少々復習、春秋から三国時代までの戦争アレコレ

はじめに

 

今回は、服飾関係の話ではなく、
古代中国の戦争に関して、先に書いた記事について少々復習めいたことをします。

と、言いますのは、

今までこのブログで綴って来た話について
今一度大きい視点で見つめ直すきっかけを
与えて下さった方がいらっしゃいまして、

その方および示唆に大変感謝すると共に、
同時に、私自身も、
原点に立ち返って何かしら考えてみようと思い立った次第です。

 

 

1、春秋時代の戦争

 

さて、対象となるものの本質は同じでも、

それに対する今日の常識と過去の常識が
必ずしも同じであるとは限りません。

さる歴史学者が「歴史とは過去との対話である」との名言を残した通りです。

それは、恐らく、
古代中国の戦争も例外に漏れることはありません。

黄河に文明が興って以来、

春秋時代の終わり頃までの戦争は、

今日の戦争のような政治や経済的な利害対立の延長でやるようなもの、
と言うよりは、

儀式や刑罰の執行、という側面の強いものでした。

したがって、最高指揮官自らが、
太鼓を持参して戦車に乗り込み、最前線で陣頭指揮を行いました。

因みに、「戦車」というのは、
4頭立て3名乗りの馬車のことです。

横に3名が並び、
左が責任者で弓を構え、真ん中が御者、右に大きな得物を構えた兵士が乗ります。

搭乗員は全員貴族階級で、指揮官が搭乗する場合は、
弓ではなく太鼓を持ち込みます。

当初は原則は左旋回でしたが、
時代が下ると役割分担も厳密ではなくなりましたが、
前漢までは平地での戦場の主役でした。

匈奴との戦いで弱点を露呈して
騎兵にその地位を譲るのですが、
後漢・三国時代も史料には登場します。

話を春秋時代の戦争に戻しますが、

面白いことに、身分の高い者程、
危険に身を晒すことが責務であった訳です。

さらには、戦場や日取りを両者で決めたり、
頑なに平地での戦車戦や正面からの一騎打ちめいた対決にこだわる、
という具合の堅苦しいものでした。

戦車の弓合戦なんか
今日から見れば馬鹿正直な位で、

自分が射撃を外したら、
自分が死のうが相手に射させるのだそうな。

 

 

2、原始儒教と戦時道徳

 

こういう儀式めいたルールの前提として、
非戦士階級には武器を持たせないという建前があり、

同時に、老兵・幼兵・負傷兵・撤退する兵の類は一切攻撃しない、
という戦時道徳も存在した訳です。

また、こういう堅苦しい作法を遵守することのメリットとして、

自らが領主や戦士として、
領地の内外で信用を得ることが出来ました。

加えて、有事の際には、
今日で言うところの国際法に則った扱いを受けることが出来まして、

こういうのが和平交渉や軍縮にもつながった訳です。

敵に情けを掛けて敗れることを意味する「宋襄の仁」という諺がありますが、

逆に、もし、あの時代の感覚で、
今日のような合理的な兵学を実践していれば、

自分が部下や領民から信用を失う
というリスクを抱えることになったはずです。

さらに、面白いことに、
こういう春秋時代の戦争の背景にある思想―殊に戦時道徳や人間修養は、

戦争のルールこそ変われど、
そのまま儒教として民衆の道徳観念に横滑りする訳です。

この伝道者こそが、
時の没落軍人・政治家であった孔子こと孔丘。

 

 

3、孫武の型破りな戦争

 

ところが、次の時代には、
春秋時代の頑なな戦争のルールは跡形もなく吹き飛びます。

その掟破りを大々的にやったのが、
孫子こと孫武。

では何故、それを孫武がやったか、と言えば、

まず孫武が仕えた呉という国が中原―華中の平原から程遠く、
その文化圏から外れていたことが挙げられます。

さらには、国の地形自体も当時は未開発で
山岳・河川・森林が多く、
馬の運用が難しかった事情もあります。

実は、この国も戦車の運用を真剣に考えたのですが、
どうも上手くいかなかったようです。

で、こういう、どうも中央のルールの運用が難しい僻地で
孫武のような中央からあぶれた優秀な頭脳が
型破りな仕事をする訳でして、

その研究の成果が、
国家・国民総動員と歩兵の集中運用によるルール無用の機動戦。

それまでの戦争の流儀とは打って変わって、

平地・山岳・森林・河川と、全ての地形が戦場になり
奇襲・伏兵上等の騙し合いに化けます。

そのうえ、工作員まで使って、
敵国中枢の離間工作までやるのですから周到なものです。

その結果、呉は、隣国の強敵であった楚を、瞬く間に蹂躙し、
各国もこぞって呉の真似を始めます。

これが、大体紀元前500年前後の御話。

 

 

4、社会の崩壊と学者の戦争

 

で、孫武の始めた戦争の結果、何が起こったかと言いますと、

国家は貴族の中間搾取を強制的に止めさせ、
領民を片っ端から徴兵し、
国内に城郭を乱立させます。

城郭の乱立は、歩兵の侵攻を喰い止めるためです。

そして、攻める方も、守る方も、
大掛かりな兵器と大量の人員の投入が必要になりました。

こういう戦争は、実は、火砲が登場する明代まで続きますし、

個人的には、
大規模な野戦が脚光を浴びる後漢・三国時代も、
数の上では野戦よりも城の争奪戦が多かったのではないかと予想します。

そして、こういう体力勝負の総力戦の戦争からドロップ・アウトした国は、
早々に大国に吸収される運命にありました。

春秋時代のは200あった国が
戦国の末期には僅かに7国に淘汰されたのですから、
凄まじい潰し合いです。

当然ながら、無数の国家の滅亡は、
その傘下の地域共同体や人間関係をも崩壊に追いやり、
さらには、身分の貴賤を問わず、数多のあぶれ者を生み出しました。

当時、この未曾有の危機に直面した国内の学者という学者は、

自らの立場の危機という事情もあって
戦争の在り方について世紀の大論争を繰り広げまして、
これを諸子百家、あるいは百家争鳴と言います。

兵馬で敵国を蹂躙する孫子は兵家。
それを籠城のノウハウで死守する墨子。

春秋時代の戦時道徳や戦士としての訓練を母胎に
人間修養を説く孔子やその弟子達の教団である、儒家。

さらには、その鬼子のような立場で、
人を法でまとめようとした商鞅・韓非子・李斯等、法家。等々。

で、こういう学術上の果実を最大限に吸収して富国強兵に活用したのが、
後述する秦ではなかろうかと思います。

 

 

5、王権の強化と食客

 

また、こうして弱肉強食による弱小国の淘汰が進行する過程で、
当然、王と貴族は揉めまして、

王様は戦争で勝って他国を併合してその国力・兵力で
国内の貴族に優位性を示すか、

あるいは、
食客と呼ばれる戦争・統治・外交等の即戦力の没落貴族を登用し、
権力・戦力の総合力を高めようとする訳です。

当時は、大国の貴族で食客を何名抱えたかが自慢の種になりましたが、
食客の数・質がそのまま名声や力に直結しました。

そして、こういう兵力につけ、経済力につけ、
数が勝負の戦いに推移していく過程で、

戦争指導の担い手も、

戦場で常に先陣を切る領主から、
今日の参謀本部で無数の情報を管理するタイプのプロの戦争屋に
移行していきます。

こういうのを「食客」として使い捨てにしたのが、
斉や楚等の大国でして、

孫武の他には、

戦国末期で言えば、
趙の李牧や秦の白起のような、
優秀であっても報われない将軍の人々は、

キャリアを見るに、
恐らく、こういう低い身分からの叩き上げの食客か
それに近い立ち位置に見受けます。

ですが、面白いことに、
いかに大人数をまとめる専業のプロとはいえ、

実際に兵隊の信用を得たのは
スマートに貴族然とした人よりも
兵士と寝食を共にした司馬穰苴のような人。

後に諸葛孔明がこういう人を必死に真似ようとしたのは、
中年になるまでマトモな戦争の経験がなかったことも
あろうかと思います。

そして、この300年弱にわたる長期総力戦の戦いの勝者は、秦。

実は秦も呉と同様の後進国でして、
兵器の質など、戦国の末期ですら他国より劣っていました。

ですが、商鞅以下、
長年にわたる雇った食客の命懸けの富国強兵策が結実し、

国内の動員体制は元より、戦争・権謀術数の双方のノウハウ蓄積にも成功し、
中原の王朝の同盟軍を破り、初の中国統一に成功します。

 

 

6、泥臭い漢代の内戦と三国時代への伏線

 

ところが、統一を急いだ秦は、始皇帝の寿命の短さも祟り、
先代の圧政の反動と二代目の失政で呆気なく滅び、

そのドサクサで身を立てた劉邦が興した漢が
後継王朝となります。

この過程で、反秦の旗頭になった楚の項羽と秦の戦い、
さらには、その部下であった劉邦との戦いも確かに熾烈でして、
話自体も非常にドラマ性があるのですが、

恐らくは、
この抗争自体に戦争のルールを変える程の革新性はなかったことで、
ここでは端折ります。

寧ろ、劉邦なんか、
統一後に自ら大軍で匈奴に当たり、
ボロ負けして捕虜になりかけるような有様。

その意味では、その後の呉楚七国の乱も、
王莽関係のゴタゴタも、
三国志の幕開けとなる黄巾の乱も、

大きな視点で見れば、

殺し合いのノウハウよりは、
国家や地域社会の権力構造に根差している部分の方が
戦力の決め手になる部分が大きかったように思います。

その意味では、

戦争というよりもむしろ、
三国時代の社会について何かしら考えるうえでは
参考になる部分が多そうな気もします。

例えば、前漢を滅ぼした王莽の新王朝に対して
開闢早々に赤眉の乱という反乱が起きましたが、

この支持母体というのが
南陽の劉氏(皇族)に連なる豪族でして、
王莽の集権的な政策を嫌っていました。

また、一連の軍乱における勝者・劉秀の
統一事業の戦力の中核を担った部隊は
後漢王朝の開闢後は対匈奴の前線に転属するという具合に、

後の、黄巾の乱や董卓の専横につながるような伏線が
既に見え隠れします。

さらには、兵隊の帰属意識も面白いものでして、
例えば王莽政権の部隊なんか、旗色が悪くなるとすぐ逃げるのですが、

長安の宮殿の防衛戦での戦いはその真逆で
非常に熾烈なものでして、

王莽の側近部隊は宮殿の奥まで退いて徹底抗戦し、
弓を射尽くした後、白兵戦で玉砕するまで戦いました。

王莽本人も乱戦の最中に戦死し、
斬った者も当初はその人と気付かなかったと言います。

赤眉の側にも似たような話はありまして、

自分に合流する勢力にはかなり寛容な劉秀も
さすがに兵乱を起こす政敵は武力で粛清しました。

この辺りの話は、

例えば蜀を滅ぼした鐘会が本国の魏に対して起こした反乱の時にも、
無理やり指揮下に組み込んだ兵隊の支持を得られず
失敗に終わった話を彷彿とさせるものがあります。

 

 

7、軍馬の育成も百年の大計

 

一方、衛青・霍去病等の度重なる外征については、
残念ながら私の勉強不足につき、
後日の機会に。

ただ、馬の話を多少しますと、

漢代の匈奴との戦争は、
高祖のチョンボ以外にも、
王莽が兵站でしくじったり李広利が投降したりしたものの、
概ね戦績は良かったことは注目に値します。

【追記】

北方の情勢については、私が不勉強なところがありまして、
2世紀に入った辺りから、かなり雲行きが怪しくなります。

具体的には、羌族の侵攻に手を焼いたことです。

それ以前も後漢王朝は羌族と
現在の甘粛省辺りで激しく対立していました。

さらに、後漢は捕虜にして長安以西の地域に移住させた者を
酷使し続けまして、

この人々が107年に酒泉で反乱を起こし、
後漢の鎮圧部隊を何度も破り、
そのうえ例年長安以西の地域(三輔や河東辺りまで来ます!)
で略奪を繰り返しました。

この反乱は117年頃には漢の勝利に帰すのですが、
戦火によって涼州・幷州は荒廃し、

さらに悪いことに、
以降、後漢滅亡まで度々このレベルの抗争が
何度となく勃発し、

鎮圧部隊の戦費横領等も祟って
後漢王朝の財政を蝕みます。

その他、北方では鮮卑や烏桓とも揉めており、
南方でも現在のベトナム辺りで反乱も起きましたが、
国境地帯での紛争の枠を出なかったように思います。

―軍馬の話に戻ります。

匈奴から随分多くの優秀な軍馬を分捕ったものの、

大半はこれらを前線で消耗品として扱い、
まして内地でブリーディングなどしなかったことで、
その怠慢のツケは非常に高く付きました。

まず、古来より、馬の生産・飼育自体が
農家にとって非常に大きな負担であったばかりでなく、

三国時代の動乱は、馬どころか人の食糧すら満足に賄えない中で
軍閥だの王朝だのが戦争に明け暮れ、
米や麦は元より、牛馬もひたすら消耗するばかり。

その結果、晋の統一直後の一連の軍乱で
北方の異民族の蹂躙を許すのですが、

この軍事的な主要因が馬の質の差にあったと言われています。

因みに、当然、当時、馬は高級品でして、

今の感覚で言えば、

自動車どころか、
毎月のようにディーラーでのクソ高いオイル交換の必要な
3ナンバーの外車のスポーツ・カーに相当すると言えます。

無論、庶民の乗馬なんか法的に認められていません。

 

 

8、史実でも返り血を浴びる群雄たち

 

以降、いよいよ三国志の話と相成ります。

さて、戦国時代以降の戦いは
強力な権力が大軍を動員する戦争につき、

不運にも戦死するようなことはあっても
最高指揮官が緒戦から陣頭に立つようなことはなかったように見受けます。

劉邦と項羽が対峙した際、
項羽を一騎打ちを申し出、それを劉邦が拒絶するという逸話が、
こういう風潮を示唆しているように思います。

ところが、面白いことに、後漢末からの三国志の時代は、
その幕開けは大抵は郡レベル、大きくても州レベルの地方官同士の抗争でして、

必然的に、少人数の小競り合いが各地で頻発する事態となります。

また、その内情も、
何万人も動員してもマトモに戦争したのは前線の何千人、何百人、
というような怠慢な戦いも少なからずあり、

この辺りは、戦国時代の風潮との逆行はおろか、
同時に、赤眉の乱や劉秀の統一戦争の時代と似た臭いも感じます。

そのような事情を反映してか、

曹操や袁紹、その他の軍閥の長や主だった将軍が
戦場で死に掛けるか実際に戦死する話が、
史書にすら何度も出て来ます。

特に、曹操の宿将など、

当人が国の半分を占領した以降の時代ですら、

高い身分にもかかわらず、
少人数で敵陣に飛び込んだり
陣頭指揮をしたりといった離れ業を
何度となく敢行しており、

夏侯淵や張郃等、
高い身分にもかかわらず、
蛮勇が裏目に出て戦死するケースすらありました。

誤解を恐れずに言えば、戦争の実相は、
意外に武狭小説の斬り合いに結構近かったのではないかとすら思えます。

逆に言えば、
それで勝てたり、あるいは、その種の蛮勇を振わざるを得ないような、
ありふれた兵学マニュアルの教則で割り切ることが出来ない
当時特有の背景を考えることがポイントになりそうに思います。

 

 

 

 

もっとも、次の時代―大体、孔明の北伐以降になると、
政府高官や君主の血縁の二世三世、
あるいは書生上がりのクレーバーな高等指揮官も増えたことで、
こういうのは減るのですが。

一方で、指揮官が小賢しくなったからとはいえ、

司馬氏への反乱に対する呉の介入戦争や
曹爽等が進めた外征、鐘会の蜀侵攻等をみる限り、

必ずしも無謀な戦争や用兵が減ったことを意味するものでは
なさそうな印象も受けます。

まあその、事の良し悪しはともかく、

新王朝の権力基盤が固まり、
文武百官のヒエラルキーが整えられるというのは、
物事が極端に振れることを嫌うことを示唆するのかもしれません。

 

 

9、三国時代までの戦争の概観

~兵書で戦争に勝てるのか

 

以上、中国の古来よりの戦争の有様について、
例によって無駄に長々と綴って来ました。

簡単にまとめれば、
以下のような話になろうかと思います。

戦国時代に大量動員のノウハウが一旦は確立したものの、
その後の内戦では、そうしたノウハウが必ずしも活かされたとは言い切れず、
むしろ、指揮官の蛮勇で戦局を逆転させるケースすら
少なからずありました。

この理由として、個人的には、
大量動員とドクトリンの実践とは別の次元の話で、
数の優位を活かす手立てが未熟であったことを想像しますが、

現段階では、私の浅学なアタマの中では、
それを裏付けるための材料が明らかに不足していますので、
今後の課題にさせて頂きたいと思います。

ただ、参考までに、
後世の話をすれば、

元々八陣図なんてのは実態のあるものではなく、
孔明は古来の奇書より怪しげなものを復元し、
それを妄信した武田信玄は村上や上杉に散々な目に遭わされ、

朝鮮の戦役では、
日本軍は当初は明軍のこの種のマス・ゲームに戸惑ったものの、
結局は陣形もヘッタクレもなく突撃を掛けたそうな。

さらに、それでボロ負けしたという話は聞きません。

そりゃ、儒教官僚共が孫子や六韜だけで戦争に勝てれば、
日本で今程ジンギスカン鍋なんか流行っていなかったと思います。

 

 

おわりに

~錯綜する集団戦と個人戦の幻影

 

さて、冒頭触れた御話の続きとなりますが、

私に貴重な示唆を与えて下さった方は、

三国志演義に出て来る武勇伝と
兵書に書かれているような集団戦の様相とのズレに興味を持ったと
おっしゃっていましたが、

斯く言う私自身も、
三国志の歴史を背景にした群像劇的な魅力に憑りつかれ、
一方で、史実との相違について興味を持った人間のひとりです。

それどころか、
偶然面識を得させて頂いた中国史の先生方の中にも
そのような方が少なからずいらっしゃいます。

そう、恐らくは、誰もが興味を持つ核心的で非常に重要な疑問なのでしょう。

ところが、この疑問について、
数々の研究で判明した部分は少なからずあるものの、

その裏側には、
近代的な戦争の常識や兵書の内容から考えれば在り得ないような
逆説的なことも
現実には少なからず起こっている訳でして、

その意味では、
残念ながら本質的な部分については
(私のような)素人が納得出来るレベルでは明らかにされていないのが
現状に思います。

―単に、私のパッチ・ワーク作業に穴が多いだけなのかもしれませんし、
今後もその穴を埋める作業に忙殺されることは確実ですが。

 

 

【主要参考文献】
宮崎市定『中国史(上)』
飯尾秀幸『中国史のなかの家族』
掘敏一『曹操』
金文京『中国の歴史4』
川勝義雄『魏晋南北朝』
沢田勲『冒頓単于』
湯浅邦弘 編著『概説 中国思想史』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』『武器と防具 中国編』
浅野裕一『孫子』
高木智見『孔子 我、戦えば則ち克つ』
貝塚茂樹伊藤道治『古代中国』
西嶋定生『秦漢帝国』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』各巻
小林聡「後漢の軍事組織に関する一考察」
宮川尚志「漢代の家畜(上)・(下)」
乃至政彦『戦国の陣形』
高島俊男『三国志 きらめく群像』

カテゴリー: 軍制 パーマリンク

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