解剖?!戦国・秦の軍隊

今回は無駄話も祟ってかなり長くなりましたので、
以下に章立てを付けます。

興味のある部分だけでも、
御目を通して頂ければ幸いです。

 

はじめに

1、泣く子も黙る秦の軍隊の素描

1-1 割符を通じた統帥権の発動
1-2 兵権とその濫用
1-3 中央軍の概要
1-4 郡・県の治安部隊の概要
1-5 国境警備隊と長城建設
1-6 秦の部隊編成
1-7、その後の「部曲」

2 秦軍の兵隊をめぐる環境

2-1 過酷な兵役と労役
2-2 命の対価としての手厚い褒賞
2-3 軍政の反動と滅亡

3、各国の軍隊の共通点・相違点

3-1 遊説家のハッタリに付き合う
3-2 守備隊・老兵・軍属
3-3 各国の兵隊の査定

おわりに

 

 

 

はじめに

 

今回は、秦の軍隊の御話。

以前綴った記事

「春秋時代の部隊の編制単位」

の補遺でして、
年末年始に読んだ本のまとめでもあります。

 

色々と文献を漁るうちに
誤記の発見や書くべきこと等が累積しまして、

そうしたものが、
ひとつの記事に出来る程に溜まったと言いますか。

因みに、今回の記事の主なタネ本は、
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』

 

 

1、泣く子も黙る秦の軍隊の素描

1-1 割符を通じた統帥権の発動

まずは、秦の軍隊の構造について、
その概要を見てみましょう。

早速ですが、
以下の図を御覧ください。

なお、表中の用語は、
文献で使われている用語に加え、
サイト制作者が便宜上付けたものです。

大体、こういう構造である、
という理解で御願い出来れば幸いです。

 

『図説 中国文明史 4』p60-61の内容を元に作成。

 

平時の編成は、中央軍と地方軍に区分されます。

因みに、中央軍・地方軍を統括する
軍の最高司令官の官職は国尉。
秦以外の国にも存在したようです。

有名な人では、
秦の白起や趙の趙奢等が就任しています。

国家の最高指導者として統帥権を握るのは
秦の国王なのでしょうが、

国王が国尉を通じて命令を下す、
ということだと想像します。

また、いつの時代からかは分かりかねますが、
50名以上の兵隊の移動には
国王・皇帝の許可が必要でして、

将軍を任命した時や
部隊の移動の際にも
将軍や司令官に「虎符」と呼ばれる
伏せた虎の形をした銅製の割符
(背中の部分で割れるそうな)を渡し、

命令下達の際に割符を合わせることで
こうした人事や軍令を管理していました。

で、作戦終了後には、
割符と共に兵権を回収して
将軍などの臨時職を解く、と。

その意味では、
国王・皇帝と国尉との関係については
何かしらの先行研究がありそうですが、
これは後日の課題とさせて頂ければ幸いです。

 

1-2 兵権とその濫用

これについて、
『史記』に面白い逸話があります。

秦に王翦というベテラン将軍がいまして、
この人が自称60万の大軍で楚に出征する折、

猜疑心の強い始皇帝(当時は秦王か)に
盛んに土地や金品等の恩賞をせがみ、
始皇帝を苦笑させます。

その様子を見ていた部下が
上官の王翦に、
見苦しいので止めるよう諫言するのですが、

王翦は、こうでもしない限り、
自分に大軍を預けた王は
安心しないであろう、
と、部下を諭します。

つまるところ、
いくら軍の制度が強固であっても、

王の性格以前に
大軍の兵権を預けた王や側近の心理としては
離反のリスクを考えてしまうものでして、

甚だしい場合は、
政争で側近の文官が
優秀な軍人を粛清する類の負の力学にもなります。

果たして、これが漢代になると、
出先で司令官の横暴を牽制するために
「護軍」という官職が設けられます。

この護軍に誅された奴が、例えば、
三国時代に蜀で反乱を起こした鐘会。

 

1-3 中央軍の概要

続いて、中央軍の概要について。

中央軍は、
皇帝警護部隊と首都警備隊で構成されます。

皇帝警護部隊は
その名の通り、皇帝の身辺警護でして、
責任者をの官職を「郎中令」といいます。

さらに、宮中警護の責任者は「衛尉」

余談ながら、
こういう物々しいSPを付けても
刺客に襲われてマトモな対応が出来ずに
大騒ぎになったりしています。

随分前の話ですが、
この騒動が映画にもなっていますね。

むしろ、秦による統一後の、
数回にわたる地方巡察の際に
脚光を浴びた部隊ではなかろうかと思います。

次に、首都警備隊について。

これは平時は首都・咸陽の治安部隊ですが、

有事の際には、
野戦機動部隊(城攻めもやるのですが)の主力として
華々しく出動します。

首都の治安の責任者は「中尉」ですが、
野戦部隊の司令官は、
大将軍等の臨時職だと思います。

いつの時代もそうですが、
近衛部隊は、同時に野戦の決戦部隊でもあります。

ナポレオンの親衛隊も然り、
ナチのSSも優秀な兵器を優先して獲得し、
クルスク等の主要な決戦には必ずといって良い程
出張ります。

日本の近衛師団も、

太平洋戦争の緒戦のヤマ場である
シンガポール攻略戦では、
精鋭の第5師団との先陣争いは
当時は有名でした。

 

1-4 郡・県の治安部隊の概要

続いて、国軍の裾野とも言うべき、
地方軍の概要について。

地方軍は、
郡・県の治安部隊と国境警備隊に分かれます。

まず、郡・県の治安部隊ですが、
首都警備隊同様、
平時は各々の自治体の治安や訓練に勤しみ、

有事の際には、
野戦機動部隊として出征し、
首都警備隊の支援を行います。

―もっとも、
支援と言えば聞えは良いのですが、

そもそも、
咸陽に配属された部隊自体が精鋭につき、

その消耗を避けるという意味では、
実態は野戦や城攻めの際の
弾除けであったと想像します。

この辺りの構図も、
東京の近衛師団が
地方の連隊の精鋭を選った部隊につき、
いつの時代でも行われていることなのでしょう。

加えて、ある段階から俄かに領土が増えたことで、
動員以前に占領地の治安維持に相当な苦労をしたと
想像します。

因みに、
郡の軍務は「郡尉」、県の軍務は「県尉」、
さらに末端の自治体である郷の治安は
「游徼」(ゆうきょう)が担う訳ですが、

これらの人員構成、
例えば、どの階層以上が本国から派遣されるのか、
あるいは爵位との対応関係は、
サイト制作者の不勉強で分かりかねます。

今後の課題とさせて頂ければ幸いです。

ただ、断片的な知識としては、
(最高20級中)7級の公大夫が県令に相当するので、
例えば、県尉はこの少し下だと想像しますが。

 

1-5 国境警備隊と長城建設

話を秦軍の概要に戻します。
地方軍に属する国境警備隊について。

この部隊は、
国境地区での防備と
都市の防衛施設の建設を担当しました。

その人員の構成は、
騎射に長けた北方の人種と罪を得た役人や平民。

その意味では、良くも悪くも、
流れ者や異端児の多い
北方のフロンティアという印象の強い部隊です。

特に後者は長城の建設もあったでしょうし、
同じ長城建設組の燕や趙にも、
同様の辺境部隊が存在したと想像します。

余談ながら、
あちらの昔話に『孟美女』というのがあります。

夫が長城建設の労役に駆り出され、
妻が迎えに行くのですが、
散々探し回った末に亭主は故人という
踏んだり蹴ったりな御話。

実は、この話には続きがありまして。

この婦人が男装して武術と士大夫の教養を身に付け、

「荊軻」と名乗って
咸陽の宮中で剣を抜いて大騒ぎになった話が
『史記』に出て来まして、

―というのは、当然ながらデタラメです。
先述の皇帝警護部隊の話に事寄せて。

与太話はともかく、ここで興味深いのは、
その御話の舞台となったのが始皇帝時代という点。

「孟美女」の話の流れからして
始皇帝の横暴を強調したい意図が
見え隠れするものの、

先述のように、
長城建設に勤しんだのは燕や趙も同じでして、

もう少し言えば、

前300年位の趙の無礼、ではなかった、
武霊王の胡服騎射の話もそうですが、

匈奴の脅威は始皇帝の時代以前からの
各国の頭痛の種。

その意味では、
「孟美女」に類似する労役関係の悲哀話は、
北方の辺境では
枚挙に暇がなかったのかもしれません。

 

1-6 秦の部隊編成

平時の中央・地方の部隊から
戦場の華の野戦軍を選る秦。

ここでは、
その編制単位について触れます。

以下の表を御覧下さい。

注1『図説中国文明史・4』p62、『通典』「兵一・立軍」、
『中国軍事史・第3巻』より作成。
注2 前漢の制度は、「曲」は左右・後等があるものの定数は無し。
「隊」「屯」「官」は兵数等詳細不明、大将軍は5「部」を統率。

 

これは、主に秦とその次の時代の王朝における
部隊編成を比較したものです。

最初に読者の皆様に謝らなければならないのですが、
秦の1000名以上の部隊編成は、
上記の表のようになっていた模様。

10年も前の文献につき、
サイト制作者の不勉強を恥じる次第です。

さらに、「烈」から始まる組織体系は、
司馬穰苴の兵学ではないようです。
要は、サイト制作者の誤読です。

では、いつの時代かと言われれば、

石井仁先生は古代中国一般、
篠田耕一先生は三国志の時代であろう、
という具合で、

秦や前漢には独自の編制単位があることで、
恐らく後漢以降ではあろうが、
正確に特定するのは難しい模様。

また、末端の編成単位については、
魏にも同じような仕組みがあり、

その意味では、秦も魏も、
周の制度の派生であるような印象を受けます。

当ブログでも、本当は、
こういう末端の編成単位同士の
戦闘描写の再現を行いたいのですが、
中々手が回らず恐縮です。

ただ、階級と戦闘について少し言えば、

50人隊長の屯長(5級。士ではなく、キリの大夫!)
以下の指揮官は、
接近戦では、長い得物で敵と渡り合う世界の模様。

このクラスになると、指揮官は剣は帯びておらず、
鎧を付けているのか否かも怪しいそうな。

まして、弓の射ち合いで真っ先に戦死する兵卒など、
なおさらのことです。

 

こういう編制単位の中、注目すべきは、
「部曲」という言葉。

後の世では、特定の社会集団を指すようですが、

稲畑耕一郎先生によれば、

秦代については、
校尉の指揮する「部」が1万、
軍候が指揮する「曲」が数千、という具合に、

兵隊の大動員の代名詞のような
意味合いを持ちます。

ただ、残念ながら、
表中のどの階層以下が平時にも有効かは、
サイト制作者の不勉強で分かりかねます。

肝心な部分だけに、辛いものです。

 

1-7、その後の「部曲」

ところが、この「部曲」という言葉、

時代が下るにつれて、
当初の意味合いが薄れて行くのも
ひとつの事実です。

さて、ここで、
漢代の軍隊について、
時系列的にその流れを整理しますと、
概ね以下のようになります。

建国当初は
大体は秦の制度を継承したとはいえ、

秦の圧政の反省から
ある時期まではかなり緩い政治を行いましたが、

武帝の時代に集権的な政治機構に改編して
大規模な外征を行いました。

また、次の時代には、
王莽の乱と光武帝によるその収拾により、

常設の地方軍を削減する一方で
子飼いの精鋭部隊を辺境守備に廻したことで
軍の構造自体が激変し、

その一方で、
新設の部隊も少なからず編制されます。

さらに、王朝の末期には
刺史以外にも郡太守レベルの小規模な軍閥同士が
無秩序な内戦を始めたことで、

同じ王朝の軍隊とはいえ、
その性格は、
不明な部分も多く要領を得ません。

終わってみれば、

『三国志』に登場する
有象無象の軍閥の軍隊の中規模の編成単位か
豪族の私兵そのものを表す言葉に
落ち着いたような印象を受けます。

 

2 秦軍の兵隊をめぐる環境

2-1 過酷な兵役と労役

以上の組織体系を持つ秦軍は、
他国に比して
どのような性格が顕著であったかと言えば、

一言で言えば、軍事偏重です。

恐らく、国力に対して相当ムリをしており、
組織力とモチベーションにモノを言わせて
躍進した国家です。

こういう原動力こそ、
漫画の題材に適していたのでしょう。

それはともかく、
実態を見てみることにします。

他国の状況が秦以上に不明なことで
末端の兵隊の置かれた環境だけでは
相対的な相違が分からないのですが、

書くだけ書いてみます。

まずは、兵役・軍役ですが、
法的には15~60歳までは兵役義務があります。

当時の平均寿命で言えば、
生涯にわたって
兵隊にとられる可能性があった訳です。

実態としては、最初に赤紙を貰うのは
大体は20代の壮丁のようですが、

戦争が長引くと、兵役の延長は元より、
老人・子供も徴兵されました。

また、成年男性の6、7割は、
先述の労役や国境警備に動員されまして、

銃後にとっては、
このレベルで働き手を取られることを考えると、
家計の痛手には違いありませんが、

兵員確保という意味では、
他国を圧倒した点でもあったそうな。

また、戦地にあっては、
軍服・武器・食糧は官給であっても
その他の下着等の衣類は自弁でして、

特に冬場は、
生死を分ける程に過酷な環境であった模様。

世界発の仕送りを要求したとされる手紙が、
この時代の遺物でもあります。

母親に金品と襦を要求しており、
送られなければ死ぬとか書いてあるそうな。

また、一生に1年は首都の防衛と辺境の防衛、
加えて、毎年1ヶ月は、
郡や県の軍事工事・労務の義務があります。

さらには、犯罪者・奴隷・商人は、
正式な兵士の資格はなく、
軍中の苦役や戦闘中の弾除けに使われました。

射手や城壁をよじ登る役回りだと思います。

 

2-2 命の対価としての手厚い褒賞

では、逆に、
こういう兵役・労役天国の兵営国家に
身を置くことの利点がどこにあるかと言えば、

繁盛したのは兵隊稼業でして。

軍功による褒賞や昇進を明確にし、
槍働きの如何によっては気前よく土地まで
くれてやったことで、

新興の軍功地主が急増したそうな。

まさに、『キングダム』のように、
一山当ててやろうという奴が
命を的に頑張る世界です。

ですが、こういう世界は、
ベクトルがあらぬ方向にも向かう訳でして、

例えば、点数稼ぎのために、

捕虜や占領地の非戦闘員の
体の部位を切り落とすような
惨い仕打ちをする訳です。

また、収奪のみならず、
平時でも戦時と同じ過酷な規律を課し、
支配地域の住民の反発を買いました。

ここまで来ると、
御決まりの富裕層の強欲だけはでなく、

兵営国家の体質が抜け切らなかったことにも
弊害があったということなのでしょう。

 

2-3 軍政の反動と滅亡

戦争の時代に軍隊の羽振りが良いのは
当然かもしれませんが、

ここで不可解なのは、

何故、統一後に平時の体制への切り替えが
出来なかったのか、
という点です。

もっとも、英明な食客の集まる秦につき、

こういう社会の末端の惨状については、

当初から法家の代名詞のような韓非すら
警鐘を鳴らしていたのですが、

オーバー・ワークの始皇帝が早々に崩御し、

韓非を消した丞相の李斯は
後継者問題で宦官を増長させて
政治力を失うという迷走ぶり。

つまり、戦時から平時への体制に
切り替えようにも、

始皇帝本人が、
どういう訳か
現状に無頓着であったばかりでなく、

後代の国家の中枢においても
時宜にかなった政策の
立案・施行能力を失っていた訳です。

確かに、当の始皇帝も何度も
地方を巡察していることで、
占領地の反発は想定していたのでしょうが、

そもそもの病根が国体にあるということには
気付いていなかったということか。

その結果、法規が厳正過ぎる労役天国の体質に
歯止めが掛からず、

圧政の反動で数多の反乱を誘発し、

事もあろうに
戦国時代の合従連衡の逆をやられて
国家自体が一気に潰れます。

その過程で、
身分の低い陳勝と劉邦が同じようなカドで
犯罪者にされてグレたのは、
偶然ではなく有り触れた話であった訳です。

陳勝や呉広の場合は、
ヤケクソになって反乱を企てて成功したので
後世まで名前が残りましたが。

―で、始皇帝にエラい目に遭わされた
劉邦と項羽ですが、

方や、
戦争で楚高官である先祖を殺された項羽は
咸陽で徹底的に略奪して
王家の墓まで暴いて報復し、

次の時代には、
労役人夫護送の手落ちで死刑囚の犯罪者にされて
山籠もりをする羽目になったという、
元祖『水滸伝』な経験のある劉邦は、

統一後に寛政で臨んで
事態の収拾を図ります。

事の善悪はともかく、
双方共、良くも悪くも、
性格と出自が行動に表れていると言いますか。

 

 

3、各国の軍隊の共通点・相違点

3-1 遊説家のハッタリに付き合う

ここでは、秦と他国について、
大体の兵力や軍の性格めいたものを比較します。

まず、兵力ですが、

識者が行う御決まりの作業として、
大法螺吹きの遊説家の話を比較する訳ですが、

当然ながら、ポジション・トークもある訳でして、
聴く方としては、話半分で受け取っています。

で、サイト制作者も、以下で、
それをやることとします。

下の表は、
各国の状況について
御馴染みの蘇秦・張儀、その他1名の法螺
まとめたものです。

 

 

因みに、秦が統一後した時の状況としては、

人口2千万で兵力が200万。
これには、今日で言うところの軍属も含みます。

後の漢の武帝時代以下の人口で
さらにその倍以上の兵力を抱えていたようです。

漢の武帝が経済力にモノを言わせて
外征に明け暮れたことを考えると、
どれだけ危険な状態であったかが想像出来るかと思います。

さて、統一後の秦の兵力が200万、
ということを念頭に置いた上で、
再度、表を御覧下さい。

因みに、張儀・范雎は秦の側、
蘇秦は秦に喧嘩を売る側という構図。

そして、肝心の兵力ですが、

韓と魏を60万、
燕・趙・斉が各々50万、
秦・楚が200万、と、
少な目に見積もっても、

中国一国の兵力の倍である
計410万というアホな数字を算出出来ます。

また、臨淄だけで21万の兵を動員出来る、
の根拠は、蘇秦の妄言ということも、
今回の下調べで分かりました。

今頃気付くサイト制作者は
当然、間が抜けていますが、

遊説家のハッタリも大概でして、
例えば、全兵力が「帯甲」である訳がありません。

鉄を増産に拍車が掛かった漢代以降ですら、
三国時代に魏が蜀の鎧の装備率の高さに
驚いていた位です。

サイト制作者個人の実感としては、

中国全土で200万でも
相当ムリをした数字で、

さらには、大国の斉や楚が、
秦が趙の邯鄲を制圧した後に
何年も持たずに
呆気なく潰れたところを見ると、

秦を除いては、
遊説家共の数字の4割位の兵力が
その実態ではないかと想像します。

それでも、
以前に予想した数字よりはかなり大きいことで
浅学が際立って恥ずかしい限りですが。

 

3-2 守備隊・老兵・軍属

とはいえ、
討論は争点にこそ真実味が隠されているものです。

この場合、
敵国を威圧する際に敵の戦力を言い当てる話には
或る程度の説得力がありますし、

特に、韓や魏といった秦の前線の係争地に
遊説家が入り乱れるのも、
真に迫ったものを感じます。

その意味では、
多くの識者の御意見通り、

絶対的な数字というよりは、
相対的な総兵力の比較や兵力の内訳については
或る程度の真実味があると言えましょう。

例えば、まず歩兵・騎兵の比率ですが、

特に、戦車は貴重な決戦部隊でして。
春秋時代の周制の定数と大差ありません。
この時代でも、千乗持てば超大国です。

また、時代が下って騎兵が登場したことで、
各国共、歩兵の5~10%の数を揃えています。

因みに、当時は騎兵には重装備を施しておらず、
逆に、秦は騎兵に鎧を装備させて優位に立ったそうな。

ただし、装備そのものの質は、
他国の方が質は良かった模様。

次いで、総兵力の内訳ですが、
国内の守備隊が総兵力の3割前後を締め、

正規の兵力とはいえ
軍属めいたものや老兵を多分に含むのは、
各国共通の模様。

「奮撃」という言葉は、
おそらく特定の部隊を意味するのではなく、
「蒼頭」―老兵との対応関係にあるものと
想像します。

さらに言えば。
長平の戦いで捕虜を生き埋めにされた趙が
国内から壮丁が消えるレベルで
ガタガタになったのは、

野戦の機動部隊が
屈強な壮丁で固められ、

さらには、
総兵力の大半を占めていた背景が
あるのでしょう。

一方で、老兵の徴発については、
当然ながら秦に限ったことではなさそうですし、

国内の守備隊が3割も占めることを考えると、
長城を建設して馬の機動力・突進力を削ぎ、
人員を低く抑えるという策も説得力があります。

 

3-3 兵隊の査定アレコレ

この箇所は、先に紹介した
『秦漢時代の都市と国家』よりの要約になります。

まず、ですが、
戦闘技術を尊び、
首級に応じて褒美を出します。
ですが、勝った時には、
これとは別で褒美を出さなかったそうな。

一方では、兵器の技術は高いそうです。

魏は、鎧や弩・矢筒といった重装備と
その行軍に耐えられる兵士の
税金・労役を免除します。

秦の場合は、
資質のある兵士を優遇するような側面は
魏に比して弱い代わりに、

先述のように
戦功の褒賞を気前よく与えます。

一方で、什伍の連座制に代表されるように
刑罰を徹底したことに加え、

他国と異なり、
王族でも無能であれば冷遇したことが
注目に値するそうな。

これは、呉起や楽毅のような
国尉クラスの働きをした食客の末路が
どのようであったかを考えると、
説得力のある話です。

特に呉起などは、
極端な実力制を導入しようとして
楚の王族の反発を買い、

同国での政治生命を断たれました。

また、実力性を標榜した秦においても、
例えば、商鞅は、自分の法律で
政治生命を絶たれていますし、

李斯なんかもロクな死に方をしていないことで、
似たり寄ったりな部分もあるように思いますが、

総じて見れば、
食客の待遇が良かったのでしょう。

また、貨幣や武器の管理についても
他国より集権的です。

貨幣の国家管理は当初から国が握っていましたが、
これは経済的には後進地域だからこそ
可能であった側面もあります。

また、武器の製造・出納については、
郡守以上の許可が必要でした。

他国では、精々、県令以下の決裁事項で、
このレベルでの管理は見られないようです。

もう少し言えば、
武器に限らず、
さまざまな軍事力の発動の場面において、
この種の上意下達が徹底していたのでしょうし、

それを遵守することのインセンティブとして、
信賞必罰が機能していた訳です。

その意味では、
軍の戦力を引き出すことに主眼を置いた体制であったと
言えます。

 

おわりに

漸く、まとめに入ることが出来ます。
読者の皆様、御疲れ様です。
長々と相済みません。

さて、まず、秦の軍隊は、
中央軍と地方軍に分かれ、
中央軍は地方軍より選りすぐった人員で構成されます。

また、中央軍中の首都警備隊は、
有事の際には機動部隊の主力として活動します。

一方、辺境の守備は、
北方の騎射に優れた人種や罪人が
防衛施設の建設や治安活動に当たります。

こういう軍事活動を支えるための
人員確保に当たり、
秦は過酷な兵役や兵役を課します。

他国も似たようなことをやっていますが、
刑罰による強制力がある分、
秦の方が過酷であったのでしょう。

また、兵力やその内訳からすれば、
或る段階までは、恐らくは各国間でそれ程の違いはなく、

秦においても老兵や軍属、守備隊の類は、
匈奴の脅威等、各国と状況が似ていることで、
それ程大差は無かったと思われます。

ただし、集権的な体制に加え、
法の強制力と信賞必罰によって
物動計画の動員力や運動量が大きく、

これが軍隊の戦力に比例したと言えます。

しかしながら、
統一後に平時向けの政策転換に失敗したことで、
これが命取りになりました。

また、大動員の代名詞である「部曲」は、

恐らく、後世の軍関係の当局者は、
秦を参考にしようとしたのでしょうが、

漢代の混乱期を経て
いつの間にか軍閥のショボい編制単位か
有象無象の豪族の私兵そのものを意味する言葉
収まることとなりましたとさ。

 

 

【主要参考文献】
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』
江村治樹『戦国秦漢時代の都市と国家』
赵秀昆、他『中国軍事史』第3巻
石井仁「曹操の護軍について」
『日本文化研究所報告』第26集
金文京『中国の歴史 04』
小林聡「後漢の軍事組織に関する一考察」
張学鋒「曹魏租調制度についての考察」
『史林』第81巻6号
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海 第四版』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
浅野裕一『孫子』
澁谷由里『〈軍〉の中国史』
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』
西嶋定生『秦漢帝国』
司馬遷著、小川環樹・今鷹真・福島吉彦
『史記列伝』1・2巻

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