次回予告、その他

はじめに

恐らく、次のまとまった記事を書き上げるまで、
今少し時間が掛かることで、

今回は、その予告めいた話を少々。

1、薛永蔚先生の伍のモデル

以前の記事で扱った「伍」について、
復習を試みます。

「伍」とは、
古代中国の戦争における
最小戦闘単位であり、

春秋時代から
少なくとも唐代辺りまで
通用した概念です。

ただ、過去の記事の要約だけでは
読者の皆様に申し訳ないので、

以下の薛永蔚先生のモデルや、
その典拠となる
漢籍の該当箇所についても
紹介します。

薛永蔚『春秋時期的歩兵』、篠田耕一『武器と防具 中国編』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』、守屋洋・守屋淳『全訳 「武経七書」2』等(敬称略・順不同)より作成。

2、殺し合いマス・ゲームのルール

また、今後の当面の方針ですが、

伍に引き続いて、10名の什、
25名の両、50名の属・屯等、
100名の伯・隊等、

―という風に人数を増やしながら、

各々の単位における
指揮官の裁量や戦い方、

もしくは、上位組織からの命令
どのように遂行するか、
といった、

具体的な手順について
調べていこうと思います。

ただ、状況によっては
別の記事も挟む可能性も
ありますが。

3、古の総力戦の構図

また、何故、
鎧の話を止めて
この話をしようと思ったか、ですが、

能動的な理由としては、

末端の戦闘という空間を
自分なりに再現したかったからです。

もっとも、このブログで
サイト制作者がやりたいことの
恐らく1割にも達していませんで、

例えば、戦闘行為だけでも、
馬、弓、城については
纏まった記事を書いていません。

まして、戦略レベルの段取り、
戦力の調達、銃後や戦地の
社会・経済等、

周辺領域まで含めるとなると、
さあ大変。

身近な農作物ひとつとて、

作らせる側は、

什伍や兵戸・屯田に
象徴されるように
(軍制の什伍と民政のそれは
どうも違うようですが)

【追記】
故・古賀登先生の論文
「阡陌制下の家族・什伍・閭里」
によれば、
しっかり連動しているのだそうで。

例えば、商鞅の改革下の
秦の場合、

ひとつのモデルとして、

まず、親と息子兄弟の
核家族3世帯
(大体1世帯5名程度「五口」)
と、それに近い血族の2世帯の
計5世帯を基本単位とします。

で、各々の世帯から
世帯主を兵役で供出し、
これを「伍」とします。

そして、その伍長は父だそうな。

また、5世帯間で相互依存、
という隣保制度は、

実は、『周礼』や『管子』にも
あります。

してみれば、

春秋時代以前のような、

民政の長が
そのまま軍政の長を兼ねる
領邦国家の動員体制が
秦漢の什伍の母胎に
なっていたのかもしれません。

【追記・了】

戸籍を通じて
兵員と田畑を
表裏で考えていますし、

当然、作物は兵糧にも化けます。

その意味では、

戦争の話として、

五穀から酒、御馳走、
そして、禁じ手の人肉まで
やる価値があると思っています。

ですが、大法螺を噴く前に、

せめて、歩兵のそれについては、
何とか形にしたいと思った次第。

4、まだまだ続く、鎧の話

その他、私事で大変恐縮ですが、

鎧の話をぶっ続けでやるのを
止めようと思った
もうひとつの理由は、

サイト制作者が
このテーマに1年弱取り組んで
疲弊したからです。

ですが、恐らく、
大体の定義や作り方等、
最小限の話は既に済ませたことで、

別の記事と並行して、

適当なタイミングで
ひとつひとつ
図解していこうと思います。

鎧の話目標は、
当面は魏晋期がゴールですが、

御要望や時々の流行や需要等に応じて
柔軟に対応するつもりです。

文献や論文の孫引きとはいえ、

まだまだ、自分なりに、
製造する目線に
少しでも近いかたちで図解して
紹介したいものがいくつかあります。

今回はこの辺りにしておきます。
まずは、見苦しい言い訳まで。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
薛永蔚『春秋時期的歩兵』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』
守屋洋・守屋淳『全訳 「武経七書」2』
浜口重國『秦漢隋唐史の研究』
古賀登 「阡陌制下の家族・什伍・閭里」
越智重明「什伍制をめぐって」

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