戦国から前漢における特産物の分布とその取引

はじめに

今回は、戦国から前漢までの時代における
各地の特産物と商売の話です。

何だか、テーマの戦争からかなりズレていますが、
総力戦という意味では産業力も戦力のうち、と、
詭弁を弄しておきます。

と、言いますか、
こういう話が兵器や軍需物資の製造の話につながるよう、
努力致します。

 

1、主題に関する御本の紹介

因みに、今回のテキストともいうべき本は、
柿沼陽平先生の『中国古代の貨幣』(吉川弘文館、2015年)。

吉川弘文館は日本史関係に強い本屋さんで、学会も抱えています。

それはともかく、
この御本はサバケた本でして、

マクラの話で半沢直樹の話やら
この本の売れ行きの心配やらの生臭い話をなさっていて、
笑えると言えば笑えます。

ですが、その一方で、
貨幣の定義について
歴史学の枠にとらわれずに非常に広い視野で考察を試みたり、

そうかと思えば、
イキナリ、実際に当時の市場を歩いてみようとか言い出して、

当時の物品の価格決定のプロセスを説明したり、
市場の立地や生々しい商行為風景の再現を試みたりと、

中々、写実的かつ野心的な内容の文献です。

本当は、当初は研究者ではなく、
作家を志していらっしゃったのかしらと思えるような
視角とでも言いますか。

なお、市場の光景については、
別の稿で扱いたいと思います。

また、戦争との絡みでは、
兵卒の供給源のひとつである
ヤバそうな人々が徘徊していたり、
武器なんかも売られている場所の模様。

余談ながら、

柿沼先生御自身が
学部生レベルの目線を意識されただけあってか、
平易な言葉でまとめられて読み易かったと思います。

自分の学生時代にも、
専攻分野に対して
こういう秀逸なアプローチを行う文献に出会えれば、

もう少し勉強もラクに進んだのかしらと
当時を懐かしく思う次第ですが、

その意味では、
その分野の最前線の研究者が
必ずしも教育に向いているとは限らないことの好例です。

名選手名監督に非ずの歴史学版か。

 

2、取引産品のアレコレ

前置きが長くなって恐縮です。

早速ですが、下記の地図にて、
当時の特産品の分布状況を確認しましょう。

柿沼陽平『中国古代の貨幣』p115-p119の文章を元に作成。

文献に出て来る地図を拙い手法で加工したものですが、

こんなものでも、いざ作るとなると、
結構苦労します。

例えば、特定の都市の位置を探ろうとすれば、
時代ごとに河川の流域や地名が異なっていまして、

その意味では、
整合性に欠ける部分も少なからずあります。

したがって、
大体この地域には、こういう特産物がある、
といった大雑把な理解で御願い出来れば幸いです。

それでは、地図の詳細について触れます。

まずは、拙い自作のアイコンについて。

現代の感覚ではイメージにしくいものもあり、
その種の物品の説明を行います。

 

「五穀」
大体は炭水化物の穀類ですが、
国や時代によって定義が異なるので面倒な言葉です。

甚だしい事例として、『周礼』なんぞ、繊維である麻を含みます。

よって、ここでは、稲・麦・豆・粟・黍、
といったものを御想像下さい。

「卮(し)」
辞書によれば、木製で漆塗りの盃。

「薑(はじかみ)」
生姜のことです。

「丹沙(たんさ?)」
硫黄と水銀の化合物です。
朱色で、顔料・薬剤に使用されました。
別名:辰砂(しんしゃ)・丹砂・朱砂・朱丹、等。

「鮑魚(ほうぎょ)」
塩漬け干物の魚のことです。

「棗(なつめ)」
中華料理のデザートによく出て来る果物ですが、
薬用としても使います。

日常的に好んで食べる日本人は少ないと想像します。

サイト制作者が
モノを知らないだけなのかもしれませんが、
今日のスーパーで見掛けることは少ない気がします。

 

3、便利な概念「経済圏」と
金融センターとしての「洛陽経済圏」

続いて、「経済圏」について説明します。

まず、「〇〇経済圏」というのは、

『史記』の貨殖列伝を元に
柿沼先生が独自に設定された分類です。

この中で、
最初に注目すべきは、

恐らく経済活動が活発な「洛陽経済圏」と、

穀倉地帯、あるいは繊維産業も盛んな
「山東経済圏」・「関中経済圏」だと思います。

特に「洛陽経済圏」(洛陽・河内・河東の一帯)は、
「経済」活動が活発、と、簡単に言えど、

その「経済」が意味するところは、
恐らくは、高度に洗練された金融業、あるいは、

政府や軍閥の戦費や政策資金の調達に関連する
債券市場とでもいうのか、

つまるところ、
他の経済圏を圧倒的に凌駕するレベルの
巨額の資金が動く経済活動であり、

全ての経済・産業の中枢を占める、謂わば、

今日の世界経済でいうところの、
ニューヨークや香港といった
(シティは、色々と揉めているので一応外します)
金融センターのようなニュアンスではないかと想像します。

 

4、先進地域の定義

次いで、「山東経済圏」・「関中経済圏」について。

一次産業の比重が極めて高い
前近代の産業構造という視点で見れば、

広い平野に位置する穀倉地帯
繊維生産を副業に持つ経済圏というのは、

言い換えれば、
大人数を養うことの出来る裕福な地域の証拠です。

さらには、
機械化以前の衣類の価値は高く、
そのうえこの時代の布は貨幣にも化けます。

こういう事情があってか、

孟子(出身は鄒:今日の山東省)の母親なんか、

ドラ息子が学業をサボッて勝手に帰省しやがったうえに
偽造通貨を作っていたところを目撃されたので、

当局に通報されるのを恐れて、
逆ギレして一芝居打った・・・

―という解釈は、当然ながらデタラメです。

つまらない話はともかく、

日本で言えば、
明治時代前半までの大阪や名古屋等の地域が
それに相当します。

昭和になってムリしてゼロ戦や戦艦大和なんかこさえても、
その財源は、材料がほとんど自前の生糸の販売で
捻出する訳でして。

それはともかく、古代中国の場合は、
黄河沿いの地域が裕福であるということなのでしょう。

黄河が舟運という交通路でもあることで、
その後背地産業という意味を含めて、
前回の都市の分布の話と軌を一にします。

さらには、臨淄の場合は、
地面からの上がりに加えて海を持つことも長所でして、
特に塩の利権は大きい訳です。

なお、塩と鉄の話は、後で少しします。

因みに、長江以南の本格的な開発が進むのは、
3世紀の孫呉政権の時代です。

ゲームで言えば、強力な破壊力を持つ
山越の歩兵部隊との死闘を繰り広げる
『三国志Ⅸ』の世界。

こういう風に考えると、

斉が経済的な潜在能力の高さという点で、
大国になる条件が揃っていることが
想像出来ようかと思います。

で、余談ながら、こういうポテンシャルの賜物か、
後年、異国の日本が威海衛を欲しがったり、
ドイツ人があそこでビールを作ったりするんですなあ。

因みに、「山東経済圏」は、
春秋戦国時代の国号や地域で言えば、
斉・鄒・魯・梁・宋といった地域に相当します。

また、劉邦の「関中王」の関中は
函谷関の西側の地域ですが、

ここでは、汧・雍~河・華といった
散関や隴関の東側の限られた地域。

 

 

5、北方の経済圏の特徴

次いで、その他の北方の経済圏に目を向けますと、

「燕経済圏」
渤海から碣石間、中山、といった地域でして、

この辺りの緯度になると、
北方の「異民族」との交易が
盛んに行われるようになります。

また、海に面していることで、
塩や魚といった海産の資源にも恵まれます。

個人的に面白いなあと思ったのは、
天津甘栗のルーツめいたものは
この時代からあったのか、という点です。

さらに、斉や燕のような立地になると、
朝鮮半島との交易も射程圏内に入ることと思います。

また、北方との交易の経済圏としては、

楊や平陽、上郡等を擁する「山西経済圏」
天水・北地・隴西(天水の西)を擁する
「西羌経済圏」があります。

戦争は強いが経済力に乏しい匈奴等の騎馬民族が
武器や食糧を欲しがってやって来る訳でして、

商売や移住もやれば、
刃傷沙汰のトラブルや略奪もやる訳です。

で、その結果、怒り狂った趙や漢の軍隊との
ガチの抗争も一度ならず。

―そういう風土に近いためか、
この辺りに経済圏では牧畜も盛んに行われます。

無論、北方だけでなく、
付近の経済圏との取引も当然ありまして、

例えば、楊や平陽は関中との取引があった模様。

 

 

6、南方の経済圏と銅と塩

さて、今度は、打って変わって、
南方に目を向けることとします。

資源依存型という点では、
黄河流域以外の経済圏と似たものを感じます。

まずは、「巴蜀経済圏」。

ここを根拠地として強大な項羽と戦った劉邦は元より、
王莽に関連する動乱期の公孫述もそうですが、

地政学的に非常に恵まれていることで、
ここに籠ると鉄壁です。

結果として、ここの攻略に苦しんだのは、

曹魏(三国志の魏!)どころか
20世紀の日本も含まれていたりするので笑えません。

そのうえ、
中原に比して開発が進んでいないとはいえ、
やはりさまざまな資源に恵まれた地域であることには
変わりありません。

特に、鉱物資源に恵まれ、
この地図には記していませんが、奥地では塩も取れます。

そのうえ、漢代には、
この地に国内有数の軍馬の放牧場が作られ、

三国時代には絹まで作り始めることで、
そうした人口だけでは推し量ることが難しい
経済的・軍事的な付加価値が出来たことで、

魏相手の何十年もの継戦能力はダテではないと言いますか。

次いで、「呉経済圏」。

これは、項羽の策源地である彭城より東の地域、
東海郡、当時は後進地域であった呉、
この後の時代に
孫呉政権(三国志の呉!)の首都になった広陵、
といった地域を指します。

海産資源は元より、
注目すべきは、塩と銅。

これは「巴蜀経済圏」にも言える話ですが、
塩は言うまでもなく生活必需品でして、

『塩鉄論』の桑弘羊とか諸葛某とか、
大抵は国家が専売して税収の足しにします。

で、儒教で理論武装して清貧ぶった
汚職官吏の利権に対して、

盗賊が非合法の廉売をやって
御決まりの密売と摘発のイタチごっこが起き、

そういう食傷気味の活劇の最終回に
主役の盗賊団が暴動を起こして視聴率を稼ぎ、
別の時代で再放送、と。

また、はと言えば、
国家の経済力と暴力装置の両輪とも言うべき
貨幣と武器の双方に使われます。

さらには、この時代はまだ銅が武器の主要な素材でして、
この少し後の曹操の軍隊も、
物の本によれば、鏃は青銅製であったそうな。

この塩と銅の御話、
つまりは、王朝の権力基盤を支えるための
地下資源を有していた、という主旨です。

序に、銅の話からは逸れますが、
漢代の鉄と塩を管理した
鉄官・塩官の分布図も、以下に掲載しておきます。

『中国歴史地図』p37の図を加工。

最後に「楚経済圏」ですが、
ここについては筆者の不勉強につき、
あまり儲かりそうな経済背景が見えて来ないのですが、

未開発地域における山林関係の資源や、
家畜が高価であった時代の皮革というと、
あまり先進的なイメージは沸かないのですが、

産業として外貨を稼ぐレベルで成熟しているとなれば、
相応に高次なのものであったことでしょう。

楚や項羽のファンの方、悪しからずです。

 

 

7、商売を左右する闇コスト?!

さて、これまで特産品の分布について
一通り見て来ましたが、

こういう知識があったところで、

その種の情報さえあれば
ネットの先物取引宜しく
端末を弾くだけで大金持ちなれるかと言われれば、

柿沼先生に言わせれば
世の中そんなに甘くはないそうな。

何の話かと言えば、
取引費用が馬鹿にならなかったのが当時の実情の模様。

で、この「取引費用」の内訳もかなりの曲者でして、

本人やスタッフの旅費や
運搬用の家畜の飼料といった
割合マトモなコストだけであればいざ知らず、

商品の護送部隊の手配や経由地での役人への賄賂といった、
途上国に打って出る商社が負担するような
怪しい支出も生じる訳です。

逆に言えば、
この時代の花形の商人、
―秦の呂不韋、蜀の卓氏、宛の孔氏といった人々は、
各国各地の官吏との昵懇の仲であり、

モノによっては
商品の売買から一歩踏み込んで
製造にまで手を出していたそうな。

つまり、資力・人脈・腕力(カネに換算可能ですが)
が伴ってこその経済力でした。

「政商」という言葉がありますが、

時代背景を考えれば、
こういう泥臭い力が無ければ事は動かなかったのでしょうし、
同時に、国を買おうという発想の源にも成り得たのでしょう。

市場ですら、ひったくりが横行した時代のことです。

ただし、こういう手合いは
貧者の生活を踏みにじってまで買い占めをやりますし、

その意味では、
農本主義で秩序が大好きな儒者が嫌うのも
分かる気がします。

ですが、その儒者が
こういう強欲な商人から平気で賄賂を取るという
非常識な常識が罷り通るのも
古代中国では有り触れた御話です。

それはともかく、

いつかの回で、国家の統廃合が進んだことで
ボーダレスな大商人が登場するようになった、
と綴ったことを思い出しましたが、

これはこれで間違いないにせよ、

それを含めてもなお、

遠隔地での商行為には、

民度やその土地の事情等に起因するリスクや、
距離に応じた物理的な負担が
常に付いて回るということなのでしょう。

因みに、孔子様御一行があれだけ長い行旅が出来たのは、
それ自体、当時の感覚では壮挙でありましたが、

当人の直弟子世代が
孟子や荀子のような戦争に疎い頭デッカチではなく、

春秋時代特有の
戦争巧者や腕自慢の猛者が多かったことが
大きいように思います。

 

 

おわりに

そろそろまとめに入ります。

まず、各々の地域の物産について、
「経済圏」という便利な分類方法が挙げられます。

それによると、目ぼしいものとしては、以下。

経済の中枢の「洛陽経済圏」
穀倉地帯で繊維産業も盛んな「山東経済圏」

地下資源が豊富で、
特に銅・塩が採取可能な「巴蜀経済圏」

海産資源に恵まれ、
やはり塩・銅が採取可能な「呉経済圏」

その他の経済活動としては、
北方では牧畜や騎馬民族との交易で潤い、
南方では木材や皮革、魚の干物等が交易産品としての
稼ぎ頭であった模様。

ですが、こういう情報を活かそうにも、

遠隔地の商行為は色々とリスクが多く、
警護部隊の手配や役人への賄賂といった費用も
少なからず嵩みます。

そして、こういう障壁の向こうに
巨万の富が待ち受けていたのですが、

その恩恵に浴することが出来たのは、
ほんの一握りの人間であった、という、

カネの臭いこそするものの、
その実態は、無慈悲なまでの弱肉強食で
何とも夢のない御話です。

 

 

【主要参考文献】
柿沼陽平『中国古代の貨幣』
江村治樹『戦国秦漢時代の都市と国家』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海 第四版』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
飯尾秀幸『中国史のなかの家族』
沢田勲『冒頓単于』
高木智見『孔子 我、戦えば則ち克つ』
西嶋定生『秦漢帝国』
宮川尚志「漢代の家畜(上)・(下)」
林漢済編著・吉田光男訳『中国歴史地図』

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戦国時代から前漢までの城郭都市にまつわる話

はじめに

遅れ馳せながら、本年も宜しく御願い申し上げます。

さて、今回は中国古代における城郭都市の御話。

年末に本屋を廻って色々な文献を物色する過程で
面白そうな話をいくつか見付けまして、
予定を変更してこの御話を綴ることと致します。

今回の御話の中心となる文献は、
江村治樹先生の『戦国秦漢時代の都市と国家』。
(白帝社・2005年)

戦国時代から前漢までの時代における
都市の成り立ちや構造について、
上手に纏められた本です。

加えて、断片的ではあるものの、
軍事等の周辺領域に対する秀逸な考察もあり、

例えば、『キングダム』等の漫画を読む際にも、
結構重宝しそうな内容だと思います。

因みに、アマゾンでは、現時点でレビューがなく、
中古も少ないことで、

(門外漢の方々にとっては)
隠れた名著と言えましょうか。

 

1、当時の城郭都市の概要

戦国時代から前漢にかけての城郭は、
当然ながら、権力者の軍事・政策の拠点でして、

小さいもので1キロ平方メートル、
大きいもので10キロ平方メートルの面積の敷地を
城壁で囲ったものです。

そして、こういう城郭の大きい部類のものが、
斉の臨淄や趙の邯鄲といった、
大国の国都級の城郭だったりする訳です。

では、こういう城郭都市に
どのような機能があったかと言えば、

この敷地の中に、
宮殿や政庁、兵舎、武器その他の工房、市、
住民の居住区等を抱え込む、

日本の戦国時代でいうところの、
北条氏の根拠地である小田原城のような
「惣構」めいた性格の城郭です。

―余談ながら、以下は
博学でエラそうな二畳庵先生の受け売りですが、

「杜甫の国破れて山河あり、城春にして草木深し」
の詩に登場する「城」は、
この種のホーム・タウンめいた街を意味します。

これは唐代の安禄山の乱の時代の話ですが、

城壁が街の外敵からの防御の切り札として機能するのは
唐代どころか民国時代ですら該当する話でして、

水滸伝の愉快な皆様のような
時代を問わず郊外の山林藪沢に集まる賊徒共は元より、

20世紀に入ってからも、
軍閥や共産党、帝國陸軍等の火砲で武装した近代軍が、

こういう防御施設のアップ・グレード版を
攻めあぐねる訳です。

 

2、設立の条件と分布状況

古代中国―戦国時代から前漢までの時代において
商業の拠点としてのこの種の城郭都市が
出来る条件としては、

江村治樹先生によれば、
まずは、重要な交通路が集中する
交通の要衝であることだそうな。

早速ですが、当時の地図を見てみましょう。

『全訳 漢辞海 第四版』p1778より抜粋。

大体、大河沿いに
目ぼしい都市が集中している様子
確認出来るかと思います。

ただし、これにも例外があるようでして、

三晋地域と呼ばれる黄河中流の地域は、
交通網よりも経済発展の影響が大きいとのこと。

因みに、「三晋地域」とは、
春秋時代終焉の契機となった晋の分裂によって成立した
韓・魏・趙の支配領域が錯綜する地域のことだと思います。

具体的には、大体、
邯鄲付近から黄河沿いに南下して、
開封(旧・大梁)・洛陽を経て
西安(旧・長安)に至る地域と推察します。

三国志の時代も、
邯鄲の辺りは
中央での政争に敗れて黄巾の乱に加わった
スネた知識人共の拠点ですし、

また、洛陽近辺は、最終的に曹操が制圧するまでは、
軍閥の抗争が絶えなかった係争の地。

さらに、長安に至っては、

劉備と曹操の抗争、
そして孔明の北伐から蜀の滅亡までの時代の
半世紀にわたる一連の戦争における
対蜀戦線の魏の策源地であり続けました。

ですが、今日のような、

洛陽や開封近辺は
観光地としての価値はあれども、

そもそも首都が北京にあり、
経済の要地が沿岸部に集中していたり、

観光ガイドを見ても
戦国時代のいくつかの王都やその近郊については
全く情報がなかったり、

―という現状を目の当たりにすると、

少なからず隔世の感があるように思います。

 

3、秦の統一戦争と城郭都市

また、こういう都市の分布が、
本ブログの主要テーマである戦争に
どのような影響を与えるのかと言いますと、

侵攻軍の攻略の難易度に直結する訳です。

当然、敵の領地に城郭が多い程、
その攻略に必要な人員・物資が多くなり、
侵攻の速度も鈍る訳です。

参考までに、以下の地図を御覧下さい。

江村治樹『戦国秦漢時代の都市と国家』p199より抜粋。

例えば、戦国の覇者である
秦の事例ひとつ見ても、

占領地に設置した郡の年次を見ると
一目瞭然なのですが、

この種の城郭の多い地域を抜いた後は
領袖一色という具合です。

無論、城郭の多さだけが
進行速度が鈍かった理由ではありませんが、

防衛側の最高司令官である趙の趙奢等が
それを拠り所に
防衛計画を立案しているフシもあります。

ですが、こういう先進地域にも、
戦時体制としての欠点がない訳ではありません。

具体的には、
住民の都市に対する帰属意識が非常に強く、

国家にとっては武器の集中管理等のような
集権的な政策がやりにくい訳です。

例えば、長平の戦いの戦後処理として、
秦の総司令官の白起が
今日にその爪痕が残るレベルで
捕虜に対してあれだけ惨いことをやったのも、

こういう都市住民の意識が
大会戦の戦果をフイにするレベルで
災いしたからだと言います。

 

ここで話が逸れますが、

この白起という人は兵卒の心情の理解出来る
叩き上げの軍人でして、

何も、残虐なだけの冷血動物であった訳ではありません。

それどころか、
この時の捕虜の生き埋めの命令に対する後ろめたさが、

生涯にわたって
脳裏に焼き付いて離れなかったようです。

しかしながら、
その時代の実情を丁寧に考察すると、

今日の感覚でも当時の感覚でも
到底理解し難い、

しかしながら、
当時においては正しい選択であった
苛烈なまでの必要悪の手立ては、

確かに存在したのかもしれません。

 

 

4、古代史のブラック・ボックス、
黄河の流域の移動

 

序に、都市の成立や分布について、
考古学的な話も付言しておきます。

これは、
将棋でいうところの紛れの一手とでも言いますか、

今までの話の前提を
引っ繰り返すような側面を持つことも
断っておきます。

何の話かと言えば、
具体的には、

黄河の流れが
時代によって大きく変わっていることです。

以下の地図を御覧ください。

 

前掲『戦国秦漢時代の都市と国家』p89より抜粋。

 

確かに、我が国でも、

江戸開発や宝暦の治水等で
利根川や木曽三川の流れが一部の区間で
人為的に変えられていますが、

黄河の場合、その流域の移動が、

その種の人為的な改修工事が霞んで見える位に
大規模なレベルで起きていることが注目に値します。

さらに面倒なのは、
この流域の移動によって
流された遺跡が存在する可能性があったりする訳です。

また、最近の学説の成果も、

80年代以降の開放路線によって
開発の過程で遺跡が発掘されたケースが多いそうな。

前回触れたようなフェイクが横行するのも
こうした事情が祟っているのかもしれませんし、

逆に、開発から漏れた地域は、
そもそも遺跡の有無すら分からない訳でして、

その意味では、
愛好家が多い割には
ミステリアスな部分の多い学術分野に思えます。

 

 

おわりに

今回の御話について、
一通りの流れを整理します。

まず、中国の古代史における城郭とは、
政治・軍事・商工業と、複合的な性格を持ちます。

そして、そもそも、
そうした城郭都市が建設される条件とは、
交通網の結節点であることが最重要。

ですが、黄河中流の地域については、

当時から開発が進んでいたことで
交通の結節点である必要はなかったようです。

因みに、この時代の主要な交通手段は、
河川、次いで道路だと思いますが、

具体的な交通網の話は、サイト制作者の不勉強につき、
詳細は今後の課題にさせて頂きます。

さらには、こういう城郭都市を領内に数多く抱える方が
防衛には有利に働きます。

と、言いますか、
戦術史の話をすれば、
孫子の兵法によって歩兵の機動部隊が多用された結果、

その防御法として、
城郭で足止めすることになった、という御話。

―ですが、
治める方も、占領する方も、その住民は扱い辛い、と。

まあ、その、
今の日本にせよ、善悪はともかく、
古都や城下町の古くからの住民の
自尊心の高さは有名だと思います。

サイト制作者の体験を通じても、
そういう側面は否定しません。

で、これが、面白いことに、
文化レベルの高さや地方政治の迷走にも繋がるので、
一長一短はあると思いますが。

さて、そのオチと言いますか、

こういう一連の説明も、

今までの文献・考古学の成果を
突き合わせた結果に過ぎず、

今後も天変地異や中国人の金儲けによって
真贋定かならざる遺跡や古文書、骨董品の類が
数多出土することで、

その成果によっては、研究が進んだり、
あるいは混乱する危険性も付いて回ります。

その意味では、

未来を感じる
研究やそれに付随する商行為の現状が
そこにはある、

―と言えなくもありません。

 

 

 

【主要参考文献】
江村治樹『戦国秦漢時代の都市と国家』
柿沼陽平『中国古代の貨幣』
加地伸行『漢文法基礎』
ブルーガイド海外版編集部『わがまま歩き 19 中国』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海 第四版』

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後漢時代における平民男性の四季に応じた装い

はじめに

 

大体1週間程度で1記事を更新したいのですが、
イラストを描くのに手間取ってこれもままならず、
本当に恐縮です。

さて、今回は、後漢時代の服飾に戻ります。
その中で、平民男性の四季に応じた服装について綴りたいと思います。

何故、先の回で平民男性のそれについて説明したのかと言えば、
夏や冬場の装いが絡んで来るからです。

そして、『三国志』の戦争の季節というのは、
例外こそあれ、兵糧の刈り入れが終わって馬が肥えた秋から冬、
というのが大体の相場、という事情もあります。

 

1、袍(ほう)

1-1 概要

それでは、早速ですが、
下記のヘボいイラストを御覧下さい。
(服飾のような分野は、下手な絵であれ、
視覚に訴えた方が説明し易いのです)

これは「袍」という、
当時の中国では、身分を問わず、最も馴染みの深い服装です。

 

まず、袍の説明から。

用途は大体は礼装でして、貧富を問わず着用されました。
富裕層が着るものは、生地が良く細かい紋様が入っていたりします。

動きにくいことで、農作業や従軍に適した日常着とは言えないでしょうが、

冠婚葬祭の他には、
郊外の居住区の里から、
人でごった返す城市に買い出しに行く時に着用したと想像します。
所謂、ヨソ行きの服かと思います。

また、後述する裘(きゅう)という、
今日でいうところのコートも存在することで、
袍の着用は季節は年中だと思います。今でいうところのスーツか。

一方で、この「袍」の一類型として、
低品質の麻や屑糸で作ったものは「縕(うん)」というものもあり、
割合厚手のもので、
主に冬場に着用されました。

因みに、袍にせよ、縕にせよ、
粗悪な物を「褐(かつ)」と呼びます。

 

1-2 袖の形状

続いて形状ですが、
まず、襟・袖は別の生地を用い、
これがないものは下等だとみなされていました。

さらに、袖ですが、儒家が幅を利かしたことで、
高価なもの程、裾が長く幅が広いのが特徴。

ですが、前漢に比して、後漢のそれは少し小振りになっています。

また、その中でも形状はさまざまでして、

袖口が広いものを「袂(へい・べい)」、
反対に、絞ったものを「袪(きょ)」と言います。

袪の袖口の幅も様々でして、
イラストのように極限まで絞ったものもあれば、
袂の袖幅より少し絞ったものもあります。

なお、イラストにある袪は、ドラマのものを参考にしました。

 

1-3 裾の形状

裾の丈は、「袍」の定義としては、膝より下まであるもの。

ですが、その範囲でも形状は様々でして、
イラストにあるように地面から少し高いものあれば、
踝が隠れる位のものもあります。

高貴な女性の着物になると、
裾を床に引き摺るものもあります。

また、前漢までは、裾が傾斜した「曲裾」と呼ばれる形式が流行していましたが、
後漢では「直裾」という、地面と並行のものが取って代わりました。

なお、袍の下衣(下半身の衣類)として、
当時の主流は「褲」と呼ばれるズボンでした。

 

 

2、襦(じゅ)

2-1 男性用の「襦褲(じゅこ)」

 

「襦」は、作業・戦争その他に用いる、汎用性の高い上半身の日常着です。
平民の男女御用達。

上記のイラストは、
前回でも触れましたが、当時の労働者・兵士が愛用した「襦褲」。
上半身の「襦」と先述した下半身の「褲」を合わせて「襦褲」と呼びます。

季節は、春から秋まで着用されました。
そして、これのさらに薄手のものを「衫(さん)」と呼びます。

丈は、袍とは逆に、膝から上までのもの。
膝からヘソが隠れる範囲であれば、様々なものが存在します。

一重のものもあれば、裏地の付いたものもあり、
季節に応じて使分けたのでしょう。

また、袖の長さや幅も様々です。

で、これも、粗悪なものを「褐」と呼びます。

 

 

2-2 女性用の「襦裙(じゅくん)」

 

一方、襦は女性の日常着でもありまして、
この場合、裙と呼ばれるスカートを履くので
「襦裙」(じゅくん)と呼ばれます。

また、先の回で触れましたように、
下半身には裙の中に褲を穿くのが主流だったようです。

ストッキングとレギンスの中間のようなものだと思いますが、
残念ながら、一番肝心な、その中のものは、
制作者の浅学にて分かりません。
(男性のソレは後述します)

―余談ながら、時代が下ると、
鍵付きの貞操帯のようなものも出て来ますが、
その種のものが当時の主流だったのかは分かりかねます。

 

因みに、左側の女性は髷を結っていないので、
当時の感覚としては相当だらしない訳です。

まあその、狂言廻しと言いますか、アシスタントと言いますか、
もう少し描き込んで修正して、
図解に役立つように致します。

後、大体、時代劇で人気のあるのが、
軍装と着物につき、
女性の服飾も機会があれば取り組みたいと思います。

 

 

2-3 古代の女性の社会的位置付け

 

さて、申し訳ないのですが、ここで余談。

悲しい話ですが、王朝時代の女性の地位というのは驚く程低く、
今日の感覚で言えば、奴隷という他はありません。

当然、この時代とて例外ではありません。

妻を宴席で他人の前に出すのが恥、
籠城戦では愛妾を人肉にして他人に振る舞うのが美徳という、
21世紀の感覚では到底理解し難い世界です。

それどころか、民国時代も、
どうも農村では王朝時代の慣習が残っていたようで、
(現在でも法と現実の経済結婚の乖離が社会問題になっているようですが)

凶暴な太平天国や今の中共が当時あれだけ支持されたのは、

女性に限らず、
社会的弱者のための政策を本腰を入れて取り組もうとしたことが
少なからずあるような気がしてなりません。

 

 

3、裘(きゅう)、裸(!)

 

3-1 コートとしての「裘(きゅう)」

 

 

 

以上、春から秋の衣類について説明しましたが、
ここでは、冬場の上着「裘(きゅう)」と、猛暑のフンドシについて触れます。

裘とは、皮衣、あるいは今日でいうところの(毛皮の)コートでして、
その形状は、袍のようなものもあれば、
袖が広くて裾が膝より上のものもあるようです。

ただ、漢代のものについては生地以外には詳しい説明がなく、
イラストが漢代のものであるかどうかは分かりません。

一応、情報源めいたものを挙げます。

左側は、漢代の隠士で有名な厳光の絵を参考にしました。

もっとも、この絵というのが何種類もあり、
さらには写実的で鮮やかなタッチからすれば、清代以降だと思いますので、
話半分で御願いします。

また、右側のものは、典拠は失念しましたが、
さる漢文読解用の辞典に掲載されていたイラストを参考にしました。
これも、漢代のものとしては、話半分で御願いします。

 

3-2 創作が不可欠な娯楽作品の世界

 

と言いますのは、

例えば、ジャンヌ・ダルクの絵なんか、
没後600年弱の間、色々描れていますが、
その時代考証はと言えば、時代によっては本当にいい加減なものです。
サイト制作者も本で見て、確かめました。

日本でも、コー〇ーの無双の服飾なんか見ていれば、
素人でも分かろうもの。
ですが、現代の価値観に近い方がウケるのでしょう。
方向性はともかく、描き手も企業も必死なのです。

文化圏が違うとはいえ、こういうことが往々にしてある訳で。
そして、歴史は繰り返す。

中国でも、三国志の絵本に出て来る鎧をよく見ると、
漢代のものにしては妙に装飾が綺麗で、
何だか怪しそうなのが少なからずありますし、

カンフー映画ひとつとるにせよ、
例えば同じ清末民初が舞台ものでも、
全盛期の70年代の作品に比して、
最近のものは麻の生地が多くなった反面、紋様が現代的で鮮やかになり、

サイト制作者としては、浅学にして、
どちらが正しいのか分かりかねます。

もっとも、怪しい時代考証の善悪は、
再現の目的によって異なると思います。

創作の世界で史実に忠実にやったら、
見世物や芸術として成立しないこともあるからです。

また、サイト制作者のように不勉強なケースもあれば、
当時の研究自体が未熟であったケースもあることでしょう。

悪意が弊害をもたらすケースは後述します。これが生々しいもので。

では、真贋の区別が難しい中、
何故、サイト制作者が袍等について、断定したような書き方が出来るのか、
との問いについては、

まず、向こうでは漢代の現物が残っている場合がありまして、

さらには、中国の服飾関係の本には、
当時の(ヘッタクソな)壁画をそのまま書き移したものが
多数載っていまして、
これが、各々の服装に応じて様々なパターンがある訳で、

こういうものと文献の文章と整合性を取って、
サイト制作者が、(これまたヘッタクソな)イラストをでっち上げる、
という次第。

 

 

3-3 歴史学は詐欺師との知恵比べ?!

 

ですが、サイト制作者自身、
こうやってドヤっても内心はビクビクしていまして。

その理由として、
中国というのはカネになれば何でもやる国のようで、

モノの本(柿沼陽平先生の『中国古代の貨幣』)によれば、
墓荒らしどころか古文書の贋作作りまで横行するのが現状の模様。
(これが、研究者も騙される位に精巧なものだそうな。)

日本でも、10年以上前に、
某所で贋作土器を埋めたことが問題になりましたが、
向こうでは贋作製造者と地域がグルになるのが茶飯事で、
その常態化の結果、詐欺のテクニカルタームまであることで、
恐らく、日本の事件が問題にならない位の規模と想像します。

で、研究者ともなれば、こういうものの目利きも必要な資質で、
そのうえ、科学の力まで借りて正確性を期すという、
日本史のような個人プレーでは限界のある大変な世界だそうな。

壁画のケースとて、
交通の便の良い洞窟の壁面にそれっぽくヘッタクソな絵を描き、
「新発見!」とやって見物料を取る位のことをしそうで
何とも不安な限り。

こういうものを掴まされれば、

研究は元より、
教科書の内容どころか場合によっては政策判断まで狂います。

例えば、大金をはたいて買った王朝時代の戸籍簿の同じページに
「李小龍」「習近平」とか書かれていれば、
ファンか支持者以外は泣きたくなるでしょう。

ただ、何物であれ、贋作自体が手の込んだものであれば
必ずしも無価値だとは言い切れませんし、
正規の職業としての贋作製作者の方々もいらっしゃいますが、

その一方で、本物と贋作の価値もそれだけ大きく、
騙す方も騙す方で、その差異が大きいからこそやる訳でして、

買う方としては、溜まったものではないと思います。

とはいえ、ブランド物なんか、

偽物と分かっても手を出す方もいらっしゃり、
出国の際に税関で召し上げらるケースも多々あることで、
この辺りはイタチごっこという現状。

―ただ、古文書の偽造までやるのが、
良くも悪くも中国人らしいと言いますか。

 

 

3-4 裘の生地、これもピンからキリまで

 

話を裘に戻します

その生地ですが、平民が着るものについては、
大体は羊や犬、狼等の毛。

恐らく、中原や華北なんかでは、
軍用でも着用したのではなかろうかと想像します。

で、これが富裕層の着衣となると、
豹やキツネ、鹿、虎等となります。

中でも、特に珍重されたのが白狐。
これらにはとんでもなく高価な値が付きました、
と、言いますか、オーダー・メイドだったのでしょう。

見た目も目立ったと思います。

逆に、粗悪なものを「裘褐(きゅうかつ)」と呼びます。

 

 

3-5 裸も衣装?!「犢鼻褌(とくびこん)」

次は、一転して、夏場の御話。

上半身の衣類じゃ、襦褲や衫の他に、
スッポンポンの裸の大将、ではなかった王様、もありまして、
さすがに下半身は巻物をするという具合。

「犢鼻褌(とくびこん)」という、
向こうで少なくともニ千年の歴史を誇る、
伝統的なフンドシです。

犢鼻というのは、字面は子牛の鼻ですが、
人間の膝頭の中の骨を意味するようです。

これは、後漢の少し後の、
北魏から隋までの時期の挿絵を参考にしました。

これで農作業に従事するそうな。
三国志の英雄にも、こういうのが結構いたと想像します。

―余談ですが、日本でも、
「裸体習俗」と言いまして、
農村では戦前までは広く行われていたそうな。

因みに、今日で言うところの、
ズボンとパンツ関係については、

「大褲」・「小褲」といい、
前者は、普通の丈の長いズボン、
後者は、大褲の中に穿く短いズボンを指します。

腰や尻の感触が悪そうですが、
あるいは犢鼻褌も穿いていたのかもしれません。

また、現存する犢鼻褌は、大分後の時代のものですが、
その形状は局部だけを隠すものでして、
漢代もこういうものを大褲の中に穿いていた可能性があります。

 

 

おわりに

残念ながら、大層な結論めいたものはありません。
そのうえ、例によって、話の腰を折る脱線話が多くて恐縮です。

強いて言えば、袍や襦等、それぞれの形状ごとにさまざまなパターンがある、
ということとなりましょうか。

三国志関係のコンテンツを楽しむ、あるいは、
小説やイラスト等を描く際にでも、
多少なりとも参考になればと望外の幸せです。

一方で、庶民が着用可能な衣類の色については、
不勉強で分からないままです。

例えば、黄色の場合、
時代によっては農民の反乱を意味したり、皇帝を意味したりで、
この辺りの整理も必要です。今後の課題にさせて頂ければと思います。

さて、今後の話も多少しておきます。
後漢時代の平民の服飾については、まだ履物と軍装が残っているので、
まずは、近いうちにこれらについて綴りたいと思います。

さらに、同じカテゴリーの三国時代版、
加えて、富裕層・女性(富裕層・平民)、等々もやりたいと思いますが、
他の話のリクエスト等があれば、そちらを優先します。

一方で、『キングダム』が終わらないうちに、
戦国時代や秦代のそれもやりたかったのですが、

そもそも、後漢・三国時代の服飾自体が、
そのアウトラインをなぞるだけでも(脱線話の尺を差し引いても)
ここまで説明を要するとは想定外でして、
日々苦闘しています。

 

 

【主要参考文献】

林巳奈夫『中国古代の生活史』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
朱和平『中国服飾史稿』
馬大勇『霞衣蝉帯 中国女子的古装衣裙』
周錫保『中國古代服飾史』
高島俊男『三国志 きらめく群像』
華梅『中国服装史』
徐清泉『中国服飾芸術論』
呉剛『中国古代的城市生活』
関西中国女性史研究会『増補改訂版 中国女性史入門』
柿沼陽平『中国古代の貨幣』
高山一彦『ジャンヌ・ダルク』

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少々復習、春秋から三国時代までの戦争アレコレ

はじめに

 

今回は、服飾関係の話ではなく、
古代中国の戦争に関して、先に書いた記事について少々復習めいたことをします。

と、言いますのは、

今までこのブログで綴って来た話について
今一度大きい視点で見つめ直すきっかけを
与えて下さった方がいらっしゃいまして、

その方および示唆に大変感謝すると共に、
同時に、私自身も、
原点に立ち返って何かしら考えてみようと思い立った次第です。

 

 

1、春秋時代の戦争

 

さて、対象となるものの本質は同じでも、

それに対する今日の常識と過去の常識が
必ずしも同じであるとは限りません。

さる歴史学者が「歴史とは過去との対話である」との名言を残した通りです。

それは、恐らく、
古代中国の戦争も例外に漏れることはありません。

黄河に文明が興って以来、

春秋時代の終わり頃までの戦争は、

今日の戦争のような政治や経済的な利害対立の延長でやるようなもの、
と言うよりは、

儀式や刑罰の執行、という側面の強いものでした。

したがって、最高指揮官自らが、
太鼓を持参して戦車に乗り込み、最前線で陣頭指揮を行いました。

因みに、「戦車」というのは、
4頭立て3名乗りの馬車のことです。

横に3名が並び、
左が責任者で弓を構え、真ん中が御者、右に大きな得物を構えた兵士が乗ります。

搭乗員は全員貴族階級で、指揮官が搭乗する場合は、
弓ではなく太鼓を持ち込みます。

当初は原則は左旋回でしたが、
時代が下ると役割分担も厳密ではなくなりましたが、
前漢までは平地での戦場の主役でした。

匈奴との戦いで弱点を露呈して
騎兵にその地位を譲るのですが、
後漢・三国時代も史料には登場します。

話を春秋時代の戦争に戻しますが、

面白いことに、身分の高い者程、
危険に身を晒すことが責務であった訳です。

さらには、戦場や日取りを両者で決めたり、
頑なに平地での戦車戦や正面からの一騎打ちめいた対決にこだわる、
という具合の堅苦しいものでした。

戦車の弓合戦なんか
今日から見れば馬鹿正直な位で、

自分が射撃を外したら、
自分が死のうが相手に射させるのだそうな。

 

 

2、原始儒教と戦時道徳

 

こういう儀式めいたルールの前提として、
非戦士階級には武器を持たせないという建前があり、

同時に、老兵・幼兵・負傷兵・撤退する兵の類は一切攻撃しない、
という戦時道徳も存在した訳です。

また、こういう堅苦しい作法を遵守することのメリットとして、

自らが領主や戦士として、
領地の内外で信用を得ることが出来ました。

加えて、有事の際には、
今日で言うところの国際法に則った扱いを受けることが出来まして、

こういうのが和平交渉や軍縮にもつながった訳です。

敵に情けを掛けて敗れることを意味する「宋襄の仁」という諺がありますが、

逆に、もし、あの時代の感覚で、
今日のような合理的な兵学を実践していれば、

自分が部下や領民から信用を失う
というリスクを抱えることになったはずです。

さらに、面白いことに、
こういう春秋時代の戦争の背景にある思想―殊に戦時道徳や人間修養は、

戦争のルールこそ変われど、
そのまま儒教として民衆の道徳観念に横滑りする訳です。

この伝道者こそが、
時の没落軍人・政治家であった孔子こと孔丘。

 

 

3、孫武の型破りな戦争

 

ところが、次の時代には、
春秋時代の頑なな戦争のルールは跡形もなく吹き飛びます。

その掟破りを大々的にやったのが、
孫子こと孫武。

では何故、それを孫武がやったか、と言えば、

まず孫武が仕えた呉という国が中原―華中の平原から程遠く、
その文化圏から外れていたことが挙げられます。

さらには、国の地形自体も当時は未開発で
山岳・河川・森林が多く、
馬の運用が難しかった事情もあります。

実は、この国も戦車の運用を真剣に考えたのですが、
どうも上手くいかなかったようです。

で、こういう、どうも中央のルールの運用が難しい僻地で
孫武のような中央からあぶれた優秀な頭脳が
型破りな仕事をする訳でして、

その研究の成果が、
国家・国民総動員と歩兵の集中運用によるルール無用の機動戦。

それまでの戦争の流儀とは打って変わって、

平地・山岳・森林・河川と、全ての地形が戦場になり
奇襲・伏兵上等の騙し合いに化けます。

そのうえ、工作員まで使って、
敵国中枢の離間工作までやるのですから周到なものです。

その結果、呉は、隣国の強敵であった楚を、瞬く間に蹂躙し、
各国もこぞって呉の真似を始めます。

これが、大体紀元前500年前後の御話。

 

 

4、社会の崩壊と学者の戦争

 

で、孫武の始めた戦争の結果、何が起こったかと言いますと、

国家は貴族の中間搾取を強制的に止めさせ、
領民を片っ端から徴兵し、
国内に城郭を乱立させます。

城郭の乱立は、歩兵の侵攻を喰い止めるためです。

そして、攻める方も、守る方も、
大掛かりな兵器と大量の人員の投入が必要になりました。

こういう戦争は、実は、火砲が登場する明代まで続きますし、

個人的には、
大規模な野戦が脚光を浴びる後漢・三国時代も、
数の上では野戦よりも城の争奪戦が多かったのではないかと予想します。

そして、こういう体力勝負の総力戦の戦争からドロップ・アウトした国は、
早々に大国に吸収される運命にありました。

春秋時代のは200あった国が
戦国の末期には僅かに7国に淘汰されたのですから、
凄まじい潰し合いです。

当然ながら、無数の国家の滅亡は、
その傘下の地域共同体や人間関係をも崩壊に追いやり、
さらには、身分の貴賤を問わず、数多のあぶれ者を生み出しました。

当時、この未曾有の危機に直面した国内の学者という学者は、

自らの立場の危機という事情もあって
戦争の在り方について世紀の大論争を繰り広げまして、
これを諸子百家、あるいは百家争鳴と言います。

兵馬で敵国を蹂躙する孫子は兵家。
それを籠城のノウハウで死守する墨子。

春秋時代の戦時道徳や戦士としての訓練を母胎に
人間修養を説く孔子やその弟子達の教団である、儒家。

さらには、その鬼子のような立場で、
人を法でまとめようとした商鞅・韓非子・李斯等、法家。等々。

で、こういう学術上の果実を最大限に吸収して富国強兵に活用したのが、
後述する秦ではなかろうかと思います。

 

 

5、王権の強化と食客

 

また、こうして弱肉強食による弱小国の淘汰が進行する過程で、
当然、王と貴族は揉めまして、

王様は戦争で勝って他国を併合してその国力・兵力で
国内の貴族に優位性を示すか、

あるいは、
食客と呼ばれる戦争・統治・外交等の即戦力の没落貴族を登用し、
権力・戦力の総合力を高めようとする訳です。

当時は、大国の貴族で食客を何名抱えたかが自慢の種になりましたが、
食客の数・質がそのまま名声や力に直結しました。

そして、こういう兵力につけ、経済力につけ、
数が勝負の戦いに推移していく過程で、

戦争指導の担い手も、

戦場で常に先陣を切る領主から、
今日の参謀本部で無数の情報を管理するタイプのプロの戦争屋に
移行していきます。

こういうのを「食客」として使い捨てにしたのが、
斉や楚等の大国でして、

孫武の他には、

戦国末期で言えば、
趙の李牧や秦の白起のような、
優秀であっても報われない将軍の人々は、

キャリアを見るに、
恐らく、こういう低い身分からの叩き上げの食客か
それに近い立ち位置に見受けます。

ですが、面白いことに、
いかに大人数をまとめる専業のプロとはいえ、

実際に兵隊の信用を得たのは
スマートに貴族然とした人よりも
兵士と寝食を共にした司馬穰苴のような人。

後に諸葛孔明がこういう人を必死に真似ようとしたのは、
中年になるまでマトモな戦争の経験がなかったことも
あろうかと思います。

そして、この300年弱にわたる長期総力戦の戦いの勝者は、秦。

実は秦も呉と同様の後進国でして、
兵器の質など、戦国の末期ですら他国より劣っていました。

ですが、商鞅以下、
長年にわたる雇った食客の命懸けの富国強兵策が結実し、

国内の動員体制は元より、戦争・権謀術数の双方のノウハウ蓄積にも成功し、
中原の王朝の同盟軍を破り、初の中国統一に成功します。

 

 

6、泥臭い漢代の内戦と三国時代への伏線

 

ところが、統一を急いだ秦は、始皇帝の寿命の短さも祟り、
先代の圧政の反動と二代目の失政で呆気なく滅び、

そのドサクサで身を立てた劉邦が興した漢が
後継王朝となります。

この過程で、反秦の旗頭になった楚の項羽と秦の戦い、
さらには、その部下であった劉邦との戦いも確かに熾烈でして、
話自体も非常にドラマ性があるのですが、

恐らくは、
この抗争自体に戦争のルールを変える程の革新性はなかったことで、
ここでは端折ります。

寧ろ、劉邦なんか、
統一後に自ら大軍で匈奴に当たり、
ボロ負けして捕虜になりかけるような有様。

その意味では、その後の呉楚七国の乱も、
王莽関係のゴタゴタも、
三国志の幕開けとなる黄巾の乱も、

大きな視点で見れば、

殺し合いのノウハウよりは、
国家や地域社会の権力構造に根差している部分の方が
戦力の決め手になる部分が大きかったように思います。

その意味では、

戦争というよりもむしろ、
三国時代の社会について何かしら考えるうえでは
参考になる部分が多そうな気もします。

例えば、前漢を滅ぼした王莽の新王朝に対して
開闢早々に赤眉の乱という反乱が起きましたが、

この支持母体というのが
南陽の劉氏(皇族)に連なる豪族でして、
王莽の集権的な政策を嫌っていました。

また、一連の軍乱における勝者・劉秀の
統一事業の戦力の中核を担った部隊は
後漢王朝の開闢後は対匈奴の前線に転属するという具合に、

後の、黄巾の乱や董卓の専横につながるような伏線が
既に見え隠れします。

さらには、兵隊の帰属意識も面白いものでして、
例えば王莽政権の部隊なんか、旗色が悪くなるとすぐ逃げるのですが、

長安の宮殿の防衛戦での戦いはその真逆で
非常に熾烈なものでして、

王莽の側近部隊は宮殿の奥まで退いて徹底抗戦し、
弓を射尽くした後、白兵戦で玉砕するまで戦いました。

王莽本人も乱戦の最中に戦死し、
斬った者も当初はその人と気付かなかったと言います。

赤眉の側にも似たような話はありまして、

自分に合流する勢力にはかなり寛容な劉秀も
さすがに兵乱を起こす政敵は武力で粛清しました。

この辺りの話は、

例えば蜀を滅ぼした鐘会が本国の魏に対して起こした反乱の時にも、
無理やり指揮下に組み込んだ兵隊の支持を得られず
失敗に終わった話を彷彿とさせるものがあります。

 

 

7、軍馬の育成も百年の大計

 

一方、衛青・霍去病等の度重なる外征については、
残念ながら私の勉強不足につき、
後日の機会に。

ただ、馬の話を多少しますと、

漢代の匈奴との戦争は、
高祖のチョンボ以外にも、
王莽が兵站でしくじったり李広利が投降したりしたものの、
概ね戦績は良かったことは注目に値します。

【追記】

北方の情勢については、私が不勉強なところがありまして、
2世紀に入った辺りから、かなり雲行きが怪しくなります。

具体的には、羌族の侵攻に手を焼いたことです。

それ以前も後漢王朝は羌族と
現在の甘粛省辺りで激しく対立していました。

さらに、後漢は捕虜にして長安以西の地域に移住させた者を
酷使し続けまして、

この人々が107年に酒泉で反乱を起こし、
後漢の鎮圧部隊を何度も破り、
そのうえ例年長安以西の地域(三輔や河東辺りまで来ます!)
で略奪を繰り返しました。

この反乱は117年頃には漢の勝利に帰すのですが、
戦火によって涼州・幷州は荒廃し、

さらに悪いことに、
以降、後漢滅亡まで度々このレベルの抗争が
何度となく勃発し、

鎮圧部隊の戦費横領等も祟って
後漢王朝の財政を蝕みます。

その他、北方では鮮卑や烏桓とも揉めており、
南方でも現在のベトナム辺りで反乱も起きましたが、
国境地帯での紛争の枠を出なかったように思います。

―軍馬の話に戻ります。

匈奴から随分多くの優秀な軍馬を分捕ったものの、

大半はこれらを前線で消耗品として扱い、
まして内地でブリーディングなどしなかったことで、
その怠慢のツケは非常に高く付きました。

まず、古来より、馬の生産・飼育自体が
農家にとって非常に大きな負担であったばかりでなく、

三国時代の動乱は、馬どころか人の食糧すら満足に賄えない中で
軍閥だの王朝だのが戦争に明け暮れ、
米や麦は元より、牛馬もひたすら消耗するばかり。

その結果、晋の統一直後の一連の軍乱で
北方の異民族の蹂躙を許すのですが、

この軍事的な主要因が馬の質の差にあったと言われています。

因みに、当然、当時、馬は高級品でして、

今の感覚で言えば、

自動車どころか、
毎月のようにディーラーでのクソ高いオイル交換の必要な
3ナンバーの外車のスポーツ・カーに相当すると言えます。

無論、庶民の乗馬なんか法的に認められていません。

 

 

8、史実でも返り血を浴びる群雄たち

 

以降、いよいよ三国志の話と相成ります。

さて、戦国時代以降の戦いは
強力な権力が大軍を動員する戦争につき、

不運にも戦死するようなことはあっても
最高指揮官が緒戦から陣頭に立つようなことはなかったように見受けます。

劉邦と項羽が対峙した際、
項羽を一騎打ちを申し出、それを劉邦が拒絶するという逸話が、
こういう風潮を示唆しているように思います。

ところが、面白いことに、後漢末からの三国志の時代は、
その幕開けは大抵は郡レベル、大きくても州レベルの地方官同士の抗争でして、

必然的に、少人数の小競り合いが各地で頻発する事態となります。

また、その内情も、
何万人も動員してもマトモに戦争したのは前線の何千人、何百人、
というような怠慢な戦いも少なからずあり、

この辺りは、戦国時代の風潮との逆行はおろか、
同時に、赤眉の乱や劉秀の統一戦争の時代と似た臭いも感じます。

そのような事情を反映してか、

曹操や袁紹、その他の軍閥の長や主だった将軍が
戦場で死に掛けるか実際に戦死する話が、
史書にすら何度も出て来ます。

特に、曹操の宿将など、

当人が国の半分を占領した以降の時代ですら、

高い身分にもかかわらず、
少人数で敵陣に飛び込んだり
陣頭指揮をしたりといった離れ業を
何度となく敢行しており、

夏侯淵や張郃等、
高い身分にもかかわらず、
蛮勇が裏目に出て戦死するケースすらありました。

誤解を恐れずに言えば、戦争の実相は、
意外に武狭小説の斬り合いに結構近かったのではないかとすら思えます。

逆に言えば、
それで勝てたり、あるいは、その種の蛮勇を振わざるを得ないような、
ありふれた兵学マニュアルの教則で割り切ることが出来ない
当時特有の背景を考えることがポイントになりそうに思います。

 

 

 

 

もっとも、次の時代―大体、孔明の北伐以降になると、
政府高官や君主の血縁の二世三世、
あるいは書生上がりのクレーバーな高等指揮官も増えたことで、
こういうのは減るのですが。

一方で、指揮官が小賢しくなったからとはいえ、

司馬氏への反乱に対する呉の介入戦争や
曹爽等が進めた外征、鐘会の蜀侵攻等をみる限り、

必ずしも無謀な戦争や用兵が減ったことを意味するものでは
なさそうな印象も受けます。

まあその、事の良し悪しはともかく、

新王朝の権力基盤が固まり、
文武百官のヒエラルキーが整えられるというのは、
物事が極端に振れることを嫌うことを示唆するのかもしれません。

 

 

9、三国時代までの戦争の概観

~兵書で戦争に勝てるのか

 

以上、中国の古来よりの戦争の有様について、
例によって無駄に長々と綴って来ました。

簡単にまとめれば、
以下のような話になろうかと思います。

戦国時代に大量動員のノウハウが一旦は確立したものの、
その後の内戦では、そうしたノウハウが必ずしも活かされたとは言い切れず、
むしろ、指揮官の蛮勇で戦局を逆転させるケースすら
少なからずありました。

この理由として、個人的には、
大量動員とドクトリンの実践とは別の次元の話で、
数の優位を活かす手立てが未熟であったことを想像しますが、

現段階では、私の浅学なアタマの中では、
それを裏付けるための材料が明らかに不足していますので、
今後の課題にさせて頂きたいと思います。

ただ、参考までに、
後世の話をすれば、

元々八陣図なんてのは実態のあるものではなく、
孔明は古来の奇書より怪しげなものを復元し、
それを妄信した武田信玄は村上や上杉に散々な目に遭わされ、

朝鮮の戦役では、
日本軍は当初は明軍のこの種のマス・ゲームに戸惑ったものの、
結局は陣形もヘッタクレもなく突撃を掛けたそうな。

さらに、それでボロ負けしたという話は聞きません。

そりゃ、儒教官僚共が孫子や六韜だけで戦争に勝てれば、
日本で今程ジンギスカン鍋なんか流行っていなかったと思います。

 

 

おわりに

~錯綜する集団戦と個人戦の幻影

 

さて、冒頭触れた御話の続きとなりますが、

私に貴重な示唆を与えて下さった方は、

三国志演義に出て来る武勇伝と
兵書に書かれているような集団戦の様相とのズレに興味を持ったと
おっしゃっていましたが、

斯く言う私自身も、
三国志の歴史を背景にした群像劇的な魅力に憑りつかれ、
一方で、史実との相違について興味を持った人間のひとりです。

それどころか、
偶然面識を得させて頂いた中国史の先生方の中にも
そのような方が少なからずいらっしゃいます。

そう、恐らくは、誰もが興味を持つ核心的で非常に重要な疑問なのでしょう。

ところが、この疑問について、
数々の研究で判明した部分は少なからずあるものの、

その裏側には、
近代的な戦争の常識や兵書の内容から考えれば在り得ないような
逆説的なことも
現実には少なからず起こっている訳でして、

その意味では、
残念ながら本質的な部分については
(私のような)素人が納得出来るレベルでは明らかにされていないのが
現状に思います。

―単に、私のパッチ・ワーク作業に穴が多いだけなのかもしれませんし、
今後もその穴を埋める作業に忙殺されることは確実ですが。

 

 

【主要参考文献】
宮崎市定『中国史(上)』
飯尾秀幸『中国史のなかの家族』
掘敏一『曹操』
金文京『中国の歴史4』
川勝義雄『魏晋南北朝』
沢田勲『冒頓単于』
湯浅邦弘 編著『概説 中国思想史』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』『武器と防具 中国編』
浅野裕一『孫子』
高木智見『孔子 我、戦えば則ち克つ』
貝塚茂樹伊藤道治『古代中国』
西嶋定生『秦漢帝国』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』各巻
小林聡「後漢の軍事組織に関する一考察」
宮川尚志「漢代の家畜(上)・(下)」
乃至政彦『戦国の陣形』
高島俊男『三国志 きらめく群像』

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後漢時代の男性の被り物アレコレ

はじめに

 

このところ、

三国志の幕開けの時期である後漢時代の服飾について
綴っている次第ですが、

今回もその話の一部、男性の被りものの御話です。

具体的な内容としては、以下の2点となります。

 

1、被りものそのものにまつわる暗黙のルールめいた話。
2、そして、何種類かの被りものの紹介。

 

 

 

1、髪が命な漢の男たち

 

まずは、当時の男性がモノを被る際の御約束とでも言いますか、
暗黙の了解のようなものについて説明します。

古代中国史の大家の故・林巳奈夫先生によれば、

髪の毛は人間の生命を活気付けるエネルギーの宿るところ
考えられていたそうな。

言い換えれば、元気の宿るところだからこそ
結って大切に包んでおく訳でして、

逆に、結われず露出しているのは、
放射性物質が放置されているのを発見したようなものと
考えてられていたようです。

したがって、髪を布で隠す習慣は、
身分を問いませんでした。

「放射性物質」だとか物々しい言葉が出て来ますが、
林先生の御説です。念のため。

こういう事情につき、

曹操の愛馬が麦畑を踏み荒らした際に
自分の髪を切ったのは、
恐らくは髡刑を意識してでしょうし、

中国関係のコンテンツで
髪を結わずに伸ばし放題の道士が出てくれば、

当時の習慣からすれば、
世捨て人の類であった、ということになりますか。

 

また、特に儒教が国教になった漢代以降は、

親からもらった体に傷を付けることは
「孝」に背くということを意味するので、

知識人が下をイジメてツケ上がったり
戦場で兵隊がよく逃げたりするのと並行して、

人々が髪を大事にする観念が
さらに強まったともの想像します。

 

 

2、被り物の色の決め事と黄巾の乱

 

髪にまつわる別の話として、
被りものの色と身分の関係が挙げられます。

具体的には、
被り物は冠や頭巾、帽子の類は、身分・職業等をあらわします。

よって、庶民が冠なんぞ被ったら刑罰モノでした。

また、色については以下。

 

青・・・下級役人(文献では「官奴」)
黒・・・召使・門番(文献では「童仆」)
白・・・下級役人、庶民(文献では「小吏」・「民者」・「百姓」)
赤・・・衛兵・兵士(文献では「衛士」・「武士」)

 

因みに、下級役人の中においても、
青と白とでランク分けされていたのでしょう。

で、こういう王朝の決め事を逆手にとった猛者共が、
かの黄巾の一党でした。

事実、漢王朝を実質的にぶっ壊した兵乱となったためか、
後の王朝がこぞって黄色い被り物をダブーにしましたとさ。

 

 

 

 

3、身分不問の被り物

 

長い前置きとなりましたが、
漸く被り物の紹介と相成ります。

男性の被り物全般に言える話としては、
形状と身分はあまり関係無かったようです。

身分や貧富の差が出るとすれば、被り物の材質や色でして、
庶民や貧民が麻や屑糸、富裕層は絹という具合。

色については、先述の通りです。

 

 

3-1 漢代の帽子、幘(さく)

 

それでは、まずは、当時の帽子に相当する幘(さく)を紹介します。

上のヘッタクソなイラスト以外にも、
この帽子には、本当にさまざまなパターンの形状があり、
そのうえ用途も広範です。

流行したのは紀元の前後が入れ替わる辺りからだそうな。

この幘、今日で言えば、カジュアルな服装と併用するキャップ
スーツと併用するフェドーラ等にも相当しますし、

当時の壁画を見る限り、

後頭部に廂(ひさし)の付いたものは、
農作業にも軍用にも使われています。

旧帝國陸軍の戦中の軍帽のような位置付けかもしれません。

 

 

3-2 髷・頭巾

続いて、髷(まげ)や頭巾の類について。
まずは、下記のアレなイラストを御覧下さい。

左側の緇撮(しさつ)と呼ばれる髷が
当時、花形とも言うべき男性の髪形であったそうな。

頭の上で髷を結い、頭巾で包み(くるみ)、
余った布は後頭部に垂らします。

で、必要に応じて、この上から冠を被ります。

因みに、「撮」は、中国語で「掻き集める」の意。

 

次いで、真ん中ふたつの綃頭(しょうとう)と呼ばれる頭巾。
イラストの字は、「頭」のチューゴクの書体です。

中共政権になって連中がアホな字を使うようになったおかげで
こっちが苦労させられる、などとウッカリ言うと、
私の不見識を問われるんでしょうねえ、やはり。

こういうのは、字引を使う際の主要な面倒事のひとつです。

 

―それはともかく、この「綃頭」とは何ぞや、
という問いに対して、

モノの本によれば、
陝北や甘粛の自治区の農業者が頭に巻く
羊の毛巾に似たものだそうな。

さらに、結ぶ場所は、頭の前後や額という具合に様々。

残念ながら、現存する現物や綃頭と思しき壁画の類を
見付けることが出来なかったことで、

陝北や甘粛の自治区の農業者が
こういうものを頭に巻く写真を参考にしました。

今で言えば、あくまでイメージとしてですが、

ストリートなミュージシャンや、
家系のラーメン屋さんが巻くような
シャレたターバンのようなものが近いのでしょうか。

一方、三国志や水滸伝のゲームに出て来る、
典型的なアウトロー型ファッションとでも言いますか。

 

最後に、イラストの右側の折上巾。

モノの本によれば、
髪を頭巾の中でオール・バックにするのだそうで
(「里髪向后」とありまして、まあその、ヘンな訳ですね)、

別名、「幞頭」(ぼくとう)と言います。

これは、漢代のものよりもむしろ、
隋唐以降のものが有名でして、
時代の変遷と共に何度となくモデル・チェンジしています。

そして、宋代に至っては、これに刺繍の入ったものが、
何と、趙匡胤等、皇帝様のアイテムに出世しております。

因みに、三国時代は袁紹が官渡の戦いで被り、
皆がこれを真似したそうな。

凹んだ冠を直さず被った荀彧、奇抜な頭巾や鉄兜を被った孔明、曹操等、
当時の英雄はファッション・リーダーでもあったようです。
―ホントかよ。

もっとも、周囲が権力者に阿って真似たのが、
そのまま流行になっただけかもしれませんが。

で、そういう事情を鑑みるにせよ、
漢代の折上巾の形状にも興味がありまして、

現物の写真や壁画の類を探したのですが、
残念ながら、これまた見付ける能わずでして、

色々考えた末、
映画やドラマで関羽が被っている頭巾が
モノの本に書かれている形状に一番近いように思いまして、
そのまま描いた次第です。

間違っていたら本当にすみません。

 

 

3-3 笠

 

続いて、笠について。
これは、管見の限りでは2種類あったようです。

まずは、アレなイラストを御覧下さい。

左側は、まあその、
日本でも、前近代の農作業に加えて、チャンバラの渡世人の三度笠等、
時代劇の小道具としてはそれなりに馴染みのあることで、
簡単に、「蓑笠」(みのがさ)としておきます。

モノの本によれば、
中心が隆起しており周囲には廂がある、とのこと。

天下の鄭玄先生によれば、雨よけに使ったんだそうな。
当然と言えば当然なのですが。

その他、農作業の際の日除けにも使われました。
今で言えば、夏場のアウト・ドアの必須のアイテムだったのでしょう。

イラストはこれら情報を元に、隋代の絵画を参考にしました。

残念ながら、こういう大きくて劣化し易い消耗品は、
中々1800年も残ってくれないようです。

因みに、六朝時代の絵画には、
中心の抜けたシャンプー・ハットのようなものもありましたので、
あるいは、当時から色々形状があったのかもしれません。

 

次いで、右側のイラスト・氈笠(せんりゅう)。

これは羌族の笠がこの時代に漢の地に伝来したものです。

これも当時の資料を見付けられず、
時代は不明ですが、それらしい現物の写真を書き写しました。

以前の日記にも触れましたが、
こういう具合に所謂「異民族」の雑貨が中原に流入する傾向は
その後の三国鼎立の時期以降には一層拍車が掛かります。

 

 

おわりに

 

さて、これまで、

帽子にまつわる暗黙の決まり事と、
それを前提として、色々な被り物を紹介しましたが、

何分、後の世に比して、
まだ漢民族の文物という側面が比較的強く、
さらには国体が崩壊する前の状況という事情もあります。

と言いますのは、
例えば、「胡服」という観点から見れば、
先述のように、この時代以降は、
主に北方民族の文物が中原の地に怒涛の如く雪崩れ込みますし、

政体という点では、
職業・身分で被り物の色が決まっていたにもかかわらず、

三国志の口火を切る黄巾の例もあれば、
滅亡直前の呉には、
「丹陽青巾兵」という精鋭部隊も存在しました。

この「丹陽青巾兵」は、
文字通り、頭に青い布を巻き、鎧は着用せず刀と盾で武装するという、
恐らくは平地で密集隊形で襲撃して来る騎兵や弩兵との戦闘は想定外であろう
典型的な南方の兵隊の武装です。

漢の世では、兵隊の被り物は赤でなくてはならなかった筈ですが、
最早、そうした決め事が無効になって久しいことを示唆する
事例のひとつに思えてなりません。

 

 

【主要参考文献】

林巳奈夫『中国古代の生活史』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
朱和平『中国服飾史稿』
馬大勇『霞衣蝉帯 中国女子的古装衣裙』
周錫保『中國古代服飾史』
湯浅邦弘 編著『概説 中国思想史』

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後漢末期の労働者・庶民(男性)の装束・襦褲

はじめに

 

農民・土木関係の労働者・職人(工員)・兵士、
あるいは盗賊(一部は、実は土豪だったりする)の類、等々、
という具合に、

恐らく、当時の漢民族の男性の大半に該当する話だと思います。

早い話が、戦乱の時代における、
民需・軍需の供給の主要な担い手の方々のカッコウです。

なお、平仮名の読み方は、
私がIMEパッドを参考に、便宜上付けたものでして、
公用ではありませんので念のため。

早速ですが、下の拙いイラストを御覧下さい。

大体、このような装束が、
当時の下層社会の皆様の日常的なものであったようです。

上は粗末な上着・(短)褐(たんかつ)、あるいは、薄手の・襦(じゅ)、
下は股下の短いズボン褲(こ)。

こういう上下の組み合わせを総称して、
「襦褲」(じゅこ)と呼びます。

 

 

1、漢民族の象徴?!緇撮

 

以降は、部位ごとの衣類について、
上から順に説明していきます。

まずは頭―頭髪について。

漢民族は昔から髪を結う習慣がありまして、
これを文明人の誇りとしていました。

例えば、『聖闘士星矢』や『天地を喰らう』なんかの古い漫画で
髪をそのまま伸ばした美形が沢山出て来ますが、

ああいうのは、当時の漢の社会では、

いくらイケメンの中国人でも
北京原人さながらの野蛮人の類になります。

それはともかく、
髪の結い方の筆頭格に、緇撮(しさつ)というのがあります。

頭頂部で髪を結い、布で撒くというもの。
髪の結い方や布の巻き方は色々あるそうな。

ドラマ『Three kingdom』では、
数多の登場人物の結い方が、見事なまでに同じでしたが。

で、こうやって髪を結った後、
その上に色々な被り物をする訳ですが、それは後日紹介します。

 

 

2、何ともボロい標準服・短褐

 

続いて、上半身の衣類の短褐。
その前に、襦褲の「襦」について説明します。

襦とは、要は、襟元で合わせて帯を締める一重の着物のことです。
丈の長さは、長い物は膝まで、短いものは腰まであります。

袖の長さも色々です。
夏は薄手で短いものを着ていました。

右側を奥に、左側を手前に着るのを「右袵」(うじん)と言い、
漢民族の習慣。秦代からの話だそうな。

因みに、その逆は左袵。これは所謂異民族の方々の習慣。

で、この襦と形状は同じで、
粗悪な厚手の生地を繋ぎ合わせて作ったものが「(短)褐」。

材質は、糸(屑糸の類)・麻・毛。

また、秦代には、
庶民は白地以外の上着は禁じられていましたが、
漢代の場合は、被り物の色によって身分が決まっておりました。

詳しくは、被り物の紹介の折に説明したいと思います。

さて、この他、防寒用の上着として、
「裘」(きゅう)と呼ばれる粗悪な毛皮の上着、
あるいは、「衫」(さん)と呼ばれる夏陽の薄手の上着があるのですが、

こういったものも、「襦」共々、後日、図解出来ればと思います。

また、上半身の衣類全般の話として、

襟・裾は双方異なる生地を用いるのが決まりでして
これが無いものは最低の質のものとされました。

なお、帯については、
当時の庶民は、帯というよりは縄のようなものを巻いていたようです。
私の翻訳が不味くなければの話ですが。

 

 

3、男女兼用のズボン・褲

 

続いて、下半身の衣類である褲について。

趙の胡服騎射以降、
中原には漸次、ズボンが普及していきまして、
既に秦代の段階で、ブルーワークと兵卒はズボンが定着していました。

さらには、前漢の終わり頃には、王朝の法令により、
宮中でも男女問わず、漢服と併用して着用していました。

当初は、男性の場合は股下のないもの
(今日では、畜産の労働者等が使うもの等)を
下着として穿いていましたが、

後漢の頃には、男女を問わず、
股下のあるものとなっていました。

因みに、知識人層の装束は、
「袍」(ほう)や「深衣」(しんい)と呼ばれる
上下一体の一重の着物でして、

この下着としてチャップスのようなヒワイなズボンを穿く訳です。

これに因みまして、
女性の方は、「襦裙」(じゅくん)と呼ばれる、
上は襦、下はスカート、という装束が、
身分を問わず標準のスタイルでした。

この下着として、褲を穿くのですが、

現存するものの中には絹織の厚手で艶やかものものありまして、

察するに、今日で言うところの、
レギンスとストッキングの中間のようなもの
だったのかもしれません。

また、アウターとしては、
身分の高い人々は、男性同様、袍や深衣も着ますが、
これらは当然ながら、男女で形状が異なります。

因みに、男のパンツは、
「犢鼻褌」(とくびこん)というフンドシや、
「小褲」(しょうこ)というショート・パンツの類を穿いていたそうな。

この「犢鼻褌」、
三国時代の少し後の北魏時代の挿絵は
日本の時代劇でも御馴染みのフンドシなのですが、

それ以降の時代は、現物となると、
一物を隠すだけの寂しいものとなりまして、

こういうのを見ると、
当時から色々な形状のものがあったのかもしれません。

 

 

4、質・形状共にピンキリの靴―履・舃

 

最後に、靴(鞋)、あるいは靴下(袜)について。

当時の鞋は二種類ありまして、
一重底の鞋を「履」(り)、二重底の鞋を舃(せき)、
と言いました。

数の上では、大半は「履」。
草鞋から絹糸の鞋までピンキリです。

「舃」は、底が木で出来ていたり、
泥除けの為の歯がある―今日で言うところのゲタであったりしまして、
綺麗な絵柄や紋様の類が入っていたりします。

こういうものは、当然ながら、
洛陽や長安の富裕層が履くような高級品です。

で、靴についても、身分上の制約がありまして、

秦代には庶民は絹の鞋は禁止で、
麻等で出来た粗悪な鞋を履き、
そのうえ五人組で同じ紋様のものを使ったそうな。

庶民の場合、大抵は、草鞋か素足が標準です。

さて、漢代に入ると、「履」の一種として、
庶民の味方の「鞮」(てい)と呼ばれる革靴も登場します。

とはいえ、
やはり代表的なものは草鞋のようでして、
当時の言葉で「不借」(ふしゃく)と言います。

三国志演義で劉備が商ったアレで作ったものです。

もっとも、県令の孫で遊学するような財産のある人が
本当にああいう商売をしたのかどうかは分かりかねますが。

 

また、草鞋を除く古代中国の靴全体の話として、

材質を問わず、走るのに向いた堅牢な作りではあるものの、
一方で、口が広く脱げやすいことで、

靴底から紐を通して縛る必要があったそうな。

後、当時から靴下もありまして、
これも材質は生糸から麻までピンキリです。

また、ゲートルの類もあるのですが、

靴と靴下やゲートルとの類との着用方法や形状が
文献からはイマイチ判然としませんが、

何とか自分なりに再現を試みようと思います。

 

 

おわりに

 

以上、三国志に出て来るブルーワーカーの装束について、
頭から足まで一通り説明しましたが、

モノの本によれば、
武装を外した兵隊も、履物を除いては、大体こういうものだそうな。

また、これはあくまで基本の形でして、

当然ながら、
季節の変化や、農作業や戦争を含めた遠出等の用途によって、
衣類や履物の着用方法が変わって来る訳です。

次回からは、

こういう話も含めて、
部位ごとの装束や、防具、女性・富裕層の衣類等について
出来る限り図解していきたいと思います。

 

 

【主要参考文献】

林巳奈夫『中国古代の生活史』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
朱和平『中国服飾史稿』
馬大勇『霞衣蝉帯 中国女子的古装衣裙』
周錫保『中國古代服飾史』

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三国時代の服飾の概観

はじめに

 

三国時代の編制単位もさりながら、

石井仁先生等の気鋭の先生方の素晴らしい論文を
PDFや最寄りの国立大学の書庫に眠る紀要等で漁る(?!)うちに、

都督や護軍、伍士のような軍隊関係は元より、
黄巾やら山賊の話やら馬や家畜の話やらと、
他にも色々とやりたいことが増えて来たのですが、

そうしたものを図解して
或る程度の臨場感なり説得力なりを持たせて説明するとなると、

その種のイラストを描こうとする際、

私にとって、必ず突き当たるのが、
当時の武装・作業着・普段着・礼装、といった服飾の問題です。

ところが、この時代、
モノの本によれば、
軍装どころか、服飾関係という点でも、
中国史上における断絶期・過渡期だったようでして、

チャンバラで言うところの江戸時代の小袖というように、

この時代の定番はコレだ、というものを特定するのが、
結構難しかったりします。

そこで、今回は、
以降、何回かに分けて行うであろう後漢から三国時代の服飾について、
そのアウトラインめいたものについて綴ることとします。

 

 

1、三国時代における戦争と服飾の関係

 

さて、まず、ブログのテーマである戦争と服飾の関係について。

イタリア・モデルの洒落たナチの軍服のように、
軍服も(プロパガンダとしての)ファッションだ、

というこだわりでもなければ
一見関係なさそうなものですが、

少し細かくその内情を調べると、
関連性も少なからず見え隠れします。

例えば、三国時代の軍隊は鎧の装備率が低かったようです。

その理由として、
戦乱の継続による深刻なモノ不足がまず挙げられます。

加えて、南方の場合は、
山林・河川が多く、
密集隊形を組んで馬や弓で戦争するという風土ではありません。

その結果、鎧を装着していたのは概ね乗馬する指揮官クラスであった模様。

となれば、労働者階級の日常の普段着や作業衣の類が
そのまま軍服と成り得る訳で、
ここに軍装と服飾の多大な接点を見出すことが出来ます。

また、服飾史という観点から見ても、
例えば三国志の時代、というよりは魏晋南北朝時代という枠組みで見た場合、

特に三国鼎立の辺りからは、
北方の異民族の服飾の流入が非常に盛んになったことで、

軍装との関連で言えば、例えば、
異民族の鎧の形がアウターのデザインに流用されるという現象が見られます。

例えば、兵装の変遷等、詳しくは、
稿を改めたいと思います。

 

 

2、服飾史上の断絶、後漢末と三国時代

 

これに関連して、
モノの本によれば、中国の服飾史上の断絶は、
事もあろうに三国志のド真ん中にも潜んでやがりまして、

愚見として、
考証家の仕事を煩雑にしているのは、
恐らくこの点だと推測します。

さて、中原が所謂異民族の服飾を取り入れる、というのは、
何もここ100年位のチャイナドレスに限った話ではありません。

恐らくは趙の胡服騎射の時代を皮切りに、
遥か昔から異民族の服飾が中原に流入していました。

少なくとも秦代には「異民族」の服飾を利用する形で
兵士・労働者はズボンを履いており、

前漢の終わり頃には、王朝の号令を契機に、
宮廷の女性も下着としてズボンを履いていました。

下着と言っても、今の感覚で言えば、恐らく、
レギンスやスパッツとストッキングの中間位の感覚だと思います。

その理由のひとつが笑えまして、
要は乱交を戒めるためだそうな。

確かに、外戚関係のトラブルが多かった時代の話です。

因みに、男性はと言えば、
股間にフンドシを締めていました。

定番の越中フンドシ型以外にも、どうも形状は色々あるようですが。

ですが、こうした「異民族」の服飾の中原への流入が、

単に機能的な利点を取り入れる、というレベルではなく、
文化的な交流というレベルで大々的に起きたのが、
三国鼎立の時代以降の御話。

面白いことに、鎧の装備率が低かった南方(つまり孫呉)でも、
北方の服飾は結構流行ったそうな。

よって、「三国志」の時代の軍装・服飾、と、
一口に言っても、

黄色い頭巾が流行った時代と孔明軍師の頭巾が流行った時代とでは、
恐らく、服飾の様相が少し異なるのではなかろうかと思います。

帽子や靴等、色々アイテムが増えまして、
こういうのを後日、
(自作のヘッタクソな)イラスト入りで紹介出来ればと思います。

また、兵装という意味でも、

今日で言うところの
兵器の研究開発は有事の1年は平時の10年に匹敵する、という公式は、
その具体的なスパンの長さはともかく、
後漢・三国時代にも当てはまるようです。

戦争の基本は戦国時代には確立したとはいえ、
個々の兵器のアップ・グレードは着実に進んでいます。

流行の得物の形はこの時代と戦国時代とは少し異なっていますし、
鎧についても、後漢に比して、
三国鼎立以降は、北方の「異民族」の影響を強く受けています。

 

 

3、前の時代との連続性

 

逆に言えば、殷周の時代からあるような衣類も当然あり、
三国志の時代との連続性もある訳でして、

その中には、輸入モノのアイテム以外の袷だの襦だのといった
後の時代にも続くようなものもあります。

それどころか、
身分によって着用出来る帽子や服装の色が決まっており、

隣保制度の五人組で同じ柄の入った鞋を履いたり、
庶民が冠(種類で職務を表す)を被ったら刑罰を喰らったりという具合に、
王朝らしいと言えば王朝らしい身分制度もありまして、

それを逆手に取ったのが黄巾の方々の模様。

で、こういうものは、
漢代に入ってからの変化と言えば、

儒家が天下を取ったことで、
官服や礼装の類が袖が大きく仰々しいスタイルになったのが特徴ですが、
これも後漢になり少し簡素になりました。

もっとも、こういう漢服の基礎をなすものでも、
その形は一様ではなく、
時代ごとに変遷するものもあります。

 

おわりに

 

最後に、以上の話を簡単に整理します。

まず、三国志の時代の服飾的な背景として、

漢服としてのスタイルはこの時代にはかなり定まって来てはいるものの、

その一方で、
大体秦代辺りからの延長としての後漢末までの服飾と、
三国鼎立以降の魏晋時代とに服飾史的な断絶があり、

最大の要因としては、
「異民族」の服飾の大々的な流入が挙げられます。
これは、軍装・平時の服飾双方に多大な影響を与えています。

加えて、鎧の装備率の低さが、
服飾と軍装の接点を大きくしています。

そして、上記のような話を、
以降の回で、
もう少し詳しく綴ろうと思い立った次第です。

―で、余談ながら、
こういうものを描く身としては、

タダでさえ私に画才がないうえに、

この時代の遺物の類は
後世の写実的な遺物に比して、

これまた描き手泣かせのヘッタクソな人形や絵の類で
そのうえ不明な部分も多いことで、

説明に際して、
例えば、文献の記述内容との齟齬を来さない範囲で、
(考証の怪しそうな)ドラマや映画等の映像も
参考にしようと思います。

誤りがあれば、
出来れば気軽に御指摘頂ければ幸いです。

なお、以下の図は、
あちらの服飾関係の文献を目にした際、頻出した単語につき、
宜しければ御活用頂ければ幸いです。

関連する文献で頻出する初歩的な単語と、その意味を図解しました。

 

 

【主要参考文献】

林巳奈夫『中国古代の生活史』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
朱和平『中国服飾史稿』
馬大勇『霞衣蝉帯 中国女子的古装衣裙』
『戦略戦術兵器事典1』

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和訳、『歩戦令』

はじめに

 

三国時代の部隊編成の実態を探るうえで重要な史料である、曹操著『歩戦令』。

折角ですので、その原文と思われる文章、
字引(古語未対応)に記された単語、

さらには、(かなり哎呀な)和訳も掲載します。

 

【原文】

步戰令曰:嚴鼓一通,步騎悉裝;再通,騎上馬,步結屯;
三通,以次出之,隨幡住者,結屯住幡後。
聞急鼓音,整陣,斥候者視地形廣狹,從四角面立表,制戰陣之宜。
諸部曲者,各自安部。陣兵疏數,兵曹舉白不如令者,斬。
兵若欲作陣對敵,營先白表,乃引兵就表而陣。
臨陣皆無讙譁,明聽鼓音,旗幡麾前則前,麾後則後,麾左則左,麾右則右。
不聞令而擅前後左右者,斬。
伍中有不進者,伍長殺之;伍長有不進者,什長殺之;什長有不進者,都伯殺之。
督戰部曲將,拔刃在後察,違令不進者,斬之。
一部受敵,餘部不進救者,斬。
臨戰,兵弩不可離陣,離陣,伍長、什長不舉發與同罪。
無將軍令,有妄行陣閒者,斬。
臨戰陣騎皆當在軍兩頭,前陷陣騎次之,遊騎在後。違令,髡鞭二百。
兵進退入陣閒者,斬。
若步騎與賊對陣,臨時見地勢便,欲使騎獨進討賊者,
聞三鼓音,騎特從兩頭進戰,視麾所指;聞三金音,還。
此但謂獨進戰時也。其步騎大戰,進退自如法。吏士向陣騎馳馬者,斬。
吏士有妄呼大聲者,斬。
追賊,不得獨在前在後。
犯令者罰金四兩。
士將戰,皆不得取牛馬衣物。
犯令者斬。
進戰,士各隨其號,不隨號者,雖有功不賞。
進戰,後兵出前,前兵在後,雖有功不賞。
臨陣,牙門將、騎督明受都令。
諸部曲都督將吏士各戰時,校督部曲督住陣後,察凡違令畏懦者。
有急,聞雷鼓音絕後,六音嚴畢,白辨便出。
卒逃歸,斬之。
一日家人弗捕執,及不言於吏,盡與同罪。

『维基文库 – 自由的圖書館』より転載
ttps://zh.wikisource.org/wiki/%E9%80%9A%E5%85%B8/%E5%8D%B7149

 

【単語とその和訳】

読者の皆様の理解を少しでも支援すべく、

以下に、古語未対応ながら、
字引で引いた単語も掲載しておきます。

なお、ここで注意すべき点は、
文字によっては、画数の少ない簡単な字であっても、
日本語とは意味の異なる使い方をするものがあることです。

 

嚴:激しい
通:太鼓を打つ回数
悉:全て
結:集まる
屯:集める、(駐屯する)村
以次:順序によって
幡(番):回数、順番も含むか
住:止める、止まる、休める、動きを零にする
疏:疎らにする、数を飛ばす、慎重でない
曹:輩
舉:全て、皆
白:明らかな、明白な
營:軍の駐屯する場所
表:表す、示す、手本・模範
安:安心させる、安定させる
部:部隊
引:導く、案内する
就:従事する、取り掛かる
讙譁:騒々しい
麾:差招く、軍隊を指揮する旗
擅:ほしいままにする
督戰:督戦する
舉發:摘発する、暴露する
閒:間
陷陣:敵陣を落とす
髡:髪を剃る刑罰
特:専ら
獨:ただ
不得:してはいけない
明:公開する、明らかである
受:受ける、耐える、適合する
都:全て、~にまで、全く~
令:命令、させる
察:事細かに見る、研究する
在:~している、ある地点に存在する
凡:平凡な、普通の、全ての
畏:恐れる、尊敬する
懦:臆病
畢:終える、完結する、すっかり
辨:弁明する、是非を明らかにする、見分ける、辨白:申し開きをする
便:例え~でも、すぐに、
出:離れる、出る、外れる
卒:兵
日:一日、期日、日数、日にち
弗:費やす、使う、減る
盡:全て、悉く
執:捕える
及:及び、並びに
家人:家族、使用人

 

 

【原文のニポン語訳】

激しい太鼓が一度鳴ったら、全ての歩兵・騎兵は装備を整え、
二度目の太鼓で騎兵は乗馬し、歩兵は部署に集まる。
三度目の太鼓で、順番通りに出撃し、
次の一隊は止まり、その次の一隊はその後方に集結する。
早い音の太鼓が聞えたら、陣を整える。
偵察部隊は地形の広狭を確認する。教本に従って、正しい陣立てを行う。
各部曲の者は、各々の部下に平常心を保たせる。
数を飛ばしたり命令を無視するのが明白な兵士は、斬る。
兵が敵に対して陣立てを望む場合、
当該の地に何も存在しないことを示し、兵を率いて陣立てに取り掛かる。
陣に臨んでは、雑談私語を慎み、太鼓の音を明瞭に聴き取れるようにし、
旗番の上官による前後左右の進退の指示に従う。
命令を聴かずに勝手に進退する者は、斬る。
伍の中で進まぬ者がいれば、伍長がこれを殺し、
伍長の中で進まぬ者がいれば、什長がこれを殺し、
什長の中で進まぬ者がいれば、都伯がこれを殺す。
督戦する部曲将が現状を注視した後に抜刀した際、
命令を犯して進まぬ者は、これを斬る。
ひとつの部が交戦の折、手が開いている部がこれを救わない場合は、斬る。
戦に臨んで弩を持つ兵士が陣を離れてはならず、
違反の場合は、伍長、什長が摘発しなければ、これも同罪とする。
将の軍令なくみだりに動く者は、斬る。
二部隊の騎兵が並列で臨戦態勢を取る場合、
一隊が敵陣を落とした後、残る一隊はその後に続く。
違反者は髡刑(髪を剃る刑罰)と鞭打200回に処す。
兵が進退中に(騎兵の)陣に入る者は、斬る。
歩兵と騎兵が敵と対陣した際、騎兵単独で敵を攻撃する場合は、
三つの太鼓の音を聞いた後、ひたすら陣頭で戦う二隊の騎兵の後に続き、
原隊の旗の指示を確認する。三つの鐘の音を聞いて帰陣する。
ただし、単独での進撃の時に限る。
歩兵騎兵の大掛かりな戦の場合は、進退は軍法による。
陣に向かって馬を走らせる吏・士は斬る。
妄りに大声を上げる吏士は斬る。
敵を追撃する時、ひとりで(隊列の)前後にいてはならない。
違反者は罰金4両に処す。
士・将が戦地にあっては、牛馬衣類を略奪してはならない。
違反するものは斬る。
番号順に従わず前進して戦った者は、功があっても恩賞は取らせない。
隊が前進する時、後ろの兵が前の兵の前に出るのも、
功があるといえども、恩賞は取らせない。
陣に臨んでは、牙門将・騎督は受けた命令を公開する。
各部曲の都督・将・吏・士は交戦中、校督・部曲督は陣に留まった後、
命令違反の者や臆病な者を全て、注意深く観察する。
急に雷鳴のような太鼓の音が鳴り、さらに六つの激しい音が鳴り終われば、
例え戦場から離れていても申し開きをする。
逃げ帰る兵がいれば、これを斬る。
その兵士が帰還後、家族・使用人を使って当人を捕えても、
その日のうちに役人に申告しない場合は、皆同罪とする。

 

 

訳文について

 

まずは、字引を引きまくって
1日掛かりで仕上げたのですが、

あまりに誤訳が甚だしいと思われる文章が少なからずあり、
そうしたものは篠田耕一先生の訳文に差し替えました。

実は、篠田先生の訳文をそのまま掲載した方が
遥かに正確で(語句も綺麗で)分かり易い良いのですが、

御本の構造上、
軍隊の構造の説明に重点が置かれていることで
訳文が分散しており、

私のヤバい邦訳を晒すことと相成りました。

無論、辞典の著者である香坂先生に非はなく、
古語の辞典を座右に置かない私の怠慢が原因です。

 

1、『歩戦令』と戦国時代の戦争

 

歩戦令の前提となる図として、
『三国志軍事ガイド』から引用します。


『三国志軍事ガイド』p124

この辺りの箇所数ページを丸ごと抜いた方が良いのですが、
如何せん長いので避けます。

これに因みまして、篠田先生は、

『武器と防具 中国編』において、
中国の前近代の戦争の大体の形は戦国時代には固まっており、
それは銃砲が登場する明代まで変わらなかったと記しておられます。

また、私の個人的な感想としましても、

例えば三国志の正史を読む分には、

特に城攻めの様子が、
攻防双方共、動きが大掛かりなうえに、籠る側の描写も生々しいことで、

指しあたって、三国時代については、
戦国時代の戦争とあまり変わらないという印象を受けます。

兵書についても、
特に宋代までは目立った発展がなかったそうな。

もっとも、こういう頭デッカチな怠慢さが原因につき、

古今無双の豪傑とやらが無数登場した割には
異民族との戦績が亡国レベルの数字なのでしょうが。

 

 

2、後漢の部隊編成の俯瞰

 

続いて、什伍・都伯、部曲、といった部署・職階の俯瞰図については、
同書から以下の図を引用します。
再版を希望するという意味も込めて。


『三国志軍事ガイド』p44

 

なお、この図については、
渡邊善浩先生の『知識ゼロからのCGで読む三国志の戦い』にも
掲載されています。

さて、前回の記事で、
陽人の戦いの職階が「騎馬都督」と書いてしまった呂布。
私の誤りです。

正史に胡軫の部隊に都督や都尉が数多いたと書かれていたことで、
「騎馬都督」と書いたのですが、裏目に出ました。

騎兵隊自体が歩兵と独立編成で、
その指揮官が「騎督」の模様。

で、こういうのを見ると、

上の図の部隊編成の全体像からして、
どうも曹操・董卓の軍に共通してそうなことが垣間見えます。

やはり、数多の先生方が指摘されている通り、

『歩戦令』に出て来る戦闘単位は、
曹操が既存の兵書を参考に経験則との兼ね合いで編み出したものではなく、

後漢の軍の正規軍の編成単位そのものを意味するのではなかろうか、
と、思った次第。

いえ、今頃気付いたのか、オメデタイ、という話か。

―で、自らが経験したヤバ気な違反行為を羅列して、
斬れだの鞭打ちだの、法は貴きには手心を加える、だのが、
当人の独自性と。

これに因みまして、以前、私が、

兵を集めた武将が
銘々の兵法で訓練して
各流派の兵学に基づく編制単位を用いていると
推測(勘違い)した根拠として、

後世の史書が漢代の部隊編成について書かなかったこと以外には、

そのうえ、曹操本人が『孫子』に脚注を付けた際、
自分が生きた時代に活かす筈の内容にもかかわらず
わざわざ司馬穰苴の部隊編成を引用していることで、

末端の兵卒の管理、
―什伍に関しては民政制度という基盤があるにせよ、

特に中規模の部隊編成については、
国定の制度自体が無かったのかと思ったのですが、

そこまでザルな話ではなかったのでしょう。

―やはり素人の浅知恵でした。

後、気になるのは、

『魏書』の「曹仁伝」で、
曹操の親衛隊の虎彪騎の隊員を百人「督」からも選抜する、
という話が出て来る点。

この百人「督」なる職階、
仮に、これが曲の督であるとすれば、

その下の職階である都伯は、
100名未満(区分方法から考えて恐らく50名)
ということになります。

こういうことを考えると、ゲーム・メーカーの方や、
小説や漫画でも書こうとする人は悩ましいものだと想像します。

一方で、豪族の私兵や盗賊の類、呉の軍隊もあるいは、
既存の兵書の取捨選択≒独学の線も考えられると思います。

この辺り、特に、三国の内情については、

編成の実例や動員兵力、時代等を睨みながら、
もう少し丁寧に整理しようと思います。

 

 

 

おわりに

 

さて、今回も、何か結論めいたことはありません。

『三国志ガイド』のような本にもう少し早く出会っていれば、
恐らくこういうサイトを立ち上げることはしなかったのですが、

その一方で、
ヘンな漢字のものも含めて色々な文献を物色するうちに、

恐らく日本の既存の文献では
あまり明らかにされていなさそうな材料も
あるにはあったことで、

そうしたものを少しでも開陳出来ればと思う次第。

 

後、余談ながら、最近こそ大分状況が変わりつつあるものの、

こういう軍隊関係や日常生活等の考証学的な話は、

ハイレベルな研究者の方々も
本当はそっちの方に興味があって、それでも、
やりたくても手が回らない事情が垣間見えると言いますか。

無論、古代中国史に限った話ではありません。

詳しくは書きませんが、
分野は異なるものの、
私もそういう事情で、色々と回り道をしました。

そして、このサイトのような素人の余技であればともかく、
そういうものに造詣があるとないとでは、
研究に対する理解もかなり変わって来るのでエラいことです。

調べ物については、

たとえどのような雑用知識であっても
あるに越したことはありません。

 

 

【主要参考文献】

篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
渡邊義浩『知識ゼロからのCGで読む三国志の戦い』
杜佑『通典』
香坂順一郎『簡約 現代中国語辞典』

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群雄の一抹の正義感・使命感とその背景

はじめに~戦争を正当化する理屈

 

三国時代の軍隊について調べる過程で溜まった知識と言いますか、
その副産物としての妄想と言いますか、

今回は、その種の三国志の人物関係のヨタ話と相成ります。

ブログのテーマが戦争とはいえ、

史家の興味対象が軍事考証の話からかけ離れていることで、
どうしても群像劇の話が必然的に多くなるのを嘆く次第。

まして、折角読み始めた正史につき、
出来る限り多くの記事のネタを引き出してやろうという
筆者の卑しさも、
残念ながら隠し切れなくなって来ました。

さて、日本も中国も、前近代の軍記物は、
大義名分を仰々しく発します。

これは、古来の戦争儀式や法令執行の側面があったことと、
王朝の権力発動のロジック、
さらには、人の本能としての集団殺戮を行うことの後ろめたさ等、
色々理由がありそうに思います。

で、そうしたものに対して居直って戦地に臨んだものの、
想定外のことが色々と起きることで、

登場人物が何度となく死に掛けるのも、
読み物としては醍醐味なのでしょう。

もっとも、地獄のニューギニアから生還した故・水木しげる先生は、
こういうのを達観して
「死ぬような、ではなくて、死ぬんです。」と、
おっしゃっていましたが。

ここでは、三国時代のその種の戦場での命の遣り取りの場面をマクラに、

そもそも一廉(ひとかど)の人物を
そういうグロい「大冒険」に駆り立てる魔物の正体
多少なりとも解明することを試みる次第です。

ただ、残念ながら、
筆者の筆力不足で取り留めない長話となってしまいまして、
今回に限っては、最後に結論を導く作業は省きます。

読者の皆様におかれましては、
個々の締まりのない話から、

せめて、多少なりとも
物学びの示唆めいたものを得ることとなれば、

書き手としましては望外の幸せで御座います。

 

 

1、祖茂は生きていた

 

前回の話の中で、
陽人の戦いにおける孫堅の影武者の話をしましたが、
まずは、その続きと言いますか。

正史に曰く、

陽人の戦いで、孫堅配下の祖茂は、
主君の赤い帽子を拝借して影武者になりすましたものの、
柱か枝に帽子を被せて艤装し、巧く逃げおせた模様。

人の死をサラッと書く性格の書物につき、
恐らくこういう話は本当なのでしょう。

 

余談ながら、中学生の時に読んだ斉藤洋先生
『呉書 三国志〈1 将の巻〉孫堅伝「孫堅伝」』のこの辺りの件が
良い味を出しておりました。

また、モンキー・パンチ先生の筆の味の効いた
ルパンとは一味違う格好良いイラスト共々、
作品自体も好きだったのですが、

なんだか歴史書の記述で拍子抜けの心地。

もっとも、恥じる行いでもなく、
機知を働かせて無事に生還したことで、

命の遣り取り場では、めでたい部類の話には違いないのですが。

ただ、読み物の感想としては、
少々考えたい材料を見出しまして。

 

 

2、「正義」の戦隊同士の抗争劇の幕開け

 

と、言いますのは、

小説といえども、
作家としての斉藤先生の慧眼と言いますか、

祖茂をして、
反董卓の諸侯は所詮は利権に飢えた烏合の衆と説き
派兵の中止を具申させている件に
引き込まれました。

それまで、盗賊の類の討伐しか経験のなかった
皇室への忠誠や世直しへの奉仕にやぶさかではない
純粋な孫堅を狂言回しとして、

読者に動乱の時代の本質を垣間見させる仕掛け
巧妙だと思った次第です。

 

この辺りは、正史を読む分にも、

挙兵を勢力拡張の建前にしようとする
袁紹や公孫瓚の動きを見れば
成程なあと思いますし、

一方で、小説の流れとしては、

それを予言しながらも主君の影武者として戦死し、
孫堅が忠臣を失った無念さと自らの愚かさを悔いるところに
この小説としての面白味があったように思います。

さらには、今から思えば、
目立ったヒロインが出て来なかったにもかかわらず、

純粋な脳筋の孫堅を軸に、

バランス型の知恵者の程普、勇敢な肉体派の黄蓋、寡黙な職人の韓当
そして確かな目を持ち武芸にも秀でる側近タイプの祖茂と、

主役の陣営の登場人物ごとの役割分担が巧く出来ており、
子供の読み物としては
よく出来ていたなあと思う次第。

こういう小説の影響か、
当時、光栄の『三國志』シリーズで孫堅で遊ぶのが楽しかったことも、
序に思い出しました。

90年代前半の話と記憶します。

 

 

3、解剖、群雄の皆様の正義感
3-1、挙兵と大義名分

 

無論、こういう時代に私財を投げ打ったり、
あるいは官僚組織の一部である
地方官という職権を乱用して挙兵すること自体、

王朝の命運が尽きかけていること
この時代の血で血を洗う権力闘争
凄惨さや泥臭といった本質めいたもの
嫌という程に骨身に染みて理解出来ている証拠です。

それでも危険を冒すところに
一抹の正義感がないとは言えないと思います。

まして、儒教が国教化して
忠だの孝だのの文言が知識人層の存立基盤として
罷り通っていることで、

こういう思想に沿う形でのそれなりの大義名分がなければ
根拠地での政治力や経済力を有する
資産家や名士の支持を得られない、

つまりは、略奪と戦争、あるいは寄付で食い繋ぐ、
一頃の呂布や劉備の部隊のような
「兵匪一体」の傭兵団の域を脱することが出来ない訳です。

 

3-2、土地と地元名士(富裕知識人層)が一体の
     地方行政

こういう理屈を説明する例として、
公孫瓚と陳宮を比較してみます。

例えば公孫瓚は、孝廉上がりにもかかわらず、
地方政治に明るい知識人層を冷遇してしくじったクチですが、

敢えてそれを行ったことで、
頭デッカチな連中に対して
余程含むところがあったのかもしれません。

例えば、辺境の武力本位の世界で育った軍人という事情が
考えられます。

反対に、呂布や陳宮が新天地の徐州で
命運尽きても他の州に逃げずに玉砕覚悟の籠城を行ったのは、

特に陳宮の場合
権力闘争に敗れて地元の兗州を追い出されたことで
流浪の傭兵団に転落することの悲哀が嫌という程分かっており、

地方の利害を調整して天下国家を論じる
地方官・名士としての矜持を捨て切れなかった証左に見受けます。

 

 

3-3、滅私と打算の曖昧な境界線

 

面白いのは、
こういう泥臭い利権絡みの話と並行して、
損得勘定抜きで死に掛ける人が出るという当時の状況です。

例えば、自分に従わない地方官を暴力で散々恐喝した、
泣く子も黙るタカ派軍閥の孫堅
墟と化した洛陽の惨状に落涙したのも、

(脚注とはいえ、『呉書』にこんなことが書いてあるので驚きです。
「旧京空虚、数百里中无烟火。坚前入城、惆怅流涕」。)

やさぐれた失業者の曹操
酒宴外交に明け暮れ尻込む諸侯を他所に優勢な徐栄に果敢に挑んだり、

強大な盗賊団を相手に
盟友が戦死するレベルの死闘を繰り広げたのも、

強ち、自らの名誉栄達のためだけとは言い切れず、
社会の一員としての使命感と決して無縁ではなかったと思います。

特に曹操の場合は、
ある時期までは漢に滅私奉公する態度を変えなかったことで、
結果として、見る目のある知識人層の支持を得ることに繋がりました。

その意味では、
(知識人の)世論の支持する建前を愚直に守ることの意義
極めて大きかったと言う他はありません。

 

 

4、また増えた、粗悪な曹操人物評
4-1、人物鑑定は
政争のワンダー・ランドへのパスポート

 

今日、少なからぬ文献が指摘していることですが、

後漢末期に許劭のやったような人物評
易者による占いのような形のないものではなく、
当時の学術サロン≒名士社会へのパスポートという位置付けでした。

さらに、このサロンに入ることによって、
中央の官界や地方行政との人脈が出来、その筋からの情報も入ることで、
軍閥の権力闘争には必須の資格であった訳です。

無論、門外漢の癖にエラそうなことを書く私も、
つい10年位前までは占い程度の認識でした。

これに因みまして、

恐らく90年代辺りからの三国志関係の需要拡大により
中国史の常識めいた知識が安価な文献で分かるようになり、

昨今の出版事情には大いに感謝せねばならないと思う次第。

と、出版各社や、研究者の皆様に謝意を示したところで、
私もやろうかしら、人物評。

現在のような、ネットの普及による国民総ライター時代、

2000年も前の人間に対するゴミのような人物鑑定が
電脳世界にひとつ位増えたところで、

名誉棄損で裁判を起こす人は、恐らくいる訳でもなく、
まして社会の大きな害悪になるものでもなかろうと信じます。

 

 

4-2、クソな人格と模範的な人心掌握術

 

いくら曹操を褒める歴史書と言えども、

文章の行間から、
死線の怖さやそれを掻い潜ってでも
何かを成し遂げようとする執念が滲み出るとでも言いますか、

私のように別段曹操に愛着が無くとも、
支持する人間の心情が分からなくもありません。

当人の人格自体も、劉備同様、
放蕩癖が老年になってもどうも完全には治らず、
その場の気分やくだらない理由で側近を殺したりすることで、

どちらかと言えばクズ寄りに見受けますが、

その一方で、
儒教の権威に喧嘩を売るレベルの図抜けた教養は言うに及ばず、

この時代には珍しい能力重視とはいえ、

(自分がクズだと自覚しているのか)
人格者を素直に褒めて厚遇する度量もしっかりと持ち合わせ、
信賞必罰を適性に行う能力があります。

 

 

4-3、「寛治(ばか)」と「猛政(はさみ)」は使いよう

 

なお、これに因みまして、
このブログでも引用の多い渡邊義浩先生によれば、

この時代の考え方の潮流としては大別して
「寛治」と「猛政」のふたつがあるそうな。

要は、規則を緩めるか締めるかの違いです。

後漢末期の風潮は全体的に緩かった、つまり、「寛治」が主流。
例えば、役人の贈賄の横行等につながります。

そこで、曹操や諸葛亮のように、
敢えてそれに逆らって「猛政」で臨んだことが成功例とされました。
対して、失敗例が家臣の統制が緩過ぎて決断力を欠いた袁紹とのこと。

ただ、浅学ながら愚見を開陳すれば、大いに説得力を感じる反面、
ある面では、こういうものは同じ時代でも使いようだとも思います。

 

 

4-4、「寛治」の馴染みあるダメ社会

 

例えば、如何に聖人君子への道を説いた儒教を齧った知識人といえども、

人の弱味に付け込む策謀を施すような謀臣
「寛治」の生臭さに通じていなければ仕事にならないでしょうし、

劉邦の謀臣の陳平なんか、
このタイプでなければ行動に説明が付かないと思います。

漢の高祖様も、
恐らく異民族の包囲で戦死していたことでしょう。

また、地方行政のレベルでは、
郊外に巣食う山賊団の分断工作なんか、
恐らくはこういうノウハウがモノを言う訳で。

孫堅なんかも、
恐らく、こういう泥臭い修羅場で叩き上げた人です。

 

 

4-5、中国社会と文字に対する感覚

 

もう少し言えば、
中国の下層社会
当時も今も上澄みと違う意味での泥臭さがあり、

自称4000年の歴史なんか、

例えば河出の通史辺りを何冊か読むと、
戦争は元より、
汚職と搾取と権謀術数の歴史に思えて仕方がありません。

偶然面識を得させて頂いた
さる気鋭の中国文学の先生がおしゃっていましたが、

下層社会の識字率が極端に低く
社会の上下で文化に大きな断絶があるそうで、

こういう事情が少なからず祟っているのかもしれません。

その種の人々は文字を不要とし、
ジャッキー・チェン宜しく規則も唄も頭で覚えるそうで、

大衆に馴染みのある民間演芸も、
リズムやゴロを大事にするという具合に
こういう階層に向けた作りだそうな。

まして漢詩なんか、今日の高校生の教養どころか、
科挙を受験する連中の嗜みにつき、

確かに、内容がひねくれていて小難しい訳です。
そういうのを、高尚というのでしょうが。

 

 

4-6、カンフル剤としての「猛政」
栄養剤としての「寛治」

 

で、その結果、例え戦争がない時代でも、
一部の真面目な奴が泣きを見るようなデタラメな社会構造の中で、
世間で老荘思想が流行るのも世の流れに見受けます。

つまり、人の支持を得る方法は、
儒家や法家のように、ガリ勉や規律に求めることも可能あり、

一方で、戒律の緩い宗派の仏教や道家のように、
ダメな浮世の中から探し出すことも然り、でして。

例えば、劉備なんかそれを熟知していて巧く立ち回った訳で、
「自分は曹操と逆のことをやって支持を得た」と居直っています。

私のようなヒラの生半可な道楽者の世迷言ではなく、

人たらしで兵集めの巧者であり、
一介の傭兵隊長から皇帝に成り上がった人が
こういう言葉を残しているところに
説得力があると言いますか。

もっとも、実子の劉禅には、

良馬を求めたり無駄に着飾ったりと、
「自分のように不道徳はするな」と説いている点が笑えますが。

それはともかく、

不道徳が人間の生存本能と不可分の関係を持つ以上、
その使い方も政治力の一部ではないかと思う次第です。

無論、物欲を努力で制御出来るに越したことはないのですが、

当の曹操本人の場合、

政策面でははともかく、
自己管理の手法としての「猛政」の効果は
どうも疑わしく思えて仕方ありません。

 

 

4-7、主演:曹操孟徳

 

今回の最後の御話となります。

さて、こういう人格的にはアレでも、筆者と異なり、
やることは非常に内容の濃い人につき、
伝記も必然的に面白くなって来るものでして。

特に「武帝紀」の前半部分は、
もう少し娯楽作品で掘り下げても良かろうと思います。

特にこの時期の曹操は、彼自身が寡兵で最前線で戦い、
董卓や山賊との戦いで鮑信や衛茲といった優秀な盟友が
バタバタ討死し、
その過程で、当然、自分も何度も死に掛け、

そのうえ、董卓討伐に真っ先の名乗りを上げた優秀な親友の張邈
当人の弟や陳宮にそそのかされて
彼を裏切るというアクシデントに見舞われもしました。

友に裏切られるだけならまだしも、
この策謀によって根拠地・兗州の大半の城が離反するという
絶体絶命の危機もあり、

(この折、後日兗州から放逐された呂布や陳宮がやったように、
陶謙から分捕った徐州にそのまま居座ろうとしまして、
反対に、これを必死に諫めたのが荀彧。
曹操も人の子で、
時には、こういう大局を誤るヘマもやるのです。)

その意味では、
袁紹との戦いよりも物心両面ではるかに過酷な状況にあったことで、
個人的には、曹操の生涯で一番ドラマになりそうな時期に思えます。

―そう、この時期の曹操は、

決して、200年以降のような
物量と家臣の質で主役の劉備を圧倒するという
完全無欠の天敵めいた存在ではなく、

自分の命を賭して試行錯誤に明け暮れるという意味では
良い面も未熟な面も赤裸々に見せつつ
日々苦悶する青春群像劇の主人公そのものではなかろうかと。

 

ただ、戦争がテーマのブログとしては、非常に遺憾ながら、

曹操が自分の戦力を隠す工夫を施したのか、
それとも史家の興味対象が払われなかったのか、
当人の軍の動員兵力や部隊編成に関する話がほとんどなかったことで、

190年代の状況については、
曹操を軍を軸に兵力の話をすることが出来なかった訳です。

 

【主要参考文献】

陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』1~6巻
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
金文京『中国の歴史 04』
湯浅 邦弘 編著『概説 中国思想史』
堀敏一『曹操』
岡本隆司『中国の論理』
川勝義雄『魏晋南北朝』

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呂布の戦い~190年代の寡兵での戦争の一事例

はじめに
~寡兵での戦いの前提条件

 

今回は、三国志の幕開けとも言うべき、西暦190年代の部隊編成について、
呂布の事例を中心に、アレコレ考えてみようという御話です。

黄巾の乱によって後漢末期の騒乱が本格化する訳ですが、

華北東部を制圧した袁紹が曹操と事を構える西暦200年以前の段階では、

それぞれの軍閥(刺史や州牧レベル)が遠征にあたって動員する兵力は、
多くとも数万程度という規模でした。

これは、各軍閥間の淘汰が進んでおらず、
支配領域がそれ程大きいものではなかったことと、

戦時に即した兵力の動員体制や食糧の増産体制が
未整備であったことに起因します。

 

 

1、失業者とエリート地方官の挙兵

 

例えば、董卓討伐の際、挙兵した「群雄」の顔ぶを見ると、
州牧以外には、河内の王匡、陳留の張邈、という具合に、
郡の太守レベルの者も少なからずいました。

—この中には、直前までは郷里でやさぐれていた
元・エリート地方官の曹操の姿も。

この時代に名刺というものがあれば、
彼の肩書は書かれていなかった筈です。

この190年代の戦いは、後の時代に比べて、
割合部隊の規模が小さいためか、

指揮官が矢面に立って命の遣り取りをすることで
三国志正史の記録が生々しいのが特徴だと思います。

具体的な群雄の名前を挙げるとすれば、
曹操と呂布。

 

 

2、抗争と裏切りの人生の幕開け

 

まず、正史の記録が生々しく臨場感があるのが曹操ですが、

動員兵力や部隊編成に関する記述が乏しいことで
今回の主題にはしませんでした。
面白そうな部分は後の機会に。

逆に、190年代の部隊編成について、
或る程度示唆を与えてくれるのが呂布。

コイツの戦闘力について言えば、直属の精強な騎兵の存在が見え隠れします。

この呂布は、御周知の通り、
190年代の典型的なトラブルメーカーの戦争屋。

出身は五原郡という太原(晋陽)の遥か南西の地域。
私の地図の見方が間違っていなければ、長城の向こう側のエリアです。

そういう事情があってか、弓馬の術に優れ、
幷州刺史・丁原の側近(職階は主簿)として重用されます。

因みに、丁原も北方の異民族関係の戦役で鳴らした似たような人。

その後、丁原を裏切って董卓にその首を持って参陣し、
騎都尉に昇進します。
因みに、1000名余の手勢があった張遼も、これに従います。

 

 

3-1、呂布は洛陽近郊で誰と戦ったのか?

 

正史における呂布のデビュー戦は、
反董卓の部隊の迎撃です。

以降の彼の部隊編成についての記述をまとめたものが、
以下の表となります。

【表】正史における呂布の部隊編成

注 『正史 三国志』各巻(ちくま学芸文庫)・『後漢書』より作成。

 

まず、陽人の戦い。
『三国志演義』では、汜水関・虎牢関の戦いとして描かれています。

小説の有名な御話としては、

董卓討伐軍の末席を汚す劉備の三兄弟
董卓軍の戦力の中核として諸侯の軍をあしらった華雄を斬り、
そのうえ呂布と互角に戦ったことで
諸侯にその実力を見せ付ける、

という内容ですが、

歴史の話としては、
孫堅が洛陽の南の梁県・陽人で董卓配下の胡軫の軍を破るという御話。

後述しますが、
話の前提からして、両者がまるで異なるので厄介なものです。

さらには、こういう歴史書と小説の内容の飛躍の過程
研究者の興味対象にすらなっているのですが、

ここでは、ブログのテーマが「古代中国の戦争」ということで、
当然ながら歴史書—つまり正史の話に即して話を進めます。

もっとも、赤壁の大本営発表のように、
疑うべき点は疑う必要があるのですが。

 

 

3-2、董卓の方面軍とその指揮官

 

で、当然の如くというか、残念ながら、

これが、読み物としては、
泥臭く面白くないうえに不明な部分も多い訳でして。

まず、反董卓の諸侯は、仰々しく挙兵したとはいうものの、
策源地が点在しており有効な連携が出来たとは言えませんでした。

対する董卓は、
どうも自軍の兵を少なくとも3つに分けて対応したようです。

もしくは、自分の息のかかった地方官の現地部隊を
そのまま諸侯に向けたのかもしれませんが。

それはともかく、3つの部隊とは、以下。

1、滎陽の徐栄の部隊
2、陜(現・河南省陜県か)の牛輔の部隊
3、梁県の胡軫の部隊

まず、曹操や張邈の部隊は、
1、の徐栄の部隊と真面目に戦って散々な目に遭いました。

孟津近郊の渡河戦で王匡を破ったのも、
戦場が近いことで、あるいはこの部隊かもしれません。

その後、曹操はリターン・マッチを期して揚州で兵を募るのですが、
ここでも雇った兵の大半が離反するという憂き目を見ます。

―ナポレオンのように、
出足から巧くいった英雄ではないのですなあ、この人は。

曽国藩のように、
戦場で戦争を学んだ知識人、という印象を多分に受けます。

 

次いで、2、牛輔の部隊。
牛輔は董卓の娘婿で中郎将。

この部隊の戦功は、
残念ながら筆者の浅学で分かりかねます。

ただ、その配下
校尉の李カク・郭汜・張済といった顔ぶれがいまして、
当時、これらの部隊が潁川・陳留の辺りに展開していました。

その「戦闘力」を発揮するのは主君の横死後のことですが、
それは後述します。

 

残るは、3、胡軫の部隊。
呂布は当時、この部隊に所属していました。

この部隊は、諸侯でも恐らく最強の孫堅の部隊と交戦した部隊。

孫堅の部隊は、袁術の配下として動いており、
荊州から北上して洛陽の南の梁県・陽人で胡軫の軍と対峙しました。

董卓はかつて孫堅と北方の異民族討伐に従事し、その手の内を知り、
大いに警戒していました。

そして、孫堅対策に数万の兵を用意したと史書にありますが、
この戦いでの兵力は歩兵・騎兵5000。

それでも、やはり呂布がいるだけあってか、
董卓の軍の中核であった由。

また、指揮官の胡軫は当時の陳郡太守でして、

河内の王匡、陳留の張邈といい、敵味方双方共、
太守クラスの地方官が現場レベルの指揮官だったようです。

さらにこの部隊には、
騎馬都督の呂布と都尉の華雄が配属されていました。

 

 

3-3 孫堅とのグダグダな死闘

 

ところが、いざ両軍激突の段、天下の大一番になる―と、思いきや、
一転して、双方ともキナ臭い動きを見せ始めます。

まず董卓側は、
敵を侮って部下から嘲笑を買った胡軫と呂布が不仲で、

胡軫が無理な進撃を命じ、
対する呂布は、
味方に大敵出現の誤報を流して軍を混乱させるという具合。

対する孫堅側も、
後方の袁術が戦後の孫堅の増長を警戒して
味方を兵糧攻めするというクズ上官ぶりを発揮します。

それでも、最終的には孫堅の勝利に帰し、
この過程で華雄は戦死。賊将として晒し首にされます。

その後、余波を駆って洛陽に殴り込むのですが、

当然のごとく遷都後で蛻の殻の廃墟であり、
孫堅自身、その惨状に落涙したそうな。

 

さて、双方の兵力の比較ですが、

董卓側は5000の兵のなかで
太守クラスの武将に都尉、都督と、揃っていることで、

その都督様の呂布が指揮した兵は、それ程多くはないと推測します。
多くとも、1000から2000程度ではなかろうかと。

対する孫堅も全軍で数万の軍勢を擁していたようですが、
この戦いにおける兵力は不明です。

ただ、孫堅が合戦の最中に死に掛けて影武者を使う位につき、
こちらの兵力も、それ程多くはないように見受けます。

 

 

4-1、狂気の世界の地獄絵図、長安防衛戦

 

呂布の戦いの第二幕は、長安の防衛線です。

事の経緯は、以下。

まず董卓の暗殺後、
その混乱の最中に逃亡を図った牛輔が部下に殺されます。

そこで、前線に取り残された2、牛輔の部下の李カク等は進退窮まり、
挙句の果てに、賈詡の策で都落ちした残党を吸収しながら
長安を目指して進撃します。

真偽はともかく、長安に乗り込む段階で10万いたそうな。

さらに、それを迎撃するのが、
孫堅に負けて長安まで兵を退いた3、胡軫の部隊と、
主君の暗殺後にやはり長安まで兵を退いた1、徐栄の部隊という、
このうえなくイカレた展開になります。

この時点で、反董卓の軍は既に空中分解し、
洛陽を制した孫堅がそれ以上西進する動きも見られなかったのですが、

事もあろうに、長安は、

当初想定された反董卓派の侵略ではなく、

その一族誅殺後の跡目争いという
まるで訳の分からない兵火を招くことになった訳です。

泣く泣く遷都した宮廷や洛陽からの移民を含めた現地の住民にとっては、
この連中は最早、厄災以外の何者でもありません。

 

それでも、董卓を謀殺した長安の守将・王允以下、
呂布・徐栄の勇将2名は元より
宮中の近衛部隊に至っては校尉が戦死するまで頑張ったのですが、

胡軫の造反もあって徐栄は戦死し、
呂布は数百騎を率いて長安を脱出します。

守備隊が崩壊した後の長安の惨状は、
推して知るべしです。

 

 

4-2、デタラメ軍人とスーダラ地方官

 

まあ、陽水の戦いで後ろから弾をはじく呂布も大概ですが、
胡軫も胡軫だと思います。

先の陽水の戦いもそうですが、
無能で腰抜けな地方官の所謂「あるある」
見え隠れすると言いますか。

この御仁がその後どうなったかは分かりませんが、

いやしくも董卓軍の主力部隊を率いた指揮官が
歴史の表舞台からいつの間にか退場したことだけは事実でしょう。

小説の方で汜水関で孫堅配下の程普に斬られたことにされる訳です。
確かにこちらの方が、話としては華があります。

それにしても、娘婿の牛輔といい、この胡軫といい、

董卓という人は、史書の通りであれば、
このような杜撰な人選で
よく凶暴な異民族相手に善戦したものだと思います。

 

 

5-1、冀州をめぐる仁義なき戦い

 

さて、独立後の呂布は、
諸侯に警戒されながらも傭兵として重宝される訳ですが、

面白い記録が残っているのが
袁紹傘下で張燕と戦った時のこと。

反董卓の錦の御旗も賞味期限は精々1年でして、

袁紹と公孫瓚は、

真面目に戦って死に掛けた曹操や
その親友で大勢の兵と有能な部下を失った張邈、
血みどろになって洛陽にたどりついた孫堅等を他所に、

他人の土地である冀州を取り合って抗争を始めます。

その冀州の牧の韓馥すら、
董卓が任命したとはいえ当人に反旗を翻した同志。

とはいえ、その裏では、
袁紹も公孫瓚も皇族の地方官である劉虞を
皇帝として擁立することも画策しており、

ここまで来れば、
タテマエもヘッタクレもない剥き出しの利権争いです。

群雄割拠に相応しいと言えばそれまでですが、

面白いことに、
有能で骨のある知識人がこういうのを見て唾棄するのも
あの国のひとつの側面です。

 

 

5-2 騎馬突撃こそ野戦の華

 

さて、この抗争で張燕は公孫瓚に組するのですが、
その兵力は精鋭1万余、騎兵数千騎。

ところが、これを長安からの落ち武者の呂布が撃破します。

再度、【表】を御覧下さい。

前表・再掲

戦いの仔細は残念ながら分かりませんが、
細部は珍しく細かい描写です。

側近の成廉・魏越等数十騎で敵陣に突っ込み、
首(所謂、兜首でしょう)を日に3、4取る戦いを10数日続ける、という、
並外れたバイタリティを感じさせる戦闘であった模様。

有名な「赤菟」の登場は、実はこの戦場です。

大雑把な計算ですが、例えば、
卒だの伯だのの100名程度の指揮官の首級であれば、

連日の戦闘の結果、
単純計算で5000名程度の戦力が総崩れに陥った計算になります。

張燕としては、
長安から脱出した騎兵数百に毛が生えた程度の部隊に
こんな目に遭わされれば割に合わないでしょうし、

見方を変えれば、
ひとりの軍閥が万単位の軍隊を有機的に運用する術がなく、
局地戦での勝利の意義がそれだけ大きかったのかもしれません。

こういうナントカ無双な状態は、何も張燕に限った話ではなく、

ほとんど同じ時期に行われた界境の戦いにおける
袁紹と公孫瓚についても、
どうもそのような傾向が見え隠れします。

 

 

6、荒くれ者の末路と兗州への片道切符

 

さて、殊勲賞の呂布様御一行ですが、

勝った後の彼の士卒が兵員の増員を要求し略奪を始めたことで、
これを煙たがった袁紹に刺客を放たれて逃亡する始末。

派手に戦ったのですから戦力補填の要求は当然なのでしょうが、
その要求の方法が穏当さを欠いたのでしょう。

オモシロイことに、界境の戦いのMVPの麹義も、
似たようなことで墓穴を掘っています。

この辺りは、後日、稿を改めたいと思います。

 

次に呂布の兵力について書かれた箇所は、
曹操の留守中に陳宮が離反して起こった濮陽の戦いの翌年の
鉅野の戦い。

曹操配下の陳宮と張邈の弟・張超が、
曹操が徐州遠征中に失業中の呂布を呼び込んで兗州の牧に担ぎ上げ、
曹操の盟友の陳留太守の張邈もこれに従った、という経緯。

要は、陳宮の離反で曹操と呂布の抗争が始まりました。
そして緒戦の濮陽の戦いは、曹操の勝利。

因みに、この濮陽の戦い両軍が100日以上も対峙したにもかかわらず、
兵力については詳細不明です。

その後、呂布・陳宮は、兗州での生き残りを賭けて、
恐らく総力であろう1万余の兵を動員してリターン・マッチを仕掛けます。

が、またしても曹操の計略で敗れ、劉備支配下の徐州に落ち延びます。

彼等を支援した県令や領民の信用を失い、
一転して厄介者に成り下がったからだと邪推します。

 

 

7-1、新天地は、陰謀と騒乱の結節点~徐州

 

ところが御周知の通り、またしても、
亡命先の徐州でも劉備の本拠地である下邳を乗っ取り、

それどころか、

賄賂を贈って造反を促した黒幕の袁術が
劉備の帰還先の小沛を攻めるや、
手勢を率いて大将の紀霊を威嚇します。

この時の手勢が歩兵1000、騎兵200という陣容。

廂を借りて母屋を乗っ取り、
そのうえ保護者面するという面の皮の厚さですが、

事の真相は、恐らくもっとブッ飛んでいまして、
造反の本丸として、
陳宮はこのドサクサで呂布を消そうとしていた
ようです。

具体的には、
恐らく呂布直属の配下であろう郝萌を抱き込んで呂布を闇討ちする手筈。

ところが、気配を察した呂布が着のみ着のまま妻と屋根を伝って脱出し、
これを救出したのが高順。

高順は呂布の証言から主犯を特定し、
即刻武装兵を呂布の宿所に差し向けて郝萌を討ち取ります。

その後、郝萌の離反者・曹性(演義で夏侯惇の目を射たヒト)が
陳宮の名をゲロするという御粗末な御話。

こういう類の話は、
如何に史書に書いてあるとはいえ
全部が全部信用出来るものでもありませんが、

曹操と陳宮の謀略合戦がこのレベルで行われていることで、
この種の未遂事件が頻発していたのでしょう。

 

 

7-2、良将でも兵の数は1000未満

 

さて、この高順。実は、陳宮と並び、今回の準主役ともいうべき存在です。
また、呂布の配下の中では、恐らく張遼と一、二を争うマトモな将です。

この人は700名の兵を統率し、1000と自称。
武器の手入れを常に怠らなかったそうな。

必ず敵陣を落とすので、付いた仇名が「陥陣営」。
こういうユニークな仇名が正史に書かれる人はかなり稀です。

後述する小沛攻めも、この人の手柄です。

人柄もこの時代にしてはかなり真面目で、
酒を飲まず、賄賂を受け取らなかった堅物。

ところが、陳宮の造反未遂で決まりの悪い呂布は、
高順が剛直なこともあり、こういう人材を干します。
兵権を取り上げ、同郷の魏続の指揮下に置く訳です。

それでも当人は腐らなかったそうな。

こういうメンタリティからして、

恐らく資産家の出で孝廉上がりか、
寒門でも志の高い役人上がりだったのかもしれません。

 

 

7-3、土俵際でひと暴れ

 

さてその後、皇帝を僭称して窮地に立った袁術
呂布を抱き込もうとして使者を斬られたことで、

今度は数万の兵で呂布を攻めるのですが、
この時の呂布の兵力は3000名と馬400頭。

下邳を取ったとはいえ、
さすがに兗州に落下傘した時程には
地盤は固まっていなかったのでしょう。

ところが袁術の軍も、その内情たるや、
かなり無理をしてあつらえた模様でして、

呂布側は徐州の名士・陳珪の策で
韓暹・楊奉に「大義」を説いて篭絡し、
これを散々に打ち破ります。

恐らく袁術凋落の決定打になった戦いです。

 

 

7-4、成算なき籠城戦への道

 

ですが、呂布の命運もここまででした。

呂布・陳宮は、袁術を破った返す刀で、
1万の兵を集めた劉備を小沛から叩き出したのですが、

徐州の側でも目の上のコブである袁術を追い払ったことで
呂布の暴力装置としての利用価値はなくなりまして、

先に袁術との同盟を蹴らせた陳珪が、
今度は曹操・劉備と連携して呂布を閉め出しに掛かります。

この辺りは、恐らくは、演義にあるような、
朝廷の御墨付で徐州に居座りたい呂布・陳宮と
何としても州の恥を摘み出したい陳珪の知恵比べでして、

その終局が、198年12月の有名な下邳の戦いです。

演義でも正史でも、
曹操配下の郭嘉が献策した水攻めの奇計と
落城後の敗将の処刑が見せ場と言えるでしょう。

 

 

7-5、出撃前の後顧の憂い

 

さてこの戦い、

まずは野戦で始まり、
呂布が曹操軍の糧道を断つべく自ら出撃するのですが、
この時の兵力が騎兵1000。

袁術との戦いの時は軍馬が400頭だったことで、
この時と小沛攻撃で
かなりの数を強奪したのかもしれません。

ですが、結果として作戦は失敗に帰し、
絶望的な抗戦へと突入します。

 

因みに、この呂布の出撃に関する逸話が笑えます。

陳宮・高順が不仲であったことで、

呂布の妻が
ふたりを留守部隊として置くのを嫌がったそうな。

野心家で周囲の迷惑を考えない陳宮
剛直で真面目な高順とでは、
確かにソリが合わなさそうな気もします。

大体、先刻、陳宮の造反に掣肘を加えたのもこの人。

 

 

7-6、謀臣も勇将もイロイロ

 

ところでこの陳宮というヒト
演義と正史では随分印象の異なる御仁に見受けます。

腹蔵なく言えば、
確かに、呂布の強欲さと素行の悪さは否定出来ませんが、

呂布のやらかした裏切りの半分は
この人のなせる業ではなかろうかとすら思います。

また、下邳の絞首台で泣きたかったのは、は、
散々好き勝手やって自分の策で破滅して
挙句、政敵に残った家族を頼むと居直る陳宮ではなく、

こういうムチャクチャな謀臣と
政局観に乏しく人選も駄目な上官の下で
かなりマトモな仕事をしたにもかかわらず、

都督の身分で兵権を取られても
(兵権を引き継いだ魏続が最後は呂布から離反)、
腐らず励んだ高順ではなかったのでしょうか。

因みに、陳宮が候成や魏続等の離反者に捕縛された後、
呂布は側近と白門楼に登ってしばらく抗戦したものの降伏し、
その後、3名とも縛り首になっています。

魏続等と行動を共にしなかったことで、
高順は側近として最後まで呂布の側に居たのかもしれません。

 

 

まとめ
~千の精兵が千の兵を破り、万の兵を走らせる戦場

 

結論として、話の要点を整理します。

190年代の中原の戦場で武名を轟かせた呂布。

ですが、自らが統率した兵力は、
身分や属した勢力の大小にかかわらず大体は1000名前後。

兵科は騎兵が中心ですが、騎射も派手にやったのでしょう。

逆に言えば、相手が万単位の兵力を動員しても、
この程度の寡兵で結構な確率で勝ちました。

しかも、その内幕は、
大将自らが数十騎で敵陣を突いて
日に将校の首を3つ取るというような具合です。

呂布や孫堅等、軍閥の長ですら
武勇に自身のある者はこういうことをやっていまして、
まして、呂布配下の高順の兵は700。

今回は詳しく触れませんでしたが、
袁紹配下で北方騎兵対策の名手の麹義も、
僅か800の歩兵で倍以上の公孫瓚の騎兵を圧倒しました。

それどころか、公孫瓚も公孫瓚で、
後方にかなりの予備兵力を用意していたにもかかわらず、
麹義の奮戦は戦局の帰趨まで決めてしまいました。

逆に、200年以降でも、曹操の存命中の彼の軍隊は、
本人がいないところでは結構負けています。

 

これらの逸話が意味するところは、

西暦190年代の軍閥が乱立する時代の戦争は、

大局的には例え万単位の兵力を動員出来ても
数の強味をそのまま引き出す要素が乏しく、

兵の数よりも、兵や指揮官の質、戦法といった要素の方が、
戦力的にははるかに重要であったことを
示唆しているように思います。

 

 

【主要参考文献】

陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』1~5巻
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
『知識ゼロからのCGで読む三国志の戦い』
『三国志 運命の十二大決戦』
堀敏一『曹操』
金文京『中国の歴史 04』
川勝義雄『魏晋南北朝』

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