鎧の部位、構造、及び兵科ごとの特徴


更新が遅れて大変恐縮です。

また、今回も長くなったことで、
以下に、章立てを付けます。

適当にスクロールして頂き、
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

 

 

はじめに

1、鎧の部位
1-1 どのような部位に分けられるのか?
1-2 冑
1-3 カッコいいものは、実は銅製?!
1-4 盆領
1-5 披搏
1-6 身甲の開口部
1-7 垂縁
1-8 膝裙
1-9 後漢・三国時代へのアプローチの一手法?!

2、鎧の構造
2-1 基本構造はいつ整ったか?
2-2、鎧の大雑把な作り方?!
2-3、可動部の甲片の繋ぎ方
2-4、甲片を繋ぐ紐とその特徴

3、兵科ごとの鎧の特徴
3-1 歩兵・騎兵・戦車兵の3区分
【雑談】飛び道具を扱う人々
3-2 歩兵の鎧の特徴
3-3 騎兵の鎧の特徴
【雑談】異文化交流は危険な香り
3-4 戦車兵の鎧の特徴

おわりに

 

 

 

はじめに

後漢・三国時代の鎧の話をする前に、
鎧そのものの基本を
もう少し掘り下げよう、という御話の2回目。

今回は、部位と構造について
綴ります。

 

 

1、鎧の部位

1-1 どのような部位に分けられるのか?

まずは、以下のアレなイラストを
御覧下さい。

楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

 

一応説明しますと、

自撮りをやってるおねえさんが
着ているのは、
前漢の斉王の墓からの出土品の
そのまた復元品です。

何処の国でも
古代の出土品の現物でこんなことやったら
エライ事になると思います。

―それはともかく、

 

甲片の編み方は魚鱗甲につき、
少なくとも武帝期の後半以降と
推測します。

さて、イラストの主目的である
部位の解説ですが、

篠田耕一先生
『武器と防具 中国編』
設定された区分を元に、

サイト制作者が
諸々の文献や字引から
それっぽいと思うものを書き足すという
少々横着な内容です。

それはともかく、

古代中国の鎧の部位は
大体このような区分に
分けられるかと思います。

 

また、この中でも、

魏晋―つまり、
大体、三国志の時代までは
存在そのものが怪しい部位
ありまして、

これは後述します。

それでは、まずは、
頭―日本でいうところの兜から
順に観ていくとしましょう。

 

 

 

1-2 冑

古代中国では、
頭を守る部位を「冑」といいます。

そう、時代劇や軍記物に出て来る
所謂、甲「冑」とは、
鎧・兜を意味する訳です。

別名、首鎧・兜鍪(とうぼう)。

 

さて、「冑」は部位のみならず、
頭を守る武具も意味します。

 

例えば、イラストにあるような皮冑

これは、戦国時代の戦車兵が
装備したものです。

具体的な武具の名称は、
当然ながら別に存在します。

 

また、盔(かい)や鍪(ぼう)は
金属製の兜を意味します。

 

因みに、鍪は元は釜の意。
兜と形状が似ていることから
派生したそうな。

 

戦国時代の雑兵が
陣笠を食事の器にしたという話が
何かの本に書いてあったと
記憶しますが、

戦国時代の士大夫が
鉄兜をこういう使い方をしたのかは
残念ながら分かりかねます。

 

 

 

1-3 カッコいいものは、実は銅製?!

 

また、後漢末から大体5世紀位までの兜は、

サイト制作者が出土品を見る限りは、
鉄製であれば甲片(小さい鉄のプレート)を
繋ぎ合わせたものばかりです。

 

専門用語で蒙古鉢形冑と言いまして、

兜全体を小さい鉄の甲片で繋いで
頭頂部に半球形の蓋を付けるタイプ。

 

つまり、鋳型を用いて
左右対称の大型のプレートを
接合したタイプのものは
観たことがありません。

 

NHKの『人形劇三国志』や
横山光輝先生の漫画等に出て来るような
鋳型で作って左右を接合するタイプの兜は、
恐らくは銅製だと想像します。

 

と、言いますのは、
この時代の製鉄技術から考えれば、

過去の記事で触れましたように、

 

炒鋼法という
当時世界最先端の
製鋼技術自体は存在したとはいえ、

大型で複雑な形をして
人命を預かるレベルの
相応の強度を持った製鉄製品を
鋳型で作る段階には
至っていなかったからでしょう。

 

駒井和愛先生の
三国時代の明光鎧は
銅製であった可能性が高い、
という学説についても、

技術史的には、恐らくは、

鎧の核となる胸部の大型の金属板を
鋼鉄で作ることが出来ないという
背景があったことと推測します。

 

 

 

1-4 盆領

 

首を守る、謂わば、
襟に相当する部位です。

別名:鐚鍜(あか)。
これは、偶然字引で見つけた言葉です。

 

さて、実は、この部位は、
戦車兵の鎧の大きな特徴です。

 

ですが、さるモノの本には、

イラストにある
前漢時代の盆領付きの筒袖鎧は
騎兵のものと紹介されています。

 

兵科あるいは兵種ごとの特徴については
詳しくは後述しますが、

あくまでサイト制作者の愚見としては、
戦車兵の鎧と思います。

その根拠として、

袖・盆領があり、
甲片の繋ぎ方が
武帝時代以前のものだからです。

つまり、戦車が匈奴との本格的な戦いで
弱点を露呈して戦力的に下火になる
以前のものと推測します。

 

 

 

1-5 披搏

 

次に、腕の上半分に相当する披搏。

兵科あるいは兵種ごとの
鎧の特徴については後述しますが、

この部位に即して掻い摘んで言えば、

歩兵や戦車兵の鎧には、
肩乃至腕を防護する機能があります。

 

例えば、イラストの中心に描かれている
前漢の鎧は歩兵用のものです。
―歩兵どころか、
王様の愛用のものの可能性がありますが。

また、後述する秦の戦列歩兵用のものには
肩甲が付いていますし、

イラストにもありますように、
戦車兵のものともなると、
腕の上半分が完全防御となります。

 

さらに、前漢に入ると、
歩兵の鎧にも
筒袖が標準装備となりまして、

時代が下って
三国時代の蜀や西晋の筒袖鎧へと
継承される流れになると想像します。

 

また、鎧の腕の下半分の部位
臂護(ひご)と言います。

 

ただ、この部位については、
サイト制作者の浅学故か、

少なくとも南北朝時代辺りまでは、
秦代の戦車兵の例を除いて
存在を確認出来ませんでした。

出土品は元より、
どの時代のを観ても、
戦袍の袖が剥き出しになっています。

 

 

 

1-6 身甲の開口部

 

鎧の定義ともなるべき部位です。

そうした事情もあり、
基本的な構造については後述します。

また、甲片の材質や繋ぎ方については、
後の回の話とします。悪しからず。

 

材質の話は、

製鉄が絡むことで
少々取っ付き難い内容ですが、
(サイト制作者もド文系!)

鎧を含めた武器の話をするうえでは
不可欠だとも思いますし、

一旦学び始めると、

少なくとも雑学としては
色々な分野に応用が効くことで、

ハマる要素もあろうかと思います。

したがって、ここでは、
話を鎧の開口部に絞ります。

 

結論から言えば、
色々なタイプがありまして、

不明な部分もあれば、
試行錯誤の痕跡もある、という具合。

 

後述する
秦代の戦列歩兵の鎧のように、

セーターのように鎧の裾から被って
首回りを紐で調整するタイプもあれば、

先述の前漢の
盆領付きの筒袖鎧のような
前開きのタイプもあります。

 

これまた、先述の前漢の斉王墓の鎧は、

右の鎖骨、脇、そしてその真下の腰と、
謂わばチャイナ服のような
切れ目のラインがあり、
この3箇所を紐止めします。

 

もう少し時代が下ると、

例えば、三国時代以降の両当甲は、

肩の部分にベルトがあり、
これと帯の上下で固定・着脱します。

 

残念ながら、
この時代のそれ以外のものは
開口部の詳細は不明です。

 

以下は、
あくまでサイト制作者の推測ですが、

蜀や西晋の筒袖鎧については

当時の俑を観る限り、

魚鱗甲という甲片の繋ぎ方に加え、
前漢に比して
前開きを止めていることから、

先述の前漢斉王墓の鎧と
同じタイプではないか
睨んでいます。

 

また、4、5世紀位になると、
朝鮮や日本では、
かなり大きめの甲片を接合した鎧
登場します。
―当然、技術は大陸のものと思いますが。

 

で、この種の鎧は、
両当甲に脇を補強したような形状で、
脇部分を蝶番で開閉します。

 

隋唐の明光鎧も
モノによっては
肩の部分にベルトが付いていることで、
こういうのは被るタイプと想像します。

 

さらに、もう少し時代が弱下ると、
宋代の歩人甲という鎧がありまして、

これは何と、
身甲・垂縁(裾部分、後述)が一体で
エプロンのような形状で、
背面を紐で縛るタイプでして、

我が国の胴丸やその前の大鎧の
先祖のようなものかもしれません。

さらに披搏部分はこれとは別にあり、
両腕が一体で
前面と背面に分かれるという形状。

蓑の肩部分のような形をしています。

 

 

 

1-7 垂縁

 

鎧の裾部分の部位です。

ですが、兵科によって丈が異なりまして、
股間や尻までスッポリ覆うとは
いかないようです。

この辺りの事情は後述します。

 

さて、変遷めいたものについても、
すこし触れます。

 

まず、殷周時代以前は、
鎧も戦車も
貴族階級の専有物のような状態です。

 

その理由は、
平地での戦車戦が主流の時代につき、

平民が構成員の大半を占める歩兵は、
謂わば添え物のような存在です。

したがって、
鎧≒戦車兵の鎧、という構図。

 

さらに、戦車兵は
車体の防護設備があることで
下半身への攻撃を想定していないためか、

身甲と垂縁が一体になった、
腰のくびれのない
ズングリした鎧となる訳です。

 

言い換えれば、

身甲と垂縁の区別のある鎧は、

御貴族様の戦車の添え物の
謂わば、随伴歩兵のような存在ではなく、

単独での作戦行動の可能な
独立兵科としての歩兵部隊の登場と
軌を一にするかと思われます。

 

つまり、早くとも
春秋時代の末期以降かと。

 

次いで、武霊王の胡服騎射による
騎兵の登場と相成りますが、

秦の重装騎兵、
つまり、鎧を着用した騎兵の存在は
戦国時代では珍しかったようで、

騎兵用鎧の登場については、
さらに時代が下ると思います。

 

騎兵用の鎧は、
大体秦も前漢も、
そして、三国時代の両当甲も、
似たような形状をしています。

 

歩兵より動き易いが
防護の死角も多い作りをしています。

垂縁も、歩兵用の鎧よりも
丈が短くなっています。

これも、後程図解します。

 

 

 

1-8 膝裙

 

残念ながら、
男子の証たる股間の部位は
サイト制作者の浅学につき不明です。
悪しからず。

まあその、

今日で言うところの
ファール・カップのようなものの
存在が確認出来れば、

性格の悪さから
ドヤ顔で図解していると思います。

 

それはともかく、
垂縁の下の部位
膝裙というのがあります。

字義から察するに、
膝を守るためのスカート、
といったところでしょう。

ですが、
どうもスカートにしては
スリットが大き過ぎて
露〇狂を疑わせる何かがあり、
―ではなく、

膝掛や腿当てに近い形状の模様。

 

もう少し具体的に言えば、

西洋の鎧のように、
膝関節の前面を
金属で隙間なく覆うタイプの
防具ではなく、

膝とその周辺の前面を
一枚の大きめの板で覆う
タイプのものです。

日本の戦国時代後期の
当世具足なんかに付いている
膝を覆うための板を御想像下さい。

 

この部位、
読者の方よりの貴重な情報や
むこうの復元品によれば、

前漢の騎兵が
髀褌(ひこん)という腿当てを
着用していた模様。

さらには、西晋時代の俑の中には、
足首まで魚鱗甲めいた装甲に
覆われているものがあります。

これも、さる読者の方の御指摘
気付いた点です。

慧眼の至り。

 

 

 

1-9 後漢・三国時代へのアプローチの一手法?!

 

以前、鎧関係の記事で、

兵器―この場合、鎧、の、
著しい技術向上の背景には、

必ず長きにわたる戦乱があると
書きました。

無論、サイト制作者の妄言の類ではなく、
楊泓先生の受け売りです。

 

例えば、魚鱗甲が登場した背景には
武帝の対匈奴戦があります。

また、始皇帝の兵馬俑の甲片と
前漢前期の出土品の甲片は、

前者が正方形に近く、
後者は長い短冊型をしています。

この技術革新を長期化した戦乱に
見出すとすれば、

秦末の反乱から楚漢戦争までの
動乱の時代に他なりません。

 

そして、このような思考パターンで、

膝裙の導入の契機となった
軍事的な画期を
その西晋時代の
少し前の戦乱の時代と仮定すると、

何と、三国志の時代の
終り頃と相成る訳ですワ、これが。

 

戦火を蒙った当事者としては
忌まわしい事実でしょうが、

三国志のファンとしては
何とも夢のある話で。

 

つまり、強気なことを言えば、

三国志の鎧には身甲や垂縁に加え、
膝裙付きの、
食前酒も食後のスイーツやコーヒーも付いた
フルコースな鎧があった!

―と、言えなくもありません。

まず、兵卒の鎧ではないと思いますが。

 

 

 

2、鎧の構造

 

2-1 基本構造はいつ整ったか?

 

一通り、部位について確認したところで、
次は、鎧の構造の話をします。

早速ですが、
以下のアレなイラストを御覧下さい。

楊泓『中国古兵器論叢』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

 

楊泓先生によれば、

古代中国の鎧の基本構造は
大体戦国時代に出来上がった
しています。

 

戦車兵、歩兵、そして騎兵の
3つの兵科が確立し、

各々の兵科ごとの戦術も
或る程度完成したことに起因すると
想像します。

 

また、時代が下るにつれて
鎧に色々なパーツが付いたり
甲片の繋ぎ方が複雑になったりしますが、

そうした鎧の進化の際の
最大公約数めいた御約束も、

この段階で出揃った、
ということなのでしょう。

 

サイト制作者が
他人様の褌で鎧の構造を図解するに当たって、

イラストにあるような
秦の歩兵用の鎧を事例にしたのも、

上記の点が理由です。

 

 

 

2-2、鎧の大雑把な作り方?!

 

それでは、まず、
鎧の作り方から見ていきます。

復元品を作ったり
イラストを描いたりする際、
一儲けを企むため
参考にでもなればと思います。

 

さて、最初に胸部正面の甲片を作り、
その左右に甲片を繋いでいき、
環状のものを作ります。

つまり、胸囲に相当する
横一列の環状の甲片を作ります。

 

それを、何本も作り、
上から順につないでいきます。

 

因みに、イラストでは
鎧の中央の縦一列の甲片の色
薄くしてありますが、
これは説明用の色分けです。

残念ながら、
シ〇レー・カマロのような
ツートン・カラーだった訳ではありません。

 

後、漫画や小説でも書く際、

3倍速く動ける設定で赤く塗ろう、
というような
何処かで聴いたような話の盛り方は、

当然ながら、
法務関係の話も含めて
自己責任で御願い致します、などと。

―それはともかく。

 

 

 

2-3、可動部の甲片の繋ぎ方

 

また、胸部と腹部の違いは、

胸部の甲片は、
鎧の内側で紐で縛って固定します。

また、上下の甲片が重なる部分は、
上の甲片を外(前)に出します。

 

腹部の甲片は、
鎧の外側にも綴じ紐を出し、

上下の甲片が重なる部分は、
胸部とは逆に、
下の甲片を外(前)に出します。

これは可動部であることを意味します。

悪く言えば、
遊びの部分があることで
多少腹が出てもキツくはならない訳です。

そのための機能かどうかは
分かりませんが。

 

また、こうした可能部は、
歩兵用の鎧の場合は、
肩甲―つまり、披搏にも同じことが言えます。

 

ただ、恐らくデメリットもありまして、
いくら可動部とはいえ、

そもそも肩甲があること自体、

腕の可動域が狭まることも
意味するのでしょう。

 

もう少し具体的に言えば、

サイト制作者の想像の域を出ませんが、

鎧を付けない秦の弩兵・弓兵と
肩の防護のない鎧を着用する
秦・漢・魏晋の騎兵を観る限り、

この時代の肩甲のある鎧では
可動域が狭いことで
弓が引きにくいものと想像します。
(特に、仰角で曲射を行う場合)

 

また、全長約64cmとあるのは、
種本の兵馬俑の鎧の丈だと思います。
色々なサイズがあるのでしょう。

因みに、当時の兵士の身長は
大体150cm弱。
戦国時代の趙の精鋭は平均171cm。

御参考まで。

 

 

 

2-4、甲片を繋ぐ紐とその特徴

 

最後に、鎧の甲片を繋ぐ紐についても
言及します。前漢の事例です。

まず、紐は麻縄です。

次いで、3つの特徴があります。

 

1、細いものを大量に使用。
鎧の全ての部位に言える話だと思います。

2、1、より細いものを3本撚ったものを
可動部位に使用。

3、撚られていない紐を1本乃至複数本を
重要でない部位―恐らく固定部位、に使用。

 

つまり、動きが激しく摩耗し易い可動部位には、
頑丈なものを使うという御話です。

 

 

 

3、兵科ごとの鎧の特徴

 

3-1 歩兵・騎兵・戦車兵の3区分

続いて、兵科ごとの鎧の特徴について触れます。

 

因みに、以下は
サイト制作者個人の意見に過ぎませんが、

兵科は国家や軍が法や命令で決めるもの、
兵種はもう少し抽象的・概念的なもの、

―という具合に考えています。

 

 

【雑談】 飛び道具を扱う人々

例えば、この時代で言えば、
同じ矢を扱う兵士でも、

密集隊形で弩を放つのと
伍の戦列で弓を射るのでは、

軍隊の中でも
運用の方法が異なるのですが、

そもそも、
弓弩を扱う徒歩の兵士は、
基本的に鎧を付けないという―。

 

とはいえ、厳密には、
秦代の兵馬俑には
鎧を着用して弩を構えたものも
あるのですが、

この国の場合、そもそもの前提として、

飛び道具を扱う兵士は、

商人や囚人等、
(農本)国家にとって
体制上、都合の悪い人々で
構成されています。
―要は、弾除けのための人員です。

 

さらには、

どうも、この種の人員の存在は、
古今東西を問わぬようです。

 

例えば、
『阿呆物語』なんか読むと、

ドイツの三十年戦争の時も、
火縄銃の銃手を「全滅小隊」と
呼んだそうです。
(先込めで装填速度も遅く、
暴発も多い時代です。)

 

で、こういう人員を
どこから連れてくるのかと言えば、

前線から少し離れたところに、
喰い詰めたあぶれ者が
群れて野営しており、
(勿論、自給自足略奪もします!)

こういうのを
「マロード」(確か、狼の群の意!)
とかいうそうで、

悪く言えば、
戦地の住民の癌ですが、

良く言えば、
対峙する軍や傭兵団にとっては
戦力の供給源になっている訳です。

 

要は、劉邦や李自成みたいな
所謂「余剰人員」
―やくざ者とも言いますが、を、

国家が集めるか
傭兵団が集めるかの違いです。

―武器と身分の関係について、
御参考まで。

【了】

 

 

 

また、ここで扱う
歩兵・騎兵・戦車兵の3種類は、

恐らくは、先述の「兵科」のレベルで
それぞれ異なった運用が
なされています。

さて、早速ですが、
下記のこれまたアレなイラストを御覧下さい。

楊泓『中国古兵器論叢』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

 

イラストにある各々の兵科ごとの鎧は、
秦代の兵馬俑のヘッタクソな模写です。

あれだけ強大な権力の王朝ともなれば、
自ずと軍隊の構造自体も
体系的なものになるようでして、

こういうもを説明するには
打って付けの事例となるかと思います。

 

さらには、少なくとも魏晋の頃までは、

歩兵・騎兵の鎧については
このイラストにあるような
特徴が保たれます。

 

ただし、戦車兵については、
前漢の匈奴との戦争以降は
兵科自体が廃れていきますが、

曹魏の時代にも
『三国志』の魏史に
訓練を行ったという記録があることで、

実態はともかく、
消滅した訳ではありません。

 

 

 

3-2 歩兵の鎧の特徴

 

それでは、各兵科ごとの
鎧の特徴の説明に入ります。

恐らくは、もっとも大量に
製造されたと思しき
歩兵用の鎧から観ていきます。

まず、部位で言えば、
身甲・披搏・垂縁に区分出来ます。

 

披搏は腕の上半分を防護する
肩甲が付きます。

これが前漢の武帝期以降になると、
筒袖のタイプのものも登場します。

 

三国時代は、蜀や西晋を観る限り、
筒袖タイプが主流だったのでしょう。

呉、と言いますか、南方の王朝は、
少なくとも東晋辺りまでは、
ヒラの兵士は鎧を付けません。

 

また、垂縁は、
丈は股間辺りまであります。

実は、この点は、
騎兵の鎧との大きな相違点につき、
御注目下さい。

 

 

 

3-3 騎兵の鎧の特徴

 

次いで、騎兵用の鎧。

 

胡服騎射の時代は、

騎射等、戦闘用のレベルで
馬を乗りこなすこと自体が
曲芸に近い間隔であった模様。

恐らく、秦の「重装」騎兵が
物珍しかったのも、
練度の賜物だったのかもしれません。

 

その一方で、
騎兵の用兵思想のひとつに、
軽量化による機動力の重視があります。

 

具体的には、
北方の騎馬民族の常套手段でして、

極力接近戦を避け、
距離を取って相手の疲弊を待ち、

頃合いを図って
狩りの要領で包囲して
弓で仕留めに掛かるという戦法を取ります。

 

匈奴との戦いで揉まれた
前漢の軍隊には、

鎧を着用して
敵軍を白兵戦で駆逐する騎兵もいれば、

この種の鎧を付けない軽弓騎兵も
あったようです。

 

それでは、騎兵の鎧の特徴ですが、

秦から魏晋の頃までは、

簡単に言えば、

披搏がなく、
垂縁が臍の辺りまでの
丈の短い鎧でした。

今風に言えば、

女性の下着の一種である
キャミソールのような形状。

で、前後二枚の板、
あるいは脇も覆われた胴巻を
肩のベルトなり紐なりで固定します。

 

 

 

【雑談】異文化交流は危険な香り

以前の記事でも
触れたと記憶しますが、

騎兵用の鎧の一種である
両当甲の「両当」は、

北方の遊牧民の衣類の一種。

ええ、そのキャミソールが
前後に分かれた形をした上着です。

で、この衣装を
軍事転用したのが両当甲。

 

欧州大戦の泥沼の塹壕戦で重宝した
トレンチ・コートが
戦後にファッションになったのとは
逆の話ですナ。

その他、六合帽だの、長靴だの、
色々入って来るんですワ。

 

そもそも、こういうものが
中原に入って来た背景に、

主に、後漢以降の遊牧民の強制移住やら
反乱やらのゴタゴタの副産物
文化交流も急速に進んだことがあります。

世界史で習う
北魏の孝文帝の漢化政策は、
そうした文脈の中で行われたものです。

 

―で、大抵の場合、

南下してこういうことをやった王朝は、
軍事的には弱体化し
馬の調達経路も閉塞し、

オマケに王侯貴族共は
人類の叡智を享受するどころか、

贅沢を覚えて堕落して
宮中政争に明け暮れ、

その結果、

次の時代には、

雨後の竹の子の如く現れる
北辺の凶悪な異民族に絡まれる、と。

 

これも、何世紀も連綿と続く、

華北界隈に足を踏み入れた異民族王朝が
ダメになるという
御約束のパターンです。

 

―ですが、その一方で、

こういう先進文明に対する憧憬が
原動力となり、

そもそもの物理的な距離やら身内の反対やら、

血の滲むような苦労の末に、
標準規格の浸透が進むのでしょうねえ。

 

そして、洒落た言語や文化や
卓越した化学技術も、

一方で、大人の事情で売るに売れない
基軸通貨国の国債や

高価な癖にブラック・ボックスが多くて
奇怪な事故ばかり起こす主力戦闘機も、

品行方正でコスト・パフォーマンスも良く
何年も在籍するような優良外国人選手も、

誰とは言いませんが
破格の年俸を満額受け取った癖に
怪我と不振で早々に帰国する
ダメ外国人選手も、

ヒト・モノ・カネの往来がある以上、

同時並行でイロイロ入って来るのが
浮世の摂理か。

【了】

 

 

 

さて、高橋工先生の研究によれば、

実は、ほぼこの時代である
4~5世紀のものとされる
朝鮮や日本で出土した鉄製の鎧
これに似た形状でして、

胸・脇・腰が覆われており、
脇の部分を蝶番で開閉します。

また、前面は鎖骨より上、
背面は背中の上半分がありません。

 

さらに分かり易く言えば、

女性の下着の一種である
ビスチェのような形状。

 

―ヘンな話ばかりしていますが、

本当にこういう形状をしているので
困ったもので。

 

まあその、
サイト制作者の変態趣味は否定しませんが、

ヒトの体形にフィットするということは、
それだけ無駄のない作りであることをも
意味します。

 

因みに、当時は、
日本・朝鮮の両地域共、内戦状態でして、
大陸からの輸入か模倣品と想像します。

 

さて、部位の話をしますと、

恐らく、披搏がないのは
騎射の射角や視界確保に有利なためで、

丈が短いのは、
乗馬の際に
鞍に干渉しないためだと思います。

 

とはいえ、
南北朝時代になると、

エプロン・タイプの両当甲は
前後の装甲板をつなぐベルトが
肩の少し上の辺りまで高くなり、

肩甲と身甲のつなぎ目が
前後の装甲板の中に収まる作りに
なります。

こういうタイプの鎧の騎兵は、
騎射をやらない
接近戦専用なのでしょう。

 

余談ながら、
秦代の騎兵用の鎧には
少し特徴があります。

残念ながら、イラストの方は、
縮小で潰れて見辛くて
申し訳ありませんが、

身甲部分の胸部と腹部で、
装甲の形が異なります。

具体的には、
胸部が立方体、
腹部が円柱になっています。

 

 

 

3-4 戦車兵の鎧の特徴

 

最後に、戦車兵の鎧について。

戦車兵は、

戦場の花形であった
殷周時代は元より、

戦国時代においても、

歩兵戦が盛んになったとはいえ
平地の決戦部隊として
重要な兵科でした。

 

それ故、例えば、
秦においては、

戦車兵には定期的に
技量検査が行われまして、

スコアが悪ければ
罰則の対象になりました。

 

また、馭者がやられれば、
左右の精鋭2名も
巻き添えを喰う訳で、

こういう実用的な観点からも、
万全を期した重装備になるのでしょう。

 

因みに、戦国時代の場合、
馭者の左右の戦闘員は、
歩兵用の鎧だそうな。

 

それでは、
鎧の具体的な機能の話に入ります。

まず、首を守る部位・盆領ですが、

これは、同じ戦国時代における
秦以外の地域の出土品にもありました。

 

また、前漢の前期と思しき
短冊型の甲片を綴った鎧にも
コレが付いていました。

 

で、愚見として、

盆領付きの鎧が
戦車兵のものと思う理由は、

弓を引いたり
馬を乗りこなす際に
視界を狭めるからです。

 

参考までに、『三国志』の董卓の伝に、

この御仁は騎射の際、
左右に射ることが出来た、

と、ありまして、

つまり、これは、利き腕の反対である
弓手(ゆんで)でも
射ることが出来るという離れ技。

 

ですが、言い換えれば、
真正面には馬の首があることで
射ることが出来ない、

―という御話なのでしょう。

 

恥かしい話、サイト制作者は、

馬も弓もやったことがないので
実務レベルでは分からないのです。

 

ただ、その、
仮に、騎射の際、
左右にしか射ることが出来ないとすれば、

例えば、高地から低地の敵を
俯角で敵を射る場合、

盆領があると視角を遮る訳です。

 

また、についても、

筒袖タイプもあれば、

イラストにある秦の戦車兵のように、
腕の外半分と手の甲が
覆われているものもあります。

 

サイト制作者の想像の域を出ませんが、

このタイプの鎧は、

甲片の形を観るに、
腕の可動域は
相当小さいように思います。

 

また、腰の部分の割れ目は
歩兵や騎兵の鎧より小さくなっています。

 

先述のように、

どういう形であれ、

必要条件として、

恐らくは、
戦車の車体からはみ出た上の部分が
甲片で覆われてさえいれば良い訳です。

 

余談ながら、
脚絆=ゲートルについても少々触れます。

裾を絞ったズボン=褌に
脚絆を巻くかどうかは、

兵馬俑を観る限り、
あまり兵科とは関係なさそう
思います。

あまり歩かなそうな戦車兵が
巻いており、

鎧を着た歩兵が
巻かなかったりしているからです。

要は、常時携帯し、
長い距離を行軍する際に
巻くのでしょう。

 

 

おわりに

 

最後に、今回の内容を整理すると、大体、以下にようになります。

 

1、大体、五体ごとに防護部位が存在するが、
  時代によっては防護されない部位もあった。

  例えば、臂護は南北朝時代の鎧にも確認出来なかった。

 

2、魏晋の頃までは、鉄製の部分については、
  小さい甲片を繋ぐものしか存在せず、

  大型の金属のプレートのあるものは、
  銅製の可能性が高い。

 

3、大体の鎧の身甲部分の製作手順は、
  最初に中央の甲片を作り、
  横の甲片を環状に繋ぎ、それを何列も縦に繋ぐ。

 

4、可動部(腹部・肩)は外側から縦の甲片を紐で縛る。
  また、上下の甲片の重複部分は、
  下側の甲片を前に出す。

 

5、固定部(胸部)の甲片の繋ぎ方は、可動部と逆。

 

6、鎧の甲片を繋ぐ紐は、接合部分の重要度によって、
  太い細いを選ぶ、本数を変える、あるいは、
  撚るか撚らないかを調整する。

 

7、歩兵用の鎧の特徴は、
  裾が大体股間を覆う位まであり、
  肩や腕を守る部位が存在する。

  前漢の武帝期以降は筒袖型が登場する。

 

8、騎兵用の鎧の特徴は、
  裾が臍辺りまでしかなく、
  後漢以降登場するごく少数の重騎兵を除いて、
  腕を守る部位もない。

 

9、騎兵用の鎧の特徴は、
  乗馬や騎射に支障を来さないための
  機能である可能性がある。

 

10、戦車兵の防護部位は上半身は多彩で、
  特に、袖への部位は戦国時代から存在した。

  一方で、下半身への防御はあまりなされていない。

 

 

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

楊泓『中国古兵器論叢』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』
駒井和愛『漢魏時代の甲鎧』
西野広祥『「馬と黄河と長城」の中国史』
学研『戦略戦術兵器事典 1』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』
峰幸幸人
「五胡十六国~北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給」
『東洋学報100(2)』
高木 智見『孔子』
来村 多加史『万里の長城 攻防三千年史』
朱和平『中国服飾史稿』

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実録?!五十歩百歩(小記事)

はじめに

鎧の話の続きを纏めている最中で恐縮ですが、

以前の記事に関して、
興味深い御本を見付けましたので、今回は、その御話。

 

 

1、罪と罰~敵前逃亡

 

当該の記事は、以下。

伍の戦闘訓練と連帯責任

要は、以前、当時の戦闘訓練の御話に事寄せて
孟子の五十歩百歩について、
怪しい考察を試みたのですが、

実は、サイト制作者がやる大分前に、

それも、遥かにマトモな方法で
この種の考察をなさっていた先生が
いらっしゃいまして。

 

その種本は、以下。

 

鶴間和幸先生の
『人間・始皇帝』(岩波新書)

 

早速、事の経緯について、
同書の当該の部分を要約します。

要は、今で言えば、
裁判の審議の記録が残っていた、
というようなお話です。

 

まず、事の起こりは、

統一戦争も大詰めの前221年9月、
秦の軍中で戦闘中の敵前逃亡が
発生したことです。

 

もう少し具体的に言えば、

前進すべき局面で
12歩(1歩=1.38メートル)後退し、
追撃してきた敵兵に弓を射た兵士
いました。

 

そして、この兵士に対して
どのような罰則を与えるべきか
焦点になる訳ですが、

実は、この案件自体が、
現場で決裁出来ずに
上級官庁に送られるという
由々しきものでありました。

 

そうした事情もあってか、

取り調べの過程で、
掴みどころのない
前線の実相が見えて来る訳でして―。

 

例えば、
12歩どころか、46歩逃げた奴もいれば、
孟子の言葉通り100歩逃げた「猛者」も
おりまして、

そういう不誠実な兵士ばかりかと思えば、

弓で殺された者や、
短剣で敵と渡り合って戦死した殊勝な者もいる、
という具合。

 

で、結局、
どのような沙汰が下ったかと言えば、

先に逃亡した12名には
完城旦鬼薪という罰則。

前者は、頭髪を剃らないまま
辺境の築城と防衛。

また、城旦は、
昼は見張り、夜は築城や補修。
要は、休みなしの重労働。

後者は、鬼神祭祀の薪を集める労役。
これも、ヤバ気なことを
やるのかもしれません。

 

次に逃亡した兵士14名には、
耐刑という罰則。

これは、髭を剃っての労役。

―ということは、
当時の成人男子の身嗜みには
髭は不可欠、ということになりますか。

 

つまり、戦場で逃げた歩数は
量刑の材料となった、
という御話で御座います。

 

 

 

【追記】弓矢の運用と隊列の間隔

 

1、弓矢の自己中な使い方

 

この逸話から、

当時の小規模戦闘について、
興味深い点をふたつ
垣間見ることが出来ます。

ひとつ目は、弓矢の運用について。

軍法に反して、
本来前進すべきところを
逃げながら追手に矢を放つ、

―という行為について、
もう少し踏み込んで考えてみます。

 

弓兵同士でびっしり隊列を組んで
一斉射撃を行うのではなく、

最小戦闘単位「伍」の枠組みの中で、

(まあ、厳密に言えば、
敵前逃亡を企てる時点で
枠組みから逸脱しているのですが)

 

近距離でやり合う歩兵の武器のひとつとして、

形勢や交戦距離に応じて
射ているように思います。

 

兵書の想定する模範的な内容を
現場の史料で裏付けることが出来る
稀有な事例だと思います。

 

―ただし、記録に残った理由は
触法行為という不名誉なものですが。

 

 

 

2、敵前逃亡のススメ?!

 

ふたつ目は、敵前逃亡の距離について。

軍法に問われた兵士の逃げた歩数は12歩、
つまり、高々17メートル弱。

小学校のプールより短い距離です。

ですが、ここで、
少し考えてみましょう。

前近代の戦列歩兵同士の戦いは、
兵士間の間隔をびっしり詰めて
隊列を作ります。

つまり、自分の伍の後ろには、
後詰の伍が臨戦態勢で
控えている訳です。

 

因みに、『尉繚子』経卒令によれば、
各両(縦5名×横5名、指揮官は両司馬)
ごとに色のことなる記章が配布され、

指揮下の伍の兵卒には
先頭から首→項→胸→腹→腰と、
記章を付ける位置が決まっています。

 

つまり、順番を抜かせば
瞬時に発覚するという
仕組みになっています。

 

実際、曹操の『歩戦令』なんぞ、
こういう奴は即刻斬れと
書かれています。

 

―で、このような管理システムを前提に、
部隊の間隔について
考えます。

 

以前、サイト制作者は、

『李衛公問対』を典拠に
伍の縦隊間の間隔を
唐代の2歩=3.11m、
としましたが、

これは、当然ながら、
かなり緩い場合の間隔です。

 

藍永蔚先生など
『春秋時期的歩兵』において、

当時の武器の長さやその運用から
5名(内、弓兵1名)分の間隔を
7.2mと算出しています。

 

いくつかの古代中国の
軍事関係の文献(日本語文献)も、
この数字をそのまま掲載していますので、
信憑性があるのでしょう。

因みに、サイト制作者は、
双方が短兵器で渡り合えば
もう少し距離は縮むと思います。

 

―それはともかく、

ひとつの伍の縦隊間隔を7.2mと仮定すれば、

先述の兵士が逃げた17メートル弱の距離は、
伍の縦隊ふたつ分を越えるものとなります。

これが、実際の戦場で
どれだけ危険で戦意を喪失させる行為かは
言わずものがな。

 

余談ながら、こういうのが頻発して
敵軍のなすがままになったのが、

日本の事例ですが、
戦国末期の徳川の大坂攻め。

喰い詰めた戦闘のプロの浪人部隊を相手に
戦争未経験の寄せ集めが挑んだ結果です。

島原の乱もこのパターンだそうですが、
特に戦国の末期は
こんなアウトローな逆転劇が
方々で起こっていたそうな。

まあその、
17世紀の日本自体が物騒な時代で、

有名な赤穂浪士の討入りなんかは
その名残でもあった訳ですが。

話を古代中国に戻します。

 

―さて、泣く子も黙る秦軍の軍中で
こういうことをやった連中は、

極刑を喰らったのかと言えば、

意外にやれなかったのが
この時代の面白いところでして。

 

当時の兵隊の質を考えれば、

命の相場が
建前よりは少しばかり高かった、
というような話なのかもしれません。

もっとも、北方での長城建設なんか
生き地獄そのもので、
重罪には変わりないのでしょうが。

 

【了】

 

 

2、対決?!司馬遷対現代歴史家

 

さて、この御話、
そもそもどういう本かと言えば、

1970年代以降の
書簡群の発見の成果を元に、

司〇遷に喧嘩を売ろう、ではなく、
始皇帝の生涯の実相に迫ろうという
野心的な御本。

先の軍法会議の御話は、
謂わばその副産物とでもいうような
逸話です。

 

鶴間先生によれば、

司馬遷も時代の人、人の子でして、

始皇帝を意識した武帝に忖度したり、
一方で、秦の時代との常識のズレもあったり、
という具合。

 

したがって、

一次史料
(リアルタイムで当事者によって書かれたもの)
である事務的な文書である
一連の書簡群と各種史料を照合すると、

『史記』の内容が
必ずしも正しいとは言えないとして、

当該の箇所について、

時には、例えば暦や字の用法、避諱、
天体観測の作法等のような
当時の慣習にも照らし合わせて
丁寧に指摘されています。

 

(こういうキメ細かい芸当が出来るのが、
研究者とサイト制作者のような素人との
決定的な違いだと拝察します。)

―後、始皇帝の姓名は、
正しくは趙「正」なんですと。

 

 

 

3、井戸端や書簡投げ込む水の音

 

さて、1970年代以降に発見された
書簡群の威力については、

サイト制作者も
種々の文献によって
何となくは知っていまして、

例えば、戦争関係で
明らかになったことで知る限りは、

目下、思い付くだけでも、

武人としての孔子像、
前漢時代の前線や後方での兵器の配備、
通信制度の詳細、等。

 

民政関係など言うに及ばずでして、

サイト制作者がこれまで読んだ
僅かな数の論文だけでも、

例えば、漢代の下級役人の
ヒエラルキーや生活等の実相が
かなり明確になって来ている、
という具合です。

 

無論、研究者の方々の視点からすれば、
こんなレベルの話ではないと思います。

 

そして、こういうものの成果が
中国史関係のゲームや小説等の娯楽にも
本格的に反映されてくると、

関連する娯楽そのものの概念が
劇的に変わる予感すらします。

 

さて、こういう一見華のない事務書類の威力
どの時代の研究にも共通する話ですが、

一方で、その出処については
各々の文化圏や時代ごとに
事情が異なるようでして。

 

例えば、古代中国の場合、

面白いことに、
こういう書簡が
どこから発見されたのかと言えば、
古井戸だったりしまして、

多いケースとしては、

役人が井戸に竹簡や木簡を投棄し、
水脈が枯れて程々の湿度が保たれたことで
残っているというパターン。

 

井戸が新しければ、
民国時代の軍閥のハンコでも
出土するのかしら。

夢のある話ですね、などと。

 

ただ、贋作も横行していることで、
出土状況やら入手経路やら、
あらゆる点からチェックを入れる必要が
あるそうな。

この辺りの事情は、確か、
柿沼陽平先生も
御書きになっていたと記憶します。

 

要は、現地で一山当てたければ、
仲買と結託して古井戸と偽書を用意すべし、と。

漢中近辺の古城を狙い、

諸〇孔明には女装趣味があった、とか、
あまり歴史の本筋に関係ない話であれば、

あるいは信じる人がいたり
買い手が付く、かもしれません。

―バレた後が怖そうですが。

 

 

【追記】

先日、確かNHKのBSで、

後漢・三国時代の成都から
漢中界隈までの道のりを
ドローンの空撮でたどるという
番組をやっていまして、

面白く観させて頂きました。

 

成程、秦嶺界隈の映像は想像を絶するものでして、

殊に剣門関など、
両側に絶壁のある隘路で
関所が行く手を阻むことで、

姜維が数万の兵力で
鍾会の軍勢10万を
足止め出来た難所だけのことはあると
感心した次第です。

 

一方で、肝心の諸葛孔明の
北伐の道のりについては、

陳倉攻撃の際に通った故道と街亭、
五丈原の映像があっただけでした。

 

言い換えれば、

趙雲が陽動部隊を率いたり
諸葛亮が五丈原に出撃した時に通った
当時の幹線道路であった褒斜道や、

魏軍と激戦を戦った
秦嶺界隈の魏軍の最重要拠点である
祁山堡近郊の映像がありませんで、

穿った見方をすれば、あの辺りは、
今以て軍事機密にでも
なっているのかしらと思った次第。

サイト制作者の想像と言いますか、妄想の類です。

 

【了】

 

 

 

おわりに

 

一応、結論をまとめます。

 

1、戦闘中の敵前逃亡は、
逃げた歩数が量刑の目安のひとつになった。

 

2、1970年代以降の書簡群の発見により、
既存の歴史研究の内容に
大きな変更点が生じつつある。

 

3、古代中国では、
井戸に行政文書を投棄したことで、
遺跡の古井戸から
書簡群が発見される事例が多発した。

 

 

【追伸】
これだけでは申し訳ないので、
次回掲載予定の説明用イラストも
載せておきます。

楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

これ以外に、もう1枚、あるいは2枚描いた後、
記事本文をまとめる予定です。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
鶴間和幸『人間・始皇帝』
柿沼陽平『中国古代の貨幣』
高木 智見『孔子』

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鎧の定義といくつかの特徴について

楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

相変わらず、
無駄に長くなったので章立てを付けます。

興味のある部分だけでも
スクロールのうえ御笑読頂ければ幸いです。

 

はじめに
1、追跡!魚鱗甲の300年
1-1、炎ちゃんに叱られる
1-2、魚鱗甲の登場
1-3、昔もあった、低コスト版
1-4 300年の意味とは?
2、鎧の定義と藤甲
3、実は違う?!甲と鎧
4、鎧も衣服?!気になる肌触り
5、鎧の収納性について考える
6、百聞に如く現物は何処(いずこ)
【雑談】野暮な時代考証を試みる
7、鎧の重ね着の事例
8、重ね着のパターンを妄想する?!
【雑談】騎兵の本質を考える
1、馬を取り巻く環境・要因
2、案外難しい騎兵の重装化
3、攻勢の軍隊は拙速を聞く
おわりに

 

 

はじめに

 

今回は、古代中国の鎧の
定義や特徴めいた初歩的な御話を致します。

 

―で、その前に恒例の見苦しい言い訳ですが、

最早悪弊と言いますか、

タダでさえ少ない持ち時間に加えて
中文の読解と説明用のイラストの作成に
時間が掛かり過ぎたことで、

取り合えず、
五月雨式にでも綴ることとします。

 

そして、最終的には、
後漢・三国時代の鎧について
詳しく触れたいのですが、

その前に、
何回かに分けて、
先の記事で出来なかった
鎧そのものの定義や構造・材質等について
整理することを試みます。

 

そもそもの構造以外にも、

兵科ごとの形状、
甲片(中国語:大体数センチ四方の板)の
材質・形状・綴り方、
製造・管理等が、

時代の状況と相俟って
複雑に絡み合うことで、

文献の内容を整理して
説明する側としても、

一筋縄にはいかんのですワ、これが。

 

しかも、肝心の後漢・三国時代の出土品と言えば、

ごく僅かな現物
数百年前の秦代の兵馬俑に比べれば、
デフォルメとすら呼べぬようなレベルの
ヘタクソな人形しか残っていないという
ブラック・ボックスに近い状況、
という・・・。

―もっとも、
その人形の制作者も、

サイト制作者のような
ヘッタクソな絵を描く奴に
言われたくはないでしょうが。

 

 

【追記】
こういうものを残す側にも言い分がある模様。

鶴間和幸先生によれば、

人の魂を移したようなリアルな俑を
作るべきではない、

というのが、
儒家の発想だそうな。

この時代の家屋の俑は
割合丁寧に作り込まれているので、
その違いの理由が氷解した心地です。

 

また、北朝時代の俑も
写実的で精巧なものにつき、
儒教の影響は小さいのかもしれません。

 

一方、秦の兵馬俑が作られた
目的のひとつは、
モノの本(タイトル失念!)
他の六国の怨霊から国を守るためだそうで。

さらに、あの握手を求めるように
手を差し出すヘンなポーズの理由は、

平和を求める証、などではなく、

その怨霊対策の要となる銅剣を
持たせるためのもの
なのだそうな。

 

剣が消失した理由は、

―詮索しない方が
夢があって良いのかもしれません。

現在とて、キロ単価700円もするので、
銅線だのマンホールだのが、
窃盗の対象になっていることにつき。

 

【了】

 

 

1、追跡!魚鱗甲の300年

 

1-1、炎ちゃんに叱られる

 

さて、その辺りの事情を邪推すれば、

例えば、西晋代の魚鱗甲の俑なんぞ、

サイトの製作者のような
妄想癖のあるファンが
如何に鉄製を期待しようが、

枕元で司馬炎の亡霊に、
「アレは皮甲ぢゃ、
ぼーっとゲーム(以下省略)」と叱られ、

ガックリと肩を落として、
「はあ、左様で。」となろうかと思います。

否定出来る程の材料がないからです。

 

その一方で、心の中で、

「そんなフェイクばかり使ってるから
アンタ等の王朝は短命で潰れたんだよ!
孔明先生に謝れ~!」

と、舌を出す、と。

 

 

1-2、魚鱗甲の登場

斯様な、
つまらない与太話をする理由として、

既に前漢末の段階で、
当時の鉄製の鎧(魚鱗甲)と同じ形状の皮甲が
出回っていました。

以前使用したイラストの再掲
恐縮ですが、

前漢末の魚鱗甲は、
以下のようなものです。

 

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略)等より作成。

呼んで字の如く、
小さい甲片を
魚のウロコのように綴ります。

 

因みに、それ以前の鎧は、
短冊状の甲片を縦3、4列に綴る、
あるいは、
垂縁(裾部分)が付いて
もう1列増えるタイプが
主流でした。

 

具体的には、
以下のようになります。

これも再掲で恐縮です。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略)等より作成。

因みに、左が歩兵用で、右が騎兵用。

 

で、魚鱗甲は、

武帝の対匈奴戦の戦訓を反映して
開発された
当時の漢王朝における
最新型の鉄製の鎧です。

 

 

1-3、昔もあった、低コスト版

そして、
これと同型の皮甲が
登場したということは、

早い話、

鉄製の鎧の製作技術を流用した、
謂わば低コスト版。

 

北方の前線に
最新式の鉄製の魚鱗甲を配備する一方で、

こういうのが内地の軍隊に
数多く支給されていた可能性があります。

 

その具体的な根拠として、

当時の東郡―河南省濮陽市の辺りの、
さる亭の亭卒に関する事務的な記録
残っておりまして、

それによれば、
皮甲の配備が記載されておりました。

 

また、別の地域からは、

当時の魚鱗甲の皮甲の現物が
発掘されたという次第。

 

以上のような事例から、

後世の政権、
―特に、深刻な物不足の三国時代の王朝が
「廉価版」の大量生産を
やっていないという証拠もなく、

それどころか、唐宋時代ですら、
革製の黒光鎧が出土したこともあり、
(この辺りは、多少、後述します。)

あの種の人形だけでは、
恐らく、大体の形状だけで
材質は判断出来ないものと想像します。

 

ですが、侮る勿れ。

皮甲は、
銅製の武器であれば
貫通しなかったそうな。

同時代の曹魏の鏃は銅製です。

 

―とはいえ、
こういうのも
ケース・バイ・ケースでしょう。

近距離で弩の直射を受けて
無傷で済むとは
到底思えません。

 

 

1-4 300年の意味とは?

さて、魚鱗甲をめぐる一連の状況について
少々堅く纏めるとすれば、

概ね以下のようなことが
言えるかと思います。

 

以前、サイト制作者は
軍事技術の開発期間について、

有事の1年は平時の10年に相当する、

という言葉を聞いたことがあります。

 

WWⅡの戦車や航空機等の開発競争等が
その一例でして、

目先の戦争に勝つために、

平時の経済体制では
到底工面出来ないような
予算や人員を投入し、

そのうえ、

潤沢な量の
血塗られた実戦「データ」を
恐るべきスピードで解析して、

その成果を兵器開発に
素早くフィードバックさせることが
出来たからだと思います。

 

そしてそれは、恐らく、
魚鱗甲その他の鎧の開発についても
当てはまる話ではないかと思います。

 

具体的には、

西晋時代の鎧の
甲片の詳細は不明ながら、

前漢末から300年近く
似たような綴り方をしていたことが
注目に値するかと思います。

 

特に、後漢時代の最初の100年は、

辺境や主要都市にこそ精鋭部隊を
駐屯させていたものの、

基本的には
地方の常備軍をほとんど全廃するような
軍縮の時代

 

そして、次の100年は、

主に西部の地方が
なし崩しに軍備を拡大したとはいえ、

相手は組織力のある
遊牧民族の強大な王朝ではなく、

暴発当初は
武器さえ所持していなかった
羌族の反乱軍です。

 

その意味では、

董卓の軍隊が並外れて強かったのも、

長きにわたって国防方針で優遇された
国軍中の最精鋭部隊だったからに
他なりません。

 

そして、こうした状況を受けて、

博学な先生方の中には、

王朝時代の軍隊の宿痾とも言うべき、
そして、どうも中共の軍隊をも
浸食していそうな

文を尊び武を卑しむメンタリティも
この時代に形成された
指摘される方もいらっしゃいます。

 

あくまでサイト制作者の意見ですが、
三国時代の軍事を調べるのが手間なのは、

理由のひとつとしては、

その直前の時代が
軍事的には空白に近かったのが
大きいように思います。

―つまり、兵站や武器等の事務的な史料が
残りにくかったものと想像します。

 

そして、延いては、

対外戦争の切り札として登場した魚鱗甲が、

王朝が乱立して抗争する
謂わば内乱状態の三国時代に入るまで
鎧の進化がそれ程進まなかったのも、

恐らくは、
こうした事情が影響しているように思います。

 

―というような、
ややこしい話を
少しづつ整理することで、

少しでも、
三国志の時代の実相に
近付くことを試みる次第です。

 

で、今回は、

差し当たって、
古代中国における鎧について、
定義や特徴といった御話を少々。

なお、中心となる参考文献は、

恐らく、古代中国の武具関係の
大抵の文献の主なタネ本であろう
楊泓先生の『中国古兵器論集』。

 

サイト制作者の場合、
灯台下暗し、でして、

在住する田舎県の最寄りの国立大学の、
それも、何故か理系の学部の
附属図書館にありました。

 

 

2、鎧の定義と藤甲

さて、まずは、
鎧の定義めいたものについて触れます。

 

件の楊泓先生によれば、

最低限の機能として、

胸の背中を防護する点を
挙げていらっしゃいます。

 

なお、原始時代は
材質は皮革や藤、木等でして、

機動性を重視して
四肢は守らなかったそうな。

 

で、その際、

鎧の原始的な形状として参考となるのが、
台湾の藤甲だそうで、

こういうのは
民族学的なアプローチとのこと。

そう、『三国志演義』において
孔明先生の南征で登場して、
油でコーティングしたのがアダになって
火矢で丸焼けになったというアレ。

 

そして、恐らく、
こういうものが
演義に登場した理由として、

『中国古兵器論集』を読む分には、

南宋時代の雲南地方で
藤甲の現物を見たという
記録が残っているからだと思います。

 

ですが、愚見を開陳させて頂ければ、

『中国古兵器論集』の図録に
掲載されていた写真は、

アレなイラストに描いたような
20世紀初頭に存在した
前開きのものだの、

現地で12世紀に使用されたという
まさに、日本の鎌倉時代の大鎧に
似たようなやつだの、

どこかしらの文化圏の手垢が付いたとしか
思えないようなシロモノです。

 

したがって、

この種の鎧の存在が
いつの時代まで遡ることが出来るのかは

残念ながら、
サイト製作者には分かりかねます。

 

もっとも、民族学の立場にしてみれば、

文献史料とは無縁の
周辺地域からの物証等が
数多あるのかもしれませんね。

 

因みに、この藤甲

骨格部分に藤蔓を使うのを
最低条件に、
形状も材質も色々あるようです。

 

まず、形状については、

冒頭のヘンなイラストにあるような
胸部をスッポリ覆うものもあれば、

エプロンのような形状で
背中は網羅するものの
脇がガラ空きのものもあります。

 

次いで、藤甲の材質については、

表面には藤蔓以外に、
皮や魚皮等を使うものもあります。

 

なお、油の塗装については
説明はありませんでした。

元ネタも分かりかねます。

 

もっとも、

黒や赤の漆の塗装により
防御力や防腐効果を高めるのは、

少なくとも戦国時代には
行われていました。

 

 

 

3、実は違う?!甲と鎧

 

その他、鎧の材質が
時代が下って皮革→銅→鉄と
進化するのは御承知のことと
思いますが、

面白いのはその呼称。

 

古来より、

 

皮革製の鎧は「甲」、
金属製の鎧は「鎧」、と、

 

呼ばれていましたが、

唐宋時代以降は
その区別がなくなり、

「鎧甲」となったそうな。

 

と、なれば、
北伐で蜀が鹵獲した黒光鎧も、

一応、金属製、
ということになるのかしら。

 

ですが、この話、
どうも正確なものとも言い切れず、

例えば、前漢の鉄製の鎧を
「玄甲」と呼んだりしています。

因みに、玄は黒を意味します。

 

 

 

4、鎧も衣服?!気になる肌触り

以下の章では、大体は、

古代中国における鎧の特徴について
いくつか挙げることとします。

 

ひとつ目の大きな特徴として、

鎧の肌触り対策について記します。

何だか、兵器の癖に、
衣料関係の
テレビ・ショッピングのようなことを
書いていますが、

実用とは、
得てして身近なものでもありまして。

それはともかく―、
篠田耕一先生によれば、
大別してふたつあるようです。

 

1、鎧の首・袖・裾等を布で裏打ちする方法。

2、鎧の中に厚手の戦袍を着込む方法。

 

この他にも、種々の文献によれば、
後漢時代には戦袍の中に鎧を着込むものも
あったようですが、

サイト制作者の調べた限りでは、
その詳細は元より、
古典や書簡、出土品等による典拠は
残念ながら不明です。

願わくば、
どなたか御教授頂ければ幸いです。

 

それでは、
1、首・袖・裾を布で裏打ちするもの、
について。

 

これは、無論、堅い部分で
皮膚を切るのを防ぐための措置です。

 

具体的には、例えば、
秦の、謂わば将校用(等級は不明)の
鎧でして、

暴騰のイラストにあるもの以外にも、
何種類か存在します。

今日で言えば、
防弾性のあるコートのような
感覚なのかもしれません。

 

また、この種の鎧は、形状としては
割合古い世代のものだそうな。

兵馬俑の戦列歩兵用の鎧を
最新型と仮定すれば、

この型の鎧も歩兵用につき、

春秋時代の戦車用の皮甲よりも
後の世代と考えられることで、

登場した時代を推測すれば、
戦国時代前期辺りまで
遡れるのかもしれません。

 

また、この鎧の別の特徴として、

主要な部分は、
材質は不明ながら、
金属で覆われています。

 

因みに、
冒頭のイラストにあるタイプのものは、
背中の金属部分が腹のそれよりも
やや高く(長く)なっています。

 

また、次に紹介する、
厚手の戦袍を着込むタイプの鎧にも、

復元品には、
首・袖・裾の先端が1、2cm程
布で裏打ちされていました。

 

次いで、
2、鎧の中に厚手の戦袍を着込む方法。

 

古代のみならず、前近代を通じて、
こちらの方がイメージし易い
かもしれません。

 

特に、騎兵の鎧の場合、

魏晋の頃までは
肩や脇腹が
剥き出しになっているものが
多かったのです。

厚手の戦袍が重宝したのは、
そうした事情もあったことでしょう。

 

 

 

5、鎧の収納性について考える

 

次に、モノによっては
折り畳む、あるいは、巻くのが可能、
という性質。

古典に出て来る、
甲を巻くという言葉通り、
或る程度の収納性があったようです。

 

ただ、鎧の構造から考えると、

サイト製作者としては、
モノによるのではないか、と、
考える次第。

 

詳しくは、
恐らく次回以降触れるかと思いますが、

具体的には、
以下のような理由です。

 

特に、古代中国における
戦列歩兵用の鎧は、

先述の無数の「甲片」を
縦横に繋いだものです。

 

通称、「札甲」と呼ばれるもので、

冒頭のアレなイラストで言えば、
右側の秦のヒラの歩兵用の皮甲。

主に、先述の、
2、鎧の中に厚手の戦袍を着込む、
というタイプのものです。

 

そして、ここが重要なのですが、

この種の鎧は、

横の列の甲片は固定されており、

さらには、各々の甲片が
漆で塗装されて堅くなっています。

 

したがって、

甲片が厚ければ、

恐らくは、
胸囲に相当する空間を
潰すことが出来ません。

つまり、巻くのも畳むのも出来ません。

 

―あくまで、サイト制作者の理解が
間違っていなければの話ですが。

 

で、具体的に、

どのような鎧が
畳んだり折ったりするのが
難しそうかと言えば、

 

これも、あくまで私見ですが、

例えば、戦国時代の戦車兵の皮甲
兵馬俑の戦列歩兵用の皮甲です。

 

特に前者は、
袖部分の各々の甲片が湾曲しており、

胴体の甲片の最大の長さが
26.5cmもあるという具合。

無論、漆で塗装されております。

 

その他、

時代が下ると、

折ったり畳んだりとはいかずとも
バラせるものが出て来まして、

例えば、宋代の歩人甲なんか、
少し後の時代に
各々のパーツが
兵書で図解されています。

 

一方で、唐代の紙甲のような
布・紙製のものもあれば、
(これも、鎧やベスト等、
色々形状があるので説明が難しいのですが)

漢代の札甲のように
時代が下って
甲片が小型化していることで、

その収納性に
或る程度融通が利きそうな
ものもあります。

 

もっとも、
実物の甲片の厚さが不明につき、

サイト製作者が
動画や写真等で観た復元品が
たまたまチャチでペラかった、

―という、
情けない話なのかもしれませんが。

 

 

 

 

6、百聞に如く現物は何処(いずこ)

 

では、肝心のその実物はどうかと言えば、

先述の『中国古兵器論集』によれば、

特に、漢代の兵卒用の鎧
―特に魚鱗甲
ともなると、

出土品が腐食した数珠繋ぎの甲片、
といったケースが大半で、

残念ながら、
完全無欠の綺麗な現物が存在しません。

 

その結果、

発掘物の甲片と俑、
文献史料等を照合して
全体像を推測する、

という方法にならざるを得ぬ模様。

 

もっとも、
これは1980年代の研究水準ですが、

ネットに掲載されている写真等を見る限り、
発掘をめぐる状況には
あまり変化はないように思います。

 

で、浅学なサイト制作者の場合も、
無い知恵絞って色々調べたものの、

特に、鎧の内側の構造や着脱の方法、
可動部も含めた形状の変化の程度等が
どうも分からず終いとなりました。

 

 

 

【雑談】野暮な時代考証を試みる

 

余談ながら、時代も近いことで、

ここで、公開中の『キングダム』について少々。

 

写真で観る限り、

山崎賢人さんの鎧の
甲片のサイズや綴じ方は、
前漢のものだと思います。

ここは、
当たらずもイイ線行っている、
と、言うべきか。

後、衛兵の鎧は
金属製で甲片が多く、

腕の防護も
袖状ではなく肩甲が付いているので、
魏晋時代ですら最先端の技術水準。

さらには、
甲裙(裾部分)が長く膝までありまして、

裾の形状は、
残念ながら南北朝まで下ると思います。

恐らく、こういう備品は、
向こうからレンタルしたものかしら。

 

とは言え、そもそも、
フィクションに突っ込むのは
野暮でしょうし、

本場の向こうの映像物にも
いい加減なものが多いのも
事実です。

 

一方で、映像で観れば、
そういうものが気にならない位に
迫力と説得力があるのでしょう。

 

あくまで、
モノの見方のひとつ、

あるいは、

鎧の細部や時代ごとの進化に
興味を持つための

契機のひとつとして、

御寛恕下されば幸いです。

 

 

 

7、鎧の重ね着の事例
  ~孫権の夏口攻略戦

 

今回、最後に挙げる鎧の特徴として、

二重の着用―重ね着について触れます。

 

これは、史書にも事例があります。

例えば、
サイト制作者が唯一知っているのは、
後漢時代―『三国志』の、
208年の孫権の黄祖攻めの時の御話。

『呉書』・董襲の伝にありまして、
概要を以下に記します。

 

まず、黄祖の軍は沔口を守備しており、

2隻の蒙衝(小型の軍用船)を横に並べて
碇を落して河川を封鎖していました。

なお、甲板には、
弩で武装した兵士1000名が待機。

 

対する孫権の軍は、

大型船(原文:大舸船―艦種不明)に
決死隊100名を乗船させ、

さらに、
この部隊に鎧を重ね着させます。
(原文:各將敢死百人、人被兩鎧)

で、この時の斬り込み隊長が、
猛将で名高い董襲と淩統。

 

結果として、
決死隊は矢の雨を掻い潜って
首尾よく敵船に乗り込み、

碇の縄を切って
河川の封鎖を解くことに
成功しました。

 

要は、ここぞという大一番で、
作戦の成否を担う
少数の精鋭部隊に支給された、

という御話です。

 

また、董襲の伝からは、

重ね着した鎧の詳細は、
金属製の可能性があること以外は
不明です。

 

 

 

8、重ね着のパターンを妄想する?!

 

先の話だけでは、どうも全貌が見ませんで、

春秋戦国から前漢末辺りまでの
鎧の形状から、

在り得る選択肢を
少々考えることとします。

まあその、

如何に史上の実例があるとはいえ
そもそもがムチャクチャな話なので、

こちらも相応の荒技で臨もうかと
思います。

 

さて、まず、重ね着する鎧の外側ですが、
四肢の可動性の高いものが考えられます。

 

サイト制作者としては、

冒頭のイラストにあるような、

肩甲がなく首元に余裕があって
着脱が容易な、

騎兵用の鎧が適していると思います。

 

それも、
その中に鎧を着込むことを考えれば、

胸囲のサイズも
一回り大きいものと想像します。

 

もっとも、こういう妄想も、

甲片の厚さや縛り方等によっては、

鎧の形状が
殊の外強く固定されている等して
用を為さないかもしれません。

 

逆に、重ね着が難しいパターンを考えると、
以下のようになるのかもしれません。

 

例えば、前漢の前開きの袖付き鎧や、
堅牢な袖の付いた戦車兵の鎧、

あるいは、
秦代以降の戦列歩兵が着用するような
肩甲付きのものは、

重ね着の際、
表側に着るものとしては
不適当かもしれません。

 

因みに、
前漢の前開きの袖付き鎧
以下のイラストの右側。

これも再掲で恐縮です。

篠田耕一『三国志軍事ガイド』・高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

当時はサイト制作者は
浅学にして知らなかったのですが、

右側のタイプの鎧は、

少し前の世代の
甲片が短冊状で盆領(襟)付きの現物

割合良好な状態で
発掘されていました。

 

なお、左側は、
先述のアレな俑の模写ですが、

大雑把に言えば
筒袖付きの魚鱗甲でして、

諸葛孔明が開発に携わったという
「筒袖鎧」も、
大体この形状なのでしょう。

 

―話を重ね着に戻します。

さて、
肩甲付きの歩兵用の鎧を
強引に重ね着しようとすれば、

例えば、
身甲(胴体部分)と肩甲を繋ぐ紐を外し、
一旦両者をバラすだとか、

色々とやりようはあるのかもしれませんが、

 

重ね着するものは、
やはり一回り大きいサイズ
なろうかと思います。

 

因みに、先述の冒頭のイラストに描いた
秦代の歩兵用の鎧は、

首回りに巻かれている紐を緩めて
頭から被るタイプです。

 

ただ、前漢の歩兵用の鎧は、

前開きの袖付き鎧(現物有)以外は
着脱や胴を開く方法等は不明です。

首回りの隙間が広いことで、
頭から被るタイプだとは思いますが。

 

秦代の兵馬俑は、
そうした着脱に関する細かい部分も
丁寧に彫られているところに
有難みがあるように思います。

 

―もっとも、統一早々
そういうことをやっていたから
滅亡も早かったのでしょうが。

 

その辺りの事情は、

現世の負債は後世の遺産、
そのように理解すべきなのかしら。

 

とは言え、泉下の始皇帝様は、

かつては
自分の国の木っ端役人であった
不良中年が建国した漢に
美味しいところを持っていかれるわ、

そのブレーンである後世の儒家連中からは
クソミソにけなされるわ、

オマケに、『キ〇グダム』その他の
知財関係の恩恵には預かれないわ、

こういうアホが勝手なことを喚く
怪しいブログで
玩具にされるわで、

何とも散々なことで。

 

 

【雑談】騎兵の本質を考える

 

1、馬を取り巻く環境・要因

色々やりたいテーマのひとつ
騎兵というのがあります。

具体的には、

易戦の法等の集団戦法から
装備・品種・産地・「燃費」、
農業における他の家畜との相関関係等に
至るまで、

整理したい項目が
いくつもあるのですが、

今回は、テーマに沿って、
騎兵の鎧について少々触れます。

 

と、言いますのは、
優良な文献に出会ったからでして。

 

したがって、以下は、

 

西野広祥先生の
『「馬と黄河と長城」の中国史』
(PHP文庫)

 

―の内容にかなり準拠します。

 

同書は残念ながら絶版ですが、
2019年6月時点では
ネット中古市場では捨て値の模様。

 

著者の先生の
馬そのものは元より、
対象となる地域(主にオルドス)
の地形や気候といった要因に対する
造詣の深さにより、

サイト制作者にとっては、

馬・騎兵やその用兵思想について
根本から考えさせられた
一書となりました。

 

 

2、案外難しい騎兵の重装化

 

因みに、
兵科ごとの鎧も、
後日の記事で触れたいと思うのですが、

秦代、漢代、そして、
魏晋以降の裲襠甲
(両当甲でも良いような気もしますが)と、

実は、騎兵用の鎧のコンセプトは
それ程変わりません。

 

色々な先生に言わせれば、

馬狂いの武帝以降の
漢の歴代政権が、

目先の食糧事情に窮して
馬の改良を怠ったことで
その積載量や速度等が自ずと頭打ちになります。

何だか、限られたエンジンの排気量の中で
武装やエアコン、足回り等のオプションを
遣り繰りするという
戦中の航空機や最近のEV車の話、

その他、『フロントミッション』や
『メタルマックス』といった、
機械いじりのゲーム等を
思い出した次第。

 

しかも、漢民族の乗馬のセンスたるや、

鞍や鐙(三国末~晋代に実用化)が無ければ
行動に大いに支障があるという具合で、

こうした点が騎兵の重装化の足枷
なっていたようです。

 

―もっとも、現実的には、
こういう部隊は
烏丸や鮮卑等の異民族が
下請けしたことでしょう。

例えば、劉備の軍もかなり早い段階で
異民族の騎兵を抱えていました。

 

 

3、攻勢の軍隊は拙速を聞く

とはいえ、
事はそうは簡単ではありません。

 

今日の感覚で言えば、

武帝が
競走馬タイプと思しき
血汗馬を求めた
謂わば、ハイ・スペックの外車狂い
だとすれば、

その真逆と言いますか、

軽のジープの大量配備で
連戦連勝したのがジンギス・カン
であったりする訳でして。

 

具体的には、以下。

元朝が、

粗食に耐えて悪路に強い小型の馬と
軽装騎兵による運動戦によって
ユーラシアを制覇したのも
揺ぎ無い事実。

 

しかも、

小型の馬で運動戦を展開するのは
昔からの北方遊牧民の
御家芸と来ます。

 

言い換えれば、

遊牧民族が
大型の馬に穀物を喰わせると、

行動範囲が極端に狭まるどころか
食糧不足で軍が破産するのです。

 

その意味では、
騎兵の装備や馬の質以前に、

漢民族と遊牧民族の
馬に対する知識量の差が
そのまま戦力の差として
如実に表れているそうな。

 

要は、重装騎兵は、

配備に手間暇掛かるうえに、
特に戦略的な運用面で
大きな弱点があるので、

勇壮なイメージとは裏腹に
中々具現化しない、という、
あまり夢のない御話です。

 

 

おわりに

例によって、結論を整理します。
概ね、以下にようになります。

 

1、前漢末の段階で、
  既存の鉄製鎧と同じ規格の皮製の鎧が
  製造されていた。

 

2、前漢末から三国時代までの300年弱に
  鎧がそれ程進化しなかったのは、
  軍事的な空白が影響している可能性がある。

 

3、古代中国における鎧の定義は、
  胸と背中を防護する機能である。

 

4、鎧を着易くするための工夫として、
  裏側や首・袖・裾等を布で裏打ちしたり、
  あるいは、厚手の衣服の上に鎧を着用した。

 

5、モノによっては、
  巻いたり畳んだり、
  あるいは重ね着も可能であった。

  しかしながら、現物が少ないことで、
  不明な部分が多い。

 

6、資本力や戦力の大きい勢力同士の
  激しい戦乱があると、
  技術開発の速度が上がる。

  魚鱗甲は対匈奴戦の産物であり、
  明光鎧や筒袖鎧といった
  三国時代に登場した新種の鎧も、
  そうした事情が背景にある可能性が高い。

 

 

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
楊泓『中国古兵器論叢』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』
駒井和愛『漢魏時代の甲鎧』
西野広祥『「馬と黄河と長城」の中国史』
学研『戦略戦術兵器事典 1』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』
峰幸幸人
「五胡十六国~北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給」
『東洋学報100(2)』
浜口重国『秦漢隋唐史の研究』上巻

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鉄と鎧にまつわるこぼれ話・与太話

はじめに

 

実は、伍の次の記事として、
什だの両だの、

野戦における
100名以下の歩兵戦の話をしようと
考えておりましたが、

サイトのアクセス状況を見るに、
鎧の話の需要があまりにも大きいことで、

まずは、このテーマで
まとまった話をするべきかと
思った次第。

 

今回は、差し当たって、
現段階で御話出来るものを
いくつか選った次第。

逸話程度で、
残念ながら仰々しい結論を出すような
大層話ではありませんので、

あくまで御参考まで。

 

 

1、古代中国の金属事情

 

当時の鉄、というよりは、金属自体が、
今日で言うところの
レアメタルそのものでした。

 

その理由のひとつに、

 

例えば、鉄の場合は、

特に、炭素の含有量の多い
銑鉄を経て鋼を作る場合は、

 

原料の鉄鉱石のみならず、

炉の温度を上げるための大量の酸素、
―を、送り込むための動力や労働力、

水や木炭等の資源を大量に
消費するという事情があります。

も銅で、
精錬には相当な手間が掛かりまして、
零細な資本が
安易に手を出せるものではありません。

事実、銅が武器の中心であった秦など、
用途や種類ごとに技術集団を編制して
生産体制を整える訳です。

 

 

2、鋼材の隠し味・炭素の含有量

因みに、炭素の含有量は
鋼材の質の生命線でして、

もう少し詳しく言えば、

コンマ何%の違いが、
武器ガッカリ農具かの分水嶺。

 

例えば、銑鉄は1.7%以上で4%程度。
これ位高いと固くてもろく、
そのままでは製品になりません。

 

そして、サイト制作者の理解が正しければ、

大体0.5%前後
或る程度硬度としなやかさの双方を備え、
このレベルになると農具に使えます。

恐らく、武器となると、
0.25%程度かそれ以下の濃度。

 

このレベルを追及するとなると、

戦国時代の段階では
銑鉄を加熱して濃度を調整するのは
難しいことで、

鉄鉱石を加熱・冷却して
何度も叩きまくり、
このサイクルを繰り返すという面倒な方法で
製作する訳です。

 

あの時代の出土品の名剣は、
ほとんど例外なくこの方法と記憶します。

 

さらに、刀身と刃で使う鋼材が異なるだとか、
まあイロイロ面倒な構造でもあり。

 

ええ、精巧な紋様の施されている剣にせよ、
金属製の甲冑にせよ、

御大層な墓から出て来るような
この種の出土品は、

少なくとも、
兵卒が帯びるようなシロモノでは
決してありません。

 

とはいえ、前漢の時代には、

炭素の含有量をかなりの精度で
コントロールすることを可能にした
「炒鋼法」という技術が確立されました。

 

コレ、実は、何と、

西欧のパドル法に先んずること1000年という
当時としては世界レベルの
ハイテク中ハイテクの技術でして、

そのベースには銅の精錬技術があるという。

 

で、その技術や生産体制を背景に
ガチで切れる汎用性のある武器―
環首「刀」の普及と相成ります。

もう少し言えば、
刀が剣に取って代わる訳でして。

 

 

3、墓と副葬品と曹操

余談ながら、当時の墓は
死者の死後の世界を体現するものでした。

 

例えば、資産家が大真面目に大枚はたいて
貴重な副葬品を添えて
キメ細かい壁画を彫ったりする一方で、

 

その反対の方々の中には、

大金の空手形を大書して
自分の墓に入れるといった
パンクな奴も少なからず居たようでして、

その辺りは、何とも、
良くも悪くも利に聡い
中国人らしいと言いますか。

 

ところが、『三国志』の時代になると
戦乱の長期化に伴い盗掘が横行し、
既存の倫理観をブチ壊します。

 

そうした事情があってか、

そういうのを散々目の当たりにした
魏晋の曹魏政権―曹操の政権
法令で厚葬を禁止します。

この御仁、当時は、
反董卓連合の略奪に
心を痛めるような真面目な人です。

 

また、陳倉で蜀軍を寡兵で撃退した
叩き上げ上げの軍人の郝昭なんか
散々盗掘をやったと居直る訳で、

果たして、
次の時代の司馬氏の晋も
この政策を継承します。

以前、博学な読者の方から
貴重な情報を頂きまして、

今回、後述する文献の裏付けを得るに至り、

成程、当時のコンセンサスだったのかと
改めて理解した次第。

 

さて、どうしてこんな話をしたかと言えば、

魏晋時代の出土品が少なく、
娯楽コンテンツの考証が
難しいことに対する
サイト制作者の愚痴に他なりません。

鉄の腐食に加えて、
時の政権のシブチン事情もあるようで。

 

因みに、最近の当人の墓の盗掘、ではなく、
発掘調査が話題になっていますが、

曹魏政権の墓の話の種本は、

蘇哲先生の『魏晋南北朝壁画墓の世界』。
(白帝社アジア史選書008)

 

誤植がチョコチョコみられるのが
難点ですが、

鄧艾が成都を落した時の兵は
羌族が中心だったとか
三国志関係の裏話がいくつか書いてあり、

その他、当時の社会事情について
色々と勉強になった本でした。

 

4、秦漢の鉄の国家管理

さて、鉄の生産水準は、

唐代の段階ですら
年間の徴税分の鉄が1200トンだそうで、
税率を1割と仮定しても
生産量自体が12000トンにしかなりません。

 

因みに、大体1万トンという数字は、
日本の大型製鉄所の日産の水準です。

 

したがって、戦国時代
前漢の武帝の時代以降は、

戦時中という事情もあり、

鉄器は生産から使用まで
厳密な国家統制の下にありました。

 

例えば、漢代は『塩鉄論』で有名な桑弘羊の時代など、

国家が製鉄業者に対して、

鉄官として製鉄やその管理に従事するか
資本を安値で政府に引き渡すか迫った訳でして、

そりゃ、外戚に擦り寄って献金して
担当官庁に口達者な論客をけしかける位
するわな、と。

 

また、の場合、
武器は元より、農具についても、

今日で言うところの
脱税を企てないような
真面目な生産者に貸与あるいは支給し、

摩耗しても払い下げずに
鋳潰してリサイクルする訳です。

 

さて、戦国時代の鉄の先進的な生産拠点は
三晋地域や斉の辺り。

 

秦の場合、というよりも、
どこの国もそうなのかもしれませんが、

限られた鉄を、実は武器ではなく、
農具の生産に重点を置いて
供給していました。

 

そして、占領した製鉄の拠点から
既存の大資本を締め出して官営とし、

これらの資本家を
後進地域―例えば、南陽郡
(当時の漢民族の南側のフロンティア)等の
開発に宛てます。

 

 

5、本当に鉄製か?!黒光鎧と明光鎧

で、恐らく、

こういう金属の脆弱な生産事情
時の武器―特に鎧の生産量にも
暗い影を落としていたものと想像します。

 

それらしき例え話として、

例えば、三国時代の北伐で
蜀軍が押収したという
「黒光鎧」という鎧がありますが、

 

その定義たるや、

この時代における最新型の鎧である
明光鎧の仲間などではなく、

 

材質はともかく
札甲の鎧の表面を漆で黒く塗装したもの
そう呼ぶのだそうな。

 

さらに救いようのない話をすれば、
唐宋時代の出土品に
皮革製の「黒光鎧」があった模様。

 

蜀軍が祁山で鹵獲した鎧が
全て皮革や銅とは言いません。

 

ただし、その一方で、

官渡の戦いの前の
飛ぶ鳥落とす勢いの曹操が、

「自軍の馬鎧は10両しかなく、
袁紹軍は300両保有している」

と、嘆いた話の背景を考えると、
鉄製の比重が高かったとは
言えないと思います。

 

因みに、南北朝自体ですら、
馬鎧は大国で1000両だとかその水準。

 

また、故・駒井和愛先生によれば、

「明光鎧」の「明光」は、
銅鏡が光り輝く様を言うのだそうで、
転じて、鎧自体が鉄製とは限らないのだそうな。

 

察するに、
物資不足の魏晋の時代なんぞ
言わずものがな。

 

因みに、『三国志』の時代から
数百年経った唐宋当時ですら、

どうも、鉄製の鎧が
末端の兵士の標準装備とも言えないようで、

「紙甲」と呼ばれる
布製でも割合堅牢な鎧が
大量に出回っておりました。

 

 

おわりに

おさらいとしては、

古代中国では金属自体が貴重で
大体、戦時下では国家統制下にあったことと、

そのような経済統制を通じても
どうも鉄製の鎧は
それ程出回っていなかったのではないか、

という御話で御座います。

 

次回以降、図解の改訂も含めて
以前やった鎧の話を
もう少し詳しくやることに加え、

鋼材等の話についても、
もう少し踏み込んでかつ平易な形
行いたいと思います。

 

さて、余談ながら、

確か宋代だか、
民間人の鎧の着用自体が違法行為でして、

昨今の革命権が背景にある
銃社会のアメリカでも、
同じく、民間人の防弾チョッキの着用は
違法なんだそうな。
(連中の場合は、都市部で乱射事件を起こすので
話が拗れている気もしますが)

 

もっとも、犯罪者が真面目に順守するとは
思えませんし、

つい最近でも、普通の民間人ですら
ふざけて防弾チョッキで撃ち合いをやった
という事件すら起きていまして、

こういうのも州によって法規が異なるのかとも
思います。

グラセフなんかやると、
ドンパチ必携のアイテムだったりしまして。

 

まあその、例外めいた話はともかく、

今回の記事とこれらの御話を見るに、
多少なりとも治安政策と人殺しの本質を
少しばかり垣間見たような心地がします。

 

【主要参考文献(敬称略・順不同)】
角谷定俊『秦における製鉄業の一考察』
『秦における青銅工業の一考察』
駒井和愛『漢魏時代の甲鎧』
柿沼陽平『戦国時代における塩鉄政策と国家専制支配』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
『三国志軍事ガイド』
田中和明『金属のキホン』
菅沼昭造監修・鉄と生活研究会編著
『トコトンやさしい鉄の本』
趙匡華著、廣川健監修、
尾関徹・庚凌峰訳『古代中国化学』
蘇哲『魏晋南北朝壁画墓の世界』

カテゴリー: 兵器・防具, | 2件のコメント

伍の戦闘訓練と連帯責任


今回も長くなったので、
章立てを付けます。

興味のある個所だけでも
スクロールなさって頂ければ幸いです。

 

はじめに
1 兵士の戦闘姿勢・虎の巻
 1-1 6つの基本動作
 1-2 定義の曖昧な坐と跪
 1-3 防御姿勢としての坐・跪
 1-4 坐・跪からの動作

2 伍のシブチン訓練
 2-1 訓練の狙いと楽器の使用
 【雑談】突撃喇叭の行方
 2-2 軍の楽器の御約束
 2-3 鐘・太鼓・鈴は誰が持つのか
 【雑談】100名未満の編成単位小史
 2-4 楽器のありふれた代用品とは?

3、突撃訓練と交戦距離
 3-1 突撃の「内訳」
 3-2 矛戟(ばか)と弓矢(はさみ)は使いよう
 3-3 最前列では何が起きているのか
 3-4 墨子よ、オマエもか?!
 3-5 70mのグレー・ゾーン
 【雑談】五十歩百歩を軍事的に考察する?!
  1 古今の「常識」のズレ
  2 狂気の過去との対話、AKと孟子様
  3 実は生死を分ける「五十歩百歩」

4 伍の連帯責任と秦の戦争
 4-1 『尉繚子』の罰則規定
 4-2 『尉繚子』の特徴とその背景
 4-3 秦の殺戮戦争と長平の戦いの特異性
 【雑談】『キ〇グダム』前史?!
     手詰まりになった秦
おわりに (話の要点の整理)

【主要参考文献】
【番外乱闘編】浅学な物学びにも原文は必要か?

 

 

はじめに

まずは、更新が遅れて大変申し訳ありません。

いつの間にか元号まで変わっており、
遅筆を悔やむばかりです。

 

さて、今回は、前回の補足でして、、
伍についてアレコレ書こうと思います。

もっとも、大体の内容は
『尉繚子』の当該の部分の図解が中心となりますが、

それだけでは味気ないので、

同書に関連することを
何かしら書き足すこととします。

それでは、本筋に入ります。

 

 

1 兵士の戦闘姿勢・虎の巻

1-1 6つの基本動作

最初に当時―少なくとも、戦国から唐代辺りまで
兵士の戦闘姿勢について。

まずは、ショボい自作のイラストを御覧下さい。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、守屋淳・守屋洋訳・解説『全訳 武経七書 2』(敬称略・順不同)より作成。

藍永蔚先生の『春秋時期的歩兵』によれば、

兵士の戦闘姿勢は、直立した姿勢からは、
前身・後退・右向・左向・坐・跪の6動作。

この中で、

恐らく具体的な動作を
イメージしにくいであろう
坐・跪は、

上半身を垂直に、
片膝、あるいは両膝を
地面に付けた状態を意味します。

 

 

1-2 定義の曖昧な坐と跪

因みに、古代中国―特に春秋戦国時代は、
坐・跪の区別はなかったそうな。

 

実際、文献によっても
この辺りは曖昧です。

かなりややこしいのですが、
一応典拠めいたもの
記しておきます。

 

例えば、先述の『春秋時期的歩兵』では、

兵士が片膝着いて弓を構える絵を「坐」とし、

「上身坐在足跟上叫坐」
(上半身が座り、
足はそのままの状態で踵を上げるのを「坐」と呼ぶ)

と、説明しています。
訳にはあまり自信がありません。

対して、「跪」については、

「上身离脚直立就叫跪」」
(上半身を膝下より離して直立する、
あるいは、膝下を地面より離して直立する、か。
チュゴク語ムツカシイ儿ヨ!)

と、しています。
無論、邦訳は怪しいです。

 

 

【追記】

強力な助っ人の登場で御座います。

御贔屓頂いている読者の方より
以下のような援護射撃を頂きましたので、

早速、皆様と共有したく存じます。

 

 

上身坐在足跟上叫坐
(上半身をかかとの上に乗せて座ることを坐という)

上身离脚直立就叫跪
(上半身を足から離して直立させることを跪という)

この説明だと坐が正座で跪が両膝立ちかなと思いました。

 

 

特に、「踵の上に乗せる」の部分は、
成程と思いました。

綺麗な訳だと感心するばかり。

 

古語にせよ現代語にせよ、

語順の把握を誤ると
誤った意味で理解しかねないので、

その辺りの怖さには
毎度のことながら泣かされています。

 

後、どうも、片膝を付くか否かは
論点ではなさそうな。

 

【了】

 

 

また、古語辞典の『漢字海』には、

「跪」については、

「体位ないしは座位から、
両ひざを地につけ
腰を真っすぐに立てる」

と、あります。

また、「跪坐」という言葉もあり、

「ひざまずき、腰を伸ばして座る。」

と、説明しています。

一方で、「坐」については、
細かい説明はありません。

 

さらには、

稲畑耕一郎先生監修の
『図説 中国文明史 4』では、

同じく片膝着いて弩を構える俑を
「跪」射弩兵としています。

イラストは、
どちらかと言えば
この説―「跪」は片膝を地面に付ける、
に準拠していますが、

上段真ん中の「坐」の姿勢を取る兵士の
踵が上がっていないのは
描き手の手落ちでして、

この点は大変申し訳ありません。

 

 

1-3 防御姿勢としての坐・跪

さて、この坐及び跪という姿勢は、
弓を射る以外で何が有効かと言えば、

防御に最適でして。

 

もう少し具体的に言えば、

死角のない輪形陣を組む場合に
前列の兵士がこの姿勢を取り、

あるいは、隊列の入れ替えの際、

前列に出た兵士が、

交代した兵士が下がって
態勢を立て直すまで、

この姿勢を取って援護する、という具合。

 

『司馬法』の厳位篇にも
防御向きの用法が記されています。

例えば、敵前の行軍の際には、

「立進俯、坐進跪」
(立って進む時は頭を下げ、
伏せたまま進む時は膝を使うのを基本とする)

と、あります。
この訳は識者のものです。

姿勢を低くして
敵の発見を避けることに主眼を置き、

特に、「坐進跪」は、
恐らくは奇襲のための隠密行動を
想定しており、

その際、兵士の口には、
「枚」と呼ばれる箸状の木切れを
噛ませます。

 

また、開戦の前に
鬨の声を上げても戦意が高揚しない場合にも
この動作が登場します。

「畏則密、危則坐」
(兵士が怖気付いていれば隊伍を密集させ、
危険な状態だと思えば坐の姿勢を取らせる)

その理由として、

敵が遠ければ恐れることはなく、
近い場合も、
こちらが姿を見せていないので
味方の動揺を避けられるのだそうな。

 

 

1-4 坐・跪からの動作

また、これに付随して、
「膝行」という動作がありまして、

これまた
イラストの説明が悪く申し訳ないのですが、

要は膝歩きかしゃがみ歩きの類だと思います。
文字通りであれば、膝歩きか。

これも、同じく、
『司馬法』の厳位篇にありまして、
原文は「跪坐、坐伏、則膝行」。

さらには、
坐・跪から直立に移るための動作として、
「起」もしくは「作」。

起立する際には
膝を使って跳ぶような動作をすることで、
難しい動作であったそうな。

 

余談ながら、
字引を当たって気付いたのですが、

「坐」と「作」は同じ発音をすることで、

号令を掛ける際には、
その区別のために
「起」とやった方が多かったと想像します。

 

 

2 伍のシブチン訓練

2-1 訓練の狙いと楽器の使用

続いて、
伍単位の部隊移動の訓練について
説明します。

この部分は『尉繚子』
各篇の摘まみ喰いが大半の
カンニングな箇所です。

 

さて、ここでも、
アレなイラストを御覧下さい。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、守屋淳・守屋洋訳・解説『全訳 武経七書 2』(敬称略・順不同)より作成。

 

伍の訓練といっても、
伍長に裁量のある命令の訓練ではなく、

上級指揮官の命令を
末端の兵隊に徹底させるための訓練です。

 

また、軍隊の歩兵部隊は、
古代中国、と、言いますか、
先進国でも100年程前までは、

仰々しい楽器を鳴らして
進退の命令を下していました。

 

【雑談】突撃喇叭の行方

(【雑談】は本筋には関係ない箇所です。)

今回は近代戦の話も多いことで、

自信のある方におかれましては、

恐らく目新しい話はないことで
(サイト制作者の浅学も恥ずかしいので)
読み飛ばされることを御勧めします。

 

さて、楽器を用いた進退について、

例えば、割合新しい事例では、

旧軍では太平洋戦争の後半まで
突撃の際には喇叭を鳴らし、

ベトナム戦争でも
北の軍隊では、

同じく突撃の際には
笛を吹いていました。

 

もっとも、

日露戦争以降は
野戦陣地に機関銃を据えるのが
常識になっており、

しかも、戦後となれば
連射可能なアサルトライフルが
歩兵の標準装備となっていることで、

夜間はともかく、

白昼の銃剣突撃は
機関銃のない時代に比べて
効果が上がらなくなっていました。

 

ですが、こういう楽器の活用は、

決して消滅した訳ではなく
平時の見世物の風物詩になったと言いますか。

例えば、
日本の突撃喇叭

野球の応援で走者が出た時に鳴らされ、
(行軍の喇叭の方が馴染みがありますが)

あるいは、祭りの出し物でも
仰々しくやられまして、

正露丸のCMのアレは、

製品のルーツがルーツだけに
兵営内での食事の喇叭であったりします。

当時の漢字に戻せば、
恐らく、ロ〇アでは売れなくなるという。

 

米軍の突撃喇叭も、

同じく、野球やフットボールの応援や、
バイカー方々の暴走、その他に
使われている模様。

他にも、
イロイロと用途はありそうな。

 

【了】

 

 

2-2 軍の楽器の御約束

さて、話を本筋に戻しますと、

古代中国の戦争における
御約束のひとつとして、

前身は太鼓、
後退や行軍中の停止は鐘、

そして、下級指揮官が
両者を兵卒に伝達するために
鈴を用います。

 

これは『周礼』が典拠のようですが、
大抵の兵書も
このルールで運用しています。

 

因みに、その運用法として、

戦闘中には命令を徹底させるために
乱打するのですが、

その割には、
リズムや回数等もありまして、

この辺りの機微が
訓練の質に左右されるのでしょう。

 

その他、
行軍や停止、食事のタイミング等も、
こういう要領で
大まかな命令を伝達します。

この辺りの詳細なルールについては、

主に『呉子』・治兵、
その他、『司馬法』の厳位篇、
スパルタ兵書『尉繚子』の兵教篇等
御覧あれ。

 

 

2-3 鐘・太鼓・鈴は誰が持つのか

まず、鐘についてですが、

当時は、鐃(どう)あるいは鉦(しょう)、
と、言いまして、

ハンドベル・タイプのものもあれば、
前後の二人掛かりで持ち上げる
大掛かりなものもあります。

また、大抵は、周制でいうところの
卒長(100名を統率)以上の指揮官
これを鳴らします。

部隊の規模に応じて
使う大きさを
変えているのかもしれません。

 

次いで、太鼓について。

軍用の太鼓は、
どうも向こうでは
「戦鼓」などと言うようですが、
典拠は不明です。

 

また、曹操の『歩戦令』の内容からすれば、

これを鳴らすのは
100名の指揮官よりも
上のクラスだと思います。

 

そして、最後にですが、

上級部隊の発する
太鼓や鐘が鳴り止むと、

これに引き続いて、

これを下級指揮官が指揮下の兵卒に
正確に伝えるために
鈴を鳴らします。

この鈴を、
鐲(たく)や鐸(たく)と言います。

字引によれば、

鐸は大きい銅製の鈴。
鐲は小さい鐘のような鈴。

 

で、これを用いるのは、
25名隊長(伍が5隊=両)の両司馬です。

残念ながら、
鈴の鳴らし方は、浅学につき不明です。

 

【雑談】100名未満の編成単位小史

余談ながら、春秋戦国時代
割拠の時代だけあって
軍制も時代や国でマチマチでして、

25名の両で方陣を組むケースもあれば、
50名で方陣を組む場合もあります。

 

前者は恐らく、
殷・周時代の戦車戦の名残の
可能性があり、
制度の成り立ちには
身分制も絡んでいます。

後者は、歩兵中心の大量動員に
連動したものなのでしょう。

例えば、秦では50名を屯と言い、
その隊長を屯長と言います。

因みに、1980年代の
中国共産党の軍事史研究では、

このクラスの指揮官でさえ鎧を付けていたかどうか
怪しいとされていますが、

後の文献では、
最前列の突撃要員は付けていたそうな。

因みに、当時の鎧の材質は皮革が大半です。

 

その他、『尉繚子』では50名を属、
その隊長を「卒長」と言います。

時系列的に考えれば、
恐らくは、戦国時代の魏の制度を
秦が参考にしたのでしょう。

 

周制では先述のように100名隊長、

しかも春秋時代の斉では
卒が200名の部隊単位と来まして、
何とも紛らわしい限りですが。

この御話は、前にも少しやったとはいえ、
人数に応じて戦術も変わることで、

後日、もう少し整理して
詳述したく思います。

 

【了】

 

 

2-4 楽器のありふれた代用品とは?

話を本筋に戻します。

こういう軍の進退を預かる
鐘や鈴等の楽器は、

出土品こそ緑青塗れの薄緑色ですが、

銅と金が同義の当時では、
金色で紋様の施された貴重品。

 

したがって、

末端の編成単位の訓練に
こういう貴重な楽器を
持ち出す訳にもいきません。

質に出すか売る奴が出ると思います。

 

そこで、伍のレベルの訓練では、

板を太鼓に、
竿を旗に、
瓦を鐘見立て、

板や瓦を乱打して進退を命令し、
竿を振りまわり回して
方向を指示する、

という要領で訓練したそうな。

 

因みに、は、
字引によれば、

屋根の瓦のみらなず、
素焼きの焼き物の総称だそうな。

 

―冗談のような話ですが、
創作ではなく、
『尉繚子』の兵教篇に
大真面目に書かれています。

 

その他、後述するような、

何処の国とはここでは言いませんが、
戦慄すべき殺戮集団を生み出した
賞罰一体の鬼の連座制度だとか、

兵書は小説よりも奇なり。

 

そのように考えると、

自分達が空けた酒瓶で
訓練をやったような連中も
いなかったとは言い切れないと想像します、
などと。

 

そして、こういう要領の訓練を、

伍→什→属→伯(100名)・・・
というように上級部隊へと
拡大して行きます。

恐らく、兵員の規模の大きい軍事演習では、
本物の楽器の登場と相成ることと
想像します。

 

 

 

3、突撃訓練と交戦距離

3-1 突撃の「内訳」

また、伍のような末端ではなく、
或る程度の規模の訓練ともなれば、
距離の概念も登場するようです。

 

以下のアレなイラストを御覧下さい。
これも『尉繚子』の御話。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、守屋淳・守屋洋訳・解説『全訳 武経七書 2』(敬称略・順不同)より作成。

 

要は、突撃の訓練の要領です。

こういうのが
向こうの戦国時代から
行われていたと仮定しても、

二千年以上前から戦前までは、
白兵戦の要領は
それ程変わっていなかったと思う次第です。

(もっとも、守備側の反撃能力については
先述の通り、その限りではありません。)

 

差し当たって、

戦争映画が好きな方や
ミリタリー・マニアの方話は、

旧軍の実戦での突撃や、
藁人形(や捕虜!)に銃剣で突っ込む
訓練のシーンを御想像下さい。

古い映画で言えば、
故・瀬島龍三氏が知恵を貸している
『203高地』

ここ10年位で言えば、

「太平洋の奇跡」や、
「私は貝になりたい」
リメイク版辺りの作品です。

 

まず、中隊長辺りの指揮官
目標地点と躍進距離を指定し、

「突撃に進め」と号令を掛け、

これを受けて
目標目掛けて兵隊が走り出します。

次いで、指揮官が軍刀を翳して
「突っ込め」と号令を掛け、
(因みに、ガチの戦闘では、軍刀が目印になり、
ここで中隊長が狙撃されます。)

兵隊は、今度は、
予め着剣された小銃を白兵戦用に構え、
吶喊して敵兵目掛けて突っ込みます。

 

大抵の戦争映画は、

これらを大別して
前進と斬り込みの2段階の動作が
一緒くたになって
「突撃」となっていますが、

専門家の方に伺えば、
恐らく2段階どころか
もっと細かい動作があるのかもしれません。

 

また、突進力が生命線の騎兵の場合は、
恐らく最速で敵陣に突っ込むことで、
速度の調整と加速が逆になろうかと想像します。

 

どうしてこの一見無駄な話を
【雑談】扱いにしないかと言えば、

先述のように、
2000年以上前の人々と
やってることが同じだからです。

 

で、その流れで、
話を古代中国に戻します。

 

当時の訓練の具体的な要領ですが、

まず、訓練に要する距離は300歩。

 

御参考までに、

前回の記事で使用した
古代中国の度量衡の表
再掲します。

 

戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、p1796の表より作成。

 

で、300歩を3等分し、
各々100歩=138.6mごとに
兵士の取る動作が変わります。

地面に100歩ごとに棒を立て、
目印にするのだそうな。

 

で、まず、初めの100歩は全力で駆け、

次の百歩は小走りで
次の動作に移るための速度調整を行い、
(大体、ここまでが、
「突撃に進め」だと思います。)

そして、最後の100歩で、
相手に突っ掛かっていくという
三段階の段取りとなる訳です。
(これが、「突っ込め」と。)

 

因みに、「決」は、

字引によれば、
向こうの古語で
ここでは直訳すると「殺す」となりますが、

守屋洋先生もしくは守屋淳先生
「白兵戦」と訳されていまして、
巧い訳だなあと思った次第。

 

 

3-2 矛戟(ばか)と弓矢(はさみ)は使いよう

白兵戦の要領に加えて、
飛び道具との関係についても
少し触れます。

これも、またまた『尉繚子』の御話。

まさに、ブラック軍隊必携の
操兵マニュアルです。

 

さて、同書によれば、

殺人於百歩之外者、弓矢也
殺人於五十歩之内者、矛戟也

と、あります。

 

つまるところ、

100歩≒140mを越えれば弓矢、
50歩≒70mまでは近接戦の武器
敵に当たれ、

と、こういう御話です。

恐らく、味方の陣の最前列が
話者の視点かと推測します。

 

前回の記事でも触れましたが、

当時の弓矢で140mという目標は、
曲射による制圧射撃の距離です。

名人でも曲射でどうにかなるか、
というレベルです。

 

つまり、現実的には、
当てるというよりは、
弾幕を張って相手を威嚇するのが目的。

あるいは、
相手の戦列が乱れた後の掃討戦の折には、

相手が背を向けて逃げることで、

五月雨射ちでも戦果が見込める、
という判断で、
こういうのをやったのでしょう。

 

もっとも、これがであれば、
大体この距離までは直射可能ですが、

来村多加史先生によれば、

弩兵を陣頭に配置して
制圧射撃を行うのが定着したのは
秦漢時代―戦国末期以降なんだそうな。

 

 

3-3 最前列では何が起きているのか

一方で、『尉繚子』は、

50歩≒70m以下では、
打ち物で遣り合うのを
推奨する訳ですが、

これを守備側の想定する
白兵戦の交戦距離と仮定します。

 

戦況によっては、

敵の出方に応じて短兵と長兵を
頻繁にシフト・チェンジし、
(光栄の『ゼルドナーシルト』の世界!)

弓とて相手との交戦距離が
大体50メートルを切れば、

命令一下のタイミングでの
曲射の斉射ではなく、

各々の兵士の裁量で
直射でピンポイントで狙う選択肢が
出て来るかと思います。

 

古代中国ではなく、
旧軍の逸話で恐縮ですが、

敵味方の入り乱れた乱戦になると、

部下と呼吸の合う
歴戦の下士官でさえ、

個々の兵士の動きが把握出来ずに
細かい指示が出せないのだそうな。

 

で、戦闘が長引き、
最前列の伍の要員が総じて疲弊すれば、

後詰の伍と
隊ごと入れ替えます。

 

さらには、最悪の場合、

自分の伍から戦死者を出せば、

遺体を回収して
敵に報復する義務も発生することで、
溜まったものではありません。

 

もっとも、その場合は、
同郷の者が殺されることで、

例え、軍律で強要されずとも、

せめて遺体位は回収して
縁者の間で手厚く弔ってやりたいのが
人情なのかもしれませんが。

 

で、そうした
臨機応変の対応を要する事態が発生する度に、
敵味方の縦隊が伸縮したことと思います。

 

戦場で一番忙しいエリア、
と、言いますか、

まさに、命の遣り取りの
最たる場面です。

 

 

【雑談】 土壇場での命の遣り取り

前回の日記でも触れました通り、

サシでの斬り合いは、

行くところまで行けば、
戟や戈で相手の首を落とすのが
当時の流儀。

 

戦闘の最前列では、

生首とまでは行かずとも、

五体の何れかを失うか
腹部を斬られるかして、

血塗れで呻きながら
命を落とす兵士が
大勢いたことは容易に想像が付きます。

 

日頃の、
行く先もロクに知らされないような
苛烈な行軍に加えて、

いざ戦闘に臨んでは
このような地獄絵図を
目の当たりにする訳で、

大半の兵士は
気が狂いそうになるのを
必死に堪えながら
武器を構える訳です。

 

そして、こういう末期的な世間ですら、
趙括のようなふざけた将官も
存在する訳で、

一将功成って万骨枯るとは
よく言ったもの。

【了】

 

 

3-4 墨子よ、オマエもか?!

ところが、

怖気づいて
逃げ出そうとする者がいれば、
伍ごと軍規違反の対象となります。

軍功地主が台頭する華々しい戦争の裏の顔。

 

非戦・博愛を得意げに説く墨家でさえ、

十八番の籠城戦では、

敵方への内通者やその親族には
厳罰―極刑は当たり前、車裂きで臨めと
宣います。

『尉繚子』よりも古い用兵哲学で、
しかも、時代を先取りするかのような
厳罰主義。

今風に言えば
どこの共〇党かと思いますが、

古代中国の籠城戦
例えば、後漢・三国時代で言えば、

鄴や寿春のような熾烈な籠城戦等が
好例でして、

特に兵糧を食い潰した後は、

守備側の将兵のメンタルが持たずに
自壊するケース
少なからずあるのも現実です。

 

その意味では、墨家も、
決して生兵法を説いている訳では
ありません。

 

まあ、その、

命とカネの遣り取りには
綺麗事は一切通用しないのが、
古今東西の世の真理。

その最たるものが、
平時とはまるで世界観の異なる
軍法なのでしょう。

 

 

3-5 70mのグレー・ゾーン

さて、先述のように、

守備側が白兵戦の交戦距離を
70mと想定するのに対して、

攻撃側の白兵戦―「決」の想定する
交戦距離は約140m。

そのように考えると、

残りの約70mは、

両軍が入り乱れて縦隊が伸びて
白兵戦に及ぶケース以外では、

恐らくは、後続の部隊が待機したり、
弓兵が援護射撃を行ったりと、

色々とややこしい距離なのでしょう。

 

無論、守備側の弓の射程距離につき、
危険な距離には違いありません。

先述のように、弩であれば、
この距離でも直射可能でして、

腕力のある者ともなれば、

隊列の隙間から直射に近い低い角度で
強弓を射たことでしょう。

 

 

【雑談】五十歩百歩を軍事的に考察する?!

*今回の話の中でも、特に無駄な部分です。
御注意下さい。

 

1 古今の「常識」のズレ

ここに、孟子の有名な
「五十歩百歩」という故事があります。

戦場で50歩逃げた者が
100歩逃げた者を笑ったが、

双方とも逃げたことには変わらず、
前者にはその資格はない、

という御話。

 

この故事の由来は、

彼の孟子が、
善政が報われないと嘆く魏の恵王に
説教をくれる際の比喩として
持ち出した話です。

 

したがって、

一見、マトモに
軍事的に考察する価値があるのか
疑問に感じるかもしれません。

 

しかし、ここで少しだけ御考え下さい。

 

実は、こういう言葉のひとつひとつにも、
存外、当時の世間の常識が
少なからず滲み出るもので、

これが古典の面白さのひとつでもあると思います。

 

例えば、戦後の逸話として、

メキシコの確かシナ〇ア地方の
(太平洋側の山間部の怪しい御花の産地)
さるヤバい御花畑の農園の主つまりギャンg・・・
が、初めてAKを手にした折、

500m先の敵を倒せる、
と、狂喜したそうな。

 

で、そのような、
高性能かつ堅牢で安価な小銃が、

弱小国の正規軍の標準装備どころか、

世界中の貧しい反政府系
ヒャッハー軍事組織御用達として
ロングランになっている世間で、

孟子や魏の恵王宜しく
50歩だの100歩だの
ケチな距離を論じようものなら、

ふたりとも逃げ延びる前に
フルオート射撃で
背中をハチの巣にされて
「劇終」になるのがオチで、

そもそも、
例え話が故事になるどころか
どうも話自体が成立しません。

 

 

2 狂気の過去との対話、AKと孟子様

言い換えれば、

孟子が昨今のツアー旅行宜しく
人〇解放軍の兵舎か
何処ぞのリゾート地でAKを試射でもすれば、

例え話の歩数が一桁多くなるであろう、

というサイト制作者の怪しい想定で、
具体的な状況について創作を試みます

 

さて、近代兵器の威力に感嘆した孟軻先生、

後学のためにフルオートで撃たせろと
駄々をこねまして(アメリカでは違法行為です。)

 

で、見かねた弟子が、
師匠に内緒で、

嫌がる店主に
無理やり賄賂を掴ませまして、

案の定、流れ弾が方々に飛び散り
店内が阿鼻叫喚の修羅場となります。

 

幸いにして
周囲では死傷者こそ出なかったものの、

当の本人は
強烈な反動で肩を脱臼しまして、

つまるところ、
撃った本人が唯一の負傷者となります。

 

そのうえ、挙句の果てに、この先生、

やはり武力はいかん、
仁に優るものはない、
と、涙目でキレながら店主に説教を垂れ、

こういう身勝手な迷惑行為に対して
文句を言う他の客を
自慢の能弁で悉く論破する、と。

 

ですが、
それの何処が仁なのかと
キレたいのは、

むしろ、この年甲斐のない
トラブル先生を持て余す
ツアーのガイドと
アトラクションの店主の側かと。

 

そこで、締めの一言として
学派総帥の子曰く、

「過ぎたるは猶及ばざるが如し。」

 

因みに、サイト制作者は
こんな話を書く癖に、
実銃の射撃経験がありません。

 

―何だか、つまらない妄想話が
混じって来ましたので、
この辺りで止めておきます。

 

序に、AKにBを足して、
この先生がアイドルと握手して狂喜する、と、
タダでさえこのイカレた話に
恥の上塗りでもしようものなら、

今度こそ、

当サイトと絶縁する人が
後を絶たない気がします。

 

 

3、実は生死を分ける「五十歩百歩」

では、孟子の言う50歩や100歩は、
当時の感覚で言えば
どの程度現実味があるのか。

 

先述の『尉繚子』における
以下の件を思い出して下さい。

「殺人於百歩之外者、弓矢也
殺人於五十歩之内者、矛戟也」

 

そう、最前列で戦う兵士からすれば、
50歩は斬り合いの圏内。

ですが、100歩ともなれば、

突っ込む側からすれば
ギリで白兵戦の距離ですが、

現実的には、
これ位離れれば弓矢の距離。

それも、直射の危ないやつではなく、
精々勢いの落ちた弓が飛んでくる程度です。

 

もっとも、その場合、

まとまった数の矢が一気にが来ることで
安全とは言い切れませんし、
弩であればアウトですが。

 

とはいえ、サイト制作者としては、

当時の戦場の感覚からすれば、

50歩と100歩では、
生死を分ける大きな違いと
言えるのではなかろうか、と、思います。

 

したがって、

故事にある通り、
不毛な自慢話の争点にはなりそうですし、

50歩後退して踏みとどまった兵士は
笑う資格自体はあろうかと。
(軍規違反かどうかは状況によるのでしょうが)

 

もっとも、
本当に笑ったら笑ったで、

孟子の指摘する通り、

恥知らずというか品位に欠けることで
周囲の失笑を買うとも思いますが。

 

ここに、
道徳と戦争の価値観の違いが
滲み出ていると言いますか。

こういう与太話自体、
サイト制作者の屁理屈と言えば
それまでなのですが。

 

 

なお、この話にもう少し興味のある方は、
以下の記事を御覧下さい。

実録?!五十歩百歩(小記事)

 

【了】

 

 

 

4 伍の連帯責任と秦の戦争

4-1 『尉繚子』の罰則規定

大きい話としては
今回の最後のテーマとなりますが、

伍の義務や連帯責任について触れます。

 

まず、厳しい軍規を求める『尉繚子』より、
該当するを思われる箇所を挙げます。

もっとも、
これまで散々ボロクソに書いたことで、

内容については、
或る程度は御想像が付くかと思いますが。

 

まず、束伍令篇には以下。

 

・連帯責任の証書を
「将吏」―上級の指揮官に提出する。

・伍の中から戦死者を出せば、
同数の敵兵を殺さねば
全員を処刑し家産を没収する。

・対して、伍の中から戦死者を出さずに
敵兵を殺すか生け捕れば
表彰される。

 

この報復義務の原則は、
兵卒だけでなく、
下級指揮官や将校にも適応されます。

 

次いで、兵教上篇には以下。

 

・伍長に部下の訓練の義務がある。

完遂すれば表彰されるが、
軍規違反で処罰される。

 

・戦闘の際、
命令違反を行う者や
ひとりでも戦意に欠ける者がいれば、
軍規違反で処罰される。

什長にもこのルールが適用される。

 

・伍の中で罪を犯した者がいれば、
内部告発の義務が生じる。

申告すれば他の者は免除される。

 

兵教下篇にも、
「連刑」として連帯責任を強調しています。

 

また、兵令下篇には以下。

 

・遺体回収が出来ない場合は
軍功を剥奪する。

 

この篇が同書の最後ですが、
その最後の箇所
凄まじいことが書いてあります。

 

古之善用兵者、能殺士卒之半、
(中略)能殺其半者威加海内

昔の用兵巧者は部下の半数を誅殺し、
天下に威信を示すことが出来た、

と、言う訳です。

 

良くも悪くも、
同書の本質を表していると思います。

 

 

4-2 『尉繚子』の特徴とその背景

さて、ここで、
この時代の兵書の変遷について
少し触れます。

孫武・孫臏の『孫子』
呉起の兵書『呉子』
戦国時代の初め頃で、

野戦が盛んであった時代の書物
言われています。

 

そうした事情を反映してか、

書いた本人は統率の鬼で
王の妾を斬った武勇伝の持ち主で
上から目線でドライな『孫子』でさえ、

軍規違反はともかく、
兵士は赤ん坊だから
飴と鞭で宥めろという程度です。

 

もっとも、例えば孫臏など、

やってることは
友軍を全滅前提の捨て駒にする等
結構エグいですが。

 

呉起も兵隊の進退については
イロイロ書いていますが、

積極的に味方を殺せとは
書いていません。

 

また、少し成立の遅い『司馬法』も、

御本尊様が軍規違反で王の寵臣を斬った割には、

兵士の扱いについては、
むしろ長所を引き出せというような
書き方をしています。

 

ところが、この『尉繚子』に至っては、

兵士をとにかく細かく法で縛って
抵触する奴は片っ端から罰を喰わせろ、

というスタンスで臨んでいます。

 

また、墨家の総帥の墨翟が亡くなったのは
紀元前400年で、
割合古い世代の人ですが、

『墨子』自体は弟子の言説も含めた
集大成的なものだそうで、
世に出た正確な年代は
判然としません。

もっとも、『漢書』には
断片的に収められているそうで、
この時期までは遡れると思いますが。

 

ただ、仮に、墨翟本人が
籠城戦の本質について
厳罰主義を説いていると仮定すれば
興味深い話だと思います。

 

以上のような変遷を考えると、

戦国時代の末期
成立したと考えられる
『尉繚子』の存在意義
何処にあるのかが、

自ずと分かって来ようもの、と。

 

つまり、
将兵を厳しい軍規で縛ることは
古今東西の戦場の常識ですが、

それを敢えて書くことで、

将兵共有のドグマとして
手心を加えずに徹底させることに
意味があったのではないか、

と、サイト制作者妄想します。

 

孫武や呉起、穰苴にせよ、

成り上がりの軍人にとっては
厳しい軍規こそが
当人の政治力の根幹でもあり、

その理由は、
その厳しい軍規が
軍隊の戦力を保障していたからです。

 

そして、時代が下って
戦国末期に至っては、

何人もの有能で剛腕な食客軍人が
無能な穀潰し大夫共の嫉妬を後目に
精強な軍隊を作り上げた先例が
余りあることで、

最早、兵卒レベルの厳罰主義が
行くところまで行っていた、
という状況にあった、

ということではなかろうかと
思います。

 

謂わば、『尉繚子』は
兵士育成マニュアルとしては
戦国時代の兵書の集大成であった、
とさえ思います。

 

 

4-3 秦の殺戮戦争と長平の戦いの特異性

この個所は、殆ど、
前回でも少し紹介しました
来村多加史先生の『春秋戦国激闘史』に拠ります。

 

悪く言えば、手抜きの部分。

サイト制作者の主観ですが、

春秋戦国時代の時代背景や
対外関係の詳細な変遷について、

文庫本の尺で
ここまで巧く纏めた本には
中々御目に掛かれません。

さて、『尉繚子』、と言いますか、

恐らく魏の亡命軍人等より
先進的な兵学や用兵思想を貪欲に学んだ
実際の戦場で何をやったかと言えば、

敵兵に対する
呵責無き殺戮に他なりません。

 

秦は、実は、
統一直前まで武器が銅製であったり、
(特に戦国後半は、
斉や燕は鉄器を実戦投入しています。)
イロイロな意味で後発の国。

 

孫武や伍子胥を活用した呉もそうですが、

しがらみの少ない後発の国の方が、存外、

やり方が原理主義的
その分、モノを吸収した後のパフォーマンスが
良かったりするものでして。

 

で、サイト制作者も最近知ったのですが、

来村多加史先生によれば、
この国は、ある時期から捕虜を取りません。

 

『尉繚子』には、
損害なく捕虜を得れば賞与の対象と
書いてありますが、

この国は、とにかく、
降伏した兵士を皆殺しにします。
万単位の殺戮が当たり前。

 

これは始皇帝の登場以前からの話で、

やることが惨いのは、
敵兵の首が軍功の証だからです。

 

一方で、自分達の伍から
戦死者を出した場合、

そのペナルティを
捕虜の生首でチャラにするといった
当事者にとっての「必要悪」なやり方も
あったのでしょうし、

その意味では、
厳しい軍規の裏返しなのかもしれません。

 

当然、他国もそれを熟知しており、
秦と遣り合う場合には
土壇場まで足掻く訳です。

それでも万単位の捕虜が出たのは、

恐らく食糧や矢が尽きて
餓死者や逃亡者が続出し
自力での退却が不可能といったような、

究極の状況だと思います。

 

 

ところが、興味深いことに、
捕虜の生き埋めで悪名を馳せた
長平の戦いは、

先述の来村多加史先生曰く、
秦のやった歴代の戦争の中でも
かなり趣の異なる内容なんだそうな。

 

さて、その戦いの経緯を述べますと、

この戦いは、
戦国末期の秦と趙の野戦の決戦でして、

秦が偽装退却を企て、
追撃に転じる趙の大軍の補給路を遮断して
全滅に追い込んだ戦いでした。

 

ところが、秦も秦で、

緒戦の偽装退却で
趙の精兵相手にボロディノ宜しく
或る程度真面目に抗戦したことで、

終わってみれば損害も相当なものでした。

戦力の半数の死傷者を出したそうな。

 

因みに、最近(1995年)に発掘した
捕虜と思しき人骨から計測した結果、

この戦闘での趙兵の平均身長は、
何と、171cm。

低くとも161cm、
最も高い者にいたっては
184cmあったそうな。

兵卒の平均身長が150cmを切る時代
20cmも高い訳ですから、

趙がどれ程の精兵を選って
秦にぶつけたかが
伺えます。

 

その結果が、

秦にとっては
戦略的な勝利にもかかわらず、

赤字も赤字、大赤字、
激しい価格戦争で疲弊した
小売業のような状態でして、

いつものように、

馬鹿正直に
取らぬ捕虜の首算用で
軍功なんぞカウントしようものなら、

恩賞で国庫が破綻しかねない事態
発展したそうな。

 

総司令官の名将・白起が
捕虜の生き埋めに及んだのは

国家上層部の極秘の指示で
恩賞を踏み倒す為の措置であった
可能性がある模様。

 

敵の趙や後世の人間の目線では、
同じ殺すに変わりはなく、

首を取るか撲殺して生き埋めにするかの
違いでしかありませんが、

内部の人間にとっては
メシの種に繋がる一大事であった訳です。

 

 

【雑談】『キ〇グダム』前史?!
手詰まりになった秦

また、こういう勝ち方をした秦が
その後に諸国の反撃に遭って
統一が半世紀近く伸びたのは、

秦が無理な攻勢を行い
国力を疲弊させたからです。

 

件の白起は、
誰がやっても勝てないから止めろと
王に諌言して自殺を強要されますし、

趙も趙で国力の回復に努めます。

 

結果として、

依然、蜀という豊穣な後背地を抱えた
秦の優勢は揺るがないとはいえ、

大陸の天地は複雑怪奇な勢力抗争図に
逆戻りします。

 

余談ながら、

食客の元締めで有名な平原君
その懐刀でハッタリ屋の毛遂は、

この折の対秦同盟の立役者。

 

とはいえ、その後、
やはり秦は強かった、
という歴史の流れを考えれば、

弱小国同盟のノスタルジー的な
存在であったのかもしれません。

【了】

 

 

おわりに

今回も水膨れして大変恐縮ですが、
例によって、以下に、話を大筋を整理します。

 

1、兵士の戦闘姿勢は、直立した姿勢からは、
前身・後退・右向・左向・坐・跪の
6動作がある。

 

また、坐・跪の区別は曖昧で、
坐・跪から歩くのを膝行、
立つのを起・作と呼んだ。

 

 

2、古代中国においては、
兵卒の進退を楽器と旗を用いて行った。

太鼓で前進、鐘で後退命令し、
旗は移動方向を示した。

命令を徹底させるために
楽器を乱打したが、
リズムや回数等も存在した。

また、下級指揮官は、
これらの命令を主に鈴を用いて
兵士に伝達した。

 

 

3、末端の軍事訓練では、
太鼓の代わりに板、
旗の代わりに竿、
鐘の代わりに関して瓦や焼き物を用いた。

 

 

4、突撃の訓練では300歩の距離を要し、
100歩ごとに行動を変えた。

 

最初の100歩は全力疾走、
次の100歩は小走り、
最後の100歩は白兵戦、という手順であった。

 

 

5、交戦距離は50歩までが近接武器、
100歩を越えれば弓が推奨された。

 

50歩から100歩までの距離は、
恐らくは白兵戦から射撃戦まで幅広く行われ、
また後続部隊が待機する等の
曖昧な距離であった可能性がある。

 

 

6、兵卒の罰則が特に厳しい兵書は
『尉繚子』と『墨子』である。

 

前者は成立年度が遅く
精強な軍隊を設立した成功例が多いことで、
戦国時代の兵書の集大成である可能性がある。

 

後者の場合は、
籠城戦の長期間にわたって
閉鎖的な空間が続くという
事情が大きい可能性がある。

 

 

7、恐らく『尉繚子』や法家の影響が強い秦は、
基本は捕虜を皆殺しにする軍隊である。

 

そのような中、長平の戦いでは、
生首=軍功が国庫を圧迫することを避けるため、
生き埋めに及んだ可能性がある。

 

 

 

【主要参考文献(敬称略・順不同)】
守屋洋・守屋淳訳・解説
『全訳「武経七書」 2』
藍永蔚『春秋時期的歩兵』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
『三国志軍事ガイド』
来村多加史『春秋戦国激闘史』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
学研『戦略戦術兵器事典 1』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海 第四版』
山田琢著・山辺進編『墨子』
尾崎秀樹訳・解説『呉子』
小林勝人訳注『孟子』上巻
加地伸行『中国人の論理学』
趙匡華著、廣川健監修、
尾関徹・庚凌峰訳『古代中国化学』
田中和明『金属のキホン』
ヨアン・グリロ著、山本 昭代訳
『メキシコ麻薬戦争』
松本仁一『カラシニコフ 1』
ジョン・エリス著、越智 道雄訳
『機関銃の社会史』

 

 

【番外乱闘編】浅学な物学びにも原文は必要か?

さて、戦闘姿勢の話の補足として、

字引によれば、

「脚」は膝下から踝迄、
「腿」は膝より上の太腿の部分を
それぞれ意味します。

 

このように、

漢字一文字に
日本語以上に細かい意味があるのが
中国語の面白くも面倒な部分です。

 

サイト制作者の語学力不足を
棚に上げていうのも何ですが、

当然、古語なんか、
字の解釈がさらに難解でして、

識者の方の書き下し文なんか読むと、

今日の日本人の漢字の感覚からすれば、
当て字や略字のような読み方
多々見られます。

 

こういうのを丁寧に見抜いて
意味の通じる書き下し文に落とし込む
諸先生方の眼力に頭が下がると言いますか。

 

言い換えれば、

『三国志』正史自体が孔明の罠、ではなく、

古典にあるような古語は

ネイティブの方すら
死語という認識なんだそうな。

 

それでも浅学なサイト制作者が
要所だけでも原文で読みたいと思う理由は、

識者の方のの邦訳が、特に軍事面では、

当時のテクニカル・タームと思しき言葉も
平易な日本語訳になさっているケース
少なからず見られるからです。

無論、これ自体は間違いではないどころか
有難い配慮にせよ、

下手なりに考証を進めるうえでは
少し物足りなさを感じる部分もある次第で。

その意味では、
原文が掲載されている訳文には
非常に有難みを感じます。

 

最後に、最近、

いくつかの古典を読んで思うことは、

賢者の言説を記した本とはいえ、

何も、哲学を学ぶだけが
思想関係の堅い本の
存在意義ではなかろうとも思います。

 

結構、戦争関係の考証で
為になる話が出て来るんですワ、これが。

それもその筈、

そもそも諸子百家の争点自体が
戦争の解釈であった訳ですから。

 

邪な読み方で
先生には大変失礼かもしれませんが、

例えば、加地伸行先生の『孝経 全訳注』など、
本文の和訳
(訳自体はセンスの塊だと思いますが)よりも、
脚注の方が遥かに為になったと思います。

 

無論、思想関係の本から
当時の戦争や政治のイロハを
学ぼうとするような
イビツな読み方をしているからに
他なりませんが。

 

これに因みまして、
識者の方々の書かれた脚注は本当に優秀です。

試しに、最寄りの本屋さんや図書館等で

文庫で結構ですので、
四書五経等の堅い本を手に取り
脚注だけでも御覧下さい。

 

勿論、軍事関係の話も含めて、

痒くて手の届かない基本かつ重要な部分が
分かり易い言葉で丁寧に解説されています。

 

【了】

カテゴリー: 兵器・防具, 軍事, 軍制 | 4件のコメント

最小戦闘単位「伍」と最末端の戦闘

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、学研『戦略戦術兵器事典 1』、篠田耕一『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

今回も、長いので章立てを付けます。

適当にスクロールして、
興味のある個所だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

なお、毎回、記事の終りに結論を整理しています。

長文を読む時間がない方、
あるいは冗長な表現が苦手な方に
おかれましては、

御手数を御掛けして恐縮ですが、
これで大意を確認なさって頂ければ幸いです。

はじめに
1、そもそも「伍」とは何ぞや?
2、村単位の人員の供出
【追記】タダで読める?!
什伍の制に関する論文の紹介
3、伍と戦車の関係
4、ハッタリと受け継がれる気風との関係
5、春秋時代における歩兵の変質
5-1、伍と両と両司馬
5-2、戦車と運命を共にする郷土部隊
5-3、大量動員時代の幕開け
5-4、孫子の兵法で世の中が変わる?!
5-5、戦国時代の歩兵への変貌
6、死角なき小戦闘集団「伍」
7、当時の基準で度量衡を測る
8、武器の種類とカテゴリー
8-1、カテゴリーと種類の概要
8-2、矛、戈、両者一体の戟
8-3、剣と環首刀
8-4、弓と弩の相違点
8-5、後知恵で「連弩」を評すると・・・
9、白兵戦の実相
9-1、実践?!敵兵の殺し方
9-2、武器と交戦距離の関係
9-3、寸劇で応用力を養おう?!
おわりに

はじめに

まずは、更新が大幅に遅れて大変申し訳ありません。

見苦しい言い訳ですが、

新しい年を迎えるに当たり
サイトの主旨から次第に逸れて来た軌道を
一旦戻すことを考えた結果、

今回のテーマを思い付いた次第です。

とはいえ、
ここまで遅れた直接的な理由は、
中文の和訳と図解用のイラストの作成に
予想外の時間が掛かったこと、

と、昨年発売の
さる西部劇シミュレーターのゲームに
ハマったことで、
その「成果」は飛び道具の説明の際に
読者の皆様に還元したく(嘘です)、

この旨、深く御詫び申し上げます。

1、そもそも「伍」とは何ぞや?

それでは、本編に入ります。

古代中国の最小戦闘単位
「伍」と呼ばれる
歩兵5名の縦隊の編成単位です。

この単位は殷代の軍事制度によるもので、
言い換えれば
その時代から存在しました。

さらに、伍の倍の「什」
周代のものだそうな。

次いで呼称ですが、
一時「烈」と呼ばれた時代もあったようですが、
春秋時代から前漢までは概ね「伍」

以降の呼称は残念ながら分かりかねますが、
実態も少なくとも唐代辺りまでは
変わらなかったようです。

2、村単位の人員の供出

さて、この「伍」、
どのレベルの集落から
一括して供出するかと言えば、

「里」という単位の村落単位で
各々5名供出するという仕組み。

当時の自治体について、詳しくは、
以下の記事を御覧ください。

『三国志』の時代の村・「里」

http://paulbeauchamp.org/2018/02/16/%e3%80%8e%e4%b8%89%e5%9b%bd%e5%bf%97%e3%80%8f%e3%81%ae%e6%99%82%e4%bb%a3%e3%81%ae%e6%9d%91%e3%83%bb%e3%80%8c%e9%87%8c%e3%80%8d/

『三国志』の時代の農村都市「郷」

http://paulbeauchamp.org/2018/02/17/%e3%80%8e%e4%b8%89%e5%9b%bd%e5%bf%97%e3%80%8f%e3%81%ae%e6%99%82%e4%bb%a3%e3%81%ae%e8%be%b2%e6%9d%91%e9%83%bd%e5%b8%82%e3%80%8c%e9%83%b7%e3%80%8d/

こうなると
当時の農政とも連動する訳でして、

兵役とセットで
耕作単位にも基準があるのですが、
これは省略します。

無論、有名な商鞅の鬼の什伍の制も
こういう旧慣が基盤となっています。

秦がやったルールは、

自分の所属する伍の中で
戦場で一人殺されれば
敵兵を一人殺さねばその伍全員が処刑される
という、鉄の規律。

恩賞が手厚く
軍功地主が急増した代わりに、

敵よりも味方の軍隊組織の方が
恐ろしかった一面もありました。

【追記】

この部分の典拠は
『図説 中国文明史 4』で
秦軍について読み易い文体で詳述しており、

高価ながら、
図書館等でも
一読を御勧めする一冊です。

とはいえ、

この目には目を、の、
兵士にとっては頭痛の種の
反撃強要ルールは
『尉繚子』書かれていまして、

要は、サイト制作者の浅学です。

また、同書のライターは魏の出身で
始皇帝に仕えたそうですが、
不明な部分も多い人。

漢代の初め頃には
方々に出回っていたそうな。

後、末端の戦闘組織の管理については、

『孫子』や『六韜』等よりも
この本の方が詳しいかと思います。

残念ながら訳本は高いのですが、

幸い、文章自体が短いことで、
古語の訳の練習には
良い材料かもしれません。

サイト『Web漢文大系』に
書き下し文が掲載されていますので、
宜しければ御活用下さい。

アドレスは以下。
ttps://kanbun.info/index.html
(一文字目に「h」を補って下さい。)

【了】

もっとも、当の商鞅はと言えば、

後に、政争で敗れて亡命を企てたものの、

事もあろうに
自分の作った法によって御縄になり、

これを厳し過ぎると嘆くような
クソっぷりを見せるのですが、

見方を変えれば、
政治家冥利に尽きるのでは
ないでしょうかねえ。

また、制定した者をも
容赦なく断罪する程に
優秀な制度や政権であったとも言えます。

これが腐った政権と欠陥制度であれば、

手心が加えられてそれが常態化し、
綱紀の弛緩に
歯止めが掛からなくなります。

歴代の中国王朝の
悪いパターンのひとつ。

【追記】

タダで読める?!
什伍の制に関する論文の紹介

こういう書き方をした後で何ですが、

この商鞅と言う人は、
制度設計という点では、
まさに天才というべき政治家の模様。

秦漢の屋台骨を作り上げるような仕事
なさった御仁です。

兵農一致の
最末端の農村の支配機構、
―世に言う什伍の制は、

その大部分が
漢の太平の世にも受け継がれます。

と、言いますか、
秦の統治機構のイイトコ取りが
漢初の政治なのですが、
その中核の部分なのかもしれません。

そのこともあってか、
特に1970年代には
この分野の研究が盛んであったように見受けます。

ですが、
どういう訳か、
三国志や戦国時代の娯楽作品の考証には
あまり反映されていない気がします。

で、浅学なサイト製作者は
そういう論文の存在を
今更知ったこと等もあり、

当時の兵農の関係や農村の生活、
人肉も含めた食事の話等については、

資料もそこそこ集まって来たことで
一度まとまった記事を
書きたいと思うのですが、
残念ながら中々時間が確保出来ません。

したがって、
予習とでも言いますか、
下記の論文を御覧下さい。

古賀 登
「阡陌制下の家族・什伍・閭里―父老的秩序とその解体策の一考察― 」
法制史研究 (24), p43-90, 1975-03

下記のCiNiiの論文検索サイトで検索を掛け、
無料でPDFをダウンロードされたし。

ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

什伍の制やその前の井田制の
概要は元より、

秦漢時代における
基準となる農村・家族の人口や
家屋の配置等の概要
体系的に纏められています。

特に、考証に興味のある方は
一度は読まれることを御勧めします。

難点を言えば、少々難しい内容ですが、
結論はしっかりと整理されていることで、
まずは、それを軸に読まれると
分かり易いかと思います。

で、さらに知りたい方は、
脚注から参考文献を辿られたし。

余談ながら、

大御所の先生方の分厚い御本は
大抵はこういう論文の数々を
抽象的なタイトルを付けて
一冊にまとめたものでして、

学位論文のリライトだったりもします。

で、その種の御本は、
学術書は売れないからという想定で
部数を抑えて出版するので
結構な値段が付き、

そのうえ、10年もすると、

サイト製作者のようなアホが
その価値に気付いて
血眼になって探すも、

時既に遅しで絶版と来るので、

中古市場でトンデモナイ値が付く上に
再販はされない、と。

何か部分的なことを
知りたい方からすれば、

著者の先生方には失礼ながら、

必要箇所は
一冊数百頁のうちで
2、30頁に過ぎなかった、

というようなことも、
多々あることで。

軍隊や武将関係の調べ事は、
こういうのが結構あるんですワ。

【了】

さて、記事にも引用した通り、
「里」が複数集まると、
「郷」という自治体になります。

ですが、郷には大別して2種類ありまして、

里が点在する「離郷」―郊外、
里が密集する「都郷」―都市部、に分けられます。

また、郷が複数集まると
「県」になりまして、

居住区の集まる「都郷」は、
県の中心地として
堅牢な城壁や(規模によっては)常設の市等、
充実した居住環境を有します。

今日で言うところの、
一昔前の
市役所近辺の
官庁街と繁華街が一体になったような
区画に相当します。

3、伍と戦車の関係

で、各々の村落「里」で
「伍」として送り出された5名の兵士は、
「県」城に集められ、

県単位で
概ね100名単位の部隊に再編されます。

これが意味するところは
御貴族様の搭乗される1両の戦車とその随伴歩兵=乗。

【追記】

「乗」は100名程度の部隊の単位ですが、
この「乗」が何両の戦車を持つのかは
諸説ある模様。

とはいえ、
多くても数両だそうですが。

【了】

その内訳は諸説あるのですが、
大同小異といったところです。

その説のひとつに、
確か、兵書オタクの曹操の説だと記憶しますが、
75名の戦闘員と25名の輜重兵で
構成されます。

さらに、この75名の戦闘員の中でも
県の長の近衛部隊と
ヒラの歩兵に分けられます。

4、ハッタリと受け継がれる気風との関係

余談ながら、
モノの本によれば、

戦国時代の終り頃、

蘇秦と張儀の
自分のスポンサーの大国には
「帯甲」だの「武士」だのが数十万いる、

と、いったような物騒なハッタリが
史書に残る残るのですが、

こうした言葉の背景には、
春秋時代の件の近衛部隊の存在の名残
あったそうな。

無論、当時は、
既に歩兵の大量動員の時代に入っており、

貴族の少数精鋭同士の戦車戦や
それに付随するヒエラエルキーなど
過去の遺物に過ぎなかったのですが、

過去の気風そのものは
後の時代まで残るものです。

我が国の場合も、

戦前は何十年も使い回した
ボロボロの連帯旗を神聖視して
部隊が全滅するまで死守し、
(当時は国軍の最高司令官でもあった
天皇陛下より授与されたものにつき、
旗手は隊内でも屈指の優秀な将校です。)

今日では、
大学の応援団が
恐らくこの気風を受け継いでいることと
拝察します。

戦後も陸自が戦車に
「士魂」のロゴを入れています。

こういうのは、

ヒラの歩兵が
携帯型の迫撃砲で手榴弾を飛ばす時代に
「擲弾兵」だの、
外国にも枚挙に暇がありません。

5、春秋時代における歩兵の変質

5-1、伍と両と両司馬

さて、肝心なのは、
5名集まって如何に戦うか、
という点にあるのですが、

如何に独立した戦闘単位とはいえ、

東映の戦隊モノのように、

たった5名で
ヘンな着ぐるみを着た悪の組織の幹部と
その部下の大勢の戦闘員を
相手にする訳ではありません。

具体的には、以下。

この歩兵5名が縦隊を組み、
その縦隊の左右には
別の村落出身の伍が配置されるという具合で、

5縦隊25名で
「両」という戦闘単位を編制します。

これは基本は方陣でして
指揮官を「両司馬」と言いますが、
詳細はこでは触れません。

5-2、戦車と運命を共にする郷土部隊

さて、ここで興味深いのは、
「歩兵」の定義。

藍永蔚先生によれば、
春秋時代前半の戦車に随伴する歩兵を、

「隶属歩兵」―当時の呼称で「徒」

と、称していらっしゃいます。

一方で、春秋時代後期以降の
独立した戦闘部隊の歩兵は、
当時の呼称で「歩卒」と呼ばれていたそうな。

(同じく、「徒」とも呼ばれていたので
その辺りは曖昧な部分もあったと拝察しますが)

では、同じ徒歩で武器を持った兵士でも、
前者と後者では何が違うのか。

前者・春秋時代前半までの「隶属歩兵」は、

今日で言うところの
歩兵、戦車部隊、砲兵、というような
独立した兵科とは言い切れない存在でした。

もう少し具体的に言えば、
以下のような様相を呈しておりまして。

当時の戦争は、

御貴族様(大体県レベルの領主)が
直々に乗り込む、
戦車同士のサシでの勝負が戦場の華。

こういう貴族の独断場で、

それも期日と場所(開けた平地)を
事前に取り決めるような
折り目正しさでして、

卑劣な行為を蔑視する風潮が
強かったのです。

掟破りは、
戦後に方々から
内政・外交で制裁される訳です。

余談ながら、
儒教のルーツも
どうやらこの時代の戦時道徳にあるそうな。

さらに、その人間修養の方法は、
当時の軍事教練がモデル、と。
(今日に比べて政軍関係が曖昧だったことも
あるのですが)

そうした時代につき、
戦車の御供の歩兵は
添え物のような存在でした。
(ただし、上級の歩兵は精強です。)

例えば、

戦車戦の結果、

搭乗員が死傷して制御不能になって
自陣に突っ込んで来た敵の戦車を
袋叩きにするというような役割です。

逆に言えば、

搭乗員が健在な戦車が
突っ込んで来た場合は、

歩兵の隊列の方が
一方的に蹂躙される訳です。

さらには、

友軍には
(戦車に搭乗した)指揮官を失って
蹂躙された他の味方部隊を
助ける義務はありません。

と、言いますのは、

当時の封建体制では
各々の領地では領主様が神様でして、

上級の領主といえども
自分の直轄地以外には
手が出せないのです。

で、隣の県の部隊の事情なんぞ
知ったことか、と、
なる訳です。

「鶏口牛後」という諺がありますが、

戦車に搭乗する御貴族様が
領地の大小にかかわらず
戦士階級という意識を共有出来たのには、

こうした社会背景があります。

その反面、
戦車の随伴歩兵は、

軍全体としては
脆弱な指揮系統の為、

寄せ集めの状況を呈する訳です。

余談ながら、

当時の斉のような超大国について
千乗の国という言い方をしますが、
(乗は戦車1台を表す単位)

【追記】

「乗」は随伴する歩兵も含むそうな。

また先述のように、
1乗当たりの正確な戦車の保有数には
諸説あります。

【了】

これは、
国力はともかく
千両以上の機甲部隊を有する軍事国家、

という意味ではなく、

戦車に付随する
歩兵10万程度の動員力がある、
―それだけ国力がある大国、

という意味だと思います。

【追記】

万乗の国は周王朝、という説もあれば、

来村多加史先生によれば、
春秋戦国時代の晋や斉、楚、といった
超大国は「万乗の国」。

例えば、春秋時代のは、

49の県を支配し、
各県で約百両の戦車を有し、

単純計算で総計約4900両の戦車を
保有していたそうな。

また、『戦国策』によると、

晋の分裂後の
趙・韓・魏の戦車の数について、

趙が1000乗、魏は600乗、韓は不明、
と、弾いています。

聊か強引な計算となりますが、

例えば、1乗あたり3両と換算し、

さらに、晋が三国に分裂したことで
各々の国の守備範囲が広がったことを
考慮し、

加えて、遊説家共のハッタリを割り引けば、

イイ線行っている数字ではなかろうかと
思います。

それでは、来村先生が例として挙げる
千乗の国とはどこかと言えば、
(古典にもそう書かれているようですが)

戦国時代の中山国のような
当時の弱小国。

首都が峻険な地形であったり
経済の要衝であったりといった
ポテンシャルに加え、
巧みな外交力でかなり長く命脈を保ちました。

そう言えば、子路の時代は、
まだこのレベルの国が多かった訳でして。

サイト制作者の浅学を
棚に上げて言うのも何ですが、

戦国時代に入り、

数国が万乗の国と化し
逆に、千乗の国が珍しくなる、
といった具合に、

時代によって、
言葉のニュアンスに
変化が生じたような側面を感じます。

―この辺りの御話も含めて、

来村多加史先生
『春秋戦国激闘史』(学研M文庫)を
御勧め致します。

春秋戦国時代の主要な戦争の経緯
その間の複雑な外交関係の変遷について、

当時の戦争の基礎知識等も踏まえながら
さまざまな角度から分かり易く説明するという
野心的な良書です。

2000年代前半は、

同シリーズ以外にも、

大衆向けの平易な文章とはいえ、
現役のプロの方の洗練された分析視角で
初心者を唸らせる御本が多かったように思います。

残念ながら、
ア〇ゾンのレビューがそれ程高くなく、
そのうえ絶版と来ていますが、

図書館等で手に取られる機会があれば是非。

5-3、大量動員時代の幕開け

前者・春秋時代前半までの「隶属歩兵」に対して、
後者・春秋時代後半以降、
明代の火砲が登場するまでの歩兵は、

大量動員当たり前、

『孫子』に曰く、
卒(兵士)を視ること嬰児(赤ん坊)の如し。

前者の場合、

子路曰く、7年掛けて兵隊を育てたところを、
後者は動員して即刻戦列に放り込む訳で、
その結果は、推して知るべし。

孫武の愚民観の背景には、

以前のような
同郷出身の気心の知れた少数の兵を
統率する状況とは異なり、

領内の方々から
俄かに徴兵した大量の弱兵を統率して
過酷な作戦を遂行せざるを得ないという
深刻な事情があるのです。

5-4、孫子の兵法で世の中が変わる?!

そして、銃後の態勢
集権的な政権による総動員につき、
戦場で綺麗事は一切言いません。

歩兵の機動戦が主流になり、
地形を問わぬ神出鬼没の動きを
見せるようになります。

山林での伏兵火計は当たり前で、

それまで戦場の華であった戦車は
平地での決戦部隊に成り下がります。

また、領内には機動戦対策としての
巨大城郭が乱立し
この争奪戦に膨大な人員・物資が投入され、

こうした体力勝負で
ドロップ・アウトした小国は、
片っ端から大国に併呑されます。

当然、併呑の後には
政治・軍事の集権化が控えています。
(まあ、一筋縄にはいかないのですが)

その過程で、歩兵も、
それまでの戦車の添え物から
独立した戦闘部隊へと変質します。

こういう軍隊組織の大規模な変化は、

当然のことながら、

村落の共同体やら
祭祀制度やらといったような
既存の社会秩序をも崩壊させます。

その画期となったのが、
大体紀元前500年頃、

春秋の終り頃の御話です。

これは、実は、
中国史上でも屈指の社会的な変動でして、

これで発狂した知識人層
戦争をテーマに
朝生宜しく
大々的に政策論争をオッ始めまして、

これが、かの有名な、
諸子百家の幕開けとなる訳です。

―この話、過去の記事でも
何回かやったような。

5-5、戦国時代の歩兵への変貌

さて、
脱線した話を
元に戻しますと、

春秋時代の前後を通じて、

領主が倒れたら戦意を喪失する
100名程度の小集団の兵士から、

ひとつの強大な指揮系統で
何十万の兵力が動く軍隊の兵士へと
変質した訳です。

戦闘で損耗すれば、
後列、あるいは、後詰の部隊が
最前線の部隊と入れ替わって
戦場を支え、

本国からも
次々に増援部隊が送られます。

そうやって大国同士で
デスマッチを繰り広げ、

そういう戦争が、
孫武の時代から数えても
秦の統一まで300年弱続きます。

また、後漢時代は大規模な軍縮が行われて
地方軍はほぼ皆無だったのですが、

辺境防衛や長期にわたる羌族の反乱で
戦争のノウハウ自体は蓄積されていたのか、

後漢末から三国時代には、
流民を集めて兵農一体の体制を構築し、
こういう戦争を再開した模様。

キー・ワードは「兵戸制」

6、死角なき小戦闘集団「伍」

銃後の話が多くなって恐縮です。
そろそろ、「伍」の戦闘の話に移ります。

早速ですが、そのイメージとして、

冒頭の怪しいイラスト再掲します。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、林再掲。巳奈夫『中国古代の生活史』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、学研『戦略戦術兵器事典 1』、篠田耕一『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

大体、秦の兵士をモデルに描いたのですが、

2列目のけしからぬ行為に及ぶ者の武器は、
考証としては、
鈹(ひ―槍の前身ともいうべき武器)の方が
正しいのかもしれません。

武器についての詳しい話は、後程。

さて、先述のように、
5名の歩兵が縦隊を組んだのが「伍」。

色々な武器を持ち寄って、
あらゆる状況に対応しようというのが
用兵思想の根底にあります。

で、どうしてこんなのが分かったか、と、
言いますと、

河南省汲県で発掘された
紀元前5世紀の青銅器に、
縦隊を組んで戦う兵士の絵が描かれていまして、

大体、同時代や後の時代の兵書にも
これを裏付けるような説明
書かれておりまして、

多分、東アジア圏で、
こういうのが
絶えず学ばれていたのでしょう。

某島国の律令時代とか。
破綻しましたが。

【追記】
そもそも、殷時代の墓から出土した
人骨や武器の配置から
伍の存在を証明出来る模様。

【了】

で、近年、それを色々な文献が説明し、

不遜な本サイトが
孫引き・摘まみ喰いに及ぶという哎呀な顛末。

それはともかく、
件の青銅器の絵によれば、

「伍」の兵士が持ち寄る武器にも
さまざまなパターンがありまして、

3、4列目が長柄の武器のものも
あります。

状況に応じて
色々編制していたのでしょう。

【追記】

『司馬法』には、
各々の兵士には
得意とする武器を持たせろ、と、
書かれています。

余談ながら、
インパールで勇名を馳せた
当時旅団長の宮崎繁三郎も、

兵士には小銃や手榴弾等
得意な武器に専念させ
訓練に弾薬を惜しむな、と、
指示を出しています。

野砲が1日5発しか撃てないような
慢性的な物資欠乏の中でのことです。

愛読者であったのかもしれませんね。

【了】

そして、中でも多かったのが、

最後列の伍長と思しき兵士の武装には
長柄の戟と盾を持つパターンが
多かったことです。

7、当時の基準で度量衡を測る

また、長柄の武器の決め事としては、

『周礼』・考工記によれば、
身長の3倍以下の模様。

それ以上の長さになると、
パフォーマンスが落ちるんだそうな。

では、当時の兵士の身長の平均
大体どれ位かと言いますと、
8尺=1尋とされています。

因みに、尋という単位は、

身長に相当すると同時に、

両手を広げた時の
右腕の指先から左腕の指先までの長さを
表します。

で、サイト制作者としては、
8尺=144cmと解釈します。

その根拠として、
以下に、当時の度量衡の表
掲載致します。

小説を書いたり
フリーのゲーム・ソフトでも作る際には、

存外、小難しくて要領の得ない話よりも
こういう表の方が
重宝したりするものかもしれません。

戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版、p1796の表より作成。

さて、これによれば、

秦漢の数字を使うと、

184cmという、
当時に比して栄養事情の良い
今日の常識でも在り得ないような
数字になり、

まして、それ以降の時代の数字など
問題外でして、

結果として、
消去法で周尺を使うこととなり
144cmが妥当であろう、と。

8、武器の種類とカテゴリー

8-1、カテゴリーと種類の概要

序に、武器の種類や長さについても
触れておきます。

実は、この武器というのも
結構種類がありまして、

そのうえ今日の怪しい中国武術との接点も
どうも断絶している部分があり、

概要の把握が面倒だと思った次第です。

ではまず、
そもそもの武器の種類
以下のヘンな表で確認することとします。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、学研『戦略戦術兵器事典 1』、篠田耕一『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

同表は、
各々の武器が盛んに用いられた時代
あらわしたものです。

また、伍の最前列で使用する短兵器と
2列目以降で使用する長兵器について、

目ぼしいものだけでも
これだけの種類があります。

因みに、
「〇兵器」というのは、
向こうの言葉で
武器のカテゴリーを示す言葉です。

この辺りの話は、
篠田耕一先生の
『武器と防具 中国編』
詳しいのですが、

長さで分ける長短の他、
火砲を火器、それ以外の兵器を「冷兵器」
呼びます。

弓については、
射兵器と呼んだり、
文献によっては長兵器であったりします。

そして、これぞ中国四千年の最大の奥義!

ウランかプルトニウムを必要とする
「核兵器」!!

―というのは冗談です。

少なくとも、
向こう100年は
こちらに飛んで来ないことを切に祈ります。

それはともかく、
各々の武器についても
流行り廃りがありますが、

それについては後程。

もっとも、どの武器も
春秋以前から存在したのでしょうが。

8-2、矛、戈、両者一体の戟

さて、武器の種類を確認したところで、
その長さの話に戻ります。

先述の『周礼』・考工記によれば、

長兵器については、
夷矛 3尋
酋矛 2尋2尺
車戟 1尋8尺

短兵器については、
殳 1尋4尺
戈 6尺6寸

と、なっております。
各々の長さの目安なのでしょう。

因みに、夷矛は戦車用の矛、
酋矛は歩兵用。

高速で動き回るものに対して
身を乗り出して打ち掛かることで、
戦車用の武器の方が長いのです。

また、矛と鈹の違いは、

矛は先端の金属部分がソケット式
柄の先に嵌め込みます。

鈹は、先端の刃を柄に
縄で結び付けます。

さらに、このという武器は、
戦国時代の刺突系の武器の花形でして、
秦の軍隊でも重宝されたそうな。

さて、刺突とは系統の異なる武器として、
戈は引っ掛ける武器でして、
これに矛を足したのが戟。

このは、実は、

古代中国の武器の中でも
恐らくは最大の汎用兵器でして、

三国時代まで第一線で活躍します。

戈も戟も、
短兵器・長兵器の双方が存在しまして、
短い方を手戟などと呼びます。

曹操の部下の典韋
振り回したり投げたりして
勇名を馳せたのもコレ。

その他、出土品は、
大体2、3メートルのものが
多かったそうな。

また、引っ掛けるタイプの武器が廃れたのは、
後漢・三国時代の重騎兵の台頭が
原因でした。

それまでの軽弓騎兵とは違い、
斬り掛かっても刃が立たなかったそうな。

【追記】

引っ掛けるタイプの戟が廃れたのは、前漢以降の

炒鋼法の確立により、斬撃が有利になったからです。

【了】

実は、既にこの時代には、
戟の形自体も
戟刺(柄の先端部分―後述)が
長くなっており、

戟の代わりに、

鈹や、新たに「槍」といった
刺突系の武器
脚光を浴びるようになります。

なお、武器の形の変遷については、
稿を改めたいと思います。

8-3、剣と環首刀

一方、短兵器については、

戦国時代までは、
戈や戟以外では
剣が代表格で、盾と併用されました。

しかしながら、漢代以降、

鉄の鋳造技術の発展・普及と
対匈奴戦における騎兵の武器としての需要から、

新たに、「刀」という武器が
剣に取って代わりました。

以前の記事でも少し触れましたが、

漢代に登場した刀は
環首刀と呼ばれるものでして、

これが、後漢・三国時代どころか
唐代まで命脈を保つような
ロングランの記録を叩き出します。

後、日本刀のルーツのひとつでも
あるそうな。

8-4、弓と弩の相違点

最後に、弓弩についてですが、

モノの本によれば、
同じ飛び道具でも
どうも運用が異なる模様。

と、言いますのは、

当時の
有効射程(殺せる距離)が100mですが、
どうもこれは曲射の模様。
また、1分間に10発弱射撃可能です。

その遥か後の、
何処かの島国における
平安時代の御所の門前での弓合戦も
大体数十m間隔の射ち合いでして、

人力で引く弓なんぞ
精々この程度でしょう。

一方で、
弦を引っ張るのに時間の掛かる弩は、

戦国時代のもので
最大射程が800m余ですが、

実戦では150mで撃ったそうで、
直射による有効射程はその程度でしょう。

射撃の間隔は
1分間に4、5発ですが、

実戦では、突っ込んでくる敵に対して
その半分も射ることが出来れば
御の字であった模様。

また、明代の兵法書『武備志』には、

弦を張る兵士、射手に渡す兵士、
そして、射る兵士と、

火縄銃の三段撃ちと同じような
役割分担が説明されていまして、

歴代の軍隊の運用も
こんなものだったのかもしれません。

それでも、
兵隊が弱い代わりに
道具を用いるのが大好きな
中国の戦争のこと。

大盾だの何だのと、

一方的に撃たれるのを防ぐ術もありまして、
白兵戦の比重は
相応にあったものと想像します。

8-5、後知恵で「連弩」を評すると・・・

余談序に、
かの諸葛孔明が考案したとされる
「連弩」という武器があります。

夢を壊すようで申し訳ないのですが、

実は、戦国時代の楚の墓から
プロト・タイプめいた現物が出土しまして、

孔明の発明、というよりは、
改良となります。

また、先生の手による「諸葛弩」の
明代の復元品では、

有効射程が僅か35m、
そのうえ、その距離ですら
鎧をブチ抜けなかったそうな。

当時の識者によれば、
盗賊(≒暴徒)対策に有効、ですと。

まあその、
そんなものが本当に有効であれば、

蜀に乗り込んだ
魏の鍾会や鄧艾等の連中が押収し、

孔明大好きで
当人を徹底的に研究した司馬氏
その功績を礼賛しつつ
量産して有効活用しますわな。

成都を落としてから呉の遠征まで
10余年の間があった訳ですから、

実戦配備にも間に合い、
戦果が史書にも残った筈です。

その意味では、

連弩の出来について
一番ガッカリしたのは、

開発者の孔明先生以外では、

存外、司馬仲達その人では
なかろうかと想像します。

―とはいえ、
銃の連射も、
可能になったのは19世紀の話。

実戦配備から何百年も経った後の
出来事です。

あの時代に
連射兵器の開発が
失敗に帰したからと言って、

恥になるような話でもありません。

話が長くなりましたが、
つまり、弓と弩の違いは、

弓は射程が短い代わりに速射可能で、
弩は射程・精度に優れる代わりに
速射には向きません。

事実、戦国時代の泣く子も黙る秦軍では、

弩は全軍の正面と側面に配置し、
開戦と同時に射撃を加え、

後方と歩兵と入れ替わったそうな。

詰まり、集中運用。

こういうのは、中原では、
大体、万国共通と拝察します。

そうなると、
弩が、近代軍で言うところの
砲兵であるとすれば、

伍に属する弓は、
歩兵部隊に配備された
迫撃砲や重機関銃のような
位置付けであったのかもしれません。

先述の藍永蔚先生によれば、
弓兵は戦闘中は
引っ切り無しに撃ちまくるんだそうな。

無論、両軍の最前列同士が
白兵戦に及んだ場合、

近距離の敵を、
隊列の隙間から
手当たり次第に
直射で撃ったものと想像します。

9、白兵戦の実相

9-1、実践?!敵兵の殺し方

ここまで、陣容や武器について
確認したところで、

いよいよ、
ゼロ距離での白兵戦における
命の遣り取りの再現を試みます。

まず、以下の怪しいイラスト
御覧下さい。

藍永蔚『春秋時期的歩兵』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、林巳奈夫『中国古代の生活史』、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』、学研『戦略戦術兵器事典 1』、篠田耕一『武器と防具 中国編』等(敬称略・順不同)より作成。

まず、最前列で短兵器を手にする兵士は
鎧を着用し、

戟や戈で相手の首を狙い、
もしくは体に打ち込んだりして
引き寄せて髪を掴み、

フィニッシュ・ブローとして
得物、もしくは刀剣で首を斬ります。

これに因みまして、

精巧な兵馬俑を参考に
秦の兵士のイラストを描く際、

以前から大きい襟
気になっていました。

と、言いますのは、

鎧の下に着込んでいると思しき
当時の普段着の襦の襟にしては
随分大きいことで、

その辺りのカラクリが
腑に落ちなかったのですが、

戟や戈の下刃で
首を引っ掛ける、
あるいは斬る仕組みを知ったことで、

その謎が氷解しました。

恐らくは、
これらの武器の対策として、

首筋を守るべく、

生地の厚い
軍用のマフラーのようなものを
羽織っていた可能性があります。

また、林巳奈夫先生によれば、

古代から明代までの成人男性は、
文明人の証として
髪を結う習慣があったのです。

さらに、先生が向こうで直に聴いた話によれば、

民国時代の喧嘩は
髪(辮髪)を掴まれた方が
負けなんだそうな。

9-2、武器と交戦距離の関係

ここで、後列の兵士は、
前列の味方の兵士を見殺しにする筈もなく、

後ろから長柄の武器で
敵の最前列の兵士を突き
味方の最前列の兵士を援護します。

長兵器・短兵器の
相関関係については、

『司馬法』曰く、
「長以衛短、短以救長」。

短兵器の兵士が窮地に陥れば
後ろの長兵器の者が助太刀し、

長柄の武器の者が
前列で打ち合う場合は、
短兵器の者が懐に入られるのを防ぐ、

―と、いったような意味なのでしょう。

当然、長短の武器の者のみならず、
弓兵も含めて、

交戦距離に応じて
三者を使い分けるのが前提の御話です。

例えば、

弩兵が退いた後に弓兵が斉射を浴びせ、
近寄ってくる敵を
まずは長柄の兵で迎え撃ち、

それでも、
少々の犠牲を厭わず
盾で防ぎながら突っ込んでくる敵に対して、

こちらも、
盾持ちの短兵器の兵士のスクラムで応戦し、

2列目に下がった長柄の部隊は、
隊列の隙間から武器を繰り出して援護する、
という具合です。

なお、故事・五十歩百歩と交戦距離の御話は、
もう少し論旨を整理する時間を頂ければ幸いです。

因みに、唐代の『太白陽経』では、
各々の兵士の間を2歩としておりまして、

当時の度量衡で考えると、
3.11mになるのですが、

武器の長さを考えれば、

その間隔は
交戦距離や戦況に応じて
相当に伸縮したのでしょう。

9-3、寸劇で応用力を養おう?!

この章の最後に、

こうした乱戦模様について、
少しでも理解を深めるために、
不出来な寸劇を用意します。

これを以て、
読者の皆様は、
「優」にてめでたく単位取得と相成り、

戦場での活躍により
軍功地主の仲間入りが叶うものと
存じ上げます。

―いえ、

サイトの主旨から考えれば、
読み飛ばされた方が
宜しかろうとも思います・・・。

さて、状況は戦国末期、
秦軍と楚軍の戦闘の場面。

両軍は既にゼロ距離の交戦に突入し、
一進一退の白兵戦の様相を呈しています。

中でも、
双方の中央に陣取る部隊の
秦軍の伍の最前列にいる毛と
楚軍の伍の最前列にいる蒋が、

息も詰まるような
互角の鍔迫り合いを演じていました。

その死闘の最中、

毛の隣の伍の最前列にいる劉、

―コイツは銭金の話が大好きで
奥さんが美人で、
序に毛と仲が悪いのですが、

さすがにこの時ばかりは、
毛に恩を売ろうと
蒋に斬り掛かります。

正面の二人を相手に俄かに
窮地に陥る蒋。

当時の感覚でも、
歩兵陣における疏散―つまり密度を
重要視しており、

『左伝』には、

「前後不相撚、左右不相干、
受刀者少、殺敵者衆」

と、あります。

(エラそうに説きますが、
別の文献の孫引きです。)

各々の兵卒が
前後左右で適度な間隔を保ち、

敵の攻撃の死角を狭めて
効率よく敵を殺すべし、

―という御話。

こういうレベルの技量は、
日頃の訓練と現場の指揮官の能力が
モノを言うのでしょう。

ところが、
楚軍もさるものです。

窮地に陥った蒋の後ろには
白という者が控えており、

―コイツは異民族出身で
蒋の子分で知恵袋ですが、

親分を救うべく、
蒋の後ろから劉を突いて牽制します。

その頃には、
毛、蒋、共に
捨て身の組み討ちに及んでおり、

両者共、
相手の髪を掴まんばかりに
互いの頭に手を伸ばしたまでは
良かったのですが、

ここで、思わぬ誤算が生じます。

―と、言いますのは、

毛の奴は尊大でハッタリ好きで
オマケに女性関係にだらしなく、

一方、蒋の奴は
説教臭い癖に謀略好きなことで、

両者共、
日頃から上官に睨まれているのは
勿論のこと、

揉め事を起こして
軍法で髡刑でも喰ったのか、

掴むに足るだけの髪がありません。

毛の奴は後頭部に多少残るだけで、

蒋の奴に至っては、
文字通りの潔い禿。

毛の奴も、蒋の奴も、

互いに相手の眩い頭にたまげて
「哎呀!」と絶句し、

掴むべき髪どころか、

頭皮がむき出しになった頭頂部を
優しく撫で合う以外に、

打つ手がありません。

一方で、
劉の伍の真後ろで長柄を構える鄧や、
さらにその後ろで弓を構える
江や胡―コイツ等も戦よりも銭金が好きな連中、

そして、
前の3名とは異なり、
武芸は達者だが無駄にエラそうな
伍長の習も、

最前列での珍妙な遣り取りに対して
笑いを堪えるのに必死の模様。

ここで、あまりの間の悪さにより、
育毛剤のCMが入ります。

これ以上やると、今度こそ、
サイトの主旨から外れそうなことで、

以後の展開は、
読者の皆様の御想像に御任せします。

おわりに

最後に、今回の御話の要点を整理すると、
概ね以下のようになります。

1、伍は古代中国における最小戦闘単位で、
歩兵5名で縦隊を編制する。

2、春秋時代は、村単位で伍を供出し、
県単位で戦車1両と100名前後の歩兵として
編制された。

3、春秋時代の後半から、
歩兵の性質が戦車の指揮下の歩兵から
独立した戦闘部隊へと変化した。

4、伍の主要なパターンは、以下。

最前列が鎧を着用した短兵器の兵士、
2列目が長柄の武器を持った兵士、
3・4列目が弓兵、
5列目が盾と長柄の武器を持った伍長

ただし、これ以外にも、
様々なパターンが存在した。

5、交戦距離に応じて武器を使い分けたが、
各々の武器には時代に応じて
流行り廃りがあった。

6、敵兵の殺し方としては、

戦国時代辺りまでは、
相手の首を引っ掛けるか体に打ち込むのが
主流であったが、

後漢・三国時代には
突くのが主流になっていた。

そして、双方対処可能な戟が重宝した。

7、弓と弩の運用は恐らく異なり、
弓は歩兵の兵器として
かなりの近距離でも使われた可能性が高い。

【主要参考文献(敬称略・順不同)】
藍永蔚『春秋時期的歩兵』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
『三国志軍事ガイド』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
学研『戦略戦術兵器事典 1』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』
『図説 中国文明史 5』
浜口重國『秦漢隋唐史の研究』上巻
高木智見『孔子』
浅野裕一『孫子』
湯浅邦弘『概説中国思想史』
蘇哲『魏晋南北朝壁画墓の世界』

カテゴリー: 兵器・防具, 軍制 | 3件のコメント

漢王朝の宮中政争の切り札・尚書 ~前漢編

例によって無駄に長くなったことで、
以下に章立てを付けます。

適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

 

はじめに
1、そもそも尚書とは?
2、外戚と宦官の暗闘と地方軍閥
3、董卓政権の行方
4、董卓政権を採点する?!
5、魏蜀と尚書
6、尚書はタダの事務職か
7、前漢の大転機、呉楚七国の乱
 7-1、勝者の機構改革
 7-2、古代王朝の御約束、「外朝化」
 7-3、王国が手放した機能とは?
8、武帝の反面教師・始皇帝
9、強い王朝ありきの尚書の威力
10、武帝は政務をどこで執ったのか
11、機密の把握と公文書の取り扱い
12、因縁の対決、宦官 対 外戚
13、『塩鉄論』のナナメ読み
 13-1 不毛な「政策論争」の争点
 13-2 で、実際、何が書かれているのか
 13-3 対決!銭ゲバ官僚 対 腐れ儒者
14、天子様の本気!平尚書事と中書令
15、宮廷三国志、出る杭ならぬ、士人は討て?!
16、外戚王氏の勝利と簒奪への布石
17、簒奪前夜の王莽の肩書
おわりに

 

 

はじめに

今回は漢代の尚書についての話。

やってることが戦争から随分遠くなっていますが、
政府の権力構造も軍の戦力の一部だと
サイト制作者に無理やり暗示を掛けることとします。

で、そもそも、
こういうことを調べ始めた理由は、
尚書が北伐をやった
孔明の政治力の泉源のひとつだからでして。

とは言うものの、

こういう皇帝権力の中枢の関するハナシ
当然の如く先行研究が分厚い訳で、

早い話、
サイト制作者の手に余るものです。

そのような事情につき、

横着で先生方に失礼な手法で
恐縮だとは思うものの、

手元にある論文をつまみ喰いして
さわりの部分を紹介する程度に留め、
例によって無責任な感想を付け足します。

 

二千年弱経過していることと
売名にも貢献することで、

時の英雄の皆様も、
広い心で笑って許して頂けると信じます。

 

ただ、王朝の権力闘争の本丸であり、

受験生泣かせの小難しい中国王朝史の
本質的な部分でもあり、

三国志の英雄諸氏も
漢代の一連の政争を
最良の反面教師として
(扱いに失敗しても)いることで、

このテーマに少しでも興味を持って頂ければ
綴る目的を達成したということに致します。

 

 

1、そもそも尚書とは?

 

さて、尚書とは、
皇帝の詔書を下達
臣下の上奏を皇帝に伝達する仕事。

簡単に言えば、

皇帝と臣下の間に入って
伝言ゲームをやるという
「カンタン」な御仕事です。

当然、皇帝陛下の御意思を忖度しないと
御叱責を賜る訳ですが。

ところが、
「カンタン」な御仕事程
応用が利くものでして、

 

もう少し言えば、

職権を乱用して
自分達に都合の悪い上奏文を
握り潰すケースも
往々にしてある訳です。

 

したがって、

前漢の武帝時代以降、後漢末期まで、

皇帝権力の強大な
漢代の政府中枢の権力闘争では、

常に、このポストの掌握が
勝敗のカギを握っていました。

 

その大体のパターンとしては、
本命の外戚(皇后の家族や親族)・宦官
そしてダーク・ホースである士人官僚
三つ巴の争奪戦。

 

 

2、外戚と宦官の暗闘と地方軍閥

 

序に言えば、

三国志の序盤の悪の主役である
張譲等、十常侍は、
実は、こうした政争の勝者でして、

政敵の牙城であった尚書を
骨抜きにします。

ですが、その頃には、
中央政府の権威は失墜していまして、
どうやら宮中の政争自体が
意味を持たなくなります。

 

もう少し具体的に言えば、

地方の軍隊を動員した政敵の外戚・何進
先手を打ってその何進を倒した宦官勢力
共倒れ状態になり、

何進に呼応した
一介の地方軍閥である董卓
この権力の空白を突いて
洛陽を掌握したのは御承知の通り。

 

 

3、董卓政権の行方

 

董卓の政権掌握が意味するところは、

それに呼応した董卓が
中央の権力の空白を突いたこと以外にも、

(そもそも、何進が
地方の軍隊に触手を伸ばしたとはいえ)

中央の政争に地方の軍隊を巻き込むという、

(王莽関係の兵乱を除いて)
何百年続いた中央の政争のルールが
根底から覆るレベルの番狂わせ
現実に起こったところに意味がありました。

 

ところが、董卓にしてみれば、
如何に漁夫の利を得たとはいえ、

宮廷や地方官、
そして、その金脈である地方豪族にコネのある
外戚や宦官がいないことで、

国政運営にあたって、
扱いの面倒な士人官僚と
連携せざるを得なくなります。

果たして、
コイツ等を登用して地方官に起用するや、

胡軫や徐栄のように自分に味方する者もいれば、
袁紹の門生故吏(官界の縁者)である韓馥のように
むこうに走る人も少なからずいる、

という具合でして、

結局、泥沼の戦争になり、

名ばかりの遷都、
要は、都落ちを余儀なくされます。

 

 

4、董卓政権を採点する?!

 

董卓の一介の軍閥の権謀術数としては、

長安への撤退は
軍事的には必要な措置であり、

政策的には
諸侯の離間策として成功したとはいえ、

 

洛陽での権力掌握後の
一国の中央政府の行う政策としての
文脈から考えれば、

諸侯の利害の調整に失敗して
兵乱を招くこと自体が、

政治力の限界を露呈していると
言わざるを得ません。

 

一方で、董卓以外の
地方の群雄にとっても、

要は、黄巾の乱から宮中抗争の過程で
諸々の地方官や豪族が色気を出して
兵馬の抗争に乗り出したのは、

地方の兵馬で中央の権力を掌握出来る好機、

あるいは、地方レベルであっても、
「実力」で既存の秩序をひっくり返す好機
到来する機運が
この上なく高まったからでしょう。

 

 

5、魏蜀と尚書

で、こういう政争・兵乱の元凶である尚書は、

何処ぞの映画のように
パンドラの箱にでも封印されたかといえば、
当然そのようなことはなく、

と、言うよりは、

こういう箱を作っても
開ける奴が必ずいるのが
人間社会の真理と言いますか、

官房組織の有用性と職権乱用とは
別の話と言いますか。

 

事実、曹操は、一旦は
尚書のヘッドの録尚書事になっていますし、

特に、後漢の亡霊のような蜀漢では、
滅亡前夜まで
尚書は権力の中枢で在り続けました。

孔明以下、歴代の権力者は、
悉く録尚書事の肩書を持ちます。

 

蜀漢特有の事情としては、

御飾りでも相応に賢い皇帝様や、
侍中(後漢の官職)の肩書を持つ
荀彧のような有能でもカタブツな漢臣のいる
曹操政権とは異なり、

曹操のように、
既存の王朝を
制度面からなし崩しにするような
面倒な細工が必要なかったのでしょう。

 

恐らく次回に詳述しますが、

サイト制作者の愚見としては、
後漢王朝の最盛期の制度を
イイトコ取りした側面を強く感じます。

因みに、曹操や孔明の時代は、
尚書からは外戚も宦官もパージされ、
骨太の士人官僚が担い手でありました。

 

その意味では、

戦時下の必要措置とはいえ
能力主義に特化した理想の人的配置であったと
言えるかもしれません。

特に曹操なんか、自分の祖父が宦官で
当人が後漢の政争でエラい目を見たこともあり、

外戚を政権中枢に入れないスタンス
明確にしていたようです。

 

 

6、尚書はタダの事務職か

 

前置きが長くなって恐縮ですが、
以後、尚書の歴史や機能について
綴ることと致します。

まず、漢代の尚書の仕事は、
識者によれば、簡単に言えば、
以下のふたつだそうで。

 

即ち、
1、天子の詔令、臣下の上奏を司る。
2、枢機に預り綱紀を統べる。

 

要は、皇帝様の命令書を臣下に配布し、
臣下からの意見書を皇帝に渡すこと、

そして、皇帝を中心として
国家の中枢で政策を考え、
規律を正すための法律を出す、

―という話だと思います。
(大丈夫かしら、こういう理解で。)

 

つまり、皇帝の側近として、

1、のような事務仕事に加え、
2、のような管理職の頭脳労働もある、
という部署。

 

言い換えれば、皇帝に力がなければ、
今日で言えば、どこの会社や役所にもあるような
一介の秘書業務という具合。

外戚と宦官が一族の存亡を賭けて
争奪戦を繰り広げるような
価値を見出すことは出来ません。

 

 

7、前漢の大転機、呉楚七国の乱
7-1、勝者の機構改革

 

前漢の建国当初も、

長安の政権が
呉楚七国の乱を鎮圧するまで
各地の王国の王様が
広大な領地を支配しており、

しかも、それぞれの王国
旧戦国時代の王国と同じ権限
持っていたことで、

皇帝の権力は、実は、
それ程強かった訳ではありません。

言い換えれば、

世界史の授業でいうところの
「郡国制」の「国」の力が
桁違いに強かったのです。

 

その理由のひとつは、

反秦で結束した諸侯の大義名分
秦によって滅ぼされた国の
再興にあったからでした。

 

ところが、
この乱の鎮圧によって
漢の皇帝の力が俄かに強大になりまして。

王国の領地の大半を
直轄地である郡に変えたばかりでなく、

王国から、

当時の中央政府の職務である
御史大夫(監察)・廷尉(法務)・
少府(宮内関係の業務)・
宗正(皇帝の親族に関する職務)の権限を
召し上げます。

 

特に、御史大夫・少府は、
元は王が側近に諮問して
政策を立案・公布する部署でして、

御史大夫の監察の御仕事は、
官房関係の職務から
派生したものだそうな。

 

 

7-2、古代王朝の御約束、「外朝化」

 

もう少し言えば、

戦国時代以降の官制の流れで言えば、
御史大夫も尚書も、実は、
少府から派生した経緯があります。

 

因みに、
古代中国の王朝の官制における
御約束のひとつに、

元は皇帝の側近として、

蛍光灯の取り換えから
暴〇団との付き合いまで
イロイロやっていた総務な部署が
専属の仕事を持った途端、

権威こそ上がるものの
権力の中枢(≒立法機関)から外れ、

それと並行して
次の何でも屋が現れ、
皇帝の威を借りて実権を握ります。

手に職が付くと、
却ってエラくなれないという皮肉。

 

大きい組織では、
技術屋が事務屋に使われる構図の
本質なのでしょう。

のみならず、
この時代の尚書や唐代の六部等も
そうですが、

官職名と実際の仕事が
時代ごとにどのように変わっているのかを
吟味することが肝。

こういう類の官制の変遷を、
専門用語で
「外朝化」とか言ったりするそうな。

 

 

7-3、王国が手放した機能とは?

さて、戦争に負けて
長安の政権に
頭が上がらなくなった王国では、

御史大夫や少府のような、
王朝の設立・運営に必要な
重要な組織を取り上げられます。

そして、その代わりに、
中央政府の息の掛かった相(丞相を改称)
送り込まれ、

この地方官が
内史(王都の行政を担当)、
中尉(王都の軍事・防衛を担当)、
郎中令(王の身辺警備を担当)、
太僕(王国の車馬の管理を担当)、
を統率するのですから、

王にとっては、
謀反を企てようが登楼してハメを外そうが
何をやるにも中央政府に筒抜けでして、

 

誤解を恐れずに言えば、

要は、「国」は、
宗室・劉家の、
態の良い捨扶持に改編されたという訳です。

無論、実質的に牛耳るのは、
長安の息の掛かった地方官。

 

実質的な郡県制と称されるのは
以上のような行革が背景にありまして、

さらには、この構図は、

王莽関係のゴタゴタの時期を除いて、
大体は、後漢滅亡まで続きます。

 

因みに、曹操の官歴のひとつ
「済南国の相」というのがありますが、

郡レベルのチンケな王国に派遣され、
王族を監視しつつ
行政を見るという御仕事。
(多分、これで間違っていないと思います。)

 

 

8、武帝の反面教師・始皇帝

そして、上記のように
皇帝の権限が強くなり、

そのうえ、
うるさい太后や老臣が
政治の一線から引いたタイミングで、

外征だの増税だの、
儒教を国教化して
それをダシに人事制度の改変するだの、
カルトに凝った皇太子を手に掛けるだの、

イロイロやったのが、
有名な武帝でした。

 

既に御気付きの方がいらっしゃるかと
思いますが、

さて、これに酷似した状況、
少し前にもあったかと。

そう、かの有名な、
『キングダム』の始皇帝様が
一気呵成に統一を成し遂げた直後のそれ。

 

ですが、
物事が早く進み過ぎたことに対して
その処理が追い付かず、

結局、クソ真面目な始皇帝が
オーバー・ワークで倒れた後、

やることなすこと後手に廻り、
そのうえ政権の腐敗にも自浄作用が働かず、

結局、僅か15年で国が滅びました。

 

ですが、始皇帝の政策の
セッカチな進め方は賛否こそあれ、

中央集権体制を志向したこと自体は
間違っておらず、

呉楚七国の乱の戦後処理が
それを物語っております。

いえ、集権体制の方向性どころか、

秦の制度の大半を
アク抜きしてイイトコ取りしたのが
建国当初の漢。

当時の官職名に
秦制の横滑りが多かったのは、
そうした事情が背景にあります。

 

大体、人間社会において、
権力を握ったヒトが考えるのは、
まずは自分の裁量を増やすことです。

職務上、
入って来る情報量が多いことで、

早急になすべきことが一気に増えて
焦るからだと思いますが。

 

余談ながら、
一説によれば、

球界の盟主を自称する
某球団の名ショート、
今や球界の元老格ですが、

自分の現役当時の監督を、

現役時代に練習時間の大半を
打撃に注ぎ込んだ我儘ぶりと、

監督としての
チーム・プレイを強要する采配との矛盾を
クソミソにけなしていたものの、

(年配の方の御話ですと、
当時のプロ野球は、勝手にマウンドを降りるなど
ベテランの名選手がムチャクチャやっていたようで、
客としてはそれが面白かったそうな。)

自分が監督になるや、
「管理野球」なる集権体制で臨み、

今度は選手や記者から、
自分は肉食で選手はダイエットという具合の
現行不一致を叩かれる羽目になりました。

中国の戦国時代の名のある兵家が
寝食を兵隊と共にした故事を
思い起こされたく。

まあその、要は、

自分が権力を握った途端、
あれだけ嫌った恩師と
同じことをやり始めた訳です。

―ただし、この方は、
監督としての実績は
見事なものであり。

因みに、
現役時代の「管理野球」の人を管理した人は、
旧帝國陸軍の戦時中の下士官―少尉殿でして
数年前に鬼籍に入られた方ですが、

指揮下の兵隊を暴力でシゴき、

戦後、大御所の某俳優から、
あの人は人間的に信用出来ない、だとか
ボロクソに言われておりました。
(もっとも、この方も当時から態度が大いことで
よく上官から殴られたそうですが。)

当時は殴るのが当たり前でしたが、

他の方も、
下士官時代のこの方の鉄拳制裁は
凄まじかったと
書いていることで、

当時の水準でも
余程のものだったのかもしれません。

ただし、その方の手記では、

確か、親族の葬儀で勝手に抜けた兵隊を
殴った後で、「二度とやるなよ」と諭し、
軍法には問わなかったという具合に、

血も涙もない人ではなかった模様。

まあその、

終戦後、
兵役に就いた知識人が公の場で
当時の上官をボロクソに言う例に
枚挙に暇がないのは、

要は戦争に負けて
組織の権威が失墜したからです。

フォークランド紛争も、
それまでコンドル作戦とかやって
威張っていた軍事政権が倒れたことで、

それまで反政府運動や従軍で
ひどい目に遭った人が
言いたい放題言っていますね。

でも、国家はカネの勘定がマトモに出来ず、
サッカーでは散々にやり返す癖に。

中国序に、
『少林サッカー』の「サッカーは戦争だ」は
映画の文脈では半ば冗談にも見えますが、

一面では、個人的には真理だと思います。

こぼれ話を纏めますと、

情報と裁量と時代の空気の話で、
何かの参考になる、訳がありませんね。
失礼しました。

 

 

9、強い王朝ありきの尚書の威力

―話がかなりヘンな方向に飛んだことで、
武帝と尚書の話に戻します。

とはいえ、
俄かに権力が転がり込んで来た
ということは、

同時に、
管轄部署に対して事細かな命令を出したり
膨大な予算を執行したりと、

義務としての仕事も
膨大に増えることを意味します。

そこで、武帝が始皇帝の失敗を踏まえて
何をやったかと言えば、

今回のテーマ、
尚書の活用であります。

 

具体的には、

元来、
皇帝に関係する公文書を
扱う部署に過ぎなかった尚書を、

権力の中枢の諮問機関に改組して
大いに利活用します。

もう少し言えば、

自分の志向する政策の完成度を高めて
的確に下達させる仕組みを整えた訳です。

このあたりの経緯は、
読み易い本としては、

 

冨田健之先生の
『武帝 始皇帝をこえた皇帝』
(山川出版社 世界史リブレット012)

 

に詳しく記されております。

因みに、
武帝時代の直前頃には、
尚書令―丞(役人のランク)―尚書、
という職階があったそうな。

また、冨田先生は他の論文で曰く、

武帝以降、後漢末までを通じて、
外戚と宦官の職権乱用があったとはいえ、

尚書の役割は、
基本的には変わらなかったそうな。

 

 

10、武帝は政務をどこで執ったのか

 

これ以降、前漢末までの
尚書関係の権力闘争の経緯については、

鎌田重雄先生の御論文、
「漢代の尚書官
―領尚書事と録尚書事とを中心として―」
(『東洋史研究』 第26巻・第4号)

に詳しいので、これを中心に綴ります。

 

因みに、この号、
かなり古い雑誌ですが、

大庭脩先生の『前漢の将軍』等、
他の論文も
大御所の先生が御書きになった
春秋秦漢の戦争関係の面白い論文が多く、

ゲーム狂いのサイト制作者としては、
大当たりの号だと思います。

 

後、人文系の論文が
何十年も読まれる(引用される)
理由のひとつは、
先生方の学識の豊富さ以外には、

それだけ研究者が喰えない
≒書ける人が少ない分野だからです。

 

さて、武帝の肝いりで改組された尚書ですが、

理想に燃えた皇帝様の
清く正しく美しい組織かと言えば、

一面では、どうも、そうでもなく。

―と、言いますのは、

武帝がどこで政務を執ったかと言えば、
事もあろうに、後宮だったりします。

そう、皇帝の奥様の話になれば、
必ず登場するのが宦官というのが
中国の王朝の御約束のひとつ。

 

言い換えれば、この時点で、

士人官僚が政治の中枢から
締め出されます。

 

 

11、機密の把握と公文書の取り扱い

 

この辺り仕組みを、
もう少し詳しく触れますと、

まず、「謁者」という官職があります。

この官職の役割は、以下のふたつ。

 

1、賓客を助け、天使の命を受けて、
その使者になります。

2、章奏=上奏文を皇帝に奉り、
皇帝の下問を当該の官に伝えます。

 

要は、皇帝と臣下・賓客の間を
取次ぐ御仕事です。

この謁者を率いるのが「中謁者令」。
「中」中人、つまり宦官
「令」は部署の責任者の意。

この中謁者令に尚書の職務を加えたのが、
「中書謁者令」。

そして、この略称が、「中書令」。

序に、その次官である「僕射」
置かれます。

 

そして、かつてないレベルの
強大な国政権限を持つ皇帝
外部の人間との取次役が
全員宦官であり、

皇帝様が目を通す
公文書の遣り取りのみならず、

いつの間にか
国家の機密にも参画したのが、

当時の尚書の特徴でした。

 

そして、この御仕事の醍醐味である
公文書の取り扱いですが、

まず、上書者(犯罪者でも出来ます!)は、
正・副と2通作りまして、

次に、これを受け取ったクソな宦官共の場合は、
まず副書を開封し、

書式に沿わないもの、
そして、内容如何によっては、
上奏しません。

コレがミソ!

要は、自分達に都合の悪いものは
職権を乱用して握り潰す訳です。

 

―で、次の昭帝の代には
中書令は置かれませんでしたとさ。

 

 

12、因縁の対決、宦官 対 外戚

 

そして、権力闘争の流れが
真逆のベクトルに振れたのが、
次の宣帝の時代。

 

何があったかと言えば、
以後の宦官の宿敵である外戚の台頭です。

 

具体的には、
この時代には、

匈奴相手の外征で大功を立てた
霍去病の異母弟である霍光が、

大司馬・領尚書事として、
政治の実権を握ります。

因みに、領尚書事とは、
臨時の尚書の責任者です。

 

―が、実際には終身でやる訳でして。

 

尚書の実務の担い手は宦官か士人かは
分かりませんが、
統括したのはこの人だったのでしょう。

数ある肩書の中での
宮中における政治力の泉源は、
この「領尚書事」でした。

 

 

13、『塩鉄論』のナナメ読み
13-1 不毛な「政策論争」の争点

 

余談ながら、
この霍光の時代には、

匈奴との対峙を続けるうえでの
戦費を捻出したい
御史府の桑弘羊との政争がありました。

桑弘羊は、御存じ、
塩・鉄の専売その他、
辺境の屯田等による歳入増加を
企てており、

国庫の収支の安定に
大きく寄与しました。

 

ですが、国民のウケは悪く、
当時の経済官僚は
「酷吏」と蔑まれていました。

 

御史大夫の役職にあったのは、
捜粟都尉や大司農等の
財務畑を歩いた後の、

謂わば、
上がりの肩書とでも言いますか、
前漢の執行機関の最高位である
三公のひとつ。

 

対する霍光は、

こうした強引な経済政策によって
収奪を受けた商工業者の
不満の受け皿としての
バラマキを志向しておりました。

 

で、恐らく霍光が仕掛けたであろう、

政敵に役人志望の書生をけしかけて
両者の間で不毛な論戦を繰り広げる、
という、

くだらない茶番を、

殆ど同世代の知識人が
議事録風に脚色したのが
有名な『塩鉄論』。

 

 

13-2 で、実際、何が書かれているのか

 

で、サイト制作者も、
当時の庶民の生活が分かるというので

「三國志」シリーズのように
少しばかり「政治力」でも上がるかと期待して
わざわざ(中古で)買って読んだのですが、

確かに、
争点が明確な論争だけに、

政策論や当時の世相から、
儒家の答弁のロジックから、

イロイロと為になる話も
記してあるものの、

読み物の論旨としては失笑モノ、
というのが、
サイト制作者の率直な感想です。

 

もう少し言えば、

リアルな遣り取りが
2000年弱も残ったことに
意味がある、という類の御話。

 

具体的には、

役人候補生の書生連中が、

現役バリバリの敏腕官僚相手に
マトモな対案もなく儒家の理想郷を問き
散々に論破されるという、

どうしようもない
話がダラダラと続きます。

 

今日で言えば、

政党御抱えの
記者や言論人が
国会や公聴会での議事録の
かなりアホな部分を
摘まみ喰いし、

「御史大夫は返す言葉がなかった」だとか、
応援勢力が優勢なように
脚色・編集した類の文章に見受けます。

 

それでも、

具体的な政策論が
書き物の大半を占めていれば
面白かったのですが、

儒家の愚昧な説教が
ページの大半を占めており、
個人的にはかなり辟易しました。

このサイトで
無駄話が多いようなものです。

 

 

13-3 対決、銭ゲバ官僚 対 腐れ儒者

もっとも、時代が時代だけに、

ライターの楊寛が
霍光の悪口が書けなかった事情も
あるのかもしれませんが。

あるいは、
桑弘羊に恨みでもあるのか。

で、その一幕を紹介しますと、

桑弘羊その他の財務担当者が、
前線では将兵が物資に事欠いている、
と言えば、

賢良・文学が、
徳治を行えば匈奴は自ずと降伏して来る、
戦費で民を苦しめるな、と、
反論します。

 

当然、この人達は富裕層の出の癖に
清貧を説き、

一方で、
恐らくは、彼らの実家が
桑弘羊の政策で打撃を受けてまして、

桑弘羊らもその辺りの経緯を熟知しています。

 

で、桑弘羊が、
孔子やその弟子が
身の処し方を誤って赤貧を洗って
開き直っているとか
(かなり笑える)悪態を突き、

対する賢良・文学は、

現職の官僚共は人品卑しく
政策の内容も相応なものだ、と、
やり返すという、

毒にもクスリにもならない泥仕合。

 

後、桑弘羊が
書生共のあまりに抽象的な議論に
ガチで切れるのには
説得力がありまして。

 

 

13-4 剣は実は、ペンよりも強し

 

さて、この政争の結末は、
外戚・霍光の勝利に帰します。

桑弘羊等が担ぐ王族が
ヘタを打って誅殺され、
その煽りを喰って殺されるという
何とも呆気ないオチ。

 

ですが、
財務官僚の本懐とでも言いますか、

歳入強化策のかなりの部分は、
その後の政権が引き継ぎます。

 

話がかなり尚書から逸れて恐縮ですが、
ここで注目すべきは、

立法機関である尚書を牛耳った外戚が
執行機関の敏腕官僚の一派を
政争で一網打尽にしたという展開。

 

これはサイト制作者の推測ですが、

機密レベルの情報統制の権限が
そのまま政治力に直結したのでしょう。

 

いつの時代の首都での政争も、

大抵は、情報担当部署と
それから派生した治安を握った者が
勝つもので。

 

とはいえ、さしもの皇帝様も
一連の政争で思うところがあったのか、

目障りな外戚を除きに掛かります。
まさに、霍光にとっての
「ラスボス」の登場。

 

 

14、天子様の本気!平尚書事と中書令

 

宣帝は手始めに、

于定國・張敞というふたりの役人
平尚書事に起用し、
霍光を牽制します。

「領」尚書事を「補佐」する
「平」尚書事、

補佐とは名ばかりの監視役、
と、いったところでしょう。

 

余談ながら、
この種の内訌が再発するのは、
実は、随分後の蜀「漢」だったりしまして。

後に、「領」尚書事が常職として格上げされて
「録」尚書事になり、
これに姜維が就任し、
(孔明以後、歴代の政権担当者の御約束!)

対して、
後方勤務の「平」尚書事の諸葛瞻が
前線の姜維に掣肘を加える、
という、何とも穏やかではない構図。

 

さて、話を前漢の尚書に戻しますと、

宣帝の霍光への牽制は
これに止まりません。

何と、中書令を復活させ、
これを経由した皇帝への上奏を
許可します。

 

つまりは、
それまで霍光が
尚書の権限で
皇帝への上奏文を
残らず検閲していたのが、

バイパスが出来たことで、

霍光の弾劾文が
本人の与り知らぬところで
皇帝の目に触れる、

いえ、もう少しハッキリ言えば、

霍光の悪口(失脚させる材料)が、
カンタンに
皇帝の耳に入るにようになった訳で。

 

当然、霍光は怒り狂い、
こういうのが史料にも残りますが
どうにもなりません。

果たして、これが決定打になり、

追い詰められた霍氏は
息子・禹の時代に謀反を企て、

カウンター・クーデターで
一族が誅殺されます。

 

そう、宦官を使って外戚を叩くという、
皇帝様の対外戚の政争における
常套手段の実践。

無論、その後、
宣帝は親政を行い、
領尚書事を置きませんでした。

 

そして、今度は、
その揺り戻し
宦官の時代がやって来ます。

―余談ながら、
軍のトップの「大司馬」という官職、

元は皇帝の側近の
内朝(≒立法機関)官である太尉で、
劉邦の悪友の周勃等が就任しています。

で、宣帝は霍禹から兵権を取り上げるべく
大司馬から将軍号を取り去り、

以後、政権の(オトナの)事情で
将軍号があったりなかったりと
理解の面倒な官職なんだそうな。

その後、後漢に太尉が復活し、
周瑜の親族の先祖が就任したりします。

 

 

15、宮廷三国志、出る杭ならぬ、士人は討て?!

さて、親政を始め、
領尚書事を置かなかった宣帝ですが、

末年には皇太子(後の元帝)を
補佐させるべく、

蕭望之・史高・周堪の3名を
領尚書事に任命します。

 

蕭望之の肩書は
前将軍・光禄勲(郎中令)、
さらに、皇太子の教育係である太傅を
8年経験しています。

剛直な性格が災いして
霍光に嫌われたという硬骨の士。

 

史高は外戚で大司馬・車騎将軍。
周堪は光禄大夫。

 

つまり、3名とも、
兵権、あるいは、
皇帝の警護役である郎官に影響力をもつ
人物という訳です。

 

また、周堪太子少傅として
蕭望之と共に
皇太子の教育に当たっており、

このふたりは、謂わば、
元帝の側近とも言うべき
存在でありました。

 

ここに、領尚書事の3名には、
外戚対皇帝側近の士人官僚という
構図が見て取れる訳でして。

 

加えて、宣帝の重用した
中書の宦官の動向も見落とせません。

当時、中書令には弘恭、
僕射には石顕がその任にあり、

宣帝の逝去後には
中書が外戚の史高に接近します。

 

結果として、
霍光の時代と同じく、

蕭望之の担いだ皇族が墓穴を掘り
当人は自殺し、周堪も免官されます。

史高も後に免官され、
さらにその後、弘恭は病死。

その後は、
政治は石顕の率いる
中書令の独断場となります。

士人の率いる尚書令も、
中書令の影響下にある、
という具合です。

 

 

16、外戚王氏の勝利と簒奪への布石

ところが、国政を牛耳った
宦官政権にも弱点がありまして。

何かと言えば、
皇帝の代替わり。

次の成帝の時代には、
外戚・王鳳が
大司馬大将軍・領尚書事に就任し、

石顕中太僕、
そして長信中太僕「栄転」させます。

俸給を意味する秩禄では
中書令が600石、
長信中太僕が2000石と、
3倍以上値の俸給を貰える計算になります。

―とはいえ、政争時の
政敵の指示する「栄転」なんぞ
実権を剥奪する名目に過ぎません。

この「栄転」は、
情報統制の権限のある中書から
車馬の管理部門へと放逐することを
意味します。

 

果たして、その途端、
外朝の丞相・御史大夫から
自分の悪事を上奏され、

自分の息の掛かった部下諸共
免官の憂き目を
見ることと相成りました。

 

そして、石顕は
帰郷中病死し、
この外戚対宦官の政争に
終止符が打たれました。

 

ところが、この外戚の勝利は、
実は、これまでの叩き合いとは
趣を異にしていました。

と、言いますのは、

この一族が、
まずは目障りな宦官共を
政府の中枢から締め出し、

そして、なんと、
事もあろうに
「ラスボス」皇帝に
「挑戦」(=簒奪を企図)する訳でして。

 

まずは、政争の戦後処理について
見ていくこととします。

王鳳は尚書の改革を行いますが、
要点は、以下のふたつ。

 

1、尚書令―僕射―尚書4あるいは5名、
2、中書宦官の廃止

 

補足しますと、

1、で、尚書内の指揮系統を整え、
末端の尚書は、
各々、「曹」という担当部署をもちます。

2、は、言うまでもなく、
尚書の職務からの宦官の排除を意味します。

 

 

17、簒奪前夜の王莽の肩書

さて、この王鳳の甥に、
王莽という人がいまして、
むしろ、この人の方が有名でしょう。

この人は大司馬・領尚書事として
政治の実権を掌握したのですが、

 

この時代の大司馬は、

紆余曲折あったものの、

最終的には、
将軍号がない代わりに
位は司徒(丞相)より上となり、

一方で、皇帝の側近を意味する
内朝官を統率する立場にもありました。

 

因みに、三公は、
成帝の時代に
大司馬・丞相・大司空、

その次の哀帝の時代に
大司馬・司徒・大司空、と、
それぞれ改称されましたが、

丞相(司徒)・大司空は
外朝官(≒執行機関)で、
大司空は改称前は御史大夫。

また、成帝の時代には、
三公のうえに太傅が置かれました。

 

余談ながら、
丞相の指揮下に「九卿」という
今日で言うところの
国務大臣級のポストがありまして、

ややこしいことに、
その九卿のひとつの「少府」の中に
尚書があるのですが、
何故か、これは内朝官だったりします。

 

さて、王莽の肩書の話に戻りますが、

王莽は、
大司馬として内朝官を率い、
領尚書事として政策の枢機に預ります。

 

そして、ちゃっかり、
簒奪後には、
太傅の領尚書事との兼任を禁止します。

当時、現任の太傅に釘を指したのは
かつての蕭望之の存在が
脳裏を過ったのかもしれません。

 

また、三公を凌ぐ官と領尚書事を
敢えて切り離すことが意味するのは、

やはり、権力掌握のキモは
領尚書事にあったことです。

 

因みに、
太傅と尚書のトップ(録尚書事)の兼任が
常態化するのは
後漢時代の御話。

 

余談ながら、
この人は極めてマジメな儒者ですが、

幼少期の苦労もあってか、

権力を守るためには
我が子もひとりならず手に掛けるし、

カルトに頼ってでも
政敵の追い落としに躊躇しないという
非情で権力欲の強い人でもありました。

 

 

おわりに

本当は、
今回で後漢までやりたかったのですが、

無駄話が多くなったうえに、

サイト制作者の理解不足も祟り
想定外に長くなり過ぎたことで、

ここで、一旦打ち止めと致します。

 

最後に、例によって、
御話の骨子をまとめることとします。

 

1、尚書とは、本来、
王・皇帝と臣下の間を往来する公文書を
取次ぐ官職であった。

 

2、武帝の時代以降
皇帝の権力が強力になり、
また、果たすべき職務が激増した。

 

この処理能力を高めるため、
尚書の組織が拡張され、
政策立案・情報統制の職務が
付与された。

 

3、武帝は後宮でも政務を執ったため、
尚書に宦官を起用して
政務の枢密を預からせた。

 

4、宦官と外戚が尚書の権を利用して
政治力を保ち、あるいは争奪戦を繰り広げた。

 

5、皇帝が宦官を使って外戚を叩く際にも、
尚書の権を利用した。

 

6、外戚の王莽が
漢から帝位を簒奪する直前の段階でも、
政治権力の核は領尚書事であった。

 

7、黄巾の乱による地方軍閥の台頭と
董卓の洛陽掌握は、
それまでの宮中抗争のルールを
根底から覆すものであった。

 

 

【主要参考文献(敬称略・順不動)】

鎌田重雄「漢代の尚書官」(「漢」は旧字体)
大庭脩『秦漢法制史の研究』
冨田健之『武帝』
「後漢後半期の政局と尚書体制」
「後漢前半期における皇帝支配と尚書体制」
西嶋定生『秦漢帝国』
好並隆司「曹魏王国の成立」
石井仁「諸葛亮・北伐軍団の組織と編成について」
並木淳哉「蜀漢政権における権力構造の再検討」
柴田聡子「姜維の北伐と蜀漢後期の政権構造」

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勝てなくても続ける、諸葛亮の北伐の理由とは?

はじめに

今回は、諸葛孔明の北伐の理由について
多角的に少々考えてみようかと思います。

早速ですが、諸葛孔明の北伐の理由として、

いくつかの文献を当たった限り、
大別して、以下のように4つ挙げられると思います。

 

1、漢王朝の復興
2、対魏戦線における橋頭保の確保
3、諸葛亮の兵権掌握
4、諸葛亮等、非益州人士の世代的要因

 

残念ながら、
「4、諸葛亮等、非益州人士の世代的要因」については
サイト制作者の想像と言いますか
妄想の類ですが、

当時の人士の言動を見ると
そこから透けて見えて来る部分もあり。

それでは、各々の理由について
考えていくこととします。

 

1、三国志の主役国家はフライング建国?!

まず、「1、漢王朝の復興」。

これは、孔明先生が
北伐に当たって起草したとされる出師の表にもあり、
どの識者も必ず挙げるものです。

例えば、渡邊義浩先生は、
国家の存在意義を賭けた戦いであるとし、

金文京先生は、

ドサクサに紛れて皇帝を名乗った孫権と
対等の同盟を結んだのも魏討伐のためで、

究極的には
高祖劉邦の天下制覇の再現が
悲願であったとします。

また、蜀漢建国当時の情勢について
調べますと、
ここでも見えて来るものがありまして。

 

と、言いますのは、

曹丕が禅譲で漢を滅ぼした折、

後漢のラスト・エンペラーである献帝の
行方不明・死亡説が流れました。

実は、劉備はこれに付け込んで
蜀の建国に踏み切ったそうで、

程なくして、
献帝が山陽公として健在であることが判明し、

フライングで劉備が帝位を僭称して
蜀漢が建国されたという
不名誉な既成事実だけが残った、

というみっともないオチ。

無論、献帝の行方不明説自体が
謀略臭を放っているような気もしますが、

建国を宣言して帝位に就いた
劉備やその補佐に当たる孔明の側としては、

例え、中原の人士の不興を買おうが
後戻りは出来ません。

 

こうした状況について、
加地伸行先生によれば、

古来よりある
中国人のメンタリティのひとつとして、
名実の懸け離れた状態をひどく嫌うそうな。

そして、その場合は、
名より実を取るとのこと。

そして、この法則を劉備の蜀漢に当てはめれば、
中原の人士に「実力」≒戦争で
帝位を認めさせる他はなくなった訳です。

―言い換えれば、
この国是=北伐をやらなければ
国家としての存在意義がなく、

益州内の人士の信用を失い
政権の瓦解につながるという
危機的な御話。

 

なお、蜀漢の戦争を国家の存在意義にするという
危険な賭けは、
同国の有象無象の人士・軍隊の性格と
表裏一体をなすものです。

余談ながら、

曹丕の息子で帝位を継承した曹叡は
献帝をないがしろにするどころか
逝去の際にも一定の敬意を払っており、

北伐という外圧が消えたのを見計らって
献帝の生き様を反面教師に
前漢の武帝をモデルに
国造りを始めたそうな。

 

2、天水界隈は蜀の生命線?!

「2、対魏戦線における橋頭保の確保」

実は、この個所は、
山口久和先生の『「三国志」の迷宮』からの
孫引きなのですが、

興味深い御説につき、
大筋を綴ります。

要は、地政学的に具体性のある話です。

 

蜀漢は国是として対魏戦を打ち出したのは
先に触れた通りですが、

魏と事を構える上で
現実的な国家の生命線として
明代の思想家・王夫之が指摘するのが、

天水・南安・安定という
関中の西側の地域。

 

本サイトの先の記事で
何度か触れたように、

蜀漢の策源地の漢中から
天水方面への街道は、

魏の策源地である長安に
ダイレクトに向かう秦嶺山脈の桟道よりも
地形が緩やかで
往来に難儀しません。

後世の後知恵ではあるものの、
この界隈を抑えて
住民を内地に拉致して
屯田に励んで馬を養うという具合に、

相手の褌で相撲を取れば、

国力に勝る魏相手の
相応の抗戦は可能という御話。

 

余談ながら、この先生、
ウィキペディアによれば、

科挙の郷試に通ったものの
事もあろうに就職先の国家が滅亡して
新政権に抗って隠士になったという
硬骨な御仁だそうですが、

レジスタンスに失敗したことで
陽明学的な脳筋を嫌った模様。

戦後の日本で言えば、
陸士や帝大で終戦を迎えたエリートと
言ったところでしょうか。

あるいは、まるで、結社系の武侠映画の
先生役に出て来そうな人物に見受けます。

 

―で、影響を受けた奴の中には
「戦争は政治の継続」と
何処のドイツから聴いたような文言を宣った
毛〇東もいた、と。

 

 

3、夷陵の敗戦の誤算と起死回生の南征

そして、こういう地道な現地調達戦術が
想像される背景には、

実は、夷陵の敗戦に伴う
荊州失陥の確定という
蜀漢にとっての想定外の大打撃がありまして。

故・史念海先生によれば、
実は、この敗戦により、
荊州から根拠地を失った大量の人員が流れ込み、
慢性的な物資不足に直面したそうな。

そして、この難局の解決のために
孔明先生が矛先を向けたのが所謂南蛮―南中。

反乱鎮圧を名目に武力進駐して
収奪の体制を作る訳でして、
具体的には以下のようになります。

まず、ここの貴重な交易産品を転売して
北伐の戦費を捻出します。

本国である益州の戦費負担を軽くし
北伐に反対の立場を取る地元名士に
配慮する訳です。

次いで、地域の有力者を
強制的に成都に移住させて
蜀漢の有力者との血縁関係を強いる一方、
(同化政策というやつです。)

その統率下の部曲を動員して
北伐を行う訳です。

で、その部曲というのが
非常に精強な「外人」部隊であったようで、

例えば、
南中の実力者の孟獲が北伐に従軍しており、

また、五丈原の戦いの際に
武功水の渡河に成功した
孟炎の率いる虎歩監も、
所謂、南蛮の部隊でした。

 

こうして南中から
大量の物資・兵員を供出させる一方で、

法令を適正に執行し
中間搾取をやる不正官吏を大量に処分して
或る程度の信用を得た訳ですが、

それでも反乱を起こす
気骨ある者もおりまして、

例えば、前回の記事でも触れた通り、
五丈原への出兵の直前にも起きました。

タイミングを考えると、
魏の根回しがあったのかもしれません。

―ともあれ、こういう武装蜂起は
現地に鎮圧部隊を派遣して遠慮なく叩く、
という政策的スタンス。

 

 

4、元祖キレ芸人?!諸葛孔明

「3、諸葛亮の兵権掌握」

これも渡邊義浩先生の御説。

有事を理由に
兵権を握って政権を掌握する、というのは、

確かに、孔明先生の個人な理由ではありますが、

一方で、国家≒中央志向の名士・軍が
国是を実行に移す実力者を望んでいたことも
歴史的な事実です。

こういうのは、
時代・地域を問わない
政治力の本質なのでしょう。

 

ですが、外征はリスクの大きい政策で、
兵権を握る者に戦争弱者は不要です。

例えば、この少し前の袁紹・曹操・劉備は、
足場の固まらないうちに
それぞれ官渡・赤壁・夷陵で敗れた直後に
勢力下で反乱を招きました。

中でも、袁紹・劉備は
敗戦の事実を直視出来ずにこの世を去りまして、

劉備の蜀漢の場合は
諸葛亮がその尻ぬぐいをして
危機の好機に変えたのは先述の通りです。

 

その際、諸葛亮自身もこの外征を止めず、
初代皇帝の劉備が
成都に還れぬまま崩御するという
無様な姿を目の当たりにしている訳です。

対呉の外征では
被征服者である地元名士の黄権等も
従軍していたことで、
それだけ益州の地元人士の風当たりが強かった
ということなのでしょう。

 

つまり、外征失敗の危険は当の本人が
嫌という程熟知していた筈です。

 

さらには、孔明没後も、
曹爽・孫綝・諸葛恪といった
時の政権の実力者も、

王朝という強固な縦社会の枠組みがありながらも
軍が壊滅するレベルの外征の失敗で政治力を失い
失脚どころか謀殺されました。

 

特に、諸葛恪の例の軍事介入については、

外征の失敗には
当人の狭量な資質にこそ原因があるものの、

サイト制作者としては、

一面では、名士の支配が幕引きとなり
孫呉自体の政策立案能力が下火になった転換点と
見ています。

 

【追記】外征軍と感動出来ない出師の表

一般論として、

時代や国を問わず、
外征向けの機動部隊は
国運を担う国軍中の精鋭です。

そして、そうした部隊を
拙い用兵で崩壊させた将帥が
タダで済むような道理はありません。

あるとすれば、
組織自体が末期症状を
呈している場合でしょう。

 

戦前の何処かの島国の軍隊どころか、

歴代の断末魔の中華王朝でも、

資質に欠ける将官が兵権を握り
前線の報告が途中で握り潰されるだとか、
枚挙に暇がありません。

 

そして、「三国志」の時代の外征も
そうした例に漏れない訳でして、

曹操の場合は
蔡瑁が孝廉の同期とはいえ、

荊州の有象無象の降兵も前線にブッ込んだものの
赤壁の敗戦が祟って威信が失墜し、

当初想定していた速戦即決の光武中興の再現
というエエ格好しい計画から、

自前の王朝設立よる
長期的で外道な簒奪プランに
切り替えざるを得ませんでした。

 

一方の劉備の場合は、

自身の政治力の泉源である
左将軍府(≒後漢王朝御墨付の幕府)の
直属部隊が、
事もあろうに
陸遜の若造如き殲滅されたことで、

対呉どころか孔明との暗闘にも敗れ、
息子を孔明に託さざるを得なくなるという
憂き目を見ました。

その意味では
出師の表など、

識者によれば、

解釈によっては、

孔明が劉禅に細かい注文を付け
余計なことをするなと釘を指すという、

感動とは程遠い内容とも
取れるそうな。

 

とはいえ、
その孔明先生から費禕の時代までは、

政治家の資質は元より、制度上も
宰相の権力が並外れて強かったことで、

御飾りの皇帝様に対して
簒奪までは行かなかったのが
蜀漢の面白いところと言いますか。

姜維の時代の亡国の理由は、
国力の疲弊もさりながら、

国政の中枢である尚書内ですら
一枚岩ではないという
政権内の分裂状況も大きかったそうな。

 

これに因んで、

孔明が拘った肩書のひとつである
蜀漢版・葵の印籠とも言うべき
録尚書事(尚書)の話をしたいところですが、

時代ごとに職務内容が異なる厄介な代物で、

漢代の外戚と宦官の内訌どころか、
戦国時代や漢初の
少府や王室財産の話まで遡らないと
話の大筋や事の本質が見えて来ない
ような気がしますが、

この話は近いうちに。

尚書関係の話
何とも小難しい話ですが、

一方で、
この時代の政治制度のキモとも言えまして、

『三国志』どころか
『キングダム』や中国王朝の制度に対する理解が
大分深まると思います。

サイト制作者の理解も怪しいのですが、
何ともオモシロそうな箇所だけに
出来るだけ噛砕いての説明を心掛けます。

今回、本当は、
尚書・軍府・行官といったような
蜀漢の政治や軍隊の構造まで
掘り下げるつもりだったのですが、

下調べやノート整理で
時間を使い過ぎたうえに、
投稿の折にも無駄話で尺を使い過ぎました。
本当に恐縮です。

こんなアホなことをやらかす位であれば、
テーマを絞って少しでも早く書けば良かったと
後悔しています、合掌。

【了】

 

 

話が大分脱線しましたが、

上記のような外征軍をめぐる事情につき、

諸葛亮としては、
例え負け戦であっても
軍を崩壊させることは避けたかった筈。

言い換えれば、恐らくは、
そういう政治的な力学が
消極的な用兵になって現れる訳です。

 

そうした中での唯一の積極策が、
例の、街亭で馬謖に一軍を預けたアレ。

 

こうした政治と軍事のバランスを取るような
慎重とも臆病とも取れる用兵思想を以て
望みが薄いと自覚しながも
何度も出兵したのは、

もし、自らが大局的な負けを認めてしまえば
政権中枢からも離反者を出して
自分の命どころか国是や国体まで
吹っ飛んでしまう可能性があったからでしょう。

 

よって、皇帝様、部下や国民に曰く、

第七〇隊には勝てないが、

一命を賭す代わりに
金〇島に花火をブチ込むだけで
戦争したことにしてくれ、
一応、攻勢作戦のつもりだ、と。

 

そう考えると、
天才軍師どころか
元祖キレ芸人と言いますか、
希代の詐欺師と言いますか、

希望を持たせることも
政策なのだということを
証明した政治家のようにも思えます。

 

5、デタラメな時代が生んだ法治主義の鬼

そして、諸葛亮が北伐を敢行した
最後の理由として、
「4、諸葛亮等、非益州人士の世代的要因」
について。

ここでは、諸葛亮や、
この人と似たような
時代・社会背景を持った人士の胸中について
考えてみよう思います。

まず、諸葛亮の出身は徐州琅邪郡

代々政府高官を輩出する
家系ではあったものの、

幼少期に父と死別したことで
叔父の諸葛玄に引き取られました。
これが195年の出来事。

そして、この諸葛玄と劉表が
交友関係にあったことが縁で
荊州に移り住みます。

因みに、この少し前の193年に
曹操の徐州侵攻がありまして、

この過程での現地における狼藉が
余りに醜かったことで、

諸葛亮の兄・諸葛謹や厳畯といった
徐州の人士を
呉に走らせる結果となりました。

延いては、
三国鼎立の最大の理由だそうな。

 

また、諸葛亮や同じく徐州出身の魯粛は、
後年この殺戮劇について
項羽の蛮行になぞらえました。
―咸陽での略奪のことと想像します。

つまり、孔明先生にとっての曹操は、
郷里の侵略者として
自分の半生に暗い影を落とした
仇敵に他ならなかった訳です。

 

三国志関係の作家の中には、
こういう話を以て
諸葛亮と曹操との因縁を書き立てる方が
いらっしゃるかもしれません。

この辺りの経緯は、
石井仁先生の『曹操』を御覧あれ。

 

その上、親との死別や
郷里の罹災のみならず、

荊州に着いたら着いたで、

今度は庇護者の叔父が
劉表と劉繇の、
謂わば地方官同士の抗争の煽りを喰って
殺されます。

―そう、時代の寵児が宿敵であり、

そのうえ、その時代のデタラメさによって
親とも頼む庇護者まで失った訳で、

そういう訳アリな次第につき、

士大夫の家系にもかかわらず、
家柄のポテンシャルを活かせずに
20代後半まで
職歴のない状態を続けていたのが
諸葛孔明その人でした。

そのうえ、
自宅の庭先を治める劉表とて、
見方によっては叔父の仇でもあり、

また、天下国家を論じることが大好きな
自分の学術グループからすれば、
どうも肌が合いません。

まあその、
こういう半生を送れば
不正を働く役人を目の敵にするのも
頷けようというものですし、

事実、この人が後にやったことは
猛政と呼ばれるバリバリの法治主義。

その手法は、
皮肉にも仇敵・曹操と同類のものであり。

 

例えば、劉備の時代には、

劉備が皇帝になっても
簡雍のような古参のふてぶてしい家臣は
皇帝様の前でも
足を投げ出すような有様だったのが、

北伐の時代には、
放言癖で酒乱の劉琰

この人も劉備の賓客で
当時は元老格でしたが、

何と、奥様へのDVで
極刑を喰らっています。

これは綱紀粛正の極端な例ですが、
それ位やらなければ
役人がマトモな仕事をしなかった時代
なのでしょう。

 

因みに、先述の加地伸行先生は、

諸葛孔明の蜀漢の国家経営を、
「全知全能を傾けての、
自己の理想像を描くことであった、」
と記していらっしゃいます。

つまり、清貧と表裏一体の野心の矛先が
仕事であったという御話。

あるいは、
こうした幼少期・青春時代の苦労が、

時を経て
国家創生の使命感に
転化したのかもしれません。

 

 

6、彼らは何と戦ったのか?

そして、遅咲きの天才が頭角を現す契機は、
思わぬかたちで到来する訳でして。

―と、言いますのは、

孔明先生にとっての閉塞状況の中に
俄かに飛び込んで来たのが、

皆様御存じの、
自分の居場所が悉く台風の目≒戦場になるという
ア〇ファトのような歴戦の傭兵隊長の劉玄徳。

で、この何だか怪しいオジサンが、
結果として益州を占領して
皇帝まで名乗るところに
この時代の面白さがありまして。

 

また、孔明先生のみならず、

戦乱で郷里が罹災して難民になって
イロイロあって益州に流れ着くか、

あるいは、
曹操のやり方を快く思わない人士
少なからずいる訳でして、

のみならず、
その曹操の勢力
この段階では長安を制圧し
漢中にも兵を向けるという段階に達しておりまして。

 

で、例えば、法正等のような非益州人士
劉璋を見限るにしても、

強力な軍事力・政治力を有する曹操が
益州を制圧した場合、
中原の人士に州内の政治の主導権を握られるのを
嫌ったと想像します。

で、結果として、
州外から流れ込んで
当然ながらヨソ者扱いされて
居心地の悪い人士

劉備の軍や東州兵という暴力装置を以て、
謂わば虎の威を借りて、
軍事力を背景に益州を支配するという訳です。

劉備も劉焉も
益州を統治するに当たり、

最初は地元人士の期待を以て
招かれたものの、

 

【追記】

地元人士が歓迎したのは劉焉だけですね。

【了】

 

結局は軍事力で地元名士を威嚇して
統治するという点では、
どうも共通していると言えます。

 

それはともかく、

こういう経歴を持つ孔明やその他の荊州人士、
あるいは李厳や呉懿等の
旧劉璋傘下の非益州人士
そうだと想像しますが、

劉備に賭けた人士は、

兵乱で漂白を余儀なくされるという
時代のデタラメさに
嫌気が指したことは元より、

兵馬で中原・華北、
果ては長江南岸まで蹂躙した曹操やその子孫が、

自分たちの心の拠り所であった劉氏を蔑ろにし、
果ては、漢を滅亡に追いやり
帝位まで簒奪したことが
我慢ならなかったのではなかろうか、と、

サイト制作者は想像します。

 

そのように考えると、
北伐は、自分達の尊厳を賭け、
存在意義を証明するための
聖戦であったのかもしれません。

 

果たして、孔明先生没後、
世代が変わるや、

国是こそ理念としては残ったものの
その実行力は
次第に薄れていく訳でありまして、

特に、地元・益州人士である
費禕の時代になるや、

国力相応の守勢中心の現実的な国防政策に
重点が置かれるようになります。

―ただし、暫くは北伐を経験した古強者が
軍の要職を占めていたことで、
防衛戦の対応は迅速でした。

 

もっとも、
蜀漢が守勢に回った理由は
世代的な理由だけではないのでしょうし、

一方で軍、
特に漢中の前線部隊は
戦闘意欲が旺盛で、

次の姜維の時代には
国家の滅亡まで戦意を失わなかったのは
何とも皮肉な話ですが。

 

とはいえ、

孔明没後から姜維の時代まで
外征の実行まで漕ぎ付けた
行動力のある政権が
なかったところを見ると、

曹氏の台頭と簒奪を目の当たりにした世代と
そうでない世代との価値観の断絶
少なからずあったものと想像します。

 

おわりに

そろそろ、
今回の御話をまとめることとします。
大筋は以下のようになります。

 

1、諸葛孔明が北伐を行った理由は
いくつか挙げられるが、
どの識者も挙げているのは
曹魏打倒による漢王朝の復興である。

 

2、1、に付随して、
地政学的な理由としては、
南安・安定・天水が
蜀漢の生命線であった。

 

3、蜀漢は荊州の失陥により
慢性的な物資不足に陥ったが、
南中よりの収奪で物資・兵員を賄い、
さらには北伐の戦費・戦力に充てた。

 

4、諸葛亮は南中侵攻・北伐という有事によって
軍権を掌握したが、
当時の政権担当者にとって
兵権掌握は諸刃の剣であった。

 

5、後漢・三国時代を通じて、
外征の失敗は、
内乱の誘発や政権担当者の失脚・謀殺に
直結するものであった。

 

6、蜀漢を構成する人士は、
曹操の軍事作戦の被害者や
曹操の抵抗勢力、
あるいは、軍事力を背景に蜀を支配する
勢力等が主流であり、
有事こそが彼らの存在意義を
際立たせていた。

 

7、6、に付随して、
曹氏の簒奪の過程を目の当たりにした世代が
自分達の存在意義を賭けて
戦争を継続した可能性がある。

 

 

【主要参考文献(敬称略・順不同)】

陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻
渡邉 義浩『「三国志」の政治と思想』
山口久和先生の『「三国志」の迷宮』
金文京『中国の歴史 04』
宮川尚史『諸葛孔明』
石井仁『曹操』
「諸葛亮・北伐軍団の組織と編成について」
上谷浩一「蜀漢政權論」(漢は旧字体)
満田 剛「蜀漢・蔣琬政権の北伐計画について」
上田早苗「後漢末期の襄陽の豪族」
加地伸行編『諸葛孔明の世界』
加地伸行『中国人の論理学』
大庭脩『秦漢法制史の研究』
並木淳哉「蜀漢政権における権力構造の再検討」
柴田聡子「姜維の北伐と蜀漢後期の政権構造」

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交通網から観る北伐 後編

譚其驤『中国歴史地図集』、柿沼陽平『劉備と諸葛亮』、宮川尚志『諸葛孔明』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』(順不同・敬称略)より作成。

 

長くなりましたので、
以下に章立てを付けます。

適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

 

はじめに
1、出撃の下準備
2、物資集積拠点・邸閣
3、現地調達と兵戸制
4、仲達の防衛構想
5、またも尻込む孔明先生
6、西部戦線異状なし~両軍の屯田
7、孔明先生の王様ゲーム
8、魏軍の総力戦体制
9、ガキの使いの情報戦
10、五丈原に巨星墜つ
11、蜀軍の狂気の内訌
12、北伐自体が「孔明の罠」?!
13、敵役・曹魏は有能政権
14、無謀な出兵を続ける大人の事情
おわりに

【主要参考文献】

【番外乱闘編】
サイト制作者の『三国志』関係のアレな物学び

はじめに

1ヶ月以上も更新を怠り
大変恐縮です。

今回は五丈原の戦いについての御話。

実は、五丈原の戦い以外にも
イロイロ書こうと思ったのですが、

間が空き過ぎたことで、
一旦区切りを付けようと思った次第です。

 

 

1、出撃の下準備

さて、230年6月に祁山より兵を退いて
3年半の兵馬の休養期間を経て、
蜀漢は再び出撃します。

その下準備として、
232年には黄沙(南鄭と沔陽の間・沔水の西岸)で
孔明先生自ら農耕の指揮を執り、

剣閣近辺の山岳地帯で
運搬用の道具である
木牛・流馬の開発を行います。

木牛・流馬は、
物の本によれば、
詳細は判然としませんが、
(残された図面がデタラメで
後世の歴史家が復元不可能とのこと)
一輪車のようなものだそうな。

中共の主力戦闘機の件といい、

こういう使えそうで使えない、
奇天烈で怪しいところが
如何にも中国らしいと言いますか。

 

—それはともかく、

翌233年の冬には、
諸軍に命じて兵糧米を斜谷口に集め、
斜谷に邸閣を整備させました。

 

 

2、物資集積拠点・邸閣

ここで、
少しは交通史らしい話をします。

邸閣は当時の食糧倉庫でして、

例えば、黄河の舟運の結節点
長江沿岸の魏呉の国境地帯等、

交通の要衝や重要な戦地の最前線
所狭しと建てられた施設です。

下記のアレなイラストは、
以前の記事の説明用に
描き下ろしたものですが、

モノの本によれば、
赤枠のような倉楼が乱立している拠点の模様。

また、この倉楼1棟辺り
大体1万石の穀物が貯蔵可能で、

例えば、魏呉の国境地帯の
ある邸閣では20万石の収容量が
あったそうな。

上田早苗「後漢末期の襄陽豪族」、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』、林已奈夫『中国古代生活史』等より作成。

 

つまり、今日で言うところの、

港湾の埠頭に隣接して建てられたサイロや
運送会社の大型の物流ターミナルに
相当するかと思います。

 

一方で、南方に目を向けると、

足元の南蛮で劉冑が反乱を起こし、
この鎮圧のために馬忠が差し向けられます。

長きの戦時体制に耐え抜いたという意味では
成功と言える南方の治安政策も、

綺麗事では済まないことを露呈した一例
と言えるでしょう。

 

 

3、現地調達と兵戸制

 

譚其驤『中国歴史地図集 三国・西晋時期』、久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて」(上・下)、宮川尚志『諸葛孔明』より作成。

 

そして、翌234年2月、
いよいよ蜀軍の出撃の運びとなります。

斜谷より軍を起こし、
かつて趙雲の焼き落とした褒斜道を
修復しながらの進撃です。

孔明先生最後の北伐の攻撃目標は
長安と見て間違いないでしょう。

 

なお、蜀の最大動員兵力は10万2千。
この戦いも、これに近いものであった模様。

さらには、北伐から亡国の段階まで
ほぼ変わらなかったそうな。
このカラクリは後述する兵戸制にあります。

その他、特筆すべき点としては、
旧暦の2月―
つまり、現在の太陽暦で言うところの
4月の出撃。

つまり、種まきに合わせて
事を起こす訳で、

換言すれば、
食糧の現地調達を見越しての出兵。

先の祁山の戦いも、
出兵は大体この時期でした。

柿沼陽平先生の御本によれば、
木牛・流馬の投入は、

加えて、機材の導入により、
運搬による労力軽減の効果が
あったことでしょう。

 

因みに、兵戸制とは、
三国時代の兵制の
結晶ともいうべき存在でして、

今日でいうところの難民や武装勢力
軍隊に取り込み、
妻帯させて多少の田畑を与えて
軍役を課して世襲化させる制度のことです。

実は、この制度については、
故・濱口重國先生の
一連の研究がありまして、
(何かの機会に記事にしたいと思います。)

恐らく今日でも
色褪せていないと思うのですが、
そのさわりの部分を紹介しますと、以下。

 

まず、兵士は、戸籍上は、
耕作民である「偏戸」とは別に
「兵戸」として登録されます。

戦乱の長期化に伴う人口減が背景にあり、
この制度の施行によって
一定の動員数を確保出来た訳です。

恐らく、
最初にやり出したのは曹操ですが、

徴兵制が不可能な中で
苦肉の策として
編み出されたにもかかわらず、

100年以上の間
何十万もの兵力の動員を可能にした
優秀な制度で、

三国統一後の
南朝の歴代の無能王朝が
濫用して制度疲労を起こすまで
継続しました。

 

4、仲達の防衛構想

さて、蜀の侵略に対する魏の対応も
早いものでした。

史書にも邸閣を整備したと
書かれている位ですから、

整備から出撃まで大体3、4ヶ月と見て、
その期間の中でも、
割合早い段階で諜報活動に
引っ掛かったのかもしれません。

加えて、先の戦いで
祁山の選択肢は消えたこともあり。

 

また、魏軍のこの戦線における総兵力は
30万と言われます。

魏は渭水南岸に人口密集地を抱えており、
(百姓が多い、とありますが、
当時の「百姓」は、平民といった意味。)

ここを制圧されて
住民を拉致されるか屯田に利用されるのを
煩わしいと考えたのか、

兵力にモノを言わせて
渭水の水際防衛を放棄し、
渡河して南岸に布陣します。

—謂わば、背水の陣。

 

とはいえ、
人のメンタリティなんぞ早々変わらないもので、

司馬仲達はこの時、
周囲に次のように漏らしたそうな。

(渭水支流の武功水沿いに)
西側の五丈原に出れば持久戦となり
安心出来るが、
武功方面に出れば憂慮すべき事態になる、と。

 

「憂慮すべき事態」は、
開けた地形での
決戦の意味合いの強い野戦でしょう。

あるいは、
かつての祁山での悪夢が
仲達の脳裏を過ったか。

 

5、またも尻込む孔明先生

ところが、
魏軍のハッタリに対して
日和ったのは蜀軍の方。

渭水南岸・武功水西岸の五丈原に陣取り、
長期戦の構えで
武功水を挟んで魏軍と対峙します。

 

一説には、
この地の氐族・羌族の懐柔のために
時間稼ぎを始めたそうな。

 

一方、対岸の魏軍は馬家という高地に陣取り、
孔明先生は呉の歩隲に
この攻略が難しいと親書を書き送ります。

―もっとも、この手紙で、
魏軍の陣取った場所と地形が分かったのですが。

 

そのうえ、斯く言う蜀軍も、
孔明先生の本陣は郭氏「塢」という
武装村にあったようでして、

のみならず、
蜀軍の陣地自体もあの辺りの高台にあり、
さらには防御陣地まで構築するという具合。

 

このように、

魏蜀両軍が
臆病な慎重な指揮官の用兵の下、

相手の出方を逐一把握しながら
御互いが幹線道路上に
大軍を進軍させた結果、

いざ対峙したとて、
双方共要害を頼んで
当然の如く睨み合いとなりました。

 

後世の歴史家の中には、

蜀軍のこの措置に対して
何も考えていない、と、
手厳しく指摘する方も
いらっしゃいまして、

浅学ながら、サイト製作者も、
大体これに同意しています。

 

私の知る限り、

不利な戦力で
敵地に居座って
睨み合いを続けることを勧める兵書は
ありません。

そうした行為が
国力の消耗につながることを
戒める文言があるからです。

 

 

6、西部戦線異状なし~両軍の屯田

ただ、蜀軍に肩入れするとすれば、
これまでの戦訓から学んだこともありまして、

有名な話ですが、
食糧不足に対して
軍屯で対応したことです。

先の祁山の戦いでは
上邽で麦を刈った軍隊が、
今度は軍規を厳正にして
略奪の禁止を徹底したそうで、

これで戦地の住民の
人心掌握に成功します。

 

しかしながら、屯田は、
五丈原一帯のみならず
武都郡の蘭坑(下弁の北西に位置)でも
行われました。

つまり、前線の兵隊が
現地で農作業に勤しむだけでは
10万もの軍隊の食糧を
確保出来なかった訳です。

加えて、武器糧秣といった消耗品の補充や
兵站活動に従事する数多の非戦闘員の労力や
その活動のための物資・食糧を考慮すれば、

本国からの物資の持ち出し分や
前線に労働力を供出する銃後の負担は、

依然として相当なものであったと
見るべきでしょう。

―兵站活動を担う人員は、
戦闘員と同じ数を必要とするそうな。

 

 

7、孔明先生の王様ゲーム

さて、こうして強固な自給体制で
魏軍と睨み合いを続ける蜀軍ですが、

当然ながら、
魏軍の足を掬うべく
イロイロと足掻く訳でして。

具体的には、
渭水北岸の北原(積石原)に攻勢に出るも、
郭淮が未完成の陣地をよく守り失敗。

また、武功水対岸への正面攻撃も行いまして、
南蛮西南夷の
虎歩(部隊名)監・孟琰の部隊が
武功水東岸の橋頭保構築には
成功したものの、

それ以上の成果はありません。

 

さて、こうしたなるべくしてなった
両軍の膠着状態に頭を悩ませた
孔明先生のヤケクソのが、

有名な、
仲達に巾幗
(字引によれば、女性用の頭巾と髪飾り。
片山まさゆき先生の『SWEET三国志』では、
パンティに意訳されていました。)
を贈って挑発するというもの。

この策の面白いところは、
どうも、これで憤ったのが仲達本人ではなく
部下の方でして、

祁山の時と同じく部下の積極論を
収拾出来ません。

皇帝・曹叡に上表して
出撃の許可を乞います。

 

 

8、魏軍の総力戦体制

ところが、
今回は前回と状況が異なります。

と、言いますのは、

東の方では、
234年5月より、
呉も合肥方面で攻勢に出ていました。

そして、曹叡自らこの防衛戦に出撃し、
長安方面の仲達には
勅使を派遣して積極的な迎撃を禁止します。

呉・蜀の二正面作戦の片方で
問題を起こされるのを嫌ったのでしょう。

 

加えて、その対価として、
司馬孚(仲達の弟で、この人も優秀だそうな。)
の入れ知恵で、

護軍の秦明に2万の兵を与えて
援軍として送り出し、
この方面に常駐させます。

 

これについては、
元来、秦嶺界隈には常駐する部隊がなく、
雍州刺史の郭淮の部隊も
恐らくは到着が遅かったことで、
有用な策であったそうな。

つまり、孔明先生の下品な秘策で
仲達が部下に煽られて出撃を考えていた矢先、

皇帝様直々に
出撃の禁止命令を出した、

―という御話。

のみならず、
華北の冀州より壮年農夫5000名を
上邽に移住させ、
春夏は農蚕、秋冬は軍事に従事させます。

 

要は、前線での屯田ということでしょうし、

蜀の複数個所での軍屯と同様に
史書に記されている以外に
ヨソでもやっていたと見るべきでしょう。

 

この話を漏れ聞いた姜維は、
曹叡の勅使が来たからには
仲達は出て来ないだろうと落胆します。

 

一方、孔明先生の方はと言えば、

出撃を打診したからには
攻勢の意思はあるし、

(兵書の原則に照らし合わせて)
一旦軍を預かって出撃したからには
仲達にはこれを蹴る権利がある。

と、言ったそうですが、

この遣り取りは、
ドライな部下と希望的観測を織り込んで
部下を鼓舞したい総司令官の立場の違いが
滲み出ていると言いますか。

 

ところが、結果として、
仲達は出て来ないわ
呉軍は疫病に悩まされて退却するわで、

曹叡など、
呉軍が退けば諸葛亮は肝を潰す、と、
ドヤる始末。

因みに、呉軍の撤退は234年7月。

―要は、蜀軍にとっては、
頼みの綱の外的要因は最悪の形に終わった訳でして。

 

 

9、ガキの使いの情報戦

余談ながら、

仲達に巾幗を贈った諸葛亮に対し、

仲達も仲達で、
呉から降伏の使者が来たという「想定」で
魏延の陣に向けて兵士に万歳をさせまして。

 

で、これを見た諸葛亮が、

魏の陣営に使者を派遣して
齢60の老人がやることか、と、
仲達を窘めたそうな。

 

サイト製作者としては、
どっちもどっちの
次元の低い諜報戦に見受けますが、

戦場での睨み合いの我慢比べは、

存外、こういう具合に
連日のように
流言飛語や煽り文句が飛び交い、

そうした中で敵の出方を探り合うという
胃の擦り切れるような
日常なのかもしれません。

 

仲達が蜀軍の使者との遣り取りから
孔明先生の褒めようのない健康状態を
看破したのも、
その一環なのでしょう。

有名な話ですが、
鞭罰20以上の微罪の司法判断まで自ら行い、
日々の食事は3、4升という小食。
(3、4合に相当。粟だそうな。)

 

柿沼陽平先生によれば、
当時の刑徒ですら6升食べるそうで、
如何に健康管理に手を抜いていたか
窺うことが出来ます。

 

因みに、魏軍の密偵の逸話によれば、

この時の姿が、
例の白羽扇に頭巾という
装束であったそうな。

 

10、五丈原に巨星墜つ

―そして、戦いの結末は
実に呆気ないものでして、

234年8月末、
つまり、呉軍の合肥からの撤退より
1ヶ月余り後、

蜀漢の大黒柱・諸葛亮の陣没によって、
幕引きとなります。

 

蜀軍は楊儀の指揮の下
撤退を開始し、

近隣の住民の通報を受けた魏軍
かねてからの宮廷の指示通り
追撃を開始します。

 

しかしながら、
蜀軍が姜維の策で反転し
迎撃の構えを見せたため、
魏軍は追撃を思い止まります。

 

11、蜀軍の狂気の内訌

さて、実は、
ここからが興味深い展開。

―特に魏延の未練がましい動き
何とも蜀漢の軍隊らしいところ
言いますか。

具体的な御話は、以下。

楊儀は斜谷まで兵を退いたところで
諸葛亮の喪を発表します。

ところが、魏延が撤退に反対し、
楊儀・魏延の双方が
成都の宮廷に相手を弾劾し合い
干戈まで交えるという
狂態を露呈します。

 

前回の記事でも触れましたように、
かねてから二人の仲は険悪で
これを仲裁していたのが費禕。

そして、今回の内訌では
諸葛亮の後継者である蔣琬と費禕が
楊儀を支持したことで、

魏延は部下の指示を失って孤立し、
漢中に逃れたものの、

王平や馬岱等の追手に
斬られることと相成ります。

 

蜀漢のメンタリティを体現したような
誇り高き急先鋒の将軍の、
何とも呆気ない最期でした。

 

12、北伐自体が「孔明の罠」?!

さて、ここまで、
都合3回の記事を以て
秦嶺界隈の地形と北伐について
綴りました。

その結果、
サイト製作者の雑感としては、

この辺りの地形が険しく
兵站に多いに支障を来したことを
実感する同時に、

蜀軍が果たして、

こうした阻害要因を織り込んで
魏を滅亡に追いやるような手段を
本気で講じたのかどうか
甚だ疑問に思う次第。

 

逆に、魏が漢中を狙う場合にも、
やはり峻険な地形が足枷になり、

蜀漢の政権が安定していれば、

魏の国力の差にモノを言わせる荒技が
通用しないのは、
劉備や費禕の時代の戦争が
証明するところです。

まあその、我ながら、
申し訳ないながら、
何とも月並みな感想かと。

 

13、敵役・曹魏は有能政権

まして、国力に劣る蜀漢の北伐など、

正攻法にこだわれば、

例えば、涼州を分断しようにも、
ダイレクトに長安を狙うにしても、

結局のところ、
魏の大軍に出張られて
寄り切られるのが関の山。

 

殊に、初回の北伐など、
天水界隈の太守が悉く離反するという
この上ない天祐に恵まれながらも、

街亭に迎撃に出た張郃の
歩兵・騎兵5万は、

蜀軍の動員可能兵力を考慮すれば、
馬謖の部隊を
兵力で凌駕していたことでしょう。

 

それだけではなく、
魏軍の中枢には
反撃を画策する有能な将官も存在し、

必要に応じて
辺境の労働力を前線に回すような
総力戦体制の構築も抜かりなく
進めて来ます。

 

―サイト制作者の愚見ではありますが、

魏軍の総司令官が張郃であれば、

逆に、漢中が落とされたか、
あるいは、蜀漢の本隊が
野戦で殲滅されたのではないかとすら
思えて来る次第。

 

つまり、蜀漢の北伐の相手は、

古の高祖や光武帝の壮挙の
引き立て役となった
王莽や項羽のような
図体だけが大きい無能政権ではなく、

国力相応の頭脳や対応力を持った
有能な政権であった、ということです。

 

 

14、無謀な出兵を続ける大人の事情

さらに、孫呉その他の兵書が説くような
事前の情報収集の徹底と
それに基づく短期決戦による決着という
原則から言えば、

孔明のやったような戦争
忌憚なく言えば、
赤点レベルの内容とさえ言えるかもしれません。

とはいえ、史実としては、
どうも冴えない内容の外征が数回も
行われた訳でして。

 

言い換えれば、

生前の劉備のヘマで崩壊寸前の
ボロボロの蜀漢を立て直し、

劉備の志を具現化するかたちで
強靭な継戦能力の備わった
戦闘国家の基盤を創った
当世第一級の政治家である諸葛亮が、

 

敢えて、純軍事的には全く勝ち目のない
無理な外征を、
骨身を削って何度もやった
政治的な理由を考えた方が、

モノの本質に近付くことが出来そう
思う次第です。

 

―穿った見方をすれば、
軽微な損害で外征を続けること自体が
政権の目的であった、
ということです。

 

次回は、そうした、
諸葛亮の外征の理由について
アレコレ考えるという御話になろうかと。

 

その際に注目すべきとしては、例えば、
以下のようなものが挙げられます。

 

1、数多の研究論文にあるような蜀漢政権の
モザイクのような不協和音な構造。

2、蜀の閉鎖的な地方性と
それを逆手に取った、
劉焉政権以来の
強兵を以て地元名士を抑圧する強権政治。

3、そして、それと連動する形で、

劉備のメンタリティを
兵戸制によって末代まで継承し
時の政権担当者に
劉備の軍人皇帝としての偶像を強要する
好戦的で発言権の強い軍隊の存在。

 

また、当然ながら、歴代の識者が
活発な議論を行ったことで、
論点はこれだけには止まりません。

例えば、大義名分や地政学的なもの
ありますので、
そうしたものも紹介する予定ですし、

サイト製作者の妄想としては、
史料の裏付けはないものの、
時代・世代的な要因もあるように感じます。

 

浅学を以て結論を急ぐのではなく、

いつものように、
御笑読頂くの皆様の
何かの参考になれば良いというスタンス
綴ろうと思います。

 

 

おわりに

最後に、今回の御話をまとめると、
以下のようになるかと思います。

 

1、蜀軍は、祁山の戦いより3年半の休養を経、
234年2月に長安方面に出撃した。

 

2、前年冬に斜谷口に邸閣を整備し、
褒谷道を修復しながら進撃したことで、
魏軍は早い段階で察知した。

 

3、魏軍は渭水南岸に、
蜀軍は渭水南岸・武功水西岸に
それぞれ布陣し、
両軍は武功水を挟んで対峙した。

 

4、散発的な戦闘こそ発生したものの、
膠着状態が数か月続き、
その過程で、両軍は屯田からも
食糧を補充した。

 

5、両軍が対峙する中、
呉は合肥方面に出撃したが、
魏軍が撃退した。

 

6、長期戦の最中には、
敵軍を挑発する、敵軍の戦意喪失を狙う、
あるいは敵の総司令官の体調を探る、
といった、さまざまな情報戦が行われた。

 

7、234年8月末の諸葛亮の陣没を以て
数か月にわたる戦いは蜀軍の敗戦に終わった。

8、蜀軍の漢中への撤退の最中、
撤退を指揮する楊儀と
それに反対する魏延との間に内訌が起き、
成都の宮廷の指示を得た楊儀が勝利した。

9、諸葛亮は、北伐に臨んで、
政治的な見地から
魏軍に対する決定的な勝利よりも
出撃自体に重点を置いた可能性がある。

 

 

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻
宮川尚志『諸葛孔明』
金文京『中国の歴史 04』
柿沼陽平『劉備と諸葛亮』
濱口重國『秦漢隋唐史の研究』上巻
石井仁「諸葛亮・北伐軍団の組織と編成について」
譚其驤『中国歴史地図集』各巻
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
湯浅邦弘『よみがえる中国の兵法』

 

【番外乱闘編】

サイト制作者の『三国志』関係のアレな物学び

大変恐縮ですが、
今回は、少々、
サイト制作者の自分語りを致します。

 

私が三国志に興味を持ったのは
小学生の頃でした。

親戚から貰った
数々の子供向けの本の中に
三国志演義の簡単な訳本が混じっており、
それに目を通したのが
始まりでした。

 

で、私自身、野球は観る癖に
運動があまり得意ではないこともあり、
孔明先生の神算鬼謀が
実に恰好良く思えまして。

 

ところが、
その神算鬼謀で他国を平らげて
天下統一で一件落着、と、思いきや、

確か、赤壁の戦いが終わった辺りから
ニュースのフラッシュのように
話がダイジェストされる展開になり、

そのオチたるや、
魏との戦いで陣没して話が終わるという
何だか御涙頂戴な結末になっており、

子供心に、
何だか納得出来ないものを感じたのを
覚えています。

今から思えば、
北伐について
アレコレ考えるようになった原点は、
この「不親切」な本であったような気がします。

さらには、

確か、解説の部分に、
孔明が陣没するシーンで
涙しない読者はいないとか書かれていまして、

確かに名場面だとは思いますが、

その文学的なラスト・シーンよりも、

そもそも、何故、
あの智謀で蜀が魏に勝てなかったのかの方が
どうも気になるクソガキでした。

当然、国語の成績なんか
良い訳がありません。

後、我が国の笑い話の
「嘘八百文、嘘の付き納め」も、
まさか、生ける仲達を追っ払った話が
元ネタではあるまいな。

そう言えば、
中学時代にやった
テレ東の『横山光輝 三国志』も
赤壁の戦いで終わっていまして、
(終了の理由は敢えて詮索しません。)

この戦いは、今にして思えば、
コンテンツの関係者にとっては
勧善懲悪で終わらせることが出来るという点では
最高の材料なのかもしれません。
『レッド・クリフ』とか。

そう言えば、最近知ったのですが、
毛〇東が出師の表に涙しない奴は不忠者だと
言い放ったそうな。自分の戦争を正当化ゴニョゴニョ。

向こうの文学では、
こういうのが常套句なのでしょう。

(序にと申しては不謹慎ですが、
文学の話に関連して、

武侠小説の先駆者で
開明的な政治記者でもあった金庸先生の
御冥福を御祈り申し上げます。)

 

―とはいえ、孔明先生との出会いが、
三国志への興味を掻き立てたことは
間違いありませんし、

儒教名士が王朝を創るモデルを示した
という点では、
この御仁こそ、真の主役かもしれません。

 

その後、少し経って、
今度は三国志演義の
もう少し対象年齢の高い本を
読む機会がありまして、

孔明先生の陣没後の
三国の三つ巴の争いの泥臭さや生臭さに
何ともリアリティが感じられて面白かった訳でして。

 

特に、司馬氏の王朝簒奪を契機とした
孫呉の介入戦争や滅亡の件が、
その三国志演義の本と後年読んだ通史とで
内容がそれ程変わらなかったことで、

今から思えば、

史書の内容をあまり脚色せずに
そのまま物語として扱ったことで、
却って説得力を感じたのだと思います。

 

もっとも、話がピーク・アウトしたことで
あるいは、書き手が手を抜いたのか、
史書を殆ど丸写しした部分なのかも
しれませんが。

 

さてその後、
さらに時代が下って余計な知恵が付き、
その副産物とでも言うのか、

王朝時代以降の中国の軍隊の
「兵匪一体」に象徴されるような
いい加減さと胡散臭さ、

そもそも、
そうした大元の体制を創り出した
中国の知識人の
頑迷さや胡散臭さ、

そして、武力を蔑視する癖に
暴力装置として利活用を企てるような
セコさといったようなことが、

社会構造上の欠陥から来るものだ
ということが
少しづつ分かって来ました。
(本当にロクなことを学ばないと思います。)

 

そして、挙句の果てには、
今から10年程前のことと記憶しますが、

気鋭の中国史の先生方による
三国志関係の市民講座を
拝聴する機会を得たことで、

(その講座のひとつでは、
董卓の政治について最新の研究を活用して再考するという
斬新なことをなさってまして、
これが何とも目からウロコな御説でした。)

 

学術の目線での
物学びの方法めいたものが
イロイロと垣間見えるようになりまして、

このような塩梅で
イロイロと学ぶうちに、

30年もの歳月を経て
一旦、自分の原点に回帰するとでも言いますか、

孔明先生の戦争について
自分なりにアレコレ考えてみようと
今回の作文を思い立った次第です。

カテゴリー: 経済・地理, 軍事, 軍制 | 6件のコメント

交通網から観る北伐 中編


今回も焼け太って長くなったので
章立てを付けます。

 

はじめに

1、曹真の反撃
1-1、武都失陥と反撃の画策
1-2、多くを語らない歴史の教科書
1-3、それでもオモシロい三国志

2、司馬仲達の登場
2-1 秦嶺への転戦前夜
2-2、仲達とは何者か

3、当時の地図を見てみよう
3-1、郡、治所の県とヒラの県の距離感
3-2、自己責任、手抜き地図の作り方?!
【追記】要注意!地図の取り扱い

4、歴史学と地理学の交差点
4-1 狩猟・放牧・開発
4-2、自然環境と役人のメンタリティ
4-3、古代中国の農学事始め?!

5、決戦前夜
5-1 蜀軍の隴西郡への進出
5-2 フロンティアの地名
5-3 動き出す両軍主力
5-4 仲達と張郃の思惑
5-5 古強者・張郃の半生
5-6 売れっ子張郃と将軍号
【追記】前後左右将軍について
5-7 古強者、張郃と魏延
5-8 今も昔も揉めまくるラインとスタッフ
5-9 総力戦と戦力の管理
5-10 1+1はプラス?マイナス?
5-11 全兵力を祁山へ
5-12 ヨコシマな仲達の孔明リサーチ
5-13 王朝簒奪の見本?!
【追記】曹叡と司馬仲達の横顔を垣間見る
5-14 知識人の「不純」な軍務とその理想像

6、会戦の行方
6-1、机上の鶴翼
6-2、麦はどちらが刈ったのか
6-3 上官を喰うタカ派も好き好き
6-4 祁山の死闘
【追記】鹵城は何処にある?
6-5 名将の迷采配
6-6 戦死こそ古強者の華?!

7 兵站と政争
7-1、兵を退いた理由は?
7-2 デキる孔明先生の憂鬱

おわりに

 

はじめに

前編から間が空き過ぎて大変恐縮です。

近日中と予告したものの、

書き始めると1週間も掛かり、
大変申し訳ありません。

そのうえ五丈原の話まで行かないと来ます。

 

1、曹真の反撃
1-1、武都失陥と反撃の画策

さて、
いよいよ、
諸葛孔明の北伐も佳境に入ります。
宿敵・司馬懿(仲達)との
対決と相成ります。

司馬仲達の登場の経緯は以下。

 

それまで長安方面の部隊を
指揮していた曹真が、

230年の夏に漢中に兵を進めて
長雨に見舞われて失敗しまして、

魏にとってなお悪いことに、
当人はどうもこれで心を病んで死去します。

孔明キラーの名将の
呆気ない最期であったと言えます。

 

余談ながら、
サイト制作者としては、

北伐に限っては、
司馬仲達よりも
遥かにマトモな仕事をしたと思います。

―そもそも、踏んだ場数が違うと言われれば
それまでですが。

 

この戦いは、
別の回で詳しく書こうと思いますが、
経緯は以下。

 

手始めに、
対呉戦線では合肥の新城
この歳の春に完成し、

揚州方面で長江を渡って
何度も攻めて来る孫権を黙らせて
後顧の憂いを断ったうえでの
蜀への反撃だったのですが、

夏に兵を出したのが
アダになりました。

 

これについて、
先の記事にも書きましたが、

秦嶺界隈の夏
当時も雨の降り方が雨季とでも
言うべき激しいものでして、

桟道が壊れるレベルの長雨は
230年の夏に限った話では
ありません。

 

その意味では、
サイト制作者としては、どうも、
古強者らしからぬ短慮に思えて仕方なく。

 

とはいえ、
柿沼陽平先生によれば、

大掛かりな出兵の準備には
数ヶ月の準備を見るべきのようで、

例えば、
曹真の蜀攻めの半年前である
230年の年頭と言えば、

蜀軍が武都郡を占領した時期
当たります。

 

あくまで仮定の話ですが、

武都郡の陥落で焦った曹真が、
なるだけ早い反撃を画策して
夏の出撃となったのかしら。

 

 

1-2、多くを語らない歴史の教科書

サイト制作者自身、
これについて、

先の記事の追記も含めて毎回書く内容が
コロコロ変わるのを
歯痒く思っております。

例によって見苦しい言い訳をしますと、

この228冬~231年夏の約2年半は、
三国の攻勢作戦が入り乱れて
情勢の変化が激しい時期でして、

加えて、
陳寿は事実を中心に事務的に書き
確度の低い枝葉の話を端折るそうで、

 

その結果、

そういう肝心なタイミングに限って、
特に、蜀・魏の当事者が
当時軍事面で何を考えていたのかが
あまり判然とせず、

サイト制作者としては
困ったものだと思います。

 

余談ながら、
文科省の検定を通った歴史の教科書が
読み物としてつまらないのは
こういうメンタリティに起因します。

陳寿のスタンスは
歴史書執筆の美学なのでしょうし、
現在の実証的な歴史学自体も
概ねそういうものです。

 

歴史の教科書は、
創作文学のような面白さはない反面、
(学会の定説をなぞっているので)
虚偽記載もほぼありませんが、

同時に、
プロの歴史研究者が
史料の検証を楽しむプロセスも
気持ち良い位に煮飛ばしています。

 

―ですが、
物事、例え、仮定の与太話でも、

いくつか突き合わせると
見えて来る真実もありまして、

その意味では重宝するものです。

 

 

1-3、それでもオモシロい三国志

それでも、
まあその、
味気ない作りの御用歴史書とはいえ、

時代のヤバさは元より、

それを時の政権のタブーと
巧く付き合いながら
事実を淡々と書ける陳寿の筆力や胆力、

時代的制約から或る程度解放されたことで
嬉々として脚注を付けまくる裴松之の遊び心、

―加えて、

(失礼ながら、
恐らくは詳しくなさそうな分野も含めて)
日本語のニュアンスでは
どうも訳しにくそうな言葉を
辛抱強く和訳された井波律子先生等、
日本の先生方の努力といった
当世一流の知識人の努力の賜物で、

サイト制作者のような
浅学で口の軽い門外漢も
正史の内容を楽しめる時代になりました。

 

 

2、司馬仲達の登場
2-1 秦嶺への転戦前夜

何だか、ヘンな話で腰を折って恐縮です。
話を戻します。

 

曹真が死去して
その後任に、かの司馬仲達が
魏軍の長安界隈の
謂わば方面軍司令官になった、

という御話でしたね。

 

さて、この御仁、

対蜀戦線に出張って来るまでは、
荊州方面で
呉と干戈を交えていまして。

恐らく、荊州方面の一連の防衛戦は、
この人の軍歴の始まりだと思います。

また、現地では戦績も良かったのですが、
この時の同僚が、
この後イロイロ絡みのある張郃。
今回の御話の主役です。

 

そして、仲達は、実は、
先述の230年夏の曹真の蜀侵攻の折にも
一隊を率いていまして、

漢水(長江支流)から遡って
魏興郡の西城を目指しておりました。

 

因みに、司馬仲達が
曹真の後任に抜擢されたのは
この戦いのすぐ後につき、

当時から肩書が変わっていなければ大将軍。
(今日で言うところの軍の制服組では
一番エラい肩書!後述します。)

 

2-2、仲達とは何者か

さてこの御仁、

生まれは河内郡の名家。

仲達も含めて8名いた兄弟は皆優秀で、
字に達が付くことで、
司馬の八達と呼ばれていたそうな。

 

また、若い時分から
曹操の出仕要請を蹴っ飛ばして睨まれ
一方で、曹丕の学友に抜擢されたりと
イロイロありまして、

毛並みの良さと類稀なる才気を売りに
順調に出世し、

この時期の曹魏において、

王佐の才を謳われながらも
非業の死を遂げた荀彧亡き後の、

陳羣と双璧をなす
儒教名士の筆頭格になっておりました。

 

こういう事情があってか、この時は、
曹叡は司馬仲達に非常な期待を寄せて
司令官に抜擢しまして、

結果としては、
蜀軍を撃退したという点では
起用はどうにか当たった訳ではありますが。

 

 

3、当時の地図を見てみよう
3-1、郡、治所の県とヒラの県の距離感

さて、ここで、
下記の地図を御覧ください。

譚其驤『中国歴史地図集 三国・西晋時期』、久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて」(上・下)、宮川尚志『諸葛孔明』、渡邊義浩『三国志 運命の十二大決戦』、金文京『中国の歴史 04』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』より作成。

 

一応、曹真・司馬懿の
進撃ルートを確認しておきましょう。

 

曹真率いる本隊は、
東から子午谷道・褒斜道および
恐らく関山道と思われる幹道を南下し、
(子午谷道の南側の起点は
西城より西という説も有。)

仲達の支隊は、
荊州から漢水に沿って西城を目指す、
という魏軍の経路。

 

御参考まで。

余談ながら、
趙雲が焼き落とした筈の褒斜道が
魏軍の進撃ルートになっています。

残念ながら、
この辺りの経緯は、
サイト制作者は分かりかねております。

 

次いで、地図自体について、
アレコレ書きます。

 

―まあその、
例によって、手書きの怪しい地図ですが、
以前のものよりも
或る程度、精度が上がっています。

特に、当該地域の県は、
出来るだけ省略せずに書きました。

 

と、言いますのは、
それもその筈。

 

殆どが、譚其驤先生
『中国歴史地図集 三国・西晋時期』の転写につき。

こういう事情につき、
交通関係の御話としては、

サイト制作者も描きながら学んだことですが、

当時のひとつの郡の広さ、
大型河川の流域と都市との関係、
郡の治所と郡内の各々の県の距離感、

―といった感覚を、
多少なりとも把握して頂ければ幸いです。

 

恐らくは、河川付近≒道や居住区域でして、
それ以外の部分は
山岳や森林が多かったものと想像します。

 

例えば、前回の記事でも触れましたが、

今以って、
漢中・長安を
3000メートル級の秦嶺山脈が
隔てておりますし、

現在の

天水郡や街亭の界隈も、
当時は森林地帯が多かったそうな。

 

3-2、自己責任、手抜き地図の作り方?!

さて、この元ネタについてですが、

色々調べた甲斐あってか、
やっとのことで
この歴史地図の存在にたどり着きまして、

最寄りの国立大学までデジカメで複写しに行ったのですが、

このサイトにバッチリ載っていまして。
ttp://www.ccamc.co/chinese_historical_map/index.php
(1文字目に「h」を補って下さい。)

この地図は本当にスグレモノでして、
特に、都市・河川の当時と現在の位置が
詳細に記されていることで、

サイト制作者には
色々な発見がありました。

 

それはともかく、
先のサイトさんから
スクリーン・ショットで複写して
書き込むことも考えましたが、

情報が多くなって
結果として見辛くなることを
避けようと思い、
面倒な手書きにした次第。
―悪しからずです。

 

 

 

【追記】要注意!地図の取り扱い

で、コレ、何が手間だったか、
と、言いますと、

まずは、漢字の扱いです。

むこうの簡字
それもかなり古語を含む地名を、

字引は元より
IMEパッド、グーグルの検索等を
総動員して
調べるのですが、

モノによっては
ニホン語の音読みすら
分からない、
まして字の意味も
想像が付かないものもありまして、
(判明すると、
驚く程簡単な意味であったりします!)

古語も含めて
語学が堪能な方が羨ましい
心底思う次第。

 

のみならず、
地理学の浅学に起因する苦労もありまして。

デジカメで撮ったことで、
しかもメルカトール図法の地図につき、

撮り方が悪くて
肝心な部分でブツ切になったり、
複写の微妙な手振れにより
本の上下で距離に誤差が出たり、

また、地図そのものの性格としても、

地球が丸いことで
各々の地点間の距離が
緯度・経度ごとに一定ではなかったり
します。

 

これも、ネットで調べて分かったことで、
この歳になって
目からウロコが落ちました。

 

これに因みまして、

昔、光栄(現コーエー・テクモHD)の
「大航海時代」シリーズを
制作したスタッフさん達も、

パラドックスの
ゲームのスタッフさん達も、

恐らく、
ゲームそのものに必要な蘊蓄よりも、

例えば、
夜襲や空爆等に影響する時差やら、

グリーンランドが大陸に見えるような
地図と実情の致命的な誤差の修正やら、

リアルタイムで
物事が細かく動く様を再現するための
システム作り
苦労されたのかなあと
思った次第。

 

―で、無い知恵絞って考えた結果、
どういう対策を
取ったかと言いますと、

この地図の長所に即して、

この地図に記された
現在の都市の位置と、

割合正確な距離が計測出来る
別の現在の地図の都市の位置とを照合し、
(ですが、これもメルカトール図法の地図!)

大体の目安を作った上で、
河川や県(都市)を配置するという手法で
描きました。

 

例えば、今回の場合、

長安付近の西安
陳倉付近の宝鶏の間は
東西で大体168キロ・・・

―という具合です。

 

あまり役に立たない
ノウハウかもしれませんが、
御参考まで。

【了】

 

 

4、歴史学と地理学の交差点
4-1 狩猟・放牧・開発

さて、モノの本、と言いますか、
市来弘志先生によれば、

譚其驤先生は歴史地理学の先生で、
(こういうこと書いてる時点で
サイト制作者は
隠しようのない素人門外漢なのですが)

1962年に
「後漢以降黄河長期安流説」
というものを唱えまして。

具体的には、以下。

 

後漢以降に遊牧民が
オルドスや黄土高原に進出して
農地が減少し牧草地になったことで
黄土高原の土壌侵食が緩和され、

その結果、
後漢から唐末までは
黄河の氾濫が少なかった、
という御説。

 

で、この説は、
賛否を問わず
色々な議論を引き起こしながらも
基本的には広く支持されているそうな。

これに因みまして、
農業や環境関係の話で少々脱線します。
悪しからず。

 

さて、古代中国の数百年ごとの
気候・環境の変化や
農耕関係の乱開発の悪影響は、

実は、各々の時代の史書にも
見え隠れしているそうな。

 

例えば、戦国時代辺りから
動員体制の整備と鉄製農具の普及により
耕地面積が激増し、

秦漢時代には塩害でダメになる耕地
少なからず出始める、という具合です。

 

一方で、特に北方には
未開拓の森林地帯が大分残っており、
戦国時代の燕の地域で
栗や棗が採れるのもこれに起因します。

この段階では、
農耕と狩猟のバランスは
まだ狩猟にも相応の比重があったそうな。

 

さらに、柿沼陽平先生によれば、
楚が呆気なく滅んだのは、

秦の早い進撃と各国の併合によって、

物品の輸出大国であった
楚の交易圏が消滅したことが
大きかったそうな。

 

参考までに、以下に、
過去に掲載した戦国時代の特産物マップ
再掲します。

柿沼陽平先生の『中国古代の貨幣』より作成。

余談ながら、本当は、
こういう怪しい図解を多くやりたいのですが、

何故か交通の話の筈が
エラい人の話にズレ込んでしまい
大変恐縮です。

それはともかく―、

 

 

4-2、自然環境と役人のメンタリティ

つまり、山林での狩猟は
立派な富であるにもかかわらず、

法家や儒家の官僚共は、

農耕こそが民の生業の在り方だ
といった観念を
領民に押し付け、
実情との齟齬も少なからず来す、という具合。

穿った見方をすれば、

自分達が国を治め易くするためとはいえ、
こういう愚民観を振り回し、
非定住の騎馬民族との戦争や懐柔の際に
辛酸を嘗める訳です。

無論、中には、
そうした多様性に理解のある
中央官僚や地方官
少なからずいますが。

例えば、三国志の時代で言えば
自分が北方出身の郭淮等がそうですし、

諸葛孔明の南中統治も
勝者の強権的な政策ではあるものの、

地方官の中間搾取や職務怠慢を認めず、
一方で、肝心な納税・兵役以外は
割合自由にやらせた手法も、

それ程反乱が起きなかったという点では
成功例と言えると思います。

 

この辺りの役人のメンタリティは、
港湾都市の廻船問屋を
戸籍では「農民」扱いにする日本にも
似たような臭いを感じます。

モータリゼーション化以前の戦前でさえ、

峠には、
所謂「サンカ」と呼ばれる人々は元より
ガチの犯罪者の山賊が出没したのです。

 

 

4-3、古代中国の農学事始め?!

―話を昔々のチューゴクに戻します。

また、気候の話としては、
例えば、三国志の時代の後漢なんか、
急に寒くなったことで、

作物の不作が続くやら、
北方民族
それまでの場所に住めなくなって
南下を始めるやらに直結し、

至るところで、
社会不安や
漢人・「異民族」間の縄張り争いを
助長することとなった模様。

 

その意味では、

孔明先生の北伐の際に
秦嶺界隈が
魏蜀の羌族の草刈り場になったのも、
偶然の産物ではなさそうな。

 

こういう話について、

サイト制作者としては、
後日、農業について、
反収や年間の作付け・収穫のサイクル、
農耕技術、農作物の換金や兵糧の調達・・・、

といった流れで
後漢・三国時代の農村・農家の風景を
復元すべく、
何かしら書こうと
考えてはいますが、

カクカクシカジカのアホさ加減で
北伐と交通の話で
泥沼に足を取られてもがいている状態につき、
いつになるかまるで目途が立たないので
毎度のことながら泣けて来るのですが、

無駄話だけでは申し訳ないことで、

予習の教科書ともいうべき参考文献を
一冊紹介しておきます。

 

原宗子先生
『環境から解く古代中国』
(大修館書店・あじあブックス)

 

定価2000円以下で
上記のような話を
かなり平易な言葉で
分かり易く説明する御本。

この時代の農耕に興味がある方には
一読を御勧め致します。

 

加えまして、
何冊か読んだ限りでは、

「あじあブックス」のシリーズ自体も
良書が多い印象を受けますが、

刊行のペースが鈍っているところを見ると
それ程売れていないのかしら。

―確かに、立ち読みの後で買ったのは、
某大都市の駅前の大型書店でしたが。

 

 

5、決戦前夜
5-1 蜀軍の隴西郡への進出

何だか、前置きが長くなりましたが、

最高指揮官の死去と後任の配属という
ドタバタした魏軍の人事をヨソに、

若しくはそれに付け込んでか、
蜀軍は先手を打って部隊を展開します。

 

まずは、230年中
具体的な時期は不明ですが、
羌中(現・卓尼界隈一体)に
魏延・呉懿(壱)の部隊を派遣します。

呉「壱(大門社長の「壹岐君~!」の壹)」と書くのは
実質的に晋の屋台骨を作った
司馬「懿」と名前が被るから
畏れ多い、というロジック。

とはいえ、
時の呉懿にしてみれば、

畏れ多いどころか
敵軍で一番首を刎ねてやりたい奴
でしょうから、

こういう書かれ方をするのは
心外だと思いますが。

 

―それはともかく、

そして、迎撃に出た魏軍・
雍州刺史・郭淮の部隊を
陽谿(位置不明)で撃破します。

 

 

5-2 フロンティアの地名

因みに、卓尼は地図中の冀県より、
大体西に200キロの地点。

この辺りの地域の事情として、

山岳地帯なのは元より
付近にほとんど県城がなく、

最寄りの県の臨洮県は、
東に50キロ程の地点にあるという具合。

そのうえ付近の地名も、
「羌」中(これは俗称のようですが)以外にも、

北に100キロ程の場所に
「狄」道県(現・臨洮県、紛らわしいこと!)
だとか、

さら北西に200キロの地点に行けば
破「羌」県(現・海東市付近)だとか、

何だか穏やかではない
フロンティア感丸出し
ウラジオストークな名前の県城が
チラホラ見え隠れします。

これも世相を反映しているのかしら。

 

5-3 動き出す両軍主力

さて、西に兵力を展開した蜀軍にとって
さらに有利な点としては、

この時期に
曹魏と揉めた鮮卑の軻比能が加勢し、
長安の北の北地郡に進出して来たことでした。

 

つまり、天水より西の方面では
羌族を勢力下に置き、

そのうえ長安近辺まで攻め込めば
鮮卑との挟撃も
視野に入れることが出来るという状況。

 

こうして方々で地均しを行った蜀軍は、

いよいよ、
諸葛丞相自らの出撃による
祁山攻撃に着手した次第。

武都郡が勢力下にあることで、
その目と鼻の先にある祁山までは
進出が容易だった訳です。

 

一方、これに対して、

さすがに、魏も魏で、

この方面の本隊とも言うべき
長安の部隊も出撃に踏み切ります。

無論、司馬仲達直々の御出馬です。

時に、231年2月のことでした。

 

 

5-4 仲達と張郃の思惑

さて、このような祁山界隈で
魏蜀両軍の主力同士の激突が必至という
物々しい状況下で、

北伐前編の記事の冒頭に
紹介しましたような、

作戦計画をめぐる
司馬仲達と張郃の意見の
食い違いがありまして。

 

その要点は、以下。

司馬仲達は兵力の集中を主張。

前衛の部隊が敗れた場合に
全軍が動揺することを
危惧してのことです。

 

対する張郃は、
後方にも兵を置くことを具申。

 

この時の張郃の意見には
細かい根拠は示されていませんが、

サイト制作者としては、
張郃や、彼と似たような思考をした
蜀の魏延の伝の中に、

張郃の軍事ドクトリンめいたものや
この時の兵力の分散を主張した根拠を
読み解くカギがあるように
思います。

 

 

5-5 古強者・張郃の半生

石井仁先生によれば、
張郃(字は儁艾)は
河間郡の張氏の家系の模様。

この河間張氏は、

劉邦の軍師として名高い
張子房こと張良の子孫を自称し、

後漢時代には司空・張敏や
文人の張超(張邈の弟とは別人)を輩出した
名家です。

 

朝廷の募兵に応じて
黄巾の討伐に加わったのが軍歴の始まりで、

董卓が任命した地方官のひとりである
冀州の韓馥の下で司馬
袁紹の下で校尉を務め、

公孫瓚との戦いで戦功を挙げ、
(寧国)中郎将―将軍の手前、に昇進します。

 

ところが、御存知の通り、
袁紹の対曹操戦の失策―烏巣防衛戦で
人生の歯車が狂いますが、
曹操に降伏後に道が開けます。

早速、偏将軍に取り立てられ、
その後の烏丸征伐で(平狄)将軍に昇進。

 

曹丕の代には左将軍に任命されます。
ここまで来ると、
上の位で威張っている常設将官は
20名程度。

 

5-6 売れっ子・張郃と将軍号

因みに、
以下は、武官のヒエラルキー。

サイト制作者はこの部分は不勉強
さわりの部分だけで恐縮ですが、

興味のある話でもありまして。

 

陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳 『正史 三国志』各巻、 渡邊義浩『知識ゼロからのCGで読む三国志の戦い』より作成。

 

で、アレ!左将軍がない?!

―そう、左将軍とは雑号将軍のひとつ。
前後左右ありまして。

【追記】前後左右将軍について

参考文献に四鎮・四征将軍以下は
雑号将軍とあったので
そのように書きましたが、

この前後左右の将軍号は、

前漢の武帝の戦争狂時代に
軍号バブルが発生する前から存在した
由緒あるものの模様。

さらに曹魏の時代も結構なランクでして、

故・森本淳先生の研究によれば、
九品中正の三品官に相当し、

この将軍号に任命された者に
行政能力があれば、

刺史を兼務する、
所謂「領兵刺史」や都督クラスの
職責を伴うそうな。

森本淳「曹魏における刺史と将軍」
『人文研紀要』(中央大学)第58号
大庭脩「前漢の将軍」
『東洋史研究』第26巻・第4号

【了】

 

また、曹操の時代には、

能力主義を標榜した割には
高級将校は曹氏・夏侯氏で
占められておりまして、

それ以外は1万以上の兵権は
任されませんでした。

また、後漢王朝の教訓もあって、
外戚の皆様も御断り。

 

ですが、時代が下って
政権の規模が大きくなり、

夏侯楙や曹休のように
ヘマをやって
キャリアに終止符を打つ身内も出たことで、

所謂外様―非血縁の方々が
頭角を現すような様相を

呈して来たのでしょう。

もっとも、
家柄が良く有能であれば
閨閥人事で王朝の宗族に取り込まれるので、

血縁・非血縁の境目は
実質的には曖昧な部分もあるのですが。

 

そして、そういう事情もあってか、

曹操配下の屈指の名将として
各地を転戦した張郃は、

街亭の戦いでは右将軍で、
陳倉の戦いの後、(征西)車騎将軍に昇進。

余談ながら、
街亭の戦いの時、上司の曹真は大将軍。

 

因みに、当時、
この人は魏軍では売れっ子でして、

秦嶺界隈で蜀軍を追い払ったら

その残敵(離反した天水界隈の太守等)
掃討後、
すぐに荊州に飛んで
孫呉と対峙し、
また有事の際には長安に呼び戻されるという
ハード・スケジュール。

 

 

5-7 古強者、張郃と魏延

さて、こういう華々しい戦歴を持つ
張郃ですが、

実は、対曹操戦に先立ち、
以下のような
興味深い具申をしておりまして。

 

曹操の兵は精強につき、

正面から事を構えるのを避けて
軽装の騎兵で敵陣の南方の連絡を遮断する、

―という内容です。

 

確かに、その後も、

曹操の漢中侵攻の先鋒を務めたり、
成都制圧直後で
足場の固っていない劉備支配下の巴に
大胆な運動戦を仕掛けたりと、

機動力にモノを言わせる用兵が得意
武将に見受けます。

 

こういうタイプの将官が
敢えて後方の守備を具申することが
何を意味するかと言えば、

後方の奇襲を警戒してのことに
他なりません。

 

後述するように
奇襲にもイロイロありまして、

何も、乾坤一擲の強襲だけが能ではなく、

ゲリラ戦で後方を攪乱したり
それを示唆する動きをして
敵軍の鋭鋒を乱すことも
十分効果のある戦法です。

 

そして、
似たような冒険屋の敵将・魏延。

この人は、
先の記事にも書きましたように、

北伐開始の出端に、

自らの出撃による
5000の騎兵での
長安への奇襲を提言した猛者。

孔明の出撃の度に、
別動隊の指揮を具申したそうな。

 

特技としては、
勇猛で士卒の訓練に定評があり、

人物の鑑定に長けた劉備が、
張飛を差し置いて
対曹操の漢中防衛の守将に抜擢した程の
将官です。

 

ただ、管理する参謀本部の側としては、

損害を顧みない博奕的な用兵をすることで
物動計画の点では
極めて扱いにくいタイプの将官なのでしょう。

 

実際、奇襲を却下されて
孔明を臆病だと罵り、

参軍、そして230年以降は
丞相長史として
前線で兵站管理に辣腕を振るった
楊儀と揉めます。

 

確かに、楊儀も魏延も、
孔明亡き後の行いをみれば
器量が大きい訳でもなく、

そもそも、当の孔明先生自身、
限られた人的資源の中で
能力偏重の人事をやったものですから、
さあ大変。

 

これ自体、
有事には必要な措置とはいえ、

この両者以外にも、
野心家の李厳、
酒乱の劉琰(北伐時は車騎将軍!)、
口八丁手八丁の馬謖、
傲慢な鄧芝、

―という具合に、政権中枢に面倒な人が多く、

肝心な場面で
その人間的な脆さを露呈して
抜き差しならぬ問題を起こしたことも
否定出来ない事実です。

 

5-8 今も昔も揉めまくるラインとスタッフ

しかしながら、
魏延と楊儀の確執については、

人格的な話というよりは
軍隊の構造上の問題に起因する部分
大きいように思います。

具体的に言えば、

兵站を管理する側にとって
博奕的な作戦を具申する将官なんぞ
疫病神以外の何者でもありません。

 

違う時代の話をすれば、

例えば、
ナポレオン時代のフランスの
参謀総長のベルティエは、
あの膨大な規模のフランス軍の兵站を
一身に引き受け、
過労で自殺しました。

これがフランス軍の死命を制した
とも言われます。

 

少し時代が下りますと、

WWⅡの機動戦の名手である
ロンメルやグデーリアンと
兵站に負荷が掛かり過ぎて
頭を痛める参謀本部との柵もそうですし、

我が国でも、
太平洋戦争時の軍令部と海軍省の
燃料をめぐる遣り取りがありまして、

組織の面子にこだわって
ナケナシの燃料で
無用の長物の巨艦を動かす作戦を発動する、
という具合に、

いずれの案件も、
当事者にとっては何とも胃の痛い話です。

 

 

5-9 総力戦と戦力の管理

で、蜀の場合は、
その戦闘部署と兵站部署の対立を収拾したのが
実質上の国家元首である諸葛孔明ですが、

立場としては、
兵站部署寄りのモノの考え方と言えます。

魏の場合は、国家の戦力の
各戦線への配分といった
大局的な判断は
鄴の宮廷の仕事なのでしょうが、

長安の方面軍の動きとしては、

文官上がりの司令官の思考パターンが
用兵に色濃く反映されているように
見受けます。

 

つまり、
司馬仲達も孔明も楊儀も、
戦争を政治家・軍政家の立場から
管理しようとした訳です。

 

数字による戦力の把握と
作戦計画の立案・実行は、

目論んだこと以上の成功も
想定外の失敗も
少ないものの、

戦力に劣る側としては
ジリ貧を待つだけです。

 

余談ながら、

19世紀以降の国民国家時代の軍隊で
あれだけ参謀本部が重宝されたのは、

銃後の体制が整い
軍隊組織が急激に膨張したことで、

その管理・運用の正確さが
兵器の質や個々の将官の用兵以上に
戦力の増強に貢献したからでしょう。

 

極端な例えで
恐らく戦中の実話だと思いますが、

例え、目の前で、
敵機の爆撃で本土が焦土を化そうが、

その空襲の前に
その月に割り当てられた燃料を
使い切っていれば、
迎撃機を上げることが出来ないのが
物動計画の非情な本質です。

 

 

5-10 1+1はプラス?マイナス?

ですが、
この時代の人間の列伝に
目を通す限りでは、

恐らくは、

何処かの国の戦時内閣の首相が
1+1は70だとか宣ったように、

前線には前線の
中々数字には表しにくい
流儀というものも
ありまして。

 

―例えば、

今日中に
100キロ先の敵を
味方1名で10名殺せ、
というような極端に無謀な話はともかく、
(これに近い成功例もあるのが恐ろしいところですが)

時には、
不誠実な指揮官に
梅林が近くにあると言われて
一次的に疲れが取れたり、

守備力を度外視した
イカレた布陣で
激流を背にして馬鹿力を発揮したり、

そうかと言えば、
深酒や寝込みの時に襲われれば
人数分の働きが
サッパリ出来なかったりと、

 

軍隊の戦力は
人間の心理の変化に連動して
生物・水物な部分が多いのも見逃せない現実です。

 

そして、数多の兵書は、
相手にそういう隙を
少しでも多く作らせるべく
さまざまなコツを説き、

現場で指揮を執る将校も、
それを必死になって学びます。

 

 

5-11 全兵力を祁山へ

―ですが、
例え兵糧その他の物資を浪費してでも
臨機応変に動き回って
相手を弱らせるという発想は、

孔明や楊儀のようなタイプの将官には、

兵書で字面は理解出来ても、
具体的な用兵に落とし込むという段階には
至ってはいなかったようです。

 

結果として、蜀の別働部隊は
魏領の後方には現れず、
孔明は魏延を本隊の手駒として
使いましたが、

魏延が孔明を臆病と罵ったように、

張郃にしてみれば、

仲達はヘタを打ったが
孔明がそれ以上のナマクラ用兵で助かった、

―決戦主義に固執して柔軟性を欠いた、

と、言ったところでしょう。

 

先述の烏巣の戦いでは
曹操は自ら殴り込みを掛けましたし、

剣閣で膠着した最後の蜀攻めも、
鄧艾の捨て身の奇襲なくしては
成都攻略は在り得ませんでした。

 

無論、万事、計画にあたって、
戦力を数字で把握することは
必要不可欠ですが、

そうやって苦労して工面された戦力を
運用する側にも、
工面する側とは別の次元の思考領域が
存在するということなのでしょう。

 

当時の名将の用兵ですら、

戦争の勝利の裏には、

数字とは別の次元の

戦場特有の臨機応変の対応や
無謀と表裏一体の蛮勇
必要となる局面が
少なからずありました。

 

 

5-12 ヨコシマな仲達の孔明リサーチ

ただ、司馬仲達の兵力集中にも、
言い分が無いといえば
ウソになるかもしれません。

 

と、言いますのは、

諸葛孔明との対決に当たって、

元同僚の黄権から
その人となりや実績等を
聞き出していまして、

この人に
かなり強い興味を持ったものの、

謀り事は多いが決断力がない、
という評を下しました。

投降者とはいえ、
黄権は慎ましい人格者で、
魏でも人気のあった人です。

 

ところで、司馬仲達は、
この黄権との数多の面談の中で、

孔明の慎重な用兵を看破
―後方への奇襲はない、

と、読んだのであれば、
相当なものだと思いますが、

後述するように、

軍内の意見を纏め切れずに
支離滅裂な指揮を行ったことで、

サイト制作者としては、

この人も、孔明先生と同様に、
古強者になめられるような
頑迷な用兵に終始したように思えて
なりません。

 

 

5-13 王朝簒奪の見本?!

余談ながら、

司馬仲達が孔明に興味を持ち
その死後に最高の賛辞を以って褒めたのは、

サイト制作者としては、
本心で師と仰ぐ程のものであったと
想像(妄想)します。

 

―同じ、文官から身を起こした者同士、

そして、何より、

有事を理由に兵権を握って
事実上、既存の王朝を簒奪した
儒教名士の先駆として。

 

さらに、直接対決の時は、
相手は実質的な国家元首として
最前線に出張って来ており、

それを迎え撃つのが、

謂わば格下である、
方面軍司令官の自分。

 

5-14 知識人の「不純」な軍務とその理想像

ですが、見方を変えれば、

この戦いを巧く凌いで
その後の政争に勝てば、
眼前の諸葛亮のような立ち位置で
政治に軍事に辣腕を振るえる訳です。

 

そして、その眩い姿は、

司馬仲達のみならず、
その後、長きにわたって、
軍務にコンプレックスを持つ
中国人の知識人の本懐となりました。

今の中共とて、
国家主席は兵権は意地でも手放しません。
手放したら、手にした相手に殺されるからです。

歴史は繰り返す・・・。

で、そうした野心の反面教師であり、
屈折した思考のもうひとつの理想像が、
常山の趙子龍。

 

 

【追記】曹叡と司馬仲達の横顔を垣間見る

筆の勢いに任せて
ヘンなことまで書いてしまったので、
ここで少し、頭を冷やします。

さて、近年(ここ20年位)の研究によれば、

北伐の段階では司馬仲達は
王朝簒奪の意図を持っていたとは
言えなかった模様。

—と、言いますのは、
正史で悪く書かれた曹叡についての研究の進展
目覚ましかったことで、

彼の目指した現実に即した穏当な国家像
かなり鮮明になり、

その過程で司馬仲達との良好な関係
或る程度分かって来たようでして。

 

逆に言えば、
曹叡の政策が本人の短命が祟って
曹爽の時代に大筋が少なからず腰砕けになり、
(文化的な時代の潮流も影響しているのですが)

その中で、例えば、
洛陽の都市計画のように
割合巧くいったものもあれば、
教育機関の整備のように頓挫したものもある、
という具合。

その意味では
恐らくはクソ真面目な儒教名士の司馬仲達も、

補佐に足る英明な主君を相次いで失うという
時代の被害者という側面が
あるのかもしれませんし、

彼をして簒奪に向かわせた
時代の空気
—文化的な多様化・自由化が現実の政策を狂わせる、
といった要因も
考えたいものでして、

後日、そうした話について、

適当なタイミングで
論文のまとめや紹介が出来ればと思います。

 

【了】

 

しかしながら、例えば、
斜陽にあるイギリスの国力と軍事力を過信せず
捨て身の外交でナチに立ち向かった
ウィンストン・チャーチルは、

恐らく、自分の戦下手を
自覚していたのでしょう、

断末魔のヒトラーが
数多の閣僚を兼任して陣頭指揮を執る様を
嘲笑ったそうな。

もっとも、この人も、

終戦直前の選挙で落ちるという、

戦勝国の政治家としては
かなり情けないバッド・エンディングが
待っているのが
笑えるところで、

この人らしいと言えば
そうなのですが。

その意味では、

曲りなりにも
選挙のうえで終身の国家元首であった
ヒトラーを笑う資格があるのかどうか、

サイト制作者としては
判断が付きかねますが、

本筋とは関係のない
無駄話につき、
ヘタな冗談として御容赦下さい。

 

 

とはいえ、先述のように、
前線では裁量も度胸も機転も必要でして、

そういう人間を起用するには
責任者も心中する覚悟が必要になります。

当の諸葛亮とて、
自分の軍才の欠如にはとうに気付いており
嘆いていたそうですが、

 

宮川尚志先生によれば、

魏延では役不足で、
魏の張郃に匹敵するような
大規模な遊撃部隊を任せられる将官が
いなかった、と、言います。

馬謖に一軍を与えて懲りたか、

強いて言えば、王平に囮を任せたことか。

この御説には成程と思いますが、

一方では、
魏では、その張郃すら買い殺す始末で、
どうも釈然としない部分もあるにはあります。

人間社会おいて
人に重要な仕事を任せることの難しさ。

 

 

6、会戦の行方
6-1、机上の鶴翼

さて、ここで、

これまで長々と書き綴った
決戦前夜の状況について、
一応図解します。

譚其驤『中国歴史地図集 三国・西晋時期』、久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて」(上・下)、宮川尚志『諸葛孔明』、渡邊義浩『三国志 運命の十二大決戦』、金文京『中国の歴史 04』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』より作成。

 

一見、蜀軍が魏軍を包み込んで
有利に見える勢力図で、

こういう外交で段取を整えるところは
孔明先生らしいのですが、

事はそう簡単ではありません。

と、言いますのは、
総兵力では魏は蜀の倍。

柿沼陽平先生によれば、
蜀の外征の動員兵力は、

当時の人口から弾き出すと
大体数万から10万だそうな。

(ちゃんと定価で買って読んだので、
 取り敢えず「陽平、単位ほしい」などと。
 『劉備と諸葛亮』p51)

それも、
魏呉に比して
国力に対する負荷が強い
強固な戦時体制での数字。

そのうえ、その2割は、
常に交代制で休暇を取っています。

対するは、
20万以上の兵力を動員
事に当たります。

当時の守る側に有利な
戦争の事情を考慮すれば、

蜀にとっては、
是が非でも
兵力差がひっくり返り易い野戦に
魏を引き摺り出す必要がありました。

 

また、一方で、
祁山から
鮮卑族の軻比能の軍の駐屯する北地郡までは
300キロ以上の距離がありまして、

蜀軍が祁山を抜かない限りは、
軻比能との連携は空手形となります。

 

 

6-2、麦はどちらが刈ったのか

斯くして、
魏蜀両軍の主力が祁山界隈に出張り、
実際に干戈を交えることとなります。

 

譚其驤『中国歴史地図集』、柿沼陽平『劉備と諸葛亮』、宮川尚志『諸葛孔明』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』(順不同・敬称略)より作成。

 

まず、先制攻撃は蜀軍。
賈嗣・魏平の守る祁山を包囲します。

対する魏軍は、

費曜・戴陵が4000の精兵で
祁山より北東、
つまり魏軍にとっての後方に当たる
上邽を守備し、

司馬仲達の本隊―張郃・郭淮等は、
祁山の包囲軍を退けます。

この時、仲達の主力部隊は、
大別して、
仲達の本隊と張郃の支隊
別れていたようで、

 

蜀軍は、
祁山では王平を張郃の部隊に当て、

孔明の本隊は上邽方面に転進し、

仲達の本隊の先鋒である郭淮
上邽から出撃して来た費曜の部隊を
撃破します。

 

そのうえで、上邽で敵前で麦を刈って
魏軍を挑発するのですが、

おもしろいことに、

柿沼陽平先生によれば、
蜀贔屓の習鑿歯の『漢晋春秋』では
蜀軍は上邽で麦を刈ったといい、

『魏書』や『晋書』では、
麦を刈れなかった、と、
あるそうな。

『晋書』に至っては、
夜陰に紛れて撤退した蜀を追撃
1万以上の首級を得た、ですと。

 

ですが、この後、
魏の賈嗣・魏平、張郃といった好戦派が
仲達を突き上げていることで、

サイト制作者としては、
諸々の先生方が書かれたように
蜀軍が刈ったと考える方が
しっくり来ます。

 

6-3 上官を喰うタカ派も好き好き

ともあれ、
上邽で敗れた魏軍は軍を退きます。
追撃した蜀軍は鹵城に入ります。

残念ながら地図にはないのですが、
鹵城県は後漢時代に廃された県で、

木門の西北
大体西県のあたりに位置します。

 

 

【追記】鹵城は何処にある?

 

この辺りの位置関係の説明については、

文献によって
重要拠点の位置関係が異なるので
困ったものです。

詳細な地図は
目下作成中で、
後日掲載します。

譚其驤『中国歴史地図集』、柿沼陽平『劉備と諸葛亮』、宮川尚志『諸葛孔明』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』(順不同・敬称略)より作成。

 

―この怪しい地図が当該のものですが、

ほとんど、譚其驤先生と柿沼陽平先生の
御本に掲載された地図の模写です。

なお、右側は、所謂、祁山と呼ばれる孤山の砦。
現地に足を運ばれた
柿沼先生によれば、

砦の両側には険しい山がそびえ、

それを貫通する道を
この砦が居座って通せんぼしており、
これが祁山堡。

さらに、祁山堡の南東の山の尾根の先端
「観陣堡」という砦があり、

両者を隔てること約1.5キロ。

 

当時の曹魏では、
対呉戦線の襄陽・合肥(新城か?)と並ぶ
屈指の防衛拠点であったそうな。

なお、略図につき、
詳細なものを観たいという方は、

前者はネットで、

懐事情が苦しい方は、
後者は本屋で立ち読みで
現物を御覧頂ければ幸いです。

 

さて、拠点の位置について困ったもの、

―と、言いますのは、

記事を書き終わった後に
気付いたのも愚かな話ですが、

譚其驤先生の『中国歴史地図集』
三国時代のものと
宮川尚志先生の『諸葛孔明』
当該の地図を見比べると、

祁山界隈の
祁山・北門・鹵城といった
重要拠点が異なっておりまして、

篠田耕一先生の『三国志軍事ガイド』は
『中国歴史地図集』に準拠。

 

そこで、サイト制作者としては、

無い知恵絞って色々と考えた挙句、
譚其驤先生のものを基準にしよう
思います。

 

理由としては、

宮川尚志先生の地図は
現在の地名も混じっており、

しかも、その現在の地名というのも、
当時と同じ地名でも
位置や網羅する範囲が
時代ごとに異なるという
面倒なケースもあることで、

これを内包しているリスクを
避けるためです。

 

加えて、
正史の内容と位置関係を照合すると、
譚其驤先生の地図の方が
辻褄が合いそうな印象を受けまして、

苦渋の決断をしました。

 

ただ、興味深い点は、宮川先生によれば、

サイト制作者にとっては
特定の難しい鹵城の位置を
「天水市と伏羌県の間」
としておりまして、

サイト制作者の作成した
パクリ地図上では、
冀県と西県の間辺りに位置します。

篠田耕一先生の『三国志軍事ガイド』
大体この見立てで、
加えて、渭水の南岸としています。

『水経注』か何かの文献に
記載があるのかもしれません。

 

因みに、「伏羌県」とは、
冀県唐代の呼称。

また、宮川先生が『諸葛孔明』の
改訂版を御書きになるにあたって
参考にされたと思われる
1960年代の「天水市」は、

祁山と冀・上邽の両県を含む
三国時代の天水郡に相当する
広域的な地域でして、
現在もこれと変わらないと思います。

 

したがって、
少し考えまして、
当時天水市内の中心であった
秦州区やその前身の天水区辺りを想定し、

現在の秦州区と冀県の間と睨んだところ、

篠田耕一先生の『三国志軍事ガイド』と
大体同じ位置であったことで、

多分これで間違い無かろう、と。

 

学会の権威のような博学な先生をして
このような次第で、
80年代に刊行された『中国歴史地図集』が
どれ程重宝するものであったか
思い知った次第。

 

恐らく、日本語の中国の歴史地図には
このレベルのものは無いことで、

日本の出版社も、
三国志関係の文献の刊行と並行して
こういうものも和訳して売るべきだと
思います。

 

余談ながら、

「鹵城県」という地名は
山西省にもありまして、

こちらも何の偶然か
後漢時代に廃された模様。

 

何分、兵乱が長期化して
住民の逃散が激しかった時代のことです。

当時の県城は、街と同義ですが、

この時代に県が廃止される経緯として
考えられるのは、

悪い部類では、

あくまでサイト制作者の想像(妄想)ですが、
以下のようなパターンでは
ないでしょうか。

 

まずは、
住民の逃亡や餓死が甚だしく
県としての態をなさなかったか、

あるいは、
盗賊や「異民族」の類と干戈を交えて
落城の憂き目を見たかで、

防御施設だけが残る、
謂わばゴースト・タウンの状態であったの
かもしれません。

 

で、空き巣になった城を
盗賊の類の武装集団が占拠して
梁山泊を気取っていたところ、

いつの間にか
帝国同士の主戦場になり、
寝床が欲しい正規軍に叩き出された、と。

―あくまで、想像の話ですが、
何とも夢のある話ですね、などと。

 

因みに、諸葛先生が仕官早々に
劉備に軍拡を説いた際、

戸籍に載っていない人間は数多いるので
こういう逃亡した者を兵士として組み込め
言いました。

ですが、バックレた人は、
大体は、豪族の巣窟である塢(武装村)に
逃げ込むことで、

こういう豪族連中を手懐けて
兵力を確保せよ、
という話なのかもしれません。

 

斯く言う孔明先生も、20代後半で、
襄陽界隈の豪族のシンジゲート団を債権者とする
劉備の軍のハイリスク・ハイリターンな借款の連帯保証人になりました。

 

【了】

 

 

 

蜀軍が魏軍を追撃し
上邽から鹵城に軍を進めたということは、
魏軍は祁山の天険を頼んだのでしょう。

守りを固めて持久戦の構えを見せます。

 

しかしながら、魏の軍中では、
先述のようにタカ派の将が
司馬仲達を突き上げるので
面白いものです。

 

祁山で包囲を受けた賈嗣・魏平は、
蜀を虎のように怖れているので
天下の笑い物だ、と蔑みますが、

さすがに張郃の場合は
同じタカ派でも
かなり冷めていました。

これが、何とも興味深い情勢判断でして、
以下のように言います。

 

祁山界隈の治安は安定しているので、
奇襲部隊を編制して
敵の後方を攪乱すべきだ。

敵と対峙しながら何もせずに
領民の支持を失うべきではない。

敵は孤軍で食糧も乏しく、
そのうち退却するであろう。

―と。

 

蜀軍の食糧不足を看破し、

既に、勝利を見据えた攻勢、
それも馬鹿正直な正面攻撃ではなく、

退路を断つように見せ掛けて
動揺を与えろと説く訳です。

陳倉の時と同じことを説き、
また後方への奇襲
この人の御家芸。

敵の倍の兵力を擁しながら
緒戦で敗れたことでケツをまくる
仲達と違い、

戦争というものを
戦後処理も含めて
広い視野で捉えることが出来る
宿将の慧眼。

 

6-4 祁山の死闘

ですが、戦歴の浅い仲達にとっては、

張郃も、賈嗣・魏平も、
恐らくそれ以外にも
数多いたであろうタカ派など、

総じて決戦を急ぐうるさい奴にしか
見えなかったのでしょう。

 

結局は、

張郃を王平に当て、
自らの本隊は
孔明の本隊と正面から事を構えます。

 

西陵の戦いでの陸抗がそうでしたが、

こういう時の最高指揮官の心理としては、
まずは部下の言い分を認めて
ガス抜きをするようでして。

もっとも、勝てばそれで良し。

時に、231年5月のことです。

 

―ですが、結果は無残なものでした。

王平は張郃の攻撃を凌ぎ切り、
仲達の本隊は、
孔明指揮下の魏延・高翔・呉班等に
散々に打ち破られます。

一説には、
蜀軍の騎兵の優秀な装備が
効果的であったと言います。

 

蜀軍の発表によれば、

3000の首級、
5000の黒光鎧、
3100の弩を鹵獲。

何とも夥しい損失。

まして、負傷兵の数など、
飛んだ生首の数倍に登るでしょう。

 

―しかしながら、
一度の大会戦の敗戦ではビクともしないのが、
20万の大軍です。

果たして、
仲達は敗軍をまとめて
再度守勢を取り、

張郃が睨んだ通り、
程なくして蜀軍は撤退します。

原因は、やはり食糧不足。

会戦の翌月
231年6月のことでした。

 

 

6-5 名将の迷采配

ところが、魏軍の失態は、
これに止まりません。

撤退する蜀軍に対して
仲達が追撃を行うと言い出し、

一方の張郃は、

こういう時は、
戦争の常識として
相手も守りを固めているから無駄だと
中止を主張しますが、

先の決戦では
言うことを聞いてやったからと
言わんばかりに
強襲を敢行します。

 

―ですが、こういう目先の戦いなど、
当然ながら、叩き上げの軍人の方が
余程事情が良く分かっている訳で、

祁山南東の木門(山)にて
待ち伏せを受けて逆襲され、

当の張郃も膝に矢を受けて戦死します。

 

これに因みまして、

余談ながら、
日中戦争で日本軍が長沙を攻めた際、

戦いもたけなわになると、
国民党軍が
それまでになく激しい
砲撃や応射を始めまして、

何事かと思えば、
国民党軍はその日の夜に、
夜陰に乗じて撤退を始めまして、

面白いことに
日本側も数々の戦いで
それを熟知しており、
速やかに追撃戦を開始しました。

現場の空気なんぞ、
恐らくはこういうものと想像します。

—実は、孫子の兵書も、
「兵は詭道なり」の原則から
退却の時程派手に攻勢をチラ付かせろと
説くのですが、

こういうことを何回も繰り返していれば
相手も自ずと慣れる訳でして。

 

 

 

昔、兵糧集積地の烏巣が襲撃を受けた際、

郭図が曹操の本陣の強襲したのに対して
張郃が烏巣の防衛を主張したのも、

何度も現場で干戈を交えた相手につき、

何も、難しい戦略的な話ではなく、
現場の習慣的な感覚で
或る程度出方が分かっていたからだと
想像します。

 

 

6-6 戦死こそ古強者の華?!

さて、一連の北伐の戦いでは、
30万以上の将兵が干戈を交えた訳ですが、

雑号将軍を超える将軍号を持った
数多の高級将官の中で、

並外れた戦績を上げながら
敵軍の手に掛かって戦死したのは、
この張郃位のものです。

 

これはサイト制作者の想像と言いますか、
むしろ妄想の類ですが、

張郃は余程敵兵と近い位置で
偵察や強襲等を行っていたのでしょうし、

日頃の正確な状況判断も、
こういう捨て身の行動の賜物だと
拝察します。

 

以前の記事で、
この時代までは高級将官にも

一騎当千のメンタリティが残っていた、

と書いたのは、

まさに、黄巾の乱や地方官同士の
小競り合いの時代からの
叩き上げのこの人の存在があったからです。

 

また、これに近い例を挙げれば、

都督の身でありながら
僅か400の兵で逆茂木の修繕に出て
戦死した夏侯淵も、
得意な戦法は機動力を活かした奇襲。

 

曹操は夏侯淵の死に際して、
逆茂木の修繕等都督のやることか
嘆いたそうですが、

彼等が潜った修羅場が、

自分の流儀を簡単に変えられる程
生易しいものではなかったことの証左
言えましょうか。

 

7 兵站と政争
7-1、兵を退いた理由は?

さて、一方の撤退した蜀軍、
こちらの事情もキナ臭いものでした。

撤退の経緯は、
後方で兵站を担当する李厳
(この時は李平に改名)
輸送の目途が立たないことで
全軍撤退を具申します。

 

で、前線の孔明先生も、
それを是とし、
撤退するのですが、

南鄭まで戻って来ると、

どういう訳か、

李厳に何故兵を退いたのかと
詰問される始末。

何ともキツネに摘ままれたような
脈絡のアヤフヤな話。

 

―ええ、要は、
李厳が仕掛けた政争です。

 

7-2 デキる孔明先生の憂鬱

ところが、
仕事の方は孔明先生の方が
一枚上手でして、

几帳面に保存していた事務書類を
一から調べ直すと
李厳の計略が発覚し、

当然ながら
この人は解任されます。

この李厳は荊州の名士ですが、
以前から江州に隠然たる地盤を持ち
孔明の命令を無視して
揉めていたのですが、

この暗闘に白黒が付きました。

 

ですが、ここで注意したいのは、

弱い兵站が政争の具になったとはいえ、
恐らくは李厳の手落ちで
輸送が滞った訳ではない点です。

 

諸葛孔明のような、

些細な仕事まで自分で差配して
物品の保存記録は全て目を通すような人が
部下の手抜きで
兵糧輸送が滞るのを見抜けなかった、

というのも不思議な話で、

李厳の具申そのものには
過失を認めず
素直に撤退を可としています。

―まあその、この人は、
こういうことをやっていたから
パフォーマンスが良かった反面、
身を縮めたのですが。

 

ですが、何故か、
自分が撤退のトリガーを引いたことに
なっており、

事の次第を調べますと、
李厳による自分の失脚の画策
明らかになったという、
何とも御粗末な御話。

 

ただ、こういういびつな形で
優秀な幹部をひとり失うのは
人材不足の蜀にとっては痛手に他ならず、

何より、
中央志向の荊州出身の人士から
北伐への反対とも取れる
動きがあったことで、

孔明先生の心中を察するに
余りあると言いますか。

 

さらに悪いことに、

ここで派手な大立ち回りをやったことで、
曹魏の方も完全に警戒して
防御を固めてしまい、

蜀漢としては
折角、武都に橋頭保を持ったものの、

孔明先生の存命中は
この方面からの攻勢は
凍結されることと相成りました。

 

 

おわりに

本当に恐縮ですが、
この怠慢な北伐、次回にも引っ張ります。

―いえ、
怠慢なのは、孔明や仲達以上に、
遅筆で纏まりのない駄文を書く
サイト制作者なのですが。

最後に、例によって、
話の大筋をまとめますと、

大体は以下のようになります。

 

1、恐らくは、武都郡の失陥により、
曹真は230年の夏に
南鄭方面に反撃を仕掛けた。

ただし、長雨で桟道が壊れて
失敗に終わった。

 

2、この攻勢で一隊を率いた司馬仲達は、
程なくして死去した曹真の後任となった。

 

3、古代中国において、
史書は環境の変化についても
少なからず語っていた。

 

4、後漢・三国時代は寒冷期に当たり、
作物の不作や
騎馬民族の生計破壊等を引き起こして
社会不安を増長した。

 

5、蜀軍は曹真の反撃を受けた230年に
隴西郡に兵を出し、
迎撃に出た雍州刺史・郭淮の軍を破った。

 

6、同時に、鮮卑の軻比能とも連携し、
軻比能は長安の北の北地郡に駐屯していた。

 

7、司馬仲達は、蜀からの投降者である黄権から
諸葛孔明の人となりに強い興味を示した。

諸葛孔明の生き様は、
後世の知識人の理想像のひとつとなった。

 

8、魏蜀両軍の主力は祁山界隈に進出したが、
後方の奇襲を警戒する張郃の具申を
司馬仲達は却下した。

 

9、両軍の祁山界隈での対峙と小競り合いの後、
旗色の良くない魏軍は守勢に回った。

10、張郃は蜀軍の撤退を見越して
攻撃ではなく攻勢を掛けるように具申した。

しかし、好戦派の将の突き上げが強く、
司馬仲達は決戦に踏み切った。

 

11、決戦の結果、魏軍は大敗し、
数多の戦死者を出し、
物資を鹵獲されることとなった。

 

12、蜀軍はその後間もなく
食糧不足で撤退を開始したが、

司馬仲達は無理な追撃を敢行し、
中止を具申した張郃は攻撃を行うも、
待ち伏せを受けて戦死した。

 

13、蜀軍の後方で兵站を担う李厳は
輸送能力の限界から撤退を具申し、
孔明もそれに従った。

 

14、しかしながら、孔明の帰還後に
撤退の責任を追及し、

事の経緯の調査後に
李厳の孔明失脚を目論んだ計略が発覚した。

 

 

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻
宮川尚志『諸葛孔明』
金文京『中国の歴史 04』
柿沼陽平『劉備と諸葛亮』
「戦国時代における楚の都市と経済」
石井仁『曹操』
「六朝都督制研究の現状と課題」
窪添慶文編『魏晋南北朝史のいま』
原宗子『環境から解く古代中国』
譚其驤『中国歴史地図集』各巻
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
山口正晃「曹魏および西晋における都督と将軍」
渡邊義浩『知識ゼロからの
CGで読む三国志の戦い』
井波律子『三国志演義』
佐々木春隆『長沙作戦』
大井篤『海上護衛戦』

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