鉄官の分布と江南開発


以下に、章立てを付けます。

例によって、

適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

はじめに
1、秦代の鉄の管理
【雑談】劉邦と項羽の
意外に場当たり的な政権構想
2、前漢代における郡の分布
3、漢代における鉄官の分布
【雑談】戦国時代の兵隊御国自慢
4、秦代の鉄官の配置
5、全ては、南陽から始まった
5-1、簒奪者の見たディストピア
【雑談】搾取と失政、また搾取、
南陽版・歴史は繰り返す
5-2 前漢の漢人フロンティア
6、秦の戦争経済とその後
6-1、君主と山と管理権
6-2、君主対大資本
【雑談】大地主様の戦前戦後
6-3、開発の切り札?!鉄製農具
6-4 資本力と表裏をなす政治力
【雑談】市に集うワルい人々
1、劉邦の捨て身の「地域貢献」
2、商売と人集めと武装蜂起
6-5 秦の製鉄業統制政策
6-6、漢代の経済自由化の副産物
7、漢代の製鉄業を俯瞰する
7-1、「都市型」と「深山型」
【雑談】街と田舎のワルい人
1、都市と郊外を結ぶ「少年」
2、何処か似ている戦前の「壮士」様
3、市の風景を妄想する
4、謀臣とワルい人の『三国志』
7-2、結構複雑なサプライ・チェーン
8、江南開発と製鉄業
8-1、地力の滲み出た赤壁の戦い
8-2、秦が開けたパンドラの箱
【雑談】「異民族」はどこにいる?!
1、案外狭かった漢人勢力圏
2、「異民族」国家・呉と
「異民族」で儲けた趙
3、異色の国・中山国
4、巨額予算による高度防衛システム
5、黒山賊の梁山泊の今昔
6、三国時代の「異民族」政策
7、『三国志』の勝者は民族抗争の敗者
8、戦争と搾取は異文化交流の尖兵?!
8-3、会稽郡と先住民
8-4、対山越の治安作戦と軍拡
8-5、開発と表裏一体の教化策
8-6、地の果てにでも行く名士様
【雑談】命懸けの豪族の御引越
1、大所帯が大前提
2、祖逖おすすめの引っ越し術
3、許靖の見たこの世の果て
3-1 実は、董卓政権のエース格
3-2、南海行路は生き地獄
8-7、職能集団の移動の可能性は?
8-8、会稽太守と丹陽兵
おわりに

【主要参考文献】

はじめに

まずは、長期間更新が滞って
大変申し訳ありません。

転居作業とネット不通と
制作者の怠慢が主な原因で御座います。

加えまして、
今回は特に、
サイト制作者の忘備を兼ねた
無駄な話が多いことで、

取り敢えず結論を知りたい方は、
「おわりに」で論旨を整理していますので、
まず、そちらを御覧下さい。

1、秦代の鉄の管理

さて、今回は、

鎧の原材料である鉄の生産・取引拠点
それに付随して華南開発の幕開けについて
何かしら綴ろうと思います。

秦漢時代、大体の期間において、

大口の鉄の生産・流通は
戦略上の重要物資として
国家の強力な統制下にありました。

その理由は、
武具や生産力の高い農具として
必要不可欠なうえに、

鉄の生産自体にも
当時としては大規模な設備や
膨大な資源・労力を必要とするためです。

で、その鉄の生産過程を掌握する
政府の役人を
「鉄官」と言いました。

これは、少なくとも
秦の時代には置かれていまして、
採鉱から鉄器の製作までを担っていました。

因みに、政府が鉄の農具―犂を
農民に貸与する場合、
県レベルで相手を精査するので、

厳密には、
政府が鉄の流通過程をも
掌握している訳です。

当然、武器なんぞ言うに及ばずでして、

モノに産地が刻印されており、
戦国時代の七雄は県レベル、
秦は郡レベルで、
郡県の長が出入りの数を把握していました。

後世の研究者も
こういうのをみて
政権の集権性を判断する訳です。

そして、秦の国体の
美味しいところを持っていった漢も、

こういうところも御多分に漏れず、
秦の制度を継承します。

【雑談】劉邦と項羽の
 意外に場当たり的な政権構想

―と、言いますか、

最近の研究、
柴田昇先生
『漢帝国成立前史』によれば、

存外、前職・駄目役人の劉邦の前漢も
当時の世間の目からすれば、
ほとんどやくざ者の項羽の楚も、

発足から運営から戦乱続きが祟って
マトモな政権構想もなく、

結果として、
場当たり的な運営を迫られた模様。

例えば、項羽の場合は
戦時体制下の兵権しか
権力の拠り所がないことで、

秦を倒した後の暫定措置として
王が並列する体制
作らざるを得ません。

一方の劉邦の場合も、

その場限りの政局で
烏合の衆を纏める多数派工作に
終始したことで、

長期的な政策展望を持とうとすれば
秦の方法を真似る以外になかったそうな。

こういう具合に、

当時の流動的な政治状況について、

戦国時代の枠組みとの兼ね合いや
治安のような社会状況等も踏まえて
丁寧に考察されています。

難を言えば、
軍事史的な話が少ないことですが、

それでも、
政局の推移の事務的な説明ですら
項羽の圧倒的な強さが浮き彫りになるという
何とも言えぬ不気味さがあります。

内容の難しさという点では、

初心者向けではないと思いますが、
恐らく、御書きになった数々の学術論文を
好事家向けに平易な言葉で書き直したものと
拝察します。

また、漢文史料の引用には訳文が付いています。

興味のある方は、是非、御一読を。

【雑談・了】

2、前漢代における郡の分布

さて、話を本筋に戻します。

それでは、採鉱から鉄器製作まで行う
鉄官の分布状況について、

前漢の状況を中心
見ていきましょう。

以下のアレな図は、
前漢の地図(呉楚七国の乱以降)に
前漢・後漢の鉄官の位置を
落とし込んだものです。

譚其驤『中国歴史地図集』(西漢部分)、戸川芳郎監修『全訳漢辞海』第4版、佐藤武敏「漢代における鉄の生産」等(敬称略・順不同)より作成。

因みに、赤い点が漢代を通じて
鉄官が置かれた場所、

オレンジが前漢時代のみ、
紫が後漢時代のみ、
それぞれ鉄官が置かれた場所です。

〇の中に色があるものは、
郡国の治所に鉄官が置かれたこと
意味します。

この地図を作るにあたって
まず制作者が思ったことは、

鉄官の話以前に
自身が想像していた以上に隔絶した
南北のパワー・バランスです。

そもそも華南には、
鉄以前に、郡自体がそれ程ありません。

要は、「異民族」のテリトリー
という訳でしょうねえ。

後漢末の動乱の時代に
劉表が荊州の統治で
「異民族」相手にどれ程を苦労をしたのか、

あるいは、劉備と曹操
漢中をめぐる一連の抗争や
諸葛亮の北伐の背景には、

巴蜀から長安以西の地域での
労働力の奪い合いがあったことを
御想像下さい。

まして、昨今、途上国のメンタリティで
先進地域の統治に失敗して泡を喰っている
某半島都市の辺りなんか、

この時代は、
逆の意味で外国の感覚でしょう。

後述する上海の辺りにしても、

漢民族にとっては
孫呉の時代に
漸く開発の最前線に達する訳です。

因みに、向こうでは
「北京愛国 上海出国 広東売国」
という言葉がありまして、

これは北京人の言い分だそうですが、

ここ200年弱の、
割合新しい言葉と想像します。

その北京とて、
秦漢、三国時代には地方都市に過ぎません。

3、漢代における鉄官の分布

それにしても、

やはり鉄官が置かれているところは
黄河下流域から長江上流域の北岸が
大半でして、

中原に鹿を追う宜しく、

連中の古代文明が栄えて
戦国時代の抗争が激しかった地域と
軌を一にしていると思います。

これに因みまして、学術用語で
「三晋地域」という言葉があります。

春秋時代に
晋が治めていた
大体黄河中流域の辺りを指しまして、

「三」の理由は、
この国が内部抗争で
韓・魏・趙に分裂したことです。

制作者がいくつかの文献や論文を
読む限りでは、

この言葉は、
ほとんど遺跡の発掘や経済史的な
意味合いで使われておりまして、

要は、この地域の経済価値なり
遺跡の埋蔵量が
他の地域を圧倒的に
凌駕しているという御話。

【雑談】戦国時代の兵隊御国自慢

これに絡んで無駄話をすれば、

兵書の『呉子』「料敵」
戦国七雄の各国の兵隊の特徴をあらわす
くだりがありまして。

例えば、韓や趙の兵隊は、

祖国が先進地域、
言い換えれば
中世ヨーロッパにおけるイタリアのような
係争地になっているためか、

穏やかな性格だか、
戦争慣れして俸給にうるさくなり
決死の覚悟が乏しいんだそうな。

で、こういうメンタリティが
昔話かと言えば、
どうも、そうとも言い切れませんで、

モノの本によれば、

洛陽のある河〇省の出身者には、
今でも詐欺系の犯罪者が
多いんだそうで。

序でに、勝者のはどうかと言えば、

人々の性格は強靭で政治は厳しく
賞罰の適切なことで、

功名を他に奪われぬよう譲らず
勝手に闘おうとする傾向がある、
と、言います。

その実、捕虜も味方も有能な官僚も
散々殺して全土を平定しました。

まさに、商鞅の政策を体現したような
敵国の評。

―彼を知り、己そ知れば、
百戦危うからず。

人当たりの良さと狡猾さが
表裏一体になっている都会人、
―という構図が
何処の国にもあるという、

またも負けたか八連隊、
それでは勲章九連隊な御話。

【雑談・了】

4、秦代の鉄官の配置

脱線して恐縮です。
話を鉄官に戻します。

秦の鉄官が置かれた場所は、
実は、咸陽・臨湽・成都の3箇所以外は
分かりませんで、

しかも、首都の咸陽は項羽の略奪で
灰燼に帰すという
オチが付いてきます。

また、識者によれば、
戦国時代の他の大国にも、
鉄官と似たような官職が置かれていた
可能性があるとのこと。

臨湽は、大国・斉の首都でして、
発掘調査の結果、
城内には大規模な製鉄所の所在が
確認されています。

そして、恐らく、
この3箇所の中で、
秦の政策的なスタンスが
最も色濃く反映されているのが成都。

まず、成都のあるは、
秦が関中から東進を始める前からの
占領地でして、

当時から
兵站を支えるための
重要な後背地でした。

そして、ここの鉱山開発に
占領地の富豪を動員しまして、

こういう政策自体が
同国の富国強兵策と
密接な関係を持つのですが、

その話は後述します。

5、全ては、南陽から始まった
5-1 簒奪者の見たディストピア

さて、始皇帝の御代から
前漢代の時代に下りますと、

漢民族の開発のフロンティアは
南陽まで南下します。

そう、コー〇ーさんの
『三國志』シリーズで言えば、
袁術の治める宛の辺り。

と、言いますか、
南陽郡の治所(県庁所在地に相当)が宛県。

ここは面白い地域でして、
実は、前漢を簒奪した王莽は、

劉備が曹操相手にオラ付いていた
南陽郡新野県の都郷に
封土を持っていました。
(駅前の一等地の感覚です。)

で、中央の政争で干されて
ここで3年暮らしたのですが、

まあ、ここで、儒教名士にとっては
見てはいけないものを見た、
とでも言いますか。

―具体的には、

現地の開発地主が
零細な農民を
奴隷の如く使って暴利を貪るという、

ラジカルな資本主義の狂態でした。

そういうことを言い出せば、

三国時代における蜀漢の南中も
孫呉の江南も、

原住民を武力を背景に使役するという
鬼畜なデタラメさが
荒野・原野の開発の推進力でもありまして、

王朝の上澄みの部分や国軍の戦力が
こういうアコギな経済基盤で
成り立っているのもまた、
当時の現実です。

その意味では、

三国志という御話自体が
僻地の搾取という構図を抜きには
成立しないという
救いようのない御話です。

【雑談】搾取と失政、また搾取、南陽版・歴史は繰り返す

それはともかく、

こういう格差社会の現実
目の当たりにしたことが、

王莽が、これまたデタラメな経済政策
立案する背景のひとつになったそうな。

―ところが、どこをどう間違ったか、

その王莽の政権は、

外征でも大コケしたりと
イロイロあって、

結果として人の望むところのナナメ上を
突っ走ることとなります。

さらに、その王莽政権を倒した光武帝も、

先述のデタラメな搾取を経済基盤とした
それも南陽の開発地主層でして、

当然ながら、
連中の言いなりになります。

かなりざっくり言えば、

開発地主や豪族層が
軍縮や軽い租税によって浮いた経費を
中央の政治資金に使って政治を壟断し、
(もっとも、光武帝の時代は、
戦乱平定後につき時宜に適っていたのですが)

体を張って
『三国志』というコンテンツを
世に生み出すという
中国史上最大の文学的貢献をなす訳です。

―アコギな中抜きをやる豪族層がいる以上、
皇帝様の仁政が
下々にとって
必ずしも善政とは限らんようで。

【雑談・了】

5-2 前漢の漢人フロンティア

一方で、そういう潤沢な
富の結晶とも言うべきか、

既に前漢時代から
宛の城内には大規模な製鉄所がありまして、

そのうえ、ここは後漢まで使用された
痕跡があります。

もう少し地理的に視点を広げると、

漢代を通じて
鉄官の配置が集中している地域も、

確かに、この南陽の辺りが
南限になっていますね。

そして、後漢末期から三国時代になると、
この開発のフロンティア
さらに南下しまして、
長江南岸以南に及びます。

これが何を意味するのかと言いますと、

南方の政権の軍事力を増大させて
早い話、赤壁の戦いや
孫呉発足の伏線となる訳ですが、

その御話は、また後程。

6、秦の戦争経済とその後
6-1、君主と山と管理権

さて、地理の話は一旦置きまして、
ここでは製鉄業と政策の話をします。

先に、文明あるところに鉄あり、
という話をした訳ですが、

今度は、その鉄は、
そもそも誰がどのように管理しているのか、
という御話をします。

因みに、この個所の主なタネ本は、
角谷定俊先生の論文

「秦における製鉄業の一考察」
『駿台史学』第62号。

さて、まず、
鉄鉱石は鉱山にありまして、

角谷先生によれば、

古代中国では、
「山沢」と言えば、
鉱山地・林山地・塩産地を含む
幅広い概念であり、

国家の管理・規制の下に
用益が行われる
「公利共利」の地なんだそうな。

さらには、ここに、
『管子』という書物がありまして、
君主のあるべき姿が説かれている訳ですが、

その中に、山は冨の泉源につき
争いの元になるので
君主が管理せよ、と、説く件があります。

もっとも、落合淳思先生曰く、

管仲が宣った、とか言いながら、
御本の成立自体は
戦国時代後半から前漢なんだそうで。

(あそこの古典は、そういうものが多いもので!
後、太〇望だの、有名人の名前を無断借用して
適当なことを書くなりきり芸の場合は、
「仮託する」と言います。便利な言葉!)

つまり、大体その頃の認識と理解した方が
間違いなさそうな。

要は、戦国列強の王家や官僚
集権体制を整えて
林野の管理権を地主貴族から取り上げて
国営化した、
という文脈です。

6-2、君主対大資本

その背景には、
当然ながら戦時体制の構築があります。

何十万もの大軍を動員して
大国間の大戦争を行うためには、
相応の物資が必要になる訳です。

特に、の場合、

当初はこういう体制の構築に
出遅れたことで、
挽回に必死でして、

有名な商鞅の改革
そのあらわれでもありました。

大体の方向性としては、

所謂「耕戦の民」を確保すべく、

末端の国民の最低限の生活を保障し、
厳しい軍役を課します。

また、法家の知恵を借りて
賞罰を厳正に行います。

土地と軍役が一体という政策自体は
秦の時代よりも前からあるのですが、

恐らく、他国との最大の相違点は、

規律が厳しい反面
恩賞も手厚かったことでしょう。

―もっとも、戦時はともかく、
平時の統治の場合は、実は、
儒家のスタンスを
少なからず受け入れていたそうですが。

ところが、
こういう戦時体制の構築を
阻む要因もある訳でして。

それが商業資本の存在です。

冨が偏在すると
末端の国民の軍役に支障が出る訳でして、

秦の政府はそうした状況を
極度に警戒します。

『史記』の「列伝」には、

呂不韋以外にも
投機で儲けた資金で土地を買い漁るのが
出て来ますが、

秦が当初手本としたような国においても
こういう冨の偏在に伴う
階層分化が起きていまして、

こういう手合いを野放しにすれば、
国政にまで口を出すことは
言うまでもありません。

商人栄えて国滅ぶ、とは、
こういう状況を指すのかもしれません。

【雑談】大地主様の戦前戦後

余談ながら、

先の日中戦争以降の日本でも
似たようなことが起きていました。

時の農林省
前線に供給する兵隊を確保するために
地主の搾取から
銃後の零細な農家を保護する
政策を進めており、

戦後にGHQが
農地解放を円滑に進めることが出来たのも、

連中の手柄というよりは、

戦時農政という強力な基盤が
あったからだそうな。

もっとも、地主が悪かと言えば、

中には、地域密着型で
小作農の面倒見が良い方々も
いらっしゃいますが、

如何せん、
大戦の反動不況から昭和恐慌、
戦中の民需統制と、

上も上で、
糸価や米価、株式相場が暴落したり
商売が戦争で邪魔されたり

まあ、踏んだり蹴ったりの状況でして、

上下共に、
互いに妥協出来る余地がありません。

そりゃ、満州という棚ボタがあれば、
藁をもすがる思いで
飛び付くのも自明の理ですが、

そういう身勝手な話を
既得権益にがめつい列強が
容認する筈もなく、

領土の広さでは
世界新記録を更新するも、

結果は、御周知の通りです。

大地主様の戦後は戦後で、

どこの共産国家かと思うような
農地解放と相続税で
滅多切りにされるという末路。

それだけ、戦前の日本は
冨が偏在していた証左でして、
戦後に中産階級が潤ったことが
経済発展の伸びしろにもなったのですが、

やられた方は
たまらなかったと思います。

30年程前の制作者の幼少期ですら、
その種の恨み言を
随所で漏れ聴きました。

―話が脱線して申し訳ありません。

ですが、敗戦国の富裕層がどうなったか、
という点だけは、
少し御注意下さい。

【雑談・了】

6-3、開発の切り札?!鉄製農具

さて、秦の政府が
蛇蝎の如く嫌う商業資本。

しかし、
こういう社会階層の
最終兵器とでも言いますか、

戦国時代の後半に、
冨の偏在の引き起こした
イノベーションというのが、

鉄製の農具の普及でした。

そもそも、

鍛鉄(数百℃程度で加熱して柔らかくする)で
一品モノの剣をあつらえたり
鍋釜を補修する程度であればともかく、

鋳鉄(千℃以上で溶かして鋳型に流し込む)で
農具や車具・武具を量産するレベルの
製鉄業自体、

半端な財力で出来る芸当ではありません。

今で言えば、
街の修理工場と大手メーカーとの
資本力の差に相当しましょうか。

一方、社会の裏側の貧農層の状況など、
農具の材料は木と石、骨等。

それも、充足率も低く、
親子で貸し借りするような惨状です。

鉄器なんぞ高嶺の花。

もっとも、鉄器―鉄の犂による牛耕が
戦国時代の後半に
普及したとは言うものの、

出土例が急増したのと
毎年使うレベルの普及率とは
どうも別の話のようで、

しかも、牛による犂耕の用途は、
実質、荒地の開墾であった模様。

要は、黄河流域の平地で
威力を発揮した可能性がある、
という御話。

対して、鉄官まで置かれた四川なんか、

秦のテコ入れで
農業生産が割合高いレベルにあった
にもかかわらず、

山がちな地形に準じた農法のためか、

漢代ですら
鉄の農具の出土例が極めて少ないそうな。

【雑談】市に集うワルい人々

1、劉邦の捨て身の「地域貢献」

さて、秦の農本主義で
マトモな戸籍も
高級軍人になる機会も与えられずイジメられる
商人も商人で、

広域的かつ安全に
商売が出来るような環境には
ありませんで、

秦代に比して
経済が自由化した漢代ですら、

県城の常設の市に出入りするようなのは
不良と蔑まれるような世相。

例えば、商売にうるさい秦の御代の段階で
こういうところで
日頃からタダ酒を喰らって
エラそうにしていた劉邦なんか、
即アウト。

当然ながら、世間様は、
この御仁をカタギとは見ていません。

だからこそ、
下級の官職(亭長)という足枷を掛け、
(それでも、大金の空手形を手土産に
要人に面会するというデタラメを
やらかします!)

地域ぐるみで反乱を起こす際には
人柱として担ぎ出される訳です。
(こういうのは、勝てば官軍です。)

2、商売と人集めと武装蜂起

また、そういうヤバ気な空間で
商売を上手にやろうとすれば
同業者同士の付き合いも出来るのですが、

この「付き合い」というのも
かなり胡散臭いものです。

具体的には、

結構な頻度で
アウトローに片足を突っ込んだ人とも
その種の契りを交わすことになりまして、

兵乱なんぞ企てる際には、
こういう付き合いのネズミ算で
恐ろしい程の人数が集まります。

―中国の歴代の権力者が
市や宗教を嫌うのは、
こういう方程式もあろうかと。

因みに、どうも劉備や関羽なんか、
その種の商売上(製塩業)の縁の
フシがあるそうで、

正史その他によれば、
関羽は当初は雇用関係のある
劉備のボディ・ガードのような
位置付けでした。
―そりゃ、強い訳です。

また、識者によれば、

道教絡みの黄巾や張魯の五斗米道も、

種々の人集めのひとつとして、
商売上のツテで人を集めた気配
あるそうな。

対して、郊外の村落では
月に何度か細々とした市が
立つ程度でして、

それだけ末端の社会は
自給性が強かったのが実情でした。

【雑談・了】

6-4 資本力と表裏をなす政治力

以上のように、
末端の村落社会と商売が
今日に比してかなり疎遠な世間で、

メーカーのレベルの資本力と販路
用意しようとすれば、

担い手の背後に、必然的に、
政治力や武力が見え隠れするようになる、
という御話。

以前の記事でも少し触れましたが、

戦国時代の商人の母体は、
春秋時代の地主貴族の
外商部門だったりします。

落合淳思先生の御知恵を
拝借すれば、

純粋な農業経済の話というよりは、

政治闘争の一環としての
経済戦争と見た方が
宜しいようで。

6-5 秦の製鉄業統制政策

そして、戦勝国たる秦の政府と
敗戦国の斉や趙等の商業資本
対峙した結果が、

本貫地から僻地に飛ばされたうえに、

政府の紐付き資本を元手に
鉱山開発に駆り出されるという結末。

実名や転出先を挙げますと、以下。

卓王孫(趙)・鄭定(山東)は、
蜀の成都近郊の臨邛(キョウ)へ強制移住。

孔氏(梁)は、例の南陽郡へ強制移住。

その後、ここで何が起きたかは、
先述の通りです。

当時の鉱山開発の最先端であった
三晋地域の業者、
―当然、田畑も私兵も持っていた連中、が、

牙を抜かれて
後進地域の鉱山開発の音頭を取らされた、

―という、屈辱的な御話です。

このように、の政府は、

本国や占領地の鉄を独占し、

そうやって獲得した鉄で
主に農具を製作し、
これを優良な農民に貸与します。

それどころか、
官有物の払い下げについても
銅や鉄はその対象外。

つまるところ、

生産から管理、再利用までの全てを、
国家が担っている訳です。

6-6、漢代の経済自由化の副産物

さて、片や、
僻地に飛ばされた
先の三晋地域―敗戦国の富豪連中
どうなったかと言いますと、

人生万事塞翁が馬、
捨てる神あらば拾う神あり、でして、

程なくして
秦の滅亡によって、
コイツ等の目の上のコブが取れます。

そのうえ、次の前漢の御代は、

御承知の通り、当初は、
秦の圧政からの解放がテーゼでして、

おまけに、民力休養による経済発展の結果、
国内で貨幣が足らなくなりまして、

何と、貨幣の私鋳まで認可されます。

こういう追い風に乗って、
鉱山の利権をテコに
周辺の土地を買い漁り、

『史記』に、
富豪として名を遺すというオチ。

実に、したたかなものです。

国内外のさまざまなツテを使って
息を吹き返した
先の大戦における
枢軸国の軍産の戦後と、

何処か似ているような。

そりゃ、資本の経営者にとっては、

構成員の生活が掛かっているので
形振り構っていられないのも
当然だと思いますが。

7、漢代の製鉄業を俯瞰する
7-1、「都市型」と「深山型」

―で、秦代の政府の後進地域の鉱山開発や
勢力圏における鉄の統制、

漢王朝発足後の経済自由化、

そして、武帝の時代以降の
匈奴との戦争による戦時統制、といった、

歴代政権による猫の目行政の結果、

漢代の製鉄業は如何相成ったかと言えば、

さまざまな立地に製鉄所が建設され、

これまたさまざまな分業体制で
運営がなされます。

以下に、具体的な話をします。

まず、立地ですが、

割合年代の古い識者の御説では、

「都市型」と「深山型」
に大別されるそうな。

都市型政府の息の掛かったところ、
深山型豪族の民営のところ、

―という類型です。

前者は、先述の臨湽や宛のような
製鉄所あるいは工場が
城内にあるところでしょう。

で、後者は、国家権力が及びにくく、
ガラの悪い労働者が群れて
治安の悪化につながったそうな。

【雑談】街と田舎のワルい人

1、都市と郊外を結ぶ「少年」

ですが、世の中、
ワルい人なんか、何処にでもいる訳です。
しかもつながってたりします。

まず、前者も前者で、

狭い城郭都市の中には、

業者からの賄賂が
手際良くロンダリングされ
美辞麗句で中身のない道徳の説かれる、

外観ばかりは
清く正しく美しい政庁や講堂もあれば、

不浄・不潔・不道徳とはいえ
人の物欲には正直な
常設市もありまして。

で、先述の通り、
どうもソッチ系みたいなのが
こういうところにタムロしています。

それどころか、連中は、

後者―つまり、
城市付近の山林沼沢に潜む愉快な人達
パンクな付き合いがあり、

そいつらと連携を取って
ワルい遊びや政治ゴッコに興じる訳でして、

こういう人々を、何と、
「少年」と呼びました。

この種の話も、
先述の柴田先生の『漢帝国成立前史』
詳しく書かれています。

2、何処か似ている戦前の「壮士」様

まあその、
戦前の日本の感覚で言えば、

政治の世間では、

政府や政党、大企業、
田舎の大地主等の工作資金で、

政治活動と称して、

街宣は元より
強訴や恐喝などまだ可愛い方で、

敵対勢力の運動員との
仕込み杖での斬り合いや
拳銃での撃ち合いまで、

集票につながることなら
何でもやった、

末端の政治工作員・通称「壮士」のような
院外勢力にでも相当するのでしょうが、
(こういうのと外交官の顔もあった荊軻を
同列視するのも、
どこか釈然としませんが)

3、市の風景を妄想する

まあその、
「少年」の日本語のイメージからすれば、

制作者としては、
何の冗談かと思います。

「少年隊」、「少年少女合唱団」、
「青少年保護育成条例」、

―漢字の理解の難しさ。

ついでに、私も司〇遷あたりに仮託、
ではなかった、
少しばかり悪ふざけをしますと、以下。

設問:
ひとりの少年が
亭長時代の劉邦に
市で「少年よ、大志を抱け」と
激励を受けたと仮定し、

少年のおかれた状況やその心理について
1000字以内で論述せよ。

解答例:

また酔ってんのかよ、このオッサン、
マジうぜー。
(〇大の関係者の皆様、悪しからず)

蕭何による添削結果:

1、亭長の酩酊状態の根拠、
2、「マジうぜー」の心理状態に至った原因、
3、再発防止策及び不良役人の綱紀粛正の対策
以上の3点を、計800字以上で書き直せ。

―資料を解析すると、

劉邦は始皇帝の行列を見て感激して
息の掛かったうぇーい系の若者に
ハッパを掛けるも、

自らの日頃の素行が悪いことが祟って
相手にされず、

一方で、こういう軽率な言動で
上役の神経を逆なでするのを恐れた
郷里の優等生で地方公務員の蕭何は、

事を矮小化して
そして、丸く収めようとする、と。

燕雀、焉んぞ鴻鵠の志を知らんや。

―ホント、どうでも良い話をすみません。

4、謀臣とワルい人の『三国志』

ですが、平時のアウトローも
要人に顔が効くレベルとなると
中々に捨てたモノではありませんで、

漢代にも、
まっとうな史書にまで顔を出すような
コワモテの侠客がイロイロいます。

こういうのは井波律子先生
『中国侠客列伝』が詳しいのですが、

そのテの個々人については
ここでは触れません。

また、秦や前漢から時代が少し下ると、

曹操幕下の知恵者の程昱や郭嘉
こういうのと付き合いがありまして、

世が乱れると、

先述のような
人足集めや情報収集、
世論工作等の実働部隊として、

さまざまな局面で活躍する訳です。

曹操の能力主義は、
その種の水面下の政治力をも
意味したことでしょう。

【雑談・了】

7-2、結構複雑なサプライ・チェーン

いい加減、ワルい人の話から
カタギの商売の製鉄場の話に戻します。

どうも80年代までの研究では、
「都市型」と「深山型」
に大別されていた製鉄場。

ところが、

佐原康夫先生の93年の研究、

「南陽瓦房荘漢代製鉄遺跡の
技術史的検討」
『史林』76
によれば、

漢代の有名な製鉄場の遺跡の中には
城址近郊の河川沿いの郊外にあったりで、

こういう類型には例外が多く
あまりアテにならない模様。

要は、人が数多住むところか、その近く、
もしくは、鉱山の付近に立地していた、

という程度の理解に止めておいた方が
無難そうな。

生産・消費の焦点、
ということになりますかね。

また、製鉄場の用途もさまざまな模様。

南陽のように、
農具・武具、
車具や装飾のような民生品といった
鉄器の製作一本のところもあれば、

今日の大手メーカー宜しく製鋼一貫、
あるいは鋼材から鉄器製作まで
担うところもあります。

また、原材料の鉄鉱石、
あるいは鋼材についても、

郡境をまたいで
方々の鉱山や製鉄場間で
融通し合うという具合に、

複雑なサプライ・チェーンと分業体制
出来上がっていた痕跡があるそうな。

また、その南陽は、
製作一本とはいえ、
材料の調達は柔軟でして、

鋼材も屑鉄も併用するという具合。

立地も分業の形態も
多種多様な訳です。

さて、以上は、
前漢末までの
南陽以北の製鉄業の御話。

8、江南開発と製鉄業

8-1、地力の滲み出た赤壁の戦い

では、これより南の状況は、と言えば、
残念ながらサイト制作者の不勉強につき、
正確な状況は分かりかねます。

しかしながら、
それを推測するに足る材料
多少はありまして。

―具体的には、
江南の会稽郡辺りの開発の御話です。

漢人の住むところに
概ね郡や製鉄場があるのは
先述した通りですが、

この方程式が江南に及んだ時、

現地民が北の政権に対して
牙を剥くことと相成ります。

―識者によれば、

それが、彼の赤壁の戦い、
という訳でして。

石井仁先生の御見立てと記憶しますが、

この戦いの孫権の軍の継戦能力は
江南開発あってのものだそうな。

確かに、孫権の軍の、

南方の軍隊の御家芸ともいうべき
水上における卓越した戦闘力は
言うまでもありません。

しかしながら、

そもそも、
戦略レベルの話として、

数万人の軍隊を徴発して
曹操の軍に疫病が流行るまで
粘り強く抗戦し、

のみならず、

形勢が逆転した後は、

水陸両用の反攻作戦で、

東は江夏から長江を遡って
敵の策源地の江陵まで攻め込む程の
強靭な国力を指すことと思います。

8-2、秦が開けたパンドラの箱

さて、このように、
従来の南北のパワー・バランスの前提を
大幅に狂わせた
漢代の江南開発ですが、

その経緯について、
少し時代を遡って見てみることにします。

まず、戦国時代の後半に
この辺りを支配していた楚の
滅亡直後の状況について、

少し触れておきます。

この辺りの御話も、
柴田先生の御本が詳しいのですが、

秦の占領地の中で
最も荒れていたのが、実は、
旧・国の地域です。

特に、始皇帝の崩御後は
さまざまな武装勢力が蜂起し、

ハチの巣を突いたような
兵乱状態になっていました。

楚は、先に、
昔からの王都(先述の江陵の辺り)を
奪われたこともあり、

この界隈に遷都してからは
足場が固まっていなかったことの
証左なのでしょう。

因みに、その文脈で、
劉邦や項羽も
このドサクサで台頭するのですが、

劉邦の特異性としては、

魏と楚の境界線で活動していたことで、
当時としては国際感覚
あったのだそうな。

そもそも、
この辺りで秦が嫌いな連中の
大同団結の台風の目である
陳勝からして、

国号を「張楚」としています。

―下品に言えば、
「デカい楚」とでも訳しましょうか。

この政権は、建前としては、
楚の王族に敬意を払っており、

当時、甥の項羽を従えていた項梁も
合流を考えていました。

もっとも、陳勝の軍の崩壊が
早かったために
実現には至りませんでしたが。

―つまるところ、江南の地は、

春秋時代は呉越同舟だの言ってまして、
楚の統治下でも、上記の通りでして、

元から人心の安定しない
地域だったのでしょう。

さらには、先述の通り、

前漢の終り頃までは、

漢民族の開発の前線の南限が
南陽辺りであったとすれば、

恐らく、当時はまだ、

漢民族の文化圏ですら
なかったことでしょう。

こういう状況の中、

辛うじて、
この不安定な地域を
統治するにあたって、

国としての体裁を
辛うじて保っていた
楚の滅亡によって
パンドラの蓋が開いたことで、

秦にとっては最悪の展開とも言うべき
五月雨式の武装蜂起による
ヒャッハー天国に変じます。

要は、春秋時代・戦国時代の
双方のとしての枠組みから観ても
人心が安定していない土地柄でして、

漢代に入ると、
経済的な発展や武帝時代の遠征もあってか
漢人の開発の前線が南下し、

そのうえ後漢末になると
戦災を嫌った北方からの移住者も増え、
この地域は混沌として参ります。

【雑談】「異民族」はどこにいる?!

1、案外狭かった漢人勢力圏

余談ながら、ここで、

古代中国のフロンティアの感覚について、
少し触れておきましょう。

斯く云うサイト制作者も、
実は、こうした感覚は
調べるまで分かりませんでした。

まず、『キングダム』で
山の民の御姫様が
秦に加勢する話がありますが、

ああいう漢民族から見た
「異民族」の勢力は、

周王朝が冊封した国の内外や
戦国の列強の領土の周辺には、

実は、たくさんいたのです。

例えば、太公望・呂尚は
羌族の人でして、

教養にイチイチ突っ込むのも
野暮な気もしますが、

釣糸を垂れながら王に説教を垂れた、
という呑気な逸話自体が、

漢民族のヒマな知識人の価値観に
思えてなりません。

一方で、そうやって興った
西周が滅んだのも、

周辺の異民族との関係が
王室の乱脈が祟ってこじれたためです。

2、「異民族」国家・呉と「異民族」で儲けた趙

孫武だの伍子胥だののなんぞ、

そもそもが
漢民族の国ではなかったことで、

中原ではうだつの上がらなかった軍人が
後進国の軍事顧問として
列強の流儀を無視して
好き勝手やれた訳です。

自分の友人の徐庶が
中原であまり重用されないのを嘆く諸葛亮が
劉備の軍で辣腕を振るうことになるのと、
どこか似ています。

とはいえ、呉も呉で、
或る程度のコンプレックスはあったのか、

当初は戦車に狭隘な地形を走らせたりして
悪戦苦闘だったようですが。

さらに、戦国時代の場合の北方では、
匈奴が外患、というよりは、

来村多加史先生によれば、

趙の場合、武霊王の故事こそあれ
当時の北方の長城のすぐ内側まで
森林が広がっており、

長城の建設目的は、
むしろ趙の攻勢限界点的な意味合いが
強かったのではないか、
と、しています。

つまり、趙は、

匈奴が国力を蝕む癌などころか、
逆に、北方の上がりで秦と戦っていた
可能性がある、

という御話。

因みに、古代中国において、
戦国時代から2世紀頃までの気候は
割合暖かく、

北京の辺りは
広大な原生林が生い茂っていた模様。

そして、3世紀の寒冷化で
北方の騎馬民族が南下し、

三国時代の漢中界隈のような
ややこしい状況になりました。

もっとも、それ以前の状況として、

近代農法を先取りする

乱伐・乱開発・塩田化
守銭奴ルーチンは、

当然ながら、
世紀を問わず外せない中華クオリティ。

水量の少ない暴れ河な黄河の
複雑怪奇な事情も
これに拍車を掛けます。

3、異色の国・中山国

さて、時を戦国時代に戻しますと、

南の楚とて、

蛮族の扱いを受けながら、
中原の流儀を貪欲に吸収して
列強の中に喰い込みました。

また、燕と趙の国境あたりには
中山国という千乗の国がありまして、

峻険な山岳地帯に
居城を持っていました。

ここも、漢人とは系統の異なる
「異民族」に相当する人々の系譜の国です。

また、ここは、

卓越した製鉄技術を有しており、

軍の鉄の武器の装備率が
高かったこともあってか、

長らく独立を保ちました。

漢代にも国が置かれたのですが、

武帝の異母兄で
劉備の先祖とされる劉勝は、
ここの職人集団を従えていました。

のみならず、

民族的な柵がこの時代まで残ったのか、
後漢末の黄巾の乱のドサクサで
ここの長の地方官が反乱を起こします。

以上のように、

漢人が自国の周辺の
この種の「異民族」あの手この手で
勢力下に置いて同化させていき、

あるいは、「異民族」が、
漢民族の文化を有難がって吸収して
その秩序の中に入っていく流れもあり、

それが長い歳月にわたって継続して
漢民族の勢力圏が広がっていきます。

4、巨額予算による高度防衛システム

また、こういうループに増長して
所謂「華夷秩序」の思想も生まれ、

歴代の金満政権をして
大規模な外征に駆り立てます。

殊に、前漢の武帝時代は、
恐らく古代史におけるピークでして、

来村多加史先生によれば、

北方の長城線の防衛システムの完成度は
その前後数百年を通じて
抜きんでたレベルだそうな。

その理由は、恐らく、

時代が少々下っても
城郭攻防の流儀が
それ程変わらなかったり、あるいは、

李世民の唐のように
軍事ドクトリン自体が
防衛拠点を軽視したりという具合で、

それ以外の点は、
前漢のそもそもの国力自体が
ズバ抜けていたからです。

5、黒山賊の梁山泊の今昔

例えば、後漢の北方防衛は、

主に太行山脈の山麓に
大量の武装村「塢」を建設するという
場当たり的なもの。

城壁内の司令部と
城外の駐屯基地との連携で
体系的な監視網を持ち、

両者で共有する情報の質も高かった
前漢時代のものとは、

比べるのも失礼なシロモノです。

因みに、後漢末期に黒山賊の張燕
自称100万だかの流民を従えて
籠ったのは、

大体はまさにこの一部で、こういう
山間部に武装村が乱立するタイプの
防衛拠点です。

ええ、元は国軍の最前線基地の一部が、

時代が下って
地元ギャングの根城になるという
さらにみっともないオチ。

フォート・マーサかよ、と思います。

因みに、こういう長城をめぐる攻防について、
戦術や構想の変遷に詳しいのが
以下の御本。

来村多加史『万里の長城 攻防三千年史』

(講談社現代新書)

同書は読み易いうえに図録も豊富で、
絶版なのが勿体ない限り。

特に、漢代の状況説明は
詳細を極めていまして、

先生御自身が御書きになった論文の
ダイジェストかと拝察します。

後、以前の記事でも紹介しました、

石井仁先生の
「黒山・白波考–後漢末の村塢と公権力」
『東北大学東洋史論集』9

同書の内容と
この論文の内容を突き合わせると、

山籠もりして
黄巾だの黒山だのと
覆面を取っ換え引っ換えしながら
中央の情勢を睨み続けるという、

あの辺りの「群雄」達の
色々な意味での
胡散臭さやデタラメさが垣間見えて
笑えて来ると言いますか。

6、三国時代の「異民族」政策

さて、漢民族が、
上記のように
せっせと縄張りを広げる過程で、

支配民をあの手この手で
同化させる訳ですが、

この「同化」には、

被征服民にとっては、

兵役や経済的な搾取、

そして、度し難い侮蔑
付いて回ることは
言うまでもありませんで、

やられた方は、古今を問わず、
恨みと葛藤を抱えるものです。

例えば、後漢時代の漢族なんか、

羌族の人々を耕作や水害対策等で
散々扱き使った癖に、

言語も生活習慣も大きくことなるので
付き合い辛いだとか言う訳です。

―ええ、無論、タダで済む筈もなく、
兵乱になって長安以西は焼け野原です。

因みに、軍閥の総帥として
この鎮圧で焼け太ったのが、

あの董卓で御座い。

そのすぐ後の三国時代なんか
さらにエゲツないものです。

真っ先に、屯田制・兵戸制
「異民族」様御一行を
諸手を挙げてウェルカムしたのが曹操。

その後、予想外に兵乱が長引いて
抜き差しならぬ事態になった後は、

その「異民族」様御一行を、

今で言えば、
片っ端から本国に強制送還しろと
吠えたのが、

彼の司馬仲達がドラフト外で発掘した
大型ルーキー・鄧艾

呉を滅ぼした晋の名将・杜預とて、
同様の事態を憂慮しながら
鬼籍に入りました。

もっとも、鄧艾の意見も、
羌族の兵で成都を陥としたりと
現場の人間のナマの声ではあるものの、

今日における
アメリカにおけるヒスパニックやら
欧州の外人労働者よろしく、

本国人の手前勝手な理屈だけで
そのように出来るものなら
とうの昔にそうしていまして、

社会の末端を
いつの間にか浸食されている状況下での
机上の空論。

それをやったら、

耕作や兵役のような
一昔前で言うところの
3K仕事の担い手がいなくなる訳で、

世の中、タダより怖いものはなし。

7、『三国志』の勝者は民族抗争の敗者

とて例外ではなく、

出師の表やその続編
隈なく御覧頂けると、

軍の複雑な性格が垣間見えて
中々笑えるかと思います。

そして、
五丈原の戦いの蜀軍の唯一の戦果である
渡河攻勢の担い手は南中の兵。

そう、『三国志』の、
特に後半部分の最末端の戦場の光景は、

穿った見方をすれば、

漢人のメンツを賭けた
外人部隊による代理戦争です。

そして、そうした民族的な社会矛盾が
最悪のかたちで噴出して
主客逆転に及んだのが、

「異民族」の反乱軍の侵攻によって
晋朝の首都・洛陽が灰燼に帰し、

事もあろうに皇帝様まで手に掛けられた
永嘉の乱、
ということになりますか。

言うまでもなく、

あの三国時代の勝者が
統一後、僅か30年で迎えた
最悪レベルのバッド・エンディングです。

司馬家の御家騒動の実力部隊に
母屋の王朝ごとブッ潰される訳で、

そりゃ、文学的な群像劇にしたければ、
赤壁や五丈原で筆を置きますわな。

8、戦争と搾取は異文化交流の尖兵?!

以降、まず南北朝時代は、

南朝の漢人政権が
北からの騎馬民族の侵攻に
如何に耐えるかの時代。

隋唐時代は、
そもそも王族が「異民族」の系譜。

最早、エラそうな漢人士大夫の
独断場のような
由緒正しい史書の世界でさえ、

漢民族が主役という構図が
成り立たなくなっているのです。

―そんなこんなで、

例えば、

いつの間にか、
満人由来のチャイナドレスが
中国の伝統衣装になっているかと思えば、

その一方で、
ラーメンが日本食の様相を呈しているという
摩訶不思議な今日この頃。

因みに、むこうの感覚では、

味の濃淡な麺の太い細いの違い等は元より、
丼物のような一品料理という概念が
ないのだそうな。

まとめますと、

所謂、外交的な華夷秩序の拡大
「異民族」の下部構造浸食による主客逆転、

そして、本国における漢人と「異民族」の
差別・被差別が同時進行し、

オマケに、混血や異文化交流
積極的にやるという具合に、

時代の事情により
これらの要因が複雑に交錯する訳ですね。

ウ〇グルどころか、
池〇や西〇が将来どうなるかは、

この記事を最後まで読めば分かる、
筈もなく。

もっとも、サイト制作者としては、

公用語で你好とやるのは
御容赦頂きたいものの、

近畿地方か東海地方に、

中文の書籍やむこうの雑貨を
豊富に扱う店が
少々増えて欲しいとは思います。

例えば、神戸の南京町は
雑貨や中文の書籍を扱う店が少なく、

大阪や京都、名古屋は、
中文の書籍を多くを扱う本屋が
平日開いていないという具合で、

田舎に住む身としては、
これは何とかならんものかと
思う次第。

残念ながら、
随分潰れたようですね。

【雑談・了】

8-3、会稽郡と先住民

さて、話が大分脱線して恐縮ですが、
そろそろ江南開発の話に移ります。

まず、この個所の主なタネ本は、以下。

故・大川富士夫先生の御論文、
「御漢代の会稽郡の豪族について」
『立正大学文学部論叢』81

因みに、無料で読めます。

国立情報学研究所の論文検索エンジン
ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

さて、再び、鉄官の地図を御覧下さい。

上記の地図の再掲

江南―長江南岸の
中下流域を指すと記憶しますが、

この辺り、先述の通り、
鉄官どころか郡自体が
見事な迄にスッカスカですね。

その中で、
会稽はどこかと言えば、

現在の浙江省紹興市。

酒の名前の方が有名か。

いい加減なことを書くと
土地勘のある方に叱られそうですが、

今の感覚でアバウトに言えば、
大体、上海の辺りです。

『三国志』で言えば、
孫策だの王朗だの厳白虎だのか
角突き合わせたエリア。

さて、先述の通り、
戦国時代には「異民族」、
主に越族の勢力の強い地域でしたが、

武帝の時代の南征を契機に、
漢人の進出が始まります。

で、元々の現地政権であった
東甌国や閩越国の先住民
どうなったかと言えば、

当然ながら、

山間部に追っ払われるわ、

山奥に逃げ込んでも
漢人地主の人間狩りに遭い、

耕作や戦争に駆り出されるわ、

そのうえ、生活習慣が合わないので
漢人との軋轢を増幅させるわで、

まあ、踏んだり蹴ったりな訳です。

まさに、亡国の民。
そう、山越の皆様のことです。

余談ながら、安徽・江西・福建の
山間部には、
閩語という独特の方言があるそうで、

私の理解が間違っていなければ、
これがルーツがかと。

8-4、対山越の治安作戦と軍拡

そして、こういう漢人の醜い収奪を
軍事面で支えておきながら
主君に儒教を説いたのが陸遜でして、

まあその、何の冗談かと。

もっとも、
この人だけを責めるのは酷というもので、

孫呉の将には、
これで兵馬を養ったのがゴロゴロいます。

しかしながら、
金文京先生によれば、

この山越の動向は
孫呉にとっては
面倒な盲腸でもありまして。

と、言いますのは、

まず、曹操や魏が連中を扇動して
孫策・孫権の勢力を
事ある度に牽制します。

具体的には、孫策の時代には、
息の掛かった郡太守に
将軍位を与えて攻撃させます。

また、孫権の時代には、
部族の有力者に
印綬を与えるというやり口です。

で、こういう離反策が、何と、
蜀との連携にも支障を来す訳です。

したがって、
孫呉も孫呉で死活問題につき、

抵抗する者は惨殺し、
残りは平地に強制移住させるという
苛烈な治安作戦で臨みます。

その結果、『呉志』の数字を総計すると
孫呉に編入された山越の兵士は
15、6万とのこと。

これは呉軍の半数に相当するそうです。

例えば、孫権の親征や
2度の司馬氏への反乱の介入戦争で、

各々、自称10万の外征軍を
動員したことを考えれば、

国内全域の守備隊を含めると
大体これ位の数字に
なるかと思います。

因みに、確か、
戦国時代の韓の事例ですが、
外征軍は全軍の3割程度。

参考にでもなればと思います。

また、蜀漢の動員兵力が
戸籍も実働も10万余で、

さらには、当時の呉の人口が
蜀の2~3倍という事情を
考慮しても、

当たらずも遠からずの
興味深い数字だと思います。

もっとも、蜀漢の北伐の折、
常時2割の兵を休ませたそうですが、

その2万の兵だけで
全ての国境線を守れたのかどうかは
分かりかねます。

そして、こういう
ソルジャー・ブルーな征服戦争は、

孫権が皇帝を自称する頃には
終局を迎えたそうな。

8-5、開発と表裏一体の教化策

で、漢代から孫呉の時代にわたる
漢族の開発、

と言いますか、

土地泥棒な話以外には、
漢族と越族の交渉・混血・同化が
同時進行します。

蜀漢≒諸葛孔明の、
大姓の篭絡を軸にした南中支配の過程と
よく似ていると言いますか、

蜀の側が参考にしたのかもしれませんね。

ですが、漢族も漢族で、

取るばかりではなく、

それこそ身銭を切って
大規模な開発も行う訳です。

具体的には、現地に、
9000頃(1頃=100畝=6000平方cm)
もの田畑に漑田する水利施設を
建設します。

因みに、当時、

従来の越族の農法は
粗放な低湿地の水稲栽培でしたが、
(焼畑とも言われていますが)

9000頃の開発の規模からして、

例の、農地に水路を引く
漢人の灌漑農法とのハイブリッドになった
可能性があるそうな。

さらに、この技術を
何処から持ち込んだのかと言えば、

現地の地方官の
門生故吏―役人の上司部下の関係、
の人脈を考えれば、何と、

先述の南陽郡の大規模開発を
トレースした可能性が高い模様。

漢人の地方公務員は、
そうやって、飴を与える一方で、

御得意の礼教の普及・実現
勤しむ訳です。

で、納税のための戸籍も
漏れなく付いてくる、と。

とは言うものの、

編戸の民が
納税に耐えられずに逃散して
無戸籍になり、
挙句、豪族の私兵になる、

―というパターンが
後漢末の断末魔の状況につき、

その後の細かい話が気になるところで。

後、何だか、
アーメンの宗教と
やってることが似ていますね。

もっとも、ナンマナダ―とて、
我が国の江戸時代は
戸籍把握の方便に使われた訳ですが。

余談ながら、サイト制作者は、

そのナンマンダーのシンシューの
あまり敬虔ではない
信者のひとりでして、

アーメン関係の訪問勧誘の時だけ、

「〇教徒ですので」と、
もっともらしい文句で逃げています。

8-6、地の果てにでも行く名士様

さらに、門生故吏どころか、

遠隔地間の名士間の関係
少なからずあったのが、
この後漢時代のひとつの顔。

特に、北来の名士との関係
注目すべきところです。

彼等も彼等で戦災を避ける等の理由が
あるのです。

三国志の時代でも、

と、言いますか、

三国志の時代だからこそ
こういうのが頻繁に起きまして、

例えば、若き曹操が
徐州でやらかした略奪沙汰。

以前の記事でも書きましたが、

アレで、諸葛亮や魯粛、張昭等の
地元名士が郷里を追われまして、

結構な数の名士が
この揚州の地に渡りました。

中でも、特に、
諸葛亮と魯粛は、

この時の狼藉に対して
凄まじい恨みを抱いていまして、

赤壁の戦いの前に
反曹操のプロパガンダを
大々的にやりました。

【雑談】命懸けの豪族の御引越

1、大所帯が大前提

で、こういう名士様の御引越、

ヒマな知識人が
行李をぶら下げて
馬でノホホンと長旅をするような
牧歌的な風景ではなく、

一族郎党で構成される無数の人馬
キャラバンのように群をなして
動く訳です。

当然、武装もする訳で、
謂わば、流浪軍。

アニメの『北〇の拳』の
オープニングで、

虚ろな目をした人々が
砂嵐の砂漠の中を歩くシーンが
ありますが、

この種の引っ越しのイメージは、
アレに近いのかもしれません。

ですが、後漢王朝の救世主は
徐州や華北、江南の
侵略者であったりする訳で、

万人に都合の良いヒーローなんぞ
虚構の世界以外に存在した試しがありません。

で、どうも、
官位が欲しくて
仕方がなかったらしい
名医・華〇より
是非にと勧められた手術を断り、

「お前はもう、(以下省略)」
と、宣告されたかどうかは、

無論、定かではありません。

版権沙汰になりそうな際どい話はさておき、

名士はそもそも、

豪族がその冨を以て
洛陽の太学等で遊学させて
帝王学を学ばせた
学歴エリートです。

中には、
闞沢のような叩き上げもいますが、

大抵は富裕層の出で、
支えるスタッフがいてナンボ。

一族郎党を差配するのが仕事です。

そして、こういう集団となると、

動く方も、通過される方も、
そして、落ち着く土地の人間も、
戦々恐々とします。

2、祖逖おすすめの引っ越し術

一例を挙げますと、

東晋の軍人に、
祖逖という人がいました。

この人、元は、
范陽郡(河北省)の名家の出ですが、
勉強そっちのけで
侠の道にハマりまして。

で、当然ながら
一族中の鼻つまみ者
ではありましたが、

その一方で、

日頃から
兄の命令と噴いては、

荘園内の貧者に
何がしかの差し入れを
やっていたんだそうな。

ところが、

先述のように、
有事の際にはこういう人の方が
頼りになるもので。

永嘉の乱
華北がカオスになった折、

彼の一族郎党数百家は
南への避難を余儀なくされましたが、

その一族郎党の危機に際して
指揮を執ったのが、
この侠のアンちゃん。

因みに、当時、
一家族は父母と子供2、3名で
5名程度です。

で、この御仁は
その逃避行に際して、

老人や病人を車馬に乗せて
自らは徒歩でこれに従い、

そのうえ
食糧・衣服・薬といった物資を
共有としたため、

皆の信頼を勝ち得たそうな。

言い換えれば、
こういうのが
逸話として残ること自体、

豪族の逃避行なんぞ、

共同体の精神どころか
資産や身分がモノを言う
弱肉強食の世界で、

飢えたり歩けなくなった人から
野垂れ死んでいくような
生き地獄なのでしょう。

3、許靖の見たこの世の果て
3-1 実は、董卓政権のエース格

さらに、漂泊者の
メンタリティを垣間見るべく、

今回の主役ということにして、

蜀漢の重鎮・許靖の伝を
紐説いてみましょう。

この人は、例の有名な、
曹操に「乱世の姦雄」という
官界の血統書を書いた
許劭のイトコです。

また、最後は、
蜀漢の司徒・太傅として
位人臣を極めた人ですが、
(劉禅の教育の責任者
でもあった訳ですね)

その前に、

劉璋の旧臣の癖に、

土壇場の成都の籠城戦で
城壁を乗り越えて
逃亡しようとして失敗し、

戦後に劉備に睨まれた
駄目なオッサンでもあります。

また、位を極めた理由は、

所謂「隗より始めよ」で、

劉備政権による
益州人士の人心掌握の餌に
他なりません。

ですが、この御仁の過去を見ると、

人の普遍の心理として
同情出来る部分もあると思います。

まず、この人は、
当時の学閥の筆頭格である
汝南閥にもかかわらず、

若い頃は馬洗いをして
生計を立てたそうな。

で、蛍雪の功あって、
孝廉にも挙げられまして、

官界では尚書で人事畑を歩み、

董卓政権では、
人事で綱紀粛正を図って
正義派官僚を抜擢する等して
辣腕を振るいます。

謂わば、有能な人格者タイプ。

事実、この政権も、
出足の頃は
本気で国政を安定させようとして
特に人事面では積極的でして、

その旗頭がこの許靖という訳です。

しかしながら、
平時であればともかく、

有力な外戚も宦官も
共倒れになったことで生じた
権力の空白という
異例の状況下において、

官僚同士が結束する理由が
なかったのかもしれません。

抜擢した地方官の一部は、

事もあろうに、

赴任先で董卓に牙を剥いて
兵乱に手を出しまして、

そのうえ、
イトコのひとりまで
これに加担したことで、

洛陽からの逃亡を
余儀なくされました。

―失脚です。

3-2、南海行路は生き地獄

その後、イロイロあって
会稽郡の王朗を頼りましたが、

今度は孫策が攻めて来やがって、

そのうえ、
後ろ盾の汝南閥は
官渡の戦いで勢力を失いまして、

結果として、

南海の果ての
交趾まで逃げることになり、

現地政権の士氏に匿われます。

さて、会稽から交趾までの
流転の日々における
この人の行動は、

例えば、旧知の遺族の面倒を見たり、
逃げる時は他人に先に
長江を渡河させてやったりと、

実は、かなり見上げたものでした。

こういうところは、

良心的な儒教官僚の矜持が
よく出ていると思います。

ですが、その逃避行の様子は、
まさに、この世の果ての生き地獄。

当人の曹操に仕官の拒絶を
書き送った手紙によれば、

会稽から交州までの行程の間に、

飢え、風土病、反乱軍の狼藉で
8割もの人間が命を落とすという
悲惨極まりないものでした。

その中には、
親しい名士や伯母までもが
含まれており、

自分を登用したければ、その前に、
為政者として治安やインフラを
何とかしろ、といった、
恨み言まで綴っています。

もっとも、許靖が
ここまで手厳しくやったのは
曹操の使者のやり方が
横着であったためでして、

それ以外にも、
郷里の汝南を曹操に焼かれた恨みも
あったのかもしれません。

さてその後、劉璋の招聘を受けて
やっとのことで安住の地を得、
そのうえ太守の職まで得る訳ですが、

事もあろうに、
その後やって来たのは
送り狼の劉備様御一行。

その絶望感たるや、
察するに余りあります。

元々この許靖という人は
官界の中枢である尚書の人事畑で育ち、

先述の祖逖のような
軍だの侠だの切った張ったとは
恐らく無縁であったことでしょう。

一方で、官界では中々の仕事をして、
実際、曹操からも
呼び声か掛かっていますし、

生き地獄のような逃避行の最中でも
行儀良く、理性を失ってはいません。

ですが、そのような常識人にも、
イカレた状況の我慢には
限界があるのでしょう。

そういう部分に、
当時の戦災を避けるための
先行き不透明な逃避行のリアリティを感じます。

如何に戦乱の時代でも、

国民の半分が
昼間から飲む買う打つの侠の人では
銃後の経済が成り立ちません。

許靖のような分別のある人が
極限状態の連続で
人間的な弱さを露呈したことに、

この時代の生き辛さがあったように
思えてなりません。

してみれば、このような
リスクまみれの豪族御一行様の
御引越、

まして、その許靖の上司で
飛ぶ鳥落とす勢いの劉備が
程なくして夷陵で負けて
荊州の失陥が確定した後、

祖逖や許靖の豪族なんぞ
問題にならない位の流浪集団が、

着の身着のままで
益州に雪崩れ込んでくる訳です。

これを裁いた孔明先生が
どれだけ優秀であったかが
分かろうかというもので。

【雑談・了】

8-7、職能集団の移動の可能性は?

さて、豪族は、

軍事力から経済力から、

土地さえあれば自給出来ることに
強味があります。

製鉄の技術者もこれに含まれます。

言い換えれば、

南陽の開発技術が
会稽で転用されたような
パターンもあれば、

どのような経緯であれ、

職能集団の流入による
技術移転をも意味する可能性
あろうかと思います。

つまりは、

三晋地域や南陽等の製鉄技術が
郷里を追われた豪族の移動を通じて
江南に渡った可能性です。

そして、諸葛亮や魯粛が
曹操にブチ切れる、
ということは、

今の世で言えば、

親族の経営する
鉄工所が、

戦争特需による
イカレた生産計画を叩き付けられ、

パチモノのト〇レフや弾薬を
せっせと作るべく
交代制の残業休出を強いられる、

ということを意味すると想像します。
―ホントかよ。

8-8、会稽太守と丹陽兵

また、先述のように、

郡のあるところに鉄もある、
という構図を考えると、

例えば、後漢時代及び孫呉の開発の結果、

会稽郡の南には
臨海郡・東陽郡・建安郡

その領域には18県が新設されました。

また、揚州という枠組みにおいても、

後漢時代、
会稽郡・九江郡・盧江郡には
それ程人口増加がなかったものの、

呉郡・丹陽郡・予章郡は、
人口・人口密度共に
数倍に相当する顕著な増加が見られました。

例えば、孫策は、
会稽郡太守を自称しましたが、

これは、会稽郡
当時の揚州及び江南の
中心地的な位置付けであったからです。

つまり、ここを抑えた者が
江南の主だと宣言した訳です。

しかし、開発自体は、
既に頭打ちになっており、

前漢から後漢にかけての
人口の伸び方が、
洛陽近郊で学術都市の潁川郡と
似ているそうな。

九江も、既に、
秦代には黥布の根拠地で、
前漢時代には国でした。

対して、新興地域である丹陽郡。

ここで若き日の曹操
董卓討伐に際して募兵し、
陶謙もここで集めた兵を劉備に貸し、

大分時代が下った後も、
寿春で大規模な反乱を起こした諸葛誕も、
それに先立って親衛隊をここで募りました。

口の悪い高島俊男先生によれば、

ここはヨソから人が集まる郡につき、

「丹陽兵」というのは
丹陽郡出身というよりは、
ガタイの良い人の代名詞なんだそうな。

―斯様な次第でして、

戦乱の時代につき、

上記のような、
開発が進み、あるいは、
募兵まで行われる地域に、

鉱山があっても
製鉄所や鉄を監督する役所が
置かれない、

というのも、

逆に不自然な話だと思います。

おわりに

さて、漸く、今回の結論の整理に入れます。
余分な話を随分してしまい恐縮です。

『三國志14』等で遊ぶ際、
多少の考証の足しにでもなれば幸いです。

1、秦漢代の鉄官は、
採鉱から鉄器製作までを担った。

また、戦国時代の列強も、
似たような制度を運用していた可能性がある。

2、鉄官は、秦代には、少なくとも、
咸陽・成都・臨淄には置かれていた。

また、漢代の分布は、
三晋地域と南陽郡以北の地域に集中していた。

前漢における漢人の開発の南端が
南陽であった。

3、秦は鉄の生産から流通までを統制し、
払い下げは行わなかった。

用途は、主に農具であり、
有能な農民に貸与した。

4、秦は敗戦国の製鉄大資本から
本貫地を接収する一方、
元手を貸し付けて後進地域に当てた。

その開発の対象地域が蜀や南陽郡であった。

5、漢代になると、貨幣需要から
私鋳を認めた時代もあったが、
戦時には強力な生産・流通統制を行った。

6、後漢から江南開発が本格化するが、
サイト制作者は同地域の製鉄業の状況を
把握出来ていない。

7、ただし、会稽郡の事例では、
南陽郡の田畑開発技術が流入しており、
北来の名士との交流も活発であった。

また、江南は、戦災回避を目的として
大規模な人口流入が起きていた。

8、豪族は自給自足が強味であり、
さまざまな技術集団も抱えている。

9、孫呉の物動面での戦力は、
江南開発と山越の人員の吸収による
軍事力・経済力で成り立っていた。

10、後漢から三国時代の江南は、
会稽郡が中心地であったが
開発が頭打ちになっており、
丹陽郡等が新興開発地域となっていた。

郡県の新設もあった。

11、以上、7~10の理由により、
戦争面での需要もあることで、
江南では各地から製鉄技術が流入して
製鉄所が急増した可能性がある。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
角谷定俊「秦における製鉄業の一考察」
大川富士夫「御漢代の会稽郡の豪族について」
佐原康夫「南陽瓦房荘漢代製鉄遺跡の技術史的検討」
佐々木正治「漢代四川に鉄犂牛耕は存在したか」
趙匡華『古代中国化学』
柴田昇『漢帝国成立前史』
金文京『中国の歴史』04
落合淳思『古代中国の虚像と実像』
井波律子『中国侠客列伝』
柿沼陽平『中国古代の貨幣』
原宗子『環境から解く古代中国』
来村多加史『春秋戦国激闘史』
『万里の長城攻防三千年史』
石井仁『曹操』
東晋次『王莽』
高島俊男『中国の大盗賊・完全版』
『三国志 きらめく群像』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻
高橋基人『こんなにちがう中国各省気質』
宮崎正弘『出身地を知らなければ中国人は分からない』

カテゴリー: 世相, 人材, 兵器・防具, 情報収集, , 経済・地理, 軍制 パーマリンク

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