鉄の話を始めるにあたって【雑文】

はじめに

 

更新が滞り、そのうえ、
次の記事の投稿にもまだ日が掛かりそうなことで、
進捗状況について少々綴ります。

 

 

1、白兵戦(こまったとき)の鉄頼み

 

具体的には、
鉄についての御話を予定しています。

鎧の話の延長で素材の話ということで、
斜め上のベクトルでガッカリされた方も
少なからずいらっしゃるかと思います。

 

しかしながら、
前回の記事でも触れました通り、
後漢・三国時代の戦争と鉄とは
不可分の関係にあります。

 

ビスマルクの時代どころか、

古代の戦争とて
鏃も刀剣の刃も消耗品につき、

鉄であれ銅であれ、
金属がなければ話になりません。

 

それも、地球自体が鉄の塊とはいえ、

文明の利器として
マトモに使えるように加工するためには、

膨大な量の資源や動力を必要とします。

 

参考までに、

例えば、以下のような状況は
どうでしょうか。

 

三国時代の呉や蜀のような
分権的な政権で
軍事力の中核を成す豪族連中は、

自分達の領地から
自前で武器と人員を調達して
政権内で大きい顔をしています。

特に、孫権没後の呉なんか、
ひどいものです。

孫晧があれだけの専横をやったのも、
こういう弊害が背景にありました。

 

ところが、
名士や軍閥として皇帝様の足を引っ張る
コイツ等にも泣き所はありまして。

 

具体的には、
在籍する勢力が大敗して
連中が本領を失陥すれば、

食糧どころか
武器の調達・補充もままなりません。

 

領内の鉱山や製鉄所とて、
経済力や軍事力の大きな泉源のひとつです。

 

そのように考えると、

関羽のヘマによる荊州の失陥が
劉備政権にとってどれ程危機的な状況かが
垣間見えようかと思います。

 

単に劉備政権が領土を失って
直接的な軍事力・経済力を
喪失するだけではなく、

豪族の軍事力を背景にした政治力にも、

そして、劉備政権の、
本国・荊州と植民地・蜀という
支配・被支配の関係にも、

危機的なレベルの悪影響を及ぼす訳です。

 

 

2、どこまで続く理系学習(ぬかるみ)ぞ

このように、
鉄の生産が軍事力の決定的な要因
ということもあってか、

この分野の先行研究が多いことで、

理系がダメな素人の浅学では
一筋縄ではいきません。

 

以下が日本の学術研究の
生臭いところでもあるのですが、

論文が書かれた時代に盛んであった産業、
思想、政治、政争といった
天下国家な分野は、

大抵どの時代の研究でも
先行研究が多いのが相場に見受けます。

 

しかも、読んだ論文自体も、
技術史を扱っているとはいえ
当然ながら文系の内容の域を出ておらず、
土俵際で辛うじて残った心地。

 

とはいえ、専門家の方が
入門書で噛砕いて教えて下さった
初歩的な知識を以て
漸く或る程度理解出来るという、
我が身の不甲斐なさ。

 

そのうえ、サラッと記事を書くつもりで
こういうものを読んだのが、
当然ながら、そもそもの誤りでして。

 

具体的には、

製鉄のイロハは元より、
(先の記事にも炭素含有量についての理解に
誤りがありました!)

当時の製鉄所の立地や間取り、
炉、鉱石、銑鉄の用途別の種類、
鍛造か鋳造か、といった、武器の製造方法等、

整理すべき事項が続出した次第。

 

後、漢代の鉄官が置かれた地域
採鉱区や製造拠点というよりは
鉱石や鋳鉄、製品の
集積地という印象を受けますが、

【追記】

これは間違いです。
鉱山と木炭の生産地を兼ねた場所が多く、
生産地を抑えているのだそうな。

事実、郡の治所ではない所にも
置かれています。

【了】

分布自体は、
何かしらの参考になろうかと思います。

 

さらに、上記の事項も、或る程度は、
図解する必要があろうかと思います。

製鉄に対する予備知識が全くない状態で
文字だけ読むのも相当な苦行だと思います。

―ええ、サイト制作者からして、そうでした。

 

こんなの、
鉄鋼や機械関係の御仕事や研究等を
されている方以外は、

言葉自体が分からないか
イメージが沸きにくいかもしれません。

 

ええ、斯く云う無教養なサイト制作者がそうでして、

篠田耕一先生の御本で
鉄と武器の因果関係について
興味を持つまでは、

太平洋戦争で
日本は鉄やレアメタル不足に苦しんだ、

鉄は銅より硬い、―程度の御粗末な認識でした。

もっとも、今も、
それに少し毛が生えた程度ですが。

 

ああ、そういや、

ス〇イリムで、
ドワーフだのオリハルコンだの、
得体の知れない金属のインゴットを溶かして
武器を作ったり、

フォー〇・アウト4で、
家電のジャンクをバラして
銅やアルミニウムをせっせと回収しましたが。

 

後、仕事柄、
銅のゴツゴツした汚いインゴットや廃材は
毎日見てますよ~!

もっとも、製造部門ではありませんが。

 

実に恥かしいノイズは無視して下さい。

 

もっとも、ここ10年位は、
理系分野の初心者向けの分かり易い本が
数多く刊行されていることで、

個人的には、本当に助かっています。

 

最後に、中身の無い駄文だけでも何ですので、

御参考までに、
描き上げたアレな図解を掲載致します。

この図解も、間違いがないかヒヤヒヤしています。

 

趙匡華『古代中国化学』・篠田耕一『武器と防具 中国編』・菅野照造監修『トコトンやさしい鉄の本』・柿沼陽平「戦国秦漢時代における塩鉄政策と国家的専制支配」等(順不同・敬称略)より作成。

 

 

【主要参考文献(順不同・敬称略)】
佐藤武敏「漢代における鉄の生産」
佐原康夫「南陽瓦房荘漢代製鉄遺跡の技術史的検討」
趙匡華『古代中国化学』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
山口久和『「三国志」の迷宮』

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戦国時代から三国時代までの武器の形状の変遷(小記事)

はじめに

 

2年もやってる癖に
記事配信の段取りが安定せず恐縮です。

どうも、次のまとまった記事を書き上げるまで
時間が掛かりそうなので、

今回は予告程度に武器について少し綴ります。

 

 

 

1、意外に変わらない戦争の常識

 

さて、前回にも少し書きましたように、

鎧の話の中に鉄の話を混ぜ込む理由は、

それだけ鎧の製造技術に与えた影響が
大きいからです。

 

正確に言えば、
攻撃系も含めた武器そのものへの影響が
極めて大きかった訳です。

 

さらに言えば、

サイト制作者の考えとしては、

戦国時代と後漢三国時代の戦争の
最大の違いは、

鉄器の普及の程度だとすら思っております。

 

例えば、曹操は古の兵書に脚注を施しましたが、
あれは単なる古典趣味ではなく
実学の一環としてやったと思います。

何せ、軍府からの兵書の持ち出しが
機密に抵触する時代です。

―もっとも、昔の書物であれば、
機密以前に写本は随分出回っていたとも
思うのですが。

 

そう考えると、

当時の武将が孫呉の兵書を読むのも、

今で言えば、
売れっ子経営者の書いた
最新のハウツー本でも読むような感覚と
想像します。

 

ええ、間違っても、

文学は不良のやるものだと蔑まれた時代に
まさに国費での留学先の某国でやらかした森〇外に、

(そういう話が娯楽小説どころか
高校の現代文の教材になるのが
教育の不可解なところだと思うのですが)

文章上達の秘訣に「春秋左史伝を読め」と言われて、
(小説家志望者を薫陶する類の話ではないと信じます)

先生の人生で言えば、陸〇省で権謀術数に明け暮れるよりも
ド〇ツで恋愛とか青春する話の方がいいのに、と、

顔を顰めるような類の話ではなかろう、と。

 

事実、後漢・三国時代も、

戦国以来の伍や什で隊列を組んで
戦争をやっていましたし、

曹魏の弩兵・弓兵も銅の鏃を使っていました。

 

幕末の戦争のように、

火縄銃の射程距離外から
伏せ撃ちのミニエー弾を喰らって
浦島太郎になっていた訳ではありません。

 

一応、数百年前の兵書の内容が
そのまま実学として通用するという、

一定の凝り固まった常識の範囲で
事が動いていたように思います。

 

―もっとも、三国時代どころか、
火砲が登場するまでそれで事足りる訳ですが。

 

 

2、鉄器の普及が個人技を変える?!

 

ですが、そうした中でも、
少なくとも、個人レベルの白兵戦については、
かなり様変わりしていたようでして。

 

具体的には、以下。

例によって、アレなイラストで図解します。

 

学研『戦略戦術兵器事典 1』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

 

簡単に言えば、

鉄器の普及によって、
刺突系の攻撃が主流になった訳です。

そして、武器の形状も
それに特化するという御話。

モノの本には、
これによって戦闘も凄惨になったとあります。

 

例えば、互いに相手の首を狙い
鍔迫り合いになるどころか、

いきなり急所や下半身を
グサリとやれる成功率が高くなったからでしょう。

 

筆者はこんなブログやっている割には
武道の経験は殆どないのですが、

漏れ聞く話によれば、
幕末の数々の実戦の斬り合いで
有効だったのは突きで、

剣道でも、
熟達者が殺せるのもコレなんだそうな。
(危ないので初心者には教えないとのこと)

この辺りの話は、当然ながら、
経験者の方々の方が詳しいと思いますが、

余談として、あくまで御参考まで。

 

言い換えれば、

銅製の武器に対して
皮革製の防具は貫通を防げたようでして、

戦国時代までの攻防の相場は
恐らくその辺りだったと想像します。

 

そして、その構図を一変させたのが、
鉄の普及による
刺突系の攻撃に特化した
武器の形状の変化。

 

 

 

3、故事「矛盾」の裏側を邪推する

 

ですが、守る方も鉄の鎧を装着する訳でして、
まさに、「矛盾」という故事を想起させる
展開になる訳です。

 

さて、この「矛盾」という故事は
『韓非子』に出て来る御話です。

つまり、戦国時代以前―鉄の武器の使用が
かなり限られた時代です。

 

サイト制作者が邪推するに、

街頭で口上売りなんかやるような程度の
小商いにつき、

恐らくは、銅製の矛の話と想像します。

 

【追記】

とはいえ、
干将・莫耶の故事宜しく、

鉄鉱石に数百度程度の低温で
焼き入れ・焼き戻しを何度も行う、
所謂「百錬鋼」による掘り出し物という可能性も
否定出来ないのですが、

どの道、
矛が盾を綺麗にブチ抜いたところで、

法家連中のロジックでは、
貫通力を褒めるような殊勝な話にはならず、

詐欺の現行犯を咎める
哎呀な展開になるのでしょうねえ。

 

因みに、こういう手の掛かるローテクは、
資本力の小さい製鉄業者の製法。

加熱温度が低いことで不純物が少なく
また、炭素濃度が極めて低いことで、

堅くてよくしなうスグレ物。

 

とはいえ、こういう、
資本力=品質とならないところが
当時の技術の面白いところでして、

曹操が作らせた宝刀はこの製法。

 

【了】

 

 

で、盾が革製であれば、
先述のような話であれば
通さない可能性も少なからずありまして。

 

ですが、実際の戦争では、

こんな小賢しい理屈でカタが付くような
生易しい話ではありません。

 

大口の国や諸侯の軍であれば
消耗品と割り切って矛も盾も大量に買いますし、

買うどころか、
そもそもの原料の統制から
国策で行います。

 

まあ、中には、南北戦争の時に
モ〇ガンから廃銃を300丁も掴まされて
怒り狂ったリ〇カーンのような人もいますが、

ク〇ップはそうやって鋼板も大砲も売り捌き、
これに味をしめてナチと心中仕掛けて
軍産から足を洗い、

何処かの島国も、
必死に戦闘機やミサイルの開発を行う傍ら、
最新鋭の戦闘機も対空ミサイルも
大枚はたいて買う訳です。

 

少なくとも、戦国時代の斉や秦も、
各々の兵器のレベルでは矛盾しようが、
そうやって国営の軍需工場を経営する訳です。

しかも、売る方は、
特に春秋時代辺りまでは
諸侯の外商部門だったりする訳です。

【追記】

恐らく、春秋時代の領邦国家の外商部門が、

戦国時代には主家が没落して
土地や軍事力の裏付けを持たない
「純粋な」商業資本として独立し、

各地で土地を買い漁る展開になると
想像しますが、

中には徒手空拳から成り上がった者も
いたことでしょうし、

その辺りは、系譜の話も含めて、
もう少し裏付けを取った後、
後日大きな記事にしたいと思います。

ところが、農本主義の戦時体制を
敷きたい法家連中は、

その種のボーダレスな商業資本を、
蛇蝎の如く嫌い、

甚だしい場合は
罪人同様の徴兵で弾除け部隊(弓弩兵)に
ブチ込むのですが、

一方で、呂不韋のようなのが
各国で幅を効かせていたのも
戦国時代の国家のひとつの顔でした。

【了】

 

こういうレベルの話になると、

寅さん宜しく街頭の口上売りで
クレーム対応に追われるどころか、

壱岐君宜しく
キック・バックとして
多額の袖の下を掴ませる光景の方が
余程真に迫っていると言えると思います。

 

死の商人と軍隊の関係なんか、

いつの時代も、
表裏一体の関係とでも言うのか
人を呪わば穴ふたつとでも言うのか。

 

そして、矛盾どころか、

鉄製の武器が出回っても
皮革製の鎧を作り続けたのも
兵器史のひとつの側面です。

こういう話は漢代に止まらず、

後の時代になると、
明光鎧の形状の革製なんかも登場するそうな。

 

 

おわりに

 

何だか、例によって、
話がヘンな方向に飛びましたが、

 

結論として、

鉄の普及によって、
刺突系の攻撃が盛んになり
殺傷力が飛躍的に高まり、

鎧の製造もこれに影響されていく流れ
多少なりとも読み取って頂ければ幸いです。

 

 

【主要参考文献(敬称略・順不同)】
学研『戦略戦術兵器事典 1』
楊泓『中国古兵器論叢』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
岡倉古志郎『死の商人』

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鎧の部位、構造、及び兵科ごとの特徴


更新が遅れて大変恐縮です。

また、今回も長くなったことで、
以下に、章立てを付けます。

適当にスクロールして頂き、
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

 

 

はじめに

1、鎧の部位
1-1 どのような部位に分けられるのか?
1-2 冑
1-3 カッコいいものは、実は銅製?!
1-4 盆領
1-5 披搏
1-6 身甲の開口部
1-7 垂縁
1-8 膝裙
1-9 後漢・三国時代へのアプローチの一手法?!

2、鎧の構造
2-1 基本構造はいつ整ったか?
2-2、鎧の大雑把な作り方?!
2-3、可動部の甲片の繋ぎ方
2-4、甲片を繋ぐ紐とその特徴

3、兵科ごとの鎧の特徴
3-1 歩兵・騎兵・戦車兵の3区分
【雑談】飛び道具を扱う人々
3-2 歩兵の鎧の特徴
3-3 騎兵の鎧の特徴
【雑談】異文化交流は危険な香り
3-4 戦車兵の鎧の特徴

おわりに

 

 

 

はじめに

後漢・三国時代の鎧の話をする前に、
鎧そのものの基本を
もう少し掘り下げよう、という御話の2回目。

今回は、部位と構造について
綴ります。

 

 

1、鎧の部位

1-1 どのような部位に分けられるのか?

まずは、以下のアレなイラストを
御覧下さい。

楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

 

一応説明しますと、

自撮りをやってるおねえさんが
着ているのは、
前漢の斉王の墓からの出土品の
そのまた復元品です。

何処の国でも
古代の出土品の現物でこんなことやったら
エライ事になると思います。

―それはともかく、

 

甲片の編み方は魚鱗甲につき、
少なくとも武帝期の後半以降と
推測します。

さて、イラストの主目的である
部位の解説ですが、

篠田耕一先生
『武器と防具 中国編』
設定された区分を元に、

サイト制作者が
諸々の文献や字引から
それっぽいと思うものを書き足すという
少々横着な内容です。

それはともかく、

古代中国の鎧の部位は
大体このような区分に
分けられるかと思います。

 

また、この中でも、

魏晋―つまり、
大体、三国志の時代までは
存在そのものが怪しい部位
ありまして、

これは後述します。

それでは、まずは、
頭―日本でいうところの兜から
順に観ていくとしましょう。

 

 

 

1-2 冑

古代中国では、
頭を守る部位を「冑」といいます。

そう、時代劇や軍記物に出て来る
所謂、甲「冑」とは、
鎧・兜を意味する訳です。

別名、首鎧・兜鍪(とうぼう)。

 

さて、「冑」は部位のみならず、
頭を守る武具も意味します。

 

例えば、イラストにあるような皮冑

これは、戦国時代の戦車兵が
装備したものです。

具体的な武具の名称は、
当然ながら別に存在します。

 

また、盔(かい)や鍪(ぼう)は
金属製の兜を意味します。

 

因みに、鍪は元は釜の意。
兜と形状が似ていることから
派生したそうな。

 

戦国時代の雑兵が
陣笠を食事の器にしたという話が
何かの本に書いてあったと
記憶しますが、

戦国時代の士大夫が
鉄兜をこういう使い方をしたのかは
残念ながら分かりかねます。

 

 

 

1-3 カッコいいものは、実は銅製?!

 

また、後漢末から大体5世紀位までの兜は、

サイト制作者が出土品を見る限りは、
鉄製であれば甲片(小さい鉄のプレート)を
繋ぎ合わせたものばかりです。

 

専門用語で蒙古鉢形冑と言いまして、

兜全体を小さい鉄の甲片で繋いで
頭頂部に半球形の蓋を付けるタイプ。

 

つまり、鋳型を用いて
左右対称の大型のプレートを
接合したタイプのものは
観たことがありません。

 

NHKの『人形劇三国志』や
横山光輝先生の漫画等に出て来るような
鋳型で作って左右を接合するタイプの兜は、
恐らくは銅製だと想像します。

 

と、言いますのは、
この時代の製鉄技術から考えれば、

過去の記事で触れましたように、

 

炒鋼法という
当時世界最先端の
製鋼技術自体は存在したとはいえ、

大型で複雑な形をして
人命を預かるレベルの
相応の強度を持った製鉄製品を
鋳型で作る段階には
至っていなかったからでしょう。

 

駒井和愛先生の
三国時代の明光鎧は
銅製であった可能性が高い、
という学説についても、

技術史的には、恐らくは、

鎧の核となる胸部の大型の金属板を
鋼鉄で作ることが出来ないという
背景があったことと推測します。

 

 

 

1-4 盆領

 

首を守る、謂わば、
襟に相当する部位です。

別名:鐚鍜(あか)。
これは、偶然字引で見つけた言葉です。

 

さて、実は、この部位は、
戦車兵の鎧の大きな特徴です。

 

ですが、さるモノの本には、

イラストにある
前漢時代の盆領付きの筒袖鎧は
騎兵のものと紹介されています。

 

兵科あるいは兵種ごとの特徴については
詳しくは後述しますが、

あくまでサイト制作者の愚見としては、
戦車兵の鎧と思います。

その根拠として、

袖・盆領があり、
甲片の繋ぎ方が
武帝時代以前のものだからです。

つまり、戦車が匈奴との本格的な戦いで
弱点を露呈して戦力的に下火になる
以前のものと推測します。

 

 

 

1-5 披搏

 

次に、腕の上半分に相当する披搏。

兵科あるいは兵種ごとの
鎧の特徴については後述しますが、

この部位に即して掻い摘んで言えば、

歩兵や戦車兵の鎧には、
肩乃至腕を防護する機能があります。

 

例えば、イラストの中心に描かれている
前漢の鎧は歩兵用のものです。
―歩兵どころか、
王様の愛用のものの可能性がありますが。

また、後述する秦の戦列歩兵用のものには
肩甲が付いていますし、

イラストにもありますように、
戦車兵のものともなると、
腕の上半分が完全防御となります。

 

さらに、前漢に入ると、
歩兵の鎧にも
筒袖が標準装備となりまして、

時代が下って
三国時代の蜀や西晋の筒袖鎧へと
継承される流れになると想像します。

 

また、鎧の腕の下半分の部位
臂護(ひご)と言います。

 

ただ、この部位については、
サイト制作者の浅学故か、

少なくとも南北朝時代辺りまでは、
秦代の戦車兵の例を除いて
存在を確認出来ませんでした。

出土品は元より、
どの時代のを観ても、
戦袍の袖が剥き出しになっています。

 

 

 

1-6 身甲の開口部

 

鎧の定義ともなるべき部位です。

そうした事情もあり、
基本的な構造については後述します。

また、甲片の材質や繋ぎ方については、
後の回の話とします。悪しからず。

 

材質の話は、

製鉄が絡むことで
少々取っ付き難い内容ですが、
(サイト制作者もド文系!)

鎧を含めた武器の話をするうえでは
不可欠だとも思いますし、

一旦学び始めると、

少なくとも雑学としては
色々な分野に応用が効くことで、

ハマる要素もあろうかと思います。

したがって、ここでは、
話を鎧の開口部に絞ります。

 

結論から言えば、
色々なタイプがありまして、

不明な部分もあれば、
試行錯誤の痕跡もある、という具合。

 

後述する
秦代の戦列歩兵の鎧のように、

セーターのように鎧の裾から被って
首回りを紐で調整するタイプもあれば、

先述の前漢の
盆領付きの筒袖鎧のような
前開きのタイプもあります。

 

これまた、先述の前漢の斉王墓の鎧は、

右の鎖骨、脇、そしてその真下の腰と、
謂わばチャイナ服のような
切れ目のラインがあり、
この3箇所を紐止めします。

 

もう少し時代が下ると、

例えば、三国時代以降の両当甲は、

肩の部分にベルトがあり、
これと帯の上下で固定・着脱します。

 

残念ながら、
この時代のそれ以外のものは
開口部の詳細は不明です。

 

以下は、
あくまでサイト制作者の推測ですが、

蜀や西晋の筒袖鎧については

当時の俑を観る限り、

魚鱗甲という甲片の繋ぎ方に加え、
前漢に比して
前開きを止めていることから、

先述の前漢斉王墓の鎧と
同じタイプではないか
睨んでいます。

 

また、4、5世紀位になると、
朝鮮や日本では、
かなり大きめの甲片を接合した鎧
登場します。
―当然、技術は大陸のものと思いますが。

 

で、この種の鎧は、
両当甲に脇を補強したような形状で、
脇部分を蝶番で開閉します。

 

隋唐の明光鎧も
モノによっては
肩の部分にベルトが付いていることで、
こういうのは被るタイプと想像します。

 

さらに、もう少し時代が弱下ると、
宋代の歩人甲という鎧がありまして、

これは何と、
身甲・垂縁(裾部分、後述)が一体で
エプロンのような形状で、
背面を紐で縛るタイプでして、

我が国の胴丸やその前の大鎧の
先祖のようなものかもしれません。

さらに披搏部分はこれとは別にあり、
両腕が一体で
前面と背面に分かれるという形状。

蓑の肩部分のような形をしています。

 

 

 

1-7 垂縁

 

鎧の裾部分の部位です。

ですが、兵科によって丈が異なりまして、
股間や尻までスッポリ覆うとは
いかないようです。

この辺りの事情は後述します。

 

さて、変遷めいたものについても、
すこし触れます。

 

まず、殷周時代以前は、
鎧も戦車も
貴族階級の専有物のような状態です。

 

その理由は、
平地での戦車戦が主流の時代につき、

平民が構成員の大半を占める歩兵は、
謂わば添え物のような存在です。

したがって、
鎧≒戦車兵の鎧、という構図。

 

さらに、戦車兵は
車体の防護設備があることで
下半身への攻撃を想定していないためか、

身甲と垂縁が一体になった、
腰のくびれのない
ズングリした鎧となる訳です。

 

言い換えれば、

身甲と垂縁の区別のある鎧は、

御貴族様の戦車の添え物の
謂わば、随伴歩兵のような存在ではなく、

単独での作戦行動の可能な
独立兵科としての歩兵部隊の登場と
軌を一にするかと思われます。

 

つまり、早くとも
春秋時代の末期以降かと。

 

次いで、武霊王の胡服騎射による
騎兵の登場と相成りますが、

秦の重装騎兵、
つまり、鎧を着用した騎兵の存在は
戦国時代では珍しかったようで、

騎兵用鎧の登場については、
さらに時代が下ると思います。

 

騎兵用の鎧は、
大体秦も前漢も、
そして、三国時代の両当甲も、
似たような形状をしています。

 

歩兵より動き易いが
防護の死角も多い作りをしています。

垂縁も、歩兵用の鎧よりも
丈が短くなっています。

これも、後程図解します。

 

 

 

1-8 膝裙

 

残念ながら、
男子の証たる股間の部位は
サイト制作者の浅学につき不明です。
悪しからず。

まあその、

今日で言うところの
ファール・カップのようなものの
存在が確認出来れば、

性格の悪さから
ドヤ顔で図解していると思います。

 

それはともかく、
垂縁の下の部位
膝裙というのがあります。

字義から察するに、
膝を守るためのスカート、
といったところでしょう。

ですが、
どうもスカートにしては
スリットが大き過ぎて
露〇狂を疑わせる何かがあり、
―ではなく、

膝掛や腿当てに近い形状の模様。

 

もう少し具体的に言えば、

西洋の鎧のように、
膝関節の前面を
金属で隙間なく覆うタイプの
防具ではなく、

膝とその周辺の前面を
一枚の大きめの板で覆う
タイプのものです。

日本の戦国時代後期の
当世具足なんかに付いている
膝を覆うための板を御想像下さい。

 

この部位、
読者の方よりの貴重な情報や
むこうの復元品によれば、

前漢の騎兵が
髀褌(ひこん)という腿当てを
着用していた模様。

さらには、西晋時代の俑の中には、
足首まで魚鱗甲めいた装甲に
覆われているものがあります。

これも、さる読者の方の御指摘
気付いた点です。

慧眼の至り。

 

 

 

1-9 後漢・三国時代へのアプローチの一手法?!

 

以前、鎧関係の記事で、

兵器―この場合、鎧、の、
著しい技術向上の背景には、

必ず長きにわたる戦乱があると
書きました。

無論、サイト制作者の妄言の類ではなく、
楊泓先生の受け売りです。

 

例えば、魚鱗甲が登場した背景には
武帝の対匈奴戦があります。

また、始皇帝の兵馬俑の甲片と
前漢前期の出土品の甲片は、

前者が正方形に近く、
後者は長い短冊型をしています。

この技術革新を長期化した戦乱に
見出すとすれば、

秦末の反乱から楚漢戦争までの
動乱の時代に他なりません。

 

そして、このような思考パターンで、

膝裙の導入の契機となった
軍事的な画期を
その西晋時代の
少し前の戦乱の時代と仮定すると、

何と、三国志の時代の
終り頃と相成る訳ですワ、これが。

 

戦火を蒙った当事者としては
忌まわしい事実でしょうが、

三国志のファンとしては
何とも夢のある話で。

 

つまり、強気なことを言えば、

三国志の鎧には身甲や垂縁に加え、
膝裙付きの、
食前酒も食後のスイーツやコーヒーも付いた
フルコースな鎧があった!

―と、言えなくもありません。

まず、兵卒の鎧ではないと思いますが。

 

 

 

2、鎧の構造

 

2-1 基本構造はいつ整ったか?

 

一通り、部位について確認したところで、
次は、鎧の構造の話をします。

早速ですが、
以下のアレなイラストを御覧下さい。

楊泓『中国古兵器論叢』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

 

楊泓先生によれば、

古代中国の鎧の基本構造は
大体戦国時代に出来上がった
しています。

 

戦車兵、歩兵、そして騎兵の
3つの兵科が確立し、

各々の兵科ごとの戦術も
或る程度完成したことに起因すると
想像します。

 

また、時代が下るにつれて
鎧に色々なパーツが付いたり
甲片の繋ぎ方が複雑になったりしますが、

そうした鎧の進化の際の
最大公約数めいた御約束も、

この段階で出揃った、
ということなのでしょう。

 

サイト制作者が
他人様の褌で鎧の構造を図解するに当たって、

イラストにあるような
秦の歩兵用の鎧を事例にしたのも、

上記の点が理由です。

 

 

 

2-2、鎧の大雑把な作り方?!

 

それでは、まず、
鎧の作り方から見ていきます。

復元品を作ったり
イラストを描いたりする際、
一儲けを企むため
参考にでもなればと思います。

 

さて、最初に胸部正面の甲片を作り、
その左右に甲片を繋いでいき、
環状のものを作ります。

つまり、胸囲に相当する
横一列の環状の甲片を作ります。

 

それを、何本も作り、
上から順につないでいきます。

 

因みに、イラストでは
鎧の中央の縦一列の甲片の色
薄くしてありますが、
これは説明用の色分けです。

残念ながら、
シ〇レー・カマロのような
ツートン・カラーだった訳ではありません。

 

後、漫画や小説でも書く際、

3倍速く動ける設定で赤く塗ろう、
というような
何処かで聴いたような話の盛り方は、

当然ながら、
法務関係の話も含めて
自己責任で御願い致します、などと。

―それはともかく。

 

 

 

2-3、可動部の甲片の繋ぎ方

 

また、胸部と腹部の違いは、

胸部の甲片は、
鎧の内側で紐で縛って固定します。

また、上下の甲片が重なる部分は、
上の甲片を外(前)に出します。

 

腹部の甲片は、
鎧の外側にも綴じ紐を出し、

上下の甲片が重なる部分は、
胸部とは逆に、
下の甲片を外(前)に出します。

これは可動部であることを意味します。

悪く言えば、
遊びの部分があることで
多少腹が出てもキツくはならない訳です。

そのための機能かどうかは
分かりませんが。

 

また、こうした可能部は、
歩兵用の鎧の場合は、
肩甲―つまり、披搏にも同じことが言えます。

 

ただ、恐らくデメリットもありまして、
いくら可動部とはいえ、

そもそも肩甲があること自体、

腕の可動域が狭まることも
意味するのでしょう。

 

もう少し具体的に言えば、

サイト制作者の想像の域を出ませんが、

鎧を付けない秦の弩兵・弓兵と
肩の防護のない鎧を着用する
秦・漢・魏晋の騎兵を観る限り、

この時代の肩甲のある鎧では
可動域が狭いことで
弓が引きにくいものと想像します。
(特に、仰角で曲射を行う場合)

 

また、全長約64cmとあるのは、
種本の兵馬俑の鎧の丈だと思います。
色々なサイズがあるのでしょう。

因みに、当時の兵士の身長は
大体150cm弱。
戦国時代の趙の精鋭は平均171cm。

御参考まで。

 

 

 

2-4、甲片を繋ぐ紐とその特徴

 

最後に、鎧の甲片を繋ぐ紐についても
言及します。前漢の事例です。

まず、紐は麻縄です。

次いで、3つの特徴があります。

 

1、細いものを大量に使用。
鎧の全ての部位に言える話だと思います。

2、1、より細いものを3本撚ったものを
可動部位に使用。

3、撚られていない紐を1本乃至複数本を
重要でない部位―恐らく固定部位、に使用。

 

つまり、動きが激しく摩耗し易い可動部位には、
頑丈なものを使うという御話です。

 

 

 

3、兵科ごとの鎧の特徴

 

3-1 歩兵・騎兵・戦車兵の3区分

続いて、兵科ごとの鎧の特徴について触れます。

 

因みに、以下は
サイト制作者個人の意見に過ぎませんが、

兵科は国家や軍が法や命令で決めるもの、
兵種はもう少し抽象的・概念的なもの、

―という具合に考えています。

 

 

【雑談】 飛び道具を扱う人々

例えば、この時代で言えば、
同じ矢を扱う兵士でも、

密集隊形で弩を放つのと
伍の戦列で弓を射るのでは、

軍隊の中でも
運用の方法が異なるのですが、

そもそも、
弓弩を扱う徒歩の兵士は、
基本的に鎧を付けないという―。

 

とはいえ、厳密には、
秦代の兵馬俑には
鎧を着用して弩を構えたものも
あるのですが、

この国の場合、そもそもの前提として、

飛び道具を扱う兵士は、

商人や囚人等、
(農本)国家にとって
体制上、都合の悪い人々で
構成されています。
―要は、弾除けのための人員です。

 

さらには、

どうも、この種の人員の存在は、
古今東西を問わぬようです。

 

例えば、
『阿呆物語』なんか読むと、

ドイツの三十年戦争の時も、
火縄銃の銃手を「全滅小隊」と
呼んだそうです。
(先込めで装填速度も遅く、
暴発も多い時代です。)

 

で、こういう人員を
どこから連れてくるのかと言えば、

前線から少し離れたところに、
喰い詰めたあぶれ者が
群れて野営しており、
(勿論、自給自足略奪もします!)

こういうのを
「マロード」(確か、狼の群の意!)
とかいうそうで、

悪く言えば、
戦地の住民の癌ですが、

良く言えば、
対峙する軍や傭兵団にとっては
戦力の供給源になっている訳です。

 

要は、劉邦や李自成みたいな
所謂「余剰人員」
―やくざ者とも言いますが、を、

国家が集めるか
傭兵団が集めるかの違いです。

―武器と身分の関係について、
御参考まで。

【了】

 

 

 

また、ここで扱う
歩兵・騎兵・戦車兵の3種類は、

恐らくは、先述の「兵科」のレベルで
それぞれ異なった運用が
なされています。

さて、早速ですが、
下記のこれまたアレなイラストを御覧下さい。

楊泓『中国古兵器論叢』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

 

イラストにある各々の兵科ごとの鎧は、
秦代の兵馬俑のヘッタクソな模写です。

あれだけ強大な権力の王朝ともなれば、
自ずと軍隊の構造自体も
体系的なものになるようでして、

こういうもを説明するには
打って付けの事例となるかと思います。

 

さらには、少なくとも魏晋の頃までは、

歩兵・騎兵の鎧については
このイラストにあるような
特徴が保たれます。

 

ただし、戦車兵については、
前漢の匈奴との戦争以降は
兵科自体が廃れていきますが、

曹魏の時代にも
『三国志』の魏史に
訓練を行ったという記録があることで、

実態はともかく、
消滅した訳ではありません。

 

 

 

3-2 歩兵の鎧の特徴

 

それでは、各兵科ごとの
鎧の特徴の説明に入ります。

恐らくは、もっとも大量に
製造されたと思しき
歩兵用の鎧から観ていきます。

まず、部位で言えば、
身甲・披搏・垂縁に区分出来ます。

 

披搏は腕の上半分を防護する
肩甲が付きます。

これが前漢の武帝期以降になると、
筒袖のタイプのものも登場します。

 

三国時代は、蜀や西晋を観る限り、
筒袖タイプが主流だったのでしょう。

呉、と言いますか、南方の王朝は、
少なくとも東晋辺りまでは、
ヒラの兵士は鎧を付けません。

 

また、垂縁は、
丈は股間辺りまであります。

実は、この点は、
騎兵の鎧との大きな相違点につき、
御注目下さい。

 

 

 

3-3 騎兵の鎧の特徴

 

次いで、騎兵用の鎧。

 

胡服騎射の時代は、

騎射等、戦闘用のレベルで
馬を乗りこなすこと自体が
曲芸に近い間隔であった模様。

恐らく、秦の「重装」騎兵が
物珍しかったのも、
練度の賜物だったのかもしれません。

 

その一方で、
騎兵の用兵思想のひとつに、
軽量化による機動力の重視があります。

 

具体的には、
北方の騎馬民族の常套手段でして、

極力接近戦を避け、
距離を取って相手の疲弊を待ち、

頃合いを図って
狩りの要領で包囲して
弓で仕留めに掛かるという戦法を取ります。

 

匈奴との戦いで揉まれた
前漢の軍隊には、

鎧を着用して
敵軍を白兵戦で駆逐する騎兵もいれば、

この種の鎧を付けない軽弓騎兵も
あったようです。

 

それでは、騎兵の鎧の特徴ですが、

秦から魏晋の頃までは、

簡単に言えば、

披搏がなく、
垂縁が臍の辺りまでの
丈の短い鎧でした。

今風に言えば、

女性の下着の一種である
キャミソールのような形状。

で、前後二枚の板、
あるいは脇も覆われた胴巻を
肩のベルトなり紐なりで固定します。

 

 

 

【雑談】異文化交流は危険な香り

以前の記事でも
触れたと記憶しますが、

騎兵用の鎧の一種である
両当甲の「両当」は、

北方の遊牧民の衣類の一種。

ええ、そのキャミソールが
前後に分かれた形をした上着です。

で、この衣装を
軍事転用したのが両当甲。

 

欧州大戦の泥沼の塹壕戦で重宝した
トレンチ・コートが
戦後にファッションになったのとは
逆の話ですナ。

その他、六合帽だの、長靴だの、
色々入って来るんですワ。

 

そもそも、こういうものが
中原に入って来た背景に、

主に、後漢以降の遊牧民の強制移住やら
反乱やらのゴタゴタの副産物
文化交流も急速に進んだことがあります。

世界史で習う
北魏の孝文帝の漢化政策は、
そうした文脈の中で行われたものです。

 

―で、大抵の場合、

南下してこういうことをやった王朝は、
軍事的には弱体化し
馬の調達経路も閉塞し、

オマケに王侯貴族共は
人類の叡智を享受するどころか、

贅沢を覚えて堕落して
宮中政争に明け暮れ、

その結果、

次の時代には、

雨後の竹の子の如く現れる
北辺の凶悪な異民族に絡まれる、と。

 

これも、何世紀も連綿と続く、

華北界隈に足を踏み入れた異民族王朝が
ダメになるという
御約束のパターンです。

 

―ですが、その一方で、

こういう先進文明に対する憧憬が
原動力となり、

そもそもの物理的な距離やら身内の反対やら、

血の滲むような苦労の末に、
標準規格の浸透が進むのでしょうねえ。

 

そして、洒落た言語や文化や
卓越した化学技術も、

一方で、大人の事情で売るに売れない
基軸通貨国の国債や

高価な癖にブラック・ボックスが多くて
奇怪な事故ばかり起こす主力戦闘機も、

品行方正でコスト・パフォーマンスも良く
何年も在籍するような優良外国人選手も、

誰とは言いませんが
破格の年俸を満額受け取った癖に
怪我と不振で早々に帰国する
ダメ外国人選手も、

ヒト・モノ・カネの往来がある以上、

同時並行でイロイロ入って来るのが
浮世の摂理か。

【了】

 

 

 

さて、高橋工先生の研究によれば、

実は、ほぼこの時代である
4~5世紀のものとされる
朝鮮や日本で出土した鉄製の鎧
これに似た形状でして、

胸・脇・腰が覆われており、
脇の部分を蝶番で開閉します。

また、前面は鎖骨より上、
背面は背中の上半分がありません。

 

さらに分かり易く言えば、

女性の下着の一種である
ビスチェのような形状。

 

―ヘンな話ばかりしていますが、

本当にこういう形状をしているので
困ったもので。

 

まあその、
サイト制作者の変態趣味は否定しませんが、

ヒトの体形にフィットするということは、
それだけ無駄のない作りであることをも
意味します。

 

因みに、当時は、
日本・朝鮮の両地域共、内戦状態でして、
大陸からの輸入か模倣品と想像します。

 

さて、部位の話をしますと、

恐らく、披搏がないのは
騎射の射角や視界確保に有利なためで、

丈が短いのは、
乗馬の際に
鞍に干渉しないためだと思います。

 

とはいえ、
南北朝時代になると、

エプロン・タイプの両当甲は
前後の装甲板をつなぐベルトが
肩の少し上の辺りまで高くなり、

肩甲と身甲のつなぎ目が
前後の装甲板の中に収まる作りに
なります。

こういうタイプの鎧の騎兵は、
騎射をやらない
接近戦専用なのでしょう。

 

余談ながら、
秦代の騎兵用の鎧には
少し特徴があります。

残念ながら、イラストの方は、
縮小で潰れて見辛くて
申し訳ありませんが、

身甲部分の胸部と腹部で、
装甲の形が異なります。

具体的には、
胸部が立方体、
腹部が円柱になっています。

 

 

 

3-4 戦車兵の鎧の特徴

 

最後に、戦車兵の鎧について。

戦車兵は、

戦場の花形であった
殷周時代は元より、

戦国時代においても、

歩兵戦が盛んになったとはいえ
平地の決戦部隊として
重要な兵科でした。

 

それ故、例えば、
秦においては、

戦車兵には定期的に
技量検査が行われまして、

スコアが悪ければ
罰則の対象になりました。

 

また、馭者がやられれば、
左右の精鋭2名も
巻き添えを喰う訳で、

こういう実用的な観点からも、
万全を期した重装備になるのでしょう。

 

因みに、戦国時代の場合、
馭者の左右の戦闘員は、
歩兵用の鎧だそうな。

 

それでは、
鎧の具体的な機能の話に入ります。

まず、首を守る部位・盆領ですが、

これは、同じ戦国時代における
秦以外の地域の出土品にもありました。

 

また、前漢の前期と思しき
短冊型の甲片を綴った鎧にも
コレが付いていました。

 

で、愚見として、

盆領付きの鎧が
戦車兵のものと思う理由は、

弓を引いたり
馬を乗りこなす際に
視界を狭めるからです。

 

参考までに、『三国志』の董卓の伝に、

この御仁は騎射の際、
左右に射ることが出来た、

と、ありまして、

つまり、これは、利き腕の反対である
弓手(ゆんで)でも
射ることが出来るという離れ技。

 

ですが、言い換えれば、
真正面には馬の首があることで
射ることが出来ない、

―という御話なのでしょう。

 

恥かしい話、サイト制作者は、

馬も弓もやったことがないので
実務レベルでは分からないのです。

 

ただ、その、
仮に、騎射の際、
左右にしか射ることが出来ないとすれば、

例えば、高地から低地の敵を
俯角で敵を射る場合、

盆領があると視角を遮る訳です。

 

また、についても、

筒袖タイプもあれば、

イラストにある秦の戦車兵のように、
腕の外半分と手の甲が
覆われているものもあります。

 

サイト制作者の想像の域を出ませんが、

このタイプの鎧は、

甲片の形を観るに、
腕の可動域は
相当小さいように思います。

 

また、腰の部分の割れ目は
歩兵や騎兵の鎧より小さくなっています。

 

先述のように、

どういう形であれ、

必要条件として、

恐らくは、
戦車の車体からはみ出た上の部分が
甲片で覆われてさえいれば良い訳です。

 

余談ながら、
脚絆=ゲートルについても少々触れます。

裾を絞ったズボン=褌に
脚絆を巻くかどうかは、

兵馬俑を観る限り、
あまり兵科とは関係なさそう
思います。

あまり歩かなそうな戦車兵が
巻いており、

鎧を着た歩兵が
巻かなかったりしているからです。

要は、常時携帯し、
長い距離を行軍する際に
巻くのでしょう。

 

 

おわりに

 

最後に、今回の内容を整理すると、大体、以下にようになります。

 

1、大体、五体ごとに防護部位が存在するが、
  時代によっては防護されない部位もあった。

  例えば、臂護は南北朝時代の鎧にも確認出来なかった。

 

2、魏晋の頃までは、鉄製の部分については、
  小さい甲片を繋ぐものしか存在せず、

  大型の金属のプレートのあるものは、
  銅製の可能性が高い。

 

3、大体の鎧の身甲部分の製作手順は、
  最初に中央の甲片を作り、
  横の甲片を環状に繋ぎ、それを何列も縦に繋ぐ。

 

4、可動部(腹部・肩)は外側から縦の甲片を紐で縛る。
  また、上下の甲片の重複部分は、
  下側の甲片を前に出す。

 

5、固定部(胸部)の甲片の繋ぎ方は、可動部と逆。

 

6、鎧の甲片を繋ぐ紐は、接合部分の重要度によって、
  太い細いを選ぶ、本数を変える、あるいは、
  撚るか撚らないかを調整する。

 

7、歩兵用の鎧の特徴は、
  裾が大体股間を覆う位まであり、
  肩や腕を守る部位が存在する。

  前漢の武帝期以降は筒袖型が登場する。

 

8、騎兵用の鎧の特徴は、
  裾が臍辺りまでしかなく、
  後漢以降登場するごく少数の重騎兵を除いて、
  腕を守る部位もない。

 

9、騎兵用の鎧の特徴は、
  乗馬や騎射に支障を来さないための
  機能である可能性がある。

 

10、戦車兵の防護部位は上半身は多彩で、
  特に、袖への部位は戦国時代から存在した。

  一方で、下半身への防御はあまりなされていない。

 

 

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

楊泓『中国古兵器論叢』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』
駒井和愛『漢魏時代の甲鎧』
西野広祥『「馬と黄河と長城」の中国史』
学研『戦略戦術兵器事典 1』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』
峰幸幸人
「五胡十六国~北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給」
『東洋学報100(2)』
高木 智見『孔子』
来村 多加史『万里の長城 攻防三千年史』
朱和平『中国服飾史稿』

カテゴリー: 兵器・防具, 服飾, | 6件のコメント

実録?!五十歩百歩(小記事)

はじめに

鎧の話の続きを纏めている最中で恐縮ですが、

以前の記事に関して、
興味深い御本を見付けましたので、今回は、その御話。

 

 

1、罪と罰~敵前逃亡

 

当該の記事は、以下。

伍の戦闘訓練と連帯責任

要は、以前、当時の戦闘訓練の御話に事寄せて
孟子の五十歩百歩について、
怪しい考察を試みたのですが、

実は、サイト制作者がやる大分前に、

それも、遥かにマトモな方法で
この種の考察をなさっていた先生が
いらっしゃいまして。

 

その種本は、以下。

 

鶴間和幸先生の
『人間・始皇帝』(岩波新書)

 

早速、事の経緯について、
同書の当該の部分を要約します。

要は、今で言えば、
裁判の審議の記録が残っていた、
というようなお話です。

 

まず、事の起こりは、

統一戦争も大詰めの前221年9月、
秦の軍中で戦闘中の敵前逃亡が
発生したことです。

 

もう少し具体的に言えば、

前進すべき局面で
12歩(1歩=1.38メートル)後退し、
追撃してきた敵兵に弓を射た兵士
いました。

 

そして、この兵士に対して
どのような罰則を与えるべきか
焦点になる訳ですが、

実は、この案件自体が、
現場で決裁出来ずに
上級官庁に送られるという
由々しきものでありました。

 

そうした事情もあってか、

取り調べの過程で、
掴みどころのない
前線の実相が見えて来る訳でして―。

 

例えば、
12歩どころか、46歩逃げた奴もいれば、
孟子の言葉通り100歩逃げた「猛者」も
おりまして、

そういう不誠実な兵士ばかりかと思えば、

弓で殺された者や、
短剣で敵と渡り合って戦死した殊勝な者もいる、
という具合。

 

で、結局、
どのような沙汰が下ったかと言えば、

先に逃亡した12名には
完城旦鬼薪という罰則。

前者は、頭髪を剃らないまま
辺境の築城と防衛。

また、城旦は、
昼は見張り、夜は築城や補修。
要は、休みなしの重労働。

後者は、鬼神祭祀の薪を集める労役。
これも、ヤバ気なことを
やるのかもしれません。

 

次に逃亡した兵士14名には、
耐刑という罰則。

これは、髭を剃っての労役。

―ということは、
当時の成人男子の身嗜みには
髭は不可欠、ということになりますか。

 

つまり、戦場で逃げた歩数は
量刑の材料となった、
という御話で御座います。

 

 

 

【追記】弓矢の運用と隊列の間隔

 

1、弓矢の自己中な使い方

 

この逸話から、

当時の小規模戦闘について、
興味深い点をふたつ
垣間見ることが出来ます。

ひとつ目は、弓矢の運用について。

軍法に反して、
本来前進すべきところを
逃げながら追手に矢を放つ、

―という行為について、
もう少し踏み込んで考えてみます。

 

弓兵同士でびっしり隊列を組んで
一斉射撃を行うのではなく、

最小戦闘単位「伍」の枠組みの中で、

(まあ、厳密に言えば、
敵前逃亡を企てる時点で
枠組みから逸脱しているのですが)

 

近距離でやり合う歩兵の武器のひとつとして、

形勢や交戦距離に応じて
射ているように思います。

 

兵書の想定する模範的な内容を
現場の史料で裏付けることが出来る
稀有な事例だと思います。

 

―ただし、記録に残った理由は
触法行為という不名誉なものですが。

 

 

 

2、敵前逃亡のススメ?!

 

ふたつ目は、敵前逃亡の距離について。

軍法に問われた兵士の逃げた歩数は12歩、
つまり、高々17メートル弱。

小学校のプールより短い距離です。

ですが、ここで、
少し考えてみましょう。

前近代の戦列歩兵同士の戦いは、
兵士間の間隔をびっしり詰めて
隊列を作ります。

つまり、自分の伍の後ろには、
後詰の伍が臨戦態勢で
控えている訳です。

 

因みに、『尉繚子』経卒令によれば、
各両(縦5名×横5名、指揮官は両司馬)
ごとに色のことなる記章が配布され、

指揮下の伍の兵卒には
先頭から首→項→胸→腹→腰と、
記章を付ける位置が決まっています。

 

つまり、順番を抜かせば
瞬時に発覚するという
仕組みになっています。

 

実際、曹操の『歩戦令』なんぞ、
こういう奴は即刻斬れと
書かれています。

 

―で、このような管理システムを前提に、
部隊の間隔について
考えます。

 

以前、サイト制作者は、

『李衛公問対』を典拠に
伍の縦隊間の間隔を
唐代の2歩=3.11m、
としましたが、

これは、当然ながら、
かなり緩い場合の間隔です。

 

藍永蔚先生など
『春秋時期的歩兵』において、

当時の武器の長さやその運用から
5名(内、弓兵1名)分の間隔を
7.2mと算出しています。

 

いくつかの古代中国の
軍事関係の文献(日本語文献)も、
この数字をそのまま掲載していますので、
信憑性があるのでしょう。

因みに、サイト制作者は、
双方が短兵器で渡り合えば
もう少し距離は縮むと思います。

 

―それはともかく、

ひとつの伍の縦隊間隔を7.2mと仮定すれば、

先述の兵士が逃げた17メートル弱の距離は、
伍の縦隊ふたつ分を越えるものとなります。

これが、実際の戦場で
どれだけ危険で戦意を喪失させる行為かは
言わずものがな。

 

余談ながら、こういうのが頻発して
敵軍のなすがままになったのが、

日本の事例ですが、
戦国末期の徳川の大坂攻め。

喰い詰めた戦闘のプロの浪人部隊を相手に
戦争未経験の寄せ集めが挑んだ結果です。

島原の乱もこのパターンだそうですが、
特に戦国の末期は
こんなアウトローな逆転劇が
方々で起こっていたそうな。

まあその、
17世紀の日本自体が物騒な時代で、

有名な赤穂浪士の討入りなんかは
その名残でもあった訳ですが。

話を古代中国に戻します。

 

―さて、泣く子も黙る秦軍の軍中で
こういうことをやった連中は、

極刑を喰らったのかと言えば、

意外にやれなかったのが
この時代の面白いところでして。

 

当時の兵隊の質を考えれば、

命の相場が
建前よりは少しばかり高かった、
というような話なのかもしれません。

もっとも、北方での長城建設なんか
生き地獄そのもので、
重罪には変わりないのでしょうが。

 

【了】

 

 

2、対決?!司馬遷対現代歴史家

 

さて、この御話、
そもそもどういう本かと言えば、

1970年代以降の
書簡群の発見の成果を元に、

司〇遷に喧嘩を売ろう、ではなく、
始皇帝の生涯の実相に迫ろうという
野心的な御本。

先の軍法会議の御話は、
謂わばその副産物とでもいうような
逸話です。

 

鶴間先生によれば、

司馬遷も時代の人、人の子でして、

始皇帝を意識した武帝に忖度したり、
一方で、秦の時代との常識のズレもあったり、
という具合。

 

したがって、

一次史料
(リアルタイムで当事者によって書かれたもの)
である事務的な文書である
一連の書簡群と各種史料を照合すると、

『史記』の内容が
必ずしも正しいとは言えないとして、

当該の箇所について、

時には、例えば暦や字の用法、避諱、
天体観測の作法等のような
当時の慣習にも照らし合わせて
丁寧に指摘されています。

 

(こういうキメ細かい芸当が出来るのが、
研究者とサイト制作者のような素人との
決定的な違いだと拝察します。)

―後、始皇帝の姓名は、
正しくは趙「正」なんですと。

 

 

 

3、井戸端や書簡投げ込む水の音

 

さて、1970年代以降に発見された
書簡群の威力については、

サイト制作者も
種々の文献によって
何となくは知っていまして、

例えば、戦争関係で
明らかになったことで知る限りは、

目下、思い付くだけでも、

武人としての孔子像、
前漢時代の前線や後方での兵器の配備、
通信制度の詳細、等。

 

民政関係など言うに及ばずでして、

サイト制作者がこれまで読んだ
僅かな数の論文だけでも、

例えば、漢代の下級役人の
ヒエラルキーや生活等の実相が
かなり明確になって来ている、
という具合です。

 

無論、研究者の方々の視点からすれば、
こんなレベルの話ではないと思います。

 

そして、こういうものの成果が
中国史関係のゲームや小説等の娯楽にも
本格的に反映されてくると、

関連する娯楽そのものの概念が
劇的に変わる予感すらします。

 

さて、こういう一見華のない事務書類の威力
どの時代の研究にも共通する話ですが、

一方で、その出処については
各々の文化圏や時代ごとに
事情が異なるようでして。

 

例えば、古代中国の場合、

面白いことに、
こういう書簡が
どこから発見されたのかと言えば、
古井戸だったりしまして、

多いケースとしては、

役人が井戸に竹簡や木簡を投棄し、
水脈が枯れて程々の湿度が保たれたことで
残っているというパターン。

 

井戸が新しければ、
民国時代の軍閥のハンコでも
出土するのかしら。

夢のある話ですね、などと。

 

ただ、贋作も横行していることで、
出土状況やら入手経路やら、
あらゆる点からチェックを入れる必要が
あるそうな。

この辺りの事情は、確か、
柿沼陽平先生も
御書きになっていたと記憶します。

 

要は、現地で一山当てたければ、
仲買と結託して古井戸と偽書を用意すべし、と。

漢中近辺の古城を狙い、

諸〇孔明には女装趣味があった、とか、
あまり歴史の本筋に関係ない話であれば、

あるいは信じる人がいたり
買い手が付く、かもしれません。

―バレた後が怖そうですが。

 

 

【追記】

先日、確かNHKのBSで、

後漢・三国時代の成都から
漢中界隈までの道のりを
ドローンの空撮でたどるという
番組をやっていまして、

面白く観させて頂きました。

 

成程、秦嶺界隈の映像は想像を絶するものでして、

殊に剣門関など、
両側に絶壁のある隘路で
関所が行く手を阻むことで、

姜維が数万の兵力で
鍾会の軍勢10万を
足止め出来た難所だけのことはあると
感心した次第です。

 

一方で、肝心の諸葛孔明の
北伐の道のりについては、

陳倉攻撃の際に通った故道と街亭、
五丈原の映像があっただけでした。

 

言い換えれば、

趙雲が陽動部隊を率いたり
諸葛亮が五丈原に出撃した時に通った
当時の幹線道路であった褒斜道や、

魏軍と激戦を戦った
秦嶺界隈の魏軍の最重要拠点である
祁山堡近郊の映像がありませんで、

穿った見方をすれば、あの辺りは、
今以て軍事機密にでも
なっているのかしらと思った次第。

サイト制作者の想像と言いますか、妄想の類です。

 

【了】

 

 

 

おわりに

 

一応、結論をまとめます。

 

1、戦闘中の敵前逃亡は、
逃げた歩数が量刑の目安のひとつになった。

 

2、1970年代以降の書簡群の発見により、
既存の歴史研究の内容に
大きな変更点が生じつつある。

 

3、古代中国では、
井戸に行政文書を投棄したことで、
遺跡の古井戸から
書簡群が発見される事例が多発した。

 

 

【追伸】
これだけでは申し訳ないので、
次回掲載予定の説明用イラストも
載せておきます。

楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

これ以外に、もう1枚、あるいは2枚描いた後、
記事本文をまとめる予定です。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
鶴間和幸『人間・始皇帝』
柿沼陽平『中国古代の貨幣』
高木 智見『孔子』

カテゴリー: 世相, 兵器・防具, 軍事, 軍制 | 3件のコメント

鎧の定義といくつかの特徴について

楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

相変わらず、
無駄に長くなったので章立てを付けます。

興味のある部分だけでも
スクロールのうえ御笑読頂ければ幸いです。

 

はじめに
1、追跡!魚鱗甲の300年
1-1、炎ちゃんに叱られる
1-2、魚鱗甲の登場
1-3、昔もあった、低コスト版
1-4 300年の意味とは?
2、鎧の定義と藤甲
3、実は違う?!甲と鎧
4、鎧も衣服?!気になる肌触り
5、鎧の収納性について考える
6、百聞に如く現物は何処(いずこ)
【雑談】野暮な時代考証を試みる
7、鎧の重ね着の事例
8、重ね着のパターンを妄想する?!
【雑談】騎兵の本質を考える
1、馬を取り巻く環境・要因
2、案外難しい騎兵の重装化
3、攻勢の軍隊は拙速を聞く
おわりに

 

 

はじめに

 

今回は、古代中国の鎧の
定義や特徴めいた初歩的な御話を致します。

 

―で、その前に恒例の見苦しい言い訳ですが、

最早悪弊と言いますか、

タダでさえ少ない持ち時間に加えて
中文の読解と説明用のイラストの作成に
時間が掛かり過ぎたことで、

取り合えず、
五月雨式にでも綴ることとします。

 

そして、最終的には、
後漢・三国時代の鎧について
詳しく触れたいのですが、

その前に、
何回かに分けて、
先の記事で出来なかった
鎧そのものの定義や構造・材質等について
整理することを試みます。

 

そもそもの構造以外にも、

兵科ごとの形状、
甲片(中国語:大体数センチ四方の板)の
材質・形状・綴り方、
製造・管理等が、

時代の状況と相俟って
複雑に絡み合うことで、

文献の内容を整理して
説明する側としても、

一筋縄にはいかんのですワ、これが。

 

しかも、肝心の後漢・三国時代の出土品と言えば、

ごく僅かな現物
数百年前の秦代の兵馬俑に比べれば、
デフォルメとすら呼べぬようなレベルの
ヘタクソな人形しか残っていないという
ブラック・ボックスに近い状況、
という・・・。

―もっとも、
その人形の制作者も、

サイト制作者のような
ヘッタクソな絵を描く奴に
言われたくはないでしょうが。

 

 

【追記】
こういうものを残す側にも言い分がある模様。

鶴間和幸先生によれば、

人の魂を移したようなリアルな俑を
作るべきではない、

というのが、
儒家の発想だそうな。

この時代の家屋の俑は
割合丁寧に作り込まれているので、
その違いの理由が氷解した心地です。

 

また、北朝時代の俑も
写実的で精巧なものにつき、
儒教の影響は小さいのかもしれません。

 

一方、秦の兵馬俑が作られた
目的のひとつは、
モノの本(タイトル失念!)
他の六国の怨霊から国を守るためだそうで。

さらに、あの握手を求めるように
手を差し出すヘンなポーズの理由は、

平和を求める証、などではなく、

その怨霊対策の要となる銅剣を
持たせるためのもの
なのだそうな。

 

剣が消失した理由は、

―詮索しない方が
夢があって良いのかもしれません。

現在とて、キロ単価700円もするので、
銅線だのマンホールだのが、
窃盗の対象になっていることにつき。

 

【了】

 

 

1、追跡!魚鱗甲の300年

 

1-1、炎ちゃんに叱られる

 

さて、その辺りの事情を邪推すれば、

例えば、西晋代の魚鱗甲の俑なんぞ、

サイトの製作者のような
妄想癖のあるファンが
如何に鉄製を期待しようが、

枕元で司馬炎の亡霊に、
「アレは皮甲ぢゃ、
ぼーっとゲーム(以下省略)」と叱られ、

ガックリと肩を落として、
「はあ、左様で。」となろうかと思います。

否定出来る程の材料がないからです。

 

その一方で、心の中で、

「そんなフェイクばかり使ってるから
アンタ等の王朝は短命で潰れたんだよ!
孔明先生に謝れ~!」

と、舌を出す、と。

 

 

1-2、魚鱗甲の登場

斯様な、
つまらない与太話をする理由として、

既に前漢末の段階で、
当時の鉄製の鎧(魚鱗甲)と同じ形状の皮甲が
出回っていました。

以前使用したイラストの再掲
恐縮ですが、

前漢末の魚鱗甲は、
以下のようなものです。

 

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略)等より作成。

呼んで字の如く、
小さい甲片を
魚のウロコのように綴ります。

 

因みに、それ以前の鎧は、
短冊状の甲片を縦3、4列に綴る、
あるいは、
垂縁(裾部分)が付いて
もう1列増えるタイプが
主流でした。

 

具体的には、
以下のようになります。

これも再掲で恐縮です。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略)等より作成。

因みに、左が歩兵用で、右が騎兵用。

 

で、魚鱗甲は、

武帝の対匈奴戦の戦訓を反映して
開発された
当時の漢王朝における
最新型の鉄製の鎧です。

 

 

1-3、昔もあった、低コスト版

そして、
これと同型の皮甲が
登場したということは、

早い話、

鉄製の鎧の製作技術を流用した、
謂わば低コスト版。

 

北方の前線に
最新式の鉄製の魚鱗甲を配備する一方で、

こういうのが内地の軍隊に
数多く支給されていた可能性があります。

 

その具体的な根拠として、

当時の東郡―河南省濮陽市の辺りの、
さる亭の亭卒に関する事務的な記録
残っておりまして、

それによれば、
皮甲の配備が記載されておりました。

 

また、別の地域からは、

当時の魚鱗甲の皮甲の現物が
発掘されたという次第。

 

以上のような事例から、

後世の政権、
―特に、深刻な物不足の三国時代の王朝が
「廉価版」の大量生産を
やっていないという証拠もなく、

それどころか、唐宋時代ですら、
革製の黒光鎧が出土したこともあり、
(この辺りは、多少、後述します。)

あの種の人形だけでは、
恐らく、大体の形状だけで
材質は判断出来ないものと想像します。

 

ですが、侮る勿れ。

皮甲は、
銅製の武器であれば
貫通しなかったそうな。

同時代の曹魏の鏃は銅製です。

 

―とはいえ、
こういうのも
ケース・バイ・ケースでしょう。

近距離で弩の直射を受けて
無傷で済むとは
到底思えません。

 

 

1-4 300年の意味とは?

さて、魚鱗甲をめぐる一連の状況について
少々堅く纏めるとすれば、

概ね以下のようなことが
言えるかと思います。

 

以前、サイト制作者は
軍事技術の開発期間について、

有事の1年は平時の10年に相当する、

という言葉を聞いたことがあります。

 

WWⅡの戦車や航空機等の開発競争等が
その一例でして、

目先の戦争に勝つために、

平時の経済体制では
到底工面出来ないような
予算や人員を投入し、

そのうえ、

潤沢な量の
血塗られた実戦「データ」を
恐るべきスピードで解析して、

その成果を兵器開発に
素早くフィードバックさせることが
出来たからだと思います。

 

そしてそれは、恐らく、
魚鱗甲その他の鎧の開発についても
当てはまる話ではないかと思います。

 

具体的には、

西晋時代の鎧の
甲片の詳細は不明ながら、

前漢末から300年近く
似たような綴り方をしていたことが
注目に値するかと思います。

 

特に、後漢時代の最初の100年は、

辺境や主要都市にこそ精鋭部隊を
駐屯させていたものの、

基本的には
地方の常備軍をほとんど全廃するような
軍縮の時代

 

そして、次の100年は、

主に西部の地方が
なし崩しに軍備を拡大したとはいえ、

相手は組織力のある
遊牧民族の強大な王朝ではなく、

暴発当初は
武器さえ所持していなかった
羌族の反乱軍です。

 

その意味では、

董卓の軍隊が並外れて強かったのも、

長きにわたって国防方針で優遇された
国軍中の最精鋭部隊だったからに
他なりません。

 

そして、こうした状況を受けて、

博学な先生方の中には、

王朝時代の軍隊の宿痾とも言うべき、
そして、どうも中共の軍隊をも
浸食していそうな

文を尊び武を卑しむメンタリティも
この時代に形成された
指摘される方もいらっしゃいます。

 

あくまでサイト制作者の意見ですが、
三国時代の軍事を調べるのが手間なのは、

理由のひとつとしては、

その直前の時代が
軍事的には空白に近かったのが
大きいように思います。

―つまり、兵站や武器等の事務的な史料が
残りにくかったものと想像します。

 

そして、延いては、

対外戦争の切り札として登場した魚鱗甲が、

王朝が乱立して抗争する
謂わば内乱状態の三国時代に入るまで
鎧の進化がそれ程進まなかったのも、

恐らくは、
こうした事情が影響しているように思います。

 

―というような、
ややこしい話を
少しづつ整理することで、

少しでも、
三国志の時代の実相に
近付くことを試みる次第です。

 

で、今回は、

差し当たって、
古代中国における鎧について、
定義や特徴といった御話を少々。

なお、中心となる参考文献は、

恐らく、古代中国の武具関係の
大抵の文献の主なタネ本であろう
楊泓先生の『中国古兵器論集』。

 

サイト制作者の場合、
灯台下暗し、でして、

在住する田舎県の最寄りの国立大学の、
それも、何故か理系の学部の
附属図書館にありました。

 

 

2、鎧の定義と藤甲

さて、まずは、
鎧の定義めいたものについて触れます。

 

件の楊泓先生によれば、

最低限の機能として、

胸の背中を防護する点を
挙げていらっしゃいます。

 

なお、原始時代は
材質は皮革や藤、木等でして、

機動性を重視して
四肢は守らなかったそうな。

 

で、その際、

鎧の原始的な形状として参考となるのが、
台湾の藤甲だそうで、

こういうのは
民族学的なアプローチとのこと。

そう、『三国志演義』において
孔明先生の南征で登場して、
油でコーティングしたのがアダになって
火矢で丸焼けになったというアレ。

 

そして、恐らく、
こういうものが
演義に登場した理由として、

『中国古兵器論集』を読む分には、

南宋時代の雲南地方で
藤甲の現物を見たという
記録が残っているからだと思います。

 

ですが、愚見を開陳させて頂ければ、

『中国古兵器論集』の図録に
掲載されていた写真は、

アレなイラストに描いたような
20世紀初頭に存在した
前開きのものだの、

現地で12世紀に使用されたという
まさに、日本の鎌倉時代の大鎧に
似たようなやつだの、

どこかしらの文化圏の手垢が付いたとしか
思えないようなシロモノです。

 

したがって、

この種の鎧の存在が
いつの時代まで遡ることが出来るのかは

残念ながら、
サイト製作者には分かりかねます。

 

もっとも、民族学の立場にしてみれば、

文献史料とは無縁の
周辺地域からの物証等が
数多あるのかもしれませんね。

 

因みに、この藤甲

骨格部分に藤蔓を使うのを
最低条件に、
形状も材質も色々あるようです。

 

まず、形状については、

冒頭のヘンなイラストにあるような
胸部をスッポリ覆うものもあれば、

エプロンのような形状で
背中は網羅するものの
脇がガラ空きのものもあります。

 

次いで、藤甲の材質については、

表面には藤蔓以外に、
皮や魚皮等を使うものもあります。

 

なお、油の塗装については
説明はありませんでした。

元ネタも分かりかねます。

 

もっとも、

黒や赤の漆の塗装により
防御力や防腐効果を高めるのは、

少なくとも戦国時代には
行われていました。

 

 

 

3、実は違う?!甲と鎧

 

その他、鎧の材質が
時代が下って皮革→銅→鉄と
進化するのは御承知のことと
思いますが、

面白いのはその呼称。

 

古来より、

 

皮革製の鎧は「甲」、
金属製の鎧は「鎧」、と、

 

呼ばれていましたが、

唐宋時代以降は
その区別がなくなり、

「鎧甲」となったそうな。

 

と、なれば、
北伐で蜀が鹵獲した黒光鎧も、

一応、金属製、
ということになるのかしら。

 

ですが、この話、
どうも正確なものとも言い切れず、

例えば、前漢の鉄製の鎧を
「玄甲」と呼んだりしています。

因みに、玄は黒を意味します。

 

 

 

4、鎧も衣服?!気になる肌触り

以下の章では、大体は、

古代中国における鎧の特徴について
いくつか挙げることとします。

 

ひとつ目の大きな特徴として、

鎧の肌触り対策について記します。

何だか、兵器の癖に、
衣料関係の
テレビ・ショッピングのようなことを
書いていますが、

実用とは、
得てして身近なものでもありまして。

それはともかく―、
篠田耕一先生によれば、
大別してふたつあるようです。

 

1、鎧の首・袖・裾等を布で裏打ちする方法。

2、鎧の中に厚手の戦袍を着込む方法。

 

この他にも、種々の文献によれば、
後漢時代には戦袍の中に鎧を着込むものも
あったようですが、

サイト制作者の調べた限りでは、
その詳細は元より、
古典や書簡、出土品等による典拠は
残念ながら不明です。

願わくば、
どなたか御教授頂ければ幸いです。

 

それでは、
1、首・袖・裾を布で裏打ちするもの、
について。

 

これは、無論、堅い部分で
皮膚を切るのを防ぐための措置です。

 

具体的には、例えば、
秦の、謂わば将校用(等級は不明)の
鎧でして、

暴騰のイラストにあるもの以外にも、
何種類か存在します。

今日で言えば、
防弾性のあるコートのような
感覚なのかもしれません。

 

また、この種の鎧は、形状としては
割合古い世代のものだそうな。

兵馬俑の戦列歩兵用の鎧を
最新型と仮定すれば、

この型の鎧も歩兵用につき、

春秋時代の戦車用の皮甲よりも
後の世代と考えられることで、

登場した時代を推測すれば、
戦国時代前期辺りまで
遡れるのかもしれません。

 

また、この鎧の別の特徴として、

主要な部分は、
材質は不明ながら、
金属で覆われています。

 

因みに、
冒頭のイラストにあるタイプのものは、
背中の金属部分が腹のそれよりも
やや高く(長く)なっています。

 

また、次に紹介する、
厚手の戦袍を着込むタイプの鎧にも、

復元品には、
首・袖・裾の先端が1、2cm程
布で裏打ちされていました。

 

次いで、
2、鎧の中に厚手の戦袍を着込む方法。

 

古代のみならず、前近代を通じて、
こちらの方がイメージし易い
かもしれません。

 

特に、騎兵の鎧の場合、

魏晋の頃までは
肩や脇腹が
剥き出しになっているものが
多かったのです。

厚手の戦袍が重宝したのは、
そうした事情もあったことでしょう。

 

 

 

5、鎧の収納性について考える

 

次に、モノによっては
折り畳む、あるいは、巻くのが可能、
という性質。

古典に出て来る、
甲を巻くという言葉通り、
或る程度の収納性があったようです。

 

ただ、鎧の構造から考えると、

サイト製作者としては、
モノによるのではないか、と、
考える次第。

 

詳しくは、
恐らく次回以降触れるかと思いますが、

具体的には、
以下のような理由です。

 

特に、古代中国における
戦列歩兵用の鎧は、

先述の無数の「甲片」を
縦横に繋いだものです。

 

通称、「札甲」と呼ばれるもので、

冒頭のアレなイラストで言えば、
右側の秦のヒラの歩兵用の皮甲。

主に、先述の、
2、鎧の中に厚手の戦袍を着込む、
というタイプのものです。

 

そして、ここが重要なのですが、

この種の鎧は、

横の列の甲片は固定されており、

さらには、各々の甲片が
漆で塗装されて堅くなっています。

 

したがって、

甲片が厚ければ、

恐らくは、
胸囲に相当する空間を
潰すことが出来ません。

つまり、巻くのも畳むのも出来ません。

 

―あくまで、サイト制作者の理解が
間違っていなければの話ですが。

 

で、具体的に、

どのような鎧が
畳んだり折ったりするのが
難しそうかと言えば、

 

これも、あくまで私見ですが、

例えば、戦国時代の戦車兵の皮甲
兵馬俑の戦列歩兵用の皮甲です。

 

特に前者は、
袖部分の各々の甲片が湾曲しており、

胴体の甲片の最大の長さが
26.5cmもあるという具合。

無論、漆で塗装されております。

 

その他、

時代が下ると、

折ったり畳んだりとはいかずとも
バラせるものが出て来まして、

例えば、宋代の歩人甲なんか、
少し後の時代に
各々のパーツが
兵書で図解されています。

 

一方で、唐代の紙甲のような
布・紙製のものもあれば、
(これも、鎧やベスト等、
色々形状があるので説明が難しいのですが)

漢代の札甲のように
時代が下って
甲片が小型化していることで、

その収納性に
或る程度融通が利きそうな
ものもあります。

 

もっとも、
実物の甲片の厚さが不明につき、

サイト製作者が
動画や写真等で観た復元品が
たまたまチャチでペラかった、

―という、
情けない話なのかもしれませんが。

 

 

 

 

6、百聞に如く現物は何処(いずこ)

 

では、肝心のその実物はどうかと言えば、

先述の『中国古兵器論集』によれば、

特に、漢代の兵卒用の鎧
―特に魚鱗甲
ともなると、

出土品が腐食した数珠繋ぎの甲片、
といったケースが大半で、

残念ながら、
完全無欠の綺麗な現物が存在しません。

 

その結果、

発掘物の甲片と俑、
文献史料等を照合して
全体像を推測する、

という方法にならざるを得ぬ模様。

 

もっとも、
これは1980年代の研究水準ですが、

ネットに掲載されている写真等を見る限り、
発掘をめぐる状況には
あまり変化はないように思います。

 

で、浅学なサイト制作者の場合も、
無い知恵絞って色々調べたものの、

特に、鎧の内側の構造や着脱の方法、
可動部も含めた形状の変化の程度等が
どうも分からず終いとなりました。

 

 

 

【雑談】野暮な時代考証を試みる

 

余談ながら、時代も近いことで、

ここで、公開中の『キングダム』について少々。

 

写真で観る限り、

山崎賢人さんの鎧の
甲片のサイズや綴じ方は、
前漢のものだと思います。

ここは、
当たらずもイイ線行っている、
と、言うべきか。

後、衛兵の鎧は
金属製で甲片が多く、

腕の防護も
袖状ではなく肩甲が付いているので、
魏晋時代ですら最先端の技術水準。

さらには、
甲裙(裾部分)が長く膝までありまして、

裾の形状は、
残念ながら南北朝まで下ると思います。

恐らく、こういう備品は、
向こうからレンタルしたものかしら。

 

とは言え、そもそも、
フィクションに突っ込むのは
野暮でしょうし、

本場の向こうの映像物にも
いい加減なものが多いのも
事実です。

 

一方で、映像で観れば、
そういうものが気にならない位に
迫力と説得力があるのでしょう。

 

あくまで、
モノの見方のひとつ、

あるいは、

鎧の細部や時代ごとの進化に
興味を持つための

契機のひとつとして、

御寛恕下されば幸いです。

 

 

 

7、鎧の重ね着の事例
  ~孫権の夏口攻略戦

 

今回、最後に挙げる鎧の特徴として、

二重の着用―重ね着について触れます。

 

これは、史書にも事例があります。

例えば、
サイト制作者が唯一知っているのは、
後漢時代―『三国志』の、
208年の孫権の黄祖攻めの時の御話。

『呉書』・董襲の伝にありまして、
概要を以下に記します。

 

まず、黄祖の軍は沔口を守備しており、

2隻の蒙衝(小型の軍用船)を横に並べて
碇を落して河川を封鎖していました。

なお、甲板には、
弩で武装した兵士1000名が待機。

 

対する孫権の軍は、

大型船(原文:大舸船―艦種不明)に
決死隊100名を乗船させ、

さらに、
この部隊に鎧を重ね着させます。
(原文:各將敢死百人、人被兩鎧)

で、この時の斬り込み隊長が、
猛将で名高い董襲と淩統。

 

結果として、
決死隊は矢の雨を掻い潜って
首尾よく敵船に乗り込み、

碇の縄を切って
河川の封鎖を解くことに
成功しました。

 

要は、ここぞという大一番で、
作戦の成否を担う
少数の精鋭部隊に支給された、

という御話です。

 

また、董襲の伝からは、

重ね着した鎧の詳細は、
金属製の可能性があること以外は
不明です。

 

 

 

8、重ね着のパターンを妄想する?!

 

先の話だけでは、どうも全貌が見ませんで、

春秋戦国から前漢末辺りまでの
鎧の形状から、

在り得る選択肢を
少々考えることとします。

まあその、

如何に史上の実例があるとはいえ
そもそもがムチャクチャな話なので、

こちらも相応の荒技で臨もうかと
思います。

 

さて、まず、重ね着する鎧の外側ですが、
四肢の可動性の高いものが考えられます。

 

サイト制作者としては、

冒頭のイラストにあるような、

肩甲がなく首元に余裕があって
着脱が容易な、

騎兵用の鎧が適していると思います。

 

それも、
その中に鎧を着込むことを考えれば、

胸囲のサイズも
一回り大きいものと想像します。

 

もっとも、こういう妄想も、

甲片の厚さや縛り方等によっては、

鎧の形状が
殊の外強く固定されている等して
用を為さないかもしれません。

 

逆に、重ね着が難しいパターンを考えると、
以下のようになるのかもしれません。

 

例えば、前漢の前開きの袖付き鎧や、
堅牢な袖の付いた戦車兵の鎧、

あるいは、
秦代以降の戦列歩兵が着用するような
肩甲付きのものは、

重ね着の際、
表側に着るものとしては
不適当かもしれません。

 

因みに、
前漢の前開きの袖付き鎧
以下のイラストの右側。

これも再掲で恐縮です。

篠田耕一『三国志軍事ガイド』・高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

当時はサイト制作者は
浅学にして知らなかったのですが、

右側のタイプの鎧は、

少し前の世代の
甲片が短冊状で盆領(襟)付きの現物

割合良好な状態で
発掘されていました。

 

なお、左側は、
先述のアレな俑の模写ですが、

大雑把に言えば
筒袖付きの魚鱗甲でして、

諸葛孔明が開発に携わったという
「筒袖鎧」も、
大体この形状なのでしょう。

 

―話を重ね着に戻します。

さて、
肩甲付きの歩兵用の鎧を
強引に重ね着しようとすれば、

例えば、
身甲(胴体部分)と肩甲を繋ぐ紐を外し、
一旦両者をバラすだとか、

色々とやりようはあるのかもしれませんが、

 

重ね着するものは、
やはり一回り大きいサイズ
なろうかと思います。

 

因みに、先述の冒頭のイラストに描いた
秦代の歩兵用の鎧は、

首回りに巻かれている紐を緩めて
頭から被るタイプです。

 

ただ、前漢の歩兵用の鎧は、

前開きの袖付き鎧(現物有)以外は
着脱や胴を開く方法等は不明です。

首回りの隙間が広いことで、
頭から被るタイプだとは思いますが。

 

秦代の兵馬俑は、
そうした着脱に関する細かい部分も
丁寧に彫られているところに
有難みがあるように思います。

 

―もっとも、統一早々
そういうことをやっていたから
滅亡も早かったのでしょうが。

 

その辺りの事情は、

現世の負債は後世の遺産、
そのように理解すべきなのかしら。

 

とは言え、泉下の始皇帝様は、

かつては
自分の国の木っ端役人であった
不良中年が建国した漢に
美味しいところを持っていかれるわ、

そのブレーンである後世の儒家連中からは
クソミソにけなされるわ、

オマケに、『キ〇グダム』その他の
知財関係の恩恵には預かれないわ、

こういうアホが勝手なことを喚く
怪しいブログで
玩具にされるわで、

何とも散々なことで。

 

 

【雑談】騎兵の本質を考える

 

1、馬を取り巻く環境・要因

色々やりたいテーマのひとつ
騎兵というのがあります。

具体的には、

易戦の法等の集団戦法から
装備・品種・産地・「燃費」、
農業における他の家畜との相関関係等に
至るまで、

整理したい項目が
いくつもあるのですが、

今回は、テーマに沿って、
騎兵の鎧について少々触れます。

 

と、言いますのは、
優良な文献に出会ったからでして。

 

したがって、以下は、

 

西野広祥先生の
『「馬と黄河と長城」の中国史』
(PHP文庫)

 

―の内容にかなり準拠します。

 

同書は残念ながら絶版ですが、
2019年6月時点では
ネット中古市場では捨て値の模様。

 

著者の先生の
馬そのものは元より、
対象となる地域(主にオルドス)
の地形や気候といった要因に対する
造詣の深さにより、

サイト制作者にとっては、

馬・騎兵やその用兵思想について
根本から考えさせられた
一書となりました。

 

 

2、案外難しい騎兵の重装化

 

因みに、
兵科ごとの鎧も、
後日の記事で触れたいと思うのですが、

秦代、漢代、そして、
魏晋以降の裲襠甲
(両当甲でも良いような気もしますが)と、

実は、騎兵用の鎧のコンセプトは
それ程変わりません。

 

色々な先生に言わせれば、

馬狂いの武帝以降の
漢の歴代政権が、

目先の食糧事情に窮して
馬の改良を怠ったことで
その積載量や速度等が自ずと頭打ちになります。

何だか、限られたエンジンの排気量の中で
武装やエアコン、足回り等のオプションを
遣り繰りするという
戦中の航空機や最近のEV車の話、

その他、『フロントミッション』や
『メタルマックス』といった、
機械いじりのゲーム等を
思い出した次第。

 

しかも、漢民族の乗馬のセンスたるや、

鞍や鐙(三国末~晋代に実用化)が無ければ
行動に大いに支障があるという具合で、

こうした点が騎兵の重装化の足枷
なっていたようです。

 

―もっとも、現実的には、
こういう部隊は
烏丸や鮮卑等の異民族が
下請けしたことでしょう。

例えば、劉備の軍もかなり早い段階で
異民族の騎兵を抱えていました。

 

 

3、攻勢の軍隊は拙速を聞く

とはいえ、
事はそうは簡単ではありません。

 

今日の感覚で言えば、

武帝が
競走馬タイプと思しき
血汗馬を求めた
謂わば、ハイ・スペックの外車狂い
だとすれば、

その真逆と言いますか、

軽のジープの大量配備で
連戦連勝したのがジンギス・カン
であったりする訳でして。

 

具体的には、以下。

元朝が、

粗食に耐えて悪路に強い小型の馬と
軽装騎兵による運動戦によって
ユーラシアを制覇したのも
揺ぎ無い事実。

 

しかも、

小型の馬で運動戦を展開するのは
昔からの北方遊牧民の
御家芸と来ます。

 

言い換えれば、

遊牧民族が
大型の馬に穀物を喰わせると、

行動範囲が極端に狭まるどころか
食糧不足で軍が破産するのです。

 

その意味では、
騎兵の装備や馬の質以前に、

漢民族と遊牧民族の
馬に対する知識量の差が
そのまま戦力の差として
如実に表れているそうな。

 

要は、重装騎兵は、

配備に手間暇掛かるうえに、
特に戦略的な運用面で
大きな弱点があるので、

勇壮なイメージとは裏腹に
中々具現化しない、という、
あまり夢のない御話です。

 

 

おわりに

例によって、結論を整理します。
概ね、以下にようになります。

 

1、前漢末の段階で、
  既存の鉄製鎧と同じ規格の皮製の鎧が
  製造されていた。

 

2、前漢末から三国時代までの300年弱に
  鎧がそれ程進化しなかったのは、
  軍事的な空白が影響している可能性がある。

 

3、古代中国における鎧の定義は、
  胸と背中を防護する機能である。

 

4、鎧を着易くするための工夫として、
  裏側や首・袖・裾等を布で裏打ちしたり、
  あるいは、厚手の衣服の上に鎧を着用した。

 

5、モノによっては、
  巻いたり畳んだり、
  あるいは重ね着も可能であった。

  しかしながら、現物が少ないことで、
  不明な部分が多い。

 

6、資本力や戦力の大きい勢力同士の
  激しい戦乱があると、
  技術開発の速度が上がる。

  魚鱗甲は対匈奴戦の産物であり、
  明光鎧や筒袖鎧といった
  三国時代に登場した新種の鎧も、
  そうした事情が背景にある可能性が高い。

 

 

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
楊泓『中国古兵器論叢』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』
駒井和愛『漢魏時代の甲鎧』
西野広祥『「馬と黄河と長城」の中国史』
学研『戦略戦術兵器事典 1』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』
峰幸幸人
「五胡十六国~北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給」
『東洋学報100(2)』
浜口重国『秦漢隋唐史の研究』上巻

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鉄と鎧にまつわるこぼれ話・与太話

はじめに

 

実は、伍の次の記事として、
什だの両だの、

野戦における
100名以下の歩兵戦の話をしようと
考えておりましたが、

サイトのアクセス状況を見るに、
鎧の話の需要があまりにも大きいことで、

まずは、このテーマで
まとまった話をするべきかと
思った次第。

 

今回は、差し当たって、
現段階で御話出来るものを
いくつか選った次第。

逸話程度で、
残念ながら仰々しい結論を出すような
大層話ではありませんので、

あくまで御参考まで。

 

 

1、古代中国の金属事情

 

当時の鉄、というよりは、金属自体が、
今日で言うところの
レアメタルそのものでした。

 

その理由のひとつに、

 

例えば、鉄の場合は、

特に、炭素の含有量の多い
銑鉄を経て鋼を作る場合は、

 

原料の鉄鉱石のみならず、

炉の温度を上げるための大量の酸素、
―を、送り込むための動力や労働力、

水や木炭等の資源を大量に
消費するという事情があります。

も銅で、
精錬には相当な手間が掛かりまして、
零細な資本が
安易に手を出せるものではありません。

事実、銅が武器の中心であった秦など、
用途や種類ごとに技術集団を編制して
生産体制を整える訳です。

 

 

2、鋼材の隠し味・炭素の含有量

因みに、炭素の含有量は
鋼材の質の生命線でして、

もう少し詳しく言えば、

コンマ何%の違いが、
武器ガッカリ農具かの分水嶺。

 

例えば、銑鉄は1.7%以上で4%程度。
これ位高いと固くてもろく、
そのままでは製品になりません。

 

そして、サイト制作者の理解が正しければ、

大体0.5%前後
或る程度硬度としなやかさの双方を備え、
このレベルになると農具に使えます。

恐らく、武器となると、
0.25%程度かそれ以下の濃度。

 

このレベルを追及するとなると、

戦国時代の段階では
銑鉄を加熱して濃度を調整するのは
難しいことで、

鉄鉱石を加熱・冷却して
何度も叩きまくり、
このサイクルを繰り返すという面倒な方法で
製作する訳です。

 

あの時代の出土品の名剣は、
ほとんど例外なくこの方法と記憶します。

 

さらに、刀身と刃で使う鋼材が異なるだとか、
まあイロイロ面倒な構造でもあり。

 

ええ、精巧な紋様の施されている剣にせよ、
金属製の甲冑にせよ、

御大層な墓から出て来るような
この種の出土品は、

少なくとも、
兵卒が帯びるようなシロモノでは
決してありません。

 

とはいえ、前漢の時代には、

炭素の含有量をかなりの精度で
コントロールすることを可能にした
「炒鋼法」という技術が確立されました。

 

コレ、実は、何と、

西欧のパドル法に先んずること1000年という
当時としては世界レベルの
ハイテク中ハイテクの技術でして、

そのベースには銅の精錬技術があるという。

 

で、その技術や生産体制を背景に
ガチで切れる汎用性のある武器―
環首「刀」の普及と相成ります。

もう少し言えば、
刀が剣に取って代わる訳でして。

 

 

3、墓と副葬品と曹操

余談ながら、当時の墓は
死者の死後の世界を体現するものでした。

 

例えば、資産家が大真面目に大枚はたいて
貴重な副葬品を添えて
キメ細かい壁画を彫ったりする一方で、

 

その反対の方々の中には、

大金の空手形を大書して
自分の墓に入れるといった
パンクな奴も少なからず居たようでして、

その辺りは、何とも、
良くも悪くも利に聡い
中国人らしいと言いますか。

 

ところが、『三国志』の時代になると
戦乱の長期化に伴い盗掘が横行し、
既存の倫理観をブチ壊します。

 

そうした事情があってか、

そういうのを散々目の当たりにした
魏晋の曹魏政権―曹操の政権
法令で厚葬を禁止します。

この御仁、当時は、
反董卓連合の略奪に
心を痛めるような真面目な人です。

 

また、陳倉で蜀軍を寡兵で撃退した
叩き上げ上げの軍人の郝昭なんか
散々盗掘をやったと居直る訳で、

果たして、
次の時代の司馬氏の晋も
この政策を継承します。

以前、博学な読者の方から
貴重な情報を頂きまして、

今回、後述する文献の裏付けを得るに至り、

成程、当時のコンセンサスだったのかと
改めて理解した次第。

 

さて、どうしてこんな話をしたかと言えば、

魏晋時代の出土品が少なく、
娯楽コンテンツの考証が
難しいことに対する
サイト制作者の愚痴に他なりません。

鉄の腐食に加えて、
時の政権のシブチン事情もあるようで。

 

因みに、最近の当人の墓の盗掘、ではなく、
発掘調査が話題になっていますが、

曹魏政権の墓の話の種本は、

蘇哲先生の『魏晋南北朝壁画墓の世界』。
(白帝社アジア史選書008)

 

誤植がチョコチョコみられるのが
難点ですが、

鄧艾が成都を落した時の兵は
羌族が中心だったとか
三国志関係の裏話がいくつか書いてあり、

その他、当時の社会事情について
色々と勉強になった本でした。

 

4、秦漢の鉄の国家管理

さて、鉄の生産水準は、

唐代の段階ですら
年間の徴税分の鉄が1200トンだそうで、
税率を1割と仮定しても
生産量自体が12000トンにしかなりません。

 

因みに、大体1万トンという数字は、
日本の大型製鉄所の日産の水準です。

 

したがって、戦国時代
前漢の武帝の時代以降は、

戦時中という事情もあり、

鉄器は生産から使用まで
厳密な国家統制の下にありました。

 

例えば、漢代は『塩鉄論』で有名な桑弘羊の時代など、

国家が製鉄業者に対して、

鉄官として製鉄やその管理に従事するか
資本を安値で政府に引き渡すか迫った訳でして、

そりゃ、外戚に擦り寄って献金して
担当官庁に口達者な論客をけしかける位
するわな、と。

 

また、の場合、
武器は元より、農具についても、

今日で言うところの
脱税を企てないような
真面目な生産者に貸与あるいは支給し、

摩耗しても払い下げずに
鋳潰してリサイクルする訳です。

 

さて、戦国時代の鉄の先進的な生産拠点は
三晋地域や斉の辺り。

 

秦の場合、というよりも、
どこの国もそうなのかもしれませんが、

限られた鉄を、実は武器ではなく、
農具の生産に重点を置いて
供給していました。

 

そして、占領した製鉄の拠点から
既存の大資本を締め出して官営とし、

これらの資本家を
後進地域―例えば、南陽郡
(当時の漢民族の南側のフロンティア)等の
開発に宛てます。

 

 

5、本当に鉄製か?!黒光鎧と明光鎧

で、恐らく、

こういう金属の脆弱な生産事情
時の武器―特に鎧の生産量にも
暗い影を落としていたものと想像します。

 

それらしき例え話として、

例えば、三国時代の北伐で
蜀軍が押収したという
「黒光鎧」という鎧がありますが、

 

その定義たるや、

この時代における最新型の鎧である
明光鎧の仲間などではなく、

 

材質はともかく
札甲の鎧の表面を漆で黒く塗装したもの
そう呼ぶのだそうな。

 

さらに救いようのない話をすれば、
唐宋時代の出土品に
皮革製の「黒光鎧」があった模様。

 

蜀軍が祁山で鹵獲した鎧が
全て皮革や銅とは言いません。

 

ただし、その一方で、

官渡の戦いの前の
飛ぶ鳥落とす勢いの曹操が、

「自軍の馬鎧は10両しかなく、
袁紹軍は300両保有している」

と、嘆いた話の背景を考えると、
鉄製の比重が高かったとは
言えないと思います。

 

因みに、南北朝自体ですら、
馬鎧は大国で1000両だとかその水準。

 

また、故・駒井和愛先生によれば、

「明光鎧」の「明光」は、
銅鏡が光り輝く様を言うのだそうで、
転じて、鎧自体が鉄製とは限らないのだそうな。

 

察するに、
物資不足の魏晋の時代なんぞ
言わずものがな。

 

因みに、『三国志』の時代から
数百年経った唐宋当時ですら、

どうも、鉄製の鎧が
末端の兵士の標準装備とも言えないようで、

「紙甲」と呼ばれる
布製でも割合堅牢な鎧が
大量に出回っておりました。

 

 

おわりに

おさらいとしては、

古代中国では金属自体が貴重で
大体、戦時下では国家統制下にあったことと、

そのような経済統制を通じても
どうも鉄製の鎧は
それ程出回っていなかったのではないか、

という御話で御座います。

 

次回以降、図解の改訂も含めて
以前やった鎧の話を
もう少し詳しくやることに加え、

鋼材等の話についても、
もう少し踏み込んでかつ平易な形
行いたいと思います。

 

さて、余談ながら、

確か宋代だか、
民間人の鎧の着用自体が違法行為でして、

昨今の革命権が背景にある
銃社会のアメリカでも、
同じく、民間人の防弾チョッキの着用は
違法なんだそうな。
(連中の場合は、都市部で乱射事件を起こすので
話が拗れている気もしますが)

 

もっとも、犯罪者が真面目に順守するとは
思えませんし、

つい最近でも、普通の民間人ですら
ふざけて防弾チョッキで撃ち合いをやった
という事件すら起きていまして、

こういうのも州によって法規が異なるのかとも
思います。

グラセフなんかやると、
ドンパチ必携のアイテムだったりしまして。

 

まあその、例外めいた話はともかく、

今回の記事とこれらの御話を見るに、
多少なりとも治安政策と人殺しの本質を
少しばかり垣間見たような心地がします。

 

【主要参考文献(敬称略・順不同)】
角谷定俊『秦における製鉄業の一考察』
『秦における青銅工業の一考察』
駒井和愛『漢魏時代の甲鎧』
柿沼陽平『戦国時代における塩鉄政策と国家専制支配』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
『三国志軍事ガイド』
田中和明『金属のキホン』
菅沼昭造監修・鉄と生活研究会編著
『トコトンやさしい鉄の本』
趙匡華著、廣川健監修、
尾関徹・庚凌峰訳『古代中国化学』
蘇哲『魏晋南北朝壁画墓の世界』

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伍の戦闘訓練と連帯責任


今回も長くなったので、
章立てを付けます。

興味のある個所だけでも
スクロールなさって頂ければ幸いです。

 

はじめに
1 兵士の戦闘姿勢・虎の巻
 1-1 6つの基本動作
 1-2 定義の曖昧な坐と跪
 1-3 防御姿勢としての坐・跪
 1-4 坐・跪からの動作

2 伍のシブチン訓練
 2-1 訓練の狙いと楽器の使用
 【雑談】突撃喇叭の行方
 2-2 軍の楽器の御約束
 2-3 鐘・太鼓・鈴は誰が持つのか
 【雑談】100名未満の編成単位小史
 2-4 楽器のありふれた代用品とは?

3、突撃訓練と交戦距離
 3-1 突撃の「内訳」
 3-2 矛戟(ばか)と弓矢(はさみ)は使いよう
 3-3 最前列では何が起きているのか
 3-4 墨子よ、オマエもか?!
 3-5 70mのグレー・ゾーン
 【雑談】五十歩百歩を軍事的に考察する?!
  1 古今の「常識」のズレ
  2 狂気の過去との対話、AKと孟子様
  3 実は生死を分ける「五十歩百歩」

4 伍の連帯責任と秦の戦争
 4-1 『尉繚子』の罰則規定
 4-2 『尉繚子』の特徴とその背景
 4-3 秦の殺戮戦争と長平の戦いの特異性
 【雑談】『キ〇グダム』前史?!
     手詰まりになった秦
おわりに (話の要点の整理)

【主要参考文献】
【番外乱闘編】浅学な物学びにも原文は必要か?

 

 

はじめに

まずは、更新が遅れて大変申し訳ありません。

いつの間にか元号まで変わっており、
遅筆を悔やむばかりです。

 

さて、今回は、前回の補足でして、、
伍についてアレコレ書こうと思います。

もっとも、大体の内容は
『尉繚子』の当該の部分の図解が中心となりますが、

それだけでは味気ないので、

同書に関連することを
何かしら書き足すこととします。

それでは、本筋に入ります。

 

 

1 兵士の戦闘姿勢・虎の巻

1-1 6つの基本動作

最初に当時―少なくとも、戦国から唐代辺りまで
兵士の戦闘姿勢について。

まずは、ショボい自作のイラストを御覧下さい。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、守屋淳・守屋洋訳・解説『全訳 武経七書 2』(敬称略・順不同)より作成。

藍永蔚先生の『春秋時期的歩兵』によれば、

兵士の戦闘姿勢は、直立した姿勢からは、
前身・後退・右向・左向・坐・跪の6動作。

この中で、

恐らく具体的な動作を
イメージしにくいであろう
坐・跪は、

上半身を垂直に、
片膝、あるいは両膝を
地面に付けた状態を意味します。

 

 

1-2 定義の曖昧な坐と跪

因みに、古代中国―特に春秋戦国時代は、
坐・跪の区別はなかったそうな。

 

実際、文献によっても
この辺りは曖昧です。

かなりややこしいのですが、
一応典拠めいたもの
記しておきます。

 

例えば、先述の『春秋時期的歩兵』では、

兵士が片膝着いて弓を構える絵を「坐」とし、

「上身坐在足跟上叫坐」
(上半身が座り、
足はそのままの状態で踵を上げるのを「坐」と呼ぶ)

と、説明しています。
訳にはあまり自信がありません。

対して、「跪」については、

「上身离脚直立就叫跪」」
(上半身を膝下より離して直立する、
あるいは、膝下を地面より離して直立する、か。
チュゴク語ムツカシイ儿ヨ!)

と、しています。
無論、邦訳は怪しいです。

 

 

【追記】

強力な助っ人の登場で御座います。

御贔屓頂いている読者の方より
以下のような援護射撃を頂きましたので、

早速、皆様と共有したく存じます。

 

 

上身坐在足跟上叫坐
(上半身をかかとの上に乗せて座ることを坐という)

上身离脚直立就叫跪
(上半身を足から離して直立させることを跪という)

この説明だと坐が正座で跪が両膝立ちかなと思いました。

 

 

特に、「踵の上に乗せる」の部分は、
成程と思いました。

綺麗な訳だと感心するばかり。

 

古語にせよ現代語にせよ、

語順の把握を誤ると
誤った意味で理解しかねないので、

その辺りの怖さには
毎度のことながら泣かされています。

 

後、どうも、片膝を付くか否かは
論点ではなさそうな。

 

【了】

 

 

また、古語辞典の『漢字海』には、

「跪」については、

「体位ないしは座位から、
両ひざを地につけ
腰を真っすぐに立てる」

と、あります。

また、「跪坐」という言葉もあり、

「ひざまずき、腰を伸ばして座る。」

と、説明しています。

一方で、「坐」については、
細かい説明はありません。

 

さらには、

稲畑耕一郎先生監修の
『図説 中国文明史 4』では、

同じく片膝着いて弩を構える俑を
「跪」射弩兵としています。

イラストは、
どちらかと言えば
この説―「跪」は片膝を地面に付ける、
に準拠していますが、

上段真ん中の「坐」の姿勢を取る兵士の
踵が上がっていないのは
描き手の手落ちでして、

この点は大変申し訳ありません。

 

 

1-3 防御姿勢としての坐・跪

さて、この坐及び跪という姿勢は、
弓を射る以外で何が有効かと言えば、

防御に最適でして。

 

もう少し具体的に言えば、

死角のない輪形陣を組む場合に
前列の兵士がこの姿勢を取り、

あるいは、隊列の入れ替えの際、

前列に出た兵士が、

交代した兵士が下がって
態勢を立て直すまで、

この姿勢を取って援護する、という具合。

 

『司馬法』の厳位篇にも
防御向きの用法が記されています。

例えば、敵前の行軍の際には、

「立進俯、坐進跪」
(立って進む時は頭を下げ、
伏せたまま進む時は膝を使うのを基本とする)

と、あります。
この訳は識者のものです。

姿勢を低くして
敵の発見を避けることに主眼を置き、

特に、「坐進跪」は、
恐らくは奇襲のための隠密行動を
想定しており、

その際、兵士の口には、
「枚」と呼ばれる箸状の木切れを
噛ませます。

 

また、開戦の前に
鬨の声を上げても戦意が高揚しない場合にも
この動作が登場します。

「畏則密、危則坐」
(兵士が怖気付いていれば隊伍を密集させ、
危険な状態だと思えば坐の姿勢を取らせる)

その理由として、

敵が遠ければ恐れることはなく、
近い場合も、
こちらが姿を見せていないので
味方の動揺を避けられるのだそうな。

 

 

1-4 坐・跪からの動作

また、これに付随して、
「膝行」という動作がありまして、

これまた
イラストの説明が悪く申し訳ないのですが、

要は膝歩きかしゃがみ歩きの類だと思います。
文字通りであれば、膝歩きか。

これも、同じく、
『司馬法』の厳位篇にありまして、
原文は「跪坐、坐伏、則膝行」。

さらには、
坐・跪から直立に移るための動作として、
「起」もしくは「作」。

起立する際には
膝を使って跳ぶような動作をすることで、
難しい動作であったそうな。

 

余談ながら、
字引を当たって気付いたのですが、

「坐」と「作」は同じ発音をすることで、

号令を掛ける際には、
その区別のために
「起」とやった方が多かったと想像します。

 

 

2 伍のシブチン訓練

2-1 訓練の狙いと楽器の使用

続いて、
伍単位の部隊移動の訓練について
説明します。

この部分は『尉繚子』
各篇の摘まみ喰いが大半の
カンニングな箇所です。

 

さて、ここでも、
アレなイラストを御覧下さい。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、守屋淳・守屋洋訳・解説『全訳 武経七書 2』(敬称略・順不同)より作成。

 

伍の訓練といっても、
伍長に裁量のある命令の訓練ではなく、

上級指揮官の命令を
末端の兵隊に徹底させるための訓練です。

 

また、軍隊の歩兵部隊は、
古代中国、と、言いますか、
先進国でも100年程前までは、

仰々しい楽器を鳴らして
進退の命令を下していました。

 

【雑談】突撃喇叭の行方

(【雑談】は本筋には関係ない箇所です。)

今回は近代戦の話も多いことで、

自信のある方におかれましては、

恐らく目新しい話はないことで
(サイト制作者の浅学も恥ずかしいので)
読み飛ばされることを御勧めします。

 

さて、楽器を用いた進退について、

例えば、割合新しい事例では、

旧軍では太平洋戦争の後半まで
突撃の際には喇叭を鳴らし、

ベトナム戦争でも
北の軍隊では、

同じく突撃の際には
笛を吹いていました。

 

もっとも、

日露戦争以降は
野戦陣地に機関銃を据えるのが
常識になっており、

しかも、戦後となれば
連射可能なアサルトライフルが
歩兵の標準装備となっていることで、

夜間はともかく、

白昼の銃剣突撃は
機関銃のない時代に比べて
効果が上がらなくなっていました。

 

ですが、こういう楽器の活用は、

決して消滅した訳ではなく
平時の見世物の風物詩になったと言いますか。

例えば、
日本の突撃喇叭

野球の応援で走者が出た時に鳴らされ、
(行軍の喇叭の方が馴染みがありますが)

あるいは、祭りの出し物でも
仰々しくやられまして、

正露丸のCMのアレは、

製品のルーツがルーツだけに
兵営内での食事の喇叭であったりします。

当時の漢字に戻せば、
恐らく、ロ〇アでは売れなくなるという。

 

米軍の突撃喇叭も、

同じく、野球やフットボールの応援や、
バイカー方々の暴走、その他に
使われている模様。

他にも、
イロイロと用途はありそうな。

 

【了】

 

 

2-2 軍の楽器の御約束

さて、話を本筋に戻しますと、

古代中国の戦争における
御約束のひとつとして、

前身は太鼓、
後退や行軍中の停止は鐘、

そして、下級指揮官が
両者を兵卒に伝達するために
鈴を用います。

 

これは『周礼』が典拠のようですが、
大抵の兵書も
このルールで運用しています。

 

因みに、その運用法として、

戦闘中には命令を徹底させるために
乱打するのですが、

その割には、
リズムや回数等もありまして、

この辺りの機微が
訓練の質に左右されるのでしょう。

 

その他、
行軍や停止、食事のタイミング等も、
こういう要領で
大まかな命令を伝達します。

この辺りの詳細なルールについては、

主に『呉子』・治兵、
その他、『司馬法』の厳位篇、
スパルタ兵書『尉繚子』の兵教篇等
御覧あれ。

 

 

2-3 鐘・太鼓・鈴は誰が持つのか

まず、鐘についてですが、

当時は、鐃(どう)あるいは鉦(しょう)、
と、言いまして、

ハンドベル・タイプのものもあれば、
前後の二人掛かりで持ち上げる
大掛かりなものもあります。

また、大抵は、周制でいうところの
卒長(100名を統率)以上の指揮官
これを鳴らします。

部隊の規模に応じて
使う大きさを
変えているのかもしれません。

 

次いで、太鼓について。

軍用の太鼓は、
どうも向こうでは
「戦鼓」などと言うようですが、
典拠は不明です。

 

また、曹操の『歩戦令』の内容からすれば、

これを鳴らすのは
100名の指揮官よりも
上のクラスだと思います。

 

そして、最後にですが、

上級部隊の発する
太鼓や鐘が鳴り止むと、

これに引き続いて、

これを下級指揮官が指揮下の兵卒に
正確に伝えるために
鈴を鳴らします。

この鈴を、
鐲(たく)や鐸(たく)と言います。

字引によれば、

鐸は大きい銅製の鈴。
鐲は小さい鐘のような鈴。

 

で、これを用いるのは、
25名隊長(伍が5隊=両)の両司馬です。

残念ながら、
鈴の鳴らし方は、浅学につき不明です。

 

【雑談】100名未満の編成単位小史

余談ながら、春秋戦国時代
割拠の時代だけあって
軍制も時代や国でマチマチでして、

25名の両で方陣を組むケースもあれば、
50名で方陣を組む場合もあります。

 

前者は恐らく、
殷・周時代の戦車戦の名残の
可能性があり、
制度の成り立ちには
身分制も絡んでいます。

後者は、歩兵中心の大量動員に
連動したものなのでしょう。

例えば、秦では50名を屯と言い、
その隊長を屯長と言います。

因みに、1980年代の
中国共産党の軍事史研究では、

このクラスの指揮官でさえ鎧を付けていたかどうか
怪しいとされていますが、

後の文献では、
最前列の突撃要員は付けていたそうな。

因みに、当時の鎧の材質は皮革が大半です。

 

その他、『尉繚子』では50名を属、
その隊長を「卒長」と言います。

時系列的に考えれば、
恐らくは、戦国時代の魏の制度を
秦が参考にしたのでしょう。

 

周制では先述のように100名隊長、

しかも春秋時代の斉では
卒が200名の部隊単位と来まして、
何とも紛らわしい限りですが。

この御話は、前にも少しやったとはいえ、
人数に応じて戦術も変わることで、

後日、もう少し整理して
詳述したく思います。

 

【了】

 

 

2-4 楽器のありふれた代用品とは?

話を本筋に戻します。

こういう軍の進退を預かる
鐘や鈴等の楽器は、

出土品こそ緑青塗れの薄緑色ですが、

銅と金が同義の当時では、
金色で紋様の施された貴重品。

 

したがって、

末端の編成単位の訓練に
こういう貴重な楽器を
持ち出す訳にもいきません。

質に出すか売る奴が出ると思います。

 

そこで、伍のレベルの訓練では、

板を太鼓に、
竿を旗に、
瓦を鐘見立て、

板や瓦を乱打して進退を命令し、
竿を振りまわり回して
方向を指示する、

という要領で訓練したそうな。

 

因みに、は、
字引によれば、

屋根の瓦のみらなず、
素焼きの焼き物の総称だそうな。

 

―冗談のような話ですが、
創作ではなく、
『尉繚子』の兵教篇に
大真面目に書かれています。

 

その他、後述するような、

何処の国とはここでは言いませんが、
戦慄すべき殺戮集団を生み出した
賞罰一体の鬼の連座制度だとか、

兵書は小説よりも奇なり。

 

そのように考えると、

自分達が空けた酒瓶で
訓練をやったような連中も
いなかったとは言い切れないと想像します、
などと。

 

そして、こういう要領の訓練を、

伍→什→属→伯(100名)・・・
というように上級部隊へと
拡大して行きます。

恐らく、兵員の規模の大きい軍事演習では、
本物の楽器の登場と相成ることと
想像します。

 

 

 

3、突撃訓練と交戦距離

3-1 突撃の「内訳」

また、伍のような末端ではなく、
或る程度の規模の訓練ともなれば、
距離の概念も登場するようです。

 

以下のアレなイラストを御覧下さい。
これも『尉繚子』の御話。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、守屋淳・守屋洋訳・解説『全訳 武経七書 2』(敬称略・順不同)より作成。

 

要は、突撃の訓練の要領です。

こういうのが
向こうの戦国時代から
行われていたと仮定しても、

二千年以上前から戦前までは、
白兵戦の要領は
それ程変わっていなかったと思う次第です。

(もっとも、守備側の反撃能力については
先述の通り、その限りではありません。)

 

差し当たって、

戦争映画が好きな方や
ミリタリー・マニアの方話は、

旧軍の実戦での突撃や、
藁人形(や捕虜!)に銃剣で突っ込む
訓練のシーンを御想像下さい。

古い映画で言えば、
故・瀬島龍三氏が知恵を貸している
『203高地』

ここ10年位で言えば、

「太平洋の奇跡」や、
「私は貝になりたい」
リメイク版辺りの作品です。

 

まず、中隊長辺りの指揮官
目標地点と躍進距離を指定し、

「突撃に進め」と号令を掛け、

これを受けて
目標目掛けて兵隊が走り出します。

次いで、指揮官が軍刀を翳して
「突っ込め」と号令を掛け、
(因みに、ガチの戦闘では、軍刀が目印になり、
ここで中隊長が狙撃されます。)

兵隊は、今度は、
予め着剣された小銃を白兵戦用に構え、
吶喊して敵兵目掛けて突っ込みます。

 

大抵の戦争映画は、

これらを大別して
前進と斬り込みの2段階の動作が
一緒くたになって
「突撃」となっていますが、

専門家の方に伺えば、
恐らく2段階どころか
もっと細かい動作があるのかもしれません。

 

また、突進力が生命線の騎兵の場合は、
恐らく最速で敵陣に突っ込むことで、
速度の調整と加速が逆になろうかと想像します。

 

どうしてこの一見無駄な話を
【雑談】扱いにしないかと言えば、

先述のように、
2000年以上前の人々と
やってることが同じだからです。

 

で、その流れで、
話を古代中国に戻します。

 

当時の訓練の具体的な要領ですが、

まず、訓練に要する距離は300歩。

 

御参考までに、

前回の記事で使用した
古代中国の度量衡の表
再掲します。

 

戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、p1796の表より作成。

 

で、300歩を3等分し、
各々100歩=138.6mごとに
兵士の取る動作が変わります。

地面に100歩ごとに棒を立て、
目印にするのだそうな。

 

で、まず、初めの100歩は全力で駆け、

次の百歩は小走りで
次の動作に移るための速度調整を行い、
(大体、ここまでが、
「突撃に進め」だと思います。)

そして、最後の100歩で、
相手に突っ掛かっていくという
三段階の段取りとなる訳です。
(これが、「突っ込め」と。)

 

因みに、「決」は、

字引によれば、
向こうの古語で
ここでは直訳すると「殺す」となりますが、

守屋洋先生もしくは守屋淳先生
「白兵戦」と訳されていまして、
巧い訳だなあと思った次第。

 

 

3-2 矛戟(ばか)と弓矢(はさみ)は使いよう

白兵戦の要領に加えて、
飛び道具との関係についても
少し触れます。

これも、またまた『尉繚子』の御話。

まさに、ブラック軍隊必携の
操兵マニュアルです。

 

さて、同書によれば、

殺人於百歩之外者、弓矢也
殺人於五十歩之内者、矛戟也

と、あります。

 

つまるところ、

100歩≒140mを越えれば弓矢、
50歩≒70mまでは近接戦の武器
敵に当たれ、

と、こういう御話です。

恐らく、味方の陣の最前列が
話者の視点かと推測します。

 

前回の記事でも触れましたが、

当時の弓矢で140mという目標は、
曲射による制圧射撃の距離です。

名人でも曲射でどうにかなるか、
というレベルです。

 

つまり、現実的には、
当てるというよりは、
弾幕を張って相手を威嚇するのが目的。

あるいは、
相手の戦列が乱れた後の掃討戦の折には、

相手が背を向けて逃げることで、

五月雨射ちでも戦果が見込める、
という判断で、
こういうのをやったのでしょう。

 

もっとも、これがであれば、
大体この距離までは直射可能ですが、

来村多加史先生によれば、

弩兵を陣頭に配置して
制圧射撃を行うのが定着したのは
秦漢時代―戦国末期以降なんだそうな。

 

 

3-3 最前列では何が起きているのか

一方で、『尉繚子』は、

50歩≒70m以下では、
打ち物で遣り合うのを
推奨する訳ですが、

これを守備側の想定する
白兵戦の交戦距離と仮定します。

 

戦況によっては、

敵の出方に応じて短兵と長兵を
頻繁にシフト・チェンジし、
(光栄の『ゼルドナーシルト』の世界!)

弓とて相手との交戦距離が
大体50メートルを切れば、

命令一下のタイミングでの
曲射の斉射ではなく、

各々の兵士の裁量で
直射でピンポイントで狙う選択肢が
出て来るかと思います。

 

古代中国ではなく、
旧軍の逸話で恐縮ですが、

敵味方の入り乱れた乱戦になると、

部下と呼吸の合う
歴戦の下士官でさえ、

個々の兵士の動きが把握出来ずに
細かい指示が出せないのだそうな。

 

で、戦闘が長引き、
最前列の伍の要員が総じて疲弊すれば、

後詰の伍と
隊ごと入れ替えます。

 

さらには、最悪の場合、

自分の伍から戦死者を出せば、

遺体を回収して
敵に報復する義務も発生することで、
溜まったものではありません。

 

もっとも、その場合は、
同郷の者が殺されることで、

例え、軍律で強要されずとも、

せめて遺体位は回収して
縁者の間で手厚く弔ってやりたいのが
人情なのかもしれませんが。

 

で、そうした
臨機応変の対応を要する事態が発生する度に、
敵味方の縦隊が伸縮したことと思います。

 

戦場で一番忙しいエリア、
と、言いますか、

まさに、命の遣り取りの
最たる場面です。

 

 

【雑談】 土壇場での命の遣り取り

前回の日記でも触れました通り、

サシでの斬り合いは、

行くところまで行けば、
戟や戈で相手の首を落とすのが
当時の流儀。

 

戦闘の最前列では、

生首とまでは行かずとも、

五体の何れかを失うか
腹部を斬られるかして、

血塗れで呻きながら
命を落とす兵士が
大勢いたことは容易に想像が付きます。

 

日頃の、
行く先もロクに知らされないような
苛烈な行軍に加えて、

いざ戦闘に臨んでは
このような地獄絵図を
目の当たりにする訳で、

大半の兵士は
気が狂いそうになるのを
必死に堪えながら
武器を構える訳です。

 

そして、こういう末期的な世間ですら、
趙括のようなふざけた将官も
存在する訳で、

一将功成って万骨枯るとは
よく言ったもの。

【了】

 

 

3-4 墨子よ、オマエもか?!

ところが、

怖気づいて
逃げ出そうとする者がいれば、
伍ごと軍規違反の対象となります。

軍功地主が台頭する華々しい戦争の裏の顔。

 

非戦・博愛を得意げに説く墨家でさえ、

十八番の籠城戦では、

敵方への内通者やその親族には
厳罰―極刑は当たり前、車裂きで臨めと
宣います。

『尉繚子』よりも古い用兵哲学で、
しかも、時代を先取りするかのような
厳罰主義。

今風に言えば
どこの共〇党かと思いますが、

古代中国の籠城戦
例えば、後漢・三国時代で言えば、

鄴や寿春のような熾烈な籠城戦等が
好例でして、

特に兵糧を食い潰した後は、

守備側の将兵のメンタルが持たずに
自壊するケース
少なからずあるのも現実です。

 

その意味では、墨家も、
決して生兵法を説いている訳では
ありません。

 

まあ、その、

命とカネの遣り取りには
綺麗事は一切通用しないのが、
古今東西の世の真理。

その最たるものが、
平時とはまるで世界観の異なる
軍法なのでしょう。

 

 

3-5 70mのグレー・ゾーン

さて、先述のように、

守備側が白兵戦の交戦距離を
70mと想定するのに対して、

攻撃側の白兵戦―「決」の想定する
交戦距離は約140m。

そのように考えると、

残りの約70mは、

両軍が入り乱れて縦隊が伸びて
白兵戦に及ぶケース以外では、

恐らくは、後続の部隊が待機したり、
弓兵が援護射撃を行ったりと、

色々とややこしい距離なのでしょう。

 

無論、守備側の弓の射程距離につき、
危険な距離には違いありません。

先述のように、弩であれば、
この距離でも直射可能でして、

腕力のある者ともなれば、

隊列の隙間から直射に近い低い角度で
強弓を射たことでしょう。

 

 

【雑談】五十歩百歩を軍事的に考察する?!

*今回の話の中でも、特に無駄な部分です。
御注意下さい。

 

1 古今の「常識」のズレ

ここに、孟子の有名な
「五十歩百歩」という故事があります。

戦場で50歩逃げた者が
100歩逃げた者を笑ったが、

双方とも逃げたことには変わらず、
前者にはその資格はない、

という御話。

 

この故事の由来は、

彼の孟子が、
善政が報われないと嘆く魏の恵王に
説教をくれる際の比喩として
持ち出した話です。

 

したがって、

一見、マトモに
軍事的に考察する価値があるのか
疑問に感じるかもしれません。

 

しかし、ここで少しだけ御考え下さい。

 

実は、こういう言葉のひとつひとつにも、
存外、当時の世間の常識が
少なからず滲み出るもので、

これが古典の面白さのひとつでもあると思います。

 

例えば、戦後の逸話として、

メキシコの確かシナ〇ア地方の
(太平洋側の山間部の怪しい御花の産地)
さるヤバい御花畑の農園の主つまりギャンg・・・
が、初めてAKを手にした折、

500m先の敵を倒せる、
と、狂喜したそうな。

 

で、そのような、
高性能かつ堅牢で安価な小銃が、

弱小国の正規軍の標準装備どころか、

世界中の貧しい反政府系
ヒャッハー軍事組織御用達として
ロングランになっている世間で、

孟子や魏の恵王宜しく
50歩だの100歩だの
ケチな距離を論じようものなら、

ふたりとも逃げ延びる前に
フルオート射撃で
背中をハチの巣にされて
「劇終」になるのがオチで、

そもそも、
例え話が故事になるどころか
どうも話自体が成立しません。

 

 

2 狂気の過去との対話、AKと孟子様

言い換えれば、

孟子が昨今のツアー旅行宜しく
人〇解放軍の兵舎か
何処ぞのリゾート地でAKを試射でもすれば、

例え話の歩数が一桁多くなるであろう、

というサイト制作者の怪しい想定で、
具体的な状況について創作を試みます

 

さて、近代兵器の威力に感嘆した孟軻先生、

後学のためにフルオートで撃たせろと
駄々をこねまして(アメリカでは違法行為です。)

 

で、見かねた弟子が、
師匠に内緒で、

嫌がる店主に
無理やり賄賂を掴ませまして、

案の定、流れ弾が方々に飛び散り
店内が阿鼻叫喚の修羅場となります。

 

幸いにして
周囲では死傷者こそ出なかったものの、

当の本人は
強烈な反動で肩を脱臼しまして、

つまるところ、
撃った本人が唯一の負傷者となります。

 

そのうえ、挙句の果てに、この先生、

やはり武力はいかん、
仁に優るものはない、
と、涙目でキレながら店主に説教を垂れ、

こういう身勝手な迷惑行為に対して
文句を言う他の客を
自慢の能弁で悉く論破する、と。

 

ですが、
それの何処が仁なのかと
キレたいのは、

むしろ、この年甲斐のない
トラブル先生を持て余す
ツアーのガイドと
アトラクションの店主の側かと。

 

そこで、締めの一言として
学派総帥の子曰く、

「過ぎたるは猶及ばざるが如し。」

 

因みに、サイト制作者は
こんな話を書く癖に、
実銃の射撃経験がありません。

 

―何だか、つまらない妄想話が
混じって来ましたので、
この辺りで止めておきます。

 

序に、AKにBを足して、
この先生がアイドルと握手して狂喜する、と、
タダでさえこのイカレた話に
恥の上塗りでもしようものなら、

今度こそ、

当サイトと絶縁する人が
後を絶たない気がします。

 

 

3、実は生死を分ける「五十歩百歩」

では、孟子の言う50歩や100歩は、
当時の感覚で言えば
どの程度現実味があるのか。

 

先述の『尉繚子』における
以下の件を思い出して下さい。

「殺人於百歩之外者、弓矢也
殺人於五十歩之内者、矛戟也」

 

そう、最前列で戦う兵士からすれば、
50歩は斬り合いの圏内。

ですが、100歩ともなれば、

突っ込む側からすれば
ギリで白兵戦の距離ですが、

現実的には、
これ位離れれば弓矢の距離。

それも、直射の危ないやつではなく、
精々勢いの落ちた弓が飛んでくる程度です。

 

もっとも、その場合、

まとまった数の矢が一気にが来ることで
安全とは言い切れませんし、
弩であればアウトですが。

 

とはいえ、サイト制作者としては、

当時の戦場の感覚からすれば、

50歩と100歩では、
生死を分ける大きな違いと
言えるのではなかろうか、と、思います。

 

したがって、

故事にある通り、
不毛な自慢話の争点にはなりそうですし、

50歩後退して踏みとどまった兵士は
笑う資格自体はあろうかと。
(軍規違反かどうかは状況によるのでしょうが)

 

もっとも、
本当に笑ったら笑ったで、

孟子の指摘する通り、

恥知らずというか品位に欠けることで
周囲の失笑を買うとも思いますが。

 

ここに、
道徳と戦争の価値観の違いが
滲み出ていると言いますか。

こういう与太話自体、
サイト制作者の屁理屈と言えば
それまでなのですが。

 

 

なお、この話にもう少し興味のある方は、
以下の記事を御覧下さい。

実録?!五十歩百歩(小記事)

 

【了】

 

 

 

4 伍の連帯責任と秦の戦争

4-1 『尉繚子』の罰則規定

大きい話としては
今回の最後のテーマとなりますが、

伍の義務や連帯責任について触れます。

 

まず、厳しい軍規を求める『尉繚子』より、
該当するを思われる箇所を挙げます。

もっとも、
これまで散々ボロクソに書いたことで、

内容については、
或る程度は御想像が付くかと思いますが。

 

まず、束伍令篇には以下。

 

・連帯責任の証書を
「将吏」―上級の指揮官に提出する。

・伍の中から戦死者を出せば、
同数の敵兵を殺さねば
全員を処刑し家産を没収する。

・対して、伍の中から戦死者を出さずに
敵兵を殺すか生け捕れば
表彰される。

 

この報復義務の原則は、
兵卒だけでなく、
下級指揮官や将校にも適応されます。

 

次いで、兵教上篇には以下。

 

・伍長に部下の訓練の義務がある。

完遂すれば表彰されるが、
軍規違反で処罰される。

 

・戦闘の際、
命令違反を行う者や
ひとりでも戦意に欠ける者がいれば、
軍規違反で処罰される。

什長にもこのルールが適用される。

 

・伍の中で罪を犯した者がいれば、
内部告発の義務が生じる。

申告すれば他の者は免除される。

 

兵教下篇にも、
「連刑」として連帯責任を強調しています。

 

また、兵令下篇には以下。

 

・遺体回収が出来ない場合は
軍功を剥奪する。

 

この篇が同書の最後ですが、
その最後の箇所
凄まじいことが書いてあります。

 

古之善用兵者、能殺士卒之半、
(中略)能殺其半者威加海内

昔の用兵巧者は部下の半数を誅殺し、
天下に威信を示すことが出来た、

と、言う訳です。

 

良くも悪くも、
同書の本質を表していると思います。

 

 

4-2 『尉繚子』の特徴とその背景

さて、ここで、
この時代の兵書の変遷について
少し触れます。

孫武・孫臏の『孫子』
呉起の兵書『呉子』
戦国時代の初め頃で、

野戦が盛んであった時代の書物
言われています。

 

そうした事情を反映してか、

書いた本人は統率の鬼で
王の妾を斬った武勇伝の持ち主で
上から目線でドライな『孫子』でさえ、

軍規違反はともかく、
兵士は赤ん坊だから
飴と鞭で宥めろという程度です。

 

もっとも、例えば孫臏など、

やってることは
友軍を全滅前提の捨て駒にする等
結構エグいですが。

 

呉起も兵隊の進退については
イロイロ書いていますが、

積極的に味方を殺せとは
書いていません。

 

また、少し成立の遅い『司馬法』も、

御本尊様が軍規違反で王の寵臣を斬った割には、

兵士の扱いについては、
むしろ長所を引き出せというような
書き方をしています。

 

ところが、この『尉繚子』に至っては、

兵士をとにかく細かく法で縛って
抵触する奴は片っ端から罰を喰わせろ、

というスタンスで臨んでいます。

 

また、墨家の総帥の墨翟が亡くなったのは
紀元前400年で、
割合古い世代の人ですが、

『墨子』自体は弟子の言説も含めた
集大成的なものだそうで、
世に出た正確な年代は
判然としません。

もっとも、『漢書』には
断片的に収められているそうで、
この時期までは遡れると思いますが。

 

ただ、仮に、墨翟本人が
籠城戦の本質について
厳罰主義を説いていると仮定すれば
興味深い話だと思います。

 

以上のような変遷を考えると、

戦国時代の末期
成立したと考えられる
『尉繚子』の存在意義
何処にあるのかが、

自ずと分かって来ようもの、と。

 

つまり、
将兵を厳しい軍規で縛ることは
古今東西の戦場の常識ですが、

それを敢えて書くことで、

将兵共有のドグマとして
手心を加えずに徹底させることに
意味があったのではないか、

と、サイト制作者妄想します。

 

孫武や呉起、穰苴にせよ、

成り上がりの軍人にとっては
厳しい軍規こそが
当人の政治力の根幹でもあり、

その理由は、
その厳しい軍規が
軍隊の戦力を保障していたからです。

 

そして、時代が下って
戦国末期に至っては、

何人もの有能で剛腕な食客軍人が
無能な穀潰し大夫共の嫉妬を後目に
精強な軍隊を作り上げた先例が
余りあることで、

最早、兵卒レベルの厳罰主義が
行くところまで行っていた、
という状況にあった、

ということではなかろうかと
思います。

 

謂わば、『尉繚子』は
兵士育成マニュアルとしては
戦国時代の兵書の集大成であった、
とさえ思います。

 

 

4-3 秦の殺戮戦争と長平の戦いの特異性

この個所は、殆ど、
前回でも少し紹介しました
来村多加史先生の『春秋戦国激闘史』に拠ります。

 

悪く言えば、手抜きの部分。

サイト制作者の主観ですが、

春秋戦国時代の時代背景や
対外関係の詳細な変遷について、

文庫本の尺で
ここまで巧く纏めた本には
中々御目に掛かれません。

さて、『尉繚子』、と言いますか、

恐らく魏の亡命軍人等より
先進的な兵学や用兵思想を貪欲に学んだ
実際の戦場で何をやったかと言えば、

敵兵に対する
呵責無き殺戮に他なりません。

 

秦は、実は、
統一直前まで武器が銅製であったり、
(特に戦国後半は、
斉や燕は鉄器を実戦投入しています。)
イロイロな意味で後発の国。

 

孫武や伍子胥を活用した呉もそうですが、

しがらみの少ない後発の国の方が、存外、

やり方が原理主義的
その分、モノを吸収した後のパフォーマンスが
良かったりするものでして。

 

で、サイト制作者も最近知ったのですが、

来村多加史先生によれば、
この国は、ある時期から捕虜を取りません。

 

『尉繚子』には、
損害なく捕虜を得れば賞与の対象と
書いてありますが、

この国は、とにかく、
降伏した兵士を皆殺しにします。
万単位の殺戮が当たり前。

 

これは始皇帝の登場以前からの話で、

やることが惨いのは、
敵兵の首が軍功の証だからです。

 

一方で、自分達の伍から
戦死者を出した場合、

そのペナルティを
捕虜の生首でチャラにするといった
当事者にとっての「必要悪」なやり方も
あったのでしょうし、

その意味では、
厳しい軍規の裏返しなのかもしれません。

 

当然、他国もそれを熟知しており、
秦と遣り合う場合には
土壇場まで足掻く訳です。

それでも万単位の捕虜が出たのは、

恐らく食糧や矢が尽きて
餓死者や逃亡者が続出し
自力での退却が不可能といったような、

究極の状況だと思います。

 

 

ところが、興味深いことに、
捕虜の生き埋めで悪名を馳せた
長平の戦いは、

先述の来村多加史先生曰く、
秦のやった歴代の戦争の中でも
かなり趣の異なる内容なんだそうな。

 

さて、その戦いの経緯を述べますと、

この戦いは、
戦国末期の秦と趙の野戦の決戦でして、

秦が偽装退却を企て、
追撃に転じる趙の大軍の補給路を遮断して
全滅に追い込んだ戦いでした。

 

ところが、秦も秦で、

緒戦の偽装退却で
趙の精兵相手にボロディノ宜しく
或る程度真面目に抗戦したことで、

終わってみれば損害も相当なものでした。

戦力の半数の死傷者を出したそうな。

 

因みに、最近(1995年)に発掘した
捕虜と思しき人骨から計測した結果、

この戦闘での趙兵の平均身長は、
何と、171cm。

低くとも161cm、
最も高い者にいたっては
184cmあったそうな。

兵卒の平均身長が150cmを切る時代
20cmも高い訳ですから、

趙がどれ程の精兵を選って
秦にぶつけたかが
伺えます。

 

その結果が、

秦にとっては
戦略的な勝利にもかかわらず、

赤字も赤字、大赤字、
激しい価格戦争で疲弊した
小売業のような状態でして、

いつものように、

馬鹿正直に
取らぬ捕虜の首算用で
軍功なんぞカウントしようものなら、

恩賞で国庫が破綻しかねない事態
発展したそうな。

 

総司令官の名将・白起が
捕虜の生き埋めに及んだのは

国家上層部の極秘の指示で
恩賞を踏み倒す為の措置であった
可能性がある模様。

 

敵の趙や後世の人間の目線では、
同じ殺すに変わりはなく、

首を取るか撲殺して生き埋めにするかの
違いでしかありませんが、

内部の人間にとっては
メシの種に繋がる一大事であった訳です。

 

 

【雑談】『キ〇グダム』前史?!
手詰まりになった秦

また、こういう勝ち方をした秦が
その後に諸国の反撃に遭って
統一が半世紀近く伸びたのは、

秦が無理な攻勢を行い
国力を疲弊させたからです。

 

件の白起は、
誰がやっても勝てないから止めろと
王に諌言して自殺を強要されますし、

趙も趙で国力の回復に努めます。

 

結果として、

依然、蜀という豊穣な後背地を抱えた
秦の優勢は揺るがないとはいえ、

大陸の天地は複雑怪奇な勢力抗争図に
逆戻りします。

 

余談ながら、

食客の元締めで有名な平原君
その懐刀でハッタリ屋の毛遂は、

この折の対秦同盟の立役者。

 

とはいえ、その後、
やはり秦は強かった、
という歴史の流れを考えれば、

弱小国同盟のノスタルジー的な
存在であったのかもしれません。

【了】

 

 

おわりに

今回も水膨れして大変恐縮ですが、
例によって、以下に、話を大筋を整理します。

 

1、兵士の戦闘姿勢は、直立した姿勢からは、
前身・後退・右向・左向・坐・跪の
6動作がある。

 

また、坐・跪の区別は曖昧で、
坐・跪から歩くのを膝行、
立つのを起・作と呼んだ。

 

 

2、古代中国においては、
兵卒の進退を楽器と旗を用いて行った。

太鼓で前進、鐘で後退命令し、
旗は移動方向を示した。

命令を徹底させるために
楽器を乱打したが、
リズムや回数等も存在した。

また、下級指揮官は、
これらの命令を主に鈴を用いて
兵士に伝達した。

 

 

3、末端の軍事訓練では、
太鼓の代わりに板、
旗の代わりに竿、
鐘の代わりに関して瓦や焼き物を用いた。

 

 

4、突撃の訓練では300歩の距離を要し、
100歩ごとに行動を変えた。

 

最初の100歩は全力疾走、
次の100歩は小走り、
最後の100歩は白兵戦、という手順であった。

 

 

5、交戦距離は50歩までが近接武器、
100歩を越えれば弓が推奨された。

 

50歩から100歩までの距離は、
恐らくは白兵戦から射撃戦まで幅広く行われ、
また後続部隊が待機する等の
曖昧な距離であった可能性がある。

 

 

6、兵卒の罰則が特に厳しい兵書は
『尉繚子』と『墨子』である。

 

前者は成立年度が遅く
精強な軍隊を設立した成功例が多いことで、
戦国時代の兵書の集大成である可能性がある。

 

後者の場合は、
籠城戦の長期間にわたって
閉鎖的な空間が続くという
事情が大きい可能性がある。

 

 

7、恐らく『尉繚子』や法家の影響が強い秦は、
基本は捕虜を皆殺しにする軍隊である。

 

そのような中、長平の戦いでは、
生首=軍功が国庫を圧迫することを避けるため、
生き埋めに及んだ可能性がある。

 

 

 

【主要参考文献(敬称略・順不同)】
守屋洋・守屋淳訳・解説
『全訳「武経七書」 2』
藍永蔚『春秋時期的歩兵』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
『三国志軍事ガイド』
来村多加史『春秋戦国激闘史』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
学研『戦略戦術兵器事典 1』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海 第四版』
山田琢著・山辺進編『墨子』
尾崎秀樹訳・解説『呉子』
小林勝人訳注『孟子』上巻
加地伸行『中国人の論理学』
趙匡華著、廣川健監修、
尾関徹・庚凌峰訳『古代中国化学』
田中和明『金属のキホン』
ヨアン・グリロ著、山本 昭代訳
『メキシコ麻薬戦争』
松本仁一『カラシニコフ 1』
ジョン・エリス著、越智 道雄訳
『機関銃の社会史』

 

 

【番外乱闘編】浅学な物学びにも原文は必要か?

さて、戦闘姿勢の話の補足として、

字引によれば、

「脚」は膝下から踝迄、
「腿」は膝より上の太腿の部分を
それぞれ意味します。

 

このように、

漢字一文字に
日本語以上に細かい意味があるのが
中国語の面白くも面倒な部分です。

 

サイト制作者の語学力不足を
棚に上げていうのも何ですが、

当然、古語なんか、
字の解釈がさらに難解でして、

識者の方の書き下し文なんか読むと、

今日の日本人の漢字の感覚からすれば、
当て字や略字のような読み方
多々見られます。

 

こういうのを丁寧に見抜いて
意味の通じる書き下し文に落とし込む
諸先生方の眼力に頭が下がると言いますか。

 

言い換えれば、

『三国志』正史自体が孔明の罠、ではなく、

古典にあるような古語は

ネイティブの方すら
死語という認識なんだそうな。

 

それでも浅学なサイト制作者が
要所だけでも原文で読みたいと思う理由は、

識者の方のの邦訳が、特に軍事面では、

当時のテクニカル・タームと思しき言葉も
平易な日本語訳になさっているケース
少なからず見られるからです。

無論、これ自体は間違いではないどころか
有難い配慮にせよ、

下手なりに考証を進めるうえでは
少し物足りなさを感じる部分もある次第で。

その意味では、
原文が掲載されている訳文には
非常に有難みを感じます。

 

最後に、最近、

いくつかの古典を読んで思うことは、

賢者の言説を記した本とはいえ、

何も、哲学を学ぶだけが
思想関係の堅い本の
存在意義ではなかろうとも思います。

 

結構、戦争関係の考証で
為になる話が出て来るんですワ、これが。

それもその筈、

そもそも諸子百家の争点自体が
戦争の解釈であった訳ですから。

 

邪な読み方で
先生には大変失礼かもしれませんが、

例えば、加地伸行先生の『孝経 全訳注』など、
本文の和訳
(訳自体はセンスの塊だと思いますが)よりも、
脚注の方が遥かに為になったと思います。

 

無論、思想関係の本から
当時の戦争や政治のイロハを
学ぼうとするような
イビツな読み方をしているからに
他なりませんが。

 

これに因みまして、
識者の方々の書かれた脚注は本当に優秀です。

試しに、最寄りの本屋さんや図書館等で

文庫で結構ですので、
四書五経等の堅い本を手に取り
脚注だけでも御覧下さい。

 

勿論、軍事関係の話も含めて、

痒くて手の届かない基本かつ重要な部分が
分かり易い言葉で丁寧に解説されています。

 

【了】

カテゴリー: 兵器・防具, 軍事, 軍制 | 4件のコメント

最小戦闘単位「伍」と最末端の戦闘

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、学研『戦略戦術兵器事典 1』、篠田耕一『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

今回も、長いので章立てを付けます。

適当にスクロールして、
興味のある個所だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

なお、毎回、記事の終りに結論を整理しています。

長文を読む時間がない方、
あるいは冗長な表現が苦手な方に
おかれましては、

御手数を御掛けして恐縮ですが、
これで大意を確認なさって頂ければ幸いです。

はじめに
1、そもそも「伍」とは何ぞや?
2、村単位の人員の供出
【追記】タダで読める?!
什伍の制に関する論文の紹介
3、伍と戦車の関係
4、ハッタリと受け継がれる気風との関係
5、春秋時代における歩兵の変質
5-1、伍と両と両司馬
5-2、戦車と運命を共にする郷土部隊
5-3、大量動員時代の幕開け
5-4、孫子の兵法で世の中が変わる?!
5-5、戦国時代の歩兵への変貌
6、死角なき小戦闘集団「伍」
7、当時の基準で度量衡を測る
8、武器の種類とカテゴリー
8-1、カテゴリーと種類の概要
8-2、矛、戈、両者一体の戟
8-3、剣と環首刀
8-4、弓と弩の相違点
8-5、後知恵で「連弩」を評すると・・・
9、白兵戦の実相
9-1、実践?!敵兵の殺し方
9-2、武器と交戦距離の関係
9-3、寸劇で応用力を養おう?!
おわりに

はじめに

まずは、更新が大幅に遅れて大変申し訳ありません。

見苦しい言い訳ですが、

新しい年を迎えるに当たり
サイトの主旨から次第に逸れて来た軌道を
一旦戻すことを考えた結果、

今回のテーマを思い付いた次第です。

とはいえ、
ここまで遅れた直接的な理由は、
中文の和訳と図解用のイラストの作成に
予想外の時間が掛かったこと、

と、昨年発売の
さる西部劇シミュレーターのゲームに
ハマったことで、
その「成果」は飛び道具の説明の際に
読者の皆様に還元したく(嘘です)、

この旨、深く御詫び申し上げます。

1、そもそも「伍」とは何ぞや?

それでは、本編に入ります。

古代中国の最小戦闘単位
「伍」と呼ばれる
歩兵5名の縦隊の編成単位です。

この単位は殷代の軍事制度によるもので、
言い換えれば
その時代から存在しました。

さらに、伍の倍の「什」
周代のものだそうな。

次いで呼称ですが、
一時「烈」と呼ばれた時代もあったようですが、
春秋時代から前漢までは概ね「伍」

以降の呼称は残念ながら分かりかねますが、
実態も少なくとも唐代辺りまでは
変わらなかったようです。

2、村単位の人員の供出

さて、この「伍」、
どのレベルの集落から
一括して供出するかと言えば、

「里」という単位の村落単位で
各々5名供出するという仕組み。

当時の自治体について、詳しくは、
以下の記事を御覧ください。

『三国志』の時代の村・「里」

http://paulbeauchamp.org/2018/02/16/%e3%80%8e%e4%b8%89%e5%9b%bd%e5%bf%97%e3%80%8f%e3%81%ae%e6%99%82%e4%bb%a3%e3%81%ae%e6%9d%91%e3%83%bb%e3%80%8c%e9%87%8c%e3%80%8d/

『三国志』の時代の農村都市「郷」

http://paulbeauchamp.org/2018/02/17/%e3%80%8e%e4%b8%89%e5%9b%bd%e5%bf%97%e3%80%8f%e3%81%ae%e6%99%82%e4%bb%a3%e3%81%ae%e8%be%b2%e6%9d%91%e9%83%bd%e5%b8%82%e3%80%8c%e9%83%b7%e3%80%8d/

こうなると
当時の農政とも連動する訳でして、

兵役とセットで
耕作単位にも基準があるのですが、
これは省略します。

無論、有名な商鞅の鬼の什伍の制も
こういう旧慣が基盤となっています。

秦がやったルールは、

自分の所属する伍の中で
戦場で一人殺されれば
敵兵を一人殺さねばその伍全員が処刑される
という、鉄の規律。

恩賞が手厚く
軍功地主が急増した代わりに、

敵よりも味方の軍隊組織の方が
恐ろしかった一面もありました。

【追記】

この部分の典拠は
『図説 中国文明史 4』で
秦軍について読み易い文体で詳述しており、

高価ながら、
図書館等でも
一読を御勧めする一冊です。

とはいえ、

この目には目を、の、
兵士にとっては頭痛の種の
反撃強要ルールは
『尉繚子』書かれていまして、

要は、サイト制作者の浅学です。

また、同書のライターは魏の出身で
始皇帝に仕えたそうですが、
不明な部分も多い人。

漢代の初め頃には
方々に出回っていたそうな。

後、末端の戦闘組織の管理については、

『孫子』や『六韜』等よりも
この本の方が詳しいかと思います。

残念ながら訳本は高いのですが、

幸い、文章自体が短いことで、
古語の訳の練習には
良い材料かもしれません。

サイト『Web漢文大系』に
書き下し文が掲載されていますので、
宜しければ御活用下さい。

アドレスは以下。
ttps://kanbun.info/index.html
(一文字目に「h」を補って下さい。)

【了】

もっとも、当の商鞅はと言えば、

後に、政争で敗れて亡命を企てたものの、

事もあろうに
自分の作った法によって御縄になり、

これを厳し過ぎると嘆くような
クソっぷりを見せるのですが、

見方を変えれば、
政治家冥利に尽きるのでは
ないでしょうかねえ。

また、制定した者をも
容赦なく断罪する程に
優秀な制度や政権であったとも言えます。

これが腐った政権と欠陥制度であれば、

手心が加えられてそれが常態化し、
綱紀の弛緩に
歯止めが掛からなくなります。

歴代の中国王朝の
悪いパターンのひとつ。

【追記】

タダで読める?!
什伍の制に関する論文の紹介

こういう書き方をした後で何ですが、

この商鞅と言う人は、
制度設計という点では、
まさに天才というべき政治家の模様。

秦漢の屋台骨を作り上げるような仕事
なさった御仁です。

兵農一致の
最末端の農村の支配機構、
―世に言う什伍の制は、

その大部分が
漢の太平の世にも受け継がれます。

と、言いますか、
秦の統治機構のイイトコ取りが
漢初の政治なのですが、
その中核の部分なのかもしれません。

そのこともあってか、
特に1970年代には
この分野の研究が盛んであったように見受けます。

ですが、
どういう訳か、
三国志や戦国時代の娯楽作品の考証には
あまり反映されていない気がします。

で、浅学なサイト製作者は
そういう論文の存在を
今更知ったこと等もあり、

当時の兵農の関係や農村の生活、
人肉も含めた食事の話等については、

資料もそこそこ集まって来たことで
一度まとまった記事を
書きたいと思うのですが、
残念ながら中々時間が確保出来ません。

したがって、
予習とでも言いますか、
下記の論文を御覧下さい。

古賀 登
「阡陌制下の家族・什伍・閭里―父老的秩序とその解体策の一考察― 」
法制史研究 (24), p43-90, 1975-03

下記のCiNiiの論文検索サイトで検索を掛け、
無料でPDFをダウンロードされたし。

ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

什伍の制やその前の井田制の
概要は元より、

秦漢時代における
基準となる農村・家族の人口や
家屋の配置等の概要
体系的に纏められています。

特に、考証に興味のある方は
一度は読まれることを御勧めします。

難点を言えば、少々難しい内容ですが、
結論はしっかりと整理されていることで、
まずは、それを軸に読まれると
分かり易いかと思います。

で、さらに知りたい方は、
脚注から参考文献を辿られたし。

余談ながら、

大御所の先生方の分厚い御本は
大抵はこういう論文の数々を
抽象的なタイトルを付けて
一冊にまとめたものでして、

学位論文のリライトだったりもします。

で、その種の御本は、
学術書は売れないからという想定で
部数を抑えて出版するので
結構な値段が付き、

そのうえ、10年もすると、

サイト製作者のようなアホが
その価値に気付いて
血眼になって探すも、

時既に遅しで絶版と来るので、

中古市場でトンデモナイ値が付く上に
再販はされない、と。

何か部分的なことを
知りたい方からすれば、

著者の先生方には失礼ながら、

必要箇所は
一冊数百頁のうちで
2、30頁に過ぎなかった、

というようなことも、
多々あることで。

軍隊や武将関係の調べ事は、
こういうのが結構あるんですワ。

【了】

さて、記事にも引用した通り、
「里」が複数集まると、
「郷」という自治体になります。

ですが、郷には大別して2種類ありまして、

里が点在する「離郷」―郊外、
里が密集する「都郷」―都市部、に分けられます。

また、郷が複数集まると
「県」になりまして、

居住区の集まる「都郷」は、
県の中心地として
堅牢な城壁や(規模によっては)常設の市等、
充実した居住環境を有します。

今日で言うところの、
一昔前の
市役所近辺の
官庁街と繁華街が一体になったような
区画に相当します。

3、伍と戦車の関係

で、各々の村落「里」で
「伍」として送り出された5名の兵士は、
「県」城に集められ、

県単位で
概ね100名単位の部隊に再編されます。

これが意味するところは
御貴族様の搭乗される1両の戦車とその随伴歩兵=乗。

【追記】

「乗」は100名程度の部隊の単位ですが、
この「乗」が何両の戦車を持つのかは
諸説ある模様。

とはいえ、
多くても数両だそうですが。

【了】

その内訳は諸説あるのですが、
大同小異といったところです。

その説のひとつに、
確か、兵書オタクの曹操の説だと記憶しますが、
75名の戦闘員と25名の輜重兵で
構成されます。

さらに、この75名の戦闘員の中でも
県の長の近衛部隊と
ヒラの歩兵に分けられます。

4、ハッタリと受け継がれる気風との関係

余談ながら、
モノの本によれば、

戦国時代の終り頃、

蘇秦と張儀の
自分のスポンサーの大国には
「帯甲」だの「武士」だのが数十万いる、

と、いったような物騒なハッタリが
史書に残る残るのですが、

こうした言葉の背景には、
春秋時代の件の近衛部隊の存在の名残
あったそうな。

無論、当時は、
既に歩兵の大量動員の時代に入っており、

貴族の少数精鋭同士の戦車戦や
それに付随するヒエラエルキーなど
過去の遺物に過ぎなかったのですが、

過去の気風そのものは
後の時代まで残るものです。

我が国の場合も、

戦前は何十年も使い回した
ボロボロの連帯旗を神聖視して
部隊が全滅するまで死守し、
(当時は国軍の最高司令官でもあった
天皇陛下より授与されたものにつき、
旗手は隊内でも屈指の優秀な将校です。)

今日では、
大学の応援団が
恐らくこの気風を受け継いでいることと
拝察します。

戦後も陸自が戦車に
「士魂」のロゴを入れています。

こういうのは、

ヒラの歩兵が
携帯型の迫撃砲で手榴弾を飛ばす時代に
「擲弾兵」だの、
外国にも枚挙に暇がありません。

5、春秋時代における歩兵の変質

5-1、伍と両と両司馬

さて、肝心なのは、
5名集まって如何に戦うか、
という点にあるのですが、

如何に独立した戦闘単位とはいえ、

東映の戦隊モノのように、

たった5名で
ヘンな着ぐるみを着た悪の組織の幹部と
その部下の大勢の戦闘員を
相手にする訳ではありません。

具体的には、以下。

この歩兵5名が縦隊を組み、
その縦隊の左右には
別の村落出身の伍が配置されるという具合で、

5縦隊25名で
「両」という戦闘単位を編制します。

これは基本は方陣でして
指揮官を「両司馬」と言いますが、
詳細はこでは触れません。

5-2、戦車と運命を共にする郷土部隊

さて、ここで興味深いのは、
「歩兵」の定義。

藍永蔚先生によれば、
春秋時代前半の戦車に随伴する歩兵を、

「隶属歩兵」―当時の呼称で「徒」

と、称していらっしゃいます。

一方で、春秋時代後期以降の
独立した戦闘部隊の歩兵は、
当時の呼称で「歩卒」と呼ばれていたそうな。

(同じく、「徒」とも呼ばれていたので
その辺りは曖昧な部分もあったと拝察しますが)

では、同じ徒歩で武器を持った兵士でも、
前者と後者では何が違うのか。

前者・春秋時代前半までの「隶属歩兵」は、

今日で言うところの
歩兵、戦車部隊、砲兵、というような
独立した兵科とは言い切れない存在でした。

もう少し具体的に言えば、
以下のような様相を呈しておりまして。

当時の戦争は、

御貴族様(大体県レベルの領主)が
直々に乗り込む、
戦車同士のサシでの勝負が戦場の華。

こういう貴族の独断場で、

それも期日と場所(開けた平地)を
事前に取り決めるような
折り目正しさでして、

卑劣な行為を蔑視する風潮が
強かったのです。

掟破りは、
戦後に方々から
内政・外交で制裁される訳です。

余談ながら、
儒教のルーツも
どうやらこの時代の戦時道徳にあるそうな。

さらに、その人間修養の方法は、
当時の軍事教練がモデル、と。
(今日に比べて政軍関係が曖昧だったことも
あるのですが)

そうした時代につき、
戦車の御供の歩兵は
添え物のような存在でした。
(ただし、上級の歩兵は精強です。)

例えば、

戦車戦の結果、

搭乗員が死傷して制御不能になって
自陣に突っ込んで来た敵の戦車を
袋叩きにするというような役割です。

逆に言えば、

搭乗員が健在な戦車が
突っ込んで来た場合は、

歩兵の隊列の方が
一方的に蹂躙される訳です。

さらには、

友軍には
(戦車に搭乗した)指揮官を失って
蹂躙された他の味方部隊を
助ける義務はありません。

と、言いますのは、

当時の封建体制では
各々の領地では領主様が神様でして、

上級の領主といえども
自分の直轄地以外には
手が出せないのです。

で、隣の県の部隊の事情なんぞ
知ったことか、と、
なる訳です。

「鶏口牛後」という諺がありますが、

戦車に搭乗する御貴族様が
領地の大小にかかわらず
戦士階級という意識を共有出来たのには、

こうした社会背景があります。

その反面、
戦車の随伴歩兵は、

軍全体としては
脆弱な指揮系統の為、

寄せ集めの状況を呈する訳です。

余談ながら、

当時の斉のような超大国について
千乗の国という言い方をしますが、
(乗は戦車1台を表す単位)

【追記】

「乗」は随伴する歩兵も含むそうな。

また先述のように、
1乗当たりの正確な戦車の保有数には
諸説あります。

【了】

これは、
国力はともかく
千両以上の機甲部隊を有する軍事国家、

という意味ではなく、

戦車に付随する
歩兵10万程度の動員力がある、
―それだけ国力がある大国、

という意味だと思います。

【追記】

万乗の国は周王朝、という説もあれば、

来村多加史先生によれば、
春秋戦国時代の晋や斉、楚、といった
超大国は「万乗の国」。

例えば、春秋時代のは、

49の県を支配し、
各県で約百両の戦車を有し、

単純計算で総計約4900両の戦車を
保有していたそうな。

また、『戦国策』によると、

晋の分裂後の
趙・韓・魏の戦車の数について、

趙が1000乗、魏は600乗、韓は不明、
と、弾いています。

聊か強引な計算となりますが、

例えば、1乗あたり3両と換算し、

さらに、晋が三国に分裂したことで
各々の国の守備範囲が広がったことを
考慮し、

加えて、遊説家共のハッタリを割り引けば、

イイ線行っている数字ではなかろうかと
思います。

それでは、来村先生が例として挙げる
千乗の国とはどこかと言えば、
(古典にもそう書かれているようですが)

戦国時代の中山国のような
当時の弱小国。

首都が峻険な地形であったり
経済の要衝であったりといった
ポテンシャルに加え、
巧みな外交力でかなり長く命脈を保ちました。

そう言えば、子路の時代は、
まだこのレベルの国が多かった訳でして。

サイト制作者の浅学を
棚に上げて言うのも何ですが、

戦国時代に入り、

数国が万乗の国と化し
逆に、千乗の国が珍しくなる、
といった具合に、

時代によって、
言葉のニュアンスに
変化が生じたような側面を感じます。

―この辺りの御話も含めて、

来村多加史先生
『春秋戦国激闘史』(学研M文庫)を
御勧め致します。

春秋戦国時代の主要な戦争の経緯
その間の複雑な外交関係の変遷について、

当時の戦争の基礎知識等も踏まえながら
さまざまな角度から分かり易く説明するという
野心的な良書です。

2000年代前半は、

同シリーズ以外にも、

大衆向けの平易な文章とはいえ、
現役のプロの方の洗練された分析視角で
初心者を唸らせる御本が多かったように思います。

残念ながら、
ア〇ゾンのレビューがそれ程高くなく、
そのうえ絶版と来ていますが、

図書館等で手に取られる機会があれば是非。

5-3、大量動員時代の幕開け

前者・春秋時代前半までの「隶属歩兵」に対して、
後者・春秋時代後半以降、
明代の火砲が登場するまでの歩兵は、

大量動員当たり前、

『孫子』に曰く、
卒(兵士)を視ること嬰児(赤ん坊)の如し。

前者の場合、

子路曰く、7年掛けて兵隊を育てたところを、
後者は動員して即刻戦列に放り込む訳で、
その結果は、推して知るべし。

孫武の愚民観の背景には、

以前のような
同郷出身の気心の知れた少数の兵を
統率する状況とは異なり、

領内の方々から
俄かに徴兵した大量の弱兵を統率して
過酷な作戦を遂行せざるを得ないという
深刻な事情があるのです。

5-4、孫子の兵法で世の中が変わる?!

そして、銃後の態勢
集権的な政権による総動員につき、
戦場で綺麗事は一切言いません。

歩兵の機動戦が主流になり、
地形を問わぬ神出鬼没の動きを
見せるようになります。

山林での伏兵火計は当たり前で、

それまで戦場の華であった戦車は
平地での決戦部隊に成り下がります。

また、領内には機動戦対策としての
巨大城郭が乱立し
この争奪戦に膨大な人員・物資が投入され、

こうした体力勝負で
ドロップ・アウトした小国は、
片っ端から大国に併呑されます。

当然、併呑の後には
政治・軍事の集権化が控えています。
(まあ、一筋縄にはいかないのですが)

その過程で、歩兵も、
それまでの戦車の添え物から
独立した戦闘部隊へと変質します。

こういう軍隊組織の大規模な変化は、

当然のことながら、

村落の共同体やら
祭祀制度やらといったような
既存の社会秩序をも崩壊させます。

その画期となったのが、
大体紀元前500年頃、

春秋の終り頃の御話です。

これは、実は、
中国史上でも屈指の社会的な変動でして、

これで発狂した知識人層
戦争をテーマに
朝生宜しく
大々的に政策論争をオッ始めまして、

これが、かの有名な、
諸子百家の幕開けとなる訳です。

―この話、過去の記事でも
何回かやったような。

5-5、戦国時代の歩兵への変貌

さて、
脱線した話を
元に戻しますと、

春秋時代の前後を通じて、

領主が倒れたら戦意を喪失する
100名程度の小集団の兵士から、

ひとつの強大な指揮系統で
何十万の兵力が動く軍隊の兵士へと
変質した訳です。

戦闘で損耗すれば、
後列、あるいは、後詰の部隊が
最前線の部隊と入れ替わって
戦場を支え、

本国からも
次々に増援部隊が送られます。

そうやって大国同士で
デスマッチを繰り広げ、

そういう戦争が、
孫武の時代から数えても
秦の統一まで300年弱続きます。

また、後漢時代は大規模な軍縮が行われて
地方軍はほぼ皆無だったのですが、

辺境防衛や長期にわたる羌族の反乱で
戦争のノウハウ自体は蓄積されていたのか、

後漢末から三国時代には、
流民を集めて兵農一体の体制を構築し、
こういう戦争を再開した模様。

キー・ワードは「兵戸制」

6、死角なき小戦闘集団「伍」

銃後の話が多くなって恐縮です。
そろそろ、「伍」の戦闘の話に移ります。

早速ですが、そのイメージとして、

冒頭の怪しいイラスト再掲します。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、林再掲。巳奈夫『中国古代の生活史』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、学研『戦略戦術兵器事典 1』、篠田耕一『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

大体、秦の兵士をモデルに描いたのですが、

2列目のけしからぬ行為に及ぶ者の武器は、
考証としては、
鈹(ひ―槍の前身ともいうべき武器)の方が
正しいのかもしれません。

武器についての詳しい話は、後程。

さて、先述のように、
5名の歩兵が縦隊を組んだのが「伍」。

色々な武器を持ち寄って、
あらゆる状況に対応しようというのが
用兵思想の根底にあります。

で、どうしてこんなのが分かったか、と、
言いますと、

河南省汲県で発掘された
紀元前5世紀の青銅器に、
縦隊を組んで戦う兵士の絵が描かれていまして、

大体、同時代や後の時代の兵書にも
これを裏付けるような説明
書かれておりまして、

多分、東アジア圏で、
こういうのが
絶えず学ばれていたのでしょう。

某島国の律令時代とか。
破綻しましたが。

【追記】
そもそも、殷時代の墓から出土した
人骨や武器の配置から
伍の存在を証明出来る模様。

【了】

で、近年、それを色々な文献が説明し、

不遜な本サイトが
孫引き・摘まみ喰いに及ぶという哎呀な顛末。

それはともかく、
件の青銅器の絵によれば、

「伍」の兵士が持ち寄る武器にも
さまざまなパターンがありまして、

3、4列目が長柄の武器のものも
あります。

状況に応じて
色々編制していたのでしょう。

【追記】

『司馬法』には、
各々の兵士には
得意とする武器を持たせろ、と、
書かれています。

余談ながら、
インパールで勇名を馳せた
当時旅団長の宮崎繁三郎も、

兵士には小銃や手榴弾等
得意な武器に専念させ
訓練に弾薬を惜しむな、と、
指示を出しています。

野砲が1日5発しか撃てないような
慢性的な物資欠乏の中でのことです。

愛読者であったのかもしれませんね。

【了】

そして、中でも多かったのが、

最後列の伍長と思しき兵士の武装には
長柄の戟と盾を持つパターンが
多かったことです。

7、当時の基準で度量衡を測る

また、長柄の武器の決め事としては、

『周礼』・考工記によれば、
身長の3倍以下の模様。

それ以上の長さになると、
パフォーマンスが落ちるんだそうな。

では、当時の兵士の身長の平均
大体どれ位かと言いますと、
8尺=1尋とされています。

因みに、尋という単位は、

身長に相当すると同時に、

両手を広げた時の
右腕の指先から左腕の指先までの長さを
表します。

で、サイト制作者としては、
8尺=144cmと解釈します。

その根拠として、
以下に、当時の度量衡の表
掲載致します。

小説を書いたり
フリーのゲーム・ソフトでも作る際には、

存外、小難しくて要領の得ない話よりも
こういう表の方が
重宝したりするものかもしれません。

戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、p1796の表より作成。

さて、これによれば、

秦漢の数字を使うと、

184cmという、
当時に比して栄養事情の良い
今日の常識でも在り得ないような
数字になり、

まして、それ以降の時代の数字など
問題外でして、

結果として、
消去法で周尺を使うこととなり
144cmが妥当であろう、と。

8、武器の種類とカテゴリー

8-1、カテゴリーと種類の概要

序に、武器の種類や長さについても
触れておきます。

実は、この武器というのも
結構種類がありまして、

そのうえ今日の怪しい中国武術との接点も
どうも断絶している部分があり、

概要の把握が面倒だと思った次第です。

ではまず、
そもそもの武器の種類
以下のヘンな表で確認することとします。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、学研『戦略戦術兵器事典 1』、篠田耕一『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

同表は、
各々の武器が盛んに用いられた時代
あらわしたものです。

また、伍の最前列で使用する短兵器と
2列目以降で使用する長兵器について、

目ぼしいものだけでも
これだけの種類があります。

因みに、
「〇兵器」というのは、
向こうの言葉で
武器のカテゴリーを示す言葉です。

この辺りの話は、
篠田耕一先生の
『武器と防具 中国編』
詳しいのですが、

長さで分ける長短の他、
火砲を火器、それ以外の兵器を「冷兵器」
呼びます。

弓については、
射兵器と呼んだり、
文献によっては長兵器であったりします。

そして、これぞ中国四千年の最大の奥義!

ウランかプルトニウムを必要とする
「核兵器」!!

―というのは冗談です。

少なくとも、
向こう100年は
こちらに飛んで来ないことを切に祈ります。

それはともかく、
各々の武器についても
流行り廃りがありますが、

それについては後程。

もっとも、どの武器も
春秋以前から存在したのでしょうが。

8-2、矛、戈、両者一体の戟

さて、武器の種類を確認したところで、
その長さの話に戻ります。

先述の『周礼』・考工記によれば、

長兵器については、
夷矛 3尋
酋矛 2尋2尺
車戟 1尋8尺

短兵器については、
殳 1尋4尺
戈 6尺6寸

と、なっております。
各々の長さの目安なのでしょう。

因みに、夷矛は戦車用の矛、
酋矛は歩兵用。

高速で動き回るものに対して
身を乗り出して打ち掛かることで、
戦車用の武器の方が長いのです。

また、矛と鈹の違いは、

矛は先端の金属部分がソケット式
柄の先に嵌め込みます。

鈹は、先端の刃を柄に
縄で結び付けます。

さらに、このという武器は、
戦国時代の刺突系の武器の花形でして、
秦の軍隊でも重宝されたそうな。

さて、刺突とは系統の異なる武器として、
戈は引っ掛ける武器でして、
これに矛を足したのが戟。

このは、実は、

古代中国の武器の中でも
恐らくは最大の汎用兵器でして、

三国時代まで第一線で活躍します。

戈も戟も、
短兵器・長兵器の双方が存在しまして、
短い方を手戟などと呼びます。

曹操の部下の典韋
振り回したり投げたりして
勇名を馳せたのもコレ。

その他、出土品は、
大体2、3メートルのものが
多かったそうな。

また、引っ掛けるタイプの武器が廃れたのは、
後漢・三国時代の重騎兵の台頭が
原因でした。

それまでの軽弓騎兵とは違い、
斬り掛かっても刃が立たなかったそうな。

【追記】

引っ掛けるタイプの戟が廃れたのは、前漢以降の

炒鋼法の確立により、斬撃が有利になったからです。

【了】

実は、既にこの時代には、
戟の形自体も
戟刺(柄の先端部分―後述)が
長くなっており、

戟の代わりに、

鈹や、新たに「槍」といった
刺突系の武器
脚光を浴びるようになります。

なお、武器の形の変遷については、
稿を改めたいと思います。

8-3、剣と環首刀

一方、短兵器については、

戦国時代までは、
戈や戟以外では
剣が代表格で、盾と併用されました。

しかしながら、漢代以降、

鉄の鋳造技術の発展・普及と
対匈奴戦における騎兵の武器としての需要から、

新たに、「刀」という武器が
剣に取って代わりました。

以前の記事でも少し触れましたが、

漢代に登場した刀は
環首刀と呼ばれるものでして、

これが、後漢・三国時代どころか
唐代まで命脈を保つような
ロングランの記録を叩き出します。

後、日本刀のルーツのひとつでも
あるそうな。

8-4、弓と弩の相違点

最後に、弓弩についてですが、

モノの本によれば、
同じ飛び道具でも
どうも運用が異なる模様。

と、言いますのは、

当時の
有効射程(殺せる距離)が100mですが、
どうもこれは曲射の模様。
また、1分間に10発弱射撃可能です。

その遥か後の、
何処かの島国における
平安時代の御所の門前での弓合戦も
大体数十m間隔の射ち合いでして、

人力で引く弓なんぞ
精々この程度でしょう。

一方で、
弦を引っ張るのに時間の掛かる弩は、

戦国時代のもので
最大射程が800m余ですが、

実戦では150mで撃ったそうで、
直射による有効射程はその程度でしょう。

射撃の間隔は
1分間に4、5発ですが、

実戦では、突っ込んでくる敵に対して
その半分も射ることが出来れば
御の字であった模様。

また、明代の兵法書『武備志』には、

弦を張る兵士、射手に渡す兵士、
そして、射る兵士と、

火縄銃の三段撃ちと同じような
役割分担が説明されていまして、

歴代の軍隊の運用も
こんなものだったのかもしれません。

それでも、
兵隊が弱い代わりに
道具を用いるのが大好きな
中国の戦争のこと。

大盾だの何だのと、

一方的に撃たれるのを防ぐ術もありまして、
白兵戦の比重は
相応にあったものと想像します。

8-5、後知恵で「連弩」を評すると・・・

余談序に、
かの諸葛孔明が考案したとされる
「連弩」という武器があります。

夢を壊すようで申し訳ないのですが、

実は、戦国時代の楚の墓から
プロト・タイプめいた現物が出土しまして、

孔明の発明、というよりは、
改良となります。

また、先生の手による「諸葛弩」の
明代の復元品では、

有効射程が僅か35m、
そのうえ、その距離ですら
鎧をブチ抜けなかったそうな。

当時の識者によれば、
盗賊(≒暴徒)対策に有効、ですと。

まあその、
そんなものが本当に有効であれば、

蜀に乗り込んだ
魏の鍾会や鄧艾等の連中が押収し、

孔明大好きで
当人を徹底的に研究した司馬氏
その功績を礼賛しつつ
量産して有効活用しますわな。

成都を落としてから呉の遠征まで
10余年の間があった訳ですから、

実戦配備にも間に合い、
戦果が史書にも残った筈です。

その意味では、

連弩の出来について
一番ガッカリしたのは、

開発者の孔明先生以外では、

存外、司馬仲達その人では
なかろうかと想像します。

―とはいえ、
銃の連射も、
可能になったのは19世紀の話。

実戦配備から何百年も経った後の
出来事です。

あの時代に
連射兵器の開発が
失敗に帰したからと言って、

恥になるような話でもありません。

話が長くなりましたが、
つまり、弓と弩の違いは、

弓は射程が短い代わりに速射可能で、
弩は射程・精度に優れる代わりに
速射には向きません。

事実、戦国時代の泣く子も黙る秦軍では、

弩は全軍の正面と側面に配置し、
開戦と同時に射撃を加え、

後方と歩兵と入れ替わったそうな。

詰まり、集中運用。

こういうのは、中原では、
大体、万国共通と拝察します。

そうなると、
弩が、近代軍で言うところの
砲兵であるとすれば、

伍に属する弓は、
歩兵部隊に配備された
迫撃砲や重機関銃のような
位置付けであったのかもしれません。

先述の藍永蔚先生によれば、
弓兵は戦闘中は
引っ切り無しに撃ちまくるんだそうな。

無論、両軍の最前列同士が
白兵戦に及んだ場合、

近距離の敵を、
隊列の隙間から
手当たり次第に
直射で撃ったものと想像します。

9、白兵戦の実相

9-1、実践?!敵兵の殺し方

ここまで、陣容や武器について
確認したところで、

いよいよ、
ゼロ距離での白兵戦における
命の遣り取りの再現を試みます。

まず、以下の怪しいイラスト
御覧下さい。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、学研『戦略戦術兵器事典 1』、篠田耕一『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

まず、最前列で短兵器を手にする兵士は
鎧を着用し、

戟や戈で相手の首を狙い、
もしくは体に打ち込んだりして
引き寄せて髪を掴み、

フィニッシュ・ブローとして
得物、もしくは刀剣で首を斬ります。

これに因みまして、

精巧な兵馬俑を参考に
秦の兵士のイラストを描く際、

以前から大きい襟
気になっていました。

と、言いますのは、

鎧の下に着込んでいると思しき
当時の普段着の襦の襟にしては
随分大きいことで、

その辺りのカラクリが
腑に落ちなかったのですが、

戟や戈の下刃で
首を引っ掛ける、
あるいは斬る仕組みを知ったことで、

その謎が氷解しました。

恐らくは、
これらの武器の対策として、

首筋を守るべく、

生地の厚い
軍用のマフラーのようなものを
羽織っていた可能性があります。

また、林巳奈夫先生によれば、

古代から明代までの成人男性は、
文明人の証として
髪を結う習慣があったのです。

さらに、先生が向こうで直に聴いた話によれば、

民国時代の喧嘩は
髪(辮髪)を掴まれた方が
負けなんだそうな。

9-2、武器と交戦距離の関係

ここで、後列の兵士は、
前列の味方の兵士を見殺しにする筈もなく、

後ろから長柄の武器で
敵の最前列の兵士を突き
味方の最前列の兵士を援護します。

長兵器・短兵器の
相関関係については、

『司馬法』曰く、
「長以衛短、短以救長」。

短兵器の兵士が窮地に陥れば
後ろの長兵器の者が助太刀し、

長柄の武器の者が
前列で打ち合う場合は、
短兵器の者が懐に入られるのを防ぐ、

―と、いったような意味なのでしょう。

当然、長短の武器の者のみならず、
弓兵も含めて、

交戦距離に応じて
三者を使い分けるのが前提の御話です。

例えば、

弩兵が退いた後に弓兵が斉射を浴びせ、
近寄ってくる敵を
まずは長柄の兵で迎え撃ち、

それでも、
少々の犠牲を厭わず
盾で防ぎながら突っ込んでくる敵に対して、

こちらも、
盾持ちの短兵器の兵士のスクラムで応戦し、

2列目に下がった長柄の部隊は、
隊列の隙間から武器を繰り出して援護する、
という具合です。

なお、故事・五十歩百歩と交戦距離の御話は、
もう少し論旨を整理する時間を頂ければ幸いです。

因みに、唐代の『太白陽経』では、
各々の兵士の間を2歩としておりまして、

当時の度量衡で考えると、
3.11mになるのですが、

武器の長さを考えれば、

その間隔は
交戦距離や戦況に応じて
相当に伸縮したのでしょう。

9-3、寸劇で応用力を養おう?!

この章の最後に、

こうした乱戦模様について、
少しでも理解を深めるために、
不出来な寸劇を用意します。

これを以て、
読者の皆様は、
「優」にてめでたく単位取得と相成り、

戦場での活躍により
軍功地主の仲間入りが叶うものと
存じ上げます。

―いえ、

サイトの主旨から考えれば、
読み飛ばされた方が
宜しかろうとも思います・・・。

さて、状況は戦国末期、
秦軍と楚軍の戦闘の場面。

両軍は既にゼロ距離の交戦に突入し、
一進一退の白兵戦の様相を呈しています。

中でも、
双方の中央に陣取る部隊の
秦軍の伍の最前列にいる毛と
楚軍の伍の最前列にいる蒋が、

息も詰まるような
互角の鍔迫り合いを演じていました。

その死闘の最中、

毛の隣の伍の最前列にいる劉、

―コイツは銭金の話が大好きで
奥さんが美人で、
序に毛と仲が悪いのですが、

さすがにこの時ばかりは、
毛に恩を売ろうと
蒋に斬り掛かります。

正面の二人を相手に俄かに
窮地に陥る蒋。

当時の感覚でも、
歩兵陣における疏散―つまり密度を
重要視しており、

『左伝』には、

「前後不相撚、左右不相干、
受刀者少、殺敵者衆」

と、あります。

(エラそうに説きますが、
別の文献の孫引きです。)

各々の兵卒が
前後左右で適度な間隔を保ち、

敵の攻撃の死角を狭めて
効率よく敵を殺すべし、

―という御話。

こういうレベルの技量は、
日頃の訓練と現場の指揮官の能力が
モノを言うのでしょう。

ところが、
楚軍もさるものです。

窮地に陥った蒋の後ろには
白という者が控えており、

―コイツは異民族出身で
蒋の子分で知恵袋ですが、

親分を救うべく、
蒋の後ろから劉を突いて牽制します。

その頃には、
毛、蒋、共に
捨て身の組み討ちに及んでおり、

両者共、
相手の髪を掴まんばかりに
互いの頭に手を伸ばしたまでは
良かったのですが、

ここで、思わぬ誤算が生じます。

―と、言いますのは、

毛の奴は尊大でハッタリ好きで
オマケに女性関係にだらしなく、

一方、蒋の奴は
説教臭い癖に謀略好きなことで、

両者共、
日頃から上官に睨まれているのは
勿論のこと、

揉め事を起こして
軍法で髡刑でも喰ったのか、

掴むに足るだけの髪がありません。

毛の奴は後頭部に多少残るだけで、

蒋の奴に至っては、
文字通りの潔い禿。

毛の奴も、蒋の奴も、

互いに相手の眩い頭にたまげて
「哎呀!」と絶句し、

掴むべき髪どころか、

頭皮がむき出しになった頭頂部を
優しく撫で合う以外に、

打つ手がありません。

一方で、
劉の伍の真後ろで長柄を構える鄧や、
さらにその後ろで弓を構える
江や胡―コイツ等も戦よりも銭金が好きな連中、

そして、
前の3名とは異なり、
武芸は達者だが無駄にエラそうな
伍長の習も、

最前列での珍妙な遣り取りに対して
笑いを堪えるのに必死の模様。

ここで、あまりの間の悪さにより、
育毛剤のCMが入ります。

これ以上やると、今度こそ、
サイトの主旨から外れそうなことで、

以後の展開は、
読者の皆様の御想像に御任せします。

おわりに

最後に、今回の御話の要点を整理すると、
概ね以下のようになります。

1、伍は古代中国における最小戦闘単位で、
歩兵5名で縦隊を編制する。

2、春秋時代は、村単位で伍を供出し、
県単位で戦車1両と100名前後の歩兵として
編制された。

3、春秋時代の後半から、
歩兵の性質が戦車の指揮下の歩兵から
独立した戦闘部隊へと変化した。

4、伍の主要なパターンは、以下。

最前列が鎧を着用した短兵器の兵士、
2列目が長柄の武器を持った兵士、
3・4列目が弓兵、
5列目が盾と長柄の武器を持った伍長

ただし、これ以外にも、
様々なパターンが存在した。

5、交戦距離に応じて武器を使い分けたが、
各々の武器には時代に応じて
流行り廃りがあった。

6、敵兵の殺し方としては、

戦国時代辺りまでは、
相手の首を引っ掛けるか体に打ち込むのが
主流であったが、

後漢・三国時代には
突くのが主流になっていた。

そして、双方対処可能な戟が重宝した。

7、弓と弩の運用は恐らく異なり、
弓は歩兵の兵器として
かなりの近距離でも使われた可能性が高い。

【主要参考文献(敬称略・順不同)】
藍永蔚『春秋時期的歩兵』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
『三国志軍事ガイド』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
学研『戦略戦術兵器事典 1』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』
『図説 中国文明史 5』
浜口重國『秦漢隋唐史の研究』上巻
高木智見『孔子』
浅野裕一『孫子』
湯浅邦弘『概説中国思想史』
蘇哲『魏晋南北朝壁画墓の世界』

カテゴリー: 兵器・防具, 軍制 | 5件のコメント

漢王朝の宮中政争の切り札・尚書 ~前漢編

例によって無駄に長くなったことで、
以下に章立てを付けます。

適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

 

はじめに
1、そもそも尚書とは?
2、外戚と宦官の暗闘と地方軍閥
3、董卓政権の行方
4、董卓政権を採点する?!
5、魏蜀と尚書
6、尚書はタダの事務職か
7、前漢の大転機、呉楚七国の乱
 7-1、勝者の機構改革
 7-2、古代王朝の御約束、「外朝化」
 7-3、王国が手放した機能とは?
8、武帝の反面教師・始皇帝
9、強い王朝ありきの尚書の威力
10、武帝は政務をどこで執ったのか
11、機密の把握と公文書の取り扱い
12、因縁の対決、宦官 対 外戚
13、『塩鉄論』のナナメ読み
 13-1 不毛な「政策論争」の争点
 13-2 で、実際、何が書かれているのか
 13-3 対決!銭ゲバ官僚 対 腐れ儒者
14、天子様の本気!平尚書事と中書令
15、宮廷三国志、出る杭ならぬ、士人は討て?!
16、外戚王氏の勝利と簒奪への布石
17、簒奪前夜の王莽の肩書
おわりに

 

 

はじめに

今回は漢代の尚書についての話。

やってることが戦争から随分遠くなっていますが、
政府の権力構造も軍の戦力の一部だと
サイト制作者に無理やり暗示を掛けることとします。

で、そもそも、
こういうことを調べ始めた理由は、
尚書が北伐をやった
孔明の政治力の泉源のひとつだからでして。

とは言うものの、

こういう皇帝権力の中枢の関するハナシ
当然の如く先行研究が分厚い訳で、

早い話、
サイト制作者の手に余るものです。

そのような事情につき、

横着で先生方に失礼な手法で
恐縮だとは思うものの、

手元にある論文をつまみ喰いして
さわりの部分を紹介する程度に留め、
例によって無責任な感想を付け足します。

 

二千年弱経過していることと
売名にも貢献することで、

時の英雄の皆様も、
広い心で笑って許して頂けると信じます。

 

ただ、王朝の権力闘争の本丸であり、

受験生泣かせの小難しい中国王朝史の
本質的な部分でもあり、

三国志の英雄諸氏も
漢代の一連の政争を
最良の反面教師として
(扱いに失敗しても)いることで、

このテーマに少しでも興味を持って頂ければ
綴る目的を達成したということに致します。

 

 

1、そもそも尚書とは?

 

さて、尚書とは、
皇帝の詔書を下達
臣下の上奏を皇帝に伝達する仕事。

簡単に言えば、

皇帝と臣下の間に入って
伝言ゲームをやるという
「カンタン」な御仕事です。

当然、皇帝陛下の御意思を忖度しないと
御叱責を賜る訳ですが。

ところが、
「カンタン」な御仕事程
応用が利くものでして、

 

もう少し言えば、

職権を乱用して
自分達に都合の悪い上奏文を
握り潰すケースも
往々にしてある訳です。

 

したがって、

前漢の武帝時代以降、後漢末期まで、

皇帝権力の強大な
漢代の政府中枢の権力闘争では、

常に、このポストの掌握が
勝敗のカギを握っていました。

 

その大体のパターンとしては、
本命の外戚(皇后の家族や親族)・宦官
そしてダーク・ホースである士人官僚
三つ巴の争奪戦。

 

 

2、外戚と宦官の暗闘と地方軍閥

 

序に言えば、

三国志の序盤の悪の主役である
張譲等、十常侍は、
実は、こうした政争の勝者でして、

政敵の牙城であった尚書を
骨抜きにします。

ですが、その頃には、
中央政府の権威は失墜していまして、
どうやら宮中の政争自体が
意味を持たなくなります。

 

もう少し具体的に言えば、

地方の軍隊を動員した政敵の外戚・何進
先手を打ってその何進を倒した宦官勢力
共倒れ状態になり、

何進に呼応した
一介の地方軍閥である董卓
この権力の空白を突いて
洛陽を掌握したのは御承知の通り。

 

 

3、董卓政権の行方

 

董卓の政権掌握が意味するところは、

それに呼応した董卓が
中央の権力の空白を突いたこと以外にも、

(そもそも、何進が
地方の軍隊に触手を伸ばしたとはいえ)

中央の政争に地方の軍隊を巻き込むという、

(王莽関係の兵乱を除いて)
何百年続いた中央の政争のルールが
根底から覆るレベルの番狂わせ
現実に起こったところに意味がありました。

 

ところが、董卓にしてみれば、
如何に漁夫の利を得たとはいえ、

宮廷や地方官、
そして、その金脈である地方豪族にコネのある
外戚や宦官がいないことで、

国政運営にあたって、
扱いの面倒な士人官僚と
連携せざるを得なくなります。

果たして、
コイツ等を登用して地方官に起用するや、

胡軫や徐栄のように自分に味方する者もいれば、
袁紹の門生故吏(官界の縁者)である韓馥のように
むこうに走る人も少なからずいる、

という具合でして、

結局、泥沼の戦争になり、

名ばかりの遷都、
要は、都落ちを余儀なくされます。

 

 

4、董卓政権を採点する?!

 

董卓の一介の軍閥の権謀術数としては、

長安への撤退は
軍事的には必要な措置であり、

政策的には
諸侯の離間策として成功したとはいえ、

 

洛陽での権力掌握後の
一国の中央政府の行う政策としての
文脈から考えれば、

諸侯の利害の調整に失敗して
兵乱を招くこと自体が、

政治力の限界を露呈していると
言わざるを得ません。

 

一方で、董卓以外の
地方の群雄にとっても、

要は、黄巾の乱から宮中抗争の過程で
諸々の地方官や豪族が色気を出して
兵馬の抗争に乗り出したのは、

地方の兵馬で中央の権力を掌握出来る好機、

あるいは、地方レベルであっても、
「実力」で既存の秩序をひっくり返す好機
到来する機運が
この上なく高まったからでしょう。

 

 

5、魏蜀と尚書

で、こういう政争・兵乱の元凶である尚書は、

何処ぞの映画のように
パンドラの箱にでも封印されたかといえば、
当然そのようなことはなく、

と、言うよりは、

こういう箱を作っても
開ける奴が必ずいるのが
人間社会の真理と言いますか、

官房組織の有用性と職権乱用とは
別の話と言いますか。

 

事実、曹操は、一旦は
尚書のヘッドの録尚書事になっていますし、

特に、後漢の亡霊のような蜀漢では、
滅亡前夜まで
尚書は権力の中枢で在り続けました。

孔明以下、歴代の権力者は、
悉く録尚書事の肩書を持ちます。

 

蜀漢特有の事情としては、

御飾りでも相応に賢い皇帝様や、
侍中(後漢の官職)の肩書を持つ
荀彧のような有能でもカタブツな漢臣のいる
曹操政権とは異なり、

曹操のように、
既存の王朝を
制度面からなし崩しにするような
面倒な細工が必要なかったのでしょう。

 

恐らく次回に詳述しますが、

サイト制作者の愚見としては、
後漢王朝の最盛期の制度を
イイトコ取りした側面を強く感じます。

因みに、曹操や孔明の時代は、
尚書からは外戚も宦官もパージされ、
骨太の士人官僚が担い手でありました。

 

その意味では、

戦時下の必要措置とはいえ
能力主義に特化した理想の人的配置であったと
言えるかもしれません。

特に曹操なんか、自分の祖父が宦官で
当人が後漢の政争でエラい目を見たこともあり、

外戚を政権中枢に入れないスタンス
明確にしていたようです。

 

 

6、尚書はタダの事務職か

 

前置きが長くなって恐縮ですが、
以後、尚書の歴史や機能について
綴ることと致します。

まず、漢代の尚書の仕事は、
識者によれば、簡単に言えば、
以下のふたつだそうで。

 

即ち、
1、天子の詔令、臣下の上奏を司る。
2、枢機に預り綱紀を統べる。

 

要は、皇帝様の命令書を臣下に配布し、
臣下からの意見書を皇帝に渡すこと、

そして、皇帝を中心として
国家の中枢で政策を考え、
規律を正すための法律を出す、

―という話だと思います。
(大丈夫かしら、こういう理解で。)

 

つまり、皇帝の側近として、

1、のような事務仕事に加え、
2、のような管理職の頭脳労働もある、
という部署。

 

言い換えれば、皇帝に力がなければ、
今日で言えば、どこの会社や役所にもあるような
一介の秘書業務という具合。

外戚と宦官が一族の存亡を賭けて
争奪戦を繰り広げるような
価値を見出すことは出来ません。

 

 

7、前漢の大転機、呉楚七国の乱
7-1、勝者の機構改革

 

前漢の建国当初も、

長安の政権が
呉楚七国の乱を鎮圧するまで
各地の王国の王様が
広大な領地を支配しており、

しかも、それぞれの王国
旧戦国時代の王国と同じ権限
持っていたことで、

皇帝の権力は、実は、
それ程強かった訳ではありません。

言い換えれば、

世界史の授業でいうところの
「郡国制」の「国」の力が
桁違いに強かったのです。

 

その理由のひとつは、

反秦で結束した諸侯の大義名分
秦によって滅ぼされた国の
再興にあったからでした。

 

ところが、
この乱の鎮圧によって
漢の皇帝の力が俄かに強大になりまして。

王国の領地の大半を
直轄地である郡に変えたばかりでなく、

王国から、

当時の中央政府の職務である
御史大夫(監察)・廷尉(法務)・
少府(宮内関係の業務)・
宗正(皇帝の親族に関する職務)の権限を
召し上げます。

 

特に、御史大夫・少府は、
元は王が側近に諮問して
政策を立案・公布する部署でして、

御史大夫の監察の御仕事は、
官房関係の職務から
派生したものだそうな。

 

 

7-2、古代王朝の御約束、「外朝化」

 

もう少し言えば、

戦国時代以降の官制の流れで言えば、
御史大夫も尚書も、実は、
少府から派生した経緯があります。

 

因みに、
古代中国の王朝の官制における
御約束のひとつに、

元は皇帝の側近として、

蛍光灯の取り換えから
暴〇団との付き合いまで
イロイロやっていた総務な部署が
専属の仕事を持った途端、

権威こそ上がるものの
権力の中枢(≒立法機関)から外れ、

それと並行して
次の何でも屋が現れ、
皇帝の威を借りて実権を握ります。

手に職が付くと、
却ってエラくなれないという皮肉。

 

大きい組織では、
技術屋が事務屋に使われる構図の
本質なのでしょう。

のみならず、
この時代の尚書や唐代の六部等も
そうですが、

官職名と実際の仕事が
時代ごとにどのように変わっているのかを
吟味することが肝。

こういう類の官制の変遷を、
専門用語で
「外朝化」とか言ったりするそうな。

 

 

7-3、王国が手放した機能とは?

さて、戦争に負けて
長安の政権に
頭が上がらなくなった王国では、

御史大夫や少府のような、
王朝の設立・運営に必要な
重要な組織を取り上げられます。

そして、その代わりに、
中央政府の息の掛かった相(丞相を改称)
送り込まれ、

この地方官が
内史(王都の行政を担当)、
中尉(王都の軍事・防衛を担当)、
郎中令(王の身辺警備を担当)、
太僕(王国の車馬の管理を担当)、
を統率するのですから、

王にとっては、
謀反を企てようが登楼してハメを外そうが
何をやるにも中央政府に筒抜けでして、

 

誤解を恐れずに言えば、

要は、「国」は、
宗室・劉家の、
態の良い捨扶持に改編されたという訳です。

無論、実質的に牛耳るのは、
長安の息の掛かった地方官。

 

実質的な郡県制と称されるのは
以上のような行革が背景にありまして、

さらには、この構図は、

王莽関係のゴタゴタの時期を除いて、
大体は、後漢滅亡まで続きます。

 

因みに、曹操の官歴のひとつ
「済南国の相」というのがありますが、

郡レベルのチンケな王国に派遣され、
王族を監視しつつ
行政を見るという御仕事。
(多分、これで間違っていないと思います。)

 

 

8、武帝の反面教師・始皇帝

そして、上記のように
皇帝の権限が強くなり、

そのうえ、
うるさい太后や老臣が
政治の一線から引いたタイミングで、

外征だの増税だの、
儒教を国教化して
それをダシに人事制度の改変するだの、
カルトに凝った皇太子を手に掛けるだの、

イロイロやったのが、
有名な武帝でした。

 

既に御気付きの方がいらっしゃるかと
思いますが、

さて、これに酷似した状況、
少し前にもあったかと。

そう、かの有名な、
『キングダム』の始皇帝様が
一気呵成に統一を成し遂げた直後のそれ。

 

ですが、
物事が早く進み過ぎたことに対して
その処理が追い付かず、

結局、クソ真面目な始皇帝が
オーバー・ワークで倒れた後、

やることなすこと後手に廻り、
そのうえ政権の腐敗にも自浄作用が働かず、

結局、僅か15年で国が滅びました。

 

ですが、始皇帝の政策の
セッカチな進め方は賛否こそあれ、

中央集権体制を志向したこと自体は
間違っておらず、

呉楚七国の乱の戦後処理が
それを物語っております。

いえ、集権体制の方向性どころか、

秦の制度の大半を
アク抜きしてイイトコ取りしたのが
建国当初の漢。

当時の官職名に
秦制の横滑りが多かったのは、
そうした事情が背景にあります。

 

大体、人間社会において、
権力を握ったヒトが考えるのは、
まずは自分の裁量を増やすことです。

職務上、
入って来る情報量が多いことで、

早急になすべきことが一気に増えて
焦るからだと思いますが。

 

余談ながら、
一説によれば、

球界の盟主を自称する
某球団の名ショート、
今や球界の元老格ですが、

自分の現役当時の監督を、

現役時代に練習時間の大半を
打撃に注ぎ込んだ我儘ぶりと、

監督としての
チーム・プレイを強要する采配との矛盾を
クソミソにけなしていたものの、

(年配の方の御話ですと、
当時のプロ野球は、勝手にマウンドを降りるなど
ベテランの名選手がムチャクチャやっていたようで、
客としてはそれが面白かったそうな。)

自分が監督になるや、
「管理野球」なる集権体制で臨み、

今度は選手や記者から、
自分は肉食で選手はダイエットという具合の
現行不一致を叩かれる羽目になりました。

中国の戦国時代の名のある兵家が
寝食を兵隊と共にした故事を
思い起こされたく。

まあその、要は、

自分が権力を握った途端、
あれだけ嫌った恩師と
同じことをやり始めた訳です。

―ただし、この方は、
監督としての実績は
見事なものであり。

因みに、
現役時代の「管理野球」の人を管理した人は、
旧帝國陸軍の戦時中の下士官―少尉殿でして
数年前に鬼籍に入られた方ですが、

指揮下の兵隊を暴力でシゴき、

戦後、大御所の某俳優から、
あの人は人間的に信用出来ない、だとか
ボロクソに言われておりました。
(もっとも、この方も当時から態度が大いことで
よく上官から殴られたそうですが。)

当時は殴るのが当たり前でしたが、

他の方も、
下士官時代のこの方の鉄拳制裁は
凄まじかったと
書いていることで、

当時の水準でも
余程のものだったのかもしれません。

ただし、その方の手記では、

確か、親族の葬儀で勝手に抜けた兵隊を
殴った後で、「二度とやるなよ」と諭し、
軍法には問わなかったという具合に、

血も涙もない人ではなかった模様。

まあその、

終戦後、
兵役に就いた知識人が公の場で
当時の上官をボロクソに言う例に
枚挙に暇がないのは、

要は戦争に負けて
組織の権威が失墜したからです。

フォークランド紛争も、
それまでコンドル作戦とかやって
威張っていた軍事政権が倒れたことで、

それまで反政府運動や従軍で
ひどい目に遭った人が
言いたい放題言っていますね。

でも、国家はカネの勘定がマトモに出来ず、
サッカーでは散々にやり返す癖に。

中国序に、
『少林サッカー』の「サッカーは戦争だ」は
映画の文脈では半ば冗談にも見えますが、

一面では、個人的には真理だと思います。

こぼれ話を纏めますと、

情報と裁量と時代の空気の話で、
何かの参考になる、訳がありませんね。
失礼しました。

 

 

9、強い王朝ありきの尚書の威力

―話がかなりヘンな方向に飛んだことで、
武帝と尚書の話に戻します。

とはいえ、
俄かに権力が転がり込んで来た
ということは、

同時に、
管轄部署に対して事細かな命令を出したり
膨大な予算を執行したりと、

義務としての仕事も
膨大に増えることを意味します。

そこで、武帝が始皇帝の失敗を踏まえて
何をやったかと言えば、

今回のテーマ、
尚書の活用であります。

 

具体的には、

元来、
皇帝に関係する公文書を
扱う部署に過ぎなかった尚書を、

権力の中枢の諮問機関に改組して
大いに利活用します。

もう少し言えば、

自分の志向する政策の完成度を高めて
的確に下達させる仕組みを整えた訳です。

このあたりの経緯は、
読み易い本としては、

 

冨田健之先生の
『武帝 始皇帝をこえた皇帝』
(山川出版社 世界史リブレット012)

 

に詳しく記されております。

因みに、
武帝時代の直前頃には、
尚書令―丞(役人のランク)―尚書、
という職階があったそうな。

また、冨田先生は他の論文で曰く、

武帝以降、後漢末までを通じて、
外戚と宦官の職権乱用があったとはいえ、

尚書の役割は、
基本的には変わらなかったそうな。

 

 

10、武帝は政務をどこで執ったのか

 

これ以降、前漢末までの
尚書関係の権力闘争の経緯については、

鎌田重雄先生の御論文、
「漢代の尚書官
―領尚書事と録尚書事とを中心として―」
(『東洋史研究』 第26巻・第4号)

に詳しいので、これを中心に綴ります。

 

因みに、この号、
かなり古い雑誌ですが、

大庭脩先生の『前漢の将軍』等、
他の論文も
大御所の先生が御書きになった
春秋秦漢の戦争関係の面白い論文が多く、

ゲーム狂いのサイト制作者としては、
大当たりの号だと思います。

 

後、人文系の論文が
何十年も読まれる(引用される)
理由のひとつは、
先生方の学識の豊富さ以外には、

それだけ研究者が喰えない
≒書ける人が少ない分野だからです。

 

さて、武帝の肝いりで改組された尚書ですが、

理想に燃えた皇帝様の
清く正しく美しい組織かと言えば、

一面では、どうも、そうでもなく。

―と、言いますのは、

武帝がどこで政務を執ったかと言えば、
事もあろうに、後宮だったりします。

そう、皇帝の奥様の話になれば、
必ず登場するのが宦官というのが
中国の王朝の御約束のひとつ。

 

言い換えれば、この時点で、

士人官僚が政治の中枢から
締め出されます。

 

 

11、機密の把握と公文書の取り扱い

 

この辺り仕組みを、
もう少し詳しく触れますと、

まず、「謁者」という官職があります。

この官職の役割は、以下のふたつ。

 

1、賓客を助け、天使の命を受けて、
その使者になります。

2、章奏=上奏文を皇帝に奉り、
皇帝の下問を当該の官に伝えます。

 

要は、皇帝と臣下・賓客の間を
取次ぐ御仕事です。

この謁者を率いるのが「中謁者令」。
「中」中人、つまり宦官
「令」は部署の責任者の意。

この中謁者令に尚書の職務を加えたのが、
「中書謁者令」。

そして、この略称が、「中書令」。

序に、その次官である「僕射」
置かれます。

 

そして、かつてないレベルの
強大な国政権限を持つ皇帝
外部の人間との取次役が
全員宦官であり、

皇帝様が目を通す
公文書の遣り取りのみならず、

いつの間にか
国家の機密にも参画したのが、

当時の尚書の特徴でした。

 

そして、この御仕事の醍醐味である
公文書の取り扱いですが、

まず、上書者(犯罪者でも出来ます!)は、
正・副と2通作りまして、

次に、これを受け取ったクソな宦官共の場合は、
まず副書を開封し、

書式に沿わないもの、
そして、内容如何によっては、
上奏しません。

コレがミソ!

要は、自分達に都合の悪いものは
職権を乱用して握り潰す訳です。

 

―で、次の昭帝の代には
中書令は置かれませんでしたとさ。

 

 

12、因縁の対決、宦官 対 外戚

 

そして、権力闘争の流れが
真逆のベクトルに振れたのが、
次の宣帝の時代。

 

何があったかと言えば、
以後の宦官の宿敵である外戚の台頭です。

 

具体的には、
この時代には、

匈奴相手の外征で大功を立てた
霍去病の異母弟である霍光が、

大司馬・領尚書事として、
政治の実権を握ります。

因みに、領尚書事とは、
臨時の尚書の責任者です。

 

―が、実際には終身でやる訳でして。

 

尚書の実務の担い手は宦官か士人かは
分かりませんが、
統括したのはこの人だったのでしょう。

数ある肩書の中での
宮中における政治力の泉源は、
この「領尚書事」でした。

 

 

13、『塩鉄論』のナナメ読み
13-1 不毛な「政策論争」の争点

 

余談ながら、
この霍光の時代には、

匈奴との対峙を続けるうえでの
戦費を捻出したい
御史府の桑弘羊との政争がありました。

桑弘羊は、御存じ、
塩・鉄の専売その他、
辺境の屯田等による歳入増加を
企てており、

国庫の収支の安定に
大きく寄与しました。

 

ですが、国民のウケは悪く、
当時の経済官僚は
「酷吏」と蔑まれていました。

 

御史大夫の役職にあったのは、
捜粟都尉や大司農等の
財務畑を歩いた後の、

謂わば、
上がりの肩書とでも言いますか、
前漢の執行機関の最高位である
三公のひとつ。

 

対する霍光は、

こうした強引な経済政策によって
収奪を受けた商工業者の
不満の受け皿としての
バラマキを志向しておりました。

 

で、恐らく霍光が仕掛けたであろう、

政敵に役人志望の書生をけしかけて
両者の間で不毛な論戦を繰り広げる、
という、

くだらない茶番を、

殆ど同世代の知識人が
議事録風に脚色したのが
有名な『塩鉄論』。

 

 

13-2 で、実際、何が書かれているのか

 

で、サイト制作者も、
当時の庶民の生活が分かるというので

「三國志」シリーズのように
少しばかり「政治力」でも上がるかと期待して
わざわざ(中古で)買って読んだのですが、

確かに、
争点が明確な論争だけに、

政策論や当時の世相から、
儒家の答弁のロジックから、

イロイロと為になる話も
記してあるものの、

読み物の論旨としては失笑モノ、
というのが、
サイト制作者の率直な感想です。

 

もう少し言えば、

リアルな遣り取りが
2000年弱も残ったことに
意味がある、という類の御話。

 

具体的には、

役人候補生の書生連中が、

現役バリバリの敏腕官僚相手に
マトモな対案もなく儒家の理想郷を問き
散々に論破されるという、

どうしようもない
話がダラダラと続きます。

 

今日で言えば、

政党御抱えの
記者や言論人が
国会や公聴会での議事録の
かなりアホな部分を
摘まみ喰いし、

「御史大夫は返す言葉がなかった」だとか、
応援勢力が優勢なように
脚色・編集した類の文章に見受けます。

 

それでも、

具体的な政策論が
書き物の大半を占めていれば
面白かったのですが、

儒家の愚昧な説教が
ページの大半を占めており、
個人的にはかなり辟易しました。

このサイトで
無駄話が多いようなものです。

 

 

13-3 対決、銭ゲバ官僚 対 腐れ儒者

もっとも、時代が時代だけに、

ライターの楊寛が
霍光の悪口が書けなかった事情も
あるのかもしれませんが。

あるいは、
桑弘羊に恨みでもあるのか。

で、その一幕を紹介しますと、

桑弘羊その他の財務担当者が、
前線では将兵が物資に事欠いている、
と言えば、

賢良・文学が、
徳治を行えば匈奴は自ずと降伏して来る、
戦費で民を苦しめるな、と、
反論します。

 

当然、この人達は富裕層の出の癖に
清貧を説き、

一方で、
恐らくは、彼らの実家が
桑弘羊の政策で打撃を受けてまして、

桑弘羊らもその辺りの経緯を熟知しています。

 

で、桑弘羊が、
孔子やその弟子が
身の処し方を誤って赤貧を洗って
開き直っているとか
(かなり笑える)悪態を突き、

対する賢良・文学は、

現職の官僚共は人品卑しく
政策の内容も相応なものだ、と、
やり返すという、

毒にもクスリにもならない泥仕合。

 

後、桑弘羊が
書生共のあまりに抽象的な議論に
ガチで切れるのには
説得力がありまして。

 

 

13-4 剣は実は、ペンよりも強し

 

さて、この政争の結末は、
外戚・霍光の勝利に帰します。

桑弘羊等が担ぐ王族が
ヘタを打って誅殺され、
その煽りを喰って殺されるという
何とも呆気ないオチ。

 

ですが、
財務官僚の本懐とでも言いますか、

歳入強化策のかなりの部分は、
その後の政権が引き継ぎます。

 

話がかなり尚書から逸れて恐縮ですが、
ここで注目すべきは、

立法機関である尚書を牛耳った外戚が
執行機関の敏腕官僚の一派を
政争で一網打尽にしたという展開。

 

これはサイト制作者の推測ですが、

機密レベルの情報統制の権限が
そのまま政治力に直結したのでしょう。

 

いつの時代の首都での政争も、

大抵は、情報担当部署と
それから派生した治安を握った者が
勝つもので。

 

とはいえ、さしもの皇帝様も
一連の政争で思うところがあったのか、

目障りな外戚を除きに掛かります。
まさに、霍光にとっての
「ラスボス」の登場。

 

 

14、天子様の本気!平尚書事と中書令

 

宣帝は手始めに、

于定國・張敞というふたりの役人
平尚書事に起用し、
霍光を牽制します。

「領」尚書事を「補佐」する
「平」尚書事、

補佐とは名ばかりの監視役、
と、いったところでしょう。

 

余談ながら、
この種の内訌が再発するのは、
実は、随分後の蜀「漢」だったりしまして。

後に、「領」尚書事が常職として格上げされて
「録」尚書事になり、
これに姜維が就任し、
(孔明以後、歴代の政権担当者の御約束!)

対して、
後方勤務の「平」尚書事の諸葛瞻が
前線の姜維に掣肘を加える、
という、何とも穏やかではない構図。

 

さて、話を前漢の尚書に戻しますと、

宣帝の霍光への牽制は
これに止まりません。

何と、中書令を復活させ、
これを経由した皇帝への上奏を
許可します。

 

つまりは、
それまで霍光が
尚書の権限で
皇帝への上奏文を
残らず検閲していたのが、

バイパスが出来たことで、

霍光の弾劾文が
本人の与り知らぬところで
皇帝の目に触れる、

いえ、もう少しハッキリ言えば、

霍光の悪口(失脚させる材料)が、
カンタンに
皇帝の耳に入るにようになった訳で。

 

当然、霍光は怒り狂い、
こういうのが史料にも残りますが
どうにもなりません。

果たして、これが決定打になり、

追い詰められた霍氏は
息子・禹の時代に謀反を企て、

カウンター・クーデターで
一族が誅殺されます。

 

そう、宦官を使って外戚を叩くという、
皇帝様の対外戚の政争における
常套手段の実践。

無論、その後、
宣帝は親政を行い、
領尚書事を置きませんでした。

 

そして、今度は、
その揺り戻し
宦官の時代がやって来ます。

―余談ながら、
軍のトップの「大司馬」という官職、

元は皇帝の側近の
内朝(≒立法機関)官である太尉で、
劉邦の悪友の周勃等が就任しています。

で、宣帝は霍禹から兵権を取り上げるべく
大司馬から将軍号を取り去り、

以後、政権の(オトナの)事情で
将軍号があったりなかったりと
理解の面倒な官職なんだそうな。

その後、後漢に太尉が復活し、
周瑜の親族の先祖が就任したりします。

 

 

15、宮廷三国志、出る杭ならぬ、士人は討て?!

さて、親政を始め、
領尚書事を置かなかった宣帝ですが、

末年には皇太子(後の元帝)を
補佐させるべく、

蕭望之・史高・周堪の3名を
領尚書事に任命します。

 

蕭望之の肩書は
前将軍・光禄勲(郎中令)、
さらに、皇太子の教育係である太傅を
8年経験しています。

剛直な性格が災いして
霍光に嫌われたという硬骨の士。

 

史高は外戚で大司馬・車騎将軍。
周堪は光禄大夫。

 

つまり、3名とも、
兵権、あるいは、
皇帝の警護役である郎官に影響力をもつ
人物という訳です。

 

また、周堪太子少傅として
蕭望之と共に
皇太子の教育に当たっており、

このふたりは、謂わば、
元帝の側近とも言うべき
存在でありました。

 

ここに、領尚書事の3名には、
外戚対皇帝側近の士人官僚という
構図が見て取れる訳でして。

 

加えて、宣帝の重用した
中書の宦官の動向も見落とせません。

当時、中書令には弘恭、
僕射には石顕がその任にあり、

宣帝の逝去後には
中書が外戚の史高に接近します。

 

結果として、
霍光の時代と同じく、

蕭望之の担いだ皇族が墓穴を掘り
当人は自殺し、周堪も免官されます。

史高も後に免官され、
さらにその後、弘恭は病死。

その後は、
政治は石顕の率いる
中書令の独断場となります。

士人の率いる尚書令も、
中書令の影響下にある、
という具合です。

 

 

16、外戚王氏の勝利と簒奪への布石

ところが、国政を牛耳った
宦官政権にも弱点がありまして。

何かと言えば、
皇帝の代替わり。

次の成帝の時代には、
外戚・王鳳が
大司馬大将軍・領尚書事に就任し、

石顕中太僕、
そして長信中太僕「栄転」させます。

俸給を意味する秩禄では
中書令が600石、
長信中太僕が2000石と、
3倍以上値の俸給を貰える計算になります。

―とはいえ、政争時の
政敵の指示する「栄転」なんぞ
実権を剥奪する名目に過ぎません。

この「栄転」は、
情報統制の権限のある中書から
車馬の管理部門へと放逐することを
意味します。

 

果たして、その途端、
外朝の丞相・御史大夫から
自分の悪事を上奏され、

自分の息の掛かった部下諸共
免官の憂き目を
見ることと相成りました。

 

そして、石顕は
帰郷中病死し、
この外戚対宦官の政争に
終止符が打たれました。

 

ところが、この外戚の勝利は、
実は、これまでの叩き合いとは
趣を異にしていました。

と、言いますのは、

この一族が、
まずは目障りな宦官共を
政府の中枢から締め出し、

そして、なんと、
事もあろうに
「ラスボス」皇帝に
「挑戦」(=簒奪を企図)する訳でして。

 

まずは、政争の戦後処理について
見ていくこととします。

王鳳は尚書の改革を行いますが、
要点は、以下のふたつ。

 

1、尚書令―僕射―尚書4あるいは5名、
2、中書宦官の廃止

 

補足しますと、

1、で、尚書内の指揮系統を整え、
末端の尚書は、
各々、「曹」という担当部署をもちます。

2、は、言うまでもなく、
尚書の職務からの宦官の排除を意味します。

 

 

17、簒奪前夜の王莽の肩書

さて、この王鳳の甥に、
王莽という人がいまして、
むしろ、この人の方が有名でしょう。

この人は大司馬・領尚書事として
政治の実権を掌握したのですが、

 

この時代の大司馬は、

紆余曲折あったものの、

最終的には、
将軍号がない代わりに
位は司徒(丞相)より上となり、

一方で、皇帝の側近を意味する
内朝官を統率する立場にもありました。

 

因みに、三公は、
成帝の時代に
大司馬・丞相・大司空、

その次の哀帝の時代に
大司馬・司徒・大司空、と、
それぞれ改称されましたが、

丞相(司徒)・大司空は
外朝官(≒執行機関)で、
大司空は改称前は御史大夫。

また、成帝の時代には、
三公のうえに太傅が置かれました。

 

余談ながら、
丞相の指揮下に「九卿」という
今日で言うところの
国務大臣級のポストがありまして、

ややこしいことに、
その九卿のひとつの「少府」の中に
尚書があるのですが、
何故か、これは内朝官だったりします。

 

さて、王莽の肩書の話に戻りますが、

王莽は、
大司馬として内朝官を率い、
領尚書事として政策の枢機に預ります。

 

そして、ちゃっかり、
簒奪後には、
太傅の領尚書事との兼任を禁止します。

当時、現任の太傅に釘を指したのは
かつての蕭望之の存在が
脳裏を過ったのかもしれません。

 

また、三公を凌ぐ官と領尚書事を
敢えて切り離すことが意味するのは、

やはり、権力掌握のキモは
領尚書事にあったことです。

 

因みに、
太傅と尚書のトップ(録尚書事)の兼任が
常態化するのは
後漢時代の御話。

 

余談ながら、
この人は極めてマジメな儒者ですが、

幼少期の苦労もあってか、

権力を守るためには
我が子もひとりならず手に掛けるし、

カルトに頼ってでも
政敵の追い落としに躊躇しないという
非情で権力欲の強い人でもありました。

 

 

おわりに

本当は、
今回で後漢までやりたかったのですが、

無駄話が多くなったうえに、

サイト制作者の理解不足も祟り
想定外に長くなり過ぎたことで、

ここで、一旦打ち止めと致します。

 

最後に、例によって、
御話の骨子をまとめることとします。

 

1、尚書とは、本来、
王・皇帝と臣下の間を往来する公文書を
取次ぐ官職であった。

 

2、武帝の時代以降
皇帝の権力が強力になり、
また、果たすべき職務が激増した。

 

この処理能力を高めるため、
尚書の組織が拡張され、
政策立案・情報統制の職務が
付与された。

 

3、武帝は後宮でも政務を執ったため、
尚書に宦官を起用して
政務の枢密を預からせた。

 

4、宦官と外戚が尚書の権を利用して
政治力を保ち、あるいは争奪戦を繰り広げた。

 

5、皇帝が宦官を使って外戚を叩く際にも、
尚書の権を利用した。

 

6、外戚の王莽が
漢から帝位を簒奪する直前の段階でも、
政治権力の核は領尚書事であった。

 

7、黄巾の乱による地方軍閥の台頭と
董卓の洛陽掌握は、
それまでの宮中抗争のルールを
根底から覆すものであった。

 

 

【主要参考文献(敬称略・順不動)】

鎌田重雄「漢代の尚書官」(「漢」は旧字体)
大庭脩『秦漢法制史の研究』
冨田健之『武帝』
「後漢後半期の政局と尚書体制」
「後漢前半期における皇帝支配と尚書体制」
西嶋定生『秦漢帝国』
好並隆司「曹魏王国の成立」
石井仁「諸葛亮・北伐軍団の組織と編成について」
並木淳哉「蜀漢政権における権力構造の再検討」
柴田聡子「姜維の北伐と蜀漢後期の政権構造」

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勝てなくても続ける、諸葛亮の北伐の理由とは?

はじめに

今回は、諸葛孔明の北伐の理由について
多角的に少々考えてみようかと思います。

早速ですが、諸葛孔明の北伐の理由として、

いくつかの文献を当たった限り、
大別して、以下のように4つ挙げられると思います。

 

1、漢王朝の復興
2、対魏戦線における橋頭保の確保
3、諸葛亮の兵権掌握
4、諸葛亮等、非益州人士の世代的要因

 

残念ながら、
「4、諸葛亮等、非益州人士の世代的要因」については
サイト制作者の想像と言いますか
妄想の類ですが、

当時の人士の言動を見ると
そこから透けて見えて来る部分もあり。

それでは、各々の理由について
考えていくこととします。

 

1、三国志の主役国家はフライング建国?!

まず、「1、漢王朝の復興」。

これは、孔明先生が
北伐に当たって起草したとされる出師の表にもあり、
どの識者も必ず挙げるものです。

例えば、渡邊義浩先生は、
国家の存在意義を賭けた戦いであるとし、

金文京先生は、

ドサクサに紛れて皇帝を名乗った孫権と
対等の同盟を結んだのも魏討伐のためで、

究極的には
高祖劉邦の天下制覇の再現が
悲願であったとします。

また、蜀漢建国当時の情勢について
調べますと、
ここでも見えて来るものがありまして。

 

と、言いますのは、

曹丕が禅譲で漢を滅ぼした折、

後漢のラスト・エンペラーである献帝の
行方不明・死亡説が流れました。

実は、劉備はこれに付け込んで
蜀の建国に踏み切ったそうで、

程なくして、
献帝が山陽公として健在であることが判明し、

フライングで劉備が帝位を僭称して
蜀漢が建国されたという
不名誉な既成事実だけが残った、

というみっともないオチ。

無論、献帝の行方不明説自体が
謀略臭を放っているような気もしますが、

建国を宣言して帝位に就いた
劉備やその補佐に当たる孔明の側としては、

例え、中原の人士の不興を買おうが
後戻りは出来ません。

 

こうした状況について、
加地伸行先生によれば、

古来よりある
中国人のメンタリティのひとつとして、
名実の懸け離れた状態をひどく嫌うそうな。

そして、その場合は、
名より実を取るとのこと。

そして、この法則を劉備の蜀漢に当てはめれば、
中原の人士に「実力」≒戦争で
帝位を認めさせる他はなくなった訳です。

―言い換えれば、
この国是=北伐をやらなければ
国家としての存在意義がなく、

益州内の人士の信用を失い
政権の瓦解につながるという
危機的な御話。

 

なお、蜀漢の戦争を国家の存在意義にするという
危険な賭けは、
同国の有象無象の人士・軍隊の性格と
表裏一体をなすものです。

余談ながら、

曹丕の息子で帝位を継承した曹叡は
献帝をないがしろにするどころか
逝去の際にも一定の敬意を払っており、

北伐という外圧が消えたのを見計らって
献帝の生き様を反面教師に
前漢の武帝をモデルに
国造りを始めたそうな。

 

2、天水界隈は蜀の生命線?!

「2、対魏戦線における橋頭保の確保」

実は、この個所は、
山口久和先生の『「三国志」の迷宮』からの
孫引きなのですが、

興味深い御説につき、
大筋を綴ります。

要は、地政学的に具体性のある話です。

 

蜀漢は国是として対魏戦を打ち出したのは
先に触れた通りですが、

魏と事を構える上で
現実的な国家の生命線として
明代の思想家・王夫之が指摘するのが、

天水・南安・安定という
関中の西側の地域。

 

本サイトの先の記事で
何度か触れたように、

蜀漢の策源地の漢中から
天水方面への街道は、

魏の策源地である長安に
ダイレクトに向かう秦嶺山脈の桟道よりも
地形が緩やかで
往来に難儀しません。

後世の後知恵ではあるものの、
この界隈を抑えて
住民を内地に拉致して
屯田に励んで馬を養うという具合に、

相手の褌で相撲を取れば、

国力に勝る魏相手の
相応の抗戦は可能という御話。

 

余談ながら、この先生、
ウィキペディアによれば、

科挙の郷試に通ったものの
事もあろうに就職先の国家が滅亡して
新政権に抗って隠士になったという
硬骨な御仁だそうですが、

レジスタンスに失敗したことで
陽明学的な脳筋を嫌った模様。

戦後の日本で言えば、
陸士や帝大で終戦を迎えたエリートと
言ったところでしょうか。

あるいは、まるで、結社系の武侠映画の
先生役に出て来そうな人物に見受けます。

 

―で、影響を受けた奴の中には
「戦争は政治の継続」と
何処のドイツから聴いたような文言を宣った
毛〇東もいた、と。

 

 

3、夷陵の敗戦の誤算と起死回生の南征

そして、こういう地道な現地調達戦術が
想像される背景には、

実は、夷陵の敗戦に伴う
荊州失陥の確定という
蜀漢にとっての想定外の大打撃がありまして。

故・史念海先生によれば、
実は、この敗戦により、
荊州から根拠地を失った大量の人員が流れ込み、
慢性的な物資不足に直面したそうな。

そして、この難局の解決のために
孔明先生が矛先を向けたのが所謂南蛮―南中。

反乱鎮圧を名目に武力進駐して
収奪の体制を作る訳でして、
具体的には以下のようになります。

まず、ここの貴重な交易産品を転売して
北伐の戦費を捻出します。

本国である益州の戦費負担を軽くし
北伐に反対の立場を取る地元名士に
配慮する訳です。

次いで、地域の有力者を
強制的に成都に移住させて
蜀漢の有力者との血縁関係を強いる一方、
(同化政策というやつです。)

その統率下の部曲を動員して
北伐を行う訳です。

で、その部曲というのが
非常に精強な「外人」部隊であったようで、

例えば、
南中の実力者の孟獲が北伐に従軍しており、

また、五丈原の戦いの際に
武功水の渡河に成功した
孟炎の率いる虎歩監も、
所謂、南蛮の部隊でした。

 

こうして南中から
大量の物資・兵員を供出させる一方で、

法令を適正に執行し
中間搾取をやる不正官吏を大量に処分して
或る程度の信用を得た訳ですが、

それでも反乱を起こす
気骨ある者もおりまして、

例えば、前回の記事でも触れた通り、
五丈原への出兵の直前にも起きました。

タイミングを考えると、
魏の根回しがあったのかもしれません。

―ともあれ、こういう武装蜂起は
現地に鎮圧部隊を派遣して遠慮なく叩く、
という政策的スタンス。

 

 

4、元祖キレ芸人?!諸葛孔明

「3、諸葛亮の兵権掌握」

これも渡邊義浩先生の御説。

有事を理由に
兵権を握って政権を掌握する、というのは、

確かに、孔明先生の個人な理由ではありますが、

一方で、国家≒中央志向の名士・軍が
国是を実行に移す実力者を望んでいたことも
歴史的な事実です。

こういうのは、
時代・地域を問わない
政治力の本質なのでしょう。

 

ですが、外征はリスクの大きい政策で、
兵権を握る者に戦争弱者は不要です。

例えば、この少し前の袁紹・曹操・劉備は、
足場の固まらないうちに
それぞれ官渡・赤壁・夷陵で敗れた直後に
勢力下で反乱を招きました。

中でも、袁紹・劉備は
敗戦の事実を直視出来ずにこの世を去りまして、

劉備の蜀漢の場合は
諸葛亮がその尻ぬぐいをして
危機の好機に変えたのは先述の通りです。

 

その際、諸葛亮自身もこの外征を止めず、
初代皇帝の劉備が
成都に還れぬまま崩御するという
無様な姿を目の当たりにしている訳です。

対呉の外征では
被征服者である地元名士の黄権等も
従軍していたことで、
それだけ益州の地元人士の風当たりが強かった
ということなのでしょう。

 

つまり、外征失敗の危険は当の本人が
嫌という程熟知していた筈です。

 

さらには、孔明没後も、
曹爽・孫綝・諸葛恪といった
時の政権の実力者も、

王朝という強固な縦社会の枠組みがありながらも
軍が壊滅するレベルの外征の失敗で政治力を失い
失脚どころか謀殺されました。

 

特に、諸葛恪の例の軍事介入については、

外征の失敗には
当人の狭量な資質にこそ原因があるものの、

サイト制作者としては、

一面では、名士の支配が幕引きとなり
孫呉自体の政策立案能力が下火になった転換点と
見ています。

 

【追記】外征軍と感動出来ない出師の表

一般論として、

時代や国を問わず、
外征向けの機動部隊は
国運を担う国軍中の精鋭です。

そして、そうした部隊を
拙い用兵で崩壊させた将帥が
タダで済むような道理はありません。

あるとすれば、
組織自体が末期症状を
呈している場合でしょう。

 

戦前の何処かの島国の軍隊どころか、

歴代の断末魔の中華王朝でも、

資質に欠ける将官が兵権を握り
前線の報告が途中で握り潰されるだとか、
枚挙に暇がありません。

 

そして、「三国志」の時代の外征も
そうした例に漏れない訳でして、

曹操の場合は
蔡瑁が孝廉の同期とはいえ、

荊州の有象無象の降兵も前線にブッ込んだものの
赤壁の敗戦が祟って威信が失墜し、

当初想定していた速戦即決の光武中興の再現
というエエ格好しい計画から、

自前の王朝設立よる
長期的で外道な簒奪プランに
切り替えざるを得ませんでした。

 

一方の劉備の場合は、

自身の政治力の泉源である
左将軍府(≒後漢王朝御墨付の幕府)の
直属部隊が、
事もあろうに
陸遜の若造如き殲滅されたことで、

対呉どころか孔明との暗闘にも敗れ、
息子を孔明に託さざるを得なくなるという
憂き目を見ました。

その意味では
出師の表など、

識者によれば、

解釈によっては、

孔明が劉禅に細かい注文を付け
余計なことをするなと釘を指すという、

感動とは程遠い内容とも
取れるそうな。

 

とはいえ、
その孔明先生から費禕の時代までは、

政治家の資質は元より、制度上も
宰相の権力が並外れて強かったことで、

御飾りの皇帝様に対して
簒奪までは行かなかったのが
蜀漢の面白いところと言いますか。

姜維の時代の亡国の理由は、
国力の疲弊もさりながら、

国政の中枢である尚書内ですら
一枚岩ではないという
政権内の分裂状況も大きかったそうな。

 

これに因んで、

孔明が拘った肩書のひとつである
蜀漢版・葵の印籠とも言うべき
録尚書事(尚書)の話をしたいところですが、

時代ごとに職務内容が異なる厄介な代物で、

漢代の外戚と宦官の内訌どころか、
戦国時代や漢初の
少府や王室財産の話まで遡らないと
話の大筋や事の本質が見えて来ない
ような気がしますが、

この話は近いうちに。

尚書関係の話
何とも小難しい話ですが、

一方で、
この時代の政治制度のキモとも言えまして、

『三国志』どころか
『キングダム』や中国王朝の制度に対する理解が
大分深まると思います。

サイト制作者の理解も怪しいのですが、
何ともオモシロそうな箇所だけに
出来るだけ噛砕いての説明を心掛けます。

今回、本当は、
尚書・軍府・行官といったような
蜀漢の政治や軍隊の構造まで
掘り下げるつもりだったのですが、

下調べやノート整理で
時間を使い過ぎたうえに、
投稿の折にも無駄話で尺を使い過ぎました。
本当に恐縮です。

こんなアホなことをやらかす位であれば、
テーマを絞って少しでも早く書けば良かったと
後悔しています、合掌。

【了】

 

 

話が大分脱線しましたが、

上記のような外征軍をめぐる事情につき、

諸葛亮としては、
例え負け戦であっても
軍を崩壊させることは避けたかった筈。

言い換えれば、恐らくは、
そういう政治的な力学が
消極的な用兵になって現れる訳です。

 

そうした中での唯一の積極策が、
例の、街亭で馬謖に一軍を預けたアレ。

 

こうした政治と軍事のバランスを取るような
慎重とも臆病とも取れる用兵思想を以て
望みが薄いと自覚しながも
何度も出兵したのは、

もし、自らが大局的な負けを認めてしまえば
政権中枢からも離反者を出して
自分の命どころか国是や国体まで
吹っ飛んでしまう可能性があったからでしょう。

 

よって、皇帝様、部下や国民に曰く、

第七〇隊には勝てないが、

一命を賭す代わりに
金〇島に花火をブチ込むだけで
戦争したことにしてくれ、
一応、攻勢作戦のつもりだ、と。

 

そう考えると、
天才軍師どころか
元祖キレ芸人と言いますか、
希代の詐欺師と言いますか、

希望を持たせることも
政策なのだということを
証明した政治家のようにも思えます。

 

5、デタラメな時代が生んだ法治主義の鬼

そして、諸葛亮が北伐を敢行した
最後の理由として、
「4、諸葛亮等、非益州人士の世代的要因」
について。

ここでは、諸葛亮や、
この人と似たような
時代・社会背景を持った人士の胸中について
考えてみよう思います。

まず、諸葛亮の出身は徐州琅邪郡

代々政府高官を輩出する
家系ではあったものの、

幼少期に父と死別したことで
叔父の諸葛玄に引き取られました。
これが195年の出来事。

そして、この諸葛玄と劉表が
交友関係にあったことが縁で
荊州に移り住みます。

因みに、この少し前の193年に
曹操の徐州侵攻がありまして、

この過程での現地における狼藉が
余りに醜かったことで、

諸葛亮の兄・諸葛謹や厳畯といった
徐州の人士を
呉に走らせる結果となりました。

延いては、
三国鼎立の最大の理由だそうな。

 

また、諸葛亮や同じく徐州出身の魯粛は、
後年この殺戮劇について
項羽の蛮行になぞらえました。
―咸陽での略奪のことと想像します。

つまり、孔明先生にとっての曹操は、
郷里の侵略者として
自分の半生に暗い影を落とした
仇敵に他ならなかった訳です。

 

三国志関係の作家の中には、
こういう話を以て
諸葛亮と曹操との因縁を書き立てる方が
いらっしゃるかもしれません。

この辺りの経緯は、
石井仁先生の『曹操』を御覧あれ。

 

その上、親との死別や
郷里の罹災のみならず、

荊州に着いたら着いたで、

今度は庇護者の叔父が
劉表と劉繇の、
謂わば地方官同士の抗争の煽りを喰って
殺されます。

―そう、時代の寵児が宿敵であり、

そのうえ、その時代のデタラメさによって
親とも頼む庇護者まで失った訳で、

そういう訳アリな次第につき、

士大夫の家系にもかかわらず、
家柄のポテンシャルを活かせずに
20代後半まで
職歴のない状態を続けていたのが
諸葛孔明その人でした。

そのうえ、
自宅の庭先を治める劉表とて、
見方によっては叔父の仇でもあり、

また、天下国家を論じることが大好きな
自分の学術グループからすれば、
どうも肌が合いません。

まあその、
こういう半生を送れば
不正を働く役人を目の敵にするのも
頷けようというものですし、

事実、この人が後にやったことは
猛政と呼ばれるバリバリの法治主義。

その手法は、
皮肉にも仇敵・曹操と同類のものであり。

 

例えば、劉備の時代には、

劉備が皇帝になっても
簡雍のような古参のふてぶてしい家臣は
皇帝様の前でも
足を投げ出すような有様だったのが、

北伐の時代には、
放言癖で酒乱の劉琰

この人も劉備の賓客で
当時は元老格でしたが、

何と、奥様へのDVで
極刑を喰らっています。

これは綱紀粛正の極端な例ですが、
それ位やらなければ
役人がマトモな仕事をしなかった時代
なのでしょう。

 

因みに、先述の加地伸行先生は、

諸葛孔明の蜀漢の国家経営を、
「全知全能を傾けての、
自己の理想像を描くことであった、」
と記していらっしゃいます。

つまり、清貧と表裏一体の野心の矛先が
仕事であったという御話。

あるいは、
こうした幼少期・青春時代の苦労が、

時を経て
国家創生の使命感に
転化したのかもしれません。

 

 

6、彼らは何と戦ったのか?

そして、遅咲きの天才が頭角を現す契機は、
思わぬかたちで到来する訳でして。

―と、言いますのは、

孔明先生にとっての閉塞状況の中に
俄かに飛び込んで来たのが、

皆様御存じの、
自分の居場所が悉く台風の目≒戦場になるという
ア〇ファトのような歴戦の傭兵隊長の劉玄徳。

で、この何だか怪しいオジサンが、
結果として益州を占領して
皇帝まで名乗るところに
この時代の面白さがありまして。

 

また、孔明先生のみならず、

戦乱で郷里が罹災して難民になって
イロイロあって益州に流れ着くか、

あるいは、
曹操のやり方を快く思わない人士
少なからずいる訳でして、

のみならず、
その曹操の勢力
この段階では長安を制圧し
漢中にも兵を向けるという段階に達しておりまして。

 

で、例えば、法正等のような非益州人士
劉璋を見限るにしても、

強力な軍事力・政治力を有する曹操が
益州を制圧した場合、
中原の人士に州内の政治の主導権を握られるのを
嫌ったと想像します。

で、結果として、
州外から流れ込んで
当然ながらヨソ者扱いされて
居心地の悪い人士

劉備の軍や東州兵という暴力装置を以て、
謂わば虎の威を借りて、
軍事力を背景に益州を支配するという訳です。

劉備も劉焉も
益州を統治するに当たり、

最初は地元人士の期待を以て
招かれたものの、

 

【追記】

地元人士が歓迎したのは劉焉だけですね。

【了】

 

結局は軍事力で地元名士を威嚇して
統治するという点では、
どうも共通していると言えます。

 

それはともかく、

こういう経歴を持つ孔明やその他の荊州人士、
あるいは李厳や呉懿等の
旧劉璋傘下の非益州人士
そうだと想像しますが、

劉備に賭けた人士は、

兵乱で漂白を余儀なくされるという
時代のデタラメさに
嫌気が指したことは元より、

兵馬で中原・華北、
果ては長江南岸まで蹂躙した曹操やその子孫が、

自分たちの心の拠り所であった劉氏を蔑ろにし、
果ては、漢を滅亡に追いやり
帝位まで簒奪したことが
我慢ならなかったのではなかろうか、と、

サイト制作者は想像します。

 

そのように考えると、
北伐は、自分達の尊厳を賭け、
存在意義を証明するための
聖戦であったのかもしれません。

 

果たして、孔明先生没後、
世代が変わるや、

国是こそ理念としては残ったものの
その実行力は
次第に薄れていく訳でありまして、

特に、地元・益州人士である
費禕の時代になるや、

国力相応の守勢中心の現実的な国防政策に
重点が置かれるようになります。

―ただし、暫くは北伐を経験した古強者が
軍の要職を占めていたことで、
防衛戦の対応は迅速でした。

 

もっとも、
蜀漢が守勢に回った理由は
世代的な理由だけではないのでしょうし、

一方で軍、
特に漢中の前線部隊は
戦闘意欲が旺盛で、

次の姜維の時代には
国家の滅亡まで戦意を失わなかったのは
何とも皮肉な話ですが。

 

とはいえ、

孔明没後から姜維の時代まで
外征の実行まで漕ぎ付けた
行動力のある政権が
なかったところを見ると、

曹氏の台頭と簒奪を目の当たりにした世代と
そうでない世代との価値観の断絶
少なからずあったものと想像します。

 

おわりに

そろそろ、
今回の御話をまとめることとします。
大筋は以下のようになります。

 

1、諸葛孔明が北伐を行った理由は
いくつか挙げられるが、
どの識者も挙げているのは
曹魏打倒による漢王朝の復興である。

 

2、1、に付随して、
地政学的な理由としては、
南安・安定・天水が
蜀漢の生命線であった。

 

3、蜀漢は荊州の失陥により
慢性的な物資不足に陥ったが、
南中よりの収奪で物資・兵員を賄い、
さらには北伐の戦費・戦力に充てた。

 

4、諸葛亮は南中侵攻・北伐という有事によって
軍権を掌握したが、
当時の政権担当者にとって
兵権掌握は諸刃の剣であった。

 

5、後漢・三国時代を通じて、
外征の失敗は、
内乱の誘発や政権担当者の失脚・謀殺に
直結するものであった。

 

6、蜀漢を構成する人士は、
曹操の軍事作戦の被害者や
曹操の抵抗勢力、
あるいは、軍事力を背景に蜀を支配する
勢力等が主流であり、
有事こそが彼らの存在意義を
際立たせていた。

 

7、6、に付随して、
曹氏の簒奪の過程を目の当たりにした世代が
自分達の存在意義を賭けて
戦争を継続した可能性がある。

 

 

【主要参考文献(敬称略・順不同)】

陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻
渡邉 義浩『「三国志」の政治と思想』
山口久和先生の『「三国志」の迷宮』
金文京『中国の歴史 04』
宮川尚史『諸葛孔明』
石井仁『曹操』
「諸葛亮・北伐軍団の組織と編成について」
上谷浩一「蜀漢政權論」(漢は旧字体)
満田 剛「蜀漢・蔣琬政権の北伐計画について」
上田早苗「後漢末期の襄陽の豪族」
加地伸行編『諸葛孔明の世界』
加地伸行『中国人の論理学』
大庭脩『秦漢法制史の研究』
並木淳哉「蜀漢政権における権力構造の再検討」
柴田聡子「姜維の北伐と蜀漢後期の政権構造」

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