今回も1万字余に膨張。
無駄なことも随分書いてしまいました。
例によって、章立てを付けます。
未熟な構成で本当に恐縮です。
願わくば、
適当にスクロールなさって
興味のある部分だけでも御覧頂ければ幸いです。
因みに、あるサイトによれば、
日本人は平均で
1分間に500字から1000字程度読むそうで、
御参考まで。
はじめに
1 劉表赴任時の荊州
2 長江中流域は「原住民」の戦場?!
2-1 「異民族」のパターン
2-2 板楯蛮と王平
2-3 色々とキナ臭い街亭の戦い
2-4 南荊州の傭兵・武陵蛮
3 劉表の飛躍
3-1 カオスの地・襄陽
3-2 蒯越の献策
3-3 地方豪族の脅威の政治力
4 老将軍の半生
4-1 黄忠とは何者?
4-2 劉備との不思議な縁
4-3 悪役の郡太守
5 襄陽の人材事情
5-1 「水鏡」の由来
5-2 人材や政策を押し売りする地元豪族
5-3 対外積極策と流浪名士の存在意義
5-4 諸葛先生の就職とその意義
6 地方官・劉表氏の査定?!
6-1 安住の地・荊州
6-2 堅気な劉表とヤクザな袁紹
6-3 そして、尽きかける寿命
6-4 性格が歪む?!地方官稼業
おわりに
はじめに
今回も前回に引き続いて
人材関係の御話をします。
前回は、『三国志』の時代の要人が
幼少から教育を受けて朝廷に出仕するまでを
綴りましたが、
今回は、そうした人材の就職事情について、
劉表統治時代の襄陽を事例に
もう少し詳しく見ることにします。
1 劉表赴任時の荊州
前々回に襄陽という土地を扱ったことで、
劉表時代のこの土地の事情についても
もう少し見てみることにしましょう。
今回の主役は劉表、字は景升。
優秀なれど、悩み多き地方官です。
さて、この人が『三国志演義』に登場するのは
董卓討伐の際の挙兵でして、
その時分には、
既に、押しも押されぬ軍閥のひとりとしての
存在感を示しています。
ところが、
当時の荊州の内情や劉表の政治的足跡を
正史やいくつかの文献を通して
眺めてみると、
周辺の軍閥や原住民とも言うべき異民族との
ゴタゴタが祟り、
中々に波乱含みの状況を呈している模様。
2 長江中流域は「原住民」の戦場?!
2-1 「異民族」のパターン
まず、劉表が荊州の刺史として赴任した頃、
治所の武陵は所謂「異民族」に占領され、
さらには、袁術は魯陽に兵を置いて
南陽の兵を自軍に組み込んだ上に
劉表の武陵入りを妨害するわのトラブル続きで、
やむなく襄陽に治所を移して政治を始めます。
さて、この「異民族」というのも
色々パターンがあるのですが、
この武陵の勢力は
世界史で習う類の異民族とは異なる
結構特殊なパターンの模様。
この辺りの事情は、
坂口和澄先生の
『もう一つの『三国志』異民族との戦い』
が詳しいので、
以下は同書の該当部分によります。
異民族のパターンとしては、
大体以下の3つのパターンがある模様。
1、漢王朝の国境周辺の地域を根城にして
越境して王朝や軍閥の兵と揉める勢力。
例:北辺の騎馬民族や南方の山越等。
2、漢王朝との戦争に敗れて強制移住を喰らって
内地で不満を燻ぶらせる勢力。
例:羌族等。
3、加えて、漢王朝の版図内に長らく居住しながら
中原とは言語や文化を異にする勢力。
例:長江流域の「〇〇蛮」と呼ばれる
所謂「原住民」。
サイト制作者の浅学で恐縮ですが、
外国史を専攻したことがなく
外国人の方ともあまり接したことがないので、
正直なところ、
故人の悪口を書きまくっている割には、
「異民族」や「原住民」といった
差別的な意味合いを含む言葉をどう使って良いのが
分かりかねております。
したがって、
こういう言葉が出て来る際は、
あくまで世間一般で使われるイメージ程度の認識で
御願い出来れば幸いです。
2-2 板楯蛮と王平
さて、武陵で劉表の治所入りを阻んだ勢力は、
先述の3パターンのうちの最後、
「漢王朝の版図内に長らく居住しながら
中原とは言語や文化を異にする勢力」です。
後漢当時の長江の中流域には、
戦国時代の楚の民の末裔とされる勢力が
存在しました。
具体的には、
盤瓠蛮(ばんこばん=武陵蛮)・廩君蛮(りんくんばん)・
板楯蛮(ばんじゅんばん)、
といった勢力です。
盤瓠蛮は南荊州、廩君蛮は南郡や巴、
板楯蛮は巴や漢中が勢力圏。
因みに、当時、
戦争が強くて有名だったのは板楯蛮。
『三国志』よりも前の時代から
漢王朝のために他の「異民族」との戦いの
第一線の部隊として奔走したものの、
当の漢王朝の「毒を以って毒を制す」の
理論のために冷遇され続けてスネた勢力です。
板の盾で武装するのでこの名が付いたそうな。
有名な武将との関係では、
蜀の王平の母親がこの勢力の出身。
これに関して、最近の研究紹介します。
サイト制作者としては
かなり面白い論文でした。
並木淳哉 『駒沢史学』87
曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次「北伐」
ttp://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/36194/
(1文字目に「h」を補って下さい。)
同論文によれば、
『三国志』の時代の
漢中近郊の戦争の少なからぬ部分は、
この板楯蛮の支持を取り付けるための
外交戦の模様。
特に北伐の街亭の戦いでは、
先の漢中での
劉備と曹操の抗争のシガラミもあり、
この板楯蛮の去就が
戦況に大きく関与した模様。
さらには、
どうも、馬謖も戦術面でヘタを打ったのではなく、
板楯蛮の動きの怪しさに狼狽して
逃亡を企てた可能性があるそうな。
その一方で、殿として意外に頑張ったのが、
馬謖に内応を疑問視された
板楯蛮の血を引く王平の部隊という結末。
2-3 色々とキナ臭い街亭の戦い
さて、この街亭の戦い、
確かに馬謖は
軍人としては有能ではないのでしょうが、
それ以外にも、
例えば馬謖以外にも将軍を何名も軍法で処刑したりと
陳寿が隠そうとしたと思われる
ヤバ気な点がいくつか見え隠れしまして。
で、サイト制作者が
並木先生の論文を元に想像(妄想)を働かせて
誤解を恐れずに言えば、
街亭の戦いの実態は、
蜀軍の大半の部隊は、
板楯蛮の造反を恐れて戦意を喪失し
張郃の部隊と対峙する前に
敗走を始めていたのではなかろうかと想像します。
監軍として監督責任のある馬謖と
前線で指揮を執る複数の将軍の、
謂わばライン・スタッフの双方から
処刑者を出した理由は、
どちらかに手落ちがあったというよりは、
双方とも戦意を喪失し、
優勢な魏軍に対して
マトモに戦おうとしなかったからかもしれません。
そして、そのような中、
水源を断たれて敗走したのは
割合頑張った部類の部隊ではなかろうか、と。
と言いますのは、
並木先生の論文によれば、
その3年後、
蜀軍は同じ地域で
同じ山に陣取って敗れていまして、
これが守備側の常套手段であったことを
伺わせるそうな。
つまり、
小手先の戦術で引っ繰り返せる程
拮抗した戦いではなかった、
という訳です。
もう少し言えば、
馬謖の幕僚の息子であり蜀贔屓の陳寿が、
蜀軍の統帥上の大きな欠陥や
戦地の住民の懐柔工作
―つまり、民族問題の対策の失敗を
戦術面での不備に矮小化したように見受けます。
これはサイト制作者の愚見に過ぎませんが、
並木先生にしてみれば、
本当はここまで主張したかったが
史料がないので何とも言えない、
という話かと想像(妄想)します。
2-4 南荊州の傭兵・武陵蛮
話が何故か北伐に飛びましたが、
先の話の要点は、
内地に永住するタイプの「異民族」の去就が
王朝同士の戦争の戦局を左右するレベルで
大事であるということです。
さらに、
この勢力の特筆すべき点は、
戦国七雄である楚の民で
何世紀も居住しながらも、
中原とは文化・言語が異なるところです。
したがって、中原の漢民族からすれば
自分達の価値観が通用しない訳でして、
最悪の場合、
件の武陵郡のように
本来は州の治所である郡ですら
現地民に離反されるような
みっともないケースも存在する、と。
因みに、夷陵の戦いで
劉備が強力を取り付けたのも、
この武陵蛮の一系統である五鷄蛮(ごけいばん)。
この民族も、
例えば「長沙蛮」・「桂陽蛮」という具合に
郡ごとに「蛮」が付くような有様で、
地域性が多様であることも伺わせます。
西域の「異民族」を妖怪として描く
『西遊記』にせよ、
軍閥の少なからぬ戦力であった所謂「蛮」の話を
あまり書かない『三国志演義』にせよ、
華夷思想のメンタリティでは
こういう話を大々的には書かんわなあ、と。
曹操の烏丸征伐なんか
曹操直々の出馬で7年掛かり、
戦役自体も特に兵站面では相当に苦労したことで、
当初出兵に反対した者を褒めた程の
大事にもかかわらず、
小説の方ではあまり詳しい話は無かったと
記憶します。
3、劉表の飛躍
3-1 カオスの地・襄陽
さて、赴任早々に
治所の問題で足を掬われた劉表、
ところが、先の武陵どころかこの襄陽も、
交通の要衝故か面倒な土地でした。
差し当たって、
襄陽周辺の地図を御覧下さい。
まず、最大の外敵である孫堅は、
董卓討伐の際、
根拠地の長沙から洛陽を突く途中で
そのドサクサに紛れて
劉表の前任者や南陽郡の太守を殺した経緯があり、
その庇護者の袁術も、
先述のように怪しい動きをしています。
そう、この荊州の地では、
この頃には対立関係にあった
袁紹対袁術の代理戦争が、
劉表対孫堅という形で行なわれていた訳です。
そのうえ膝元の襄陽でも
宗賊という武装集団が幅を効かせていました。
無論、傘下の地方官も、
自分の兵力を頼んで劉表の命令に服しません。
3-2 蒯越の献策
そこで新任の地方官で何の後ろ盾もない劉表は、
地元の名士である蒯良・蒯越・蔡瑁等と図って、
まずは宗族を騙し討ちにして
足場を固めます。
ここで、強硬論を吐いたのが蒯越。
袁術や傘下の地方官など
烏合の集で物の数ではないと凄みます。
さらにその上で、
自分の息の掛かった者の中に強欲な奴がいるので
その者やその者の配下を財貨をエサに呼び寄せ、
自分の態度を示すように、と、進言します。
言い換えれば、
領民はこのデモンストレーションに
注目する訳でして、
転じて、
管轄地域に自分の政策指針を示すことが出来る、
という訳です。
劉表はこの蒯越の進言に従い、
宗賊の目ぼしい連中50名余を誘い出して処刑し、
その上で抵抗を続ける江夏の賊も
蒯越と龐季が説得して降伏され、
江南の治安を回復させます。
3-3 地方豪族の脅威の政治力
つまるところ、
以上の正史の話を鵜呑みにする分には、
話の筋書きを書いたのは蒯越であり、
その策の初歩である交渉の相手とて、
やはり蒯越のコネに他なりません。
この話が意味するところは、
大きい部類の地方豪族には、
州の半分程度の領域であれば
当座の治安を保つ程度の政治力は備わっている、
ということなのでしょう。
ただし、それを実行するためには、
監察や地方官のような現場の長の役人のハンコが
必要である、と。
この話に因んで、
後年、曹操が劉表の訃報につけ込んで
荊州を占領した折、
「荊州を得るより蒯越を得た方が嬉しい」と
宣ったそうな。
無論、このリップ・サービスは、
コーエーのゲームで言うところの
知力80程度の武将をひとり得て喜んだ、
という程度のショボい話ではなく、
こういう豪族名士の支持こそが
荊州北部の支配と同義であったという
当時の地方政治の実情を物語っています。
―今日の我が国の政治で言えば、
知事選や国政選における
最大の票田を手中に収めるようなレベルの話です。
ですが、先述の荊州南部のような
中原とは距離のある
「異民族」が幅を効かせるような地域とは
別の次元の話です。
こうして膝元の脅威を一掃した劉表は、
その後、
侵略して来た孫堅や張済を返り討ちにして射殺し、
本人の性格の悪さが祟って起きた
長沙郡太守・張羨の反乱は
親子二代相手に大分手こずったものの、
最終的にはどうにか平定し、
結果として、
南は長沙に加えて桂陽・零陵をも制圧し、
兵力10万を擁する巨大軍閥に成長します。
4 老将軍の半生
4-1 黄忠とは何者?
以上のような経緯で
身に掛かる火の粉を必死に払って来た
劉表の配下の武官の中で、
その経歴が割合明らかになっている人物が、
ここに1名存在します。
それも、劉備配下の
屈指の猛将のひとりだったりするので驚きです。
―黄漢升こと黄忠。
さて、この黄忠は、
元は襄陽から少し北に位置する
南陽(後漢の光武帝の根拠地)の出身。
加えて、実は劉表の州牧時代からの部下で、
その時の官職は中郎将―つまり、将軍の手前。
後に裨将軍に任命されるのですが、
まあ似たような地位ですね。
この辺りの話は後述します。
さらに、劉表時代は、
劉表の甥の劉盤と共に
長沙の攸県を守備していたそうな。
長沙は先述に張羨の反乱の他、
孫堅の在任時にも反乱が起きた土地でして、
そのうえ恐らくは主君の一族の御守りで
赴任したのでしょうから、
劉表にはかなり信頼されていたのでしょう。
4-2 劉備との不思議な縁
黄忠はその後、
曹操が荊州を占領した時に、
当時、長沙太守であった韓玄の部下として
裨将軍の地位でそのまま現地で職務を続行し、
劉備の長沙占領後は、
劉備に従って蜀に入ります。
余談ながら、
将軍の副将の「裨将」の職階と同義であれば、
兵1600名を統率したことになります。
さて、ここで注目すべきは、
劉表や曹操の息の掛かった黄忠が
後ろ盾を失って劉備に投降した点です。
後述するように、
劉表は地元豪族の意向が強く、
この地元豪族は劉表の死後は州をあげて
足早に曹操に降伏します。
そのうえ、
その曹操は劉備を不倶戴天の敵と仰ぎ、
黄忠の身元を保証するという具合でして、
こういう経緯を考えると、
赤壁の戦い以前の感覚では、
劉備が黄忠を配下として抱えること自体、
到底考えられないことだと思います。
対して、文聘のように
元は劉表の配下でありながら
曹魏政権下の対呉戦線で活躍した将もいます。
4-3 悪役の郡太守
黄忠が表舞台に立つ引き立て役として
ブラック上司・韓玄の出番となる訳で、
この辺りの話も少々します。
先述したような
長沙の反乱とその鎮圧という状況を考えれば、
韓玄という人物は
劉表や側近の豪族の息の掛かった地方官でしょうし、
劉表の死後は曹操に従ったものと想像します。
ですが、赤壁の戦いの後の
劉備の荊州南部の平定戦は
詳細が判然とせず、
正史では、
サイト制作者が知る限りは、
桂陽太守の趙範が趙雲に接近し
その後逃亡した以外は
細かい話が出て来ません。
特に長沙攻略については、
『三国志演義』の当事者である
関羽・黄忠・魏延の正史の伝にも
詳しい話はありません。
察するに、
魏延が韓玄を斬ったのは作り話でしょう。
ですが、その後、
黄忠の部隊が定軍山で夏侯淵を斬ったのは
本当のようでして、
その意味では、黄忠の投降は、
曹操の荊州の敗戦での
大きい失物のひとつであったことは
間違いありません。
劉表や曹操の政権の事情に振り回される
家臣の動向の一旦を垣間見る心地と言いますか。
後、コーエーの『三國志』シリーズで、
どうして黄忠が劉表の部下ではないのか。
5 襄陽の人材事情
5-1 「水鏡」の由来
以上のように、劉表は、
失地回復とでも言いますか、
本来の自分の領地である
荊州全域に影響力を拡大すべく、
彼からすれば
ゴロツキ軍閥やふざけた地方官や
盗賊めいた武装勢力共との抗争に
明け暮れる訳ですが、
その一方で、
有用な人材を求めようとして、
水鏡先生こと司馬徽を利用します。
この先生、
大体の向こうのドラマでは、
不敵に笑って相手をケムに巻く
白髪の胡散臭い老人、
という役回りばかりですが、
史実では、
何と、劉備等よりも若かったそうな。
で、この司馬徽が
どうして劉表の眼鏡に適ったかと言えば、
簡単に言えば、
ポジション・トークをしないからです。
転じて、人物本位で公平に人を見るので、
「水鏡」というアダ名が付いた、と。
逆に言えば、
当時の襄陽の人材事情は、
華北や中原の各地から
戦禍(董卓・袁紹・曹操等が火元)を避けて
この地に流入した逸材が数多おり、
そのラインナップは
多士済々ではあったものの、
その一方で、
影響力を保ちたい地元の名士豪族の意向も紛れ、
まさに有象無象の様相を呈していた訳です。
具体的には、各グループの人脈は以下のような具合です。
*パソコンの方は、右クリック→「画像だけを表示」で御覧頂ければ幸いです。
さらには、以下は当時の襄陽城近郊の地図。
論文の内容からして、
県城から精々数キロ圏内の地図と想像します。
地図の引用元である上田先生の論文も
実に面白い論文です。
PDFで読めます。アドレスは以下。
ttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/152809/1/jor028_4_283.pdf
(一文字目に「h」を補って下さい。)
因みに、この楊守敬という先生は
清代に公使の随員として来日し、
日本で中国の文献を集めたそうな。
隋唐研究の材料に
それを模倣した京都を研究するという皮肉。
日本も中国にやったり
米国にやられたりで、
戦災による史料の喪失は
万国共通の頭痛の種の模様。
まあその、『水経注』の脚注とはいえ、
わざわざこういう地図を作ること自体、
相当に『三国志』が好きな方だと想像します。
200年後に御存命であれば、
存外三国志関係のゲームにも
ハマったかもしれません。
5-2 人材や政策を押し売りする地元豪族
では、その有象無象の中、
劉表がどのグループの意見を
聴いたのかと言えば、
やはり、地元名士のそれです。
しかしながら、劉表にとっては、
こういう郷論の類はシガラミが多く
面白味に欠けるものであったことでしょう。
その理由として、
こういう豪族社会で
優秀な役人候補者を探そうとすれば、
地元の名士がそれを利用して
自分達の子弟を捻じ込んで来るからです。
確かに、そうした人材は、
地元の豪族が手塩を掛けて育成した秀才につき、
或る程度の能力は担保されるかもしれません。
ですが、その一方で、
スポンサーの意図が明白な以上、
地元豪族の目先の利害に反してでも
時代を先取りする奇策を考え付くような
天才の発掘は
到底出来ないことを意味します。
もう少し露骨に言えば、
飛ぶ鳥落とす勢いの曹操と揉めることを嫌う
グループです。
要人の名前を挙げれば、
劉表の荊州赴任時から縁のある
蒯良・蒯越・蔡瑁等の地元名士達。
確かに、
皇帝は曹操の庇護下にあることですし、
さらには戦争にでもなれば、
治所の襄陽を含めた長江北岸では
曹操に分のある陸戦となることで、
曹操と事を構えるのを避けるのは
ひとつの見識でしょう。
5-3 対外積極策と流浪名士の存在意義
では、他の対外政策はどうか。
例えば、
官渡の戦いや烏丸征伐に奔走する
曹操の背後を突くといったような、
中央の政局に積極的に関わろうとする
政策指針です。
かつて孫堅が
荊州の地方官を暗殺しながら洛陽に迫ったように、
客将の劉備を置いた新野から洛陽までは
目と鼻の先です。
曹操は都・洛陽の近郊で
敵味方定かならぬ巨大軍閥と対峙しつつ
あれだけ大胆な外征を二度も行った訳でして、
それを可能にした根拠として、
名士間の情報交換で
劉表政権の出方―荊州の専守防衛のスタンスを
看破していたことは
想像に難くありません。
一方で、曹操に降ってしまえば、
潁川その他の派閥が幅を効かせる曹操の政権で
荊州の名士の出る幕はない訳です。
蒯越等が曹魏政権での立ち位置よりも
地元の利益を優先に考えるのは当然にしても、
他地域から流入した野心ある名士が
こういう千載一遇の好機を棒に振るのを
潔しとする訳がありません。
その好例が、
董卓の無能な残党に見切りを付けて
この地に逃れた賈詡や、
蔡瑁と縁戚関係にあったものの
劉表とは距離を置いた諸葛亮でありました。
フリーター時代の諸葛先生なんか、
日頃、「自分は当世の管仲だ」
とか吹きながら、
同輩から中原で荀彧等潁川名士が
幅を効かせている状況を聞かされて、
都での出世の目は無さそうだ、と、
落胆なさったそうな。
不世出の天才政治家でさえ、
青春日記の1ページはこんなもの。
何とも泣かせる逸話だと思います。
その他、先の表中の杜畿やその子孫も
中々に面白い人でして、
襄陽を去った後、
袁紹の甥である高幹の息の掛かった
豪族が治所で狼藉を働く河東郡で
曹操側の太守として急場を凌いだ凄腕地方官。
この人の伝を読むと、
相当にヤクザ気質な人であったと想像します。
確かに、地元自慢の豪族政権の隅っこで
我慢出来る性格ではなさそうだなあ、と。
また、息子は優秀なれど不遇であったものの、
孫は孫呉を滅ぼした晋の名将・杜預
であったりします。
一方の預君の方はと言えば、
凝り性タイプの頭デッカチ(ガチの学者)で、
諸葛先生と同じく理系も大好きな物好きさんですが、
馬にも乗れなかったそうな。
5-4 諸葛先生の就職とその意義
では、件の諸葛先生は
どのような知識人グループと
接点があったか、と言えば、
ここで、先述の水鏡先生の出番と
相成る訳でして。
で、この司馬徽に群がるグループというのが、
また異色な連中でした。
具体的には、天下国家を論じる連中でして、
曹操と事を構える想定の議論を
白昼堂々とやって
蒯越等がケムたがられる光景が
容易に想像出来ます。
しかも、このグループの名士の出身地も様々で、
諸葛先生や徐庶のような
州外出身のヨソ者もいれば、
襄陽近郊に領地を持つ習禎や龐徳公、
その他、地元出身の馬良、
諸葛先生の義理の父の黄承元、
といった名士もこのグループです。
また、諸葛先生が27歳にして
某ブラック軍閥から内定を貰った時、
一応、三顧の礼という形式を
取ってはいるものの、
そのブラック軍閥の長の劉某と
水鏡先生や諸葛先生のグループとは、
どうも水面下で接触があった模様。
劉某、いえ劉備が諸葛先生を迎えたことの意義は、
曹操が蒯越を得て
荊州名士の信頼を勝ち得たように、
単にひとりの謀臣を得たという話ではなく、
諸葛先生との付き合いのある名士の支持により、
漸くマトモなインテリジェンスや
政治力・交渉力の類を得た点にあります。
―ですが、
このコネは襄陽界隈では
決して強いものとは言えず、
しかも、古株の豪族連中には
目障りなものであったことでしょう。
と、言いますのは、
実際に、劉表が死去した際、
諸葛先生の就職先である
劉備様御一行には荊州政権の曹操への降伏は伝えられず、
州内で孤立して曹操軍の追撃を受け、
散々な目に遭わされましたとさ。
また、関羽のヘマで荊州北部が失陥した際に
劉備が国家総動員で奪還を図り、
さらには諸葛先生が
それを止めなかった理由は、
良く言われる話ではありますが、
劉備本人の権力の源泉である
軍の面子や結束を守る以外にも、
蜀政権の中枢を占める名士の経済基盤が
荊州にあったからでしょう。
6 地方官・劉表氏の査定?!
6-1 安住の地・荊州
では、地元の豪族名士とのシガラミで
動けなかった劉表はポンコツ地方官か?
―との問いには、
そこまで言うのは酷であろう、と。
高島俊男先生は、
劉表は地方官としては極めて優秀だと
おっしゃってまして、
事実、劉表は10年の在任期間で
内憂外患を払拭して
刺史から牧(兵権付き)に格上げされています。
また、これまで見たように、
劉表の赴任当初の荊州のカオスぶりからすれば、
10万の兵を養う人材センターという状況は、
様変わりと言う他はありません。
加えて、重用しなかったことで
数々の人物に去られたとはいえ、
州外から流入したさまざまな名士を
庇護したことで
ひとつの時代を築いたのも
揺るがぬ事実です。
この時代における
シェルターやアジールの類の存在意義が
どれ程大きいかは、
略奪や殺戮のみならず
飢餓で人肉を喰うのが茶飯事、といった、
戦禍を被った地域における
数々のイカレた逸話が物語っています。
少なくとも、
この地でタダ飯にありついた流浪名士共が
劉表の悪口を言う資格はないと思います。
6-2 堅気な劉表とヤクザな袁紹
また、上田早苗先生は、
地元の豪族の名士の影響力が強過ぎて
劉表自身に野心があっても
積極策は難しかったであろうとおっしゃっています。
確かに、10年かそこらの歳月では、
一介の地方官の職権の範囲内で
マトモに足場固めを行おうとすれば
劉表がやった程度が精一杯なのかもしれません。
例えば同時代の地方官・軍閥である袁紹など、
自前の皇帝を擁立を目論んだり
他の地方官の領土を掠め取ったりと、
当初から地方官の職域を逸脱して
軍閥として派手に動いたことで、
結果として、
膨張政策が祟って破滅しました。
特に官渡の戦いなど、
界境の戦いでのデタラメぶりから判断するに、
曹操との兵力差程には有利ではなかった筈で、
しかも、敗戦後には、
本拠地の冀州で反乱まで起きています。
もっとも、その後に曹操も、赤壁等で
袁紹の二の轍を踏んで死にかかっています。
こういうのを踏まえて
サイト制作者が
袁紹と劉表の両者を比較して強く感じたのは、
乱世が継続する過程で
一介の地方官が中原で覇権を狙う軍閥に
化け切れなかったのが
劉表ではなかろうか、ということです。
本当は本人は、
州外の名士を重用したりして
色々やりたかったのだと想像します。
たまたま時代の流れが早過ぎ、
そして、向かい風が強過ぎただけのことで。
6-3 そして、尽きかける寿命
ですが、当の劉表にとっては、
目の上のコブである
地元豪族の機嫌を取りつつ
自分の本来の領地である荊州全域を
チンピラ軍閥や
ヒャッハーな反乱軍から守り抜き、
あぶれてもプライドだけは高い流浪名士を
保護するだけで精一杯でありました。
何より、次の時代に何かを為そうにも、
そもそも自らの寿命が尽き掛けていました。
言い換えれば、
任期中の10年余の歳月が、
彼にとって、
如何に過酷なものであったかを
物語っています。
6-4 性格が歪む?!地方官稼業
その意味では、
史書にあるような猜疑心が強い性格というのも、
先天的なものか、
地元の泥臭い名士共とかかわって
根性が捻じ曲がったのかは分かりません。
例えば、徐州の牧の陶謙も、
劉表と似たような人生を送って
人生の前後半で性格が変わっています。
この人も若い頃は
真面目で積極的な地方官だったそうですが、
歳を取ってから、
地方官の身分で
皇帝を名乗るような連中と組んだりと
デダラメぶりを発揮するようになる、と。
劉表にせよ陶謙にせよ、
こういうのは、
真面目に仕事に取り組んだ地方官の
宿命なのかもしれません。
もっとも、地方官に限らず、
人間、真面目に仕事をしようとすれば
色々なものを犠牲にするので、
愚痴のひとつも言いたくなろうし
泥を被って根性とてひん曲がるのも
ひとつの真実なのでしょうが。
おわりに
最後に、今回の記事の骨子をまとめます。
1、地方政治は大抵はカオスであり、
内には漢人と「異民族」の反乱、
外には他の地方官・軍閥との抗争
といった、
所謂、内憂外患が常に付き纏う。
その意味では、
地方官の軍閥化は必然の流れでもある。
2、地元の豪族には、
この種の内憂外患に対応するための
情報収集力や政治力がある。
一方で、地元の利益を優先して
外部出身者を排斥する傾向がある。
3、戦禍に遭った地域の名士は各地に亡命し、
治安の良い地域に避難する。
統治手腕の高い地方官や軍閥は、
こういう名士を登用する好機がある。
自称天才の27歳で就職を焦った
フリーターの諸葛某がこれで成功した。
4、一方で、流浪する名士は
地元の利害には固執せず
天下国家を論じる傾向がある。
5、放浪する軍閥にとっては、
定住しない名士を登用する好機に恵まれる。
6、名士の登用は、
機密情報の情報源や
当該の地方での政治力を得ることを意味する。
7、地方官として真面目に仕事をこなそうとすると
報われずに性格が曲がる。
その一方で、派手に動いて
統制の取れていない大軍で機動的に戦争を仕掛けると
大抵は負ける。
まあその、
一部ヘンなことも書きましたが、
後漢時代の襄陽の話とは言うものの、
似たようなことは
別の州でも少なからず起きていることで、
この時代の地方政治や人材の在り様を考える上で
多少なりとも参考になればと願う次第。
【主要参考文献】(敬称略、諸先生方、申し訳ありません。)
上田早苗「後漢末期の襄陽の豪族」
並木淳哉「曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次「北伐」」
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
坂口和澄『もう一つの『三国志』異民族との戦い』
高島俊男『三国志きらめく群像』
陳寿・裴松之:注
今鷹真・井波律子・小南一郎訳
『正史 三国志』各巻