群雄の一抹の正義感・使命感とその背景

はじめに~戦争を正当化する理屈

 

三国時代の軍隊について調べる過程で溜まった知識と言いますか、
その副産物としての妄想と言いますか、

今回は、その種の三国志の人物関係のヨタ話と相成ります。

ブログのテーマが戦争とはいえ、

史家の興味対象が軍事考証の話からかけ離れていることで、
どうしても群像劇の話が必然的に多くなるのを嘆く次第。

まして、折角読み始めた正史につき、
出来る限り多くの記事のネタを引き出してやろうという
筆者の卑しさも、
残念ながら隠し切れなくなって来ました。

さて、日本も中国も、前近代の軍記物は、
大義名分を仰々しく発します。

これは、古来の戦争儀式や法令執行の側面があったことと、
王朝の権力発動のロジック、
さらには、人の本能としての集団殺戮を行うことの後ろめたさ等、
色々理由がありそうに思います。

で、そうしたものに対して居直って戦地に臨んだものの、
想定外のことが色々と起きることで、

登場人物が何度となく死に掛けるのも、
読み物としては醍醐味なのでしょう。

もっとも、地獄のニューギニアから生還した故・水木しげる先生は、
こういうのを達観して
「死ぬような、ではなくて、死ぬんです。」と、
おっしゃっていましたが。

ここでは、三国時代のその種の戦場での命の遣り取りの場面をマクラに、

そもそも一廉(ひとかど)の人物を
そういうグロい「大冒険」に駆り立てる魔物の正体
多少なりとも解明することを試みる次第です。

ただ、残念ながら、
筆者の筆力不足で取り留めない長話となってしまいまして、
今回に限っては、最後に結論を導く作業は省きます。

読者の皆様におかれましては、
個々の締まりのない話から、

せめて、多少なりとも
物学びの示唆めいたものを得ることとなれば、

書き手としましては望外の幸せで御座います。

 

 

1、祖茂は生きていた

 

前回の話の中で、
陽人の戦いにおける孫堅の影武者の話をしましたが、
まずは、その続きと言いますか。

正史に曰く、

陽人の戦いで、孫堅配下の祖茂は、
主君の赤い帽子を拝借して影武者になりすましたものの、
柱か枝に帽子を被せて艤装し、巧く逃げおせた模様。

人の死をサラッと書く性格の書物につき、
恐らくこういう話は本当なのでしょう。

 

余談ながら、中学生の時に読んだ斉藤洋先生
『呉書 三国志〈1 将の巻〉孫堅伝「孫堅伝」』のこの辺りの件が
良い味を出しておりました。

また、モンキー・パンチ先生の筆の味の効いた
ルパンとは一味違う格好良いイラスト共々、
作品自体も好きだったのですが、

なんだか歴史書の記述で拍子抜けの心地。

もっとも、恥じる行いでもなく、
機知を働かせて無事に生還したことで、

命の遣り取り場では、めでたい部類の話には違いないのですが。

ただ、読み物の感想としては、
少々考えたい材料を見出しまして。

 

 

2、「正義」の戦隊同士の抗争劇の幕開け

 

と、言いますのは、

小説といえども、
作家としての斉藤先生の慧眼と言いますか、

祖茂をして、
反董卓の諸侯は所詮は利権に飢えた烏合の衆と説き
派兵の中止を具申させている件に
引き込まれました。

それまで、盗賊の類の討伐しか経験のなかった
皇室への忠誠や世直しへの奉仕にやぶさかではない
純粋な孫堅を狂言回しとして、

読者に動乱の時代の本質を垣間見させる仕掛け
巧妙だと思った次第です。

 

この辺りは、正史を読む分にも、

挙兵を勢力拡張の建前にしようとする
袁紹や公孫瓚の動きを見れば
成程なあと思いますし、

一方で、小説の流れとしては、

それを予言しながらも主君の影武者として戦死し、
孫堅が忠臣を失った無念さと自らの愚かさを悔いるところに
この小説としての面白味があったように思います。

さらには、今から思えば、
目立ったヒロインが出て来なかったにもかかわらず、

純粋な脳筋の孫堅を軸に、

バランス型の知恵者の程普、勇敢な肉体派の黄蓋、寡黙な職人の韓当
そして確かな目を持ち武芸にも秀でる側近タイプの祖茂と、

主役の陣営の登場人物ごとの役割分担が巧く出来ており、
子供の読み物としては
よく出来ていたなあと思う次第。

こういう小説の影響か、
当時、光栄の『三國志』シリーズで孫堅で遊ぶのが楽しかったことも、
序に思い出しました。

90年代前半の話と記憶します。

 

 

3、解剖、群雄の皆様の正義感
3-1、挙兵と大義名分

 

無論、こういう時代に私財を投げ打ったり、
あるいは官僚組織の一部である
地方官という職権を乱用して挙兵すること自体、

王朝の命運が尽きかけていること
この時代の血で血を洗う権力闘争
凄惨さや泥臭といった本質めいたもの
嫌という程に骨身に染みて理解出来ている証拠です。

それでも危険を冒すところに
一抹の正義感がないとは言えないと思います。

まして、儒教が国教化して
忠だの孝だのの文言が知識人層の存立基盤として
罷り通っていることで、

こういう思想に沿う形でのそれなりの大義名分がなければ
根拠地での政治力や経済力を有する
資産家や名士の支持を得られない、

つまりは、略奪と戦争、あるいは寄付で食い繋ぐ、
一頃の呂布や劉備の部隊のような
「兵匪一体」の傭兵団の域を脱することが出来ない訳です。

 

3-2、土地と地元名士(富裕知識人層)が一体の
     地方行政

こういう理屈を説明する例として、
公孫瓚と陳宮を比較してみます。

例えば公孫瓚は、孝廉上がりにもかかわらず、
地方政治に明るい知識人層を冷遇してしくじったクチですが、

敢えてそれを行ったことで、
頭デッカチな連中に対して
余程含むところがあったのかもしれません。

例えば、辺境の武力本位の世界で育った軍人という事情が
考えられます。

反対に、呂布や陳宮が新天地の徐州で
命運尽きても他の州に逃げずに玉砕覚悟の籠城を行ったのは、

特に陳宮の場合
権力闘争に敗れて地元の兗州を追い出されたことで
流浪の傭兵団に転落することの悲哀が嫌という程分かっており、

地方の利害を調整して天下国家を論じる
地方官・名士としての矜持を捨て切れなかった証左に見受けます。

 

 

3-3、滅私と打算の曖昧な境界線

 

面白いのは、
こういう泥臭い利権絡みの話と並行して、
損得勘定抜きで死に掛ける人が出るという当時の状況です。

例えば、自分に従わない地方官を暴力で散々恐喝した、
泣く子も黙るタカ派軍閥の孫堅
墟と化した洛陽の惨状に落涙したのも、

(脚注とはいえ、『呉書』にこんなことが書いてあるので驚きです。
「旧京空虚、数百里中无烟火。坚前入城、惆怅流涕」。)

やさぐれた失業者の曹操
酒宴外交に明け暮れ尻込む諸侯を他所に優勢な徐栄に果敢に挑んだり、

強大な盗賊団を相手に
盟友が戦死するレベルの死闘を繰り広げたのも、

強ち、自らの名誉栄達のためだけとは言い切れず、
社会の一員としての使命感と決して無縁ではなかったと思います。

特に曹操の場合は、
ある時期までは漢に滅私奉公する態度を変えなかったことで、
結果として、見る目のある知識人層の支持を得ることに繋がりました。

その意味では、
(知識人の)世論の支持する建前を愚直に守ることの意義
極めて大きかったと言う他はありません。

 

 

4、また増えた、粗悪な曹操人物評
4-1、人物鑑定は
政争のワンダー・ランドへのパスポート

 

今日、少なからぬ文献が指摘していることですが、

後漢末期に許劭のやったような人物評
易者による占いのような形のないものではなく、
当時の学術サロン≒名士社会へのパスポートという位置付けでした。

さらに、このサロンに入ることによって、
中央の官界や地方行政との人脈が出来、その筋からの情報も入ることで、
軍閥の権力闘争には必須の資格であった訳です。

無論、門外漢の癖にエラそうなことを書く私も、
つい10年位前までは占い程度の認識でした。

これに因みまして、

恐らく90年代辺りからの三国志関係の需要拡大により
中国史の常識めいた知識が安価な文献で分かるようになり、

昨今の出版事情には大いに感謝せねばならないと思う次第。

と、出版各社や、研究者の皆様に謝意を示したところで、
私もやろうかしら、人物評。

現在のような、ネットの普及による国民総ライター時代、

2000年も前の人間に対するゴミのような人物鑑定が
電脳世界にひとつ位増えたところで、

名誉棄損で裁判を起こす人は、恐らくいる訳でもなく、
まして社会の大きな害悪になるものでもなかろうと信じます。

 

 

4-2、クソな人格と模範的な人心掌握術

 

いくら曹操を褒める歴史書と言えども、

文章の行間から、
死線の怖さやそれを掻い潜ってでも
何かを成し遂げようとする執念が滲み出るとでも言いますか、

私のように別段曹操に愛着が無くとも、
支持する人間の心情が分からなくもありません。

当人の人格自体も、劉備同様、
放蕩癖が老年になってもどうも完全には治らず、
その場の気分やくだらない理由で側近を殺したりすることで、

どちらかと言えばクズ寄りに見受けますが、

その一方で、
儒教の権威に喧嘩を売るレベルの図抜けた教養は言うに及ばず、

この時代には珍しい能力重視とはいえ、

(自分がクズだと自覚しているのか)
人格者を素直に褒めて厚遇する度量もしっかりと持ち合わせ、
信賞必罰を適性に行う能力があります。

 

 

4-3、「寛治(ばか)」と「猛政(はさみ)」は使いよう

 

なお、これに因みまして、
このブログでも引用の多い渡邊義浩先生によれば、

この時代の考え方の潮流としては大別して
「寛治」と「猛政」のふたつがあるそうな。

要は、規則を緩めるか締めるかの違いです。

後漢末期の風潮は全体的に緩かった、つまり、「寛治」が主流。
例えば、役人の贈賄の横行等につながります。

そこで、曹操や諸葛亮のように、
敢えてそれに逆らって「猛政」で臨んだことが成功例とされました。
対して、失敗例が家臣の統制が緩過ぎて決断力を欠いた袁紹とのこと。

ただ、浅学ながら愚見を開陳すれば、大いに説得力を感じる反面、
ある面では、こういうものは同じ時代でも使いようだとも思います。

 

 

4-4、「寛治」の馴染みあるダメ社会

 

例えば、如何に聖人君子への道を説いた儒教を齧った知識人といえども、

人の弱味に付け込む策謀を施すような謀臣
「寛治」の生臭さに通じていなければ仕事にならないでしょうし、

劉邦の謀臣の陳平なんか、
このタイプでなければ行動に説明が付かないと思います。

漢の高祖様も、
恐らく異民族の包囲で戦死していたことでしょう。

また、地方行政のレベルでは、
郊外に巣食う山賊団の分断工作なんか、
恐らくはこういうノウハウがモノを言う訳で。

孫堅なんかも、
恐らく、こういう泥臭い修羅場で叩き上げた人です。

 

 

4-5、中国社会と文字に対する感覚

 

もう少し言えば、
中国の下層社会
当時も今も上澄みと違う意味での泥臭さがあり、

自称4000年の歴史なんか、

例えば河出の通史辺りを何冊か読むと、
戦争は元より、
汚職と搾取と権謀術数の歴史に思えて仕方がありません。

偶然面識を得させて頂いた
さる気鋭の中国文学の先生がおしゃっていましたが、

下層社会の識字率が極端に低く
社会の上下で文化に大きな断絶があるそうで、

こういう事情が少なからず祟っているのかもしれません。

その種の人々は文字を不要とし、
ジャッキー・チェン宜しく規則も唄も頭で覚えるそうで、

大衆に馴染みのある民間演芸も、
リズムやゴロを大事にするという具合に
こういう階層に向けた作りだそうな。

まして漢詩なんか、今日の高校生の教養どころか、
科挙を受験する連中の嗜みにつき、

確かに、内容がひねくれていて小難しい訳です。
そういうのを、高尚というのでしょうが。

 

 

4-6、カンフル剤としての「猛政」
栄養剤としての「寛治」

 

で、その結果、例え戦争がない時代でも、
一部の真面目な奴が泣きを見るようなデタラメな社会構造の中で、
世間で老荘思想が流行るのも世の流れに見受けます。

つまり、人の支持を得る方法は、
儒家や法家のように、ガリ勉や規律に求めることも可能あり、

一方で、戒律の緩い宗派の仏教や道家のように、
ダメな浮世の中から探し出すことも然り、でして。

例えば、劉備なんかそれを熟知していて巧く立ち回った訳で、
「自分は曹操と逆のことをやって支持を得た」と居直っています。

私のようなヒラの生半可な道楽者の世迷言ではなく、

人たらしで兵集めの巧者であり、
一介の傭兵隊長から皇帝に成り上がった人が
こういう言葉を残しているところに
説得力があると言いますか。

もっとも、実子の劉禅には、

良馬を求めたり無駄に着飾ったりと、
「自分のように不道徳はするな」と説いている点が笑えますが。

それはともかく、

不道徳が人間の生存本能と不可分の関係を持つ以上、
その使い方も政治力の一部ではないかと思う次第です。

無論、物欲を努力で制御出来るに越したことはないのですが、

当の曹操本人の場合、

政策面でははともかく、
自己管理の手法としての「猛政」の効果は
どうも疑わしく思えて仕方ありません。

 

 

4-7、主演:曹操孟徳

 

今回の最後の御話となります。

さて、こういう人格的にはアレでも、筆者と異なり、
やることは非常に内容の濃い人につき、
伝記も必然的に面白くなって来るものでして。

特に「武帝紀」の前半部分は、
もう少し娯楽作品で掘り下げても良かろうと思います。

特にこの時期の曹操は、彼自身が寡兵で最前線で戦い、
董卓や山賊との戦いで鮑信や衛茲といった優秀な盟友が
バタバタ討死し、
その過程で、当然、自分も何度も死に掛け、

そのうえ、董卓討伐に真っ先の名乗りを上げた優秀な親友の張邈
当人の弟や陳宮にそそのかされて
彼を裏切るというアクシデントに見舞われもしました。

友に裏切られるだけならまだしも、
この策謀によって根拠地・兗州の大半の城が離反するという
絶体絶命の危機もあり、

(この折、後日兗州から放逐された呂布や陳宮がやったように、
陶謙から分捕った徐州にそのまま居座ろうとしまして、
反対に、これを必死に諫めたのが荀彧。
曹操も人の子で、
時には、こういう大局を誤るヘマもやるのです。)

その意味では、
袁紹との戦いよりも物心両面ではるかに過酷な状況にあったことで、
個人的には、曹操の生涯で一番ドラマになりそうな時期に思えます。

―そう、この時期の曹操は、

決して、200年以降のような
物量と家臣の質で主役の劉備を圧倒するという
完全無欠の天敵めいた存在ではなく、

自分の命を賭して試行錯誤に明け暮れるという意味では
良い面も未熟な面も赤裸々に見せつつ
日々苦悶する青春群像劇の主人公そのものではなかろうかと。

 

ただ、戦争がテーマのブログとしては、非常に遺憾ながら、

曹操が自分の戦力を隠す工夫を施したのか、
それとも史家の興味対象が払われなかったのか、
当人の軍の動員兵力や部隊編成に関する話がほとんどなかったことで、

190年代の状況については、
曹操を軍を軸に兵力の話をすることが出来なかった訳です。

 

【主要参考文献】

陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』1~6巻
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
金文京『中国の歴史 04』
湯浅 邦弘 編著『概説 中国思想史』
堀敏一『曹操』
岡本隆司『中国の論理』
川勝義雄『魏晋南北朝』

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