後漢末期の労働者・庶民(男性)の装束・襦褲

はじめに

 

農民・土木関係の労働者・職人(工員)・兵士、
あるいは盗賊(一部は、実は土豪だったりする)の類、等々、
という具合に、

恐らく、当時の漢民族の男性の大半に該当する話だと思います。

早い話が、戦乱の時代における、
民需・軍需の供給の主要な担い手の方々のカッコウです。

なお、平仮名の読み方は、
私がIMEパッドを参考に、便宜上付けたものでして、
公用ではありませんので念のため。

早速ですが、下の拙いイラストを御覧下さい。

大体、このような装束が、
当時の下層社会の皆様の日常的なものであったようです。

上は粗末な上着・(短)褐(たんかつ)、あるいは、薄手の・襦(じゅ)、
下は股下の短いズボン褲(こ)。

こういう上下の組み合わせを総称して、
「襦褲」(じゅこ)と呼びます。

 

 

1、漢民族の象徴?!緇撮

 

以降は、部位ごとの衣類について、
上から順に説明していきます。

まずは頭―頭髪について。

漢民族は昔から髪を結う習慣がありまして、
これを文明人の誇りとしていました。

例えば、『聖闘士星矢』や『天地を喰らう』なんかの古い漫画で
髪をそのまま伸ばした美形が沢山出て来ますが、

ああいうのは、当時の漢の社会では、

いくらイケメンの中国人でも
北京原人さながらの野蛮人の類になります。

それはともかく、
髪の結い方の筆頭格に、緇撮(しさつ)というのがあります。

頭頂部で髪を結い、布で撒くというもの。
髪の結い方や布の巻き方は色々あるそうな。

ドラマ『Three kingdom』では、
数多の登場人物の結い方が、見事なまでに同じでしたが。

で、こうやって髪を結った後、
その上に色々な被り物をする訳ですが、それは後日紹介します。

 

 

2、何ともボロい標準服・短褐

 

続いて、上半身の衣類の短褐。
その前に、襦褲の「襦」について説明します。

襦とは、要は、襟元で合わせて帯を締める一重の着物のことです。
丈の長さは、長い物は膝まで、短いものは腰まであります。

袖の長さも色々です。
夏は薄手で短いものを着ていました。

右側を奥に、左側を手前に着るのを「右袵」(うじん)と言い、
漢民族の習慣。秦代からの話だそうな。

因みに、その逆は左袵。これは所謂異民族の方々の習慣。

で、この襦と形状は同じで、
粗悪な厚手の生地を繋ぎ合わせて作ったものが「(短)褐」。

材質は、糸(屑糸の類)・麻・毛。

また、秦代には、
庶民は白地以外の上着は禁じられていましたが、
漢代の場合は、被り物の色によって身分が決まっておりました。

詳しくは、被り物の紹介の折に説明したいと思います。

さて、この他、防寒用の上着として、
「裘」(きゅう)と呼ばれる粗悪な毛皮の上着、
あるいは、「衫」(さん)と呼ばれる夏陽の薄手の上着があるのですが、

こういったものも、「襦」共々、後日、図解出来ればと思います。

また、上半身の衣類全般の話として、

襟・裾は双方異なる生地を用いるのが決まりでして
これが無いものは最低の質のものとされました。

なお、帯については、
当時の庶民は、帯というよりは縄のようなものを巻いていたようです。
私の翻訳が不味くなければの話ですが。

 

 

3、男女兼用のズボン・褲

 

続いて、下半身の衣類である褲について。

趙の胡服騎射以降、
中原には漸次、ズボンが普及していきまして、
既に秦代の段階で、ブルーワークと兵卒はズボンが定着していました。

さらには、前漢の終わり頃には、王朝の法令により、
宮中でも男女問わず、漢服と併用して着用していました。

当初は、男性の場合は股下のないもの
(今日では、畜産の労働者等が使うもの等)を
下着として穿いていましたが、

後漢の頃には、男女を問わず、
股下のあるものとなっていました。

因みに、知識人層の装束は、
「袍」(ほう)や「深衣」(しんい)と呼ばれる
上下一体の一重の着物でして、

この下着としてチャップスのようなヒワイなズボンを穿く訳です。

これに因みまして、
女性の方は、「襦裙」(じゅくん)と呼ばれる、
上は襦、下はスカート、という装束が、
身分を問わず標準のスタイルでした。

この下着として、褲を穿くのですが、

現存するものの中には絹織の厚手で艶やかものものありまして、

察するに、今日で言うところの、
レギンスとストッキングの中間のようなもの
だったのかもしれません。

また、アウターとしては、
身分の高い人々は、男性同様、袍や深衣も着ますが、
これらは当然ながら、男女で形状が異なります。

因みに、男のパンツは、
「犢鼻褌」(とくびこん)というフンドシや、
「小褲」(しょうこ)というショート・パンツの類を穿いていたそうな。

この「犢鼻褌」、
三国時代の少し後の北魏時代の挿絵は
日本の時代劇でも御馴染みのフンドシなのですが、

それ以降の時代は、現物となると、
一物を隠すだけの寂しいものとなりまして、

こういうのを見ると、
当時から色々な形状のものがあったのかもしれません。

 

 

4、質・形状共にピンキリの靴―履・舃

 

最後に、靴(鞋)、あるいは靴下(袜)について。

当時の鞋は二種類ありまして、
一重底の鞋を「履」(り)、二重底の鞋を舃(せき)、
と言いました。

数の上では、大半は「履」。
草鞋から絹糸の鞋までピンキリです。

「舃」は、底が木で出来ていたり、
泥除けの為の歯がある―今日で言うところのゲタであったりしまして、
綺麗な絵柄や紋様の類が入っていたりします。

こういうものは、当然ながら、
洛陽や長安の富裕層が履くような高級品です。

で、靴についても、身分上の制約がありまして、

秦代には庶民は絹の鞋は禁止で、
麻等で出来た粗悪な鞋を履き、
そのうえ五人組で同じ紋様のものを使ったそうな。

庶民の場合、大抵は、草鞋か素足が標準です。

さて、漢代に入ると、「履」の一種として、
庶民の味方の「鞮」(てい)と呼ばれる革靴も登場します。

とはいえ、
やはり代表的なものは草鞋のようでして、
当時の言葉で「不借」(ふしゃく)と言います。

三国志演義で劉備が商ったアレで作ったものです。

もっとも、県令の孫で遊学するような財産のある人が
本当にああいう商売をしたのかどうかは分かりかねますが。

 

また、草鞋を除く古代中国の靴全体の話として、

材質を問わず、走るのに向いた堅牢な作りではあるものの、
一方で、口が広く脱げやすいことで、

靴底から紐を通して縛る必要があったそうな。

後、当時から靴下もありまして、
これも材質は生糸から麻までピンキリです。

また、ゲートルの類もあるのですが、

靴と靴下やゲートルとの類との着用方法や形状が
文献からはイマイチ判然としませんが、

何とか自分なりに再現を試みようと思います。

 

 

おわりに

 

以上、三国志に出て来るブルーワーカーの装束について、
頭から足まで一通り説明しましたが、

モノの本によれば、
武装を外した兵隊も、履物を除いては、大体こういうものだそうな。

また、これはあくまで基本の形でして、

当然ながら、
季節の変化や、農作業や戦争を含めた遠出等の用途によって、
衣類や履物の着用方法が変わって来る訳です。

次回からは、

こういう話も含めて、
部位ごとの装束や、防具、女性・富裕層の衣類等について
出来る限り図解していきたいと思います。

 

 

【主要参考文献】

林巳奈夫『中国古代の生活史』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
朱和平『中国服飾史稿』
馬大勇『霞衣蝉帯 中国女子的古装衣裙』
周錫保『中國古代服飾史』

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三国時代の服飾の概観

はじめに

 

三国時代の編制単位もさりながら、

石井仁先生等の気鋭の先生方の素晴らしい論文を
PDFや最寄りの国立大学の書庫に眠る紀要等で漁る(?!)うちに、

都督や護軍、伍士のような軍隊関係は元より、
黄巾やら山賊の話やら馬や家畜の話やらと、
他にも色々とやりたいことが増えて来たのですが、

そうしたものを図解して
或る程度の臨場感なり説得力なりを持たせて説明するとなると、

その種のイラストを描こうとする際、

私にとって、必ず突き当たるのが、
当時の武装・作業着・普段着・礼装、といった服飾の問題です。

ところが、この時代、
モノの本によれば、
軍装どころか、服飾関係という点でも、
中国史上における断絶期・過渡期だったようでして、

チャンバラで言うところの江戸時代の小袖というように、

この時代の定番はコレだ、というものを特定するのが、
結構難しかったりします。

そこで、今回は、
以降、何回かに分けて行うであろう後漢から三国時代の服飾について、
そのアウトラインめいたものについて綴ることとします。

 

 

1、三国時代における戦争と服飾の関係

 

さて、まず、ブログのテーマである戦争と服飾の関係について。

イタリア・モデルの洒落たナチの軍服のように、
軍服も(プロパガンダとしての)ファッションだ、

というこだわりでもなければ
一見関係なさそうなものですが、

少し細かくその内情を調べると、
関連性も少なからず見え隠れします。

例えば、三国時代の軍隊は鎧の装備率が低かったようです。

その理由として、
戦乱の継続による深刻なモノ不足がまず挙げられます。

加えて、南方の場合は、
山林・河川が多く、
密集隊形を組んで馬や弓で戦争するという風土ではありません。

その結果、鎧を装着していたのは概ね乗馬する指揮官クラスであった模様。

となれば、労働者階級の日常の普段着や作業衣の類が
そのまま軍服と成り得る訳で、
ここに軍装と服飾の多大な接点を見出すことが出来ます。

また、服飾史という観点から見ても、
例えば三国志の時代、というよりは魏晋南北朝時代という枠組みで見た場合、

特に三国鼎立の辺りからは、
北方の異民族の服飾の流入が非常に盛んになったことで、

軍装との関連で言えば、例えば、
異民族の鎧の形がアウターのデザインに流用されるという現象が見られます。

例えば、兵装の変遷等、詳しくは、
稿を改めたいと思います。

 

 

2、服飾史上の断絶、後漢末と三国時代

 

これに関連して、
モノの本によれば、中国の服飾史上の断絶は、
事もあろうに三国志のド真ん中にも潜んでやがりまして、

愚見として、
考証家の仕事を煩雑にしているのは、
恐らくこの点だと推測します。

さて、中原が所謂異民族の服飾を取り入れる、というのは、
何もここ100年位のチャイナドレスに限った話ではありません。

恐らくは趙の胡服騎射の時代を皮切りに、
遥か昔から異民族の服飾が中原に流入していました。

少なくとも秦代には「異民族」の服飾を利用する形で
兵士・労働者はズボンを履いており、

前漢の終わり頃には、王朝の号令を契機に、
宮廷の女性も下着としてズボンを履いていました。

下着と言っても、今の感覚で言えば、恐らく、
レギンスやスパッツとストッキングの中間位の感覚だと思います。

その理由のひとつが笑えまして、
要は乱交を戒めるためだそうな。

確かに、外戚関係のトラブルが多かった時代の話です。

因みに、男性はと言えば、
股間にフンドシを締めていました。

定番の越中フンドシ型以外にも、どうも形状は色々あるようですが。

ですが、こうした「異民族」の服飾の中原への流入が、

単に機能的な利点を取り入れる、というレベルではなく、
文化的な交流というレベルで大々的に起きたのが、
三国鼎立の時代以降の御話。

面白いことに、鎧の装備率が低かった南方(つまり孫呉)でも、
北方の服飾は結構流行ったそうな。

よって、「三国志」の時代の軍装・服飾、と、
一口に言っても、

黄色い頭巾が流行った時代と孔明軍師の頭巾が流行った時代とでは、
恐らく、服飾の様相が少し異なるのではなかろうかと思います。

帽子や靴等、色々アイテムが増えまして、
こういうのを後日、
(自作のヘッタクソな)イラスト入りで紹介出来ればと思います。

また、兵装という意味でも、

今日で言うところの
兵器の研究開発は有事の1年は平時の10年に匹敵する、という公式は、
その具体的なスパンの長さはともかく、
後漢・三国時代にも当てはまるようです。

戦争の基本は戦国時代には確立したとはいえ、
個々の兵器のアップ・グレードは着実に進んでいます。

流行の得物の形はこの時代と戦国時代とは少し異なっていますし、
鎧についても、後漢に比して、
三国鼎立以降は、北方の「異民族」の影響を強く受けています。

 

 

3、前の時代との連続性

 

逆に言えば、殷周の時代からあるような衣類も当然あり、
三国志の時代との連続性もある訳でして、

その中には、輸入モノのアイテム以外の袷だの襦だのといった
後の時代にも続くようなものもあります。

それどころか、
身分によって着用出来る帽子や服装の色が決まっており、

隣保制度の五人組で同じ柄の入った鞋を履いたり、
庶民が冠(種類で職務を表す)を被ったら刑罰を喰らったりという具合に、
王朝らしいと言えば王朝らしい身分制度もありまして、

それを逆手に取ったのが黄巾の方々の模様。

で、こういうものは、
漢代に入ってからの変化と言えば、

儒家が天下を取ったことで、
官服や礼装の類が袖が大きく仰々しいスタイルになったのが特徴ですが、
これも後漢になり少し簡素になりました。

もっとも、こういう漢服の基礎をなすものでも、
その形は一様ではなく、
時代ごとに変遷するものもあります。

 

おわりに

 

最後に、以上の話を簡単に整理します。

まず、三国志の時代の服飾的な背景として、

漢服としてのスタイルはこの時代にはかなり定まって来てはいるものの、

その一方で、
大体秦代辺りからの延長としての後漢末までの服飾と、
三国鼎立以降の魏晋時代とに服飾史的な断絶があり、

最大の要因としては、
「異民族」の服飾の大々的な流入が挙げられます。
これは、軍装・平時の服飾双方に多大な影響を与えています。

加えて、鎧の装備率の低さが、
服飾と軍装の接点を大きくしています。

そして、上記のような話を、
以降の回で、
もう少し詳しく綴ろうと思い立った次第です。

―で、余談ながら、
こういうものを描く身としては、

タダでさえ私に画才がないうえに、

この時代の遺物の類は
後世の写実的な遺物に比して、

これまた描き手泣かせのヘッタクソな人形や絵の類で
そのうえ不明な部分も多いことで、

説明に際して、
例えば、文献の記述内容との齟齬を来さない範囲で、
(考証の怪しそうな)ドラマや映画等の映像も
参考にしようと思います。

誤りがあれば、
出来れば気軽に御指摘頂ければ幸いです。

なお、以下の図は、
あちらの服飾関係の文献を目にした際、頻出した単語につき、
宜しければ御活用頂ければ幸いです。

関連する文献で頻出する初歩的な単語と、その意味を図解しました。

 

 

【主要参考文献】

林巳奈夫『中国古代の生活史』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
朱和平『中国服飾史稿』
馬大勇『霞衣蝉帯 中国女子的古装衣裙』
『戦略戦術兵器事典1』

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和訳、『歩戦令』

はじめに

 

三国時代の部隊編成の実態を探るうえで重要な史料である、曹操著『歩戦令』。

折角ですので、その原文と思われる文章、
字引(古語未対応)に記された単語、

さらには、(かなり哎呀な)和訳も掲載します。

 

【原文】

步戰令曰:嚴鼓一通,步騎悉裝;再通,騎上馬,步結屯;
三通,以次出之,隨幡住者,結屯住幡後。
聞急鼓音,整陣,斥候者視地形廣狹,從四角面立表,制戰陣之宜。
諸部曲者,各自安部。陣兵疏數,兵曹舉白不如令者,斬。
兵若欲作陣對敵,營先白表,乃引兵就表而陣。
臨陣皆無讙譁,明聽鼓音,旗幡麾前則前,麾後則後,麾左則左,麾右則右。
不聞令而擅前後左右者,斬。
伍中有不進者,伍長殺之;伍長有不進者,什長殺之;什長有不進者,都伯殺之。
督戰部曲將,拔刃在後察,違令不進者,斬之。
一部受敵,餘部不進救者,斬。
臨戰,兵弩不可離陣,離陣,伍長、什長不舉發與同罪。
無將軍令,有妄行陣閒者,斬。
臨戰陣騎皆當在軍兩頭,前陷陣騎次之,遊騎在後。違令,髡鞭二百。
兵進退入陣閒者,斬。
若步騎與賊對陣,臨時見地勢便,欲使騎獨進討賊者,
聞三鼓音,騎特從兩頭進戰,視麾所指;聞三金音,還。
此但謂獨進戰時也。其步騎大戰,進退自如法。吏士向陣騎馳馬者,斬。
吏士有妄呼大聲者,斬。
追賊,不得獨在前在後。
犯令者罰金四兩。
士將戰,皆不得取牛馬衣物。
犯令者斬。
進戰,士各隨其號,不隨號者,雖有功不賞。
進戰,後兵出前,前兵在後,雖有功不賞。
臨陣,牙門將、騎督明受都令。
諸部曲都督將吏士各戰時,校督部曲督住陣後,察凡違令畏懦者。
有急,聞雷鼓音絕後,六音嚴畢,白辨便出。
卒逃歸,斬之。
一日家人弗捕執,及不言於吏,盡與同罪。

『维基文库 – 自由的圖書館』より転載
ttps://zh.wikisource.org/wiki/%E9%80%9A%E5%85%B8/%E5%8D%B7149

 

【単語とその和訳】

読者の皆様の理解を少しでも支援すべく、

以下に、古語未対応ながら、
字引で引いた単語も掲載しておきます。

なお、ここで注意すべき点は、
文字によっては、画数の少ない簡単な字であっても、
日本語とは意味の異なる使い方をするものがあることです。

 

嚴:激しい
通:太鼓を打つ回数
悉:全て
結:集まる
屯:集める、(駐屯する)村
以次:順序によって
幡(番):回数、順番も含むか
住:止める、止まる、休める、動きを零にする
疏:疎らにする、数を飛ばす、慎重でない
曹:輩
舉:全て、皆
白:明らかな、明白な
營:軍の駐屯する場所
表:表す、示す、手本・模範
安:安心させる、安定させる
部:部隊
引:導く、案内する
就:従事する、取り掛かる
讙譁:騒々しい
麾:差招く、軍隊を指揮する旗
擅:ほしいままにする
督戰:督戦する
舉發:摘発する、暴露する
閒:間
陷陣:敵陣を落とす
髡:髪を剃る刑罰
特:専ら
獨:ただ
不得:してはいけない
明:公開する、明らかである
受:受ける、耐える、適合する
都:全て、~にまで、全く~
令:命令、させる
察:事細かに見る、研究する
在:~している、ある地点に存在する
凡:平凡な、普通の、全ての
畏:恐れる、尊敬する
懦:臆病
畢:終える、完結する、すっかり
辨:弁明する、是非を明らかにする、見分ける、辨白:申し開きをする
便:例え~でも、すぐに、
出:離れる、出る、外れる
卒:兵
日:一日、期日、日数、日にち
弗:費やす、使う、減る
盡:全て、悉く
執:捕える
及:及び、並びに
家人:家族、使用人

 

 

【原文のニポン語訳】

激しい太鼓が一度鳴ったら、全ての歩兵・騎兵は装備を整え、
二度目の太鼓で騎兵は乗馬し、歩兵は部署に集まる。
三度目の太鼓で、順番通りに出撃し、
次の一隊は止まり、その次の一隊はその後方に集結する。
早い音の太鼓が聞えたら、陣を整える。
偵察部隊は地形の広狭を確認する。教本に従って、正しい陣立てを行う。
各部曲の者は、各々の部下に平常心を保たせる。
数を飛ばしたり命令を無視するのが明白な兵士は、斬る。
兵が敵に対して陣立てを望む場合、
当該の地に何も存在しないことを示し、兵を率いて陣立てに取り掛かる。
陣に臨んでは、雑談私語を慎み、太鼓の音を明瞭に聴き取れるようにし、
旗番の上官による前後左右の進退の指示に従う。
命令を聴かずに勝手に進退する者は、斬る。
伍の中で進まぬ者がいれば、伍長がこれを殺し、
伍長の中で進まぬ者がいれば、什長がこれを殺し、
什長の中で進まぬ者がいれば、都伯がこれを殺す。
督戦する部曲将が現状を注視した後に抜刀した際、
命令を犯して進まぬ者は、これを斬る。
ひとつの部が交戦の折、手が開いている部がこれを救わない場合は、斬る。
戦に臨んで弩を持つ兵士が陣を離れてはならず、
違反の場合は、伍長、什長が摘発しなければ、これも同罪とする。
将の軍令なくみだりに動く者は、斬る。
二部隊の騎兵が並列で臨戦態勢を取る場合、
一隊が敵陣を落とした後、残る一隊はその後に続く。
違反者は髡刑(髪を剃る刑罰)と鞭打200回に処す。
兵が進退中に(騎兵の)陣に入る者は、斬る。
歩兵と騎兵が敵と対陣した際、騎兵単独で敵を攻撃する場合は、
三つの太鼓の音を聞いた後、ひたすら陣頭で戦う二隊の騎兵の後に続き、
原隊の旗の指示を確認する。三つの鐘の音を聞いて帰陣する。
ただし、単独での進撃の時に限る。
歩兵騎兵の大掛かりな戦の場合は、進退は軍法による。
陣に向かって馬を走らせる吏・士は斬る。
妄りに大声を上げる吏士は斬る。
敵を追撃する時、ひとりで(隊列の)前後にいてはならない。
違反者は罰金4両に処す。
士・将が戦地にあっては、牛馬衣類を略奪してはならない。
違反するものは斬る。
番号順に従わず前進して戦った者は、功があっても恩賞は取らせない。
隊が前進する時、後ろの兵が前の兵の前に出るのも、
功があるといえども、恩賞は取らせない。
陣に臨んでは、牙門将・騎督は受けた命令を公開する。
各部曲の都督・将・吏・士は交戦中、校督・部曲督は陣に留まった後、
命令違反の者や臆病な者を全て、注意深く観察する。
急に雷鳴のような太鼓の音が鳴り、さらに六つの激しい音が鳴り終われば、
例え戦場から離れていても申し開きをする。
逃げ帰る兵がいれば、これを斬る。
その兵士が帰還後、家族・使用人を使って当人を捕えても、
その日のうちに役人に申告しない場合は、皆同罪とする。

 

 

訳文について

 

まずは、字引を引きまくって
1日掛かりで仕上げたのですが、

あまりに誤訳が甚だしいと思われる文章が少なからずあり、
そうしたものは篠田耕一先生の訳文に差し替えました。

実は、篠田先生の訳文をそのまま掲載した方が
遥かに正確で(語句も綺麗で)分かり易い良いのですが、

御本の構造上、
軍隊の構造の説明に重点が置かれていることで
訳文が分散しており、

私のヤバい邦訳を晒すことと相成りました。

無論、辞典の著者である香坂先生に非はなく、
古語の辞典を座右に置かない私の怠慢が原因です。

 

1、『歩戦令』と戦国時代の戦争

 

歩戦令の前提となる図として、
『三国志軍事ガイド』から引用します。


『三国志軍事ガイド』p124

この辺りの箇所数ページを丸ごと抜いた方が良いのですが、
如何せん長いので避けます。

これに因みまして、篠田先生は、

『武器と防具 中国編』において、
中国の前近代の戦争の大体の形は戦国時代には固まっており、
それは銃砲が登場する明代まで変わらなかったと記しておられます。

また、私の個人的な感想としましても、

例えば三国志の正史を読む分には、

特に城攻めの様子が、
攻防双方共、動きが大掛かりなうえに、籠る側の描写も生々しいことで、

指しあたって、三国時代については、
戦国時代の戦争とあまり変わらないという印象を受けます。

兵書についても、
特に宋代までは目立った発展がなかったそうな。

もっとも、こういう頭デッカチな怠慢さが原因につき、

古今無双の豪傑とやらが無数登場した割には
異民族との戦績が亡国レベルの数字なのでしょうが。

 

 

2、後漢の部隊編成の俯瞰

 

続いて、什伍・都伯、部曲、といった部署・職階の俯瞰図については、
同書から以下の図を引用します。
再版を希望するという意味も込めて。


『三国志軍事ガイド』p44

 

なお、この図については、
渡邊義浩先生の『知識ゼロからのCGで読む三国志の戦い』にも
掲載されています。

さて、前回の記事で、
陽人の戦いの職階が「騎馬都督」と書いてしまった呂布。
私の誤りです。

正史に胡軫の部隊に都督や都尉が数多いたと書かれていたことで、
「騎馬都督」と書いたのですが、裏目に出ました。

騎兵隊自体が歩兵と独立編成で、
その指揮官が「騎督」の模様。

で、こういうのを見ると、

上の図の部隊編成の全体像からして、
どうも曹操・董卓の軍に共通してそうなことが垣間見えます。

やはり、数多の先生方が指摘されている通り、

『歩戦令』に出て来る戦闘単位は、
曹操が既存の兵書を参考に経験則との兼ね合いで編み出したものではなく、

後漢の軍の正規軍の編成単位そのものを意味するのではなかろうか、
と、思った次第。

いえ、今頃気付いたのか、オメデタイ、という話か。

―で、自らが経験したヤバ気な違反行為を羅列して、
斬れだの鞭打ちだの、法は貴きには手心を加える、だのが、
当人の独自性と。

これに因みまして、以前、私が、

兵を集めた武将が
銘々の兵法で訓練して
各流派の兵学に基づく編制単位を用いていると
推測(勘違い)した根拠として、

後世の史書が漢代の部隊編成について書かなかったこと以外には、

そのうえ、曹操本人が『孫子』に脚注を付けた際、
自分が生きた時代に活かす筈の内容にもかかわらず
わざわざ司馬穰苴の部隊編成を引用していることで、

末端の兵卒の管理、
―什伍に関しては民政制度という基盤があるにせよ、

特に中規模の部隊編成については、
国定の制度自体が無かったのかと思ったのですが、

そこまでザルな話ではなかったのでしょう。

―やはり素人の浅知恵でした。

後、気になるのは、

『魏書』の「曹仁伝」で、
曹操の親衛隊の虎彪騎の隊員を百人「督」からも選抜する、
という話が出て来る点。

この百人「督」なる職階、
仮に、これが曲の督であるとすれば、

その下の職階である都伯は、
100名未満(区分方法から考えて恐らく50名)
ということになります。

こういうことを考えると、ゲーム・メーカーの方や、
小説や漫画でも書こうとする人は悩ましいものだと想像します。

一方で、豪族の私兵や盗賊の類、呉の軍隊もあるいは、
既存の兵書の取捨選択≒独学の線も考えられると思います。

この辺り、特に、三国の内情については、

編成の実例や動員兵力、時代等を睨みながら、
もう少し丁寧に整理しようと思います。

 

 

 

おわりに

 

さて、今回も、何か結論めいたことはありません。

『三国志ガイド』のような本にもう少し早く出会っていれば、
恐らくこういうサイトを立ち上げることはしなかったのですが、

その一方で、
ヘンな漢字のものも含めて色々な文献を物色するうちに、

恐らく日本の既存の文献では
あまり明らかにされていなさそうな材料も
あるにはあったことで、

そうしたものを少しでも開陳出来ればと思う次第。

 

後、余談ながら、最近こそ大分状況が変わりつつあるものの、

こういう軍隊関係や日常生活等の考証学的な話は、

ハイレベルな研究者の方々も
本当はそっちの方に興味があって、それでも、
やりたくても手が回らない事情が垣間見えると言いますか。

無論、古代中国史に限った話ではありません。

詳しくは書きませんが、
分野は異なるものの、
私もそういう事情で、色々と回り道をしました。

そして、このサイトのような素人の余技であればともかく、
そういうものに造詣があるとないとでは、
研究に対する理解もかなり変わって来るのでエラいことです。

調べ物については、

たとえどのような雑用知識であっても
あるに越したことはありません。

 

 

【主要参考文献】

篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
渡邊義浩『知識ゼロからのCGで読む三国志の戦い』
杜佑『通典』
香坂順一郎『簡約 現代中国語辞典』

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群雄の一抹の正義感・使命感とその背景

はじめに~戦争を正当化する理屈

 

三国時代の軍隊について調べる過程で溜まった知識と言いますか、
その副産物としての妄想と言いますか、

今回は、その種の三国志の人物関係のヨタ話と相成ります。

ブログのテーマが戦争とはいえ、

史家の興味対象が軍事考証の話からかけ離れていることで、
どうしても群像劇の話が必然的に多くなるのを嘆く次第。

まして、折角読み始めた正史につき、
出来る限り多くの記事のネタを引き出してやろうという
筆者の卑しさも、
残念ながら隠し切れなくなって来ました。

さて、日本も中国も、前近代の軍記物は、
大義名分を仰々しく発します。

これは、古来の戦争儀式や法令執行の側面があったことと、
王朝の権力発動のロジック、
さらには、人の本能としての集団殺戮を行うことの後ろめたさ等、
色々理由がありそうに思います。

で、そうしたものに対して居直って戦地に臨んだものの、
想定外のことが色々と起きることで、

登場人物が何度となく死に掛けるのも、
読み物としては醍醐味なのでしょう。

もっとも、地獄のニューギニアから生還した故・水木しげる先生は、
こういうのを達観して
「死ぬような、ではなくて、死ぬんです。」と、
おっしゃっていましたが。

ここでは、三国時代のその種の戦場での命の遣り取りの場面をマクラに、

そもそも一廉(ひとかど)の人物を
そういうグロい「大冒険」に駆り立てる魔物の正体
多少なりとも解明することを試みる次第です。

ただ、残念ながら、
筆者の筆力不足で取り留めない長話となってしまいまして、
今回に限っては、最後に結論を導く作業は省きます。

読者の皆様におかれましては、
個々の締まりのない話から、

せめて、多少なりとも
物学びの示唆めいたものを得ることとなれば、

書き手としましては望外の幸せで御座います。

 

 

1、祖茂は生きていた

 

前回の話の中で、
陽人の戦いにおける孫堅の影武者の話をしましたが、
まずは、その続きと言いますか。

正史に曰く、

陽人の戦いで、孫堅配下の祖茂は、
主君の赤い帽子を拝借して影武者になりすましたものの、
柱か枝に帽子を被せて艤装し、巧く逃げおせた模様。

人の死をサラッと書く性格の書物につき、
恐らくこういう話は本当なのでしょう。

 

余談ながら、中学生の時に読んだ斉藤洋先生
『呉書 三国志〈1 将の巻〉孫堅伝「孫堅伝」』のこの辺りの件が
良い味を出しておりました。

また、モンキー・パンチ先生の筆の味の効いた
ルパンとは一味違う格好良いイラスト共々、
作品自体も好きだったのですが、

なんだか歴史書の記述で拍子抜けの心地。

もっとも、恥じる行いでもなく、
機知を働かせて無事に生還したことで、

命の遣り取り場では、めでたい部類の話には違いないのですが。

ただ、読み物の感想としては、
少々考えたい材料を見出しまして。

 

 

2、「正義」の戦隊同士の抗争劇の幕開け

 

と、言いますのは、

小説といえども、
作家としての斉藤先生の慧眼と言いますか、

祖茂をして、
反董卓の諸侯は所詮は利権に飢えた烏合の衆と説き
派兵の中止を具申させている件に
引き込まれました。

それまで、盗賊の類の討伐しか経験のなかった
皇室への忠誠や世直しへの奉仕にやぶさかではない
純粋な孫堅を狂言回しとして、

読者に動乱の時代の本質を垣間見させる仕掛け
巧妙だと思った次第です。

 

この辺りは、正史を読む分にも、

挙兵を勢力拡張の建前にしようとする
袁紹や公孫瓚の動きを見れば
成程なあと思いますし、

一方で、小説の流れとしては、

それを予言しながらも主君の影武者として戦死し、
孫堅が忠臣を失った無念さと自らの愚かさを悔いるところに
この小説としての面白味があったように思います。

さらには、今から思えば、
目立ったヒロインが出て来なかったにもかかわらず、

純粋な脳筋の孫堅を軸に、

バランス型の知恵者の程普、勇敢な肉体派の黄蓋、寡黙な職人の韓当
そして確かな目を持ち武芸にも秀でる側近タイプの祖茂と、

主役の陣営の登場人物ごとの役割分担が巧く出来ており、
子供の読み物としては
よく出来ていたなあと思う次第。

こういう小説の影響か、
当時、光栄の『三國志』シリーズで孫堅で遊ぶのが楽しかったことも、
序に思い出しました。

90年代前半の話と記憶します。

 

 

3、解剖、群雄の皆様の正義感
3-1、挙兵と大義名分

 

無論、こういう時代に私財を投げ打ったり、
あるいは官僚組織の一部である
地方官という職権を乱用して挙兵すること自体、

王朝の命運が尽きかけていること
この時代の血で血を洗う権力闘争
凄惨さや泥臭といった本質めいたもの
嫌という程に骨身に染みて理解出来ている証拠です。

それでも危険を冒すところに
一抹の正義感がないとは言えないと思います。

まして、儒教が国教化して
忠だの孝だのの文言が知識人層の存立基盤として
罷り通っていることで、

こういう思想に沿う形でのそれなりの大義名分がなければ
根拠地での政治力や経済力を有する
資産家や名士の支持を得られない、

つまりは、略奪と戦争、あるいは寄付で食い繋ぐ、
一頃の呂布や劉備の部隊のような
「兵匪一体」の傭兵団の域を脱することが出来ない訳です。

 

3-2、土地と地元名士(富裕知識人層)が一体の
     地方行政

こういう理屈を説明する例として、
公孫瓚と陳宮を比較してみます。

例えば公孫瓚は、孝廉上がりにもかかわらず、
地方政治に明るい知識人層を冷遇してしくじったクチですが、

敢えてそれを行ったことで、
頭デッカチな連中に対して
余程含むところがあったのかもしれません。

例えば、辺境の武力本位の世界で育った軍人という事情が
考えられます。

反対に、呂布や陳宮が新天地の徐州で
命運尽きても他の州に逃げずに玉砕覚悟の籠城を行ったのは、

特に陳宮の場合
権力闘争に敗れて地元の兗州を追い出されたことで
流浪の傭兵団に転落することの悲哀が嫌という程分かっており、

地方の利害を調整して天下国家を論じる
地方官・名士としての矜持を捨て切れなかった証左に見受けます。

 

 

3-3、滅私と打算の曖昧な境界線

 

面白いのは、
こういう泥臭い利権絡みの話と並行して、
損得勘定抜きで死に掛ける人が出るという当時の状況です。

例えば、自分に従わない地方官を暴力で散々恐喝した、
泣く子も黙るタカ派軍閥の孫堅
墟と化した洛陽の惨状に落涙したのも、

(脚注とはいえ、『呉書』にこんなことが書いてあるので驚きです。
「旧京空虚、数百里中无烟火。坚前入城、惆怅流涕」。)

やさぐれた失業者の曹操
酒宴外交に明け暮れ尻込む諸侯を他所に優勢な徐栄に果敢に挑んだり、

強大な盗賊団を相手に
盟友が戦死するレベルの死闘を繰り広げたのも、

強ち、自らの名誉栄達のためだけとは言い切れず、
社会の一員としての使命感と決して無縁ではなかったと思います。

特に曹操の場合は、
ある時期までは漢に滅私奉公する態度を変えなかったことで、
結果として、見る目のある知識人層の支持を得ることに繋がりました。

その意味では、
(知識人の)世論の支持する建前を愚直に守ることの意義
極めて大きかったと言う他はありません。

 

 

4、また増えた、粗悪な曹操人物評
4-1、人物鑑定は
政争のワンダー・ランドへのパスポート

 

今日、少なからぬ文献が指摘していることですが、

後漢末期に許劭のやったような人物評
易者による占いのような形のないものではなく、
当時の学術サロン≒名士社会へのパスポートという位置付けでした。

さらに、このサロンに入ることによって、
中央の官界や地方行政との人脈が出来、その筋からの情報も入ることで、
軍閥の権力闘争には必須の資格であった訳です。

無論、門外漢の癖にエラそうなことを書く私も、
つい10年位前までは占い程度の認識でした。

これに因みまして、

恐らく90年代辺りからの三国志関係の需要拡大により
中国史の常識めいた知識が安価な文献で分かるようになり、

昨今の出版事情には大いに感謝せねばならないと思う次第。

と、出版各社や、研究者の皆様に謝意を示したところで、
私もやろうかしら、人物評。

現在のような、ネットの普及による国民総ライター時代、

2000年も前の人間に対するゴミのような人物鑑定が
電脳世界にひとつ位増えたところで、

名誉棄損で裁判を起こす人は、恐らくいる訳でもなく、
まして社会の大きな害悪になるものでもなかろうと信じます。

 

 

4-2、クソな人格と模範的な人心掌握術

 

いくら曹操を褒める歴史書と言えども、

文章の行間から、
死線の怖さやそれを掻い潜ってでも
何かを成し遂げようとする執念が滲み出るとでも言いますか、

私のように別段曹操に愛着が無くとも、
支持する人間の心情が分からなくもありません。

当人の人格自体も、劉備同様、
放蕩癖が老年になってもどうも完全には治らず、
その場の気分やくだらない理由で側近を殺したりすることで、

どちらかと言えばクズ寄りに見受けますが、

その一方で、
儒教の権威に喧嘩を売るレベルの図抜けた教養は言うに及ばず、

この時代には珍しい能力重視とはいえ、

(自分がクズだと自覚しているのか)
人格者を素直に褒めて厚遇する度量もしっかりと持ち合わせ、
信賞必罰を適性に行う能力があります。

 

 

4-3、「寛治(ばか)」と「猛政(はさみ)」は使いよう

 

なお、これに因みまして、
このブログでも引用の多い渡邊義浩先生によれば、

この時代の考え方の潮流としては大別して
「寛治」と「猛政」のふたつがあるそうな。

要は、規則を緩めるか締めるかの違いです。

後漢末期の風潮は全体的に緩かった、つまり、「寛治」が主流。
例えば、役人の贈賄の横行等につながります。

そこで、曹操や諸葛亮のように、
敢えてそれに逆らって「猛政」で臨んだことが成功例とされました。
対して、失敗例が家臣の統制が緩過ぎて決断力を欠いた袁紹とのこと。

ただ、浅学ながら愚見を開陳すれば、大いに説得力を感じる反面、
ある面では、こういうものは同じ時代でも使いようだとも思います。

 

 

4-4、「寛治」の馴染みあるダメ社会

 

例えば、如何に聖人君子への道を説いた儒教を齧った知識人といえども、

人の弱味に付け込む策謀を施すような謀臣
「寛治」の生臭さに通じていなければ仕事にならないでしょうし、

劉邦の謀臣の陳平なんか、
このタイプでなければ行動に説明が付かないと思います。

漢の高祖様も、
恐らく異民族の包囲で戦死していたことでしょう。

また、地方行政のレベルでは、
郊外に巣食う山賊団の分断工作なんか、
恐らくはこういうノウハウがモノを言う訳で。

孫堅なんかも、
恐らく、こういう泥臭い修羅場で叩き上げた人です。

 

 

4-5、中国社会と文字に対する感覚

 

もう少し言えば、
中国の下層社会
当時も今も上澄みと違う意味での泥臭さがあり、

自称4000年の歴史なんか、

例えば河出の通史辺りを何冊か読むと、
戦争は元より、
汚職と搾取と権謀術数の歴史に思えて仕方がありません。

偶然面識を得させて頂いた
さる気鋭の中国文学の先生がおしゃっていましたが、

下層社会の識字率が極端に低く
社会の上下で文化に大きな断絶があるそうで、

こういう事情が少なからず祟っているのかもしれません。

その種の人々は文字を不要とし、
ジャッキー・チェン宜しく規則も唄も頭で覚えるそうで、

大衆に馴染みのある民間演芸も、
リズムやゴロを大事にするという具合に
こういう階層に向けた作りだそうな。

まして漢詩なんか、今日の高校生の教養どころか、
科挙を受験する連中の嗜みにつき、

確かに、内容がひねくれていて小難しい訳です。
そういうのを、高尚というのでしょうが。

 

 

4-6、カンフル剤としての「猛政」
栄養剤としての「寛治」

 

で、その結果、例え戦争がない時代でも、
一部の真面目な奴が泣きを見るようなデタラメな社会構造の中で、
世間で老荘思想が流行るのも世の流れに見受けます。

つまり、人の支持を得る方法は、
儒家や法家のように、ガリ勉や規律に求めることも可能あり、

一方で、戒律の緩い宗派の仏教や道家のように、
ダメな浮世の中から探し出すことも然り、でして。

例えば、劉備なんかそれを熟知していて巧く立ち回った訳で、
「自分は曹操と逆のことをやって支持を得た」と居直っています。

私のようなヒラの生半可な道楽者の世迷言ではなく、

人たらしで兵集めの巧者であり、
一介の傭兵隊長から皇帝に成り上がった人が
こういう言葉を残しているところに
説得力があると言いますか。

もっとも、実子の劉禅には、

良馬を求めたり無駄に着飾ったりと、
「自分のように不道徳はするな」と説いている点が笑えますが。

それはともかく、

不道徳が人間の生存本能と不可分の関係を持つ以上、
その使い方も政治力の一部ではないかと思う次第です。

無論、物欲を努力で制御出来るに越したことはないのですが、

当の曹操本人の場合、

政策面でははともかく、
自己管理の手法としての「猛政」の効果は
どうも疑わしく思えて仕方ありません。

 

 

4-7、主演:曹操孟徳

 

今回の最後の御話となります。

さて、こういう人格的にはアレでも、筆者と異なり、
やることは非常に内容の濃い人につき、
伝記も必然的に面白くなって来るものでして。

特に「武帝紀」の前半部分は、
もう少し娯楽作品で掘り下げても良かろうと思います。

特にこの時期の曹操は、彼自身が寡兵で最前線で戦い、
董卓や山賊との戦いで鮑信や衛茲といった優秀な盟友が
バタバタ討死し、
その過程で、当然、自分も何度も死に掛け、

そのうえ、董卓討伐に真っ先の名乗りを上げた優秀な親友の張邈
当人の弟や陳宮にそそのかされて
彼を裏切るというアクシデントに見舞われもしました。

友に裏切られるだけならまだしも、
この策謀によって根拠地・兗州の大半の城が離反するという
絶体絶命の危機もあり、

(この折、後日兗州から放逐された呂布や陳宮がやったように、
陶謙から分捕った徐州にそのまま居座ろうとしまして、
反対に、これを必死に諫めたのが荀彧。
曹操も人の子で、
時には、こういう大局を誤るヘマもやるのです。)

その意味では、
袁紹との戦いよりも物心両面ではるかに過酷な状況にあったことで、
個人的には、曹操の生涯で一番ドラマになりそうな時期に思えます。

―そう、この時期の曹操は、

決して、200年以降のような
物量と家臣の質で主役の劉備を圧倒するという
完全無欠の天敵めいた存在ではなく、

自分の命を賭して試行錯誤に明け暮れるという意味では
良い面も未熟な面も赤裸々に見せつつ
日々苦悶する青春群像劇の主人公そのものではなかろうかと。

 

ただ、戦争がテーマのブログとしては、非常に遺憾ながら、

曹操が自分の戦力を隠す工夫を施したのか、
それとも史家の興味対象が払われなかったのか、
当人の軍の動員兵力や部隊編成に関する話がほとんどなかったことで、

190年代の状況については、
曹操を軍を軸に兵力の話をすることが出来なかった訳です。

 

【主要参考文献】

陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』1~6巻
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
金文京『中国の歴史 04』
湯浅 邦弘 編著『概説 中国思想史』
堀敏一『曹操』
岡本隆司『中国の論理』
川勝義雄『魏晋南北朝』

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呂布の戦い~190年代の寡兵での戦争の一事例

はじめに
~寡兵での戦いの前提条件

 

今回は、三国志の幕開けとも言うべき、西暦190年代の部隊編成について、
呂布の事例を中心に、アレコレ考えてみようという御話です。

黄巾の乱によって後漢末期の騒乱が本格化する訳ですが、

華北東部を制圧した袁紹が曹操と事を構える西暦200年以前の段階では、

それぞれの軍閥(刺史や州牧レベル)が遠征にあたって動員する兵力は、
多くとも数万程度という規模でした。

これは、各軍閥間の淘汰が進んでおらず、
支配領域がそれ程大きいものではなかったことと、

戦時に即した兵力の動員体制や食糧の増産体制が
未整備であったことに起因します。

 

 

1、失業者とエリート地方官の挙兵

 

例えば、董卓討伐の際、挙兵した「群雄」の顔ぶを見ると、
州牧以外には、河内の王匡、陳留の張邈、という具合に、
郡の太守レベルの者も少なからずいました。

—この中には、直前までは郷里でやさぐれていた
元・エリート地方官の曹操の姿も。

この時代に名刺というものがあれば、
彼の肩書は書かれていなかった筈です。

この190年代の戦いは、後の時代に比べて、
割合部隊の規模が小さいためか、

指揮官が矢面に立って命の遣り取りをすることで
三国志正史の記録が生々しいのが特徴だと思います。

具体的な群雄の名前を挙げるとすれば、
曹操と呂布。

 

 

2、抗争と裏切りの人生の幕開け

 

まず、正史の記録が生々しく臨場感があるのが曹操ですが、

動員兵力や部隊編成に関する記述が乏しいことで
今回の主題にはしませんでした。
面白そうな部分は後の機会に。

逆に、190年代の部隊編成について、
或る程度示唆を与えてくれるのが呂布。

コイツの戦闘力について言えば、直属の精強な騎兵の存在が見え隠れします。

この呂布は、御周知の通り、
190年代の典型的なトラブルメーカーの戦争屋。

出身は五原郡という太原(晋陽)の遥か南西の地域。
私の地図の見方が間違っていなければ、長城の向こう側のエリアです。

そういう事情があってか、弓馬の術に優れ、
幷州刺史・丁原の側近(職階は主簿)として重用されます。

因みに、丁原も北方の異民族関係の戦役で鳴らした似たような人。

その後、丁原を裏切って董卓にその首を持って参陣し、
騎都尉に昇進します。
因みに、1000名余の手勢があった張遼も、これに従います。

 

 

3-1、呂布は洛陽近郊で誰と戦ったのか?

 

正史における呂布のデビュー戦は、
反董卓の部隊の迎撃です。

以降の彼の部隊編成についての記述をまとめたものが、
以下の表となります。

【表】正史における呂布の部隊編成

注 『正史 三国志』各巻(ちくま学芸文庫)・『後漢書』より作成。

 

まず、陽人の戦い。
『三国志演義』では、汜水関・虎牢関の戦いとして描かれています。

小説の有名な御話としては、

董卓討伐軍の末席を汚す劉備の三兄弟
董卓軍の戦力の中核として諸侯の軍をあしらった華雄を斬り、
そのうえ呂布と互角に戦ったことで
諸侯にその実力を見せ付ける、

という内容ですが、

歴史の話としては、
孫堅が洛陽の南の梁県・陽人で董卓配下の胡軫の軍を破るという御話。

後述しますが、
話の前提からして、両者がまるで異なるので厄介なものです。

さらには、こういう歴史書と小説の内容の飛躍の過程
研究者の興味対象にすらなっているのですが、

ここでは、ブログのテーマが「古代中国の戦争」ということで、
当然ながら歴史書—つまり正史の話に即して話を進めます。

もっとも、赤壁の大本営発表のように、
疑うべき点は疑う必要があるのですが。

 

 

3-2、董卓の方面軍とその指揮官

 

で、当然の如くというか、残念ながら、

これが、読み物としては、
泥臭く面白くないうえに不明な部分も多い訳でして。

まず、反董卓の諸侯は、仰々しく挙兵したとはいうものの、
策源地が点在しており有効な連携が出来たとは言えませんでした。

対する董卓は、
どうも自軍の兵を少なくとも3つに分けて対応したようです。

もしくは、自分の息のかかった地方官の現地部隊を
そのまま諸侯に向けたのかもしれませんが。

それはともかく、3つの部隊とは、以下。

1、滎陽の徐栄の部隊
2、陜(現・河南省陜県か)の牛輔の部隊
3、梁県の胡軫の部隊

まず、曹操や張邈の部隊は、
1、の徐栄の部隊と真面目に戦って散々な目に遭いました。

孟津近郊の渡河戦で王匡を破ったのも、
戦場が近いことで、あるいはこの部隊かもしれません。

その後、曹操はリターン・マッチを期して揚州で兵を募るのですが、
ここでも雇った兵の大半が離反するという憂き目を見ます。

―ナポレオンのように、
出足から巧くいった英雄ではないのですなあ、この人は。

曽国藩のように、
戦場で戦争を学んだ知識人、という印象を多分に受けます。

 

次いで、2、牛輔の部隊。
牛輔は董卓の娘婿で中郎将。

この部隊の戦功は、
残念ながら筆者の浅学で分かりかねます。

ただ、その配下
校尉の李カク・郭汜・張済といった顔ぶれがいまして、
当時、これらの部隊が潁川・陳留の辺りに展開していました。

その「戦闘力」を発揮するのは主君の横死後のことですが、
それは後述します。

 

残るは、3、胡軫の部隊。
呂布は当時、この部隊に所属していました。

この部隊は、諸侯でも恐らく最強の孫堅の部隊と交戦した部隊。

孫堅の部隊は、袁術の配下として動いており、
荊州から北上して洛陽の南の梁県・陽人で胡軫の軍と対峙しました。

董卓はかつて孫堅と北方の異民族討伐に従事し、その手の内を知り、
大いに警戒していました。

そして、孫堅対策に数万の兵を用意したと史書にありますが、
この戦いでの兵力は歩兵・騎兵5000。

それでも、やはり呂布がいるだけあってか、
董卓の軍の中核であった由。

また、指揮官の胡軫は当時の陳郡太守でして、

河内の王匡、陳留の張邈といい、敵味方双方共、
太守クラスの地方官が現場レベルの指揮官だったようです。

さらにこの部隊には、
騎馬都督の呂布と都尉の華雄が配属されていました。

 

 

3-3 孫堅とのグダグダな死闘

 

ところが、いざ両軍激突の段、天下の大一番になる―と、思いきや、
一転して、双方ともキナ臭い動きを見せ始めます。

まず董卓側は、
敵を侮って部下から嘲笑を買った胡軫と呂布が不仲で、

胡軫が無理な進撃を命じ、
対する呂布は、
味方に大敵出現の誤報を流して軍を混乱させるという具合。

対する孫堅側も、
後方の袁術が戦後の孫堅の増長を警戒して
味方を兵糧攻めするというクズ上官ぶりを発揮します。

それでも、最終的には孫堅の勝利に帰し、
この過程で華雄は戦死。賊将として晒し首にされます。

その後、余波を駆って洛陽に殴り込むのですが、

当然のごとく遷都後で蛻の殻の廃墟であり、
孫堅自身、その惨状に落涙したそうな。

 

さて、双方の兵力の比較ですが、

董卓側は5000の兵のなかで
太守クラスの武将に都尉、都督と、揃っていることで、

その都督様の呂布が指揮した兵は、それ程多くはないと推測します。
多くとも、1000から2000程度ではなかろうかと。

対する孫堅も全軍で数万の軍勢を擁していたようですが、
この戦いにおける兵力は不明です。

ただ、孫堅が合戦の最中に死に掛けて影武者を使う位につき、
こちらの兵力も、それ程多くはないように見受けます。

 

 

4-1、狂気の世界の地獄絵図、長安防衛戦

 

呂布の戦いの第二幕は、長安の防衛線です。

事の経緯は、以下。

まず董卓の暗殺後、
その混乱の最中に逃亡を図った牛輔が部下に殺されます。

そこで、前線に取り残された2、牛輔の部下の李カク等は進退窮まり、
挙句の果てに、賈詡の策で都落ちした残党を吸収しながら
長安を目指して進撃します。

真偽はともかく、長安に乗り込む段階で10万いたそうな。

さらに、それを迎撃するのが、
孫堅に負けて長安まで兵を退いた3、胡軫の部隊と、
主君の暗殺後にやはり長安まで兵を退いた1、徐栄の部隊という、
このうえなくイカレた展開になります。

この時点で、反董卓の軍は既に空中分解し、
洛陽を制した孫堅がそれ以上西進する動きも見られなかったのですが、

事もあろうに、長安は、

当初想定された反董卓派の侵略ではなく、

その一族誅殺後の跡目争いという
まるで訳の分からない兵火を招くことになった訳です。

泣く泣く遷都した宮廷や洛陽からの移民を含めた現地の住民にとっては、
この連中は最早、厄災以外の何者でもありません。

 

それでも、董卓を謀殺した長安の守将・王允以下、
呂布・徐栄の勇将2名は元より
宮中の近衛部隊に至っては校尉が戦死するまで頑張ったのですが、

胡軫の造反もあって徐栄は戦死し、
呂布は数百騎を率いて長安を脱出します。

守備隊が崩壊した後の長安の惨状は、
推して知るべしです。

 

 

4-2、デタラメ軍人とスーダラ地方官

 

まあ、陽水の戦いで後ろから弾をはじく呂布も大概ですが、
胡軫も胡軫だと思います。

先の陽水の戦いもそうですが、
無能で腰抜けな地方官の所謂「あるある」
見え隠れすると言いますか。

この御仁がその後どうなったかは分かりませんが、

いやしくも董卓軍の主力部隊を率いた指揮官が
歴史の表舞台からいつの間にか退場したことだけは事実でしょう。

小説の方で汜水関で孫堅配下の程普に斬られたことにされる訳です。
確かにこちらの方が、話としては華があります。

それにしても、娘婿の牛輔といい、この胡軫といい、

董卓という人は、史書の通りであれば、
このような杜撰な人選で
よく凶暴な異民族相手に善戦したものだと思います。

 

 

5-1、冀州をめぐる仁義なき戦い

 

さて、独立後の呂布は、
諸侯に警戒されながらも傭兵として重宝される訳ですが、

面白い記録が残っているのが
袁紹傘下で張燕と戦った時のこと。

反董卓の錦の御旗も賞味期限は精々1年でして、

袁紹と公孫瓚は、

真面目に戦って死に掛けた曹操や
その親友で大勢の兵と有能な部下を失った張邈、
血みどろになって洛陽にたどりついた孫堅等を他所に、

他人の土地である冀州を取り合って抗争を始めます。

その冀州の牧の韓馥すら、
董卓が任命したとはいえ当人に反旗を翻した同志。

とはいえ、その裏では、
袁紹も公孫瓚も皇族の地方官である劉虞を
皇帝として擁立することも画策しており、

ここまで来れば、
タテマエもヘッタクレもない剥き出しの利権争いです。

群雄割拠に相応しいと言えばそれまでですが、

面白いことに、
有能で骨のある知識人がこういうのを見て唾棄するのも
あの国のひとつの側面です。

 

 

5-2 騎馬突撃こそ野戦の華

 

さて、この抗争で張燕は公孫瓚に組するのですが、
その兵力は精鋭1万余、騎兵数千騎。

ところが、これを長安からの落ち武者の呂布が撃破します。

再度、【表】を御覧下さい。

前表・再掲

戦いの仔細は残念ながら分かりませんが、
細部は珍しく細かい描写です。

側近の成廉・魏越等数十騎で敵陣に突っ込み、
首(所謂、兜首でしょう)を日に3、4取る戦いを10数日続ける、という、
並外れたバイタリティを感じさせる戦闘であった模様。

有名な「赤菟」の登場は、実はこの戦場です。

大雑把な計算ですが、例えば、
卒だの伯だのの100名程度の指揮官の首級であれば、

連日の戦闘の結果、
単純計算で5000名程度の戦力が総崩れに陥った計算になります。

張燕としては、
長安から脱出した騎兵数百に毛が生えた程度の部隊に
こんな目に遭わされれば割に合わないでしょうし、

見方を変えれば、
ひとりの軍閥が万単位の軍隊を有機的に運用する術がなく、
局地戦での勝利の意義がそれだけ大きかったのかもしれません。

こういうナントカ無双な状態は、何も張燕に限った話ではなく、

ほとんど同じ時期に行われた界境の戦いにおける
袁紹と公孫瓚についても、
どうもそのような傾向が見え隠れします。

 

 

6、荒くれ者の末路と兗州への片道切符

 

さて、殊勲賞の呂布様御一行ですが、

勝った後の彼の士卒が兵員の増員を要求し略奪を始めたことで、
これを煙たがった袁紹に刺客を放たれて逃亡する始末。

派手に戦ったのですから戦力補填の要求は当然なのでしょうが、
その要求の方法が穏当さを欠いたのでしょう。

オモシロイことに、界境の戦いのMVPの麹義も、
似たようなことで墓穴を掘っています。

この辺りは、後日、稿を改めたいと思います。

 

次に呂布の兵力について書かれた箇所は、
曹操の留守中に陳宮が離反して起こった濮陽の戦いの翌年の
鉅野の戦い。

曹操配下の陳宮と張邈の弟・張超が、
曹操が徐州遠征中に失業中の呂布を呼び込んで兗州の牧に担ぎ上げ、
曹操の盟友の陳留太守の張邈もこれに従った、という経緯。

要は、陳宮の離反で曹操と呂布の抗争が始まりました。
そして緒戦の濮陽の戦いは、曹操の勝利。

因みに、この濮陽の戦い両軍が100日以上も対峙したにもかかわらず、
兵力については詳細不明です。

その後、呂布・陳宮は、兗州での生き残りを賭けて、
恐らく総力であろう1万余の兵を動員してリターン・マッチを仕掛けます。

が、またしても曹操の計略で敗れ、劉備支配下の徐州に落ち延びます。

彼等を支援した県令や領民の信用を失い、
一転して厄介者に成り下がったからだと邪推します。

 

 

7-1、新天地は、陰謀と騒乱の結節点~徐州

 

ところが御周知の通り、またしても、
亡命先の徐州でも劉備の本拠地である下邳を乗っ取り、

それどころか、

賄賂を贈って造反を促した黒幕の袁術が
劉備の帰還先の小沛を攻めるや、
手勢を率いて大将の紀霊を威嚇します。

この時の手勢が歩兵1000、騎兵200という陣容。

廂を借りて母屋を乗っ取り、
そのうえ保護者面するという面の皮の厚さですが、

事の真相は、恐らくもっとブッ飛んでいまして、
造反の本丸として、
陳宮はこのドサクサで呂布を消そうとしていた
ようです。

具体的には、
恐らく呂布直属の配下であろう郝萌を抱き込んで呂布を闇討ちする手筈。

ところが、気配を察した呂布が着のみ着のまま妻と屋根を伝って脱出し、
これを救出したのが高順。

高順は呂布の証言から主犯を特定し、
即刻武装兵を呂布の宿所に差し向けて郝萌を討ち取ります。

その後、郝萌の離反者・曹性(演義で夏侯惇の目を射たヒト)が
陳宮の名をゲロするという御粗末な御話。

こういう類の話は、
如何に史書に書いてあるとはいえ
全部が全部信用出来るものでもありませんが、

曹操と陳宮の謀略合戦がこのレベルで行われていることで、
この種の未遂事件が頻発していたのでしょう。

 

 

7-2、良将でも兵の数は1000未満

 

さて、この高順。実は、陳宮と並び、今回の準主役ともいうべき存在です。
また、呂布の配下の中では、恐らく張遼と一、二を争うマトモな将です。

この人は700名の兵を統率し、1000と自称。
武器の手入れを常に怠らなかったそうな。

必ず敵陣を落とすので、付いた仇名が「陥陣営」。
こういうユニークな仇名が正史に書かれる人はかなり稀です。

後述する小沛攻めも、この人の手柄です。

人柄もこの時代にしてはかなり真面目で、
酒を飲まず、賄賂を受け取らなかった堅物。

ところが、陳宮の造反未遂で決まりの悪い呂布は、
高順が剛直なこともあり、こういう人材を干します。
兵権を取り上げ、同郷の魏続の指揮下に置く訳です。

それでも当人は腐らなかったそうな。

こういうメンタリティからして、

恐らく資産家の出で孝廉上がりか、
寒門でも志の高い役人上がりだったのかもしれません。

 

 

7-3、土俵際でひと暴れ

 

さてその後、皇帝を僭称して窮地に立った袁術
呂布を抱き込もうとして使者を斬られたことで、

今度は数万の兵で呂布を攻めるのですが、
この時の呂布の兵力は3000名と馬400頭。

下邳を取ったとはいえ、
さすがに兗州に落下傘した時程には
地盤は固まっていなかったのでしょう。

ところが袁術の軍も、その内情たるや、
かなり無理をしてあつらえた模様でして、

呂布側は徐州の名士・陳珪の策で
韓暹・楊奉に「大義」を説いて篭絡し、
これを散々に打ち破ります。

恐らく袁術凋落の決定打になった戦いです。

 

 

7-4、成算なき籠城戦への道

 

ですが、呂布の命運もここまででした。

呂布・陳宮は、袁術を破った返す刀で、
1万の兵を集めた劉備を小沛から叩き出したのですが、

徐州の側でも目の上のコブである袁術を追い払ったことで
呂布の暴力装置としての利用価値はなくなりまして、

先に袁術との同盟を蹴らせた陳珪が、
今度は曹操・劉備と連携して呂布を閉め出しに掛かります。

この辺りは、恐らくは、演義にあるような、
朝廷の御墨付で徐州に居座りたい呂布・陳宮と
何としても州の恥を摘み出したい陳珪の知恵比べでして、

その終局が、198年12月の有名な下邳の戦いです。

演義でも正史でも、
曹操配下の郭嘉が献策した水攻めの奇計と
落城後の敗将の処刑が見せ場と言えるでしょう。

 

 

7-5、出撃前の後顧の憂い

 

さてこの戦い、

まずは野戦で始まり、
呂布が曹操軍の糧道を断つべく自ら出撃するのですが、
この時の兵力が騎兵1000。

袁術との戦いの時は軍馬が400頭だったことで、
この時と小沛攻撃で
かなりの数を強奪したのかもしれません。

ですが、結果として作戦は失敗に帰し、
絶望的な抗戦へと突入します。

 

因みに、この呂布の出撃に関する逸話が笑えます。

陳宮・高順が不仲であったことで、

呂布の妻が
ふたりを留守部隊として置くのを嫌がったそうな。

野心家で周囲の迷惑を考えない陳宮
剛直で真面目な高順とでは、
確かにソリが合わなさそうな気もします。

大体、先刻、陳宮の造反に掣肘を加えたのもこの人。

 

 

7-6、謀臣も勇将もイロイロ

 

ところでこの陳宮というヒト
演義と正史では随分印象の異なる御仁に見受けます。

腹蔵なく言えば、
確かに、呂布の強欲さと素行の悪さは否定出来ませんが、

呂布のやらかした裏切りの半分は
この人のなせる業ではなかろうかとすら思います。

また、下邳の絞首台で泣きたかったのは、は、
散々好き勝手やって自分の策で破滅して
挙句、政敵に残った家族を頼むと居直る陳宮ではなく、

こういうムチャクチャな謀臣と
政局観に乏しく人選も駄目な上官の下で
かなりマトモな仕事をしたにもかかわらず、

都督の身分で兵権を取られても
(兵権を引き継いだ魏続が最後は呂布から離反)、
腐らず励んだ高順ではなかったのでしょうか。

因みに、陳宮が候成や魏続等の離反者に捕縛された後、
呂布は側近と白門楼に登ってしばらく抗戦したものの降伏し、
その後、3名とも縛り首になっています。

魏続等と行動を共にしなかったことで、
高順は側近として最後まで呂布の側に居たのかもしれません。

 

 

まとめ
~千の精兵が千の兵を破り、万の兵を走らせる戦場

 

結論として、話の要点を整理します。

190年代の中原の戦場で武名を轟かせた呂布。

ですが、自らが統率した兵力は、
身分や属した勢力の大小にかかわらず大体は1000名前後。

兵科は騎兵が中心ですが、騎射も派手にやったのでしょう。

逆に言えば、相手が万単位の兵力を動員しても、
この程度の寡兵で結構な確率で勝ちました。

しかも、その内幕は、
大将自らが数十騎で敵陣を突いて
日に将校の首を3つ取るというような具合です。

呂布や孫堅等、軍閥の長ですら
武勇に自身のある者はこういうことをやっていまして、
まして、呂布配下の高順の兵は700。

今回は詳しく触れませんでしたが、
袁紹配下で北方騎兵対策の名手の麹義も、
僅か800の歩兵で倍以上の公孫瓚の騎兵を圧倒しました。

それどころか、公孫瓚も公孫瓚で、
後方にかなりの予備兵力を用意していたにもかかわらず、
麹義の奮戦は戦局の帰趨まで決めてしまいました。

逆に、200年以降でも、曹操の存命中の彼の軍隊は、
本人がいないところでは結構負けています。

 

これらの逸話が意味するところは、

西暦190年代の軍閥が乱立する時代の戦争は、

大局的には例え万単位の兵力を動員出来ても
数の強味をそのまま引き出す要素が乏しく、

兵の数よりも、兵や指揮官の質、戦法といった要素の方が、
戦力的にははるかに重要であったことを
示唆しているように思います。

 

 

【主要参考文献】

陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』1~5巻
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
『知識ゼロからのCGで読む三国志の戦い』
『三国志 運命の十二大決戦』
堀敏一『曹操』
金文京『中国の歴史 04』
川勝義雄『魏晋南北朝』

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三国時代の募兵—魏の事例

はじめに

 

漸く、三国時代の部隊編成の話に入ることが出来ます。

結論から言えば、

魏・呉・蜀といった国家や袁紹・董卓といった軍閥が、
組織単位で伍長・什長・都伯、といような編成単位を決めているというのではなく、

大抵の場合は、
都尉だの、校尉だの、鍋将軍だの野次将軍だのと、
兵隊を扱う「尉」以上の職階を持った武将が

自らが(県令や太守等の身分で統治する)赴任地や
地縁・人脈等のツテを頼って兵を集め、

そして集めた兵隊を独学で勉強した兵法(孫呉や司馬穰苴等)で訓練を施し、
その延長として、編成単位なり個別の戦法なりを各自決めていた、

というのが、当時の実態ではないかと思います。

 

1、何故か史書に書かれていない
漢代の部隊編成

こういう結論を出すに至った理由として、

三国志は元より、『漢書』や『後漢書』、
『通典』や『文献通考』といった、

漢やその後の王朝公式の史書の「志」の部分を紐説いても、

何故か漢代の部隊編成だけがスッポリ抜けているか、
あるいはその前の時代の状況を鑑みたうえで想像で書かれているという具合で、

部隊の編成単位について漢の王朝が定めた痕跡が確認出来なかったことです。

 

渡邊義浩先生は 伍長(5名)・什長(10名)・都伯(100名)となさっていますが、
浅学な私は、色々と骨を折ったものの、残念ながらこれを確認する術は分からず終い。

また、研究史としては、軍制の研究こそ少なからずあるものの、
この辺りの制度論と乖離した話は、どうも穴になっているように見受けます。

 

いくつか読んだ通史も、軍閥の軍隊の寄せ集めだったという程度の話しか出て来ません。

そのうえ、頼みの正史も、
兵力は単位ではなく数で表記
されていることで用をなしません。

仕方がないので、素人の手作業として、兵力に関する記述を逐一整理した結果、

やはり、識者の説くようなデタラメな兵制だったという、
自分で言うのも気が退けますが、まあその、デタラメな結論を出すことになった次第です。

 

 

2、募兵巧者と訓練巧者 ~劉備と魏延の場合

 

2-1、劉備の「悪運」のカラクリ

さて、兵隊を集めるのも訓練するのも武将の嗜み、ということで、
残念ながら魏ではないのですが、
適当な事例として、蜀からふたり挙げることと致します。

そのふたりとは、劉備と魏延。

兵隊集めが巧かったのが劉備で、
兵隊の訓練が巧かったのが魏延。

両名の特技を見ることで、
当時の募兵と訓練の理想的な在り方が垣間見えるように思えます。

まず、劉備ですが、地方の資産家と仲良くなるのが巧かったことで、
無一文で見知らぬ土地に飛び込んでも、行く先々ですぐに兵隊が集まったそうな。

これに因んで、

コイツが地方官の折、
督郵(自治体の監察官)を殴る話が正史に一度ならず出て来るのですが、
面会を拒否されて暴力に訴えるのが御約束につき、

賄賂を要求されたのではなく、
渡そうとして拒まれたのが実情ではないかと思います。

事の善悪はともかく、情実と汚職は表裏一体、という御話。

それはともかく、曹操が警戒したのは、

こういう、何度負けて部隊が四散しようが、
必ず劉備の支援者が現れてすぐに戦力を回復するという、

ゲリラ部隊の設立・運営に必要な
悪運が強く粘り強い類の資質だったのかもしれません。

 

2-2 訓練巧者は戦上手 ~名将・魏延

次に魏延について。

いつ劉備の軍に加わったのかは分かりませんが、
叩き上げの軍人として牙門(独立部隊)将軍に昇進した猛者。
王平もこの昇進経路です。

つまり、自らが率いる遊撃部隊の実力という訳です。

さらに、劉備が成都に入った際、
張飛を差し置いて対曹操の最前線の漢中太守・鎮遠将軍になり、

孔明の北伐では武官の随一の実力を誇っていた訳ですから、
相当な手練れには違いありません。

で、この人の得意技が、生来の勇猛さに加え、士卒の訓練でした。

一方で、奇抜な作戦を考え付く頭脳も持ち合わせる頭脳派であったものの、
性格が傲慢で周囲とよく揉めたことで、

単細胞な猪突型の武将というよりは、

戦国時代に出て来るような、
優秀ながらも特権意識が強くて扱いにくい軍人と似た臭い
少なからず感じます。

似たような人としては、姜維も恐らくこのタイプで、
性格は魏延よりはもう少し丸いものの、やはり訓練・用兵が巧みで面倒くさい人。

何故この人を取り上げたかと言いますと、
正史で部隊の訓練について書かれた箇所が少ないことが理由です。
当時の感覚としては、こういう募兵と訓練が一対なのが当たり前だったのでしょうが。

 

2-3 兵士の原隊と勢力への帰属意識 

     ~鐘会と鄧艾の場合

視点を変えると、兵隊の帰属意識も、
直系部隊の指揮官に対しては大きかったのではないかと想像します。

例えば、蜀を滅ぼした鐘会が出先の成都で司馬昭に対して反乱を起こすのですが、
兵隊の支持を得られず、逆に殺されます。

実は鐘会は、蜀への行軍の折、
諸葛緒(当時3万の部隊を指揮)のような有力な部下を失脚させて
その兵権を奪い取るというゲスなことを頻繁に行っていたのですが、

敵の数倍の兵力を擁しても剣閣を攻めあぐねる等、
肝心の軍才に恵まれなかったこともあってか、

書類上の兵権の掌握のような事務的な話だけでは、事は前に進みませんでした。

逆に、鐘会の部下である鄧艾の兵は、
鐘会の謀略(と鄧艾のヘマ)で逮捕された鄧艾を救い出そうと必死に動きました。

とはいえ、魏延の場合は、
孔明没後に撤退の命令違反を犯して後任の楊儀指揮下の本隊と対峙し、
楊儀の部隊の論客に陣頭でその非を詰られたことで部隊が崩壊するのですから、

所属勢力の力が強ければ、
兵隊の帰属意識の優先順位は、直属の指揮官よりも所属勢力の方が高い、
ということになりましょうが。

また、あまり問題にはならなかったものの、
蜀の鄧芝のように、
老いて定年を越えても引退せずに兵権を返さなかった人もいまして、

数多の識者が指摘するように、
官僚の私兵としての性格が強かったことは間違いないでしょう。

 

 

3、武功に先立つ募兵行脚

 

3-1、千・万の兵力の運用

続いて、募兵の過程について、
もう少し具体的に見てみることにします。

以下の表は、
魏書に記されていた曹操配下および盟友の募兵に関係する記述をまとめたものです。

 

表 曹操配下および盟友の募兵の状況

注1 『正史三国志』1~4巻(『魏書』)より作成。

 

注目すべきは、記録に残っているだけでもこれだけある点です。
したがって、日常的に行われていたと見るべきだと思います。

まず、一度に行う募兵の数ですが、
表にあるように、大体1000名程度であろうかと思います。

言い換えれば、指揮官ひとりが統率出来る兵力が大体1000名前後でして、

名のある将軍が統率するような1万といった規模の兵力になると、

恐らくその実態は、
指揮官の指ひとつで1万の兵隊が機敏に動くのではなく、
こういう1000名程度の指揮官の寄り合い所帯という制約の中で、
兵隊は動くのではなかろうかと想像します。

また、万単位の部隊の指揮官は、
日頃から誰がどの位の動員兵力を有するのかを大体は把握しており、

状況に応じて、何某に何名の動員を命ずる、
というような指示を出していたのではないかと思います。

 

その理由としては、以下。

時代が下って群雄の寡占化が進むと、

武将の兵集めの話がほとんどなくなり
部隊運用の規模も万単位で記されることが多くなるものの、

反対に、単独で1000名程度の部隊を運用する話も
チラホラ出て来るからです。

指揮官が集めたばかりの兵隊で
単独で陽動や別働等の作戦行動を行うと思われるケースです。

例えば、222年の孫権の江夏侵攻において、
治書侍御史の荀禹1000の兵で高地から狼煙を上げて退却させました。

因みにこの部隊は、
自ら募兵した兵と戦地に赴く際に通過した県で募った兵の混成部隊でしたが、
こういう部隊が222年の段階でも無数に存在したのでしょう。

 

また、あまり参考にならないかもしれませんが、

戦前の帝國陸軍の師団長(1、2万名の部隊の指揮官)の日記に多かったのが、
上位部隊および師団の内部での会議の話です。

後漢の時代に比べて遥かにインフラの進化した時代でさえ、
部隊の動きの調整のために多くの会議を開催しているのが実情。

無数の無名武将の千単位の募兵や単独での作戦行動と
万単位の兵力運用が同時進行していたのが、
三国鼎立後の募兵と用兵の実態であったと想像します。

 

 

3-2、五・十・百の兵力の運用 ~曹操の用兵マニュアル

一方で、兵隊の10名までの統率については、

自治制度として秦代から継承されている什伍制が
軍隊組織としても機能していたことで、
民間人を徴兵する際の最低限の社会基盤になっていたと想像します。

さらに、軍閥特有の事情としては、

曹操の場合は実戦経験が豊富で指揮官としての能力がズバ抜けていたことで、
100名単位の戦い方のマニュアルを作ることが出来た模様。

兵法書に脚注を付けるだけはあります。

具体的な内容としては、太鼓が鳴らされる数によって、
装備や戦列を整える、馬に乗る、進む、といった動きを決め、

実戦でこういう命令に逆らった奴は上官が片っ端から斬る、
あるいは鞭打ちにする、という内容です。

 

因みに、近代国家の軍隊の場合、
ひとりの指揮官が直接指揮可能な兵隊は200名程度。
つまり、1個中隊とのこと。

中隊という単位が非常に重要なのは、このためです。

さらに、ノモンハンの事例では、
交戦距離ゼロの白兵戦になると、
伍長ですら末端の兵隊を一々指揮出来なかったそうな。

この種の軍隊は、
三国時代よりも交戦距離が長く、隊列を組む時の兵士の間の歩幅が広く、
そのうえ複雑で激しい動きをすることで、
両者の比較はあまり用を為しませんが、

ここでは、人間の能力の一般論として、
ひとりの人間が直接指示を出して動かすことの出来る人間の数など
多寡が知れている、という点を強調したいと思います。

 

 

3-3、中央の政争の影響による募兵

さて、【表】で羅列した各部将の募兵について、
時期や事の性質を大雑把に分けると、大体以下の3つに区分出来ると思います。

 

1)何進の宦官討伐や董卓討伐といった中央の政局に影響された募兵。
2)曹操の戦争に伴う機動的な募兵。
3)辺境の地での騒乱に伴う募兵。

 

まず、1)ですが、
鮑信のような名士も、若き日の無名地方官の張遼のような武将も
兵集めに奔走していることで、

大半の当時の武将にとっては、
部隊の立ち上げに際しての通過儀礼だったのでしょう。

無論、張遼や楽進のように募兵から始めて部隊を立ち上げた人もいれば、

李典のように豪族出身で、
曹操の配下となった時点で既に多くの手勢を有していた者もいます。

その一方で、張楊のように、募兵の目的が消滅し、
集まった連中がそっくりそのまま山賊になるのも
国情がデタラメな中国らしいと言いますか。

 

 

3-4、地方政治の血生臭い現場 ~本日の主役・杜畿

続いて、2)。
曹操自体がほとんど死ぬまで従軍して戦い続けていた人ということもあり、
領内は日常的に募兵で忙しかった様子が垣間見えます。

笑えるのが張喜のケースでして、
赤壁の敗戦の後始末を、こういう投げ遣りな形でも行っていたのでしょう。

 

さて、ここで唐突に登場する杜畿という男。

無論、北斗の拳とそれに付随する怪しい拳法の話でもなければ、
中央の政局に深く絡む重要な話でもありません。

むしろ、その種のゴタゴタに振り回される類の話です。

また、この杜畿というヒト、
三国志のゲームの武将ファイルで言えば
無名の内政系の文官の話に過ぎないのですが、

そういう叩き上げの地方官の話だけに、

当時の募兵をめぐる地方の実情を垣間見る上では、
良い材料に成り得ると言いますか。

頃は、官渡の戦いが曹操の勝利に帰した時分のことです。

洛陽の北西、平陽郡の南に河東郡という郡がありまして、
この郡でのイザコザの御話。

杜畿という人がこの河東郡に太守として赴任するのですが、

その人となりは、
曹操が北方の守りのひとりとして見込んだ優秀な官僚です。

一方、この郡では、要人の衛固(杜畿と旧知)・范先が幅を利かせ、
袁紹の甥の高幹と内通していました。

そして、橋を落として杜機の赴任を遅らせたり、
郡内で主簿以下の役人を30名も殺して脅したりして更迭を企てるのですが、
杜畿の方が一枚上手で、まるで意に介しません。

それどころか、募兵を手際よくこなして、
范先・衛固よりも人心を得るようになります。

 

 

3-5、募兵システムと幽霊部隊

さて、ここの重要なのは、その募兵。

当時のシステムは、
募兵の担当者が人数を申告して上役から資金を受け取るという方法でしたが、

担当者が人数を過大に報告して中抜きをするので、
マトモにやれば、兵隊が思うように集まらないのが常でした。

 

—そう、俗に言う「幽霊部隊」。

 

こういうのは時代が下って国民党政権下ですら横行していまして、
最近の報道では、アフガンでも頻発してアメリカの頭痛の種だそうな。

要は、時代を問わず、誰でも考え付くような小賢しい汚職です。

そこで、杜畿は、
将校や官吏に頻繁に休暇をやるなどして時間を掛けて集め、
一方で人心掌握にもつとめたことで、
高幹に攻められる前に4000の兵力を準備することが出来ました。

余談ながら、この杜畿の孫が仲達の娘婿の杜預。
晋の総司令官として呉を攻め、三国時代に終止符を打った大物です。

 

さて、杜畿は将校や官吏は人情として自分の家ことが気に掛かると言いまして、
もう少し露骨に言えば、職務の傍ら、
地元で色々な副業をやっていたのでしょう。

兵役に関係する仕事を強いられることで、商売に差し障る、ということなのでしょう。

そして、こういう土地の実情に即してその利害を犯さないように兵隊を集めれば、
結構な兵隊が集まる、という、当時の世の中の仕組みが垣間見えます。

逆に、曹操が揚州で募兵に失敗したのは、
権力基盤が弱い状態で、
こういう論理を無視して州外に兵隊を連れ出すことを目論んだからかもしれません。

 

 

3-6、正規軍の供給元としての流民と盗賊~青州兵・東州兵

これに因んで、曹操配下の青州兵、劉焉配下の東州兵というのがいますが、

この部隊は、曹操や劉焉が、行き場のない兵隊の足元を見て、
直属の兵として抱え込んだ兵隊—つまり、君主の言うことを聞く兵隊です。

 

当時は曹操も劉焉も、騒乱の最中に兵力不足に悩まされていまして、
曹操の場合は黄巾賊残党の投降兵、劉焉の場合は長安からの移民を得、
これを兵隊に再編した訳です。

青州や長安の出身だから強兵であった、という訳ではないと思います。

 

そして、こういう兵隊を自勢力に積極的に組み込んだ背景としては、

曹操の場合は黄河流域で寡兵を以って山賊の戦いに明け暮れていたことで、
(追記:先に官渡の戦いの後、と書きましたが、これは誤りです。)

劉焉の場合は、
占いと言うかカルト儒教というか
讖緯思想で天子になれると吹き込まれて落下傘で益州に入り、
地元の豪族と権謀術数の限りを尽くして熾烈な争いを行う最中という具合で、

自分に忠実な兵隊がひとりでも多く欲しかったのです。

 

その結果、当初はこの種の兵隊が自軍に占める割合が非常に高かったことで、
狼藉を働いても曹操も劉焉も強く咎めることは出来ませんでした。

東州兵は言うに及ばず、
規則にやかましい曹操ですら青州兵の狼藉を収拾出来なかったことで、
余程ツケ上がって軍規を乱していたのでしょう。

 

 

3-7、リアル敦煌、西遊記~無法地帯の募兵

話を【表】に戻します。3)辺境の地での騒乱に伴う募兵。

「中心」が好きな連中のことで、
こういう話を馬鹿にしている部分もあるのでしょう。

私の世見落としであったら恐縮ですが、
陳寿も裴松之も、正確な年号すら書いていません。

陳寿にとっては、同じ田舎でも、
蜀と敦煌とでは存在価値が天と地程に異なるのでしょう。

ただ、地域自体が甚だしく荒れていて、
情報が錯綜していた可能性があるのもひとつの側面かもしれません。

事実、王朝自体がハチャメチャな世の中、辺境の地が安定している訳はなく、

特に、敦煌界隈なんか、異民族の大部隊が出没して中央との連絡が断たれたり、
郡によってはン十年も太守不在だったりと、フロンティアそのものの様相。

その意味では、1000年もズレがあるとはいえ、
まさに、井上靖の『敦煌』そのものの世界です。

かなり古い映画ですが、
甲冑姿で「リゲンコー!」と叫んで得物をブン回す西田敏行のようなのが、
三国時代の西域にもいっぱいいます。

余談ながらあの映画、
ウイグルと西夏の野戦は必見の価値があると思いますが、

それはともかく、

あの土地の募兵については、
やっていることが中原の危険地帯と変わらなかったりしまして、
この辺りが面白いと言いますか。

アウトローの跋扈する土地の事情は、
万国共通とでも言いますか。

さて、西域や辺境のゴタゴタの大体の構図として、
王朝側に組するにしても、勝手に太守を名乗って反乱を起こすにしても、
中原の曹操の軍隊なんか辺境の地には中々現れないものですが、

それでも太守と豪族がその動向を注視しながら、

場合によっては異民族を巻き込みつつ、
基本は自力救済で兵隊を集めて抗争を行う訳です。

で、やはり、募兵の単位は1000程度。

異民族の動員力も、中原程ではありません。
1万騎を切る程度の話が多いです。

後日、詳しく調べたいと思いますが、
人口の制約があるのでしょう。

また、ここで名を為して中央で認められる地方官も少なからずいるのですが、
例えば張既等、寒門出身で荒事に慣れた人が多いような印象を受けます。

 

 

おわりに ~募兵の話の整理

そろそろ、結論を導くこととします。

まず、魏の募兵の仕組みとして、

「尉」の職階を持った武将が、赴任先の自治体や縁故を頼って兵を集め、
集めた兵隊を自分の兵学で訓練します。
兵力の規模は、大体1000名程度。

詳細な編成単位は恐らく学んだ兵法によって異なることで、
漢の朝廷は、職階だけ定めて兵の管理にまでは口を出しません。

もっとも、近衛部隊のように、
各校尉ごとに700名の定員を定めているケースもありますが、
これは例外だと思います。

ところが、いざ、地方で兵隊集めにかかろうとすると、
現地の役人が腐っていて経費を中抜きする奴が多く、
集める人間が人心を得ていないことには巧く行きません。

また、正史には、若い頃に募兵に従事していた武将がエラくなった後、
次の世代の武将が何をやったかについては記録がないのですが、

1000名前後の部隊が動く話が少なからず出て来るところを見ると、
万単位の大部隊の運用と、千単位の募兵が、
同時進行していたのではないかと推察します。

一方で、兵力不足の解消策として、山賊や移民・流民等、
行き場のない人間を兵隊に組み込むという選択肢もあります。

戦地となった地域では食糧が高騰し、必ず大量の流民が発生します。
時代の副産物でもあります。

さらには、本文には書いていませんが、
辺境の異民族を組み込むケースもあります。
魏もそうですが、特に呉は、辺境での人さらいが国家公認の稼業でした。

 

 

【主要参考文献】

陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』1~5巻
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
『知識ゼロからのCGで読む三国志の戦い』
『三国志 運命の十二大決戦』
『三國志研究入門』(三国志学会監修)
堀敏一『曹操』
古川 隆久・鈴木淳・劉傑編著『第百一師団長日誌』
金文京『中国の歴史 04』
川勝義雄『魏晋南北朝』

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三国時代の魏の兵力動員の底力—諸葛誕の不毛な兵乱

はじめに

三国時代の部隊編成について調べる過程で、
個人的にブッ飛んだ話だなあと思った部分を少し綴ります。

残念ながら編成の話ではなく、動員規模の話です。

編成の方は、
整理する事象が多い上に色々と基準も不明確で、
半ば泣きそうになりながら個々の情報を整理しています。

また、軍事動員の規模については、
時代が下って来ると、数字に対する感覚が狂って来ます。

正直なところ、北伐の8万、官渡の10数万、赤壁の20万という動員兵力が
可愛く思えて来る三国時代の後半戦。

自身の不勉強さを強く痛感します。

 

1、演義が終わっても戦乱は終わらない

三国時代もかなり下ると、孔明が陣没した後は、

魏呉蜀いずれの君主に肩入れして物語風に解釈するにしても、

書き手が入り乱れたような太平記宜しく、
儒教の忠孝の観念で推し量れるような類の
志のある英雄がのし上がる話ではなくなるのですが、

逆に言えば、良くも悪くも、
中国の王朝臭い権謀術数の泥臭さが浮き彫りになるところが面白くもあり。

発展的な史観という意味での中国史としては、恐らく建設的な話ではないと思うですが、
(古い中国史の通史がこの時代についてあまり詳しく書かなかったことで)

後世の日本人としては、

喧嘩はやる方よりも見る方が面白い、あるいは、
権謀術数の優良なモデル・ケースとでも言いますか、

所謂、野次馬根性的な意味で興味をそそる御話の類。

 

 

2、大部隊集結の条件

さて、いくら人口が減った時代とはいえ、

三国時代も勢力図が或る程度固定し、魏呉蜀各々で物資・人員の双方
動員体制が整ってくると、
前線に出張って来る兵の数もハンパな数字ではなくなって来ます。

軍事力のピークは、どうも君主の有能な曹操の時代ではなく、
時代が下ってから迎えたようです。

そのうえ、
特に、ふたつの国が睨み合うだけであればまだしも、

中央のゴタゴタで前線に動揺が走ると、

離反を画策した者が出先で勝手に兵隊を集め、
中央はそれを抑えにかかり、

敵対陣営は反乱に介入するための援軍を用意することで、

最前線やその付近の策源地では、
勢力を問わず、局地的に凄まじい規模の兵力動員が起こります。

 

3、兵力動員の台風の目、諸葛誕

何の話かと言えば、
具体的には、257年に起きた寿春での諸葛誕の反乱のことです。

元々揚州は魏と呉の国境地帯
魏の内政が実を結んで屯田兵が多く駐屯していたうえに、

都督の諸葛誕は先の毌丘倹の反乱から学ぶところ多く、
動員に謀略にと、周到な準備を進めていました。

そのうえ、呉も呉で、赤壁以後は頻繁に魏の国境を侵しているうえに、
この少し前には諸葛恪が大軍で攻め込むといった具合で、
こういう泥臭い略奪戦争は手慣れたもの。

 

極め付けは闇将軍の司馬昭(追記:訂正前は司馬師と書いていました)で、
宮廷内での政争の延長として諸葛誕の離反を早くから察し、
加えて呉の手口も熟知していることで、

ここぞとばかりに大軍を動員して潰しに掛かりました。

 

結果として、司馬昭は26万、諸葛誕は10数万、
呉は少なく見積もっても数万の兵力を動員します。

司馬昭が兵の数で鯖を読んでいなければ、
寿春城近辺に〆て50万弱の兵隊が集まる計算になります。

事実、寿春城が包囲されてからは、

籠城部隊の出撃は元より、
呉の野戦部隊が寿春城への突入を何度も試みて失敗していることから、
魏の体制側も相当な兵力を動員していることは間違いないと思います。

 

4、この兵乱の特異性

また、見方を換えれば、
晋が呉を滅ぼす時も、確かに凄まじい規模の大軍でしたが、

その種の戦役に比してこの反乱の怖ろしいところは、

揚州北部一帯にこれだけの兵隊が集結し、
そのうえ野戦も城攻めも含めて1年弱もガチの戦争をやってのけた点です。

さらに長安の山奥でも蜀と事を構えていることで、

存外、孔明の北伐よりも、

(三国にとっては)こういう勝者も敗者もない不毛な兵乱にこそ、
魏の国力の底力を見出した心地です。

 

5、勝った官軍も無能な御家騒動

こういう戦役の根っこに何があるのかと言えば、
結局は中央での不毛な権力闘争ありきでして。

金文京先生が指摘していることですが、
諸葛誕にせよ、毌丘倹にせよ、司馬氏が曹氏を押さえつける過程で
反乱を起こした訳です。

しかも、事を起こしたのは、対呉戦線の最高指揮官。
諸葛誕も、司馬仲達に粛清された曹爽のグループでした。

出先の軍隊ですらこの有様で、

その前には、洛陽の宮廷では、
王淩が皇帝の廃位(マトモな王子の曹彪の擁立)を画策して
粛清されていることで、

つまりは、内に外にと御家騒動の混乱を露呈している訳です。

確かに、曹操の時代も、曹丕の禅譲の際にもクーデター未遂はありましたが、
10万越えの前線部隊が離反するレベルの醜い兵乱は起きていません。

曹爽等の浮ついた政策は
良識派の官人にとっては怨嗟の的であったのかもしれませんが、

司馬氏の権力掌握の過程も、
裁量のある軍人・官僚の離反を招く程度に御粗末だった、ということになります。

さらに司馬氏はこの後、禅譲どころか皇帝を手に掛け、
その汚名が払拭出来ぬまま、程なくして国が亡ぶので、

こうなると、曹氏の末期も司馬氏の覇権も、

中華王朝としての政権基盤の強化という意味では、
無策同然の泥仕合という域を出なかったことになります。

 

ともあれ、今の感覚で言えば、軍人であれ、文官であれ、

高い職階にあり強い権力を持った官僚が職権を乱用すれば
社会に与える影響がそれだけ大きいことを、
身を以って証明したと言えます。

さりながら、国を乗っ取った癖に、
三国の統一後は民にとっては害悪でしかなかった司馬氏。

そもそも、権力中枢が宮廷化と無能化が並走した結果、
司馬氏の台頭を許した曹氏。

今回の「主役」の諸葛誕とて、如何に曹氏に忠誠心があるとはいえ、
そういう風潮を助長した無能な高級官僚のひとりに過ぎません。

 

6、寿春、籠城始末

参考までに、
毌丘倹の乱の時の(その本拠の)寿春の守備隊や住民なんか哀れなもので、

毌丘倹や文欽の指揮する城外の反乱軍本隊の敗報が伝わった時、

体制側の処刑を恐れて、自ら城門を破って、付近の山や沢、果ては、
呉の領内に逃げ込んだそうな。

さらに、この諸葛誕の乱では、
当人の地盤である淮南近辺で盛んに金子をばら撒いて人心収攬に努めました。
ここまではともかく、続きがあります。

さらに、揚州出身の侠客数千を集め、
緩い軍規で子飼いの兵に仕立て上げました。

人を殺しても罪に問われなかったそうな。

で、こういう兵隊が戦時体制にかこつけて何をしたかなど、

それまでの英雄達の武勇伝からすれば、
察するに余りあります。

既に、戦争が始まる前からこの有様。

当然、戦争が始まったら、
籠城戦は御決まりの飢餓と守備兵の疑心暗鬼の地獄絵図。
内応者・投降者もボロボロ出ます。

そのうえこのクズは、数多の将兵を戦乱に巻き込みながら、
公孫淵と同じく逃亡を企てて斬られる始末。

この時代の激しい籠城戦をいくつか見る限り、

こういう長丁場の窮地では、

軍人・文官の垣根なく、
まして、軍才や武勇、物資の遣り繰りや神算鬼謀とも別の次元の、

まさに人物本位での指導者としての価値を問われるものです。

 

 

【追記】 諸葛誕の直属部隊

 

ここまでクソミソに書きましたが、

この人の名誉のために言えば、当人の直属部隊で捕縛された者は、
誰ひとりとして降伏しなかったそうな。

それも、司馬昭が降伏を促しながらひとりひとり斬っていくという
やられる方にとっては残酷な状況下でのことで、
忠誠心は筋金入りだったのでしょう。

恐らく、こういうメンタリティからして、
先述の揚州出身の荒くれの侠客数千の生き残りであったと推測します。

だとすれば、落城後に捕縛された段階で生存率1割ということで、

寿春城内に入った呉の兵が多目に見積もっても3万程度と仮定しても、
籠城中に数千の投降者を出し
落城後に1万の降伏者を出しているところを見ると、
相当激しく戦ったことになります。

参考までに、落城の前の月の258年正月に、
守備側は包囲陣を破るべく数日間の攻勢に出たものの、

包囲側の猛反撃の結果、大量の死傷者を出して撃退されています。

また終局の場面も、そのトリガーは、
司馬昭自らが包囲陣で指揮を取るかたちでの総攻撃でして、

その文脈からすれば、
諸葛誕も逃げたのではなく、玉砕突撃だったのかもしれませんが、
私にはそれを知る術を持ち合わせていません。

 

 

おわりに ~国破れて山河あり

私個人の意見として、
世の中には、必要悪としてやらざるを得ない戦争はあると思いますが、
こういう内乱に存在意義はあるのでしょうか。

特に、泉下の曹操に、感想を聴いてみたいものです。

 

自分の無能な子孫と権力闘争だけは得意な一族との政争。
そして、その喧嘩の道具が、自分が礎を作った動員体制。

で、兵乱の結果、動員体制の威力だけは検証出来たものの、
カウンター・クデーターと返す刀で呉が屈服した訳でもなく、
呉が滅亡する280年まで20年以上間があります。

 

しかも、これだけの威力の動員体制が、その司馬氏の統一後に活きたかと言えば、

こういう動員体制でまたもや御家騒動を始め、

それどころか、毒を以って毒を制すべく、
北方の大型メジャーが欲しくて外人枠を拡大した結果、

いつの間にか自分達の国土が、
チューゴク人から見た

西遊記で言うところの妖怪みたいなのの馬蹄で踏みにじられている始末。

 

確かに、外人部隊の起用には、

「異民族」の漢人居住区への流入深刻な労働力不足という時代の実情に加え、
それを積極的に利用して兵乱のタネを作った曹操にも責任があるとはいえ、

中国史上稀な大改革や最高レベルの中国産優良コンテンツのオチ
無能の浅知恵の再生産の帰結としての八王の乱

ゲームのマルチエンディングで言うところの、
典型的なバッド・エンドではなかろうかと思います。

 

私が昔読んだいくつかの三国志演義の要約本は
秋風五丈原で終わっていたのですが、

まあその、書き手がここで話を止めたがる気持ちも
分からんでもないと言いますか。

 

その意味では、ファミコンの『天地を喰らう』なんか、

三国志というコンテンツ自体が
今のようなレベルで認知されていないあの時代に、

2作も続けて、よくまあ蜀が魏を滅ぼす展開を準備したものだと思います。

しかも御丁寧に、1作目と2作目で洛陽までの侵攻ルートも異なるという。

ゲームのプロットを自分達で作って「本宮先生の絵でなければ駄目なんです!」とか、
『スト2』も『ファイナルファイト』も『殿様の野望』も大体あの時代の作品につき、

当時は、蛮勇の雰囲気を巧く遊び道具に持ち込むという点で、
スタッフのセンスが神懸っていたのでしょうねえ。

昔のゲームの話はともかく―、

 

 

孔明の死によって、
蜀の命運が尽きた≒三国鼎立の条件が崩れた、というより、

書かれた時代の知識人階級の偶像としての
品行方正で辣腕を振るった登場人物が全て幕を下り、後に残るは俗物ばかり、
というのがミソなのでしょう。仲達も含めて。

後の部分は、自分達の欠点を羅列することになるので、
臭いもの(言葉遊びと不毛な政争)にはフタをしよう、と。

その意味では、諸葛誕の乱は、
三国時代後半の混沌とした時代の不毛な消耗戦の象徴であると言えましょうか。

 

 

—それなりに調べて書いたつもりですが、
こんなこと書いてて、後で読み返したら、

演義に書かれた王朗みたいに赤面して憤死するのかしら。

 

 

【主要参考文献】

陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』1~4巻
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
金文京『中国の歴史 04』
井波律子『三国志演義』
湯浅 邦弘 編著『概説 中国思想史』

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三国志正史、それは盗賊と地方官の織り成すハードボイルドな世界

はじめに

後漢の部隊編成の話に入る前に、
三国志・正史に出て来る部隊運用の話を整理する過程で
色々と思うところがありまして、今回はその話。

なお、グロい話もするので、食事中には読まれないことを御勧めします。

三国志のような戦争群像劇の主役と言えば、
まず連想するのは君主や軍師、花形武将になるのでしょうが、

正史のような型にハマった人物評を読んでいると、

個人的には、かえって人間観察よりも、
当時の世の中の事情の方に目を奪われたと言いますか。

 

「正義」の軍隊の「補給」と食糧難

結論から言えば、エゲツない世の中だと思います。
統計上とはいえ人口が100年で数分の一に減るのも分かります。

とにかく、「兵匪一体」そのものの時代でして、

どのような正義の軍隊であろうが、
連中が通った後にはぺんぺん草も生えません。

戦場となった地域は食糧の価格が暴騰し、

逃げられる者は逃げ、
そうでない者達は人間同士で喰い合いを始めるような惨状が頻発します。

 

特に傑作なのは、董卓討伐の挙兵。

コイツの無法も大概ですが(識者によればかなり誇張もあるようですが)、
負けず劣らずなのは、
エンショーだのソンケンだのソーソーだのの諸侯様。

何十万という軍隊が河内と滎陽に集結したため、

現地で食糧の調達が出来ずに
諸侯がこぞって略奪を始めた
ことで、

やはり、共喰いが始まり、
当然逃亡もあったでしょうが、結果として住民は半減したそうな。

曹操が屯田を始めたのは、

当時の諸侯が1年先の食糧計画すら持たずに盗賊化する惨状
目の当たりにしてショックを受けたのも一因だそうな。

張繡を攻めた時、
愛馬が田を荒らしたので首の代わりに髪を切ったという故事も、

住民の食糧難がそれだけ深刻だったことの裏返しでしょう。

参考までに、当時の刑罰のひとつに髠刑(こんけい:髪を切る刑)というものがありまして、

楊沛という官僚(厳正で有名な人)が、督軍といさかいを起こし、
これの5年の刑を喰らいました。

また、こういう話も含めて、19世紀頃までの中国人の感覚としては、
こういう形で髪を切るのはかなりの恥辱です。

喧嘩や戦争での白兵戦は、髪の掴み合いでもありました。

 

城壁があっても喰い詰める

では、郊外ではなく城市に住めば安全かと言えば、
籠城戦にでもなれば、大抵は2~3ヶ月の籠城で食糧が尽き、
これまた共喰いが待っています。

例えば曹操の袁尚の本拠地の鄴攻撃や、司馬仲達の襄平攻撃等では、
2ヶ月から半年程度の籠城戦で大量の餓死者が出ており、
その意味では、無駄な籠城戦に付き合わされる側は本当に悲惨です。

さらに悲惨なのは、

県や郡の城郭を包囲する連中は、

正義の(ホントかよ)劉玄徳様の部隊のような
多少なりとも軍規のありそうな軍隊であればともかく、

有象無象の喰い詰めた盗賊団の方が圧倒的に多かったということです。
落城の後に何が待っているかは、想像に難くありません。

後述する李カクの軍隊なんかひどいもので、
無数の天子の側近を手に掛け、後宮漁りまでやりました。

 

三国時代の「盗賊」の素描

さて、当時の知識人のように
非常に博識なれど口も悪い高島俊男先生によれば、

中国では、ケチな犯罪者ではなく、
大人数で武装蜂起する連中を「盗賊」と呼ぶそうな。

ヘタすれば、こういう集団が国を造るケースもあった訳で、

事実、この時代にも、
そういう御身分で将軍や皇帝を僭称した人が多数いました。

劉備に徐州を進呈した好々爺の陶謙翁なんか
若い時は正義感溢れる秀才官僚だったのですが、

浮世に揉まれていつの間にかやさぐれて、
漢の公務員にもかかわらず
一頃は、天子を僭称した奴の片棒なんか担いでいました。

 

ババ引いた地方官と何人もの「盗賊」

で、上記の次第で、生半可な地方の軍隊など、

いくら中央から派遣された高学歴の地方官が正論を唱えたところで、

この種の千単位・万単位の数で武装蜂起した盗賊には
到底太刀打ち出来ない訳です。

ヘタを打って戦争に敗れて落城の憂き目を見、

はたまた、そうでなくても、
土着の争いの巻き添えを喰って殺されたり、
あるいは城を放棄したりして処分を受けた人も何人もいます。

一方で、この「盗賊」というのも色々パターンがありまして、

家柄なんぞクソ喰らえで
腕っぷしにモノを言わせて略奪一本の奴もいれば、

出自は古い家柄で役所の主簿として名を連ねて地元では大きい顔をして、
裏の顔として、郡外で強盗を働くような狡猾な奴もいたりします。

ですが、その一方で、
時の政権が強かったり、地方官が優秀であったりすると、

馬鹿な部類は抵抗して殲滅されます。
大抵は、斬り合いの前に政権側の謀略に掛かって内部崩壊を起こします。

対して、利口な部類は地域の治安維持に貢献したり募兵に応じたりします。
当然、「利口」な部類で飛び抜けて優秀な者の中には、
君主の片腕になる者も現れます。

要は、その地域の土着の有力者や新興の山賊団が、
治安を維持する側・乱す側のどちらにも転んだ訳です。

辺境(特に北)なんか、
こういう事情に加えて異民族が絡むので
さらに話がややこしくなります。

極論すれば、今の感覚で言えば、
早い話、武力を持った者は、ほとんど例外なくクズと言える時代でした。

もっとも、今のメキシコの麻薬戦争も、この時代の兵乱もそうですが、

国家の治安機能が正常でない以上、

手段は非合法であれ非常識であれ、何であれ、

それぞれの立場に応じて自力救済を強いられるという
とんでもなく過酷な状況にあると言えます。

 

曹操も、元は、
命知らずのハードボイルド地方官

こういう、上では天下国家を語る三国志の皮を被りながら、
下では地方官よりも盗賊の方が強い水滸伝の後漢末期。

このドン・ウィンズロウの『犬の力』さながらの、

国教の儒教の教えが霞んで見えるような弱肉強食の時代における
裏の主役は、

こういう縁の下の力持ちである、

コーエーのゲームに出て来るかどうかも怪しい
無名の腕利きの地方官や、
群雄の軍事力を支えた荒くれ盗賊団ではなかったかと思います。

恐らく、英才教育を受けて若くして孝廉を通るような優秀な頭脳でも
賄賂を取るのが仕事だと居直るクソな地方官が大勢いたであろう中で、

(でなかったら、大土地所有による小農の没落と富の偏在や、
その弊害が国体の否定という最悪の形で露呈した黄巾の乱なんぞ、
そもそも起きていないと思います。)

一握りの真面目な地方官やその部下の官吏達が、

例え我が身が賊の凶刃で朽ちようが、

朝廷を牛耳る曹操に漢の未来を託して
目の前の武力に優る盗賊共と虚実の駆け引きを行う訳でして、

肝の据わった人の場合、
交渉の席で盗賊の頭を斬ったりします。

事実、曹操の若き日も、こういう正義感の強い地方官そのもので、

もう少し言えば、曹操のような優秀な人が星の数輩出しては、
命の遣り取りで呆気なく命を散らした時代でした。

あの時代の知識人階級が自ら剣を取って募兵して寡兵を指揮し、
若き日の向こう見ずさで生き残ったことの方が不思議な位だと思います。

 

穢れ仕事と綺麗事

当然、こういう泣く子も黙る叩き上げの地方官が、
群雄の目に留まって中央で大きい仕事をする、というケースもあります。
劉曄や程昱等がその典型。

(追記:エラい間違いを犯して大変恐縮です。

 程昱も劉曄も、地元で切った張ったをやった時は、
 地方の名士であっても官には就いていません。

 気骨のある地方官としては、例えば梁習や王脩等。)

 

 

ですが、程昱なんか本当に可哀想な人で、

曹操が食糧に困っている時に自分の出身地を略奪してまで
3日分の食糧を工面したのですが、

そのうえそれに人の乾肉を混ぜたことが朝廷の不興を買い、
大臣になれなかったそうな。

また、王忠も人の肉を食べて、
そのことで曹丕にからかわれ続けたそうで、

当人達にしてみれば、恐らくは、
人間辞めたいのを我慢して死に物狂いでやっているのに、

現場の苦労を見てみぬフリの
こういう無神経なのが文帝だの宮廷官僚だのやっている訳で、

人間、環境で如何様にも変わるもので、
王朝文化も、度が過ぎれば待つのは亡国だと思います。
曹爽が政策でも政争でも司馬懿に勝てない訳です。

 

妄想・楊奉伝・その1

ハードボイルド盗賊、その名は楊奉

また、盗賊の中にも、
損得勘定だけで動く人ばかりでもなく、

例えば楊奉なんか、ピカレクスを体現して格好良いと言いますか。

この人、元は白波賊(大規模盗賊団)の頭目だったのですが、
人生のハイライトを迎える直前は、董卓配下の李カクの部下でした。

 

妄想・楊奉伝・その2

ヒャッハーな街角から天子様を救出

転機は董卓の横死。

その跡目争いで首都の長安は灰燼に帰し、
天子様は側近を殺されるという具合に散々な目に遭いました。

さすがに元は盗賊はいえ、傍で観ていて、
こういう状況を潔しとはしなかったのでしょう。

まず李カクの暗殺を企て、
これに失敗した後は李カク・郭汜と全面抗争を始めます。

それだけであればやっていることは李カクと同じですが、

韓暹等、白波賊の仲間を呼び寄せて戦力増強を図る傍ら、

彼の陣地に逃げ込んで来た天子と僅かな側近を保護
長安を脱出するという離れ業をやってのけます。

楊奉にしてみれば、
ここらが人生で一番運が向いた時期だったのかもしれません。

ですが、その後は、一転して運命の歯車が狂い始めます。

 

妄想・楊奉伝・その3

美味しいところは曹操が・・・

元の都の洛陽へ向かう途中の弘農で
李カク等に敗れて李カクの略奪・狼藉を許したり、

安邑で臨時の政権を開いて
楊奉は政権の中枢に参画し韓暹等は上位の将軍の称号を貰うも
肝心の食糧が尽きて張楊の支援でどうにか洛陽入り出来たり、

洛陽に入ると、今度は董承と韓暹が抗争を始め、

楊奉も楊奉で決断力を欠き、

部下の徐晃が曹操に帰順すべきと説き(この辺りは役人出身だけあります)、
当初はそれに従おうとするも、結局は撤回し、

終いには曹操を敵に回して追討されるというグダグダぶり。

それでも、楊奉等の手回して天子が洛陽に戻ったことで、
早い段階で曹操の保護を受けられたことは大きかった訳です。

地方行政にコネ・手腕を持つ知識人層「名士」層の支持を得たことで
社会の混乱の収拾がそれだけ早まったことだけは間違いないでしょう。

 

妄想・楊奉伝・その4

ハッピー・エンドは似合わない

その後、楊奉等は盗賊の気質が抜けず出奔し、
元の稼業に手を出して徐州や揚州で略奪を繰り返し、

最後は、楊奉は民の味方の劉公叔に成敗されましたとさ。

さらに、孤立した韓暹は幷州に向かう途中、地方官との戦いで戦死。

何だか、古い映画ですが、
『明日に向かって撃て』のブッチ一味を見ているようで、

やっていることは手放しに褒められないものの、

7割のクズさと3割の義侠心という意味では、
ハード・ボイルドの主人公としては絵になると言いますか。

 

おわりに

さて、三国志の「正史」の原文ではなく和訳を中心に、
思ったことをツラツラを綴った次第ですが、

当時の世相の話をするつもりが
結局は人の話になってしまいまして、

オマケに冗長になってしまい、
中々思い通りに巧くいかないものだと思います。

その一方で、その内容を全て額面通りに受け取る訳にはいかないにせよ、
また、さまざまな文献と照合しても、

時代のカオスぶりについては、正史の内容と一連の文献との間には、
それ程の差異は感じられなかった、というのが率直な感想です。

また、曹操も孔明や仲達も、当時の真面目な地方官も、
無論、優秀ではあったが決して超人的な人間ではなく、

ましてや称えるべき正義感やそれに基づく行動・清貧さにも、
当時の「名士」階級に流行した考え方が反映された瘦せ我慢
少なからず見え隠れします。

こういうのを、もう少し整理したうえで、
コーエーにゲームに出て来るような武将の出自や類型、仕事等を
少しでも整理出来ればと思う次第。

例えば、寒門出身の武将の生き様なんか、悲哀そのものだと思います。

 

【主要参考文献】

陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』1~3巻
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
高島俊男『中国の大盗賊』
堀敏一『曹操』
澁谷由里の『<軍>の中国史』
ドン・ウィンズロウ『犬の力』上・下
ヨアン・グリロ『メキシコ麻薬戦争』

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戦国時代・三国時代の人口と兵力動員の話

 

はじめに

先の記事の追記につき、
何か大層な結論を導く程の話ではなく、かなり大雑把な話になります。

細部は後日の記事で詰めさせて頂ければ幸いです。

さて、国家の動員兵力に生産力や人口の話を絡めると、
家族制度や農業事情まで話が脹らみ
そのうえ実態も定かならぬ部分もあるので

個人的には、正直なところ、
専攻の方でなければ答えが出ないような泥沼に片足を突っ込んだ心地です。

成程、博学でクレーバーな先生方が、

個々の研究論文であればともかく、
通史レベルでは、こういう事務的かつ曖昧な話をしたがらない訳です。

ただ、参考になると思しき話を少し挙げておきます。

 

1、戦国時代の斉の動員事情

 

中国史の大家の故・宮崎市定先生によれば、

戦国時代の斉の首都・臨淄(りんし)の戸数は7万戸で、
一家から3名の壮丁(当時の年齢の限界は60弱)を動員すれば
臨淄だけで21万の兵力を動員出来たそうな。

三国五鄙の制の時代とは違い、
郊外の(鄙)の地域での徴兵も始まっていることで、
たしかに、数字のうえでは数十万の規模は見込めると思います。

一方で、あの時代の小家族は、今の日本の核家族と変わらず、
その状態で全世帯に動員を掛ければ治安や生産等の機能は止まると思います。

さらに、臨淄は中原では、大規模な遺跡が残るレベルの都市で、

特に、臨淄のレベルの都市ともなると場合
大規模な武器・兵器の工場を抱えていることで、
これに充てる労働力も馬鹿になりません。

因みに、中国の武器は、刀剣の類であっても、
余程の高級品でなければ、使い捨てでよく壊れるものだそうで、

諸事、手作業で作る時代のことにつき、
大量に供給しようとすれば、相応の人数を要すると思います。

さらに、戦争を仕掛ける場合は、
第三国の侵略に備えて国内にもある程度兵力を残すことを考えると
実働数はかなり少ないのではないかと推測します。

では、分母の総人口はどれ位か、という話になるのですが、
大変申し訳ありません。これは後日の課題にさせて下さい。

 

後漢末期における人口の推移と北伐の動員兵力

また三国時代の話で恐縮ですが、

戦国時代に明代までの戦争のスタイルが確立し、
この時代も大体はそれを踏襲していることで、
動員についてある程度の指標になるかもしれないと思った次第です。

さて、漢代は確かに開発時代でしたが、
その最末期―三国時代は、一転して、戦乱による凄まじい飢餓の時代に突入したようでして、
統計のスタンダートや正確性はともかく、以下の数字の模様。

157年   戸数1067万・口数5648万

263年頃  戸数 146万・口数 767万

100年で人口が7分の1に減少、言語に絶する話です。

この時代の状況として、
各勢力が戦争と同じレベルの熾烈さで人口の奪い合いを演じ、

(例えば官渡の戦い等)戦地の穀物の価格が暴騰して人肉を喰らったり、
あるいは、ゴースト・タウンが急増するような悲惨な状態が、
時期を問わず各地で多発していることからも、

統計の数字は、ある程度の大勢を反映していると思います。

因みに、この間の時期に行われた諸葛孔明の北伐。

500とか1000の兵力の話がよく出て来る中で、
(因みに、官渡・袁紹軍15万、夷陵で孫権・5万、赤壁は孫権・3万、曹操・不明)
双方、他に類を見ない位の動員兵力でして、その数、魏が20万、蜀が8万。

263年の数字で考えれば、魏は人口450万弱で、蜀は100万弱の人口。

魏の場合は、呉方面にもかなりの兵力を置き、実際に大きい戦役も多発しています。

漢代の戸籍が充実しているのは、
制度上は貴族の土地支配を排除出来たからなのですが、

身分とは別に、土地の集積を始める奴が出て来て貧富の差が開き、
こういう連中が買官して支配下の小作からの搾取を合法化したので、

社会不安が増幅し、黄巾の乱の伏線になりました。

それはともかく、北伐の段階で人口をもう少し多く見積もるにしても、

各国の動員兵力は、人口の数%程度乃至10%未満ではないかと推察します。

時代の事情が異なることで
あまり参考にならないかもしれませんが、
WW2の敗戦国の中で一番動員体制が厳しかった日本でさえ、
大体このレベルです。

因みにあの時代は、フィリピン戦辺りから大分老兵も徴兵されましたが、
年齢や体格の関係で戦地に行かない男性は、片っ端から軍需工場に動員されました。

これとは別に、特に漢代以降、北方の脅威となる匈奴も、

遊牧民族につき工業的な生産拠点が少なかったことで
常に軍需物資と食糧の欠如に悩まされていたそうな。

これらの話が意味するところは、
世の東西を問わず、国が本気で戦争をしようとすれば、

前線で斬り合いをやる人間と同じ位、武器や食糧の生産に充てる人間が必要になる、
ということなのでしょう。

 

【主要参考文献】

宮崎市定『中国史(上)』
飯尾秀幸『中国史のなかの家族』
掘敏一『曹操』
陳寿・裴松之注・井波律子訳『正史三国志5』
金文京『中国の歴史4』
川勝義雄『魏晋南北朝』
沢田勲『冒頓単于』

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戦国時代の部隊編成

はじめに ~減少する定員

まず、簡単に春秋時代の部隊編成のおさらいをします。

戦争は野戦の戦車戦が中心であったことで、
大本となる周の制度では、最小単位「伍」・5名、そして、次に小さい編成単位は「卒」・100名。
そして覇権を握った斉の制度では、

最小単位「伍」・5名、次に「小戎」・50名、さらに卒・「200」名。
この「卒」という編成単位は、

また、周の「卒」や斉の「戎」は、
戦車1台とそれに付随する歩兵で構成される「乗」という単位に
対応すると思われます。

 

1、大量動員時代の戦争の風景

ところが、孫武・伍子胥の呉が農民歩兵の大量動員を始め、
他国がこれに倣うと、戦争の風景は一変します。

平地の戦いでは密集隊形の歩兵が出現し、

また、平地だけでなく丘陵・森林地帯等の広汎な地形で戦争が行われ、
奇襲・伏兵、何でも御座れの騙し合いになります。

この戦争のノウハウ本が、『孫子』や『六韜』等。

また作戦区域の急拡大により、守る側も国中を城郭だらけにしたことで、
その争奪戦が主になります。

それまでの堅苦しく古めかしい戦争の流儀も、
互いにそれを遵守することで、

国家レベルでは軍縮になり得
将兵の目線では戦地では命が助かる等して
互恵的な関係の維持に役立っていた訳ですが、

各国が互いに禁断の果実を舐めたことで、後には退けなくなります。

 

2、食客は凄腕の軍事顧問様

さて、そういう世相の中で、斉は兵制改革を行うのですが、
その担当者・司馬(嬀)穰苴のモデル・ケース。

遅刻した上官を処刑したり、統帥権を盾に王様の命令をゴネたりして、
有名になった人です。

自分の言うことを聞かない王様の側室を斬った孫武といい、
良くも悪くも、後世の所謂「意識高い系」の軍人が好きそうな人ではないかなあと。

当時の大国には、小国の統廃合によって、
即戦力となる亡命貴族が大勢集まるのですが、
大国はこういう所謂「食客」を使い捨てにして勢力を拡大します。

そう、「士は己を知る者の為に死す」は、
まさに、こういう尻に火が付いた状況下での食客の心情を吐露した名言。

とはいえ、この「食客」の層の厚味は、中々面白いものです。

戦闘部隊の立ち上げや指揮、徴税や法令関係の決裁、各種外交交渉、
といった国家の統治にかかわる実務のみならず、斬り合い・モノマネと多士済々でして、

後世ではむしろ、後者の異能ぶりの方が有名になっている感が無きにしもあらず。

で、こうして再就職した「食客」は、ひとかどの仕事をしようとすれば、
必ず身分が足枷になる訳でして、
有能で勝気な人程、古株の貴族と揉めるリスクを取って荒療治を行います。

その典型が、孫武や司馬穰苴。

 

3、戦国時代の編成単位と後世への影響

 

【表3】

さて、本題の編成単位の話に戻ります。

やはり、注目すべきは、100名以下の小規模な編制単位だと思います。
烈・5名、火・10名、隊・50名、官・100名と、
5名単位、10名単位の組織が整備されている訳です。

因みに、隊や官といった名詞は、恐らくここから来ているのかと思いました。
加えて、文字の由来が分かりにくいところから、古い制度なのかしらと想像します。

分かりにくい序(ついで)に、
「部」・「曲」は、後の世の三国時代の有象無象の私兵集団を指す言葉でもあり、
良くも悪くも、色々な意味で、後世への影響の大きさが垣間見えます。

余談ながら、ネットで、それも分かり易い活字で「通典」が読めるのですから、
いい時代になったものだと思いますが、
私のアヤフヤな理解で、ヘンな解釈になっていることを予め御断り申し上げます。

 

4、受爵制度と連動する部隊編成

次に掲載する【表4】は、最終的に覇者となった秦の二十爵の制度。

前359年に有名な商鞅が行った政策です。

当時問題になっていた貴族の世襲の存在を否定し、
軍功爵体制を図ったことが主眼にあったそうな。

当然、貴族の反発を受け、政争に敗れた商鞅は刑死するのですが、
制度は残ります。

『キングダム』の幼少期に赤貧を洗った政の話も、
多分こういう改革が背景にあるのでしょう。

【表4】

残念ながら、これは貴族の受爵の制度につき、士大夫・卿はあっても、
中国文明下の下層の身分である「庶」の部分がありません。

したがって、50名未満の小規模編成の実態は筆者の浅学で分かりかねます。

ただ、この国が各国の制度改革の上澄みの部分を取捨選択して富国強兵を図ったことで、
庶と軍事に関する制度は必ずあると思います。

【追記】
商鞅が先述の二十爵と連動させる形で前359年に始めた什伍制というものがあり、
これが生産と軍事で連動していることで5名・10名の単位は説明が付きます。

民を5戸単位と10戸に分け、各々の単位で刑罰の連座制を取るという仕組み。

これが軍事の編成単位として横滑りするということは、
1戸につき1名徴兵するという想定なのでしょう。

また、11以上の級は、俸給も兵権も「客卿」と同じにつき、省略しました。
後述しますが、このような少ない兵権も重要な点のひとつかもしれません。

さて、ここで注目すべきは、貴族の受爵制度と兵権が連動している点です。

どこの国のゴタゴタもそうだと思いますが、
特に秦の場合は、食客がよく働き国力も増強されたことで、

真面目に仕事をして勢力の拡張を図りたい食客と
既得権益の温存を図りたい旧貴族との政争が
シャレにならないレベルに発展しており、

それを調整する仕組みが不可欠になったのでしょう。

また一方で、先の記事で取り上げた、斉の「三国五鄙の制」とは違い、
行政と軍事が乖離している点も垣間見えます。

600家分の税金が俸給、というのは、
恐らく、大国の有力な家臣が持つ政治的な影響力を考えれば、
それだけの権勢で領地を直轄して得られる財貨にしては少ないと考えられます。

つまり、この制度からは、同じ君主の臣下でも、

春秋時代のような、自分の土地では何でも屋である小領主の連合体ではなく、
軍事なり行政なりに特化した官僚という存在が浮かび上がる訳です。

物の本によっては、こういう歩兵の大量動員と集権化の段階で、
身分制度上の貴族は一旦消滅した(後漢~晋の過渡期に復活)と説くものもあります。

 

5、少ない兵権と、何とも多い最大動員兵力

そして、こういう「官僚国家」めいた秦の指揮官の兵権についてですが、
驚くべきことに、最大でも1000名。

後の世のように、臨時の将軍職でもあるのかもしれませんが、
それでも、平時のシステマティックなものにしては少ない気がします。

特に、秦が楚を滅ぼす時の戦争など、公称60万もの軍隊を動員しています。

さらに、秦だけかと言えば、先述の司馬穰苴の斉にしても、
「将軍」職で3200名。

このような脆弱な組織体系で、史書にあるような数十万の軍隊をどう動かすのか、
個人的には不思議でなりません。

因みに、戦前の帝國陸軍は、
太平洋戦争直前の段階で大陸に100万の兵力を送っていましたが、
戦時の師団は大体2万程度の兵力です。
さらに、師団の下には、指揮下の歩兵を二分する
「旅団」という組織もあります。

周代の「旅」が語源なのでしょうが。

さらに、戦時の上位組織として、いくつかの軍に分けていました。
当時の各国の実情も、これとあまり変わりません。

帝國陸軍の話は参考程度にしても、

春秋時代の周代の制度と戦国時代の斉や秦の制度を比較した際、
小部隊の編成単位が整備されている反面
大部隊の編制単位の整備が等閑になっているところを見ると、

平時の最大組織と公称の最大動員兵力の乖離が
どれ程大きいかを示唆していると思います。

もっとも、幕僚組織めいたものがあったのかもしれませんが、
それでも、一人の優秀な将軍が数百名もの指揮官に逐一指示を出したのか、

若しくは、何十万の人数を動かすための組織力として、
軍隊とは異なる上位組織や貴族の人脈で動いていたのか。

軍事は元より、もう少し広い視野(政治史等)で見るべく、
通史等をいくつか紐説いても、どうも納得出来る応えが見つかりません。

 

7、実は、動員兵力は、

一桁もサバを読むハッタリだった?!

ですが、前後の時代の実情を考えれば、
思い当たるフシが無い訳でもありません。

愚見を開陳すれば、答えは、そもそも実数は一桁小さいのではないかと思います。

つまり、周の時代の制度に基づく最大動員数が、
存外いい線いっていた、という御話。

どの本を読んでも、数十万の兵力が、と書いてあるので、
中々こういうことを考え付かなかったのですが、

こういうのが的外れであれば、笑って下さい。

確かに、社会を狂わせるレベルの歩兵の大量動員はあったと思いますが、
兵力が一桁増える程ではなかった、ということなのでしょう。

逆に言えば、
周の時代には乗もしくは卒の定員100名に対して極めて充足率は極めて低く、
さらには、時代が下って春秋時代の斉の三国五鄙の制の50名は、
恐らく実数に近かったと思われます。

そして、戦国時代には、多くても周の時代の3倍程度であったと邪推しますが、
その程度でも戦争をやる側にとっては銃後も含めて大きい負担であり、

戦争に勝つためには、
前線での戦法どころか兵力・物資の動員体制まで変えざるを得なかった、という御話。

 

8、小部隊が活躍する大開発時代の戦争

戦国の七雄共の兵力の鯖読みの根拠として説得力のあるのは、
恐らくこの時代より500年弱後の後漢末期の御話。

秦が滅亡した後の漢は、大規模の外征をやって財政は逼迫したものの、
国内では、前漢の滅亡時の内乱以外は目立った内乱がなく、

経済的には生産力が大幅に向上した大開発時代でした。

ところが、その戦国時代に比して増強された生産力を前提にした
三国時代の戦争でさえ、

演義では100万だとか物々しい数字が出て来るものの、

戦国の七雄以上の支配地域を有する勢力が、
国運を賭けて国力を総動員して行った「官渡の戦い」や「夷陵の戦い」等の
大きな戦役ですら、

大抵は、双方合わせても20万の兵力にも満たないのが実相の模様。

さらに、その三国時代の正史を読むと、

編成単位と兵数の話を整理した場合、

先鋒や陽動といった単独で作戦を預かる支隊、
他勢力に離反する部隊、
挙兵に際に君主に合流する部隊等の兵力が、

大半は200名~3000名以下、という話が非常に多いのです。

しかも、その中でも1000名前後かそれ以下、というケースが大半。

これが意味するところが、
ひとりの指揮官が単独で作戦行動を行う場合、

当時の戦闘のノウハウやインフラ事情からすれば、
これ位の人数が適正であったことを示唆していると思われます。

そして、戦時の大部隊の実態は、
平時の小規模な部隊の連合体ではなかったのかと推測します。

つまり、派遣兵力が何万という単位になると、

指揮下の部隊も、自分の息の掛かった直系部隊だけではなく、
さらにはその規模の兵力に見合った指揮官なり組織体系がないことで、

兵力の規模が逆にアダになり、
寄り合い所帯と化し、効率的な動きが難しかった、
ということなのでしょう。

―三国時代のこの辺りの話については、後日、別の記事を書く予定です。

また、どの時代にも通ずる調べ事の原則としても、

こういう事務的な話は、人の耳目をひく大言壮語の逸話の類とは異なり、
登場する回数が多いことで真実味を増します。

例えば、江戸時代の法令等、
贅沢・殺生・喧嘩沙汰といった類の禁止令が何度も出ていれば、
違反者が多かったのが実情だと解釈する訳です。

こういうロジックにつき、

個人的に、部隊の末端の編成単位にこだわったのは、
戦闘の実相が知りたかったのが最大の理由ですが、
要は、こういうヘンな仮説を立てるに至った点にもあります。

【追記】

『尉繚子』に記された単位編成も掲載します。

下記のようになりますが、漢代の部隊編成と内容が近いことから、
成立年代はかなり新しいのかなあと思います。

 

余談ながら、『六韜』といい『尉繚子』といい、
執筆の経緯が怪しかったり成立年代が不明なところを見ると、

中国では、当時から、
思想関係の書物以外の
こういうハウツー本の価値が低かったのかなあと邪推します。

なお、特に漢代以降は、
読書とは、儒教関係の本を読むことを意味したのだそうな。

つまり、今日で言えば、
『キングダム』も『ナミヤ雑貨店の奇蹟』も本のうちには入らない訳で、

さらには、西洋の本なんか禁書扱いでコピーが出回るという位で、

そりゃ、19世紀に現体制に嫌気が指して洪秀全が兵乱を起こした時も、

少しばかりキリスト教をかじった程度では、
新政権の枠組みが王朝しか思い付かなかったのも分かる気がします。

因みに、もう少し秦の軍隊について詳しく知りたい方は、
以下の記事を御覧頂ければ幸いです。

解剖?!戦国・秦の軍隊

【主要参考文献】
高木智見『孔子 我、戦えば則ち克つ』
貝塚茂樹 伊藤道治『古代中国』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
浅野裕一『孫子』
西嶋定生『秦漢帝国』
川勝義雄『魏晋南北朝』
宮崎市定『中国史(上)』
飯尾秀幸『中国史のなかの家族』
堀敏一『曹操』
陳寿・裴松之注・井波律子訳『正史三国志5』
金文京『中国の歴史4』
岡本隆司『中国の論理』

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