郊外がワンダー・ランドな『三国志』

 

調べたことを精査せずに綴っていましたら
字数にして1万字余に焼け太ったことで、

今回も冒頭に章立てを付けます。
無駄に長くなり、大変恐縮です。

例によって、
興味のある部分だけでも
御目を通して頂ければ幸いです。

 

はじめに

1、魏呉蜀の軍隊と豪族
 1-1 呉の軍隊と開発領主(豪族)
 1-2 蜀の豪族と諸葛孔明
 1-3 曹操と配下豪族とその私兵
 1-4 勉学にも必要な元手

2、豪族集団の構成員とその影響力
3、郊外開発に打って出る豪族
4、税の軽重とその目安
5、豪族の郊外開発のパターン
6、『三国志』の「山賊」・「盗賊」の正体
7、インテリと下級役人の暗躍する
「黄巾の乱」
8、稀有な立地の例・白騎塢

9、平場の荘園のある空間
 9-1 『三国志』の荘園を写生する
 9-2 襄陽の城下の風景
 9-3 荘園の施設「あるある」
 9-4、居心地の悪い天守閣
 9-5 昔も鉄壁、要人の在所
 9-6 検証?!曹操の呂伯奢殺害
 9-7 自給自足で突っ張った豪族のその後
おわりに

 

 

はじめに

先の2回に続いて、
今回も『三国志』の時代における地理感覚
めいた御話をします。

末端の自治体組織である里や郷(離郷)、
そしてその集合体である県城(都郷)、郡城。

そしてこれらは、

徴税や裁判、治安や常設の市、
官吏登用制度等を通じて
相互補完の関係にある、

という話をしました。

ところが、『三国志』の時代には、

こういう儒教の理想郷とも言うべき
旧時代的で割合「マトモ」な
上下下達の郷里社会だけではなく、

むしろ、
その対極に位置する
実力主義的で世紀末な世間も存在します。

具体的には、
郊外の豪族の荘園がそれに当たります。

今回の話は、
この荘園に関する御話。

 

1、魏呉蜀の軍隊と豪族

1-1 呉の軍隊と開発領主(豪族)

 

さて、荘園だの豪族だのと言うと、

何だか戦争というよりは、
奴隷だの搾取だのと
固く古臭い歴史「学」上の社会体制の話になり、

読む気が失せる、
という読者の皆様も
いらっしゃるかもしれません。

しかしながら、豪族連中の私兵は、
『三国志』の軍隊組織の世間でも
極めて重要な存在でして、

特に、呉や蜀の軍隊の
戦力の中核をなしていたことで
無碍には出来ません。

中でも呉など、

陸遜のようなキレ者の都督が
豪族であったりもして、

孫権の辣腕を以てしても
集権的な体制が整いませんでした。

結果として、

拉致した山越族を元手とした
強欲な開発領主と、

洛陽・長安で働くことしか眼中にない
やる気のない中原志向の名士の集合体のまま、

時勢に取り残されて滅亡を迎えました。

 

因みに、名士とは、

簡単に言えば、
生まれが良くて学問(儒学)が出来、
学閥等で同じような人々とのコネを持っている人です。

コーエーの『三國志』シリーズで
知力か政治力が80以上の武将は、
大抵はこのカテゴリーに入ります。
(或いは、この表現の方が分かり易いでしょうか。)

詳しくは、
渡邊義浩先生『「三国志」の政治と思想』
参照されたし。

 

 

1-2 蜀の豪族と諸葛孔明

蜀の場合は、
夷陵の戦いによる荊州喪失以降は、

諸葛孔明
益州の土着の豪族・名士を差し置いて
荊州出身の根無し草のそれを優遇し、

一方で、両者を法律で押さえつける形で
王朝を体裁を保ちました。

言い換えれば、
劉備の軍隊は荊州・益州の豪族、
そして、巴蜀や漢中、荊州等の「異民族」兵隊の
寄せ集めでして、

街亭の戦いなどの肝心な場面で、
そういうシガラミが噴出する訳です。

それはともかく、
劉備の死後は、良くも悪くも、
絶対的な法の執行者としての
諸葛亮の存在が大きかった訳です。

 

 

1-3 曹操と配下豪族とその私兵

また、先進的な曹操の配下にも、
当然ながら、
李典や許褚等のような
豪族上がりの有力な武将がいまして、

この人達の場合は、
曹操が優秀であったのと
豪族の皆様の物分かりが良かったことで、

割合早い段階で、
悶着を起さずに私兵の解体に応じました。
―青州兵以外は。

曹操の軍隊が強かった理由は、
こういうところにもあると思います。

もっとも、曹魏の場合も、
良くも悪くも蜀先を行くと言いますか、

孔明も仲達も、
名士が有事を名目に兵権に手を出す過程は
酷似しているように思います。

 

 

1-4 勉学にも必要な元手

それはともかく、

曹氏政権の末期と司馬氏政権
双方に当てはまる話ですが、

文才があって
権謀術数が得意であっても、

現場を観るのが嫌いで
実務能力の低い連中が台頭して
国政を乱す流れになります。

郷里社会・豪族の荘園の双方が
長年の戦乱で疲弊
移住後に酷使されて並みならぬ不満を抱く「異民族」
国中に溢れ返っている危険な状況を看過し、

これが中国史上の大きな汚点でもある
八王・永嘉の乱の大きな伏線になります。

 

ですが、名士層とて、

資本力があって荘園に私兵を多く抱え
子弟に遊学させる余裕のある豪族層には
違いありません。

 

さらには、文才で権力を握った者とて、

歴代の中共の国家主席宜しく
色々なツテを通じて兵権だけは手放さなかった
という御話。

試験勉強のハナシとしては、

こういう流れは
役人の選抜試験である
九品中正にもつながる訳でして、

―その花形が、
知力90以上の仲達や陳羣だったりします。

 

 

2、豪族集団の構成員とその影響力

ここまでの話で、多少なりとも、
君主と豪族の関係が垣間見えたのではないか、
と思います。

つまり、君主にとっては、

有事の際には、
多数の兵隊を準備してくれる有難い側面と同時に、

家臣の体裁を取る割には、

実力があるうえに、
ヘンなグループ派閥を作ったりして
言うことを聞かない厄介な存在でもあるという。

そういう複雑な側面を持つ豪族さん達は、
そもそもどういう存在なのか
気になるところですが、

ここで、下記のアレなイラストを御覧下さい。

 

石井仁「黒山・白波考」、川勝義雄『魏晋南北朝』等を参考に作成。

これは、当時の豪族の行動パターンについて
図解したものです。

以下は、これに準拠するかたちで話を勧めます。

 

まず、豪族は、モノの本によれば、
大抵は里や郷、大きい部類になると複数の県レベルで
郷里社会に影響力を持っている富裕層です。

その実力の泉源は、
血の結束で掻き集めた
何百・何千という人的資源やそれに付随する資本

当時はタブーである同姓同士の婚姻の禁止が
緩くなっていたことも影響していたようです。

そして、こうした血縁集団の中で優秀な一族が
これを統率し、

さらには、食糧は言うに及ばず、
刀剣や弓矢のような兵器から酒のような商品まで
全てを自給自足する経済圏を持つ訳です。

 

また、郷里社会に影響力を持つ、
ということは、

経済力や政治力の多寡によっては、

県や郡はおろか、国政にまで、
自分達の息の掛かった人間を送り込むことが
可能となる訳です。

早い話、外戚や宦官の金脈が、
大豪族層という御話。

ましてや、こういう社会階層にとっては、

『三国志』の序盤の
太守や刺史レベルの新任の落下傘地方官が、
一から差配出来るような
生易しい連中ではない訳です。

 

 

3、郊外開発に打って出る豪族

次に、こういう豪族層の生活拠点
どうなっているのか、
という御話に入ります。

当然、旧来の郷や県城にも足場はあるものの、
そういう既存の拠点は開発の伸びしろに乏しく、

そのうえ、
郷里社会も富の偏在による
秩序の破壊を嫌います。

 

そこで、余った富を
郊外の田畑に開発に投資し、
住まいを現地に移します。

そして、血族の人員のみならず、
既存の郷里社会から弾き出された人々を雇って
荘園の開発や物品の生産、
そして防衛や周辺の田畑の切り取りに動員します。

 

無論、国家が模範とする
郷里社会から弾き出される人を
大量に出す時点で、
国家の統治としては失敗なのですが、

その理由は、

後漢の時代以降に限っても、

王莽や赤眉の動乱、
飢饉やそれに付随する羌族の大反乱、
北辺の烏丸や鮮卑の暴発、
豪族の小農からの収奪等、という具合に、

まあ、イロイロありまして。

 

さらには、流れ者の中には、
所謂「異民族」も含まれます。

南方の豪族なんか、
山奥に入ってまで山越を拉致しに掛かるので、
何とも始末が悪いもの。

―御明察の通り、呉の孫某の政権のことです。

 

 

4、税の軽重とその目安

これに因んで税の話をしますと、

税率ひとつとっても、
漢代は秦の反省を踏まえて
数字の上では安かったのですが、

王莽関係のゴタゴタで
国中が疲弊していたことに加え、

先述のように
豪族が御用の政治家を抱えていたことで、

低い税率で浮いた分を着服するので

末端の農民の負担軽減という点では
まるで用を為しません。

 

当然、いつの時代でも、
賢明な官僚はそれに気付き
何度も苦言を呈し、

宦官や外戚の横暴に際しては
流血沙汰の政争まで起こるのですが、

大勢としては、

黄巾の乱が起こり
曹操が台頭するまでは何も変わらなかった
と言えるかと思います。

 

もっとも、末端の農民にとっては、
正確には負担の軽減ではなく
法整備によって負担の公平感が増した、という、
切ない御話のようですが。

 

 

5、豪族の郊外開発のパターン

さて、郊外の開発には、いくつかの学術論文を読む限り、
恐らくは、少なくともふたつのパターンがあります。

 

1、山林沼沢を障壁とした「塢(う・お)」の構築
2、県城付近の水利に恵まれた平場の開発

 

1、のパターンは、石井仁先生によれば、
前漢の終わり頃から急増したパターンだそうな。
また、2、のパターンは、
恐らくは古い時代からのもの。

因みに、新県と旧県という概念があるようで、

確か、春秋時代かそれ以前に
共同体としての大体の形が成立した
領民と支配層の結び付きの深い県と、

秦が各国を占領する過程で設立した
人の入れ替わりの激しい県が存在する、

という話と記憶します。

太守・県令といった地方官の担い手の変遷や
地方ごとの人の入れ替わりについても
少なからず研究があるようですが、

サイト制作者の不勉強につき、
ここではキーワードの紹介に止め、
今後の課題とさせて頂ければと思います。

そこで、まずは、2のパターンから話をします。

 

豪族は、
イラストにありますのような
山林沼沢や峻嶮な地形に拠り、

簡単な防御施設を施して「塢」とします。

その過程で、障壁とは関係のない部分は
開墾したであろうと想像します。

 

 

6、『三国志演義』に登場する
「山賊」・「盗賊」の正体

 

この章は、

石井仁先生の
「黒山・白波考 ―後漢末の村塢と公権力―」
『東北大学東洋史論集』・9

による部分が大半でして、

本当に面白い論文ですが、
残念ながらPDF化されておりません。

こういうのを新書でダイジェストすると
売れそうな気がします。

入手方法としては、
例えば、最寄りの国立大学の書庫等で探されるか、
図書館の相互貸借を利用されますよう。

 

さて、「塢」とは、字の意味は砦の類だそうですが、
当時は武装村のような意味合いが強かった模様。

例えば、大きい部類では、
張燕の率いた「黒山賊」というのがありますが、

あの組織の母胎は太行山に存在する
無数の塢に拠る豪族層の連合体だそうな。

 

さらに、あの辺りに無数の塢があるのは、
2世紀の前半に漢王朝が羌族の反乱対策のために
建設・整備したためであり、

こういう武装村の豪族連中が、
時代が変わって
山賊上がりの押しの強い人を担いだというシナリオ。

 

白波賊も似たような話でして、
河東その他の洛陽近郊の先進地域で
何万もの人間に軍事動員を掛けること自体、

政治力のある豪族の連合体のなせる技の模様。

 

その延長として
以前の記事で「ハード・ボイルド楊奉」という
何とも下らない話をした楊奉も、
実は弘農郡の名家である
楊彪や楊修等楊氏の血族のようでして、

当人が天子を奉じたのは
義挙というよりは豪族の外交策の話の模様。

 

(過去の記事です、一応。)

三国志正史、それは盗賊と地方官の織り成すハードボイルドな世界

後日、楊氏や楊奉の話も含めて、
名家の話もしたいと思います。

 

話を戻しますが、
つまりは、『三国志』に出て来る山賊や盗賊の類は、

5万だの10万だのと、
あまりに膨大な数の人間を動員する
組織については、

本当に流れ者の集団なのか否かを疑う必要がある、
という御話です。

 

 

7、インテリと下級役人の暗躍する
「黄巾の乱」

黄巾の乱とて、
色々な社会階層の思惑の入り乱れた
複雑な政権の模様です。

少なくとも、
喰えなくなった小農の暴発だけで
括れるものではありません。

無論、横暴な高利貸しや手下の剣客の狼藉で
土地を取り上げられた側が
積極的に加わったのは、
想像に難くありませんが。

とはいえ、
そもそも、

そういう社会に不満を抱く人々を
駆り立てる側の思惑ですが、

まず、暴発した鉅鹿の辺りは
「学問」の先進地域でして、
政争で敗れた側の学閥の拠点の模様。

確かに、組織化された動きやロジック
ひとつとっても、
インテリの所業の痕跡が見え隠れします。

 

さらには役所が黄巾の張り紙を放置する等の
事務的な「過失」も
平時には在り得ない行為だそうな。

その意味では、実行部隊には
インテリや下級役人が
深くかかわっていると見るべきですし、

黒山にしても白波にしても、
黄巾の残党がゲリラ活動を
継続したものだそうで、

こういう札付きを戦闘部隊として利用して
袁紹や曹操等と対峙し、

隙あらば天子を保護しようとする
豪族層の意図を考えると、

綺麗事では済まされない
地方の群雄割拠の厳しい現実に加え、

中央の政争での劣勢の挽回策という構図
垣間見る心地です。

 

また、上記のように、
政治的な意味で作られた塢が
反体制の拠点に化ける例もあれば、

そもそも漢の高祖の劉邦様が
ああいうところに逃げ込んで
役人稼業を放り出したように、

山林沼沢には、
アジール(避難場所)として
色々な人が逃げ込んだようでして、

19世紀以降の
国民国家時代以降の例で言えば、

恐らくは、
主要な港湾都市に群がった移民が
自衛や政治的発言権を拡大するために
「〇〇人街」を作るような話です。

 

ですが、人の集まるところには、
兵隊も物資もあつまり、

結果として、
時代が下って土豪になり、

その地域の資力を基盤に
政治的な影響力を行使する、と。

 

 

8、稀有な立地の例・白騎塢

その他、イラストの白騎塢」についても
説明します。

敢えて南北朝時代のものを
イラストにしたのは、
他に目ぼしい詳細な例を
見付けられなかったからです。

その意味では、面識のない石井仁先生に
感謝しなければなりません。

 

で、白騎塢ですが、
『水経注』の当該の箇所の原文を確認すると、

ふたつの渓流のクロス地点の高台にあり、
三方に急峻な崖、西に城壁、北に塹壕、
周辺にも集落がある、

と、記してありまして、

これをそのままイラストに起こすと、
左上のようになろうかと。

 

余談ながら、
諸葛孔明が五丈原で陣没するまで本陣を構えたのも、
こういう感じの塢であったそうな。

居住性と防御性に優れ、
長期の在陣にも適していたそうです。

なお、荘園の設備の詳細については、
後述します。

 

 

9、平場の荘園のある空間

9-1 『三国志』の荘園を写生する

当時、見ず知らずの人間が
豪族の荘園で写生なんぞやったら、

軍事機密の関係で
殺されるか、あるいは、
拷問で半死半生の目に遭わされることでしょう。

それはともかく、

先に、豪族の郊外開発には
少なくともふたつパターンがある、
と書きましたが、

ここでは、

「2、県城付近の水利に恵まれた平場の開発」

について説明します。

 

早速ですが、
下記のアレなイラストを御覧ください。

 

上田早苗「後漢末期の襄陽豪族」、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』、林已奈夫『中国古代生活史』等より作成。

毎度ファミコンの一枚絵のような拙さ
恐縮しております。

 

このイラストの典拠は、
上田早苗先生の論文
「後漢末期の襄陽の豪族」
付録地図。

古い論文ですが、
PDFで読めます。

当該の論文のアドレスは以下。
ttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/152809/1/jor028_4_283.pdf
(一文字目に「h」を補って下さい。)

と、言いますか、
貧しいサイト制作者も
ダウンロードして読みました。

因みに、漢代の論文も色々ありまして、

『三国志』の内容を
斬新な分析視覚で掘り下げるものもあれば

例えば緻密な役人研究等
あまり『三国志』とは関係なさそうな
研究もあるのですが、
(当然と言えばそれまでですが)

上記の論文については、

サイト制作者としては、
上で取り上げた
石井仁先生の「黒山・白波考」と同様、
かなり御勧めしたい部類のものです。

 

話が脱線して恐縮です。
イラストの説明に戻ります。

論文に添えられた地図
先述の『水経注』の清代の注釈のもの。

この地図を元に、

漢代の荘園の壁画や
魏晋あるいは南北朝時代の
家屋を模した陶器等、

その他、いくつかの文献に掲載されていた
手書きの壁画等の模写等を
参考にイラストにしました。

したがって、
荘園内の施設の配置は
残念ながらリアリティは
乏しいかもしれません。

何故、魏晋時代のものが充実しているのに
南北朝時代のものも使うかと言えば、
魏晋時代以前のものは
大抵は色彩が剥げているか乏しいからです。

 

 

9-2 襄陽の城下の風景

因みに、イラストのモデルとなる地域は、
劉表統治時代の襄陽。

イラスト上の「県城」は、
劉表の治所である襄陽城がモデル。

加えて、襄陽城のすぐ西には
孔明がヒッキーしていた隆中があります。
西門から徒歩1、2キロ程度の圏内です。

また、イラストの手前側の中洲の邸宅は
蔡瑁が所有しており、
河川の西岸もこの人の荘園。

 

さらには、イラストの下半分の荘園は、
習氏の土地です。
恐らくは、襄陽城から
精々南に2、3キロ程度の距離。

因みに、この習というのは習近平、ではなく、
『漢晋春秋』等を書いた習鑿歯の御先祖様。

当時の御当主は、
劉琮が曹操に降った後、
劉備に従って蜀漢に入り、
関羽の荊州防衛戦で戦死されたそうな。

 

で、イラストは、この習氏の領地の立地を元に、
当時の豪族の荘園には必須の施設を加え、
さらに領主の屋敷を図解したという、

春の大特価の優れ物、とは言えないものです。

 

 

9-3 荘園の施設「あるある」

では、豪族の荘園内にはどういう施設があるのか、
と言えば、凡そ以下のようになります。

 

1、池(水源)と田畑・水門
2、高床式かそうではない精米所・踏み臼
3、倉楼
4、城壁か木柵等で覆われた豪族の住む城邑

 

他には、牛馬を飼育する牧場等があります。

以下、1、から順に説明します。

水源と田畑は食糧を自給する豪族には必須の資産で、
水門は当然ながら、両者の水位や水量を調整します。

今日ではコンピューター制御ですが、

IT化されている分、
却ってサイバー攻撃の対象になり易いそうな。

 

2、ですが、高床式は、穀物の腐敗を防ぐためです。

また、前漢時代の踏み臼の普及により、
脱穀・精米の効率が
それまでの10倍向上したそうな。

これも含めて、漢代自体が
農業技術が飛躍的に伸びた時代でしたが、

その内容は、器具の性能の向上や、
作物の成長リズムに合わせた人の使い方等、
総合的なものであったようです。

 

 

9-4、居心地の悪い天守閣

3、倉楼ですが、この時代の高楼の存在意義は、
防衛・監視のみならず、
富や権力の象徴でもありました。

ですが、こういうところの居住性については、
どうも良くなさそうな。

 

物は試しに、
近場に国宝級の天守閣がある方や
旅行で行かれる方は、

入場料も高くないことで、
一度登られることを御勧めします。

因みにサイト制作者は、
旅行で戦国マニアの友人達と
天守閣の松本城に登ったのですが、

友人曰く、
居住性の悪さを体感出来たことが
良い経験になった、とのこと。

無論、この種の施設からは、
バリア・フリーという概念は
微塵も感じません。

 

因みに、当時の倉楼は、
4層程度が標準の模様。

高い理由は、防衛や権威以外にも、
盗難対策があります。

また、戦乱の長期化によって、
施設自体が大型化したようでして、

そういう部類の施設になると、
1棟で1万石(267トン)以上の穀物が
備蓄出来たそうな。

食糧難の時代につき、

攻略目標に間諜を忍ばせる際、
こういう倉庫をいくつ持つかで、
相手の戦力の多寡を
推し量るのかもしれません。

 

因みに、漢代の壁画には、
農地に併設される形で書かれていたので、
城邑の中に作られている訳ではなさそうな。

実際に戦争にでもなれば、
兵糧の大部分を
城邑の中に搬入するのかもしれません。

 

余談ながら、太平洋戦争の折、

ある島の攻防戦で
(確か、天王山のガ島と記憶しますが)
米軍が日本軍の兵力を推測する時に
目安にしたのが、

何と、トイレの数。

地味ながら、
諜報活動の神髄と言いますか。

 

 

9-5 昔も鉄壁、要人の在所

さて、「4、城壁か木柵等で覆われた豪族の住む城邑」
について。

周辺の施設をひととおり説明して
外堀を埋めたところで、
いよいよ本丸・領主の城邑に突入します。

モノの本によれば、
豪族の在所は村(里や郷)の原型であったそうな。

また当時の県城や先述の白騎塢の状況から察するに、
資力のある豪族は、
村に木柵や土塀・土塁、城壁を施すことも
可能であったと思います。

 

また、魏晋時代の塢の焼き物を見ても、
城郭と四隅の高楼は必須のようでして、

サイト制作者は
豪族の館のみならず村の居住区の外縁にも
何らかの防御機能が施されており、

四隅には監視所としての高楼が
配置されていたのではないかと想像します。

まして、
豪族の寝起きする館は息が詰まるような有様でして、
硬度も耐火機能も揃った堅牢な外壁は当然のこと、

外壁には窓そのものがなく、
2階部分に精々通気口があるといった徹底ぶり。

そのうえ、屋敷内の四隅の高楼や
二層以上の御殿からも監視・防御態勢が取れるので、

寄せ手が守備側と同数の兵力では
正面攻撃では太刀打ち出来ない作りになっています。

 

言い換えれば、
それだけ豪族間の抗争が凄まじかった訳です。

そのうえ、この時代の豪族には、

荘園内の民には善政を施しても
県城や荘園の外で狼藉を働くようなクズ
少なからずおり、

優秀な地方官程、
こういうのを騙し討ちや離間工作などのような
効率的なかたちで、
周囲には「穏便」に排除しました。

 

一方で、豪族の日常生活は、

外の物々しさとは裏腹に、
広い厨房があり、庭には高価な鶴をまわせるわで、
至り尽くせりな状況を想像させます。

こういう内外の空間の差異が大きい部分は、
地方にいくつか存在する
今日の要人の邸宅を観る分にも、

時代が下っても変わらないものを感じます。

社交場という意味合いも強いのでしょう。

 

因みに、屋敷内のイラストは
漢代の壁画の模写ですが、
壁画自体、あくまで大体の略図だと思います。

何千もの血族や
客と呼ばれる剣客等の雇い人を抱える豪族であれば、

身辺の世話をさせる人間を常駐させるだけでも
4区画程度の敷地では到底足りないでしょう。

 

 

9-6 検証?!曹操の呂伯奢殺害

また、これに因みまして、

例えば
『三国志演義』に出て来る
曹操が呂伯奢を殺す話など、

サイト制作者は
先走って居直る曹操を
庇う気はありませんが、

明代の作り話とはいえ、

宿泊者にとっては
富裕層の広い屋敷で厨房が騒がしいことが
どれだけの危険を思わせるか
想像出来るかと思います。

もっとも、旅行関係の統計を見る限り、
アジア人自体が
騒々しいのが好きな面もあることで、

客観性に乏しい話かもしれませんが。

 

 

9-7 自給自足で突っ張った豪族のその後

ただ、こういう利権に安住した豪族にも
良い未来はありません。

例えば、劉表の死後、
こういう古い豪族は曹操にこぞって降り、
この時代は事なきを得ました。

で、この時、徹底抗戦を主張した劉備は、
領内で孤立して散々な目に遭いました。

この時の新野から江夏までの撤退戦が、

『三國志演義』で趙雲が頑張った、
例の長坂の戦い。

先日のBSの『趙雲伝』でも
大袈裟な大立ち回りをやっていました。

 

しかしながら、
豪族連中が独自の経済圏を持って
生活どころか軍事までコストを負担するというような
非効率なことを、
社会全体で1世紀も続けた結果、

国の経済力が完全に疲弊し、
肝心な時に防衛力を発揮出来ません。

結局は、非効率な負担のツケを
「異民族」の強制移住や酷使で辻褄を合わせ、

当然の結果として、
彼等に背かれて先祖伝来の土地を蹂躙されるという
最悪の結末を迎えます。

蔡瑁の一族なんぞ、
それまでは順調であったものの、
永嘉の乱で呆気なく滅亡したそうな。

 

その意味では、後代の南朝文化なんぞ、
サイト制作者には魏晋時代の失政の徒花に思えて
仕方がありませんし、

『三国志』の物語の肝や魅力も、

無数の軍閥や複数の王朝が
後先を考えずに発揮した

ひとつの時代に
最大限に凝縮されたエネルギーめいた部分に
あるのかもしれません。

 

 

おわりに

例によって、纏まりに欠ける話で大変恐縮ですが、
最後に内容を整理すると、概ね以下にようになります。

 

1、豪族の私兵は、『三国志』の時代の前半は、
軍閥の軍事力の中核であり、

特に、呉では滅亡まで変化がなかった。

 

2、豪族は郊外の田畑に投資し、
自らの居館を構築する。

 

3、豪族の居館や居住区には
堅固な防御施設が施されている。

 

4、豪族の郊外開発には、少なくとも2種類あり、

一、県城の付近に城邑を構える
恐らくは古いタイプ

二、山林沼沢に防御施設を施す「塢」

 このふたつに区分可能。

 

5、基本は自給自足であり、
穀物は元より、商品の製造・販売を手掛け、
荘園の防衛も自らの手で行う。

 

6、豪族は既存の郷里社会にも足場がある。

 

7、豪族は血族と雇い人で構成され、

大きい部類では
何千家(当時は一家4、5名)の規模を誇り、
ひとつふたつの県程度に大きな影響力を持つ。

 

8、優秀な子弟に英才教育を施し、

地方・中央を問わぬ政界はおろか、
宦官・外戚等、
宮中にも人送り込んで利益誘導を行う。

 

9、恐らく、一能一芸や労働力として雇う以外では、
外部の人間には排他的である。

 

10、新任の地方官は、
政策の取捨選択にあたって、

実力があって扱い辛い豪族の中で、
政策に応じて敵味方を鑑別して使い分ける。

 

 

以上のような話が、
今回の駄文の骨子となろうかと思います。

 

また、見苦しい言い訳も一応。

本当は豪族の荘園の立地の話だけを
する予定でしたが、

土地の話だけでは
イラスト等に実感が持てないと考え、

敢えて難しいテーマにも手を出しました。

ですが、学会ですら
侃々諤々の議論がなされているであろうテーマに対して、

何本かの論文を拾い読みした程度で
モノを書こうとすること自体が
そもそも失笑モノな話です。

その意味では、
豪族の存在に興味を持たれた方に
おかれましては、

豪族の存在意義にかかわってくるような
理解に膨大な知識を要する部分については、

無責任な話で恐縮ですが、

あくまで調べ事の取っ掛りに過ぎない駄文として、
話半分で御願い出来れば幸いです。

典拠も下記に記しますので、

例えば、手始めの方策としては、

まずは、PDFで読める論文の注釈等を使って、
豪族研究の本丸となる文献を探されると
宜しいかと思います。

 

 

国立情報学研究所の論文検索サイト
ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

 

【主要参考文献】
(今まで書き忘れていましたが、
敬称略です)

上田早苗「後漢末期の襄陽の豪族」
石井仁「黒山・白波考」
「六朝時代における関中の村塢について」
越智重明「後漢時代の豪族」
鶴間和幸「漢代豪族の地域的性格」
張学鋒「曹魏租調制度についての考察」
『史林』第81巻6号
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
金文京『中国の歴史 04』
川勝義雄『魏晋南北朝』
西嶋定生『秦漢帝国』
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』各巻

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2 Responses to 郊外がワンダー・ランドな『三国志』

  1. 公孫祐 のコメント:

    はじめまして。麋竺好きが高じて小説創作の為、調べ始め、どんどん深みに嵌まり今や東海麋氏マニアです。
    なかなか論文まで読める環境にないので、とても分かり易く解説されていて、大変助かりました。
    他の記事も順次、読ませていただきます。

    • aruaruchina のコメント:

      公孫祐 様

       こちらこそ、はじめまして。

       まずは、コメントを感謝致します。
       大姓と郡をセットで興味を持たれる点に相当な博識さを感じます。

       加えて、遅筆で気を揉ませて大変申し訳ありません。

       私自身が受験レベルの漢文に悪戦苦闘する程度の文盲な門外漢につき、
       残念ながら、中文を含めた各種文献や
      学術論文の内容(美味しい部分!)をまとめて
      イラストに起こす程度のことしか出来ずに恐縮です。

       しかしながら、こうしてコメントを頂くと
       どうも需要は無きにしもあらずのようで、
      何とか記事を増やしていこうと思う次第です。

       今後とも、宜しく御願い申し上げます。

       蛇足ながら、次の記事も、
      やっとのことでまとめる目途が立って来ましたので、
      近日中に何とか出来ればと思います。

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