前漢末期の指揮官用の鎧を復元してみよう

章立ては以下。

適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

はじめに
1、現物に忠実と思われる部分
1-1 現物の存在する脛当て
1-2 身甲と垂縁の接合部分
2、筒袖
2-1、長さが判然としない筒袖
2-2、身甲とシームレスな筒袖の甲片
2-3、採寸と甲片の数の算出の目安
3、身甲の甲片の数の算出
3-1、上下で甲片の列が異なる構造
3-2、肩・鎖骨部分の甲片
3-3、腹・胸部分の甲片
3-4、縦1段当たりの甲片の枚数
4、垂縁の甲片
5、縁部分の構造
おわりに

はじめに

今回は、前回の末尾に付けた付録の図
前漢末の指揮官用の鎧
についての解説です。

具体的には、以下。

楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)より作成。

とはいえ、

残念ながら
不明な部分が多いことで、

そうした部分は、
同時代かその前の時代の技術
参考にしました。

1、現物に忠実と思われる部分
1-1 現物の存在する脛当て

それでは、本論に入ります。

まず、学術書・論文の内容や
当時の俑の写真から判断したうえで

確実であろうと思われる部分について
触れます。

早速ですが、以下のアレな図を
御覧下さい。

前掲図を加工。

赤枠の四角が、当該の部分です。

まず、左側の枠について。

これは、御覧の通りの脛当てでして、

元となる資料は
楊泓先生の『中国古兵器論叢』
掲載されていた白黒の写真。

洛陽郊外の墓よりの出土です。

余談ながら、この御本、
和訳も出ていまして、

専門分野ド真ん中の
来村多加史先生の綺麗な訳です。

大学の図書館等に
配架されていることが多いと
思われますが、

古代中国の武器・防具に
興味のある方には
一読を御勧め致します。

さて、ここで困ったのは、
当該の写真が、
図とは上下が逆になっている点。

ですが、解説には
「于人架的足部出土一領鉄鎧」と
書かれてまして、

とはいえ、脛当ての構造上、
下に広がるものはない筈でして、

苦渋の決断ではありますが、

敢えて、参考文献に
若干の異論を呈すこととしました。

後述しますが、

この辺りの話は、実は、
甲片の縛り方にもかかわって来るので
面倒な話につき。

続いて、その甲片について。

この脛当ては、
足1本に対して
左右に分かれるタイプで、

甲片の数は、
片側で縦8段・横6列。

また、甲片の大きさは
分かりかねます。

ただ、脛当ての丈については、

当時の成人男性の平均身長
大体150cm程度と仮定すると、
(秦尺・6尺で換算。
漢尺だと現実味に欠けるかと。
典拠は『周礼』と記憶。)

少なくとも20cmを
超えることで、

後述する、
身甲(胴体の部位)の甲片とは、

恐らくは
種類(面積)が異なるものと
推測します。

また、縁の部分を
直線にならす工夫も、
同じ写真から判明しました。
―かなり見難いですが。

要は、甲片の底辺が
水平になっていまして、

これを利用して、
最上段の甲片は上下を逆にして
平にならす、という方法。

膝裏の傾斜部分にも、
この工夫が施されている
可能性があります。

その他、余談ながら、
モデルの俑は
彩色の長靴を履いておりまして、

楊泓先生によれば、
これが指揮官である証拠のひとつ
なんだそうな。

因みに、兵卒は靴を履きます。

また、図では
脛当てと靴の組み合わせに
していますが、

隙間部分の多いであろう長靴と
脛当ての組み合わせでは
実用性に欠けるかと思いまして、

便宜上、そのようにしています。

また、靴下の普及は
モノの本によれば
三国時代以降だそうで。

もっとも、軍や都市部に
限った話だとも思いますが。

1-2 身甲と垂縁の接合部分

続いて、身甲と垂縁の甲片について。
図の右側の赤枠部分です。

前掲図を加工。

この2種類の甲片の接合部分の
上下逆の図と、

右下の甲片の単片の図が、

有難いことに、縮尺付きで、

先述の『中国古兵器論叢』
掲載されていました。

実は、このタイプの鎧の
身甲部位の甲片の一部が、

呼市二十家子漢城から
出土しています。

したがって、実物を観察のうえ
当該の図を描いたものと
推測します。

では、サイト制作者が、
どうして上下逆という
参考文献と異なる解釈
したかと言いますと、

この2種類の甲片が
縦で連結されている部位は、

身甲と垂縁の接合部分しか
考えられなかったためです。

【追記】

その後の調べから、
身甲と肩甲の連結部分の可能性
考えられることが分かりました。

したがって、

後日、このパターンも
図解します。

【追記2】

で、以下が当該のパターン。

楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)より作成。

【追記・了】

加えて、先述の脛当ての
甲片の上下の並び方
その根拠のひとつです。

2、筒袖
2-1、長さが判然としない筒袖

以下は、部位の構造が
必ずしも判然としない部分について、

図のように描くに至った
根拠めいたものを綴ります。

まずは筒袖について。

早速ですが、例の図の
青枠の部分を御覧下さい。

前掲図を加工。

そもそも、

この図のモデルとなった俑
咸陽は楊家湾から
1965年に出土したものです。

言い換えれば、
衛青・霍去病等の墓のもの。

現物を御覧になりたい方は、

例えば、百度一下のような
中国の画像検索で、

「咸陽 楊家湾 俑」などと
検索を掛けると、

現物の写真がいくらか
出て来ます。

さて、この俑、
右手の人差し指で天を指し、
左腕の袖はまくられています。

ここで注目すべきは左腕。

前腕が剥き出しになり、
まくられた戦袍と下着の襦が
上腕のした半分を占めています。

また、過去の記事で紹介した
武帝時代末期の
盆領(襟)付きで前開きの札甲も、

筒袖は上腕の半分までの長さでした。

一応、図も掲載します。

楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)より作成。

一方で、大体同時代の前開きの
魚鱗甲の復元品も存在しまして、

この鎧の筒袖の長さ
上腕の全てを覆っています。

したがって、
前漢の後半から末期における鉄鎧の
筒袖の長さは、

上腕の下半分から全てを覆う程度
であると言えると思います。

2-2、身甲とシームレスな筒袖の甲片

次いで、筒袖の甲片の種類ですが、

何故、身甲と筒袖が同じであるという
解釈をしたかと言いますと、

現物の俑の双方の部位の
甲片の質感が同で
継ぎ目や境界線といったものが
見えないからです。

逆に、身甲と垂縁は
明らかに描き分けてられています。

これも、現物の写真を
何枚か見比べると
判然とするかと思いますが、

特に、垂縁には
縦の線が入っています。

この流れで、
身甲と筒袖の継ぎ目についても
触れます。

図の青枠の左側の、
枠内の左部分です。

先の武帝時代末期の
筒袖のパターンからすれば、

身甲と筒袖の甲片は
脇の継ぎ目で
垂直に交わります。

その仮定で
この継ぎ目の図を描ました。

ですが、このパターンだとすれば、

特に、身甲の甲片の場合、
甲片の穴が限られていることで、

筒袖の全ての甲片を繋ぐことが
出来ません。

よって、魏晋期の両当甲のように
脇や肩には刃は通さないものの、

過酷な風土で紐が摩耗していた場合、

掴み合いで袖がもげるような
弱点はあったのかもしれません。

また、袖口の直径ですが、

モデルとなる俑では、

デフォルメされているとはいえ、

筒袖から戦袍や襦が
大きなしわも作らずに
伸び伸びと出ていることで、

かなりの大きさであったと思います。

サイト制作者は、
身甲の丈の半分程度と見ました。

2-3、採寸と甲片の数の算出の目安

ここで、筒袖の長さと直径の
長さや比率めいたものに
或る程度の見当が付きましたので、

甲片の大きさと照合して、

縦横の枚数を推測しようと
思います。

その際、似たような形状の鎧
ひとつのモデルにします。

以下は、以前に紹介した
秦の歩兵用の鎧です。

咸陽の兵馬俑の模写です。

楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)より作成。

で、これの何が参考になるかと言えば、

全体の丈と身甲・垂縁の大体の比率が
分かっている点です。

具体的には、丈64cm
身甲・垂縁の比率が大体3:1。

恐らく、今回「解剖」する鎧も、
同じ歩兵用の鎧につき、
各部位の比率自体は
この鎧と大差ないものと想像します。

さらに、以下の図の
右側の青枠を御覧下さい。

前掲図を加工。

この比率は、

『中国古兵器論叢』にあった
先述の秦の鎧の
縮尺付きの図

サイト制作者が
定規を当てて
弾き出したものでして、

古代中国における
少なからぬ歩兵用の鎧に
当てはまるものと
想像しますが、

当然ながら
素人の浅知恵につき
あくまで御参考まで。

何かしらの議論の
叩き台になればと思います。

それはともかく、

今回の鎧の筒袖の長さを
肩から上腕の半分までと
仮定しますと、

概算で、大体以下のような
計算になります。

全高64cmの鎧であれば、
大体11cm程度になろうかと
思います。

また、先述のように、
甲片の繋ぎ方も分かっています。

具体的には、縦2.5cmの中で、
上下の甲片の重複部分を引いた長さが
大体1.6cm。

で、11÷1.6≒6.9で
縦が大体7段程度、

―という勘定です。

因みに、上下の甲片の繋ぎ方は、
下段が外側につき、
可動部のもので、

当時の鉄鎧の甲片の厚さは
大体1mm程度。

この鎧の場合、恐らくは
身甲も同じ繋ぎ方につき、

甲片が小さいことで、

固定部の短所が
それ程露わにならないのかも
しれません。

さらに、筒袖の
縦1段=1周当たりの
大体の甲片の数
ここで計算します。

まず、先述の秦の鎧は
脇部分の穴の直径
身甲48cmの半分の24cm、

また、中心部の奥行、
つまり、背中から腹までの
直線距離は20cm。

つまり、大体の形として、
長半径12cm・
短半径10cmの楕円でして、

弧の長さの産出は
Keisanさん
エンジンを使いました。

円の弧の長さの計算とは異なり、

素人が計算出来るような
ものではない模様。

その結果、≒69.26。
面倒ですので69.3cmとします。

さらに、甲片の横繋ぎで
上下一組当たりの
重複しない部分は0.6cm。

69.3÷0.6=115.5

よって、
横列1列=1周あたりの
甲片の数は、

大体115、6枚となります。

少々分かり易くするため、
120枚弱としますか。

続いて、縦の数と同じ要領で、
断面の甲片の数
弾き出します。

まず、円周の長さですが、
計算は以下。

全高64cmの4分の3が
身甲48cm。

で、この半分が
筒袖の直径24cm。

円周率を3.14として、

24×3.14≒75.4cm

さらに、筒袖の甲片の
横列の繋ぎ方では、

左右の重複部分を引いた幅が
0.6cm。

75.4÷0.6≒125.7

126枚程度となります。
図では120枚程度としました。

計算通りだとすれば
夥しい数の甲片です。

正直なところ、
サイト制作者も
実感が湧かなかったので、

何度も数え直し、
また、図自体も、
出来るだけ甲片の枚数に即して
描きましたら、

結果として、
図のような細かさになりました。

因みに、文献によっては、

この種の魚鱗甲の所有者は、
身分の高い指揮官どころか
王のものとするものもあります。

3、身甲の甲片の数の算出
3-1、上下で甲片の列が異なる構造

筒袖に続いて、
身甲の縦横の甲片についても
考察します。

以下の図の、青枠部分です。

前掲図を加工。

まず、同じ身甲の部位内でも、

上下で甲片の繋ぎ方が異なるのが
注目すべき点です。

この点は、モデルとなる俑からでは
判然としませんが、

同時期の復元品のみならず
この後の後漢時代の
出土品にも見られた特徴につき、

敢えてこのようにしました。

図では見難いので
ここで少し補足しますと、

胸・腹の甲片(縦列)と
肩・鎖骨の甲片(横列)を
垂直に繋ぎます。

当然、双方共
同じ種類の甲片です。

その際の繋ぎ方は、
先述の脇の接合を御参考に。

で、ここで欠かせないのは、

甲片の平たい部分を外側に、
丸まった部分を内側に向けて
繋ぐ点です。

また、後述しますが、

甲片の襟や袖等といった
服や皮膚に触れる部分は、

恐らくは、裏地の布か糸で
コーティングされています。

3-2、肩・鎖骨部分の甲片

それでは、縦列の甲片の段数から
計算しようと思います。

その際、身甲の中の上下の比率を
1:3と仮定します。

まず、先程の要領で、

上の肩・鎖骨部分は
身甲48cmに対して
12cmとなります。

さらに、甲片を横に倒して
上下の重複部分を差し引いた分が
0.6cm。

さらに、鎖骨から肩の頂上までは
曲線を描いていることで、

実際の数は
もう少し多いことでしょう。

因みに、
鎧の奥行は、
先述の秦の鎧
幅の3分の2程度、

つまり幅30cmに対して、
一番深い中心部分で
20余cm程度。

丹田の断面図で
左右3:前後2の楕円になります。

さらには、

鎖骨・肩部分の曲線は
綺麗な円形の弧にはならない
かもしれませんが、

鎖骨・肩部分の
甲片の高さが12cm、
奥行が10cm余ということで、

かなり綺麗な弧を描くように
見受けます。

そこで、少々強引ですが、
高さ=奥行と仮定しますと、

以下のように
計算出来るかと思います。

2×3.14(円周率)×12
÷4=18.84≒18.9

弧の長さは大体18.9cm。

この数字を先述の
横倒しで上下の重複部分を差し引いた
甲片1枚分の高さである
0.6で割ると、

31.5となります。

つまり、鎖骨・肩の甲片は、

多い場合で
縦31、2段程度、

という計算になります。

3-3、腹・胸部分の甲片

そして、胸・腹の部分の
甲片の枚数ですが、

まず、腹・胸の部分の丈
48(身甲)-12(肩・鎖骨部分)、

もしくは、
48×0.75(%)=36で、
36cm也。

次に、甲片の縦列で繋ぐ際に
上下の重複部分を
引いた長さが1.6cm。

で、36÷1.6=22.5で
22、3段程度。
図では22と描いたので、
22段とします。

よって、身甲部分の甲片の段数は、

肩・鎖骨部分が31、2段程度、
腹・胸部分が22段程度となります。

無論、これらの数字は、
鎧全体の丈によって前後しますので、

あくまで丈64cmと仮定した場合
目安ということで
御願い出来れば幸いです。

3-4、縦1段当たりの甲片の枚数

また、縦1段(横列で1周分)
当たりの甲片の枚数ですが、

胸・腹部分のみ算出すると、

全幅30cmに対して
奥行が20余cmという楕円が
モデルに近いという仮定につき、

先述はkeisanさんの
便利な計算エンジンで
長半径15cm・短半径10cm
として算出した結果、

弧の長さは≒79.3cmと出ました。

そこで、
弧の長さ79.3÷0.6≒132
正確には132枚。

要は、縦1段=1周当たりの
甲片の数は、

大体130枚程度
という計算になります。

同じ要領で、
肩・鎖骨部分の甲片の数
計算してみましょう。

まず背面ですが、
弧の長さは、
全周79.3÷2=39.65
39.7とします。

さらに、この場合、

甲片の繋ぎ方が
縦横逆になるので、

左右1組当たりの
重複していない部分は1.6cm。

39.7÷1.6≒24.8

よって、鎖骨・肩部分
背面・縦1列当たりの甲片の数は
24、5枚程度となります。

さらに前面ですが、

首元の一番下の段の狭い部分の計算に
限定しますと、

左右の弧の合計を、
大体半周の3分の2と
仮定します。

39.7(半周)×0.67
≒26.6
(鎧前面左右の甲片部分の弧の長さ)

26.5÷1.6≒16.6
(鎧前面左右の甲片の数)

したがって、
鎖骨・肩部分の一番下の段の
左右の片側の甲片の数は

概算で8~9枚程度となります。

首元の縁が傾斜していることで、
当然ながら、上に行くにつれて
前面の甲片の数は漸減します。

そして、後述しますが、

その際に出来る凹凸は、

恐らくは、甲片の底面分を当てて
縁をならします。

4、垂縁の甲片

続いて、垂縁(裾)についても
触れます。

下記の図の青枠部分。

前掲図を加工。

甲片の大きさや繋ぎ方は、
青枠の右側の図にある通りです。

鎧の丈を64cmと仮定すれば、
垂縁は16cm程度。

この部分の甲片は不明な部分が多く
目分量で恐縮ですが、

上下の重複部分を引いた長さは、
上下の甲片1組当たり、

穴の位置から考えて、
縦2.2cm、横2cm
計算しました。

因みに、図中の甲片の連結図は
身甲の甲片との連結が主でして、

左右の連結を考えると、
図中の幅では重複部分が狭く、

1.2cmの幅では
糸が緩むように思われます。

したがって、
縦列の甲片の枚数
16÷2.2≒7.3で
7段程度。

また、横列の枚数については、

先程鎧の胸囲
大体79.3cmと計測したことで、

この場合、
その半分の39.65≒39.7とし、

先述の、甲片の左右の重複分を引いた
1枚当たりの幅2cmで割ると、

39.7÷2=19.85で、

身甲部分と連結する
一番長さのある最上段の部分
20枚前後に相当します。

さらに、縁の部分の長さを引くと、
これから2、3枚程度少ない数となり、

大体、17、8枚程度と
見積もるのが良いのかもしれません。

また、残念ながら、
垂縁の背面部分の詳細は不明です。

先述の秦の歩兵用の鎧の構造を
参考にすれば、

前面の方が少し長いものと
なろうかと思います。

5、縁部分の構造

次に、縁の部分について。

下記の図の青枠部分です。

前掲図を加工。

これも、詳細が不明な部分です。

まず、赤色としたの理由は、
復元品の色が赤であったことです。

さらに、モデルとなる俑も、
身甲の縁の大部分は
塗装が剥げて灰色になっており、

一方で、垂縁の縁は赤色で、

サイト制作者も
最初はこの矛盾に戸惑いました。

ですが、よく見ると、
ところどころに
赤色が残っておりまして、

これで間違いなかろうと。

むしろ、問題なのは
材質の方です。

以下の図のように、

秦の高級指揮官用の
古いタイプの鎧であれば、
鎧の縁に裏地の生地が付きます。

楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

一方で、同時代の前開きの魚鱗甲
袖や首元が幾重も赤い糸か布で巻かれて
コーティングされていまして、

今回復元を試みる鎧も、むしろ
後者の方法かもしれません。

また、首元の縁部分の場合、
甲片を縦に繋いだ際に出来る
傾斜部分の凹凸に対する処理ですが、

先述の脛当ての
上下の甲片の凹凸への対処と
同じ工夫が考えられます。

つまり、凹凸部分に対して、

甲片を上下逆にして
底面部分を
斜め方向に宛てることで、

平坦にならす訳です。

首元や筒袖の縁部分を
縁を糸でコーティングする前には、

恐らくは、その前の工程で
こういう処理を施したと
想像します。

おわりに

今回は、怪しい計算ばかりの
事務的な内容で恐縮です。

結論をまとめると、
以下のようになります。

1、出土品や参考文献の内容から、
恐らく、モデルの俑に
忠実だと思われるのは、

脛当てと身甲と垂縁の接合部分である。

したがって、以下、2以降は、
同時代かそれ以前の技術に基づく
想像による。

2、筒袖は長さが判然としない。
今回の前漢末の魚鱗甲については
俑に基づき上腕の半分とした。

ただし、同時期の出土品・復元品には
上腕の全てを覆うものと
その半分を覆うものの双方が
存在する。

3、鎧の各部位の採寸の
ひとつの目安として、

秦代の兵馬俑の鎧を
モデルにする手がある。

全高64cm・全幅30cm・
中心部の奥行が20cmと仮定し、

その上で、各部位間の
大体の比率を算出する。

弧の長さは、
楕円であれば検索エンジンを使用する。

3、身甲の甲片は、
上下で繋ぎ方が異なる。

上(鎖骨・首元)は横
下(胸・腹)は縦に繋ぐ。

4、主要な部分の甲片の数は
以下のようになる。

筒袖

縦7段程度
横1列の当たり甲片は120枚弱

身甲

鎖骨・首元部分

縦32段程度
横1列当たりの甲片は
背面で24枚程度

胸・腹部分

縦22段程度
横1列当たりの甲片は130枚程度

垂縁

縦11段程度
横1列当たりの甲片は
最上段で20枚程度

5、袖口・首回り等の縁の部分は、
裏地の布か糸で
コーティングされている可能性がある。

また、傾斜の部分の凹凸は、
脛当てに使われた技術からして、

甲片の底辺を使って
ならされている。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
楊泓『中国古兵器論叢』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」
『日本考古学 2(2)』
鶴間和幸編著『四大文明』
篠田耕一『武器と防具 中国編』

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