春秋時代の行軍速度~近距離移動の事例

はじめに

ですが、

この事例の実測は
もう少し
膨らみます。

以下、
計測を試みます。

まずは、

古戦場界隈―

現在の
河南省濮陽市
近郊の地図を
見てみましょう。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、グーグルマップ、その他『水経注』・『讀史方與紀要』・『大清一統志』・『元和郡縣圖志』等の各史料の内容を踏まえて作成。

大体、
洛陽の北東に
位置しまして、

当時は
河水(黄河)と済水の
合流点の辺り。

中原諸国の
国境だの邑だのが
入り乱れる
係争点です。

で、興味深いのが
その地形。

大雑把に言えば、

どうも
史料に目を通す
限りは、

河川と沼沢が
入り乱れた
場所ですワ。

現在の
航空写真からは
中々想像しにくく、

それだけ
治水・開発が
進んでいるの
でしょうが。

それはともかく、

その様子を、
古い地図で
確認してみましょう。

で、その細部ですが、

サイト制作者の
用意した
アバウトな
地図にある
河川以外にも、

北の河水と
南の濮水の間にも、

瓠子河が
(こしこう、
あるいは、
かくしこう?)
流れています。

これとて、

支流なり
用水路なりが
存在したと
考えた方が
自然でしょう。

さて、

大体の水路が
分かったところで、

アバウトな地図に
戻ります。

まずは、

ここらの中心地は
昔は定陶。
―現在の
菏沢市定陶区。

史記・定陶
経済の中心

さらには、
城濮の戦いの
濮城鎮はその北。

後述しますが、

河水と済水の
間には
濮水が流れており、

城濮は
どうもその北岸に
位置します。

見方を変えれば、

城濮近辺の
南西から北西の
大体幅50kmの
細長い土地には、

先述の瓠子河も
含めて、

少なくとも
4本の河川が
流れていたことに
なります。

そのうえ、

そのうちの1本は
暴れ川の黄河。

そう。

恐らくは
水害多発地帯
でして、

金代ですら
郡治が水没して
移転を迫られる
有様。

歴代の郡クラスの
統治官も、

天候に恵まれて
治水が上手く行けば、

あるいは、

河川が収束して
開けている
牡丹区の辺りに、

治所を
置きたかったの
かしらん。

言い換えれば、

時代の変遷と共に
治水や開発が進み、

水量が減って
沼地が
縮小していったと
見受けます。

明清の頃には
濮水も枯れていた
模様。

もっとも、

この辺りは
後知恵からの
想像ですが。

そのうえ、

定陶の北東に
あるのが
大野沢。

古来より
沼沢なんぞ、

彼の
漢の高祖宜しく、

ワルい人々が
居座って
騒擾の種に
なるのが常。

そして
この大野沢のある
梁山県は、

泣く子も黙る
梁山泊のホーム
という訳です。

さて、
この界隈には、

他にも、

現在の市名である
菏沢や、

旧県名にもなった
雷沢等のような、

大きな沼地が
点在していた模様。

とはいえ、

現在の
航空写真を見ると、

水路は整備され
沼地も大体
開発されている
ように見受けます。

大体の
土地感覚が
掴めたところで、

そろそろ
城濮の特定に
入ります。

基礎となる
話として、

曹から城濮までは
距離にして
約50km。

グーグルマップ
さんより。

因みに、

始点の曹は、

現在の
山東省菏沢市の
(かたくし)
定陶区。

大昔から
王朝時代の
最後の方までは、

ここらの
中心的な都市です。

また
終点の城濮の
現在地ですが、

これがどうも、

昔から存在する
都市とは違い
分かりにくい
ものの、

同市
鄄城県
(けんじょうけん)
臨濮郷の模様。

Buidu百科さん
・城濮
ttps://baike.baidu.com/item/%E5%9F%8E%E6%BF%AE/7499576
(一文字目に「h」)

典拠となる論文が
ある模様。

ただし、
サイト制作者は
残念ながら
未読です。
(読める環境
ではないことで
悪しからず。)

及ばずながら
その代替策として、

いくつかの
史料から、

城濮の
位置の特定を
試みます。

結論から言えば、

大体コレで
合っているように
思えますが。

以下、
その検証をば。

手始めに、

先述の
清代の
『讀史方與紀要』
巻三十四・濮州には、
以下。

臨濮城
州南七十里。
或曰即古城濮地。

臨濮城
州を南すること
七十里。
或いはいわく、
即ち古し
城濮の地なり。

ここでの「州」は
曹州府濮州。

現在の
河南省濮陽市の
濮城鎮。

濮陽市より
東に30km程に
位置します。

因みに、

同史料によれば
春秋時代は
衛の領地。

で、

その濮城鎮より
道のりにして
70里南下すると、

件の臨濮城に
到着する、
という次第。

70里は
清尺換算で
40.32km
≒40km。

ですが、

これを距離換算で
馬鹿正直に
地図に起こすと、

南下する過程で
濮水を飛び越え、

現在の
小留鎮の辺りに
出ます。

言い換えれば、
史料上の
濮城鎮の
南下の限界が
その辺り。

現実には、
何割か
割り引いた遠さ
となります。

さらには、

漢文の「南」は
かなりアバウト
でして、

結構な角度のある
南南東も南南西も、

「南」の一文字で
片付けられます。

―まあその、
サイト制作者も
こういうことを
やるのですが。

そこで
注目したいのが、

「臨濮」という地名。

『元和郡縣圖志』
(げんなぐんけんずし)
巻十一・濮州
によれば、

臨濮城の
旧地名と思しき
臨濮県について
以下。
(維基文庫さんより)

北至州六十里。
本漢成陽縣地,
屬濟陰郡。
隋開皇十六年,
分鄄城南界、
雷澤西界置臨濮縣,
屬濮州。
南臨濮水故以為名。
大業二年廢,
武德四年重置。

北すれば
六十里にして
州に至る。
本は漢の
成陽縣(県)地
にして、
濟陰郡に
屬(属)す。
隋開皇十六年、
鄄城南界を分け、
雷澤西界に
臨濮縣を置き,
濮州に屬す。
南して
濮水に臨む故
もって名をなす。
大業二年に廢し、
武德四年に
重ねて置く。

以下、
大意の確認作業に
入ります。

まず、

臨濮県の
60里北の濮州は、

清代と同じ濮城鎮。

『讀史方與紀要』
にある70里から、
10里ズレています。

唐代と清代との
尺の違いは
微々たるもので、

10里も双方とも
5km程度。

要は、

数kmの
誤差はある、

という程度の
御話です。

今で言えば、

ピンポイントで
ミサイルを
ブチ込めば
まず外れるが、

省市レベル以上の
広域地図で
指し示せば、

大体この位置で
間違いなかろう、

という程度の
感覚で
御寛恕下さい。

ここからは
今一度、

先述の
アレな地図を
座右に、

話を進めます。

グーグルマップをベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、グーグルマップや、『水経注』・『讀史方與紀要』・『大清一統志』・『元名郡縣圖志』等の諸々の文献や史料の内容を踏まえて作成。

茶色の文字、
つまり、

昔の地名を軸に
見ていきましょう。

少しばかり
広域的な話を
すれば、

郡レベルでは
ここらは
漢代の濟陰郡、
濟陰国、定陶国と、

郡国が並立したり、
改編されたりと、
その変遷が
ややこしい場所の
模様。

古代の
中心的な都市は
定陶区と
考えますが、

付近には、

郡治レベルの
治所があったものの
現在地が
どうも不明瞭な、

濟陰城という城も
存在します。

で、どうも
「臨濮」なる地は、

前者・郊外に
該当する模様。

さらには、

ここを統括する県
というのが
漢代は成陽県。

現在の地名は
胡集鎮でして、

臨濮鎮から
東に30km弱
ということで、

かなり広い県
であった模様。

周の武王の
弟が統治する邑、

つまりは、

少なくとも
西周時代から
存在している
ことになります。

2007年に
漢代を対象とした
遺跡の発掘調査が
行われたそうな。

以下は
むこうの参考記事。

消失的菏泽汉代古城
ttp://www.360doc.com/content/21/0501/14/42177507_975122439.shtml
(一文字目に「h」)

その後、

晋代には
城陽県と
名称変更され、

南北朝時代には
その城陽県は、

西北に20kmに
位置する鄄城県に
併合されます。

治所は、
現在の同県
旧城鎮。

現在の
県の中心部からは
若干離れています。

大きな再編が
あったのは、

引用史料にもある
隋代の御話。

この史料の他、

『大清一統志』
(巻百四十四)
等の内容も
照合すると、
以下。

鄄城県の
南部に、

西側に臨濮県、
東側に雷沢県を
新設します。

同県から2県を
独立させる訳です。

漸く、
「臨濮」の文言が
登場する訳ですが、

肝心なのは
名称の由来。

南臨濮水故以為名
南して
濮水に臨む故
もって名をなす

『水経注』風に
訳せば、

この地より
南下すれば
濮水に突き当たる、
―と。

別の解釈も
用意します。

「臨」の
意味ですが、

座右の字引きには
文意に沿う意味が
ふたつあります。

ひとつは、
二ホン語の通り、
向かい合う。

今一つは、

高所から見下ろす、
という意味が
あります。

また「南」には、

南に進む
―南下する、の他に、

南の方角には、

という意味も
あります。

足を運ぶ必要がない
怠けた意味です、
などと。

グーグルマップをベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、グーグルマップや、『水経注』・『讀史方與紀要』・『大清一統志』・『元名郡縣圖志』等の諸々の文献や史料の内容を踏まえて作成。

さて、

ここでまたしても
先の文字だらけの
ヘンな地図を観るに、

現在の
位置関係からすれば、

濮水の流域からは
10km以上の
距離があることに
なります。

そのうえ、

臨濮郷より南の
濮水の北岸には、

漢代には存在した
県城クラスの
集落―句陽県が
ありました。

因みに
現在の
この界隈は、

県城どころか
溝や沼ごと丸っと
菏沢市の市街地に
なっている模様。

で、

その句陽県を
差し置いて
「向かい合う」
というのも、

聊か不自然に
見受けます。

言い換えれば、

「臨濮」とは、

城濮で通じる辺り、

このあたりに
他に集落が
それ程存在しない
状況下という前提で、

漢代以前には
存在した
古い言葉か、
(これも
個人的には
漢代より前の
遺跡の分布状況等が
分からないことで
苦しい解釈ですが)

あるいは、

高台から
濮水を一望出来る
軍事上の要衝
であった可能性も
考えたく。

土地勘がないので、

丘陵レベルの
高低差が
分からんのですワ。

よって、
ここでは、

「臨濮」とは、

濮水の流域の近くに
ありますよ~、

程度の
アバウトな理解に
止めておきます。

以降の
臨濮県の変遷も
確認します。

唐代の初めに
鄄城県への編入と
独立を繰り返し、

結局、
武徳4年
(621)に
単独の県となります。

ですが、

金代の貞元2年
(1154年)に
鄄城県の
臨濮鎮となり、

小濮とも呼ばれます。

以後は
大体このランクの
自治体として
存続した模様で、

清代には
臨濮集、

民国時代は
臨濮区、

国共内戦後は
鄄城県八区、

そして
文革後の
1983年に
臨濮郷、

最後に
2002年に
再び臨濮鎮となり、

今に至ります。

要は、
隋代の再編以降は、

自治体の単位は
大小の変更がある
ものの、

境界自体は
大きくは
動いていない、

と、推測します。

個人的な感覚で
恐縮ですが、

王朝時代の
郊外の県が
鎮クラスの
自治体に
変遷する事例は、

ヨソの地域でも
数多見られます。

御参考まで。

次に、
詳細な
流域の話に入ります。

グーグルマップをベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、グーグルマップや、『水経注』・『讀史方與紀要』・『大清一統志』・『元名郡縣圖志』等の諸々の文献や史料の内容を踏まえて作成。

地図中の
番号が振られている
部分を
御覧下さい。

この部分は、

『水経注』巻八に
記載されている、

濮水と済水の
臨濮鎮近辺
における
流域の一部を
記入したものです。

まず、

個人的に
未だに
判然としないのが➂。

その前後の
➁と➃及び、
➄の句瀆(とく)
と思しき水路の
位置からして、

恐らくは、

地図中の
位置であろうと
当たりを
付けました。

因みに、
瀆は溝の意。

句瀆が
濮水の南北の
いずれかを
流れていたのかは、

管見の限り
他の史料でも
判然としませんで、

その意味では、

楊守敬等の地図の
根拠は
サイト制作者には
分かりかねます。

土地勘、或いは、

末端の土地の史料や
伝聞の類で
位置が判明したの
かしらん。

『水経注』の件
からして、

句陽県の界隈では
濮水と並走していた
ことだけは、

間違いなさそう
ですが。

さて、

➂の史料中の
乗氏県と
鹿城ですが、

結論から言えば、

乗氏県は、

現在の菏沢市の
市街地から
北の外れまでの
地域。

北辺は
臨濮鎮や
鄄城県までは
行かないと
想像します。

鹿城は
詳細は不明ですが、

位置は、
恐らくその辺り。

これらを検証すると
結構ややこしいの
ですが、

一応、
以下に綴ります。

まず鹿城から
手を付けると、

クセモノなのが
「鹿城」という
言葉。

例えば、

百度捜索で
検索を掛けると、

浙江省の温州市や
内蒙古自治区の
包頭市等が
出て来まして、

まあその、

二ホンで言えば
旭丘だの桜台だの
何処にでもある
地名なのでしょう。

史料としては、
例えば、

『讀史方與紀要』
巻三十三によれば、

「曹縣」の件に、

「在縣東北」
縣(県)東北にあり、

と、あるのですが、

曹県は
菏沢市より
30km程南に
位置し、

清代も現代も
地名は変わりません。

余談ながら、

市街地の
中心部の一角が、

旧道に因む
観光地に
なっています。

それはともかく、

この史料では
「在縣〇〇」
という書き方は、

大抵は
近場にあることを
意味しまして、

仮に、

曹県の近場に、
鹿城が存在した
としても、

濮水沿いの
鹿城とは
言えませんし、

句陽県―
現在の菏沢市
句陽店、
(「店」は
中国語で
店舗以外に
旅館という意味も
あります。
亭等のイメージか)
の近辺で
あったとしても、

史料としては
距離感が大雑把で、
信憑性に
欠けまして、

要は、

この記事としては
用を為しません。

まあその、

以上の話を
纏めると、

鹿城の
詳細な場所は
分かりません。

次いで、

鹿城(郷)を抱える
乗氏県について。

これも
結構面倒な事情を
抱える場所
と来ます。

まずは、

先述の地図に
少々描き足した
ものを
御覧下さい。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、グーグルマップや、『水経注』・『讀史方與紀要』・『大清一統志』・『元名郡縣圖志』等の各史料の内容を踏まえて作成。

漢代から
北魏時代までの
乗氏県の県治は、

現在の
巨野県龍固鎮。

現在の
県の中心部から
南西に20km程に
位置します。

以後は、
現在の菏沢市の
中心部。

この辺りは
『太平寰宇記』や
『大清一統志』が
詳しいのですが、

まずは、
前者・巻十三より
乗氏県について
以下。

(維基文庫さんより)
舊八郷今六郷
本漢舊縣也、
屬濟陽郡
後漢及晋不改
按前乗氏縣今鉅縣
在西南五十七里
乗氏故城是也

舊(ふるく)は八郷
今は六郷にして
本は漢舊縣
(旧県)なり。
濟陽郡に屬(属)し
後漢及晋は改めず
前を按(しらべ)るに
乗氏縣は
今の鉅野縣にして
西南五十七里に
乗氏故城あるは
これなり。

漢代に
設けられた県で
濟陽郡に属し、
晋まで改編はなし。

(宋代の)
鉅野県の県治から
57里南西に
当時の古城が
ありますよ、と。

もっとも、
古城と言っても、

入場料に
ン百円取って
構内で
土産物まで
売られている
ナントカ城
ではなく、

人様が
現在進行形で
寝起きする、

防禦施設付きの
集落だと
思いますが。

それはともかく、

57里
(約32km)は、

巨野県の中心部
龍固鎮の距離が
約20km
であることを
を考えれば、

聊か膨らんでいる
ようにも
見受けます。

先述の
明治の御代の
古地図より、

水路が
入り組んでいる
場所にも
見えません。

ところが、

『讀史方與紀要』
巻三十三には、

龍固鎮の界隈は
「春秋時乘丘」
とありまして、

要はここらは、

少なくとも
当時から
兵家必争の丘陵地帯
であった模様。

河川の代わりに
山がある訳でして、

歩く分には、
少々距離が嵩む
のでしょう。

話を
乗氏県の位置関係に
戻します。

乗氏県の
後進である
巨野県の中心部は
漢代と現在で
ほぼ同じで、

昔の県治の
位置の方が、

寧ろ龍固鎮に
少し近い位。

【雑談】呂布の古戦場

余談ながら、

乗丘での
戦いについて、

以下に
個人的に
へえ~、と、
思った御話をば。

後漢時代の
興平元年、
(194)
―三国志の
御話ですが、

泣く子も黙る呂布に
黒星が付いたのが
ココ。

それも
破ったのは、

曹操でも
劉備でもなく
「縣人李進」。

在地の軍隊では
なかろうかと
想像しますが、

詳細は不明ながら、

平幕が
横綱を破った
大一番かしらん。

董卓の死後、

都落ちして
ここらに
流れ着いた呂布と、

兗州を根城に
青州兵を取り込む等
勢力を拡張する
曹操が、

濮陽の界隈で
凌ぎを削っていた
時分の出来事です。

有名な濮陽の戦いの
少し後の
戦いですワ。

曹操の橋頭保が鄄、

対する呂布は
その少し西の濮陽に
居座ってまして、

鄄の南東にある
乗氏に進出した
ということは、

曹操側の
側背を突くことを
企図したか、

あるいは、

反曹操の
地方官や豪族との
連携を模索して
拗れたのかしらん。

で、
乗氏県で負けた後、

さらに東進して
その南東に位置する
山陽に駐屯した
そうな。

『三國志』
魏書・武帝紀より。

【雑談・了】

さて、

県治が移転した後の
乗氏県の話として、

『大清一統志』
巻百四十四に、
以下。

古迹乘氏故城、
今府治后魏縣也
(中略)
後(ママ)魏
太和十二年复置取

古迹(跡)
乘氏故城にして、
今府治は
后魏縣(県)なり。
(中略)
後魏太和十二年に
复(復・ま)た置き
取(おさ)む。

史料中の「府」は
曹州府。
―現在の
菏沢市の中心部。

その曹州府に
旧乗氏県の
古跡があります。

さらには、

乗氏県の県治が
龍固鎮から
ここに移転したのが、

後魏、
則ち北魏の
太和12年。
(488)

『水経注』の成立は
同時代の延昌4年
(515)
とされていまして、

県治の移転から
30年弱は
経過しています。

したがって、

現在の視点で
判断すると、

同書には
県治の移転が
織り込まれていると
考えた方が
自然かと思います。

と、なれば、

鹿城の位置は、

大体、
この界隈
菏沢市の市街地か
その近辺に
位置することに
なります。

ところが、

その30年弱
という歳月の
捉え方が、

現在と
古代中国では
どうも異なる気が
しないでもなく。

先述の
城濮近辺の地図の
➅・➇を御覧下さい。

グーグルマップをベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、グーグルマップや、『水経注』・『讀史方與紀要』・『大清一統志』・『元名郡縣圖志』等の諸々の文献や史料の内容を踏まえて作成。

問題は、

定陶界隈の
済水流域と
濮水との
合流点。

➆の位置の修正

合流点の
正確な場所は、

サイト制作者の
浅学にして
分かりかねますが、

地図中の
巨野県の
中心部より、

さて、

地図中

大体は
この辺りであろう
とは考えるものの、

管見の限り
「鹿城」の位置を
明確にする史料が
見当たりません。

この辺りは
後述しますが、

県境

大体この位置だと

戦場を
ピンポイントで特定

その臨濮城の
旧地名である

山東省の
菏沢(かたく)市
鄄城
(けんじょう)県
の管轄下。

ここでの「州」は
濮州でして、

現・河南省
濮陽市の
濮城鎮。

濮陽市の
中心部から
30km程東に
位置します。

―むこうの「市」の
広いこと!

二ホンの感覚では、

県境の山奥に
住んでいても
県庁所在地の住民と
言い張れそうな
もので。

それはともかく、

「濮」は濮水。

済水の支流で
現在は
枯れてまして、

似たような場所を
黄河の支流が
流れています。

したがって、
字義からすれば、

城濮は、
濮(水)に
城(きず)く。

濮水沿いの
防禦施設、
ということに
なります。

当時はそれで
通じたのでしょう。

で、

その臨濮鎮ですが、

戦場の城濮は
その濮城鎮から
道のりにして
南に70里。

70里は
清尺換算で
(1尺=32cm、
1里=1800尺
=0.576km)
40.32km。

とはいえ、

実際に
臨濮郷があるのは、

濮城鎮から
距離にして
南に26km程の
地点。

道直比
めいたものを
大雑把に弾けば
1.5倍以上。

数字のうえでは
かなりの迂回を
強いられる
計算になります。

ヨソの地域
―例えば、
孔子の出身地の
曲阜界隈、

を見る限りは、

個人的な
感覚としては、

平場の数字は
1.2乃至
1.3位。

その意味では、

先述のような
地形の制約が
大きいのかも
しれません。

ですが、

城濮の地を
割り出す
根拠としては

今一つ、
心もとなくもあり。

そこで、
次の方法として、

濮水の流域から
割り出すことを
試みます。

これまでの
地図より、

もう少し
焦点を絞ったものを
見てみましょう。

グーグルマップをベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、グーグルマップや、『水経注』・『讀史方與紀要』・『大清一統志』・『元名郡縣圖志』等の諸々の文献や史料の内容を踏まえて作成。

以下の地図は、

現在の
菏沢市牡丹区を
中心に、

『水経注』巻八に
記されている
濮水の流域や
その文言、

加えて、

付近の
目ぼしい自治体と
その旧地名を
照合したものです。

赤い字が現在の地名、
茶い色が旧地名、

番号と青い線が
古い河川の流域
でして、

番号は
史料の当該箇所に
書かれている文言の
順番です。

まず、

この文字だらけの
奇怪な地図の
取っ掛かり
として、

『元和郡縣圖志』
には、

【雑談】

この前提として、

成王は
野戦では
勝てないと
見てまして、

恐らくは、

当面は
晋の鋭鋒を
かわすことを
考えていたの
でしょう。

そして
子玉の思惑は
その逆。

因みに、

三舎は、
3日分の
行軍行程を意味し、

当時の感覚では、

90里≒
周尺換算で
約30km。

早い話が、

今回の遠征では
矛を収める、

という
晋軍の意思表示。

城攻めの中止の
意思表示が
一舎(≒10km)
に対し、

野戦で
相手にそれを
分からせるには、

これ位の距離の
後退が
必要である、

ということ
なのでしょう。

中には
伍子胥のような
分からない
フリをする
ヘソ曲がりも
いますが。

ところが、

これを
追ったのが楚で、
かませ犬になった
訳です。

旧恩

さて、

さて、

この晋軍の
敵前回頭には、

実は、
重耳の過去に
理由があります。

話は、
この城濮の戦いを
去ること5年、

僖公23年
(前637)まで
遡ります。

『左伝』の
同年の件より。

重耳は当時、
亡命公子として、

近臣と共に、

諸国を
転々として
おりました。

寄宿先の対応も
イロイロな意味で
さまざまでして、

馬を与えて
優遇する国も
あれば、

冷遇したり
国君自らが
重耳の裸を覗く
怪しい国もある、

という具合。

その中での、
楚に滞在中の一幕。

国君の成王は
饗応の席で、

重耳に
帰国後の
庇護の返礼について
尋ねました。

生臭い質問で
相手の器量を
試す訳です。

当然、

こういう窮地で
「日曜劇場」
宜しく、

相手に一発
ブチかますのが、

主人公の
社交の場での
御約束。

重耳は
その場にて、

以下のように
切り返します。

楚の産物でる
絹、羽毛、革歯が
晋に出回っている

―経済大国に
モノを贈っても
喜ばれない、

と述べたうえで、

もし、
晋への帰国が
適えば、

晋、楚治兵、
遭于中原、
其辟君三舎。

晋、楚は
兵を治め
中原で遭わば、
それ君を
三舎辟(避)く。

戦場で晋楚で
対峙すれば、

敵前で
3日分の行程を
後退します。

それで
事が収まらねば
弓で御相手
致します、と。

さて、
その後、重耳は、

先述の如く
首尾良く
帰国を果たし、

晋の国君として
恩義ある楚と
城濮で対峙します。

ただし、

馬鹿正直に
約束を守った
訳ではありません。

と、言いますのは、
この戦いの直前、

楚の側に
国君の成王と
令尹(宰相)の
子玉の間に
対立がありました。

成王は、
野戦では
晋が有利と見て、

子玉に
決戦を避けるよう
諭します。

晋楚による
衛・曹・宋の争奪戦
という構図の中で、

白黒付け易い野戦で
この界隈の足場を
全てを失う
リスクを取るよりも、

当面は
晋の鋭鋒を避けつつ、

ノラリクラリと
経略を続ける方が
有利と踏んだの
でしょう。

まして、今回は、

重耳の旧恩という
消極策が大義に適う
切り札もあります。

対して、子玉は、

それを拒否して
自らの裁量・兵権で
自らの戦争を
始めます。

そして、

こうした
怪しい楚の出方
―国運を賭けた決戦に
国君自らが
出撃しない、

を、
慎重に見極めたのが
晋でした。

重耳が
家臣の子犯の
具申通り
三舎退いた理由は、
以下。

敵前の
危険な状況下で
敢えて
昔の約束を
守ったことで、

自軍の側に
大義があることを
誇示します。

さらには、

こちらの後退に
楚が食い下がった
ことで、

楚の好戦的な態度を
炙り出すことに
成功しました。

これにより、

旧恩に報いたにも
かかわらず、
仕掛けて来たのは
楚の方である、

という構図が
成り立ちます。

早い話が、

大義名分を
明らかにして
内部の結束を
図った訳です。

大義の
リアリズムの調和の
見事さ。

一方の
楚にとっては、

大事な先物買いを
自らの浅慮で
無駄にした
結果となります。

時の晋軍は、
2年の休養を経て
兵装、軍内の秩序共に
良好でして、

戦闘の結果は
言わずものがな。

件の三舎の後退、

如何に
昔の約束とはいえ、

実際に
実行に移した
理由もまた、

中々に
興味深いものでして、
以下。

臣下の子犯が

3、中距離の移動

3-1、
我こそは正義

ここでは、便宜上、

100km程度を
想定しています。

事例として
挙げるのは、

隠公10年
(前713)の
夏から秋にかけての
魯軍の移動。

背景にある事情を
少し綴ると、

春秋時代の前半、
宋が周への
朝勤—
臣下の王へ拝謁、
をサボり、

鄭や魯等の
周辺国が
その宋に
制裁を加える、

という、

一見、
勧善懲悪な
経緯です。

もっとも、

フクザツな
外交関係により、

ワルい宋に
与する国が
ひとつならず
あるのも、

この時代の
御約束ですが。

さて、

この時
宋の制裁に
動いたのは、

一応、
『左伝』の主役
と言いますか、
狂言廻しに近い
魯に加え、

実質的な主役の鄭、

そして、

何だかこの界隈の
フィクサー感のある
斉。

これら魯・鄭・斉の
三国は、

隠公10年2月に
魯の国邑・
曲阜より
(現・山東省済寧市)
東に100km程の
中丘にて、
(現・山東省臨沂市)
国君同士の
会合を持ち、

出兵の期日を
決めます。

そして、

その3ヶ月後の
5月以降に、

少なくとも
魯・鄭両軍が
動き出します。
(斉の動きは不明)

3-2、
魯軍の南進

さて、戦場は、

曲阜から
泗水を隔てた
南東の界隈と
なります。

以降の
時系列ですが、

まずは、
地図を見てましょう。

詳しいのは
やはり『左伝』。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、左丘明、小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻等の内容を踏まえて作成。

戦端を開くに
先立って、

魯・鄭・斉、
三国の国君は
老桃にて
会合を開きます。

老桃は、
山東省汶上県
(ぶんじょうけん)
の辺り。

正確には、

県の中心部より
北東に25km程に
位置します。

実は、老桃の
正確な位置は、

史料では
確認出来なかったの
ですが、

民間伝承
めいたものは
ある模様で、

旧名で桃城と
言われています。
(旧地名で
郷、鎮、村等は
分かりかねますが)

そのひとつが以下。

汶上人不得不知道的民间传闻
ttps://mp.weixin.qq.com/s?__biz=MzIzNzEwNzEzNw==&mid=2651183068&idx=1&sn=f4f9e7063cea0de2e7f4d50d821f9848&chksm=f33cd572c44b5c645f07ce07a40d0e50a025753587a7e6f8b7786574a6d01f38a587679ca3af&scene=27
(1文字目に「h」)

「 4. “汶上芦花鸡”
传说二章」の辺り。

で、老桃での会合の
14日後に、

南に120km弱の
菅にて、
(現・山東省菏沢市
成武県近郊)

魯が宋を破ります。

この菅の位置も
地理の史料では
確認出来なかったの
ですが、

姓氏からの
アプローチが
どうも有効そうな。

姓氏始祖
ttps://www.baijiayoupu.com/baike-detail/335.html
(一文字目に「h」)

で、戦闘の経緯ですが、

『左伝』の当該の件に
「敗る」とあるので、

奇襲でも
仕掛けたことに
なります。

因みに、

宋の国邑の商丘は、
(現・河南省商丘市)

菅より
南西に40km程に
位置します。

【雑談】 春秋時代の
戦争決まり手一覧

何だか不謹慎な
サブタイトルですが、

『左伝』、
と言いますか、
春秋時代における
戦争の勝敗には、

一応、
ルールめいたものが
ある模様。

どうも、

『公羊伝』や
『穀梁伝』にも
当て嵌まるように
思えまして。

身近な
イメージし易い
ものとしては、

寄り切りだの
上手投げだの、

大相撲の
決まり手一覧を
御想像下さい。

で、その
テンプレート表は
荘公11年の件
にありまして、

原文を
引用すると以下。

凡師、
敵未陣曰敗某師、
皆陣曰戦、
大崩曰敗績、
得儁曰克、
覆而敗之曰取某師、
京師敗曰
王師敗績于某。

師:軍隊
陣:布陣する、
隊形を整える
儁:才能や容姿が
傑出するさま。
覆:壊滅する、
滅ぼす。
京師:周の首都の
軍隊。
王師:周王の軍隊。

凡そ師は、
敵いまだ陣せざるを
敗某師を敗るといい、
皆陣するを
戦ふといい、
大いに崩れるを
敗績するといい、
儁(すぐ)るを
得るを克つといい、
覆してこれを敗るを
某師を取るといい、
京師敗れるを
王師某に
敗績するといふ。

大意は、以下。

隊列を
整えていない敵を
破るのは、
「敗る」。

彼我両軍が
隊形を整えて
がっぷり四つで
戦うのは、
「戦ふ」。

現実には
奇襲も少なからず
やるのですが、

彼我共に三軍同士で
布陣して
正面から
車戦を行うのが
花形の時代の
御話です。

その他、

全軍が
算を乱して
敗走するのは、
「敗績する」。

秀逸な軍略で
少数の手勢で
大軍に勝つのは
「克つ」。

さらに、
こういうケースで
壊滅させるのは、
「取る」。

周の首都の
軍隊が負けるのは、
王師が誰それに
「敗績する」。

春秋時代の
戦争の勝敗が、

これらの書式に
何処まで忠実かは、

残念ながら
サイト制作者は
未検証。

—『左伝』に限らず、
この時代の
いくつかの
事例を見る限りは
結構当たっている
印象ですが。

さらには、

後の時代にも
通用する
概念か否かも、

現段階では
分かりかねます。

したがって、
あくまで御参考まで。

解釈、事例、
時代ごとの
字義の変遷、
という具合に、

腰を落として
調べ始めると
長くなりそうな
御話につき、

今回はこの辺りで
御容赦下さい。

【雑談・了】

で、魯は、

老桃での会合を経て
菅で宋を破るまでに、

14日を要した
訳ですが、

これについて
少し考えます。

さて、

老桃での会合は
45番目の干支の
戊申(ぼしん)。

魯が宋を
管で破ったのは、

59番目の干支の
壬戌(じんじゅつ)。

よって、
59-45=14
で14日。

ところが、

『左伝』
隠公10年の伝は
老桃の会合を
「六月戊申」と
しており、

同年の大元の経が
菅での戦いを
「六月壬戌」と
あるのを受けてか、

「六月戊申」は
正しくは
「五月戊申」
であると
指摘しています。

確かに、

杜預の見方で
日付の勘定は
合います。

そして、

魯と宋の
戦いですが、

当時の野戦は
それ程日数を
要しないことと、

どうも奇襲で破った
らしいことを
考えれば、

菅に到着して
その日か、

遅くとも、

それ程日数が
経過しないうちに
戦いが起こった、

と、考えるのが
自然かと思います。

したがって、

魯の老桃から菅の
行軍速度は、

サイト制作者の
大雑把な概算ながら、

120km程度を

これを日数換算で
単純に14で割ると、

1日当たり平均
約8.57≒
8.6km。

道のり換算の速度も
先述の方法で
計算すると、

1日当たり平均
約9.8km。

【雑談】
老桃―菅間の
距離と道のり

清代の地名に
準拠した
経路は以下。

老桃―汶上県―
済寧州―金郷県―防

防から菅までは
目と鼻の先につき、
省略します。

老桃から汶上県の
直線距離25km
については、

その道のりの長さは
不明につき、

一旦は省略します。

汶上県から
防(≒菅)までの
計4箇所の道のりは、
〆て230里=
132.48km

同4箇所を
線で結んだ総距離は
約125km。

両者の
道のりと曲線距離の
比率は
≒1.1余。
1.1とします。

この比率は、

道直比めいた
感覚としては、

日本の海側の平地と
大体、同程度。

さらには、

この辺りの地形は
割合開けた
場所につき、

便宜上、
この数字で、

老桃から
汶上県までの
直線距離25kmの
道のりを弾くと、

25×1.1=
27.5km。

重ねて、以下。

老桃から
菅までの直線距離は
150km。

道のりは
132.48
+27.2=
159.98

約160km。
とします。

で、この道のり
約160kmを
所要日数の
14で割ると、

1日当たり
11.4km。

有り得る数字
ではなかろうかと
思います。

念の為、

老桃から菅を
直線で結び、

直線距離と道のりの
比率を
1.1で
計算しましたが、

距離125km
に対して、

道のり
137.5kmで、

道のり換算での
1日当たりの
行軍速度は
約9.8km。

サイト制作者は、

周尺換算の
30里に
近い数字であると
思います。

4、長距離の移動

長距離の移動
についても
事例めいたものが
あります。

春秋時代の
終わり頃の
哀公7年の件。
(前488)

呉の北上が
斉魯界隈を
騒がせていた時期の
御話です。

で、魯に程近い
邾(ちゅう)という
小国の国君曰く。

呉二千里、
不三月不至。

呉は二千里にして、
三月ならざれば
至らず。

邾は、現・
山東省鄒城市。

そして、

その邾から呉は
二千里離れていて
到着に3ヶ月を
要する、と。

呉は、
現・江蘇省蘇州市。

少なくとも
戦国時代辺りには、

姑蘇(こそ)
という呼称が
ありました。

現在は
区名として
存在しますが。

さらに、

蘇州市より
少し東に行けば
現在の上海が
あります。

その辺りの話を
地図で確認します。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、左丘明、小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻等の内容を踏まえて作成。

呉から邾は、

ダイレクトな
直線距離で
530km程。

現在の道路状況では
638km≒
640km弱
だそうな。

直線距離に
換算すると、

東京―岡山間と
同じ位です。

そして、

これを当時の感覚で
概算で「二千里」と
言う訳ですから、
(周尺換算で
約648キロm)
途方もない遠さ。

直線距離で
2割程度の
ズレがありますが、

このレベルの
直線距離の
捉え方としては、

イイ線行っている
のではないかと
思います。

ここで、

この周尺換算の
「二千里」
約648kmを、

3ヶ月を90日で
ざっくり
日割にすると、

1日の行軍速度は
平均で7.2km。

これはどうも、

これまでの
ケースからすれば、

少し遅い数字に
思えます。

ところが、

前近代の道のりで
考えると、

その辺りの
カラクリが
見えて来ます。

例によって、

『讀史方與紀要』で
道のりを大雑把に
計算します。

邾から程近い
(南東に30km弱)
兗州府から
(現・山東省済寧市
兗州区)
蘇州府までの
(現・江蘇省蘇州市)
道のりは、

延べ1640里
≒約945km。

周尺換算で
「二千里」どころか
約2916里、

邾をたずねて
三千里!

地図に起こすと、
以下。

地図添付
さらに、
これを、

大雑把ながら
3ヶ月=90日
とすると、

邾の想定する
この区間での
1日当たりの
行軍速度は、

945÷90=
10.5km。

前近代の
軍隊としては、

大体
「一舎三十里」
の範囲、

―現実的な数字では
なかろうかと
思います。

因みに、

道のりと直線距離の
比率は、

大雑把に
前者を1000、
後者を600、
とすれば、
約1.7。

絶対的な長さも
祟って
かなり
膨らんでいる
印象ですが、

如何せん
現在に至っても
湖や河川の多い
地域でも
あります。

天候が荒れれば、
さらに日数が嵩む
ことでしょう。

【雑談】呉―邾の
経路を想定する

ここでは、
蘇州府―兗州府
(≒呉―邾)の
詳細な経路について
触れます。

まず、呉の北上の
終点付近の
経路ですが、

哀公8年
(前487)に、

武城から
(現・山東省
臨沂市の西)
西進して
曲阜に向かう経路を
取っています。

次いで、

これに
準拠するかたちで、
経路の拠点を
抽出します。

まずは、

呉の策源地の
蘇州市と
武城を結ぶ
南北の線を引き、

その線から
東西に各々
100km程度の
帯状の地域の中で、

春秋時代の呉の
動向に絡む
拠点を抽出します。

例えば、
戦争や会合等。
会合も
軍隊が随伴します。

で、その拠点群から、

最短かつ
地理的に
現実味がありそうな
拠点を結びます。

最後に、

これらの拠点と
『讀史方與紀要』の
内容とを照合し、

各々の道のりを
合算します。

余談ながら、

春秋時代の
小国の国邑や
漢代の県城クラスの
集落となると、

清代や現代に
至っても、

案外、
そのまま都市として
機能している模様。

念の為、

蘇州から
南京・徐州を経て
北上する、

謂わば
西回りのルートも
想定しました。

これも
春秋時代の
経路としては
有効と思われます。

もっとも、

勢力圏や
実際の動向からして、

呉よりも楚の方が
現実味が
ありそうですが。

道のりにして
約996km、
周尺換算で
約3076里。

武城を経て
曲阜に向かう
東回りの
経路に対して、

少し膨らみます。

【雑談・了】

4、冬の崤を越える

崤界隈の経路
についても
触れます。

実は、本稿の目的は、

秦の策源地である
雍から、
(現・陝西省宝鶏市
鳳翔県)

通過点である周や、
(現・河南省洛陽市)

目的地の鄭までの
(現・河南省新鄭市)
道のりや所要日数を、

概算で把握することに
ありまして。

で、例によって、

経路を想定して
直線距離や道のりを
算出します。

まずは、

始点の雍から
終点の鄭までの、

道のりと
直線距離について。

地図を
見てみましょう。

道のりは、

清尺で1300里、
≒749km。

周尺換算で
約2311里。

軍隊の移動速度を
大雑把に
1日10kmと
仮定すると、

約75日
―大体、2ケ月半を
要するという
計算になります。

ここで、

同区間における
道のりと
距離の比率も
計算します。

鳳翔区から
新鄭市までの
直線距離は
560km余。

道のりを
約750kmと
計算すると、

道のりと
直線距離の
比率は、
約1.38。

特に、
焦(陜州)から
周までの区間は、

崤を筆頭に、

高低差のある
難路の山道が
続きます。

さらには、

鳳翔区(雍)から
洛陽市(周)までの
直線距離は、
約460km。

道のりを
端数を切って
620kmと
纏めると、

道のりと距離との
比率は、
約1.35。

先述のように、
周から鄭までの
それは、
約1.38。

今日の航空写真で
見る分には、

洛陽から
新鄭市までの経路も、

嵩山系の連峰や
その周辺の
丘陵地帯が、

結構な難所に
見受けます。

1.4弱
という数字は、

前近代の
道路事情以外に、

それも
含んでいるのかも
しれません。

因みに、

僖公33年
(前627)の
秦軍は、

結果として
鄭まで辿り着けず、

周から東に
40km弱の滑で
撤退を決断します。

その滑は、
現在の河南省偃師県
府店鎮の辺り。

清代の呼称は
緱氏城。
(こうしじょう)

また、

周から滑までの
移動の所要日数は、

大体、数日程度と
考えられます。

となると、
問題になるのは、

雍から
周までの遠さ、

ということに
なります。

これを
『讀史方與紀要』
の内容を元に
計算すると、

清尺換算で
1080里
=約622km。

周尺換算で
1920里。

これも
ざっくり
1日10kmで
移動の所要日数を
計算すると、

大体63日。

これに
周から滑までの
数日を加えると、

70日を切る位、
―2ケ月余。

この数字によって、

肝心の、
秦軍の出撃の時期が
推測出来る訳でして、

結論から言えば、

前628年の
12月の頭から
中頃までの間では
なかろうか、と。

以下に、
推測の過程を
記します。

『左伝』僖公33年
(前627)
によれば、

秦軍が滑に
着いたのは
翌年2月。

それより
70日を
引くのですが、

例えば、

月末に到着したと
考えても、

雍を発ったのは
遅くとも
前年12月の中頃。

逆に、
早いケースを
考えても、

派兵の
トリガーとなる
秦の同盟国の
晋の文公・
重耳の死去が
その12月につき、

11月以前は
有り得えないことに
なります。

と、なれば、

秦が雍を発ったのは
12月の上旬から
中頃までの間、

ということに
なります。

もっとも、

12月の前半に、

重耳の死去を受けて
秦の出撃が
間髪を入れずに
行われたとすれば、

その死去を
見越して、

その準備を
周到に進めていた
ことになります。

さらに、
崤を越えた時期も
推測します。

結論から言えば、

秦軍が
これまでの推測で
12月の上半期に
雍を発ったとすれば、

崤を越えたのは、

早くて
2月の上半期頃
ということに
なります。

新暦―
現在の感覚では
3月の上半期頃。

標高は
1000mを超える
うえに、
風も強いと来ます。

―つまり、
吹雪きます。

そう、

秦軍は、

ハンニバル宜しく
雪中の山越えを
やった訳です。

約60日弱
―2ヶ月弱。

以下、

その崤までの
所要日数と
経路について
考えます。

まずは、
目的地の崤ですが、

地図中の
清代の地名で
言えば、

峽州(焦)と
澠池県の間に
位置します。

したがって、

差し当たって、

雍から焦までは
清尺で920里
=約530km。

例によって
1日10kmと
考えると、

その踏破には
約53日を要します。

次に、

ここから崤までは
数日かかります。

さらには、

崤の連峰の
中心的が、
北嶺・南嶺の二嶺。

これを受けて、

崤を抜けるルートは、

大別して、

北嶺経由と
南嶺経由の
二通りのルートが
あります。

北嶺経由は、

硖石城まで
(現・河南省三門峡市
狭州区硖石郷)
清尺で70里。
=約40km。

北嶺・金銀山の
山麓に位置します。

南嶺経由は、

雁翎関―
南嶺・响屏山の
(きょうへいざん)
―南麓まで、
清尺で90里
=約52km。

因みに、
現段階では、

春秋時代の状況を
考えると、

サイト制作者は
南嶺を抜けた
可能性が高いと
考えています。

以上を纏めると、

焦から二嶺までは
4、50kmで、

行軍速度を
1日10kmと
仮定すれば、

数日を要します。

さらには、

雍から崤までは、
大体60日
―2ケ月程度を
要する、

ということに
なります。

因みに、

焦から
この二嶺までの
平面の直線距離は
20km程度。

これと
史書の内容を
比較すると、

踏破には、

その倍以上の
長さをを
要することに
なります。

如何に
高低差で
数字が
膨らんでいるかの
証左だと思います。

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重耳の軍の行軍速度、一例

今回も
記事の更新が
遅れに遅れて
大変恐縮です。

章立ては、以下。

興味のある部分
だけでも、
御笑読頂ければ
幸いです。

1、重耳の曲沃入城
1-1、
キングメーカー・
秦の動向

【雑談】曲沃制圧の意義

1-2、
日付確認の方法
1-3、
妄想、
道路事情の変遷
1-4、
距離と道のり、
そして速度

2、三舎を避く
2-1、
その始点と終点
2-2、
濮陽近辺の地形
2-3、
臨濮鎮から
菏沢市中心部まで
2-4、
そして定陶へ

おわりに

【主要参考文献】
【雑談】
「三舎を避く」の
背景を妄想する

はじめに

今回は、
前回の
「一舎、三十里」
を受けて、

重耳の軍
事例に、

大体50km
程度の
行軍速度の計測
試みます。

今日の感覚では、

中学校の遠足の
倍以上の道のりに
相当します。

したがって、

徒歩の移動に限れば
平常の速度では
日を跨ぐこと
なりますが。

その他、

計測の結果
については、

サイト制作者
自身も、

恥ずかしながら、

弾いた数字
について、

例えば
移動手段が
徒歩か車両か等

何処か
腑に落ちない
部分があります。

したがって、

計測の
結果よりも、

拙いながら
試み自体や
計測方法について、

何かの調べ物の
一助にでもなればと
思う次第です。

1、重耳の曲沃入城

1-1、
キングメーカー・
秦の動向

【雑談】
曲沃制圧の意味

最初の事例は、

『左伝』は
僖公二十四年の、
(前636)

春秋五覇で有名な
晋の文公・重耳が、

まさにその
国君の座に
就いた時の御話。

まずは、
地図を
見てみましょう。

現在の
山西省運城市の
近辺です。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、左丘明、小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻、酈道元『水経注』、顧祖禹『讀史方輿紀要』等の内容を踏まえて作成。

さらに補足すれば、
赤字が春秋時代の、
茶色が現代の地名。

―さて、

折しも、
春秋時代も
中頃のこと。

畿内を制圧した
秦の穆公が、

自国に
亡命している
晋の公子―
大事な手駒
である重耳を、

祖国に
送り込みます。

中原の勢力争いに
介入を始める
過程での
重要な出来事です。

そして、

重耳を護送する
秦軍は、

黄河を越えて
凍水沿いに東進し、

その過程で、

当の重耳は、

晋の首都の
絳(こう・
山西省翼城県)より
100km弱
南西に位置する
郇(しゅん)にて、
(山西省臨猗県)

晋の軍隊を
掌握します。

これが
2月の壬寅のこと。

で、その4日後
同月丙午に、

郇より
距離にして
50km弱北東の
曲沃に到着します。
(現・山西省聞喜県)

この
郇から曲沃までの
行軍速度について、

アレコレ考えたく。

【雑談】曲沃制圧の意味

重耳が
政権掌握の手始めに
曲沃の制圧
目論んだのには、

恐らくは、

古代中国特有の
意味があった模様。

で、この曲沃は、

晋の先君の位牌と
先祖の廟
ある場所。

とはいえ、

首都が
絳に移ったので、

「宗邑」
なった由。

これまで、

サイト制作者も
軽々しく
「国邑」と
やっていたので、

該当記事を
全て消したい
心地ですが、

そもそも
サイト自体が
恥の地雷原
でして、

さて、
どうしたものか。

それはともかく、

『左伝』
荘公二十八年
(前666)
によれば、

都と邑の違いは、
その位牌と廟の
有無、

都の建設は
「城(きず)く」、
邑のそれは
「築(きず)く」、
だそうな。

さらには、

当時の国内での
宗邑と辺境の関係
以下。

同じく
『左伝』
荘公二十八年より。

宗邑無主則民不威
疆場無主則啓戎心

宗邑に主無くして
則(すなわ)ち
民は威(おそ)れず
疆場に主無くして
則ち戎心は
啓(ひら)く

威:服従する
その他、
刑罰や功徳
といった
意味もある。
疆場:辺境
戎:異民族
啓:芽生える
土から出る

宗邑は
御先祖様の
廟のある
場所でして、

国内における
人心・秩序の要。

統治者不在の辺境も
これまた
秩序の不安定化を
意味する、

という旨。

特に、

廟や位牌の
ある場所は、

人様の墓を
アレコレ言うのも
何ですが、

世俗的、
あるいは実利的な
解釈をすれば、

血族の結束力≒
政治力や軍事力の、

謂わば、
泉源や象徴。

まして、

この場合は
国君の血族のそれ。

要は、

自身が
社稷の守護者
である、と、

内外に
宣伝した訳ですね。

こうした
廟の空間や意義、
当時の人々の
廟に対する感覚
等については、

以下の論文が
詳しいので、

興味のある方は
御一読を。

久富木成大先生の
「『春秋』における
家族の思想」
金沢大学
文学部論集
行動科学・哲学篇
第二十号

当該論文のPDF
ttps://core.ac.uk/download/pdf/196700643.pdf
(一文字目に「h」)

【雑談・了】

1-2、
日付確認の方法

重耳の曲沃制圧は、

自身の
生存基盤をなす
政治力の
確保のための、

まさに
一刻を争う
状況下での
作戦行動
でありました。

結果として、
重耳の軍は、

先述の如く、

郇から曲沃までの
直線距離にして
50km弱を
4日で移動します。

で、その4日の
当時の
数え方ですが、

具体的には、

十干と十二支を
組み合わせた
六十干支
数えます。

サイト制作者が
知らなかったので
態々書くのですが、

それはともかく、

まずは、
六十干支の現物
見てみましょう。

六十干支の表は、

例えば、
以下のアドレス
にて。

当該の
ウェブ・ページの
下の方。

日本の暦・
国立国会図書館
ttps://www.ndl.go.jp/koyomi/chapter3/s1.html
(一文字目に「h」)

要は、

ひとつの干支を
1日と換算し、

初日の
甲子(こうし)から
乙丑・丙寅・
丁卯・・・
と続き、

癸亥(きがい)までの
60日・2ケ月を
ワン・サイクル
とします。

で、先の
重耳の話の場合、

39番目の
壬寅に
郇で軍を掌握し、

2日目:
40・癸卯、

3日目:
41・甲辰
と続き、

4日目:
42番目の
乙巳に
曲沃に到達した、

という次第。

余談ながら、

甲子は
甲子園の
名前の由来の
甲子ですワ。

もっとも、
あちらは
日付ではなく年で、
60年でひと回り。

それはともかく、

干支が分かれば
経過した日数が
分かります。

ここでの
重耳の話に限らず、

政治の話にせよ
軍事の話にせよ、

細かい時系列が
割り出せることが
あるので
便利です。

一方で、
この暦の
詳しい話については、

サイト制作者の
浅学にして、

分かっていない
部分が多いので
省きますが、

大体の話は以下。

岡田芳朗先生の
『アジアの暦』
によれば
太陰太陽暦の一種で、

1ヶ月30日
の大の月と、
29日の小の月が
ありまして、
(この辺りが
日付の換算で
厄介なのですが)

そのうえ、

13月(閏月)だの
14月だの
と来る煩わしさ。

サイト制作者
としては、

この種の
不明な部分への
対応については、

出現次第
対応したいと
考えています。

1-3、
妄想、
道路事情の変遷

さて、

移動に要した日数が
分かったところで、

次は、

大雑把ながら、

道のり換算で
速度を計測して
みましょう。

結論から言えば、

重耳の軍の
郇から曲沃までの
移動速度は、

サイト制作者の
推測では、

1日当たり
約16km。

前回の記事で
綴った
「一舎、三十里」
(人・軍隊の
1日の移動距離は
周尺換算で
1日10km程度)
からすれば、

かなりの速度です。

以下に、

その1日16kmの
根拠を綴ります。

まず、
肝心の道のりですが、

清初の
地理書である
『讀史方與紀要』
(どくし
ほうよきよう)
の内容に拠ります。

春秋時代から
時代がかなり
下っていることで、

サイト制作者
としては、

残念ながら、

前近代における
道のりの目安、

―程度の
漠然としたこと
しか言えませんが。

例えば、

方々で見られる
耕地整理や
それと連動する
道路整備、

あるいは、

史実にあるような
崤の北回りの
山道のような
道自体の石造り化、

といったような
話でして、

時代が下るにつれて
移動の効率性が
高まっている区間は
存在すること
でしょう。

一方で、

コンクリートの
高架や鉄道、
山を掘り抜いた
トンネル等の存在は
織り込まれて
いないかと
思われます。

―といった具合。

1-4、
距離と道のり、
そして速度

さて、

その
『讀史方與紀要』
巻四十一には、

現・山西省の
「聞喜縣」について
以下の件があります。

西至猗氏縣
一百十里、

西すれば
猗氏県に至ること
一百十里にして、

そして、

史料中の
「聞喜縣」が曲沃、
「猗氏縣」が郇。

因みに、

清尺32cmで
1里=576m。

さらには、

唐代の尺が
31.1cmで、

大体、
ここ1000年位は
1尺の長さは、

あまり
変わっていません。

よって、

聞喜県から
猗氏県までの
道のりは、

110里=
約63.36km。

因みに、

郇は現・臨猗県、
曲沃は現・聞喜県の、
各々の中心部付近
につき、

大体この数字で
宜しかろうと
考えます。

因みに、

両県の
詳細な位置は、

例えば、

『太平寰宇記』
(たいへいかんうき)
巻四十六・猗氏縣や、

『元和郡縣圖志』
(げんな
ぐんけんずし)
巻十二・絳州、
を参照。

双方とも、
『維基文庫』
さん等から
閲覧出来ます。

で、この前提で、

直線距離に対する
道路距離の比
―道直比、
めいたもの
弾きます。

(専門的な
計測方法を
知りませんで、
この表現。)

まずは、
地図で
見てみましょう。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、左丘明、小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻、酈道元『水経注』、顧祖禹『讀史方輿紀要』等の内容を踏まえて作成。

清代の状況で
道のりが
約63km、

対して、

グーグルマップさんの
航空写真によれば
距離が50km弱、

63÷50=
1.26。

実は、これは、

どうも
現在の日本の
山間部並の水準
の模様。

それはともかく、

ここでは、

道のり換算の
ひとつの目安
程度の感覚に
止めます。

で、肝心の、
道のり換算による
行軍速度ですが、

約63kmを
4日で踏破した
ことで、

63÷4=
15.75。
―約16km。

2、三舎を避く
2-1、
その始点と終点

似たような遠さの
行軍速度について、

さらにもう一例
考察を行います。

で、これも、
重耳に関するもの。

晋楚決戦の
城濮の戦いの
一幕です。

有名人の話につき、

逸話が見付け易く
どうも古戦場も
残っている模様で、

素人の
事例探しとしては
都合が良く。

ノイズはともかく、

主題である
地理の話としては、

晋の大軍
敵前の楚に対して
曹から城濮までを
三舎後退した、

というものです。

戦いの直前までの
経緯については、

フクザツな
外交関係や
重耳の過去等が
絡んでくるので、

ここでは
詳しくは
書きません。

ただ、
状況としては、

好戦的な
楚の動向を
踏まえた
うえで、

速い行軍速度は
元より、

恐らくは、

斉水・濮水と
大型河川を
二本跨いでいる
ことで、

この時のは、

かなり機敏に
動いている
見受けます。

そのためか、

結論から言えば、

サイト制作者は、

ここでの晋軍
1日の行軍速度は、

約19.3km
見ています。

三舎
軍隊あるいは
徒歩での3日分の
移動行程。

先述の
一舎三十里≒
1日当たり
10km程度
からすれば、

この
約19.3kmは
かなり速い数字
に見受けます。

そして、
この章では、

この数字の
根拠としての
実測を試みます。

その前提となる
「三舎」
始点の曹は、

現在の
山東省菏沢市
定陶区。

洛陽市から
東北に
200km程に
位置します。

定陶区―定陶は、

少なくとも
春秋戦国時代
からの
交通・経済の要衝。

さらには
終点の城濮は、

恐らくは、

現在の
同市鄄城県
臨濮鎮。

定陶区より
50km弱北北東
位置します。

地図で
位置関係を
確認します。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、グーグルマップや、『水経注』・『讀史方與紀要』・『大清統一志』・『元名郡縣圖志』等の各史料の内容を踏まえて作成。

城濮の
現在の位置ですが、

サイト制作者も
いくつかの史料や
現在の地理から、

臨濮鎮でFAだと
考えていますが、

細かい検証作業は
長くなるうえに
ややこしいので、

今回は省略します。

残念ながら
元になる論文を
読める環境になく、

その補完のための
手作業で
エラい目に
遭いました。

Buidu百科さん
・城濮
ttps://baike.baidu.com/item/%E5%9F%8E%E6%BF%AE/7499576
(一文字目に「h」)

それはともかく、

参考までに、

『水経注』
当該箇所の
記述を軸に、

臨濮鎮の
界隈について
フォーカスした
地図を、

以下に掲載します。

グーグルマップをベースに、主に『水経注』、その他、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻・『讀史方與紀要』・『大清統一志』・『元名郡縣圖志』等の諸々の文献や史料の内容を踏まえて作成。赤字は現在の地名、茶色の字は旧地名、青線は河川。

2-2、
濮陽近辺の地形

ここでは、

濮陽市・
菏沢市の界隈の
地形について
綴ります。

一言で言えば、

河川や沼地が
数多入り組んだ
場所です。

もう少し
細かく言えば、

河水(黄河)と
済水の分岐点。

臨濮鎮から
定陶区までの
南北に
50km弱の間に、

北から
濮水・
瓠子河・
(こうしこう、
あるいは、
かしこう)
済水の
3本の河川が
流れていまして、

当然、
これらの
支流の水路も
数多あります。

そのうえ、

濮水のすぐ北には
中原の大動脈の
暴れ川・
河水(黄河)
流れています。

したがって、

物流は恐らく
水運が中心で、

水害多発地帯
でもあった
ことでしょう。

実際に、

金代には
当時の郡治の
済陰県が
水没しています。

一方で、

恐らくは、

治安も相当に
悪かったと
推測します。

古来から
沼地に
ワルい人々が
集まるという
社会的構造
ありまして、

例えば
彼の漢の高祖も、

職務放棄して
こういう場所に
潜伏したという、

華々しい
職務経歴が
あります。

で、

そういう人々の
筆頭格の宋江等
水滸伝で有名な
梁山泊もココ。

梁山県には
彼の大野沢
(巨野沢)
あります。

その他、例えば、

市名になった
「菏沢」も、

その界隈に
かつて存在した
沼の名称です。

ここで、

サイト制作者の
浅学では
実感が湧かない、

という方々の
ために、

古地図で
もう一押し。

東洋文庫
水経注図
データベース
・本図
ttps://static.toyobunko-lab.jp/suikeichuzu_data/mirador/?manifest=https://static.toyobunko-lab.jp/suikeichuzu_data/iiif/main/manifest.json
(一文字目に「h」)

まずは、
この地図ですが、

東洋文庫さん
説明によれば、

楊守敬・熊会貞
によって
1905年に
制作された由。

清末の
日露戦争の時代
でして、

まあその、

少々
イチャモンを
付ければ、

制作された
先生方は、

残念ながら、

濮水等の
枯れた川までは
リアルで
見ていない、

ということに
なります。

そのような事情を
反映してか、

サイト制作者は、

濮陽市の界隈に
関しては、

例えば、

乗氏県
(現・菏沢市
巨野県。
ただし、
北魏時代は
菏沢市の中心部。)
にあった
鹿城の位置等、

怪しい部分も
多少はあるように
見受けますが。

余談はさておき、

当該の
濮陽市・菏沢市の
近郊地域は、

この地図の
中心より
少し右上
位置します。

とはいえ、

現在に至るまでの
開発の進展の
結果か、

航空写真
この界隈を
見る限りは、

水路や沼地が
随分、開発・整理
されている
という印象を
受けます。

2-3、
臨濮鎮から
菏沢市中心部まで

大体の地形が
把握出来たところで、

以下に、

曹から城濮の
「三舎」の
二点間の道のりを、

諸々の史料を用いて
割り出すことと
します。

まず、
残念ながら、

臨濮鎮から
定陶区までの
ダイレクトな遠さを
記した史料は、

管見の限り
ありません。

そこで、

臨濮鎮-
菏沢市-定陶区、

という、

割合、
直線に近い経路
数字を弾くことを
試みます。

以下の地図の
灰色の線の
経路です。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、グーグルマップや、『水経注』・『讀史方與紀要』・『大清統一志』・『元名郡縣圖志』等の各史料の内容を踏まえて作成。

因みに、

菏沢市の
中心部の辺りも、

拠点ごとの興廃は
あるように
見受けますが、

少なくとも
西周時代以降
今に至るまで、

県レベル以上の
集落が
点在し続けている、

―軍隊の往来が
あったと
思しき
場所です。

では、手始めに、

臨濮鎮-菏沢市
について。

因みに、

清代において
臨濮鎮は臨濮城、

菏沢市の中心部は
兖州府曹州
及び曹州府。

で、

関連する
史料ですが、

管見の限りふたつ。

ひとつ目は
『大清統一志』
巻百四十四
・曹州府。

濮州在府北
一百二十里。

濮州は
府を北すること
一百二十里にあり。

また、以下。

臨濮故城在
濮州南六十里。

臨濮故城は
濮州を南すること
六十里にあり。

因みに、

濮州
現・河南省
濮陽市范県の
濮城鎮。

濮陽市より
東に20km程に
位置します。

また、

史料中の「府」は
曹州府。

で、

濮州(濮城鎮)から
60里南下すると
(清尺35km弱)
臨濮故城(臨濮鎮)、

120里南下すると、
(清尺70km弱)
曹州府
(菏沢市の中心部)
がありますよ、
という次第。

因みに、

かなり
時代が遡った
宋代の
『太平寰宇記』
巻十四・濮州も、

濮州から臨濮県の
道のりを
60里としており、

あるいは、

ここからの転載
かもしれません。

唐代以降は
尺の違いも
大差なく。

ただし、

この史料を
軸にしなかった
理由は、

当時の
定陶近辺の
主要拠点が
定陶ではなく、

その西南の
済陰県でして、

ここから
管内の
末端の集落への
道のりしか
記されていない
ためです。

当時の
自治体構成
からすれば、

合理的な書き方
であったの
かもしれませんが。

一方、

『讀史方與紀要』
巻三十四・濮州
には以下。

南至兖州府曹州百里

南すれば
兖州府曹州に
至ること百里。

臨濮城、
州南七十里。

臨濮城、
州を南すること
七十里。

史料中の主語は
濮州。

さらには、

「兖州府曹州」は
曹州府、及び、
菏沢市の中心部。

で、

濮州から
曹州府までは
南に100里。
(清尺58km弱)

臨濮(故)城までは
70里。
(清尺約40km)

要は、

ふたつの史料間には
同じ遠さの
記述について、

少々目立つレベルの
ズレがあります。

では、
実測めいたものは
どうか。

グーグルマップさんの
航空写真によれば、

濮城鎮から
臨濮鎮までは、

直線距離で
約29km。

菏沢市の
中心までは
約54km。

ふたつの史料の
記述から、

道直比
めいたもの
弾けば、以下。

濮城鎮から
臨濮鎮までは、

『大清統一志』
34.56÷29
1.19

『讀史方與紀要』
40.32÷29
1.39

濮城鎮から
曹州府までは、

『大清統一志』
69.12÷54
1.28

『讀史方與紀要』
57.6÷54
1.07

あくまで
個人的な
感覚ですが、

『讀史方與紀要』
の数字よりも
『大清統一志』
それの方が、

数字が
安定しているように
見受けます。

特に、

『讀史方與紀要』の
濮城鎮の
1.07は、

今日の日本の
平地の道路
並みの数字。

そのうえ、

他の地方の
いくつかの
事例を見る限り、

鎮の近くを
黄河が流れている
場所での
道直比めいたもの
としては、

聊か、
出来過ぎている
ように
見受けます。

よって、

この場合に
限っては、

『大清統一志』
数字を
信用したいと
思います。

つまり、

臨濮鎮から
菏沢市の中心部
までは、

実測めいたものは、
約29km。

道のりは
約60里
=35km弱。

これは、

3つの拠点
大体、
一直線上
近い位置に
あることを
前提に、

濮城鎮から
曹州府までの
120里から、

臨濮鎮までの
60里を
引いた数字です。

もっとも、

厳密には、

曹州府までの
直線距離でも

ダイレクトなものと
臨濮鎮経由とでは、

2km程の違いが
生じるようですが。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、グーグルマップや、『水経注』・『讀史方與紀要』・『大清統一志』・『元名郡縣圖志』等の各史料の内容を踏まえて作成。

2-4、
そして定陶へ

次いで、

曹州府から
定陶
(現・菏沢市定陶区)
までの
道のりについて。

定陶区は
菏沢市の中心部から
南東に位置し、

実測めいた
直線距離は
19km余。

『大清統一志』
巻百四十四には、

曹州府の治所の
荷澤縣について、

以下の文言が
あります。

定陶縣
在府東南
四十里

定陶縣
府より
東南すること
40里にあり。

史料中の「府」は
曹州府。

現在の菏沢市の
中心部から
東南に40里
(23km余)
進めば、

定陶県に
着きますよ、と。

因みに、
同史料によれば、

曹州府の中心部の
荷澤県から
定陶県の県境までは
18里。
(10km余)

さらに
定陶県域は、

東西に62里
(約36km弱)
南北に38里。
(約21km余)

道直比
めいたもの
弾けば、

史料の数字は
23km余、
実測19km余で、

約1.21。

個人的には、

結構イイ線
行っている、
―実相に近いかと
思います。

『讀史方與紀要』
についても
検証します。

巻三十三・
曹州に曰く、

州東南五十里。

州を東南すること
五十里。

50里は
約29km弱。

道直比めいた
数字を弾けば、

聊か膨らんでいる
気がしないでも
ありませんが、

先述の県域
からすれば
間違とも言えず、

ふたつの史料の
整合性を問う程の
ズレとは
思えませんで。

要は、

菏沢市から
定陶区までは、

直線距離で
20km弱。

清代の感覚では、

道のりは、

その直線距離から
2割以上5割未満
膨らむ、

といったところ
かと思います。

個人的には、

ここでも、
『大清統一志』
数字を
使いたく思います。

したがって、
道のりは約23km。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、グーグルマップや、『水経注』・『讀史方與紀要』・『大清統一志』・『元名郡縣圖志』等の各史料の内容を踏まえて作成。

漸く、

臨濮鎮から
定陶区までの、

前近代における
大体の道のりを
算出出来る訳です。

臨濮鎮から
菏沢市の中心部
までを35km、

菏沢市の
中心部から
定陶区までは
23km、

とします。

で、
〆て58km。

これを
3日で移動した
訳です。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、グーグルマップや、『水経注』・『讀史方與紀要』・『大清統一志』・『元名郡縣圖志』等の各史料の内容を踏まえて作成。

で、これを、

単純に3で割ると、
1日当たり、
約19.3km。

『周礼』地官や
『左伝』杜預注の
「一舎三十里」
(周尺30里
≒9.72km)
からすれば、

徒歩の移動
としては、

当時の
感覚からすれば、

常識の倍程度の
驚異的な行軍速度
ということに
なります。

定陶の城邑より
10km程北の
郊外に布陣したと
考えても、
(見苦しい
言い訳ですが)

1日16km。

先述の重耳の
秦入りの時よりも、

少し速い速度と
相成ります。

『孫子』兵争の
タブー宜しく、

昼夜兼行か
走るかで
少なからぬ
落伍者を出したか、

車両部隊のみの
移動の話か、

あるいは、

サイト制作者の
計測方法が
悪いのか。

最後の場合の確率が
高そうなもの
ですが。

余談ながら、

1970年代の
軍隊の行軍速度は、

大体、
1日30km程度
だそうでして、

道や兵装等が
進化すれば、

それ位に
なるのかなあ、と。

御参考まで。

おわりに

そろそろ、

本記事の結論を
整理します。

1、春秋時代における
主要拠点間の道のり
については、
管見の限り史料はない。

そこで、
後代の史料の
使用による
道のりの算出を
試みた。

2、1、の方法では、

近代的な
土木技術、
移動手段、
兵装等による
技術革新の効果を
或る程度
排除できるものの、

春秋時代の実情を
どの程度
反映しているのかは
疑問である。

したがって、

前近代の状況、
程度の理解に
止めたい。

3、以下は、
1、2、を
前提にしての
話である。

4、一つ目の
事例として、

重耳の秦入国時の
行軍速度は、

1日当たり
約16km。

郇から曲沃までの
直線距離にして
約50km、

清代の感覚で
約63kmの
道のりを、

4日で移動した。

5、二つ目の
事例として、

重耳の
曹から城濮までの
三舎後退時の
行軍速度は、

1日当たり
約19.3km。

直線距離にして
約48km、

清代の感覚で
約58kmの
道のりを、

3日で移動した。

6、4、5、が
徒歩のみの
移動であれば、

一舎三十里は、

険しい地形を
織り込んでの
目安か、

あるいは、

割合控えめな
数字である
可能性がある。

【主要参考文献】
(敬称略・順不同)

酈道元『水経注』
(維基文庫)
顧祖禹
『讀史方與紀要』
(維基文庫)
『太平寰宇記』
(維基文庫)
『大清統一志』
(維基文庫)
左丘明・小倉芳彦訳
『春秋左氏伝』各巻
杜預『春秋経伝集解』
『春秋穀梁伝』
李吉甫撰
『元和郡縣圖志』
(維基文庫)
譚其驤
『中国歴史地図集』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』
岡田芳朗
『アジアの暦』

【雑談】
「三舎を避く」の
背景を妄想する

重耳の退却の
大体の経緯等
について、

説明というよりは
想像、いえ、
妄想も盛って
アレコレ綴ります。

典拠は、
大体『左伝』より。

さて、

頃は、
春秋時代半ば。

重耳が
国君の座にあった
晋の最盛期の
僖公28年の、
(前632)

中原での
晋楚決戦のひとつの
城濮の戦いでの
一幕です。

晋楚間の、
曹・衛・宋の
争奪戦という
構図の中で、

晋は曹を占領し、
楚は宋を包囲中、

衛については、

晋から弾かれて
楚に付こうとした
国君を、

国人が
首都から追い出し、

晋楚のいずれに
与しているか
不明瞭な状況です。

その最中、

楚の令尹(宰相)で
強硬派の子玉が、

国君・成王の
消極論を
無視して
会戦を期して
晋軍を追撃します。

対する晋は、

事もあろうに
敵前で
三舎後退した、

というのが、

記事中の事例
についての
歴史上の文脈。

当時の晋は、

2年の休養を経て
兵装から
軍内秩序まで
状態が良く、

晋楚の双方の
上層部は、

恐らくは、

これを
方々よりの報告で
弁えていた筈です。

特に、
楚の成王としては、

優勢な晋の鋭鋒を
かわしつつ、

ノラリクラリと
三国の調略を
進めたかったの
でしょう。

いずれは晋と
干戈を交える
にせよ、

今は時期が悪い、
と。

ところが、

令尹(宰相)の
子玉が
成王の掣肘を
振り切るかたちで
出撃を強行します。

さて、

曹の近郊で
晋楚の大軍が
対峙する訳ですが、

戦闘に入る前に、

その正当性を
主張するための
マウント合戦を
展開します。

具体的には、

子玉が
晋に対して、

国内の
辺境にいる衛公、

自軍の包囲下の
宋にいる曹公の、

両者を
国都に戻せば、

楚は宋より
撤退する、と、

正論を通告します。

対して、
強かなのは晋。

表面上では
受諾しながらも、

水面下で
曹・衛に
現状回復を
約束します。

表でやろうが
裏でやろうが、

国外の国君を
都に戻し、

三国の領土を
戦争前の国境線に
戻した担い手が
正義である、

という
小難しい外交戦。

結果、

曹・衛は
楚から離反し、

面子を潰された
子玉としては、

両国への影響力を
戦争で取り返す
以外に、

打つ手が
なくなります。

兵馬を
全面に押し出して
事を荒立てたことが
裏目に出て、

三国との対外関係が
敵の調略で拗れた、

ということ
なのでしょう。

また、

当時の
国境を越えた
士大夫間の
ネットワークを
考えれば、

楚と袂を分かった
曹・衛に
してみれば、

恐らくは、

楚の側の、

国君と令尹の
不和という、

致命的な欠陥を
弁えていた
ことでしょう。

そのうえで、

晋楚の交戦は
不可避で
そうなれば
晋が勝つ、と、

踏んだから
かもしれません。

そして、

進退窮まった
子玉は、

やはり
晋との決戦を
期しますが、

対して、
曹から城濮まで
兵を退いたのが晋。

実は、
重耳には、

成王に対して、

過去の亡命生活で
楚に命を救われた
という恩義が
ありました。

その折、

成王との
遣り取りで、

如何にして
恩義に報いるか、

という
圧迫質問に対して、

戦場で三舎退くと
答えました。

この約束を、

軍議で
家臣との議論の末、

楚との交戦の前に
曲直を正した方が
良い、

楚の恩を
受けていながら
楚の敵である宋の
援軍となるのは
オカシイ、

という理由で
守った訳です。

それでも楚に
交戦の意思あらば、

大義名分の
遵守により
高い士気で
戦える、

という打算が
あります。

先述のように、

既に、

色気を出した
子玉の足を
掬うかたちで、

外交で
楚を窮地に
追い込んでいる
ことで、

そして、

一定の成果を得た
晋は、

喰い下がって
追撃して来る
楚に対して、

曹(山東省菏沢市
定陶区)から
城濮(同市臨濮鎮)
までの、

距離にして
約45kmを
3日掛けて北上して
後退する訳ですが、

この間に、

少なくとも
済水・濮水の
2本の河川を
跨いでいます。

つまり、

仮に濮水北岸まで
退却したとすれば、

目の前の
戦車300両の
大軍に対して、

一戦も交えずに
済水での迎撃を
放棄したことを
意味します。

個人的な
感覚ですが、

これだけの距離の
退却は、

当時の決戦重視の
時代感覚からして、

遠征軍の
全面撤退を
意味したの
ではないかと
考えます。

邪推すれば、

後の伍子胥なんぞ
こうした
中原の流儀を
嘲笑い、

逆手に取る形で、

楚に対して
何度も偽装退却を
繰り返したのかも
しれません。

それはともかく、

重耳等、
晋にとっては、

この三舎後退は、

同盟国にも
号令を掛けて
大量の人員・物資を
動員した挙句、

勝てる戦い
にもかかわらず、

敵前で
干戈を
交えもせずに
総退却を行った、

という
労多くして
益なしな御話。

理由もなしに
こういうことを
やれば、

当然、

国君は
内外の信用を
失いますし、

失策の後始末で
身内の内訌も
生みます。

例えば、

襄公14年の
(前559)
晋や同盟国による
秦への遠征。

この戦いでは、

秦が
涇水上流から
毒を流して
多数の死者を
出すわ、

和議も
纏まらないわで、

一戦も交えず
先の遺恨の報復も
果たせずに
撤退する、

という流れに
なりました。

ところが、

これを
潔しとしない
一部の部隊が
独断で出撃し、

それを主導した
欒鍼(らんけん)が
戦死しました。

この人は、

晋の勢族の
欒氏(らんし)の
重鎮。

そのうえ、

その兄で
欒氏の当主かつ
下軍の将の欒黶が、
(らんえん)

これを
逆恨みして
内訌を起こし、

後に、

欒氏が
晋から離反する
遠因にも
なります。

そして、
この局面では、

曹・衛・宋の
三国が、

この退却が
楚の勢力圏
となることを
意味します。

さて、

国君の過去を
清算すべく、

強かな
和戦両用策で
撤退を始めた
晋に対して、

二国の離反で
進退窮まって
追撃する楚。

そのうえ、

国内の
不協和音により、

重要な決戦にも
かかわらず、

国君の出陣を
欠きます。

楚の成王に
とっては、

あるいは、

過去の
重耳との交友を
外交カードの
ひとつとして
チラつかせながら、

優勢な晋の
鋭鋒を避けつつ、

曹・宋・衛への
調略を、

ノラリクラリと
やりたかったの
でしょう。

事を急がず、

分の良い時を待って
戦争を仕掛ける方が
マシな訳です。

ところが、

その好機を
自分の戦争で
棒に振ったのが
子玉。

この人の
過去の言動を
見るに、

剛毅果断で
亡命中の
重耳の器量を見抜く
慧眼こそあれ、

傲慢で視野の狭い
戦争屋の
限界を露呈した、

という印象を
受けます。

結局
その内訌により、

国運の掛かった
大一番
にもかかわらず、

楚の国君の
出撃を欠いた
奇怪な戦いは、

子玉の孤軍奮闘で
晋の圧勝に
終わります。

戦後、

晋の最盛期の
到来とは
対照的に、

三国の楚の側の
要人は粛清され、

楚は中原における
外交の足場を
失います。

そして、

子玉は成王に
責任を取る形で
自決を迫られます。

以上が、

あくまで
サイト制作者の
妄想する
「三舎を避く」
の舞台裏。

とはいえ、

記事の主題から
逸れることが多い
うえに、

かなり
冗長になった
ことで、

ここで
やることに
しました。

サイト制作者の
事務能力の欠如と
怠慢が祟り、

地理書の整理で
気が滅入って
来まして、

たまには
こういうのを
やりたいなあ、と。

【雑談・了】

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「一舎、三十里」について考える

『周礼』地官、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』、左丘明『春秋左氏伝』、杜預『春秋経典集解』、孫武『孫子』、小倉芳彦『春秋左氏伝』各巻、浅野裕一『孫武』等、より作成。

まずは、

更新が
大幅に遅れて
大変恐縮です。

長くなったので、
章立てを付けます。

例によって、
興味のある部分
だけでも
御笑読頂ければ
幸いです。

はじめに
1、一舎三十里
2、道のりと
拠点の関係
2-1、
『周礼』地官の説く
概念
2-2、
拠点アレコレ
【雑談】
盧の定義を妄想する
【雑談】
漢代の亭のイメージ
3、「一舎」と
重耳の原包囲
4、孟門は何処
4-1、原近郊の今昔
4-2、
原と孟門の関係
4-3、原から近い
孟塗国
4-4、
その他の「孟門」
4-5、
太行山脈の孟門
4-6、
山西省の孟門
5、一舎後退の用例
【雑談】包囲下の
停戦交渉
6、孫武と百里を
走ってみよう
【雑談】
前近代の交通事情を
妄想する
おわりに
【主要参考文献】
【追記】

はじめに

今回は、

春秋時代の軍隊の
距離感覚について
綴ります。

1、一舎三十里

古代中国における
人や軍隊の
移動速度の
目安となる
重要な指標として、

「一舎三十里」
という言葉が
あります。

軍隊は
1日に30里
移動しますよ、

という意味。

なお、

1里
周尺換算で
約324m。

1里=1800尺、
周尺≒18cm余。

30里
9.72km。
大体10km弱。

また、「一舎」は、

軍隊が1日宿営する、
という意味です。

因みに、

2泊で「信」、
3泊以上で「次」。

『春秋左氏伝』
(以下、『左伝』)
荘公3年
(前691)
の伝より。

また、

この言葉―
「一舎、三十里」
自体は、

『春秋経伝集解』
僖公28年
(前632)の
記述についての
杜預の注釈。

とはいえ、

こうした理解が
どの時代まで
通用したか
については、

サイト制作者の
浅学にして
分かりかねます。

個人的な
感覚としては、

早々変わっていない
ような気も
しますが。

2、道のりと
拠点の関係

2-1、
『周礼』地官の説く
概念

ですが、

当然ながら、

その概念は
さらに古いもので、

恐らく
西周時代には
存在します。

『周礼』
地官・遣人には、

道路の概念として、

以下のような件が
あります。

(『維基文庫』版を
句読点のみ改編。)

凡國野之道
十里有廬、
廬有飲食。
三十里有宿、
宿有路室、
路室有委。
五十里有市、
市有候館、
候館有積。

國野:当時の
国内の区分。
かなり大雑把に
言えば、
身分の高い国人が
住む城郭(國)と、
身分の低い
野人が住む
郊外(野)に
分けられる。
里:周尺で
1里=約324m
周尺=18cm余。
1里=1800尺
廬:粗末な小屋、庵
宿:街道にある
官営の宿泊所
路室:客舎・客室
委:役所の穀物倉庫
市:市街地
候:歩哨所
積:穀物の貯え

(書き下し文は手製)

おおよそ
國(国)野の道は、
十里にして
廬あり、
廬に飲食あり。
三十里にして
宿あり、
宿は路室あり。
路室に委あり。
五十里にして市あり、
市に候館あり、
候館に積あり。

文面を
図解すると
以下。

『周礼』地官、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』、林巳奈夫『中国古代の生活史』等より作成

『周礼』地官、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』、林巳奈夫『中国古代の生活史』等より作成。

また、
大意は以下。

10里ごとに
家屋があって
飲食が出来、
30里ごとに
食糧倉庫付きの
宿泊所があります。

さらに、

50里ごとに
市場があり、
その規模の
居住地には、
歩哨所と
食糧の備蓄が
あります。

―という旨。

食糧の備蓄は
道路修繕の際の
人足用でして、

何だか、

江戸時代の
伝馬制度を
連想させるものが
あります。

2-2、
拠点アレコレ

因みに、

『周礼注疏』
巻十三
―漢代や唐代の
『周礼』の注釈
によれば、

鄭玄
「廬」について、

若今野候、
徙有庌也。

徙:場所や位置を
変える。
庌:客間

今の野候の
ごとくして
徙(うつ)りて
庌(が)あり。

と、しています。

要は、
野外の歩哨所。

場所によっては
客間がある、

という旨。

【雑談】
盧の定義を妄想する

余談ながら、

「盧」は、

個人的に
思い当たるのは、
孔明出盧の「盧」。

城内―市街地であれ
郊外の村落や
開発地主の
豪族の居館であれ、

防禦設備のある
場所に住むのが
中国むかし話な
常識の世間で、

孔明が
山里の庵で
ホントに
晴耕雨読していた
とすれば、

夢のある
格好いい話だと
思いますワ。

武侠モノ宜しく、

少人数で
盗賊と
対峙したことに
なる訳でして。

してみれば、
広義の「盧」は、

今の感覚で言えば、

市街地に
立地する
築50年だかで
剥き出しの階段が
抜けそうな
アパートなんかも
含むのかも
しれません。

【雑談・了】

さて、

この「盧」は、

役人による
法令の布告や説教も
行われまして、

謂わば、
今で言うところの
公民館や集会所。

また、
「候館」については、

樓可以觀望者也。

樓(楼)は
觀(観望)をもって
すべきものなり。

高所から
見張る人員
いますよ、

という旨。

因みに、
サイト制作者は、

先述の
孔明の話も
さながら、

以上の
いずれの拠点も
集落の中にあった
考えています。

さらに、

「候館」の
については、

漢代の
市場の構造
参考になろうかと
思います。

具体的には、
以下。

まず、

市場となる
長方形あるいは
正方形の土地を
塀で覆います。

次いで、

縦横各々の中心に
門を建てて道を通し、

その十字路の中心に、

監視や開閉の合図、
人員駐在等の
多目的な楼

つまり、
を建てます。

西周時代と漢代で
市場の構造が
変わっていなければ、

「候館」の楼は、

市場の中心にある
監視塔めいた施設
なのかも
しれません。

この辺りの
城郭や市場の話は、

故・林巳奈夫先生の
『中国古代の
生活史』

あるいは、
故・愛宕元先生の
『中国の城郭都市』
等が詳しく。

さて、

ここで
原文と注釈の内容を
整理すると、

10里ごとに
歩哨所と客間のある
拠点が存在する。

30里ごとに
穀物倉庫と
宿泊施設がある。

50里ごとに
市街地があり、

そこには、

楼付きの
歩哨所と
穀物の備蓄がある。

―漢代の
県の治所のように、

高い城壁や
備蓄の前提となる
食糧倉庫が
あったのでしょう。

【雑談】
漢代の亭のイメージ

以上の
春秋時代の
「廬」、「宿」、
そして「市」。

一見、

今日に
見られるような

街道沿いの
ありふれた風景に
見えるものの、

実は、

拠点ごとに
軍事や行政が
密接に絡むことで、

今日の日本では
中々、

概念が
イメージしにくい
かと思います。

その理由として、

春秋時代当時、

合法的な
遠距離移動が
可能な人間が、

身分の高い人間や
商人、軍隊等に
限られていたことに
起因するかと
思います。

さらに、

後世の識者
これら拠点に対して
注釈する際、

亭を
かなり意識している
ことで、

ここで、

その「亭」の
概念について
少々綴ります。

まず、定義ですが、

実は、
屋根付きの家屋、

という以外は、

定義めいたものは
かなり広範です。

例えば、

『周礼注疏』
巻十三にて、

鄭玄や賈公彦
その辺りについて
色々と
書いていまして、

それらを含めて、

大雑把に言えば
以下。

実態としては、

食堂や宿泊所は
おろか、

集会所、警察署、
倉庫や歩哨所と

それこそ
何でも御座れ。

また、

『漢書』
百官公卿表の
「十里一亭」
宜しく、

どうも
方々の村々に
点在している模様。

今で言えば、

村に唯一ある
交番やら
食堂やらが
集中している
場所。

郊外の集落の
あるあるかと
思います。

とはいえ、

この「亭」
については、

場所によっては
アレがなかったり
ソレがなかったりか、

とも思いますが。

また、

規模が大きいもの
なれば、

防禦施設があって
軍隊が
駐留出来たりします。

実際、

後漢時代の
羌族の反乱や
三国志の戦いでも、

倉亭や
街(泉)亭等のように
戦場の係争点にも
なっています。

さらに
史料によっては、

時代の変遷の過程で
城(=集落)にも
亭にも
なっているところが
ありまして、

その辺りの定義も
結構曖昧なのかも
しれません。

それはさておき。

要は、

昔は、
「廬」、「宿」、
「市」と、

機能に応じて
個々の名称が
あったものが、

時代が下って
「廬」、「宿」は
一緒くたに
「亭」になり、

さらに
広範なもの
―軍事拠点や
集落そのものを
示すこととなった、

という御話か。

一方で、

道路上の
拠点配置の
考え方自体は、

少なくとも
漢代辺りまでは、

西周時代と
あまり
変わっていないの
かもしれません。

次いでながら、

詳細な
実態については、

先行研究も
数多あることで、

興味のある方は、
以下のサイトから、

「漢代、亭」等の
キーワード
当たられたく。

国立情報学研究所
論文検索エンジン。
ttps://cir.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」)

【雑談・了】

3、「一舎」と
重耳の原包囲

上記のように、

実態はともかく
概念としては、

十里ごとに廬、
三十里ごとに宿、
五十里ごとに市
建てられる、

という
道のりと拠点の
関係の中で、

「一舎、三十里」―
人様の足で
一日に30里
進めますよ、

という話が
浮彫になる
訳ですが、

ここでは、

『左伝』より
その解釈例について
考えます。

まずは、

用例として
有名なのは、

僖公25年冬の
(前635)
晋の文公・
重耳の逸話。

以下、大意をば。

周王を都に戻した
重耳は、

王の御墨付きを得た
南陽攻略の
一環として、

原を
包囲するのですが、
(現・河南省済源市、
恐らく同市の
すぐ北の原昌村)

自分が用意させた
3日分の食糧が
潰えました。

とはいえ、

原の城内から戻った
晋の密偵は、

城内の降伏は
間近であると
報告します。

当然、

重耳の周囲の
軍吏は、

包囲の継続を
具申します。

ところが、重耳は、
味方への約束を
守り、

撤退を決断します。

曰く、
「信、国之宝也。」
信、国の宝なり。

そして、晋が
一舎後退したところ、

驚くなかれ、
その原が
降伏しまたとさ。

メデタシ、メデタシ、

―という御話。

因みに、

一舎という
遠さですが、

当時の
軍隊の感覚で
言えば、

包囲軍が
城壁から
これ位遠ざかると、

城下から
見えなくなる
―誰の目にも
退却が確認出来る、

という
程度かしらん。

参考までに、

当時の斉の
臨湽(りんし)
のような
巨大都市ですら、

半径で
これより
狭いのが実情。

―で、
肝心の
話の骨子ですが、

要は、

目先の利益を
優先するよりも、

それを
犠牲にしてでも
味方への信義を
守る方が、

長い目で見れば
自身の利益に
なりますよ、

ということを
説く訳です。

そして、

相手の降伏の
トリガーとなったのが、

一舎退くという行為。

さらには、

後の時代には
政治の教訓となった
模様。

何だか、
こういうのは、

むこうの
あるあるな教訓話、

という気が
しないでもないの
ですが、

それはともかく、

『國語』や『韓非子』
『呂氏春秋』等にも、

包囲の日数が
異なる等の
大同小異な御話
あります。

4、孟門は何処
4-1、原近郊の今昔

今回の記事は
距離感覚の話につき、

この界隈の
地理について
少し踏み込んで
考えてみましょう。

まずは、
地図で確認します。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、等の内容を踏まえて作成。

まず、
起点となる原は、

先述のように
河南省済源市
すぐ北。

市の中心地から
10kmを
切っています。

また、秦代以降、

現在の済源市の
市街地に
この界隈の
県レベルの
歴代の治所が
あったのですが、

その狭い地域内で、
移転しています。

例えば、

宋代の
『太平寰宇記』
(たいへいかんうき)
巻五十二
によれば、以下。

有故城在縣北二里。
軹縣故城(中略)
在今縣東南十三里。

故城ありて
縣(県)北二里にあり。
軹縣(しけん)故城
(中略)
今縣東南十三里
にあり。

捕捉すれば、

秦から隋初までの
現・済源市の辺りの
治所が、

その軹県。

その後、

隋唐時代に
狭い域内で
南北を往復し、

最終的には、

軹県故城より
北西10km弱の
地点に
収まります。

さらには、

清代の
『讀史方與紀要』
(どくし
ほうよきよう)
巻四十九の
「済源縣(県)」
件には、以下。

原城、在西北十五里。
(中略)今名原郷。

原城は、
西北十五里にあり。
(中略)
今原郷を名とす。

要は、

早〇田大学、
ではなく、

原は市街地の
西北にあり、

歴代の治所からの
道のりも、
大体変わりません。

尺の違いも、
特に唐代以降は
微々たるもの。

また、
済源市のすぐ北は、

少し行けば
太行山脈南端の
山岳地帯でして、

市街地と山の間
位置し、

史料の内容に沿う
唯一の集落が、
現・原昌村。

百度検索さん
・原昌村
ttps://baike.baidu.com/item/%E5%8E%9F%E6%98%8C%E6%9D%91/1111135?fr=ge_ala
(一文字目に「h」)

サイト制作者は、
原の位置については
これでFAとしたく。

察するに、

清代辺りまでは、

済源市の市街地の
狭い域内に
ふたつの城郭が
存在したのかも
しれません。

4-2、
原と孟門の関係

さて、

『國語』晋語四・
文公伐原には、

以下のような
文言があります。

及孟門、而原請降。

孟門に及び、
原は降るを請う。

晋軍
包囲を止めて
孟門に到達した時、

原は、
投降を打診した由。

さらに注釈には、

孟門は「原地」
原の土地―

要は、

原の領土、

あるいは
その近辺に
位置する、か?

と、あります。

つまり、

『國語』の
注釈によれば、

晋が原より退いて
駐屯した孟門は、

原より一舎程度の
位置にある、

ということに
なります。

と、なれば、

済源市の界隈で
孟門の
正確な位置が
割り出せれば、

一舎の実例として
実に興味深いもの。

ところが、
そうは
問屋が卸しません。

考えられる線が
三つあるのですが、

サイト制作者
としては、

決め手に欠ける
言いますか。

以下、その御話を。

4-3、原から近い
孟塗国

ひとつ目は、

先述の
『左伝』と『國語』の
双方の内容に合致する
場所、

つまり、

原から一舎=
半径10km程度の
地点の中で、

サイト制作者が
有り得ると
考える場所として、

原から
南東に位置する、

現・河南省孟州市
挙げます。

地図で
場所を確認します。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、等の内容を踏まえて作成

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、等の内容を踏まえて作成。

赤字が旧地名、
青字が現在の地名。

まあその、
厳密には、

黄河の沿岸まで
となると、

20km程度に
なるのですが、

市街地から見て
原寄りの地点と
考えれば、

大体、
一舎程度の道のりに
収まろうかとも
思います。

さて、

ここは、
夏王朝御墨付きの
孟塗氏の封国で、

「孟地」と呼ばれ、
孟氏の起源となる
場所のひとつ
だそうな。

『三国志』の時代の
黄河の渡し場の
孟津の方が
イメージし易い
かしらん。

Baidu百科さん
「孟涂氏国」
ttps://baike.baidu.com/item/%E5%AD%9F%E6%B6%82%E6%B0%8F%E5%9B%BD/4634623

ただし、

歴代の
目ぼしい地理書
いくつか
目を通した限りでは、

この辺りの記述から
「孟門」という地名を
見付けることは
出来ませんでした。

仮に、

『國語』の
「原地」という注釈が
『左伝』の「一舎」に
合わせただけの
記述であれば、

困ったなあ、と。

―まあその、
書いていないことを
確認するのに
時間が掛かったの
ですが、
サイト制作者の
確認不足であれば
どうしようとも
思います。

4-4、
その他の「孟門」

この「孟門」、
同地名が
複数個所存在する
という、

古今東西を
問わない
地名あるある
なのでしょう。

サイト制作者が
知る限りでも、

有名な場所で
少なくとも
2箇所あります。

仮に、

重耳が
原の降伏を知った
孟門が、

この2箇所の
いずれかであれば、

サイト制作者が
事の実相ではないかと
想像する展開は、以下。

故事とは異なり、

原の降伏の決断には
かなりの日数
(原から孟門までの
道のり分の日数)
を要した。

ところが、

重耳の行為が、

一舎退いて
相手の降伏を促す
というかたちで、

殆ど歳月を経ずして
儀礼化した。

そして、

『左伝』が
そうした
儀礼化された伝承を
いくつか拾う過程で、

原攻撃の際の
小田原評定が
一舎に化けた―。

断っておきますが、

あくまで
サイト制作者の想像、

というよりも、

妄想の類の
御話につき。

まずは、
地図で確認します。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、等の内容を踏まえて作成

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、等の内容を踏まえて作成。

ひとつ目は、

『水経注』巻四・
「又南過
河東北屈縣西」
の頭にあるように、

現・山西省臨汾市
吉県の西端。

原からは
220km程西北
位置します。

もうひとつは、

河南省輝県市から
西に20km程
位置する、

太行山脈南部の
険しい山道。

原からは
80km弱。

要は、

山西省にせよ
河南省にせよ、
双方共、

到底、

原から一舎で
踏破可能な
道のりでは
ありません。

4-5、
太行山脈の孟門

まずは、

輝県市付近
孟門について
見てみましょう。

地図は以下。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、等の内容を踏まえて作成。

例えば、

『左伝』
襄公23年
(前550)
にあるのは、

斉が晋に
攻め込む過程で
通過した場所です。

杜預の注に、
以下。

孟門、
晋隘道。
大行山在
河内郡北。

孟門は、
晋の隘道なり。
大行山は
河内郡北にあり。

三国時代の
河内郡は、

現在の洛陽市の
北から北東。

大体、
ほぼ原と
位置を同じくする
河南省済源市から
同省鶴壁市までの
地域です。

一方で、

という視点で
観ると、

成程、

孟氏の地盤と孟門は
無関係でも
なさそうで。

Baidu百科さん
「孟姓」
ttps://baike.baidu.com/item/%E5%AD%9F%E5%A7%93/616313?fr=ge_ala
(一文字目に「h」)

春秋時代以前の
孟氏の地盤は、

魯や衛、
―現在の
山東省済寧市や
河南省安陽市の
辺り、

ということに
なります。

要は、
太行山脈の孟門に
近い訳です。

当てずっぽうな
ことを言えば、

先述の如く
遥か昔には
洛陽の北に
あった地盤が、

千年も
時代が下る過程で、

枝分かれしたか、

あるいは
その辺りに
移っていたのかも
しれません。

4-6、
山西省の孟門

サイト制作者
としては、

時系列的に考えれば、

太行山脈よりも
まだ可能性が
高そうなのが、

臨汾市吉県西端の
孟門。

また、

サイト制作者の
想像ですが、

仮に、

孟門という地名が
洛陽近辺の
黄河北岸に
あったとして、

『國語』のような
方々の地方のことを
記した書き物が、

地元の人間しか
知らなそうな
有名箇所と
紛らわしい地名を
態々出すのも、

何処か
不自然に思えます。

そこで、
これまでと
見方を変えて、

当時の晋の動向
抑えておきます。

まずは、

僖公25年の
下半期から
翌年の上半期の
動向ですが、

まず、同年秋、

秦と晋で
鄀(じゃく)を
攻めました。

原を囲んだのは
その少し後の冬。

因みに、

鄀の国邑の
商密は、

洛陽より
南に200km程
位置します。

荊州時代の孔明が
在居したという
説のある
河南省南陽市は、

ここより少し西。

つまり、
流れを整理すると、

商密から北上して
原を降して
本国・絳に
帰還した、

という経路。

晋はその後、

翌年と翌々年
国内の戦力整備
充てています。

左丘明曰く、

これが
晋楚決戦で有名な
城濮の戦いの
勝因だそうな。

で、肝心の
原から
首都・絳への
帰還の経路ですが、

まずは、
地図で確認します。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、等の内容を踏まえて作成

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、左丘明『春秋左氏伝』等の内容を踏まえて作成。

距離こそ
近いものの、

太行山脈が
障壁になり、

北西に
ダイレクトに
進めません。

そこで、

当時の
最短経路として
サイト制作者が
想定するのは以下。

地図で確認します。

周から崤を経て
焦に抜け、

焦の茅津から
黄河(河水)を渡り、

廟邑のある
曲沃を経て、

凍川沿いに
絳に向かいます。

因みに、晋は、

この少し前の
前655年に、

焦の界隈が勢力圏の
虢(かく)を
滅ぼしています。

したがって、

河曲(風陵渡)なり
大禹渡(だいうと)
なり、

ここより西の
渡河点まで
迂回する必要が
ありません。

ところが、

そのように
考えると、

サイト制作者
としては、

山西省の孟門を
経由するとなると、

西北への
オーバー・ラン
強いられる点が
腑に落ちません。

ここが、

ここの「孟門」の
コレジャナイ感が
拭えない部分。

以上のような
次第で、

サイト制作者
としては、

現段階では、

重耳が
原降伏の報に接した
「孟門」の位置を
特定しかねて
います。

5、一舎後退の用例

続いて、

一舎後退により
相手の降伏を促す、

という行為の用例
見てみましょう。

管見の限りでは、

先述の
重耳の原包囲
以外では、

『左伝』
宣公12年と
同15年の二例。

ひとつ目は、

宣公12年の
(前597)
楚の鄭包囲の
最終局面で、

該当箇所の
原文は以下。

退三十里、
而許之平。

平:講話する

三十里退き、
これを許して
平(たいら)ぐ。

「之」は、
当時の鄭の国君の
謙虚な姿勢や
統治の安定感。

当時の
価値観からすれば、

姫姓の国
(同じ周王室)
の滅国への忌諱と、

割合
纏まっている国を
強引に併合して
統治に骨を折る
よりも、

相手の顔を立てて
属国にした方が
得策だという
深謀遠慮でしょう。

次いで、

『左伝』
宣公15年の伝
(前594)
以下。

これもの話で、
宋の国邑を
包囲した折の
御話。

去我三十里、
唯命是聴

我を三十里去れば、
命により
聴くを是とす。

因みに、
『春秋経典集解』
では、

「聴」が
「听」(わらう)に
なっていて
やや分かりにくい
のですが、

態度を軟化させる、
といった意味か。

攻撃側の
一舎後退で
話が纏まる背景には、

攻撃側、守備側の
双方が、
食糧不足
陥っていたという
事情があります。

前者と後者の
違いは、

彼我で水面下で
示し合わせたか否か。

【雑談】包囲下の停戦交渉

さて、
この楚の宋包囲、

包囲戦下における
交渉について
興味深い場面が
ありまして、

ここで、それに、
焦点を
当ててみます。

宋の重鎮の華元
楚の公子である
子反の遣り取り。

一方、
『公羊伝』では、

華元と子反の
会談は、

(いん、
寄せ手が築く
攻城用の築山
で行った模様。

ここで、
両人は各々、

互いを見込んで
自軍の窮状を
吐露し、

攻防戦の
落しどころ
探ります。

華元は一言、

「憊矣。」
憊(つか)るなり。

と呟き、

城内の惨状を
打ち明けます。

易子而食之、
析骸而炊之。

子を易(か)え
これを食らい、
骸(ほね)を析(さ)き
これを炊く。

王朝時代の中国の
籠城戦あるある中、

まさに最悪の
飢餓状態の描写。

せめて、
殺して喰うのは
他人の子を、と。

楚も楚で、
手持ちの食糧が少なく
後がありません。

で、以下のような
言い回しを引用し、

7日分の
食糧しかない旨を
打ち明けます。

吾聞之也。
圍者柑馬而秣之、
使肥者應客。

柑:穀物を
食べないように
馬の口に
木片を噛ませる。
秣:餌を与えて飼う。

吾(われ)
これを聞くなり。
圍(囲)者は
馬を柑(かん)じて
これを
秣(まぐさか)い、
肥者をして
客に應(応)ず。

内には
馬の食糧を節約し、

外には太った人を
軍使(行人)に立てる、

という、

見栄を張っての
痩せ我慢。

因みに、

当時の戦争に
おいても、

使者(行人)の
態度や表情等は、

敵軍の出方を
探るうえでの
重要な情報。

軍の中枢の
人間同士の
遣り取りにつき、

かなり
参考になる訳です。

例えば、

敵の使者が
自軍の要人を
正視しない時は
退却が近い、

という具合。

一方、
『左伝』には、

華元
子反の寝床に
夜中に乗り込む、

という一幕が
あります。

原文は以下。

夜入楚師、
登子反之床

夜:夜行する
師:軍隊

夜(よ)し
楚師に入る

これについて、

杜預が
興味深い注を
付けています。

引用すると、
以下。

因其郷人而用之、
必先知其守将左右、
謁者、守門者、
舎人之姓名、
因而利道之。

郷人:同郷人
謁者:賓客を取り次ぐ
役人。
舎人:時代によって
意味が異なるが、
ここでは
食客あるいは
事務系の側近か。

その郷人にして
これを用いるにより、
必ずまず
その守将左右、
謁者、守門者、
舎人の姓名を知り、
よって
これを
道(みち)するに
利す。

相手(子反)と
同郷の人間
(恐らくは、
相応の身分)
を雇うなり
抱き込むなりして

幕舎にいる
側近の名前を覚え、

潜入の際に
利活用する、

という御話。

さらに杜預は、

華元はその術を
心得ていることで
自ら乗り込んだ、

と、しています。

察するに、

楚の土地柄から
子反や側近の
性格や趣味まで
根掘り葉掘り
聞き出し、

贈答品を
事前に用意する
等して、

当該の幕舎に
単身で乗り込んでも
顔パスになる状態を
作り出しておく、

というようなこと
かしらん。

まあ、その、

杜預のこの種の
細かい説明自体が、

時代を問わない、
あるいは、

リアル三国志な
御話なのかも
しれません。

さて、
肝心の遣り取り
ですが、

城内の窮状の
件こそ
『公羊伝』と
変わらないものの、

宋側の姿勢
『公羊伝』の
記述に比べて
強硬です。

華元は、

宋の国君が
城下の盟だけは
受け容れることが
出来ない、

という旨を、

子反に伝えます。

で、

包囲戦の
落し処として
提示するのが、

例の、
楚の30里後退。

結果として、

楚の後退と
引き換えに、

宋の従属化、及び、

交渉に当たった
華元が
楚の人質になる
ことで、

両国の話し合いが
纏まります。

この辺りの話を
纏めると、

サイト制作者
としては、

築山
夜中の会談かの
どちらが史実かは
分かりませんが、

少なくとも
双方共、

当時の軍事上の
考証としては
有り得る話
捉えています。

【雑談・了】

6、孫武と百里を
走ってみよう

以上のように、

時には、

戦争における
最終局面の収拾という
大きな意味を持つ
「一舎、三十里」
ですが、

無理して
ピッチを上げれば
結果や如何。

『孫子』軍争によれば、
以下。

浅野裕一先生の
『孫子』より。
書き下し文も
同書より転載。
(維基文庫版と
多少異なるため
敢えて表記。)

巻甲而趨利、
日夜不處、
倍道兼行、
百里而爭利、
則擒三將軍。
勁者先、
疲者後、
則十一以至。
五十里而爭利、
則蹶上將、
法以半至。
三十里而爭利、
則三分之二至。

趨:早足で駆ける、
ある方向に赴く。
維基版では
「利」が
欠けているので、
両者を比較すると
正確な意味が
取りにくい。
里:=1800尺。
周尺18cm、
秦尺23.1cm。
春秋時代は
20cm程度という
研究もある。
三將軍:上軍・
中軍・下軍の将。
晋軍の編成等が
具体例。
蹶:ここでは、
戦死する。
(浅野先生の訳)

甲を巻きて
利に趨(はし)り、
日夜処(お)らず、
道を倍にして
兼行し、
百里にして
利を争わば、
則ち三将軍
擒(とりこ)に
せらる。
勁(つよ)き者は
先だち、
疲るる者は
後(おく)れ、
則ち十にして一
もって至る。
五十里にして
利を争わば、
則ち上将を
蹶(たお)し、
法は半をもって至る。
三十里にして
利を争わば、
則ち三分の二至る。

大意は以下。

鎧を巻いて担いで
昼夜兼行で
1日走るとして、

100里走ると
兵士の1割が着いて
三将軍全てが捕虜。
―玉砕ですね。

50里の場合、
先発の上軍の将
戦死して
兵士の半数が到着。

30里の場合、
3分の2が
無事に到着の由。

この場合、

馬鹿正直に
計算すれば、

3日で全員遅刻と
相成ります。

当然、孫武は
基本的には
こうした無理を
戒めています。

まあその、

サイト制作者の
感覚としては、

実走による検証
というよりは、

むこう特有の
レトリックで
脅かしている
ようにも
思えますが。

―と、言いますか、
これを「距離感覚」と
言い張ること自体に
無理がありそうな
気がせんでもなく。

以上、

『左伝』と『孫子』の
認識を整理すると、

1日30里―
10km程度の
行軍については、

歩けば
落伍者を出さずに
1日30里
進むことが出来、

装備を担いで走れば
3分の1が落伍する、

ということが
最大公約数かと
思います。

【雑談】
前近代の交通事情を
妄想する

歩けば1日10km、
これを走れば
3割余の落伍。

現代の感覚で言えば、

小学生の
遠足以下のペース
となります。

そのうえ、

50里であれ
100里であれ、

各々周尺換算で、

ハーフ・マラソン、
フル・マラソンの
距離も
満たしません。

行軍とマラソンを
一緒くたにするのも
オカシナ話ですが。

しかしながら、

当時の交通事情
少し考えると、

垣間見える部分も
少なからず
ありまして。

まずは、
履物ですが、

庶民が
草鞋を履く時代。

堅牢な靴も、

末端の兵士に
どの程度
支給されていたかは
分かりかねますが、

戦国時代から
漢代辺りまでの
出土品を見る限り、

現代の
運動靴ような
性能は
期待出来ません。

さらに、

靴下の普及は
後漢・三国時代と
来ます。

これも、
エラい人の御話。

―これら
履物の事情に
ついては、

例えば、

駱崇騏先生の
『中国歴代鞋履』
参照されたく。

そのうえ、

悪路や悪天候
行軍の大きな障害と
なります。

春秋時代においても、

例えば
『左伝』には、

やれ
泥で車輪を取られた、
長雨で
凍死者を出した、

といった描写があり、

この種の
地形や天候に
起因する
交通障害の事例は、

歴代の地理書に
おいても
枚挙に
暇がありません。

四六時中
馳道や直道のような
専用の軍道を
進むような塩梅では
行きませんで。

かなり
極端な話をすれば、

崤の戦い
秦が通って
エライ目に遭った
金銀山の南側の
急峻な山道なんぞ、

何と、
民国時代まで
使われていたそうな。

道の両側に
崖が切り立ち、

風雨で
鐘や太鼓の音が
聞えないという
場所でして、

現在は
風力発電用の
パネルが
立っています。

因みに、
そのン十年後には、

ここらを
高架の高速だの
山岳地帯をブチ抜く
トンネルだのが
通ります。

したがって、

その辺りの
現代目線で
不便な事情も、

軍隊の行軍速度に
反映されているの
ではないかと
想像します。

余談ながら、

ネットで
少しばかり
検索を掛けると、

1970年代頃の
軍隊の行軍速度は、
1日30km弱
だそうな。
(西側と思いますが)

当時の
3倍弱の速度!

参考まで。

【雑談・了】

おわりに

そろそろ、
今回の記事の内容を
整理します。

これまで
原文を紹介した
「三十里」について、

『周礼』・『左伝』・
『孫子』の
当該箇所の内容を
整理すると、

以下のような
図になろうかと
思います。

『周礼』地官、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』、左丘明『春秋左氏伝』、杜預『春秋経典集解』、孫武『孫子』、小倉芳彦『春秋左氏伝』各巻、浅野裕一『孫武』等、より作成。

史料の文言は
実態というよりは
モデル・ケースだと
思いますが、

事例となる
史料の文言を
増やして
補強していきたいと
思います。

それでは、
これを受けて、

以下に、
要点を整理します。

1、徒歩による
1日の移動速度は、
30里≒
約10km。
(周尺換算)

2、『周礼』地官
によれば、

道路の10里ごとに
集落があり、

最末端の集落には
来客用の家屋
「盧」が存在する。

3、さらには、

30里ごとに
官営の宿泊所
「宿」、

50里ごとに
常設の市場
「市」があり、

宿泊所や市場は、
食糧倉庫や
監視用の塔等を
有する。

4、包囲戦下の
攻囲軍の
30里の後退は、

城下の盟を
避けるかたちでの
戦闘終結の意味も
あった。

5、晋の原包囲
について、

晋が転進した
孟門の位置は、

サイト制作者
としては
現段階で不明。

6、『孫子』軍争
によれば、

鎧を担いで
昼夜兼行で走れば、

30里で3割余、
50里で半数、
100里で9割の
兵士が落伍する、

と説く。

7、1、と6、の
内容を照合すれば、

「一舎、三十里」は、

歩兵が歩いた場合に
成立する話か。

【主要参考文献】
(敬称略)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』(国学導航)
左丘明・小倉芳彦訳
『春秋左氏伝』各巻
杜預『春秋経伝集解』
『春秋穀梁伝』
(維基文庫)
『春秋公羊伝』
(維基文庫)
酈道元『水経注』
(維基文庫)
顧祖禹
『讀史方與紀要』
(維基文庫)
『太平寰宇記』
(維基文庫)
浅野裕一『孫子』
『國語』(維基文庫)
譚其驤
『中国歴史地図集』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』

【追記】

自身の悪い浮気癖が
出てしまいました。

崤の戦いについて
綴るに当たり、

晋秦両国の
軍隊の動きを
推測するための
指標として、

上記の事象について
腰を落として
調べたいと
思った次第です。

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「攻國」と崤の戦い・その1

7000字弱。
章立てを付けます。

興味のある
部分だけでも
御笑読頂ければ
幸いです。

はじめに
1、寄せ手の負荷と
崤の戦い
2、遠征反対の諫言
3、蹇叔の逸話
【雑談・年齢の話】
4、出征時の悶着
5、名言の裏事情
6、幽霊様の軍略
7、遠征の背景
7-1、
晋秦の亀裂
7-2、
東方を占領せよ
おわりに

はじめに

今回も、
主に地理の御話です。

1、寄せ手の負荷と
崤の戦い

『周礼』「考工記」
廬人為廬器の中で、

次のような件が
あります。

故攻國之兵欲短、
守國之兵欲長
攻國之人衆、行地遠、
食飲饑

且涉山林之阻、
是故兵欲短
守国之人寡、食飲飽、
行地不遠

且不涉山林之阻、
是故兵欲長

衆:多い
饑:飢える
寡:少ない
阻:険しい場所

故に攻国の兵は
短きを欲し、
守国の兵は
長きを欲す。
攻国の人は衆にして、
地を行くに遠く、
食飲に饑す。

かつ山林の阻を渉り、
これ故兵は短きを欲す。
守国の人は寡にして、
食飲に飽き、
地を行くに遠からず。

かつ山林之阻を渉らず、
これ故兵は長きを欲す。

国を攻めるには、

取り回しの良い武器と
大人数の兵士と
大量の食糧を必要とし、

オマケに
険しい地形を
踏破する必要がある、

という、

今日日の某所の
痛ましい大戦争でも
何処か
通用しているように
見受ける
一般論。

2、遠征反対の諫言

この文言について、

サイト制作者の
感覚に過ぎませんが、

この件の実例
どうも
近そうな話として、

『春秋左氏伝』
(以下『左伝』)は、

僖公33
(前627)年の
崤の戦いの
前年における、

秦の大夫・
蹇叔(けんしゅく)
予言が、

それに当たると
思いました。

秦の穆公
同盟国の晋に内緒で
鄭を攻め取ることを
企てまして、

今回の主役の
蹇叔その中止
具申する訳です。

その際、
蹇叔は、

タダでさえ
目的地が遠いうえに、

敵国の晋は、
必ず、

険峻な
(河南省三門峡市の
南を東西に広がる
山岳地帯)
―北嶺と南嶺の間の
山道に
迎撃に出て来る
言います。

以下に、
当該箇所の原文を
引用します。

労師以襲遠、
非所聞也。
師労力竭、
遠主備之、
無乃不可。
師之所為、
鄭必知之。
勤而無所、
必有悖心。
且行千里、
其誰不知。

労:疲弊する
竭:出し尽くす
悖:背く、外れる

『春秋穀梁伝』の
当該の箇所には、
「虚國(国)に
入りても、
進みて守るあたわず、
その師
徒(いたずら)に退敗し、
人に子女の教えを
亂(乱)し、
男女の別なし。」
とある。
これを受けてか、
『春秋経典集解』は
「悖」について、
「まさに
良善を害す」と
注釈する。
要は軍紀の弛緩か。

労師をもって
遠を襲うは、
聞くところに
あらざるなり。
師は労して
力竭(つ)き、
遠主はこれに備え、
無にしてすなわち
可ならず。
師のなす所は、
鄭必ずこれを知る。
勤んで
無きところに、
必ず悖(はい)心あり。
且千里を行くに、
其を誰か知らざる。

要は、

目的地が
遠過ぎることで、

軍隊が疲弊する
のみならず、

相手に気取られて
備えられる、

という訳です。

地図で
策源地と目的地
確認すると、以下。

譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻の河川の位置・名称をベースに、杜預『春秋経伝集解』等の内容を踏まえて作成。

秦の国邑の
(現・陝西省
宝鶏市鳳翔区)から、

鄭の国邑の
(現・河南省
新鄭市)までの
直線距離は、
約600キロ。

周尺は約18cmで、
1里=1800尺
≒324m。

比喩に突っ込むのも
何ですが、

馬鹿正直に
数えると、

文字通りの千里行、
それどころか、
倍近くの
遠さになりますね。

3、蹇叔の逸話

さて、

国君・穆公に
耳の痛い諫言を
呈した
この蹇叔ですが、

『史記』秦本紀
当人について
多少記述があります。

この一件から
遡ること
30年弱の
穆公5年のこと。
(前655)

が有能で評判な
百里傒(けい)を
要職(五穀大夫)への
抜擢を試みた折、

当人は既に齢70を
超えており、

代わりに推したのが
この蹇叔。

若い頃に
仕官先を求めて
諸国を放浪した際、

何でも
その蹇叔より、

方々で、

あそこの国は
採る気がなかったり
面倒事が多かったり
するので
止めておけ、

といった
忠告を受けたことで、

難を逃れた
殺されずに済んだ
そうな。

この御仁、要は、

外国事情に明るく
目先が効く、

ということ
なのでしょう。

とはいえ、

その百里傒の
秦の前の仕官先は、

晋に道を貸して
同盟国の虢(かく)
共々滅んだ
虞(ぐ)と来ます。

―苦労人ですワ。

4、出征時の悶着

さて、

こうした
推薦書付きの
硬骨漢の諫言を
ものともしない
秦・穆公は、

孟明・西乞(きつ)
・白乙(いつ)の
三将と、

少なくとも
300両の戦車
雍より鄭に向けて
進発させます。

標準の編成で
大体2、3万
程度の兵力か。

『史記』
「秦本記」の内容を
西暦に換算すれば、

時に、
前627年春のこと。

蹇叔は
軍の出征を
見送るのですが、

その際、

「これを哭して」
総司令官の孟明に
帰還には
立ち会えそうにない、
―生きては帰れない、

と、出征前の軍中で
不吉なことを
言う訳です。

当然、
怒った穆公は、

勤続30年の
蹇叔に対して、

使者を介して
ジジイ呼ばわり
します。

臣下や将兵の手前、

こういう行為が
捨て置けぬ
という事情も
あるのでしょう。

【雑談・年齢の話】

穆公や蹇叔等の
年齢を
推測するに
当たって、

イロイロと
思うところ
ありまして、

その辺りを少々。

まずは、

先述の穆公の
蹇叔を
ジジイ呼ばわりした
暴言を、

一応、原文で
声に出して
読んでみましょう。

中寿、
尓墓之木拱矣。

中寿にして、
なんじが墓の木は
拱(きょう)する
なり。

中寿:ここでは、
小倉芳彦先生は、
6、70とする。
当時の蹇叔の
年齢か。
中寿は、長寿の
三段階中の中位。
上寿・中寿・下寿
が存在する。
具体的な年齢は
諸説あり、
各々の階層ごとに
10~20歳
程度の間隔がある。
さらに、最大で、
100歳を
上寿とする
史料もある。
拱:一抱えある様。
もしくは、
両手を胸の前で
重ね合わせて
敬意を表す。
杜預によれば、
「手を合わせるを
拱と曰う。」

因みに、
小倉芳彦先生は、

岩波文庫の
訳書にて、

この部分を
以下のように
訳されています。

中寿で
死んでくれて
いたら、

汝(なんじ)の墓に
植えた樹は
もう一抱えほどに
なっているぞ。

成程、

原文の文法に
忠実な
綺麗な訳だと
思います。

ただ、
サイト制作者は、

コレについて、

原文自体の
言い回しとして、

どうも
不自然なものを
感じます。

大胆なことを
言えば、

恐らくは、

「(我)
拱尓墓之木矣。」

なんじが墓の木を
拱するなり。

と書くべき
原文の誤記かと
思います。

そうであれば、

くたばったら
貴様の墓標を
拝んでやる、

程度の意味では
解釈出来るかと
思います。

もっとも、

誤記の有無を
抜きにしても、

老人呼ばわりして
罵倒することに
変わりは
ありませんで、

古人暴言録の
頁を彩る訳ですね。

恐らく
試験には
出ませんわナ。

受験生の皆様、
安心されたし。

まあその、

当ブログでは、
残念ながら、
漢文読解の足しには
ならんと思いますが。

―それはともかく、

人を
ジジイ呼ばわりした
穆公の年齢を
推測するに当たって、

『史記』「秦本記」
内容を整理すると、
以下。

穆公の父の徳公
33歳で国君となり
在位僅か2年、
35歳で死去。

徳公には
子が3名おり、
各々が年齢順に
即位しまして、

その期間は、

長男の宣公は12年、
次男の成公は4年、

そして三男の穆公は
何と39年。

で、先述の、
墓がどうたらの
一件は、

何と、
在位32年目
イベント。

察するに、

穆公も穆公で
結構な年齢に
見受けます。

極端な話、

先代の徳公が
息子の穆公を
20歳で孕ませた
としても、

齢50越え
という勘定に
なります。

要は、
大体同世代の
老人に対する罵倒。

さて、

年齢関係で
どうも
整合性の
付かない話が
もうひとつ。

先述の、

蹇叔が
穆公を諫めた
場面では、

実は、

もうひとり
居合わせた人物
いる模様。

『史記』「秦本記」
によれば、

穆公を諫めたのは
蹇叔と百里傒
なっています。

一方、

『公羊伝』や
『穀梁伝』は、
これを「百里子」
しています。

倭人の
「ゆりこ」では
ありません。

サイト制作者は、

さすがに
「秦本記」は誤記で、
(齢90越えと
なります)

あるいは、

「百里」は氏姓で
百里傒の血縁者
かしらん、

と、見ていますが、

憶測の域を出ません。

【雑談・了】

5、名言の裏事情

さて、

良かれと思い
諫言したところ
主君・穆公に
キレられた
蹇叔ですが、

スネて、ではなく、
哭して曰く。

―実は、以下が、

歴代の地理書に
引用される
名言となります。

晋人禦師必于崤。
崤有二陵焉
・・(ママ)
其南陵、
夏后皋之墓也、
其北陵、
文王之所辟風雨也。
必死是間、
余収尓骨焉。

禦:防ぐ
于:赴く
崤:崤山山脈
陵:大きな丘、山頂
夏后皋:殷の紂王の
祖父
文王:周の文王
辟:かわす、逃れる
尓:あなた。
ここでは蹇叔の息子。
引用箇所の前文に
「蹇叔の子、
師に与(くみ)し、
哭してこれを
送り」と、ある。

晋人は師を禦ぐに
必ず崤に于(ゆ)く。
崤には二陵有るなり。
・・(ママ)
その南陵は、
夏后皋の墓なり、
その北陵は、
文王の
風雨を辟(く)
ところなり。
必ずこの間に死し、
余は
尓(なんじ)が骨を
収むるなり。

の界隈には
南北に
ふたつの頂きがあり、

友軍は
その間の地点で
秦に敗れる、

と言う訳です。

「二陵」の
場所や性格を
示唆している
貴重な部分。

そして、恐らくは、

大体の地形は、

現在も、
当時とは
それ程
変わっていない
印象を受けます。

一応、
現地の地図を
以下に。

過去の記事で
使ったものの
再掲です。

辛徳勇『崤山古道瑣征』、杜預『春秋経伝集解』、グーグル・マップ、百度地図、中国の方々のサイトさん等の内容を照合して作成。

この辺りの地理の
細かい話は
また後日。
悪しからず。

そして、

唐突に出て来る
原文中の「尓」
というのは、

事もあろうに、

この遠征に従軍する
蹇叔の息子と来ます。

稚拙な作戦で
我が子を
殺されかねないので
シャレにならん
訳です。

察するに、

レトリックとしても、

我が子の死を
予言する体の
痛ましいものにつき、

後世に残る言葉と
なったのかも
しれません。

因みに、

『穀梁伝』や
『公羊伝』、
『史記』「秦本紀」
といった
他の史料等も、

この辺りの内容は
大同小異。

そのうえ、

秦にとって
悪いことに、

同年冬の
晋・重耳の葬式の折、

の上層部は
この秦の秘密裡の
領土侵犯を
把握します。

『史記』秦本紀の
解釈を採れば、

既に、

秦の出征前の段階で
露見したことに
なります。

6、幽霊様の軍略

事が漏れる過程が
怪談めいて
オモシロいので、
以下に少々。

『左伝』
僖公32年の件の
原文は以下。

冬、晋文公卒。
庚辰、将殯于曲沃、
出絳、柩有声如牛。
卜偃使大夫拝。
曰君命大事。
将有西師過軼我、
撃之、必大捷焉。

庚辰:干支の
60日中17日目。
当該部分の
「経」には
「冬十有二月己卯、
晋公重耳卒。」
とあり、その翌日。
殯:浅く埋葬して
改葬を待つ
曲沃:現・山西省
臨汾市曲沃県
絳:臨汾市翼城県。
曲沃県より
北東40キロ程。
当時の晋の首都。
卜偃:卜官、郭偃。
大事:杜預によれば
戦争。
西師:師は軍隊。
ここでは秦軍。
過軼:ここでは
飛び地を襲う、か。
軼は、突然襲う、
追い越す、といった
意味がある。

冬、晋文公卒す。
庚辰、まさに曲沃に
殯(かりもがり)す。
絳を出るに、
柩に牛の如き
声あり。
卜偃使大夫をして
拝せしむ。
いわく、
君は大事を命ず。
まさに西師は我を
過軼(かいつ)し、
これを撃つに、
必ず大いに
捷(勝)つなり。

仮葬の
野辺送りの折、
柩から
低い声
したんですと。
ゾ~。

で、
そのエラい
幽霊様が
おっしゃるには、

秦が自領を
通過するので、

これを攻撃せよ、
さすれば
味方の大勝利は
間違いなし、と。

とはいえ
この怪談話、

種明かしをすれば
何のことは
ありませんで。

杜預によれば、

卜偃が
秦の「密謀」を
聞いたそうな。

弔問に訪れていた
要人の密談かしらん。

で、晋の卜偃は
その「密謀」を受け、

柩から声がした、
これは君命である、

というロジックで
人心を
纏めたのですと。

ところが、

このレベルの報告が
上がってすら、

晋の上層部の中には、

喪中を理由に
出兵を渋る声
出ます。

まず、原軫は、

穆公が
蹇叔の諫言を
無視したことを、

「天は我を
奉ずるなり。」

とします。

この遣り取り
―廟算
(出陣を決める軍議)
だと思うのですが、
の段階では、

晋は秦の内部の
意見対立を
把握している訳です。

対して、
欒枝(らんし)は、

未だ、
秦の恩義に
報いていないので、

迎撃は
先君(重耳)の
意向に反する。

と、反対します。

余談ながら、
原氏も欒氏も
晋の屈指の勢家。

それはともかく、

これについて
原軫は
重ねて反論します。

喪に服さず
同姓を
(周王室・姫姓)
討たんとするのは
秦の方である。

これを
野放しにすれば
後々面倒なので、

晋の子孫のため
—長期的な視野で、
事を起こす。

先君に対しては、

これで
申し開きが出来る、

と、します。

―モノは言いようで。

結局、

この原軫の居直りが
決め手になり、

ついに晋も、
出撃に踏み切ります。

ですが、

この
原軫と欒枝の
遣り取り自体が
いつの話かは、

残念ながら
サイト制作者には
分かりません。

後に、

崤で晋と秦が
干戈を交えたのは、

翌、前627年の
のこと。

恐らくは、

重耳の葬式からは
或る程度
時が経過していたか、

あるいは、

重耳の葬式の折の
密儀の時点で、

既に、

崤での迎撃には
手遅れであったの
かもしれません。

少なくとも、

秦の初動の山越えを
見送っている
訳です。

さて、
遠征の結果は、

蹇叔の予言通り、

秦の軍隊は
増長するわ、

鄭には
動きを気取られるわ、

挙句、

本国への
撤退の途中に、

その崤にて、

欺いた筈の
同盟国の晋の
待ち伏せを受けて
殲滅されるわと、

散々な結果に
終わりますが、

この過程も、
今回は端折ります。

7、遠征の背景
7-1、晋秦の亀裂

秦の遠征には、

上記のような、

国君が
賢臣の意見を
無視した
経緯があるのですが、

このような
在り来たりな話が
罷り通る理由
について、

もう少し
掘り下げてみます。

『左伝』を中心
大雑把に纏めます。

出来れば
一言二言で
片付けたいのですが、

状況が
結構ややこしいので、

大体の流れを
抑えるかたちで
以下に綴ります。

頃は春秋時代半ばの
前7世紀後半。

情勢は
晋楚の覇権争いの
真っただ中でして、

それも晋の最盛期の
文公・重耳の時代。
—絵に描いたような
苦労人の人格者。

で、その時分、

関中(西安界隈)で
勢力を張っていた
秦の穆公は、

その東の
絳(こう、
現・山西省翼城県)
を根拠地とする
最強国・晋との
姻戚関係を
ダシに、

その晋を
後押しするかたちで
中原の戦争に
積極的に
介入します。

さて、

そうした流れの中の、
前630年のこと。

鄭の計略により
晋秦の同盟関係に
亀裂が入ります。

事の起こりは、

晋秦両国
その他による、

楚に付いた
鄭の包囲と
城下の誓いの強要。

その鄭は、

晋楚の国境地帯に
位置して
気苦労の絶えない
国です。

さらには、

その少し前の
城濮の戦いで
宗主国・楚が
敗れたことで、

後ろ盾を
失っています。

とはいえ、

その鄭も
亡国に
リーチが掛かって
必死でして、

燻っていた老臣の
奇計を採用して
起死回生を
図ります。

具体的には、

盟主の晋を
差し置いての
秦との単独講和、

という挙に出ます。

その結果、

鄭は秦に
国邑(河南省新鄭市)の
城門の鍵を預け、

そのうえ
部隊の駐屯
認めます。

対する晋は
両国の蚊帳の外。

謂わば、鄭の、

毒(秦)を以て
毒(晋)を
制せんとする
苦肉の分断策。

当然、晋は、
秦への不信を
募らせ、

即時の
秦の野営地の
攻撃まで
検討されますが、

これを制したのが
かの重耳。

自分の擁立に動いた
キングメーカーの
秦への恩義に
他なりません。

—蛇足ながら、

諸国の盟主として
権勢を誇る立場で、

目先の利害に
とらわれずに
かつての恩義に
報いるのが、

この人の
エラいところか。

何せ、

盟主の国が
傘下の国と
頻繁に会合を持ち、

多額の財貨を
徴発する代わりに
コチコチの儀礼で
信義を守ることで、

どうにか
同盟国を繋ぎ止める
という時代の御話。

そのうえ、

そうした
息苦しい時代にも
かかわらず、

晋の先の代の
国君の中には、

ここでは
誰とは
言いませんが、

散々
空手形を切って
不義理を働いて
秦の怒りを買い、

戦場で
捕虜になった人も
います。

そういうのを
知っている故
かもしれませんが。

それはともかく、

関係が拗れつつある
晋秦両国にとって
さらに悪いことに、

その重耳
程なくして
この世を去ります。

7-2、東方を占領せよ

そして、
この訃報によって、

両国の関係の破綻は
決定的になります。

は、
事もあろうに、

重耳の喪中を
突いて、

動けない晋を
出し抜くかたちで、

鄭を電撃的に
占領すべく
動き出します。

鄭の駐屯部隊からの、

現地の占領の好機
という報告を
受けての出撃。

今で言えば、

やくざ映画の
悪役さながらの
蛮勇ですワ。

対して、

その報復に
応じる晋
目には目を。

その辺りの
生臭い経緯も、

外交・社交としての
信義の時代に潜む
リアリズム
かしらん。

そして、

蹇叔の
先述の諫言は、

まさに
このタイミング
なされたものです。

ただし、
当人の立場も、

外交政策として
鄭の占領そのものに
反対した訳ではなく、

軍事作戦として
やり方が悪いので
中止せよ、

というもの。

当然、晋の介入も
折り込んでの
ことです。

その辺りの打算が、

当時の秦の
メンタリティを
反映しているように
思えます。

その背景として、

それまでの
領土拡張の結果、

東の境が
同盟国の晋と
接したことで、

同方面での
領土拡張が頭打ち
という現状。

その国境も、

晋と散々
戦争をやった末に
確定した
血の対価。

さらには、

その後の
穆公の時代の
中原での戦争は、

晋の同盟軍
というかたち
行われています。

したがって、

目上の瘤の晋を
出し抜いてでも、

中原への足場が
喉から手が出る程
欲しかったことは、

想像に
難くありません。

しかしながら、

見方を変えれば、

難所における
軍隊の先導や
兵站の確保について、

それまでの
晋への依存から
脱却することを
意味します。

そのうえ、
それを、

初手から
正攻法ではなく
奇襲でやると
来ます。

懸念する人が
いない方が
ヘンな話ですが、

実際の両軍の
行軍経路等の御話は、
また後日。

おわりに

今回の御話の内容
整理すると、以下。

1、サイト制作者は、

『周礼』「考工記」
廬人為廬器の
「故攻國之兵」の件の
実務レベルの一事例
として、

前627年の
崤の戦いを
想定している。

2、崤の戦いは、

秦が晋に秘密裡に
晋の傘下の鄭の
占領を企図して
起こった。

3、秦の蹇叔は
これに反対した。

秦から鄭への
距離が遠いことで、

軍紀が弛緩し、

さらには、

敵に発見される
確率が高いのが
理由である。

結果として、
諫言は無視された。

4、蹇叔は

晋の迎撃地点を、
現・河南省
三門峡市付近の
崤であると
予想した。

崤は、
当時の中国の
国内では、

屈指の難所の
峡谷である。

5、晋は、
秦の背信的な行動
については
かなり早い段階で
把握していたが、

喪中の派兵には
反対意見があった。

それとの因果関係は
不明であるが、

具体的な軍事行動は
出遅れた
可能性がある。

【主要参考文献】

(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』(国学導航)
聞人軍『考工記訳注』
左丘明・小倉芳彦訳
『春秋左氏伝』各巻
杜預『春秋経伝集解』
『春秋穀梁伝』
(維基文庫)
『春秋公羊伝』
(維基文庫)
司馬遷『史記』
(維基文庫)
酈道元『水経注』
(維基文庫)
譚其驤
『中国歴史地図集』
辛徳勇
「崤山古道瑣征」
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』
第4版

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長安から洛陽まで

【追記】23年7月7日

譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻の河川の位置・名称をベースに、杜預『春秋経伝集解』等の内容を踏まえて作成。

少々長いので、
章立てを付けます。
(6000字程度)

はじめに
1、崤で武器を振り回す
2、中原の要衝・崤
3、リアル落鳳坡と二嶺
4、羊の群れが幹道に
5、曹操の新道
6、洛陽へ行きたいか
6-1、
秦から鄭への千里行
【雑談】花の都で西部劇
6-2、
晋秦の最前線
・桃林塞
6-3、
崤以東も要衝続き
おわりに
【主要参考文献】
【補足】

はじめに

長らく更新が滞って
大変恐縮です。

今回は地理の御話。

長安・洛陽間の
幹道についての
大雑把な御話と、

両都市の往来の
障壁となる
要衝・の界隈の
図解の開陳です。

これに因んで
恐縮ですが、

以降何回かは、

崤の戦いに
関連する話を
予定しているため、

史料等の
正確な引用や
崤界隈の
細かいルートの話
については、

次回以降に
回します。

1、崤で武器を振り回す

さて、

これまで
武器の話を
続けて来たにも
かかわらず、

ここで唐突に
地理の話を
始めた理由は以下。

これまで
綴って来た
『周礼』「考工記」の
廬人為廬器
文言の中に、

「攻國の兵は
短きを欲し」云々、

遠征を行う側は
短い兵器を望む
等々、

という件があります。

要は、
攻める側は、

物量・地形・
武器の長さ等で
物理的な制約が
生じる、

という御話です。

さらに
サイト制作者は、

この件の
実務レベルの
一事例として、

春秋時代は
僖公33年
(前627年)の
崤の戦いを
想定しています。

まあその、

前提が怪しいと
言われれば
御手上げですが。

要は、

元の史料の
文脈に沿った結果、

斯様な次第に
相成りまして。

2、中原の要衝・崤

まず、は、
ざっくり言えば、

洛陽と長安の
中間点の
山岳地帯。

河南省三門峡市より
東南に15キロ程の
地点です。

この辺りは
両都市の障壁となる
古来よりの要衝。

『淮南子』の説く
「九塞」のひとつ
です。

春秋時代以降も、

例えば
戦国時代には、

「崤塞」として
(戦国策)
長らく
秦と東の国々とを
隔て、

前漢末の内乱に
おいても
赤眉と劉秀が
洛陽の玄関口
として
ここで干戈を交え、

三国志の時代には、

長安に遷都した
董卓の政権の
東の防衛線として
機能しました。

3、リアル落鳳坡と二嶺

で、
この界隈の
詳細な地理ですが、

個人的には
グーグルマップ等で
確認なさって
頂いた方が
為になるかと
思いますが、

こちらでも
主要な山河を軸に
図解すると以下。

酈道元『水経注』その他の史料、辛徳勇「崤山古道瑣征」、グーグル・マップ、百度地図、中国の方々のサイトさん等の内容を照合して作成。

大体は
『水経注』の内容の
図解ですが、

その理由は、

他の史料に比して、

山河や都市の
位置関係が明確で、

そのうえ、
恐らくは、

この界隈については、

書かれた時代の
状況と
現在の地理とで
大差なさそうな
でして。

さて、

この辺りの地形を
グーグルマップ
写真を見る限り、

ざっくり言えば
急峻な山岳地帯
ですが、

その中で
ポイントになる山が
ふたつあります。

少なくとも
春秋時代には
北嶺・南嶺
称された山。

辛徳勇先生
によれば、

現在の名前で
北嶺は金銀山、
南嶺は响屏山。
(きょうへい、
あるいは、
きょうびょう、か?
チュゴクゴ
難しアルヨ!)

図解の典拠である
「崤山古道瑣征」
中文ですが、

ほとんど頭の
「崤山古道示意図」
だけでも
必見の価値がある
思います。

以下は、
同論文のアドレス。

道客巴巴さんより。
ttps://www.doc88.com/p-6945684119641.html
(1文字目に「h」)

そして、

『春秋左氏伝』
その注釈によれば、

どうも
この辺りの山道で
崤の戦いが
起こった模様。

4、羊の群れが幹道に

先の図解を
もう少し
フォーカスしたもの
以下。

辛徳勇「崤山古道瑣征」、杜預『春秋経伝集解』、グーグル・マップ、百度地図、中国の方々のサイトさん等の内容を照合して作成。

さて、

今回の2枚の図解
先述の
崤山古道示意図」が
ネタ元でして、

先生すげ~、謝謝!
と、拝みつつ、

多分『水経注』が
大体の典拠かしらん、

と、当たりを付け、

これを自分なりに
目ぼしいポイントを
史料や地図等で
確認したうえで、

色々付け足しました。

―まあその、

それが裏目に出て
「不純物」が
混入しているかも
しれませんが。

それはさておき、

現在の崤界隈は、

急峻な山岳地帯を
高架の高速や
トンネルが
ブチ抜き、

隔世の感も
極まれり
という訳ですが、

これ位はやらんと
文明社会自体が
成り立たんの
でしょう。

以下、
御参考までに、

現地の映像も
紹介します。

「好看視聴」
游崤函古道之
雁翎关、
吃三门峡特色
美食小酥肉

(アドレスが
コロコロ変わるので、
「百度一下」等で
上記の言葉を
コピー・ペースト
なさって下さい。)

上記の動画の
1分前後、

249号線の
雁翎関
(がんれいかん)
の辺り等、

高低差だの、
ヘアピン・カーブ
だの、

道を羊の群れが
占拠するだの、

初見で
ハ〇ジの世界かと
思いました。

それはともかく、

南嶺から北嶺に
向かう道としては、

グーグルマップを
見る限り、

以下の2本
考えられます。

ひとつ目は、

南嶺から
北上するルート。

ふたつ目は、

南嶺より
さらに東南に進み、

宮前郷から
北上するルート。

ですが、

『左伝』や
その注釈によると、

どうも、

当時通行出来た道が
前者に限られていた
印象を受けます。

そのうえ
『西征記』によれば、

この道の様子として、

凄まじい風雨で
戦争用の楽器の音が
聞こえなかった
そうな。

事実、

晋が秦を破ったのも
史書によれば奇襲。

一方で、

部分的には、

道の両側に
切り立った峰
あることで、

風雨を避けられる
場所がある模様。

—風雨を避けたのが
周の文王だそうで、

といった
エラいところ。

もっとも、
そういうところは

風雨の代わりに
矢や落石が
飛んで来るの
でしょうが。

そして、

こういうのを
危惧して
遠征に反対した
秦の重臣が、

北嶺と南嶺の間の
山道で
晋の要撃を受けると
予言し、

これが
的中するという、

何だか、

孔明の得意技
のような
芝居掛かった予言が
話の幕開けに
なる訳です。

―と、言いますか、
こういう
レトリックの
元ネタかしらん。

5、曹操の新道

そして、
さらに興味深いのが、

そのような
凶悪な
ボトルネック
について、

崤の戦い
—春秋時代から
1000年弱も下った
後漢時代に、

かの曹操が
この道を嫌った、と、

孫世代の杜預が
書き残している点。

で、実は、

その旧道の
二嶺近辺の
正確なルートが、

どうも
諸説入り乱れる
議論の的の模様。

そして、
その曹操が、

旧道を回避すべく
北嶺・金銀山の
北側に
新道を開削した模様。

先述の
1枚目の
図解で言えば、

地図の
真ん中辺りの、

張茅郷から
清水河沿いに
観音堂鎮に抜ける
でして、

『水経注』に曰く、
「二道を
纏絡(てんらく)
し」。

で、曹操が
この道を嫌って
新道を開削した
という事は、

言い換えれば、

それまでは、

この悪路が
現役であった事を
意味します。

献帝や
その女官の皆様も、

董卓の遷都で
この山越えを
やった事に
なりまして、

王朝の引っ越しに
半年掛かった模様。
—難儀なことで。

6、洛陽へ行きたいか

6-1、
秦から鄭への
千里行

最早、死語。

次いで、

長安・洛陽間
における
崤の位置付け
について、

崤の戦いを参考に
少し考えます。

まず、

崤の戦いにおける
秦の策源地
目標ですが、

秦の策源地は雍
(陝西省宝鶏市
鳳翔区)。

そして、

鄭(現・河南省
新鄭市)を
目指します。

現地の
駐留部隊の
武装蜂起に
呼応するためです。

ですが、

この阻止に動く晋の
秦に対する
綺麗な防衛戦とも
言い切れませんで、

洛陽の東
到達した段階で
目論見が頓挫して
撤退する秦が、

崤で
晋の待ち伏せを
受けた戦いです。

これに因んで、

以下に、
位置関係を
整理します。

雍は
長安(現・西安市)
から
距離にして
西に170km程。

洛陽
(現・洛陽市)は
春秋時代の周で、

長安より東に
330km弱。

鄭は洛陽より
東に120km弱。

〆て延べ
600km余の
長征
相成ります。

そのうえ、

それを
万単位の軍隊で
奇襲として
行うという
破天荒な計画。

当然ながら、

この作戦計画は
当時の感覚でも
イカレてまして、

反対した人の言葉が
秀逸につき、

歴代の地理書に
引用されています。

先述の
予告ゲッツーですワ。

【雑談】花の都で西部劇

本論から脱線します。
念の為。

さて、ここでは、

その中でも、

隘路の要衝続きで
割合経路が
絞り易いであろう、

長安・洛陽間の
行程について
考えたい
ところですが、

その前置きとして、

その起点となる
西安界隈の
春秋当時の
状況について、

少し考えたいと
思います。

さて、春秋当時、

特にその前半の
長安の辺りは、

どうも
周の西遷の
空白を突いて
諸勢力が
混在してまして、

これを
秦が掃討する
構図の模様。

言い換えれば、

当時の
この辺りは、

鎬京や咸陽の
ような
存在感のある
大都市のイメージでは
ありませんで。

例えば、

譚其驤先生の
『中国歴史地図集』
「春秋」秦、晋
によれば、

まず、
西安の辺りには、

少なくとも、

涇陽(けいよう)と
杜という
ふたつの主要拠点
あります。

以下は、
当該のアドレス。
ttp://www.ccamc.co/chinese_historical_map/index.php#atlas/03/%E7%A7%A6%E3%80%81%E6%99%8B.jpg
(頭に「h」を。)

とはいえ、

その前の
西周時代の状況と
比べると、

随分閑散とした
印象。

さて、
そうした中、

まず、涇陽は、

渭水の北岸
あります。
(東の方で
黄河に
合流しますが。)

正確には、

渭水のすぐ北を
東南に流れる
涇水の北。

河川の北につき、
「陽」。

西周の膝元の
畿内とはいえ、

異民族の
獫允(けんいん)の
制圧下に
あった模様。
『詩経』より。

杜は、
西周支配下の
杜(伯)国。

もっとも、

前685年には
秦の武公
ここをとします。

亳という国も
この辺りですが、

サイト制作者の
浅学にして
詳細は不明。

因みに、
当時の秦は、

西安以西で
征服戦争を
手広く
やっていたようで、

この辺りは
『史記』秦本紀
始めを参照されたく。

余談ながら、

攻める側の秦も
国君が
殺されたりと、

まさに、
血を血で洗う
仁義なき抗争。

さらには、

ここでの敗者が
遺恨をもって
晋の傘下に入り、

先述の崤の戦いで
報復に及ぶ訳です。

散らかった話を
感傷的に
纏めますと、

大王朝の首都が、

その衰退と
遷都により、

周辺国の
拡張戦争の
フロンティアと
した、

―という、

栄枯盛衰な
御話かしらん。

先述の地図が
空白になってる辺り、

秦漢の遺跡の下を
掘ったら
色々出て来るかも
しれませんねえ。

夢のある話で。

維新期に、一時、

諸藩が退去して
ゴーストタウン化した
江戸を御想像下さい。

―知らんけど。
(便利な言葉!)

したがって、

言い出して
何ですが、

この時代の目線で
洛陽・長安間、

と、言うのも、

どうも、
コレジャナイ感が
少なからずあると
言いますか。

もっとも、

その後に
咸陽となるので、

地政学的な価値が
落ちた訳ではない
思いますが。

―で、こういう
身も蓋もない
オチにつき、

「雑談」扱いに
した次第。

【追記】

この箇所については、
もう少し調べ直します。

【追記2】

以下、御参考まで。

小寺 敦
清華簡『繫年』
譯注・解題
『東洋文化研究所
紀要』170号

ttps://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224624287744
(1文字目に「h」)

史料の
ヘンな漢字の対策も
含めた
書き下しどころか、

読み易い和訳
丁寧な解説まで
添えられてまして、

まさに
必読の価値あり。

さて、

『清華簡』は、

要は、

中国の名門、
精華大学さんの
所有する
戦国時代の竹簡。

で、その中の
『繫年』には、

周の東遷の時期
についても、

色々と
書かれています。

ところが
その内容たるや、

上記の解説論文
によれば、

新規の発見が
ある反面、

『史記』や
『竹書紀年』等の
他の史料と
突き合わせると、

内容や時系列等で
矛盾する点が
続出するそうな。

もっとも、

そうした矛盾点を
炙り出す過程の
説明が
充実してまして、

繰り返しますが、
個人的には、

これだけでも
御勧めしたい
次第。

6-2、
晋秦の最前線
・桃林塞

さて、

雍から
渭水沿いに
西進して

先述の西部劇な
西安界隈を
抜けると、

黄河との
合流点である
潼関に出ます。

もっとも、
春秋当時は、

その呼称は
なかったようで、

後漢時代から
だそうな。

その辺りの話は、

塩沢裕仁先生の
「函谷関遺跡考証」
を参照されたく。

「函谷関遺跡考証
―四つの
函谷関遺跡に
ついて―」
『東京大学
東洋文化研究所
紀要』
169号

アドレスは以下。
PDFです。
ile:///C:/Users/monog/Downloads/ioc169009%20(7).pdf
(頭に「f」。)

その他、

今回の記事の
函谷関関係の
御話も、

大体は
この論文からです。

さて、
潼関を過ぎると、

黄河南岸の
南に山岳地帯に
なっている
回廊に出ます。

ここが桃林塞。

史料によれば、

文字通り
桃林が名物
だそうな。

『左伝』によれば、

崤の戦いの
少し後の
前615年に、

渭水と黄河の
合流点の
すぐ東北岸の
河曲において、

晋と秦が
干戈を交えて
痛み分けて
います。

さらに
その少し後の
前607年には、

秦が
この少し東の焦を
包囲するのですが、

晋がしっかり
迎撃に出て来る
という次第。

やはり
潼関の辺りは
当時から
西の玄関口で、

関所でなくとも
兵家必争の
要衝中の要衝
なのでしょう。

で、晋が
これを受けて、

件の桃林塞の
真ん中の
瑕(か)に
守備隊を
置きます。

この戦いは、

崤の戦いのような
隠密裡の
越境ではなく、

両国の
正面衝突につき、

ここらが、

当時の両国の、

実質的な
最前線では
なかったか
見ています。

さらに、
ここを抜けると、

焦(現・三門峡市)
出ます。
—時代が下って
地名が峡となります。

東は周(洛陽)、
北(東)は晋の国邑の
絳(こう)に通じる
要衝です。

6-3、
崤以東も要衝続き

で、秦の東進で
本当の意味で
悩ましいのは
ここから!

峡(三門峡市)
以東は、
幹道が黄河から
逸れます。

黄河北岸の地形が
急峻な為です。

そこで、

水源や目印を
その支流に変更する
という訳です。

ですが、

その支流にも
切れ目がありまして、

そのうえ、

その界隈は
急峻な峡谷
来ます。

ここが
泣く子も黙る

その図解が
先述のもの、
という訳です。

南嶺の麓に
関所が
置かれたのも、

随分と
時代が下ってからの
明代辺りの話。

言い換えれば、

遠征軍にとっては、

敵の所在の
分かり易い
城塞攻撃ではなく、

分の悪い
遭遇戦を強いられる
恰好の要撃ポイント
なのでしょう。

さて、

ここを抜けると、

観音堂鎮から
澗河沿い
一路、洛陽を
目指す訳ですが、

崤同様、

渓谷沿いの難路には
変わりなく。

『水経注』の
この辺りの描写の
エグいこと!

その中で、

澗河沿いの
めぼしい
拠点としては、

現在の地名で
言えば、

西から、澠池県
(めんち、あるいは、
べんち)、
義馬市、新安県
あります。

澠池県
崤の界隈の
歴代の治所

―後漢時代に
蠡(れい)城
(現・洛寧県)に
移ったり
するのですが。

因みに、

戦国時代の
後半に、

秦の昭王と
趙の恵文王が
会合を持ったという
俱利城は、

大体
この辺りに
あります。

義馬市には
千秋亭があります。

版築が
標準の時代に
石造りですと。

さらに
新安県には、

前漢時代から
曹操の時代まで
函谷関
置かれていました。

余談ながら、

その前後の時代の
函谷関は、

潼関の西の
霊宝県の辺り。

曹操が移した
函谷関も
その辺りですが、

交通の便が
重視されて
少し黄河寄りの
立地。

西を攻める側の
論理ですね。

この辺りの御話は、

先述の塩沢先生の
論文を
参照されたく。

その他、
白超塁
函谷関のすぐ北。

黄巾賊に備えて
白超が防塁を建て、

南北朝時代に
城に化けたそうな。

説明が
長くなりましたが、

要は、

上記の三拠点は、

澗河沿いの
東西の往来に
おいては
不可避の要地
という訳です。

とはいえ、

新安県まで
来れば、

洛陽はもう
目と鼻の先。

ここらの
春秋時代の
詳細な状況
については、

サイト制作者の
浅学にして
分かりかねます。

ただ、
人の往来の痕跡は
なきにしもあらず。

例えば、
『左伝』や『国語』
には、

前6世紀の中頃に、

周が斉と結んで
晋に備える文脈で、

洛陽の王城の西
宮殿や門を壊して
築城した、

という話が
出て来ます。

当時の穀水沿いに
幹道があった
証拠でしょう。

その他、

新安県の
函谷関の遺跡から、

春秋時代にも
使われていたと
思しき
道路の存在
確認出来た模様。

これも
塩沢先生の論文より。

土地勘と発掘調査の
威力の凄まじさ。

結論

そろそろ、
今回の御話の結論
整理すると、以下。

1、長安・洛陽間の
往来は、
河川沿いの隘路が
多いことで、
割合、経路が
特定し易い。

2、その中で、
際立って
急峻な山岳地帯
である崤は、

古来から
軍事的に重要な
係争点であった。

3、さらに、
崤の東西には、

歴代の王朝が
堅固な防衛拠点を
置いた。

4、史書にある
崤の主峰や
その周辺の幹道は、

現在の研究で
或る程度は
判明している。

【主要参考文献】

(敬称略・順不同、
副題省略)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』(国学導航)
聞人軍『考工記訳注』
小倉芳彦訳
『春秋左氏伝』各巻
杜預『春秋経伝集解』
酈道元『水経注』
(維基文庫)
譚其驤
『中国歴史地図集』
辛徳勇「崤山古道瑣征」
塩沢裕仁
「函谷関遺跡考証」

【補足】

武器の話を
続けるつもりが、

元の史料・
『周礼』考工記が
どうも
地理の話を
混ぜてそうなことで、

それに引っ張られて
この1年は
地理関係の調べ事で
悪戦苦闘中です。

サイト制作者の
土地勘や
基礎知識の欠如も
さりながら、

識者のレベルで
意見が割れている
重要箇所も
ありまして、

そのうえ、

史料に出て来る
地名と
現在地の照合にも
かなり苦労しました。

で、これらの整理に
想定外の時間を
要したことで、

結果として、
更新が
長らく滞った次第。

本当に
申し訳ありません。

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『周礼』「考工記」廬人為廬器を読む 01

はじめに

今回は、

『周礼』「考工記」
廬人為廬器

―謂わば、
西周時代と思しき
戦車用の武器の
マニュアル

について、

書き下し文、
語句の意味、
関係する図解
記します。

個人的な話で
恐縮ですが、

解読の過程で、
誤読等
イロイロ
やらかしまして、

こういうのは
サイト制作者の
あるあるで
申し訳ない限りですが、

結果として、

読者の方に
助けて頂く等の
紆余曲折を
経まして、

漸く、
(自分なりにという
レベルですが)
原文を一通り
読むという作業に
着手出来ます。

改めて
御礼申し上げます。

とはいえ、

素人の手作業につき
未熟な部分の
多いことで、

例によって、
あくまで御参考まで。

1、原文を読む

早速、以下に原文
掲載します。

『維基文庫』さんに
掲載されているものを
多少加工しました。
(読点・句読点・
改行・字体等。)

書き下し文は
サイト制作者の手製にて
あくまで御参考まで。

その他、
アルファベットは、

文章全体の中で、
話の内容が
変わるであろう部分
区切りです。

廬人為廬器


戈柲六尺有六寸
殳長尋有四尺
車戟常、
酋矛常有四尺、
夷矛三尋

凡兵無過三其身、
過三其身、弗能用也
而無已、又以害人


故攻國之兵欲短、
守國之兵欲長
攻國之人衆、行地遠、
食飲饑

且涉山林之阻、
是故兵欲短
守国之人寡、食飲飽、
行地不遠

且不涉山林之阻、
是故兵欲長


凡兵、句兵欲無彈、
刺兵欲無蜎
是故句兵椑、刺兵摶、
擊兵同強


舉圍欲細、細則校
刺兵同強、舉圍欲重、
重欲傅人
傅人則密、是故侵之

凡爲殳、五分其長、
以其一爲之被而圍之

參分其囲、
去一以爲晉圍
五分其晉圍、
去一以爲首圍

凡爲酋矛、參分其長、
二在前、一在後而圍之
五分其囲、去一以為晉圍
參分其晉圍、去一以為刺圍


凡試廬事
置而搖之、以視其蜎也
灸諸墻、以視其橈之均也
横而搖之、以視其勁也


六建既備、車不反覆、
謂之國工


:矛や戟の柄
:柄
:周尺換算で
1尺=
18.1cm余。
因みに、
『考工記訳注』には
「一尺之長、
各諸侯国不尽相同」
―1尺の長さは
各国で同じとは
限らない、とあり、
悩ましいことである。
一方で、
古代から
民国時代まで
一貫して、
時代が下る程
長くなっている。
戦国時代の
終わり頃は
23.1cm。
この数字は、
商取引の活発化等で
秦の統一以前に
実質的な国際規格に
なっていた模様。
因みに、
サイト制作者は、
例えば
春秋時代の場合、
大雑把な目安として、
周尺と戦国尺の
中間程度―
大体20cm前後と
取っている。
:10寸=1尺
:ここでは、~と。
6尺と6寸
:全長
:1尋=8尺。
周尺で約144cm。
当時の成人男性の
身長と、
両手を広げた間隔が
同じである、
という前提。
:常=2尋=16尺
:ここでは、短。
対して、夷は長。
『周礼注疏』
巻四十一に、
「酋近夷長」とある。
なお、酋夷は
他にも意味があるが、
武器についての
機能的な意味
ではないので
省略する。
:兵器
:身長
:ここでは3倍。


:多い
:飢える
:少ない
:険しい場所


句兵:戈・戟
彈(弾):振り回す
刺兵:矛
:くねくねする
:楕円
ここでは
柄の断面が楕円形。
:円
ここでは、
柄の断面が円形。
擊兵:殳
同強:ここでは、
柄の先端から
末端までが同じ硬さ。
『周礼注疏』
巻四十一に、
「本末及中央
皆同堅勁」
とある。
舉(挙):両手で
持ち上げる


圍(囲):武器の柄に
何かを巻く部分。
:短い
:ここでは、素早い。
『春秋左氏伝』
昭公元年の
虢(かく)の会盟の
件を参照。
:辞書的な意味は、
重視する、重用する。
サイト制作者は、
ここでは、
物理的に力を入れる、
と解釈。
:安定する
:武器で攻撃する。
『周礼注疏』
巻四十一に、
「能敵」敵する能う、
とある。
「敵」は
武器で攻撃する。
五分:5等分する。
その「一」は、
5分の1。
晉圍(晋囲)
柄の末端の石突、
鐏(そん)。
首圍(首囲)
殳の柄の先端の
金属の塊の部分。
刺圍(刺囲)
矛の矛頭。


:弊害を除く。
ここでは、
柄の曲がりを
矯正する、か。
墻:障壁、囲い。
ここでは、恐らく、
1、障害≒
曲がりや傷等と、
2、柄を挟み込む
ための2本の柱、
以上のふたつの
意味がある。
:曲がった様
:平坦な様
:直立して
力強い


六建:『周礼注疏』
巻四十一によれば、
「建」は「在車上」、
言い換えれば、
軫(しん)―
車体上部側面の
フレームがない
タイプの
戦車(西周時代)に
立て掛ける。
「六」は「五兵与人」
とある。
「五兵」は
5種類の兵器で
諸説あるが、
ここでは、
戈・戟・殳・
酋矛・夷矛。
反覆:ひっくり返る
:技術、
巧くいっている様

廬人は廬器をなす

戈柲(ひ)は
六尺有六寸。
殳長は尋(じん)有四尺。
車戟は常、
酋矛は常有四尺、
夷矛は三尋。

おおよそ兵は
その身の三を
過ぐるなく、

その身の三を
過ぐれば
用いるあたうこと
なきなり。
しかるのみなく、
またもって人を害す。


故に攻国の兵は
短きを欲し、
守国の兵は
長きを欲す。
攻国の人は衆にして、
地を行くに遠く、
食飲に饑す。

かつ山林の阻を渉り、
これ故兵は短きを欲す。
守国の人は寡にして、
食飲に飽き、
地を行くに遠からず。

かつ山林之阻を渉らず、
これ故兵は長きを欲す。


おおよそ兵は、
句兵は弾くなきを欲し、
刺兵は蜎(けん)なき
を欲す。
これ故句兵は椑、
刺兵は摶。
擊兵は
強きを同じくす。


囲を挙げるに
細きを欲し、
細はすなわち校。
刺兵は
強きを同じくし、
囲を挙げるに
重きを欲し、
重を欲して人に付く。
人に付くに
すなわち密にして、
これ故これを侵す。

おおよそ殳をなすに、
その長を五分し、
その一をもって
これが被するをなし
これを囲とす。

その囲を参分し、
一を去りもって
晋囲となす。
その晋囲を五分し、
一を去りもって
首囲となす。

おおよそ
酋矛をなすに、
その長を参分し、
二は前にあり、
一は後にあり
これを囲とす。
その囲を五分し、
一を去りもって
晋囲となす。
その晋囲を参分し、
一を去り
もって刺囲となす。


おおよそ廬を試すこと
置いてこれを揺り、
もってその蜎を
視るなり。
諸墻(しょう)を灸し、
その橈(とう)の
均を視(み)るなり。

横にして
これを揺り、
もってその勁(けん)を
視るなり。


六建既に備うれば、
車は反覆せず、
これを謂うに国工。

2、各部分の図解

ここでは、
AからFの
各部分の図解を
掲載します。

基本的には、

以前の記事で
使用したものを
再掲しますが、

一部、
加工修正
加えたものも
あります。

なお、

後世の識者の
解釈や現代語訳
であっても、

サイト制作者が
納得出来なかった
部分については、

独自の解釈
描きました。

その意味でも、

誤読や誤解の
可能性があることで、

あくまで
御参考まで。

A、武器の全長

『周礼』(維基文庫)、楊泓『中国古兵器論叢』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、張末元編著『漢代服飾』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

B、行軍・兵站 図解なし

C、戈・戟の柄の形状、使用方法

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

矛の柄の形状、使用方法

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

D、矛・戈戟の使用方法

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

矛の部位及び部位ごとの長さ

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

殳の部位及び部位ごとの長さ

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

E、柄の状態の確認

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版等(敬称略・順不同)より作成。

F、諸々の準備の効果 図解なし

その他、「考工記」の説く戈頭・戟体の形状

!上記の図はサイト制作者の個人的な解釈。

武器の形状の変遷

学研『戦略戦術兵器事典 1』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

おわりに

今回は、
結論めいたものは
ありません。

なお、次回は、

過去の記事でも
触れていない、

BやFの
行軍や戦車に関する
部分について、

『春秋左氏伝』から
参考に
なりそうな話
引用して、

少々、
考察を加えよう
思います。

【主要参考文献】
(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』(国学導航)
劉熙『釈名』(天涯知識庫)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
周緯『中国兵器史稿』
篠田耕一
『武器と防具 中国編』
稲畑耕一郎監修
『図説 中国文明史』3
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版
香坂順一編著
『簡約 現代中国語辞典』

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『春秋左氏伝』における車戦と矛

例によって、
無駄に長くなったので、
章立てを付けます。

適当に
スクロールして、
興味のある部分
だけでも
御笑読頂ければ
幸いです。

はじめに
1、武勇の象徴としての矛
2、矛で御す国君の車右
3、矛を構えて陣頭に立つ
3-1、戦の前の御約束
【雑談】蒯聵を取り巻く
政治情勢
【雑談】戦闘前の舞台裏
3-2、で、矛は何処に?!
2-3、車上の戦士の手柄自慢
2-4、負傷する車左
2-5、車戦から白兵戦へ
、歩兵陣を切り裂く
車上の矛
4-1、呉の北進と魯
4-2、どのように矛を用いたか
【雑談】300名の戦闘単位
4-3、魯軍の概要
4-4、車戦の影での歩兵戦
4-5、意味深な杜預の注
【雑談】魯の厭戦の理由を考える
おわりに(論旨の整理)
【主要参考文献】
【言い訳】

はじめに

更新が
大幅に遅れて
大変恐縮です。

さて、今回は、
矛の御話。

『春秋左氏伝』
(以下『左伝』)に
見られる
矛の件について
綴ります。

とはいえ、
事細かい使用例
とまでは
いきませんで、

代わりに、
個人レベルの戦車戦を
掘り下げることで、

春秋時代の戦闘における
矛の位置付けを
探ることを試みます。

1、武勇の象徴としての矛

ここでは、まず、
『左伝』における
矛の登場する部分状況
確認します。

管見の限り
僅か3箇所ですが、

見落としている部分が
あるのかもしれません。

ただ、戈に比べて
明かに少ないのは
間違いないと思います。

で、当該の箇所は、
具体的には、以下。

なお、例によって、
書き下し文は手製につき
御参考まで。

1、魯・成公16年
(前575)

使鍼御持矛
鍼(けん・人名)をして
矛を持して御せしむ

2、哀公2年
(前493)

蒯聵不敢自佚、
備持矛焉
蒯聵あえて自らを
佚(うしな)わず、
矛を持して備えるなり

3、哀公11年
(前484)

冉有用矛干斉師、
故能入其軍
冉有(ぜんゆう)は
斉師に矛を用い、
故にその軍に入るをあたう。

以上の3例とも、

敵兵を
ザクリとやる類の
使用例というよりは、

むしろ
所持している状況が
共通している
考えます。

具体的には、

戦場における
武勇の象徴、

といった解釈を
しています。

誰それを刺したり
ドツいたりするよりも、

持って直立したり
執って陣頭に
出張ったりすること
意味がある、と。

もっとも、

3、の冉有の例
については、

背後の状況に加えて、

使用例も
含まれているとも
考えていますが、

これは後述します。

さて、
このように考える
理由として、

については、

彼我の大軍の
戦車同士が対峙する
戦場とは言い切れない、

内乱や要人襲撃、
いえ、それどころか、

痴話の絡んだ
私闘めいた場面でも
持ち出される
或る種の「利便性」
あるように見受けます。

子路の冠の紐を
切ったのも戈。

以上のことから、

あくまで
サイト制作者の
個人的な感覚
過ぎませんが、

『左伝』全体の
ニュアンスとして、

には、

戈のような
日常生活に
溶け込むような
汎用性を感じない、

というのが
率直な感想です。

矛の登場例が
少ないことが、

何とも
心もとないのですが。

2、矛で御す国君の車右

それでは、
各々の引用箇所の
詳しい状況について
触れます。

まずは、
1、「使鍼御持矛」
について。

春秋時代の
メイン・イベントとでも
言いますか、

晋楚の激戦のひとつである
焉陵の戦いの一幕。

晋の行人(使節)が
楚の陣地に
挨拶に出向いた折
言葉です。

「鍼」欒鍼(らんけん)は、

当時、晋軍の
実質的な総司令官である
中軍の将・
欒書(らんしょ)の甥、
かつ欒黶(らんえん)の弟。

また、欒氏は、
晋の有力な世族
ひとつです。

さらに、欒鍼はこの時、
晋の国君の戦車の車右
務めていました。

車右は、字の如く、

4頭立て・3人乗り
戦車の右側に搭乗する
近接戦闘要員。

搭乗人数や馬の数は
時代や状況によって
異なりますが、

これが春秋時代
オーソドックスな仕様。

加えて、

座右の字引きによれば、

3名乗り合わせることで、
車体の左右の重心を
保つんですと。

で、この場合、

司令官クラスの
車右ともなれば、

戦場にあっては
周囲に少しでも
臆病なところを見せると
即刻免職になるという
シビアな職務です。

こういうのは
『左伝』に
いくつか例があります。

要は、
バリバリの武闘派の
やる仕事。

それを前提に、

この時の晋は、
国君と中軍の将の双方が
出張って来てまして、

欒鍼の立ち位置は、

悪い言い方をすれば
謂わば、神輿の護衛。

と、言いますのは、

国君よりも
重臣の力の方が強い
という国情。

したがって、
先の引用箇所の
要点は以下。

楚の陣地に
挨拶に出向いた
晋の行人曰く、

本来、その欒鍼
使者に立つところを、

当人は矛を手にして
国君の護衛に
当たっているので、

自分のような
身分の低い者を
寄越すことになった、と。

について言えば、

相応の身分で
文武両道の猛者が、

矛で国君を
警護している
という凄み。

『左伝』が大好きで
昼夜を問わず
劉備を警護していた
関羽なんかも、

あるいは、

こういう古の猛者の姿を
意識していたのかも
しれません。

3、矛を構えて陣頭に立つ
3-1、戦の前の御約束

次いで、2、
「蒯聵不敢自佚、
備持矛焉」
について触れます。

「佚」は、逃げ隠れする。

自分は逃げ隠れせず
矛を手に
目前の戦闘に備えている、

という訳です。

これは、
衛の太子である
姫蒯聵(きかいがい)が、

春秋時代の終わり頃の
鉄の戦いに臨んだ折の、

戦闘の前の
祈りの文句の一部。

蒯聵は
後の衛の壮公です。

で、件の引用部分を
含めた口上の大意は、

自分の先祖
周王や衛の国君に
戦いの大義名分を説いて
戦勝を祈願する、

というもの。

名文だと思います。

【雑談】蒯聵を取り巻く
政治情勢

以下は、
少し長くなりますが、

当時の国際情勢を
整理します。

矛の話とは直接関係ないので
雑談扱いにします。

サイト制作者自身が
この辺りの経緯を
理解するのに
苦労したことで、

少々御付き合い
頂ければ幸いです。

次の3、の前提にも
関係する話につき。

さて、その蒯聵は当時、

継母の暗殺を企てて
しくじったことで
祖国・衛より宋に亡命し、

その後、
晋の趙鞅を後ろ盾に、

范・中行氏の
根拠地である朝歌から
(現・河南省安陽市)
東に80キロ弱離れた
籠っていました。

その戚から
10キロ程度南に位置する
鉄の戦いに際しては、

趙鞅の搭乗する戦車の
車右の職務に
ありました。

こういうのは、

この時代の
亡命貴族あるある
(世族―有力な家、もやる)
構図とはいえ、

先代・霊公の乱脈で
太子を亡命させた衛も
大概ですが、

—これに苦言を呈したのが、
ここで就活をしくじった
彼の孔子様で、
南氏も南氏でゴニョゴニョ、

実は、それよりも
遥かにヤバかったのが、
その蒯聵を飼い慣らす

と、言うのは、
当時の国情は、最早、
断末魔。

以前から激しかった
世族間の抗争が、

徒党を組んでの
内戦にまで
発展していました。

具体的には、

国君側の
知・韓・魏・趙氏対、
范・中行氏の抗争。

これが前497年から
490年まで
7年も続きます。

また、御存じのように、
勝者のうちの韓・魏・趙は、

この一連の抗争の少し後、

晋を三分し、
(正確には晋を含めて四分)
春秋時代を終わらせます。

近未来の話はともかく、

晋に国防を依存する
傘下の諸国とも
ギクシャクしており、

この内乱でも
各国で対応が異なります。

例えば、

この鉄の戦いにおける
趙鞅の相手は、

晋の同盟国
ではあるものの、

国君に背く
范・中行氏を
支持する

そして、范・中行氏が
朝歌を根拠地とし、
趙氏がこれを攻めます。

鄭は
こうした状況の最中、

斉の穀物を
大軍で范氏に
搬送する最中に、

朝歌から程近い鉄で
趙氏の襲撃を受けまして、

これが、
鉄の戦いです。

因みに、鉄については、

地名に詳しい
杜預の注には
「丘名」とありまして、

小倉芳彦先生は、

「丘」を「丘の上」と
訳されています。

単なる地形の話か、

あるいは、
当時の行政単位である
「丘」と
同義なのかどうかは
分かりませんが。

それはともかく、

こういうグダグダな
勢力図のもと、

自らの存亡を賭けて
大勝負に出る
亡命太子・蒯聵の
運命や如何に。

【雑談・了】

鉄で鄭を待ち受ける
蒯聵の搭乗する
戦車ですが、

その蒯聵は車右で、
格闘要員。

車左司令官の
趙鞅(趙簡子)。

因みに、
車左の役割は、

司令官の場合は
戦車に据え付けの
太鼓を打ち、

その指揮下の戦車では
弓の射撃を行います。

そして、
馭者の郵無恤
(ゆうぶじゅ)ですが、

鄭の大軍を
目の当たりにして
怖がって
戦車から降りた
蒯聵に対して、

「婦人也」と言いつつ
搭乗用の綱を渡すという
肝の据わり方。

現在の感覚ではアレですが。

【雑談】戦闘前の舞台裏

余計な話が
立て続けに出てきて
恐縮ですが、

ドンパチを始める前に、
その前の雰囲気を
垣間見ることに
しましょう。

蒯聵が気後れして
戦車から降りたやつは、

恐らく、

叩き上げの車右で
コレをやれば
一発退場の行為かと
思います。

城下で戯れ歌を聴いて
継母の存在を恥に思い、

恐らく衝動的なレベルで
家臣に斬らせようとしたり、

引用のように
戦場で気後れしたりと、

まだ若いのだろうと
想像しますが、

良くも悪くも、

命の遣り取りは、

生死の境目が近い程
度胸が必要とされる
空間かと思います。

サイト制作者が
その種の資質に
欠けることで、

余計にそう思う次第。

対して、

馭者が
身分の上下の隔てなく
隣に座す車左や車右に
アレコレ言うのも
この時代の御約束。

一蓮托生の
運命共同体
という訳です。

とはいえ、

大軍に気後れしたのは
蒯聵以外にも少なくとも
もう一方。

この車左の某さん、
事もあろうに
軍吏に戦車に縄られ、

その軍吏曰く、
「痁作而伏」
痁(おこり)を作して伏す

詐病・仮病も病気のうち、
いえ、這ってでも
戦うんですと。

何処かの国の
去就を決めかねた
投票で悩む
政治家さんみたいな御話。

その他、

この時代の
「軍吏」さん達ですが、

開戦前は軍事作戦に関与し、
個々の戦闘終了後には
事務勘定
消耗した戦力の整備に奔走し、

そして、

場合によっては
こういう嫌われ役と、

総務な何でも屋の
黒子役の模様。

因みに、

『周礼注疏』巻二十九
—「夏官司馬」の
軍事演習の件によれば、

兵隊のマスゲームの
誘導等を行う
「群吏」というのが
出て来ます。

これが「軍吏」に
相当するのであれば、

「謂軍将至伍長」
だそうな。

下は5名を受け持つ
下士まで含む
という訳で、

身分の話は
あまり用を為さなそうな。

因みに、

この時代の
士大夫であれば、

読み書き勘定と
弓・戦車の操縦を
セットで叩き込まれる
ことで、

裏方の事務や
雑用ばかり
やっている訳では
ないとは思いますが、

今のところ
それを
証明出来ないことで、

これは
サイト制作者の
想像の域を出ません。

【雑談・了】

さて、『左伝』では、

趙鞅や蒯聵の口上の後に
唐突に武勇伝の描写に
なりまして、

引用すると以下。

鄭人撃簡子中肩、
斃于車中、
獲其蠭旗
大子救之以戈、
獲温大夫趙羅
大子復伐之、
鄭師大敗、
獲斉粟千車

蠭旗:旗名(杜預注)
サイト制作者には詳細不明。
なお、『釈名』「釈兵」
の説く九旗には該当せず。

鄭人簡子を撃ち
肩に中(あた)り、
車中に斃れ、
その蠭旗(おうき)
を獲る。
大子これを救うに
戈をもってし、
温大夫趙羅を獲る。
大子またこれを伐ち、
鄭師大敗し、
斉粟千車を獲る。

敵味方双方、
まずは戦車を繰り出す
御約束で、

そのうえ、

彼我の指揮官が
陣頭指揮で敵に突っ込む
空間につき、

今回のように
車中でもしばしば
負傷します。

それにしても、

戦闘前には
気後れした蒯聵も、

いざ戦いおこるや、

車左を庇って
敵方の大夫を
生け捕るという具合に、

獅子奮迅の活躍
相成りまして、

このあたりは
エラいものだと
思います。

3-2、
で、矛は何処に?!

ですが、

矛の話としては、
オカシイと思うのは、

大子救之以戈、

そう、矛を手に
戦勝を祈願した蒯聵が、

矛ではなく戈で
趙鞅を庇った、
という部分。

バ〇キルト、だとか、

切っ先が変形する
マホウを使った訳でも
あるまいし、

その辺りのカラクリ
少し考えてみます。

具体的には、
車右の持ち物の話。

楊泓先生
『中国古兵器論叢』
によれば、

殷墟―
殷代の出土品の中に、
車右の装備品一式
あった模様。

穴の名前は、
「小屯C区M20
車馬坑」と
ありまして。

で、それによると
内訳は以下。

まずは、長柄の戈。

次いで、
銅製・石製の盾が
各々1枚、

さらに
長さ32cmの
馬頭刀が1振、
(柄が馬の頭の形)

護身以外にも
暴れた馬の
鞅(むながい)を
切ったり
するのでしょう。

その他、飛び道具は、

柲が銅製で
遠射用の弓が1張、

さらに矢筒が2本あり
その中身は、

ひとつの矢筒に
銅製の鏃が10本、
もうひとつには、
石製の鏃が10本。

最後に、
数は不明の砥石。

これらの備品について、

著者の楊泓先生
゛戎右゛那一組最典型
としています。

「戎右」は車右。

馭者や車左の役割の
詳細については
後述しますが、

ここで言えるのは、

春秋時代ではなく
殷代の御話とはいえ、

上記の持ち物から
すれば、

短戈は
積んでいないようで、

蒯聵は
他の方の戈を
拝借したのでしょう。

後述するように、

馭者も車左も
降車戦闘を行うことで、

車内には、

少なくとも
長柄の武器を
3本配備することに
なります。

因みに
武器の運搬ですが、

『周礼』「考工記」
によれば、

長物は戦車に斜めに
立て掛けるんですと。

で、この状態で
移動する際に、

武器の全長が
身長の3倍を越えると
支障を来す、と。

加えて、
以下は想像ですが、

敢えて
矛を収めたか
捨てたとすれば、

戦車の
馭者を挟んで
反対側に座る人間を
庇って
相手の切っ先を
受け流したことになり、
(相当器用な話!)

こういうのは、

戈よりも矛の方が
向いていたということ
かもしれません。

3-3、
車上の戦士の
手柄自慢

そして、
この戦いの話の最後に、

『左伝』における
戦場の描写の
御約束のひとつである
戦後の手柄自慢
引用します。

これも、
当時の戦闘の流れ
について調べるうえで
興味深い内容につき。

簡子曰
吾伏韜嘔血、鼓音不衰、
今日我上也
大子曰
吾救主于車、退敵于下、
吾右之上也
郵良曰
我両靷将絶、吾能止之、
我御之上也
駕而乗材、
両靷皆絶

韜:隠す
嘔:吐く
上:等級や品質が高い
ここでは成績が良い、
戦功が一番である、
といったところか。
下:地面。
ここでは、降車戦闘。
右:車右
靷:馬に繋ぐ綱、
むながい。
胸帯と車軸に繋ぐ。
御:馭者
駕:またがる
材:戦車の横木、軫。
・杜預注。
左右の上部のフレーム。

簡子(趙鞅)いわく
吾伏して血を嘔くを
韜(かく)し、
鼓音衰えず、
今日我上なり。
大子(蒯聵)いわく
吾車に主を救い、
下に敵を退け、
吾右の上なり。
郵良(郵無恤)いわく
我が両靷(いん)
まさに絶たんとし、
吾これを止むをあたい、
我御の上なり。
駕(またが)り
材に乗り、
両靷皆絶つ。

三名が
各々の手柄を披露して
それぞれの職務の
MVPだと言い放ち、

最後に、

馭者の郵無恤が
戦車の横木に
乗った弾みで、

当人が戦闘中に
切らさなかったと自慢した
むながいが切れた、

という御話。

『左伝』には
こういう話の締め方は
ひとつならず
ありまして、

オチを付ける
レトリックは、
少なくともこの時代には
あった模様。

3-4、
負傷する車左

さて、
肝心の戦後報告ですが、

まず、車左の趙鞅

車内での吐血となると、

先の引用と
照合すると、

彼我の戦車同士が
交錯した際、

敵の武器による
強打を受けたでしょう。

もう少し詳細な状況を
想定します。

以下は、想像ですが、

まず、車左の趙鞅が
敵の車右の
打撃を受けたとなると、

確率が高そうな
状況としては、

彼我の戦車が
並走していたことが
考えられます。

これは危険な話で、

高木智見先生
『孔子』によれば、

戦車は基本
左周りが原則だそうな。

これは、

旋回する時に
指揮車の車左を
敵の正面に
向けないための
手順だと思います。

ところが、この場合、

指揮者で
太鼓を叩く車左、
―長柄の武器を
持っていない、と、

格闘要員の車右が
至近距離で
交錯するという、

太鼓を叩く側
としては
最悪の組み合わせ
なった、

という可能性が
考えられます。

さらに、
吐血を隠せた
—負傷したこと自体を
隠せたことから、

弓や刃物による
外傷でないとすれば、

例えば、

胴体を殳で
叩かれたのかも
しれません。

それでも
太鼓の音が止まない、
太鼓を打ち続けた、
ということで、

これが意味するのは、

乱戦の中でも
味方の指揮車両が
健在であることを示す
極めて重要な行動です。

言い換えれば、

指揮車は
戦闘の出端から
敵に狙われて
射られ続ける訳でして、

例えば、

成公2年(前589)の
鞌(あん)の戦い
そうした一幕があります。

したがって、
その種の場面での
痩せ我慢が
指揮官の武勇の見せ所。

3-5、
車戦から白兵戦へ

さて、
打たれて吐血した
趙鞅を庇う
蒯聵ですが、

先述のような
車内での
趙鞅の救出以外にも、

「下に敵を退け」と、

戦車を降りて
白兵戦で敵を撃退した
という訳で、

乗車と徒歩の双方を
臨機応変に使い分ける
柔軟な用兵であることを
意味します。

武器も武器で、

臨機応変に
取っ換え引っ換える
やるのでしょう。

今回は
原文は引用しませんが

例えば、
『左伝』
宣公12年
譲公24年に、

個人レベルの車戦
―威力偵察と言うべきか、
詳細な描写があります。

いつか、
こういうのを精査して
手順を図解しようと
思うのですが、

絵に描いた餅の
妄想レシピはともかく、

それら描写によると、

前進して会敵の後
(恐らく車上で)
弓の射撃を行い、

さらに、

降車して
敵の防御陣地に斬り込み
白兵戦を行う、

という流れがあります。

で、今回の
鉄の戦いの場合は
遭遇戦につき、

白兵戦によって、

敵陣の攻撃ではなく、
荷車を護衛する部隊を
蹴散掃討する、

ということに
なりますか。

3000両も
鹵獲したそうな。

で、この、
ゼロ距離での戦い、

「人に付きもって投げ」
と、肉弾戦の様相。

投げ飛ばすんですと。

こういうのは、
時代が下っても
やっているのでは
なかろうかと
思います。

例えば、

後漢から三国時代の
状況として、

『釈名』
「釈兵」によれば
後漢末の矛頭は
松であったそうで、
(金属のものもあった
とは思いますが)

これで
俑や実物の出土品に
見られるような
魚鱗甲の鉄の鎧を
確実に抜ける
とも思えませんで。

さらに、
馭者とむながいの関係は、

今回のように、

切そうなものを
なんとかもたせる
ケースもあれば、

馬が暴れて
収拾出来ないので
やむなく切る、

という話が
『左伝』には一度ならず。

蒯聵のその後
については、

記事の主旨からして
書かぬが華かも
しれません。

そろそろ、
次の矛の件に
話を移そうかと
思います。

余談ながら、杜預は、

鉄の戦いについて、

以下のように
付言しています。

伝言簡子不譲下自伐

伝:言い伝え、
譲:退く

伝は言うに
簡子は譲らず
下りて自ら伐つ。

趙鞅は、
言い伝えによれば、

負傷して
蒯聵に庇われた
だけではなく、

その後の降車戦闘で
果敢に戦った、と。

当時から
数百年以上も経った
後漢・三国時代でさえ、

この種の伝聞が
少なからず
あったのでしょう。

4、歩兵陣を切り裂く
車上の矛

4-1、呉の北進と魯

哀公11年の
「冉有斉師に矛を用い」
(見出し)

これは鉄の戦いから
10年弱後の魯の御話。

先述の晋の内乱で
中原は依然荒れてまして、

そのうえ
南方では呉が台頭して
北進を企てます。

で、これが
中原の東半分の勢力図を
散々に引っ掻き回す
大事になりまして。

そして、
その矢面に立つ
呉と干戈を交えた末、

呉の傘下に降り、

その後ろ盾で
斉と事を構えることと
なります。

3、哀公11年
(前484)の
「冉有斉師に矛を用い」
は、

以上の流れで起こった
斉の侵攻に対する
魯の本土防衛戦、
郊の戦いの一幕です。

因みに、「郊」は、

具体的な地名ではなく、

魯の国邑(国都)である
曲阜の郊外、
という訳です。

念の為。

さて、ですが、

座右の字引きによれば、
国都の城外。

城から50里を近郊、
100里を遠郊
称するものの、

時代が下って
城外や野外を指すように
なったのですと。

4-2、
どのように
矛を用いたか

さて、件の
「斉師に矛を用い」
ですが、

これに対して、
孔子「義なり」
誉めています。

今風に言えば、
親指を立てて
「ぐっじょぶ!」
とでもやる
感覚かしらん、
ホントかね。

サイト制作者の
浅学につき、

この「矛を用い」と
「義なり」の
意味するところを
掴みかねていまして、

以下に
ふた通りの解釈を
用意しました。

1、矛の使用の
軍事面での合理性。

2、司令官の車左が
自ら矛を手に執って
敵陣に突入する武勇。

まずは、
1、の合理性について
触れます。

『左伝』における
哀公11年の
郊の戦いの描写は、

いくつかの引用を
見る分には、

春秋時代の
激戦のひとつ
というよりも、

嫌味な言い方を
すれば、

孔子の弟子の
冉有のカッコイイ話で
有名になっているように
見受けます。

郊の戦いの話は初耳だ、
という方は、

すぐに読めるもの
としては、

九去堂様の
訳や書き下しが
良く出来ている
思いまして、

そちらで
大体の内容を
御確認頂ければ
思います。

『論語』全文・現代語訳
『春秋左氏伝』
現代日本語訳・哀公十一年
ttps://hayaron.kyukyodo.work/fuki/saden_aikou11-2.html
(1文字目に「h」を
補って下さい。)

個人的には、

細かい部分では
気になるところも
多少ありますが、

全体としては、

漢文の読み方や
言葉の理解の方法等、
色々と
勉強になりました。

この場を借りて
御礼申し上げます。

さて、
この曲阜郊外の戦いは、

孔子の弟子の冉有が
戦車で頑張った描写
目立つものの、

一方では、

相当に、
歩兵が入り乱れた
戦いであった模様。

【雑談】
300名の戦闘単位

余談ながら、

冉有の直属の部隊
武城から引率した
「徒卒」300名。
杜預によれば
「歩卒、精兵」。)

実は、
300名の編成単位

『左伝』でいくつか
例があることで、

これについて
少し考えてみます。

『逸周書』「武順」
300名の編成単位
「佐」としています。

その指揮下には
100名の部隊
である「伯」
3隊あります。

さらに、その下には
25名の「卒」

そして、
「佐」と「伯」の
関係は以下。

均伯勤、労而無携、
携則不和
均佐和、敬而無留、
留則無成

勤:力を尽くす
労:真面目に勤める
携:離れる、分離する
和:調和する、整える
留:拘泥する
成:実現する

均しく伯は勤め、
労たりして、
携(はな)れるなく、
携(はな)れれば
すなわち和ならず
均しく佐は和し、
敬いて留まるなく、
留まればすなわち
成すなく

大意を取れば、

100名の部隊は
勤勉さと
他の伯との連携が
必要とされ、

対して、

300名の部隊は
上位部隊との協調性と
戦術面での柔軟性
必要とされる、と。

要は、
300名の意味は、

指揮官に
或る程度大きい
裁量があり
戦術面で独立性の高い
戦闘部隊。

さて、
『左伝』で
いくつか見られるのが、

特別な作戦を
行うために
精兵を選抜して
部隊を編成する
ケース。

次に挙げる事例は、

残念ながら
『逸周書』に
基づいている
確証はないのですが、

謂わば、

300名あるある
につき、
御参考まで。

襄公17年
(前556)に
斉が魯に侵攻した際、

曲阜から
20キロ程度東に
位置する
防が包囲されまして、

これを守る魯の守備隊
城外の友軍と呼応して
夜襲を行うのですが、

その部隊の内訳として、

郰叔紇、藏畴、藏賈
帥甲三百

郰叔紇(すうしゅくこつ)、
藏畴(ぞうちゅう)、
藏賈(ぞうか)
甲三百を帥いて

と、あります。

この郰叔紇
(すうしゅくこつ)が
孔子の父の叔梁紇
(しゅくりょうこつ)。

藏畴・藏賈の詳細は
残念ながら
分かりません。

で、先述の
『逸周書』「武順」
前提に読めば、

叔梁紇が
2名の部下と自分で
各々100名、
計300名を率い、

さらに、
伯1隊は直属であった
ということかと
思います。

さらには、
「甲」というのは、

ここでは
夜戦が出来る―

『管子』
匡君小匡・第二十
にあるような、

敵に目立つ
旗や鳴り物に頼らず、

互いの声で
意思疎通が出来る程
結束力のある、

言い換えれば
巧妙な夜襲が出来る、

(地縁・血縁のある
兵士より選抜された)
精兵であろう、と。

因みに、
『管子』の
この部分の解釈は、

高木智見先生の
『孔子』
参考にしました。

【雑談・了】

4-3、魯軍の概要

さて、

武城発の300名の
冉有様御一行が
いくら強いと
言えども、

これだけで
戦争する訳では
ありませんで、

戦いの詳細について
考えるための
材料として、

一応、魯軍の概要
少しばかり。

直近の再編は
昭公5年(前537)。

その折、

魯の国軍を
季孫・叔孫・孟孫が
2:1:1の割合で
保有する、

で、国君の兵は?

―という、
どうもヘンな内容。

もっとも、

再編の本丸は、

兵士というよりも
動員を下支えする
領地・領民でして、

その30年弱前の
襄公11年(前562)
の「改革」を
前進させたもの。

早い話、

国君の力を削ぐための
政争の御話です。

大人の事情はともかく、

今回の郊の戦いでは、

最有力の卿の季孫
7000の兵を有し、

相手の斉の兵車の数
叔孫・孟孫のいずれか
よりも下回る、

という明らかな戦力差。

軍の、中・左右という
割り振りが
平時から存在するのかは
分かりませんが、

以上の経緯から、

先発して斉に突っ込んだ
左軍が季孫の軍、

寄せ手の先発部隊を
迎撃して
エラい目に遭った
右軍が、

その顔ぶれからして
叔孫の軍、

ということになるかと
思います。

さらに斉軍ですが、

この時の司令官は
国書で、
国氏は斉の有力勢族。

郊の戦いの
翌年に勃発した
呉・魯と斉の
大会戦である
艾陵の戦いも、
この人の指揮。

艾陵の戦いでは
上・中・下の三軍
呉に当たり、

国書は中軍に
属していたことと、

晋楚は元より鄭にせよ、
艾陵の戦いの呉も
然りで、

野戦で
三軍を並べるのが
当時のスタンダード
であることから、

兵の多寡はともかく、

は、さらにもう1隊を
展開させていた
可能性がある
思います。

4-4、
車戦の影にある歩兵戦

さて、武城の300名の
冉有様御一行を含めた
魯の左軍、
—額面通り7000も
いたのかは不明、は、

自分の息が
掛かった筈の
兵隊共が
言うこと聞かんわ、

それを見かねた
同門で若くて
血の気の多い
某(後述)に
アレコレ言われるわと、

紆余曲折を経たものの、

首尾良く
斉軍に殴り込みを
掛けまして、

挙げた戦果は
「甲首八十」。

余談ながら、

少なくとも当時から
死体から耳を切って
ボディ・カウント
するんですと。
―「馘」。

いえ、正確には、

車上の戦士が
同僚が気に喰わん
とかで、

生きてる人間の耳も
バッサリやる世間。

ゾ~っ。

それはともかく、

「甲首八十」の
被害によって、

斉のこの部隊
態勢を立て直せず
戦線離脱と相成ります。

この時代の「甲」は
身分の高い人か
選抜された精鋭か、

今のところ
厳密な定義は
サイト制作者には
分かりかねます。

その他、余談ながら、

甲士とは
恐らく
別のカテゴリーの
猛者として、

「大力」というのが
います。

残念ながら
座右の字引きには
なかったのですが、

用例からして、

身分の高い人が
身辺警護等のために
抱えている武芸者で、

城中の要人襲撃等で
活躍します。

【追記】

「大力」というのは
『左伝』を和訳された
小倉芳彦先生の
言葉です。

原文では、
「力臣」「有力」等
と称し―、

まあその、
名称がないような
ものです。

ですが、

「武芸者」
というよりは、

怪力の人が
有事の暗闘の
殺し屋として
重宝されたのは、

恐らく事実です。

エラい人々は、
普段は、

こういうのに
馬の飼育等を
させています。

対して、その政敵は、

どこそこの館には
誰其というのがいる、

という具合に、

平時から情報を集めて
警戒します。

社交で
方々の館に
足を運んだりする
訳でして。

『左伝』荘公32年、
襄公23年等を参照。

【雑談・了】

話を本筋へ。

さて、ここで、

魯が取った
斉の甲士の
首の数の意味
考えてみましょう。

斉軍の数は、

総数
どうも3500未満。

仮に、
2部隊展開していれば、

単純に考えれば、
1隊あたり
2000名を
切ります。

さらには、

当時の車歩の
大体の割合、

『逸周書』
100名当たり1両、

『司馬法』
後世の引用
75名当たり1両、

からして、

件の首80は、
戦闘に参加した
車上の戦士を
上回る数。

負傷者など
言うに及ばずで。

これが
意味するところは、

御約束の
車戦に加えて、

戦車が
敵の戦列歩兵に
突っ込っこむどころか、

歩兵同士でも
激しい白兵戦をやった
可能性が高い、

ということだと
思います。

こういう経緯から、

「斉師に矛を用い」の
軍事面での解釈は、

九去堂様が
解釈されているような
突破戦における
矛の威力、

もう少し言えば、

歩兵陣に対する
車上の矛の威力
なのでしょう。

4-5、
意味深な杜預の注

さて、サイト制作者が、

2、司令官の車左が
自ら矛を手に執って
敵陣に突入する武勇。

という
仰々しい解釈
用意した理由は、

戦いの件の末尾の
杜預の注
あります。

引用すると、以下。

言能以義勇
不書戦、不皆陣也
不書敗、勝負不殊

言うをあたうに
義勇をもってす
戦いを書かざれば、
皆陣せざるなり
敗れるを書かざれば、
勝負は殊にせず

書いて
後世に伝えるにも
勇気や正義感が
必要である。
書かなければ
何も残らない、と。

直接的には、

『西部戦線異状なし』な
『穀梁伝』や『公羊伝』
のことかと想像します。

さて、
これが意味する
ところですが、

サイト制作者の
想像ですが、

魯の太史を務めた
左丘明が
自分の国の恥を
暴露したことかと
思います。

と言うのは、

この郊の戦いの
構図として、

冉有の奮闘と
対をなすかたちで、

本来、

軍事力の中核を
担うべき立場にある
国人が、

実際の戦闘での
不甲斐さを
露呈しました。

その背景には、

直接的には、

寄せ手の斉の兵力が
少なかったことで、

その対応が
魯を牛耳っていた
三卿の政争が
見え隠れします。

【雑談】
厭戦の理由を考える

とはいえ、
サイト制作者としては、

この郊の戦いの件を、

孔子側の武勇伝だけで
済ませて良いものか、

どうも
疑問に思う部分も
見え隠れしまして。

ですが、

矛の話とは
どうも関係なさそうで、

春秋時代の
捻くれた捉え方、

あるいは、
『左伝』の歪な読み方の
ひとつとして
御参考まで。

さて、

郊の戦いの
何年か前の段階では、

魯と斉は、
姻戚による
同盟関係にありました。

この辺りは
季氏の動きが
になるので、

以下に記します。

まず、

魯の最高実力者である
季康子が、

自分の膝元に
亡命していた
公子時代の悼公に
妹君を嫁がせたのですが、

身内の痴話が拗れて
そのさんが
魯を出ないと来ます。

その後、

陳(田)氏の
後ろ盾で斉に帰国して
首尾良く国君になった
悼公の怒りを買い、

魯は斉の侵攻を
受けます。

で、その
後始末として、

魯は妹君を斉に出して
失った領土を
取り戻して
手打ちにする、

—という具合に、

スッタモンダの上に
斉と結んだ同盟が、

事もあろうに
北進して来た
呉の圧力で
御破算になった、

という
ややこしい経緯が
あります。

季氏と呉の事情で、

御隣の強国・
斉との関係が
猫の目にように
変わる訳です。

しかも、

北上する呉の
目の前でやった
小国・邾(ちゅ)
への侵攻も、

それらしい成果を
得られません。

これも、

季氏が
周囲の反対を
押し切って
強行するという
曰く付き。

で、その台風の目の
はといえば、

恐らく中原の目線では、

自分達の流儀の
軍事教練を
受けておきながら、

魯に周王以上の
過剰な接待を要求する
という
イカレ具合。

そのうえ、

その呉の影響力の強い
武城から
精兵を引率し、

その兵で
斉と戦おうと
息巻くのが、

季氏の家臣の冉有。

当然、
冉有の背後には、

その少し前に、

現職の司寇として
国君の権力強化を
推し進め、

反対分子の兵乱を
武力で鎮圧した
師匠・孔子の影が
見え隠れ。

例えば、

冉有は弟弟子の樊遅を
車右に抜擢しますが、

周囲の
若い(当時31歳前後)
という意見を
押しのけています。

当時、は、
呉の勢いを
一時的なものと
看破しており、

長い目で見れば、

策源地が
曲阜やから程遠い
(当時の感覚で3ヶ月)
呉の勢いが
盛りを過ぎれば、

拗れた斉との関係を
見直さざるを
得ません。

穿った見方をすれば、

呉に振り回される
季氏と、

その勝ち馬に乗って
自分達の利害に反して
暗躍する
怪しい政策集団の
台頭、

—という構図で、

曲阜の中で
対斉戦への消極論が
燻るのも
分からん話ではないと
思います。

【雑談・了】

まあその、

いくら国内で
ゴタゴタが
あるとはいえ、

目先の国防にも
手を抜かないという
心ある人々
いまして。

崩れた右軍の話として、

御丁寧にも、

気骨のある人や公族が
戦死する描写まで
網羅されています。

左丘明が生きた時代が
近かったか、
あるいは存命中に、

それも郷里で起こった
戦いにつき、

見聞きした話が
多かったのではないかと
想像します。

こうした状況を受けて、

サイト制作者は、
敢えて、

「斉師に矛を用い」は、

国人の劣勢を尻目に
奮闘した冉有の武勇を
象徴している、

という解釈も
出来るでのはないか、と、
考えた次第です。

と、言うのは、

はじめに挙げた
3箇所の
「矛」の件のうち、

先述のように、

焉陵の戦いの欒鍼、
鉄の戦いの蒯聵と、
この2箇所については、

機能的な話ではなく
武勇の象徴
取りまして、

この郊の戦いの
それにも、

機能的な理由以外にも
同じニュアンスを
感じたからです。

おわりに

無駄話で焼け太って
長くなりましたので、

以下に要点を纏めます。」

1、『左伝』における
矛の描写は、
少なくとも3例あり、

いずれも
戦場における武勇を
象徴していると思われる。

2、もっとも、3例中、
哀公11年の1例は、

歩兵陣に対する
車上の矛の有効性を
示している可能性がある。

3、春秋時代の車戦には、

まず、車上での射撃戦、
次いで、長柄の武器での
斬り合い、

そして、降車後の
白兵戦という流れがある。

4、実際の戦闘では
かなり臨機応変に
武器を使い分け、

特に降車戦闘では
肉弾戦も行う。

5、長柄の武器や
弓については、

車戦に加えて
降車戦闘も
行うことから、

搭乗員全てが
所持している
可能性を考えたい。

6、以上の1~4、の
項目より、

当時の武器に対する
効能として、

臨機応変に使い分ける
機能的なものと、

外見の与える
精神的なものが
存在する。

後者は、
本文では触れなかったが、

管見の限り、例えば、

飾りのついた
儀仗的な戈や斧等が
少なからず出土している。

【主要参考文献】
(敬称略・順不同)

左丘明著・小倉芳彦訳
『春秋左氏伝』(各巻)
杜預『春秋経伝集解』
『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』
(国学導航)
司馬遷
『史記』(維基文庫)
金谷治訳注『論語』
劉熙
『釈名』(天涯知識庫)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
周緯『中国兵器史稿』
篠田耕一
『武器と防具 中国編』
稲畑耕一郎監修
『図説 中国文明史3』
薛永蔚
『春秋時期的歩兵』
高木智見『孔子』
愛宕元・冨谷至編
『新版
中国の歴史 上』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版
香坂順一編著
『簡約 現代中国語辞典』

【言い訳】

思い出すのは、

トイレに籠って
長時間粘った割には
戦果の乏しかった時の
徒労感と絶望感。

あまり
論旨とは関係ない
魯・呉・斉の
関係の整理に
思いの他
手間取りました。

その他、
孔子関係の話は、

弟子や本人を
誉める話の裏で
色々ありそうで
ムツカシアルヨ。

サイト制作者の性格が
曲がっているといえば
それまでですが。

それはさておき、

御笑読頂いている
皆様には
本当に申し訳なく
思います。

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「考工記」と「釈兵」の説く矛について

はじめに

今回は、
自身の悪癖が出て
無駄に長くなったので、
先に章立てを入れます。

適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

はじめに
1、原文の説く柄の上下の固さ
2、ポイントになる「重」の解釈
2-1、まずは、原文と注釈を
2-2、今風に言えば、ドウシる?!
3、「釈兵」の説く矛と戈
3-1、疑問提起、矛戈の「堅」
3-2、何かと便利な『釈名』
3-3、出土品の形状との比較
3-4、ノーカットで読んでみる
3-5、矛頭の定義
3-6、後漢時代の実物
【雑談1】存外アバウトな百歩?!
【雑談2】 出土品の墓の話
3-7、定義が変遷する?槊
3-8、多様化する矛
3-9、「考工記」より短い夷矛
おわりに (結論の整理)

はじめに

今回の御話は、
『周礼』「考工記」の説く
矛の使い方について。

図解の下書きを描く過程で
またも誤読が
発覚しまして、

それ以外にも、

話の流れで
どこかの大きい国みたく
イロイロと
身の丈に合わないことを
やらかしまして、

結局、ひと月以上も
掛かってしまいまして、
大変申し訳ありません。

1、原文の説く柄の上下の固さ

それでは、早速、
本文に入ります。
図解の方を
見てみましょう。

例によって、

あくまで
参考程度で御願いします。

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

まず、「刺兵同強」
(刺兵は強きを同じくし、)
ですが、

『周礼注疏』は、

「上下同也」
(上下同じなり)、

柄の前後の硬さが同じ、
と、しています。

想像するに、

『周礼注疏』の解釈に
準拠すれば、

車戦で使うための
3m程度の長物を
一定の数量を
確保する、

という話につき、

或る程度の高さの木の
幹でもない限りは、

硬さにバラつきが
出易いのかもしれません。

2、ポイントになる「重」の解釈
2-1、まずは、原文と注釈を

続いて、「考工記」原文
以下の部分について。

挙囲欲重、
重欲傅人則密

囲:武器の取っ手
重:増やす、重視する
傅:付く
密:安定する

囲を挙げるに重を欲し、
重は人に傅すを欲し、
すなわち密。

例によって、
書き下しも手製につき
これも参考程度
御願いします。

この部分については、

サイト制作者は、
図解の如く、

矛を手に執って
突く時に、

囲に力を入れれば
切っ先が安定する、

と、解釈します。

さらには、
『周礼注疏』には、

操重以刺則正

操:持つ、握る
正:まっすぐな様

重んじて握り
もって刺すは
すなわち正

と、あります。

力を入れて握れば
まっすぐ刺さる

という訳でして、

別の言葉に言い換えて
説明しています。

こうやって、一見、
すんなり訳せたように
見えますが、

サイト制作者は
ここで躓きまして。

2-2、今風に言えば、ドウシる?!

言わないと思います。

ただ、最近の言葉では、

バグる、ググる、
といったような言葉を
イメージされたく。

さて、ここで肝心なのは、
「重」の意味。

コレ、古語としては、
座右の字引きによれば、

動詞としては、

大事なものと見なす、
増やす、

ある基準よりも
目方がある
=重い、

といった意味が
あります。

これを受けて、
サイト制作者は、最初、
馬鹿正直に、

形容詞として
物理的に「重い」と
解釈しました。

武器の「囲」に
細工する、

例えば、

コーティングする部分が
重くなる、

といった解釈に
なる訳です。

一方で、

心理的な面での「重」は、
例えば、

人を重用する、

あるいは、

多い情報量の中での
取捨選択として
「重視」する、

というような意味しか
頭にありませんでした。

ですが、ここでは、

これらの解釈から
もう一歩踏み込んで、

手に執った人間が
物理的に力を入れること
「重」と言うのでしょう。

果たして、
『周礼注疏』には
この部分について、

謂矛柄之大者
在人手中者

矛柄の大いなるは
人手中にあることを
いう

大:強い、激しい、

とあります。

矛の柄の中で
力が入るのは
手で握る部分である、

—と。

教訓としては、

少しでも
日本語として通じないと
感じた部分については、

徹底して
字引きを引きなさいよ、

ということなのでしょう。

さらには、

この「大」
クセモノで、

ここでは、
「大きい」という意味
以外にも、

強い、激しい、ひどい、
といった、

恐らく、ニホン語からは
想像するのが難しい意味も
あります。

文脈から考えれば、

ここでは
「重」も「大」も同じ、

力を入れる、
という意味なのでしょう。

3、「釈兵」の説く矛と戈
3-1、疑問提起、矛戈の「堅」

この章では、
『釈名』「釈兵」を中心に、

矛と戈の使い方を
比較してみます。

そうすることで、
矛の特徴が
より浮き彫りになります。

さて、前章に因んで、

『周礼注疏』
少し気になる文言が
ありまして、

それは、

矛と戈は
前後のいずれが「堅」か、
という御話。

以下の部分です。

句兵堅者在後、
刺兵堅者在前

句兵堅きは後にあり、
刺兵堅きは前にあり

句兵:戈・戟
堅:しっかりして
揺るぎない
落ち着く・安心する
刺兵:矛

戈や戟は
柄の後ろの方が
しっかりしていて、
矛はその逆。

その理由については、
以下。

前置きで「釈曰」、
―『釈名』「釈兵」を
典拠とする、
と、しつつ、

戈戟については、

句兵向後牽之

句兵後ろに向かい
これを牽く

については、

向前推之

前に向かいこれを推す

と、します。

要は、
柄そのものの固さ
ではなく、

持ち手が力を加えた時に
どの部分が
しっかりしているのか、

という話なのでしょう。

これも、
字引きを引くのを
躊躇したツケでして、

「堅」=硬さ、という
日本語のニュアンスで
足を掬われました。

3-2、何かと便利な『釈名』

一応、
件の「釈兵」についても
触れます。

前置きとしては、

『釈名』は、要は、
万物の字引きです。

一読する分には、

ほとんど
『三国志』の時代の感覚で
万物の語源を辿る
という内容に見受けます。

兵器のみならず、
服飾、車両、地理、
という具合に
何でも御座れで、

諸分野の考証の
足掛かり
なろうかと思います。

原文に興味のある方は、
以下のサイトにて。

『天涯知識庫』さんの
『釈名』目次
ttp://book.sbkk8.com/gudai/shiming/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

『中国哲学書
電子化計画』さん、
同上
ttps://ctext.org/shi-ming/zh
(一文字目に「h」を補って下さい。)

3-3、出土品の形状との比較

話を矛と戈の「堅」に
戻します。

まず、「釈兵」中の
戈の件は以下。

戟、格也、旁有枝格也
戈、句孑戟也
戈、過也
所刺搗則決過所鈎、
引則制之、
弗得過也

格:打ち殺す
枝格:樹木の長い枝
句:まがる
孑:小さい、単独の
ここでは干戟の援か。
過:通る、勝る、過失
ここでは貫通する、か。
決:裂く、嚙み切る
鈎:かぎに掛けて取る
制:断ち切る

戟、格なり。
旁に枝格あるなり。
戈、句孑の戟なり。
戈、過なり。
刺し搗(と)るところは
すなわち決(き)り
過は鈎(か)くところ、
引くはすなわち
これを制し、
過を得ざるなり。

参考までに、

後漢当時の
武器の先端の形状
見てみましょう。

以下は、
以前掲載した図解です。

学研『戦略戦術兵器事典 1』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

時代区分がヘンですが、
後漢時代も
右側に入りますので
念の為。

この図解も、
出土品の明示等で
精度を上げるかたちで
描き直したいと思いますが、
いつになることか。

さて、
「釈兵」の話が
仮に後漢時代のものだと
仮定すれば、

成程、戟の特徴を
よく表していると
思います。

と、言いますのは、

この時代の戟の特徴は、

それまでの戟のような
戈に先端の戟刺を
足したものとは異なり、

刺突系の攻撃に
かなり重心を置いた構造
なっています。

矛に近い形状。

言い換えれば、

本来、戈の本質
とも言える援が、

幹に対する「枝格」
―この部分が主役ではない、
と表現される辺り、

そうした特徴を
よく表していると思います。

因みに、

当時の戟については、
『中国古兵器論叢』
詳しいです。

著者の楊泓先生によれば、

こういうのを
『「卜」字形戟』
称するのだそうで、

洛陽や南昌(江西省)の
後漢時代の遺跡から、

大体このサイズのものが
出土している模様。

一方の戈は、

「句孑の戟」、つまり、
曲がる部分がひとつ。

言い換えれば、
戟刺がありません。

この部分は、
後漢時代の出土品を見ると
逆に分かり辛いのですが、

「考工記」・冶氏為殺矢の
次の部分にある
戟の件との対比だと
思います。

恐らく「〇氏為〇」が
欠けているところ。

で、その件は、

以前の記事でも
触れましたが、

具体的には、

戟の援・戟刺・内が
3本共曲がっている
ものがある、

という御話。

機能性はともかく、

西周時代の出土品にも
こういうものがあります。

一応、図解を再掲。

『釈名』の著者の劉熙
実物を見たかどうかは
サイト制作者は
分かりませんが、

「句孑」を
「考工記」の文言との比較
考えると、

少なくとも、
内容は一致していると
思います。

で、肝心の、
戈戟の使い方ですが、

「釈兵」によれば、

刺し切っても
引いて切っても大丈夫、
というもの。

その他、「過」が
何度も出て来るので
紛らわしいのですが、

最後のものは、恐らくは、
失敗を意味し、

引いて切れば間違いない、
ということだと
思います。

3-4、ノーカットで読んでみる

「釈兵」
矛の部分についても
触れます。

ここでは
無関係な部分が
多いのですが、

矛が主題であることに
加えて、

考証の材料として
オモシロいこともあり、

今回は敢えて
ノーカットでいきます。

長いので、
区切りを付けました。

因みに、

この「釈兵」の
「殳矛」以下の件は、

矛というよりは
「殳」の説明につき、
今回は省きます。
(過去の記事で触れたため)

A
矛、冒也、
刃下冒矜
下頭曰鐏、鐏入地也
松櫝長三尺、
其矜宜軽、以松作之也、
櫝、速櫝也、前刺之言也

B
矛長八尺曰矟、
馬上所持、
言其矟矟便殺也
有曰激矛、激、截也
可以激截敵陣之矛也

C
仇矛、頭有三叉、
言可以討仇敵之矛也
夷矛、夷、常也
其矜長丈六尺、
不言常而曰夷者、
言其可夷滅敵、
亦車上所持也
矛芍矛、長九尺者也
矛芍、霍也
所中霍然即破裂也

冒:覆う
矜:柄
鐏:いしづき
櫝:箱、ひつぎ
速:ここでは、
意味する、早い話、
といった意味か。
尺:後漢時代は
1尺=23.75cm、
魏晋時代は
1尺=24.2cm。
矟:騎兵用の長い矛
矟矟:ほっそりした
激:突く、
激しくぶつかる
截:切る、断つ
常:いつまでも
守り続ける
霍:素早い
霍然:たちまち

A
矛、冒なり。
刃下に矜(きん)を
冒(おお)う。
下頭をいわく鐏、
鐏は地に入るなり。
松櫝は長三尺にして、
それ矜は
よろしく軽くすべく、
松をもって
これを作るなり。
櫝、
櫝を速(まね)くなり。
前刺の言なり。

B
矛長八尺をいわく矟、
馬上に所持し、
それ矟矟(しょうしょう)
として
殺すに便なり。
いわく激矛あり、
激、截なり。
もって
敵陣を激截すべきの
矛なり。

C
仇矛、頭に三叉あり。
もって仇敵を討つべきの
矛なり。
夷矛、夷、常なり。
その矜長丈六尺にして、
常と言わず、
いわく夷とするは、
それ夷は
敵を滅すべきを言い、
また車上に
所持するなり。
矛芍(けき)矛、
長九尺のものなり。
矛芍、霍なり。
中(あた)るところ
霍然として
すなわち破裂するなり。

3-5、矛頭の定義

さて、
まずAの部分ですが、

「釈兵」によれば、

所謂「矛」の字は、

先端の金属部分
矛頭を意味します。

邪な解釈をすれば、

先端を取れば、
何の棒だか
分からん訳で、

杯型のゴムを付ければ
トイレで使う
ラバーカップ。

むこうの言葉で、
馬桶柱塞
と言うそうな。

んなものは
あの時代にはないと
思いますが、

余分な話はともかく、

件の矛頭―矛、

どうも金属ではなく、
松で製作する模様。

その場合、
柄は軽い方が望ましい
とします。

サイト制作者の
想像ですが、

鉄自体が
貴重な時代につき、

炒鋼法で
鉄製の武器を大量に
確保しようと思えば、

労力はもとより、
大量の鉄鉱石や
木炭を使用することで、

まして
戦争の時代ともなれば、

こういう方法に
頼らざるを得ないのかも
しれません。

で、この櫝=前刺、
言い換えれば、
松製の矛頭は、

長さ3尺とありまして、

後漢時代の尺で言えば
71.25cm。

これは矛頭としては
結構な長さです。

後代の尺を用いれば
さらに長くなります。

さらに、
計測方法を変えると、

これまた違った側面も
見えて来ます。

具体的には、

「考工記」廬人為廬器の
「酋矛」における
全長と「刺囲」の比率から
弾き出す方法です。

当該の件を参考に、

「刺囲」の
全長に対する比率
8/45とします。

その結果、

周尺換算で
全長360cm余に対して
刺囲は64cm余。

先述の「釈兵」の説く
「長三尺」が
後漢時代の尺で
71.25cmにつき、

両者の差は
10cmを切ります。

後述するように、

この「釈兵」
「考工記」の内容の一部が
下地になっている痕跡
あります。

3-6、後漢時代の実物

ところが、

事実は小説よりも奇なり、
でして、

漢代の出土品も
これに近い数字と来るので、
ややこしくなっています。

順を追って
見ていきましょう。

まず、以前の記事で、

殷から戦国時代までの
銅製の矛頭は
かなり長いものでも
大体50cm程度、

という話をしました。

一応、図解を再掲します。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

(以前掲載した際、
「常」の換算方法が
誤っていましたので、
今回訂正します。)

対して、

先述の
矛や戈の形状の変遷の
図解にあるように、

漢代の鉄製の矛の2例は、
48.5cmと
65.3cm。

後漢時代の3尺の
71.25cmに対して、

特に、
下の1例については、

結構イイ線行っている
思います。

これに因んで、
この時代における
矛の状況は詳しくは
分からないのですが、

については

先述の
『中国古兵器論叢』
詳しくありまして。

例えば、
長いものでは、

洛陽の後漢の
光和2年(179)
王当なる人の墓から
1974年に
出土した戟は、

何と、
長さ69cm。
形状は卜字戟。

管見の限り、
戦国時代までの戟で
これ程の長さのものは
ありません。

それどころか、

戦国時代までの
出土品の感覚で言えば、

飛び抜けた長さだと
思います。

ですが、

後漢時代の
戟の出土品はと言えば、

「考工記」にある
戟体の規格からは
逸脱の甚しさ。

「釈兵」の戟の件
どちらかと言えば、

その「現状」に準拠して
書かれている
言えます。

サイト制作者は
これを受けて、

「釈兵」の説く
「松櫝」の長さは、

後漢時代の現状を
反映している
考えます。

ただ、当時の知識人の
こうした時代ごとの
尺の長さの
違いについては、

どこまで正確に
勘定しているのかは、

サイト制作者は
分かりかねる部分が
少なからずあります。

よって、
記事の末尾の結論では、

少なくとも、

1、後漢の出土品の状況
に準拠

2、「考工記」
廬人為廬器の内容に準拠

以上のふたつの捉え方が
ありそうである、

と、書こうと思います。

【雑談1】存外アバウトな百歩?!

余談ながら、
ここで、

古代中国における
数字の捉え方について、
オチのない話を少々。

以前の記事でも
触れましたが、

例えば、

『春秋経伝集解』
―杜預の付けた
『左伝』の注釈では、

昭公二十一年の件で、

殳の長さについて
「考工記」の数字を
そのまま掲載しています。

その他、

『周礼』「夏官司馬」の
大閲の件で、

百歩則一、為三表

百歩をすなわち一とし、
三表をなし、

百歩ごとに標識
(あるいは、単なる杭か)
を立て、

これを3単位設置し、

これを目安に
部隊の前進・停止の
訓練を行う、

という御話。

戦国時代の
『尉繚子』「兵教上」にも、
百歩ごとに標識を立て、
―「置大表三」

百歩ごとに
鶩:全力疾走
趨:小走り
決:白兵戦

という流れの
突撃訓練を行う
件があります。

両者の「百歩」は
時代ごとの尺を
厳密に当てはめれば、

2割以上の差が
あるのですが、

サイト制作者としては、

どうも、

その辺りを
正確に計測している
ようなニュアンスには
取れませんで、

つまるところ、

目先の事務の
ソロバン勘定
であればともかく、

時代ごとの
尺の違いについては、

余程専門性の高い
実務官でもなければ、

結構アバウトでは
なかったのか、

と、すら思います。

とはいえ、
サイト制作者の
感覚レベルの話につき、

妄想はこの辺りで。

【雑談1】・了

【雑談2】 出土品の墓の話

墓についても無駄話を。

黄巾の乱の数年前で、
限りなく
『三国志』の空間に
近い御話。

余談ながら、
「王当」
検索を掛けたところ、

墓の説明書きのある論文
見付けましたので、
アドレスを掲載します。

残念ながら
熟読はしていないのですが、
(まずは、
記事を更新してから
読もうと思います・・・。)

どうも、
墓の土地の売買という
生臭い話のようで、

個人的には
非常に興味があるのですが、
それはともかく、

当時の人々は、

墓の中も
現世の生活空間の延長
という発想で、

副葬品として
高級品から空手形まで
実にイロイロなものを
持ち込み、

内壁に
レリーフまで彫るので
オモシロいものです。

こういう話のタネ本は、
以下。(著者敬称略)

柿沼陽平
『中国古代の貨幣』

蘇哲
『魏晋南北朝
壁画墓の世界』

当時の
富裕層・知識人層の価値観に
興味のある方はどうぞ。

で、件の王当さんの墓に
言及した論文は、
以下。(著者敬称略)

江優子
後漢時代の墓券を中心に
ile:///C:/Users/monog/Downloads/KJ00005440895.pdf
1文字目に「f」を補われたく。
(注意!「h」ではありません。)

後、どうでも良い話ですが、
論文の中で
個人的に笑えたのが、

件の王当の墓の欄の
「トラクター工場」の記載。

時代が下れば、

富裕層の墓の上にも
こういうものが
建つのか、と。

いえね、
何の偶然か、

斯く言うサイト制作者の
勤務先の工場の
ほとんど隣の空き地でも、

遺跡の発掘調査を
やってまして、

ヘタすりゃ、
ウチの工場の地下にも
何が眠ってんだか。

当時の産廃の
投棄場にもなっていれば
制作者としては笑えます。

さらに、発掘現場の隣の
大通りの反対側では
何をやってるのかと言えば、

それまでは
田んぼや畑ばかりで
吹きっ晒しの場所に、

ここ数年で
大型モールだの
カー・ディーラーだのが
乱立し、

沿道の開発が
急ピッチで進む有様。

古代遺跡が
点在する地域につき、

先程の洛陽の話と、

多少なりとも
似たような雰囲気を
感じなくもありません。

3-7、定義が変遷する?槊

Bの部分について。

「矟」は、
座右の字引き・
『漢辞海』第四版
によれば、

騎兵用の長い矛、
「槊」(さく)に通じる、
と、ありまして、

「槊」は長い矛、
としています。

さらに、
篠田耕一先生の
『武器と防具』中国編
によれば、

「槊」は
3世紀以降に登場する
重装騎兵が使う
長い槍としています。

恐らく、曹操が
袁紹は300騎持ってる
と嘆いた騎兵かと
思います。

一方で、8尺は、
後漢時代の尺
換算すると、
190cm。

これで
敵陣を切り裂くんですと。

ですが、

どうも、
話が矛盾していますね。

例えば、

春秋時代の出土品の
3メートルの車戟に
比べると、

日本の戦国時代の
騎馬武者が持つ、
短くて取り回しの良い
騎乗槍や、

さらに時代が下って
騎兵の持つ
四四式騎銃のような、

歩兵用の小銃に比べて
銃身の短い
カービン銃のような
イメージです。

で、サイト制作者の
知るの限り、

これに近いものとして
思い当たるのが
「鏦」(しょう)。

小さい矛、
という意味でして、

『孫臏兵法』の
「陳忌問塁」に出て来ます。

陣地を守る際、

弓弩とは別に、
前から順に、
撒き菱、遮蔽物(車両)、
盾、長兵器・短兵器の順に
敵に備えよ、

という文脈で使われる
武器でして、

長兵器の中に、
この「鏦」が入ります。

仮に、「釈兵」の説く槊が
こういう類の
短い矛であるとすれば、

今のところ、
サイト制作者は、

重装騎兵の登場によって、
言葉の意味が
変遷したのではないか、

と、想像します。

この辺りの
経緯については、

サイト制作者としては
理解不足につき、

詳しい話は
後日とします。

3-8、多様化する矛

次は、Cの部分について。

ここはBの部分の延長で、
矛にも色々ありますよ、
という御話。

仇矛・夷矛・芍矛
他に3種類あり、

ざっくり言えば、

仇矛は三又、
これで
仇敵を討つのですと。

あるいは、

機能ではなく、
礼の話かもしれません。

夷矛は車戦用、
芍矛はヨクワカラナイ。

あくまで想像ですが、

尺の長さや
「破裂」という
エグい描写から、

イメージとしては、

恐らく、
柄や矛頭の直径が
大きいことで、

大口径の銃や
ショットガンで
モノを打ち抜いた時
のように、

突いた対象が
原型を留めなくなる類の
武器かしらん、ゾ~ッ。

(説明になっていない!)

3-9、「考工記」より短い夷矛

さて、この中で、

「考工記」の矛に
関係ありそうな
夷矛について
少し突っ込みますと、

まず、
「常」と「夷」の話は
武器の機能的な話では
ありません。

次いで、

柄の長さが6尺、

これを後漢時代の尺に
換算すると、
142.5cm。

さらに、
矛頭を先述の3尺と
仮定すると、
71.25cm。

〆て計9尺=
213.75cm。

周尺に換算すると
さらに短くなりまして、

やはり、
短いと言わざるを
得ません。

「考工記」原文の
「夷矛三尋」
(周尺:432cm)
との開きが気になります。

で、恐縮ですが、

サイト制作者としては、

現段階で
この空白部分を
埋める材料を
持ち合わせていません。

これも、

逃げ口上の常套句ながら、
今後の課題と
させて頂きます。

『周礼注疏』にしても
『釈名』にしても、

結局は、

西周時代と後漢時代の
感覚の違いの理由を
探る作業になるのかしらん、

と、改めて思った次第です。

おわりに

そろそろ、
例によって、

以下に、
今回の記事の要点を
整理します。

1、「考工記」原文によれば
矛の柄の上下の硬さは
同じである。

2、一方で、
『周礼注疏』によれば、

持ち手の
力加減によって
武器の状態が変化する。

力を入れれば
切っ先が安定して
対象に刺さり易い。

3、2、について
さらに言及すれば、

矛は前に押すように
突くので、
柄の前の方が
しっかりしている。

戈戟はその逆で、
後ろに引きながら
斬るので、
柄の後ろの方が
しっかりする。

4、日本人の漢文解釈の
コツのひとつとしては、

時には、
品詞区分に
捉われないことも
必要である。

5、『釈名』「釈兵」の説く
戟の形状は、恐らく、
漢代の「卜字戟」を意味する。

6、「釈兵」の説く
矛頭の長さ3尺は、
後漢時代の状況を
反映していると思われる。

一方で、

「考工記」廬人為廬器
の説く矛頭の長さにも
かなり近い。

少なくとも、
上記のような
ふたつの捉え方があると
考えられる。

7、騎乗用の矛である
槊の長さも、

「釈兵」が書かれた
とされる後漢と
その後の時代で、

かなり変遷している
可能性がある。

8、「考工記」と
「釈兵」の説く
夷矛の長さの
違いの理由は、

現段階では
サイト制作者は
理解出来ていない。

さて、見苦しい
言い訳ですが、

今回の更新が遅れた
最大の理由は、

記事を書く流れで
「釈兵」に
手を出したことです。

いずれは
やることになるのですが、

戦国時代以降の状況
史料で使用例を確認する
といったレベルで
分かっていない中で、

その辺りの変遷について
適当に摘まみ喰いを
しようとしたのが
祟りました。

結果的に、

段取りの悪い
調べ事となり、

誤読の後始末よりも
時間を喰いまして、

大変恐縮しております。

さらには、

後日、
調べ事を進める過程で、
その粗の後始末も
やることになるかと
思います。

なお、次回は、
予定を変更して、

今回出来なかった
『左伝』における
矛の件について、
少々綴ろうと思います。

使用例という程
具体的な描写では
ないのですが、

何かしらの参考には
なろうかと。

【主要参考文献】

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)
劉熙『釈名』(天涯知識庫)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
周緯『中国兵器史稿』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版
香坂順一編著『簡約 現代中国語辞典』、

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近況報告:『周礼』「考工記」廬人為盧器図解その他

はじめに

まずは、更新が滞ってしまい
大変申し訳ありません。

どういう訳か、
年末に記事を書いたと
勘違いしており、

正月は、例によって、
ゲームで溶かして
しまいました・・・。

さて、今回は、

前回に引き続いて
『周礼』「考工記」
廬人為盧器
矛に関する図解2枚と、

その他、
長めの「オマケ」をひとつ。

1、「考工記」の説く矛の形状

早速ですが、
矛の形状に関する図解
掲載します。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

以前に掲載したものの
誤読部分を
描き直したものです。

原文をそのまま訳すと、

取っ手である「囲」
石突である「晋囲」
重複しています。

さらに、
囲の長さから
晋囲の長さを引くと、
30cmを切る短さ。

要するに、
石突の長さが
気になります。

とはいえ、
「考工記」の現代語訳
とでも言うべき
『考工記訳注』にも、

人所握持之処離
末端為全長的三分之一
以其周長的五分之四作為
末端銅鐏敵周長

周尺換算で、

全長に対して
末端から3分の1を
取っ手とし、

その5分の4を
銅鐏(石突き)とする、

―と、していまして、

サイト制作者の誤読では
なさそうな。

では、実例はどうか、
と言えば、

残念ながら、

随分時代が下って
戦国時代のもの
なるのですが、

管見の限り1例だけ
ありまして。

長沙の楚の王墓よりの
出土品で、
以前の記事でも
紹介したものですが、

図解の下段部分の下の矛。

これを見る限り、
20cmを切っています。

折れて欠損している部分が
無ければの話ですが。

因みに、この矛の元の写真は、

楊泓先生
『中国古兵器論叢』
あります。

約14分の1とあったので、

馬鹿正直に定規を当てて
14倍しましたので、
多少の誤差はあるかと
思います。

一方で、矛頭の長さは
戦国時代の他の出土品と
大体同じ位。

こういうのを見る限り、

車戦用のものは
矛頭が少し長そうな
事情を考慮するにせよ、

「考工記」の説く
矛の規格は、

どうも、時代が下っても
通用するものでは
なかった、

と、捉えた方が
良いのかもしれません。

もしくは、

敢えて
「考工記」の規格にある
「囲」の短さの意味を
考えるとすれば、

前回触れた、

『周礼注疏』に曰く、
「細きは則ち手に
執るの牢なり」

両手の間隔が短ければ
しっかり握れる、か。

もしくは、

実際に握る分には、
囲も晋囲も
一緒くたであったか。

2、「考工記」の説く矛の使い方

次いで、
矛の使い方について。

これも、
まずは図解を掲載します。

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

1枚も使って描くような
内容ではないのですが、

もう少し詰めると
ゴチャゴチャして
今以上に見辛くなるので、

一旦はここで切りました。

これについて、
次回にもう1枚
描く予定です。

さて、この図解の要点は、

1、柄を振ったりして
しなわせないこと。

2、柄の断面が
円形であること。

以上の2点です。

で、ボウフラさんの
ザワザワは、
矛の柄がしなう様の
例えです。

この辺りの感覚は、
時代を問わないもの
なのでしょう。

3、目からウロコの『曹沫之陣』
3-1、原文と解説論文

以降は
オマケの部分の
でしたが、

サイト制作者の
悪癖が出て
結構長くなりました。

とはいえ、

この部分の方が、
読者の皆様にとっては、

サイト制作者の
誤読の後始末よりも
有用かもしれません。

それはともかく、

「考工記」の考証も含めて
何か面白い文献や史料は
ないかしらん、と、

佐藤信弥先生
『戦争の古代中国史』
参考文献を
少々当たる過程で、

同書に紹介されていた
『曹沫之陣』の原文や
そのニホン語の解説論文
ネット上で
今頃見付けまして。

双方共、
10年以上前に
公開されていますが、

サイト制作者のような
初耳の方への紹介を
思い立ちました。

以下、そのアドレスです。
1文字目に「h」を補われたく。

『曹沫之陣』原文
ttps://baike.baidu.com/item/%E6%9B%B9%E6%B2%AB%E4%B9%8B%E9%99%88/23597400

浅野裕一
上博楚簡『曹沫之陣』の兵学思想
(論文PDF)
ttps://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61257/cks_038_160.pdf

大意を取るには
難しい内容だなあ、
漢文苦手だなあ、

と、思われる方は、

例えば、
戦闘場面の書き下し文の
解説だけ、

あるいは、
後半の解説文だけでも、

目を通されることを
御勧めします。

論文の著者である
浅野裕一先生ですが、

この分野の大家で、

サイト制作者も、

『孫子』『墨子』といった
文庫本の
邦訳や書き下し、解説等で、
大変御世話になりました。

もう少し言えば、
説明が体系的で
興味深かったことで、

調子に乗って
あることないこと
書くための
揮発性の極めて高い
燃料になりました。

で、今回の同論文も、

綺麗な書き下し文
詳細な解説はおろか、

原文の欠損部分の
内容の推測まで
付いているという
至り尽くせりの親切仕様。

斯く言うサイト制作者も、

これで、
書き下し文の練習を
させて貰っています。

3-2、
毀誉褒貶、曹沫の人物像

さて、曹沫という人は
春秋時代の魯の軍人ですが、

かなり悪く言えば、

『史記』刺客列伝にある、

敵国である斉の桓公に
懐刀を突き付けて
分の悪い講話条件を
白紙に戻させたという逸話で、

尻に火が付いた国が寄越す
狂暴な使節の走りとして
名前が残った人、

と、言いますか。

ですが、
この『曹沫之陣』は、

そういう任侠プレイの
実録物ではなく、

かなりマトモな
戦争マニュアルでして、

と、いいますか、

そもそも曹沫自身が
『左伝』の
(魯の)荘公の件にあるような
良識ある人物のようで、

その辺りのカラクリ
かくかくじかじか、と、

論文の後半部分で
しっかり説明されています。

で、『曹沫之陣』は、

ざっくり言えば、

侠客路線の『公羊伝』と
軍人路線の『左伝』の
バランスを取る
内容なんですと。
(いい加減な理解!)

3-3、
『左伝』の戦いの行間を綴る

以降は、
原文や解説について、

ここでは、
取り留めない感想を少々。

小規模戦闘の話です。

さて、同論文では、

『曹沫之陣』が
会戦に強く執着するのは、
春秋時代の
戦車中心の戦争では、
会戦以外に
勝敗を決する形式が
想定できないからである。
(186頁より)

と、あります。

制限戦争の時代の
『曹沫之陣』と、

時代が下って
総力戦を説く『孫子』とで、

対をなすのだそうで。

言い換えれば、

重点が置かれている分、

局地戦の説明には
説得力がある訳でして。

例えば、
布陣の際、

車間に伍を容れ、
伍間に兵を容れ、
常に有るを貴ぶ

という文言があります。

浅野先生の説から逸脱して
少々妄想を逞しくし、

「車間」の「間」が
横のみならず
縦も含むと取れば、

サイト制作者が
思い当たるのが、

『逸周書』に出て来る、
前後左右の十字に
25名・計100名を
配置し、

恐らくは、
真ん中に戦車が陣取る布陣。

また、別の話をすれば、

身分の高い者や
国君の血族を
積極的に前線に出せだの、

武器を修繕して
神に祈って
戦いに備えろだの、

『左伝』に
書かれていること
そのまんま。

そうすることの理由を
説明して
行間を補うとでも
言いますか。

その他、

いつ書かれたのかは
ともかく、

成程、
春秋時代の価値観を
色濃く反映している
のかなあ、と。

こういう具合に、
イロイロと
興味深い要素が
詰まっており、

今後、さらに精読して
何かの考証の折にでも
参考にさせて頂きたいと
思った次第。

3-4、
「正邪」入り乱れた
春秋時代の戦い

一方で、

浅野先生の御説で
気になった点
ありまして。

例えば、
鉄の戦いなんか

高級指揮官が
先陣を切って
最前線で
血反吐を吐いてまして、

こういう
士大夫のメンタリティを
体現したような戦いが、

大量動員時代に
入ったとされる
春秋末期になっても
行われています。

ところが、

こういうのと並行して、

伏兵や別動隊といった
ヒキョ臭い戦法も、

少なくとも、
前8世紀以降、

春秋時代全体を通じて
ちょくちょく
行われています。

例えば、
荘公の時代の鄭なんか。

さらに、
『周礼』「夏官司馬」にも、

中冬の大閲の際、
(最大レベルの軍事演習)

険野に人を主となし、
易野に車を主となし、

という文言があります。

険しい地形に歩兵を
なだらかな地形に戦車を
各々重点的に配置する、

―という訳です。

つまり、

当時の感覚では、
どうも
正攻法とは言えない戦法も、

昔から、
存在する基盤が
あったのでは
なかろうか、と。

古の戦いがどうたら
書いてる『司馬法』すら、

隠密行動の際には
兵士に木切れを
噛ませろ、と、

どこか歯切れが悪いのが
個人的にはオモシロくあり。

こういう
春秋時代の戦争の二面性
向き合うのも、

この時代の調べ事の
面白さのひとつかしらと
思っています。

【おわりに】

今回も、
結論めいたものはありません。
無駄に長くなった割に、
恐縮です。

その他、久しぶりに
集団戦に触れたことで、

興奮して
放言癖が出まして、

普段以上に余計なことを
書いてしまいました。

さて、図解は、予定では、

誤読が見つかる等の
ポカ等がなければ、
矛について、
後1枚描きたいと思います。

そのうえで、
「考工記」廬人為盧器の
書き下しに入る予定です。

そうやって予告して、

想定外のヘンなこと
やらかすのも
このブログのあるあるですが。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
周緯『中国兵器史稿』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
Baidu百科『曹沫之陣』
浅野裕一
上博楚簡『曹沫之陣』の兵学思想
左丘明著・小倉芳彦訳
『春秋左氏伝』(各巻)
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

カテゴリー: 兵器・防具, 学術まがい, 言い訳, 軍事, 軍制 | 6件のコメント

近況報告 『周礼』の説く戈の使い方

はじめに

今回も前回同様、

『周礼』「盧人為盧器」
図解の一部を
描き上げたことで、

とはいえ、
その実態は
手直しに近いのですが、

その説明を少々。

1、細かい説明は注疏が中心

それでは、早速、
描き上げたものを
掲載します。

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

例によって、
内容や書き下し等は
参考程度で
御願いしたく。

さて、図解の下半分は
前回に掲載したもので、

今回は、
上半分の御話となります。

要は使い方の話でして、

ほとんどが
注釈部分の図解です。

以前の記事にも書いた通り、

恐らく、

『周礼』の筆者と
鄭玄等とは
見ているものが
少々違っているかと
思うのですが、

この図解の部分では、
本質的な違いは
なかろうと思います。

個人的な感覚としては、

少なくとも戦国時代までは
この内容が通用したと
想像します。

後漢・三国時代以降は、

戈頭・戟体の形状が
刺突向きになるので、

浅学なサイト制作者
としては、

コレが通用したかどうかは
正確なことは言えませんで、

さらに調べる必要が
あります。

ただ、後漢から唐にかけて
書かれた『周礼注疏』が、

恐らくは、
当時の形状であろう
戈について、

図解にあるようなことを
説いているので、

強ち的外れでもないようには
思います。

2、前後で異なる硬さ

ここでは、
具体的な使い方について
触れます。

まず、「椑」の話ですが、
柿の季節とはいえ、

柿ではなく、

柄の形が楕円形、
という御話。

先日、職場の年配の方から
関西の外れの某所の
美味しい柿を頂きまして、

忘れようとした誤読の話を
思い出しました。

で、『周礼注疏』によれば、

引っ張る武器につき
柄の下の方が硬い、
と、ありますが、

これについては、

サイト制作者の
知る限りでは、

残念ながら、

実例で確かめる術が
ありません。

想像するとすれば、

例えば、

「考工記」廬人為廬器
にあるような、

矛や殳宜しく
取っ手を何等かで
コーティングする
「囲」を意味するのか、

もしくは、

上下で硬さの異なる枝を
わざわざ選んで
製材するかしら。

【雑談】柄の硬さと戦場リアル

参考までに、
以前に何度か紹介した話
挙げます。

柄の話をする度に
思い出すのですが、

『周礼』の時代からは
かなり歳月が下るにしても、

『周礼注疏』の
鄭玄没後間もない話として、

『三国志』「魏書明帝紀」、
要は曹叡の伝記に、

陳倉で諸葛亮を破った
郝昭を紹介する話が
出て来ます。

さて、この御仁は
叩き上げの軍人でして、

戦場で
何をやったかと言えば、
以下。

他人様の墓を
荒らしたうえで、

取其木以為攻戦具

その木を取り
攻戦の具となし、

―と、墓標を武器の柄にした、
という訳です。

時代を遡ること
少なくとも春秋時代以来、

戦争で食糧に事欠けば
人様の肉ですら
口にするのを厭わない
社会につき、

有事に際して
墓標を失敬する位は、

驚くには値しないの
かもしれません。

あまり関係ないのですが、

二ホンとて、

国定忠治の墓の墓石を
博奕の縁起物として
削り取る人が
多かったので、

墓石に周囲にフェンスが
張られたんですと。

それはともかく、

ここでポイントとなるのは、

墓標でも武器の柄に代替出来る辺り、

実情としては、

どうも、
上下の硬さの異なる製材
という線は怪しいか、

仮にあったとしても、

有事には
場当たり的な補充で
済し崩しになっていたことが
往々にしてありそうな。

4、日中で異なる「細」の解釈

次に、柄を持つ時のコツですが、

結論から言えば、
両手の間隔を
短くすることです。

前回で触れたように、

原文である
『周礼』
「盧人為盧器」には、

撃兵同強、擧圍欲細、
細則校

撃兵は強きを同じくし、
囲を挙げるに細を欲し、
細はすなわち校。

と、あります。

文字の解釈には饒舌な
『周礼注疏』にも、

「細」の解釈については
言及していません。

さらに、現代語訳である
『考工記訳注』にも、

若手持之処稍細、
就握得牢固

もし取っ手が
やや「細」であれば、
握りが牢固になる、

という訳です。

つまり、「細い」は、
古語も現代語も
恐らく同じ意味。

しかも、
当たり前の感覚で
使用している言葉
と来ます。

実は、ここが、
サイト制作者が躓いたポイントです。

ここで、視点を変えて、
実物の柄の太さ
見てみると、

数少ない実物の戟には
柄が垂直でないものが
ありません。

そのうえ、先には、

『周礼注疏』

柄の前後で硬さが異なり
後ろの方が硬い、
と、説いてまして、

これらの話を整理すると、

柄の下の部分の
引っ張る方が
細くて硬い、となり、

殳どころか戈も
野球のバットのような形状
ということになり、

なんだかヘンだなあ、と、
なるかと思います。

と、なれば、
「細」の解釈は、

日本語と中国語の違いに
起因する
他の意味を考えた方が
良さそうだ、

と、考えました。

果たして、

座右の中国語の
古語・現代語の字引きの
双方にも、

細い以外に、

「幅がない」=短い、

という意味がありました。

「細」の意味は、
日本語と中国語で
異なっていた、
という訳です。

確かに、
柄の太さよりも
両手の間隔の方が、

武器の機能としては
自然な解釈かと思います。

野球で言えば、

バットで構える際、

バントとヒッティングで
両手の間隔が異なるのが
分かり易いかと
思います。

もっとも、

長物を振り回す時には、
両手を上下で
くっ付けませんが。

後、こういう、
サイト制作者の
昭和末の少し入った
生半可な野球脳が
解釈の癌になっている気が
しないでもありません。

で、またも誤読ということで、

前回の殳の図解も、
この内容で
描き直す必要があります。

ヘマが続いて
大変恐縮です。

【追記】

その改訂版がこちら。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

以前に掲載したものとの
違いは、
以下の2点です。

1、柄の太さが上下で同じ。

2、中段右の図解の説明等
内容に合わせて変更。

【追記・了】

おわりに

今回も、
もっともらしい結論は
ありません。

敢えて言えば、

細=短で
チュゴクゴムツカシアルヨ!

という、
身勝手で投げ遣りな話位か。

サイト制作者の
調べ方が悪いのだと
思いますが、

大体の内容を
一通り整理した後でも、

当該の文章を読み返して
図に描き起こす度に、

疑問や誤読が
ボロボロ出て来るので
本当に困ったものです。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)
陳寿作・裴松之注釈『三國志』(維基文庫)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
周緯『中国兵器史稿』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版
香坂順一編著『簡約 現代中国語辞典』、

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