『周礼』「考工記」廬人為廬器を読む 01

はじめに

今回は、

『周礼』「考工記」
廬人為廬器

―謂わば、
西周時代と思しき
戦車用の武器の
マニュアル

について、

書き下し文、
語句の意味、
関係する図解
記します。

個人的な話で
恐縮ですが、

解読の過程で、
誤読等
イロイロ
やらかしまして、

こういうのは
サイト制作者の
あるあるで
申し訳ない限りですが、

結果として、

読者の方に
助けて頂く等の
紆余曲折を
経まして、

漸く、
(自分なりにという
レベルですが)
原文を一通り
読むという作業に
着手出来ます。

改めて
御礼申し上げます。

とはいえ、

素人の手作業につき
未熟な部分の
多いことで、

例によって、
あくまで御参考まで。

1、原文を読む

早速、以下に原文
掲載します。

『維基文庫』さんに
掲載されているものを
多少加工しました。
(読点・句読点・
改行・字体等。)

書き下し文は
サイト制作者の手製にて
あくまで御参考まで。

その他、
アルファベットは、

文章全体の中で、
話の内容が
変わるであろう部分
区切りです。

廬人為廬器


戈柲六尺有六寸
殳長尋有四尺
車戟常、
酋矛常有四尺、
夷矛三尋

凡兵無過三其身、
過三其身、弗能用也
而無已、又以害人


故攻國之兵欲短、
守國之兵欲長
攻國之人衆、行地遠、
食飲饑

且涉山林之阻、
是故兵欲短
守国之人寡、食飲飽、
行地不遠

且不涉山林之阻、
是故兵欲長


凡兵、句兵欲無彈、
刺兵欲無蜎
是故句兵椑、刺兵摶、
擊兵同強


舉圍欲細、細則校
刺兵同強、舉圍欲重、
重欲傅人
傅人則密、是故侵之

凡爲殳、五分其長、
以其一爲之被而圍之

參分其囲、
去一以爲晉圍
五分其晉圍、
去一以爲首圍

凡爲酋矛、參分其長、
二在前、一在後而圍之
五分其囲、去一以為晉圍
參分其晉圍、去一以為刺圍


凡試廬事
置而搖之、以視其蜎也
灸諸墻、以視其橈之均也
横而搖之、以視其勁也


六建既備、車不反覆、
謂之國工


:矛や戟の柄
:柄
:周尺換算で
1尺=
18.1cm余。
因みに、
『考工記訳注』には
「一尺之長、
各諸侯国不尽相同」
―1尺の長さは
各国で同じとは
限らない、とあり、
悩ましいことである。
一方で、
古代から
民国時代まで
一貫して、
時代が下る程
長くなっている。
戦国時代の
終わり頃は
23.1cm。
この数字は、
商取引の活発化等で
秦の統一以前に
実質的な国際規格に
なっていた模様。
因みに、
サイト制作者は、
例えば
春秋時代の場合、
大雑把な目安として、
周尺と戦国尺の
中間程度―
大体20cm前後と
取っている。
:10寸=1尺
:ここでは、~と。
6尺と6寸
:全長
:1尋=8尺。
周尺で約144cm。
当時の成人男性の
身長と、
両手を広げた間隔が
同じである、
という前提。
:常=2尋=16尺
:ここでは、短。
対して、夷は長。
『周礼注疏』
巻四十一に、
「酋近夷長」とある。
なお、酋夷は
他にも意味があるが、
武器についての
機能的な意味
ではないので
省略する。
:兵器
:身長
:ここでは3倍。


:多い
:飢える
:少ない
:険しい場所


句兵:戈・戟
彈(弾):振り回す
刺兵:矛
:くねくねする
:楕円
ここでは
柄の断面が楕円形。
:円
ここでは、
柄の断面が円形。
擊兵:殳
同強:ここでは、
柄の先端から
末端までが同じ硬さ。
『周礼注疏』
巻四十一に、
「本末及中央
皆同堅勁」
とある。
舉(挙):両手で
持ち上げる


圍(囲):武器の柄に
何かを巻く部分。
:短い
:ここでは、素早い。
『春秋左氏伝』
昭公元年の
虢(かく)の会盟の
件を参照。
:辞書的な意味は、
重視する、重用する。
サイト制作者は、
ここでは、
物理的に力を入れる、
と解釈。
:安定する
:武器で攻撃する。
『周礼注疏』
巻四十一に、
「能敵」敵する能う、
とある。
「敵」は
武器で攻撃する。
五分:5等分する。
その「一」は、
5分の1。
晉圍(晋囲)
柄の末端の石突、
鐏(そん)。
首圍(首囲)
殳の柄の先端の
金属の塊の部分。
刺圍(刺囲)
矛の矛頭。


:弊害を除く。
ここでは、
柄の曲がりを
矯正する、か。
墻:障壁、囲い。
ここでは、恐らく、
1、障害≒
曲がりや傷等と、
2、柄を挟み込む
ための2本の柱、
以上のふたつの
意味がある。
:曲がった様
:平坦な様
:直立して
力強い


六建:『周礼注疏』
巻四十一によれば、
「建」は「在車上」、
言い換えれば、
軫(しん)―
車体上部側面の
フレームがない
タイプの
戦車(西周時代)に
立て掛ける。
「六」は「五兵与人」
とある。
「五兵」は
5種類の兵器で
諸説あるが、
ここでは、
戈・戟・殳・
酋矛・夷矛。
反覆:ひっくり返る
:技術、
巧くいっている様

廬人は廬器をなす

戈柲(ひ)は
六尺有六寸。
殳長は尋(じん)有四尺。
車戟は常、
酋矛は常有四尺、
夷矛は三尋。

おおよそ兵は
その身の三を
過ぐるなく、

その身の三を
過ぐれば
用いるあたうこと
なきなり。
しかるのみなく、
またもって人を害す。


故に攻国の兵は
短きを欲し、
守国の兵は
長きを欲す。
攻国の人は衆にして、
地を行くに遠く、
食飲に饑す。

かつ山林の阻を渉り、
これ故兵は短きを欲す。
守国の人は寡にして、
食飲に飽き、
地を行くに遠からず。

かつ山林之阻を渉らず、
これ故兵は長きを欲す。


おおよそ兵は、
句兵は弾くなきを欲し、
刺兵は蜎(けん)なき
を欲す。
これ故句兵は椑、
刺兵は摶。
擊兵は
強きを同じくす。


囲を挙げるに
細きを欲し、
細はすなわち校。
刺兵は
強きを同じくし、
囲を挙げるに
重きを欲し、
重を欲して人に付く。
人に付くに
すなわち密にして、
これ故これを侵す。

おおよそ殳をなすに、
その長を五分し、
その一をもって
これが被するをなし
これを囲とす。

その囲を参分し、
一を去りもって
晋囲となす。
その晋囲を五分し、
一を去りもって
首囲となす。

おおよそ
酋矛をなすに、
その長を参分し、
二は前にあり、
一は後にあり
これを囲とす。
その囲を五分し、
一を去りもって
晋囲となす。
その晋囲を参分し、
一を去り
もって刺囲となす。


おおよそ廬を試すこと
置いてこれを揺り、
もってその蜎を
視るなり。
諸墻(しょう)を灸し、
その橈(とう)の
均を視(み)るなり。

横にして
これを揺り、
もってその勁(けん)を
視るなり。


六建既に備うれば、
車は反覆せず、
これを謂うに国工。

2、各部分の図解

ここでは、
AからFの
各部分の図解を
掲載します。

基本的には、

以前の記事で
使用したものを
再掲しますが、

一部、
加工修正
加えたものも
あります。

なお、

後世の識者の
解釈や現代語訳
であっても、

サイト制作者が
納得出来なかった
部分については、

独自の解釈
描きました。

その意味でも、

誤読や誤解の
可能性があることで、

あくまで
御参考まで。

A、武器の全長

『周礼』(維基文庫)、楊泓『中国古兵器論叢』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、張末元編著『漢代服飾』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

B、行軍・兵站 図解なし

C、戈・戟の柄の形状、使用方法

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

矛の柄の形状、使用方法

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

D、矛・戈戟の使用方法

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

矛の部位及び部位ごとの長さ

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

殳の部位及び部位ごとの長さ

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

E、柄の状態の確認

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版等(敬称略・順不同)より作成。

F、諸々の準備の効果 図解なし

その他、「考工記」の説く戈頭・戟体の形状

!上記の図はサイト制作者の個人的な解釈。

武器の形状の変遷

学研『戦略戦術兵器事典 1』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

おわりに

今回は、
結論めいたものは
ありません。

なお、次回は、

過去の記事でも
触れていない、

BやFの
行軍や戦車に関する
部分について、

『春秋左氏伝』から
参考に
なりそうな話
引用して、

少々、
考察を加えよう
思います。

【主要参考文献】
(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』(国学導航)
劉熙『釈名』(天涯知識庫)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
周緯『中国兵器史稿』
篠田耕一
『武器と防具 中国編』
稲畑耕一郎監修
『図説 中国文明史』3
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版
香坂順一編著
『簡約 現代中国語辞典』

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『春秋左氏伝』における車戦と矛

例によって、
無駄に長くなったので、
章立てを付けます。

適当に
スクロールして、
興味のある部分
だけでも
御笑読頂ければ
幸いです。

はじめに
1、武勇の象徴としての矛
2、矛で御す国君の車右
3、矛を構えて陣頭に立つ
3-1、戦の前の御約束
【雑談】蒯聵を取り巻く
政治情勢
【雑談】戦闘前の舞台裏
3-2、で、矛は何処に?!
2-3、車上の戦士の手柄自慢
2-4、負傷する車左
2-5、車戦から白兵戦へ
、歩兵陣を切り裂く
車上の矛
4-1、呉の北進と魯
4-2、どのように矛を用いたか
【雑談】300名の戦闘単位
4-3、魯軍の概要
4-4、車戦の影での歩兵戦
4-5、意味深な杜預の注
【雑談】魯の厭戦の理由を考える
おわりに(論旨の整理)
【主要参考文献】
【言い訳】

はじめに

更新が
大幅に遅れて
大変恐縮です。

さて、今回は、
矛の御話。

『春秋左氏伝』
(以下『左伝』)に
見られる
矛の件について
綴ります。

とはいえ、
事細かい使用例
とまでは
いきませんで、

代わりに、
個人レベルの戦車戦を
掘り下げることで、

春秋時代の戦闘における
矛の位置付けを
探ることを試みます。

1、武勇の象徴としての矛

ここでは、まず、
『左伝』における
矛の登場する部分状況
確認します。

管見の限り
僅か3箇所ですが、

見落としている部分が
あるのかもしれません。

ただ、戈に比べて
明かに少ないのは
間違いないと思います。

で、当該の箇所は、
具体的には、以下。

なお、例によって、
書き下し文は手製につき
御参考まで。

1、魯・成公16年
(前575)

使鍼御持矛
鍼(けん・人名)をして
矛を持して御せしむ

2、哀公2年
(前493)

蒯聵不敢自佚、
備持矛焉
蒯聵あえて自らを
佚(うしな)わず、
矛を持して備えるなり

3、哀公11年
(前484)

冉有用矛干斉師、
故能入其軍
冉有(ぜんゆう)は
斉師に矛を用い、
故にその軍に入るをあたう。

以上の3例とも、

敵兵を
ザクリとやる類の
使用例というよりは、

むしろ
所持している状況が
共通している
考えます。

具体的には、

戦場における
武勇の象徴、

といった解釈を
しています。

誰それを刺したり
ドツいたりするよりも、

持って直立したり
執って陣頭に
出張ったりすること
意味がある、と。

もっとも、

3、の冉有の例
については、

背後の状況に加えて、

使用例も
含まれているとも
考えていますが、

これは後述します。

さて、
このように考える
理由として、

については、

彼我の大軍の
戦車同士が対峙する
戦場とは言い切れない、

内乱や要人襲撃、
いえ、それどころか、

痴話の絡んだ
私闘めいた場面でも
持ち出される
或る種の「利便性」
あるように見受けます。

子路の冠の紐を
切ったのも戈。

以上のことから、

あくまで
サイト制作者の
個人的な感覚
過ぎませんが、

『左伝』全体の
ニュアンスとして、

には、

戈のような
日常生活に
溶け込むような
汎用性を感じない、

というのが
率直な感想です。

矛の登場例が
少ないことが、

何とも
心もとないのですが。

2、矛で御す国君の車右

それでは、
各々の引用箇所の
詳しい状況について
触れます。

まずは、
1、「使鍼御持矛」
について。

春秋時代の
メイン・イベントとでも
言いますか、

晋楚の激戦のひとつである
焉陵の戦いの一幕。

晋の行人(使節)が
楚の陣地に
挨拶に出向いた折
言葉です。

「鍼」欒鍼(らんけん)は、

当時、晋軍の
実質的な総司令官である
中軍の将・
欒書(らんしょ)の甥、
かつ欒黶(らんえん)の弟。

また、欒氏は、
晋の有力な世族
ひとつです。

さらに、欒鍼はこの時、
晋の国君の戦車の車右
務めていました。

車右は、字の如く、

4頭立て・3人乗り
戦車の右側に搭乗する
近接戦闘要員。

搭乗人数や馬の数は
時代や状況によって
異なりますが、

これが春秋時代
オーソドックスな仕様。

加えて、

座右の字引きによれば、

3名乗り合わせることで、
車体の左右の重心を
保つんですと。

で、この場合、

司令官クラスの
車右ともなれば、

戦場にあっては
周囲に少しでも
臆病なところを見せると
即刻免職になるという
シビアな職務です。

こういうのは
『左伝』に
いくつか例があります。

要は、
バリバリの武闘派の
やる仕事。

それを前提に、

この時の晋は、
国君と中軍の将の双方が
出張って来てまして、

欒鍼の立ち位置は、

悪い言い方をすれば
謂わば、神輿の護衛。

と、言いますのは、

国君よりも
重臣の力の方が強い
という国情。

したがって、
先の引用箇所の
要点は以下。

楚の陣地に
挨拶に出向いた
晋の行人曰く、

本来、その欒鍼
使者に立つところを、

当人は矛を手にして
国君の護衛に
当たっているので、

自分のような
身分の低い者を
寄越すことになった、と。

について言えば、

相応の身分で
文武両道の猛者が、

矛で国君を
警護している
という凄み。

『左伝』が大好きで
昼夜を問わず
劉備を警護していた
関羽なんかも、

あるいは、

こういう古の猛者の姿を
意識していたのかも
しれません。

3、矛を構えて陣頭に立つ
3-1、戦の前の御約束

次いで、2、
「蒯聵不敢自佚、
備持矛焉」
について触れます。

「佚」は、逃げ隠れする。

自分は逃げ隠れせず
矛を手に
目前の戦闘に備えている、

という訳です。

これは、
衛の太子である
姫蒯聵(きかいがい)が、

春秋時代の終わり頃の
鉄の戦いに臨んだ折の、

戦闘の前の
祈りの文句の一部。

蒯聵は
後の衛の壮公です。

で、件の引用部分を
含めた口上の大意は、

自分の先祖
周王や衛の国君に
戦いの大義名分を説いて
戦勝を祈願する、

というもの。

名文だと思います。

【雑談】蒯聵を取り巻く
政治情勢

以下は、
少し長くなりますが、

当時の国際情勢を
整理します。

矛の話とは直接関係ないので
雑談扱いにします。

サイト制作者自身が
この辺りの経緯を
理解するのに
苦労したことで、

少々御付き合い
頂ければ幸いです。

次の3、の前提にも
関係する話につき。

さて、その蒯聵は当時、

継母の暗殺を企てて
しくじったことで
祖国・衛より宋に亡命し、

その後、
晋の趙鞅を後ろ盾に、

范・中行氏の
根拠地である朝歌から
(現・河南省安陽市)
東に80キロ弱離れた
籠っていました。

その戚から
10キロ程度南に位置する
鉄の戦いに際しては、

趙鞅の搭乗する戦車の
車右の職務に
ありました。

こういうのは、

この時代の
亡命貴族あるある
(世族―有力な家、もやる)
構図とはいえ、

先代・霊公の乱脈で
太子を亡命させた衛も
大概ですが、

—これに苦言を呈したのが、
ここで就活をしくじった
彼の孔子様で、
南氏も南氏でゴニョゴニョ、

実は、それよりも
遥かにヤバかったのが、
その蒯聵を飼い慣らす

と、言うのは、
当時の国情は、最早、
断末魔。

以前から激しかった
世族間の抗争が、

徒党を組んでの
内戦にまで
発展していました。

具体的には、

国君側の
知・韓・魏・趙氏対、
范・中行氏の抗争。

これが前497年から
490年まで
7年も続きます。

また、御存じのように、
勝者のうちの韓・魏・趙は、

この一連の抗争の少し後、

晋を三分し、
(正確には晋を含めて四分)
春秋時代を終わらせます。

近未来の話はともかく、

晋に国防を依存する
傘下の諸国とも
ギクシャクしており、

この内乱でも
各国で対応が異なります。

例えば、

この鉄の戦いにおける
趙鞅の相手は、

晋の同盟国
ではあるものの、

国君に背く
范・中行氏を
支持する

そして、范・中行氏が
朝歌を根拠地とし、
趙氏がこれを攻めます。

鄭は
こうした状況の最中、

斉の穀物を
大軍で范氏に
搬送する最中に、

朝歌から程近い鉄で
趙氏の襲撃を受けまして、

これが、
鉄の戦いです。

因みに、鉄については、

地名に詳しい
杜預の注には
「丘名」とありまして、

小倉芳彦先生は、

「丘」を「丘の上」と
訳されています。

単なる地形の話か、

あるいは、
当時の行政単位である
「丘」と
同義なのかどうかは
分かりませんが。

それはともかく、

こういうグダグダな
勢力図のもと、

自らの存亡を賭けて
大勝負に出る
亡命太子・蒯聵の
運命や如何に。

【雑談・了】

鉄で鄭を待ち受ける
蒯聵の搭乗する
戦車ですが、

その蒯聵は車右で、
格闘要員。

車左司令官の
趙鞅(趙簡子)。

因みに、
車左の役割は、

司令官の場合は
戦車に据え付けの
太鼓を打ち、

その指揮下の戦車では
弓の射撃を行います。

そして、
馭者の郵無恤
(ゆうぶじゅ)ですが、

鄭の大軍を
目の当たりにして
怖がって
戦車から降りた
蒯聵に対して、

「婦人也」と言いつつ
搭乗用の綱を渡すという
肝の据わり方。

現在の感覚ではアレですが。

【雑談】戦闘前の舞台裏

余計な話が
立て続けに出てきて
恐縮ですが、

ドンパチを始める前に、
その前の雰囲気を
垣間見ることに
しましょう。

蒯聵が気後れして
戦車から降りたやつは、

恐らく、

叩き上げの車右で
コレをやれば
一発退場の行為かと
思います。

城下で戯れ歌を聴いて
継母の存在を恥に思い、

恐らく衝動的なレベルで
家臣に斬らせようとしたり、

引用のように
戦場で気後れしたりと、

まだ若いのだろうと
想像しますが、

良くも悪くも、

命の遣り取りは、

生死の境目が近い程
度胸が必要とされる
空間かと思います。

サイト制作者が
その種の資質に
欠けることで、

余計にそう思う次第。

対して、

馭者が
身分の上下の隔てなく
隣に座す車左や車右に
アレコレ言うのも
この時代の御約束。

一蓮托生の
運命共同体
という訳です。

とはいえ、

大軍に気後れしたのは
蒯聵以外にも少なくとも
もう一方。

この車左の某さん、
事もあろうに
軍吏に戦車に縄られ、

その軍吏曰く、
「痁作而伏」
痁(おこり)を作して伏す

詐病・仮病も病気のうち、
いえ、這ってでも
戦うんですと。

何処かの国の
去就を決めかねた
投票で悩む
政治家さんみたいな御話。

その他、

この時代の
「軍吏」さん達ですが、

開戦前は軍事作戦に関与し、
個々の戦闘終了後には
事務勘定
消耗した戦力の整備に奔走し、

そして、

場合によっては
こういう嫌われ役と、

総務な何でも屋の
黒子役の模様。

因みに、

『周礼注疏』巻二十九
—「夏官司馬」の
軍事演習の件によれば、

兵隊のマスゲームの
誘導等を行う
「群吏」というのが
出て来ます。

これが「軍吏」に
相当するのであれば、

「謂軍将至伍長」
だそうな。

下は5名を受け持つ
下士まで含む
という訳で、

身分の話は
あまり用を為さなそうな。

因みに、

この時代の
士大夫であれば、

読み書き勘定と
弓・戦車の操縦を
セットで叩き込まれる
ことで、

裏方の事務や
雑用ばかり
やっている訳では
ないとは思いますが、

今のところ
それを
証明出来ないことで、

これは
サイト制作者の
想像の域を出ません。

【雑談・了】

さて、『左伝』では、

趙鞅や蒯聵の口上の後に
唐突に武勇伝の描写に
なりまして、

引用すると以下。

鄭人撃簡子中肩、
斃于車中、
獲其蠭旗
大子救之以戈、
獲温大夫趙羅
大子復伐之、
鄭師大敗、
獲斉粟千車

蠭旗:旗名(杜預注)
サイト制作者には詳細不明。
なお、『釈名』「釈兵」
の説く九旗には該当せず。

鄭人簡子を撃ち
肩に中(あた)り、
車中に斃れ、
その蠭旗(おうき)
を獲る。
大子これを救うに
戈をもってし、
温大夫趙羅を獲る。
大子またこれを伐ち、
鄭師大敗し、
斉粟千車を獲る。

敵味方双方、
まずは戦車を繰り出す
御約束で、

そのうえ、

彼我の指揮官が
陣頭指揮で敵に突っ込む
空間につき、

今回のように
車中でもしばしば
負傷します。

それにしても、

戦闘前には
気後れした蒯聵も、

いざ戦いおこるや、

車左を庇って
敵方の大夫を
生け捕るという具合に、

獅子奮迅の活躍
相成りまして、

このあたりは
エラいものだと
思います。

3-2、
で、矛は何処に?!

ですが、

矛の話としては、
オカシイと思うのは、

大子救之以戈、

そう、矛を手に
戦勝を祈願した蒯聵が、

矛ではなく戈で
趙鞅を庇った、
という部分。

バ〇キルト、だとか、

切っ先が変形する
マホウを使った訳でも
あるまいし、

その辺りのカラクリ
少し考えてみます。

具体的には、
車右の持ち物の話。

楊泓先生
『中国古兵器論叢』
によれば、

殷墟―
殷代の出土品の中に、
車右の装備品一式
あった模様。

穴の名前は、
「小屯C区M20
車馬坑」と
ありまして。

で、それによると
内訳は以下。

まずは、長柄の戈。

次いで、
銅製・石製の盾が
各々1枚、

さらに
長さ32cmの
馬頭刀が1振、
(柄が馬の頭の形)

護身以外にも
暴れた馬の
鞅(むながい)を
切ったり
するのでしょう。

その他、飛び道具は、

柲が銅製で
遠射用の弓が1張、

さらに矢筒が2本あり
その中身は、

ひとつの矢筒に
銅製の鏃が10本、
もうひとつには、
石製の鏃が10本。

最後に、
数は不明の砥石。

これらの備品について、

著者の楊泓先生
゛戎右゛那一組最典型
としています。

「戎右」は車右。

馭者や車左の役割の
詳細については
後述しますが、

ここで言えるのは、

春秋時代ではなく
殷代の御話とはいえ、

上記の持ち物から
すれば、

短戈は
積んでいないようで、

蒯聵は
他の方の戈を
拝借したのでしょう。

後述するように、

馭者も車左も
降車戦闘を行うことで、

車内には、

少なくとも
長柄の武器を
3本配備することに
なります。

因みに
武器の運搬ですが、

『周礼』「考工記」
によれば、

長物は戦車に斜めに
立て掛けるんですと。

で、この状態で
移動する際に、

武器の全長が
身長の3倍を越えると
支障を来す、と。

加えて、
以下は想像ですが、

敢えて
矛を収めたか
捨てたとすれば、

戦車の
馭者を挟んで
反対側に座る人間を
庇って
相手の切っ先を
受け流したことになり、
(相当器用な話!)

こういうのは、

戈よりも矛の方が
向いていたということ
かもしれません。

3-3、
車上の戦士の
手柄自慢

そして、
この戦いの話の最後に、

『左伝』における
戦場の描写の
御約束のひとつである
戦後の手柄自慢
引用します。

これも、
当時の戦闘の流れ
について調べるうえで
興味深い内容につき。

簡子曰
吾伏韜嘔血、鼓音不衰、
今日我上也
大子曰
吾救主于車、退敵于下、
吾右之上也
郵良曰
我両靷将絶、吾能止之、
我御之上也
駕而乗材、
両靷皆絶

韜:隠す
嘔:吐く
上:等級や品質が高い
ここでは成績が良い、
戦功が一番である、
といったところか。
下:地面。
ここでは、降車戦闘。
右:車右
靷:馬に繋ぐ綱、
むながい。
胸帯と車軸に繋ぐ。
御:馭者
駕:またがる
材:戦車の横木、軫。
・杜預注。
左右の上部のフレーム。

簡子(趙鞅)いわく
吾伏して血を嘔くを
韜(かく)し、
鼓音衰えず、
今日我上なり。
大子(蒯聵)いわく
吾車に主を救い、
下に敵を退け、
吾右の上なり。
郵良(郵無恤)いわく
我が両靷(いん)
まさに絶たんとし、
吾これを止むをあたい、
我御の上なり。
駕(またが)り
材に乗り、
両靷皆絶つ。

三名が
各々の手柄を披露して
それぞれの職務の
MVPだと言い放ち、

最後に、

馭者の郵無恤が
戦車の横木に
乗った弾みで、

当人が戦闘中に
切らさなかったと自慢した
むながいが切れた、

という御話。

『左伝』には
こういう話の締め方は
ひとつならず
ありまして、

オチを付ける
レトリックは、
少なくともこの時代には
あった模様。

3-4、
負傷する車左

さて、
肝心の戦後報告ですが、

まず、車左の趙鞅

車内での吐血となると、

先の引用と
照合すると、

彼我の戦車同士が
交錯した際、

敵の武器による
強打を受けたでしょう。

もう少し詳細な状況を
想定します。

以下は、想像ですが、

まず、車左の趙鞅が
敵の車右の
打撃を受けたとなると、

確率が高そうな
状況としては、

彼我の戦車が
並走していたことが
考えられます。

これは危険な話で、

高木智見先生
『孔子』によれば、

戦車は基本
左周りが原則だそうな。

これは、

旋回する時に
指揮車の車左を
敵の正面に
向けないための
手順だと思います。

ところが、この場合、

指揮者で
太鼓を叩く車左、
―長柄の武器を
持っていない、と、

格闘要員の車右が
至近距離で
交錯するという、

太鼓を叩く側
としては
最悪の組み合わせ
なった、

という可能性が
考えられます。

さらに、
吐血を隠せた
—負傷したこと自体を
隠せたことから、

弓や刃物による
外傷でないとすれば、

例えば、

胴体を殳で
叩かれたのかも
しれません。

それでも
太鼓の音が止まない、
太鼓を打ち続けた、
ということで、

これが意味するのは、

乱戦の中でも
味方の指揮車両が
健在であることを示す
極めて重要な行動です。

言い換えれば、

指揮車は
戦闘の出端から
敵に狙われて
射られ続ける訳でして、

例えば、

成公2年(前589)の
鞌(あん)の戦い
そうした一幕があります。

したがって、
その種の場面での
痩せ我慢が
指揮官の武勇の見せ所。

3-5、
車戦から白兵戦へ

さて、
打たれて吐血した
趙鞅を庇う
蒯聵ですが、

先述のような
車内での
趙鞅の救出以外にも、

「下に敵を退け」と、

戦車を降りて
白兵戦で敵を撃退した
という訳で、

乗車と徒歩の双方を
臨機応変に使い分ける
柔軟な用兵であることを
意味します。

武器も武器で、

臨機応変に
取っ換え引っ換える
やるのでしょう。

今回は
原文は引用しませんが

例えば、
『左伝』
宣公12年
譲公24年に、

個人レベルの車戦
―威力偵察と言うべきか、
詳細な描写があります。

いつか、
こういうのを精査して
手順を図解しようと
思うのですが、

絵に描いた餅の
妄想レシピはともかく、

それら描写によると、

前進して会敵の後
(恐らく車上で)
弓の射撃を行い、

さらに、

降車して
敵の防御陣地に斬り込み
白兵戦を行う、

という流れがあります。

で、今回の
鉄の戦いの場合は
遭遇戦につき、

白兵戦によって、

敵陣の攻撃ではなく、
荷車を護衛する部隊を
蹴散掃討する、

ということに
なりますか。

3000両も
鹵獲したそうな。

で、この、
ゼロ距離での戦い、

「人に付きもって投げ」
と、肉弾戦の様相。

投げ飛ばすんですと。

こういうのは、
時代が下っても
やっているのでは
なかろうかと
思います。

例えば、

後漢から三国時代の
状況として、

『釈名』
「釈兵」によれば
後漢末の矛頭は
松であったそうで、
(金属のものもあった
とは思いますが)

これで
俑や実物の出土品に
見られるような
魚鱗甲の鉄の鎧を
確実に抜ける
とも思えませんで。

さらに、
馭者とむながいの関係は、

今回のように、

切そうなものを
なんとかもたせる
ケースもあれば、

馬が暴れて
収拾出来ないので
やむなく切る、

という話が
『左伝』には一度ならず。

蒯聵のその後
については、

記事の主旨からして
書かぬが華かも
しれません。

そろそろ、
次の矛の件に
話を移そうかと
思います。

余談ながら、杜預は、

鉄の戦いについて、

以下のように
付言しています。

伝言簡子不譲下自伐

伝:言い伝え、
譲:退く

伝は言うに
簡子は譲らず
下りて自ら伐つ。

趙鞅は、
言い伝えによれば、

負傷して
蒯聵に庇われた
だけではなく、

その後の降車戦闘で
果敢に戦った、と。

当時から
数百年以上も経った
後漢・三国時代でさえ、

この種の伝聞が
少なからず
あったのでしょう。

4、歩兵陣を切り裂く
車上の矛

4-1、呉の北進と魯

哀公11年の
「冉有斉師に矛を用い」
(見出し)

これは鉄の戦いから
10年弱後の魯の御話。

先述の晋の内乱で
中原は依然荒れてまして、

そのうえ
南方では呉が台頭して
北進を企てます。

で、これが
中原の東半分の勢力図を
散々に引っ掻き回す
大事になりまして。

そして、
その矢面に立つ
呉と干戈を交えた末、

呉の傘下に降り、

その後ろ盾で
斉と事を構えることと
なります。

3、哀公11年
(前484)の
「冉有斉師に矛を用い」
は、

以上の流れで起こった
斉の侵攻に対する
魯の本土防衛戦、
郊の戦いの一幕です。

因みに、「郊」は、

具体的な地名ではなく、

魯の国邑(国都)である
曲阜の郊外、
という訳です。

念の為。

さて、ですが、

座右の字引きによれば、
国都の城外。

城から50里を近郊、
100里を遠郊
称するものの、

時代が下って
城外や野外を指すように
なったのですと。

4-2、
どのように
矛を用いたか

さて、件の
「斉師に矛を用い」
ですが、

これに対して、
孔子「義なり」
誉めています。

今風に言えば、
親指を立てて
「ぐっじょぶ!」
とでもやる
感覚かしらん、
ホントかね。

サイト制作者の
浅学につき、

この「矛を用い」と
「義なり」の
意味するところを
掴みかねていまして、

以下に
ふた通りの解釈を
用意しました。

1、矛の使用の
軍事面での合理性。

2、司令官の車左が
自ら矛を手に執って
敵陣に突入する武勇。

まずは、
1、の合理性について
触れます。

『左伝』における
哀公11年の
郊の戦いの描写は、

いくつかの引用を
見る分には、

春秋時代の
激戦のひとつ
というよりも、

嫌味な言い方を
すれば、

孔子の弟子の
冉有のカッコイイ話で
有名になっているように
見受けます。

郊の戦いの話は初耳だ、
という方は、

すぐに読めるもの
としては、

九去堂様の
訳や書き下しが
良く出来ている
思いまして、

そちらで
大体の内容を
御確認頂ければ
思います。

『論語』全文・現代語訳
『春秋左氏伝』
現代日本語訳・哀公十一年
ttps://hayaron.kyukyodo.work/fuki/saden_aikou11-2.html
(1文字目に「h」を
補って下さい。)

個人的には、

細かい部分では
気になるところも
多少ありますが、

全体としては、

漢文の読み方や
言葉の理解の方法等、
色々と
勉強になりました。

この場を借りて
御礼申し上げます。

さて、
この曲阜郊外の戦いは、

孔子の弟子の冉有が
戦車で頑張った描写
目立つものの、

一方では、

相当に、
歩兵が入り乱れた
戦いであった模様。

【雑談】
300名の戦闘単位

余談ながら、

冉有の直属の部隊
武城から引率した
「徒卒」300名。
杜預によれば
「歩卒、精兵」。)

実は、
300名の編成単位

『左伝』でいくつか
例があることで、

これについて
少し考えてみます。

『逸周書』「武順」
300名の編成単位
「佐」としています。

その指揮下には
100名の部隊
である「伯」
3隊あります。

さらに、その下には
25名の「卒」

そして、
「佐」と「伯」の
関係は以下。

均伯勤、労而無携、
携則不和
均佐和、敬而無留、
留則無成

勤:力を尽くす
労:真面目に勤める
携:離れる、分離する
和:調和する、整える
留:拘泥する
成:実現する

均しく伯は勤め、
労たりして、
携(はな)れるなく、
携(はな)れれば
すなわち和ならず
均しく佐は和し、
敬いて留まるなく、
留まればすなわち
成すなく

大意を取れば、

100名の部隊は
勤勉さと
他の伯との連携が
必要とされ、

対して、

300名の部隊は
上位部隊との協調性と
戦術面での柔軟性
必要とされる、と。

要は、
300名の意味は、

指揮官に
或る程度大きい
裁量があり
戦術面で独立性の高い
戦闘部隊。

さて、
『左伝』で
いくつか見られるのが、

特別な作戦を
行うために
精兵を選抜して
部隊を編成する
ケース。

次に挙げる事例は、

残念ながら
『逸周書』に
基づいている
確証はないのですが、

謂わば、

300名あるある
につき、
御参考まで。

襄公17年
(前556)に
斉が魯に侵攻した際、

曲阜から
20キロ程度東に
位置する
防が包囲されまして、

これを守る魯の守備隊
城外の友軍と呼応して
夜襲を行うのですが、

その部隊の内訳として、

郰叔紇、藏畴、藏賈
帥甲三百

郰叔紇(すうしゅくこつ)、
藏畴(ぞうちゅう)、
藏賈(ぞうか)
甲三百を帥いて

と、あります。

この郰叔紇
(すうしゅくこつ)が
孔子の父の叔梁紇
(しゅくりょうこつ)。

藏畴・藏賈の詳細は
残念ながら
分かりません。

で、先述の
『逸周書』「武順」
前提に読めば、

叔梁紇が
2名の部下と自分で
各々100名、
計300名を率い、

さらに、
伯1隊は直属であった
ということかと
思います。

さらには、
「甲」というのは、

ここでは
夜戦が出来る―

『管子』
匡君小匡・第二十
にあるような、

敵に目立つ
旗や鳴り物に頼らず、

互いの声で
意思疎通が出来る程
結束力のある、

言い換えれば
巧妙な夜襲が出来る、

(地縁・血縁のある
兵士より選抜された)
精兵であろう、と。

因みに、
『管子』の
この部分の解釈は、

高木智見先生の
『孔子』
参考にしました。

【雑談・了】

4-3、魯軍の概要

さて、

武城発の300名の
冉有様御一行が
いくら強いと
言えども、

これだけで
戦争する訳では
ありませんで、

戦いの詳細について
考えるための
材料として、

一応、魯軍の概要
少しばかり。

直近の再編は
昭公5年(前537)。

その折、

魯の国軍を
季孫・叔孫・孟孫が
2:1:1の割合で
保有する、

で、国君の兵は?

―という、
どうもヘンな内容。

もっとも、

再編の本丸は、

兵士というよりも
動員を下支えする
領地・領民でして、

その30年弱前の
襄公11年(前562)
の「改革」を
前進させたもの。

早い話、

国君の力を削ぐための
政争の御話です。

大人の事情はともかく、

今回の郊の戦いでは、

最有力の卿の季孫
7000の兵を有し、

相手の斉の兵車の数
叔孫・孟孫のいずれか
よりも下回る、

という明らかな戦力差。

軍の、中・左右という
割り振りが
平時から存在するのかは
分かりませんが、

以上の経緯から、

先発して斉に突っ込んだ
左軍が季孫の軍、

寄せ手の先発部隊を
迎撃して
エラい目に遭った
右軍が、

その顔ぶれからして
叔孫の軍、

ということになるかと
思います。

さらに斉軍ですが、

この時の司令官は
国書で、
国氏は斉の有力勢族。

郊の戦いの
翌年に勃発した
呉・魯と斉の
大会戦である
艾陵の戦いも、
この人の指揮。

艾陵の戦いでは
上・中・下の三軍
呉に当たり、

国書は中軍に
属していたことと、

晋楚は元より鄭にせよ、
艾陵の戦いの呉も
然りで、

野戦で
三軍を並べるのが
当時のスタンダード
であることから、

兵の多寡はともかく、

は、さらにもう1隊を
展開させていた
可能性がある
思います。

4-4、
車戦の影にある歩兵戦

さて、武城の300名の
冉有様御一行を含めた
魯の左軍、
—額面通り7000も
いたのかは不明、は、

自分の息が
掛かった筈の
兵隊共が
言うこと聞かんわ、

それを見かねた
同門で若くて
血の気の多い
某(後述)に
アレコレ言われるわと、

紆余曲折を経たものの、

首尾良く
斉軍に殴り込みを
掛けまして、

挙げた戦果は
「甲首八十」。

余談ながら、

少なくとも当時から
死体から耳を切って
ボディ・カウント
するんですと。
―「馘」。

いえ、正確には、

車上の戦士が
同僚が気に喰わん
とかで、

生きてる人間の耳も
バッサリやる世間。

ゾ~っ。

それはともかく、

「甲首八十」の
被害によって、

斉のこの部隊
態勢を立て直せず
戦線離脱と相成ります。

この時代の「甲」は
身分の高い人か
選抜された精鋭か、

今のところ
厳密な定義は
サイト制作者には
分かりかねます。

その他、余談ながら、

甲士とは
恐らく
別のカテゴリーの
猛者として、

「大力」というのが
います。

残念ながら
座右の字引きには
なかったのですが、

用例からして、

身分の高い人が
身辺警護等のために
抱えている武芸者で、

城中の要人襲撃等で
活躍します。

【追記】

「大力」というのは
『左伝』を和訳された
小倉芳彦先生の
言葉です。

原文では、
「力臣」「有力」等
と称し―、

まあその、
名称がないような
ものです。

ですが、

「武芸者」
というよりは、

怪力の人が
有事の暗闘の
殺し屋として
重宝されたのは、

恐らく事実です。

エラい人々は、
普段は、

こういうのに
馬の飼育等を
させています。

対して、その政敵は、

どこそこの館には
誰其というのがいる、

という具合に、

平時から情報を集めて
警戒します。

社交で
方々の館に
足を運んだりする
訳でして。

『左伝』荘公32年、
襄公23年等を参照。

【雑談・了】

話を本筋へ。

さて、ここで、

魯が取った
斉の甲士の
首の数の意味
考えてみましょう。

斉軍の数は、

総数
どうも3500未満。

仮に、
2部隊展開していれば、

単純に考えれば、
1隊あたり
2000名を
切ります。

さらには、

当時の車歩の
大体の割合、

『逸周書』
100名当たり1両、

『司馬法』
後世の引用
75名当たり1両、

からして、

件の首80は、
戦闘に参加した
車上の戦士を
上回る数。

負傷者など
言うに及ばずで。

これが
意味するところは、

御約束の
車戦に加えて、

戦車が
敵の戦列歩兵に
突っ込っこむどころか、

歩兵同士でも
激しい白兵戦をやった
可能性が高い、

ということだと
思います。

こういう経緯から、

「斉師に矛を用い」の
軍事面での解釈は、

九去堂様が
解釈されているような
突破戦における
矛の威力、

もう少し言えば、

歩兵陣に対する
車上の矛の威力
なのでしょう。

4-5、
意味深な杜預の注

さて、サイト制作者が、

2、司令官の車左が
自ら矛を手に執って
敵陣に突入する武勇。

という
仰々しい解釈
用意した理由は、

戦いの件の末尾の
杜預の注
あります。

引用すると、以下。

言能以義勇
不書戦、不皆陣也
不書敗、勝負不殊

言うをあたうに
義勇をもってす
戦いを書かざれば、
皆陣せざるなり
敗れるを書かざれば、
勝負は殊にせず

書いて
後世に伝えるにも
勇気や正義感が
必要である。
書かなければ
何も残らない、と。

直接的には、

『西部戦線異状なし』な
『穀梁伝』や『公羊伝』
のことかと想像します。

さて、
これが意味する
ところですが、

サイト制作者の
想像ですが、

魯の太史を務めた
左丘明が
自分の国の恥を
暴露したことかと
思います。

と言うのは、

この郊の戦いの
構図として、

冉有の奮闘と
対をなすかたちで、

本来、

軍事力の中核を
担うべき立場にある
国人が、

実際の戦闘での
不甲斐さを
露呈しました。

その背景には、

直接的には、

寄せ手の斉の兵力が
少なかったことで、

その対応が
魯を牛耳っていた
三卿の政争が
見え隠れします。

【雑談】
厭戦の理由を考える

とはいえ、
サイト制作者としては、

この郊の戦いの件を、

孔子側の武勇伝だけで
済ませて良いものか、

どうも
疑問に思う部分も
見え隠れしまして。

ですが、

矛の話とは
どうも関係なさそうで、

春秋時代の
捻くれた捉え方、

あるいは、
『左伝』の歪な読み方の
ひとつとして
御参考まで。

さて、

郊の戦いの
何年か前の段階では、

魯と斉は、
姻戚による
同盟関係にありました。

この辺りは
季氏の動きが
になるので、

以下に記します。

まず、

魯の最高実力者である
季康子が、

自分の膝元に
亡命していた
公子時代の悼公に
妹君を嫁がせたのですが、

身内の痴話が拗れて
そのさんが
魯を出ないと来ます。

その後、

陳(田)氏の
後ろ盾で斉に帰国して
首尾良く国君になった
悼公の怒りを買い、

魯は斉の侵攻を
受けます。

で、その
後始末として、

魯は妹君を斉に出して
失った領土を
取り戻して
手打ちにする、

—という具合に、

スッタモンダの上に
斉と結んだ同盟が、

事もあろうに
北進して来た
呉の圧力で
御破算になった、

という
ややこしい経緯が
あります。

季氏と呉の事情で、

御隣の強国・
斉との関係が
猫の目にように
変わる訳です。

しかも、

北上する呉の
目の前でやった
小国・邾(ちゅ)
への侵攻も、

それらしい成果を
得られません。

これも、

季氏が
周囲の反対を
押し切って
強行するという
曰く付き。

で、その台風の目の
はといえば、

恐らく中原の目線では、

自分達の流儀の
軍事教練を
受けておきながら、

魯に周王以上の
過剰な接待を要求する
という
イカレ具合。

そのうえ、

その呉の影響力の強い
武城から
精兵を引率し、

その兵で
斉と戦おうと
息巻くのが、

季氏の家臣の冉有。

当然、
冉有の背後には、

その少し前に、

現職の司寇として
国君の権力強化を
推し進め、

反対分子の兵乱を
武力で鎮圧した
師匠・孔子の影が
見え隠れ。

例えば、

冉有は弟弟子の樊遅を
車右に抜擢しますが、

周囲の
若い(当時31歳前後)
という意見を
押しのけています。

当時、は、
呉の勢いを
一時的なものと
看破しており、

長い目で見れば、

策源地が
曲阜やから程遠い
(当時の感覚で3ヶ月)
呉の勢いが
盛りを過ぎれば、

拗れた斉との関係を
見直さざるを
得ません。

穿った見方をすれば、

呉に振り回される
季氏と、

その勝ち馬に乗って
自分達の利害に反して
暗躍する
怪しい政策集団の
台頭、

—という構図で、

曲阜の中で
対斉戦への消極論が
燻るのも
分からん話ではないと
思います。

【雑談・了】

まあその、

いくら国内で
ゴタゴタが
あるとはいえ、

目先の国防にも
手を抜かないという
心ある人々
いまして。

崩れた右軍の話として、

御丁寧にも、

気骨のある人や公族が
戦死する描写まで
網羅されています。

左丘明が生きた時代が
近かったか、
あるいは存命中に、

それも郷里で起こった
戦いにつき、

見聞きした話が
多かったのではないかと
想像します。

こうした状況を受けて、

サイト制作者は、
敢えて、

「斉師に矛を用い」は、

国人の劣勢を尻目に
奮闘した冉有の武勇を
象徴している、

という解釈も
出来るでのはないか、と、
考えた次第です。

と、言うのは、

はじめに挙げた
3箇所の
「矛」の件のうち、

先述のように、

焉陵の戦いの欒鍼、
鉄の戦いの蒯聵と、
この2箇所については、

機能的な話ではなく
武勇の象徴
取りまして、

この郊の戦いの
それにも、

機能的な理由以外にも
同じニュアンスを
感じたからです。

おわりに

無駄話で焼け太って
長くなりましたので、

以下に要点を纏めます。」

1、『左伝』における
矛の描写は、
少なくとも3例あり、

いずれも
戦場における武勇を
象徴していると思われる。

2、もっとも、3例中、
哀公11年の1例は、

歩兵陣に対する
車上の矛の有効性を
示している可能性がある。

3、春秋時代の車戦には、

まず、車上での射撃戦、
次いで、長柄の武器での
斬り合い、

そして、降車後の
白兵戦という流れがある。

4、実際の戦闘では
かなり臨機応変に
武器を使い分け、

特に降車戦闘では
肉弾戦も行う。

5、長柄の武器や
弓については、

車戦に加えて
降車戦闘も
行うことから、

搭乗員全てが
所持している
可能性を考えたい。

6、以上の1~4、の
項目より、

当時の武器に対する
効能として、

臨機応変に使い分ける
機能的なものと、

外見の与える
精神的なものが
存在する。

後者は、
本文では触れなかったが、

管見の限り、例えば、

飾りのついた
儀仗的な戈や斧等が
少なからず出土している。

【主要参考文献】
(敬称略・順不同)

左丘明著・小倉芳彦訳
『春秋左氏伝』(各巻)
杜預『春秋経伝集解』
『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』
(国学導航)
司馬遷
『史記』(維基文庫)
金谷治訳注『論語』
劉熙
『釈名』(天涯知識庫)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
周緯『中国兵器史稿』
篠田耕一
『武器と防具 中国編』
稲畑耕一郎監修
『図説 中国文明史3』
薛永蔚
『春秋時期的歩兵』
高木智見『孔子』
愛宕元・冨谷至編
『新版
中国の歴史 上』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版
香坂順一編著
『簡約 現代中国語辞典』

【言い訳】

思い出すのは、

トイレに籠って
長時間粘った割には
戦果の乏しかった時の
徒労感と絶望感。

あまり
論旨とは関係ない
魯・呉・斉の
関係の整理に
思いの他
手間取りました。

その他、
孔子関係の話は、

弟子や本人を
誉める話の裏で
色々ありそうで
ムツカシアルヨ。

サイト制作者の性格が
曲がっているといえば
それまでですが。

それはさておき、

御笑読頂いている
皆様には
本当に申し訳なく
思います。

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「考工記」と「釈兵」の説く矛について

はじめに

今回は、
自身の悪癖が出て
無駄に長くなったので、
先に章立てを入れます。

適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

はじめに
1、原文の説く柄の上下の固さ
2、ポイントになる「重」の解釈
2-1、まずは、原文と注釈を
2-2、今風に言えば、ドウシる?!
3、「釈兵」の説く矛と戈
3-1、疑問提起、矛戈の「堅」
3-2、何かと便利な『釈名』
3-3、出土品の形状との比較
3-4、ノーカットで読んでみる
3-5、矛頭の定義
3-6、後漢時代の実物
【雑談1】存外アバウトな百歩?!
【雑談2】 出土品の墓の話
3-7、定義が変遷する?槊
3-8、多様化する矛
3-9、「考工記」より短い夷矛
おわりに (結論の整理)

はじめに

今回の御話は、
『周礼』「考工記」の説く
矛の使い方について。

図解の下書きを描く過程で
またも誤読が
発覚しまして、

それ以外にも、

話の流れで
どこかの大きい国みたく
イロイロと
身の丈に合わないことを
やらかしまして、

結局、ひと月以上も
掛かってしまいまして、
大変申し訳ありません。

1、原文の説く柄の上下の固さ

それでは、早速、
本文に入ります。
図解の方を
見てみましょう。

例によって、

あくまで
参考程度で御願いします。

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

まず、「刺兵同強」
(刺兵は強きを同じくし、)
ですが、

『周礼注疏』は、

「上下同也」
(上下同じなり)、

柄の前後の硬さが同じ、
と、しています。

想像するに、

『周礼注疏』の解釈に
準拠すれば、

車戦で使うための
3m程度の長物を
一定の数量を
確保する、

という話につき、

或る程度の高さの木の
幹でもない限りは、

硬さにバラつきが
出易いのかもしれません。

2、ポイントになる「重」の解釈
2-1、まずは、原文と注釈を

続いて、「考工記」原文
以下の部分について。

挙囲欲重、
重欲傅人則密

囲:武器の取っ手
重:増やす、重視する
傅:付く
密:安定する

囲を挙げるに重を欲し、
重は人に傅すを欲し、
すなわち密。

例によって、
書き下しも手製につき
これも参考程度
御願いします。

この部分については、

サイト制作者は、
図解の如く、

矛を手に執って
突く時に、

囲に力を入れれば
切っ先が安定する、

と、解釈します。

さらには、
『周礼注疏』には、

操重以刺則正

操:持つ、握る
正:まっすぐな様

重んじて握り
もって刺すは
すなわち正

と、あります。

力を入れて握れば
まっすぐ刺さる

という訳でして、

別の言葉に言い換えて
説明しています。

こうやって、一見、
すんなり訳せたように
見えますが、

サイト制作者は
ここで躓きまして。

2-2、今風に言えば、ドウシる?!

言わないと思います。

ただ、最近の言葉では、

バグる、ググる、
といったような言葉を
イメージされたく。

さて、ここで肝心なのは、
「重」の意味。

コレ、古語としては、
座右の字引きによれば、

動詞としては、

大事なものと見なす、
増やす、

ある基準よりも
目方がある
=重い、

といった意味が
あります。

これを受けて、
サイト制作者は、最初、
馬鹿正直に、

形容詞として
物理的に「重い」と
解釈しました。

武器の「囲」に
細工する、

例えば、

コーティングする部分が
重くなる、

といった解釈に
なる訳です。

一方で、

心理的な面での「重」は、
例えば、

人を重用する、

あるいは、

多い情報量の中での
取捨選択として
「重視」する、

というような意味しか
頭にありませんでした。

ですが、ここでは、

これらの解釈から
もう一歩踏み込んで、

手に執った人間が
物理的に力を入れること
「重」と言うのでしょう。

果たして、
『周礼注疏』には
この部分について、

謂矛柄之大者
在人手中者

矛柄の大いなるは
人手中にあることを
いう

大:強い、激しい、

とあります。

矛の柄の中で
力が入るのは
手で握る部分である、

—と。

教訓としては、

少しでも
日本語として通じないと
感じた部分については、

徹底して
字引きを引きなさいよ、

ということなのでしょう。

さらには、

この「大」
クセモノで、

ここでは、
「大きい」という意味
以外にも、

強い、激しい、ひどい、
といった、

恐らく、ニホン語からは
想像するのが難しい意味も
あります。

文脈から考えれば、

ここでは
「重」も「大」も同じ、

力を入れる、
という意味なのでしょう。

3、「釈兵」の説く矛と戈
3-1、疑問提起、矛戈の「堅」

この章では、
『釈名』「釈兵」を中心に、

矛と戈の使い方を
比較してみます。

そうすることで、
矛の特徴が
より浮き彫りになります。

さて、前章に因んで、

『周礼注疏』
少し気になる文言が
ありまして、

それは、

矛と戈は
前後のいずれが「堅」か、
という御話。

以下の部分です。

句兵堅者在後、
刺兵堅者在前

句兵堅きは後にあり、
刺兵堅きは前にあり

句兵:戈・戟
堅:しっかりして
揺るぎない
落ち着く・安心する
刺兵:矛

戈や戟は
柄の後ろの方が
しっかりしていて、
矛はその逆。

その理由については、
以下。

前置きで「釈曰」、
―『釈名』「釈兵」を
典拠とする、
と、しつつ、

戈戟については、

句兵向後牽之

句兵後ろに向かい
これを牽く

については、

向前推之

前に向かいこれを推す

と、します。

要は、
柄そのものの固さ
ではなく、

持ち手が力を加えた時に
どの部分が
しっかりしているのか、

という話なのでしょう。

これも、
字引きを引くのを
躊躇したツケでして、

「堅」=硬さ、という
日本語のニュアンスで
足を掬われました。

3-2、何かと便利な『釈名』

一応、
件の「釈兵」についても
触れます。

前置きとしては、

『釈名』は、要は、
万物の字引きです。

一読する分には、

ほとんど
『三国志』の時代の感覚で
万物の語源を辿る
という内容に見受けます。

兵器のみならず、
服飾、車両、地理、
という具合に
何でも御座れで、

諸分野の考証の
足掛かり
なろうかと思います。

原文に興味のある方は、
以下のサイトにて。

『天涯知識庫』さんの
『釈名』目次
ttp://book.sbkk8.com/gudai/shiming/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

『中国哲学書
電子化計画』さん、
同上
ttps://ctext.org/shi-ming/zh
(一文字目に「h」を補って下さい。)

3-3、出土品の形状との比較

話を矛と戈の「堅」に
戻します。

まず、「釈兵」中の
戈の件は以下。

戟、格也、旁有枝格也
戈、句孑戟也
戈、過也
所刺搗則決過所鈎、
引則制之、
弗得過也

格:打ち殺す
枝格:樹木の長い枝
句:まがる
孑:小さい、単独の
ここでは干戟の援か。
過:通る、勝る、過失
ここでは貫通する、か。
決:裂く、嚙み切る
鈎:かぎに掛けて取る
制:断ち切る

戟、格なり。
旁に枝格あるなり。
戈、句孑の戟なり。
戈、過なり。
刺し搗(と)るところは
すなわち決(き)り
過は鈎(か)くところ、
引くはすなわち
これを制し、
過を得ざるなり。

参考までに、

後漢当時の
武器の先端の形状
見てみましょう。

以下は、
以前掲載した図解です。

学研『戦略戦術兵器事典 1』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

時代区分がヘンですが、
後漢時代も
右側に入りますので
念の為。

この図解も、
出土品の明示等で
精度を上げるかたちで
描き直したいと思いますが、
いつになることか。

さて、
「釈兵」の話が
仮に後漢時代のものだと
仮定すれば、

成程、戟の特徴を
よく表していると
思います。

と、言いますのは、

この時代の戟の特徴は、

それまでの戟のような
戈に先端の戟刺を
足したものとは異なり、

刺突系の攻撃に
かなり重心を置いた構造
なっています。

矛に近い形状。

言い換えれば、

本来、戈の本質
とも言える援が、

幹に対する「枝格」
―この部分が主役ではない、
と表現される辺り、

そうした特徴を
よく表していると思います。

因みに、

当時の戟については、
『中国古兵器論叢』
詳しいです。

著者の楊泓先生によれば、

こういうのを
『「卜」字形戟』
称するのだそうで、

洛陽や南昌(江西省)の
後漢時代の遺跡から、

大体このサイズのものが
出土している模様。

一方の戈は、

「句孑の戟」、つまり、
曲がる部分がひとつ。

言い換えれば、
戟刺がありません。

この部分は、
後漢時代の出土品を見ると
逆に分かり辛いのですが、

「考工記」・冶氏為殺矢の
次の部分にある
戟の件との対比だと
思います。

恐らく「〇氏為〇」が
欠けているところ。

で、その件は、

以前の記事でも
触れましたが、

具体的には、

戟の援・戟刺・内が
3本共曲がっている
ものがある、

という御話。

機能性はともかく、

西周時代の出土品にも
こういうものがあります。

一応、図解を再掲。

『釈名』の著者の劉熙
実物を見たかどうかは
サイト制作者は
分かりませんが、

「句孑」を
「考工記」の文言との比較
考えると、

少なくとも、
内容は一致していると
思います。

で、肝心の、
戈戟の使い方ですが、

「釈兵」によれば、

刺し切っても
引いて切っても大丈夫、
というもの。

その他、「過」が
何度も出て来るので
紛らわしいのですが、

最後のものは、恐らくは、
失敗を意味し、

引いて切れば間違いない、
ということだと
思います。

3-4、ノーカットで読んでみる

「釈兵」
矛の部分についても
触れます。

ここでは
無関係な部分が
多いのですが、

矛が主題であることに
加えて、

考証の材料として
オモシロいこともあり、

今回は敢えて
ノーカットでいきます。

長いので、
区切りを付けました。

因みに、

この「釈兵」の
「殳矛」以下の件は、

矛というよりは
「殳」の説明につき、
今回は省きます。
(過去の記事で触れたため)

A
矛、冒也、
刃下冒矜
下頭曰鐏、鐏入地也
松櫝長三尺、
其矜宜軽、以松作之也、
櫝、速櫝也、前刺之言也

B
矛長八尺曰矟、
馬上所持、
言其矟矟便殺也
有曰激矛、激、截也
可以激截敵陣之矛也

C
仇矛、頭有三叉、
言可以討仇敵之矛也
夷矛、夷、常也
其矜長丈六尺、
不言常而曰夷者、
言其可夷滅敵、
亦車上所持也
矛芍矛、長九尺者也
矛芍、霍也
所中霍然即破裂也

冒:覆う
矜:柄
鐏:いしづき
櫝:箱、ひつぎ
速:ここでは、
意味する、早い話、
といった意味か。
尺:後漢時代は
1尺=23.75cm、
魏晋時代は
1尺=24.2cm。
矟:騎兵用の長い矛
矟矟:ほっそりした
激:突く、
激しくぶつかる
截:切る、断つ
常:いつまでも
守り続ける
霍:素早い
霍然:たちまち

A
矛、冒なり。
刃下に矜(きん)を
冒(おお)う。
下頭をいわく鐏、
鐏は地に入るなり。
松櫝は長三尺にして、
それ矜は
よろしく軽くすべく、
松をもって
これを作るなり。
櫝、
櫝を速(まね)くなり。
前刺の言なり。

B
矛長八尺をいわく矟、
馬上に所持し、
それ矟矟(しょうしょう)
として
殺すに便なり。
いわく激矛あり、
激、截なり。
もって
敵陣を激截すべきの
矛なり。

C
仇矛、頭に三叉あり。
もって仇敵を討つべきの
矛なり。
夷矛、夷、常なり。
その矜長丈六尺にして、
常と言わず、
いわく夷とするは、
それ夷は
敵を滅すべきを言い、
また車上に
所持するなり。
矛芍(けき)矛、
長九尺のものなり。
矛芍、霍なり。
中(あた)るところ
霍然として
すなわち破裂するなり。

3-5、矛頭の定義

さて、
まずAの部分ですが、

「釈兵」によれば、

所謂「矛」の字は、

先端の金属部分
矛頭を意味します。

邪な解釈をすれば、

先端を取れば、
何の棒だか
分からん訳で、

杯型のゴムを付ければ
トイレで使う
ラバーカップ。

むこうの言葉で、
馬桶柱塞
と言うそうな。

んなものは
あの時代にはないと
思いますが、

余分な話はともかく、

件の矛頭―矛、

どうも金属ではなく、
松で製作する模様。

その場合、
柄は軽い方が望ましい
とします。

サイト制作者の
想像ですが、

鉄自体が
貴重な時代につき、

炒鋼法で
鉄製の武器を大量に
確保しようと思えば、

労力はもとより、
大量の鉄鉱石や
木炭を使用することで、

まして
戦争の時代ともなれば、

こういう方法に
頼らざるを得ないのかも
しれません。

で、この櫝=前刺、
言い換えれば、
松製の矛頭は、

長さ3尺とありまして、

後漢時代の尺で言えば
71.25cm。

これは矛頭としては
結構な長さです。

後代の尺を用いれば
さらに長くなります。

さらに、
計測方法を変えると、

これまた違った側面も
見えて来ます。

具体的には、

「考工記」廬人為廬器の
「酋矛」における
全長と「刺囲」の比率から
弾き出す方法です。

当該の件を参考に、

「刺囲」の
全長に対する比率
8/45とします。

その結果、

周尺換算で
全長360cm余に対して
刺囲は64cm余。

先述の「釈兵」の説く
「長三尺」が
後漢時代の尺で
71.25cmにつき、

両者の差は
10cmを切ります。

後述するように、

この「釈兵」
「考工記」の内容の一部が
下地になっている痕跡
あります。

3-6、後漢時代の実物

ところが、

事実は小説よりも奇なり、
でして、

漢代の出土品も
これに近い数字と来るので、
ややこしくなっています。

順を追って
見ていきましょう。

まず、以前の記事で、

殷から戦国時代までの
銅製の矛頭は
かなり長いものでも
大体50cm程度、

という話をしました。

一応、図解を再掲します。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

(以前掲載した際、
「常」の換算方法が
誤っていましたので、
今回訂正します。)

対して、

先述の
矛や戈の形状の変遷の
図解にあるように、

漢代の鉄製の矛の2例は、
48.5cmと
65.3cm。

後漢時代の3尺の
71.25cmに対して、

特に、
下の1例については、

結構イイ線行っている
思います。

これに因んで、
この時代における
矛の状況は詳しくは
分からないのですが、

については

先述の
『中国古兵器論叢』
詳しくありまして。

例えば、
長いものでは、

洛陽の後漢の
光和2年(179)
王当なる人の墓から
1974年に
出土した戟は、

何と、
長さ69cm。
形状は卜字戟。

管見の限り、
戦国時代までの戟で
これ程の長さのものは
ありません。

それどころか、

戦国時代までの
出土品の感覚で言えば、

飛び抜けた長さだと
思います。

ですが、

後漢時代の
戟の出土品はと言えば、

「考工記」にある
戟体の規格からは
逸脱の甚しさ。

「釈兵」の戟の件
どちらかと言えば、

その「現状」に準拠して
書かれている
言えます。

サイト制作者は
これを受けて、

「釈兵」の説く
「松櫝」の長さは、

後漢時代の現状を
反映している
考えます。

ただ、当時の知識人の
こうした時代ごとの
尺の長さの
違いについては、

どこまで正確に
勘定しているのかは、

サイト制作者は
分かりかねる部分が
少なからずあります。

よって、
記事の末尾の結論では、

少なくとも、

1、後漢の出土品の状況
に準拠

2、「考工記」
廬人為廬器の内容に準拠

以上のふたつの捉え方が
ありそうである、

と、書こうと思います。

【雑談1】存外アバウトな百歩?!

余談ながら、
ここで、

古代中国における
数字の捉え方について、
オチのない話を少々。

以前の記事でも
触れましたが、

例えば、

『春秋経伝集解』
―杜預の付けた
『左伝』の注釈では、

昭公二十一年の件で、

殳の長さについて
「考工記」の数字を
そのまま掲載しています。

その他、

『周礼』「夏官司馬」の
大閲の件で、

百歩則一、為三表

百歩をすなわち一とし、
三表をなし、

百歩ごとに標識
(あるいは、単なる杭か)
を立て、

これを3単位設置し、

これを目安に
部隊の前進・停止の
訓練を行う、

という御話。

戦国時代の
『尉繚子』「兵教上」にも、
百歩ごとに標識を立て、
―「置大表三」

百歩ごとに
鶩:全力疾走
趨:小走り
決:白兵戦

という流れの
突撃訓練を行う
件があります。

両者の「百歩」は
時代ごとの尺を
厳密に当てはめれば、

2割以上の差が
あるのですが、

サイト制作者としては、

どうも、

その辺りを
正確に計測している
ようなニュアンスには
取れませんで、

つまるところ、

目先の事務の
ソロバン勘定
であればともかく、

時代ごとの
尺の違いについては、

余程専門性の高い
実務官でもなければ、

結構アバウトでは
なかったのか、

と、すら思います。

とはいえ、
サイト制作者の
感覚レベルの話につき、

妄想はこの辺りで。

【雑談1】・了

【雑談2】 出土品の墓の話

墓についても無駄話を。

黄巾の乱の数年前で、
限りなく
『三国志』の空間に
近い御話。

余談ながら、
「王当」
検索を掛けたところ、

墓の説明書きのある論文
見付けましたので、
アドレスを掲載します。

残念ながら
熟読はしていないのですが、
(まずは、
記事を更新してから
読もうと思います・・・。)

どうも、
墓の土地の売買という
生臭い話のようで、

個人的には
非常に興味があるのですが、
それはともかく、

当時の人々は、

墓の中も
現世の生活空間の延長
という発想で、

副葬品として
高級品から空手形まで
実にイロイロなものを
持ち込み、

内壁に
レリーフまで彫るので
オモシロいものです。

こういう話のタネ本は、
以下。(著者敬称略)

柿沼陽平
『中国古代の貨幣』

蘇哲
『魏晋南北朝
壁画墓の世界』

当時の
富裕層・知識人層の価値観に
興味のある方はどうぞ。

で、件の王当さんの墓に
言及した論文は、
以下。(著者敬称略)

江優子
後漢時代の墓券を中心に
ile:///C:/Users/monog/Downloads/KJ00005440895.pdf
1文字目に「f」を補われたく。
(注意!「h」ではありません。)

後、どうでも良い話ですが、
論文の中で
個人的に笑えたのが、

件の王当の墓の欄の
「トラクター工場」の記載。

時代が下れば、

富裕層の墓の上にも
こういうものが
建つのか、と。

いえね、
何の偶然か、

斯く言うサイト制作者の
勤務先の工場の
ほとんど隣の空き地でも、

遺跡の発掘調査を
やってまして、

ヘタすりゃ、
ウチの工場の地下にも
何が眠ってんだか。

当時の産廃の
投棄場にもなっていれば
制作者としては笑えます。

さらに、発掘現場の隣の
大通りの反対側では
何をやってるのかと言えば、

それまでは
田んぼや畑ばかりで
吹きっ晒しの場所に、

ここ数年で
大型モールだの
カー・ディーラーだのが
乱立し、

沿道の開発が
急ピッチで進む有様。

古代遺跡が
点在する地域につき、

先程の洛陽の話と、

多少なりとも
似たような雰囲気を
感じなくもありません。

3-7、定義が変遷する?槊

Bの部分について。

「矟」は、
座右の字引き・
『漢辞海』第四版
によれば、

騎兵用の長い矛、
「槊」(さく)に通じる、
と、ありまして、

「槊」は長い矛、
としています。

さらに、
篠田耕一先生の
『武器と防具』中国編
によれば、

「槊」は
3世紀以降に登場する
重装騎兵が使う
長い槍としています。

恐らく、曹操が
袁紹は300騎持ってる
と嘆いた騎兵かと
思います。

一方で、8尺は、
後漢時代の尺
換算すると、
190cm。

これで
敵陣を切り裂くんですと。

ですが、

どうも、
話が矛盾していますね。

例えば、

春秋時代の出土品の
3メートルの車戟に
比べると、

日本の戦国時代の
騎馬武者が持つ、
短くて取り回しの良い
騎乗槍や、

さらに時代が下って
騎兵の持つ
四四式騎銃のような、

歩兵用の小銃に比べて
銃身の短い
カービン銃のような
イメージです。

で、サイト制作者の
知るの限り、

これに近いものとして
思い当たるのが
「鏦」(しょう)。

小さい矛、
という意味でして、

『孫臏兵法』の
「陳忌問塁」に出て来ます。

陣地を守る際、

弓弩とは別に、
前から順に、
撒き菱、遮蔽物(車両)、
盾、長兵器・短兵器の順に
敵に備えよ、

という文脈で使われる
武器でして、

長兵器の中に、
この「鏦」が入ります。

仮に、「釈兵」の説く槊が
こういう類の
短い矛であるとすれば、

今のところ、
サイト制作者は、

重装騎兵の登場によって、
言葉の意味が
変遷したのではないか、

と、想像します。

この辺りの
経緯については、

サイト制作者としては
理解不足につき、

詳しい話は
後日とします。

3-8、多様化する矛

次は、Cの部分について。

ここはBの部分の延長で、
矛にも色々ありますよ、
という御話。

仇矛・夷矛・芍矛
他に3種類あり、

ざっくり言えば、

仇矛は三又、
これで
仇敵を討つのですと。

あるいは、

機能ではなく、
礼の話かもしれません。

夷矛は車戦用、
芍矛はヨクワカラナイ。

あくまで想像ですが、

尺の長さや
「破裂」という
エグい描写から、

イメージとしては、

恐らく、
柄や矛頭の直径が
大きいことで、

大口径の銃や
ショットガンで
モノを打ち抜いた時
のように、

突いた対象が
原型を留めなくなる類の
武器かしらん、ゾ~ッ。

(説明になっていない!)

3-9、「考工記」より短い夷矛

さて、この中で、

「考工記」の矛に
関係ありそうな
夷矛について
少し突っ込みますと、

まず、
「常」と「夷」の話は
武器の機能的な話では
ありません。

次いで、

柄の長さが6尺、

これを後漢時代の尺に
換算すると、
142.5cm。

さらに、
矛頭を先述の3尺と
仮定すると、
71.25cm。

〆て計9尺=
213.75cm。

周尺に換算すると
さらに短くなりまして、

やはり、
短いと言わざるを
得ません。

「考工記」原文の
「夷矛三尋」
(周尺:432cm)
との開きが気になります。

で、恐縮ですが、

サイト制作者としては、

現段階で
この空白部分を
埋める材料を
持ち合わせていません。

これも、

逃げ口上の常套句ながら、
今後の課題と
させて頂きます。

『周礼注疏』にしても
『釈名』にしても、

結局は、

西周時代と後漢時代の
感覚の違いの理由を
探る作業になるのかしらん、

と、改めて思った次第です。

おわりに

そろそろ、
例によって、

以下に、
今回の記事の要点を
整理します。

1、「考工記」原文によれば
矛の柄の上下の硬さは
同じである。

2、一方で、
『周礼注疏』によれば、

持ち手の
力加減によって
武器の状態が変化する。

力を入れれば
切っ先が安定して
対象に刺さり易い。

3、2、について
さらに言及すれば、

矛は前に押すように
突くので、
柄の前の方が
しっかりしている。

戈戟はその逆で、
後ろに引きながら
斬るので、
柄の後ろの方が
しっかりする。

4、日本人の漢文解釈の
コツのひとつとしては、

時には、
品詞区分に
捉われないことも
必要である。

5、『釈名』「釈兵」の説く
戟の形状は、恐らく、
漢代の「卜字戟」を意味する。

6、「釈兵」の説く
矛頭の長さ3尺は、
後漢時代の状況を
反映していると思われる。

一方で、

「考工記」廬人為廬器
の説く矛頭の長さにも
かなり近い。

少なくとも、
上記のような
ふたつの捉え方があると
考えられる。

7、騎乗用の矛である
槊の長さも、

「釈兵」が書かれた
とされる後漢と
その後の時代で、

かなり変遷している
可能性がある。

8、「考工記」と
「釈兵」の説く
夷矛の長さの
違いの理由は、

現段階では
サイト制作者は
理解出来ていない。

さて、見苦しい
言い訳ですが、

今回の更新が遅れた
最大の理由は、

記事を書く流れで
「釈兵」に
手を出したことです。

いずれは
やることになるのですが、

戦国時代以降の状況
史料で使用例を確認する
といったレベルで
分かっていない中で、

その辺りの変遷について
適当に摘まみ喰いを
しようとしたのが
祟りました。

結果的に、

段取りの悪い
調べ事となり、

誤読の後始末よりも
時間を喰いまして、

大変恐縮しております。

さらには、

後日、
調べ事を進める過程で、
その粗の後始末も
やることになるかと
思います。

なお、次回は、
予定を変更して、

今回出来なかった
『左伝』における
矛の件について、
少々綴ろうと思います。

使用例という程
具体的な描写では
ないのですが、

何かしらの参考には
なろうかと。

【主要参考文献】

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)
劉熙『釈名』(天涯知識庫)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
周緯『中国兵器史稿』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版
香坂順一編著『簡約 現代中国語辞典』、

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近況報告:『周礼』「考工記」廬人為盧器図解その他

はじめに

まずは、更新が滞ってしまい
大変申し訳ありません。

どういう訳か、
年末に記事を書いたと
勘違いしており、

正月は、例によって、
ゲームで溶かして
しまいました・・・。

さて、今回は、

前回に引き続いて
『周礼』「考工記」
廬人為盧器
矛に関する図解2枚と、

その他、
長めの「オマケ」をひとつ。

1、「考工記」の説く矛の形状

早速ですが、
矛の形状に関する図解
掲載します。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

以前に掲載したものの
誤読部分を
描き直したものです。

原文をそのまま訳すと、

取っ手である「囲」
石突である「晋囲」
重複しています。

さらに、
囲の長さから
晋囲の長さを引くと、
30cmを切る短さ。

要するに、
石突の長さが
気になります。

とはいえ、
「考工記」の現代語訳
とでも言うべき
『考工記訳注』にも、

人所握持之処離
末端為全長的三分之一
以其周長的五分之四作為
末端銅鐏敵周長

周尺換算で、

全長に対して
末端から3分の1を
取っ手とし、

その5分の4を
銅鐏(石突き)とする、

―と、していまして、

サイト制作者の誤読では
なさそうな。

では、実例はどうか、
と言えば、

残念ながら、

随分時代が下って
戦国時代のもの
なるのですが、

管見の限り1例だけ
ありまして。

長沙の楚の王墓よりの
出土品で、
以前の記事でも
紹介したものですが、

図解の下段部分の下の矛。

これを見る限り、
20cmを切っています。

折れて欠損している部分が
無ければの話ですが。

因みに、この矛の元の写真は、

楊泓先生
『中国古兵器論叢』
あります。

約14分の1とあったので、

馬鹿正直に定規を当てて
14倍しましたので、
多少の誤差はあるかと
思います。

一方で、矛頭の長さは
戦国時代の他の出土品と
大体同じ位。

こういうのを見る限り、

車戦用のものは
矛頭が少し長そうな
事情を考慮するにせよ、

「考工記」の説く
矛の規格は、

どうも、時代が下っても
通用するものでは
なかった、

と、捉えた方が
良いのかもしれません。

もしくは、

敢えて
「考工記」の規格にある
「囲」の短さの意味を
考えるとすれば、

前回触れた、

『周礼注疏』に曰く、
「細きは則ち手に
執るの牢なり」

両手の間隔が短ければ
しっかり握れる、か。

もしくは、

実際に握る分には、
囲も晋囲も
一緒くたであったか。

2、「考工記」の説く矛の使い方

次いで、
矛の使い方について。

これも、
まずは図解を掲載します。

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

1枚も使って描くような
内容ではないのですが、

もう少し詰めると
ゴチャゴチャして
今以上に見辛くなるので、

一旦はここで切りました。

これについて、
次回にもう1枚
描く予定です。

さて、この図解の要点は、

1、柄を振ったりして
しなわせないこと。

2、柄の断面が
円形であること。

以上の2点です。

で、ボウフラさんの
ザワザワは、
矛の柄がしなう様の
例えです。

この辺りの感覚は、
時代を問わないもの
なのでしょう。

3、目からウロコの『曹沫之陣』
3-1、原文と解説論文

以降は
オマケの部分の
でしたが、

サイト制作者の
悪癖が出て
結構長くなりました。

とはいえ、

この部分の方が、
読者の皆様にとっては、

サイト制作者の
誤読の後始末よりも
有用かもしれません。

それはともかく、

「考工記」の考証も含めて
何か面白い文献や史料は
ないかしらん、と、

佐藤信弥先生
『戦争の古代中国史』
参考文献を
少々当たる過程で、

同書に紹介されていた
『曹沫之陣』の原文や
そのニホン語の解説論文
ネット上で
今頃見付けまして。

双方共、
10年以上前に
公開されていますが、

サイト制作者のような
初耳の方への紹介を
思い立ちました。

以下、そのアドレスです。
1文字目に「h」を補われたく。

『曹沫之陣』原文
ttps://baike.baidu.com/item/%E6%9B%B9%E6%B2%AB%E4%B9%8B%E9%99%88/23597400

浅野裕一
上博楚簡『曹沫之陣』の兵学思想
(論文PDF)
ttps://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61257/cks_038_160.pdf

大意を取るには
難しい内容だなあ、
漢文苦手だなあ、

と、思われる方は、

例えば、
戦闘場面の書き下し文の
解説だけ、

あるいは、
後半の解説文だけでも、

目を通されることを
御勧めします。

論文の著者である
浅野裕一先生ですが、

この分野の大家で、

サイト制作者も、

『孫子』『墨子』といった
文庫本の
邦訳や書き下し、解説等で、
大変御世話になりました。

もう少し言えば、
説明が体系的で
興味深かったことで、

調子に乗って
あることないこと
書くための
揮発性の極めて高い
燃料になりました。

で、今回の同論文も、

綺麗な書き下し文
詳細な解説はおろか、

原文の欠損部分の
内容の推測まで
付いているという
至り尽くせりの親切仕様。

斯く言うサイト制作者も、

これで、
書き下し文の練習を
させて貰っています。

3-2、
毀誉褒貶、曹沫の人物像

さて、曹沫という人は
春秋時代の魯の軍人ですが、

かなり悪く言えば、

『史記』刺客列伝にある、

敵国である斉の桓公に
懐刀を突き付けて
分の悪い講話条件を
白紙に戻させたという逸話で、

尻に火が付いた国が寄越す
狂暴な使節の走りとして
名前が残った人、

と、言いますか。

ですが、
この『曹沫之陣』は、

そういう任侠プレイの
実録物ではなく、

かなりマトモな
戦争マニュアルでして、

と、いいますか、

そもそも曹沫自身が
『左伝』の
(魯の)荘公の件にあるような
良識ある人物のようで、

その辺りのカラクリ
かくかくじかじか、と、

論文の後半部分で
しっかり説明されています。

で、『曹沫之陣』は、

ざっくり言えば、

侠客路線の『公羊伝』と
軍人路線の『左伝』の
バランスを取る
内容なんですと。
(いい加減な理解!)

3-3、
『左伝』の戦いの行間を綴る

以降は、
原文や解説について、

ここでは、
取り留めない感想を少々。

小規模戦闘の話です。

さて、同論文では、

『曹沫之陣』が
会戦に強く執着するのは、
春秋時代の
戦車中心の戦争では、
会戦以外に
勝敗を決する形式が
想定できないからである。
(186頁より)

と、あります。

制限戦争の時代の
『曹沫之陣』と、

時代が下って
総力戦を説く『孫子』とで、

対をなすのだそうで。

言い換えれば、

重点が置かれている分、

局地戦の説明には
説得力がある訳でして。

例えば、
布陣の際、

車間に伍を容れ、
伍間に兵を容れ、
常に有るを貴ぶ

という文言があります。

浅野先生の説から逸脱して
少々妄想を逞しくし、

「車間」の「間」が
横のみならず
縦も含むと取れば、

サイト制作者が
思い当たるのが、

『逸周書』に出て来る、
前後左右の十字に
25名・計100名を
配置し、

恐らくは、
真ん中に戦車が陣取る布陣。

また、別の話をすれば、

身分の高い者や
国君の血族を
積極的に前線に出せだの、

武器を修繕して
神に祈って
戦いに備えろだの、

『左伝』に
書かれていること
そのまんま。

そうすることの理由を
説明して
行間を補うとでも
言いますか。

その他、

いつ書かれたのかは
ともかく、

成程、
春秋時代の価値観を
色濃く反映している
のかなあ、と。

こういう具合に、
イロイロと
興味深い要素が
詰まっており、

今後、さらに精読して
何かの考証の折にでも
参考にさせて頂きたいと
思った次第。

3-4、
「正邪」入り乱れた
春秋時代の戦い

一方で、

浅野先生の御説で
気になった点
ありまして。

例えば、
鉄の戦いなんか

高級指揮官が
先陣を切って
最前線で
血反吐を吐いてまして、

こういう
士大夫のメンタリティを
体現したような戦いが、

大量動員時代に
入ったとされる
春秋末期になっても
行われています。

ところが、

こういうのと並行して、

伏兵や別動隊といった
ヒキョ臭い戦法も、

少なくとも、
前8世紀以降、

春秋時代全体を通じて
ちょくちょく
行われています。

例えば、
荘公の時代の鄭なんか。

さらに、
『周礼』「夏官司馬」にも、

中冬の大閲の際、
(最大レベルの軍事演習)

険野に人を主となし、
易野に車を主となし、

という文言があります。

険しい地形に歩兵を
なだらかな地形に戦車を
各々重点的に配置する、

―という訳です。

つまり、

当時の感覚では、
どうも
正攻法とは言えない戦法も、

昔から、
存在する基盤が
あったのでは
なかろうか、と。

古の戦いがどうたら
書いてる『司馬法』すら、

隠密行動の際には
兵士に木切れを
噛ませろ、と、

どこか歯切れが悪いのが
個人的にはオモシロくあり。

こういう
春秋時代の戦争の二面性
向き合うのも、

この時代の調べ事の
面白さのひとつかしらと
思っています。

【おわりに】

今回も、
結論めいたものはありません。
無駄に長くなった割に、
恐縮です。

その他、久しぶりに
集団戦に触れたことで、

興奮して
放言癖が出まして、

普段以上に余計なことを
書いてしまいました。

さて、図解は、予定では、

誤読が見つかる等の
ポカ等がなければ、
矛について、
後1枚描きたいと思います。

そのうえで、
「考工記」廬人為盧器の
書き下しに入る予定です。

そうやって予告して、

想定外のヘンなこと
やらかすのも
このブログのあるあるですが。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
周緯『中国兵器史稿』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
Baidu百科『曹沫之陣』
浅野裕一
上博楚簡『曹沫之陣』の兵学思想
左丘明著・小倉芳彦訳
『春秋左氏伝』(各巻)
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

カテゴリー: 兵器・防具, 学術まがい, 言い訳, 軍事, 軍制 | 6件のコメント

近況報告 『周礼』の説く戈の使い方

はじめに

今回も前回同様、

『周礼』「盧人為盧器」
図解の一部を
描き上げたことで、

とはいえ、
その実態は
手直しに近いのですが、

その説明を少々。

1、細かい説明は注疏が中心

それでは、早速、
描き上げたものを
掲載します。

『周礼』(維基文庫)、鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

例によって、
内容や書き下し等は
参考程度で
御願いしたく。

さて、図解の下半分は
前回に掲載したもので、

今回は、
上半分の御話となります。

要は使い方の話でして、

ほとんどが
注釈部分の図解です。

以前の記事にも書いた通り、

恐らく、

『周礼』の筆者と
鄭玄等とは
見ているものが
少々違っているかと
思うのですが、

この図解の部分では、
本質的な違いは
なかろうと思います。

個人的な感覚としては、

少なくとも戦国時代までは
この内容が通用したと
想像します。

後漢・三国時代以降は、

戈頭・戟体の形状が
刺突向きになるので、

浅学なサイト制作者
としては、

コレが通用したかどうかは
正確なことは言えませんで、

さらに調べる必要が
あります。

ただ、後漢から唐にかけて
書かれた『周礼注疏』が、

恐らくは、
当時の形状であろう
戈について、

図解にあるようなことを
説いているので、

強ち的外れでもないようには
思います。

2、前後で異なる硬さ

ここでは、
具体的な使い方について
触れます。

まず、「椑」の話ですが、
柿の季節とはいえ、

柿ではなく、

柄の形が楕円形、
という御話。

先日、職場の年配の方から
関西の外れの某所の
美味しい柿を頂きまして、

忘れようとした誤読の話を
思い出しました。

で、『周礼注疏』によれば、

引っ張る武器につき
柄の下の方が硬い、
と、ありますが、

これについては、

サイト制作者の
知る限りでは、

残念ながら、

実例で確かめる術が
ありません。

想像するとすれば、

例えば、

「考工記」廬人為廬器
にあるような、

矛や殳宜しく
取っ手を何等かで
コーティングする
「囲」を意味するのか、

もしくは、

上下で硬さの異なる枝を
わざわざ選んで
製材するかしら。

【雑談】柄の硬さと戦場リアル

参考までに、
以前に何度か紹介した話
挙げます。

柄の話をする度に
思い出すのですが、

『周礼』の時代からは
かなり歳月が下るにしても、

『周礼注疏』の
鄭玄没後間もない話として、

『三国志』「魏書明帝紀」、
要は曹叡の伝記に、

陳倉で諸葛亮を破った
郝昭を紹介する話が
出て来ます。

さて、この御仁は
叩き上げの軍人でして、

戦場で
何をやったかと言えば、
以下。

他人様の墓を
荒らしたうえで、

取其木以為攻戦具

その木を取り
攻戦の具となし、

―と、墓標を武器の柄にした、
という訳です。

時代を遡ること
少なくとも春秋時代以来、

戦争で食糧に事欠けば
人様の肉ですら
口にするのを厭わない
社会につき、

有事に際して
墓標を失敬する位は、

驚くには値しないの
かもしれません。

あまり関係ないのですが、

二ホンとて、

国定忠治の墓の墓石を
博奕の縁起物として
削り取る人が
多かったので、

墓石に周囲にフェンスが
張られたんですと。

それはともかく、

ここでポイントとなるのは、

墓標でも武器の柄に代替出来る辺り、

実情としては、

どうも、
上下の硬さの異なる製材
という線は怪しいか、

仮にあったとしても、

有事には
場当たり的な補充で
済し崩しになっていたことが
往々にしてありそうな。

4、日中で異なる「細」の解釈

次に、柄を持つ時のコツですが、

結論から言えば、
両手の間隔を
短くすることです。

前回で触れたように、

原文である
『周礼』
「盧人為盧器」には、

撃兵同強、擧圍欲細、
細則校

撃兵は強きを同じくし、
囲を挙げるに細を欲し、
細はすなわち校。

と、あります。

文字の解釈には饒舌な
『周礼注疏』にも、

「細」の解釈については
言及していません。

さらに、現代語訳である
『考工記訳注』にも、

若手持之処稍細、
就握得牢固

もし取っ手が
やや「細」であれば、
握りが牢固になる、

という訳です。

つまり、「細い」は、
古語も現代語も
恐らく同じ意味。

しかも、
当たり前の感覚で
使用している言葉
と来ます。

実は、ここが、
サイト制作者が躓いたポイントです。

ここで、視点を変えて、
実物の柄の太さ
見てみると、

数少ない実物の戟には
柄が垂直でないものが
ありません。

そのうえ、先には、

『周礼注疏』

柄の前後で硬さが異なり
後ろの方が硬い、
と、説いてまして、

これらの話を整理すると、

柄の下の部分の
引っ張る方が
細くて硬い、となり、

殳どころか戈も
野球のバットのような形状
ということになり、

なんだかヘンだなあ、と、
なるかと思います。

と、なれば、
「細」の解釈は、

日本語と中国語の違いに
起因する
他の意味を考えた方が
良さそうだ、

と、考えました。

果たして、

座右の中国語の
古語・現代語の字引きの
双方にも、

細い以外に、

「幅がない」=短い、

という意味がありました。

「細」の意味は、
日本語と中国語で
異なっていた、
という訳です。

確かに、
柄の太さよりも
両手の間隔の方が、

武器の機能としては
自然な解釈かと思います。

野球で言えば、

バットで構える際、

バントとヒッティングで
両手の間隔が異なるのが
分かり易いかと
思います。

もっとも、

長物を振り回す時には、
両手を上下で
くっ付けませんが。

後、こういう、
サイト制作者の
昭和末の少し入った
生半可な野球脳が
解釈の癌になっている気が
しないでもありません。

で、またも誤読ということで、

前回の殳の図解も、
この内容で
描き直す必要があります。

ヘマが続いて
大変恐縮です。

【追記】

その改訂版がこちら。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

以前に掲載したものとの
違いは、
以下の2点です。

1、柄の太さが上下で同じ。

2、中段右の図解の説明等
内容に合わせて変更。

【追記・了】

おわりに

今回も、
もっともらしい結論は
ありません。

敢えて言えば、

細=短で
チュゴクゴムツカシアルヨ!

という、
身勝手で投げ遣りな話位か。

サイト制作者の
調べ方が悪いのだと
思いますが、

大体の内容を
一通り整理した後でも、

当該の文章を読み返して
図に描き起こす度に、

疑問や誤読が
ボロボロ出て来るので
本当に困ったものです。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)
陳寿作・裴松之注釈『三國志』(維基文庫)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
周緯『中国兵器史稿』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版
香坂順一編著『簡約 現代中国語辞典』、

カテゴリー: 兵器・防具, 言い訳 | 2件のコメント

近況報告 殷周時代の戈頭・戟体の出土品を図解する

はじめに

今回は、
描き掛けの図解について
アレコレ言う回です。

完成まで
更新を引っ張ると
結構な日数を
要することで、

その一部でも
御見せして
記事にしようと
思った次第です。

1、殷代の戈の出土品

描き掛けの図解
具体的な内容は、

『周礼』「考工記」・
「盧人為盧器」の
戈戟の件に関する
図解一部です。

まずは、以下。

楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、等(敬称略・順不同)より作成。

さて、このアレな図解の
抑えるべき重要事項は、
以下の2点。

1、柄の断面が楕円形。
2、援・戟刺・内が
一体の戟体。

次に、

図解の
左右の出土品について
ひとつひとつ
見ていきます。

まずは、左側の戈ですが、

これは
『中国兵器史稿』にある
殷代の戈の図の模写です。

で、同書によれば、
これは転載のようで、

以下のような解説文
付いています。

原形二分之一大
見李済氏著
《殷墟銅器五種及
其相関之問題》

因みに、李済という人は、
内戦以前の中華民国・台湾の
中国考古学の先生で、
既に亡くなられています。

さらに、
『殷墟銅器五種及
其相関之問題』も、

サイト制作者の
やり方が悪いのか、

検索を掛けた限りでは
詳細不明で、

つまり、

元となる図解の
正確な大きさが
分かりません。

そもそもそれを引用した
『中国兵器史稿』
1940年代以前
文献です。

そこで、仕方なく、

『中国兵器史稿』
にある図解を
定規で測り、

馬鹿正直に2倍したものを
図解中の「比率」として
書き込みました。

したがって、
図解の1=実寸1mm
想定しています。

例えば、援の長さ
図解の数字では42で、
実寸は4.2cm
となる訳です。

で、さらに注意したいのは、

『中国兵器史稿』は
再版であるという点です。

言い換えれば、
初版のサイズは
判然としない点です。

以上のフクザツな経緯を
纏めると、

元となる図と
それを転載した文献の
双方共、

困ったことに
正確な大きさが
分かりません。

【追記】

図解中の数字
絶対値は想定しておらず、

あくまで
比率という御理解で
御願いします。

早速やらかした、
とでも言いますか、

読み返すと、どうも、
脇が甘かったようです。

どういう話かと
言いますと、

サイト制作者には、
肝心の「原型」が
何を指すか、が、
分かりません。

つまり、

出土品の現物の大きさか、

もしくは、
李済先生の御本の
図の大きさか、

という御話。

例えば、

座右の中華書局版の
『中国兵器史稿』の
当該の図の柄の長半径が
僅か4mm。

ヨソの出版社の初版との
大きさの比率は分からず、

一方で、

その4mmの半分が
実物の大きさである、
というのもヘンな話。

早い話、

大きさの推測は
不確定要因が多いことで
用を為さないことで、

藪蛇な部分で御座います。

【追記・了】

一方で、

本や論文に
原寸大の2倍のサイズで
掲載出来ることから、

それ程大きいものではない、

―サイト制作者の
感覚としては、
大きく見積もっても
幅10cm以下か、

ということが
言えそうなもので。

そして、
援がこれ位の大きさ
しかなければ、

人様の首を
横から引っ掛けて
切り落とすのは
難しいと思います。

そうなると、
『戦争の中国古代史』
にある通り、

この殷代のものと
思しき戈は、当時は、

相手の盾に打ち込んで
引き寄せるための武器
考える方が
自然なのでしょう。

2、出土品の柄の形

さて、「句兵」が、

相手の首にせよ、
盾にせよ、

引っ掛けて引き寄せる、
となると、
重宝するのが柄の形。

『周礼』原文に曰く、
「句兵は椑」。

図解の形の戈の
注目すべきな点は、

まさにこれです。

つまり、この戈は、

戈頭の柄との接続部分が
柄の周囲を
楕円形に取り巻くタイプ。

こういう形状につき、
柄の断面形が
分かった訳です。

言い換えれば、

それ以降のように
戈頭・戟体の
側面に穴があり、

柄とその穴を
紐で連結する
タイプではありません。

余談ながら、

サイト制作者は、最近、
と、いいますか、今頃、

仕事で使う鋸の柄の
断面図の形が
楕円形であったことに
気付きまして。

確かに、曳く分には、

円形に比べて
指や手の形が
柄に馴染むことで
力が入り易いと
感じました。

そういえば、
日本刀も包丁もそうですね。

仮に、鎧同様、こういうのも
渡来系だとすれば、

古の技術が
今日の日常生活に
溶け込んでいる実例か。

3、西周時代の戟体の一例

続いて、
西周時代の戟体について。

図解を再掲します。
右側のものを御覧下さい。

楊泓『中国古兵器論叢』、周緯『中国兵器史稿』、『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、等(敬称略・順不同)より作成。

これは、

『中国古兵器論叢』にあった
西周時代の戟体の
の中で、

特に多かった
タイプのひとつ
模写したものです。

描き方について、
一応、触れます。

さて、まず、
元の図中で
中心となる点を
適当に定め、

重要な部分を、
(例えば、
援や戟刺の頂点等)

先に定めた中心点から、
縦何cm、横何cm、と、
座標を割り出し、
(二次元だから
コレで何とかなってますが)

それを線で結びます。

こういう方法につき、
元の図に対して
それ程大きな誤差はないと
考えています。

さて、過去の記事でも、

この時代の戟体は
援と戟刺が一体であった、と、
何度も書きましたが、

こういうのは
百聞は一見に如かず、で、

その機会を窺っていた次第。

で、楊泓先生曰く、

この形状では、

相手の首を
引っ掛けることと、
戟刺で突くことの、

ふたつの動作を
こなすには脆かったそうな。

果たして、

次の春秋時代には、
援・内と戟刺が「分鋳」、
つまり、分離した、

という次第。

例えば、

春秋時代や
戦国末期の『キングダム』、
そしてそのン百年後の
『三国志』の数々の戦いで
使われた戈戟も、

援の角度等の詳細は
異なるものの、

そうした
援・内と戟刺が
別の鋳物という形状です。

おわりに

今回も、残念ながら、
箇条書きでまとめるに
値するような
結論はありません。

強いて言えば、

柄の形が楕円形の戈、
援・戟刺・内が一体の
戟体、

これらの実例の模写を
見て頂いた、

という程度の御話です。

この流れで、
恐らくは、

次回も、
戈戟の図解の手直しを
行うかと思います。

一昔前の
テレビ番組の予告であれば、
乞う御期待、
といった台詞が入る
ところですが、

自身のヘマの
後始末が続くことで、

読者の皆様には
申し訳ない限りです。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』(国学導航)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
佐藤信弥『戦争の中国古代史』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版

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近況報告:『周礼』「考工記」の説く殳の図解の改訂

【追記】21年12月9日

こういう記事
書いといて何ですが、

再度の改訂です。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

記事本文の図解との
変更点は、
以下の2点。

1、柄の太さが上下で同じ。

2、中段右の図解の説明等を
内容に合わせて変更。

度々恐縮です。

【追記・了】

はじめに

今回から何回かは、
先の記事の訂正
行います。

中々、次の話に
移ることが出来ない
もどかしさを
感じる次第ですが、

足場を固めずに
それをやるのも
コワいことで、
まずは、誤読の後始末を
行います。

その手始めとして、
殳の図解を描き直します。

もっとも、
それ以外では
無駄な話の多い回につき、

予め断っておきます。

1、重要部分を覆う「囲」

早速ですが、
殳の図解の改訂したもの
見てみましょう。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、聞人軍『考工記訳注』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

80年代の現代語訳
参考にする分には、

ほぼほぼ『周礼注疏』に
準拠しているように
見受けますので、

サイト制作者も
これを受けて
描き直しました。

ここまで時代が下ると、
相当数の出土品との比較が
出来ているためです。

サイト制作者も
始めから
そうすれば良かったと
後悔していますが、

その辺りの
やっちゃった過程の話は
後述します。

さて、先の回の誤読の
一番大きな誤りである
「囲」の解釈ですが、

囲とは、要は、
武器の主要な部位―
先端・取っ手・末端の石突、

この3つを
何等かのかたちで
コーティングしたものです。

で、先端の部位は、
殳は「首囲」、矛は「刺囲」、
と、なります。

取っ手は、
そのままの「囲」

さらに、末端の石突
「晋囲」

図解にある
「細いタイプ」というのは、

長沙市の瀏城橋より
出土した
戦国時代(前4世紀)の
戈の末端に
付いているものです。

現物の模写は、以下。

先の記事で掲載したものの
誤記を訂正しました。

林巳奈夫『中国古代の生活史』、楊泓『中国古兵器論叢』 (敬称略・順不同)等より作成。

晋囲に相当するとはいえ、

字義からすれば
「囲」ではなく、

さらには、

丈もかなり短く
全長の15分の1程度。

時代が下ると
このように
コンパクトに変遷する、
ということなのかも
しれません。

2、柄の硬さと断面のかたち

その他、

「撃兵同強」は、
『周礼注疏』によれば、

「同(とも)に強(はげ)む」
ではなく、

「素直に強きを同じくし、」
と、やるのが正しいか。

で、問題なのは、

何の「強」を同じくするか、
ですが、

これは、
柄の先端と末端の強度
の模様。

因みに、

先端と末端の強度が
異なるのは戈。

戈は柄の後方部分が硬く、

その理由として、

「向後牽之」
後ろに向かいこれを牽く、

と、しています。

因みに、

については、その逆、
即ち柄の前方部分が硬く、

その理由として、

「向前推之」
前に向かいこれを推す、

と、しており、

肝心の「考工記」にある、

「刺兵同強」
刺兵強きを同じくす、

と、矛盾しています。

で、この『周礼注疏』は、

この辺りの理屈については
『釈明』を典拠と
しているので、

『釈明』の中で
関係ありそうな
「釈兵」は元より、
「釈用器」、
船、車、楽器、と、
当たりましたが、

それらしいものは
ありませんで、

何を「釈曰」だか
分からず
困ったもの。

その他、殳の―取っ手は
細いのが望ましく、
断面の形は円形。

細い方が
早く振れるのが
その理由。

もっとも、

断面の形が円形、
というのは、

「考工記」には
直接書かれてはおらず、

『周礼注疏』のみの言及
なっています。

断面の形や
囲の太さ等については、

矛や戈の図解を
描き直した折にでも、
再度触れようと思います。

3、首囲の規格と実物

「首囲」そのものについて。

これについては
肝心の出土品の大きさが
分からないので
大きな話は
出来ないのですが、

「考工記」の説く長さを
再計算し、

それと
春秋時代の出土品の一例
比べる限り、

前者は、23cm余、
後者は、一例のみながら
半分以下の9cm余と、

かなりのズレ
あるように思います。

参考までに、

以前の記事で触れましたが、

西周時代の戟体の
出土品の中には、

形状は「考工記」の定める
規格そのもので、

細かい部位も
差異が1cmを切るものが
ありました。

【雑談】殳の首囲の重さの話

参考までに、

以下は、まあ、
妄想めいた雑談につき、
適当に読み飛ばされたく。

さて、「考工記」の定める
殳の首囲の重さと
件の実例の差異
大体どれ位かについて、

後者の実物の
断面図の面積をベースに、
計算してみようと思います。

かなり乱暴な計算ですが、
以下。

銅の比重
1cm3(立法cm)当たり
8.96gですが、
概数で9gとします。

次に、件の出土品の体積を、

半径5cm・円周率3.14、
高さ9cmの円柱として
計算します。

5×5×3.14×9÷3
=235.5cm3

この体積に比重を掛けると、
2119.5g、
2.1kg程度。

次に、「考工記」の
それですが、

同じ面積に対して
高さを概数で
23cmとします。

≒601.8cm3

で、同じく比重9gで
銅の重さに換算すると、

5416.2g。
5.4kg程度。

厳密には、

実物は短半径が5cmの
かなり緩い楕円につき、
もう少し重いかと
思いますが。

(写真の角度の関係で
長半径が分かりませんで)

感覚的に
重さが実感しづらい、
という方は、

スーパーで売っている
米袋を御想像下さい。

2000円程度で
一番売れてるものが
5kgのもの。

それより少々小振りで
1000円程度のものが
2kgのもの。

要は、この違いです。
結構な差だと思います。

で、少なくとも
戦国時代になると、

末端の兵卒も
殳を手にするように
なりますが、

「考工記」の規格よりは
軽めのものではないかと
想像します。

つまるところ、

ああしたものが、大体、

「考工記」や実物の
首囲の重さである、

ということになります。

【追記】

今頃気が付いたのですが、

こういう場合、

重さが
足枷になるとすれば、

極端なことを言えば、

長さが倍=重量が倍、
というよりも、

重量を変えずに、
断面の面積を抑えた
細長い形状になる、

と、考える方が、
合理的ですね。

その意味では、
西周時代の殳の形状が
非常に気になるもので。

【追記・了】

因みに、

サイト制作者は
底辺のブルーワーカーで、

仕事柄、たまに、
銅の5kgのインゴットを
触るのですが、

現物の大きさは
「考工記」の規格より
もう少し細長いです。

投機は横行するわ
ドロボーさんは
方々に出没するわで、

kg単位の単価が
1000円を超えて
会社や現場は泣いてまして、

インゴットどころか
諸々の廃材から
手作業で搔き集める仕事も
増えました。

金属だけは払い下げない
秦漢の役人の気持ちが
少し理解出来た
ような・・・。

そういう
生臭い話はともかく、

ただ持ち上げるのであれば
ともかく、

崩れたものを
いくつも積み上げるとなると
結構な重労働。

あ、フォークで崩すのは
ワタシではないのですが、
んなことは
どうでも良いかしらん。

それはさておき、

まして、
2メートルの柄に挿して
振り回すともなれば、

余程足腰を鍛えて
『左伝』宜しく
肉を食べる生活でも
していなければ、

振り回すどころか、
逆に、体の方が
もっていかれると思います。

ああ、現代は肉ではなく、
プロテインか何かか。

で、薬局で
調達しようとして、

あるだけ下さいと言ったら、
店主がカードが使えないと
ノタマうので、
「ジャ、イ~デ」(以下省略)

4、誤読の経緯とその対策

(サイト制作者もそうですが)
特に、初心者の方々には
何かの御参考にでもなればと
思いまして、

誤読の原因についても
触れます。

一番の原因は
注釈の内容を
疑ったことですが、

この理由は、
「考工記」の
冶氏為殺矢の注の内容が
どうも腑に落ちなかった
ことで、

実は、これは今も
変わっていません。

ですが、
今にして思えば、

サイト制作者よりも
西周や春秋時代に
遥かに感覚が近い識者が、

戈頭の規格のような
細かい話はともかく、

武器の部位自体の解釈を
間違えるような
ヘマをすると思う方が
オカシイなあ、と。

謂わば、
素人が無手勝流で転ぶ
悪い見本か。

で、このリカバーに
大いに役に立ったのが、

実は、行動力のある
読者の方の
ファインプレー。

ベースは中文の訳と
思しき洋書を
御勧め頂いたことで、

残念ながら、

この御本には
経済的な理由で
―オカネがないので
手が出ないせよ、

本国の先生の現代語訳で
大体を意味を確認すれば、

分かりにくい言葉の意味に
当たりを付けることが出来、

差し当たって、

初歩的なミスを防ぐ確率は
上げられるのでは
なかろうか、

―ということを
思い付きました。

そこで、

近所の図書館の中では
この種の蔵書が豊富な
最寄の国立大学さんの
付属図書館のサイト
蔵書検索を掛け、

(コロナの入場制限緩和と
入れ替わりで
付属図書館の繁忙期が来る
という不運!)

それっぽい安値のものを
古書で購入するに
至りました。

S様の努力に対して、
改めて御礼申し上げます。

その結果、

1980年代の段階、

つまり、出土品の調査や
当時に至るまでの
各種注釈の精査を
踏まえたうえで、

「考工記」の現代語訳が、

どうも、

原文以外では
『周礼注疏』の内容に
かなり準拠している
模様である、

と、いうことが
分かった次第です。

おわりに

なお、今回の記事については、

図解の多少の補足と無駄話が
中心となってしまったことで、

結論の整理は行いません。

悪しからず。

【主要参考文献】

『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』(国学導航)
聞人軍『考工記訳注』
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』
(各巻)
楊泓『中国古兵器論叢』
稲畑耕一郎監修
『図説中国文明史 3』
伯仲編著
『図説 中国の伝統武器』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版

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『周礼』考工記の説く、武器の使い方と囲

【追記】21年10月21日

大変な誤読に気付きましたので、
その旨御知らせします。
まずは、申し訳ありません。

で、誤読の部分ですが、
「囲」というのは、

柄の中の手に持つ部分、
上端の金属部分、
末端の石突―「鐏」の部分です。

特徴となる部分を
何かしらで
コーティングすることで、
文字通り、「囲」か。

昨日の更新では
手に持つ部分、と書き、

恥ずかしながら、

これも誤りにつき、
訂正します。

実は、『周礼注疏』にも、

原文の舌足らずな部分を
補うかたちで
そのように
書いてあるのですが、

「晋」と「刺」で
理解が前のめりになり、
敢えて武器の先端と取り、

これが祟った次第。

後日、図解を描き直して
訂正記事を書く予定です。

恐らくは、
こういうのが
素人の独学のコワさで、

むこうの古典を読む際、
内容が分かりにくいと
感じた場合には、

中国語の現代語の訳文にも
目を通した方が良いことを
痛感した次第。

中文の文献の入手が
難しい場合でも、

訳本の転写と思しき
古典の訳文のサイトが
結構ありまして、

例えば、「百度検索」で
「周礼」や「司馬法」等で
検索を掛けると、

原文と訳文の揃ったものが
出て来ます。

で、こういうものを
見る際、

例え、
中国語が分からなくても、

いくつかの漢字を
見るだけでも、

中国人の常識と
サイト制作者のような
素人の危うい読解の
認識の隔たりを
或る程度は埋めることが
出来るかと思います。

で、今回のような
(他の箇所でもやってる気が
しないでもありませんが)
サイトを辞めたくなるレベルの
誤読を防ぐ確率が
高くなる、と。

聞人軍『考工記訳注』

【追記・了】

はじめに

今回は、

『周礼』考工記
「廬人為盧器」における

戈戟・矛の使い方と、
矛・殳の囲
―先端の金属の部分と
柄との接合する部分、
の御話。

今回をもって、

「廬人為盧器」の内容を
漸く、一通り、
整理出来たことになります。

もっとも、

大意を正確に
取れているかどうかは
全くもって別にして。

加えて、

短い文章にもかかわらず、
何とも時間と労力を
要したこと!

自分で自分を誉め、
られる筈もなく。

1、当該部分を書き下す

それでは、まずは、
当該の箇所を、
原文で確認します。

なお、書き下しや
字義の解釈は、
サイト制作者の愚見
基づきます。

あくまで御参考まで。

凡兵、句兵欲無彈、
刺兵欲無蜎
是故句兵椑、刺兵摶
撃兵同強、舉圍欲細、
細則校
刺兵同強、舉圍欲重、
傅人則密、
是故侵之

句兵:戈・戟
彈(弾):弾を発射する、
琴を奏でる、
悼(ふる)う=振る・回す、
と同じ。(鄭玄注)
刺兵:矛
蜎:くねくねと曲がる
さっと飛ぶ
椑:柿の一種。
ここでは、動詞で、
柿の木から
実を枝から捥(も)ぐ、
といった意味か。
その他、平たく円形の杯、
斧の柄(鄭玄注)
摶:集中する
撃兵:殳
強:励む、強い、
ここでは、「硬い」か。
【追記】注釈によれば
「同強、上下同也」。
『考工記訳注』も
これに準拠してか、
「各部分要同様堅勁剛強」
とあり、
柄の先端から末端まで
同じ硬さ、つまり、
「同じく強くして」と、
書き下した方が自然か。
【追記・了】
舉:ふたり、あるいは両手で
持ち上げる
圍:柄の手の持つ部分
上端の金属の部分、
末端の石突。
校:素早い、
「校、疾也」(鄭玄注、
『春秋左氏伝』昭公元年に
用例有)
傅:迫る
密:安定する

凡そ兵は、
句兵は彈(ひ)くなきを欲し、
刺兵は蜎なきを欲す。
これ故句兵は椑(へい)、
刺兵は摶(もっぱ)らにす。
撃兵は同(とも)に強(はげ)むに、
圍を舉(あ)げるに細きを欲し、
細は則(すなわ)ち校。
刺兵は同に強むに、
同じく強くして
圍を舉げるに重を欲し、
人に傅すに則ち密にして、
是故これを侵す。

で、この文章の前半部分
図解したものが、以下。

なお、この解釈には
実は相当問題があるのですが、
それは後述します。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版等(敬称略・順不同)より作成。

2、戈戟・矛の使い方

次いで、
大体の意味について
触れます。

句兵―戈や戟は
振り回さない、

刺兵―矛は
くねくねさせないのが
望ましい、

というのが、
戈戟や矛の各々の使い方。

因みに、
「彈」は、鄭玄曰く「悼」。

オー〇ニサンみたく、
アッパー・スイングで
本塁打を量産するための
得物にあらず、と。

二ホン人で
メジャーの投手から
逆方向の柵越えを
打つのですから、
まあ、大したもので。

それはさておき、

矛をくねくねさせない、
というのは、

サイト制作者の解釈ですが、

柄をしなわせないことだと
思います。

サイト制作者が
未だに理解しかねるのが、

次の「句兵は椑」の部分。

「椑」柿の一種、
楕円、棺桶や丸く平たい容器、
その他、斉の方言で斧の柄、
といった意味があります。

で、ここでは、

当該部分についての
「椑」の主流と思われる解釈は
楕円。

『周礼注疏』によれば、
原文は以下。

云椑、隋圜者、
謂側方而去楞是也

隋:こわす
圜(円):円形の様
側:偏った様
方:四角
楞:角

椑を云うに、
圜(えん)を隋(こぼ)つは、
側方をいい去是也
楞(りょう)を去る
これなり。

確かに、

「椑」を楕円、
「摶」を丸いと解釈すれば、

句兵は椑、刺兵は摶

戈や戟は楕円で、
矛は円である、

という具合に、
ひとつの対比としては
意味は通じます。

しかしながら、
その前の「これ故」との
関連性を考えると、

振り回さないので楕円、
くねくねさせないので円、

という話になり、

サイト制作者としては、
意味が分かりません。

先述の『周礼注疏』も、
字義に言及するに
止まります。

2、キワモノ解釈、
「椑」は動詞?!

そこで、
「椑」の他の意味の
可能性等、
色々考えた挙句、

「椑」を馬鹿正直に柿とし、
この線で調べ事を進めました。

―と、言いますのは、

勘めいた話で恐縮ですが、

以前、この『周礼』考工記の
「冶氏為殺矢」を
捻った解釈をせずに
素直に読んだところ、

西周時代の出土品の
戟の中に、

その規格に
ほぼ準拠したものが
あったことが
理由のひとつです。

以下、「椑」を
キワモノ解釈とする
怪しげな考察
あらましで御座います。

さて、その
「椑」なる柿ですが、

残念ながら、
手に取って食べたことは
ないのですが、

百度検索さん
検索を掛けると
画像が数多く出て来ます。

余談ながら、

朱元璋が若い時分に
飢えを凌ぐために
これを摘み喰い
したのだそうな。

写真を見る限りは、
日本のものよりも
少し小振りだと思います。

で、その柿の仲間と
戈との関係ですが、

日本の農家さんの
柿の収穫の風景について
画像検索を掛けたところ、

竹や木の棒の先端に
三角の切り込みを入れ、

これで枝ごとへし折って
鈴なりになった実を
収穫する、

―というものが
ありました。

これを見て、

「椑」は恐らく動詞で、
―椑を採る、
もう少し言えば、

(戈のように)
得物で引っ掛けて
枝を折る、

だと思った次第。

ただ、これも、

文法に則った訳
というよりは、

ニュアンスと言った方が、

サイト制作者の感覚に
近いです。

しかしながら、

確かに、
学術的な話としては
乱暴な話ですが、

「摶」を
「摶(もっぱ)らにす」
―集中する、と、
読むことで、

「椑」と「摶」の対比は
楕円と円に比べて
弱くなるものの、

大体、以下のような訳で
意味が通じるかと
思います。

戈は振り回さず
矛は切っ先を
くねくねさせないのが
望ましい。

したがって、

戈や戟は引っ掛け、
矛は切っ先を
一点集中させる。

もっとも、

サイト制作者としても、
楕円と円の意味が分かれば、

『周礼注疏』の解釈に
乗り換えたい位に
迷ってはいますが。

その意味では、
教養として知っておく分には
『周礼注疏』の
解釈の方が無難で、

願わくば、

モノの考え方のひとつ、
程度で御願い出来れば
幸いです。

3、やっつけか極意か?!
戈の変則用例

さて、流れをぶっ壊すようで
恐縮ですが、

ここに、
もっともらしく
「〇兵」と説明があるものの、

実際の殺し合いの場面なんぞ
武器の用例については
結構いい加減なところ
あります。

春秋時代の終わり頃、
定公四(前506)年
の話ですが、

呉の伍子胥の用兵の前に
楚が大敗を喫し、

事もあろうに
首都の郢
(えい:後の江陵)まで
取られました。

その折、楚の昭王が
逃避行の最中に
盗賊に寝込みを
襲われまして、
さあ大変!

王の命運や如何に。

以下、
『春秋左氏伝』の原文で。

王寝、盗攻之、
以戈撃王
王孫由于以背受之、
中肩

盗:盗賊・群盗
撃:叩く・突き刺す
中:当たる

王は寝、盗之を攻める
戈をもって王を撃つ
王孫由、
背をもって之を受け、
肩に中(あた)る

盗賊の戈による一撃を
孫の由が
王の身代わりになって
肩で受けた、

―という御話。

因みに、
この由という御仁、

後日、城郭改修の不備を
咎められた折、

逆ギレして、

出来ぬことを無理やり
押し付けるからだ。
こういうことは出来るが
デスク・ワークは無理だ、

と、例の桜吹雪の入れ墨、
(若い方には通じませんか)
ではなく、
肩の傷を見せ付ける、

という豪傑肌の人。

こぼれ話はともかく、

定石通り、
首に引っ掛けて
スマートに斬るのではなく、

力任せに
打ち掛かっている訳です。

こうなると、

戈は「句兵」なんだか
「撃兵」なんだか
判然としません。

因みに、『左伝』には、

他にも、
戈で人を殴る描写が
ひとつならずありまして。

余談ながら、

幕末の斬り合いでは
日本刀で突くのが
実戦的であったそうで、

どうも、
それと似たような話に
思えます。

【雑談】戈の形状の変遷に事寄せて

さて、ここで、

西周時代の前後の
武器の変遷という観点から
粗い見立てを行うと、以下。

佐藤信弥先生
『戦争の中国古代史』
によれば、

故・林巳奈夫先生の
学説の引用として、

殷代中期には、
戈で敵兵の盾を付いて
自分の側に引き倒す、
という使い方であったのが、

後期には、
甲冑の発達とその対策で
(戈や戟の直角部分に付いた
湾曲した刃)が付く、

という大きな変化が
あったそうな。

実際、殷代の戟の出土品には、
胡のない短戟もあります。

したがって、
『周礼』が西周時代の書き物と
仮定すれば、

当時は、
戟や戈の形状や使い方が
大きな変遷の最中に
あったことになります。

それを受けて、
あるいは、

当面は使用に足る
マニュアルめいたものが
必要とされた状況
あったのかもしれません。

穿った見方をすれば、

政治の話はともかく、

当座の武器の規格までもが
儒教の理想国家の礼という形で
後世に残ってしまったことで、

当世一流の賢者は元より、

サイト制作者のような
箸にも棒にもかからない
愚者も巻き込んだ、

何とも息の長い
謎解きや伝言ゲームに
発展したような気が
しないでもなく。

で、どうも、コレ、
書いた方は、存外、
泉下で笑ってやせんか、

―と、感じる薄気味悪さ。

因みに、戈頭・戟体の
形状の変遷が
一旦落ち着くのは、

春秋時代に入ってからの
ことです。

西周時代も西周時代で、

戟刺・戟体が一体の
が作られたものの、

これも楊泓先生によれば
作りが脆いことで
刺突・斬撃の双方を
こなすことが出来ない、

という具合に
大きな試行錯誤が続き、

次の時代には
分鋳されることとなりました。

【雑談・了】

4、殳の囲の性質

さて次は、
囲、つまり、

得物の先端の
金属の部分と
柄との接続部分、

―の御話です。

ここで、一応、
殳という武器の概念
大雑把に確認します。

以下に、
以前の記事で掲載した図解
再掲します。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

次いで、

冒頭にあげた
書き下し文の当該箇所を
再度見てみます。

撃兵は同(とも)に強(はげ)むに、
圍を舉(あ)げるに細きを欲し、
細は則(すなわ)ち校。
刺兵は同に強むに、
圍を舉げるに重を欲し、
人に傅すに則ち密にして、
これ故これを侵す。

まずは、言い回しですが、

「同に強み」というのは、
恐らくその後の部分に
係ります。

つまり、ここでは、

撃兵(殳)も刺兵(矛)も
囲については
かくかくしかじか、

と、いうような意味かと
思います。

これを踏まえた上で、
以下のような意味に
なろうかと。

得物を両手で
持ち上げる際、

殳は細いのが
望ましく、
機敏に動けることを意味する。

矛は敵を刺す際に
重い方が安定するので
望ましい。

因みに、『周礼注疏』
当該部分を見ると、

校読為絞而婉之絞
校を読むに
絞にして婉の絞となす

玄謂校、疾也
玄(鄭玄)謂うに校、疾なり

―と、ありまして、

前者の「絞而婉」は、
『春秋左氏伝』の引用箇所。

果たして、

この注釈に従って
同書の
昭公元(前541)年の件
確認すると、

叔孫絞而婉
叔孫、絞にして婉

という文言があります。

何の話かと言えば、以下。

この年、
当時鄭の領地であった
(河南省三門峡市)にて
諸国の要人
会合を行いまして、

その折、行人
(外交官、
ここではホスト国の接待役)
子羽(公孫揮)
子皮(罕虎)に対して、
言った言葉です。

小倉芳彦先生の訳も
活用させて頂くと、

魯の叔孫豹の外交辞令が
このブログと真逆で
手短に要点を纏め、
かつ婉曲である、と、
誉めて見せた、

と、いったところかと、
思います。

座右の字引きによれば、
「絞」は、

悪く言えば、
切羽詰まって余裕がない、
といった意味もあります。

余談ながら、
子皮という人は、

その後の子産と並ぶ
鄭の大黒柱的政治家。

武器の話に戻ります。

殳が軽快に振り回せるのが
望ましい、
というのは、

察するに、

元々が重く
取り回しが悪いことで、

少しでも軽快に動ける方が
分の悪さを軽減出来る、

という話なのでしょう。

残念ながら、

管見の限り、

戈頭・戟体や矛頭に比べて
殳の出土例が少ないことで、

金属の鈍器であり、
モノによっては
トゲが付いている、

という以外の
実物ベースの話は
出来ません。

とは言え、

以前の記事で
何度か引用した通り、

昭公二十二
(前521)年の
晋楚の代理戦争も兼ねた
宋の内戦の折、

華豹の車右の張匄(かい)が
公子城の戦車の横木を
殳でへし折った、

という用例があります。

因みに、春秋時代当時の
城攻めの戦法のひとつに、

複数名の兵士が
鈴なりに戦車に乗り込み、
突入して
城門前に乗り付ける、

というものがあります。

言い換えれば、

それ位荒々しい使い方に
耐えうるフレームを
殳で叩き割れる訳で、

それだけの
威力(≒硬度・重量)がある
ことが、

囲が細いのが
望ましいことの
前提にある、

ということになります。

5、重きを欲して軽くなる?!

次いで、矛の囲について。

圍を舉げるに重を欲し、
人に傅すに則ち密にして、

ですが、

「密」を、
字引きにある通り
安定する、と、解釈すれば、

矛頭が重い方が
刺さり易いので望ましい、

という話だと思います。

確かに、長さ≒重さ
仮定すれば、
当然の話なのかも
しれません。

事実、
以前の記事でも
触れた通り、

西周時代の矛頭の中には、

『周礼』冬官が
説く程ではないにせよ、

50cm余の長いもの
あります。

まずは、当該の記事で
掲載した図解を
再掲します。

周緯『中国兵器史稿』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説中国の伝統武器』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 3』、林巳奈夫『中国古代の生活史』(敬称略・順不同)等より作成。瀏城橋出土の矛を「戦国時代」に訂正。

しかしながら、

時代の変遷をたどれば、
別の側面
見え隠れします。

確かに、
どの時代の矛頭にも
長い短いはありますが、

中でも先述の西周時代の
50cm超えの矛頭は
管見の限り戦国時代以前は
他に例を見ません。

また、
全体的な傾向としては、

戦国時代までは、

時代が下るに連れて
短くなる傾向にあるように
見受けます。

先の矛頭の図解で言えば、

呉と燕の国君の矛頭の比較が
分かり易いかもしれません。

つまり、

『周礼』冬官の説く、

重いのが望ましい、という、
至極もっともな理屈が、

時代が下るにつれて
実利面から
乖離していった可能性
あると考えられます。

とは言え、
残念ながら、

サイト制作者は、

現段階では
この理由は分かりません。

大体の話としては、

歩兵の集団戦の普及や、

それに伴う
武器の持ち手の兵士の
体力的な制約等の
可能性を考えますが、

史料で確認した訳では
ありませんので、

個人的な感覚としては、

想像の域を出ないのが
正直なところ。

で、さらに興味深いことに、

漢代以降、

「圍を舉げるに重を欲し」への
回帰が始まった可能性
考えたいと思います。

以前の記事の図解を
再掲します。

過去の記事や図解を
読み返すのは、
正直なところ、
汚物に触るが如しで
かなり怖ろしいのですが、
それはともかく―。

学研『戦略戦術兵器事典 1』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

『戦略戦術兵器事典 1』
図解の模写です。

来村多加史先生の
担当箇所で、

残念ながら、

図解にある武器が
出土した地域は
分かりません。

とは言え、

詳細な長さが
書いてあることで、

この通りであれば、

については、

戦国時代まで続いた、

短く軽いことによる
取り回しの良さを追求する
戦い方から、

前漢以降の
鉄の普及によって、

重さにモノを言わせて
突くという戦い方へと
一転した、

ということが
言えるかと思います。

所謂『三国志』の戦いも、
このような背景を
持つものの、

鉄も鉄で
量の限られた資源につき、

消耗品の鏃を
銅で作っていたところを
見ると、

むしろ銅製の武器の方が
鉄製より多かったと
考える方が
自然かと思いますが、

その銅で鉄製の武器と
同じ形状のものを
製造する不思議。

この辺りの事情の解明は、
また後日。

話が膨らみ過ぎたことで
矛の囲の話を纏めますと、

囲が重い方が良い、
というのは、

どうも、
西周時代特有の事情
によるもので、

普遍的な概念とは
言えないのではないか、
と、考える次第。

おわりに

そろそろ、

例によって、
今回の記事の内容
以下に纏めることとします。

1、『周礼』冬官の
説くところによれば、

戈戟は振り回さず、
矛はくねくねさせないのが
望ましい。

2、ただし、春秋時代には、
戈を相手の体に打ち込む
用例も見られた。

3、『周礼』冬官は、
矛の囲は重い方が
安定して刺さるので
望ましい、と、説く。

4、しかしながら、
戦国時代までは、
時代が下るにしたがって、
矛の囲は短く≒軽くなる
傾向にあった。

5、3、の内容は、
西周時代特有の事情に
起因すると考えられる。

6、『周礼』冬官によれば、
殳の囲は、
機敏に動けることで
細い(=軽い、か?)方が
望ましい。

7、6、の前提条件として、
打撃による
相応の破壊力がある。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』(維基文庫)
『周礼注疏』(国学導航)
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』
(各巻)
杜預『春秋経伝集解』
周緯『中国兵器史稿』
楊泓『中国古兵器論叢』
稲畑耕一郎監修
『図説中国文明史 3』
伯仲編著
『図説 中国の伝統武器』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
佐藤信弥『戦争の中国古代史』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版

カテゴリー: 軍制 | 5件のコメント

殷代~戦国時代の矛について

【追記】21年10月21日

大変な誤読に気付きましたので、
その旨御知らせします。
まずは、申し訳ありません。

で、誤読の部分ですが、

「囲」というのは、

柄の中の手に持つ部分、
上端の金属部分、
末端の石突―「鐏」の部分です。

後日、図解を描き直して
訂正記事を書く予定です。

恐らくは、
こういうのが
素人の独学のコワさで、

むこうの古典を読む際、
内容が分かりにくいと
感じた場合には、

中国語の現代語の訳文にも
目を通した方が良いことを
痛感した次第。

中文の文献の入手が
難しい場合でも、

訳本の転写と思しき
古典の訳文のサイトが
結構ありまして、

例えば、「百度検索」で
「周礼」や「司馬法」等で
検索を掛けると、

原文と訳文の揃ったものが
出て来ます。

で、こういうものを
見る際、

例え、
中国語が分からなくても、

いくつかの漢字を
見るだけでも、

中国人の常識と
サイト制作者のような
素人の危うい読解の
認識の隔たりを
或る程度は埋めることが
出来るかと思います。

で、今回のような
(他の箇所でもやってる気が
しないでもありませんが)
サイトを辞めたくなるレベルの
誤読を防ぐ確率が
高くなる、と。

聞人軍『考工記訳注』

【追記・了】

はじめに

まずは、更新が大幅に遅れて
大変申し訳ありません。

春秋時代の
100名、あるいは75名の
戦闘隊形について
調べているうちに、

サイト制作者としては
これといった収穫がないまま
1ヶ月以上を溶かしまして、

生半可な時間と準備で
余分なことを
するものではないことを
痛感した次第です。

後、こんなブログ
やってる割には、

軍隊の指揮や
作戦計画立案の統括なんか
絶対にやってはいけない
人種だと思います。

それでは、
戈、殳、に引き続いて、
矛の話をしようと思います。

1、『周礼』冬官の説く矛の構造

1-1、矛の前史と全長

まず、故・周緯先生
『中国兵器史稿』には、

矛の殷代までの進化について、
次のように記されています。

・「初期人類」の段階では、
(原人の類だと思います。)
獣角・竹木・尖った石を
矛頭とした。

・矛は戈の前から存在し、
戈戟よりも進化が早く、
殷代には精巧なものが
存在した。

そして、以降の話として、

銅製以前の矛には
銎管(きょうかん)があり、

周代のものは
殷代のそれよりも長く、
玉矛(装飾の施されたもの)が
少ない、と説きます。

長さや銎管については、
後述します。

次いで、矛の全長ですが、

サイト制作者の忘備も含めて
以前掲載した図解を
ここに再掲します。

『周礼』(維基文庫)、楊泓『中国古兵器論叢』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、張末元編著『漢代服飾』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

以前の記事でも
紹介したように、

「車有六等之数」の箇所には
「酋矛常有四尺」とあります。

要は、戦車に搭乗する兵士が
用いる武器です。

「常」は2尋、
さらに、1尋=8尺。
(これが、西周時代辺りの、
成人男子の平均身長で、
同時に、両手を広げた時の幅。)

で、「常有四尺」=20尺。
周尺換算(1尺=大体18cm)
約360cm。

春秋時代の尺であれば、
これに+5%程度。

さらに、
「廬人為廬器」の部分では、
「夷矛三尋」とあります。

周尺換算で、
24尺=432cm。

で、この長さを超えると、
武器としては
使い物にならない、と、
説かれています。

因みに、「車有六等之数」では
夷矛について
言及されていないことで、

「夷矛」は歩兵用、
あるいは白兵戦の
武器なのかもしれません。

一方で、
『釈名』「釈兵」には、

「夷矛」は
「車上に持つところなり」
と、あります。

戦車に搭乗する兵士の武器、
という訳で、

後漢・魏晋時代の解釈では
そうなるのか、と。

もっとも、

サイト制作者としては、
確実な史料が
見当たらないことで、

残念ながら、
これ以上のことは言えません。

どうも、個人的には、
漢から魏晋時代の
周の時代考証に、
信用が置けない部分も
少々ありまして。

1-2、矛頭の部位

次いで、部位の説明に入ります。

以下のアレな図解は、
いくつかの文献の内容を
まとめたものです。

周緯『中国兵器史稿』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説中国の伝統武器』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 3』(敬称略・順不同)等より作成。

如何せん、
柄が残っている出土例が
少ないことで、

必然的に矛頭の説明が
多くなりますが、

まずは、その矛頭から。

前掲図を加工のうえ再掲。

図解自体が
ゴチャゴチャしているので
ひとつひとつ
触れていきます。

左上の赤枠の部分
御覧下さい。

矛の定義は、

先端が尖って
底面に穴が開いた鋳物に
柄を挿し込む武器です。

で、その
「銎」(きょう)と言います。

余談ながら、逆に、

柄の上端に穴、
先端の鋳物に
茎(なかご)がある
槍状の武器を、

鈹(ひ)と言います。

さて、銎以外の部位ですが、

先端「鋒」(ほう)、

鋒の後方の左右の
切れる部分「刃(じん)、

さらに、
刃の内側の平たい部分
「葉」(よう)と言います。

事例の矛が六角形につき、

分かりにくくて
恐縮ですが。

また、葉に中心線が入ると、
その線を、

「脊」(せき)と
言います。

脊は、座右の字引きによれば、

背骨のように隆起した部分、
という意味です。

以下は後述しますが、

矛の種類によっては、

この脊の部分
レール状になっているという
凝ったものもあります。

次いで、この出土品についても
少々触れます。

この矛は、
燕の最後の王となった
のものだそうな。

『図説 中国文明史 3』
にあった写真の
ヘッタクソな模写です。

で、どうして
時代や人物名等が
特定出来るか、
と、言いますと、

出土状況や形状
特定する他、

文字が彫ってあるもの
存在します。

この矛の場合は、その中で、
文字が彫ってあるという
パターン。

次に、矛頭の全長が
17.5cmというのは、

サイト制作者の管見の範囲では
短い部類のものです。

さらに、

先端「刺囲」
柄の装着部分である「晋囲」
長さの比率大体2:1程度で、

後述しますが、
この点は『周礼』冬官の内容と
合致します。

因みに、
「推定約」という表現は、

サイト制作者が
文献の写真に定規を当てて
計ったことによるもので、

大変申し訳ありませんが
アバウトな数字です。

何cmも誤差があるとは
思いませんが、

mm単位での正確さは
ありません。

サイト制作者の未熟さで
巧く説明出来ませんが、

目安となるような
大体の長さめいたものを
弾き出したかったことで、

敢えて、こうした
正確さに欠ける措置
取りました。

最後に、
この矛を所有する易県ですが、

地図で確認すると、

燕の首都である薊のあった
北京市から
南西に100キロ余の地点に
位置します。

この矛よりも、

清朝の陵墓群で
世界遺産でもある
清西陵の方が
有名な土地の模様。

因みに、易県の上位自治体は
河北省保定市。

余談ながら、

日本と中国では
市と県の関係が
逆転していますが、

「県」という文字には、
古語では
辺境という意味もありまして。

2、矛頭と柄の関係

2-1、矛頭と柄の比率

次いで、について触れます。

『周礼』冬官
「廬人為廬器」によれば、

これについて
以下のような件があります。

凡為酋矛、参分其長、
二在前、一在後而囲之
五分其囲、去一以為晋囲
参分其晋囲、去一以為刺囲

おおよそ酋矛をなすに、
その長を参分し、
二は前に在り、
一は後に在りこれを囲む
その囲を五分し、
一を去りもって晋囲となす
その晋囲を参分し、
一を去りもって刺囲となす

参:三

要は、
全長の先端の5分の1が「囲」
「囲」の5分の4が「晋囲」
「晋囲」の3分の2が「刺囲」

と、言う訳です。

図解すると、以下。
真ん中の太い矛の部分。

前掲図を加工のうえ再掲。

この矛頭は、

呉の最後の王となった
夫差の矛をモデルに、

『周礼』冬官の説く長さに
無理やり合わせた
歪(いびつ)なものです。

それはともかく、
「矛頭」と呼ばれて
出土品が数多残る
金属部分は、

ここでは、
「刺囲」と「晋囲」を
合わせた部分に相当します。

残念ながら、
両者の機能は
『周礼』には記されていません。

その中で、
いくつかの出土品を見る限り、

大別して、

・「刺囲」は相手を殺傷する部分、
・「晋囲」は柄を差し込む
「銎」の部分、

で、両者の長さの比率が、
『周礼』によれば2:1。

と、考えております。

さらに、「囲」の部分ですが、

いずれの時代に出土した
矛頭にも
紐を結ぶ穴があることで、

サイト制作者としては、

矛頭と柄を繋ぐ紐を
柄に結んだ部分であると
見ています。

以前、「殳」の記事で、
布を噛ませて太さを調整する、
と、書きましたが、
(断定は避けましたが)

確かに、こちらの方が
仕掛けとしては
合理的に思えます。

2-2 『周礼』の内容と出土例

次いで、『周礼』の内容と
出土例の比較を試みます。

幸い、管見の限りでは
一例あります。

以下の再掲図の
赤枠の部分です。

前掲図を加工のうえ再掲。

以前の記事でも
触れましたが、

柄の部分は
腐食が激しいことで
出土例が少なく、

漆痕でも残っていれば
御の字という状況です。

これに因みまして、

図解の柄の黄色い部分も
写真の模写なのですが、
(対象が白黒の写真につき、
この着色は想像です。)

塗装が剥げたか、

あるいは、
巻いてあるものが
欠落したのかも
しれません。

で、今回挙げる
木製ではなく、
藤か竹の模様。

赤枠の上の矛は、
湖南省長沙市の瀏城橋より
出土したものです。

因みに、楊泓先生
『中国古兵器論叢』には、
この遺跡について
「東周木椁墓」
書かれていまして、

さらに、
故・林巳奈夫先生の
『中国古代の生活史』には、

ここの「一号墓」から
出土した戈を、
「前4世紀」のもの
しています。

したがって、
ここに挙げた矛も
同じ墓からの出土につき、

戦国時代のものと
考えるのが妥当か
思います。

恥ずかしながら、

以前の記事で
ここから出土した戈を
春秋時代のものと
書いてしまいました。

当該部分には
訂正を入れましたが、
ここでも念の為。

大変申し訳ありません。

さて、この矛の長さですが、
写真の解説によれば、
「約1/14」とありまして、

馬鹿正直に14倍で
計算したのがこの図解。

その結果、
長さは大体3メートル前後で、

『周礼』の定める
酋矛の長さからは
数十cmの違いがあります。

以前紹介した記事で、

西周時代の戟体の形状が
『周礼』の内容と
ほぼ一致したことからすれば、
実用面での隔たり
考えてしまいます。

さらには、
矛頭と全長の比率も
『周礼』の説くような
数字どころの話ではありません。

矛頭の長さも
大体約16cm程度と、

図解の上段・左右両端の
戦国時代末期から
秦代の出土例の長さに近く、

時代が下って
歩兵戦が主流になると、

この辺りの長さに
落ち着くのかしらと
想像します。

最後に、
矛の後端の「鐏」(そん)
について。

所謂、石突きの部分です。
長物の尻にある、
地面に刺す部分。

瀏城橋出土の矛と戈のそれ
細長い以外は
内部のよく分かりませんで、

武器の解説書の図解に
あるような
銅製の鋳物か彫刻のような
立派なものでは
ありませんでした。

3、矛頭の類型
3-1、スペード型の矛頭

ここでは、
矛頭の形状について触れます。

例の図解を
再度見てみましょう。
右上の赤枠部分です。

前掲図を加工のうえ再掲。

この類型は、

周緯先生
『中国兵器史稿』にある
「矛頭之形式」の模写に、

サイト制作者
恐らく該当するであろう事例を
添えたものです。

ただし、浅学故か、
一番右のものについては、

矛頭側面の突起部分である
「英」(えい:はなびら)が
縦にふたつ並んだものを
見つけることが
出来ませんでした。

よって、
この事例は
少々怪しいかもしれません。

また、この周緯先生
提示された類型
以外のタイプも存在します。

例えば、
先述の夫差の矛頭は、

当時の剣の
剣身(柄より上)の部分に
晋囲を足した形状
しています。

図解で言うところの
右下のチャチな絵です。

この矛頭については
後述します。

それでは、
件の類型について
ひとつひとつ
見ていきます。

一番左の類型は、
殷代が主流のものです。

また、この出土例は
殷墟から出土したもので、

スペード型の葉・刃
側面の環紐(かんちゅう)
と呼ばれる
紐を通す穴が特徴です。

類型図の下にある要領で
柄と矛頭を繋ぎますが、

残念ながら細かい結び方は
分かりません。

後代のものと比較すると、

矛頭の結び目が
側面に剥き出しに
なっている点が
レトロに思えます。

一方で、この形状の矛頭
戦国時代の遺跡からも
出土しているのが驚くべき点。

河南省淅川県出土の
楚の令尹(今で言う宰相相当)
の矛で、

『図説 中国文明史3』
カラー写真があります。

で、写真を見ると、
矛頭の尻に折れた木の柄が
そのまま付いています。

因みに、サイト制作者は、
これを見て、
布を噛ませて太さを調整する、
という自らの怪しい推測を
疑いました。

もっとも、その矛頭には
装飾が施されていることで、

あるいは
古風な儀仗用の武器かも
しれませんが、

色々な時代の矛頭が
使われていた可能性も
否定出来ないと思います。

とはいえ、
周代や戦国時代に使われたものが
殷代に存在した、
という逆のパターンは
考えにくいとも思いますが。

3-2、片刃型の類型

次に、右からふたつ目の
周代の矛頭。

残念ながら、
これについては
詳細が分かりません。

ただ、長さが50cm余
ありまして、
『周礼』の規格に
一番近いのがこれ。

とはいえ、仮に、
この矛頭の長さを
規格通り5倍にしても
2.5m余にしか
なりませんで、

全長と「囲」の比率を
どう考えたものかと思います。

戦前に、
那法叶というロンドンの方が
所有していたことについては、

同書には、他にも
西洋人の方の所有する
矛頭の図が掲載されています。

と、言いますのは、

1935年にロンドンで
「中国芸術国際展覧会」が
開催されたようで、

こういう類の展覧会の陳列品等、
骨董品というカテゴリーで
存在が発覚したのかもしれません。

3-3、両刃型の類型と
美術品との接点?!

この流れで、
周代の片刃の矛頭の右にある、
両刃で環紐のない類型
触れます。

事例の品は、
戦前・戦後双方に
首相を輩出した
細川家に伝来する美術品の
博物館である
都内の永青文庫さんの所蔵品。

【追記】

戦前・戦後の双方は
誤りです。

細川護熙氏の祖父が
故・近衛文麿氏という
先入観が祟って
間違ったことを書き、

大変失礼致しました。

【追記・了】

HPによれば、
10年弱前の展覧会の
展示物であった模様。

以下は、当該のページの
アドレスです。

小さいですが、
現物の写真が載っています。

このサイトのチャチな絵よりも
現物の写真の方が
遥かに実感が湧くかと思います。

優美な矛頭だと思います。

(一文字目に「h」)
ttps://www.eiseibunko.com/end_exhibition/2013.html

惜しむらくは
写真が上から撮った平面図で
立体的作りが
分かりにくいのですが、

恐らく、
晋囲の中央の装飾が
柄と矛頭を繋ぐ
紐を通すための
輪になっている
想像します。

後述する、
夫差の矛と同じ構造かと。

周緯先生の最後の類型は、
側面に「英」のあるタイプ。

これも、最早、
美術品の範疇のようで、

ニューヨークの
メトロポリタン美術館が
所有する模様。

ここまで来ると、何だか、

古兵器の調べ事自体が
『〇ャラリーフェイク』の
世界に思えて来ます。

余談ながら、
美術品に疎い身としては、

あそこの
HPやドメインを見て、

漫画にある通り、
ホントに「メット」と
呼ぶんだなあ、と。
(モノの価値が
分からないので、
地に足が付かない感じが
増幅している心地!)

で、これも、
現物の写真を御覧になった方が
絶対に宜しいかと思います。

以下は、当該の矛頭の
写真のアドレスです。
ttps://www.metmuseum.org/art/collection/search/640808

保存状態が良いのか、
後で緑青を落としたのか、

金色の地肌が見え、

そのうえ、
葉・刃・脊、
紐を通すための穴等が
明確に浮かび上がり、

武器としての
機能や凄みを感じます。

ただ、残念ながら、
自身の浅学につき、

この矛頭が作られた時代を
特定した根拠は
分かりません。

もっとも、その形状は、
明らかに戦国時代の
ものですが。

【追記】
同ページの英文の説明に、

秦代に入っても
使われ続けた、と、
書いてありますね。

横文字を適当に読み飛ばす
怠慢な悪癖が祟った模様。

図解中の
「統一後」のみならず、
戦国時代の段階で
現役の模様。

ここに、訂正します。

同ページの左下の年代にだけ
目が行ってしまいました。
申し訳ありません。

【追記・了】

4、夫差の矛頭アレコレ

ここでは、
夫差の矛(頭)について
触れます。

図解の右下の赤枠です。

前掲図を加工のうえ再掲。

この矛頭は、恐らくは、
周緯先生が挙げた類型とは、
別のタイプかと思います。

繰り返しますが、
剣身に晋囲を加えたような
形状。

脊の部分が
レール状になっており、

真ん中の線が凹んで
「血槽」となっています。

文字通り、

人を斬った時に、
返り血をここに流すための
工夫かと想像します。

その他、

晋囲と剣身の
境界線の辺りに
獣面の装飾があります。

これが「鼻紐」
つまり、矛頭と柄を繋ぐ紐を
通すための
になっています。

こうした細部の工夫が
この図解では
分かりにくいことと、

幸いにして、
ウェブサイトに
写真が数多あることで、

この矛頭の写真のアドレス
二例添えておきます。

ウィキペディアさんの「呉王夫差矛」
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E7%8E%8B%E5%A4%AB%E5%B7%AE%E7%9F%9B

Doctor’s Gateさんのコラム
https://www.drsgate.com/company/c00071/54.php?

写真をクリックして
拡大すると
分かるかと思いますが、

葉の部分に
ひし形の紋様の入った
実に見事な矛頭です。

素人目に観ても、

日本刀の銘刀宜しく、

武器でありながら
美術品の範疇にも
入ろうかというもの。

因みに、
菱形の紋様を
矛頭に付ける方法
『中国文明史図説 3』
にあります。

引用すると、以下。

まずは、
高錫(すず)合金の粉末を
天然の粘着料に混ぜて
ペーストにします。

次に、これを
武器の表面(ここでは葉か)
に塗り、
さらに、紋様の刻みを入れ、
刻んだ部分を剝がします。

で、この状態で
炉で加熱すると、

ペーストを塗った部分は
銀白色、
周囲を刻んで剥がした部分は
銅黄色に、

それぞれ変化します。

この方法で、
紋様の色分けをしたそうな。

余談ながら、

夫差の好敵手である
越の句践の剣にも
同様の紋様が入っています。

はじめ、
サイト制作者は、

『左伝』における
夫差の浪費癖の件から
こういう凝ったつくりの矛は
その一端かしら、とも、
考えたのですが、

成程、手間暇掛かった
優美な逸品には
違いないとはいえ、

剣の製造で
有名な地域における
国君の持ち物で、

そのうえ、

句践の剣にも
同じ装飾が施されている、
―独自性がない、
と、あっては、

それとの因果関係は
分かりかねます。

おわりに

そろそろ、例によって、

今回の御話の結論
以下に整理しようと
思います。

矛の使用例については、
大変恐縮ですが、
稿を改めさせて頂きます。

1、矛は戈よりも進化が早く、
矛頭の材質は、
石・骨・竹木から銅に変化した。

2、柄を挿し込むための
銎管があるのが定義である。

また、矛頭には、
柄とそれを繋ぐための
穴がある。

そして、その穴は、
矛頭の側面の
剥き出しの状態から、
矛頭の内部に収める型に
変遷していった。

3、『周礼』冬官によれば、

矛頭の長さは
周尺換算で96cm、
全長の27%弱である。

しかしながら、
これに見合うか
近い長さの出土品は
管見の限り存在しない。

柄は出土品自体が少なく、
一例は全長で3メートル前後。

4、ただし、
『周礼』冬官の説く
刺囲・晋囲の長さの比率が
2:1という件については、

戦国時代の出土品を見る限り
かなり近いものが
いくつかある。

5、周緯先生の類型をもとに
いくつかの出土品を見る限り、

時代が下るにつれて
矛頭の長さは短くなる
傾向にあり、

15~20cm程度に
収まる傾向にあるように
推察する。

ただし、これについては、
サンプルを増やして
考察を深めたい。

6、殷代に主流であったと
思しき矛頭が、
戦国時代にも使われていた
可能性がある。

時代が下っても
それ以前時代に
登場した型の矛頭も
使われていた可能性を
考えたい。

7、周緯先生が提示した
以外の矛頭の類型も存在する。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
『周礼』(維基文庫)
『釈名』(天涯知識庫)
周緯『中国兵器史稿』
楊泓『中国古兵器論叢』
稲畑耕一郎監修
『図説中国文明史 3』
伯仲編著
『図説 中国の伝統武器』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版

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近況報告『周礼』考工記から見る武器の柄の管理

はじめに

今回も、御絵描きと妄想の回。
武器の柄についての御話です。

図解を描くのは元より、

具体的な
武器の管理その他についての
史料を探すのに
思いの他、
時間が掛かりまして、

まあ、思ったようには
巧くいかんものだと思います。

当初の目的である
「盧人為盧器」
書き下しに手が届くのは
いつのことかしらん。

1、柄の品質管理

早速ですが、
まずは図解を御覧下さい。

『周礼』(維基文庫)、『周礼注疏』(国学導航)、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版等(敬称略・順不同)より作成。

例によって、

イメージの足しと言いますか、
御参考程度
御願い出来れば幸いです。

要は、現在で言えば、
器具の出荷前の品質管理や
配備後の点検の話かと
思います。

『周礼』考工記の原文によれば、
その具体的な目的は、

1、しない具合、
2、曲がり
3、強度

この3点の確認にあります。

その手順については、
『周礼注疏』や、
同書に引用のある『釈名』
参考にしました。

例えば、『周礼注疏』には、

柄の曲がりの矯正について、
以下の文言があります。

以柱両墻之間、輓而内之、
本末勝負可知也

墻:障壁、囲い、
輓:引っ張る
本末:根本とこずえ

柱をもって
両墻(しょう)の間とし、
輓(ひ)いてこれを内にし、
本末勝負を知るべきなり。

少々補足します。

残念ながら、
柱の立て方は
サイト制作者には
分かりません。

現在の材木の曲がりの
矯正方法も
少し検索しましたが、

その限りでは、

水を含ませる等、
当時とは方法が異なる模様。

不勉強で恐縮です。

また、最後の「本末勝負」は、

柄の上下のどちらが
曲がりが大きいか
確認せよ、

という話だと思います。

因みに、『周礼』の原文には、

この部分については、

図解にある文言の通り、
「諸墻を灸し」とあります。

少しややこしいのですが、

サイト制作者は、
原文の「墻」は障壁≒障害、
ここでは曲がりを意味し、

それを「灸す」=弊害を除く、
つまり、曲がりを矯正する、
と、取ります。

その他、生木から削り出す場合は、
小枝を落としたり
腐食部分を除いたりする作業も
含まれることでしょう。

人力で1本1本やると、
結構手間です、コレ。

さらに、時代が下れば、
生木どころか
他人様の墓の塚を失敬した、
と、話す御仁もいまして、

文言が彫られた部分も
バッサリ切除したのかしら。

それはともかく、

ここまでを整理すると、

『周礼』原文の「墻」は、
障壁や弊害、

『周礼注疏』の「墻」は、
2本の柱を、

それぞれ意味します。

次いで、

柄の強弱を試す際、

膝の上に載せる、
というのも、

『周礼注疏』にある文言を
図解したものです。

横而揺之、
謂横置於膝上、
以一手執一頭揺之、
以視其堅勁以否也

勁:直立して強い様
視:確認する

横にしてこれを揺らすは
横にして膝上に置くをいい、
もって一に手で執り
一に頭でこれを揺らし、
もってその堅勁と否とを
視るなり。

例によって
怪しい書き下しですが、
意味は通じると信じます。

膝の上に載せて手に取り、
次いで頭上で揺らして
曲がりや強度を試しなさい、

という御話。

因みに、最後の行の「以」は、
座右の字引きによれば、

用例のひとつに
「与」(と)と同じ、
というものがありました。

で、サイト制作者が
腹が立ったのは、

この注疏には、

これらの話について
「釈曰」とありながら、

原典の『釈名』には
その件がないと来まして。
(あるいは欠けているか)

同書の「釈兵」以外にも
それらしい部分を
色々探したのですが、

結局、見つけられず終い。

とはいえ、
この『周礼注疏』にある
柄の扱いについては、

サイト制作者としては、

今のところ、
間違いであると
否定する材料もないので、

こういうものかしら、と
図解に至った次第。

少なくとも、

注疏のかなりの部分が
書かれた後漢時代当時は
このやり方であった、

あるいは、
古法はこのようであった、で、
話が通じたのではないかと
思います。

その意味では、

少々夢のある話をすれば、

例えば、
張飛や程普が
振り回した矛なんか、

こういう検査を受けた可能性が
ありそうなもので。

さらに妄想を逞しくすれば、

測定に計器が不要な点や、

後漢時代に入っても
時の軍人や知識人が
『周礼』の他、
それまでの時代の兵法書を
相当意識している様子を見ると、

サイト制作者の
愚見としては、

こういう簡便な方法は
古来から変わっていないように
思いますが、

さすがに、
それを証明することは
出来ていませんので、
ここらで御容赦下さい。

2、春秋時代における
戦時の武器修理の光景

さて、柄の扱いの話について、
もう少し掘り下げて
考えてみようと思います。

とは言っても、
柄の扱いそのものの話は
中々見当たらないのですが、

その周辺領域と言いますか、

平時の武器の管理にまで
話を広げると、

例えば、春秋時代に限ってすら、
管理体制から
担当の官職等にまで及び、

ここで枝葉の話として扱うには
収拾が付かなくなることで、

後日、その概要を
整理するとして、

ここでは、
戦時の差し迫った折の用例
ひとつ挙げるに止めます。

時は春秋時代後半の
成公十六(前575)年6月、

晋楚の数々の決戦のひとつの
鄢陵(現・河南省許昌市)
の戦いの折の御話です。

御周知の通り、
自ら出撃した楚王の共王が
目に矢を受けるレベルの激戦。

さらには、
『春秋左氏伝』の
この戦いにおける件は、

戦闘の前の経緯も含めて、
弓合戦の名場面としての見所や
戦争の考証について
学ぶところの
非常に多い部分ですが、
(和訳様様で御座います。)

今回の引用は、
その中でも、残念ながら、

目下の戦闘が一段落した後で
戦力を整備するという、

地味な箇所です。

子反命軍吏察夷傷、
補卒乗、繕甲兵、展車馬、
雞鳴而食、
唯命是听
晋人患之
苗賁皇徇曰
蒐乗補卒、秣馬利兵、
修陣固列、蓐食申祷、
明日复戦
乃逸楚囚

子反:楚の公子側
察:調査する
夷傷:負傷者
卒乗:ここでは戦車兵か?
甲兵:鎧と武器
展:並べる(=陳・陣)
鶏鳴:夜明け
听:口を開けて笑う
苗賁皇:楚の王族で、晋に亡命。
徇:見回る
蒐乗:兵車を調べる
なお、「蒐」は集める、
調べる、検閲する等の意。
利:鋭くする
修:直す、繕う
蓐:豊かで飽き足りる
申:声を長く伸ばす
祷:祈りの言葉
复:また
囚:捕虜

子反軍吏をして
夷傷を察(み)せしめ、
卒乗を補い、甲兵を繕い、
車馬を並べ、
雞鳴にて食し、
ただここに听(わら)わしむ。
晋人これに患う。
苗賁皇徇(めぐ)りていわく、
蒐乗し卒を補い、
馬を秣(まぐさか)い、
兵を利(と)くし、
陣を修め列を固くし、
食を蓐くし
祷(いの)りを申(うた)い、
明日また戦わん。
すなわち楚囚を逸す。

まず、軍吏が死傷者を数え、
そのうえで、
戦車にしかるべき兵員を充当し、

さらには、鎧や武器を修理し、
馬に飼料を与え、
兵士には朝食を
しっかり取らせ、

締めの手順として、
今で言うところの
神事を行う、

ですが、最後の行だけは
情報戦の一幕で御座い、と、

ハーフタイムの
慌ただしい様子が
色々と記されていますが、

サイト制作者は、

何も決戦に限らず、

人数規模の大小を問わずに行う
戦闘終了時の
事務的な作業手順
見ています。

念の為、確認しましたが、

『春秋穀梁伝』や
『春秋公羊伝』の
成公十六年の記述には
詳しい話はありませんで、

こちらは
空振りに終わったと
言うべきか。

3、武器の修理の肝

因みに、武器の修理については、

上記の引用には
「甲兵を繕い」、
「兵を利(と)くし」、

と、ありますが、

『管子』「問第二十四」にも
以下のような件があります。

斉が臓器売買に手を出した、
という類の内容ではありません、
―何の話か。

疏蔵器弓弩之張、
衣夾鋏鉤弦之造、
戈戟之緊、
其厲何若

器:用具
ニュアンスとして、
用途が決まっていて
融通が効かないものの例え。
疏:軽視する、卑しむ
夾:合わせの着物
造:製作する
鋏鉤:ここでは剣と戈か?
なお、「鋏」は鋳物につかう
かなばさみ、
「鉤」は鍵の意
緊:ぴんと張った様
厲:磨いて鋭くする

器を蔵(おさ)むを疏むは
弓弩の張、
衣夾鋏鉤は弦の造、
戈戟の緊、
それを厲(と)ぐに
いかんせん。

サイト制作者の読み方が
間違っていなければ、

武器や軍服の
保管・製造・整備は、

弓の構造に例えて
三位一体である、
としています。

ここで注目したいのは、
「厲」という言葉。

先述の
成公十六年の引用における
「兵を利し」と同じく、

兵器の整備・修理の肝が
刃先を研ぐことにある、

ということが
言えるかと思います。

今回の御題で言えば、
柄の管理よりも優先される
ということかと思います。

なお、この
『管子』「問第二十四」は、

軍備や
もう少しテクニカルな
戦備を含めた
国力の指標となる項目の
チェック・リストといった
部分でして、

当時の社会構造を
垣間見ることの出来る
非常に興味深い部分です。

後日、軍備の部分だけでも
もう少し詳しく
触れたいと思います。

おわりに

そろそろ、
例によって
要点を纏めようと思います。

1、『周礼』考工記によれば、
武器の柄の点検の目的は、
しない具合、曲がり、強度の
確認にある。

2、後世の注によれば、
点検は五体で行うことが出来る。

3、武器の修理は
戦闘ごとに行う必要があり、
重点が置かれているのは
金属部分の損耗の修復である。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
『周礼』(維基文庫)
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻
杜預『春秋経伝集解』
(上海古籍出版社)各巻
鄭玄・賈公彦『周礼注疏』(国学導航)
『管子』(維基文庫)
楊泓『中国古兵器論叢』
陳寿・裴松之注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

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