戦国時代から前漢までの城郭都市にまつわる話

はじめに

遅れ馳せながら、本年も宜しく御願い申し上げます。

さて、今回は中国古代における城郭都市の御話。

年末に本屋を廻って色々な文献を物色する過程で
面白そうな話をいくつか見付けまして、
予定を変更してこの御話を綴ることと致します。

今回の御話の中心となる文献は、
江村治樹先生の『戦国秦漢時代の都市と国家』。
(白帝社・2005年)

戦国時代から前漢までの時代における
都市の成り立ちや構造について、
上手に纏められた本です。

加えて、断片的ではあるものの、
軍事等の周辺領域に対する秀逸な考察もあり、

例えば、『キングダム』等の漫画を読む際にも、
結構重宝しそうな内容だと思います。

因みに、アマゾンでは、現時点でレビューがなく、
中古も少ないことで、

(門外漢の方々にとっては)
隠れた名著と言えましょうか。

 

1、当時の城郭都市の概要

戦国時代から前漢にかけての城郭は、
当然ながら、権力者の軍事・政策の拠点でして、

小さいもので1キロ平方メートル、
大きいもので10キロ平方メートルの面積の敷地を
城壁で囲ったものです。

そして、こういう城郭の大きい部類のものが、
斉の臨淄や趙の邯鄲といった、
大国の国都級の城郭だったりする訳です。

では、こういう城郭都市に
どのような機能があったかと言えば、

この敷地の中に、
宮殿や政庁、兵舎、武器その他の工房、市、
住民の居住区等を抱え込む、

日本の戦国時代でいうところの、
北条氏の根拠地である小田原城のような
「惣構」めいた性格の城郭です。

―余談ながら、以下は
博学でエラそうな二畳庵先生の受け売りですが、

「杜甫の国破れて山河あり、城春にして草木深し」
の詩に登場する「城」は、
この種のホーム・タウンめいた街を意味します。

これは唐代の安禄山の乱の時代の話ですが、

城壁が街の外敵からの防御の切り札として機能するのは
唐代どころか民国時代ですら該当する話でして、

水滸伝の愉快な皆様のような
時代を問わず郊外の山林藪沢に集まる賊徒共は元より、

20世紀に入ってからも、
軍閥や共産党、帝國陸軍等の火砲で武装した近代軍が、

こういう防御施設のアップ・グレード版を
攻めあぐねる訳です。

 

2、設立の条件と分布状況

古代中国―戦国時代から前漢までの時代において
商業の拠点としてのこの種の城郭都市が
出来る条件としては、

江村治樹先生によれば、
まずは、重要な交通路が集中する
交通の要衝であることだそうな。

早速ですが、当時の地図を見てみましょう。

『全訳 漢辞海 第四版』p1778より抜粋。

大体、大河沿いに
目ぼしい都市が集中している様子
確認出来るかと思います。

ただし、これにも例外があるようでして、

三晋地域と呼ばれる黄河中流の地域は、
交通網よりも経済発展の影響が大きいとのこと。

因みに、「三晋地域」とは、
春秋時代終焉の契機となった晋の分裂によって成立した
韓・魏・趙の支配領域が錯綜する地域のことだと思います。

具体的には、大体、
邯鄲付近から黄河沿いに南下して、
開封(旧・大梁)・洛陽を経て
西安(旧・長安)に至る地域と推察します。

三国志の時代も、
邯鄲の辺りは
中央での政争に敗れて黄巾の乱に加わった
スネた知識人共の拠点ですし、

また、洛陽近辺は、最終的に曹操が制圧するまでは、
軍閥の抗争が絶えなかった係争の地。

さらに、長安に至っては、

劉備と曹操の抗争、
そして孔明の北伐から蜀の滅亡までの時代の
半世紀にわたる一連の戦争における
対蜀戦線の魏の策源地であり続けました。

ですが、今日のような、

洛陽や開封近辺は
観光地としての価値はあれども、

そもそも首都が北京にあり、
経済の要地が沿岸部に集中していたり、

観光ガイドを見ても
戦国時代のいくつかの王都やその近郊については
全く情報がなかったり、

―という現状を目の当たりにすると、

少なからず隔世の感があるように思います。

 

3、秦の統一戦争と城郭都市

また、こういう都市の分布が、
本ブログの主要テーマである戦争に
どのような影響を与えるのかと言いますと、

侵攻軍の攻略の難易度に直結する訳です。

当然、敵の領地に城郭が多い程、
その攻略に必要な人員・物資が多くなり、
侵攻の速度も鈍る訳です。

参考までに、以下の地図を御覧下さい。

江村治樹『戦国秦漢時代の都市と国家』p199より抜粋。

例えば、戦国の覇者である
秦の事例ひとつ見ても、

占領地に設置した郡の年次を見ると
一目瞭然なのですが、

この種の城郭の多い地域を抜いた後は
領袖一色という具合です。

無論、城郭の多さだけが
進行速度が鈍かった理由ではありませんが、

防衛側の最高司令官である趙の趙奢等が
それを拠り所に
防衛計画を立案しているフシもあります。

ですが、こういう先進地域にも、
戦時体制としての欠点がない訳ではありません。

具体的には、
住民の都市に対する帰属意識が非常に強く、

国家にとっては武器の集中管理等のような
集権的な政策がやりにくい訳です。

例えば、長平の戦いの戦後処理として、
秦の総司令官の白起が
今日にその爪痕が残るレベルで
捕虜に対してあれだけ惨いことをやったのも、

こういう都市住民の意識が
大会戦の戦果をフイにするレベルで
災いしたからだと言います。

 

ここで話が逸れますが、

この白起という人は兵卒の心情の理解出来る
叩き上げの軍人でして、

何も、残虐なだけの冷血動物であった訳ではありません。

それどころか、
この時の捕虜の生き埋めの命令に対する後ろめたさが、

生涯にわたって
脳裏に焼き付いて離れなかったようです。

しかしながら、
その時代の実情を丁寧に考察すると、

今日の感覚でも当時の感覚でも
到底理解し難い、

しかしながら、
当時においては正しい選択であった
苛烈なまでの必要悪の手立ては、

確かに存在したのかもしれません。

 

 

4、古代史のブラック・ボックス、
黄河の流域の移動

 

序に、都市の成立や分布について、
考古学的な話も付言しておきます。

これは、
将棋でいうところの紛れの一手とでも言いますか、

今までの話の前提を
引っ繰り返すような側面を持つことも
断っておきます。

何の話かと言えば、
具体的には、

黄河の流れが
時代によって大きく変わっていることです。

以下の地図を御覧ください。

 

前掲『戦国秦漢時代の都市と国家』p89より抜粋。

 

確かに、我が国でも、

江戸開発や宝暦の治水等で
利根川や木曽三川の流れが一部の区間で
人為的に変えられていますが、

黄河の場合、その流域の移動が、

その種の人為的な改修工事が霞んで見える位に
大規模なレベルで起きていることが注目に値します。

さらに面倒なのは、
この流域の移動によって
流された遺跡が存在する可能性があったりする訳です。

また、最近の学説の成果も、

80年代以降の開放路線によって
開発の過程で遺跡が発掘されたケースが多いそうな。

前回触れたようなフェイクが横行するのも
こうした事情が祟っているのかもしれませんし、

逆に、開発から漏れた地域は、
そもそも遺跡の有無すら分からない訳でして、

その意味では、
愛好家が多い割には
ミステリアスな部分の多い学術分野に思えます。

 

 

おわりに

今回の御話について、
一通りの流れを整理します。

まず、中国の古代史における城郭とは、
政治・軍事・商工業と、複合的な性格を持ちます。

そして、そもそも、
そうした城郭都市が建設される条件とは、
交通網の結節点であることが最重要。

ですが、黄河中流の地域については、

当時から開発が進んでいたことで
交通の結節点である必要はなかったようです。

因みに、この時代の主要な交通手段は、
河川、次いで道路だと思いますが、

具体的な交通網の話は、サイト制作者の不勉強につき、
詳細は今後の課題にさせて頂きます。

さらには、こういう城郭都市を領内に数多く抱える方が
防衛には有利に働きます。

と、言いますか、
戦術史の話をすれば、
孫子の兵法によって歩兵の機動部隊が多用された結果、

その防御法として、
城郭で足止めすることになった、という御話。

―ですが、
治める方も、占領する方も、その住民は扱い辛い、と。

まあ、その、
今の日本にせよ、善悪はともかく、
古都や城下町の古くからの住民の
自尊心の高さは有名だと思います。

サイト制作者の体験を通じても、
そういう側面は否定しません。

で、これが、面白いことに、
文化レベルの高さや地方政治の迷走にも繋がるので、
一長一短はあると思いますが。

さて、そのオチと言いますか、

こういう一連の説明も、

今までの文献・考古学の成果を
突き合わせた結果に過ぎず、

今後も天変地異や中国人の金儲けによって
真贋定かならざる遺跡や古文書、骨董品の類が
数多出土することで、

その成果によっては、研究が進んだり、
あるいは混乱する危険性も付いて回ります。

その意味では、

未来を感じる
研究やそれに付随する商行為の現状が
そこにはある、

―と言えなくもありません。

 

 

 

【主要参考文献】
江村治樹『戦国秦漢時代の都市と国家』
柿沼陽平『中国古代の貨幣』
加地伸行『漢文法基礎』
ブルーガイド海外版編集部『わがまま歩き 19 中国』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海 第四版』

カテゴリー: 経済・地理 パーマリンク

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