復習、伍と最末端の戦闘

長くなったことで、
章立てを付けます。

例によって、
適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

はじめに
1、伍は、恐らく縦隊
2、編制の目的
3、薛永蔚先生のモデルの紹介
4、射撃戦・白兵戦のグレー・ゾーン
5、弓弩の射程と装填時間
6、突撃行動の要領
7、白兵戦の様相
8、薛先生モデルの兵士間の間隔
9、武器と鋼材の関係
10、充足状況について考える
11、刑の重さと命の相場
おわりに(結論の整理)

はじめに

今回は、古代中国における
最小戦闘単位であるの御話

以前、伍について、
いくつか記事を書きましたが、

それらをまとめたうえで加筆したものです。

―次回以降、
集団戦の人数を少しづつ増やすべく
サイト制作者の記憶の整理も
含めまして。

それでは、早速、本文に入ります。

1、伍は、恐らく縦隊

まず、伍とは、恐らく、
5名からなる縦隊です。

何故、縦隊であることが
分かるかと言えば、

薛永蔚先生によれば
いくつか典拠がありまして、

例えば、
『通典』兵典・兵一には、

古来の兵法を紹介する件で
以下のような文言があります。

凡立軍、一人曰獨、二人曰比、
三人曰參、比參曰伍、五人為烈(列)、
烈有頭。

2名(比)+3名(参)で5名(伍)、
5名を列にする、という訳です。

因みに、座右の字引(『漢辞海』第4版)
によれば、

「列」には、
縦隊・横隊の区別はありません。
文脈で判断する他なし。

また、『春秋左史伝』
昭公十八年には、

「城下之人、伍列登城」

という文言があります。

火事の対策として、
城下の人員を隊列を組ませて
城壁に上らせるのですが、

その際の隊形が伍の「列」
つまり縦隊。

その他、顧炎武等も、
伍を縦隊としているそうな。

ですが、伍は縦隊ではない、
という意見
あるにはありまして、

例えば、
サイト制作者が
最近知ってたまげたのは、

明代に書かれた『武備志』に、

5名の兵士が「X」の字に
配置され、
それを「伍」と称する図が
ありまして、

その詳細を確認中です。

【追記】

薛永蔚先生によれば、
これは明代の宋征壁が
考案したものだそうです。

で、この「X」字の伍を
5つ編制して
「両」とするのですが、

薛先生曰く、
兵器の原則や
指揮系統を考慮しても
用を為さないとのこと。

【追記・了】

ですが、サイト制作者自身、

今のところ、

伍は縦隊である
という説を取ることで、

このまま話を進めます。

【追記】

根拠が不明確にもかかわらず
縦隊と断定するのも
おかしな話ですが、

今回は、話の便宜上、
ということで御寛恕頂ければ幸いです。

もし、前提を覆す根拠が出た場合、
勿論、別に記事を用意します。

【追記・了】

2、編制の目的

続いて、伍に持ち寄る兵器には、
以下のようなものがあります。

弓、殳(しゅ)、矛(ぼう)
等の長兵器、

手戟、短戈、
刀、剣、等短兵器、

鎧、盾等の防具を持ち寄ります。

(「〇〇兵器」は兵器のカテゴリー。
交戦距離における長兵器・短兵器、
火砲か否かで火兵器・冷兵器、
暗殺用に暗兵器、等があり、
弓を射兵器とも呼称。
詳しくは、篠田耕一先生の
『武器と防具 中国編』参照。)

そうすることによって、

距離や戦闘方法で
弱点を作らず
柔軟な戦い方をすることが、

この縦隊編制の目的です。

『司馬法』定爵篇に、
以下の件があります。

「右兵弓矢禦、殳矛守、干戟助」
右:たっとぶ

3、薛永蔚先生のモデルの紹介

縦隊を構成する
兵器の組み合わせや、

各々の兵士の間隔については、

まずは、薛永蔚先生
『春秋時期的歩兵』で書かれた
伍のモデル
観て頂くのが良いと思います。

薛永蔚『春秋時期的歩兵』、篠田耕一『武器と防具 中国編』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』、守屋洋・守屋淳『全訳 「武経七書」2』等(敬称略・順不同)より作成。

実は、このモデルは、
管見の限り
2、3の文献で引用されています。

例えば、以下。

篠田耕一『三国志軍事ガイド』
来村多加史『春秋戦国激闘史』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史3』

また、先に書いた記事で
相応の根拠のある
このモデルを紹介しなかったことを
非常に後悔しています。

それでは、具体的な内容について。

そもそも、
薛先生が5名の数字を挙げたのは、

縦隊か否かはともかく、

「伍」が最小戦闘単位
であること自体は、

多くの漢籍の内容で
一致を見ているからです。

そのうえで提示されたモデルは、
持ち寄る兵器
各々の兵士の間の距離

その他の補足部分は、
サイト制作者
古典漢籍を含めた複数の文献から
摘まみ食いしたものです。

恐らく、持ち寄る武器や
各々の兵同士の縦横の間隔等で
国や地域、時代ごとに
バラ付きがあり、

それだけ、実態が不明な部分も
多い訳です。

それでは、
同モデルの
具体的な説明に入ります。

まずは、
対敵方向からの順序ですが、

大体は前列に短兵器、
後列に弓を含めた長兵器、
という組み合わせ。

薛永蔚先生によれば、

最後尾の弓兵は、
前の4名の動きが見えることで
伍長である可能性があるそうな。

続いて、各々の兵士の間隔ですが、

図のように、
先頭からふたり目は1.8m、
4人目迄は5.52m、
さらに、5人目迄は7.2m。

詳細は後述しますが、

大体の根拠としては、
各々の武器の長さ
計算されています。

以下は、古代中国における
度量衡の表です。

戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版p1796の表より抜粋。

その際の換算基準は
戦国時代の場合は、
1尺=23.1cm。

また、1尋という単位は、
両手を水平方向に伸ばした時の
左右の長さでして、

同時に、身長も意味します。

そして、このモデルで、

交戦距離に応じて
前後を入れ替えながら
柔軟に戦う訳です。

4、射撃戦・白兵戦のグレー・ゾーン

伍は元より、
歩兵の交戦距離に応じた
戦い方としては、

具体的には、
以下のような図の状況を
想定します。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、守屋淳・守屋洋訳・解説『全訳 武経七書 2』、(敬称略・順不同)より作成。

この図は、主に、
『蔚繚子』の制談篇・兵教上篇
内容をもとに作成したものです。

まず、同書の制談篇に
以下のような件があります。

殺人於百歩之外者、弓也
殺人於五十歩之内者、矛戟也

交戦距離の基準は、
両軍の最前列間の間隔で、

さらに彼我の弓兵が
最前列で弓合戦を行う場合
だと思いますが、

秦尺で換算する場合、

先述の表を基に、
23.1cm×6=138.6
大体1歩1.4mとします。

百歩之外、つまり、
大体140m以上は弓の射撃戦、

五十歩之内、つまり、
大体70m以下は矛戟の白兵戦。

言い換えれば、
70mから140mは
射撃戦と白兵戦とのグレー・ゾーン。

5、弓弩の射程と装填時間

因みに、
篠田耕一先生によれば、

弓の最大射程は300mですが、

内、有効射程は100m程度、

さらに、相手が鉄の鎧を
付けていると
70~80mに狭まります。

それも、恐らく曲射だと思います。

また、例えば、
戦いの出端の場合、

相手が射撃戦を仕掛けて来る
弓兵にせよ、
突っ込んで来る矛戟の兵にせよ、

横一列で隊列を整えているので、

各々の兵士が
目視で好きな相手を射る訳ではなく、

指揮官が仰角を調整して
一斉射撃を行うことでしょう。

その際、
これはサイト制作者の想像ですが、

先頭から2番目の伍では
最前列に弓兵が出張り、

開戦時に敵との交戦距離が短ければ
先頭の伍の最前列の弓兵と連携して
敵に弓を浴びせる、

―という行動を取った可能性も
あるかもしれません。

もっとも、弩の場合、
篠田耕一先生によれば、

戦国時代のもので
最大射程が810m、

また、楊泓先生の
『中国古代兵器論叢』
によれば、

漢代のものは、
さまざまな規格がありますが、
射程距離は大体200m前後。

これは有効射程だと思います。

さらに、篠田先生曰く、

唐代の弩弓手
動かない目標に対して
距離約358mで
4発中2発の命中を要求された
そうです。

また、実戦では、
命中の可否はともかく
150mで目視で射たそうで、

恐らく、直射に近い軌道で
これ位飛んだのでしょう。

ですが、発射には
10~15秒、つまり、
弓の倍掛かり、

そのうえ、
動きながらの装填は
難しいと来ます。

距離を詰められると
物の役に立ちません。

また、数も揃わず、
唐代ですら、
配備率は全兵士の2割。
因みに、弓は全員です。

とはいえ、、
来村多加史先生によれば、

戦国時代後半以降は、

歩兵方陣の前か両翼、
もしくは双方に
弩の部隊を配備し、

会戦と同時に斉射し
後列に下がらせる、

―という、集中運用する戦法が
漸次採られていく
ようになりました。

大国の経済力が
それを可能にしたのかも
しれません。

因みに、『呉子』治兵第三

教戦之令、短者持矛戟、
長者持弓弩

と、あります。

身長の低い者に矛戟を
高い者に弓弩を持たせろ、
という訳ですが、

弓弩が一緒くたにされている、

つまり、先述のような
弩の集中運用を
想定していない訳です。

6、突撃行動の要領

一方、このような
弓弩の側の事情とは別に、

突撃を掛ける側としては、

極端な場合、

既に300歩≒420m位から、
白兵戦を想定する動きをします。

『蔚繚子』兵教上篇には、
以下のような件があります。

大将教之、陣於中野、置大表三
百歩而一
既陣、去表而
百歩而、百歩而

表:目印の柱
決:殺す、白兵戦(先生の良い訳!)
騖:素早く走る、全力疾走
趨:小走りに進む、速足で駆ける

これは訓練の話ですが、

100歩ごとに目印の柱を立て、
各々、全力疾走、小走り、
白兵戦の訓練をさせる、

―という訳です。

さすがに、実戦で、
420mも走り続けた後に
血みどろの白兵戦をやる、

という訳ではないと思いますが、

こちらから白兵戦を
仕掛ける場合は、

全力疾走→速度調整→白兵戦
という手順で
敵との交戦距離を詰め、

その際、これ位走る体力があれば
実戦でも差し支えない、

ということなのでしょう。

交戦距離が縮む程、

攻守双方、
色々な思惑が交錯します。

7、白兵戦の様相

そして、様々な駆け引きの末に
彼我の交戦距離が縮まり、

先頭の伍の最前列同士が
ゼロ距離で遣り合った場合、

恐らく、以下のような状況になります。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、学研『戦略戦術兵器事典 1』、篠田耕一『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

春秋時代から
前漢の前半辺りまでは、

伍の最前列で重宝した武器は
戈や戟。

使い方は、故・林巳奈夫先生
『中国古代の生活史』
民国時代の喧嘩の作法も含めて
詳しいのですが、

元は戦車戦用の長物でして、
これが歩兵用の長さと
なりました。

戈や戟で相手の首を
引っ掛けるか、

あるいは、
体に打ち込みます。

そのうえで、
引き寄せて髪を掴んで
生首を落す、という手順。

その際、相手の首を目掛けて
付き出すか打ち下ろすことで、

横に振り回すのには
向きません。

また、古代中国における
短兵器の兵士は、

長兵器をかわすための
盾を持っています。

敵がもし、短期決着を嫌い、

長兵器の兵士を
最前列に並べた場合でも、

睨み合いを長引かせずに
相手の懐に
飛び込むのであれば、

それ程不利にならなかったの
かもしれません。

ですが、そうなる気配があれば、

敵は最前列の長兵器の兵士と
後列の短兵器の兵士を入れ替え、

後列に下がった戟や長兵器は、

前の列の横隊の隙間から
長物を繰り出して
味方を援護します。

こうなると、条件は互角で、
練度や兵器の質の良し悪しが
モノを言うことでしょう。

このような
長兵器と短兵器の関係について、

『司馬法』定爵篇では、

凡五兵五当、長以衛短、短以救長
迭戦則久、皆戦即強

迭:たがいに

長兵器と短兵器は
相互補完の関係にあり、

入れ替えて戦えば
長時間戦闘可能で、

一度に繰り出せば
強力な戦闘力を発揮する、

(殆ど訳書の訳!)

因みに、白兵戦の場合、
当然、弓兵は最後列に下がり、

引っ切り無しに
弓を射まくります。

先述の『呉子』治兵第三のように、

体格的には、
周囲の見えるのっぽさんが適格。

また、恐らくこの状況下では
交戦距離も短かくなっているで、

隊列の隙間から
直射同然の軌道で
手当たり次第射たものと想像します。

8、薛先生モデルの兵士間の間隔

さて、肝心の、
縦隊における
各々の兵士間隔ですが、

もう一度、
薛永蔚先生のモデル
確認します。

薛永蔚『春秋時期的歩兵』、篠田耕一『武器と防具 中国編』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』、守屋洋・守屋淳『全訳 「武経七書」2』等(敬称略・順不同)より作成。

それでは、
このモデルの根拠は以下。

まず、『周礼』考工記
以下の件があります。

酋矛常有四尺、夷矛三尋
凡兵無過三其身、過三其身、
弗能用也
而無已、又以害人

要は、歩兵用の矛が4尺、
戦車用の矛(夷矛)が3尋
(尋:両手を広げた時の幅=身長)
の長さがあるが、

人の身長の3倍を超えれば
役に立たない、

―と、いう訳です。

で、薛先生、

周代とされる
マニュアルに対して、

大胆にも秦尺に換算しまして、

1尋=8尺=身長
23cm×8=1.84m

(1尺23cmと換算)

さらに、矛の長さが
人の身長の3名分として、

1.84cm×3=5.52m

で、この長さが
意味するところは、

先頭から4番目の
長兵器の兵士が
矛を構えた際、

先頭の短兵器の兵士に届く、
つまり、援護出来る距離です。

さらに、その4番目の兵士と
等間隔で、
真後ろに弓兵が来まして、

〆て縦隊の長さは7.36mと
御本には書いてあります。

ですが、何故か、

先頭とふたり目の間隔が
1.8mとなっており、

それどころか、

以下のような
ぶっ飛んだことまで
書いています。

至于戈、戟及殳、矛的順序、
或前或後就都无関大体了。

戈、戟、矛、殳の順序は
前後は全て相関関係がある、
という訳ではなく
大体である、という訳で、

哎呀、という他はありません。

酒でも飲みながら
書いているのか、と。

要は、縦隊編制を前提に、

4人目の長兵器の兵士が
先頭の短兵器の兵士を
援護出来るのが肝、

ということなのでしょう。

モデルの縦隊の長さは
1.8m×4=7.2m。

これも、御本よりの
そのままの転写で御座います。

こういうところは、

中国人のいい加減さが
出ているのかもしれません。

また、この場合の秦尺換算では
平均身長が184cmとなり、

実情に比して少し高くあり。

例えば、先述の『周礼』考工記に

車有六等之數(中略)
人長八尺、崇於戈四尺、謂之三等

と、ありまして。

つまり、周尺で144cm程度。

また、鶴間和幸先生
『人間・始皇帝』によれば、

秦代の成人男性の身長の基準
6尺5寸だそうで、

秦尺で150cm程度。

したがって、縦隊の間隔は、

当時の実相に近付けると、

このモデルよりも
1.2m程度短い6m程度、
と、思う次第。

話が分かりにくくなり恐縮です。

ただ、薛先生が説くように、

武器の長さが
縦隊の長さの目安になる、

―という考え方は、

参考になさって宜しいかと
思います。

さらに、先生御自身も、

こういうものは
座標ではないので
動き回る余地がある、

と、書かれています。

つまり、縦隊の長さは、

状況に応じてかなり伸縮する、
ということなのでしょう。

『司馬法』定爵篇には、
以下のような件があります。

凡陣行惟疏、戦惟密、兵惟雑
陣行:布陣・行軍
惟:これ
疏(疎):まばら
兵:兵器

布陣や作戦の際には間隔を開け、
戦闘の際には間隔を詰めて
さまざまな武器を使い分けろ、

―という訳です。

そして、これが極端な場合、
例えば、

『春秋時期的歩兵』の
該当箇所の脚注にあった
『太平御覧』の、

唐代の書物である
『太白陰経』からの
引用とされる部分に、

以下のような件があります。

隊有五十人、五人火長、
五九不失四十五人之數
卒間容卒、相去二步

要は、兵士と兵士の間は2歩。

因みに、唐代の1尺は
31.1cm。

同時代以降、
1尺=5歩。

31.1×5(尺)×2(歩)
=3.11m。

この通りであれば、
各々の兵士の間の間隔は
3m余となります。

9、武器と鋼材の関係

さて、伍で使われる武器には、
当然、流行り廃りがあります。

以下の図を御覧下さい。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、学研『戦略戦術兵器事典 1』、篠田耕一『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

この図は、各々の武器における
大体のピークの時代
あらわしたものです。

中でも転機となるのは
前漢から後漢の時代です。

何があったかと言えば、
製鉄技術の大幅な進歩です。

ここで、以下の図を御覧下さい。

趙匡華『古代中国化学』・篠田耕一『武器と防具 中国編』・菅野照造監修『トコトンやさしい鉄の本』・柿沼陽平「戦国秦漢時代における塩鉄政策と国家的専制支配」等(順不同・敬称略)より作成。

具体的には、

炒鋼法と呼ばれる、
銑鉄を脱炭する技術
登場しました。

鉄を高温で熔解するための
フイゴ等の設備も、

鉄のしなやかさの肝である
焼き戻しの時の
炭素濃度の調整も、

この時代の産物という訳です。

そして、ビッカース硬度で
従来の倍の硬さを有し、
そのうえ、よくしなう鉄
(ソルバイト)が登場し、

当然ながら、
これが武器や鎧の材料となります。

その結果、
短兵器には斬撃に強い環首刀
手戟や短戈、剣に取って代わり、

戟も刺突に重点を置いた形状に
変化しました。

図解すると、以下。

学研『戦略戦術兵器事典 1』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

長さが書いてある理由は、

恐らく参考文献の
『戦略戦術兵器〇典 1』が、

引用元の文献から
出土品の長さをそのまま転載したと
想像するからです。

何ともいい加減な話で悪しからず。

因みに、後漢時代の亭卒
(今で言えば、警察官兼兵士か)
装備は、

武器は弓弩、戟、刀剣
防具は盾と鎧だそうな。

集中運用の要員か否かは
分かりません。

尉、游徼、亭長皆習設備五兵
五兵:弓弩、戟、楯、刀劍、甲鎧
『続漢書』(『後漢書』の志!)
百官志・県郷
注『漢官儀』

また、戦国時代の兵装とは違い、
矛と殳が抜けていますね。

この戟も、刺突型の新しいタイプと
推察します。

因みに、亭とは何かについては、
諸説あるのですが、

この場合、今で言えば、

郊外の場合は、
宿泊施設を兼ねた官舎・警察署。

さらに、重要な軍事拠点であれば、
大勢の兵士が駐屯可能でして、

そうしたところには、

兵営や防御施設等も
あったのかもしれません。

亭は、後漢時代の
羌族の治安戦では
重要な係争地となり、

『三国志』の時代でも
街亭や倉亭等で
大規模な争奪戦が
展開されました。

所謂、兵家必争の地。

10、充足状況について考える

さて、先述の『司馬法』には
5種類揃えろとある割には、

その『司馬法』はおろか、
『呉子』や『六韜』等の
大体の兵書には、

機能的には
弓と長兵器・短兵器の区分しか
ありません。

先述の兵器の流行り廃りの図で
漢代に大きな淘汰があった、
と書きましたが、

サイト制作者の暴論としては、

末端の兵隊の世界など
後述するように
結構いい加減なもので、

そもそも、

資力のある軍隊でもなければ、
5種類も律儀に
揃っていたかどうかすら
怪しいと思います。

かなり大胆なことを言えば、

資力がない、あるいは、
連戦で消耗した部隊については、

精々、先の弓・長物・短兵器の
3種類程度が
揃っているのが相場で、

鋼鉄の武器が普及した
前漢の後半以降は
『司馬法』の五兵の建前が崩れ、

先述の『続漢書』の引用通り、
刀と刺突型の戟が主流になった、
と、想像します。

例えば、戦国時代には、

武器の管理は秦が郡単位、
その他が県単位。

漢代は秦の制度を引き継いで
郡が管理していました。

当然、首都は別です。

因みに、武器には、
製造地の刻印まで
入っていまして、

そのうえ、例え平時には
5種類揃っていようが、

戦争で消耗したものが
簡単に追いつくとも
思えませんで、

例えば、叩き上げの軍人で
孔明の陳倉攻めを凌ぎ切った
郝昭なんか、

他人様の墓まで暴いて
そこで徴発した木を武器にした、
と、言っています。

戦争のリアリズムの一端を
垣間見たとでも言いますか。

もっとも、木の矛にしたか、

あるいは、
得物の柄にでもしたかは
分かりませんが。

吾數發冢、取其木以爲攻戰具、
發(発):暴く
冢:高大な墓

『三國志』魏書·明帝紀 注『魏略』

11、刑の重さと命の相場

これまで、兵書の内容を基に、
色々と考えて来ましたが、

当然、戦争の実態、
特に末端のそれなど、

中々教科書通りには
いかないものでして。

以下に、ふたつ例を挙げます。

まずは、曹操の歩戦令。

典拠は失念しましたが
209年頃に書かれたそうで、

そうだとすれば、

軍歴20年弱の経験が蓄積された
年季の入ったマニュアル
ということになります。

言い換えれば、

禁止事項については、

江戸時代の禁令宜しく、

敵味方を問わず
現行犯がいたことの証拠
理解するべきでしょう。

例えば、延津の戦いで、

曹操の軍が
文醜の部隊の混乱を狙って
馬を放った行為については、

吏士向陣騎馳馬者、斬
騎:騎乗する

と、あります。

自軍の将兵で
オウン・ゴールしたら
斬罪に処される訳ですね。

早速、伍の戦闘行為に
関する部分を
いくつか挙げることとします。

不聞令而擅前後左右者、斬
擅:欲しいままにする

伍中有不進者、伍長殺之

吏士有妄呼大聲者、斬
妄:みだりに、無暗に

進戰、後兵出前、前兵在後、
雖有功不賞

『通典』兵二

例えば、周囲の者を
自分の前に突き出す、
後ろの者が進むのを邪魔する等、

進撃の太鼓が
鳴っても進まない、

大声を出して
太鼓や鐘の音、号令等を
聞こえ辛くする、

伍の順番を飛ばして
抜け駆けするかその逆、

―以上のような
戦闘中の背任行為が、

敵味方を問わず
頻発していたことの
証拠でしょう。

サイト制作者の浅学故か、

こういう兵卒レベルの
生々しい話には
中々御目に掛かれませんで。

それでも、まだ、
キルキルやってるうちは
恐らく良心的な方で、

法治の鬼の曹操の軍どころか、

刑罰・労役天国の
戦国・秦に至っては、

最前線で逃げた兵士が
死罪にすらなっていません。

これで、大会戦の度に
捕虜を片っ端から
皆殺しにする訳ですから、

いやはや、何とも。

詳しくは、

鶴間和幸先生の
『人間・始皇帝』第4章
獄麓秦簡の紹介の箇所を
御覧頂きたく。

簡単な経緯として、以下。

戦国末期の
秦の対楚戦において、

戦場で12歩逃げた兵士
処罰しようとして
調査を始めたところ、

甚だしい事例としては、
100歩逃げた者もおり、

結果として、
26名もの兵士が
処罰を受けましたが、

重労働等の
重罪にはなったものの、

誰ひとりとして
死罪にはならなかった、
というオチ。

もし、両軍の実力が
伯仲していたとすれば、

6、7mの縦隊が犇めく中で、
100m以上逆走する
兵士のいる戦場。

そして、こういうのが
裁判記録として
残ったそうな。

無論、サイト制作者は

勝敗を含めた
戦いの経緯は分かりませんが、

恐らくは、

敗因となるような
救いようのない
逃げ方でもなければ、

一々死罪を適用していたら、
味方を皆殺しにでもしなければ
ならないのかもしれません。

後、逃げながらでも
弓は射ることが出来るんですと。

おわりに

長くなりましたが、
そろそろ結論を整理します。

1、伍は古代中国における
5名編制の最小戦闘単位で、
恐らく縦隊である。

2、弓・矛・殳・戟・戈・刀剣
といった武器を持ち寄り、
距離や戦い方において
弱点を作らないのが狙いである。

3、保有する武器の特徴として、
大別して、弓・長兵器・短兵器に
区分出来る。

4、長兵器・短兵器は
相互補完関係にある。

5、武器によっては
流行り廃りがあり、
時代によっては
形状が異なるものもある。

6、薛永蔚先生のモデルは、
身長を秦尺で換算していることで、
これを実情に合わせると
縦隊の長さは6m余となる。

7、また、同モデルの最低条件は
最後尾に弓兵を配置し、
4番目の長兵器の兵士が
先頭の短兵器の兵士を
援護出来ることである。

8、現実には、兵書の内容通りには
いかない部分が少なからずあり、
当然、伍のレベルにおいても
その気配がある。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
薛永蔚『春秋時期的歩兵』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
楊泓『中国古兵器論叢』
学研『戦略戦術兵器事典 1』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』(訳書)
守屋洋・守屋淳『全訳 「武経七書」2』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
趙匡華『中国古代化学』(訳書)
来村多加史『春秋戦国激闘史』
劉永華著『中国古代甲冑図鑑』(訳書)
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』
鶴間和幸『人間・始皇帝』
湯浅邦弘『よみがえる中国の兵法』
西川利文「漢代における
郡県の構造について」
小嶋茂稔「漢代の国家統治機構における
亭の位置」
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

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次回予告、その他

はじめに

恐らく、次のまとまった記事を書き上げるまで、
今少し時間が掛かることで、

今回は、その予告めいた話を少々。

1、薛永蔚先生の伍のモデル

以前の記事で扱った「伍」について、
復習を試みます。

「伍」とは、
古代中国の戦争における
最小戦闘単位であり、

春秋時代から
少なくとも唐代辺りまで
通用した概念です。

ただ、過去の記事の要約だけでは
読者の皆様に申し訳ないので、

以下の薛永蔚先生のモデルや、
その典拠となる
漢籍の該当箇所についても
紹介します。

薛永蔚『春秋時期的歩兵』、篠田耕一『武器と防具 中国編』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』、守屋洋・守屋淳『全訳 「武経七書」2』等(敬称略・順不同)より作成。

2、殺し合いマス・ゲームのルール

また、今後の当面の方針ですが、

伍に引き続いて、10名の什、
25名の両、50名の属・屯等、
100名の伯・隊等、

―という風に人数を増やしながら、

各々の単位における
指揮官の裁量や戦い方、

もしくは、上位組織からの命令
どのように遂行するか、
といった、

具体的な手順について
調べていこうと思います。

ただ、状況によっては
別の記事も挟む可能性も
ありますが。

3、古の総力戦の構図

また、何故、
鎧の話を止めて
この話をしようと思ったか、ですが、

能動的な理由としては、

末端の戦闘という空間を
自分なりに再現したかったからです。

もっとも、このブログで
サイト制作者がやりたいことの
恐らく1割にも達していませんで、

例えば、戦闘行為だけでも、
馬、弓、城については
纏まった記事を書いていません。

まして、戦略レベルの段取り、
戦力の調達、銃後や戦地の
社会・経済等、

周辺領域まで含めるとなると、
さあ大変。

身近な農作物ひとつとて、

作らせる側は、

什伍や兵戸・屯田に
象徴されるように
(軍制の什伍と民政のそれは
どうも違うようですが)

【追記】
故・古賀登先生の論文
「阡陌制下の家族・什伍・閭里」
によれば、
しっかり連動しているのだそうで。

例えば、商鞅の改革下の
秦の場合、

ひとつのモデルとして、

まず、親と息子兄弟の
核家族3世帯
(大体1世帯5名程度「五口」)
と、それに近い血族の2世帯の
計5世帯を基本単位とします。

で、各々の世帯から
世帯主を兵役で供出し、
これを「伍」とします。

そして、その伍長は父だそうな。

また、5世帯間で相互依存、
という隣保制度は、

実は、『周礼』や『管子』にも
あります。

してみれば、

春秋時代以前のような、

民政の長が
そのまま軍政の長を兼ねる
領邦国家の動員体制が
秦漢の什伍の母胎に
なっていたのかもしれません。

【追記・了】

戸籍を通じて
兵員と田畑を
表裏で考えていますし、

当然、作物は兵糧にも化けます。

その意味では、

戦争の話として、

五穀から酒、御馳走、
そして、禁じ手の人肉まで
やる価値があると思っています。

ですが、大法螺を噴く前に、

せめて、歩兵のそれについては、
何とか形にしたいと思った次第。

4、まだまだ続く、鎧の話

その他、私事で大変恐縮ですが、

鎧の話をぶっ続けでやるのを
止めようと思った
もうひとつの理由は、

サイト制作者が
このテーマに1年弱取り組んで
疲弊したからです。

ですが、恐らく、
大体の定義や作り方等、
最小限の話は既に済ませたことで、

別の記事と並行して、

適当なタイミングで
ひとつひとつ
図解していこうと思います。

鎧の話目標は、
当面は魏晋期がゴールですが、

御要望や時々の流行や需要等に応じて
柔軟に対応するつもりです。

文献や論文の孫引きとはいえ、

まだまだ、自分なりに、
製造する目線に
少しでも近いかたちで図解して
紹介したいものがいくつかあります。

今回はこの辺りにしておきます。
まずは、見苦しい言い訳まで。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
薛永蔚『春秋時期的歩兵』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』
守屋洋・守屋淳『全訳 「武経七書」2』
浜口重國『秦漢隋唐史の研究』
古賀登 「阡陌制下の家族・什伍・閭里」
越智重明「什伍制をめぐって」

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前漢末期の指揮官用の鎧を復元してみよう

章立ては以下。

適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

はじめに
1、現物に忠実と思われる部分
1-1 現物の存在する脛当て
1-2 身甲と垂縁の接合部分
2、筒袖
2-1、長さが判然としない筒袖
2-2、身甲とシームレスな筒袖の甲片
2-3、採寸と甲片の数の算出の目安
3、身甲の甲片の数の算出
3-1、上下で甲片の列が異なる構造
3-2、肩・鎖骨部分の甲片
3-3、腹・胸部分の甲片
3-4、縦1段当たりの甲片の枚数
4、垂縁の甲片
5、縁部分の構造
おわりに

はじめに

今回は、前回の末尾に付けた付録の図
前漢末の指揮官用の鎧
についての解説です。

具体的には、以下。

楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)より作成。

とはいえ、

残念ながら
不明な部分が多いことで、

そうした部分は、
同時代かその前の時代の技術
参考にしました。

1、現物に忠実と思われる部分
1-1 現物の存在する脛当て

それでは、本論に入ります。

まず、学術書・論文の内容や
当時の俑の写真から判断したうえで

確実であろうと思われる部分について
触れます。

早速ですが、以下のアレな図を
御覧下さい。

前掲図を加工。

赤枠の四角が、当該の部分です。

まず、左側の枠について。

これは、御覧の通りの脛当てでして、

元となる資料は
楊泓先生の『中国古兵器論叢』
掲載されていた白黒の写真。

洛陽郊外の墓よりの出土です。

余談ながら、この御本、
和訳も出ていまして、

専門分野ド真ん中の
来村多加史先生の綺麗な訳です。

大学の図書館等に
配架されていることが多いと
思われますが、

古代中国の武器・防具に
興味のある方には
一読を御勧め致します。

さて、ここで困ったのは、
当該の写真が、
図とは上下が逆になっている点。

ですが、解説には
「于人架的足部出土一領鉄鎧」と
書かれてまして、

とはいえ、脛当ての構造上、
下に広がるものはない筈でして、

苦渋の決断ではありますが、

敢えて、参考文献に
若干の異論を呈すこととしました。

後述しますが、

この辺りの話は、実は、
甲片の縛り方にもかかわって来るので
面倒な話につき。

続いて、その甲片について。

この脛当ては、
足1本に対して
左右に分かれるタイプで、

甲片の数は、
片側で縦8段・横6列。

また、甲片の大きさは
分かりかねます。

ただ、脛当ての丈については、

当時の成人男性の平均身長
大体150cm程度と仮定すると、
(秦尺・6尺で換算。
漢尺だと現実味に欠けるかと。
典拠は『周礼』と記憶。)

少なくとも20cmを
超えることで、

後述する、
身甲(胴体の部位)の甲片とは、

恐らくは
種類(面積)が異なるものと
推測します。

また、縁の部分を
直線にならす工夫も、
同じ写真から判明しました。
―かなり見難いですが。

要は、甲片の底辺が
水平になっていまして、

これを利用して、
最上段の甲片は上下を逆にして
平にならす、という方法。

膝裏の傾斜部分にも、
この工夫が施されている
可能性があります。

その他、余談ながら、
モデルの俑は
彩色の長靴を履いておりまして、

楊泓先生によれば、
これが指揮官である証拠のひとつ
なんだそうな。

因みに、兵卒は靴を履きます。

また、図では
脛当てと靴の組み合わせに
していますが、

隙間部分の多いであろう長靴と
脛当ての組み合わせでは
実用性に欠けるかと思いまして、

便宜上、そのようにしています。

また、靴下の普及は
モノの本によれば
三国時代以降だそうで。

もっとも、軍や都市部に
限った話だとも思いますが。

1-2 身甲と垂縁の接合部分

続いて、身甲と垂縁の甲片について。
図の右側の赤枠部分です。

前掲図を加工。

この2種類の甲片の接合部分の
上下逆の図と、

右下の甲片の単片の図が、

有難いことに、縮尺付きで、

先述の『中国古兵器論叢』
掲載されていました。

実は、このタイプの鎧の
身甲部位の甲片の一部が、

呼市二十家子漢城から
出土しています。

したがって、実物を観察のうえ
当該の図を描いたものと
推測します。

では、サイト制作者が、
どうして上下逆という
参考文献と異なる解釈
したかと言いますと、

この2種類の甲片が
縦で連結されている部位は、

身甲と垂縁の接合部分しか
考えられなかったためです。

【追記】

その後の調べから、
身甲と肩甲の連結部分の可能性
考えられることが分かりました。

したがって、

後日、このパターンも
図解します。

【追記2】

で、以下が当該のパターン。

楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)より作成。

【追記・了】

加えて、先述の脛当ての
甲片の上下の並び方
その根拠のひとつです。

2、筒袖
2-1、長さが判然としない筒袖

以下は、部位の構造が
必ずしも判然としない部分について、

図のように描くに至った
根拠めいたものを綴ります。

まずは筒袖について。

早速ですが、例の図の
青枠の部分を御覧下さい。

前掲図を加工。

そもそも、

この図のモデルとなった俑
咸陽は楊家湾から
1965年に出土したものです。

言い換えれば、
衛青・霍去病等の墓のもの。

現物を御覧になりたい方は、

例えば、百度一下のような
中国の画像検索で、

「咸陽 楊家湾 俑」などと
検索を掛けると、

現物の写真がいくらか
出て来ます。

さて、この俑、
右手の人差し指で天を指し、
左腕の袖はまくられています。

ここで注目すべきは左腕。

前腕が剥き出しになり、
まくられた戦袍と下着の襦が
上腕のした半分を占めています。

また、過去の記事で紹介した
武帝時代末期の
盆領(襟)付きで前開きの札甲も、

筒袖は上腕の半分までの長さでした。

一応、図も掲載します。

楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)より作成。

一方で、大体同時代の前開きの
魚鱗甲の復元品も存在しまして、

この鎧の筒袖の長さ
上腕の全てを覆っています。

したがって、
前漢の後半から末期における鉄鎧の
筒袖の長さは、

上腕の下半分から全てを覆う程度
であると言えると思います。

2-2、身甲とシームレスな筒袖の甲片

次いで、筒袖の甲片の種類ですが、

何故、身甲と筒袖が同じであるという
解釈をしたかと言いますと、

現物の俑の双方の部位の
甲片の質感が同で
継ぎ目や境界線といったものが
見えないからです。

逆に、身甲と垂縁は
明らかに描き分けてられています。

これも、現物の写真を
何枚か見比べると
判然とするかと思いますが、

特に、垂縁には
縦の線が入っています。

この流れで、
身甲と筒袖の継ぎ目についても
触れます。

図の青枠の左側の、
枠内の左部分です。

先の武帝時代末期の
筒袖のパターンからすれば、

身甲と筒袖の甲片は
脇の継ぎ目で
垂直に交わります。

その仮定で
この継ぎ目の図を描ました。

ですが、このパターンだとすれば、

特に、身甲の甲片の場合、
甲片の穴が限られていることで、

筒袖の全ての甲片を繋ぐことが
出来ません。

よって、魏晋期の両当甲のように
脇や肩には刃は通さないものの、

過酷な風土で紐が摩耗していた場合、

掴み合いで袖がもげるような
弱点はあったのかもしれません。

また、袖口の直径ですが、

モデルとなる俑では、

デフォルメされているとはいえ、

筒袖から戦袍や襦が
大きなしわも作らずに
伸び伸びと出ていることで、

かなりの大きさであったと思います。

サイト制作者は、
身甲の丈の半分程度と見ました。

2-3、採寸と甲片の数の算出の目安

ここで、筒袖の長さと直径の
長さや比率めいたものに
或る程度の見当が付きましたので、

甲片の大きさと照合して、

縦横の枚数を推測しようと
思います。

その際、似たような形状の鎧
ひとつのモデルにします。

以下は、以前に紹介した
秦の歩兵用の鎧です。

咸陽の兵馬俑の模写です。

楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)より作成。

で、これの何が参考になるかと言えば、

全体の丈と身甲・垂縁の大体の比率が
分かっている点です。

具体的には、丈64cm
身甲・垂縁の比率が大体3:1。

恐らく、今回「解剖」する鎧も、
同じ歩兵用の鎧につき、
各部位の比率自体は
この鎧と大差ないものと想像します。

さらに、以下の図の
右側の青枠を御覧下さい。

前掲図を加工。

この比率は、

『中国古兵器論叢』にあった
先述の秦の鎧の
縮尺付きの図

サイト制作者が
定規を当てて
弾き出したものでして、

古代中国における
少なからぬ歩兵用の鎧に
当てはまるものと
想像しますが、

当然ながら
素人の浅知恵につき
あくまで御参考まで。

何かしらの議論の
叩き台になればと思います。

それはともかく、

今回の鎧の筒袖の長さを
肩から上腕の半分までと
仮定しますと、

概算で、大体以下のような
計算になります。

全高64cmの鎧であれば、
大体11cm程度になろうかと
思います。

また、先述のように、
甲片の繋ぎ方も分かっています。

具体的には、縦2.5cmの中で、
上下の甲片の重複部分を引いた長さが
大体1.6cm。

で、11÷1.6≒6.9で
縦が大体7段程度、

―という勘定です。

因みに、上下の甲片の繋ぎ方は、
下段が外側につき、
可動部のもので、

当時の鉄鎧の甲片の厚さは
大体1mm程度。

この鎧の場合、恐らくは
身甲も同じ繋ぎ方につき、

甲片が小さいことで、

固定部の短所が
それ程露わにならないのかも
しれません。

さらに、筒袖の
縦1段=1周当たりの
大体の甲片の数
ここで計算します。

まず、先述の秦の鎧は
脇部分の穴の直径
身甲48cmの半分の24cm、

また、中心部の奥行、
つまり、背中から腹までの
直線距離は20cm。

つまり、大体の形として、
長半径12cm・
短半径10cmの楕円でして、

弧の長さの産出は
Keisanさん
エンジンを使いました。

円の弧の長さの計算とは異なり、

素人が計算出来るような
ものではない模様。

その結果、≒69.26。
面倒ですので69.3cmとします。

さらに、甲片の横繋ぎで
上下一組当たりの
重複しない部分は0.6cm。

69.3÷0.6=115.5

よって、
横列1列=1周あたりの
甲片の数は、

大体115、6枚となります。

少々分かり易くするため、
120枚弱としますか。

続いて、縦の数と同じ要領で、
断面の甲片の数
弾き出します。

まず、円周の長さですが、
計算は以下。

全高64cmの4分の3が
身甲48cm。

で、この半分が
筒袖の直径24cm。

円周率を3.14として、

24×3.14≒75.4cm

さらに、筒袖の甲片の
横列の繋ぎ方では、

左右の重複部分を引いた幅が
0.6cm。

75.4÷0.6≒125.7

126枚程度となります。
図では120枚程度としました。

計算通りだとすれば
夥しい数の甲片です。

正直なところ、
サイト制作者も
実感が湧かなかったので、

何度も数え直し、
また、図自体も、
出来るだけ甲片の枚数に即して
描きましたら、

結果として、
図のような細かさになりました。

因みに、文献によっては、

この種の魚鱗甲の所有者は、
身分の高い指揮官どころか
王のものとするものもあります。

3、身甲の甲片の数の算出
3-1、上下で甲片の列が異なる構造

筒袖に続いて、
身甲の縦横の甲片についても
考察します。

以下の図の、青枠部分です。

前掲図を加工。

まず、同じ身甲の部位内でも、

上下で甲片の繋ぎ方が異なるのが
注目すべき点です。

この点は、モデルとなる俑からでは
判然としませんが、

同時期の復元品のみならず
この後の後漢時代の
出土品にも見られた特徴につき、

敢えてこのようにしました。

図では見難いので
ここで少し補足しますと、

胸・腹の甲片(縦列)と
肩・鎖骨の甲片(横列)を
垂直に繋ぎます。

当然、双方共
同じ種類の甲片です。

その際の繋ぎ方は、
先述の脇の接合を御参考に。

で、ここで欠かせないのは、

甲片の平たい部分を外側に、
丸まった部分を内側に向けて
繋ぐ点です。

また、後述しますが、

甲片の襟や袖等といった
服や皮膚に触れる部分は、

恐らくは、裏地の布か糸で
コーティングされています。

3-2、肩・鎖骨部分の甲片

それでは、縦列の甲片の段数から
計算しようと思います。

その際、身甲の中の上下の比率を
1:3と仮定します。

まず、先程の要領で、

上の肩・鎖骨部分は
身甲48cmに対して
12cmとなります。

さらに、甲片を横に倒して
上下の重複部分を差し引いた分が
0.6cm。

さらに、鎖骨から肩の頂上までは
曲線を描いていることで、

実際の数は
もう少し多いことでしょう。

因みに、
鎧の奥行は、
先述の秦の鎧
幅の3分の2程度、

つまり幅30cmに対して、
一番深い中心部分で
20余cm程度。

丹田の断面図で
左右3:前後2の楕円になります。

さらには、

鎖骨・肩部分の曲線は
綺麗な円形の弧にはならない
かもしれませんが、

鎖骨・肩部分の
甲片の高さが12cm、
奥行が10cm余ということで、

かなり綺麗な弧を描くように
見受けます。

そこで、少々強引ですが、
高さ=奥行と仮定しますと、

以下のように
計算出来るかと思います。

2×3.14(円周率)×12
÷4=18.84≒18.9

弧の長さは大体18.9cm。

この数字を先述の
横倒しで上下の重複部分を差し引いた
甲片1枚分の高さである
0.6で割ると、

31.5となります。

つまり、鎖骨・肩の甲片は、

多い場合で
縦31、2段程度、

という計算になります。

3-3、腹・胸部分の甲片

そして、胸・腹の部分の
甲片の枚数ですが、

まず、腹・胸の部分の丈
48(身甲)-12(肩・鎖骨部分)、

もしくは、
48×0.75(%)=36で、
36cm也。

次に、甲片の縦列で繋ぐ際に
上下の重複部分を
引いた長さが1.6cm。

で、36÷1.6=22.5で
22、3段程度。
図では22と描いたので、
22段とします。

よって、身甲部分の甲片の段数は、

肩・鎖骨部分が31、2段程度、
腹・胸部分が22段程度となります。

無論、これらの数字は、
鎧全体の丈によって前後しますので、

あくまで丈64cmと仮定した場合
目安ということで
御願い出来れば幸いです。

3-4、縦1段当たりの甲片の枚数

また、縦1段(横列で1周分)
当たりの甲片の枚数ですが、

胸・腹部分のみ算出すると、

全幅30cmに対して
奥行が20余cmという楕円が
モデルに近いという仮定につき、

先述はkeisanさんの
便利な計算エンジンで
長半径15cm・短半径10cm
として算出した結果、

弧の長さは≒79.3cmと出ました。

そこで、
弧の長さ79.3÷0.6≒132
正確には132枚。

要は、縦1段=1周当たりの
甲片の数は、

大体130枚程度
という計算になります。

同じ要領で、
肩・鎖骨部分の甲片の数
計算してみましょう。

まず背面ですが、
弧の長さは、
全周79.3÷2=39.65
39.7とします。

さらに、この場合、

甲片の繋ぎ方が
縦横逆になるので、

左右1組当たりの
重複していない部分は1.6cm。

39.7÷1.6≒24.8

よって、鎖骨・肩部分
背面・縦1列当たりの甲片の数は
24、5枚程度となります。

さらに前面ですが、

首元の一番下の段の狭い部分の計算に
限定しますと、

左右の弧の合計を、
大体半周の3分の2と
仮定します。

39.7(半周)×0.67
≒26.6
(鎧前面左右の甲片部分の弧の長さ)

26.5÷1.6≒16.6
(鎧前面左右の甲片の数)

したがって、
鎖骨・肩部分の一番下の段の
左右の片側の甲片の数は

概算で8~9枚程度となります。

首元の縁が傾斜していることで、
当然ながら、上に行くにつれて
前面の甲片の数は漸減します。

そして、後述しますが、

その際に出来る凹凸は、

恐らくは、甲片の底面分を当てて
縁をならします。

4、垂縁の甲片

続いて、垂縁(裾)についても
触れます。

下記の図の青枠部分。

前掲図を加工。

甲片の大きさや繋ぎ方は、
青枠の右側の図にある通りです。

鎧の丈を64cmと仮定すれば、
垂縁は16cm程度。

この部分の甲片は不明な部分が多く
目分量で恐縮ですが、

上下の重複部分を引いた長さは、
上下の甲片1組当たり、

穴の位置から考えて、
縦2.2cm、横2cm
計算しました。

因みに、図中の甲片の連結図は
身甲の甲片との連結が主でして、

左右の連結を考えると、
図中の幅では重複部分が狭く、

1.2cmの幅では
糸が緩むように思われます。

したがって、
縦列の甲片の枚数
16÷2.2≒7.3で
7段程度。

また、横列の枚数については、

先程鎧の胸囲
大体79.3cmと計測したことで、

この場合、
その半分の39.65≒39.7とし、

先述の、甲片の左右の重複分を引いた
1枚当たりの幅2cmで割ると、

39.7÷2=19.85で、

身甲部分と連結する
一番長さのある最上段の部分
20枚前後に相当します。

さらに、縁の部分の長さを引くと、
これから2、3枚程度少ない数となり、

大体、17、8枚程度と
見積もるのが良いのかもしれません。

また、残念ながら、
垂縁の背面部分の詳細は不明です。

先述の秦の歩兵用の鎧の構造を
参考にすれば、

前面の方が少し長いものと
なろうかと思います。

5、縁部分の構造

次に、縁の部分について。

下記の図の青枠部分です。

前掲図を加工。

これも、詳細が不明な部分です。

まず、赤色としたの理由は、
復元品の色が赤であったことです。

さらに、モデルとなる俑も、
身甲の縁の大部分は
塗装が剥げて灰色になっており、

一方で、垂縁の縁は赤色で、

サイト制作者も
最初はこの矛盾に戸惑いました。

ですが、よく見ると、
ところどころに
赤色が残っておりまして、

これで間違いなかろうと。

むしろ、問題なのは
材質の方です。

以下の図のように、

秦の高級指揮官用の
古いタイプの鎧であれば、
鎧の縁に裏地の生地が付きます。

楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

一方で、同時代の前開きの魚鱗甲
袖や首元が幾重も赤い糸か布で巻かれて
コーティングされていまして、

今回復元を試みる鎧も、むしろ
後者の方法かもしれません。

また、首元の縁部分の場合、
甲片を縦に繋いだ際に出来る
傾斜部分の凹凸に対する処理ですが、

先述の脛当ての
上下の甲片の凹凸への対処と
同じ工夫が考えられます。

つまり、凹凸部分に対して、

甲片を上下逆にして
底面部分を
斜め方向に宛てることで、

平坦にならす訳です。

首元や筒袖の縁部分を
縁を糸でコーティングする前には、

恐らくは、その前の工程で
こういう処理を施したと
想像します。

おわりに

今回は、怪しい計算ばかりの
事務的な内容で恐縮です。

結論をまとめると、
以下のようになります。

1、出土品や参考文献の内容から、
恐らく、モデルの俑に
忠実だと思われるのは、

脛当てと身甲と垂縁の接合部分である。

したがって、以下、2以降は、
同時代かそれ以前の技術に基づく
想像による。

2、筒袖は長さが判然としない。
今回の前漢末の魚鱗甲については
俑に基づき上腕の半分とした。

ただし、同時期の出土品・復元品には
上腕の全てを覆うものと
その半分を覆うものの双方が
存在する。

3、鎧の各部位の採寸の
ひとつの目安として、

秦代の兵馬俑の鎧を
モデルにする手がある。

全高64cm・全幅30cm・
中心部の奥行が20cmと仮定し、

その上で、各部位間の
大体の比率を算出する。

弧の長さは、
楕円であれば検索エンジンを使用する。

3、身甲の甲片は、
上下で繋ぎ方が異なる。

上(鎖骨・首元)は横
下(胸・腹)は縦に繋ぐ。

4、主要な部分の甲片の数は
以下のようになる。

筒袖

縦7段程度
横1列の当たり甲片は120枚弱

身甲

鎖骨・首元部分

縦32段程度
横1列当たりの甲片は
背面で24枚程度

胸・腹部分

縦22段程度
横1列当たりの甲片は130枚程度

垂縁

縦11段程度
横1列当たりの甲片は
最上段で20枚程度

5、袖口・首回り等の縁の部分は、
裏地の布か糸で
コーティングされている可能性がある。

また、傾斜の部分の凹凸は、
脛当てに使われた技術からして、

甲片の底辺を使って
ならされている。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
楊泓『中国古兵器論叢』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」
『日本考古学 2(2)』
鶴間和幸編著『四大文明』
篠田耕一『武器と防具 中国編』

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学術論文を取り敢えず読んでみよう

今回も長くなったことで、
以下に、章立てを付けます。

適当にスクロールして
興味にある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

はじめに
1、学術論文との付き合い方
1-1、論文とは何か?
1-2、学術論文の取っ付き難い理由
1-3、それでも読む価値はあるのか?
1-4、高い敷居をどう潜るか?
1-5、知の橋頭保を確保せよ
2、学術論文の探し方
2-1、検索サイトとキーワード
2-2、タダで読めるナルホド論文
2-3、学術書が分厚くて高い理由
2-4、学術雑誌はどこにある?
3、学術論文の生態
3-1、一番不要な冒頭部分
3-2、論文の常識は書き物の非常識?!
3-3、研究者のセールス御断り
3-4、激辛がクセになる本文
3-5、結論と展望と予告倒れと
【雑談】4、実践?!架空論文を読んでみよう
4-1、して、論文の主題は?
4-2、先行研究は愚策だらけ
4-3、史料読解とその手抜き読み
4-4、イロイロな「難しさ」
4-5、表も説明の助けとなる
4-6、瓦解する壮図と悲劇の英雄
4-7、論文では敗将も兵を語る
4-8、研究者は裴松之にあらず
4-9、出師の表と研究史の行方
おわりに(結論の整理)
【主要参考文献】
【場外乱闘編】多分、こんなの!前漢末の魚鱗甲(完成した図解の掲載)

はじめに

今回は、予定を変更して
学術論文の生態
変わった読み方について綴ります。

恐らく、著者の先生方が読まれたら
卒倒するような邪な内容であることを
予め御断り申し上げます。

予定変更の理由は、

恥ずかしながら、今描いている図が
完成までまだ時間が掛かることで、
代わりの記事を用意した次第。

奇病が流行しているうえに
連休も近いことで、

特に、腰を据えて
読書をなさる方には
多少なりとも御役に立てれば
望外の幸せで御座います。

加えて、最後に、
未完成の図についても
多少言及します。

1、学術論文との付き合い方
1-1、論文とは何か?

さて、学術論文とは、

コトバンクさんによれば、
新しい研究成果を内容とし、
一定の構成を持った論文、と、
あります。

要は、調べ事を
まとめた書き物ですが、
新説でなければなりません。

イメージとしては、

夏休みの自由研究を
各段にアップ・グレード
したもの、

と、でも、言いましょうか。

さて、この種の書き物の
おおまかな流れとしては、

まず、何かを主張する際に、

それまでの研究で
明らかにされなかったことを挙げ、

その課題について、

証拠を提示して
専門的な方法で結論を導きます。

また、理詰めで物事を説明する
必要があるため、

小説のような
情緒的な表現を排した
極めて事務的な文章になります。

具体的な手順を言えば、

アリバイ崩しのようなロジック
好例でしょうか。

例えば、奥様が御亭主を
邪なDVDを隠し持っている、と、
吊るし上げる際、

証拠となる写真を隠し撮りして突き付けたり、

先方が隠すタイミングで
現場にガサ入れを掛ける訳です。

1-2、学術論文の取っ付き難い理由

で、その学術論文の内容は、

実は、細かくて論旨の絞られた
秀逸な話が多く、
その意味ではマニア垂涎モノです。

しかしながら、

大抵のものは
専門的な用語や概念の理解が前提
書かれていまして、

オマケに、初心者には分り難い
研究のルールもあり、

文体自体も
極めて事務的で味気なく、

結果として、
大抵の方にとっては
取っ付き難い書き物、と、
なる訳です。

浅学なサイト制作者とて、

専攻分野以外の論文なんぞ、

その内容の大半を理解せよと
言われたところで、
思考回路がショートするのが関の山。

ですが、読後には得るものも相応にあり。

したがって、サイト制作者が思うに、

当該分野の
研究者や院生でもなければ、

別に、論旨まで理解しなくとも良い
とも思う訳でして。

無論、サイト制作者も
古代中国史も素人です。

1-3、それでも読む価値はあるのか?

それでも、例えば、

物珍しい図版や表を見たり
見慣れない語句を読んだり、

延いては、
高度な考え方の一端に
触れたりするだけでも、

こういう書き物を
読み慣れない方々にとっては
十分な成果だと思います。

と、言いますのは、

商売を意識した
新書や小説、漫画等では
入手の難しい
貴重でレベルの高い情報が
氾濫している世界につき。

何せ、一次情報か
それに限りなく近い
情報源を持っている人が、

そのオイシイ部分を抜き出して
書き物にまとめたのが
学術論文、という訳でして。

1-4、高い敷居をどう潜るか?

―そうです。
モノは考えようです。

例えば、
論旨に拘らなければ、

新聞の見出しで
読む記事を選ぶように、

興味のある部分から読んでも
良いと思いますし、

最後に書かれている
結論から読んでも
良いと思います。

あるいは、結論だけ、
興味のある部分だけ、でも、
良いと思います。

読者の皆様が
本当にその分野に興味があれば、

例え、その時は分からなくとも、

ヨソで知識を増やした後で
再度読み直せば良いだけの話につき。

先程のDVDの話で言えば、

尋問の動機や
隠匿から発覚までの
時系列的な流れはどうでも良くても、

御亭主の好まれるDVDの中身や
険悪になった夫婦間の
生々しい遣り取り等に
興味がある方も
いらっしゃるかと思います。

まあ、他人の喧嘩を楽しむ場合は、
大抵こんなものでしょう。

余談ながら、
サイト制作者の幼少期のプロ野球は
乱闘全盛期でして、

選手の皆様には
生活が掛かっていることで
申し訳ないながらも、

アレがテレビ観戦の楽しみのひとつ
でもありました。

1-5、知の橋頭保を確保せよ

とはいえ、
そのような摘まみ食いのような
読み方でも、

何本も読んでいれば、

共通部分や研究の争点が見えて来て
その分野のイロハは
分かるかもしれませんし、

そうでなくとも、

興味のある1本を大雑把に読み、
難解な言葉をリスト・アップして
辞書やネット等で調べたりしていけば、

或る程度のことが
分かったりするものです。

このような見地から、

そもそもの学術論文の探し方や
大体の構造を説明し、

そのうえで、

美味しそうな部分
労少なくして吸い取るための
コツめいたものを挙げていこうと
思う次第です。

2、学術論文の探し方

2-1、検索サイトとキーワード

前置きが長くなり、申し訳ありません。

さて、まずは、
論文の探し方ですが、

手っ取り早く探したい場合は、

国立情報学研究所の検索サイト
探します。

アドレスは以下。
ttps://ci.nii.ac.jp/
(1文字目に「h」を補って下さい。)

ここで注目すべきは、
打ち込むキーワード。

正確な論文名や作者名を
打ち込む必要はありません。

それどころか、

研究者の先生方の中には、

細かく調べられることで、

若い頃の未熟な書き物を読まれる方が
恥ずかしいという方が
いらっしゃるかもしれません。

それはともかく、まずは、
大体2、3の言葉を打ち込みます。

例えば、三国志関係の場合、

後漢、魏晋、曹魏、孫呉、蜀漢、
西晋、といった時代や国号。

曹操、諸葛亮、劉備、といった
有名人の人名。

因みに、武将よりも文人の方が
研究は多いです。

その他、兵戸制、九品中正、屯田、
租庸調、将軍、名士、都督といった、
制度や職階、属性等の専門用語。

その他、政治、経済、税制、農業、
服飾、といった、漠然とした
カテゴリー等。

これらを、御自分の興味に合わせて
組み合わせます。

ヒットすれば、
論文のリストが出て来ます。

その中で、
色付きのアイコンのあるものは、

リンクを辿っていけば
論文のPDF形式のファイルを
無料でダウンロード可能です。

大抵は、版元が大学の紀要論文です。

2-2、タダで読めるナルホド論文

折角ですので、

上記の検索サイトから
PDFで無料でダウンロード可能な
論文・研究ノート等から、

三国志関係を中心に、
面白いものをいくつか挙げます。

「面白い」というのは、
ここでは、

例えば、図や表が充実している、
武将の考証に
役に立ちそうである、
話のあらすじの理解を助ける、等を
意味します。
(以下、著者名敬称略、副題省略)

当然、サイト制作者の主観が
相当入っていますので、
悪しからず。

石井仁他
「漢六朝の人名に関する覚え書き」

石井仁
「六朝時代における関中の村塢について 」
「六朝都督制研究の現状と課題 」
「赤壁研究序説」
「都督考」

満田剛
「蜀漢・蒋〔エン〕政權の北伐計畫について 」

上田早苗
「後漢末期の襄陽の豪族」

高橋工
「東アジアにおける甲冑の系統と日本」

並木淳哉
「曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次『北伐』」

落合悠紀
「後漢末魏晋時期における弘農楊氏の動向」

門田 誠一
「魏志倭人伝にみえる『邸閣』の同時代的意味」

山口正晃
「曹魏および西晋における都督と将軍」

津田資久
「劉備出自考」

2-3、学術書が分厚くて高い理由

検索サイト以外に
論文を探す方法は、

例えば、

新書や初心者向けの
ガイドブック等も、

大抵のものには、

脚注や巻末に
典拠が書かれています。

複数の論文が1冊の本にまとまっていれば
しめたものですが、
(例え、分厚い本でも、
サイト制作者にとって必要なのは
その中の30ページ程度とか、
ザラにあります。)

中には、雑誌に掲載されている
ケースも往々にしてあります。

研究者の書く分厚い本は、
書き下ろしではなく
論文集が多いと思います。

中には、
学位論文を手直しして
出版したケースも
少なからずあります。

で、よくあるケースとして、

個々の論文の話が
色々な分野に飛び火しているので、

本のタイトルが嘘にならないように
漠然としたものにする訳です。

そういう本がクソ高いのは、

本屋さんも先生方も、

売れないのを見越して
発行部数を絞っているからです。

そりゃ、出版社さんや
著者の先生方とて、

好きで高飛車な値段を
付けている訳では
ありませんで、

新書同様の価格でも、

それだけ売れて
広く読まれて
書評サイトなんかで
賛否両論沢山貰った方が
嬉しいと思いますよ。

一生懸命書いたものにつき。

一方で、こういう本を
自分の講義の受講者に
教科書として買わせる先生方も
いらっしゃいます。

テキストとして
手っ取り早いからでしょうが。

そして、暫くして、
サークルの部室の本棚や
大学近辺の古書店の棚に
並んだりします。

ワルい学生さんも
少なからずいることで。

ところが、
そのような御本の中には、
たまにヒットするものもあるので
不思議なものです。

2-4、学術雑誌はどこにある?

さて、分厚い学術本のユニットをなす
論文が掲載されている
学術雑誌を実際に手に取りたい場合は、

まずは、各種図書館の検索ページで探します。

大学や県立図書館レベルでないと
中々見当たらないかと思いますし、

あっても、新しい号でなければ
書庫に眠っているケースが大半です。

因みに、国公立大学の付属図書館は
一般利用や貸し出しは可能ですが、
一応、利用規約等を
ホームページで御確認下さい。

そうして索敵が成功すれば、
図書館の司書の方に、

「この雑誌のこの号が
読みたいんですけど。」

と、聞けば、

快く引き受けてくれるか、
あるいは書庫に入れてくれます。

付近の図書館にない場合は、

相互貸借という
遠方の図書館から
取り寄せることが出来る
制度があります。

ですが、送料は自己負担。

3、学術論文の生態

3-1、一番不要な冒頭部分

さて、いよいよ、
漸く入手出来た論文の読み方
入ります。

まず、恐らく目にするのは、
冒頭の部分かと思います。

「はじめに」といった
つまらなそうな見出しがありますね。
―このサイトもそうですが。

しかしながら、実は、
研究者以外の人にとっては、
一番不要な部分です。

で、恐ろしいことに、

書く側にとっても、

一番最後に書く
煩わしい部分でもあります。

そりゃそうです。

書く方も書く方で、
調べる過程が面白いのであって、

事務的な書き物が
面白い訳がありません。

筋道としては、
先行研究の流れを見て
モノを書くのが正道なのでしょうが、

そのような殊勝な人は多くはなく、

自分の調べ事の現状に
先行研究の動向を無理やり合わせ、

締め切りを睨みながら
全ての帳尻を合わせるという
高等なテクニックで
モノを書くのです。

で、その結果、
低からざる確率で、

主にスケジュール面で破綻して、
色々見え透いた言い訳をして
編集の方を困らせる、と。

3-2、論文の常識は書き物の非常識?!

―と、言いますのは、
以下のような理由があるためです。

簡単に言えば、
冒頭の部分で自分の調べ事の
存在意義や正当性を主張する訳です。

我こそは常山の趙子龍、下郎推参!
と、やる訳です。

何の話かと言えば、

今迄の他人様の研究の粗探しをし、
そのうえで、

自分の研究は
今からその欠点を克服するぞ、

我こそは正義で
貴様等賊共は刀の錆びにしてやるから
首を洗って待ってろと、

啖呵を切る訳です。

要は、研究のルールに乗っ取った
御約束でして、
書かされる類の部分。

手紙で言えば、
時候のあいさつです。

部外者には中国語の「手紙」の日本語訳、
程度の扱いでも良いかもしれません、
とは、さすがに言い過ぎか。

3-3、研究者のセールス御断り

もっとも、身分の不安定な
気鋭の大学院生の先生方
(特に、博士後期課程)にとっては、

質の高い論文を数多く書けば
それだけ就職先が増えますし、

反対に、コピペ論文発覚でもすれば
キャリアが終わることで、

自己防衛と売り込みという
攻防一体の戦術
必死になる訳です。

ですが、そのようなしがらみのない
読者の方々にとっては、

家電製品で言えば、
説明書に書かれた
法的な免責事項のようなもの。

製品の免責事項を熟読する人は
あまりいないと思います。

したがって、

興味のない方が
こういうものに付き合う必要は
微塵もありません。

ただし、この冒頭部分には
利用価値もあります。

その論文に関係する研究が羅列され、
そのうえ、要点が手際良く整理されています。

細部に神は宿る、とでも言いますか、
研究者の力量が滲み出る訳です。

まあその、読み慣れた方や
似たような書き物を
探したい方は御一読を、という程度で。

3-4、激辛がクセになる本文

続いて、論文の本体に入ります。

第〇章、第〇節、といったように、
章立てになっている部分です。

ここでは、
主張した説を
資料を用いて証明します。

先述の推理モノで言うところの、
犯人のアリバイ崩しの部分に
相当します。

謂わば、論文という読み物の
核心部分ですが、

方法が専門的なことで
最低限の知識がないと
分り難い内容になります。

ですが、その一方で、
ナマのネタが飛び交うことで、

その片鱗に触れるだけでも
一読の価値はあると思います。

例え、何かひとつでも
分かったことや
ためになったこと、
興味が湧いたこと等があれば、

それだけで十分な戦果です。

3-5、結論と展望と予告倒れと

そして、まとめの部分があります。

「おわりに」、「むすび」、
「総括」等の言葉を使います。

各章ごとに出された結論を整理し、
論文全体の結論を導く訳です。

早い話、タイトルに対する結論
手っ取り早く知りたい場合は、
まず、この部分を読まれたく。

そして、最後に、
その論文で証明出来なかったことや
次のステップでなすべきこと
挙げます。

後、謝辞として、
情報提供者等への御礼の言葉が
書かれていますが、
これは、読者には関係ありません。

それと、蛇足ながら、
著者の公約部分については、

校務や副業が忙しい、
興味を喪失した、
宗旨替えをした、
研究費が確保出来なかった、
院生が役所や企業に就職して
研究そのものを止めた、
人様に言えない事件を起こした、

―という具合に、

院生の方々や先生方々の人生にも
色々あることで、

予告は予告で終わることも
少なからずあります。

サイト制作者も、古代中国史の分野において
続編を待って久しい論文が
いくつかあるのですが、

物書きのやることは、
或る部分は、

学者も作家も漫画家も
存外変わらぬものだと思います。

「俺達の戦いはこれからだ」は、
研究者にもある模様。

【雑談】4、実践?!架空論文を読んでみよう
4-1、して、論文の主題は?

どうも抽象的な話が続いたことで、
そろそろケース・スタディ
いきましょうか。

とは言え、
馬鹿話を大量に混ぜているので、
その旨、予め御断り申し上げます。

例えば、仮に、ここに、

「既婚男性の危険物隠匿に関する考察」
という奇怪な論文があるとします。

要は、既婚の男性が、
邪なDVDを奥様にバレないように
隠す場所についてアレコレ考える、

―という内容の、

正直なところ、
褒めようのない書き物です。

具体的には、

既婚男性の劉備さん(仮名)が
無い知恵絞ってDVDを隠すための
最適な場所を考える訳です。

なお、この人、
困ったことに、

本来、ポータブルのプレイヤー等で
人目を憚ってコッソリ見るべきものを、

「男子たるもの
DVDはハイビジョンの大画面で
見ることこそ本懐。」

―などと主張する始末。

既に、この段階で、
作戦行動に
相当の制約が生じます。

4-2、先行研究は愚策だらけ

さて、本文に入る前に、

先行研究の整理として、
過去の戦訓を紐解きます。

まず、弟分の関さんは、
段ボールに隠して
プレハブに突っ込んで
どの段ボールに入れたか失念し、

もうひとりの弟分の張さんは、
そもそも隠さなかったために
奥様に一方的に絞られまして、

劉備さんは
これらの敗報を受けて、

コイツ等アホだ、
自分はその轍は踏まん、
隠すのは自宅の中に限る、と、
宣います。

4-3、史料読解とその手抜き読み

で、いよいよ論文の本体第1章。

この章では、

過去に発覚してしくじった事例を
思い起こし、それを整理します。

例えば、ゲーム・ソフトの
ラックに混入させたり、

キャスター付きの
テレビ台の下に隠したり、

―というような、
涙ぐましい事例があります。

隠した時の写真や
SNSで「絶対バレねー」と
ドヤった時の書き込み等が残っていれば、

それが、当事者がリアルタイムで残した、
所謂、一次史料となります。
(「史」料は、歴史的な資料を意味します。)

古代中国史の場合、

そのレベルの情報の正確さとなると、

後の王朝の史官が
時の皇帝様を忖度しながら編纂した
史書ではなく、

往時の心境を吐露した詩や
事務的な書簡群や出土品、壁画等
それに当たるかと思いますが、

その種のものは
分野が限定的であり、
史書の威力が依然大きいのも現状。

いずれにしても
サイト制作者や初心者の皆様にとっては
難しい漢文を相手にすることとなります。

ですが、これを当面は敬遠したければ、
すぐ後の文章を御覧下さい。

結構な確率で、
その史料の和訳や要約
書いてあります。

新しい論文程、この傾向は顕著です。

一応、用例をば。

史料1
『貂蝉の思春期の野望 昇天録』
その他10本弱を
ゲーム・ソフトのラックに
突っ込んでやったけど、

ゲームしねー
あいつにバレることなんて
ゼッテーありえね~!

(まるでイメージが
湧かないかと思いますが、
この部分が漢文と思って下さい。

史料1は六年春における
劉備のブログの記事の一部であるが、

同史料より、

劉備が妻の趣味を考慮したうえで
件のDVDを
ゲーム・ソフトのラックに隠し、

さらに、発見を回避することには
絶対の自信を持っていたことが
理解出来る。

―ですが、後日、
それまで興味を示さなかった奥様が、

ネットでイケメン主人公の
バナー広告を見て
ゲームに覚醒するという
急転直下の展開で、

ラックに手入れが入って
呆気ない幕切れと相成ります。

なお、この過程は、

奥様の友人との
メールの遣り取りが
事細かに物語っていますが、
詳細は省きます。

4-4、イロイロな「難しさ」

因みに、
例え、史料あるいは資料の
引用部分でなくとも、

文法がデタラメで
他人様が読んで分り難い文章は、
研究者にとっても悪文です。

このサイトなんぞ、
最高の反面教師です。

さらに、現物は、
簡字体や繁字体とも書体が異なり、
そのうえ腐食や破損も激しく、

それどころか、
モノ自体が偽書の可能性も
往々にしてあるそうで、
(贋作のプロも
少なからずいるという話です。)

このレベルの領域になると、目利きも含めて
判読は殆んど研究者の独断場
想像します。

最近は、現物に放射線なんかも当てるそうで。

もっとも、論文の著者も、
訳はおろか、意味の理解の難しいものを
好んで読ませたい訳ではありません。

むしろ、考えていることは
その真逆です。

小説も漫画も学術論文も、

読者が理解出来て
読者の数だけ
感想があってこその書き物です。

エラい先生方も、徒弟の頃には、

訳の分からない雑用と抱き合わせで、

調べ事の作法は元より、
文章の書き方も厳しく指導されます。

それでも、現役の研究者の書く
文章でさえ、

校正前の原稿は、
誤字・誤植・脱字で溢れかえっています。

ですので、
文章の手直しを喰らうことに
抵抗のある方は、

結局は、人間のやることにつき、
それ程気落ちなさらぬよう。

以上のように、
書く方がいくら読者に
配慮したところで、

残念ながら、
前提となる必要知識の多さが
内容を難しくしているのです。

4-5、表も説明の助けとなる

また、こういう生々しい事例を
羅列・整理する過程で、
を作ります。

隠した場所・日時・
隠匿出来た期間等が
一目で分かるようなものがあれば
便利かもしれません。

例えば、以下のようになりますか。

4-6、瓦解する壮図と悲劇の英雄

さて、この不届きな劉備さん、
度重なる失敗にもめげずに、
さらなる挑戦を企てます。

これが、第2章。

先述の失敗を受けて、
居間の大画面のテレビ付近ではなく、

自室に隠すことにしまして、

こういうのを
御丁寧にも写真に撮り、

ブログで自慢し、

そのうえ、
破廉恥にも
鑑賞した内容について
SNSで仲間と語り合いまして、

こういうのが
史料として記録に残ります。

研究者にとっては、
研究材料が増えたことで
実に香ばしい話であります。

ところが、好事魔多し。

頭を使って隠したことで、
確かに、相応の時間は稼げたのですが、

意外なところに伏兵は潜んでいまして。

それが、事もあろうに
愛する我が子という皮肉。

具体的には、以下。

息子の阿斗君が、

父親のこさえた模型で
遊びたいがために、

父の書斎で
イロイロ物色しているうちに、

御目当ての模型ではなく
ヤバいDVDを見付けまして。

で、素直でかわいい阿斗君。

あどけない表情で、
「おかあさん、これ、なあに?」と。

こういう隠匿・発覚の過程については、

第1章でやったような要領で、

劉備さんのブログやSNSへの書き込み、
奥様や阿斗君の証言等で
裏付けを取ります。

で、その結果、第2章の結論は、

第1章でやらかしたような失敗例が
ひとつ増えた、
ということになります。

これは、何と言いますか、
劉備さんにとっては苦難の道である
夷陵の戦いの開戦を意味します。

もっとも、サイト制作者としては、

「おかあさんには
ないしょにしたげるけど、
なにか、かってよ。」

と、親を強請らないだけ
エラいとも思いますが。

いえ、こういう場合は、むしろ、
狡猾な親が子供を贈賄で抱き込む方か。

4-7、論文では敗将も兵を語る

そして、各章の経過を受けて、
1章と2章をまとめた
論文全体の結論を導きます。

具体的には、以下。

悪いことをしても
必ず想定外のかたちで発覚する、と。

まどろっこしいことを嫌う場合は、
実は、ここを最初に読むのも手です。

むしろ、結論を頭に入れてから
その過程を読む方が、
全体的な流れがブレない分、

理解し易いかもしれません。

先述のように、
生々しい図版や表、史料等を先に読むか、
それとも、結論を先読みするかは、

読者の好みや性格に
よるのかもしれません。

無論、一読して論旨が掴めるようであれば、
それがベストだとは思いますが。

さて、修羅場に直面した
劉備さんの後日談ですが、

健闘空しく
奥様にぐうの音も出ない程に絞られ、

オマケに、危険物隠匿の制裁措置で
小遣いのカットまで喰らって
意気消沈し、

息子の阿斗君に、

「悪いことはいかん。
父さんのような駄目人間には
なるな。

漢書、礼記、六韜、
諸子(諸氏百家の書いたもの)、
商君書を読め。

それと、
いやらしいDVDは
結婚後しばらくは観るな」
(同箇所は、サイト制作者が
『蜀書』先主伝第二を意訳)

―と、説きます。

で、今後の展望はと言えば、

自宅の中で、万難を想定出来れば
もう少し見つかりにくい場所を・・・
となる訳で、

次のステージでは、
第四の男の登場と相成ります。

 

4-8、研究者は裴松之にあらず

因みに、論文の巻末には
注釈が付いていますが、

最後にまとめて羅列する時点で、
最早、重要部分ではありません。

最初に論文を読む分には、
無視しても可。

こういうものに構って
脳内で話の流れを整理する作業を
ぶっ壊すよりは、

無視した方が余程マシです。

で、この部分、
大抵は、引用部分の種本と
その該当箇所が書かれています。

本筋の話を補完するための
枝葉の話なども書かれています。

読んでいる最中に
詳しく知りたい部分が出て来たり、

タネ本や資料自体を
読みたくなった場合に使います。

では、どうして、
こういう小細工をするのかと言えば、

話の流れを簡素化するのが
大きいのですが、

実は、論文を書くこと自体が
限られた字数との戦いでもありまして。

著者も人間です。

要は、情報を精査のうえ取捨選択しても、

捨て切れないグレー・ゾーンがあり、
そういうものに対する
未練がましい部分も出て来る訳でして。

やったことを無駄にしたくない、

そういう半端な部分が
脚注というイジケたかたちで
顔を出す側面もあります。

論文とて、
体裁は事務的でも、

或る程度は
血の通った書き物でもありまして。

4-9、出師の表と研究史の行方

ところが、
蜀の歴史、ではなかった、
研究史に終わりはありません。

今度は、
ワルいコンサルの孔明先生
その志を継ぐという
御決まりの展開になる訳でして、

三兄弟は知恵が足らん、
金庫に隠せば済む話だ。

―と、新説を発表しますが、

ダイヤルの番号を失念して
業者に開錠を頼むという大失態を
犯しまして、

先生より一枚上手の奥様
これに乗じて
開錠の折に強引に立ち会い、

当然ながら、事が露見します。

さらには、

それでは私が、と、
何故か名乗り出た
孔明先生の商売仇の仲達先生も、

金庫の番号を秘書に託すも、

秘書と奥様が、実は、
華道サークルの仲間でして、

雑談の際、うっかり口を滑らせて
結局、失敗例の仲間入り。

死せる孔明、生ける仲達を走らす、
という故事の由来は、
実は、この一件にあり。

―というイカレた与太話は、

さすがに小学生でも
真に受けないと思います。

―斯くして、

累々たる英雄の屍のうえに
男子の野望を極限まで追求した
不毛な先行研究が積み上がります。

次世代の研究者は
大変ですよ、コレ。

何か書こうものなら、

その前に、三馬鹿や迷軍師共の
兵どもが夢の跡なアホな論文を
大量に読まされる訳ですから。

例えば、イ〇リスの
産〇革命の先行研究の整理なんか
こういう具合でタイヘンなんだそうな。

―まあ、その、
実際の論文や研究史
このようなマヌケたものではなく
進歩的で論理的なものですが、

ここでは、

ひとつの論文が書かれて、
それに付随して
研究が蓄積される流れについて、

多少なりとも御理解頂ければ、
(こんなデタラメな筋書きで
分かるか人なんかいるのかよ、と。)

一連の駄文の
存在価値があったとしておきます。

おわりに

そろそろ、今回の御話の結論
まとめようと思います。

かなりサイト制作者の主観
入っているので、

あくまで御参考、というよりは、
話半分で御願い致します。

1、学術論文とは、
コトバンクさんによれば、
新しい研究成果を内容とし、
一定の構成を持った論文である。

2、文系の学術論文の大体の構成は、
大別して、以下のようになる。

一、問題提起と先行研究の整理
二、仮説や課題等の検証や証明
三、結論の整理と展望の設定
四、脚注(各種典拠の明示等)

 

3、構成や文体は極めて事務的であるが、
その分、機能的で、情報のレベルは高い。

 

4、研究者相手の論争でも
想定しない限りは、
論旨まで理解する必要はない。

また、研究のルールに合わせて
読む必要もない。

結論や分かる部分から読むのも
ひとつの手であり、

読後、何かひとつでも
学んだことがあれば
大きな成果である。

 

5、学術論文を探す方法は、
ネットによる論文検索が
大変便利である。

紀要論文の一部は
PDFのファイルを
無料でダウンロード可能。

 

6、古代中国史の場合、
学術雑誌が配架されているのは
主に大学の付属図書館である。

国公立大学の場合、
一般利用が可能。

最寄りの図書館から
相互貸借で
取り寄せることも出来るが、
送料は自己負担。

【主要参考文献】

今回は、特にありません。

【場外乱闘編】多分、こんなの!前漢末の魚鱗甲

以下は、当時の俑と出土した甲片から
復元を試みたものです。

タダでさえヘタな絵で、

そのうえ未完成のものを
御見せするのも
恥ずかしい限りですが、

更新まで間が空いたことで、
開陳に踏み切りました。

近いうちに完成に漕ぎ付けたく。

なお、不明な部分は、
前漢末以前の鎧で見られたパターン
参考にしました。

これも、もう少し細かい部分まで
図解出来ればと思いますが、

既存の御説と喰い違う部分もあり、
特にその辺りは自信が持てないので、
あくまで御参考まで。

【追記】以下が、完成したものです。
  諸々の詳細は、後日の記事にて。

楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』より作成。

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【小記事】図解、武帝時代末期の鎧

 

はじめに

今回は、いよいよ鎧の図解と参ります。

具体的には、漢代は
武帝時代末期とされる鎧のひとつで、
前開きの鉄製の札甲です。

保存状況が割合良かったことと、
先行研究にも恵まれたことで、

今回のようなレベルで
描き起こすことが出来ました。

 

1、秦代と変わらない基本構造

それでは、早速、
自筆のアレなイラストを御覧下さい。

楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)より作成。

 

【追記】

参考にした文献の
肝心な部分を
読み飛ばしておりました。

で、今更それに気付いて
イラストを描き直した次第。
恥かしい限り。

なお、当時の鎧の高さは
大体70cm程度。

身甲の甲片の高さが4段で
垂縁が付くのであれば、

1段10cm位(訂正前は23.4cm)
でないと計算が合いません。

また、披膊の甲片の段数は、
図では4段になっていますが、
正確には6段です。

【追記・了】

 

まず、全体的な特徴について。

以前の記事で、

秦の歩兵用の鎧を例に、

古代中国における
鎧の基本構造は
この時代に定まった、という、

楊泓先生の御説を
紹介しましたが、

前漢は武帝時代末期頃とされる
この鎧についても、
それは該当するかと思います。

ひとつ目は、

身甲(胴体)部分の
甲片の綴り方です。

具体的には、

まず、横一列に環状に繋ぎ、
その複数の環状の甲片を縦に繋ぐ、
という手順です。

その際、上下に甲片を繋ぐ場合は
上の甲片を表に出し、

その甲片の下の部分と
次の段の甲片の上の部分を
接合します。

ふたつ目は、
可動部の甲片の繋ぎ方です。

具体的には、

身甲部分のような固定部とは逆に、
下の段の甲片を
に出します。

この鎧の場合は、

披膊(腕の肘より上)
・垂縁(裾)部分が
魚鱗甲になっていますが、
原則は同じです。

因みに、甲片の厚さは、

サイト制作者は
大体1ミリ程度と踏んでいます。

その根拠として、

図にもある通り、
重さと面積が
分かっていることで、

炭素鋼の比重を
7.87(鉄も、ほぼ同じ)と仮定して、
方程式でその数字を
弾きました。

もっとも、この数字も、

恐らくは、
腐食分やら夾雑物やらで
正確ではないことで、

薄い、という程度の
目安になさって頂ければ
幸いです。

 

2、特徴的な前開きと盆領

次いで、

この時代の特徴と思しき
部分について。

具体的には、前開きです。

実は、同じ時代の
似たような魚鱗甲の
復元品の鎧も、

前開きのタイプがありました。

しかしながら
サイト制作者の管見の限り、

少なくとも
後漢から南北朝辺りまでは、

兵馬俑等の出土品や
当時の壁画等からは、

前開きの鎧を
見なくなりました。

構造自体が
実戦的ではなかったの
かもしれません。

また、この鎧の兵科ですが、
モノの本(『図説 中国の伝統武器』)には
騎兵とあります。

垂縁部分の尻の部分が
欠けているのが
気になりますが、

これは、欠損が構造上の仕様かは
分かりかねます。

因みに、サイト制作者は、

秦代の戦車兵の鎧にも
大きな盆領が
付いていることで、

やはり斜陽の時代の
戦車兵のものと見ています。

弓を引いたり俯瞰するには
死角が多いのも
気になります。

さらには、秦・前漢および魏晋の
騎兵の鎧の一部には、

肩や袖を守る部位が
ありません。

また、秦・前漢時代については、

強力な国力を反映して
精巧な兵馬俑や現物が
残っていまして、

魏晋の鎧のひとつは、
有名な両当甲です。

 

3、後漢・三国時代への技術的布石

最後に、
『三国志』との接点ですが、

少なくとも、

この時代から
魚鱗甲が存在したことは
注目に値します。

後漢時代の
数少ない出土品の鎧兜
(華北の鮮卑の墓から出てるんですワ!)や
西晋時代の兵馬俑にも
魚鱗甲のものが存在することで、

甲片の繋ぎ方自体等は、

当時そのままとは
言い切れないにしても、

大いに参考になろうかと
思います。

今回は、結論めいたものは
整理しません。

以降、いくつか、
参考になりそうな事例を
紹介しつつ、

後漢・三国時代の技術についての
主要なパターンを炙り出せれば
考えております。

 

【主要参考文献(敬称略・順不同)】
楊泓『中国古兵器論叢』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』

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武器にも使える?!古代中国における鉄の作り方

例によって長くなりましたので、章立てを付けます。興味のある箇所だけでも御笑読頂ければ幸いです。

はじめに
1、鋼の二大製法、鍛鉄と鋳鉄
2、鉄鉱石イロイロ
3、鍛鉄の手順と塊錬鉄
4、硬さの目安、炭素含有量
5、心技一体の狂気の技術?!百錬鋼
6、炒鋼法の軍事利用とその威力
7、高温加熱と爆発事故
【雑談】授業と火事と宇宙人
8、ハイテク鋼材の原料・銑鉄
9、仕上げの脱炭・焼き戻し
10、炒鋼法の屑鉄再利用・灌鋼法
11、漢代の鉄器の考察
11-1、鋳造鉄器
11-2、鍛造鉄器
12、甲片の材質と繋ぎ方についての愚考
おわりに

 

はじめに

今回は鉄を作る御話、製鉄関係です。

鎧の話を期待された方には
残念ながらガッカリ回となるのでしょうが、

実は、鎧の話に因んで
何をやるのか色々考えたのですが、

鎧の話をするにしても
今後、武器の話をするにしても
避けては通れないと思いまして、

またもや回り道をすることとしました。

と、言いますのは、

先の記事でも触れましたように、

鎧の甲片の作り方どころか
設計思想にもかかわってくるからです。

故に、どうか御寛恕の程を。

後、鉄鋼に造詣の深い方に対しては
これまでにも増して
サイト制作者の浅学を露呈する回
なろうかと。

 

1、鋼の二大製法、鍛鉄と鋳鉄

そろそろ本題に入ります。
まずは、以下のアレな図を御覧下さい。

趙匡華『古代中国化学』・篠田耕一『武器と防具 中国編』・菅野照造監修『トコトンやさしい鉄の本』・柿沼陽平「戦国秦漢時代における塩鉄政策と国家的専制支配」等(順不同・敬称略)より作成。

これは当時の製鉄の手順の略図でして、
過去の記事でも掲載したものです。

要は、鉄鉱石に加熱と冷却繰り返して
鋼(鉄と炭素の合金)を作る訳です。

小難しく言えば、

原子の構造を変え、
作る鉄器の目的(武器や農具等)に応じて
炭素含有量(重量%)を調整する訳です。

【追記】

原子構造ではなく、
正しくは、結晶構造を変え、です。

(以下、原子構造→結晶構造に書き換えました。)

で、モノの本によれば、

ひとつひとつの原子が
規則正しい並び方で
配列した状態「結晶格子」
言うそうな。

(少なからぬ方がそうかもしれませんが)
イメージしにくい方は、

画像検索「結晶格子」
当たって頂ければ、
概念程度であれば、何となくは
イメージ出来るのではないかと思います。

―例えば、

低温の鉄であるフェライト(α鉄)
体心立方格子を組んでいます。

911℃面心立方格子(γ鉄)を組み、
さらに高温になるとδ鉄になり、
1536℃で溶けます。

さて、この辺りの話については、

ツイッターで知り合った
さる博学な方より
御指摘頂きまして(御本まで紹介して頂く有難さ)、

大変感謝致しますと同時に、

付け焼刃の知識の危うさ
改めて感じた次第。

中高の化学(以外の教科も)
もう少し真面目に勉強すれば良かった
かなり後悔しております。

これに因んで、学生の読者の皆様、

義務教育であれ、それ以上のレベルであれ、

ガッコウで学んだ教養は
何かと応用が効くという意味では
意外に馬鹿に出来ないものですヨ。

大学浪人したアホが言うのも
何ですが。

【追記・了】

また、前回の記事で、
鍛鉄と鋳鉄の話をしましたが、

時系列的に整理すると
以下のような区分となります。

上記のものを再掲

図の左側が、
鉄鉱石を低温加熱して(最低数百℃!)
柔らかくして叩く鍛鉄で、

右側が、
高温で溶かして
鋳型に流し込む鋳鉄

因みに、の意味は、
登場して最先端の技術であった時代、
ということです。

当然ながら、
低予算のローテクであれ
次の時代にもバリバリの現役でして、

しかも、一品モノには
欠かせないと来まして
馬鹿には出来ません。

この図で具体的に言えば、
漢代以降も
鍛鉄でも武器や農具を作っていました。

また、後漢時代に入れば、
鋳鉄と鍛鉄のハイブリッドで
作られた剣も登場します。

では、ハイテクとローテクの
分け目がどこにあるかと言えば、

高ければ結晶構造(鉄の性質)をも
変換可能な
鉄鉱石の過熱温度や、

鉄にしなやかさを出すための
炭素含有量の調整にあります。

そして、こうした技術の
レベル如何によっては、

作り出せる形と
そうでない形がありまして、

サイト制作者が
当時の出土品の形状を観る限りは、

こういう話が、延いては、
鎧の形状の話に繋がってくる
想像しまして。

具体的に言えば、例えば、
『三国志』の時代の最先端技術は
鋳鉄の炒鋼法です。

ただし、三国時代当時、恐らくは
鉄で薄型のプレートを作れる
までには至らず、

鉄製の鎧の場合、
甲片を繋ぐタイプのものしか
作ることが出来なかったと想像します。

この辺りの話は後述します。

2、鉄鉱石イロイロ

それでは、製鉄の手順について
少し踏み込んで見ていくことにします。

まず、鉱石の種類について。

先程のデタラメな図の赤枠の部分。

さらには、以下の表を御覧下さい。

佐藤武敏「漢代における鉄の生産―製鉄遺蹟を中心に―」『人文研究 』第15巻第5号

これは、当時の主要な鉄鉱石
その大体の産出地域を表したものです。

さて、古代中国における鉄鉱石の中で
最も中心的なものは赤鉄鉱。

ブラックダイヤモンドだの、
アイアンローズだの、

流行歌のタイトルか
競走馬の馬名のような
麗しい別名がありますが、

写真で観ると、
タダの褐色の石ころにしか見えません。

もっとも、ダイヤの原石も
似たようなものでして、

発見当時、南アの子供が
蹴って遊んでいたようなシロモノです。

こういうのを、古の諺で、
豚(サイト制作者)に真珠と言います。

―冗談はさておき、

以下は、佐藤武敏先生の御説ですが、

華北は磁鉄鉱等の
火成岩系のものが中心です。

火成岩は、要は、
マグマが冷え固まったものでして、

溶かすのに高い温度が必要な訳です。

で、坩堝(るつぼ)製錬による
赤鉄鉱、褐鉄鉱の利用から始まり、

フイゴ(送風設備)の進歩によって、
磁鉄鉱の利用も始まったそうな。

もっとも、金属を高い温度で
溶解すること自体は、

春秋時代以前から
銅で行われていました。

そう、銅を製錬する技術を応用して
製鉄を行う訳です。

因みに、戦国時代に燕や斉、中山国等が
高い製鉄技術を持っていたのは、

従来の高い銅の精錬技術のみならず、
現地で産出する鉄の種類による部分も
少なからずあったのでしょう。

また、製鉄でフイゴの利用となると、
前漢以降の御話です。

高温を出して鉄の性質を変えるために
こういう設備が必要なのですが、
それは後述します。

一方で、今エラいことになってる
河南や湖北(戦国時代の魏や楚の辺り)
で採鉱される鏡鉄鉱や砂鉄は、

水成岩系―要は、砂・砂利・粘土等が
海底で固まったもの、につき、

低温で還元し易いので、
錬鉄=鍛鉄から始まったそうな。

因みに、単なる鍛鉄のような
低い温度でしか加熱されていない鉄は、

叩いて形状を変えたり、

あるいは、微量の炭素を含ませて
しなやかさを出したりすることは
出来ますが、

後述する銑鉄や
ソルバイト(=微細パーライト)程の
堅さがありません。

この辺りのカラクリは、
後程詳しく触れます。

さて、北から、華北、河南・湖北、
―と、来まして、
その南の江南は、と、言えば、

割合新しいタイプの炉である
竪炉の遺跡が多いことで、

製鉄が盛んになったのは
漢代以降の話とのこと。

残念ながら、
採れる鉄鉱石の性質は不明です。

また、中原の製鉄技術が
南の果てまで普及したのは、
三国時代以降の話だと思います。

3、鍛鉄の手順と塊錬鉄

それでは、いよいよ、
具体的な製鉄の手順の説明
入ります。

因みに、この辺りのタネ本は、
趙匡華先生の『古代中国化学』。

和訳が手頃な価格で出版されています。

まずは、初歩的な製鉄法である
鍛鉄=錬鉄について。

早速ですが、表の左側の赤枠を御覧下さい。

上記のものを再掲

要は、ふたつの手順です。

まず、鉄鉱石(≒酸化鉄)を木炭を燃料に
最低数百℃~911℃未満で
加熱します。

鉄に炭素を含ませることによって
しなやかさが出るのです。

しかしながら、
この温度では鉄は熔解しません。

先述のように、
911℃を越える温度に達するには
相応の設備が必要です。

で、低い温度の意味するところは、
結晶構造が変わらない(後述)
以外には、

酸化鉄は完全には還元されず、
浸み込む炭素もそれ程多くはありません。

さらには夾雑物(不純物)
色々残っています。

そこで、熱いうちに
繰り返し打ち鍛えます。

こうすることによって、
夾雑物を除くことが出来ます。

そして、これで出来た鉄を
「塊錬鉄」と言います。

さらに、その塊錬鉄を原料に
同じく低温で加熱して柔らかくして
叩きまくります。

これによって、
夾雑物は除かれ、
表面に炭素が浸み込みます。

しかしながら、鉄鉱石の内部には
炭素が浸み込んでいません。

そこで職人は、
鉱石を伸ばして折り畳み、鍛打、

あるいは、いくつかの鉄片を
「鍛」接します。

まだ、「溶」接する技術はないのです。

で、最後に、
熱い鉄を冷水で冷却する
所謂「焼き入れ」を行います。

後述するマルテンサイト変態で、
向こうの言葉で「淬火(さいか)」
と言います。

(ただし、厳密には、この経路は、後述する銑鉄を経由してはいませんが。)

これで硬度を高めます。

以上、原料の塊錬鉄を
加熱・鍛打・冷却する一連のサイクルを、
「浸炭鋼」と言います。

これが、戦国時代の最先端技術で、
燕の剣はこの技術で作られたそうな。

また、還元が不完全なことが幸いして
炭素の含有量が非常に少ないのも
長所です。

少なければ少ない程しなう
―鋭利で折れにくいので、
武器としては重宝します。

4、硬さの目安、炭素含有量

因みに、塊錬鉄の炭素の含有量(質量%濃度)は
大体、0.1~0.25%程度。

少ない程、柔らかいのです。

これも後述しますが、
「鋼」の定義
炭素含有量0.0218~2.14%の
鉄と炭素の合金。

その中で、
0.25%以下のものを低炭素鋼と言います。

後述する銑鉄は4%程度ですが、

これくらいの含有量になると
確かに堅いものの、しなわず脆いので、

大抵の場合、
そのままの鋼材としては使いません。

また、純鉄(ナマの鉄鉱石)の炭素含有量は
0.03%。

何だか小難しい話で恐縮ですが、

要は、塊錬鉄は引き延ばせばよくしなう、
程度の理解で御願い出来れば幸いです。

5、心技一体の狂気の技術?!百錬鋼

ところが、話はこれで終わりません。

この浸炭鋼は、やればやる程、
夾雑物を飛ばして
強度が増すことで、

質の良いものを作ろうと思えば、

このサイクルを
気が狂う程の回数を繰り返す訳です。

こういうのを「百錬鋼」と言います。

王侯貴族の帯びる宝刀なんかは
まさに心技一体の労力の賜物でして、

当時でさえ、
やる方は重労働というのが
世間の相場だったそうな。

曹操が名匠に作らせた
5振りの宝刀なんぞ、
完成までに3年掛かったそうな。
(原料は恐らく銑鉄だと思いますが)

そう、こういうところは
高価な日本刀も似たようなもので、

大枚はたいて求める武家達を見て
コイツ等アホかと首を傾げたザビエルと、

陣地を守れるからと、
ひと振りの名刀よりも100のナマクラと
言い放った毛利元就。

そういう領域になると、

当然ながら、
兵器よりも美術品や工芸品に近い
位置付けなのでしょう。

今日日の女の子も、何も、

ひとかどの美術館や資料館の展覧会に
足を運んでまで
錆びだらけのナマクラを
観たい訳ではなかろうと。

もっとも、
宝刀であれナマクラであれ、

後世の調べ物が好きな人間にとっては
残ってくれるだけ
有難いとは思いますが。

5、鋳造の最低条件、高温加熱

続いて、高温による鉄鉱石の加熱について。

いよいよ、
漢代における
世界レベルのハイテク・
炒鋼法の説明に入ります。

アレな略図で言えば、
最初の工程は以下の赤枠の部分。

上記の図を再掲。

は、911℃を越えると熔解を始め、

1392℃までのレンジで、
先述のように、
結晶構造―つまり、性質が変わります。

911℃未満の鉄をフェライトと言い、

911℃以上で加熱されて熔解した鉄
オーステナイトと言います。

そして、この違いは、ズバリ硬度です。

以下は、ネットの拾い読みで
浅学の極みですが、

モノの堅さを計測するにあたって、
ビッカース硬度(硬さ)という
世界的な基準があります。

ミリタリー・マニアは
一度は耳にしたことがあろう、
今はなき重工業メーカーの、
あのビッカースです。

あそこの造った軍艦で
本国のイギリスと戦う訳ですから、
歴史とは皮肉なもので。

それはともかく、この基準の手順は、

簡単に言えば、

物体にダイヤモンドの方錐を押し込み、
その面積(単位:HV)を計測するというもの。

その結果、

フェライトは70~200HV、

オーステナイトは液体につき
計測不可能ですが、

オーステナイトを冷却した
後述するマルテンサイト(≒銑鉄)は
500~1000HV、

しかし、脆くしなわないので、
鋼材としてはあまり役に立ちません。

そして、これも後述しますが、

そのマルテンサイトの鉄を
低温で再加熱して
炭素含有量を調整した
ソルバイト(微細パーライト)形態は、
280HV。

フェライトの硬度を
上下の平均値の
大体140HV程度とすると、

炒鋼で出来たソルバイトのものは
サイト制作者の理解が
当たらずも遠からずであれば、

従来のフェライトの倍の硬さがある訳です。

しかも、よくしないます。

もっとも、鉄鉱石の性質や
炭素含有量の管理等の不確定要因で、

硬さは或る程度上下するとは
思いますが。

6、炒鋼法の軍事利用とその威力

そして、当然ながら、

こういう欧州大戦時のクルップな
ハイテク鋼材の登場は、
戦争の風景をも一変させます。

同じ鉄製でも、
刀の切れ味が
それまでとは桁違いになったため、

騎兵の戦術が騎射から突撃による
接近戦にシフトし、

歩兵の主要な短兵器には
それまでの剣より刀の方が
重宝されます。

そう、日本刀のルーツの
ひとつとされる
環首刀の登場でして、

これはむこう数世紀にわたって
戦場でも現役を張ったロングラン。

また、騎兵の場合、

馬の突進力があることで、

刀の切れ味が良いと
刀身を相手に当てるだけで
斬れる訳です。

むこうの活劇で、一騎打ちの際、

馬同士のすれ違い様に
首ちょんぱになるのは
そうした理屈。

騎馬民族との戦争の場合、

相変わらず
馬の扱いや騎射に劣る分、

一方では、接近戦には
鋼鉄の刀の存在が
かなり有利に働く訳で、

まして、本国の平地での
歩兵相手の白兵戦など
推して知るべしです。

オーステナイトの効能の話が
無駄に長くなり恐縮ですが、

ここでは、一度高温で
加熱された鉄は、

相当の硬度になることを
御理解下さい。

7、高温加熱と爆発事故

それでは、温度を上げるための
具体的な手順の話に入ります。

実は、鉄の温度を上げることが
それまでの時代には
出来なかったのです。

で、その技術革新というのが、
フイゴ(送風機)や竪炉といった
設備の導入です。

漢代のフイゴは、
アコーディオン式の
幌が伸縮するタイプで、
これを大人数で動かします。

また、炉の形式については、

従来の地坑式(地面に穴を掘るタイプ)から
漢代からこのタイプに漸次移行します。

鉄の製錬技術が高まるにつれて
炉も高くなり、
フイゴの威力もあって
温度が高くなったという次第。

当然、炉の内壁は陶質でして、
つまり耐火性があります。

因みに、現在の製鉄所の炉も
理屈は同じです。

因みに、古代中国の竪炉は、

下から鉄鉱石と木炭を
順にミルフィーユ状に交互に
積み上げまして、

現在の炉は、
木炭が石炭に変わっただけです。

当然、燃料や環境負荷などの
諸々の効率は
当時のものとは比になりませんが。

一方、漢代の事例で言えば、

地坑式で内壁に耐火煉瓦を施している
製鉄所でさえ、

結構な頻度で爆発事故を起こしている
痕跡があるそうな。

まして、三国時代のような
動乱の時代など、

戦争需要につき
平時の比にならない程
設備に負荷が掛かることで、

火事や爆発事故の頻度など
なおさらのことでしょう。

銃後の人間も命懸けだと思います。

後、これ、サイト制作者が
恐ろしい話だと思うのは、

山奥の工場で起こすならまだしも、

例えば、南陽などのような、
(爆発事故の実例がココ!)

当時の高々2~3キロ平米の
猫の額のような区域に
政庁も亭や常設市も兵営も丸抱えする
城郭都市の内部で、

事もあろうに
火事や爆発事故を起こす訳でして、

現地の惨状は元より、
リアルタイムでの周囲の動揺も
相当なものだったと想像します。

【雑談】授業と火事と宇宙人

サイト制作者の思い出話で恐縮ですが、

以前、失業中に通所していた
ポリテクさんの近くで
小さい工場が火事を起こしまして。

ポリテクさん自体が
県庁所在地郊外の
小規模な工業団地の集中する地区に
あったのですが、

そこから、恐らく1キロ程度も
離れているにもかかわらず、

先生や私を含めた
20名弱の大の大人の受講生が
座学を中断して
呆気に取られて眺めるレベルの
物凄い黒煙が舞い上がっていました。

―そして、その日の夕方の
地方のニュースにもなりました。

別の視点からは、
アナウンサーの久米宏さん曰く、

改革開放前の中国は、
通りで「宇宙人だ!」と空を指指して叫ぶと
大勢が家から飛び出して来るような
ヒマな国だったそうで。(ホントかよ!)

まして、モータリゼーション化して
人通りの少ない郊外の工業団地ではなく、

城郭付近の田畑が「負郭」と呼ばれ
高値が付くレベルの
人口過密地帯の話ともなれば、

事故後の混乱は推して知るべしです。

8、ハイテク鋼材の原料・銑鉄

無駄は話を恐縮です。
話を鉄の高温加熱に戻します。

さて、鉄を加熱することの長所は、

高温で結晶構造を変えて
硬くする以外にも、
もうひとつあります。

炭素を化合させて
柔らかさやしなやかさを
出すことです。

そのために、
燃料に木炭を使う訳です。

そして、高温加熱後に冷却して
固体になったもの
「銑鉄」と言います。

因みに、製鉄メーカーの「銑鋼一貫」は、
この銑鉄から
鋼の最終製品までを
自社で製作するという意味です。

何故こんなことを
エラそうに書くかと言えば、

サイト制作者が
今回の調べ事で
漸く意味が分かって
目からウロコが落ちたからに
他なりません。

ここで、例の図の赤枠部分を御覧下さい。

上記の図を再掲。

 

さて、そうして出来た銑鉄ですが、
実は、古代中国にもいくつか種類があります。

以下の表を御覧下さい。

趙匡華『中国古代化学』p88~89の文章を表にしたもの。

これは、当時の銑鉄
(生金:鍛えていない鉄)の種類をあらわしたものです。

また、「炭素含有量」は、
その銑鉄が鍛えられた後に
どのレベルの鋼鉄になるかを意味します。

例えば灰口鉄の場合、低炭素鋼になります。

そして、肝心な「性質・用途」ですが、

割合炭素含有量の高い白口鉄は、

硬いがしなわず脆いことで、
開墾のための
農具等を作るための銑鉄として使われます。

逆に、低炭素鋼のための銑鉄となる灰口鉄は、

成形に融通が効きしなうことで、
同表の参考文献には、
用途として「小さく精巧なもの」とあります。

一方、これは後述しますが、

別の文献では、

漢代における鉄の鋳造物に、
消耗品の工具や武器等がありまして、

恐らく、これらの材料となる銑鉄は
この灰口鉄である可能性が高い
想像します。

つまり、先述のように、

武器専用の塊錬鉄のような
鍛造で作られた手の込んだ鉱石もあれば、

武器や農具といった
用途に応じて銑鉄も異なる訳です。

そして、鍛えるとしなう銑鉄
(炭素含有量が少ない)は武器や工具等、

硬くて脆い
(炭素含有量が多い)銑鉄は農具等、
というように、
用途に応じて使い分けます。

打撃系の武器も、
後者ではなかろうかと。

9、仕上げの脱炭・焼き戻し

銑鉄を選択した後は、

いよいよ、
炒鋼法の肝である
焼き戻しに入ります。

例のアレな図で言えば、先程と同じ、
以下の赤枠の③の部分に相当します。

上記の図を再掲。

これをやる理由を再度確認すると、
次のようになります。

先述のように、
熔解された鉄を冷却しただけでは
使い物になりません。

硬度こそ高いものの、
しなわずに脆いからです。

有態に言えば、

衝撃を与えれば
曲がらずに折れるかボロボロになります。

余談ながら、銑鉄を単に硬いからと、

例えば、ヘタに線路なんかに使うことを
御想像下さい。

今日日の某地方の
30分に1本のローカル線では、

J〇西日本さんも、乏しい予算で
必死に遣り繰りしているのでしょうが、

「線路に違和感が、」と、
ちょくちょく電車を止めて
補修を行います。

ところが、これが銑鉄であれば、

少しの破損でも、
違和感どころか、
即、脱線事故に繋がると思います。

エラいぜ、カーネギー!

―それはともかく、

そのようになる理由は、
炭素を含み過ぎているからです。

具体的な数字を挙げれば、
銑鉄の炭素含有量は1.7~4%。

そして、古代中国の場合、
これを大体0.6%以下に落とします。

因みに、先述の塊錬鉄の浸炭鉱は
僅か0.3%程度。

そこで、炭素含有量を調整すべく、

低温で再加熱しながら
フイゴで空気(≒酸素)を吹き込む訳です。

そうすることによって、

炭素含有量を調整し(減らし)、
鉄の内部のひずみを除き、
組織を軟化し、

展延性を向上させます。

簡単に言えば、
加熱や送風の匙加減によって、
硬さやしなやかさを調整する訳です。

この工程を、
むこうの現代語で
「退火」あるいは「焼鈍」と言います。

また、それっぽく言えば、

銑鉄の状態を「マルテンサイト」、
焼き戻した後の鉄
「ソルバイト(今は微細パーライトと言うそうな)」
と言います。

先述のように、

鉄の原子がソルバイト形態のものは、
原子の性質に限って言えば、

高温加熱前のフェライト形態のものより
倍の硬さがあり、
さらに、よくしなうスグレ物。

後漢時代に入ると、
このソルバイト形態の剣に
百錬鋼を掛けるような
イカレた魔剣まで出て来ます。

曹操が名匠にオーダー・メイドしたのは、
恐らく、このレベルのものではなかろうかと
想像します。

10、炒鋼法の屑鉄再利用・灌鋼法

話を焼き戻しの説明に戻します。

炒鋼法が確立した当時、

確かに、銑鉄の利用は
西洋のパドル法に先立つこと
1000年以上の
ハイテクではありましたが、

炭素含有量の管理自体は
未熟でありました。

具体的に言えば、
焼き入れで脱炭が進み過ぎた、
所謂「熟鉄」も少なからず出ました。

炭素含有量が極めて少なく

柔らか過ぎることで、
道具などの用を為さないのでしょう。

で、恐らく、こうした状況は
三国時代末まで
続いたと思われます。

そして、次の技術革新はと言えば、

残念ながら
三国時代の後になるのですが、
下の図の、
赤枠は④の部分を御覧下さい。

上記の図を再掲。

西晋から南北朝時代に入ると、
「灌鋼法」という技術が生まれます。

これは銑鉄と熟鉄を同時に加熱するというものです。

そうすることによって、

前者が後者に浸み込み、
前者の硬さと後者の柔らかさが
折衷・融合されます。

つまり、炭素含有量の異なる
銑鉄同士を
交配する合金という訳です。

そして、この用途は
剣や鎌等の刃物。

ここまでのおさらいとして、

名刀制作の手順としては、

まずは、鍛造の場合は原料に隗錬鉄、
次に、鋳造の場合は銑鉄に白口鉄、
そして交配用に熟鉄を用意し、
さらに焼き戻し、

そのうえで
百錬鋼を掛ける訳でして、
まあ手の混んだこと。

無論、兵卒の刀を作るために
ここまでやったか
どうかは分かりません。

因みに、向こうの武術は、
得物は使い捨てなんだそうな。

余談ながら、北朝は東魏時代の
道士・綦毌懐文は、

この灌鋼法で作った刀
30片の甲片で作られた鉄兜を
真っ二つに割ったそうで。

さて、この逸話で
ひとつ注目すべき点がありまして。


それは、鉄兜が30枚の甲片で作られている、
という点です。


この東魏という国は
534~550年に存在した
短命王朝ですが、

言い換えれば、時代を特定し易い訳で。


つまり、三国時代から3世紀も下った
6世紀中頃でさえ、

チップ状の甲片を繋いだ
兜を使っていた、

―逆に言えば、
鉄のプレートを接合した兜を
使っていないということです。

11、漢代の鉄器の考察

11-1、鋳造鉄器

続いて、当時の鉄器と
その製作方法(鋳造および鍛造)について触れます。

まずは鋳造について。

先述の佐藤武敏先生の論文に
漢代は主に河南省における
鉄器の出土品の製法や発掘地ごとに
整理されたリストが掲載されています。

それを、さらに、サイト制作者が
今回の記事の目的に合わせて
整理しました。

改悪になっていないことを
切に祈りますが、以下。

まずは鋳造の鉄器から。

佐藤武敏「漢代における鉄の生産」、篠田耕一『武器と防具 中国編』、稲畑耕一郎監修『中国文明史』4、林已奈夫『中国古代の生活史』、伯仲『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、香坂順一編著『簡約 現代中国語辞典』等(敬称略・順不同)より作成。

灰色の部分は、
鋳造・鍛造の双方
製作されたことを表します。

一般に世間の工場では、

言うまでもなく、
ハイテクもローテクも
同居するものです。

そして、手作り品の機械の
メンテに手を焼いたり、
最新の機械でも
グズって
ラインを止めたりします。
機械を診ること嬰児の如し。

特に21世紀前半の今日日の
末端の世間では、
後者の方で改善改善言いまして、

中には、アイデアにカネを出す
殊勝な企業さんもありまして。

それはともかく、技術は各々の特性に応じて
使い分けられるものでして、

この時代も、恐らく
その例外に漏れる訳ではなかろうと。

また、むこうの漢字の
使い方の特徴のひとつに、

ひとつひとつの字が
細かい意味を持つケースもあれば、

物の原理や仕組み
意味するケースもあるので、
敢えて、備考欄に意味を付しました。

と、言いますのは、
例えば、「鏟」という字があります。

意味は、かんなちょうな、
そして、少し意味の違うものはと言えば、
元は除草用のスコップ、
それどころか、
後代には武器にまで化けます。

一応、出土品を図解しますと、以下。

稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』4、林已奈夫『中国古代の生活史』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

大体、今日のものと
それ程変わらないような気がしますが、
右下の秦代のものは、
扇状に左右に広がっている
可能性もあります。

実は、無謀にも、
こういうのを全て
図解しようと思ったのですが、
さすがに挫折しました。

民具の図解について
皆様からのリクエストでもあるか、
農村の生活空間を再現する機会があれば、
その折にでも
リトライしようと思います。

それはともかく、
上記のように、
漢字の意味ひとつとっても
掴みどころのないもので、
かと言って、
民生品中心の論文で武器、
というのも考えにくいので、
困ったものです。

因みに、この鏟が武器として登場したのは、
篠田耕一先生曰く、明代の模様。

沙悟浄や魯智深が
振り回した得物は、
先端が湾曲して二股に分かれたタイプですが、
宋代というよりは、
話が書かれた当時の感覚なのでしょう。

もっとも、
この前身となるような武器も
あったようですが。

呂布の方天戟
王双の流星「錘」も、
残念ながら、
後漢・三国時代の武器ではなく、
少なくとも宋代以降のもの。

突っ込むのは野暮かもしれませんが、
一方で、
脚色の過程を楽しむのも
調べ事の醍醐味かもしれません。

もう少し言えば、

リストにある鋳造品は、

剣や戟、鏃等のような
あからさまな武器以外は、
まず、民生品を意味するものと思います。

先の記事でも触れた通り、
鉄は重要な戦略物資でして、

そのうえ、
打撃系の武器が多様化するのは、
時代が下ってからの話だからです。

漢字の概念や
武器と民生品の区別の話は
これ位にしまして、

鋳造品の大体の傾向としては、

或る程度の大きさ・重さ・厚味が
あるものが多いかと
思われます。

例えば、車軸や釜、犂、歯車等のような、
農具や機器の部品です。

さらには、缶や盆も、

漢字の古語の意味や
当時の鉄の使い方から考えれば、

恐らくは、
今日の日本人が想像するような
コーヒーや鯖の水煮でも
入ったようなスチール缶や
アルミ等の薄手のトレー等とは異なり、

厚味のある容器であったと想像します。

一方で、剣や戟、鑿、鋤、鉤、といったような、
武器や一部の鋭利な小物については、

鋳造・鍛造の双方
製作されているのも事実でして。

この辺りのものについては、

他のものに比べて
製法ごとの個性が出にくく、
柔軟に製作されていたと
想像します。

11-2、鍛造鉄器

さて、鋳造に引き続いて、

漢代の、主に河南省で製作された
鍛造の鉄器の出土品は、
概ね以下の通り。

佐藤武敏「漢代における鉄の生産」、篠田耕一『武器と防具 中国編』、稲畑耕一郎監修『中国文明史』4、林已奈夫『中国古代の生活史』、伯仲『図説 中国の伝統武器』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、香坂順一編著『簡約 現代中国語辞典』等(敬称略・順不同)より作成。

この界隈で製作された刀は、
鋳造ではなく鍛造です。

その他、輪、取手、鉄条、釘と、
鋳造品に比して、
細いか、あるいは小物が多い点に
御注目下さい。

一方で、剣・戟、鑿、鋤、鑿と、
細身でも鋭利なものについては、

鋳造・鍛造の双方で
製作されているものがあるのも
特筆すべき点かと思います。

そして、の話をするうえで、
サイト制作者が外せないと思う鉄器が、
「薄鉄片」。

ここでは民生品の部品だと思いますが、

見方を変えれば、
鎧兜を構成するための甲片に
転用可能とも取れる訳です。

鉄片の大きさについても、
他の鍛造製品の大きさを考えれば、
決して大きいものではないと思います。

因みに、楊泓先生は、

当時の鉄製の鎧の出土品は
鍛造としておられます。

以上の点から、

兵器・民生品双方の観点より、

薄型の大型プレートは
製造出来なかったであろう、

当時の技術水準の限界を
垣間見ることが出来るかと
思います。

12、甲片の材質と繋ぎ方についての愚考

さらには、
先述の東魏の鉄兜の御話
思い出して下さい。

例の、宝剣で兜を砕く
というデモンストレーションも、

相手が現役の兵器でなければ
話としての用を為さないことを考えると、

東魏から時代を遡った
『三国志』に出て来る鉄鎧も、

数多くの鍛造の鉄片を
繋ぎ合わせたもの
≒魚鱗甲あるいは札甲、が最先端、
あるいは主流
考える方が自然かと思われます。

その他、後半の北方では、
鎖状の鎧も使われていたようですが。

御参考までに、
前漢末の魚鱗甲の甲片の繋ぎ方は、

高橋工先生によれば、

実は、少なくとも、
5世紀の中頃までは
現役の技術でした。

こういうことを書くのも
野暮だとは思いますが、
サイト制作者の愚見としては、

むこうの三国志関係の
ドラマに出て来る鎧(特に将のもの)は、
甲片の繋ぎ方や
彫刻の精巧さを考えれば、

銅製でなければ
説明が付かないように思います。

得物は、無論、
銑鉄を鍛造し直した
ヒッタイトも顔負けの
世界レベルのチート兵器です。

もう少し踏み込めば、

『魏書 』 にチラと出て来る明光鎧も、

故・駒井和愛先生によれば 、

当時の「明光」の
言葉の使い方からすれば、
銅製の可能性が高いそうな。

また、当時の出土品の状況から、
札甲の可能性がある、
とも、書いておられます。

無論、時代が下って
同型の鉄製も登場する訳ですが。

さらには、篠田耕一先生によれば、
明光鎧の最大の特徴は
胸部の左右のプレートだそうですが、

サイト制作者の愚見としては、

後漢・三国時代は
このプレートを
鉄で作ることが出来なかった可能性が高い、
という御話です。

あるいは、王侯貴族の使用品につき、

装飾性を重視して
敢えて銅(当時は金と同義)を
使用したのかもしれません。

因みに、銅の胸当て自体は、
既に春秋時代の段階で
使用されていました。

おわりに

最後に、これまでの話の要点を整理します。

1、鋼は鉄と炭素の合金である。

古代中国においては、
これを、鉄鉱石を低温で加熱する鍛鉄、
あるいは熔解して
鋳型に流す鋳鉄の
2種類の製法で製造した。

2、古代中国における
中心的な鉄鉱石は
赤鉄鉱であった。

また、華北産出の鉄鉱石は
火成岩系で溶解温度が高いことで、
坩堝製錬から始まった。

鋳鉄技術の獲得も
早かった可能性がある。

湖北・河南産出の鉄鉱石は、
溶解温度が低く、鍛鉄から始まった。

3、鍛鉄は、低温加熱した鉄を
鍛打・冷却して作る製法である。

そして、この方法で出来た鉄を
「塊錬鉄」と言う。

また、塊錬鉄は夾雑物が少なく
炭素含有量が低いことで、
武器等の原料となる。

さらに、鉄鉱石から塊錬鉄を製造する
一連のサイクルを
浸炭鋼と言う。

そして、浸炭鋼のサイクルを
無数に繰り返すのを百錬鋼と言う。
宝剣等を作る際に行われる。

4、炭素含有量は
鋼の硬さとしなやかさのバランスを表す。

多ければ硬い一方で脆く、
少なければよくしなう。
武器が適するのは後者である。

5、鉄を高温加熱すると、
性質が変化する。

高温加熱して熔解した鉄(オーステナイト)を
冷却すると銑鉄になる。

これ自体は硬いが脆く、
鋼材としては用を為さない。

しかし、銑鉄を
低温で低温加熱後、

冷却(マルテンサイト)しつつ
炭素含有量を
調整する(減らす)と、

低温加熱した鉄(フェライト)の倍の硬度に加え、
しなやかさが備わった鉄となる。

このサイクルを炒鋼法と言う。

6、炒鋼法の軍事利用によって、
騎兵の戦術が刀による
接近戦が主体になり、
歩兵の主要な短兵器が
剣から刀に移った。

7、銑鉄は、高温加熱後に溶解した鉄を
冷却したものである。

銑鉄にも種類があり、
武器や農具等の用途ごとに応じて使い分ける。

8、銑鉄を低温加熱後に
冷却する工程を、

焼き戻しと言う。

炒鋼法の最終工程である。

送風・加熱・冷却の匙加減で
炭素含有量を調整するという
難しい工程であり、
これに失敗して
脱炭が進み過ぎた

「熟鉄」≒不良品が少なからず出た。

9、熟鉄と銑鉄を加熱して
鋼を製造する方法を
灌鋼法と言う。

熟鉄のしなやかさや柔らかさと
銑鉄の硬さが
折衷・融合する効果があった。

10、鋳造では大型で硬いものが、
鍛造では小型で柔らかいものが
各々製造される傾向にあった。

例えば、前者は農具、
後者は消耗品や工具等である。

また、鋳造・鍛造の双方で
作られるものも存在した。

一方で、漢代の段階では、
鎧の甲片は鍛造であり、
これに類似する民生品も
鍛造で作られた。

11、5世紀までは
前漢の魚鱗甲の
甲片の繋ぎ方が継続され、

南北朝時代の東魏の段階でさえ
鉄兜も甲片を繋ぐタイプが現役であった。

したがって、少なくとも6世紀辺りまでは、
大型で薄手の鋼のプレートは、
鋳造・鍛造の双方でも
製造出来なかった可能性がある。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

佐藤武敏「漢代における鉄の生産」『人文研究 第15巻第5号』
趙匡華『古代中国化学』
佐原康夫「南陽瓦房荘漢代製鉄遺跡の技術史的検討」『史林』第76号第1巻
楊泓『中国古兵器論叢』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』『武器と防具 中国編』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』
駒井和愛「漢魏時代の甲鎧」『人類學雜誌』第58号
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』4
林已奈夫『中国古代の生活史』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版
香坂順一編著『簡約 現代中国語辞典』
田中和明『金属のキホン』
菅沼昭造監修・鉄と生活研究会編著『トコトンやさしい鉄の本』

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【雑談】鏟と鋳造品

はじめに

鎧の話をするつもりが
いつの間にか鉄の話になるという具合に、

サイト制作者自身も
自分でやってる癖に、

こういう回りくどさに対して
いい加減気が滅入って来た次第ですが、

あきらめずに続けていく予定です。

1、鉄にこだわる理由

さて、そもそも、

どうしてこのような
訳の分からないことを
やっているかと言いますと、

過去の記事にも書きました通り、

要は、三国志関係の
さまざまな創作物に出て来る鎧と
出土品や学術論文等の内容との差異が大きく、

作品のデザインの関係上
或る程度フィクションが入るにしても、

両者の整合性をどこで取れば良いのか
分からないからです。

しかも、あの時代の現物が極端に少なく、
俑も儒家共の影響で
ヘッタクソなものしか
残っていないという具合。
(当時の人を責めても仕方がないのですが)

後漢・三国時代の鎧自体、

大体どういうものがあったかは分かっても、
(例えば、篠田耕一先生の
『武器と防具 中国編』等を参照)

そのディティールについては、
分からない部分が多いのです。

それならば、当時の製鉄の技術水準から
アプローチを掛けていけば
何かしら見えて来るものがあろう、

―という想定の下、
その斜め上を行くこと久しいのですが、

当分は、漢代に鉄で何を作ったかを
羅列していこうと思います。

2、鋳造と鍛造

さて、当時、鉄でモノを作る際、その方法は、
大別して、鋳造と鍛造の2種類あります。

鋳造は、溶かした鉄を鋳型に流し込む方法。

大雑把なものを作る時に
良く使われる方法です。

鋳型を外した直後は
表面がザラザラしています。

また、往々にして、
溶かした鉄の中に気泡が入ったまま
冷え固まったりしまして、

その結果、モノの中に
「巣」と呼ばれる穴が出来ることで、

現場の方は、
現在でもこれに苦しめられています。

で、鋳造製品の一例として、
今回、自筆のヘッタクソな絵を
掲載するのが、鏟(さん)

稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』4、林已奈夫『中国古代の生活史』、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、等(敬称略・順不同)より作成。

字引によれば、かんなやスコップ
と、あります。

【追記】

篠田耕一先生によれば、

農具としての鏟は、

新石器時代には既に存在したものであり
先端の部分は刃になっていて
除草にも使えたそうな。

また、武具としての利用は
明代以降だそうで、

これは先端の左右が広がっています。

【追記・了】

こういうところが
漢字の面倒なところでして、

時には、同じ漢字で
武器と民具の双方の意味を持つ
ケースもあり、
困ったものです。

3、実用大国・秦

また、道具をめぐる
零れ話のひとつとして、以下。

は遊牧から国を興した経緯もあり、
儀礼よりも実用性を重視したそうな。

その結果、もっとも完成度の高い生産品は
青銅製の武器で、
次いで、大型の建築部材、馬車、
生活用具の類なんですと。

逆に、他国に劣るのは、
精巧な装飾が施された
儀礼用の器の類。

日本の都市で言えば、

観光資源の多い東京や大阪
というよりは、

文化面では弱いが
モノ作りに強い名古屋のメンタリティに
近いという話かしら。

鍛造は、鉄の塊を数百℃で
加熱して叩くやり方。

比較的繊細でしなやかなものを作る場合
この方法でやります。

例えば、刀剣や矛の頭のような鋭利な武器、
ノコギリのような切るための工具、
あるいは、ワイヤー、釘等の細い消耗品、等。

【追記】

正確には、漢代の剣や戟等は
鍛造だけでなく
鋳造で製作されたものもあります。
(河南省鶴壁市出土)

【追記・了】

ですが、精巧な装飾品のレベルとなると、

サイト制作者の愚見としては、
後漢や三国時代ですら
銅が主流だったのではないでしょうか。

そうだとすれば、
創作物で武将が身に纏う
精巧な装飾の施された鎧は
銅製ということになります。

これで鋭利な鉄器と遣り合うのですから、
さあ大変。

おわりに

今回は、結論めいた話はしません。

後日、もう少し体系的な話をして
然る後、論点を整理しようと思います。

加えまして、
雑談序と言っては大変失礼ですが、

鉄の御話で大変勉強になりました
佐藤武敏先生は
昨年夏に御亡くなりになられたとのことで、

御冥福を御祈り申し上げます。

過去の記事にて
折角和訳して頂いた『塩鉄論』の悪口を書いて
罰の悪いことこのうえなく。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
佐藤武敏「漢代における鉄の生産」
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』4
林已奈夫『中国古代の生活史』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版

【余禄・病気の話】
武漢発のヘンな肺炎で東アジア全体が
大騒動になっていますね。

邦人の方からも死者を出したそうで、
ともあれ、国を問わず、
亡くなられた方々の御冥福を
御祈り申し上げます。

さて、このブログで取り扱う範囲で
少々無駄話をしますと、

恥ずかしながら、今回の件で、

外征中の軍隊内で
現地の風土病が流行る怖さが
或る程度リアルに
想像出来るようになったと言いますか。

病気そのものの感染の速度の速さに加え、
医療品の不足や衛生環境の悪さが
それに拍車を掛けるのでしょう。

『三国志』の世界で言えば、
赤壁や北伐と連動して行った孫権の親征もそうで、
その他、『呉志』を読むと、周瑜父子等、
少なからずの数の要人が30代以下で亡くなっています。

あの政権の母体は、程普や韓当、張昭等の
北来の士も少なからずかかわっていることで、
(北も色々で、張昭は徐州、程普なんか右北平!)

残念ながら確証はありませんが、

夭折した人の中には、
彼等は慣れない風土で心身を酷使したことが
祟っているケースがあるのかもしれません。

もっとも、古代中国だけかと言えば、
太平天国も北伐で精兵がこれにやられて
国自体が勢いを失っています。

換言すれば、
前近代の戦争は
外征に風土病が付いて回るのが
当たり前なのでしょう。

もそっと調べると、
何かしら見えて来そうなもので。

カテゴリー: 兵器・防具, , 言い訳 | コメントする

鉄官の分布と江南開発


以下に、章立てを付けます。

例によって、

適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

はじめに
1、秦代の鉄の管理
【雑談】劉邦と項羽の
意外に場当たり的な政権構想
2、前漢代における郡の分布
3、漢代における鉄官の分布
【雑談】戦国時代の兵隊御国自慢
4、秦代の鉄官の配置
5、全ては、南陽から始まった
5-1、簒奪者の見たディストピア
【雑談】搾取と失政、また搾取、
南陽版・歴史は繰り返す
5-2 前漢の漢人フロンティア
6、秦の戦争経済とその後
6-1、君主と山と管理権
6-2、君主対大資本
【雑談】大地主様の戦前戦後
6-3、開発の切り札?!鉄製農具
6-4 資本力と表裏をなす政治力
【雑談】市に集うワルい人々
1、劉邦の捨て身の「地域貢献」
2、商売と人集めと武装蜂起
6-5 秦の製鉄業統制政策
6-6、漢代の経済自由化の副産物
7、漢代の製鉄業を俯瞰する
7-1、「都市型」と「深山型」
【雑談】街と田舎のワルい人
1、都市と郊外を結ぶ「少年」
2、何処か似ている戦前の「壮士」様
3、市の風景を妄想する
4、謀臣とワルい人の『三国志』
7-2、結構複雑なサプライ・チェーン
8、江南開発と製鉄業
8-1、地力の滲み出た赤壁の戦い
8-2、秦が開けたパンドラの箱
【雑談】「異民族」はどこにいる?!
1、案外狭かった漢人勢力圏
2、「異民族」国家・呉と
「異民族」で儲けた趙
3、異色の国・中山国
4、巨額予算による高度防衛システム
5、黒山賊の梁山泊の今昔
6、三国時代の「異民族」政策
7、『三国志』の勝者は民族抗争の敗者
8、戦争と搾取は異文化交流の尖兵?!
8-3、会稽郡と先住民
8-4、対山越の治安作戦と軍拡
8-5、開発と表裏一体の教化策
8-6、地の果てにでも行く名士様
【雑談】命懸けの豪族の御引越
1、大所帯が大前提
2、祖逖おすすめの引っ越し術
3、許靖の見たこの世の果て
3-1 実は、董卓政権のエース格
3-2、南海行路は生き地獄
8-7、職能集団の移動の可能性は?
8-8、会稽太守と丹陽兵
おわりに

【主要参考文献】

はじめに

まずは、長期間更新が滞って
大変申し訳ありません。

転居作業とネット不通と
制作者の怠慢が主な原因で御座います。

加えまして、
今回は特に、
サイト制作者の忘備を兼ねた
無駄な話が多いことで、

取り敢えず結論を知りたい方は、
「おわりに」で論旨を整理していますので、
まず、そちらを御覧下さい。

1、秦代の鉄の管理

さて、今回は、

鎧の原材料である鉄の生産・取引拠点
それに付随して華南開発の幕開けについて
何かしら綴ろうと思います。

秦漢時代、大体の期間において、

大口の鉄の生産・流通は
戦略上の重要物資として
国家の強力な統制下にありました。

その理由は、
武具や生産力の高い農具として
必要不可欠なうえに、

鉄の生産自体にも
当時としては大規模な設備や
膨大な資源・労力を必要とするためです。

で、その鉄の生産過程を掌握する
政府の役人を
「鉄官」と言いました。

これは、少なくとも
秦の時代には置かれていまして、
採鉱から鉄器の製作までを担っていました。

因みに、政府が鉄の農具―犂を
農民に貸与する場合、
県レベルで相手を精査するので、

厳密には、
政府が鉄の流通過程をも
掌握している訳です。

当然、武器なんぞ言うに及ばずでして、

モノに産地が刻印されており、
戦国時代の七雄は県レベル、
秦は郡レベルで、
郡県の長が出入りの数を把握していました。

後世の研究者も
こういうのをみて
政権の集権性を判断する訳です。

そして、秦の国体の
美味しいところを持っていった漢も、

こういうところも御多分に漏れず、
秦の制度を継承します。

【雑談】劉邦と項羽の
 意外に場当たり的な政権構想

―と、言いますか、

最近の研究、
柴田昇先生
『漢帝国成立前史』によれば、

存外、前職・駄目役人の劉邦の前漢も
当時の世間の目からすれば、
ほとんどやくざ者の項羽の楚も、

発足から運営から戦乱続きが祟って
マトモな政権構想もなく、

結果として、
場当たり的な運営を迫られた模様。

例えば、項羽の場合は
戦時体制下の兵権しか
権力の拠り所がないことで、

秦を倒した後の暫定措置として
王が並列する体制
作らざるを得ません。

一方の劉邦の場合も、

その場限りの政局で
烏合の衆を纏める多数派工作に
終始したことで、

長期的な政策展望を持とうとすれば
秦の方法を真似る以外になかったそうな。

こういう具合に、

当時の流動的な政治状況について、

戦国時代の枠組みとの兼ね合いや
治安のような社会状況等も踏まえて
丁寧に考察されています。

難を言えば、
軍事史的な話が少ないことですが、

それでも、
政局の推移の事務的な説明ですら
項羽の圧倒的な強さが浮き彫りになるという
何とも言えぬ不気味さがあります。

内容の難しさという点では、

初心者向けではないと思いますが、
恐らく、御書きになった数々の学術論文を
好事家向けに平易な言葉で書き直したものと
拝察します。

また、漢文史料の引用には訳文が付いています。

興味のある方は、是非、御一読を。

【雑談・了】

2、前漢代における郡の分布

さて、話を本筋に戻します。

それでは、採鉱から鉄器製作まで行う
鉄官の分布状況について、

前漢の状況を中心
見ていきましょう。

以下のアレな図は、
前漢の地図(呉楚七国の乱以降)に
前漢・後漢の鉄官の位置を
落とし込んだものです。

譚其驤『中国歴史地図集』(西漢部分)、戸川芳郎監修『全訳漢辞海』第4版、佐藤武敏「漢代における鉄の生産」等(敬称略・順不同)より作成。

因みに、赤い点が漢代を通じて
鉄官が置かれた場所、

オレンジが前漢時代のみ、
紫が後漢時代のみ、
それぞれ鉄官が置かれた場所です。

〇の中に色があるものは、
郡国の治所に鉄官が置かれたこと
意味します。

この地図を作るにあたって
まず制作者が思ったことは、

鉄官の話以前に
自身が想像していた以上に隔絶した
南北のパワー・バランスです。

そもそも華南には、
鉄以前に、郡自体がそれ程ありません。

要は、「異民族」のテリトリー
という訳でしょうねえ。

後漢末の動乱の時代に
劉表が荊州の統治で
「異民族」相手にどれ程を苦労をしたのか、

あるいは、劉備と曹操
漢中をめぐる一連の抗争や
諸葛亮の北伐の背景には、

巴蜀から長安以西の地域での
労働力の奪い合いがあったことを
御想像下さい。

まして、昨今、途上国のメンタリティで
先進地域の統治に失敗して泡を喰っている
某半島都市の辺りなんか、

この時代は、
逆の意味で外国の感覚でしょう。

後述する上海の辺りにしても、

漢民族にとっては
孫呉の時代に
漸く開発の最前線に達する訳です。

因みに、向こうでは
「北京愛国 上海出国 広東売国」
という言葉がありまして、

これは北京人の言い分だそうですが、

ここ200年弱の、
割合新しい言葉と想像します。

その北京とて、
秦漢、三国時代には地方都市に過ぎません。

3、漢代における鉄官の分布

それにしても、

やはり鉄官が置かれているところは
黄河下流域から長江上流域の北岸が
大半でして、

中原に鹿を追う宜しく、

連中の古代文明が栄えて
戦国時代の抗争が激しかった地域と
軌を一にしていると思います。

これに因みまして、学術用語で
「三晋地域」という言葉があります。

春秋時代に
晋が治めていた
大体黄河中流域の辺りを指しまして、

「三」の理由は、
この国が内部抗争で
韓・魏・趙に分裂したことです。

制作者がいくつかの文献や論文を
読む限りでは、

この言葉は、
ほとんど遺跡の発掘や経済史的な
意味合いで使われておりまして、

要は、この地域の経済価値なり
遺跡の埋蔵量が
他の地域を圧倒的に
凌駕しているという御話。

【雑談】戦国時代の兵隊御国自慢

これに絡んで無駄話をすれば、

兵書の『呉子』「料敵」
戦国七雄の各国の兵隊の特徴をあらわす
くだりがありまして。

例えば、韓や趙の兵隊は、

祖国が先進地域、
言い換えれば
中世ヨーロッパにおけるイタリアのような
係争地になっているためか、

穏やかな性格だか、
戦争慣れして俸給にうるさくなり
決死の覚悟が乏しいんだそうな。

で、こういうメンタリティが
昔話かと言えば、
どうも、そうとも言い切れませんで、

モノの本によれば、

洛陽のある河〇省の出身者には、
今でも詐欺系の犯罪者が
多いんだそうで。

序でに、勝者のはどうかと言えば、

人々の性格は強靭で政治は厳しく
賞罰の適切なことで、

功名を他に奪われぬよう譲らず
勝手に闘おうとする傾向がある、
と、言います。

その実、捕虜も味方も有能な官僚も
散々殺して全土を平定しました。

まさに、商鞅の政策を体現したような
敵国の評。

―彼を知り、己そ知れば、
百戦危うからず。

人当たりの良さと狡猾さが
表裏一体になっている都会人、
―という構図が
何処の国にもあるという、

またも負けたか八連隊、
それでは勲章九連隊な御話。

【雑談・了】

4、秦代の鉄官の配置

脱線して恐縮です。
話を鉄官に戻します。

秦の鉄官が置かれた場所は、
実は、咸陽・臨湽・成都の3箇所以外は
分かりませんで、

しかも、首都の咸陽は項羽の略奪で
灰燼に帰すという
オチが付いてきます。

また、識者によれば、
戦国時代の他の大国にも、
鉄官と似たような官職が置かれていた
可能性があるとのこと。

臨湽は、大国・斉の首都でして、
発掘調査の結果、
城内には大規模な製鉄所の所在が
確認されています。

そして、恐らく、
この3箇所の中で、
秦の政策的なスタンスが
最も色濃く反映されているのが成都。

まず、成都のあるは、
秦が関中から東進を始める前からの
占領地でして、

当時から
兵站を支えるための
重要な後背地でした。

そして、ここの鉱山開発に
占領地の富豪を動員しまして、

こういう政策自体が
同国の富国強兵策と
密接な関係を持つのですが、

その話は後述します。

5、全ては、南陽から始まった
5-1 簒奪者の見たディストピア

さて、始皇帝の御代から
前漢代の時代に下りますと、

漢民族の開発のフロンティアは
南陽まで南下します。

そう、コー〇ーさんの
『三國志』シリーズで言えば、
袁術の治める宛の辺り。

と、言いますか、
南陽郡の治所(県庁所在地に相当)が宛県。

ここは面白い地域でして、
実は、前漢を簒奪した王莽は、

劉備が曹操相手にオラ付いていた
南陽郡新野県の都郷に
封土を持っていました。
(駅前の一等地の感覚です。)

で、中央の政争で干されて
ここで3年暮らしたのですが、

まあ、ここで、儒教名士にとっては
見てはいけないものを見た、
とでも言いますか。

―具体的には、

現地の開発地主が
零細な農民を
奴隷の如く使って暴利を貪るという、

ラジカルな資本主義の狂態でした。

そういうことを言い出せば、

三国時代における蜀漢の南中も
孫呉の江南も、

原住民を武力を背景に使役するという
鬼畜なデタラメさが
荒野・原野の開発の推進力でもありまして、

王朝の上澄みの部分や国軍の戦力が
こういうアコギな経済基盤で
成り立っているのもまた、
当時の現実です。

その意味では、

三国志という御話自体が
僻地の搾取という構図を抜きには
成立しないという
救いようのない御話です。

【雑談】搾取と失政、また搾取、南陽版・歴史は繰り返す

それはともかく、

こういう格差社会の現実
目の当たりにしたことが、

王莽が、これまたデタラメな経済政策
立案する背景のひとつになったそうな。

―ところが、どこをどう間違ったか、

その王莽の政権は、

外征でも大コケしたりと
イロイロあって、

結果として人の望むところのナナメ上を
突っ走ることとなります。

さらに、その王莽政権を倒した光武帝も、

先述のデタラメな搾取を経済基盤とした
それも南陽の開発地主層でして、

当然ながら、
連中の言いなりになります。

かなりざっくり言えば、

開発地主や豪族層が
軍縮や軽い租税によって浮いた経費を
中央の政治資金に使って政治を壟断し、
(もっとも、光武帝の時代は、
戦乱平定後につき時宜に適っていたのですが)

体を張って
『三国志』というコンテンツを
世に生み出すという
中国史上最大の文学的貢献をなす訳です。

―アコギな中抜きをやる豪族層がいる以上、
皇帝様の仁政が
下々にとって
必ずしも善政とは限らんようで。

【雑談・了】

5-2 前漢の漢人フロンティア

一方で、そういう潤沢な
富の結晶とも言うべきか、

既に前漢時代から
宛の城内には大規模な製鉄所がありまして、

そのうえ、ここは後漢まで使用された
痕跡があります。

もう少し地理的に視点を広げると、

漢代を通じて
鉄官の配置が集中している地域も、

確かに、この南陽の辺りが
南限になっていますね。

そして、後漢末期から三国時代になると、
この開発のフロンティア
さらに南下しまして、
長江南岸以南に及びます。

これが何を意味するのかと言いますと、

南方の政権の軍事力を増大させて
早い話、赤壁の戦いや
孫呉発足の伏線となる訳ですが、

その御話は、また後程。

6、秦の戦争経済とその後
6-1、君主と山と管理権

さて、地理の話は一旦置きまして、
ここでは製鉄業と政策の話をします。

先に、文明あるところに鉄あり、
という話をした訳ですが、

今度は、その鉄は、
そもそも誰がどのように管理しているのか、
という御話をします。

因みに、この個所の主なタネ本は、
角谷定俊先生の論文

「秦における製鉄業の一考察」
『駿台史学』第62号。

さて、まず、
鉄鉱石は鉱山にありまして、

角谷先生によれば、

古代中国では、
「山沢」と言えば、
鉱山地・林山地・塩産地を含む
幅広い概念であり、

国家の管理・規制の下に
用益が行われる
「公利共利」の地なんだそうな。

さらには、ここに、
『管子』という書物がありまして、
君主のあるべき姿が説かれている訳ですが、

その中に、山は冨の泉源につき
争いの元になるので
君主が管理せよ、と、説く件があります。

もっとも、落合淳思先生曰く、

管仲が宣った、とか言いながら、
御本の成立自体は
戦国時代後半から前漢なんだそうで。

(あそこの古典は、そういうものが多いもので!
後、太〇望だの、有名人の名前を無断借用して
適当なことを書くなりきり芸の場合は、
「仮託する」と言います。便利な言葉!)

つまり、大体その頃の認識と理解した方が
間違いなさそうな。

要は、戦国列強の王家や官僚
集権体制を整えて
林野の管理権を地主貴族から取り上げて
国営化した、
という文脈です。

6-2、君主対大資本

その背景には、
当然ながら戦時体制の構築があります。

何十万もの大軍を動員して
大国間の大戦争を行うためには、
相応の物資が必要になる訳です。

特に、の場合、

当初はこういう体制の構築に
出遅れたことで、
挽回に必死でして、

有名な商鞅の改革
そのあらわれでもありました。

大体の方向性としては、

所謂「耕戦の民」を確保すべく、

末端の国民の最低限の生活を保障し、
厳しい軍役を課します。

また、法家の知恵を借りて
賞罰を厳正に行います。

土地と軍役が一体という政策自体は
秦の時代よりも前からあるのですが、

恐らく、他国との最大の相違点は、

規律が厳しい反面
恩賞も手厚かったことでしょう。

―もっとも、戦時はともかく、
平時の統治の場合は、実は、
儒家のスタンスを
少なからず受け入れていたそうですが。

ところが、
こういう戦時体制の構築を
阻む要因もある訳でして。

それが商業資本の存在です。

冨が偏在すると
末端の国民の軍役に支障が出る訳でして、

秦の政府はそうした状況を
極度に警戒します。

『史記』の「列伝」には、

呂不韋以外にも
投機で儲けた資金で土地を買い漁るのが
出て来ますが、

秦が当初手本としたような国においても
こういう冨の偏在に伴う
階層分化が起きていまして、

こういう手合いを野放しにすれば、
国政にまで口を出すことは
言うまでもありません。

商人栄えて国滅ぶ、とは、
こういう状況を指すのかもしれません。

【雑談】大地主様の戦前戦後

余談ながら、

先の日中戦争以降の日本でも
似たようなことが起きていました。

時の農林省
前線に供給する兵隊を確保するために
地主の搾取から
銃後の零細な農家を保護する
政策を進めており、

戦後にGHQが
農地解放を円滑に進めることが出来たのも、

連中の手柄というよりは、

戦時農政という強力な基盤が
あったからだそうな。

もっとも、地主が悪かと言えば、

中には、地域密着型で
小作農の面倒見が良い方々も
いらっしゃいますが、

如何せん、
大戦の反動不況から昭和恐慌、
戦中の民需統制と、

上も上で、
糸価や米価、株式相場が暴落したり
商売が戦争で邪魔されたり

まあ、踏んだり蹴ったりの状況でして、

上下共に、
互いに妥協出来る余地がありません。

そりゃ、満州という棚ボタがあれば、
藁をもすがる思いで
飛び付くのも自明の理ですが、

そういう身勝手な話を
既得権益にがめつい列強が
容認する筈もなく、

領土の広さでは
世界新記録を更新するも、

結果は、御周知の通りです。

大地主様の戦後は戦後で、

どこの共産国家かと思うような
農地解放と相続税で
滅多切りにされるという末路。

それだけ、戦前の日本は
冨が偏在していた証左でして、
戦後に中産階級が潤ったことが
経済発展の伸びしろにもなったのですが、

やられた方は
たまらなかったと思います。

30年程前の制作者の幼少期ですら、
その種の恨み言を
随所で漏れ聴きました。

―話が脱線して申し訳ありません。

ですが、敗戦国の富裕層がどうなったか、
という点だけは、
少し御注意下さい。

【雑談・了】

6-3、開発の切り札?!鉄製農具

さて、秦の政府が
蛇蝎の如く嫌う商業資本。

しかし、
こういう社会階層の
最終兵器とでも言いますか、

戦国時代の後半に、
冨の偏在の引き起こした
イノベーションというのが、

鉄製の農具の普及でした。

そもそも、

鍛鉄(数百℃程度で加熱して柔らかくする)で
一品モノの剣をあつらえたり
鍋釜を補修する程度であればともかく、

鋳鉄(千℃以上で溶かして鋳型に流し込む)で
農具や車具・武具を量産するレベルの
製鉄業自体、

半端な財力で出来る芸当ではありません。

今で言えば、
街の修理工場と大手メーカーとの
資本力の差に相当しましょうか。

一方、社会の裏側の貧農層の状況など、
農具の材料は木と石、骨等。

それも、充足率も低く、
親子で貸し借りするような惨状です。

鉄器なんぞ高嶺の花。

もっとも、鉄器―鉄の犂による牛耕が
戦国時代の後半に
普及したとは言うものの、

出土例が急増したのと
毎年使うレベルの普及率とは
どうも別の話のようで、

しかも、牛による犂耕の用途は、
実質、荒地の開墾であった模様。

要は、黄河流域の平地で
威力を発揮した可能性がある、
という御話。

対して、鉄官まで置かれた四川なんか、

秦のテコ入れで
農業生産が割合高いレベルにあった
にもかかわらず、

山がちな地形に準じた農法のためか、

漢代ですら
鉄の農具の出土例が極めて少ないそうな。

【雑談】市に集うワルい人々

1、劉邦の捨て身の「地域貢献」

さて、秦の農本主義で
マトモな戸籍も
高級軍人になる機会も与えられずイジメられる
商人も商人で、

広域的かつ安全に
商売が出来るような環境には
ありませんで、

秦代に比して
経済が自由化した漢代ですら、

県城の常設の市に出入りするようなのは
不良と蔑まれるような世相。

例えば、商売にうるさい秦の御代の段階で
こういうところで
日頃からタダ酒を喰らって
エラそうにしていた劉邦なんか、
即アウト。

当然ながら、世間様は、
この御仁をカタギとは見ていません。

だからこそ、
下級の官職(亭長)という足枷を掛け、
(それでも、大金の空手形を手土産に
要人に面会するというデタラメを
やらかします!)

地域ぐるみで反乱を起こす際には
人柱として担ぎ出される訳です。
(こういうのは、勝てば官軍です。)

2、商売と人集めと武装蜂起

また、そういうヤバ気な空間で
商売を上手にやろうとすれば
同業者同士の付き合いも出来るのですが、

この「付き合い」というのも
かなり胡散臭いものです。

具体的には、

結構な頻度で
アウトローに片足を突っ込んだ人とも
その種の契りを交わすことになりまして、

兵乱なんぞ企てる際には、
こういう付き合いのネズミ算で
恐ろしい程の人数が集まります。

―中国の歴代の権力者が
市や宗教を嫌うのは、
こういう方程式もあろうかと。

因みに、どうも劉備や関羽なんか、
その種の商売上(製塩業)の縁の
フシがあるそうで、

正史その他によれば、
関羽は当初は雇用関係のある
劉備のボディ・ガードのような
位置付けでした。
―そりゃ、強い訳です。

また、識者によれば、

道教絡みの黄巾や張魯の五斗米道も、

種々の人集めのひとつとして、
商売上のツテで人を集めた気配
あるそうな。

対して、郊外の村落では
月に何度か細々とした市が
立つ程度でして、

それだけ末端の社会は
自給性が強かったのが実情でした。

【雑談・了】

6-4 資本力と表裏をなす政治力

以上のように、
末端の村落社会と商売が
今日に比してかなり疎遠な世間で、

メーカーのレベルの資本力と販路
用意しようとすれば、

担い手の背後に、必然的に、
政治力や武力が見え隠れするようになる、
という御話。

以前の記事でも少し触れましたが、

戦国時代の商人の母体は、
春秋時代の地主貴族の
外商部門だったりします。

落合淳思先生の御知恵を
拝借すれば、

純粋な農業経済の話というよりは、

政治闘争の一環としての
経済戦争と見た方が
宜しいようで。

6-5 秦の製鉄業統制政策

そして、戦勝国たる秦の政府と
敗戦国の斉や趙等の商業資本
対峙した結果が、

本貫地から僻地に飛ばされたうえに、

政府の紐付き資本を元手に
鉱山開発に駆り出されるという結末。

実名や転出先を挙げますと、以下。

卓王孫(趙)・鄭定(山東)は、
蜀の成都近郊の臨邛(キョウ)へ強制移住。

孔氏(梁)は、例の南陽郡へ強制移住。

その後、ここで何が起きたかは、
先述の通りです。

当時の鉱山開発の最先端であった
三晋地域の業者、
―当然、田畑も私兵も持っていた連中、が、

牙を抜かれて
後進地域の鉱山開発の音頭を取らされた、

―という、屈辱的な御話です。

このように、の政府は、

本国や占領地の鉄を独占し、

そうやって獲得した鉄で
主に農具を製作し、
これを優良な農民に貸与します。

それどころか、
官有物の払い下げについても
銅や鉄はその対象外。

つまるところ、

生産から管理、再利用までの全てを、
国家が担っている訳です。

6-6、漢代の経済自由化の副産物

さて、片や、
僻地に飛ばされた
先の三晋地域―敗戦国の富豪連中
どうなったかと言いますと、

人生万事塞翁が馬、
捨てる神あらば拾う神あり、でして、

程なくして
秦の滅亡によって、
コイツ等の目の上のコブが取れます。

そのうえ、次の前漢の御代は、

御承知の通り、当初は、
秦の圧政からの解放がテーゼでして、

おまけに、民力休養による経済発展の結果、
国内で貨幣が足らなくなりまして、

何と、貨幣の私鋳まで認可されます。

こういう追い風に乗って、
鉱山の利権をテコに
周辺の土地を買い漁り、

『史記』に、
富豪として名を遺すというオチ。

実に、したたかなものです。

国内外のさまざまなツテを使って
息を吹き返した
先の大戦における
枢軸国の軍産の戦後と、

何処か似ているような。

そりゃ、資本の経営者にとっては、

構成員の生活が掛かっているので
形振り構っていられないのも
当然だと思いますが。

7、漢代の製鉄業を俯瞰する
7-1、「都市型」と「深山型」

―で、秦代の政府の後進地域の鉱山開発や
勢力圏における鉄の統制、

漢王朝発足後の経済自由化、

そして、武帝の時代以降の
匈奴との戦争による戦時統制、といった、

歴代政権による猫の目行政の結果、

漢代の製鉄業は如何相成ったかと言えば、

さまざまな立地に製鉄所が建設され、

これまたさまざまな分業体制で
運営がなされます。

以下に、具体的な話をします。

まず、立地ですが、

割合年代の古い識者の御説では、

「都市型」と「深山型」
に大別されるそうな。

都市型政府の息の掛かったところ、
深山型豪族の民営のところ、

―という類型です。

前者は、先述の臨湽や宛のような
製鉄所あるいは工場が
城内にあるところでしょう。

で、後者は、国家権力が及びにくく、
ガラの悪い労働者が群れて
治安の悪化につながったそうな。

【雑談】街と田舎のワルい人

1、都市と郊外を結ぶ「少年」

ですが、世の中、
ワルい人なんか、何処にでもいる訳です。
しかもつながってたりします。

まず、前者も前者で、

狭い城郭都市の中には、

業者からの賄賂が
手際良くロンダリングされ
美辞麗句で中身のない道徳の説かれる、

外観ばかりは
清く正しく美しい政庁や講堂もあれば、

不浄・不潔・不道徳とはいえ
人の物欲には正直な
常設市もありまして。

で、先述の通り、
どうもソッチ系みたいなのが
こういうところにタムロしています。

それどころか、連中は、

後者―つまり、
城市付近の山林沼沢に潜む愉快な人達
パンクな付き合いがあり、

そいつらと連携を取って
ワルい遊びや政治ゴッコに興じる訳でして、

こういう人々を、何と、
「少年」と呼びました。

この種の話も、
先述の柴田先生の『漢帝国成立前史』
詳しく書かれています。

2、何処か似ている戦前の「壮士」様

まあその、
戦前の日本の感覚で言えば、

政治の世間では、

政府や政党、大企業、
田舎の大地主等の工作資金で、

政治活動と称して、

街宣は元より
強訴や恐喝などまだ可愛い方で、

敵対勢力の運動員との
仕込み杖での斬り合いや
拳銃での撃ち合いまで、

集票につながることなら
何でもやった、

末端の政治工作員・通称「壮士」のような
院外勢力にでも相当するのでしょうが、
(こういうのと外交官の顔もあった荊軻を
同列視するのも、
どこか釈然としませんが)

3、市の風景を妄想する

まあその、
「少年」の日本語のイメージからすれば、

制作者としては、
何の冗談かと思います。

「少年隊」、「少年少女合唱団」、
「青少年保護育成条例」、

―漢字の理解の難しさ。

ついでに、私も司〇遷あたりに仮託、
ではなかった、
少しばかり悪ふざけをしますと、以下。

設問:
ひとりの少年が
亭長時代の劉邦に
市で「少年よ、大志を抱け」と
激励を受けたと仮定し、

少年のおかれた状況やその心理について
1000字以内で論述せよ。

解答例:

また酔ってんのかよ、このオッサン、
マジうぜー。
(〇大の関係者の皆様、悪しからず)

蕭何による添削結果:

1、亭長の酩酊状態の根拠、
2、「マジうぜー」の心理状態に至った原因、
3、再発防止策及び不良役人の綱紀粛正の対策
以上の3点を、計800字以上で書き直せ。

―資料を解析すると、

劉邦は始皇帝の行列を見て感激して
息の掛かったうぇーい系の若者に
ハッパを掛けるも、

自らの日頃の素行が悪いことが祟って
相手にされず、

一方で、こういう軽率な言動で
上役の神経を逆なでするのを恐れた
郷里の優等生で地方公務員の蕭何は、

事を矮小化して
そして、丸く収めようとする、と。

燕雀、焉んぞ鴻鵠の志を知らんや。

―ホント、どうでも良い話をすみません。

4、謀臣とワルい人の『三国志』

ですが、平時のアウトローも
要人に顔が効くレベルとなると
中々に捨てたモノではありませんで、

漢代にも、
まっとうな史書にまで顔を出すような
コワモテの侠客がイロイロいます。

こういうのは井波律子先生
『中国侠客列伝』が詳しいのですが、

そのテの個々人については
ここでは触れません。

また、秦や前漢から時代が少し下ると、

曹操幕下の知恵者の程昱や郭嘉
こういうのと付き合いがありまして、

世が乱れると、

先述のような
人足集めや情報収集、
世論工作等の実働部隊として、

さまざまな局面で活躍する訳です。

曹操の能力主義は、
その種の水面下の政治力をも
意味したことでしょう。

【雑談・了】

7-2、結構複雑なサプライ・チェーン

いい加減、ワルい人の話から
カタギの商売の製鉄場の話に戻します。

どうも80年代までの研究では、
「都市型」と「深山型」
に大別されていた製鉄場。

ところが、

佐原康夫先生の93年の研究、

「南陽瓦房荘漢代製鉄遺跡の
技術史的検討」
『史林』76
によれば、

漢代の有名な製鉄場の遺跡の中には
城址近郊の河川沿いの郊外にあったりで、

こういう類型には例外が多く
あまりアテにならない模様。

要は、人が数多住むところか、その近く、
もしくは、鉱山の付近に立地していた、

という程度の理解に止めておいた方が
無難そうな。

生産・消費の焦点、
ということになりますかね。

また、製鉄場の用途もさまざまな模様。

南陽のように、
農具・武具、
車具や装飾のような民生品といった
鉄器の製作一本のところもあれば、

今日の大手メーカー宜しく製鋼一貫、
あるいは鋼材から鉄器製作まで
担うところもあります。

また、原材料の鉄鉱石、
あるいは鋼材についても、

郡境をまたいで
方々の鉱山や製鉄場間で
融通し合うという具合に、

複雑なサプライ・チェーンと分業体制
出来上がっていた痕跡があるそうな。

また、その南陽は、
製作一本とはいえ、
材料の調達は柔軟でして、

鋼材も屑鉄も併用するという具合。

立地も分業の形態も
多種多様な訳です。

さて、以上は、
前漢末までの
南陽以北の製鉄業の御話。

8、江南開発と製鉄業

8-1、地力の滲み出た赤壁の戦い

では、これより南の状況は、と言えば、
残念ながらサイト制作者の不勉強につき、
正確な状況は分かりかねます。

しかしながら、
それを推測するに足る材料
多少はありまして。

―具体的には、
江南の会稽郡辺りの開発の御話です。

漢人の住むところに
概ね郡や製鉄場があるのは
先述した通りですが、

この方程式が江南に及んだ時、

現地民が北の政権に対して
牙を剥くことと相成ります。

―識者によれば、

それが、彼の赤壁の戦い、
という訳でして。

石井仁先生の御見立てと記憶しますが、

この戦いの孫権の軍の継戦能力は
江南開発あってのものだそうな。

確かに、孫権の軍の、

南方の軍隊の御家芸ともいうべき
水上における卓越した戦闘力は
言うまでもありません。

しかしながら、

そもそも、
戦略レベルの話として、

数万人の軍隊を徴発して
曹操の軍に疫病が流行るまで
粘り強く抗戦し、

のみならず、

形勢が逆転した後は、

水陸両用の反攻作戦で、

東は江夏から長江を遡って
敵の策源地の江陵まで攻め込む程の
強靭な国力を指すことと思います。

8-2、秦が開けたパンドラの箱

さて、このように、
従来の南北のパワー・バランスの前提を
大幅に狂わせた
漢代の江南開発ですが、

その経緯について、
少し時代を遡って見てみることにします。

まず、戦国時代の後半に
この辺りを支配していた楚の
滅亡直後の状況について、

少し触れておきます。

この辺りの御話も、
柴田先生の御本が詳しいのですが、

秦の占領地の中で
最も荒れていたのが、実は、
旧・国の地域です。

特に、始皇帝の崩御後は
さまざまな武装勢力が蜂起し、

ハチの巣を突いたような
兵乱状態になっていました。

楚は、先に、
昔からの王都(先述の江陵の辺り)を
奪われたこともあり、

この界隈に遷都してからは
足場が固まっていなかったことの
証左なのでしょう。

因みに、その文脈で、
劉邦や項羽も
このドサクサで台頭するのですが、

劉邦の特異性としては、

魏と楚の境界線で活動していたことで、
当時としては国際感覚
あったのだそうな。

そもそも、
この辺りで秦が嫌いな連中の
大同団結の台風の目である
陳勝からして、

国号を「張楚」としています。

―下品に言えば、
「デカい楚」とでも訳しましょうか。

この政権は、建前としては、
楚の王族に敬意を払っており、

当時、甥の項羽を従えていた項梁も
合流を考えていました。

もっとも、陳勝の軍の崩壊が
早かったために
実現には至りませんでしたが。

―つまるところ、江南の地は、

春秋時代は呉越同舟だの言ってまして、
楚の統治下でも、上記の通りでして、

元から人心の安定しない
地域だったのでしょう。

さらには、先述の通り、

前漢の終り頃までは、

漢民族の開発の前線の南限が
南陽辺りであったとすれば、

恐らく、当時はまだ、

漢民族の文化圏ですら
なかったことでしょう。

こういう状況の中、

辛うじて、
この不安定な地域を
統治するにあたって、

国としての体裁を
辛うじて保っていた
楚の滅亡によって
パンドラの蓋が開いたことで、

秦にとっては最悪の展開とも言うべき
五月雨式の武装蜂起による
ヒャッハー天国に変じます。

要は、春秋時代・戦国時代の
双方のとしての枠組みから観ても
人心が安定していない土地柄でして、

漢代に入ると、
経済的な発展や武帝時代の遠征もあってか
漢人の開発の前線が南下し、

そのうえ後漢末になると
戦災を嫌った北方からの移住者も増え、
この地域は混沌として参ります。

【雑談】「異民族」はどこにいる?!

1、案外狭かった漢人勢力圏

余談ながら、ここで、

古代中国のフロンティアの感覚について、
少し触れておきましょう。

斯く云うサイト制作者も、
実は、こうした感覚は
調べるまで分かりませんでした。

まず、『キングダム』で
山の民の御姫様が
秦に加勢する話がありますが、

ああいう漢民族から見た
「異民族」の勢力は、

周王朝が冊封した国の内外や
戦国の列強の領土の周辺には、

実は、たくさんいたのです。

例えば、太公望・呂尚は
羌族の人でして、

教養にイチイチ突っ込むのも
野暮な気もしますが、

釣糸を垂れながら王に説教を垂れた、
という呑気な逸話自体が、

漢民族のヒマな知識人の価値観に
思えてなりません。

一方で、そうやって興った
西周が滅んだのも、

周辺の異民族との関係が
王室の乱脈が祟ってこじれたためです。

2、「異民族」国家・呉と「異民族」で儲けた趙

孫武だの伍子胥だののなんぞ、

そもそもが
漢民族の国ではなかったことで、

中原ではうだつの上がらなかった軍人が
後進国の軍事顧問として
列強の流儀を無視して
好き勝手やれた訳です。

自分の友人の徐庶が
中原であまり重用されないのを嘆く諸葛亮が
劉備の軍で辣腕を振るうことになるのと、
どこか似ています。

とはいえ、呉も呉で、
或る程度のコンプレックスはあったのか、

当初は戦車に狭隘な地形を走らせたりして
悪戦苦闘だったようですが。

さらに、戦国時代の場合の北方では、
匈奴が外患、というよりは、

来村多加史先生によれば、

趙の場合、武霊王の故事こそあれ
当時の北方の長城のすぐ内側まで
森林が広がっており、

長城の建設目的は、
むしろ趙の攻勢限界点的な意味合いが
強かったのではないか、
と、しています。

つまり、趙は、

匈奴が国力を蝕む癌などころか、
逆に、北方の上がりで秦と戦っていた
可能性がある、

という御話。

因みに、古代中国において、
戦国時代から2世紀頃までの気候は
割合暖かく、

北京の辺りは
広大な原生林が生い茂っていた模様。

そして、3世紀の寒冷化で
北方の騎馬民族が南下し、

三国時代の漢中界隈のような
ややこしい状況になりました。

もっとも、それ以前の状況として、

近代農法を先取りする

乱伐・乱開発・塩田化
守銭奴ルーチンは、

当然ながら、
世紀を問わず外せない中華クオリティ。

水量の少ない暴れ河な黄河の
複雑怪奇な事情も
これに拍車を掛けます。

3、異色の国・中山国

さて、時を戦国時代に戻しますと、

南の楚とて、

蛮族の扱いを受けながら、
中原の流儀を貪欲に吸収して
列強の中に喰い込みました。

また、燕と趙の国境あたりには
中山国という千乗の国がありまして、

峻険な山岳地帯に
居城を持っていました。

ここも、漢人とは系統の異なる
「異民族」に相当する人々の系譜の国です。

また、ここは、

卓越した製鉄技術を有しており、

軍の鉄の武器の装備率が
高かったこともあってか、

長らく独立を保ちました。

漢代にも国が置かれたのですが、

武帝の異母兄で
劉備の先祖とされる劉勝は、
ここの職人集団を従えていました。

のみならず、

民族的な柵がこの時代まで残ったのか、
後漢末の黄巾の乱のドサクサで
ここの長の地方官が反乱を起こします。

以上のように、

漢人が自国の周辺の
この種の「異民族」あの手この手で
勢力下に置いて同化させていき、

あるいは、「異民族」が、
漢民族の文化を有難がって吸収して
その秩序の中に入っていく流れもあり、

それが長い歳月にわたって継続して
漢民族の勢力圏が広がっていきます。

4、巨額予算による高度防衛システム

また、こういうループに増長して
所謂「華夷秩序」の思想も生まれ、

歴代の金満政権をして
大規模な外征に駆り立てます。

殊に、前漢の武帝時代は、
恐らく古代史におけるピークでして、

来村多加史先生によれば、

北方の長城線の防衛システムの完成度は
その前後数百年を通じて
抜きんでたレベルだそうな。

その理由は、恐らく、

時代が少々下っても
城郭攻防の流儀が
それ程変わらなかったり、あるいは、

李世民の唐のように
軍事ドクトリン自体が
防衛拠点を軽視したりという具合で、

それ以外の点は、
前漢のそもそもの国力自体が
ズバ抜けていたからです。

5、黒山賊の梁山泊の今昔

例えば、後漢の北方防衛は、

主に太行山脈の山麓に
大量の武装村「塢」を建設するという
場当たり的なもの。

城壁内の司令部と
城外の駐屯基地との連携で
体系的な監視網を持ち、

両者で共有する情報の質も高かった
前漢時代のものとは、

比べるのも失礼なシロモノです。

因みに、後漢末期に黒山賊の張燕
自称100万だかの流民を従えて
籠ったのは、

大体はまさにこの一部で、こういう
山間部に武装村が乱立するタイプの
防衛拠点です。

ええ、元は国軍の最前線基地の一部が、

時代が下って
地元ギャングの根城になるという
さらにみっともないオチ。

フォート・マーサかよ、と思います。

因みに、こういう長城をめぐる攻防について、
戦術や構想の変遷に詳しいのが
以下の御本。

来村多加史『万里の長城 攻防三千年史』

(講談社現代新書)

同書は読み易いうえに図録も豊富で、
絶版なのが勿体ない限り。

特に、漢代の状況説明は
詳細を極めていまして、

先生御自身が御書きになった論文の
ダイジェストかと拝察します。

後、以前の記事でも紹介しました、

石井仁先生の
「黒山・白波考–後漢末の村塢と公権力」
『東北大学東洋史論集』9

同書の内容と
この論文の内容を突き合わせると、

山籠もりして
黄巾だの黒山だのと
覆面を取っ換え引っ換えしながら
中央の情勢を睨み続けるという、

あの辺りの「群雄」達の
色々な意味での
胡散臭さやデタラメさが垣間見えて
笑えて来ると言いますか。

6、三国時代の「異民族」政策

さて、漢民族が、
上記のように
せっせと縄張りを広げる過程で、

支配民をあの手この手で
同化させる訳ですが、

この「同化」には、

被征服民にとっては、

兵役や経済的な搾取、

そして、度し難い侮蔑
付いて回ることは
言うまでもありませんで、

やられた方は、古今を問わず、
恨みと葛藤を抱えるものです。

例えば、後漢時代の漢族なんか、

羌族の人々を耕作や水害対策等で
散々扱き使った癖に、

言語も生活習慣も大きくことなるので
付き合い辛いだとか言う訳です。

―ええ、無論、タダで済む筈もなく、
兵乱になって長安以西は焼け野原です。

因みに、軍閥の総帥として
この鎮圧で焼け太ったのが、

あの董卓で御座い。

そのすぐ後の三国時代なんか
さらにエゲツないものです。

真っ先に、屯田制・兵戸制
「異民族」様御一行を
諸手を挙げてウェルカムしたのが曹操。

その後、予想外に兵乱が長引いて
抜き差しならぬ事態になった後は、

その「異民族」様御一行を、

今で言えば、
片っ端から本国に強制送還しろと
吠えたのが、

彼の司馬仲達がドラフト外で発掘した
大型ルーキー・鄧艾

呉を滅ぼした晋の名将・杜預とて、
同様の事態を憂慮しながら
鬼籍に入りました。

もっとも、鄧艾の意見も、
羌族の兵で成都を陥としたりと
現場の人間のナマの声ではあるものの、

今日における
アメリカにおけるヒスパニックやら
欧州の外人労働者よろしく、

本国人の手前勝手な理屈だけで
そのように出来るものなら
とうの昔にそうしていまして、

社会の末端を
いつの間にか浸食されている状況下での
机上の空論。

それをやったら、

耕作や兵役のような
一昔前で言うところの
3K仕事の担い手がいなくなる訳で、

世の中、タダより怖いものはなし。

7、『三国志』の勝者は民族抗争の敗者

とて例外ではなく、

出師の表やその続編
隈なく御覧頂けると、

軍の複雑な性格が垣間見えて
中々笑えるかと思います。

そして、
五丈原の戦いの蜀軍の唯一の戦果である
渡河攻勢の担い手は南中の兵。

そう、『三国志』の、
特に後半部分の最末端の戦場の光景は、

穿った見方をすれば、

漢人のメンツを賭けた
外人部隊による代理戦争です。

そして、そうした民族的な社会矛盾が
最悪のかたちで噴出して
主客逆転に及んだのが、

「異民族」の反乱軍の侵攻によって
晋朝の首都・洛陽が灰燼に帰し、

事もあろうに皇帝様まで手に掛けられた
永嘉の乱、
ということになりますか。

言うまでもなく、

あの三国時代の勝者が
統一後、僅か30年で迎えた
最悪レベルのバッド・エンディングです。

司馬家の御家騒動の実力部隊に
母屋の王朝ごとブッ潰される訳で、

そりゃ、文学的な群像劇にしたければ、
赤壁や五丈原で筆を置きますわな。

8、戦争と搾取は異文化交流の尖兵?!

以降、まず南北朝時代は、

南朝の漢人政権が
北からの騎馬民族の侵攻に
如何に耐えるかの時代。

隋唐時代は、
そもそも王族が「異民族」の系譜。

最早、エラそうな漢人士大夫の
独断場のような
由緒正しい史書の世界でさえ、

漢民族が主役という構図が
成り立たなくなっているのです。

―そんなこんなで、

例えば、

いつの間にか、
満人由来のチャイナドレスが
中国の伝統衣装になっているかと思えば、

その一方で、
ラーメンが日本食の様相を呈しているという
摩訶不思議な今日この頃。

因みに、むこうの感覚では、

味の濃淡な麺の太い細いの違い等は元より、
丼物のような一品料理という概念が
ないのだそうな。

まとめますと、

所謂、外交的な華夷秩序の拡大
「異民族」の下部構造浸食による主客逆転、

そして、本国における漢人と「異民族」の
差別・被差別が同時進行し、

オマケに、混血や異文化交流
積極的にやるという具合に、

時代の事情により
これらの要因が複雑に交錯する訳ですね。

ウ〇グルどころか、
池〇や西〇が将来どうなるかは、

この記事を最後まで読めば分かる、
筈もなく。

もっとも、サイト制作者としては、

公用語で你好とやるのは
御容赦頂きたいものの、

近畿地方か東海地方に、

中文の書籍やむこうの雑貨を
豊富に扱う店が
少々増えて欲しいとは思います。

例えば、神戸の南京町は
雑貨や中文の書籍を扱う店が少なく、

大阪や京都、名古屋は、
中文の書籍を多くを扱う本屋が
平日開いていないという具合で、

田舎に住む身としては、
これは何とかならんものかと
思う次第。

残念ながら、
随分潰れたようですね。

【雑談・了】

8-3、会稽郡と先住民

さて、話が大分脱線して恐縮ですが、
そろそろ江南開発の話に移ります。

まず、この個所の主なタネ本は、以下。

故・大川富士夫先生の御論文、
「御漢代の会稽郡の豪族について」
『立正大学文学部論叢』81

因みに、無料で読めます。

国立情報学研究所の論文検索エンジン
ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

さて、再び、鉄官の地図を御覧下さい。

上記の地図の再掲

江南―長江南岸の
中下流域を指すと記憶しますが、

この辺り、先述の通り、
鉄官どころか郡自体が
見事な迄にスッカスカですね。

その中で、
会稽はどこかと言えば、

現在の浙江省紹興市。

酒の名前の方が有名か。

いい加減なことを書くと
土地勘のある方に叱られそうですが、

今の感覚でアバウトに言えば、
大体、上海の辺りです。

『三国志』で言えば、
孫策だの王朗だの厳白虎だのか
角突き合わせたエリア。

さて、先述の通り、
戦国時代には「異民族」、
主に越族の勢力の強い地域でしたが、

武帝の時代の南征を契機に、
漢人の進出が始まります。

で、元々の現地政権であった
東甌国や閩越国の先住民
どうなったかと言えば、

当然ながら、

山間部に追っ払われるわ、

山奥に逃げ込んでも
漢人地主の人間狩りに遭い、

耕作や戦争に駆り出されるわ、

そのうえ、生活習慣が合わないので
漢人との軋轢を増幅させるわで、

まあ、踏んだり蹴ったりな訳です。

まさに、亡国の民。
そう、山越の皆様のことです。

余談ながら、安徽・江西・福建の
山間部には、
閩語という独特の方言があるそうで、

私の理解が間違っていなければ、
これがルーツがかと。

8-4、対山越の治安作戦と軍拡

そして、こういう漢人の醜い収奪を
軍事面で支えておきながら
主君に儒教を説いたのが陸遜でして、

まあその、何の冗談かと。

もっとも、
この人だけを責めるのは酷というもので、

孫呉の将には、
これで兵馬を養ったのがゴロゴロいます。

しかしながら、
金文京先生によれば、

この山越の動向は
孫呉にとっては
面倒な盲腸でもありまして。

と、言いますのは、

まず、曹操や魏が連中を扇動して
孫策・孫権の勢力を
事ある度に牽制します。

具体的には、孫策の時代には、
息の掛かった郡太守に
将軍位を与えて攻撃させます。

また、孫権の時代には、
部族の有力者に
印綬を与えるというやり口です。

で、こういう離反策が、何と、
蜀との連携にも支障を来す訳です。

したがって、
孫呉も孫呉で死活問題につき、

抵抗する者は惨殺し、
残りは平地に強制移住させるという
苛烈な治安作戦で臨みます。

その結果、『呉志』の数字を総計すると
孫呉に編入された山越の兵士は
15、6万とのこと。

これは呉軍の半数に相当するそうです。

例えば、孫権の親征や
2度の司馬氏への反乱の介入戦争で、

各々、自称10万の外征軍を
動員したことを考えれば、

国内全域の守備隊を含めると
大体これ位の数字に
なるかと思います。

因みに、確か、
戦国時代の韓の事例ですが、
外征軍は全軍の3割程度。

参考にでもなればと思います。

また、蜀漢の動員兵力が
戸籍も実働も10万余で、

さらには、当時の呉の人口が
蜀の2~3倍という事情を
考慮しても、

当たらずも遠からずの
興味深い数字だと思います。

もっとも、蜀漢の北伐の折、
常時2割の兵を休ませたそうですが、

その2万の兵だけで
全ての国境線を守れたのかどうかは
分かりかねます。

そして、こういう
ソルジャー・ブルーな征服戦争は、

孫権が皇帝を自称する頃には
終局を迎えたそうな。

8-5、開発と表裏一体の教化策

で、漢代から孫呉の時代にわたる
漢族の開発、

と言いますか、

土地泥棒な話以外には、
漢族と越族の交渉・混血・同化が
同時進行します。

蜀漢≒諸葛孔明の、
大姓の篭絡を軸にした南中支配の過程と
よく似ていると言いますか、

蜀の側が参考にしたのかもしれませんね。

ですが、漢族も漢族で、

取るばかりではなく、

それこそ身銭を切って
大規模な開発も行う訳です。

具体的には、現地に、
9000頃(1頃=100畝=6000平方cm)
もの田畑に漑田する水利施設を
建設します。

因みに、当時、

従来の越族の農法は
粗放な低湿地の水稲栽培でしたが、
(焼畑とも言われていますが)

9000頃の開発の規模からして、

例の、農地に水路を引く
漢人の灌漑農法とのハイブリッドになった
可能性があるそうな。

さらに、この技術を
何処から持ち込んだのかと言えば、

現地の地方官の
門生故吏―役人の上司部下の関係、
の人脈を考えれば、何と、

先述の南陽郡の大規模開発を
トレースした可能性が高い模様。

漢人の地方公務員は、
そうやって、飴を与える一方で、

御得意の礼教の普及・実現
勤しむ訳です。

で、納税のための戸籍も
漏れなく付いてくる、と。

とは言うものの、

編戸の民が
納税に耐えられずに逃散して
無戸籍になり、
挙句、豪族の私兵になる、

―というパターンが
後漢末の断末魔の状況につき、

その後の細かい話が気になるところで。

後、何だか、
アーメンの宗教と
やってることが似ていますね。

もっとも、ナンマナダ―とて、
我が国の江戸時代は
戸籍把握の方便に使われた訳ですが。

余談ながら、サイト制作者は、

そのナンマンダーのシンシューの
あまり敬虔ではない
信者のひとりでして、

アーメン関係の訪問勧誘の時だけ、

「〇教徒ですので」と、
もっともらしい文句で逃げています。

8-6、地の果てにでも行く名士様

さらに、門生故吏どころか、

遠隔地間の名士間の関係
少なからずあったのが、
この後漢時代のひとつの顔。

特に、北来の名士との関係
注目すべきところです。

彼等も彼等で戦災を避ける等の理由が
あるのです。

三国志の時代でも、

と、言いますか、

三国志の時代だからこそ
こういうのが頻繁に起きまして、

例えば、若き曹操が
徐州でやらかした略奪沙汰。

以前の記事でも書きましたが、

アレで、諸葛亮や魯粛、張昭等の
地元名士が郷里を追われまして、

結構な数の名士が
この揚州の地に渡りました。

中でも、特に、
諸葛亮と魯粛は、

この時の狼藉に対して
凄まじい恨みを抱いていまして、

赤壁の戦いの前に
反曹操のプロパガンダを
大々的にやりました。

【雑談】命懸けの豪族の御引越

1、大所帯が大前提

で、こういう名士様の御引越、

ヒマな知識人が
行李をぶら下げて
馬でノホホンと長旅をするような
牧歌的な風景ではなく、

一族郎党で構成される無数の人馬
キャラバンのように群をなして
動く訳です。

当然、武装もする訳で、
謂わば、流浪軍。

アニメの『北〇の拳』の
オープニングで、

虚ろな目をした人々が
砂嵐の砂漠の中を歩くシーンが
ありますが、

この種の引っ越しのイメージは、
アレに近いのかもしれません。

ですが、後漢王朝の救世主は
徐州や華北、江南の
侵略者であったりする訳で、

万人に都合の良いヒーローなんぞ
虚構の世界以外に存在した試しがありません。

で、どうも、
官位が欲しくて
仕方がなかったらしい
名医・華〇より
是非にと勧められた手術を断り、

「お前はもう、(以下省略)」
と、宣告されたかどうかは、

無論、定かではありません。

版権沙汰になりそうな際どい話はさておき、

名士はそもそも、

豪族がその冨を以て
洛陽の太学等で遊学させて
帝王学を学ばせた
学歴エリートです。

中には、
闞沢のような叩き上げもいますが、

大抵は富裕層の出で、
支えるスタッフがいてナンボ。

一族郎党を差配するのが仕事です。

そして、こういう集団となると、

動く方も、通過される方も、
そして、落ち着く土地の人間も、
戦々恐々とします。

2、祖逖おすすめの引っ越し術

一例を挙げますと、

東晋の軍人に、
祖逖という人がいました。

この人、元は、
范陽郡(河北省)の名家の出ですが、
勉強そっちのけで
侠の道にハマりまして。

で、当然ながら
一族中の鼻つまみ者
ではありましたが、

その一方で、

日頃から
兄の命令と噴いては、

荘園内の貧者に
何がしかの差し入れを
やっていたんだそうな。

ところが、

先述のように、
有事の際にはこういう人の方が
頼りになるもので。

永嘉の乱
華北がカオスになった折、

彼の一族郎党数百家は
南への避難を余儀なくされましたが、

その一族郎党の危機に際して
指揮を執ったのが、
この侠のアンちゃん。

因みに、当時、
一家族は父母と子供2、3名で
5名程度です。

で、この御仁は
その逃避行に際して、

老人や病人を車馬に乗せて
自らは徒歩でこれに従い、

そのうえ
食糧・衣服・薬といった物資を
共有としたため、

皆の信頼を勝ち得たそうな。

言い換えれば、
こういうのが
逸話として残ること自体、

豪族の逃避行なんぞ、

共同体の精神どころか
資産や身分がモノを言う
弱肉強食の世界で、

飢えたり歩けなくなった人から
野垂れ死んでいくような
生き地獄なのでしょう。

3、許靖の見たこの世の果て
3-1 実は、董卓政権のエース格

さらに、漂泊者の
メンタリティを垣間見るべく、

今回の主役ということにして、

蜀漢の重鎮・許靖の伝を
紐説いてみましょう。

この人は、例の有名な、
曹操に「乱世の姦雄」という
官界の血統書を書いた
許劭のイトコです。

また、最後は、
蜀漢の司徒・太傅として
位人臣を極めた人ですが、
(劉禅の教育の責任者
でもあった訳ですね)

その前に、

劉璋の旧臣の癖に、

土壇場の成都の籠城戦で
城壁を乗り越えて
逃亡しようとして失敗し、

戦後に劉備に睨まれた
駄目なオッサンでもあります。

また、位を極めた理由は、

所謂「隗より始めよ」で、

劉備政権による
益州人士の人心掌握の餌に
他なりません。

ですが、この御仁の過去を見ると、

人の普遍の心理として
同情出来る部分もあると思います。

まず、この人は、
当時の学閥の筆頭格である
汝南閥にもかかわらず、

若い頃は馬洗いをして
生計を立てたそうな。

で、蛍雪の功あって、
孝廉にも挙げられまして、

官界では尚書で人事畑を歩み、

董卓政権では、
人事で綱紀粛正を図って
正義派官僚を抜擢する等して
辣腕を振るいます。

謂わば、有能な人格者タイプ。

事実、この政権も、
出足の頃は
本気で国政を安定させようとして
特に人事面では積極的でして、

その旗頭がこの許靖という訳です。

しかしながら、
平時であればともかく、

有力な外戚も宦官も
共倒れになったことで生じた
権力の空白という
異例の状況下において、

官僚同士が結束する理由が
なかったのかもしれません。

抜擢した地方官の一部は、

事もあろうに、

赴任先で董卓に牙を剥いて
兵乱に手を出しまして、

そのうえ、
イトコのひとりまで
これに加担したことで、

洛陽からの逃亡を
余儀なくされました。

―失脚です。

3-2、南海行路は生き地獄

その後、イロイロあって
会稽郡の王朗を頼りましたが、

今度は孫策が攻めて来やがって、

そのうえ、
後ろ盾の汝南閥は
官渡の戦いで勢力を失いまして、

結果として、

南海の果ての
交趾まで逃げることになり、

現地政権の士氏に匿われます。

さて、会稽から交趾までの
流転の日々における
この人の行動は、

例えば、旧知の遺族の面倒を見たり、
逃げる時は他人に先に
長江を渡河させてやったりと、

実は、かなり見上げたものでした。

こういうところは、

良心的な儒教官僚の矜持が
よく出ていると思います。

ですが、その逃避行の様子は、
まさに、この世の果ての生き地獄。

当人の曹操に仕官の拒絶を
書き送った手紙によれば、

会稽から交州までの行程の間に、

飢え、風土病、反乱軍の狼藉で
8割もの人間が命を落とすという
悲惨極まりないものでした。

その中には、
親しい名士や伯母までもが
含まれており、

自分を登用したければ、その前に、
為政者として治安やインフラを
何とかしろ、といった、
恨み言まで綴っています。

もっとも、許靖が
ここまで手厳しくやったのは
曹操の使者のやり方が
横着であったためでして、

それ以外にも、
郷里の汝南を曹操に焼かれた恨みも
あったのかもしれません。

さてその後、劉璋の招聘を受けて
やっとのことで安住の地を得、
そのうえ太守の職まで得る訳ですが、

事もあろうに、
その後やって来たのは
送り狼の劉備様御一行。

その絶望感たるや、
察するに余りあります。

元々この許靖という人は
官界の中枢である尚書の人事畑で育ち、

先述の祖逖のような
軍だの侠だの切った張ったとは
恐らく無縁であったことでしょう。

一方で、官界では中々の仕事をして、
実際、曹操からも
呼び声か掛かっていますし、

生き地獄のような逃避行の最中でも
行儀良く、理性を失ってはいません。

ですが、そのような常識人にも、
イカレた状況の我慢には
限界があるのでしょう。

そういう部分に、
当時の戦災を避けるための
先行き不透明な逃避行のリアリティを感じます。

如何に戦乱の時代でも、

国民の半分が
昼間から飲む買う打つの侠の人では
銃後の経済が成り立ちません。

許靖のような分別のある人が
極限状態の連続で
人間的な弱さを露呈したことに、

この時代の生き辛さがあったように
思えてなりません。

してみれば、このような
リスクまみれの豪族御一行様の
御引越、

まして、その許靖の上司で
飛ぶ鳥落とす勢いの劉備が
程なくして夷陵で負けて
荊州の失陥が確定した後、

祖逖や許靖の豪族なんぞ
問題にならない位の流浪集団が、

着の身着のままで
益州に雪崩れ込んでくる訳です。

これを裁いた孔明先生が
どれだけ優秀であったかが
分かろうかというもので。

【雑談・了】

8-7、職能集団の移動の可能性は?

さて、豪族は、

軍事力から経済力から、

土地さえあれば自給出来ることに
強味があります。

製鉄の技術者もこれに含まれます。

言い換えれば、

南陽の開発技術が
会稽で転用されたような
パターンもあれば、

どのような経緯であれ、

職能集団の流入による
技術移転をも意味する可能性
あろうかと思います。

つまりは、

三晋地域や南陽等の製鉄技術が
郷里を追われた豪族の移動を通じて
江南に渡った可能性です。

そして、諸葛亮や魯粛が
曹操にブチ切れる、
ということは、

今の世で言えば、

親族の経営する
鉄工所が、

戦争特需による
イカレた生産計画を叩き付けられ、

パチモノのト〇レフや弾薬を
せっせと作るべく
交代制の残業休出を強いられる、

ということを意味すると想像します。
―ホントかよ。

8-8、会稽太守と丹陽兵

また、先述のように、

郡のあるところに鉄もある、
という構図を考えると、

例えば、後漢時代及び孫呉の開発の結果、

会稽郡の南には
臨海郡・東陽郡・建安郡

その領域には18県が新設されました。

また、揚州という枠組みにおいても、

後漢時代、
会稽郡・九江郡・盧江郡には
それ程人口増加がなかったものの、

呉郡・丹陽郡・予章郡は、
人口・人口密度共に
数倍に相当する顕著な増加が見られました。

例えば、孫策は、
会稽郡太守を自称しましたが、

これは、会稽郡
当時の揚州及び江南の
中心地的な位置付けであったからです。

つまり、ここを抑えた者が
江南の主だと宣言した訳です。

しかし、開発自体は、
既に頭打ちになっており、

前漢から後漢にかけての
人口の伸び方が、
洛陽近郊で学術都市の潁川郡と
似ているそうな。

九江も、既に、
秦代には黥布の根拠地で、
前漢時代には国でした。

対して、新興地域である丹陽郡。

ここで若き日の曹操
董卓討伐に際して募兵し、
陶謙もここで集めた兵を劉備に貸し、

大分時代が下った後も、
寿春で大規模な反乱を起こした諸葛誕も、
それに先立って親衛隊をここで募りました。

口の悪い高島俊男先生によれば、

ここはヨソから人が集まる郡につき、

「丹陽兵」というのは
丹陽郡出身というよりは、
ガタイの良い人の代名詞なんだそうな。

―斯様な次第でして、

戦乱の時代につき、

上記のような、
開発が進み、あるいは、
募兵まで行われる地域に、

鉱山があっても
製鉄所や鉄を監督する役所が
置かれない、

というのも、

逆に不自然な話だと思います。

おわりに

さて、漸く、今回の結論の整理に入れます。
余分な話を随分してしまい恐縮です。

『三國志14』等で遊ぶ際、
多少の考証の足しにでもなれば幸いです。

1、秦漢代の鉄官は、
採鉱から鉄器製作までを担った。

また、戦国時代の列強も、
似たような制度を運用していた可能性がある。

2、鉄官は、秦代には、少なくとも、
咸陽・成都・臨淄には置かれていた。

また、漢代の分布は、
三晋地域と南陽郡以北の地域に集中していた。

前漢における漢人の開発の南端が
南陽であった。

3、秦は鉄の生産から流通までを統制し、
払い下げは行わなかった。

用途は、主に農具であり、
有能な農民に貸与した。

4、秦は敗戦国の製鉄大資本から
本貫地を接収する一方、
元手を貸し付けて後進地域に当てた。

その開発の対象地域が蜀や南陽郡であった。

5、漢代になると、貨幣需要から
私鋳を認めた時代もあったが、
戦時には強力な生産・流通統制を行った。

6、後漢から江南開発が本格化するが、
サイト制作者は同地域の製鉄業の状況を
把握出来ていない。

7、ただし、会稽郡の事例では、
南陽郡の田畑開発技術が流入しており、
北来の名士との交流も活発であった。

また、江南は、戦災回避を目的として
大規模な人口流入が起きていた。

8、豪族は自給自足が強味であり、
さまざまな技術集団も抱えている。

9、孫呉の物動面での戦力は、
江南開発と山越の人員の吸収による
軍事力・経済力で成り立っていた。

10、後漢から三国時代の江南は、
会稽郡が中心地であったが
開発が頭打ちになっており、
丹陽郡等が新興開発地域となっていた。

郡県の新設もあった。

11、以上、7~10の理由により、
戦争面での需要もあることで、
江南では各地から製鉄技術が流入して
製鉄所が急増した可能性がある。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
角谷定俊「秦における製鉄業の一考察」
大川富士夫「御漢代の会稽郡の豪族について」
佐原康夫「南陽瓦房荘漢代製鉄遺跡の技術史的検討」
佐々木正治「漢代四川に鉄犂牛耕は存在したか」
趙匡華『古代中国化学』
柴田昇『漢帝国成立前史』
金文京『中国の歴史』04
落合淳思『古代中国の虚像と実像』
井波律子『中国侠客列伝』
柿沼陽平『中国古代の貨幣』
原宗子『環境から解く古代中国』
来村多加史『春秋戦国激闘史』
『万里の長城攻防三千年史』
石井仁『曹操』
東晋次『王莽』
高島俊男『中国の大盗賊・完全版』
『三国志 きらめく群像』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻
高橋基人『こんなにちがう中国各省気質』
宮崎正弘『出身地を知らなければ中国人は分からない』

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鉄の話を始めるにあたって【雑文】

はじめに

 

更新が滞り、そのうえ、
次の記事の投稿にもまだ日が掛かりそうなことで、
進捗状況について少々綴ります。

 

 

1、白兵戦(こまったとき)の鉄頼み

 

具体的には、
鉄についての御話を予定しています。

鎧の話の延長で素材の話ということで、
斜め上のベクトルでガッカリされた方も
少なからずいらっしゃるかと思います。

 

しかしながら、
前回の記事でも触れました通り、
後漢・三国時代の戦争と鉄とは
不可分の関係にあります。

 

ビスマルクの時代どころか、

古代の戦争とて
鏃も刀剣の刃も消耗品につき、

鉄であれ銅であれ、
金属がなければ話になりません。

 

それも、地球自体が鉄の塊とはいえ、

文明の利器として
マトモに使えるように加工するためには、

膨大な量の資源や動力を必要とします。

 

参考までに、

例えば、以下のような状況は
どうでしょうか。

 

三国時代の呉や蜀のような
分権的な政権で
軍事力の中核を成す豪族連中は、

自分達の領地から
自前で武器と人員を調達して
政権内で大きい顔をしています。

特に、孫権没後の呉なんか、
ひどいものです。

孫晧があれだけの専横をやったのも、
こういう弊害が背景にありました。

 

ところが、
名士や軍閥として皇帝様の足を引っ張る
コイツ等にも泣き所はありまして。

 

具体的には、
在籍する勢力が大敗して
連中が本領を失陥すれば、

食糧どころか
武器の調達・補充もままなりません。

 

領内の鉱山や製鉄所とて、
経済力や軍事力の大きな泉源のひとつです。

 

そのように考えると、

関羽のヘマによる荊州の失陥が
劉備政権にとってどれ程危機的な状況かが
垣間見えようかと思います。

 

単に劉備政権が領土を失って
直接的な軍事力・経済力を
喪失するだけではなく、

豪族の軍事力を背景にした政治力にも、

そして、劉備政権の、
本国・荊州と植民地・蜀という
支配・被支配の関係にも、

危機的なレベルの悪影響を及ぼす訳です。

 

 

2、どこまで続く理系学習(ぬかるみ)ぞ

このように、
鉄の生産が軍事力の決定的な要因
ということもあってか、

この分野の先行研究が多いことで、

理系がダメな素人の浅学では
一筋縄ではいきません。

 

以下が日本の学術研究の
生臭いところでもあるのですが、

論文が書かれた時代に盛んであった産業、
思想、政治、政争といった
天下国家な分野は、

大抵どの時代の研究でも
先行研究が多いのが相場に見受けます。

 

しかも、読んだ論文自体も、
技術史を扱っているとはいえ
当然ながら文系の内容の域を出ておらず、
土俵際で辛うじて残った心地。

 

とはいえ、専門家の方が
入門書で噛砕いて教えて下さった
初歩的な知識を以て
漸く或る程度理解出来るという、
我が身の不甲斐なさ。

 

そのうえ、サラッと記事を書くつもりで
こういうものを読んだのが、
当然ながら、そもそもの誤りでして。

 

具体的には、

製鉄のイロハは元より、
(先の記事にも炭素含有量についての理解に
誤りがありました!)

当時の製鉄所の立地や間取り、
炉、鉱石、銑鉄の用途別の種類、
鍛造か鋳造か、といった、武器の製造方法等、

整理すべき事項が続出した次第。

 

後、漢代の鉄官が置かれた地域
採鉱区や製造拠点というよりは
鉱石や鋳鉄、製品の
集積地という印象を受けますが、

【追記】

これは間違いです。
鉱山と木炭の生産地を兼ねた場所が多く、
生産地を抑えているのだそうな。

事実、郡の治所ではない所にも
置かれています。

【了】

分布自体は、
何かしらの参考になろうかと思います。

 

さらに、上記の事項も、或る程度は、
図解する必要があろうかと思います。

製鉄に対する予備知識が全くない状態で
文字だけ読むのも相当な苦行だと思います。

―ええ、サイト制作者からして、そうでした。

 

こんなの、
鉄鋼や機械関係の御仕事や研究等を
されている方以外は、

言葉自体が分からないか
イメージが沸きにくいかもしれません。

 

ええ、斯く云う無教養なサイト制作者がそうでして、

篠田耕一先生の御本で
鉄と武器の因果関係について
興味を持つまでは、

太平洋戦争で
日本は鉄やレアメタル不足に苦しんだ、

鉄は銅より硬い、―程度の御粗末な認識でした。

もっとも、今も、
それに少し毛が生えた程度ですが。

 

ああ、そういや、

ス〇イリムで、
ドワーフだのオリハルコンだの、
得体の知れない金属のインゴットを溶かして
武器を作ったり、

フォー〇・アウト4で、
家電のジャンクをバラして
銅やアルミニウムをせっせと回収しましたが。

 

後、仕事柄、
銅のゴツゴツした汚いインゴットや廃材は
毎日見てますよ~!

もっとも、製造部門ではありませんが。

 

実に恥かしいノイズは無視して下さい。

 

もっとも、ここ10年位は、
理系分野の初心者向けの分かり易い本が
数多く刊行されていることで、

個人的には、本当に助かっています。

 

最後に、中身の無い駄文だけでも何ですので、

御参考までに、
描き上げたアレな図解を掲載致します。

この図解も、間違いがないかヒヤヒヤしています。

 

趙匡華『古代中国化学』・篠田耕一『武器と防具 中国編』・菅野照造監修『トコトンやさしい鉄の本』・柿沼陽平「戦国秦漢時代における塩鉄政策と国家的専制支配」等(順不同・敬称略)より作成。

 

 

【主要参考文献(順不同・敬称略)】
佐藤武敏「漢代における鉄の生産」
佐原康夫「南陽瓦房荘漢代製鉄遺跡の技術史的検討」
趙匡華『古代中国化学』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
山口久和『「三国志」の迷宮』

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戦国時代から三国時代までの武器の形状の変遷(小記事)

はじめに

 

2年もやってる癖に
記事配信の段取りが安定せず恐縮です。

どうも、次のまとまった記事を書き上げるまで
時間が掛かりそうなので、

今回は予告程度に武器について少し綴ります。

 

 

 

1、意外に変わらない戦争の常識

 

さて、前回にも少し書きましたように、

鎧の話の中に鉄の話を混ぜ込む理由は、

それだけ鎧の製造技術に与えた影響が
大きいからです。

 

正確に言えば、
攻撃系も含めた武器そのものへの影響が
極めて大きかった訳です。

 

さらに言えば、

サイト制作者の考えとしては、

戦国時代と後漢三国時代の戦争の
最大の違いは、

鉄器の普及の程度だとすら思っております。

 

例えば、曹操は古の兵書に脚注を施しましたが、
あれは単なる古典趣味ではなく
実学の一環としてやったと思います。

何せ、軍府からの兵書の持ち出しが
機密に抵触する時代です。

―もっとも、昔の書物であれば、
機密以前に写本は随分出回っていたとも
思うのですが。

 

そう考えると、

当時の武将が孫呉の兵書を読むのも、

今で言えば、
売れっ子経営者の書いた
最新のハウツー本でも読むような感覚と
想像します。

 

ええ、間違っても、

文学は不良のやるものだと蔑まれた時代に
まさに国費での留学先の某国でやらかした森〇外に、

(そういう話が娯楽小説どころか
高校の現代文の教材になるのが
教育の不可解なところだと思うのですが)

文章上達の秘訣に「春秋左史伝を読め」と言われて、
(小説家志望者を薫陶する類の話ではないと信じます)

先生の人生で言えば、陸〇省で権謀術数に明け暮れるよりも
ド〇ツで恋愛とか青春する話の方がいいのに、と、

顔を顰めるような類の話ではなかろう、と。

 

事実、後漢・三国時代も、

戦国以来の伍や什で隊列を組んで
戦争をやっていましたし、

曹魏の弩兵・弓兵も銅の鏃を使っていました。

 

幕末の戦争のように、

火縄銃の射程距離外から
伏せ撃ちのミニエー弾を喰らって
浦島太郎になっていた訳ではありません。

 

一応、数百年前の兵書の内容が
そのまま実学として通用するという、

一定の凝り固まった常識の範囲で
事が動いていたように思います。

 

―もっとも、三国時代どころか、
火砲が登場するまでそれで事足りる訳ですが。

 

 

2、鉄器の普及が個人技を変える?!

 

ですが、そうした中でも、
少なくとも、個人レベルの白兵戦については、
かなり様変わりしていたようでして。

 

具体的には、以下。

例によって、アレなイラストで図解します。

 

学研『戦略戦術兵器事典 1』、楊泓『中国古兵器論叢』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

 

簡単に言えば、

鉄器の普及によって、
刺突系の攻撃が主流になった訳です。

そして、武器の形状も
それに特化するという御話。

モノの本には、
これによって戦闘も凄惨になったとあります。

 

例えば、互いに相手の首を狙い
鍔迫り合いになるどころか、

いきなり急所や下半身を
グサリとやれる成功率が高くなったからでしょう。

 

筆者はこんなブログやっている割には
武道の経験は殆どないのですが、

漏れ聞く話によれば、
幕末の数々の実戦の斬り合いで
有効だったのは突きで、

剣道でも、
熟達者が殺せるのもコレなんだそうな。
(危ないので初心者には教えないとのこと)

この辺りの話は、当然ながら、
経験者の方々の方が詳しいと思いますが、

余談として、あくまで御参考まで。

 

言い換えれば、

銅製の武器に対して
皮革製の防具は貫通を防げたようでして、

戦国時代までの攻防の相場は
恐らくその辺りだったと想像します。

 

そして、その構図を一変させたのが、
鉄の普及による
刺突系の攻撃に特化した
武器の形状の変化。

 

 

 

3、故事「矛盾」の裏側を邪推する

 

ですが、守る方も鉄の鎧を装着する訳でして、
まさに、「矛盾」という故事を想起させる
展開になる訳です。

 

さて、この「矛盾」という故事は
『韓非子』に出て来る御話です。

つまり、戦国時代以前―鉄の武器の使用が
かなり限られた時代です。

 

サイト制作者が邪推するに、

街頭で口上売りなんかやるような程度の
小商いにつき、

恐らくは、銅製の矛の話と想像します。

 

【追記】

とはいえ、
干将・莫耶の故事宜しく、

鉄鉱石に数百度程度の低温で
焼き入れ・焼き戻しを何度も行う、
所謂「百錬鋼」による掘り出し物という可能性も
否定出来ないのですが、

どの道、
矛が盾を綺麗にブチ抜いたところで、

法家連中のロジックでは、
貫通力を褒めるような殊勝な話にはならず、

詐欺の現行犯を咎める
哎呀な展開になるのでしょうねえ。

 

因みに、こういう手の掛かるローテクは、
資本力の小さい製鉄業者の製法。

加熱温度が低いことで不純物が少なく
また、炭素濃度が極めて低いことで、

堅くてよくしなうスグレ物。

 

とはいえ、こういう、
資本力=品質とならないところが
当時の技術の面白いところでして、

曹操が作らせた宝刀はこの製法。

 

【了】

 

 

で、盾が革製であれば、
先述のような話であれば
通さない可能性も少なからずありまして。

 

ですが、実際の戦争では、

こんな小賢しい理屈でカタが付くような
生易しい話ではありません。

 

大口の国や諸侯の軍であれば
消耗品と割り切って矛も盾も大量に買いますし、

買うどころか、
そもそもの原料の統制から
国策で行います。

 

まあ、中には、南北戦争の時に
モ〇ガンから廃銃を300丁も掴まされて
怒り狂ったリ〇カーンのような人もいますが、

ク〇ップはそうやって鋼板も大砲も売り捌き、
これに味をしめてナチと心中仕掛けて
軍産から足を洗い、

何処かの島国も、
必死に戦闘機やミサイルの開発を行う傍ら、
最新鋭の戦闘機も対空ミサイルも
大枚はたいて買う訳です。

 

少なくとも、戦国時代の斉や秦も、
各々の兵器のレベルでは矛盾しようが、
そうやって国営の軍需工場を経営する訳です。

しかも、売る方は、
特に春秋時代辺りまでは
諸侯の外商部門だったりする訳です。

【追記】

恐らく、春秋時代の領邦国家の外商部門が、

戦国時代には主家が没落して
土地や軍事力の裏付けを持たない
「純粋な」商業資本として独立し、

各地で土地を買い漁る展開になると
想像しますが、

中には徒手空拳から成り上がった者も
いたことでしょうし、

その辺りは、系譜の話も含めて、
もう少し裏付けを取った後、
後日大きな記事にしたいと思います。

ところが、農本主義の戦時体制を
敷きたい法家連中は、

その種のボーダレスな商業資本を、
蛇蝎の如く嫌い、

甚だしい場合は
罪人同様の徴兵で弾除け部隊(弓弩兵)に
ブチ込むのですが、

一方で、呂不韋のようなのが
各国で幅を効かせていたのも
戦国時代の国家のひとつの顔でした。

【了】

 

こういうレベルの話になると、

寅さん宜しく街頭の口上売りで
クレーム対応に追われるどころか、

壱岐君宜しく
キック・バックとして
多額の袖の下を掴ませる光景の方が
余程真に迫っていると言えると思います。

 

死の商人と軍隊の関係なんか、

いつの時代も、
表裏一体の関係とでも言うのか
人を呪わば穴ふたつとでも言うのか。

 

そして、矛盾どころか、

鉄製の武器が出回っても
皮革製の鎧を作り続けたのも
兵器史のひとつの側面です。

こういう話は漢代に止まらず、

後の時代になると、
明光鎧の形状の革製なんかも登場するそうな。

 

 

おわりに

 

何だか、例によって、
話がヘンな方向に飛びましたが、

 

結論として、

鉄の普及によって、
刺突系の攻撃が盛んになり
殺傷力が飛躍的に高まり、

鎧の製造もこれに影響されていく流れ
多少なりとも読み取って頂ければ幸いです。

 

 

【主要参考文献(敬称略・順不同)】
学研『戦略戦術兵器事典 1』
楊泓『中国古兵器論叢』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
岡倉古志郎『死の商人』

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