『三国志』のエリート人材の教育事情

字数にして1万字弱につき、
またしても、最初に章立てを付けます。

短くまとめようとしても、次第にダラダラと。

例によって、
適当にスクロールして
興味のある箇所だけでも御読み頂ければ幸いです。

 

はじめに
1、色々と泥臭い「教育」

2、叩き上げ軍人の生涯教育
2-1 武将の物学びのパターン
2-2、武人達の一念発起
2-3 当時の学問事情

3、幼少期の教育・私学
3-1 私学の対象年齢とカリキュラム
3-2 学閥とその抗争、潁川・汝南
3-3 官渡の戦いと水面下での諜報戦
3-4 シガラミと恩恵、私学の人間関係
3-5 貴族化する名士達
3-6 名士の定義と次世代の力量

4、当時の教育の特権性

5、高等教育の行方
5-1 高等教育機関の花形・太学
5-2 地方の高等教育機関・郡県学
5-3 『三国志』版・学生運動
5-4 「清流派」と袁紹・曹操
5-5 運動の挫折とその後の飛躍
5-6 高等教育の崩壊と政府の惨状
5-7 曹魏政権末期の世相と太学

6、門戸が狭まる高等教育機関

おわりに

 

はじめに

今回は、『三国志』の人物の教育についての御話。

幼少期の初等教育から
洛陽あるいは地方での高等教育を経て、
就職までの経路の御話です。

創作物やゲームに取り組む際にでも、
武将のプロフィール作成等に御活用頂ければと
思います。

 

さて、前回、劉表時代の襄陽の話をしましたが、

色々と文献を読み漁るうちに
この地方の人材事情が
サイト制作者としては中々に面白かったことで、

地理感覚の話を一旦御休みして、
人材・教育関係の話に
焦点を絞ることに決めました。

地理・交通の話を期待されていた方々には、
大変申し訳ありません。

恐らく残り1回程度、
近いうちに再開するつもりです。

 

1、色々と泥臭い「教育」

その「教育」の意味するところは
単なる経典の物学びに留まらず、

師弟・学閥等を通じた複雑な人間関係
それに起因する就職斡旋や機密レベルの情報交換等、

恐らくは今日の大学や大学院における
学閥や研究室の人間関係以上の威力を持つ
有効な社交ツールという顔を持っています。

そして、
こういうものが戦争に応用される場合、
開戦前の戦力分析や占領地の統治に影響するので
無碍には出来ません。

例えば、『三国志』の時代における
前半部分の曹操と袁紹の台頭

こういうコネを活かして
人材を漁った成果でもあります。

人材に情報源や資産・兵力がコバンザメのように
くっ付いて来るのです。

一方で、孝廉エリート出身で戦上手であっても
学歴エリート(名士)を優遇しなかった公孫瓚は、

有効な情報が入らないわ
占領地の統治が巧く行かないわで
華北での勢力争いの馬群に沈みますし、

荊州に落ち延びるまでの劉備も
大体このパターンの軍閥に
過ぎませんでした。

 

2、叩き上げ軍人の生涯教育

2-1 武将の物学びのパターン

さて、主題に「エリート人材」と書いたのは、

『三国志』時代の要人の中には、
蜀の王平のような
異民族出身で文字も読めない叩き上げ武将
いることで、

学歴エリート=名士が受けるような
年端もいかないうちから
儒学の経典を暗記するような教育環境が
当時の標準教育とは言えないからです。

当然のことながら、
何千、何万もの軍隊を動かしたり
内政・外交の政策決定に預かる要人の大半は、

「エリート人材」として
高い教育を受けつつ学閥関係のコネを使って
大きい仕事をします。

曹操や袁紹等がその代表でして、

次の世代になると、
荀彧等のような曹操の幕僚がそれに当たり、

さらに時代が下ると、
諸葛孔明のような劉備の幕僚
これに準ずるようになります。

こうした社会の上澄みのような人材に対して、
王平や呂蒙のような苦労人か
あるいは甘寧のような役人の履歴があっても
グレていた人々は、

当時の既存のハイソな教育環境とは
縁が薄かったのですが、

何かしらの機会を利用して
勉学に励んでいます。

 

2-2、武人達の一念発起

こういう人々の物学びも
決して馬鹿には出来ないものです。

例えば、叩き上げの軍人である呂蒙は
これで知将に化けますし、

王平もその学問の本質に迫る
賢い物学びをしていたそうな。

 

また、その具体的な学習方法としては、

或る程度歳を取ってから、

呂蒙や甘寧のように
一念発起して勉学に励んだり

あるいは、
王平のように書物に明るい人を側に置いて
耳学問をしたりという具合。

今日で言うところの、
生涯教育に近いスタンスなのでしょう。

 

2-3 当時の学問事情

こういう教育の追い風になった
当時の事情として、

まずは、紙の普及により
書物が広汎に出回るようになったことが
幸しています。

これに因んで、

曹操の陣営では、
特に兵法関係の書物を
官の書庫から持ち出すのが触法行為だったりする一方、
甘寧は兵書を読むのが趣味であったりしまして、

この辺のいい加減さが笑えると言いますか。

さらには、
後漢時代の割合平和な時期に
学術普及に関わった人材の層の厚味が
まだ残っており、

曹丕の時代以降、
名士が貴族制めいた人材登用制度=九品中正を
施行する以前の時期につき、

学問の門戸が幅広い社会階層に
開かれていた事情
あろうかと想像します。

 

これに因んで、

天下の鄭玄先生なんか
借地農だったそうで、

学問の資金の規模や内訳、
書籍の価格等については
後日調べたいと思います。

 

もっとも、
後漢・魏晋から時代がかなり下った後でも
中国の王朝時代の識字率は10%程度
言われており、

当時の中国の全人口からすれば、
王平のような文字の読めない人が
標準であったことと想像しますが。

下層社会の生涯教育の話は
この辺りに止めます。

サイト制作者の浅学に起因する
所謂「サンプル」めいたものの欠如
その理由でして、

まとまった話は日を改めることと
致します。

 

3、幼少期の教育・私学

3-1 私学の対象年齢とカリキュラム

この話を始める前に、
以下の論文を御勧めします。

『三国志』の時代の既存の教育機関について
詳しく記されている論文です。

やや難しい内容ですが、
分からない部分は読み飛ばして
大体の流れを掴むように読まれればと思います。

 

陳雁
「後漢・魏晋時代における教育と門閥士族の形成」
(大阪教育大学附属図書館HP)
ttps://www.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=v3search_view_main_init&block_id=631&direct_target=catdbl&direct_key=%2554%2544%2530%2530%2530%2530%2531%2533%2532%2536&lang=japanese#catdbl-TD00001326
(一文字目に「h」を補って下さい。)

 

さて、当時の主に官僚の富裕層の子弟
幼少期から思春期までに四書五経を
暗唱できるレベルで叩きこまれるのですが、

その初等の教育機関を「私学」と言います。

また、その施設「学館」
あるいは「書館」・「小学」と言います。

さらに、私学の対象年齢は6-14歳。

その内訳は、

6-8歳で入学、
8-10歳で経学、
14歳前後に修了。

さらにはこの期間中、

五経(「詩経」「書経」「礼記」「易経」「春秋」)
の中のひとつ、
その他、黄老や詩律等を伝授します。

これが魏晋時代に入ると、
カリキュラムはさらに凝縮されます。

その好例と言いますか、

当時の教育事情の参考例として
色々な論文や文献でよく引用されるのが、

『三国志』の魏書・鍾会の伝。

漸く、今回の主役・鍾会(士季)の登場です。

学歴と職歴が大体分かっていることで、

こういう教育関係の話をする際には
優良な「サンプル」になるのです。

サイト制作者としては、
良くも悪くも新しい世代を代表する
ハイ・キャリアのエリート武将だと思います。

 

で、その伝によると、

鍾会の御母堂が人格的に優れ、
書物にも詳しい
良く出来た人のようでして、

鍾会が勉学に飽きないように
以下のようなカリキュラムで
書物を読ませたそうな。

4歳『孝経』
7歳『論語』
8歳『詩経』
11歳『易』
12歳『左伝』『国語』
13歳『周礼』『礼記』

そして、15歳で洛陽の太学に遊学します。
「太学」は当時の花形の最高学府です。
その後、20歳で朝廷に出仕。

因みに、247年の段階で鍾会は23歳。

件の教育ママのプログラムは、
230年代の御話。

 

ですが、皮肉にも、
この時代の高等教育は
かなり悲惨な状況だったりしまして、
それは後述します。

 

―余談ながら、サイト制作者は、
このカリキュラムの単位は全て落第の「文盲」です。

恥ずかしながら、15の少年にも劣る訳です。

少なくとも、
「エリート人材」の資格はありません。

 

3-2 学閥とその抗争、潁川・汝南

また、私学の場所は、
中原の他には犍為(四川省)、北方の代郡。

そして、特に私学が盛んなところは
潁川・汝南、
次いで青州・徐州・関中。

北海の孔融、徐州は諸葛亮や張昭、
関中は孔農の楊修等の楊氏、といった具合です。

で、戦禍で罹災した場合は、
荊州や江東といった他地域に逃れる
という訳です。

 

そして、以上の5つの地域の中でも、
特に、潁川・汝南は当時の学閥の双璧でして、

そのまま曹操(潁川)・袁紹(汝南)のブレーン集団に
横滑りします。

 

例えば、曹操陣営の潁川グループの筆頭格
容姿端麗で「王佐の才」の荀彧でして、
丞相の陳羣や先述の鍾会の父である鍾繇も
このグループの知識人。

鍾繇の功績を要約しますと、

官渡の戦いで前線の曹操の軍に数多の軍馬を工面し、
(恐らく、延津の戦いの陽動作戦に使われたか)

(功罪はともかく)
曹操の関中侵攻の作戦立案の主導的な役割を果たし、
太傅にまで昇進したという
曹魏政権のトップ・クラスの要人です。
亡くなったのは230年。

 

対する汝南グループの筆頭格は、
袁紹や袁術といった軍閥の総帥であったりします。

その他、人物評価で有名な許劭やその従弟の許靖等。

恐らくは、潁川レベルの大物がいなかった訳ではなく、
母胎となる政権が滅んだことで
史料が残らなかったのでしょう。

 

3-3 官渡の戦いと水面下での諜報戦

官渡の戦いなど、
まさに両グループの学閥同士の諜報戦でもありました。

特に、戦いの最終局面で決定打になった
曹操陣営による許攸の投降受け入れ
こういう諜報合戦の成果の最たるものだそうな。

しかしながら、潁川グループは、
時代が下ると共に
曹操が色々な学閥の出身者を採用したために
優位を保てず、

また潁川自体も戦禍を被ったことで、
頭脳集団として時代を乗り切ることは
出来ませんでした。

また、汝南グループの方も、
官渡における袁紹の敗戦により影響力を失い、

さらには汝南自体も曹操の勢力下にあったことで、

曹操配下の満寵が
袁紹の師弟が籠城して抵抗を続ける現地に
武力で掃討作戦を行い、
その牙城を崩壊に追い込みます。

つまりは、潁川・汝南双方が、
学術の重要拠点としての地位を保てずに
次の時代を迎えた訳です。

 

3-4 シガラミと恩恵、私学の人間関係

次に、幼少期の学問如きが
浮世の政争に強い影響力を有する学閥化する
カラクリについて触れます。

簡単に言えば、師弟関係や同窓での人間関係そのものです。

まず、学館で教鞭を取る教師を「経師」と言いまして、

この経師が少数の「登堂弟子」(都講)に
勉学を教え
この登堂弟子が数多の門弟を指導するという仕組みです。

さらに、この時の人間関係は
その後の冠婚葬祭の世話や就職の斡旋へと続く訳でして、

こういう関係の延長に
学閥の形成や情報交換がある訳です。

 

3-5 貴族化する名士達

ですが、こういう幼少時の初等教育も、
時代が下って閉鎖的になります。

 

特に富裕層は家庭教師を付けて
英才教育を施すようになりまして、

先述の鍾会などは、
恐らくは
そういう効率的だが閉鎖的な環境の中で
勉学に励んだものと想像します。

 

その背景には、

特に曹丕の時代の九品官人法以降、
政権中枢の学問エリートである「名士」が
自身の社会階層自体を貴族化・序列化(ランク付け)
する流れにありました。

 

言い換えれば、

それまでの学問の出来でのし上がる時代から

学問が出来ても、
そもそも貴族でなければ
出世が望めない時代に移行する流れにあった訳です。

 

その過程で、
門弟何千名を抱えた「経師」のような商売が
下火になり、

入学条件を上級貴族の師弟に限った学校が次々に開校し、

挙句の果てには、
孫呉に止めを刺した杜預のような
学者としても軍人としても優秀な人材までもが、

出世のために
司馬氏の簒奪を正当化する曲学阿世に手を貸すような
本末転倒な世の中になります。

そう、羊祜や杜預といった晋の名将が学問が出来たのは
決して偶然などではなく、

貴族の世界に身を置いたからには、

余程の資力がなければ
司馬氏に媚びを売って学問でのし上がるしか
出世の道が無かったのです。

まして、杜氏のように、
曹氏の忠節が仇になった家系ともなれば、
なおさらのこと。

 

3-6 名士の定義と次世代の力量

ですが、羊祜や杜預にとって幸運であったのは、

誤解を恐れずに言えば、

学問エリートの「名士」層の
形骸化(ポンコツ化)により、

彼等の周囲には
中身のない横並び思考の馬鹿が
殊の外多かったと言いますか。

 

まあその、
学問が出来るのが当たり前で
実際の政治にも実績のあった学歴エリート集団(名士層)
自分達が貴族だと言い出しましたが、

その子弟は能力(学識)がなくても貴族であり、

さらにそのような狭い世間の貴族社会の中でも
学問が出来なければ出世出来ない、となれば、

構造上、優秀な人材の絶対数が不足する訳でして、

特に、或る程度まとまった数を必要とする
郡県レベルの地方官の質が落ちるという状況が
容易に想像出来ます。

そりゃ、魏や晋に限って言えば、
曹氏、司馬氏以前に、
誰が政治をやっても世の中オカシクなるわな、と。

―そもそも、何故、
荀彧や司馬仲達等のような
学術エリート「名士」が
あんなに威張るようになったのかについては
後述します。

 

 

4、当時の教育の特権性

さて、現代の感覚で言えば
子供に岩波の訳本あたりで
儒学を学ばせることが出来る程度の話とはいえ、

平均寿命が50を切り
識字率が10%以下であろう時代の、

それも、
大半の人が徒歩で移動するという
郷里社会という狭い世間での話です。

人生の4分の1の時間を学問に使い、

さらに学問を通じて
社会の上澄みの人間同士で社交まで行うということが
どれ程の力強いコネになるのか
御想像頂ければと思います。

 

そのうえ、
こういう学問と社交が一体になったサロンの
最も上澄みの部分
―「太学」への遊学に代表されるような高等教育ともなれば、

そのステータスが
王朝や巨大軍閥の采配を担う層を意味することに
他なりません。

 

5、高等教育の行方

5-1 高等教育機関の花形・太学

先に、鍾会が15歳で洛陽の太学に進学したと
書きましたが、

『三国志』の時代の高等教育機関にも
筆頭格の太学以外にも色々ありまして、

地方の学術機関もあれば、

現代の感覚で言うところの芸大めいたところや
貴族御用達の学府もあります。

まずは、花形の太学ですが、
押しも押されぬ中央官学でして、

現代の日本で言えば、
言うまでもなく
文京区の赤門の東〇大学に相当するかと。

―無論、サイト制作者の母校、
で、ある訳がありません。

 

さて、その仕組みですが、

2年ごとに甲乙科と呼ばれる試験を行い、
成績によって科品という評価がなされ、

高い評価を受ければ
官職が与えられます。

『三国志』の要人の伝をいくつも読むと
太学出の要人の出仕年齢が各々で異なるのですが、
こういう席次の問題もあるのでしょう。

大体は20代の前半で朝廷に出仕します。

因みに、教鞭を取るのは「博士」。

 

5-2 地方の高等教育機関・郡県学

また、これに準ずる地方の高等教育機関には、
「郡県学」というのがあります。

サイト制作者の想像としては、
州レベルの異動のない
下層の地方の役人の養成機関ではなかろうかと。

これに因みまして、
太学には、正規の学生である正学生に加え、
郡国から送られてくる
聴講生のような学生もいまして、

恐らくは郡県学から送られた
優秀な学生ではなかろうかと想像します。

 

5-3『三国志』版・学生運動

太学に話を戻します。

この学府は前漢の武帝の時に
定員50名で発足しましたが、

前漢の末頃には
1000程度の学生を擁するようになり、

後漢時代の146年には、
太学を中心に3万もの学生が
洛陽に遊学していたそうな。

で、こういう学生連中が
その次の時代に何をやったかと言えば、
言論による現政権の攻撃です。

あまり関係ありませんが、
戦前の二・二六事件にせよ、
戦後の学生運動にせよ、

大抵若年のエリート層が暴れるのは、

次世代の主要な担い手を自負するのが
大前提でして、

その次の条件として、
時代の閉塞感が極まっている時です。

 

5-4 「清流派」と袁紹・曹操

それはともかく、

後漢末期当時は、
宦官とその背後の豪族の収奪が
酷い時代でして、

洛陽の学生が
宦官に歯向かう気骨のある官僚と連携して
政争に加担していまして、

正義を気取る官僚達は
「清流派」と自称していました。

曹操や袁紹といった学歴エリートは、
こういう時代の空気で育った世代ですし、

実際に宦官への刑罰の執行や宮中での大量殺戮
露程の躊躇もしませんでした。

特に、曹操の信賞必罰の政策スタンスを表す
「猛政」のメンタリティは、

師である橋玄の政治手法といい、

当人の青春時代の世相と
無縁ではなかろうと想像します。

また、彼等のような
学問を自らの力の拠り所とする「名士」は、

買官や小農の収奪に明け暮れる宦官や豪族の
アンチ・テーゼでもありました。

―ですが、そもそも学問をするには
結構な元手が掛かるのは、
前回でも書いた通りでして。

 

 

5-5 運動の挫折とその後の飛躍

ですが、こういう名士連中は、結局は、
党錮の禁等の当局の弾圧によって
政争に敗れます。

そして、その後は、

清貧を気取って地方政治に積極的に関与したり、
あるいは極左行動に走って
黄色いターバンを巻いたりしまして、

そうして冷や飯を喰っている最中、

幸にも、外戚と宦官が内訌で共倒れして
目の上のコブが取れまして。

で、いよいよ彼等「名士」の時代が来まして、

その次の時代には、
軍閥や三国の政治の主要な担い手になり、
九品中正等の制度で自らを貴族化します。

もっとも、曹操なんか、
親が札片で好き勝手やったことで、

清流派の流れの政治家としては、
その心中には複雑なものがあったと
推察しますが。

 

5-6 高等教育の崩壊と政府の惨状

ところが、「名士」の飛躍・台頭を後目に、

そもそもそういう階層の母胎とも言うべき
洛陽の高等教育の死命を制したのは、

権力の空白に飛び込んで来た董卓の横暴と
これに付随する軍閥抗争でした。

 

本当にコイツは
略奪や狼藉に加えて公金の横領や悪貨の改鋳だのと
ロクなことをしないのですが、
この混乱により、
洛陽が戦禍に遭ったことで太学も灰燼に帰します。

因みに、この混乱によって
人材センターとして脚光を浴びたのが、
劉表統治時代の荊州。

 

さてその後、太学は曹丕の代の黄初年間に復活し、
制度も当時のままで運営を始めるものの、

肝心の体制が整わないことで、
まるで用を為しません。

『三国志』の魏書・王朗の伝
曹叡の時代の太学のその辺りの事情を
詳しく書いているので、
以下は、それを大雑把に纏めます。

 

まず、教える博士の質が低く、
そのうえ大半の学生
兵役逃れやコネ作りのために来ているので
不勉強なうえに途中で抜けます。

しかも、登用試験の及第点が高くて
及第する人が少なく、

試験官も試験官で本質的なことを聞かずに
些細な字面の正誤のような問題を出し、

学生も学生で
これで揚げ足を取るような議論を
盛んに行う始末。

 

その結果、

正始年間の状況として、
政堂に集まる
大臣以下400名程度の官吏の中で、
公文書を書けるレベルの官吏が
10名以下という惨状を呈します。

 

5-7 曹魏政権末期の世相と太学

先述の鍾会はこの時代の太学で学び、

司馬仲達の政敵である曹爽等の派閥が
贅沢を極めて軽佻浮薄だと言われ、

曹叡の時代以降に無用な宮殿の造営が増えて
国庫を圧迫したことからも、

この時代の高等教育と政府の空気が
軌を一にしているように推察します。

曹叡以降の時代は
恐らく「名士」の定義が形骸化し、

曹操が挙兵した時代のように
本物の数多の名士が
戦場で命を散らす状況とは真逆で、

杜預や羊祜のような
ホンモノの名士然とした人物が
少ない時代であったのでしょう。

因みに、晋の三国統一以降の時代になっても、
状況が変わったにようには思えません。

 

6、門戸が狭まる高等教育機関

さて、太学や郡県学以外の高等教育機関についても、
触れておきます。

後漢の最末期の霊帝の時代に
洛陽に「鴻都門学」という学府が出来ます。

これは書画・絵画・文学・芸術といった、
非実学の教育機関でして、

現代で言えば、
文学部や芸大・音大の類だと思います。

この学府がその後どうなったのかは
サイト制作者の浅学につき、
分かりかねます。

設立後、程なく焼け落ちたと想像します。

 

また、俗称「四姓小候」という教育機関がありまして、
これは外戚のための貴族の学校です。

さらには、晋の三国統一の前後には
「国子学」という
これまた高級貴族の子弟のための学校も出来ます。

「前後」というのは、設立の年度に諸説があるためです。

のみならず、この流れを受けて、
先述の地方の高等教育機関である郡県学も、

この影響を受けて門戸を
貴族の子弟に制限するようになります。

 

 

おわりに

そろそろまとめに入ります。

今回の御話の要点は、
概ね以下のようになります。

 

1、サイト制作者が知る限り、
三国志の要人の物学びには
大別してふたつのパターンがあります。

一、叩き上げの武将の独学

二、富裕層の子弟が
幼少期から既存の教育機関で学習

 

2、叩き上げの武将は、

或る程度の年齢や地位に達した後、

独学で書物を読み漁ったり、
あるいは書物に明るい人から
耳学問を行います。

 

3、当時の教育関係の事情として、

紙の普及による書物の増刷や
後漢時代の教育の普及という追い風が
ありました。

しかし、人口全体としての識字率は恐らく低く、
教育の機会自体が特権であったことでしょう。

 

4、『三国志』のエリート人材は、

幼少期は私学(学館)と呼ばれる
教育機関で勉学に励みます。

在籍する年齢は、6歳から14歳位。
読書と五経のひとつ、
その他、場所によっては黄老等も学びます。

 

5、幼少期の私学での
「経師」(経学の教師)と門弟という師弟関係は、
その後の人生でも継続します。

そして、こういう人間関係が拡大して学閥を構成し、
軍閥の情報網としても機能します。

 

6、10代後半以降の高等教育機関があります。
首都・洛陽には「太学」、
地方の郡県には「郡県学」が存在します。

なお、太学では、2年ごとに試験があり、
成績優秀者は官吏として採用されます。

 

7、首都近郊や学閥の拠点の罹災により
既存の教育機関が機能しなくなります。

 

8、また、既存の教育機関で学んだ
学歴エリートである「名士」は、

自分達を人材登用制度を利用して貴族化し、
さらにその中でランク付けします。

しかしながら、
曹丕の時代の太学は
教育現場が崩壊するという惨状を
呈しておりました。

 

9、さらには、
曹魏末期から司馬氏の政府高官が
こういうところで学んでおり、

当時の政策については
史書の評価も芳しくありません。

 

10、既存の教育環境が崩壊する一方で、
外戚レベルの上澄みの貴族は
自前の教育機関を持ち、

こうした高等教育の門戸を貴族に限るような
政策的なスタンスは
地方の教育機関にも波及します。

 

 

【主要参考文献】

陳雁「後漢・魏晋における教育と門閥士族の形成」
落合悠紀「後漢末魏晋時期における弘農楊氏の動向」
上田早苗「後漢末期の襄陽の豪族」
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
山口久和『「三国志」の迷宮』
金文京『中国の歴史 04』
川勝義雄『魏晋南北朝』
高島俊男『三国志きらめく群像』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳
『正史 三国志』各巻

カテゴリー: 軍制 パーマリンク

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