近況報告 『司馬法』に関する話

はじめに

今回は、申し訳ありませんが
近況報告です。

と、言いますのは、

『司馬法』の説く
小規模戦闘について
記事をいくつか書こうと思い、

その準備を進めていますが、

残念ながら
進捗状況が良くないことで、

せめて、
何をやっているのか位は
御知らせして、

序に、『司馬法』に関する
初歩的な話をすることを
思い立った次第です。

1、大体の内容と調べ事の方法

ただ、「武経七書」
ひとつだけあって
言葉少なながらも
含蓄の多い兵書です。

「小規模戦闘」に絞っても、
(定義自体も曖昧ですが)

どうも、
切り口がひとつならず
ありまして、

例えば、
今のところ
想定しているものでは、

前回の『逸周書』の記事とも
重複する、
装備の長短や軽重に加え、

隊形の疎密戦闘姿勢、
隠密行動といった要素が
あります。

これらの要素を、
例によって
『周礼』や『逸周書』、
その他の史料等と比較し、

同書が言わんとするところ
同時代の相場めいたもの
炙り出すことを考えています。

加えて、たまたま、
ネットで劉仲平先生
『司馬法今註今譯』
見付けました。

以下はそのアドレスです。
ttps://www.doc88.com/p-9035449019763.html
(1文字目に「h」を補って下さい。)

もしくは、「百度一下」
書名で検索を掛けて
それらしいのを探す手も
あります。

さて、この御本、
要は、『司馬法』の
大意や語句の解釈を記した
ものです。

日本人離れした感覚での
細かい言い回しの説明や、

原文の背景にある概念等が
分かり易く書いてありました。
(と、言っても、
中国語古語→中国語→二ホン語
という煩雑な回路!)

これで和訳や解釈の精度を
上げたいと思います。

まあ、その、
こういう本があること自体、

ネイティブの人々にとっても、
古典の解読には
難儀しているのかと
思った次第です。

もっとも、
サイト制作者とて、

インバウンドの
ガイジンさんから、
対〇の境〇仁みたく
ぶっつけで和歌を詠んでくれと
頼まれたところで、
色々誤魔化そうとして
110手にて投了が関の山で、

こういうのは
万国共通かしら。

なお、劉仲平先生
南京政府時代からの軍人で、

キャリアの後半は
台湾で戦史研究に従事
されていた模様。

2、『司馬法』の概要
2-1、内容のあらまし

ここでは、
その成立の背景や内容の
概要について
簡単に触れます。

まず、その内容ですが、

さわりの部分を
簡単にまとめるとなると、

サイト制作者のアタマでは、
思想史的な話しか
思い付きません。

そこで、
書き物の紹介となりますが、

PDFで読めるものとしては、
湯浅邦弘先生の論文
詳しいです。

「『司馬法』に於ける
支配原理の峻別」

ttps://ci.nii.ac.jp/
(論文検索サイトのアドレスです。
1文字目に「h」を補って下さい。)

あるいは、
そのダイジェスト版
と思われる記述のある

『よみがえる中国の兵法』
(大修館書店・あじあブックス)

これらによれば、

まず、今で言えば、

世の中の状態
平時・有事に区別します。

平時を「正」とし、
仁義を理念に治めることを説き、

対して、有事の際の非常措置として
「権」の発動、つまり、
戦争で解決せよ、と、します。

下品な言い方をすれば、

儒家のように
仁義礼智で万事の解決を
図るのではなく、

兵家と儒家のイイトコ取りで
軍隊と仁義を
臨機応変に使い分けて、

これぞ仁義なき戦い、ではなく、

ま~るく納めて見せまっせ。

ただし、その際、
双方とも、
別のルールで運用すべし。

―という理解で
合ってますかしらん。

さらに、以下も重要な部分です。

平時と有事の原理
「国容」「軍容」に分け、

互いに干渉しないように
説きます。

近代国家で言うところの
政軍関係の話かと思います。

「国容」は、
平時における国内の原理。

先述の「正」に相当します。

そして、
「国」と「朝」に分けられます。

サイト制作者の愚見で
誤解があれば恐縮ですが、

例えば、官庁や政策、法規等が
イメージし易いかと思います。

そして、対する「軍容」

これは非常時
軍内における原理です。

「正」に対する「権」
相当します。

これは、近代軍で言えば、

統帥権や戒厳令の発動といった、
軍の命令が絶対な状況かと
思いますが、

これもサイト制作者の
イメージにつき。

因みに、「軍容」は、

「刃上」と「在軍」に
分けられます。

軍中での戦闘行為と
それ以外の部分、
ということだと思います。

そして、「正」と「権」、
「国容」と「軍容」は、各々、
対等の関係にある、と説きます。

序に、泣く子も黙る
秦の商鞅の
耕戦一体のアレは、

湯浅先生によれば、

『司馬法』どころか
平時の国政も
有事のルールで運用するという、

〇4時間戦えますかの
鬼のルールだそうで。
(勿論、こういう言葉は
使っていませんが)

―ざっくり言えば、

『司馬法』のアウトラインは
大体こういう話で、

管見の限り、

いくつかの文献の解説も
大差ないと思うのですが、

何分、素人のあやふやな
読み方につき、

やはり、正確な理解を
御望みであれば

先述の論文か書籍の御一読を
御勧めします。

2-2、穰苴と『司馬法』の関係

続いて、成立の背景について。

同書と不可分の関係にある
田穰苴(じょうしょ)
については、

『史記』
この人の伝があります。

まず、田穰苴は、

後に斉の王族になる
田氏とはいえ、
身分の低い人でした。

で、この人が、
時の斉の実力者である
晏嬰の抜擢で将軍となり、

厳しい統帥で
将兵の信頼を勝ち得て
目の上のコブであった
斉や燕を追い払い、

めでたく
大司馬となり、
これにて一件落着、

ですが、その後、
当の本人はと言えば、
政争に巻き込まれて
ゴニョゴニョ、

―という、

華やかな武功の裏には
陰の部分もある
軍功立志伝の
あるあるな御話。

で、司馬遷によれば、

その後、戦国時代威王が、

その家臣に
この人の兵法を研究させ、

従来の司馬の兵法に
それを追加・編集して
刷り上がったのが、

彼の『司馬法』

という次第。

次に、田穰苴の
生きた時代について触れます。

まず、晏嬰が景公に穰苴を
推薦したことで、

景公の在位は
前547~490年
(何とも長いこと!)

さらに、晏嬰の没年は
前500年。

景公の前の二代の王にも
敏腕を以て仕えていることで、

この人の
重鎮としての政治生命も
実に長いこと。

これらの話からして、

前6世紀後半
御話であることは
確実です。

ですが、
サイト制作者の寡聞にして、

穰苴が活躍した
年代については、

これ以上に
時期を絞り込んだものは
観たことがありません。

あくまで、サイト制作者の
愚見ですが、

例えば、編年体で書かれた
『春秋左氏伝』の
当該の時期には、

田穰苴の名が見えず、
燕の自体話も少ないことで、

学術レベルでは
確実なことが
言えないのかもしれません。

そこで、

こういう怪しいサイトの
特権と言いますか、
暴挙と言いますか、

サイト制作者の妄想次いでに
その時期とやらを想像すると、

田穰苴が
将軍として活躍したのは
前540~30年代辺りで、

その前に、
晋や燕との負け戦を経験した
叩き上げの軍人と思います。

その根拠は、以下。

前6世紀後半の中で、

斉が晋と
何度も干戈を交えて
旗色が悪かったのは
前550~540年代の話で、

これ以上に
対晋関係が悪かった
時期はありません。

【追記】

これは誤りでして、

前6世紀の終わり頃には
再度、晋と揉めました。

一方で、この時は、
前回とは国際状況が異なりまして、

晋の同盟内における行動に
(慢心した類の)ヘマが多く、

同盟の最大の仮想敵国であった
楚の影響力も低下していたことで、

斉以外にも衛等の離反も
招きました。

そうした事情もあり、
それに地理的な要因も絡み、

当初は衛、魯、宋といった
晋や斉の周辺国同士の戦争が主。

したがって、
晏嬰の晩年は、

前6世紀の中頃のような、

斉の国軍の主力が
晋のそれと直接やりあって
敗戦を繰り返して
国境線が後退していく
というレベルの危機感は
なかったものと想像します。

【追記・了】

そもそも、景公の即位自体、

対晋強硬派の先代が
重臣の崔杼に殺され、
(謀殺の直接的なトリガーは
女性関係ですが)

これ(国君の死去)で
晋との戦を手打ちにするという
オッソロシイ経緯がありまして。

その後、前530年代には
燕に攻め込んだり
対外工作を行っていることで、

晋との負け戦は
景公の代ではないものの、

それに悩まされるという
『史記』の文脈から考えれば、

大体このあたりの時期では
なかろうかと
踏んでいます。

あくまで想像の域を
出ませんので
悪しからず。

2-3、『司馬法』の成立

穰苴の生きた時代に続いて、
『司馬法』の成立過程について
綴ります。

同論文によれば、
現段階で有効と思われるのものは
二説あります。

ひとつ目は、穰苴の自著で、
『隋書』等がその典拠。

ふたつ目は、先述の司馬遷の説。

旧来の軍事マニュアルに
穰苴の兵法を混ぜたやつです。

もっとも、残念ながら、

『史記』の穰苴の伝や
『隋書』芸文志には、

誰それが書いた、以外の
細かい根拠めいた記載は
ありませんでした。

ただ、穰苴の関与自体は
間違いなく、という次第。

しかしながら、
残念なことに、

漢代には105篇あったものが、
現状は僅か5篇を残すのみ。

もっとも、

この時代の書物は、
前回の『逸周書』もそうですが、
消失が当たり前だそうな。

その他、偽書の説もあり、

実は、これが長らく有効で、
あまり研究が進まなかったのも
これが原因だとか、

香ばしいことが書いてあります。

詳しくは、同論文を御読みあれ。

余談ながら、

『司馬法』以外にも
有名な兵書が偽書という学説は
少なからずありまして、

これらの説のいくつかが
引っ繰り返ったのが、

1972年の
銀雀山漢墓の発見だそうな。

大人子供の
サイト制作者が生まれる
僅か数年前の御話で御座います。

そう言えば、中公文庫の『六韜』の
解説を読んで
驚いたのを覚えています。

2-4、『司馬法』の影響力や時代的価値観

話を『司馬法』に戻します。

湯浅先生によれば、

前漢の故事・説話集である
『説苑』
『司馬法』の引用が
見られることから、

『説苑』編集以前の段階で
その思想的特質が
広く理解されていたそうな。

その他、薛永蔚先生
『春秋時期的歩兵』にも、

偽書関係も含めて
詳しい解説が
掲載されていますが、

読んだ御仁がアレにつき、
ほんの少しだけ。

湯浅先生の御話に
引き続いて、

この『司馬法』は、

その後、
曹操等、
後漢の要人の書き物の
典拠の要所にあり、

少なくとも唐代までは
一定の階級以上の将校の
必読書であった模様。

また、同書の兵法の
時代的な価値観として、

春秋中期以前までの兵法は
当然この通りで、

春秋末期から
戦国初期までの状況とも
大差ない、

と、しています。

つまり、

時の軍事マニュアルとして
時代考証に使う分には
非常に適している、と。

おわりに

例によって
取り留めない話で恐縮ですが、

「2、『司馬法』の概要」
だけでも、

以下に、
要点を纏めておきます。

1、湯浅邦弘先生によれば、
『司馬法』の特徴は、

平時の対応である
「正」・「国容」と、

有事の対応である
「権」・「軍容器」に分けられ、

両者は対等の関係である。

2、田穰苴と『司馬法』は
不可分の関係にあるものの、
関与の程度には
議論の余地がある。

3、『司馬法』の内容は
春秋時代の戦争の状況を
強く反映している。

また、少なくとも前漢の段階で
広く読まれていた。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

湯浅邦弘
「『司馬法』に於ける支配原理の峻別」
守屋洋・守屋淳『全訳「武経七書」2』
劉仲平『司馬法今註今譯』
薛永蔚『春秋時期的歩兵』
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻

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『逸周書』から観る小規模戦闘 その2

はじめに

今回は、前回の続きです。

『逸周書』に記された、
主に、100名の
小規模戦闘について
綴ります。

それでは、本論に入ります。

1、100名の戦闘配置・伯

前回、『逸周書』では、

25名の部隊を
「卒」と称し、
縦5名横5名の25名で
方陣を組む、

と、記しました。

そして、これを受けて、
次の上位の編成単位ですが、

卒を4隊並べることで
「伯」と称します。

これについて、

『逸周書』「武順」
以下のような文言があります。

五五二十五を元卒といい、
一卒に居りといい、
一卒に居りといい、
左右一卒をといい、
四卒で衛をしといい、

衛:防御。ここでは陣形か。

五五二十五曰元卒、
一卒居前曰開、
一卒居後曰敦、
左右一卒曰閭、
四卒成衛曰伯、

25名の方陣を
前後左右に配置し、

前を「開」、後ろを「敦」、
左右を「閭」と、
それぞれ称します。

で、図にあらわすと、
以下のように
なるのです、が。

『逸周書』(維基文庫)、薛永蔚『春秋時期的歩兵』より作成。

ここで問題になるのは、

卒を十字に配置した後、
真ん中に何が入るのか、

言い換えれば、

開・閭・敦の4隊は、

一体、何者から見て
前後左右にあるのか、

ということです。

で、残念ながら
正解者への読者プレゼントは
御用意出来ません、

と、言いますか、
既に、答えのようなものを
描いてしましましたが、

実は、コレ、
勘の悪いサイト制作者は、

一読した折には、

恥ずかしながら、

そのような疑問すら
持ちませんでした。

と、言いますか、

そもそも、

25名の部隊を
どのように配置するのかが
分かったことで、

舞い上がっていたのが
正直なところです。

で、そのような見落としが
発覚したのが、

『春秋時期的歩兵』
該当箇所を読み直した折のこと。

余談ながら、

サイト制作者
だけなのでしょうが、

初読時のイメージと
記事に起こす際に
読み直した時のイメージで
大きな差異が生じて
面喰うことが
少なからずあります。

そのためか、

高い読解力を
持ち合わせる方が
羨ましい限り。

それはともかく、

野村スコープ宜しく、

縦横3×3のグリッドの中に、

卒が十字に、戦車が真ん中に、
各々配置された図
描かれておりまして、

目からウロコが落ちました。

2、『李衛公問対』の説く「伯」隊形

さて、この陣法、

サイト制作者は、寡聞にして、

史書による
実例めいたものは
確認出来ていないのですが、

どうも後代にも
応用が効いた模様。

『李衛公問対』上巻には、
(唐李問対とも言うそうな)

以下のような件があります。

同書については、
守屋洋先生・守屋淳先生による
書き下しを引用します。

当然ながら、

サイト制作者の作業よりは
遥かに正確で綺麗なことで
こちらの方で。

荀呉、車法を用いしのみ。
車を舍(す)つと雖も
法その中に在り。

一は左角となし、一は右角となし、
一は前拒となし、
分けて三隊となす。
これ一乗の法なり。
千万乗も皆然り。

荀呉:前6世紀前半の晋の武将。
狄討伐の際、戦車を放棄して
歩兵隊を編制して戦った。
角:かど、すみ

荀吳用車法爾、
雖舍車而法在其中焉。
一為左角、一為右角、一為前拒、
分為三隊、此一乘法也、千萬乘皆然。

部隊の前後左右
菱型に見立てて、
前と左右で3隊を編成する、

という訳です。

また、同書上巻の
別の件では、

真偽はともかく
黄帝が例の十字の陣法を始めた、
と説いていまして、

例えば、四隅を「閑地となす」、
―開けておく、

加えて、

「その中を虚しくし、
大将これに居る
―エラい人が真ん中に陣取る、

と、しています。

この方法を採れば、

「大将」にとっては、

四方に睨みが効いて
乱戦の際にも
統制し易いのだそうで、

どの部隊編成の規模にも
当てはまりそうな
陣法の原則めいたもの
なのかもしれません。

で、あれば、

後ろの隊の扱い
どうなるのか、

という疑問が
生じそうなものですが、

先述の薛永蔚先生
『春秋時期的歩兵』によれば、

後ろの一隊が、
後続部隊の「前拒」になるそうな。

つまり、25名×3隊の
凸型の縦隊が
延々と続く訳です。

それ以上の内容は、

細かい解釈や
史料ごとの相違点について
典拠が込み入り、

そもそも、サイト制作者が
分かっていない部分が多いことで、

現段階では
これ位に止めておきます。

要は、ここでは、

『逸周書』にある
「伯」のモデルは、

唐代の軍事研究においても
相当に意識されており、

覚えておいて
損はなさそうである、

といったことが
言えそうです。

【雑談】李靖の解釈する「三国志」の兵制?!

ここで少し脱線します。

さて、この『李衛公問対』、

実は、戦史研究をやる過程で
三国志関係についても
言及していまして、

その件の一部を紹介します。

以下は、同書「上巻」からの引用。

臣案ずるに
曹公の新書に云(いわ)く、

攻車七十五人、
前拒一隊、左右角二隊、
守車一隊、炊子十人、守裝五人、
廄養五人、樵汲五人、
共に二十五人。
攻守二乗、およそ百人。
兵を興すこと十万なれば、
車千乗、軽重二千を用う、と。

此大率(おおむね)
荀呉の旧法なり。
(維基文庫版は「孫、呉之」!)

廄養:廄は馬小屋、養は雑役夫。
馬の飼育係か。
樵汲:薪を拾い水を汲む人。

臣案曹公『新書』云

『攻車七十五人、
前拒一隊、左右角二隊、守車一隊、
炊子十人、守裝五人、廄養五人、
樵汲五人、共二十五人。
攻守二乘、凡百人。
興兵十萬、用車千乘、輕重二千。』

此大率孫、吳之舊法也。

部隊編成の大意を取ると。
以下のようになります。

前衛25名、両側25名の
3隊で計75名。

守備隊の車両部隊
(荷車か)は、
炊事係10名、
守備兵5名、
馬の世話係が5名、
燃料・水の担当が5名の
計25名。

攻車75名、守車25名で、
2車(乗)・計100名。

ここで、少々脱線しますと、

史料中の曹公は、
泣く子も黙る曹操のこと。

因みに、同書に曰く、

漢魏之間軍制」を
調べると、

以上の枠組みを流用して、

五車を隊となし、僕射一人、
十車を師となし、率長一人、
おおよそ車千乗、將吏二人。

―と、来るようで、

一応、計算しますと、

75(1車)×5=
375名で1隊、

75(1車)×10=
750名で1師。

補助の部隊が付けば、
各々500名、1000名、
という規模になりますか。

で、これ、李靖に言わせれば、
後漢・三国時代の
兵制という次第。

さらに、唐代の戦争も、
戦車はともかく
概ねこの延長なのだそうな。

同時代の史料や
『通典』の歩戦令等と
内容を照合されると
面白いかもしれません。

興味のある方は、
御一読を。

3、編成単位と指揮官に必要な資質
3-1、改めて、
卒の隊長と兵士の関係

そろそろ、話を
『逸周書』やその時代に
戻します。

さて、ここでは、

『逸周書』における
軍隊の全体的な編成単位と、

各々の編成単位の指揮官に
必要とされる資質について
綴ります。

その過程で、

前回、誤読した箇所の
添削(公開処刑)も行います。

早速ですが、
少々長くなりますが、
以下が該当箇所となります。

話が込み入る前に、
これを先に出すべきであったと
後悔しています。

『逸周書』「武順」より。

左右の手、各(おのおの)五を握り、
左右の足、各(おのおの)五を履き、
四枝といい、元首を末という。

五五二十五を元卒といい、
一卒は前に居り開といい、
一卒は後に居り敦といい、
左右に一卒を閭といい、
四卒は衛を成し伯といい、
三伯に一長を佐といい、
三佐に一長を右といい、
三右に一長を正といい、
三正に一長を卿といい、
三卿に一長を辟という。

辟は必ず明らかにして、
卿は必ず仁(いつくし)み、
正は必ず智(さと)く、
右は必ず肅(おごそ)かにして、
佐は必ず和(やわ)らぎ、
伯は必ず勤め、
卒は必ず力(つと)む。

辟は明からならざれば
以て官を
慮(おもんぱか)ることなく、
卿は仁まざれば
以て眾(衆)を集めることなく、
伯は勤めざれば
以て令を行われることなく、
卒は力めざれば
以て訓(おし)えを
承けることなし。
均しく卒は力み、
貌は比(たす)けることなし。
比は則(すなわ)ち
順(したが)わず。
均しく伯は勤め、
勞(労)して
攜(携:はな)ることなし。
攜は則ち和らがず。
均しく佐は和らぎ、
敬いて留むることなし。
留は則ち成ることなし。
均しく右は肅かにして、
恭しくして羞じることなし。
羞は則ち
興(よろこ)ばざることなり。
辟は必ず文にして、
聖たれば
度(のっと)るが如し。

四枝:両手・両足
元:最初の
衛:防御、ここでは陣形か
辟:君主、領地を有する者
明:物事に通じている、
はっきりとしている
仁:他人を思いやる
肅:厳格である、
和:仲の良い、睦まじい
勤:力を尽くす、助ける
力:尽力する、全力で、勢い、
慮:深く考える、心配する
眾:軍勢
訓:規則・規範、戒め
貌:挙動・ふるまい
比:助ける、互助する
順:服従する
留:拘泥する
成:成功する
恭:従順である
羞:恥じる
興:好きになる、楽しむ
文:温和で上品である
聖:聡明である、尊崇すべき
度:手本とする

左右手各握五、
左右足各履五、曰四枝、
元首曰末。
五五二十五曰元卒、
一卒居前曰開、一卒居後曰敦、
左右一卒曰閭、四卒成衛曰伯。
三伯一長曰佐、三佐一長曰右、
三右一長曰正、三正一長曰卿、
三卿一長曰辟。
辟必明、卿必仁、正必智、
右必肅、佐必和、伯必勤、
卒必力。
辟不明無以慮官、卿不仁無以集眾、
伯不勤無以行令、卒不力無以承訓。
均卒力、貌而無比、比則不順。
均伯勤、勞而無攜、攜則不和。
均佐和、敬而無留、留則無成。
均右肅、恭而無羞、羞則不興。
辟必文、聖如度。

例によって、
書き下し文は怪しいですが、

大意は御分かり頂けるものと
信じたいところです。

内容の要点にすると、
以下のようになります。

『逸周書』(維基文庫)、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版より作成。

さて、ここらで、
前回の誤読の添削
行いますと、
以下にようになります。

伯や卒といった編制単位
辟や卿といった
身分めいたものが
混在して記されていることが
分かるかと思います。

恥ずかしながら、

サイト制作者は
ここで躓きました。

この辺りは、史料によっては
親切なものもありまして、

編成単位と隊長の名称が
異なったり、

あるいは、伍長、什長、
という具合に、
尻に「長」が付いたりします。

ですが、文脈からして、
「辟は必ず明らかにして、」と、
(「明」は「明にして」等でも
良いのかもしれませんが)

各単位の長の資質に
言及している訳でして、

「卒は必ず力む」、あるいは、

「卒は力めざれば
以て訓(おし)えを
承けることなし。」

このふたつの件は、

部隊長が真面目に
仕事をしなければ
部下の兵隊がサボる、

―という話なのでしょう。

3-2、上位の編成単位

さて、各編制単位についてですが、

上位の単位、特に、
辟や卿といったレベルになると、

兵数が実務に対して
どれ程の意味を持つのかは
分かりません。

また、「辟は必ず文にして、
聖たれば度るが如し。」と、

巨〇軍は紳士たれ、宜しき
君主の理想像からは、

戦争との関係が
どうも見えて来ません。

また、卿に必要な資質である
「仁」は、

後代に流行る儒教の
最大の徳目ではあるものの、

高木智見先生によれば、

教祖様の孔子の生きた
春秋時代の「仁」とは、

当時の戦時道徳
相当するものだそうな。

春秋時代の戦争も、

上級指揮官が
陣頭指揮や
戦車同士のサシの勝負で
血みどろになるのがザラの、

武侠小説さながらの世間です。

とはいえ、その一番の効能たるや、

「卿は仁まざれば
以て眾(衆)を集めることなく、」

と、戦争を始める前の
人集めの能力という訳で、

これは戦争というよりは、
政治の領域かと思います。

そこへいくと、
組織の下から見たほうが
どうも戦争の実務に近そうなもので、

少なくとも、100名までは、

今まで記した通り
具体的な話があります。

3-3、下位の編成単位

そうした中で、
卒と伯の資質の違い
についてですが、

伯は「勞して攜ることなし」
一生懸命やっていれば
部下が離反することはない、と、

卒同様、目先の仕事で
汗を掻くことには
変わりないのですが、

一方で、

「力」
目先のことを必死に行い
兵士の歓心を買うのに対し、

「勤」は、

同じ尽力するにしても、

他人を助ける、あるいは、
ねぎらう、といった意味も
あります。

この辺りは、

部隊の規模や
配置等によって生じる
差異なのかも
しれません。

さらに、伯の上の「佐」、
300名の部隊ですが、

必要な資質は「和」でして、

さらに曰く、

「敬ひて留むることなく、
留むは則ち成ることなし。」

部下は上官を尊敬して
成長する、と、

協調性、あるいは、
人当たりの良さに加えて、
部下の育成が要求される、

という訳です。

また、このレベルの
人数になると、

『逸周書』「大武」に
「佐車旗を挙げ」とありまして、

額面通りの意味であれば、
軍旗を扱う裁量が生じる模様。

【追記】
主語が抜けている言葉が続く
部分につき、
文法通り
「車を佐(たす)け」とすべきか。

兵士の数とは関係なさそうな。

訂正します。

なお、「佐車」は
副将の搭乗する戦車。
御参考まで。

また、300という数ですが、
『春秋左氏伝』に
ちょくちょく例がありまして、

例えば、
春秋時代の終わり頃の
哀公十一年(前484)に
魯と斉が干戈を交えまして、

その折、
魯の左軍の指揮官の
孔子の弟子の冉有(求)が
率いた兵士の数が、
当該の300名。

溝の前で
進軍が止まり、

冉有が兵士に
信用されていないことで
御者(タダのドライバー
ではなく側近)から、
命令を三度出して徹底させろ、
と、突き上げを喰い、

(上記は小倉芳彦先生の和訳。
原文では、「三刻而踰之」
となってますね。
座右の字引きには
刻=回という解釈は
ないのですが、
そういう意味もあるのかしら。

一応、書き下し及び直訳は、
三刻でこれを踰(こ)えよ、
―つまり、300名が
45分で渡河せよ、と。

1刻=14分24秒、
100刻=24時間=1日。

御世話になっている和訳に
ダウトを掛けたりするのが
楽しいのではなく、
原文の表現に興味があるので
結果として、こうなった次第。
念の為。)

やれ、矛を使ったから
敵陣に突入出来ただの、
上に追撃を具申するだのの
記述の生々しさ。

各国の兵士の動員力が
高まっている世相とは
対照的に、

このクラスの指揮官の仕事は、
依然として、
現場で命の遣り取りに
他ならないようで。

【追記・了】

また、サイト制作者が、

この辺りの編成単位までは
指揮官が末端の兵卒にも
睨みが効きそうだと思うのは、

佐の上の編成単位の「右」。

右に必要とされる資質は「肅」。
厳格であることです。

さらに曰く、

恭しくして羞じることなし。
羞は則ち興ばざることなり。

指揮官が厳格であれば、
部下は従順でも卑屈にはならず
意欲的に動く、

と、いったところかと
思います。

加えて、御参考までに、

兵士の人数に対するイメージ
少しばかりしの足しとして、

500名までの範囲で
『周礼』の内容と
照合しますと、

以下のようになります。

『周礼』(維基文庫)、『逸周書』(維基文庫)、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版より作成。

鼙(へい):軍用の小さい太鼓
鐃(どう):小さい鐘
鐸(たく):大きな青銅製の鈴
莖(けい):刀身から突き出た
柄に埋める部分。なかご。
鋝(れつ):重さの単位、諸説あり。

以降、持ち歌、ではなかった、
史料を増やして
確度を高めていきたいと
考えていますが、

身分や指揮兵数に対する
大体の目安として、

剣の茎(なかご)
の倍数相当の長さ、
楽器、指揮官の資質、

といった要素が
あるかと思います。

因みに、太鼓は進撃、
鐘は退却や停止の合図が
相場で、

『周礼』の冬の大閲では
鐃を鳴らして
前進を止めていますが、

鐸は同じ金属製の鳴り物でも、
前進に使われていまして、

詳細については、

恐縮ですが、
調べる時間を頂ければと
思います。

おわりに

誤読の訂正もあり、
想定外に長くなり恐縮です。

最後に、以下に、
今回の記事の要点を纏めます。

1、『逸周書』における
100名の編成単位を
「伯」と称する。

その内訳は、前後左右に
各々卒(25名)を配置する
というものである。

前衛を「開」、両側を「閭」、
後衛を「敦」と称する。

2、1、のモデルは、
少なくとも、
後代の軍事研究の対象となった。

3、各々の編成単位には、
その指揮官に必要な資質がある。

下位の単位程、
兵卒の目線での人心掌握が
必要になる傾向がある。

【主要参考文献】
『逸周書』(維基文庫)
『周礼』(維基文庫)
薛永蔚『春秋時期的歩兵』
守屋洋・守屋淳『全訳 武経七書』2
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版
高木智見『孔子』

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『逸周書』から観る小規模戦闘 その1

はじめに

今回は、『逸周書』
記されている
小規模戦闘について綴ります。

人数については、
1名から25名
想定しており、

その他、白兵戦の原則
兵士に必要な資質等について
言及する予定です。

で、今回は、その1回目。

ただ、史料を読むにあたって、

サイト制作者の浅学にして、

この史料の文言だけでは
意味するところを
理解し辛い部分もありまして、

そうした部分については
他の史料も参考にした次第です。

それでは、
本論に入ることとします。

1、兵士に必要な資質

【注意!】この箇所は、サイト制作者の誤読です。

『逸周書』「武順」には、

軍隊の階級
その地位に必要とされる資質、
隊列の組み方等が
記されていまして、

その意味では、

小規模戦闘についての
核となる部分と言える
かもしれません。

さて、「武順」によれば、

軍隊の編成単位のひとつである
「卒」(25名)
必要とされる資質は、

ズバリ、「力」。

該当する箇所には、
「卒必力」、と、あります。

また、字引によれば、
「力」は、筋肉の働きを
意味します。

その他、勢いや作用、
下僕、といった意味が
あります。

要は、ここでは、

戦争を含めた
末端の肉体労働を
遂行するための能力かと
思います。

さらに、

件の「武順」において、
以下のような文言があります。

卒不力無以承訓。
均卒力、貌而無比、比則不順。

卒、力(つと)めざれば
以て訓を承けること無し。

均しく卒力めば、
貌比(たす)けること無し。
比は則ち順(したが)わざるなり。

貌:挙動・ふるまい
比:助ける
順:服従する

サイト制作者としては、

「力」には、

筋力や武芸の技量の他にも
真面目さが含まれる、

心・身・技の三位一体の意味合いが
感じられます。

一方で、

部隊の中に
不真面目な兵士
少なからずいると、

互いに傷を舐め合い、

程度の低い練度で
慣れ合うことで

上官の命令に耳を
貸さなくなるという、

組織が崩壊する際の法則
見え隠れすると
言いますか。

その他、「大武」にも、
「武を厲すに勇を以てす」
と、ありまして、

『逸周書』の説く
兵士に必要な「力」とは、
心技一体のものなのでしょう。

【追記】
正直なところ、
この部分は削除したいのですが、

素人の読み方の
悪い見本として、

何がしかの御役に立てばと思い、
残しておきます。

結論から言えば、

「力」は、ここでは、
尽力する、一生懸命になる、
といった意味です。

また、これは、恐らく、
兵士個人ではなく
25名の部隊長に必要とされる
資質です。

個人的には、
原文自体も紛らわしいと
思いますが、

それ以前に、

字面よりも文脈を重視して
読むべき文章だったと
後悔しています。

次回にて、
この辺りの話も原文付きで書く予定です。

【追記・了】

2、白兵戦の個人技の原則

『逸周書』の「武稱」に
以下のような件があります。

長勝短、輕勝重、直勝曲、
眾勝寡、強勝弱、飽勝飢、
肅勝怒、先勝後、疾勝遲、武之勝也。

文法が単純なことで、

書き下しは省略しますが、

大意として、
戦争の原則、程度のことは
分かるかと思います。

ここで問題なのは、

例えば、戦略・戦術・白兵戦、
といった、

戦いの規模に応じて
必要とされる箇所は何か、

ということだと思います。

例えば、「飽勝飢、」は
兵站の話ですし、

対して、「肅勝怒、」は、

どの規模の戦いにも
当てはまりそうなものです。

そして、ここでは白兵戦、

それも個人戦のレベルの話が
それに当たります。

因みに、

『逸周書』より
少し下った時代の価値観であろう
『司馬法』にも、

似たようなことについて
言及している件があります。

同じ春秋時代以前の史料として
参考になろうかと思います。

さて、同書の「天子之義篇」に、
以下のような文言があります。

兵雑(まじ)えざれば、
則ち利ならず。
長兵を以て衛(まも)り、
短兵を以て守る。
太(はなは)だ長なれば
則ち犯し難く、
太だ短なれば則ち及ばず。
太だ軽なれば則ち鋭し。
鋭は則ち乱れ易し。
太だ重なれば則ち鈍なり。
太だ鈍なれば則ち済(な)らず。

兵不雑、則不利。
長兵以衛、短兵以守。
太長則難犯、太短則不及。
太軽則鋭。鋭則易乱。
太重則鈍。
太鈍則不済。

犯:攻める
鋭:素早い
乱:秩序がない、秩序を崩す
済:成功する、仕上げる
ここでは敵に攻撃を当てることか。

武器が長過ぎては
こちらから打ち掛かるのは
難しく、

逆に、短ければ届きません。

軽ければ、
素早く斬るなり突くなり
出来るものの、

手数が多くなる分、

空振り等の
無駄な動きも多くなり、

攻防の秩序が乱れます。

また、重ければ動きが鈍くなり、

攻撃が当たらなくなる、
という次第。

因みに、
『周礼』「冬官考工記」にも、

矛について、
以下のような件があります。

凡そ兵は
その身に三を過ぐるなく、
その身に三を過ぎれば、
用に能うなきなり。
のみなくして、
また、以て人を害す。

兵無過三其身、
過三其身、弗能用也。
而無已、又以害人。

兵:武器
三:三倍
而已:「のみ」と訓読。

何だか、
無駄に長い引用ですが、

要は、武器の長さは、

身長の3倍以下にしないと
用をなさないどころか
害になりますよ、

―という御話です。

篠田耕一先生によれば、
しない過ぎるのだそうな。

当時、武器は木製の柄で、

これが鉄だと重過ぎて
振るに振れないという
事情があります。

さて、以上のような話は、

先述の『逸周書』「武稱」
「長勝短、輕勝重、」、
あるいは「疾勝遲」と、

恐らくは、
対応関係にあることと思います。

つまりは、
以下のような御話です。

まず、『司馬法』では、

長兵器にも短兵器にも
一長一短があり、

そのうえ、
機能が極端なものは
使い勝手が悪いことで、

集団を編制して
武器を組み合わせて
運用するのが望ましい、

と、説きまして、
(要は、「伍」か。)

『周礼』も、
武器の長さは
身長の3倍以下にせよ、
と、します。

対して、『逸周書』が、

敢えて、「長勝短、輕勝重、」
特に、「輕勝重」と説くのは、

武器の効能は、
個人技のレベルでは、

(会敵距離が或る程度あれば、)
リーチが長い方が
有利であることに加え、

威力よりも機動性を取る方が
戦場で生き残り易い、

という話かと想像します。

一応図解しますが、
これを描き始めた後で、
必要性を疑問視した次第。

『逸周書』(維基文庫)、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』より作成。

最後の「直勝曲」については、

残念ながら、

他の文献からは、
サイト制作者の浅学にして
思い当たる根拠はありません。

ただ、日本の斬り合いや
剣道の話を
摘まみ喰いする分には、

一点集中で
面的に防ぎにくく
武器も損傷しにくいことで、

攻撃の方法としては
実戦的である、

―という話か、

あるいは、
弓を射る際、

直射か
それに近い角度で射る方が
曲射よりも威力がある、

という話かと
想像します。

【追記】

どうも、これ、
軍隊の士気、あるいは、
その根源となる
大義名分や道理、

といった話の模様。

少なくとも、
野球の話でないこと
だけは確かです。

さて、『春秋左氏伝』によれば、

僖公二十八(632)年の
城濮の戦いの折の
晋の上軍の佐(副官)・
狐偃(えん)の言葉の中に、
その文言がありました。

―そして、座右の字引き
『漢辞海』第4版にも、
「直」の使用例として。

結構有名な言葉なのか、と、
脱力感を感じます。

早速ですが、以下。

師直為壮、曲為老

師直(なお)きを
壮(さか)んとなし、
曲を老たるとなす

(字引きに忠実に
やりましたが、
送り仮名を省いても
通じる気もします。)

師:軍隊
直:公正な様、道理がある
壮:勇ましい様、盛大な様
曲:邪悪、誤り、
道理にもとる
老:疲れ果てた様

軍隊は、
大義名分が
しっかりしてなければ
士気や戦力が保てない、

といった意味かと思います。

で、その経緯は以下。

小倉芳彦先生
『春秋左氏伝 上』
当該箇所の要約です。

楚が晋の勢力圏の宋を
長期間包囲し、

対する晋も、
楚に味方した曹を
攻め下します。

因みに、宋・曹の両国邑は
南北を隔てること80キロと
目と鼻の先。

その後、
晋の深謀遠慮な交渉で
楚が包囲を解いたのですが、

楚の遠征軍のタカ派の某さんが
宋の解放の条件を
上乗せして吹っ掛け、

これを表向きは飲んだ晋が
兵こそ退いたものの
裏工作で反撃したことで、

楚軍が晋軍に向かって
進軍を始めました。

先の狐偃の言葉は、
この時のものです。

さらに、

宋の解放の条件を呑んだ楚王に
道理がある、則ち「直」で、

ここでこちら(晋)が仕掛ければ
自らが「曲」になる。

そこで、
それに報いて3日の行程分を
退却して報いよ、と、言い、

果たして、晋軍は
この通りに動きます。

要は、恩義を清算せよ、
という訳です。

後、戦争の際、
何日か分の行程を退却する、
というのは、

当時の作法として、
よく見られる行為です。

これをやって
意地になった
交渉相手の顔を立てて
条件を呑ませたりします。

それでも、
後世に名前が残るレベルの
エラい戦闘になったのは、

出先の指揮官の暴走の模様。

こういうのも
戦争のリアリズムの
ひとつなのでしょう。

一方で、当時の事情として、

物事が
周の礼の適度な履行で
動く時代というのが
前提なのでしょうが、

諸国の国君やその血族が
内訌で他国に亡命することが
頻発するという
ドロドロの国内事情と、

それと不可分の関係にある
複雑な外交関係の
腐臭を伴う化学変化の結果、

晋楚の基本的な対立軸こそあれ
小国のレベルでは
敵味方が簡単に入れ替わり、

そして、
それに起因する制限戦争も
頻繁に行われたことで、

そうした抗争の経緯
=道理に対して
誠実に向き合うことが、

結果として、
長い目で見て、

内外の人心掌握という
実利を生むという世相を
垣間見ます。

もっとも、その真逆を行く
数多のイカレた逸話も
乱世を扱った書き物の
面白さですが。

晋の文公を何度も自重させた
狐偃なんか、
そういう類の
人物ではなかろうかと。

1乗75名の謎にハマって
泥沼状態になり
更新がさっぱり進まない
某ブログのアホとは
エラい違いなこと!

以上、エラそうなことを
書きましたが、

和訳をもってしても、
以上の経緯を
サイト制作者の
ダメな脳内で整理するのが
結構大変でした。

【追記・了】

3、25名の部隊編成

以上のような
資質と個人技の原則を
有する兵士ですが、

ここでは、
それらの兵士の
小規模の編制単位について触れます。

これについて、

先述の『逸周書』「武順」には、
以下のような件があります。

左右の手、各(みな)五を握り、
左右の足、各五を履(ふ)む、
四枝と曰ひ、元首を末と曰ふ。
五五二十五を元卒と曰ふ、

左右手各握五、左右足各履五、
曰四枝、元首曰末。
五五二十五曰元卒、

履:「履く」でも良いかと。
四枝:両腕・両足。=四肢。
元:はじめの、第一の

文字通り大意を取れば、
以下のようになります。

まず、人間が5人いれば、
各々、両腕・両足が
左右5本づつある。

5名を人体に例えれば、

1名が頭で
これを「末」と言い、

他の4名は
両腕・両足となる。

この5名編制の5隊の25名を
「卒」と言う。

以上のような
サイト制作者の解釈から、

恐らく、人数の話ではあっても
隊列の話ではありません。

ですが、
同じ『逸周書』の「小明武」には、
以下のような文言があります。

戎をその野に遷(うつ)すに
王法を行ふに敦(つと)め、
濟ますに金鼓を用ひ、
降(くだ)すに列陳を以てす

戎其野、敦行王法、
濟用金鼓、降以列陳、

戎:軍隊
遷:移動する
敦:励む
濟:仕上げる
降:破る

ここで注目すべきは
「降以列陳(陣)」。

隊列による陣立てが
野戦の基本、
という訳です。

五五が掛け算の話と仮定して
「列」「陣」と来ると、

図解すれば、
以下のようになるのが
自然な解釈かと思います。

不気味なコピー・ペーストとなり
恐縮です。

『逸周書』(維基文庫)より作成。

もっとも、

サイト制作者の脳裏に
薛永蔚先生の伍のモデルの
バイアスがあるのも
否定出来ませんが。

さらに、ここで見え隠れする
5名の編制単位ですが、

「武順」の箇所以外にも、
先述の「大武」に
「射師伍を厲す」とあります。

これが意味するところは、

「伍」そのものか、

そうでなくとも、
軍の最末端は
5名の編成で動いている
解釈します。

因みに、
『周礼』「夏官司馬」には
「射師」という官職は存在せず、

それらしいものとして、
「司弓矢」という部署があり、

戦時、平時を問わず
弓矢の管理・教育を行います。

最高位の下大夫2名以下、
中士8名、その他、
下士より下の100名を擁する
部署です。

「師」は、責任者が士クラスで、
下級役人が数十名、
という部署が多いように
見受けます。

「射師」のイメージとして、
御参考まで。

また、「小明武」にも、
以下のような文言があります。

子女を聚(あつ)めることなく、
群を振ふこと雷のごとく、
城下に造(いた)り、
鼓行き呼參(まじ)わり、
以て什伍を正し、

無聚子女、群振若雷、
造于城下、鼓行參呼、以正什伍、

聚:徴集する
群:民衆
振:指揮する
呼:ここでは呼び声か
雷:響き渡る様、猛烈な様
造:到着する
參:交わる
正:ここでは整列させる、か
什伍:5戸、10戸ごとに編成する
民政上の隣保・互助組織

大意は以下。

物々しく城下に人を集めて、
既存の民政組織に準じて
整列させる、という話です。

以前の記事にも書きましたが、

サイト制作者が
この文言で思い出すのが、

『周礼』「夏官司馬」の
四季ごとに行われる
軍事演習の件です。

具体的には、

「司馬旗を以て民を致し」と、

下級軍人が旗を振って
民衆に呼集を掛けて
指定した場所に集め、

例えば、夏の場合は夜戦等、

季節に応じた
軍事演習を行う訳です。

また、「民衆」とは言うものの、

一国の首都の城郭に居住する
国人には、

1戸に1名、
それも60歳までの
軍役があります。

近代軍で言えば、

組織としては
予備役か在郷軍人に近い
感覚だと思いますが、

戦争が頻繁に行われることで、

実態は、現役同然の様相を
呈しています。

【追記】
すみません。
これは例えが悪いです。

と、言いますのは、

そもそも、

士以上の身分の
兵役自体が特権という
時代につき、

国民皆兵の社会での
徴兵を前提とした例えには
ムリがありますね。

書いたこと自体、
後悔しています。

【了】

つまり、確証はありませんが、

先述の「大武」の
「射師伍を厲す」の「伍」は、

仮に、『周礼』と同様の背景を
持つのであれば、

既存の民政組織と連動した
5名編制の軍事組織という話かと
思います。

おわりに

そろそろ、
この辺りで一区切りします。

次回はこの続きで、
人数を100名まで
増やす予定です。

最後に、例によって、
以下に結論を整理します。

1、兵士に必要な資質は「力」で、
心・身・技の三位一体の武芸を意味する。

2、武器の扱いとしては、
長い物、軽くても扱い易い物を勧める。

3、最末端の編成単位は5名で、
隊長を「末」と称する。

4、5名×5隊・計25名の編成単位を
「卒」とする。

この25名の隊は、
史料の文言より縦横各5名の方陣と
推測される。

【主要参考文献】(敬称略)
『逸周書』(維基文庫)
『周礼』(同上)
守屋洋・守屋淳訳・解読
『全訳 武経七書』2
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』僖

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近況報告 『逸周書』に関する話

はじめに

残念ながら、ここ何日かでは
記事が完成しないであろうことで、

せめて、何をやっているのか位は
御知らせします。

1、現在着手している作業

目下、『逸周書』
読んでいまして、

これに書かれた小規模戦闘について
書こうと思っています。

折角覗いて下さった方々のために、
以下に、拙い図解だけでも
掲載致します。

『逸周書』(維基文庫)、伯仲偏著『図説 中国の伝統武器』より作成。

『逸周書』(維基文庫)より作成。

かなりふざけた挿絵で
恐縮ですが、

相応の根拠で
説明するつもりですので、
御寛恕頂ければ幸いです。

さて、この書物、残念ながら、
現段階の私の知識では、

春秋時代以前のもの
ということ以外は
分かっていませんで、

恐縮ですが、

詳細な説明は
後回しにさせて頂きたく
思います。

内容からすれば、
政治や軍事の指南書かとは
思いますが、

【追記】
サイト制作者の意見だけでは
心もとないであろうことで、

例えば、ウィキペディアによれば、

「主に周の王の言行や制度などを
記した書籍。」

と、あります。

この方が実態に近いかしら。

とにかく、

政治や戦争について、
色々なことが書いてあり、

内容は色々と示唆に富むものの
何とも掴み所のない書物で、

そのうえ、

御決まりの
欠損部分もある、と来ます。

実は、読む前に
諸々の文献で
この書物の由来や概要等を
或る程度
まとめておきたかったのですが、

20年11月段階で、

サイト制作者がよく利用する
最寄りの国立大学の
附属図書館の一般利用に
かなり厳しい制限が掛かって
おりまして。

むこうも
大変な状況なのであろうと
想像します。

したがって、
大変恐縮ですが、

こういう作業を
後回しにさせて頂く旨、
御寛恕頂ければ幸いです。

【追記・了】

例えば、現段階では、
自分の目では、

『左伝』等から
この書物の内容の運用例が
確認出来ていないことで、

政策や軍事作戦の遂行が
この史料の内容に沿って
どの程度なされたのかは、

浅学にして
分かりかねます。

したがって、

サイト制作者としては、

差し当たって、

春秋時代以前に存在した
価値観のひとつ、程度の
解釈に止めておきます。

その意味では、

他の史料と比較することで、

色々と見えて来るものが
あることを
期待しています。

2、これを始めた理由

さて、今から2年弱前に
なりますか、

篠田耕一先生
『三国志軍事ガイド』を読んだ折、

薛永蔚先生『春秋時代的歩兵』
伍のモデルの紹介
目からウロコが落ちました。

具体的には、

ひとつの時代を調べる際、

その時代についての情報量が
少ない場合には、

その前後の時代の状況
参考にするという
手法の有効さを、

実例を通じて
思い知った次第です。

こういうのは、

理屈は頭では分かっていても、
実例を見なければ
存外、着手に億劫になるもので。

で、サイト制作者も、

自らの手で
この時代の戦争マニュアルを
紐解いてみたくなりまして。

もう少し具体的には、

古代中国における兵士の
メンタリティや生態、
それらの時代ごとの変遷、

―というようなものに
興味が湧いてきた訳です。

むしろ、

前々からあった
興味に対して、

それを知る術が
僅かながら分かって来た、

と、言った方が、
実情に近いのかもしれません。

で、その先の展望として、

この種の書物を
いくつか読み、

調査対象の運用例を
首尾良く発見できれば
それで肉付けすることで、

この時代の戦争の
コンセンサスのようなものや、

後の戦争で標準化されたもの等が
自分なりに見えて来れば良いと
考えた次第です。

ですが、

現実的には、精々、

薛永蔚先生の御説を
要約する程度のことしか
出来ないかもしれませんが、

例え、そうであったとしても、

自分の目で観ることで、

多少なりとも
何かしらの知見を得ることも
出来るかもしれませんし、

そういうものを
読者の皆様と共有出来れば
望外の幸せでかしら、と、
思った次第です。

3、理想とは程遠い進捗状況

ところが、
違う時代の事物を調べるとなると、

今度は、対象となる時代の
全体的な状況が分からない、

という問題が出て来ます。

今年の夏に、

西周の後半から
春秋時代の前半についての
大掛かりなノートまとめを
やったのは、

まさにそのための作業です。

(長文で読みにくい記事につき
リンクは避けます。)

それこそ、「知識ゼロ」からの
西周・春秋時代でして、

何はともあれ、

或る程度の間違いはあろうが、

調べ物を行うに当たって、

足掛かりとなるための
何等かの教科書的なイメージが
欲しかった訳でして。

『周礼』の解読と重複して
混沌とした内容になったので、
その点は失敗したと思いますが、

記事としての公開に踏み切ったのは、

サイト制作者と同様、
例えば、『春秋左氏伝』を
読むに当たって、

この時代のことがよく分からない、
という方が、

サイト制作者が知り得る限りですら
少々いらっしゃったためです。

で、これをやったその足で、
めでたく春秋時代の話に突入か、

と、言えば、

今度は、皆様と約束しました
鎧の話もありまして。

一旦、隊列や斬り合いの話を
始めると、

しばらく鎧の話には
戻って来れませんで、
(漢文と図形の二正面作戦は
身が持ちませんで。)

鎧の記事を優先した次第です。

おわりに

今回は、さすがに
結論めいたものはありません。

言い訳をそのまま記事にして
恥かしい限りでして、

読者の皆様におかれましては、
せめて、多少なりとも、
モノの考え方の足しになればと
思う次第です。

【主要参考文献】

『逸周書』(維基文庫)
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
薛永蔚『春秋時代的歩兵』
戸川芳郎監修『漢辞海』第4版

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前漢斉王墓出土の札甲 ~劉永華『中国古代甲冑図鑑』を中心に その3

はじめに

今回は、前漢西王墓出土の札甲の
紹介記事の最終回。

前回までに網羅出来なかった
冑(兜)の御話で御座います。

―「近いうちに」とは書いたものの、

蓋を開ければ2週間を越え、
大変申し訳ありません。

口ならぬ、予告は災いの元、
かしら。

1、冑の全体像

それでは、早速、
モノを見ることとします。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」、劉永華『中国古代甲冑図鑑』より作成。

このアレな図は、

高橋先生の論文
掲載されていた
復元品と思しき図
その解説と、

『中国古代甲冑図鑑』
掲載されていた展開図
その説明を元に
描き起こしたものです。

なお、高橋先生の論文は、
以下のアドレス(論文検索サイト)より
論文名や著者名等で
検索を掛ければ
PDFでファイルが入手出来ます。

ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

毎度、同じようなことを
書いていますが、
このサイトを
初めて御覧になる方々の為。

因みに、冑には
甲片に装飾はありません。

以前の記事でも触れましたが、
前漢斉王墓からは
同じタイプの鎧が
2領出土しまして、

そのもう片方、つまり、

前回に説明した鎧と
同型ながら
甲片に装飾のない
「素面甲」と呼ばれるものと
一組となる冑なのだそうで。

続いて、
甲片の繋ぎ方
後述しますが、

展開図を見る限り、
前回に説明した鎧と
同じ方法です。

また、高橋先生の論文の
復元品と思しき図には
下辺と上辺に縁取りがありました。

冑と鎧の本体が
同じ構造であれば、

冑の縁取りは、
皮革を織物で包んだ裏当てだと
思います。

因みに、上辺には
かすかに
ギザギザになっており、

高橋先生の論文によれば、
繊維質のものが
付着していたそうで。

また、残念ながら、
下辺の縁取りの詳細は
分かりません。

その他、頭頂部は
になっています。

穴を織物で覆ったのか
その他の装飾があったのかは
残念ながら
分かりかねます。

【雑談】冑の穴の理由を想像する

想像と言いますか、
根拠に乏しい妄想話の類です、
一応。

因みに、前漢以前の
冑の出土品や復元品は、

例えば、周代の銅製の鋳型で
装飾の施されたもの、

春秋時代の
甲片を繋ぎ合わせた皮冑、

戦国時代の燕より出土した
鉄製の甲片を繋ぎ合わせたもの、と、

いくつかあるのですが、

自身が浅学なだけ
かもしれませんが、

サイト制作者が知る限り、
頭の形にフィットするタイプしか
知りません。

さらに、後漢の鮮卑と思しき墓からは、

やはり、
「蒙古鉢形冑」と呼ばれる、

冑の本体の形は砲弾型
頭頂部に半球の蓋があり、

後頭部の覆いが浅く
項(うなじ)が
裸になるタイプのものが
出土しています。

この辺りは、
先述の高橋先生の論文が
詳しいので、

PDFで復元図を御覧頂ければ
分かり易いかと思います。

以下は、
あくまで主観と想像ですが、

こうした
高さを求める理由として、

あくまで想像ですが、

当時の男性の
重要な身嗜みである
髷を納める工夫の
ひとつではないか、

と、思う次第です。

図解すると、
このようになろうかと。

そして、鮮卑の墓から
出た理由は、

漢の鉄の加工技術の高さから、

漢よりの渡来品では
なかろうか、と、想像します。

それも、王墓と思しき墓より
出土した、

甲片の小さい魚鱗甲タイプで
漢で言えば王が纏うレベルの
札甲につき、

その調達は、
交易ではなく
政治絡みの話かもしれません。

さて、ここで、
北方の習俗について少々触れます。

『後漢書』南匈奴列傳
「烏桓」の項には、

父子男女相對踞蹲。
髡頭為輕便。

父子男女相對し踞蹲す。
髡頭を以て輕便となす。

踞蹲(きょそん):うずくまる。
(字引の典拠がこの部分!)
髡(こん):頭を剃る

と、あります。

文脈や字引の内容から、

「男女」は息子と娘
解釈します。

で、性別を問わず、
父親の立ち合いで
髪を落して身軽になる、

という話か。

因みに、女性の場合は、

「嫁時乃養髮、分為髻」と、
あります。

「髻(けい)」は髷(まげ)。
頭上や後頭部に結うものです。

よって、

嫁いだ時に伸ばして
分けて纏める、

という話かと思います。

さらに、肝心な
「鮮卑」の伝は以下。

其言語習俗烏桓同
婚姻先髡頭

その言語習俗を
烏桓と同じくす。
ただ、婚姻に先んじて髡頭す。

要は、鮮卑は婚姻の前に髪を剃り、

烏桓はいつ髪を剃るのかは
正確には分からないものの、

女性が嫁ぐ時に伸ばす
ということは、

未婚の段階で行う、
という話かしら。

訳が悪いうえに
話が回りくどくて恐縮ですが、

詰まる所、

丈の長い冑が出土した
鮮卑の土地には、

成人の男性には
髪を結う習慣がない訳です。

で、そこに、
どういう訳か、

髷を納めるための
のっぽな兜が
王墓の副葬品として
存在した、

という、サイト制作者の仮説、
と言いますか、
妄想の類の与太話。

因みに、漢民族はその真逆。

あの曹操も自分の頭をやった
髡刑というのがあります。

この辺りの話は、
故・林巳奈夫先生
『中国古代の生活史』
詳しくあり。

それはともかく、

察するに、
一昔前の話で言えば、

左ハンドルの外車を
輸入する感覚に
近いのかなあ、と。

モノが良ければ、

土地の事情の違いに起因する
実用性に欠ける機能も
そのままの形で入って来る、

という御話と推察します。

その他、
以下も重要な点だと思いますが、

冑が高さを要する工夫が
何故、前漢以降に施されたのかは
残念ながら分かりませんので、

この話は、
これ位にさせて頂きます。

【雑談・了】

2、冑本体の甲片

それでは、以降、

斉王墓出土の冑の
部分ごとの
甲片の繋ぎ方について
触れます。

まず、本体の甲片の繋ぎ方は、
以下のようになります。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」、劉永華『中国古代甲冑図鑑』より作成。

判明している部分は、

高さ5.3cm、幅3.7cm
という大きさと、
縦横の甲片の
規則的な配列だけです。

なお、実線は、に来る甲片、

破線は、そのにある、
―言い換えれば、
内外で重複する部分
意味します。

配列について言えば
前回触れたような
鎧と同じ構造です。

具体的には、

まずは、中央の甲片を決め、

その左右の甲片は、

中央側の甲片と結ぶ側は
内側に入れ、
その横の甲片に繋ぐ側は
外に出します。

こうして横一列になった甲片を
環状にし、

これを3列用意するのですが、

(あるいは、
3列を上下で繋いだ後に
環状にするか)

上下に繋ぐ際は、
下段を外側に出します。

穴の位置については、

先述の高橋先生の論文に
掲載されている復元図より
大体の位置が分かる、

―具体的に言えば、

上下左右の真ん中、
という程度のことで、

前回のようなミリ単位での
推測はあきらめました。

もっとも、どの鎧や冑にも
言える話かもしれませんが、

復元品の写真や
『中国古代甲冑図鑑』の
展開図等を見る限り、

段数や横の枚数が
狂わない程度には、

公差めいた
甲片の大小のバラつきは
少なからず
あるような気がします。

3、耳当ての甲片

続いて、耳当ての部分の
甲片の繋ぎ方は、
以下のようになります。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」、劉永華『中国古代甲冑図鑑』より作成。

作成の要領は
先のものと同じで、

『中国古代甲冑図鑑』の展開図に
近所のモールの文具屋さんで
小銭で買った定規を当てて
計測した、と、称する、

如何にも、
サイト制作者のような
いい加減な文系脳のやりそうな
原始的な手法です。

したがって、
表中の数字は、

あくまで
サイト制作者の推測です。
悪しからず。

さて、耳当ての最上段は、

甲片を本体と上下が逆
千鳥(ジグザグ)
繋がれています。

また、一番後ろに当たる甲片は、
横に0.5枚程度広いもの
宛がわれています。

さらに、下の段には、
下段側を内側に繋ぎますが、
千鳥にクロスさせずに、

真下の甲片と
上下で垂直になるように
繋ぎます。

おわりに

最後に、例によって、
今回の記事の内容を
以下に纏めます。

1、冑の甲片には装飾はない。

2、冑の本体の構造は
鎧と同じである。

つまり、中央の甲片を決め、
両側に繋げたものを複数用意し、
これを上下に繋ぐものである。

3、冑の頭頂部は穴になっている。

4、冑の上下辺は縁取りされている。
内部も鎧と同じ構造であれば、
裏当てがされていた可能性が高い。

5、耳当てについては、
甲片の並べ方は本体と逆である。

その他、本体と耳当てとの接合部は
千鳥で繋ぎ、
耳当ての上下は垂直に繋ぐ。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
劉永華『中国古代甲冑図鑑』
楊泓『中国古兵器論叢』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」
林巳奈夫『中国古代の生活史』
范曄『後漢書』
戸川芳郎監修『漢辞海』第4版

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前漢斉王墓出土の札甲 ~劉永華『中国古代甲冑図鑑』を中心に その2

はじめに

今回は、前漢斉王墓より出土した
札甲の図解の2回目。

前回の周辺環境の網羅に
引き続いて、

今回は、
この鎧の構造に迫ります。
残念ながら、
想像の部分も多いのですが。

1、鎧の全体図
1-1、鎧の類型と裏当て

早速ですが、
以下が全体図です。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』、楊泓『中国古代兵器論叢』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」より作成。

復元品の写真は、

例えば、
百度一下さん等で
「斉王墓 札甲」
画像検索を掛けると
出て来るのですが、

実に艶やかなものです。

さて、全体の形状としては、
垂縁(裾)・肩(けん)甲付きの
魚鱗甲タイプの札甲、
と、言ったところでしょうか。

また、前回触れた
劉永華先生の類型で言えば、

「脇閉じ式」に相当し、

着用者から見て
右側の鎖骨1箇所と
脇2箇所を紐で留める
仕組みとなっております。

因みに、この紐は
絹だそうな。

また、裏当てや縁の部分は、

前回触れたように、

織物で包まれた裏当てを
鎧の裏側に宛がいます。

サイト制作者は、

図にあるように、
織物の縁が
鎧の甲片の縁を覆うものと
理解しています。

図の上部の
コーティングの構造図は、
大変恐縮ですが、
サイト制作者の想像図
ということで御願いします。

それでは、以下、

鎧の上の部分から
各部位ごとに
細部まで見ていくこととします。

1-2、肩部

所謂、披膊(はく)と呼ばれる
部位です。

身甲(胴体の部位)の肩部と
肩甲の双方を
「披膊」と呼称して
良いものかは
分かりかねますので、

ここでは、肩部と肩甲は
別の部位として扱います。

そのうえで、
まずは、(身甲の)肩部について
触れます。

まず、肩部の甲片は
横長の甲片で編まれ、
枚数は横4列×縦11・12段。

着用者から見て
右側が1段多いのは、

着脱のための
開口部の遊びを
確保するためだと思いますが、

確証はありません。

復元写真では、
鎖骨部分は
左右平行になっていました。

1-3、肩甲の甲片の装飾

さて、件の披膊―肩甲について。

その甲片の形状は、

身甲(胴体部分)と同じものを
使用しています。

開口部を
重点的に描きたかったことで、

遠近法の関係で
各部位ごとの
甲片の面積の比率が
かなり歪(いびつ)になり、

その旨が
分かり辛くなったことで
大変恐縮です。

さて、甲片の装飾は、
大別して3種類あります。

まず、アレな図中の
黄土色のものは、なんと、金片。

―とはいえ、

時代柄、金と同義であった
銅の可能性もあります。

決して馬鹿にした話ではなく、
銅自体が貴重であった、
という御話です。

そして、白色の装飾の甲片は
銀片です。

これも、ホンモノの銀か否かは
分かりかねますが、

少なくとも、
それを模した貴重金属だと
思います。

で、この金片・銀片を
甲片の中に菱型に描き、

その縁を朱色に色付けしたか、
あるいは朱色の紐で
縁取るというもの。

この辺りは、
文献やネット等の
復元品の写真が小さいこともあり、
残念ながら詳細が分かりません。

そして、3種類目の甲片は、
紐で装飾の施されたものです。

ふたつの菱が上下にずれた形で
編まれたものです。

『中国古代甲冑図鑑』
展開図に描かれていた甲片を
模写すると、

以下のようになります。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』に掲載されていたp51の甲片の図を模写。

劉永華先生によれば、

これ自体は装飾に過ぎず、
実用的な機能はないとのこと。

甲片の穴は、
接合と装飾で
共用しているものと
想像します。

続いて紋様ですが、

まず、金片・銀片の紋様が
規則的な配列で
大きな菱型を形作っています。

そして、その間隙を
二重の菱の甲片が埋める
というものです。

また、この紋様は、
背面にも続いていまして、

肩部を除いた身甲部位の
上から9段目以降より
施されています。

1-4、甲片の繋ぎ方の基本

この部位の最後に、

甲片の繋ぎ方について
触れます。

その前に、

どの部位であれ、

古代中国における
甲片の繋ぎ方には
基本的な作法があります。

これは楊泓先生の請売りで、
以前の記事でも触れましたが、

一応、サイト制作者の
忘備を兼ねて、
復習することとします。

まずは、以下のアレな図を
御覧下さい。

楊泓『中国古兵器論叢』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

これは、秦代の歩兵用の鎧
有名な咸陽の兵馬俑模写です。

特に、図中の上の真ん中の
作り方の手順を
注目して頂きたく思います。

まずは、鎧の前面の中心の
甲片を設定し、

左右に甲片を繋いで
横一列の甲片を作ります。

そして、これが身甲であれば、
環状に繋ぎます。

さらに、こうして
横一列に繋いだ甲片を
複数本用意し、

それらを縦に繋ぐことによって
各々の部位に
仕立てる訳です。

その際、甲片を固定性にして
堅牢にしたければ
上段の下辺を外側に出し、

可動性を持たせたければ、

その逆、つまり、

上段の下辺を内側に、
下段の上辺を外側にして
上下を接合し、

鎧の外側にを施します。

そして、幸いなことに、

今回の斉王墓の札甲も、

基本的な甲片の繋ぎ方自体は
この鎧と大差ありません。

1-5、可動性のない肩甲

それでは、この流れを受けて、
披膊の甲片の
繋ぎ方に入ります。

これも、上記の法則通りの
繋ぎ方で、

上段の下辺と
下段の上辺を繋ぐという
可動性のものです。

図解すると、
以下のようになると思われます。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』、楊泓『中国古代兵器論叢』 高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」より作成。

実線一番外側に来る
甲片の部分、
破線はその内側に隠れる部分です。

そして、緑の枠の部分の穴は、
その左や上の甲片の穴と
重複しています。

また、残念ながら、
甲片の大きさは分かりませんで、

図中の数字は
相対的な比率です。

で、このような形で、
1段当たり
17枚の甲片を要し、

これが10段で
構成されています。

『中国古代甲冑図鑑』
展開図に添えられた
1cm四方の甲片の図に
定規を宛てて
ミリ単位で測るという
極めて原始的な手作業につき、

残念ながら、
厳密なものではありませんが、

幸か不幸か、
復元品の甲片も、

その大きさや
上下左右の配列には、
列を崩さない程度に
少々バラつきがあります。

さて、この部位ですが、

甲片の上下の配列は、

身甲のそれとは異なり
千鳥(ジグザグ)ではなく、

素直に真上・真下の甲片と
繋がっています。

この辺りは後述します。

また、面倒なことに、

甲片の繋ぎ方自体は
可動性を持たせるものですが、

紐が甲片の表側に来る
縅(おどし)にはなっておらず、

高橋工先生によれば、
可動性はありません。

その理由として、

織物に包まれた
皮革製の裏当て
あるからです。

これはサイト制作者の想像ですが、

甲片を大きく湾曲させるために
こういう繋ぎ方をしたのかも
しれません。

2、身甲の甲片の繋ぎ方

ここでは、
身甲部位について触れます。

鎧の類型は脇閉じ式、
肩部や甲片の装飾は先述の通り、
ということで、

詳述すべきは
甲片の繋ぎ方になろうかと
思います。

早速ですが、
文献の内容や
復元品の写真からして、

サイト制作者は
以下のような繋ぎ方を想像します。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』、楊泓『中国古代兵器論叢』 高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」より作成。

鎧の裏側の
紐の繋ぎ方が分からないので、

残念ながら正確なことは
言えないのですが、

復元品の写真
鎧の表側における
紐の縫い目の位置や、

先述した甲片の繋ぎ方の
法則から言えば、

図中の緑の枠の部分が
接合部分だと思います。

無論、まずは、

横列―つまり、
甲片の両側の上下の穴で
固定したうえで、

横一列になった甲片同士を
縦に繋ぐ手順となりまして、

その際、

上下(斜め下)の
接合部分の穴の位置が
若干横にずれていることで、

この辺りは多少、
遊びになっている、

―言い換えれば、
緩くなっているものと
想像します。

実は、サイト制作者自身、

最初にこの図を
描き起こした時に
各々の甲片の
穴の位置がぴったり合わず、

どのように理解したものかと
悩みましたが、

楊泓先生の説く
先述の鎧の構造を思い出し、
以上の結論に至りました。

で、このような繋ぎ方で
1段当たり
上段66枚、
下段67枚の甲片を
ジグザグで編みます。

その際、

前面の中心の甲片が突起し、
背面の中心の甲片が
凹むのですが、

上下の甲片を
ジグザグに編むことで、

当然ながら、
中心の甲片も一直線にはならず、
自ずとジグザグになります。

魚鱗甲の構造を把握するうえで
面倒な部分のひとつだと思います。

それはともかく、

この繋ぎ方で、
胸部5段と腹部15段で構成され、

その中で、
最上段と一番下の段の甲片には
装飾がありません。

また、ジグザグで編まれて
下段が1枚多くなる代わりに、

左右両端の甲片を
各々の横の半分を端折ることで
上段と幅を合わせています。

3、垂縁
3-1、全体図と重要箇所

最後に、裾部分に相当する
垂縁について触れます。

これも、最初に図を見て頂いた方が
分かり易いかと思います。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』、楊泓『中国古代兵器論叢』 高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」より作成。

これは、鎧の前面中心部分の
身甲の一番下から
垂縁の下辺までの図解です。

これも残念ながら
サイト制作者の
想像図に過ぎません。

その意味では、

裏側の紐の結び方迄は
分からず、

甲片の配置も
正確ではない
かもしれませんが、

甲片の位置関係や縅の位置は
これで間違いないかと
思います。

一方で、

多くの甲片が
混在することで、

それを再現しようとして
薄い配色が多くなり、

結果として
見辛くなり大変恐縮です。

さて、この図のポイントは、
大別して以下の3点。

1、身甲と垂縁の接合
2、垂縁の甲片同士の接合
3、垂縁の縅の位置や縫い目

それでは、
各のポイントの説明に入ります。

3-1、複雑な構造の接合箇所

まずは、1、身甲と垂縁の接合。

実は、ここが本稿でも
一番難解な部分につき、

サイト制作者の想定する
手順を追って
綴ることとします。

まずは、先に挙げた
怪しい図面の一部の
配色を変えました。

前掲図の一部を加工。

まず、甲片の構成について。

身甲の一番下の段の甲片があり、
図中のオレンジの部分です。

これは先述のように、
横の繋がりが軸で、
左右の甲片は
中央側の片側が隠れています。

次に、これらの甲片の
表側に来るのが
垂縁の最上段の甲片です。

図中の水色2種類の部分。

これも、身甲の甲片と同じく、
左右の甲片の中央側が隠れます。

で、この身甲と垂縁の甲片の
接合の際、

ポイントとなるのが、

各々の部位のどの甲片が
中心となるのか、です。

結論から言えば、

図中の一番濃い配色の甲片です。

つまり、真ん中の赤色の甲片
その右下の青色の甲片、
と、なります。

で、この両者を
縅で繋ぐ訳ですが、

この繋ぎ方が少々複雑です。

まず、身甲の甲片の下辺には
縦にふたつ穴があります。

この上側の穴と、
垂縁最上段の
上辺の左側(中央寄り)
を繋ぎます。

次いで、下側の穴は、
位置関係からして、

垂縁最上段の中心の
左側の甲片の
上辺の右側(中央寄り)
を繋ぐものと思われます。

断定出来ないのは、
鎧の甲片の裏側まで
見ることが出来ないからです。

このような要領で、

身甲の甲片の左側も
同じ手順で繋ぎます。

因みに、右側については、
先程の手順と
左右が逆になります。

具体的に言えば、

身甲下辺・上部の穴と、
垂縁最上段・
右側(外寄り)の穴とを
繋ぎます。

また、身甲下辺・下部の穴は、

垂縁最上段の
中央のすぐ右側の甲片の
上辺・左側(中央寄り)と
繋ぎます。

要は、身甲下辺の
1枚の甲片から紐を2本出し、
その真下の左右の甲片を繋ぐ、

―という仕組みです。

3-2、垂縁の甲片と縅

次いで、
2、垂縁の甲片同士の接合、
について触れます。

先程の説明が長くなったことで、
垂縁の図を以下に再掲します。

前掲の図を再掲。

この部分ですが、
甲片の配列は
披膊の甲片と同じパターンで、

方形の甲片の横列を
そのまま真下の甲片に
繋げます。

ただし、繋ぎ方が
少し変わっていまして、
これは後述します。

また、一番下の甲片
少々縦長のものを使います。

当然ながら、
その下辺には穴がありません。

最後に、
3、垂縁の縅の位置や縫い目、
について。

ここが、披博の甲片の繋ぎ方との
最大の違いです。

具体的には、を用います。

先の図中の灰色の線でして、
分かり辛くて恐縮です。

要は、身甲下辺から出た糸
各段の垂縁上端の穴を
結ぶのですが、

その際、
ふたつのポイントがあります。

1、紐が鎧の外側を通る。
2、垂縁の甲片の下端と
真下の甲片の上端の穴の位置が
重複する。

1、は、縅たる所以。

縦糸が鎧の表側と通る形で
垂縁の上辺から下辺までを繋ぎ、
鎧の裾に可動性を持たせます。

そして、2、の甲片の配列を、
1、の方法で繋ぐという訳です。

もっとも、前回触れましたように、
直立の姿勢であれば、

裾は広がらない
円筒形なのですが、

肝心な裾がどれ程広がるのかは、
非常に残念ながら分かりません。

おわりに

最後に、今回の記事の要点を、
整理します。

加えて、大変申し訳ありませんが、

この鎧に附属すると思われる
冑(兜)については、
近いうちに別に記事を用意します。

1、各部位共、甲片の繋ぎ方は、
横一列に繋いだものを
縦に繋ぐという構造である。

2、披膊・垂縁の甲片は、
垂直に編まれている。

ただし、垂縁の縦列の接合は
縅で行われ、
可動性が付与されている。

3、身甲と披膊の甲片は同じで、
甲片の装飾は3種類あるが、
装飾自体に実用性はない。

また、これらを規則的に配置し、
大型の菱を形作り、
背面にも同じ紋様が並ぶ。

4、身甲の甲片は
上下でジグザグに
編まれている(魚鱗甲)。

また、ジグザグの甲片の多い段では
左右の甲片の半分を削ることで、
上下の幅を調整している。

5、身甲と垂縁の接合部は、
ひとつの身甲から
左右に糸を出すことで
下段の甲片を繋いでいる。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
劉永華『中国古代甲冑図鑑』
楊泓『中国古兵器論叢』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』
篠田耕一『武器と防具 中国編』

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前漢斉王墓出土の札甲 ~劉永華『中国古代甲冑図鑑』を中心に その1

はじめに

そろそろ、
以前約束した鎧の話
一度挟みます。

今回は、前漢時代の
斉王墓から出土した
魚鱗甲タイプの札甲について
見ていこうと思います。

もっとも、劉永華先生
『中国古代甲冑図鑑』の内容が
大半につき、

いっそのこと
文献紹介にでもしようかとも
考えましたが、

記事の目的
鎧の観察にあることと、

周辺の事情の説明もあり、

こういう半端な題目
なった次第です。

この御本を紹介して頂いた
読者の方には、改めて、
厚く御礼申し上げます。

一方で、図解の作成にも
時間が掛かりそうなことで、

大変申し訳ありませんが
続き物にさせて頂きます。

今回は、斉王墓札甲
鎧としての類型や、
展開図を通じた
部位の区分等について
触れます。

それでは、本文に入ります。

1、斉王墓より出土した札甲とは?
1-1、先に掲載した図解の添削

今回観察を試みるのは、
以下のタイプの鎧です。

楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。漢~魏晋時代の鎧のパターン

実は、以前の記事でも
何度か触れたのですが、

今回、細部まで描くために
文献を読み直して
腰を落として
何枚か写真を観察したところ、

恥ずかしながら
現段階で判明しているだけで
3箇所も誤りがありまして、

このように
添削させて頂くことと
相成りました。

深く御詫び申し上げます。

多少なりとも、
鎧の観察の御参考になればと
思います。

ヘンな構図で描いた
バチが当たったのでしょう。

因みに、この辺りの話は、

高橋工先生の論文、
「東アジアにおける
甲冑の系統と日本」
に詳しく記されています。

PDFでダウンロード可能です。

ttps://ci.nii.ac.jp/
(1文字目に「h」を補って下さい。)

まず、(兜)ですが、

図の赤枠にある通り、
最上段は前面のみ甲片があり、
頂上は開いています。
内部で布等で覆う模様。

また、披膊は可動性がありません。

この部分は
少しややこしいのですが、

現物を見ると、
甲片の繋ぎ方自体は
可動性―、

つまり、上段の甲片の下端を
外側に出す形で
下段の甲片の上端に繋ぐ
タイプではあるものの、

披膊の内側に
割合堅い裏当てが
施されていることで、
(詳細は後述)

それ程曲がらない、
ということなのでしょう。

したがって、
図のようなポーズは
恐らく難しい訳です。

1-2、出土品の履歴

さて、この種の鎧ですが、
同じタイプ
(前開きではなく
鎖骨と脇を紐で縛る
魚鱗甲タイプの札甲)
と思われるものが
計3領あります。

内、2領は、
山東省臨淄県大武村の
前漢斉王墓第5号から
1979年に出土したものです。

で、その1領は、
鎧の甲片に装飾が施されたもの。

もう1領は、
「素面甲」と呼ばれる
装飾がないものです。

さらに、冑も出土していまして、
これは甲片に装飾がなく、
素面甲と一対
言われています。

因みに、

これに付随して
斉王劉襄の没年が
前179年

劉襄は高祖の孫で、
子がなかったことで、

死後、絶国となるところを
皇帝の恩恵で分国されます。

察するに、
斉国のピークの時代の墓、
ということになりますか。

この辺りの経緯は、

入手し易い本では、

例えば、西嶋定生先生
『秦漢帝国』等を御参考に。

また、残りの1領は、

広州の前漢・南越王墓よりの
1983年の出土品。

南越の鎧は、後でチラと
図を載せます。

因みに、復元されたものは
身甲(胴体)のみで、
披膊(腕)と垂縁(裾)は
ありません。

なお、『中国古代甲冑図鑑』によれば、
この墓の建造が
紀元前128~111年
とのことですが、

どうも、元の論文である、

『考古』1987年9期
中国社会科学院考古学研究所
技術室・広州市文物管理委員会
「広州西漢南越王墓出土
鉄鎧甲的復原」

よりの引用に見受けます。

これに因みまして、
斉王墓の方の論文は、
『考古』1987年第11期
山東省臨湽博物館・
臨湽文区管所・
中国社会科学院
考古研究所技術室
「西漢斉王鉄甲冑的復原」

と、思われます。

―で、サイト制作者は、未だ、
入手出来ずにいまして、

相互貸借等も時節柄
利用しにくいことで、

非常に残念ですが、
今後の課題とさせて頂きます。

アクセス出来る
ツテのある方のために、

せめて存在だけでも
御知らせ致します。

2、漢~魏晋時代の鎧のパターン
2-1 劉永華先生の区分

以前の記事で、
漢代から魏晋時代の鎧について
いくつか触れましたが、

劉永華先生が
『中国古代甲冑図鑑』で
そのパターンの整理
行っていらっしゃいます。

これが興味深いのものでして、
その模写を以下に掲載します。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』、楊泓『中国古代兵器論叢』より作成。

さて、劉永華先生は、

漢代から魏晋時代までの鎧を、
脇閉じ式・前開式・套(とう)衣式の
3種類に分類されています。

で、下段の3種類の鎧が
各々の形式の一例でして、

これは僭越ながら
サイト制作者が選びました。

とはいえ、ほとんど
選択の余地がありません。

まず、脇閉じ式ですが、
これは先述した
斉王墓と南越王墓の副葬品。

埋葬されたと時期としては、
前漢の前半から中頃のもの
ということになります。

次いで、前開式ですが、

図解にある鎧は、
武帝の弟で劉備の先祖の
中山靖王・劉勝の墓よりの
出土品の復元図の模写です。

河北省満城県より
1968年に出土したものです。

絵が潰れていて
分かり辛くて
大変申し訳ありませんが、

披膊が筒袖になっており、

垂縁にも
似たような形状の縅
施されています。

また、鎧のタイプの分類も
一様ではありませんで、

先述の脇閉じ式の3領と
この鎧を「魚鱗甲」とする
分類もあります。

因みに、劉勝の没年は
前113年。

2-2、魏晋時代の筒袖鎧を想像する

最後の形式・套衣式ですが、

残念ながら、
モデルは現物ではなく

いくつかの文献を読む限り、
この時代より出土した現物は
ありません。

そうした事情を受けてか、

劉永華先生が選んだものは
河南省偃師県杏園村より
出土したものの模様。

先生の見立てによれば、
筒袖・魚鱗甲タイプで
垂縁も縅が表に来る可動式。

ただし、着脱は後ろで行う、
というもの。

因みに、サイト制作者は、
晋代の俑の写真からは
これが想像出来ず、

伯仲先生の
『図説 中国の伝統武器』
にあるように、
脇閉じ式かと
思っておりました。

とはいえ、双方共、
出土品の状況や史料に基づいた
具体的な根拠を
示していないことで、

サイト制作者としては
双方共、可能性はある、
という程度の認識です。

ここで、余談ながら、

大体、このタイプの
鎧だと思うのですが、

三国時代の筒袖鎧について
同書に『南史』殷孝祖に云々、
と、ありまして、ああ、これかと。

禦仗先有諸葛亮筒袖鎧、鐵帽、
二十五石弩射之不能入

仗を禦(ふせ)ぐに
まず諸葛亮筒袖鎧、鐵帽あり、
二十五石弩之を射るに
入るあたわず

仗は刃物の付いた兵器の総称、
石は要は矢の威力ですが、

25石はかなり強力なもので、
漢代の平均の倍以上のレベル。

これで有効打を与えられなかった
という訳です。

兵器の考証については、
入手し易い本としては、
篠田耕一先生の
『武器と防具 中国編』
御参考まで。

さらに、劉永華先生によれば、

魏晋時代は鎧の形状には
左程進展が見られなかったものの、

鋼材は別で、
炒鋼法と百錬鋼の合わせ技
堅いものが出来たそうな。

下記の図を御参考に。
以前に掲載したものです。

趙匡華『古代中国化学』・篠田耕一『武器と防具 中国編』・菅野照造監修『トコトンやさしい鉄の本』・柿沼陽平「戦国秦漢時代における塩鉄政策と国家的専制支配」等(順不同・敬称略)より作成。

2-3、前漢の鉄製鎧の変遷

さて、ここで、

前漢に出土した鉄製鎧の中で、
復元されたか
保存状態が良かったもの
時系列(推定)的に並べると、

大体以下のようになります。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』、楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』より作成。

左が一番古いと思われるもので、
右に順に時代が下っていきます。

サイト制作者が、以前、
身の程知らずにも復元を試みた
札甲のアレは、
正確性を欠くので省きます。

因みに、最後の前開きの鎧は、
内モンゴル自治区の
フフホト市郊外の
二十家子漢代古城より
1959年に出土したもので、

楊泓先生によれば、
武帝時代末期のものとのこと。

これを見ると、
一見、筒袖と前開きが
主流になったように見えますが、

後漢時代
鮮卑の王墓から出土した鎧
脇閉じ式の魚鱗甲タイプの
札甲です。

で、サイト制作者は、
成程、鎧が作られた
大体の時代は分かっても、

その鎧の技術が
いつまで現役であったかまでは
正確には分かりません。

その意味では、
先述の劉永華先生の分類は、

恐らく、出土品を最新式と捉え、

その後の後漢・魏晋時代に
色々な技術が交錯している状況
想定した、

かなり慎重で手堅い
見方ではないかと思います。

確かに、王墓の副葬品ともなれば、
当時の最高レベルの
ものだと思います。

3、斉王墓札甲の展開図

『中国古代甲冑図鑑』には、
今回扱う鎧の展開図まで
掲載されていまして、

元の論文の引用かもしれませんが、

いずれにせよ、
サイト制作者は、

そもそも、

その存在や
展開図という考え方に
驚くばかりです。

残念ながら、
展開図の模写は
同文献で御覧頂きたいのですが、

ここではその略図を掲載します。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』より作成。

まず、大体の部位として、
胸・腹・脇(肋)・背・腰・肩
に、大別出来ます。

なお、冑と披膊は
省略しました。

説明は次回にします。

さて、描く視点で驚いたのは、
胴回りを脇で分ける点です。

確かに、この区分は、

その前後の部分と
1段当たりの甲片の数が
異なったりして
面倒なので、
合理的であると思いました。

次いで、長さですが、
これは展開図の等倍のコピーの
実寸(cm)です。

ただ、これをやったのには
理由があります。

この鎧の復元品の写真複数枚と
展開図を比べた結果、

恐らく、縦横の縮尺自体は
かなり実物に近い
判断しまして、

思い切ってこの数字を掲載しました。

甲片の数を含めた図解は
次回にしますが、

絵を描いたり
復元品を作ったりする際に
多少なりとも
参考になればと思います。

また、正面より背中が広かったり、

あるいは、鎧の正面は平坦で
脇腹の当たりで窪ませる
といった点は、

写真と展開図を見ながら
模写を行った段階で
どうも違和感を感じ、

改めて見直して
初めて分かった点です。

―サイト制作者が
服飾の知識に乏しいだけかも
しれませんが。

その他、右肩部が
左より少し長いのは、

この部分で着脱を行うためです。

要は、肩部1箇所と脇に3箇所を
紐で綴じる仕組みです。

最後に、鎧の裏側や縁の部分の
コーティングの方法ですが、

同書によれば、

斉王墓・南越王墓・
劉勝墓には、

「皮革を絹などの織物で包んだ
裏当てがあった。
甲の各部分の縁は
錦織で包まれていた。
裏当てには
皮革や絹布以外に
麻布を用いたものもある。」

―とのことで、

ここまで具体的に書かれた本は
初めてでして、
目からウロコが落ちました。

おわりに

そろそろ、今回の御話を纏めます。
要点は、概ね以下の通り。

1、前漢斉王墓より出土した鉄製鎧は
魚鱗甲タイプの札甲で、
甲片に装飾のないものは
「素面甲」と呼ばれ、
冑と一対とされる。

2、劉永華先生は
漢から魏晋までの鎧について、
脇閉じ式・前開式・
套(とう)衣式の3種類に
区分した。

前漢斉王墓の札甲は
脇閉じ式に分類される。

3、前漢斉王墓の札甲には
展開図が作成されている。

それによると、大体、
胸・腹・脇(肋)・背・腰・肩
に区分される。

4、前漢時代の高級品の鎧には
皮革を織物で包んだ裏当てがあった。
また、鎧の縁は、
錦織でコーティングされていた。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
劉永華『中国古代甲冑図鑑』
楊泓『中国古代兵器論叢』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
西嶋定生『秦漢帝国』
趙匡華『古代中国化学』

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『周礼』の軍事動員モデルと西周末・春秋時代

例によって長くなりましたので、
章立てを付けます。

適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂けば幸いです。

はじめに
1、領土と領民の概念
1-1、国と野、そして竟
1-2、居住地・邑
1-3、国人と野人
1-4、点と線の支配と未開の原野
1-5、国邑と鄙邑の関係
1-6、血族の結束と属邑
1-7、血族を別つ居住区
1-8、国軍の中核・国人の軍
2、『周礼』地官から見る軍事動員
2-1、連動する軍制と民政
2-2、支配者層・卿大夫
2-3、政策の実働部隊・士
2-4、戦闘単位アレコレ
2-5、軍役と身長と加筆の可能性
2-6、【雑談】野の概念と虎
2-7、編制単位と軍役
3、変遷する県の領域
3-1、先行研究の多い春秋県
3-2、名ばかり県と抵抗運動
3-3、集権化の時流
4、耕地面積と動員力
4-1、意外に続く100畝の観念
4-2、肥沃な関中と鉄器
4-3、勧業政策の対価
4-4、勧業入植政策を想像する?!
5、戦車の動員単位・甸
6、西周末から春秋時代を概観する
6-1、その整理作業にあたって
6-2、混沌とした西周末期
6-3、南方の脅威・楚と覇者の時代
6-4、覇者・晋の内訌
6-5、対楚同盟の功罪
6-6、経済の自由化と下剋上
6-7、パンドラの蓋?!晋楚講和
6-8、戦争の革命児・孫子登場
6-9、【雑談】孫子の兵法と孔子様
おわりに
【主要参考文献】
【場外乱闘編・時代を遡って妄想する】

はじめに

今回は、『周礼』より、
軍事動員の箇所について
綴ろうと思います。

『周礼』とは、
前回にも触れたように
中国最古の行政法典でして、

周公旦の考案した
周王朝の制度とされています。

ですが、同書の成立は漢代でして、

そういう事情を反映してか、

識者の見立てでは、
所々に後代における加筆の痕跡も
あるそうな。

サイト制作者が素人目で見る分にも
周尺で勘定が合わない部分があり、
これは後述します。

一方、ツイッターでの
さる博学な方の御話によれば、

小南一郎先生が
「一つの仮想された国家の制度を
体系的に述べる」
と総括されているとのこと。

したがって、

10割を史実とは取らず、

周代の制度を叩き台にした
モデル・ケースとして
理解するべきなのかもしれません。

それでは、そろそろ本題に入ります。

1、領土と領民の概念
1-1、国と野、そして竟

まず、始めに、
『周礼』の内容の前提となろう
領土や領民の大体の概念について
整理を行います。

残念ながら、

サイト制作者の能力不足で
東周時代の事情が
どうもよくわからなかったことで、

同じ封建制の枠組みであろう
西周末や春秋時代前半まで下って
状況を見てみようと思います。

早速ですが、以下のアレな図を
御覧下さい。

これは領土の概念図ですが、

大体、西周末から
春秋時代前半までを想定して
作成しました。

無論、サイト制作者(素人)の
ノート整理程度の感覚で御願いします。

土田史記「春秋時代の領域支配」、稲畑耕一郎監修「図説 中国文明史3」、伊藤道治・貝塚茂樹『古代中国』、原宗子『環境から解く古代中国』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、愛宕元『中国の城郭都市』、飯尾秀幸『中国史のなかの家族』等より作成。

まず、領土は、
大別して
「国」と「野」に区分されます。

そして、国境線を
「竟」・「疆」(きょう)
と言いまして、

土口史記先生によれば、

「疆」は、
国境線を決める手続きも
含む模様。

さて、国と野ですが、

国は、恐らく、
ふたつ意味があります。

ひとつは、
冊封された国家の領土そのもの。

そして、もうひとつは、
これが肝心なところだと
思うのですが、

首都に相当する
城郭都市(国邑)を意味します。

広義としては、
恐らく、城郭の周囲の田畑も
含むかと思います。

因みに、国が国邑の城郭を
意味するようになったのは、

詳しくは後述しますが、

西周末の動乱に対する
備えとして、

各国の国君(≒国家元首)が
国邑に兵力を結集したことが
その理由です。

で、どうも、春秋時代には、

国が国邑の城郭を意味するのが
定着していた模様。

このような「国」の区域に対して、

「国」の周辺に広がる
「野」という区域があります。

この「野」の区域は、
基本的には、

国君の直轄地である公邑も、
配下の大夫の領地である私邑も、
これらの邑の支配下にある
小規模の邑―属邑も、

そして、それ以外の
未開の原野も含みます。

因みに、国邑以外の邑を鄙邑とも
言います。

1-2、居住地・邑

ここで、先程からポンポン出て来る
「邑」(ゆう)という言葉、

これは、規模の大小を問わず、
防御施設のある居住地
意味します。

ただ、ひとつの目安として、

大きい部類の邑は、

人口の規模はともかく、

地理的には、
漢代の県城に相当するかと
思います。

例えば、洛陽近郊に
温(うん)という邑があります。

ここは、元は、
周の大夫・蘇忩生の邑、
それも、その蘇国の国邑でした。

恵王の時代の御家騒動では
蘇氏の邑という立場で
王子頽を匿いました。

その後、漢代に県が置かれ、
河内郡温県となりました。

のみならず、
あの司馬仲達を輩出しまして、

温の地名自体は
廃された時代もありましたが、

現在は、めでたく
河南省温県となっております。

その他、『後漢書』続漢志
郡国(特に司隷)を見ると、

県の略歴に
「邑」と書かれている県
チラホラあります。

見方を変えれば、

そうした履歴の
あるところは、
春秋以前から開けていて
人の営みがあった
土地なのかもしれません。

因みに、住民は防御施設ある居住区で
寝起きし、

昼間は周辺の田畑で
野良仕事に勤しむ訳です。

こういう生活空間の構造は、

少なくとも、
殷周から後漢・三国時代までは
同じです。

1-3、国人と野人

また、国野の関係は、
そのまま身分制による
差別・被差別を意味します。

具体的には、

「国」に住む人々、
つまり国人には、
以下の権利があります。

1、国政の重要事項の決定権
2、兵役(外征)
3、教育
4、重要産品の商取引

対して、「野」の地域に居住する人々、
つまり野人には、

これらの重要事項から弾き出され、
しかも過酷な賦役義務を負う、
と、来ます。

1-4、点と線の支配と未開の原野

さて、周から冊封された国は、

国邑(国)
領内に点在する
その他の邑(鄙邑)
支配・被支配関係を持つことで、

領土という枠組みを持ちます。

ところが、

その後の時代との
大きな相違点は、

愛宕元先生の
『中国の城郭都市』によれば、

面的な支配ではなく、
点と線のそれに近い模様。

と、言いますのは、

西周から春秋時代の前半までは、
中原においても
未開発の土地が多い状態でした。

また、こういう状況との関係は
分かりかねますが、

国家間の国境線も
曖昧な部分が多かった模様。

これに関して、例えば、

原宗子先生
『環境から解く古代中国』によれば、

戦国時代の鉄器の普及
耕作地の拡大以前に
森林伐採の効果が大きく、

極端な例として、

『史記』蘇秦伝の記述を
引用して、

なんぞ森林地帯が多く、
その上がりで穀物を買う
裕福な国情だったそうな。

してみれば、

『周礼』夏官司馬の
王が祭祀と狩猟に
明け暮れる描写も、

このような環境を
前提にしていたのでしょう。

また、未開の原野が
多かった状況は、

交通網の未発達や
インフラそのものの脆弱性
想像させます。

具体的に言えば、

物流や進軍の経路や
大規模兵力を展開出来る戦場が、

以降の時代に比して
著しく限られていたこと
思われます。

地形の影響を受けにくい
合理的な歩兵戦への移行が
中々進まなかったのは、

身分制の既得権益にこだわる
メンタリティ以外にも、

踏み込むと迷うレベルの
広大な原生林等が
多く残っていた事情が
あったのかもしれません。

―が、この辺りは
サイト制作者の想像です。

1-5、国邑と鄙邑の関係

さて、話を、
開発から点と線の支配に戻します。

まず、国邑と私邑の関係ですが、

土口史記先生
「春秋時代の領域支配」によれば、

国邑の主・国君は、
領内の大夫の私邑に
略地(巡察)を行い、

対して、私邑の大夫
国邑に出向き、
朝(謁見)を行います。

双方の行為が
定期的に行われることで、

両者の関係が保たれます。

しかし、国君は私邑の支配には
手を出せません。

また、私邑は、
いくつかの属邑を
支配下に置いています。

私邑とその支配下にある
属邑の関係は、

邑大夫あるいは、
邑長を介した間接支配です。

国君や邑大夫が
直臣や直轄地以外の
家来の邑の人口や耕地面積等を
把握している訳ではありません。

1-6、血族の結束と属邑

こうした分権性を担保する
要因として、
血族集団の関係があります。

要は、同じ先祖を持つ血族同士で
集住する訳です。

当然、居住地・居住区の長は
氏族の長でして、

その結果、邑大夫や邑長の
邑内における支配が
強固であるという次第。

ここで、
国邑―族邑―属邑の
ピラミッド構造の
一事例を挙げますと、以下。

康王(10世紀前半頃か)
の時代に配下を宜侯に封じた
ことが記された青銅器が
出土しまして、

これにその辺りの事務的な話が
記されていたようでして。

この辺りの話は、

入手しやすい本ですと、

例えば、
故・貝塚茂樹先生・故・伊藤道治先生の
『古代中国』、

飯尾秀幸先生
『中国史のなかの家族』
詳しく記されているのですが、

それらによると、

宜の詳細な場所は
分からないものの、

まず、宜なる国には、
宜と鄭という
私邑(族邑)があり、

それらの支配下の属邑は
計35箇所あります。

また、宜には、

大別して、
以下の3種類の人々
居住していました。

「王人」と呼ばれる周王室と同族
17姓の大家族集団。

宜の地への移住者で、
家長を中心に
ひとつの邑に居住し、

自作農で世帯の戸主は従軍します。

さらに、族長レベルは
国の大夫となり、
要職に就きます。

どうも、国邑や国人に相当する
社会階層に見受けます。

次に、鄭の7名の小貴族
率いられた1050名の人々。

これもヨソからの移住組でして、
戦車の管理や牽引馬の飼育等、
色々な雑役に従事します。

そして、庶人と呼ばれる、
616名の土着の人々です。

世帯主だと言われていまして、
1世帯5名と仮定すると、
大体3100名弱か。

これら「庶人」の人々は、

いくつかの邑に分かれて
各々がひとつの血族集団を作って
生活しています。

こうした氏族の血の結束が及ぶ
地理的範囲も氏族の勢力によって
まちまちです。

1-7、血族を別つ居住区

もう一例を挙げます。

先述の
西周から春秋時代前半の
状況についてです。

故・五井直弘先生
「春秋時代の縣についての覺書」
によれば、

故・増淵龍夫先生の研究
踏まえつつ、
(サイト研究者が
恥ずかしながら未読につき、
こういうまどろっこしい書き方に
なりました。)

温の邑内には、

諸(氏)族の族人が
古い氏族的秩序を保持しながら
各々の
(城内で区画された居住区)に
分かれて住み、

その長者里君として
族人の統制に当たっており、

この仕組みは
属邑も同様であった模様。

つまり、国邑であれ、族邑であれ、
一定規模以上の邑内では、
氏族単位で居住区を持つ訳です。

さらには、

蘇公は温邑に住む
諸族の邑長であると共に、
属邑の支配者でもありました。

そこで、

温邑や属邑の各々の里に
分かれて住む諸属を
統制するために諸官を置き、

諸族の中から有力な者を
卿大夫として諸官に宛てる
という仕組みです。

一方、故・伊藤道治先生の
『古代中国』によれば、

西周の邑は、
ひとつの邑が
ひとつの血族集団で
構成されていたことは
間違いない、

と、しています。

この辺りの話を整理すると、

成程、邑のスタンダードな
在り方としては、

ひとつの血族集団が
一邑を成すことなのでしょう。

例えば、人口増加と耕地の不足で
キャパシティを越えた邑で、

分家筋がその本邑を出て
ヨソに新たに邑を作る場合等、

こうした状況が有り得るかと
思います。

してみれば、
属邑レベルでは
邑長の支配が強固なのは
その辺りに起因するのでしょう。

しかしながら、現実には、

一定規模以上の邑となると、
集団での入植者が多くいる訳で、

そもそも周王朝自体が
そうしたルーツを持ちます。

そのうえ、
これが春秋時代になると、
占領政策として
邑の原住民を追い出す、

あるいは、その逆で、
喰い詰めた人々を集めて
特定の邑に大量に入植させる、

といったことも
行われるようになります。

大国がそこまでやる理由は、

亡国の民が血の結束で
息の掛かった近隣の邑を
巻き込み、

大規模な反乱
大国の中枢を抉るレベルの
政治工作を企てるからです。

それはともかく、

属邑レベルでは
ひとつの血族集団で
一邑を成すところが
あったにせよ、

一定規模では、
居住区を隔てることで
複数の血族集団が共存し、

さらに時代が下れば、
血族で固まってすらいない
邑や居住区も増えた、

―という話と推測します。

春秋時代の県や
戦国時代以降の集権制の県にも
繋がる話ですし、

一方で、例えば、「里」という言葉が
漢代の末端の村を意味することで、

当然ながら、

同じ血族で
ひとつの居住地を持つという観念と
並存したということなのでしょうが、

この辺りは、
もう少し調べたいと思います。

1-8、国軍の中核・国人の軍

さて、こうした
邑のレベルで
複数の血族集団の共存する
国ですが、

他国と戦争なんぞ
やろうものなら、

邑自体の規模の大きさによる
兵士の動員力があり、

かつ、特権階級の既得権益である
戦争(外征)のノウハウのある国人が、

必然的に国軍の主力になる訳です。

当然、平時には
威力のある
暴力装置でもありまして、

国君や卿大夫
彼等の利害に背くことを行えば
相応の反撃を受けるので、

反対に、
連中を抱き込もうとする訳です。

2、『周礼』地官から見る軍事動員
2-1、連動する軍制と民政

以上、西周末から春秋の前半の
領土・領民の大体の概念について
触れたところで、

いよいよ、
『周礼』の軍事動員の御話
入ろうと思います。

まずは、以下の表を御覧下さい。

これは、当時の国レベルの
軍の階級と各々の階級ごとの
指揮下の兵数を表にしたものです。

ここで注目すべきは、
階級と兵数はおろか、

身分や平時の行政組織の地位とも
対応関係にあることです。

つまり、有態に言えば、
周代以前は領主の軍隊です。

特に、大夫以上の領地持ちは、
その土地では絶対君主でして、

高木智見先生によれば、

領地の多寡に関わらず
戦士階級という意識を
共有出来た基盤は
ここにあった模様。

言い換えれば、

戦国時代以降の軍人官僚は、
例えば「何処こその領地に〇〇戸」
と言えども、

その領地の支配権はなく、

当該の領地の収穫分だけを
受け取るという仕組みです。

さらには、領民は、

平時には、
家(≒戸か)数単位で
組織されており、

有事の際には、
この組織がそのまま横滑りで
軍事組織となる訳です。

こうした上下の秩序や結束が
保てる基盤として、

個々の領民が祖先を同じくする
氏族という血の繋がりが
ありました。

この辺りの事情は、
鄙邑の状況と同じだと思います。

要するに、
領民=親戚で、
卿大夫はそうした血縁集団の長。

また、故・伊藤道治先生曰く、

世の古今東西を問わず、

民族移動を行う集団には
必ず軍事組織が存在し、

そして、王室の周も
その例外には漏れぬとのこと。

観光史の某書にも、

西洋史の事例をベースに
似たようなことが
書いてありました。

2-2、支配者層・卿大夫

次に、表中の身分についても
少々纏めます。

この辺りは、
『古代中国』の故・伊藤道治先生の
説明の要約です。

サイト制作者がこれまで
テキトーな理解で流して
痛い目を見たこともあり、

折角ですので、
同書の御一読を。

西周時代の国レベルの場合、

上から卿・大夫・士
あります。

各々の上下関係は、
大夫を軸に考えると
分かり易いかもしれません。

まず、大夫以上が貴族で領主様。
そして、大夫の中で大臣になるのが卿。

もっとも、

これが時代が下って
春秋時代の後半、
特に前6世紀の
後半以降になると、

大夫という言葉も、

独立した土地持ち貴族
というよりは、

諸侯や世族(有力氏族)の派遣する
地方官のような意味合いが
強くなって来ますが、

これは後述します。

2-3、政策の実働部隊・士

そして、士。

これが流動的でややこしい
社会階層ですが、

支配階層である大夫・諸侯と
被支配者層である庶人との
間にあり、

庶人の実情に通じて
上下下達の実務をこなします。

で、その出自ですが、

大夫の一族の中の下層の者、

あるいは、

原住農民の邑長その他、
集団の長、

もしくは、

没落して
農村で自作農や小作農になった者、

という具合に、
実に様々です。

要は、大夫の国邑(居城)内の
下層の者か、

大夫の氏族が
領内の農民とかかわった後に
地域の有力者や実力者として
取り立てられた者、

―ということになりますか。

士も最上級となると、

戦闘員75名・
輜重兵25名を統率し
戦車に座上する指揮官クラスで、

木っ端役人とは言い切れない
存在と言えましょうか。

2-4、戦闘単位アレコレ

兵数と戦い方の関係についても
少々言及します。

まず、最小戦闘単位の伍。

これは先の記事で紹介した通り、

5名で縦隊を組み、
弓・長短の得物を持ち寄って
距離で死角を作らないようにします。

次に、両。

これは伍を5個縦隊に組んだ隊形で、

縦横の真ん中に指揮官の両司馬が立ち、
全方位に備えます。

戦車を抜いた防御隊形とも言われます。

さらに、この25名については
各々の兵士の身分に応じた
細かい分け方も
あるようですが、

これは後日の記事にしますので、
悪しからず。

さらに、100名について。

もっとも、

戦車戦の時代と
戦国時代以降とでは、

戦い方が異なることと思います。

春秋以前の戦車戦では、
両が3隊(内、3人乗りの戦車1両)
25名の輜重兵の編成。

戦国時代の場合は、
恐らく100名の歩兵方陣。

また、その下に、
50名単位の組織があり、

伍を最小単位とした
方陣を組みます。

100名を超える組織については、
残念ながら、
サイト制作者の不勉強で
分かりかねます。

と、言いますか、

これを調べたいがために
このサイトをやっているような
ところもあるのですが、

回り道が長いことで、
なかなか辿り着けないのが現状。

それはともかく、

戦車部隊にも
編制単位がありまして、

例えば、春秋時代の
楚の王の直属部隊には、

「広」という
戦車15両の編成単位があり、
(左右があり、計30両)

戦車1両当たり卒・100名の歩兵が
付きます。

また、軍将・卿の1軍以上の規模は、
軍の数で決まる仕組みです。

余談ながら、参考までに、

時代が下ると
どのように変遷するのかについて、
少し見てみましょう。

これは、以前作成した表に
少し加筆したものです。

大体の流れとしては、
戦車戦から歩兵戦に移行する
内容です。

5・10・50・100と、
方陣の布陣を前提にしたものと
言えます。

当然、騎兵は、
これとは別に戦法があります。

また、春秋・斉については
典拠は『管子』で、

これは浅学なサイト制作者が
後日知ったことですが、

『周礼』も『管子』も
後世の加筆があるものの、

『管子』の場合は
事務的な部分については
時代の実情に即しているそうで、

その意味では
どう扱ったものか困っています。

ただ、ここでは、

軍事組織と民政組織が
連動している点については、

この時代の実情に照らし合わせて
参考になろうかと思います。

2-5、軍役と身長と加筆の可能性

続いて、領民の軍役について
触れます。

『周礼』地官・郷師之職に
次のような件があります。

國(国)に中(あ)たり
七尺より以て六十に及び、
野、六尺より六十有五に及び、
皆之に征く。

国地域は身長7尺以上で60歳以下、

野地域は6尺以上、
65歳以下の男性に
外征の義務がある、

という訳です。

で、ここで、面倒なのは、
尺の長さ。

周代は1尺18cm、
秦漢時代は23.1cm。

ですが、若江賢三先生によれば、

秦尺は国家が決めたとはいえ、

それまで民間で
大々的に使われていたもの
国家規格にした経緯があり、

その意味では、
戦国時代のものと考えて
差し支えないそうな。

また、古代中国の
長いスパンで見れば、

歴代の中華王朝の御約束として、

1歩(厳密には2歩分の歩幅)が
大体140~150cm
になるように度量衡を定めており、

例えば、唐が1尺を
6歩から5歩に改めたのも、

1尺の長さが31.1cmと
長くなり過ぎたからとのこと。

王朝がこういう拘り方をするのは、
軍事(行軍や隊列)や
農事(耕地面積)と
不可分の関係にあるからです。

そのように考えると、

周代の7尺は126cm、
秦尺に換算すると、161.7cm。

精兵を選抜する観点からすれば、
後者の方が理に適う訳で、

つまり、この部分は、

どうも戦国時代以降の
加筆の可能性が高そうな。

また、野の地域には
外征の戦闘行為の義務は
ないとしながらも、

こういう基準を
設けること自体、

尺の話と同じく、

戦国時代の感覚で
総力戦の動員基準として
書かれた箇所なのか、

あるいは、
軍夫としての動員の話なのか、

その辺りは浅学にして
分かりかねますが、

文脈から考えると
軍夫の動員基準かと思います。

2-6、【雑談】野の概念と虎

余談ながら、
前4世紀のほとんど終わり頃、

孟子(斉や楚に圧迫される小国)
の文公に後述する井田制を説く際、

「野人」という言葉を
連発していまして、

連中が働かねば税収が入らないので
君子が導け、と、宣う訳です。

その90年弱後には、
秦が全国統一を果たします。

国野の概念自体は、

戦国時代には、大国の場合は、
大規模な軍事動員で消滅するのですが、

地域によっては
この辺りの時代まで
残っていたのかしら、と、
想像する次第。

さらに、与太話を続けますと、

例えば、政治の世界で、
下野するという言葉がありますが、

今日のイメージで言えば、

ピークを過ぎたか
選挙に勝てない政治家が
引退して静かな余生を過ごすか、

あるいは周辺領域で生活するか
他の世界に転身するかで、

必ずしも悪いイメージの言葉では
ないかもしれません。

しかしながら、

周か春秋の時代にまで
その語源をたどれば、

タイガーマ〇クになった
李徴宜しく(唐代の話ですが)、

人間を辞めるレベルの
取返しの付かない話に思えて
なりません。

ですが、周から春秋における
戦乱の長期化に起因する
色々な分野での自由化の流れで、

政治参画する人も出て来る訳で、

例えば、孔子の高弟の子路などは
野人から身を興した人の一例。

抜群の行動力と
垢抜けていない言動の差異や、

散り際に冠を正す痩せ我慢等、

出自や向上心を彷彿とさせるものを
感じます。

2-7、編制単位と軍役

では、国や野のイメージについて
多少なりとも言及したことで、

引き続いて、
国野双方の民政組織の
編成単位について触れます。

早速ですが、
以下の表を御覧下さい。

これは『周礼』地官の内容を
纏めたものです。

国野双方、平時においては、
このような編制単位で
統治されています。

大昔(仰韶文化の時代)から、
大体、田畑は別にして、
1家辺り5名程度の小家族の模様。

よって、表中の数に5を掛けたのが
実数に近い訳です。

上の表のように、
国の地域については、
先に掲載した軍隊の編成単位と
連動する関係にあります。

さらには、各々の組織単位内で
一定の互助関係もあります。

さて、手始めに、表にはない
野の地域の軍役について触れます。

まず遂ですが、

佐藤信弥先生
『周―理想化された古代王朝』
において、

『54史密簋(しみつき)』
という史料で、

「師俗率斉師・遂人左、
〈周〉伐長必」
という文言を、

「師俗は斉地の軍と
在地の民兵を率いて
左から長必の地を攻撃し」

と、訳されています。

これは、西周後半期の
東方での周の防衛戦争
一幕ですが、

この「遂」とは
先述の野の地域の民政の編成単位。

地元の防衛行動への
軍事動員かと思われます。

とはいえ、
野の地域には、

以下のような
国の地域に対する
具体的な動員規定に
相当するものがありません。

乃ち萬民の卒伍を會しこれを用う
五人を伍と為し、五伍を兩と為し
四兩を卒と為し、五卒を旅と為し
五旅を師と為し、五師を軍と為し
以て軍旅を起こす
(『周礼』地官・大司徒之職)

の地域には、
獣害の備え等から
最低限の武力はあるものの、

やはり、概説通り、
外征における戦闘行為が可能な
常備軍めいた戦力は
認められていないのでしょう。

一方、野の地域には、
各々の編成単位ごとの
担当役人職責があります。

組織の上の方から
見ていきます。

まず、地方官としての
遂師(下大夫)の職務には、

「軍旅、田獵に野民を平らげ、
禁令を掌る
(『周礼』地官・遂師)

と、あります。

以下、県の長の県正には、

「もしまさに野民を用い
師、田、行、役に移れば執事し、
則ち帥べるに至り、その政令を治む
(『周礼』地官・縣正)

師:戦争
田:狩猟
行:旅(外征か)
役:労役

執事:その職の中心として働く

大体このクラス以下が、
事務的な実働部隊
なのかもしれません。

さらに、県正の部下の
県師(上士・中士)については、
以下のようになります。

もしまさに軍旅有らば(中略)、
田役はこれを戒め、
則ち司馬において法を受け、
以て眾庶に作(いた)り
馬牛車輦に及び、
その車人の卒伍を會し、
皆をして旗鼓兵器を備えさせ、
以て帥べるに至る。
(『周礼』地官・縣師)

會(会):集まる
輦(レン):手車
卒伍:周代の編成単位、
もしくは編制された兵士

実は、サイト制作者は、
この部分の解釈が
出来かねます。

には、召使いという意味も
ありますが、

文字通り、
卒伍を兵士と解釈すれば、

国の地域の手隙の戦車兵が
武器を製造・修理し、

それを野の地域の官が差配する、
ということになります。

ここでは、あるいは、
卒伍を召使い、
車人を荷車の軍夫と
取るべきか。

次いで、県の下部組織の鄙には
具体的な職務は
明記されていませんが、

その下の酂長には、
以下のような件があります。

各(おのおの)
その酂の政令を掌り(中略)、
もしその民を作し
これを用いれば、
則ち旗鼓兵革を以て
帥べるに至る。
(『周礼』地官・酂長)

作(な)す:任命する
兵革:武器と鎧兜

要は、兵器の管理修繕の話だと
思います。

さらに、酂の下部組織である
についても、
以下のような件があります。

比、その邑の眾(衆)寡と
その六畜、兵器を掌り、
その政令を治む。
(『周礼』地官・里宰)

比:仲間・ともがら・同類
六畜:馬・牛・羊・犬・豕・鶏

このレベルになると、
家畜の管理義務も生じます。

それ以外には、
サイト制作者が気になるのは
「比」という言葉。

これは、国の地域の
5家の単位も意味しまして、

穿った見方をすれば、

後世の加筆であれば、
国野の概念が混在している
ようにも見受けますが、

ここは素直に、
近親者や隣人程度に
理解しておきます。

3、変遷する県の領域
3-1、先行研究の多い春秋県

その他、後世との絡みで言えば、

例えば、都市部で
「州」が付く地名は、

あるいは、
この時代には存在した邑
なのかもしれません。

そして、見るべき点はと言えば、
縣(県)という単位。

この辺りの話は、

新しい研究では、

先述のアレなイラストで
大変御世話になった
土口史記先生

「春秋時代の領域支配
―邑の支配をめぐって」
『東洋史研究』65-4

を挙げておきます。

先行研究の整理も秀逸です。

因みに、PDFで読めます。

国立情報学研究所の
論文検索サイト
ttps://ci.nii.ac.jp/
(1文字目に「h」を補います。)

因みに、サイト制作者は
今回の記事を書くに当たり、

この論文の他にも、

五井直弘先生の
「春秋時代の縣についての覺書」、
『東洋史研究』第26巻・4号、

増淵龍夫先生の
「春秋時代の縣について」
『一橋論叢』38(4)

―等から、『左伝』の読み方を
教わったような気がします。

3-2、名ばかり県と抵抗運動

話を先行研究から
県の内容に戻します。

以下、先述の土口先生の
論文を中心に綴ります。

春秋時代になると、
他国の領土を併合して国君や大夫が
直轄化した土地を
と呼称するようになります。

ですが、この段階では、
まだ制度としての実態を伴わず、

占領地や属領程度の
意味合いです。

故・増淵龍夫先生によれば、
県(縣)は鄙と同義の模様。

本来は、鄙の小邑を
意味していました。

要は、国以外の田舎で、
野暮、卑しいという
ニュアンスもあり、

国野の概念が
背景にありそうなもの。

『周礼』地官の県も、
そのような意味合いなのでしょう。

さて、春秋時代以前の
中原の諸国場合、

大体、前7世紀辺りまでは、

各々の土地における
氏族の政治力が強かったことで、

戦争に勝って併合しても、
中々、完全な直轄化までは
行かないケースもありました。

しかも、周の冊封した国同士の
共喰いという引け目もあってか、

相手国の社稷を滅ぼすと
行き場を失った霊に祟られる、

―という、当時の社会観念と、

恐らくは、表裏をなします。

例えば、周王室の御家騒動で
王の政敵を庇った温(うん)
がそれに当たりますし、

特に、楚が蔡を滅ぼし、

その旧勢力の報復を受けて
戦争に敗れた楚王が
自殺したのは、

前7世紀どころか、
昭公十三年(前529年)
のことです。

3-3、集権化の時流

ですが、こういうタブーとは無縁の
秦・楚・晋の辺境では、
仁義なき直轄化
積極的に行われ、

その後、
このルールが中原に波及し、

県の領域自体も、

抗争の性格が
領土の境界線が意識されるものとなり、

それまで以上に細かい分割を前提にして
細分化されていく流れとなります。

ここで、面倒なのが、
県の具体的な領域です。

状況によって
意味する領域が異なることで、

サイト制作者も、
この辺りの事情の整理には
散々泣かされましたが、

例えば、楚が割合早い段階で
県にした申や息は、
かつては国。

つまりは、
外征軍が編制出来る規模の地域が
楚の県という訳です。

ところが、

昭公二十八年(前514年)の
かつての祀氏の田を7県に、
羊舌氏の田を3県に分ける、

しかも、かつての郤氏等のように
氏族として封建しない、

という具合に、
邑大夫が狭い土地を治める
地方官のような意味合いが強くなり、

あるいは、

昭公五年(前537年)
楚の晋に対する見立てとして、

10家9県で900両の戦車を
外征軍に動員し、

その他40県で
4000両の戦車を
留守部隊として残す、

つまり、1県100両の
均等な動員が可能
≒一律の動員制度の存在を
匂わせる、

という具合に、

時代が下って県の性質が
変って来ている、
という次第。

「酇」という県名も
複数出て来ることで、

郊外の小さい集落が
順調に発展して
めでたく県に昇格したのかと
想像します。

4、耕地面積と動員力
4-1、意外に続く100畝の観念

続いて、
田畑と軍事動員関係について触れます。

残念ながら、
サイト制作者の浅学にして、

現段階では、

家数と耕地面積の相関関係という
肝心な部分を
明らかに出来ていないので、

その辺りの話は他日にさせて頂きたく。

まずは、以下の表を御覧下さい。

これも主に『周礼』の内容の整理です。

先述の話から考えれば、

県だの邑だの、
編制単位と言葉の意味が
一致しなさそうなものが
少なからずあります。

周の御代と春秋時代とでは
言葉の意味するところが
変っているのか、

それとも後世の加筆で
そうなったのかは、

サイト制作者の浅学にして
分かりかねます。

そこで、見るべきところは、
耕地当たりの動員力
ということになろうかと
思います。

1夫という単位は、
1世帯(だいたい5名)で
兵士1名の供出を意味します。

例えば、先述の、孟子の説く
井田制(せいでんせい)は、

9夫の田を井の字に配置し、
中心の田を国営とし、

これを1井とします。

残りの8世帯で1夫を耕作する、
というもの。

で、耕地面積ですが、

漢代の解釈では、
井は1里四方でして、

100平方歩=100畝。

これを周尺(1尺=18cm)
で換算すれば、

100歩=6尺×100で108m。

さらに
これを二乗すると116.64㎡。

つまり、1井=116.64㎡。

ところが、先述の若江賢三先生
「春秋時代の農民の田の面積」
指摘されているように、

時代を問わず
1歩=140~150cmとすれば、
春秋時代までは1歩=8尺。
(しかし、6尺も8尺も確証はないそうで。)

『周礼』考工記の武器の長さもコレ。
人の身長を8尺で計算しており、
周尺で合う計算です。

因みに、秦の成人男子の
身長の基準は6尺半。

秦尺で換算して150cmチョイ。

サイト制作者のカンに過ぎませんが、

実利的に考えると、

確かに、古代中国の話として、
細かい時代を問わず、

1歩=140~150cmの線で
計算すると、
辻褄が合う話が多いように
見受けます。

そのうえ、
穀物(粟)1斛(こく=100升)
当たりのマスは、
戦国時代のものは
春秋の倍の容量だそうで、

詳細は省きますが、

結局、1夫当たりの面積や
100畝当たりの収量は、

現代の数字に換算すると、

中原諸国における
1世帯当たりの耕地面積は、

春秋から戦国時代まで
あまり変わらないそうな。

恐らく、それ以前も
これと大差ないのでしょう。

戦国時代の中原諸国では
100畝で粟を150石(=斛)
収穫出来まして、

当時、1升=0.194ℓで、
これを石換算すると、
2910ℓとなります。

4-2、肥沃な関中と鉄器

とはいえ、

平均は変わらない、
と言いましても、

秦の関中のようなところは
例外でして、

商鞅の改革の際には、

土地が広いうえに
牛耕もパフォーマンスが良い
という事情に鑑み、

古い畦道を潰す等して
耕地整理を行ったうえで、

240畝=1歩で計算しています。

ですが、これも、
自由に開発出来る占領地の中でも
かなり優良な耕地のケースのようで、

漢代の武帝の勅令ですら、

240畝=1歩は
実質的には
努力目標に過ぎなかったそうな。

技術面でも、

例えば、鉄器の普及とて、

そもそも、
古代中国においては、

鉄自体が
今日で言うところの
レアメタルのような
位置付けでして、

生産には膨大な資本を必要とし、
そのうえ
管理を厳重に行います。

漢代ですら、
鉄製農具の管理も
例外には漏れません。

つまり、鉄器の普及
政治力あってのものです。

4-3、勧業政策の対価

また、飯尾秀幸先生
『中国史のなかの家族』
によれば、

の場合、
牛は集落単位の貸出で、

国や県が牛の状態を
厳重に管理します。

こうした状況を受けてか、

漢代においても、
貧困層は木や骨や石で
耕作しています。

そのうえ、

同じ飯尾先生の
御本によれば、

後述するように
集落の階層分解が起きて
邑長の専制支配が
崩れたとはいえ、

収穫から農地保全に至るまで、

集落の人海戦術で
農村を運営する構図は
少なくとも漢代まで変わらず、
(今も或る部分は
変わらないと思いますが。)

依然、行政からも
技術指導を受けます。

孟子が百畝の田と五畝の宅
副業せよ、という
経済モデルを唱えようとも、

これ自体は収支としては
それ程的外れではないにせよ、

社会全体としては、

どうも、

戦国時代に鉄器が普及して
生産効率が上がり、
経済的にも精神的にも
自立した中間層が急増した、

―という類の
めでたい話ではなさそうな。

4-4、勧業入植政策を想像する?!

これはサイト制作者の
想像の域を出ませんが、

春秋時代から戦国時代までの
耕地の全体像としては、

平均的に裕福になった、
というよりは、

鉄器や灌漑整備等で
大々的に資本投下された耕地と
それ以外とでは、

生産効率や収量の格差が
桁外れに大きかったのでしょう。

で、そういう地域の新中間層は、
恐らく国家の集権化の尖兵でして、

先述の県の話と連動して、

流民や貧困層等、
喰い詰めて国家には逆らわない
社会階層か、あるいは、

例えば、秦では、
過酷な軍役が前提の
軍功地主ではなかろうかと
想像します。

そのように考えると、

或いは、
1世帯当たり100畝
という『周礼』のモデルは、

戦国時代辺りまでは、

優良な耕地以外は、

存外、当たらずも遠からず
なのかもしれませんし、

あるいは、
中原諸国が存在して地域においては、

灌漑の整備や
鉄器の普及が進むような
余程裕福な地域でもなければ、

農村の習俗や風景は、実は、

西周末から漢代の初め頃までは
それ程変わっていないの
かもしれません

4-5、戦車の動員単位・甸

兵士数に関する
軍役の話に入ります。

先述の通り、基本は、
1夫=1世帯で
兵士1名の供出ですが、

1甸(=576夫)で兵士75名と、

人数換算
501夫(501名)分の
余力があります。

一方で、この甸という単位で
軍馬4頭(戦車1両分)
・牛12頭
供出しています。

単純に計算して、

1割余の耕地の世帯に
兵役を課し、

残りの9割弱の耕地で
国の領域の兵器・物資を
賄う構図ですが、

野の領域にも
軍夫・物資の供出や
兵器の管理も課すことで、

国の領域の負担は
相対的に軽くなっている
ことでしょう。

もっとも、この構図も、
春秋時代から
段階的に崩れていき、

野の領域にも
兵員の供出
課されるようになりますし、

先述の通り、
戦国時代には
国野の概念自体が消滅します。

6、西周末から春秋時代を概観する
6-1、その整理作業にあたって

この章は、要は、概説書の
パッチワークです。

その編集の方法が悪いとはいえ、

(サイト制作者のような)
初心者にとっては、
初歩的な知識を得る分には、
まあ、大筋は合っているであろう、

という程度の話で
御願い出来れば幸いです。

ここまで、『周礼』より
軍の編成単位や
軍役に関する部分について
考察を行いました。

しかしながら、

サイト制作者としては
出来るだけ史実を意識して
綴ってみたものの、

周代が母体とはいえ、

後世の加筆のある
軍役モデルである以上、

中々、そのままの形での
戦国時代なり
後漢・三国時代なりへの適用は
難しいと思います。

そこで、せめて、

この軍役モデルの
どの辺りに限界があるのか、

あるいは、

前後の時代の比較を通じて、
少しでも虚実の識別に迫るべく、

かなりの荒技ではありますが、

西周の後半から春秋時代までの
政治・経済・軍事面での
大体の動向について、

座右のいくつかの
概説書の内容を整理して
年表を作成しました。

恥ずかしながら、

今回の記事作成に当たり
この作業が殊の外に手間で、
更新が大幅に遅れた
最大の理由です。

また、これに因み、

西周・春秋時代についての
今までのあやふやな理解を
強く悔いております。

とは言いながらも、
各段に賢くなった訳でもないのが
情けないところですが。

それはともかく、
年表の説明に入ります。

まず、歴史的なイベントが
余り書かれていない
ヘンな年表には違いありません。

書く側としても、

各々の事象について、
大体の時期を特定するのに
苦労しました。

それでは、まずは、
肝心の大筋の流れを
負うことにします。

6-2、混沌とした西周末期

やはり、起点は西周の勢力の
ピーク・アウトです。

『周礼』の軍役モデルも、

恐らくは、その存立基盤
それまでの領土拡張路線
ありました。

つまり、戦争で奪った土地を
次男・三男にも
与えられる仕組みです。

ですが、この路線が頓挫した後は、

礼制の整備で
当座の上下の秩序を回復には
成功するものの、

国力の低下に
歯止めが掛かりません。

王室は属国同士の
土地絡みの紛争
裁定が出来ず、

属国も属国で
物資を抱え込んで中央に送らない
と来ます。

そのうえ、
西周と長年対峙している
北方の異民族・戎は
首都の膝元で活発な軍事活動を行い、
ついには西周を滅亡に追いやります。

さて、大体この前後より、

属国の諸侯は、

西周の軍事力を
アテに出来ないことで、
軍隊を国邑(≒首都)に
集結させて領土の防衛を
企図します。

こういう状況が
長らく続いたことで、

先述のように春秋時代には国=城という
認識が定着したそうな。

6-3、南方の脅威・楚と覇者の時代

その後、中原諸国の外圧の中心
に移ります。

楚の北進も硬軟取り合わせたもので、

例えば鄭等、
周辺国を巧妙に懐柔し、
あるいは申や息等のように
属領化しつつ、

前線を北上させます。

そして、中原諸国は、

楚の脅威は元より、

諸国内でも慢性的な紛争
社会の上下が耐えられなくなり、

各諸侯は
盟主を担いで
軍事同盟を結成することを
画策します。

斉の桓公だの、晋の文公だのの
時代です。

三国五鄙や三行の編成といった
各種の改革は、

こうした名君の膝元で
行われた改革でした。

そして、こういう改革の過程で、
野の領域への
段階的な動員も始まり、

歩兵の有効性も少しづつ
証明されていきます。

当然、当の士大夫連中は、
既得権益を脅かされるので
見て見ぬフリを決め込みますが。

6-4、覇者・晋の内訌

さて、諸侯の権謀術策はと言えば、

異民族や楚相手の戦争では
結束するものの、

こういう同盟内の枠組みの範囲で、

当然ながら、国の内外で
ドロドロの内訌
繰り広げていました。

斉なんか、晋にとっては
敵味方定かならない
不気味な存在で、

楚が強ければ
晋・斉・楚の三国志めいた
構図も作り出します。

さらに、西方でも秦が晋に
侮蔑的な会盟を持ちかける等
これまたヘンな動きを見せます。

それでも万難を排して
覇者であり続けたのは、
やはり国君や世族の力量が
大きかったのでしょう。

それでも、晋の国内では
内訌が熾烈を極めており、

いくつもの世族が
刑場の露と消えていきました。

その理由として、

まず、名君の文公
若い頃に御家騒動で
エラい目に遭ったことで、

王の一族である公族を差し置いて
有力な家臣団である世族を
優遇したことが挙げられます。

ところが、
当然ながら当の世族共は、

文公と真逆のベクトル、

即ち、領土や要職を漁って
血の結束で系列化します。

当時、特に争いが激しかったのは、

対楚戦を想定した常備軍である
三軍・三行の
指揮官・副指揮官である
将・佐のポストの争奪戦。

そして、セカンド・ステージは
遷都問題と、

その後1世紀弱にわたって
世族間の熾烈な政争が続き、

いくつもの有力世族が
滅亡の憂き目を見ました。

6-5、対楚同盟の功罪

ですが、内訌はあっても、
対楚の軍事同盟が
上下の階級闘争を
封じていた側面もあり、

後発の家系の台頭は
抑え込まれていました。

むしろ、次の時代への胎動が
大きかったのは、

言葉は悪いですが、
(いつものことながら)

連中のシノギである
経済面かもしれません。

6-6、経済の自由化と下剋上

例えば、村落の統治ですが、

前7世紀の後半には、

西周の終りからその兆候があった
階層分化が激しさを増し、
邑長の支配が崩れました。

逆に言えば、それまでは、

先述のように、

邑と農地と領民
血縁関係で結ばれた
謂わば、三位一体の存在でして、

領主が邑長を介して
属邑を支配していました。

つまり、領主の卿大夫が
地方官を介して
個々の領民を支配していた
訳ではありません。

ところが、階層分化、
つまり貧富の差が開き、

内部分裂が起き始め、

邑長の統制力が弱まった訳です。

折しも、
社会規範となる礼制も緩み出して
地方にも市場が出来、

それまで士大夫の専売特許であった
商行為にも、
野の領域の人間が関与し始めます。

士の身分が流動的で
実務に堪能なことで、

農民が
血縁関係のある士の階層を通じて
商行為に接する機会が増えた
可能性もあるかもしれません。

一方で、田畑の開発と
築城等の過酷な労役
同時並行で進行しており、

農民の条件の良い土地への逃散
少なからず起きています。

こうした農民の階層分化の結果、

領主にとっては、
邑長を抑えるだけでは
必要な軍事戦力を整えることが
出来なくなりました。

要は、対楚戦争や各種内訌の
抗争の戦費工面で
下層階層への締め付けが厳しくなり、

当然、被支配者の側は
既存の枠組みではそれに耐えきれず、

諸々の分野で
なし崩し的に
自由化が進んだのでしょう。

一方の国君の側にとっては、

かつて周王が
画策して頓挫した
個々の農民の直接支配が、

この段階になって
本格的に視野に入って来た訳です。

前6世紀に入ると、

実務を知る大夫が
諸侯に代わって
政治の実権を握り出します。

先述の晋の将佐の争奪戦も
この頃の話です。

そして、その下の階層にある
士の政治参画も増え始めます。

この少し後に、

かの孔子の学団
格安の授業料で
庶人に門戸を開いたのも、

こうした野人・士の台頭という
時代背景があります。

6-7、パンドラの蓋?!晋楚講和

そして、ついに、
既存の社会の歪を
良くも悪くも抑え付けていた蓋が
外れる瞬間が到来します。

具体的には、
長年の不倶戴天の敵同士であった
前546年の晋・楚の講和。

それまでの国際関係の前提が崩れ、

特に、中原諸国では、
対楚戦を想定した軍役が不要となり、

晋の旗頭としての存在意義が
なくなります。

晋の外交関係どころか、

財政の足枷になるタガが外れて
目先の外交関係まで
読めなくなったことで、

社会の上下がひっくり返るような
状態になりまして。

鄭の子産の改革なんか、

軍の中核である国人が暴れて
身内を殺された後のことにつき、

一面では、
時勢に対する反動政策でも
あります。

これとて、
国人の田畑の不法占拠には
背後には軍役の重さが
絡んでいる模様。

6-8、戦争の革命児・孫子登場

さらに、一方の旗頭の
御家騒動で弱体化し、

そのうえ、思わぬ伏兵が登場し、
その楚を滅亡の手前まで
追い込みます

御存じ、伍子胥・孫武を擁する呉。

ここは、そもそも、
文化的には
中原との関係が薄く、

地形も中原に比して
平地が少ないことで、
歩兵戦を受け容れる素地
ありました。

そのうえ、6世紀の前半頃から、
晋がこの国にテコ入れして
楚を牽制させていた
事情があります。

そこに中原を知り尽くした
孫武が仕官し、

さらには、

従来の戦争とは一線を画すレベルの
長期的・戦略的な戦争プラン
大国・楚に牙を剥きます。

具体的には、

複数年のスパンで
執拗な侵略と撤退を繰り返し、

迎撃に出て来る楚の兵を
徹底的に疲弊させ、

そのうえで
漸く決戦を行う訳です。

時に、前511年。

因みにこの10年前、

―『左伝』で言うところの
昭公二十一年には、

晋・斉・宋・衛・曹等の
中原諸国と呉が
激しく鎬を削りまして、

その折、

晋の公子・城と
呂の封人・華豹の
弓合戦がありました。

これが凄まじいもので、

まず、華豹が一矢目を外し、
さらにもう一矢、という所で、

城曰く、
「狎(こもごも)にせざるは鄙なり。」

狎:交互に
鄙:卑しい
ここでは卑怯(小倉芳彦先生訳)

そして、律義に城に射させて
息絶える華豹。

城が華豹の二矢目を
言い逃れたのは
咄嗟の機知かもしれませんが、

射させた行為の背景には、

高木智見先生によれば、
射礼があると言います。

これは交互に弓を射合う
士大夫の社交と武芸を兼ねた
嗜みでして、

こういう流儀で
戦争をしていたことになります。

因みに、
孔子本人も射御―
弓と戦車操縦の名人で、

直弟子の戦車乗りも
戦争の流儀はこの調子。

ところが、
そうした士大夫同士の
息詰まる弓合戦の僅か10年後に、

歩兵を中心にした
それまでにない戦略レベルの
偽装退却を前提とした
奇怪な対楚戦争を発動したのが、

時の呉でありました。

6-9、【雑談】孫子の兵法と孔子様

誤解を恐れずに言えば、

当時の感覚としては、

確かに画期的な反面、

やる方は卑怯で狂っている、

という感覚ではなかろうかと
思います。

とはいえ、
自由化の時代の結果オーライで、

衛の霊公なんぞ、

社長面接に臨む
戦車戦のプロで
何故かフリーターの孔子に
流行りの歩兵「陣」を聞いて
知らん顔されて、
(意訳につき、責任は持ちません)

当然ながら、

志望職種は君子です、な、
高飛車な先生に、

貴意に添えず、
と、やり返します。

スポンサーにとって
抽象的・非実用的なものが
中々売り手の儲けに
なりにくいのは、

世の古今東西を問わぬ模様。

―そのうえ、

孫子のそのイカレた戦法が
戦国時代以降の常識になるのは
御周知の通り。

もっとも、その下地は、
既に、晋の軍拡を中心に、
漸次整えられていたと
言えるかと思います。

とは言え、

実利と秩序を
天秤に掛けた時に、

竿がどちらに触れるのかは、

その時代の状況に
よるのでしょう。

社会に秩序を遵守する
余裕がなければ、
実利に傾く、

という話なのかもしれません。

また、こうした
頭数も兵糧も
大量に必要になる体質の
軍隊を養うには、

相応の資力や官僚組織が
必要になります。

具体的には、
先述の県の支配の話です。

支配者側にとっては、

領土が広かろうが
言うことを聞かない属国よりも

狭かろうが、
息の掛かった地方官を通じて
搾取出来る県の方が
都合が良い訳です。

有力諸侯が、
土地争いの際に
土着の氏族の影響力を
骨抜きにして
土地を寸断するようになるのが、

大体、前6世紀の後半以降の御話です。

もう少し正確に言えば、
呉の対楚戦争の少し前か。

おわりに

そろそろ、今回の記事の内容を
纏めようと思います。

概ね、以下のようになります。

1、周から春秋時代の国は、
国、野に大別出来る。

また、国境を「竟」
あるいは「疆」という。

2、未開の地が多かったことで、
国境の不明確な地域も多かった。

また、国の領土支配は
拠点に対する点と線の支配に
近かった。

3、国は首都に相当する邑、
野はその周辺を意味する。

なお、邑は、防御施設のある
居住地を意味する。

4、国に住む人々を国人といい、
軍事(外征)、政治、教育、
重要産品の商行為を独占していた。

野に住む人々を野人といい、
上記の権益から排除され
過酷な賦役義務があった。

5、邑の序列は、
一、首都に相当する国邑、
二、有力な血族の支配する族邑や
国君の直轄地である公邑
三、二の邑の支配する属邑
上記の3種に大別出来る。

また、二、三を含めて
鄙邑とも言う。

6、規模の大きい邑には
複数の血族が雑居するものの、
各々の血族が別々の居住区を
設けていた。

7、国軍の中核は国人が担った。

国邑の動員力が大きく
戦争のノウハウも鄙邑を
圧倒的に凌駕するのが
その理由である。

8、国人の有事の軍事組織と
平時の民政組織は連動していた。

また、兵士の編成単位は
平時の戸数に相当した。

9、国人は下士から下大夫で
構成されていた。

また、士の階層は、
野の有力者から成り上がった者も
含まれており、

出自は流動的である反面、
政策の実働部隊でもあった。

10、供出する兵士や牛馬
といった軍役は、
耕地面積と連動していた。

1甸(576夫)当たり
戦車1両・兵士75名・牛12頭が
ひとつの目安である。

11、『周礼』の定める行政単位と
春秋時代の実情には、
恐らく相当の乖離がある。

特に、県については、
春秋時代においても
意味する領域は
かなり変化があった。

12、1世帯あたりの耕地面積は、
関中や相当資本投下された地域を
例外として、
漢代の初め頃までは
それ程変わっていない可能性がある。

13、西周後半から春秋時代の
時代区分は、
以下の3時期に区切ると
大分分かり易くなる可能性がある。

1、西周後半から末期の混乱期
2、対楚同盟による覇者の時代
3、晋楚講和以降の下剋上の時代

なお、3の時期も少し下ると、
呉の対楚戦争で戦争の常識が一変する。

14、政治上の動乱と関係を持ちながら
身分や経済上の自由化が進行し、
軍事革命や国家の集権化を助長した。

15、肝心な『周礼』と時代の実情との
相違点はそれ程明確に出来なかった。
他日の再戦を期したい。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

『周礼』
『周礼注疏』
『漢書』
『後漢書』
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻
土口史記「春秋時代の領域支配」
五井直弘「春秋時代の縣についての覺書」
増淵龍夫「春秋時代の縣について」
「春秋時代の貴族と農民」
若江賢三「春秋時代の農民の田の面積」
古賀登「阡陌制下の家族・什伍・閭里」
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』3
愛宕元・冨谷至『中国の歴史』上
愛宕元『中国の城郭都市』
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』
佐藤信弥『周』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
原宗子『環境から解く古代中国』
飯尾秀幸『中国史のなかの家族』
高木智見『孔子』
浅野裕一『孫子』
湯浅邦弘『中国思想基本用語集』

【場外乱闘編・時代を遡って妄想する】

(本論にあまり関係ない雑談の類です。)

更新が大幅に遅れたことについて、
重ねて御詫び申し上げます。

私事で恐縮ですが、

今回は、大きな阻害要因が
なかったにもかかわらず、

身の丈を遥かに越えた内容と
格闘した末に、
とにかく疲弊した心地です。

特に、最後の方は、

一刻も早く書き上げて
試行錯誤の止まらない執筆作業から
解放されたかったのが
偽らざる心境でした。

さて、このブログを開設した当初は、

如何にタイトルが
「古代中国」とはいえ、

まさか、周代まで遡って
モノを考えることになろうとは
思いもしませんでした。

いえ、むしろ、恥ずかしながら
避けていた位でして。

ですが、三国志や戦国時代の
時代考証を進めるうちに、

特に社会の下層部分では
時代ごとの断絶性が
思った程には感じられず、

そうした部分から
目を背けていたツケを
かなり清算させられたような
気がしてなりません。

例えば、三国時代を対象とした
『後漢書』『正史』は元より、
『華陽國志』、『後漢紀』、
『東漢観紀』といった史料は、

あれだけ戦争をやった
時代にもかかわらず、

断片的な逸話こそ
少なからずあれ、

中々、兵隊の世界を
素直に語ってはくれません。

サイト制作者の読み方が
悪いこともあるのでしょうし、

この種の史書自体が
そもそもその種のことを
書かないと言えば
それまでで、

一方で、散逸している
事務的なマニュアルの類も
多いことでしょう。

ですが、そうした要因を
抜きにしても、

戦国時代に書かれた
政体書や兵書の内容を考えれば、
どうも隔世の感が否めませんし、

五胡十六国時代や隋の王朝史も
軍隊の末端の事情については
詳しく書かれている訳では
ありません。

【追記】
すみません。法螺が過ぎました。

曹操の『歩戦令』とか、
孔明先生の兵法関係のものとか、
後から出て来るんですね。

書き上げた後の精神状態が
アドレナリンが出まくって
一番ヤバいことで、
この駄文、消したい心地。

【追記・了】

恐らく、そうした理由として、
あくまで愚見ではありますが、
以下。

魏晋以降に筆を取った
知識人の間では、

軍隊や兵士の概念が
或る程度完成されており、

当時としては、

官兵であれ、豪族の私兵であれ、

彼等にとっては
身近で普遍的な存在であったの
かもしれません。

言い換えれば、

彼等にとっての軍事的な常識は、
その少し前の時代に
出来上がっていたのだと思います。

何名かの先生方が
指摘されているように、

戦国時代に戦争の形が大体整った、
という説は、
恐らく本当なのでしょう。

ですが、後世の視点で
アレコレ考える
サイト制作者としては、

無論、隊列を組んで弓を引いて
刀剣で人を殺したことなど
ある訳もなく、

そうした戦争の「常識」なんぞ、
知る術がありませんで。

―で、上記のような
妄想めいた仮説で
時代を遡って調べることを
思い付いて以来、

結果として、
さしたる成果も上げられず
悪戦苦闘している日々ですが、

差し当たって次回以降は、

当分、もう少し、
内容に地に足が付いたことを
やりたいと思います。

カテゴリー: 世相, 人材, 学術まがい, 経済・地理, 言い訳, 軍事, 軍制 | 2件のコメント

近況報告

土口史記「春秋時代の領域支配」、稲畑耕一郎監修「図説 中国文明史3」、伊藤道治・貝塚茂樹『古代中国』、原宗子『環境から解く古代中国』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、愛宕元『中国の城郭都市』、小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻、等より作成。

まずは、更新が大幅に遅れて
大変申し訳ありません。

その理由として、

まず、盆に
ゲームに狂っていたのも
悪いのですが、

恐らく、それ以上に、

調べたことを書くに当たって
中々その切り口が見つからず、

その試行錯誤
時間浪費したことが
最大の理由です。

さて、目下作成中の記事は、

『周礼』地官
軍事動員についてのものです。

ですが、史料の性格柄
虚実定かならざる部分
あることで、

思い切って、

これに関する
西周末と春秋時代の
時代背景の整理にまで
踏み込むこととしました。

『管子』や『逸周書』等
一応は、この時代のものとされる
文献を読むための
下準備という
スケベ心があり、

さらには、サイト制作者の
当面の目標である
戦闘単位・「両」の理解にも
役に立つと考えたからです。

もう少し言えば、

戦国時代以降の俸給制の軍隊と、

平時の民政組織が
有事の軍隊組織に横滑りする
封建制の軍隊との違いを
知りたかったことも
ありまして。

―ところが、
サイト制作者の
作業量の見積もりが
あまりにも杜撰でして、

結果として、
これでエラい目に遭いまして。

具体的に言えば、

国野の概念の整理に追われ、

「県」の定義
時代ごとの
支配領域の変遷に攪乱され、

挙句、「邑」そのものの性質
邑と領土との関係
イマイチ分からない、
―という具合です。

因みに、

「県」は、春秋時代は
紀元前6世紀中頃までは
諸侯が他国より併合した
属領を意味し、

それ以降は、
秦漢時代程ではないにせよ、
直轄支配を伴う意味合いが
出て来ます。

ですが、
後日紹介する予定ながら、

周制では、
郊外の地域「野」の
2500戸の行政単位
「県」と呼び、

そのうえ、
「県」の領域自体も
一定ではありません。

国ごとまるっと併合して
県と呼ぶ場合もあれば、

併合した領土を細分化して
県と呼ぶ場合もあり、

挙句、時代が下ると
恐らくは画一的な動員基準で
兵隊を供給する県にもなる、

―という具合で、

こういう概念の整理が
面倒なこと
このうえなく。

また、「邑」は、
規模の大小を問わず
防御施設を伴った居住区です。

一国の中心的な大邑を
「国邑」などと呼びます。
首都でもあります。

―このような次第で、

調べ事を進める度に
1歩進んで2歩後退で、
新な疑問が生じるという悪循環。

そのような中、

冒頭のイラスト中の
参考文献の中にある
土口先生の論文、

土口史記「春秋時代の領域支配
―邑の支配をめぐって」
『東洋史研究』65-4
(PDFで無料ダウンロード可)

に出会ったことで、

漸く解決の糸口
見出せた心地につき、

今回の見苦しい言い訳を
思い付いた次第です。

また、この場を借りて、
イラストの内容の正否はともかく
土口先生に厚く御礼申し上げます。

【主要参考文献】
土口史記「春秋時代の領域支配」
増淵龍夫「春秋時代の縣について」
五井直弘「春秋時代の縣についての覺書」
稲畑耕一郎監修「図説 中国文明史3」

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軍務のイロハ?!『周礼』夏官司馬の軍事演習の件を読んでみよう

はじめに

『周礼』とは、
湯浅邦弘先生よれば、
現存最古の行政法典です。

周公旦が定めた制度を
記録したものと言われています。

前漢の武帝時代に
民間から発見されたようで、

成立した時代は
部分によって異なり、
遅いものは前漢末頃の模様。

具体的な内容は、
行政官の職務分掌法律
軍隊組織、挙句、
工業製品の規格にまで及ぶ、
何とも不思議な書き物です。

で、今回は、『周礼』夏官司馬
四季の軍事演習の件の拙い和訳です。

と、言いますのは、

この件が前回予告した
「両」の部隊編制とも
密接な関係にあるからです。

それどころか、

この書き物が
想定しているであろう
周の時代や春秋時代の初め頃はおろか、

それ以降の時代にも、

長い時の営みの中で
換骨奪胎を伴うとはいえ、

通じる部分が
少なからずありまして、

謂わば、
軍務の歳時記とでも言うべき
示唆に富む内容です。

春秋戦国時代や三国時代等の、
古代中国の軍隊という空間
イメージするに当たって、

一度は目を通して
損はない文章と思います。

特に、軍務の季節性や
戦術レベルの通信インフラ等、

調べ事の起点としては
秀逸な材料かと思います。

また、冬の大閲に至っては、

周以降の歴代の王朝も
時の軍事技術に合わせながら
挙行しており、

清代においても
3年に一度行われるのが
規則でした。

また、内容は元より、

文章自体も、
中々に臨場感があり、
書き物としても面白くあり。

実際、サイト制作者の座右の字引
(『漢辞海』第4版)には、
これが出典の言葉が
いくつもあることで、

昨今の先生方にも
広く読まれていると見受けます。

【追記】

本記事の存在意義を
否定しかねませんが、

木本拓哉先生が、

これについて、

以下の論文において
秀逸な和訳・要約・解説
なさっていることで、

まずは、当該の箇所を。

木本拓哉
「方苞における『周官』の修辞法解釈」
『崇城大学紀要』44号

下記の国立情報学研究所の
論文検索サイトから
PDFを入手!

ttps://ci.nii.ac.jp/
(1文字目に「h」を追加。)

サイト制作者の粗い訳と読み比べて、

嘲笑いながら
添削するのも一興かと。

【追記・了】

そこで、今回は思い切って、

摘まみ喰いで
大意を抜くのを止め、

原文で直に
ニュアンスを掴んで頂くことに
しました。

その方が、
伝わり易いうえに
見世物としても
面白いと思ったからで、

声に出すと、
一層、イメージが
湧き易いかもしれません。

とはいえ、

サイト制作者も含めて
漢文の読解力に自信がない方々
数多いらっしゃるであろうことで、

その対策として、
いくつか工夫しました。

まず、流れとしては、
原文を長くなり過ぎないように
四季ごとに分け、

難解か、あるいは、
文意に即しても訳しにくい字には
説明を付け、
(殆ど字引の転写です。)

見よう見真似で
出来にはあまり自信はありませんが、
書き下し文と和訳も用意しました。

それでは、前置きが長くなって
恐縮ですが、
以下、本文に入ります。

なお、原文は維基文庫のものを
多少加工しました。

1、中春

原文

中春教振旅、司馬以旗致民、
平列陳、如戰之陳(陣)。

辨鼓鐸鐲鐃之用—王執路鼓、
諸侯執賁鼓、軍將執晉鼓、
師帥執提、旅帥執鼙、
卒長執鐃、兩司馬執鐸、
公司馬執鐲—
以教坐作、進退、疾徐、疏數之節。

遂以搜田、有司表貉、
誓民、鼓、遂圍禁、
火弊、獻禽以祭社。

中春:3月(旧暦2月中旬)
振(ととの・う):整備する
旅:群衆、周制における
軍隊の編成単位・500名。
(一説に2000名)下大夫が統率。
致:招き寄せる、受け容れる
辨(べん・ず):治める、処置する
路:天子の車
賁(ふん・ほん):大きい、美しい飾り
晉:腰帯等に挿す(訓読み・はさむ)
師:周制における
軍隊の編成単位・2500名で
中大夫が就任。地方長官。
帥:各階級の最高指揮官。
提:馬上で用いる太鼓
鐃(どう):小さい鐘。
卒長(100名)・下士以上が持つ。
これに付随して、
鐘(鉦:打楽器のひとつ)は退却の時の合図。
両司馬:25名を統率する指揮官。
中士。両は伍(5名)5隊で構成される。
鐸(たく):大きな青銅製の鈴
鐲(しょく):小さな鐘のような鈴。
行軍の折、太鼓を調整する時に鳴らした。
坐作:坐は足の甲を地面から浮かせた正座。
作は立ち上がること。
また、「坐作進退」は練兵の一教科。
疾徐:緩急。
疏數(そすう):まばらな様と密集した様。
搜(捜):狩猟。
田も、耕作地以外に、狩猟の意味を持つ。
禽(きん):古くは獣。
後に、鳥と獣の総称。ここでは、鳥か。
有司:役人
表(あらわ・す):上着を被る。
貉(ばく):イタチ科の哺乳類。
アナグマ、むじな。
誓(いまし・む):訓戒や決意を
号令として示す。
遂(すす・む):前進する。
禁:檻・囲い。
火:松明、明かり、灯
社:土地の神、土地の神を祭る廟。

書き下し文

中春に旅を教え振い、
司馬旗を以て民を致し、
平らげて陳(陣)を
列すること、
戰の陳の如し。

鼓鐸鐲鐃之用を辨ず。

王は路鼓を執り、諸侯は賁鼓を執り、
軍將は晉鼓を執り、師帥は提を執り、
旅帥は鼙を執り、卒長は鐃を執り、
兩司馬は鐸を執り、公司馬は鐲を執る。

以て坐作、進退、
疾徐、疏數之節を教ふ。

遂(すす)むに以て田を搜し、
有司貉を表(あらわ)し、
民に誓(いまし)む。

鼓し、遂みて圍を禁ず。

火を弊し、禽を獻じ以て社を祭る。

和訳

3月に群衆を訓練し、
司馬は旗で民を呼集し、
雑踏を収拾して
戦時のように布陣させる。

軍楽器の用途を確認し点検する。

王は専用車据え付けの太鼓を、
諸侯は大型の太鼓を、
軍将は腰帯に挿す太鼓を、
師帥軍用の小さい太鼓を、
卒長は小さい鐘を、
両司馬は大きな青銅製の鈴を、
公司馬は小さな鐘のような鈴を扱う。

そして、科目としての
戦闘動作を教える。

部隊は前進しつつ狩りを行い、
役人はむじなの毛皮を被り、
民に指示を出す。

太鼓を鳴らし、
前進して狩猟地を封鎖する。

松明を消し倒し、
祭壇に供え物の鳥を献上し、
土地の神を祭る。

2、中夏

原文

中夏教茇舍、如振旅之陳。

群吏撰車徒、讀書契、
辨號名之用、帥以門名、
縣鄙各以其名、家以號名、
鄉以州名、野以邑名、
百官各象其事、以辨軍之夜事。

其他皆如振旅。

遂以苗田如搜之法、
車弊、獻禽以享礿。

中夏:6月(旧暦5月中旬)
茇(ばつ):野宿する、除草する。
舍:家屋。
吏:役人の総称。
漢代以降は下級役人を意味する。
撰(せん・じる):結集する。
車:戦車。
徒:随伴歩兵。
戦国時代以降のような
歩兵の単独兵科ではない。
書契:契約・記録等の文書
號(号、さけ・ぶ):声高に叫ぶ。
門:家、一族。
縣(県):地方の行政区画。
周制では遂に属し、
1県は4郡に分かれる。
その他、畿内を意味する。
天子の住む都城の
周囲1000里(周代:1里=324m)
以内の地域。
鄙:地方の行政単位。500戸。
もしくは、辺境の地。
追記:土地の区分けで、5鄙=1県。『周礼』地官より。
家:卿大夫の領地。
鄉:集落の編成単位。周制では12500戸。
州:周制における集落単位。2500戸。
因みに、100戸=1族、
5族・500戸=1党。5党=1州。
野:王城より200~300里離れた土地。
邑:大夫の領地。
象(かたど・る):則る(のっとる)、
倣う
事:職務・任務、ここでは夜戦を意味する。
享(すす・む):祭って供え物を捧げる。
礿(やく・よう):天子が行う祭。

書き下し文

中夏に茇舍に教ふ。

旅の陳を振(ととの)ふが如し。

群吏は車徒を撰じ、書契を讀し、
號名の用を辨じ、
帥は以て門の名を、
縣鄙は各以てその名を、
家は以て號名を、鄉は以て州名を、
野は以て邑名を、
百官各其事を象(かたど)り、
以て軍の夜事に辨ず。

その他皆旅を振うが如し。

遂むに以て苗田の搜之法が如く、
車を弊し、禽を獻じて以て礿を享す。

和訳

6月に除草された家屋で
軍事訓練を行う。

呼集された群衆は
整然と布陣するように行う。

居合わせる役人達は
戦車と随伴歩兵を結集し、
規則を読み上げ、
呼称の内容や正誤を確認し、

最高指揮官は一族の名を、

【追記】

これは誤りでして、
文字通り門の名前です。

例:「東門」、「桐門」等。

当時の卿以上の軍将は、
城門を在所として統治を行い、
『春秋左氏伝』にも
例文があるそうな。

つまりは、

恐らくは、
或る程度の公共性を帯びた
通り名のようなもので、

門の名前を出せば、
人物を特定出来た、

という話だと思います。

典拠:『周礼注疏』28巻

【追記・了】

縣や鄙はその名を、
卿大夫の領地はその名称を、
郷はその州名を、
王都よりの遠方の地は
大夫の領地の名を、

それぞれの担当の役人は
これに準じて呼称する。

そして、これを
夜間の職務として扱う。

その他は、
群衆を教練するように行う。

耕作地で
狩猟の作法に準ずるように前進し、
戦車を駐車し、
鳥を献上して
天子が行う祭祀の供え物とする。

3、中秋

原文

中秋教治兵、如振旅之陳。

辨旗物之用、
王載大常、諸侯載旗、
軍吏載旗、師都載旃、
鄉家載物、郊野載旐、百官載旟、

各書其事與其號焉。

其他皆如振旅。

遂以獼田如搜之法、
羅弊、致禽以祀祊。

中秋:9月(旧暦8月中旬)。
治(おさ・む):管理する、統治する。
旗:『周礼』春官・司常之職によれば、
「九旗」という概念があり、
漢代の『釈名』にも解説がある。
これは、旗の異なる図柄や飾り
(例えば、斿:ユウ・はたあし、
旗の下辺に付ける、の数等)によって、
等級や用途を表すことを意味する。
常:日月を描いた旗。
旗:虎と熊の図。
斿が5本あり、集合を意味する。
演習に際して、
民衆を呼集する折に使う旗もこれか。
軍吏:軍隊の各階級における
長官の総称。文官も含む。
旃(せん):図柄は無地の赤。
柄は曲がっている。
無事であることを象徴する。
物(ぶつ):多色のもの。
多色の絹を縁に縫い付けて燕尾とする。
物が雑則であることを象徴する。
旐(ちょう):亀と蛇の図柄。
亀と蛇は、災厄を避ける象徴。
出棺を先導する旗でもあり、
先行きの形勢をはかる用途も持つ。
旟(よ):隼の図柄。名誉を象徴する。
獼(び):「獼猴」でサル科の哺乳類。
上半身は灰褐色、
腰以下は黄橙色の毛に覆われ、
群居する猿。

【追記】

獼(せん)は、君主が行う秋の狩猟。

したがって、「獼田」も
狩猟を意味することと思います。
春は蒐(しゅう)、夏は苗(みょう)、
あるいは苗田、そして冬は狩(しゅう)。

【追記・了】

羅:鳥を捕える網。
祊(ほう):宗廟の門内に設けて
祭りを行う場所。
宗廟で祖先を祭る祭礼。

書き下し文

中秋に兵を治むを教う。

旅の陳を振るうが如し。

旗物の用を辨ず。

王は大常載(お)び、
諸侯は旗を載び、軍吏は旗を載び、
師都は旃を載び、鄉家は物を載び、
郊野は旐を載び、百官は旟を載び、

各その事とその号を書(しる)すなり。

その他皆旅を振ふが如し。

遂むに以て獼田を搜すの法が如し。

羅を弊し、
禽を致すに以て祊に祀(まつ)る。

和訳

9月に練兵を命令する。

群衆が整然と布陣するように行う。

旗の用途を確認し、点検する。

王は日月の図柄の旗を、
諸侯・軍の各階級の長官は
虎と熊の図柄の旗を、
都の師は曲がった柄で無地の赤旗を、
郷・家は多色の旗を、
遠方の勢力は亀と蛇の図柄を、
百官は隼の図柄の旗を携帯し、

旗には規則に定められた
図柄と称号を記す。

その他は、
群衆を練兵するように行う。

山野で狩りを行う作法に
準拠するようにして前進する。

鳥を捕える網を倒し、
鳥を招き寄せ、
宗廟の門内で祭礼を行う。

4、中冬

原文

中冬教大閱。

前期、群吏戒眾庶修戰法。

虞人萊所田之野、
為表、百步則一、
為三表、又五十步為一表。

田之日、司馬建旗于後表之中、
群吏以旗物鼓鐸鐲鐃、各帥其民而致。

質明、弊旗、誅後至者、
乃陳車徒如戰之陳、皆坐。

群吏聽誓于陳前、斬牲、以左右徇陳、
曰「不用命者斬之!」。

中軍以鼙令鼓、鼓人皆三鼓、
司馬振鐸、群吏作旗、車徒皆作。

鼓行、鳴鐲、車徒皆行、及表乃止。

三鼓、摝鐸、群吏弊旗、車徒皆坐。

又三鼓、振鐸作旗、車徒皆作。

鼓進、鳴鐲、車驟徒趨、及表乃止、
坐作如初。

乃鼓、車馳徒走、及表乃止。

鼓戒三闋、車三發、徒三刺。

乃鼓退、鳴鐃且卻、及表乃止、
坐作如初。

遂以狩田、以旌為左右和之門、
群吏各帥其車徒以敘和出、
左右陳車徒、有司平之、
旗居卒間以分地、前後有屯百步、
有司巡其前後、
險野人為主、易野車為主。

既陳、乃設驅逆之車、
有司表貉于陳前。

中軍以鼙令鼓、
鼓人皆三鼓、群司馬振鐸、車徒皆作。

遂鼓行、徒銜枚而進。

大獸公之、小禽私之、獲者取左耳。

及所弊、
鼓皆駭、車徒皆躁。

徒乃弊、致禽馌獸于郊、
入、獻禽以享烝。

中冬:12月(旧暦11月中旬)。
閲(えつ):集める、まとめる。
大閲で大規模軍事演習。
前:あらかじめ、前もって。
期:決まった、
あるいは約束した時間・機会。
周期的な時間。
戒(いまし・む):命ずる、告げる。
眾(衆)庶:多くの人々、万民。
虞(ぐ)人:山林・沼沢を担当する役人。
虞師。呉の虞翻の御先祖様の職業か?。
萊(らい):耕作地が荒れ、草が生える。
表:標識。
標識を立てて
距離を計測する方法は、
『蔚繚子』にもある。
歩:周制は1尺18cm。
6尺=1歩=108cm。
質明:明け方。
事もあろうに、
字引の当該の項目の隅に
こっそり書いてあった。
聽(聴、したが・う):勧告や意見に従う。
牲(いけにえ):祭祀や食用に供される家畜。
驟(は・す):速く走る。
趨(はし・る):早足で駆ける。
闋(けつ):楽曲が終止する。
卻(しりぞ・く):後ろに下がる。
狩田:冬に兵を訓練するための狩猟。
旌(せい):五色の鳥の羽を裂いて
飾りとしたもの。
旗頭を、羽を裂いたものと
カラウシの尾で飾る。
兵士の意気を奮わせる。
指揮官用の戦車に立てる。
敘(つい・ず):順序立てる。
和(と、わ・す):~と、双方。合わせる。
屯(たむろ・す):駐屯する。
守りの為に留まる。
險(険):地形が険しい。
山川が危険で交通困難な難所。
驅(駆)逆:獣を追い、
狩場に追い込み逃走を阻止する。
鄭玄注。
枚:兵士が奇襲を行う際に噛む
箸のような木切れ。
例えば、『司馬法』にもこの件がある。
駭(おどろ・く):驚き騒ぐ。
躁(さわ・がし):焦っている、
あるいは、平静でない様。
弊(つか・る):疲れる。
馌(饁、おく・る):狩猟の時、
動物を捧げて神を祭る。
郊:国都から半径50里が「近郊」、
100里が「遠郊」。
烝:火で炙る。

書き下し文

中冬に大閱を教ふ。

前期、群吏眾庶を戒め戰法を修む。

虞人萊所田之野に表を為す。

百步を則ち一とし、三表を為し、
また五十步に一表を為す。

田の日、
司馬は表の中の後ろに旗を建ち、
群吏は旗物鼓鐸鐲鐃を以てし、
各帥その民を致す。

質明、旗を弊し、後に至る者を誅し、
乃ち車徒を陳すること戰の陳の如く、
皆坐す。

群吏は陳前に誓に聽い、
牲を斬り、以て左右の陳を徇し、
曰く「命を用いざる者は之を斬る」。

中軍は鼙を以て鼓令め、
鼓人皆三鼓し、
司馬は鐸を振え、
群吏は旗を作(た)て、
車徒は皆作つ。

鼓行し鐲を鳴らし、車徒皆行き、
表に及んで乃ち止む。

三鼓し、鐸を摝し、群吏旗を弊し、
車徒坐皆す。

また三鼓し、鐸を振るい旗を作ち、
車徒皆作つ。

鼓進し、鐲を鳴らし、
車は驟せ徒は趨り、
表に及んで乃ち止み、
坐作すること初めの如し。

乃ち鼓し、車は馳せ徒は走り、
表に及んで乃ち止む。

鼓は三闋、車は三發、
徒は三刺を戒む。

乃ち鼓は退き、
鐃は鳴り且つ卻(しりぞ)き、
表に及んで乃ち止み、
坐作すること初めの如し。

遂みて以て田狩し、
以て旌を左右に和する門に為し、
群吏各帥はその車徒を以て
敘じて和して出で、

左右の陳の車徒、
有司これを平らぐ。

旗の居する卒の間を以て地を分け、
前後百步屯する有り、
有司その前後を巡り、

險野は人を主と為し、
易野は車を主と為す。

既に陳し、乃ち驅逆の車を設け、
有司は陳前において貉を表す。

中軍は鼙を以て鼓(う)たしめ、
鼓人皆三鼓し、群司馬鐸振るい、
車徒皆作つ。

遂みて鼓行し、
徒は銜枚し進む。

大獸はこれを公にし、
小禽はこれを私にし、
獲は左耳を取る。

弊すところに及び、
鼓は皆駭き、車徒は皆躁がしくす。

徒は乃ち弊れ、
郊において禽を致し獸を馌し、
入りて、禽を獻じて以て烝して享す。

和訳

12月に軍の大規模な巡視を行う。

期間中に先立ち、
諸役人は群衆に命じて
段取りを覚えさせる。

山林沼沢を担当する役人は、
荒地や狩場に標識を立てる。

108mごとに標識を3本立て、
さらに54m先に標識を1本立てる。

狩猟の日に、
司馬は標識の後ろに旗を立て、
諸役人は旗や楽器で合図し、
各指揮官は群衆を呼集する。

明け方に旗を倒し、
遅れる者を斬り、
戦車や随伴歩兵を戦時のように布陣し、
正座する。

諸役人は陣の前で
上官の訓示・命令を拝聴し、
左右の陣を巡視し、
「命令を聞かない者は斬る」と言う。

中央の軍は小さい太鼓を打たせ、
担当役人は規則通りの調べを
三度鳴らし、
両司馬は大きな鈴を鳴らし、
諸役人は旗を立て、

戦車と随伴歩兵は全員起立する。

太鼓を盛んに打ち、
小さな鐘を鳴らし、

戦車と随伴歩兵が
行軍の速度で前進し、
標識に到達して停止する。

太鼓の調べを三度打ち、
両司馬は大きな鈴を鳴らし、
諸役人が旗を倒し、
戦車兵と随伴歩兵は全員正座する。

さらに太鼓の調べを三度打ち、
両司馬は
大きな鈴を鳴らして旗を立て、
戦車と随伴歩兵は起立する。

最初の行動のように、
太鼓で前進し、小さな鐘を鳴らし、
戦車は快走し、随伴歩兵は速足で駆け、
標識で停止して正座する。

さらに太鼓を鳴らし、
戦車は快走し、随伴歩兵は早足で駆け、
標識で停止する。

太鼓の調べを三度打ち、
戦車は三度攻撃態勢を取り、
随伴歩兵には
武器で三度突くことを命じる。

その後、太鼓の担当は後退し、
卒長は小さい鐘を鳴らしながら後退し、
標識の前で停止し、
最初のように正座する。

前進して狩猟を行う際に、
五色の鳥の羽を裂いて飾りとした旗を
左右双方の陣地の門に立て、

諸役人や各指揮官は
指揮下の戦車や随伴歩兵を
秩序立てて結集して出撃し、

担当役人が
左右の陣の戦車と随伴歩兵の秩序を保つ。

各々の旗手間の間隔を108m空け、
担当役人がその前後を巡回し、

険しい地形には歩兵を、
平坦な地形には戦車を配置する。

布陣した後、獣の駆逐用の戦車隊を編制し、
担当役人は陣の前でムジナの毛皮を被る。

中央の軍は小さい太鼓を打たせ、
太鼓の担当は調べを三度打ち、
両司馬達は大きな鈴を鳴らし、
戦車兵と随伴歩兵は全員起立する。

太鼓を鳴らしながら前進し、
随伴歩兵は
木切れを口に挟みながら行軍する。

大きな獣は官有物、
小さな鳥は私物とし、
獲物の左耳を切り取る。

動物を狩る瞬間、
太鼓が鳴り響き、
戦車兵と随伴歩兵はどよめく。

随伴歩兵が疲れたところで、
城の近郊で狩った鳥を集めて
祭礼を行い、

入城後に獣を火で炙って
祭礼の供え物とする。

【主要参考文献】(順不同・敬称略)

戸川芳郎監修『漢辞海』第4版
湯浅邦弘『中国思想基本用語集』
薛永蔚『春秋時期的歩兵』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
その他、過去の記事における
読者の方の和訳等も
参考にさせて頂きました。

【追伸】

大変遅れて申し訳なく思いますが、
井波律子先生の御冥福を
心より御祈り申し上げます。

特に、三国志の正史の和訳には
このうえなく御世話になりました。

また、今回の拙い和訳にあたって、
事の煩雑さを
多少なりとも垣間見た心地です。

その他、これを書くにあたって、
せめて、背景を説明する
論文のひとつでも
読みたかったのですが、

最寄りの国立大学が
学外者の立ち入りを
許可しない等、
コロナで行動が
制約されているうえに、

例によって
サイト制作者の時間管理が甘く、

旗のことを調べて
時間を浪費する等して、

結果として、
投稿が遅れに遅れて
大変恐縮です。

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