに、
漢や魏晋の時代に至っても、

時の識者が、恐らくは、

『周礼』の内容を
尺を当時のものに直さずに
そのまま転載していることで、

殳は、この時代には、
通説通り、過去の遺物にでも
なっていたのかしらと
想像する次第。

もっとも、
人を殴るための棒は
ありふれていたと思いますが。

【追記】

殳の用例として、
『左伝』から
もう一例挙げます。

先述の例と
ほとんど同じ時期の
昭公二十一年(前521)、

宋の内訌が拗れて
晋・斉・呉等が介入して
戦争をやる事態にまで
発展しまして。

で、その最終局面の
戦闘の場面です。

宋の公子城と華豹が
赭丘(しゃきゅう、
詳細は不明ながら
杜預によれば宋の地)にて
恒例の車上の弓合戦に及び、

射殺された華豹の
車右(副官)の張匃(かい)が
殳で公子城の戦車の
軫(横木)を折る、

という、
凄まじい一幕が
ありました。

以下、原文です。

張匃抽殳而下、
射之、折股
扶伏而撃之、折軫
又射之、死

張匃殳を抽(ぬ)き下りて、
これを射、股を折る。
扶(つ)き伏してこれを撃ち、
軫を折る。
またこれを射、死(ころ)す。

抽:取り出す
扶:杖をつく
何かにすがって
体を支え保つ、

張匃が下車して
公子城に
白兵戦を挑むも、
股に矢を受け、

それでも殳を杖に
腹ばいになりながら
公子城の車両に迫り
側面に一撃を加えた、
という御話。

以前の記事でも
何度か引用した箇所ですが、

読み返すと、
色々な意味で
含蓄のある部分だと思います。

因みに、
殳の長さについては、

腹ばいとはいえ
杖にする位につき、

少なくとも
身の丈程度は
あったのではないかと
想像します。

さて、こういう用途の
武器につき、

例えば、戈については、

国君から野盗まで、
身分を問わず
色々な人が使い、

巧い人ともなれば、

相手の五体に引っ掛けて
スマートに
切り落としていることで、

戈との対比を考えると、

やはり、
力任せに振り回す類の
武器なのかしら、

と、思った次第です。

【追記・了】

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻
杜預『春秋経伝集解』
(上海古籍出版社)各巻
楊泓『中国古兵器論叢』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
増淵龍夫「春秋時代の貴族と農民」
高木智見『孔子』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

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近況報告 『周礼』考工記の定める武器の長さ

はじめに

今回は、御絵描きと妄想
回で御座います。

目下、「盧人為盧器」の部分を
読んでまして。

因みに、「盧」は矛や戟の
要は、武器の性質の話です。

1、図解について

それでは、

描き上げて間もない
アレな図解で
御目を汚させて頂きます。

『周礼』(維基文庫)、楊泓『中国古兵器論叢』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、張末元編著『漢代服飾』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

後日、書き下し文を
出したいと思いますが、

これは、
その当該の文章の
一部の図解です。

また、文章の内容も、
それ程難解なものでは
ありません。

では、何故、
図解なんか描いたのか、
と言えば、

サイト制作者自身が、

当時の兵士の平均身長と
武器の長さの関係が
イメージし易かったからです。

で、あるいは、
読者の皆様の中にも、

原文の「何尋何尺」、
周尺のcm換算で、と、
やるよりも、
(それもやる予定ですが)

あるいは、こちらの方が
馴染み易い方がいらっしゃれば、
と、思った次第。

あくまで、サイト制作者の
経験則に過ぎませんが、

武器の話については、

例えば、『周礼』のような
マニュアルめいた書き物の内容と
出土品の写真との比較等の際、

字面の内容と
出土品の模写の双方を
描き起こすことで見えて来る部分が
少なからずありまして、

こういう馬鹿正直な作業で
時間を割くこととなりました。

それでも、こういう
ヘッタクソな絵につき
2週間に1枚は
描き上げたかったのですが、

要領の悪さで申し訳ありません。

2、結構ラリーな馬車行軍?!

以降は、サイト制作者の
想像と言いますか、
妄想の類の話です。

さて、武器の長さが
身長の3倍を超えると
効能に支障を来す、という、

むこうの武器関係では
有名な御話。

恥ずかしながら、
サイト制作者は、

原文を読むまでは
これが白兵戦の話だと
思っていました。

ところが、どうも、
原文の文脈からして、

行軍に支障を来す、
という御話に取れまして、

イラストの左側のような
ぶざけた構図にしました。

これについて、
以前の記事でも、

春秋時代以前の
未開拓の原野の多さや
交通インフラの悪さを
想像させる内容のもの、

例えば、原宗子先生
『環境から解く古代中国』や、
土口史記先生
「春秋時代の領域支配」等を
紹介しましたが、

『左伝』の和訳から、
それを彷彿とさせる
面白い部分を見付けまして、

折角ですので、
原文で読んでみようかと
思います。

頃は成公二(前589)年、

晋の中軍の将・
(ここでは総司令官)郤克が、

斉の頃公自らが率いる部隊を
破った後の停戦交渉の席で、

斉の使者を相手に
言い放った言葉です。

(中略)而使斉之封内尽東其苗

(中略)斉の封内をして
ことごとくその苗を東せしめよ

東(ひがしす):
東に向かって進む

また、杜預は、

使壠苗東西行
壠苗をして東西に行かせしむ。

壠:畦(あぜ)、畝

と、注釈を付けてまして、

小倉芳彦先生
「畝」という邦訳も
これに準拠してかしら。

要は、晋が斉に攻める時に
東向きに進路を取る訳で、

小倉先生によれば、

戦車(馬車)
トラクター宜しく
畝を突っ切るため
こうするのですと!

つまり、当時の
軍人の感覚として、

人が耕すような
開けた土地ですら、

戦車が通れるレベルの
幹線道路が
十分に用意されていたか
怪しい、

という解釈が出来ようかと
思います。

因みに、中略の部分は、

斉公の母親を人質に寄越せ、
という、

当時の士大夫の感覚からしても
正気の沙汰ではない要求です。

もっとも、郤克にしてみれば、

傲慢な態度を取った理由には、

以前、斉に使節として赴いた折、
この人に覗き見されて
笑われた過去があり、

その報復の機会を
窺っていた訳でして、

畝を東に向けろだの、
王様の御母堂を
人質に寄越せだのは、

さすがに、
履行されることは
ありませんで、

積もる恨みがそのまま吐露された、

謂わば、
暴言録の類と
相成ったと見受けます。

で、晋と斉の
激戦の描写も含めて、

こういう香ばしい話が
岩波の和訳の中巻の
ほとんど頭に
出て来ます。

―上巻で飽きが来たり、
本屋さんで
こういうのを立ち読みする
殊勝な読者に、

敢えて、
中巻を売り付けるための
編集側の秘策か。

その他、引用した原文の経緯も
分かり易いと来まして、
優良な和訳本の有難味を
強く感じている次第です。

さて、話が、
何だか訳の分からない方向に
飛びましたので、

武器と交通インフラについて
少し想像(妄想)しますと、

『周礼』考工記にあるような
身長の3倍の話は、

上記の逸話のような感覚の
産物ではなかったか、と、
ふと思った次第です。

おわりに

今回は、取り留めない話につき、
要点の整理は御容赦下さい。

その他、大変恐縮ですが、

もう少々、
下手でも描いた方が良いと思う
図解がありまして、

むこう何回かは
御絵描きの回になると思いますが、

出来るだけ日を開けないよう
努力します。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻
杜預『春秋経伝集解』
(上海古籍出版社、簡体字!)各巻
楊泓『中国古兵器論叢』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

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『周礼』考工記の定める武器の規格 02

はじめに

前回に引き続き、
『周礼』考工記に記された
武器の規格について記します。

1、戈頭・戟体の形式

治氏戈頭・戟体
形状についての
記載があります。

早速読んでみましょう。

戈廣二寸、
內倍之、胡三之、援四之。
已倨則不入、已句則不決。
長內則折前、短內則不疾、
是故倨句外博。
重三鋝。
戟廣寸有半寸、
內三之、胡四之、援五之。
倨句中矩、與剌重三鋝。

戈廣(広)二寸、
內これを倍にし、
胡これを三にし、援これを四にす。
已(この)倨(きょ)
則(すなわ)ち入らず、
この句(く)則ち決(わか)れず、
長き內(ない)は則ち前に折れ、
短き內は則ち疾(はや)からず、
是故倨句外に博し。
重三鋝(れつ)
戟廣寸有半寸、
內これを三にし、胡これを四にし、
援これを五にす。
倨句中矩し、
剌を與(与)え重三鋝。

廣:幅
内・胡・援:戈戟の部位。
図解参照。
三・四:3倍・4倍にする
倨:僅かに湾曲した様
入:ある物に突き入る、
外部から中に進み入る
句:かぎ、曲がる
「倨句」で物事の曲がり具合
疾:鋭い
博:大きい
重:重量
鋝:諸説あり。例えば、
故・関野雄先生によれば、
1鋝=100g前後。
故・林巳奈夫先生の
「戦国時代の重量単位」
『史林』51(2)(無料PDF有)
より。
【追記】
末尾の数表が
潰れているのが残念ですが、
内容が体系的な論文で、
度量衡に対する
考え方についても
参考になりました。
折に触れ、
詳細を見ていきたいと思います。
【追記・了】
寸:周尺で1.8cm余。
1.8cmで計算すると
分かり易い。
10寸=1尺。
有:端数
中:物事が途中である様
矩:四角形、直角
剌:戟刺。柄の先端に付ける
ソケット型で両刃の刃。

2、図解とその要点

この種の文章については、

文言の整理よりも
図解を見た方が早いかと
思いますので、

まずは、以下のアレな図を
御覧ください。

要は、上記の引用の
概要を図解したものですが、

あくまで、
サイト制作者個人の解釈につき、

参考程度の御話
御願い出来れば幸いです。

因みに、図の作成過程や注意点は
前回の記事で綴った通りです。

加えて、ここで注目すべきは、
これも先の記事で
少し触れましたが、

『周礼』考工記にある
戟体の規格
西周時代の出土品のひとつと
周尺で符号する点です。

図で言えば、
上記の引用にある数字と
縮図の大きさの誤差
ミリ単位というもの。

3、戈と戟の違いとその部位
3-1、戈と戟の違い

さて、戈と戟の違いは
あってなきが如しで、

具体的には、

定義から言えば、

には柄の先端戟刺が付き、
干頭と戟体の大きさが少々異なり、

さらに細かいところでは、

援の曲直
少々違う程度のものです。

それも、時代が下れば
形骸化する部分もある始末。

そのためか、
例えば、楊泓先生は、

『中国古兵器論叢』では
戈と戟を同じ章で
説明していらっしゃいます。

3-2、主要な部位である援・胡

それでは、
部位ごとの
定義めいたものの説明ですが、

主な部位として、
援・胡・内の3つ
あります。

因みに、「援」は、

戈や戟の部位
という意味以外には、

「(ひ)く」とも読み、
引く、引っ張る、
という意味もあります。

次いで、「胡」ですが、

「顎鬚(あごひげ)」
という意味もあります。

正直なところ、

当初、サイト制作者は、

胡の長さの定義が
下刃の付け根の
曲がった部分を含むのかが
分かりませんでした。

そこで、字義宜しく、
ヒゲが垂れ下がるという
意味合いと、

原文の比率に近い形状の
いくつかの出土品の
縮図を参考に、

図にあるような説を
採りました。

結果として
正解であったことで、

助かった心地です。

3-3、広(=幅)と柄の関係

さらに、
「広」=幅の定義ですが、

これについて、

実は、
サイト制作者としては、

当初、胡の幅の
柄と重複する部分を
含むのか否かが
分からず
困りまして、

これも原文にある
援・胡・内の比率に近い形状の
いくつかの出土品の縮図を
参考に、

柄からはみ出た部分、
という説を採りました。

その図解が、以下。
以前の記事にも
掲載したものです。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版等より作成。

ですが、
今回の
『周礼』考工記と
西周時代の出土品の縮図の
照合により、

胡の定義
間違いであることが
分かりまして、

要は、
柄と重複する部分も含めた
幅の長さ、

ということになります。

ここは、
サイト制作者の黒星。

3-4、援と反対側の刃・内

そして、「内」。

これは、援と反対側の
横の刃。

因みに、座右の字引き
(『漢辞海』第4版)では、
武器の部位そのものを
意味する言葉は
ありませんでしたが、

動詞では、
「〔人などを内部へ〕
引き入れる」
と、あります。

字義からして、

実戦では、

援のみならず、
内の刃でも
相手に打ち込むなり
引っ掛けるなり
するのかもしれません。

4、各部位の形状
4-1、戈戟を分ける援の曲直

部位ごとの長さや
定義めいたものに次いで、

形状の細かい説明について
触れます。

まず、戈頭の形状ですが、

先の引用では、
以下のようになります。

已(この)倨(きょ)
則(すなわ)ち入らず、
この句(く)則ち決(わか)れず、
長き內(ない)は則ち前に折れ、
短き內は則ち疾(はや)からず、
是故倨句外に博し。
重三鋝。

ここで、
前掲の図解
もう一度見ることとします。

まず、「この倨則ち入らず」
ですが、

実は、ここが、
サイト制作者にとっては
あまり自信がない部分ですが、

一応愚見を開陳します。

「倨」小さい曲がり。

「句」は、その対比で、
恐らく、大きい曲がり
意味することと思います。

さらに、「倨句」は熟語で、
曲がり具合を意味します。

ですが、ここでは、
文字通りの
曲がりの大小というよりは、

倨は援の切っ先の曲がり、
句は胡の曲がり、

と、理解した方が
分かり易いと思います。

詭弁に聞こえるかも
しれませんが、

実際、胡の曲がりの方が
援の先端の曲がりよりも
長さ(≒大きさ)が
あるので、

原文の解釈にも
準拠していると思います。

【追記】

そもそも、『周礼注疏』の
『釈名』の引用に、
以下の文言がありますね。

倨謂胡上、句謂胡下、
倨与句皆有外廣、

倨は胡上をいい、
句は胡下をいい、
倨と句は皆外廣に有り、

【追記・了】

そのように考えると、

援の切っ先が
俯角で収まることではないか、

つまり、「入らず」は、
水平線以下=
仰角(角度がマイナス)には
沈まない、と。

その根拠として、

春秋時代の戈頭の出土品
援の曲直について、

管見の限り、

例外なく水平か
角度がほとんどありませんで、

(困ったことに、
その前の西周時代の戈頭の
縮図や写真等が
座右には多くありません。)

後述の戟の「中矩す」との
対比だと見た次第です。

4-2、戟刺・戟体は実は一体?!

もっとも、

西周時代の戟には
援が水平なものもあります。

これが話を
ややこしくしているのですが、

その一方で、

そのタイプのものは、

先の図解のように
戟体と戟刺が
一体になっていまして、

サイト制作者にとっては、

これが『周礼』考工記の規格との
接点を考えるうえで
大きなヒントになりました。

そのヒントというのが、
「これ句則ち決(わか)れず」です。

因みに、「句」は、
曲がる、かぎ、
意味します。

ここでは、
湾曲するタイプの援、
と、いったところか。

さて、西周時代の
特有の状況として、

戟体も戟刺も一緒くたの
ひとつの鋳物だからこそ、

こういう表現になる訳で、

換言すれば、

「決」れるか否か、ここが、
戟と戈の違いでもあります。

因みに、楊泓先生は、

時代が下って
戟体と戟刺が分かれたものを
「分鋳」と称して
いらっしゃいまして、

形状の変遷を抜きには
見えて来ない
重要なポイントだと
思った次第です。

4-3、一通りではない内の形状

そして、部位の最後に、
「内」の説明です。

長き內は則ち前に折れ、
短き內は則ち疾からず、
是故倨句外に博し。

これですが、

まず、長い内が
下に曲がるタイプ
西周時代の出土品にあります。

むしろ、標準的な仕様は
後者と言えるかもしれません。

で、曲がるタイプの刃、
―つまり前者は、
自ずと外に広がるかたちになる、

―ということかと。

加えて、
「重三鋝」についても
少し触れます。

「重」は重さ、
「鋝(れつ)」はその単位。

故・林巳奈夫先生の説によれば、

故・関野雄先生の説として、
1鋝=100g前後で、

『周礼』の文言と
戦国時代の青銅剣の
重さを照合して
弾き出したとのこと。

【雑談】剣の重さと身分の話

ここで、以前、記事にした、

桃氏の剣の茎(なかご)と
剣の長さの関係が
身分を意味するという
御話ですが、

サイト制作者の忘備として
少しばかりおさらいします。

まず、以下が当該の文言です。

身長五其莖(茎)長、
重九鋝、
謂之上制、上士服之。

身長その莖(けい)長を
五にし、
重九鋝、
これをいうに上制とし、
上士これに服す。

上士の剣の全体の長さは
茎の長さの5倍で
重さ900g前後であり、
これが順守すべき規則である、

という訳です。

以下、中士の剣は
茎の4倍の長さで
700g前後。

下士のそれは
3倍で500g前後。

この長さになると、
片手で振り回せるものと
想像します。

因みに、
士は卿・大夫・士の士で
さらに上・中・下の
ランクがあり、

『周礼』夏官によれば、

外征では、上士が卒長として
100名の兵士を統率し、
中士が両司馬として
25名を、
下士が伍長以下で
5名を統率、
あるいはヒラの兵卒、
というヒエラルキーの
春秋時代以前の軍隊組織。

下士以下の御話は、
『周礼注疏』にて。

余談序に、
あまり調べてもないのに
滅多なことを書くものでは
ありませんが、

これについて、
サイト制作者の妄想をひとつ。

例えば、『史記』に、

戦国時代の終わり頃に
長い剣をぶら下げて
飄々とした生き方をする
食客がひとりならず
いまして。

時に、国の淘汰によって
失業した士大夫が大勢おり、

その一定数が
大国の世家等の食客として
雇われていた時代と言えば
それまでですが、

恐らく、そういう人々の
上澄みの部分であろう
荊軻や毛遂なんかは
外交儀礼に通じていまして、

使節、あるいは
その随行員として
むこうの王様と
首尾良く謁見出来た後、

後世に名を残すレベルの
大騒動を起こしたのは
御周知の通り。

【追記】

以下の話については、

馮煖(ふうかん)と毛遂の話が
どういう訳か、
サイト制作者の脳内で
同一人物になってました。

恥ずかしいので
消したいのですが、
自分への戒めとして
残しておきます。

書いていて何ですが、

このサイトは
こういうヘマ「も」多いので、
御注意下さい。

読者の皆様が、何かの折、
「ここは(ここも)怪しい!」
と、御思いになる部分があれば、

その直感は、まず、
当たっていると思います。

【追記・了】

で、その毛遂なんか、
居候の癖に、

寄生先で、
帯びている剣に向かって
主君にあてつけがましく
待遇が悪いとゴネる辺り、

この『周礼』冬官の件から、

長物を帯びること自体が
士大夫以上の教育を
受けたことの
証左や矜持ではなかったかと、
ふと、思った次第です。

この剣が目に入らんのか、
自分はひとかどの
頭脳労働が出来るぞ、と。

4-4、出土品と重さの相場

重さの話に戻ります。

さて、恥ずかしながら、
関野先生の研究に
目を通していないので、

孫引きの話を出すという
回りくどい書き方になりましが、

関野先生の御説は、

サイト制作者としては、
割合イイ線行っている
ように見受けます。

その根拠めいたものについて、

先述の『中国古兵器論叢』で、
少々確認します。

残念ながら、

西周時代の
戈頭・戟体について、

単体で
形状と重さ双方が
揃って明示されたものが
あまりないのですが、

小さく軽いもので
131g、
重くて断面が厚いもので
594g、
(双方共、河南省浚県出土)

さらに、楊泓先生曰く、
小さく軽いものは
盾と併用して使う
していまして、

つまり、長物の範疇ではない
ということになります。

このように出土品の軽重に
バラつきがある一方で、

図解と同じく
儀仗用と思しきもので
戟体(戟刺)の長さが
25.5cmで
重さが275g
というものもあり、
(甘粛省霊台県出土)

重い部類のものとの誤差が
少々気になりますが、

決して現実味のない数字
ではないように思います。

5、戟の規格

引用の残りの部分についても
触れます。

戟廣寸有半寸、
內これを三にし、
胡これを四にし、
援これを五にす。
倨句中矩し、
剌を與(与)え重三鋝。

戟廣(広)=幅、
その他の大きさについては、
図解の通りです。

「廣」を基準に、
援・胡・内について
一定の倍数を伸ばす訳です。

次に、「倨句中矩し」ですが、

「矩」は直角、
「中」は物事が途中である様。

余談ながら、

人サマが「中」であれば、
宦官を意味します。
「中人」―漢代の解釈です。

それはともかく、

曲がり具合が
90°を切るという御話。

主語が省かれているので
分かりにくいのですが、

先述の戈頭についての件の
「この倨則ち入らず、
この句則ち決れず。」
の部分が、

恐らく、
戟刺の有無も
含んでいることで、

戈頭との対比と見た次第。

で、こちらは、
「剌を與(与)え」る、
つまり、戟体の上部に
戟刺がある、と。

おわりに

最後に、例によって
今回の記事の要点を
整理します。

1、西周時代の戟には
戟体と戟刺が
一体になったものが存在する。

重さは標準で300g前後。

2、『周礼』考工記の戈戟の規格は
1、のタイプに即している。

3、サイト制作者の想像であるが、
戈と戟の援の違いは、
水平か曲がりがあるか、である。

4、西周時代の内には、
外側に張り出して曲がるタイプも
存在する。

5、戟刺の有無は、
1、の形状から判断する必要がある。

6、本文には多くは記していないが、
この件については
時代が下って形骸化した部分が
少なからずある。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
『周礼』(維基文庫)
『周礼注疏』(国学導航)
楊泓『中国古兵器論叢』
林巳奈夫「戦国時代の重量単位」
稲畑耕一郎監修
『図説 中国文明史』3
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
『戦略戦術兵器事典1』
(来村多加史担当箇所)
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

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近況報告 『周礼』冬官考工記の定める戟体・戈頭の規格

今回は御絵描きと妄想話の回で
御座います。

最早、このサイトの宿痾
大変恐縮ですが、

記事のための
図解の作成に
手間と時間が掛かることで、

今のところ、

取り敢えず、
記事のための図解が出来次第、
その都度開陳することに
しています。

さて、『周礼』冬官考工記の
武器に関する件について
読み進めてみよう、

―という目的で
調べ事を進める過程で、

(サイト制作者としては)
思わぬことに気付きまして。

で、それまで
書き進めていた記事を
大幅に書き換えるよりも、

まずは、その「発見」を
図解した方が
読者の皆様にとっては
面白いかと思った次第。

それでは、以下のアレな図を
御覧下さい。

あくまで
サイト制作者の(妄)説、
という扱いで
御願いしたいのですが、

これは、要は、

西周時代の出土品の形が
『周礼』冬官考工記の定める
戟体の規格にほぼ準拠している、

ということを
意味するものです。

これに因みまして、

『周礼』各官の成立時期には
諸説あるのですが、

この戈頭・戟体の
規格については、

形状は元より
各部位の大きさが
周尺でほぼ符号することで、

今のところ、

サイト制作者としては
西周時代のものではないか
考えています。

次いで、図解作成の手順は以下。

楊泓先生の
『中国古兵器論叢』にある
10cm:3.1cmの縮図
要所要所で座標を取り、

それを一定の縮小率で
別氏に書き写し、
さらにそれらの座標を
直線と曲線で結ぶ、
というレトロな方法ですが、

座標が基準につき、
参考文献の縮図との
cm単位の大きなズレは
ないものと信じます。

さらに、補足として、
諸文献の出土品の
縮図や写真にある
破損個所や欠損部分は、

図の意図を優先して
形状を分かり易くするために
省略しました。
(裏目に出ていないことを
祈ります。)

2種類の戟の縮図
楊泓先生の『中国古兵器論叢』
に掲載されているものの模写で、

メインの戟体には、
全体的に浅い刃毀れ
あります。

春秋時代の戈の写真は
稲畑耕一郎先生の
『図説 中国文明史』3より。

援の先端が少し欠けています。

さて、当該の箇所の
書き下し文や諸々の説明は、

近いうちに
別の記事で行うこととして、

今回は、
それに気付いた過程について
少し触れます。

まず、恥ずかしながら、

サイト制作者の固定観念
戈や戟の形状を、

春秋時代以降の
割合整ったものが
スタンダードだと
思っておりました。

その結果、

件の『周礼』の規格で考えると、

春秋時代のものを基準に
援・内・胡といった
各部位の大きさだけ
見ていても、

先に開陳した図解の
ズングリしたものに
行きつく他はなく、
(当然、違和感は感じましたが)

―以下の図ですが、

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版等より作成。

果たして、符号する出土品なんぞ
ありませんで。

では、規格にある形状は
と言えば、

これも、
例えば、内が曲がる等、

サイト制作者基準の
よがった「標準」からすれば
どうも懸け離れており、

『周礼』冬官考工記の定める規格の
真意を掴みかねておりました。

正直なところ、

直訳で御茶を濁そうかと
腹を括りもしました。

ですが、その前に、
今一度、

楊泓先生の
『中国古兵器論叢』の縮図
古いものから一通り見返して、

『周礼』冬官の定める規格と
符号するものがあるのかどうか
確認しようと思いまして、

この最後の賭けが、
恐らくは、当たってくれた、
という次第。

で、その結果、
結構な数の縮図の中でも、

一番奇怪な形のものが
一番イイ線行っているという、

推理小説の犯人捜しのような
イカレたオチでありました。

もっとも、この世紀のナゾナゾ、

むこうの識者
恐らく、大変な苦労
されているようで、

例えば、楊泓先生は、

戴震『考工記図』戈戟の
図解を引用して
「与古代的実物有較大的差异」
―出土品と大きく異なる、

としていまして、
(事実、
「コレジャナイ!」です。)

『周礼疏注』も、
鄭玄の説明だと思うのですが、

部位ではなく
突き方や傷の形の話
していまして、

それでも、サイト制作者も、
最初は、それっぽい、と、
思いました。

余談ながら、内容とは別に、

戈や戟を人に打ち込む際の
「以て人を啄(ついば)む」
というエグい表現が、
個人的にはツボっております。
―巧いこと言うなあ、と。

(因みに、この書物からは、
学ぶことが多かった半面、
この箇所以外にも、
ケムに巻かれている!
と、思しき部分が
少なからずあります。
漢代との時代感覚の断絶を
少なからず感じます。)

まあその、
どこかで見たクイズ番組宜しく、

(恐らくは)実物を見ずに
当時の戈や戟の形で
想像して正解を出せ、

という方に
無理があるのかも
しれません。

【追記】

で、令和の御代にも、

実物の縮図を見てすら
暫くそれと気付かなかった
素人の間抜けが約1名、と。

謂わば、後出しジャンケンで
負けるような
情けなさ。

先人の苦労を嘲笑う資格など
断じてありません。

それでは、まずは、
あまり有益とは言えない
個人的な失敗談迄。
【了】

【追記】

やっぱりなあ、
無知は怖いなあ、
恥ずかしいなあ、
と、言いますか、
(それを気にしたら
そもそも、こんなサイト
やってられん部分もあるですが)

今回の記事のようなことを
100年以上も前に
かなり詳細な図解のレベルで
なさっている知識人が
少なくとも何名かは
いらっしゃいまして、

その話を少々。

周緯先生『中国兵器史稿』
パラパラめくってますと、

例えば、

陳澧の『考工記周戟図』
から引用した「周戟図」や
『東塾集』の「戟戈図説」
といった、
戈戟の部位ごとの解説や、

程瑤田の『考工創物小記』の
「倨句」の角度の表、
といったものが
掲載されています。

サイト制作者は、
恥ずかしながら
初耳でありまして。

で、一見した限りでは
納得出来ない部分も
あるものの、

原文や小難しい注釈の
読み方等の見地からは
色々考えさせられる
ものでもあり。

一方で、
刊行年度が古いだけに、

例えば、
楊泓先生の『中国古兵器論叢』
に比べれば、
出土品の詳細が
不明瞭だったりしますが、

全体的な内容としては、

図録が豊富で
漢籍の内容と出土品の比較が
なされている
しっかりした内容だと
思います。

また、入手についても、

複数の出版社からの再版
という事情を反映してか、

書名で検索を掛ける等して、

ネット経由で
日本の本屋さんから
割合簡単に入手出来ます。
(少し値は張りますが。)

語学に覚えがあり、
中国の冷兵器に興味のある方は
御一読を。

因みに、サイト制作者が
買ったのものは
中華書局さんの簡体字のやつ。

残念ながら、

サイト制作者の拙い語学力では
一息に読み切ることは
出来ませんが、

記事の内容に応じて、

漸次、御本の内容を
少しずつ反映させていければと
思っております。

【了】

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
『周礼』(維基文庫)
『周礼注疏』(国学導航)
楊泓『中国古兵器論叢』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

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