『春秋左氏伝』における車戦と矛

例によって、
無駄に長くなったので、
章立てを付けます。

適当に
スクロールして、
興味のある部分
だけでも
御笑読頂ければ
幸いです。

はじめに
1、武勇の象徴としての矛
2、矛で御す国君の車右
3、矛を構えて陣頭に立つ
3-1、戦の前の御約束
【雑談】蒯聵を取り巻く
政治情勢
【雑談】戦闘前の舞台裏
3-2、で、矛は何処に?!
2-3、車上の戦士の手柄自慢
2-4、負傷する車左
2-5、車戦から白兵戦へ
、歩兵陣を切り裂く
車上の矛
4-1、呉の北進と魯
4-2、どのように矛を用いたか
【雑談】300名の戦闘単位
4-3、魯軍の概要
4-4、車戦の影での歩兵戦
4-5、意味深な杜預の注
【雑談】魯の厭戦の理由を考える
おわりに(論旨の整理)
【主要参考文献】
【言い訳】

はじめに

更新が
大幅に遅れて
大変恐縮です。

さて、今回は、
矛の御話。

『春秋左氏伝』
(以下『左伝』)に
見られる
矛の件について
綴ります。

とはいえ、
事細かい使用例
とまでは
いきませんで、

代わりに、
個人レベルの戦車戦を
掘り下げることで、

春秋時代の戦闘における
矛の位置付けを
探ることを試みます。

1、武勇の象徴としての矛

ここでは、まず、
『左伝』における
矛の登場する部分状況
確認します。

管見の限り
僅か3箇所ですが、

見落としている部分が
あるのかもしれません。

ただ、戈に比べて
明かに少ないのは
間違いないと思います。

で、当該の箇所は、
具体的には、以下。

なお、例によって、
書き下し文は手製につき
御参考まで。

1、魯・成公16年
(前575)

使鍼御持矛
鍼(けん・人名)をして
矛を持して御せしむ

2、哀公2年
(前493)

蒯聵不敢自佚、
備持矛焉
蒯聵あえて自らを
佚(うしな)わず、
矛を持して備えるなり

3、哀公11年
(前484)

冉有用矛干斉師、
故能入其軍
冉有(ぜんゆう)は
斉師に矛を用い、
故にその軍に入るをあたう。

以上の3例とも、

敵兵を
ザクリとやる類の
使用例というよりは、

むしろ
所持している状況が
共通している
考えます。

具体的には、

戦場における
武勇の象徴、

といった解釈を
しています。

誰それを刺したり
ドツいたりするよりも、

持って直立したり
執って陣頭に
出張ったりすること
意味がある、と。

もっとも、

3、の冉有の例
については、

背後の状況に加えて、

使用例も
含まれているとも
考えていますが、

これは後述します。

さて、
このように考える
理由として、

については、

彼我の大軍の
戦車同士が対峙する
戦場とは言い切れない、

内乱や要人襲撃、
いえ、それどころか、

痴話の絡んだ
私闘めいた場面でも
持ち出される
或る種の「利便性」
あるように見受けます。

子路の冠の紐を
切ったのも戈。

以上のことから、

あくまで
サイト制作者の
個人的な感覚
過ぎませんが、

『左伝』全体の
ニュアンスとして、

には、

戈のような
日常生活に
溶け込むような
汎用性を感じない、

というのが
率直な感想です。

矛の登場例が
少ないことが、

何とも
心もとないのですが。

2、矛で御す国君の車右

それでは、
各々の引用箇所の
詳しい状況について
触れます。

まずは、
1、「使鍼御持矛」
について。

春秋時代の
メイン・イベントとでも
言いますか、

晋楚の激戦のひとつである
焉陵の戦いの一幕。

晋の行人(使節)が
楚の陣地に
挨拶に出向いた折
言葉です。

「鍼」欒鍼(らんけん)は、

当時、晋軍の
実質的な総司令官である
中軍の将・
欒書(らんしょ)の甥、
かつ欒黶(らんえん)の弟。

また、欒氏は、
晋の有力な世族
ひとつです。

さらに、欒鍼はこの時、
晋の国君の戦車の車右
務めていました。

車右は、字の如く、

4頭立て・3人乗り
戦車の右側に搭乗する
近接戦闘要員。

搭乗人数や馬の数は
時代や状況によって
異なりますが、

これが春秋時代
オーソドックスな仕様。

加えて、

座右の字引きによれば、

3名乗り合わせることで、
車体の左右の重心を
保つんですと。

で、この場合、

司令官クラスの
車右ともなれば、

戦場にあっては
周囲に少しでも
臆病なところを見せると
即刻免職になるという
シビアな職務です。

こういうのは
『左伝』に
いくつか例があります。

要は、
バリバリの武闘派の
やる仕事。

それを前提に、

この時の晋は、
国君と中軍の将の双方が
出張って来てまして、

欒鍼の立ち位置は、

悪い言い方をすれば
謂わば、神輿の護衛。

と、言いますのは、

国君よりも
重臣の力の方が強い
という国情。

したがって、
先の引用箇所の
要点は以下。

楚の陣地に
挨拶に出向いた
晋の行人曰く、

本来、その欒鍼
使者に立つところを、

当人は矛を手にして
国君の護衛に
当たっているので、

自分のような
身分の低い者を
寄越すことになった、と。

について言えば、

相応の身分で
文武両道の猛者が、

矛で国君を
警護している
という凄み。

『左伝』が大好きで
昼夜を問わず
劉備を警護していた
関羽なんかも、

あるいは、

こういう古の猛者の姿を
意識していたのかも
しれません。

3、矛を構えて陣頭に立つ
3-1、戦の前の御約束

次いで、2、
「蒯聵不敢自佚、
備持矛焉」
について触れます。

「佚」は、逃げ隠れする。

自分は逃げ隠れせず
矛を手に
目前の戦闘に備えている、

という訳です。

これは、
衛の太子である
姫蒯聵(きかいがい)が、

春秋時代の終わり頃の
鉄の戦いに臨んだ折の、

戦闘の前の
祈りの文句の一部。

蒯聵は
後の衛の壮公です。

で、件の引用部分を
含めた口上の大意は、

自分の先祖
周王や衛の国君に
戦いの大義名分を説いて
戦勝を祈願する、

というもの。

名文だと思います。

【雑談】蒯聵を取り巻く
政治情勢

以下は、
少し長くなりますが、

当時の国際情勢を
整理します。

矛の話とは直接関係ないので
雑談扱いにします。

サイト制作者自身が
この辺りの経緯を
理解するのに
苦労したことで、

少々御付き合い
頂ければ幸いです。

次の3、の前提にも
関係する話につき。

さて、その蒯聵は当時、

継母の暗殺を企てて
しくじったことで
祖国・衛より宋に亡命し、

その後、
晋の趙鞅を後ろ盾に、

范・中行氏の
根拠地である朝歌から
(現・河南省安陽市)
東に80キロ弱離れた
籠っていました。

その戚から
10キロ程度南に位置する
鉄の戦いに際しては、

趙鞅の搭乗する戦車の
車右の職務に
ありました。

こういうのは、

この時代の
亡命貴族あるある
(世族―有力な家、もやる)
構図とはいえ、

先代・霊公の乱脈で
太子を亡命させた衛も
大概ですが、

—これに苦言を呈したのが、
ここで就活をしくじった
彼の孔子様で、
南氏も南氏でゴニョゴニョ、

実は、それよりも
遥かにヤバかったのが、
その蒯聵を飼い慣らす

と、言うのは、
当時の国情は、最早、
断末魔。

以前から激しかった
世族間の抗争が、

徒党を組んでの
内戦にまで
発展していました。

具体的には、

国君側の
知・韓・魏・趙氏対、
范・中行氏の抗争。

これが前497年から
490年まで
7年も続きます。

また、御存じのように、
勝者のうちの韓・魏・趙は、

この一連の抗争の少し後、

晋を三分し、
(正確には晋を含めて四分)
春秋時代を終わらせます。

近未来の話はともかく、

晋に国防を依存する
傘下の諸国とも
ギクシャクしており、

この内乱でも
各国で対応が異なります。

例えば、

この鉄の戦いにおける
趙鞅の相手は、

晋の同盟国
ではあるものの、

国君に背く
范・中行氏を
支持する

そして、范・中行氏が
朝歌を根拠地とし、
趙氏がこれを攻めます。

鄭は
こうした状況の最中、

斉の穀物を
大軍で范氏に
搬送する最中に、

朝歌から程近い鉄で
趙氏の襲撃を受けまして、

これが、
鉄の戦いです。

因みに、鉄については、

地名に詳しい
杜預の注には
「丘名」とありまして、

小倉芳彦先生は、

「丘」を「丘の上」と
訳されています。

単なる地形の話か、

あるいは、
当時の行政単位である
「丘」と
同義なのかどうかは
分かりませんが。

それはともかく、

こういうグダグダな
勢力図のもと、

自らの存亡を賭けて
大勝負に出る
亡命太子・蒯聵の
運命や如何に。

【雑談・了】

鉄で鄭を待ち受ける
蒯聵の搭乗する
戦車ですが、

その蒯聵は車右で、
格闘要員。

車左司令官の
趙鞅(趙簡子)。

因みに、
車左の役割は、

司令官の場合は
戦車に据え付けの
太鼓を打ち、

その指揮下の戦車では
弓の射撃を行います。

そして、
馭者の郵無恤
(ゆうぶじゅ)ですが、

鄭の大軍を
目の当たりにして
怖がって
戦車から降りた
蒯聵に対して、

「婦人也」と言いつつ
搭乗用の綱を渡すという
肝の据わり方。

現在の感覚ではアレですが。

【雑談】戦闘前の舞台裏

余計な話が
立て続けに出てきて
恐縮ですが、

ドンパチを始める前に、
その前の雰囲気を
垣間見ることに
しましょう。

蒯聵が気後れして
戦車から降りたやつは、

恐らく、

叩き上げの車右で
コレをやれば
一発退場の行為かと
思います。

城下で戯れ歌を聴いて
継母の存在を恥に思い、

恐らく衝動的なレベルで
家臣に斬らせようとしたり、

引用のように
戦場で気後れしたりと、

まだ若いのだろうと
想像しますが、

良くも悪くも、

命の遣り取りは、

生死の境目が近い程
度胸が必要とされる
空間かと思います。

サイト制作者が
その種の資質に
欠けることで、

余計にそう思う次第。

対して、

馭者が
身分の上下の隔てなく
隣に座す車左や車右に
アレコレ言うのも
この時代の御約束。

一蓮托生の
運命共同体
という訳です。

とはいえ、

大軍に気後れしたのは
蒯聵以外にも少なくとも
もう一方。

この車左の某さん、
事もあろうに
軍吏に戦車に縄られ、

その軍吏曰く、
「痁作而伏」
痁(おこり)を作して伏す

詐病・仮病も病気のうち、
いえ、這ってでも
戦うんですと。

何処かの国の
去就を決めかねた
投票で悩む
政治家さんみたいな御話。

その他、

この時代の
「軍吏」さん達ですが、

開戦前は軍事作戦に関与し、
個々の戦闘終了後には
事務勘定
消耗した戦力の整備に奔走し、

そして、

場合によっては
こういう嫌われ役と、

総務な何でも屋の
黒子役の模様。

因みに、

『周礼注疏』巻二十九
—「夏官司馬」の
軍事演習の件によれば、

兵隊のマスゲームの
誘導等を行う
「群吏」というのが
出て来ます。

これが「軍吏」に
相当するのであれば、

「謂軍将至伍長」
だそうな。

下は5名を受け持つ
下士まで含む
という訳で、

身分の話は
あまり用を為さなそうな。

因みに、

この時代の
士大夫であれば、

読み書き勘定と
弓・戦車の操縦を
セットで叩き込まれる
ことで、

裏方の事務や
雑用ばかり
やっている訳では
ないとは思いますが、

今のところ
それを
証明出来ないことで、

これは
サイト制作者の
想像の域を出ません。

【雑談・了】

さて、『左伝』では、

趙鞅や蒯聵の口上の後に
唐突に武勇伝の描写に
なりまして、

引用すると以下。

鄭人撃簡子中肩、
斃于車中、
獲其蠭旗
大子救之以戈、
獲温大夫趙羅
大子復伐之、
鄭師大敗、
獲斉粟千車

蠭旗:旗名(杜預注)
サイト制作者には詳細不明。
なお、『釈名』「釈兵」
の説く九旗には該当せず。

鄭人簡子を撃ち
肩に中(あた)り、
車中に斃れ、
その蠭旗(おうき)
を獲る。
大子これを救うに
戈をもってし、
温大夫趙羅を獲る。
大子またこれを伐ち、
鄭師大敗し、
斉粟千車を獲る。

敵味方双方、
まずは戦車を繰り出す
御約束で、

そのうえ、

彼我の指揮官が
陣頭指揮で敵に突っ込む
空間につき、

今回のように
車中でもしばしば
負傷します。

それにしても、

戦闘前には
気後れした蒯聵も、

いざ戦いおこるや、

車左を庇って
敵方の大夫を
生け捕るという具合に、

獅子奮迅の活躍
相成りまして、

このあたりは
エラいものだと
思います。

3-2、
で、矛は何処に?!

ですが、

矛の話としては、
オカシイと思うのは、

大子救之以戈、

そう、矛を手に
戦勝を祈願した蒯聵が、

矛ではなく戈で
趙鞅を庇った、
という部分。

バ〇キルト、だとか、

切っ先が変形する
マホウを使った訳でも
あるまいし、

その辺りのカラクリ
少し考えてみます。

具体的には、
車右の持ち物の話。

楊泓先生
『中国古兵器論叢』
によれば、

殷墟―
殷代の出土品の中に、
車右の装備品一式
あった模様。

穴の名前は、
「小屯C区M20
車馬坑」と
ありまして。

で、それによると
内訳は以下。

まずは、長柄の戈。

次いで、
銅製・石製の盾が
各々1枚、

さらに
長さ32cmの
馬頭刀が1振、
(柄が馬の頭の形)

護身以外にも
暴れた馬の
鞅(むながい)を
切ったり
するのでしょう。

その他、飛び道具は、

柲が銅製で
遠射用の弓が1張、

さらに矢筒が2本あり
その中身は、

ひとつの矢筒に
銅製の鏃が10本、
もうひとつには、
石製の鏃が10本。

最後に、
数は不明の砥石。

これらの備品について、

著者の楊泓先生
゛戎右゛那一組最典型
としています。

「戎右」は車右。

馭者や車左の役割の
詳細については
後述しますが、

ここで言えるのは、

春秋時代ではなく
殷代の御話とはいえ、

上記の持ち物から
すれば、

短戈は
積んでいないようで、

蒯聵は
他の方の戈を
拝借したのでしょう。

後述するように、

馭者も車左も
降車戦闘を行うことで、

車内には、

少なくとも
長柄の武器を
3本配備することに
なります。

因みに
武器の運搬ですが、

『周礼』「考工記」
によれば、

長物は戦車に斜めに
立て掛けるんですと。

で、この状態で
移動する際に、

武器の全長が
身長の3倍を越えると
支障を来す、と。

加えて、
以下は想像ですが、

敢えて
矛を収めたか
捨てたとすれば、

戦車の
馭者を挟んで
反対側に座る人間を
庇って
相手の切っ先を
受け流したことになり、
(相当器用な話!)

こういうのは、

戈よりも矛の方が
向いていたということ
かもしれません。

3-3、
車上の戦士の
手柄自慢

そして、
この戦いの話の最後に、

『左伝』における
戦場の描写の
御約束のひとつである
戦後の手柄自慢
引用します。

これも、
当時の戦闘の流れ
について調べるうえで
興味深い内容につき。

簡子曰
吾伏韜嘔血、鼓音不衰、
今日我上也
大子曰
吾救主于車、退敵于下、
吾右之上也
郵良曰
我両靷将絶、吾能止之、
我御之上也
駕而乗材、
両靷皆絶

韜:隠す
嘔:吐く
上:等級や品質が高い
ここでは成績が良い、
戦功が一番である、
といったところか。
下:地面。
ここでは、降車戦闘。
右:車右
靷:馬に繋ぐ綱、
むながい。
胸帯と車軸に繋ぐ。
御:馭者
駕:またがる
材:戦車の横木、軫。
・杜預注。
左右の上部のフレーム。

簡子(趙鞅)いわく
吾伏して血を嘔くを
韜(かく)し、
鼓音衰えず、
今日我上なり。
大子(蒯聵)いわく
吾車に主を救い、
下に敵を退け、
吾右の上なり。
郵良(郵無恤)いわく
我が両靷(いん)
まさに絶たんとし、
吾これを止むをあたい、
我御の上なり。
駕(またが)り
材に乗り、
両靷皆絶つ。

三名が
各々の手柄を披露して
それぞれの職務の
MVPだと言い放ち、

最後に、

馭者の郵無恤が
戦車の横木に
乗った弾みで、

当人が戦闘中に
切らさなかったと自慢した
むながいが切れた、

という御話。

『左伝』には
こういう話の締め方は
ひとつならず
ありまして、

オチを付ける
レトリックは、
少なくともこの時代には
あった模様。

3-4、
負傷する車左

さて、
肝心の戦後報告ですが、

まず、車左の趙鞅

車内での吐血となると、

先の引用と
照合すると、

彼我の戦車同士が
交錯した際、

敵の武器による
強打を受けたでしょう。

もう少し詳細な状況を
想定します。

以下は、想像ですが、

まず、車左の趙鞅が
敵の車右の
打撃を受けたとなると、

確率が高そうな
状況としては、

彼我の戦車が
並走していたことが
考えられます。

これは危険な話で、

高木智見先生
『孔子』によれば、

戦車は基本
左周りが原則だそうな。

これは、

旋回する時に
指揮車の車左を
敵の正面に
向けないための
手順だと思います。

ところが、この場合、

指揮者で
太鼓を叩く車左、
―長柄の武器を
持っていない、と、

格闘要員の車右が
至近距離で
交錯するという、

太鼓を叩く側
としては
最悪の組み合わせ
なった、

という可能性が
考えられます。

さらに、
吐血を隠せた
—負傷したこと自体を
隠せたことから、

弓や刃物による
外傷でないとすれば、

例えば、

胴体を殳で
叩かれたのかも
しれません。

それでも
太鼓の音が止まない、
太鼓を打ち続けた、
ということで、

これが意味するのは、

乱戦の中でも
味方の指揮車両が
健在であることを示す
極めて重要な行動です。

言い換えれば、

指揮車は
戦闘の出端から
敵に狙われて
射られ続ける訳でして、

例えば、

成公2年(前589)の
鞌(あん)の戦い
そうした一幕があります。

したがって、
その種の場面での
痩せ我慢が
指揮官の武勇の見せ所。

3-5、
車戦から白兵戦へ

さて、
打たれて吐血した
趙鞅を庇う
蒯聵ですが、

先述のような
車内での
趙鞅の救出以外にも、

「下に敵を退け」と、

戦車を降りて
白兵戦で敵を撃退した
という訳で、

乗車と徒歩の双方を
臨機応変に使い分ける
柔軟な用兵であることを
意味します。

武器も武器で、

臨機応変に
取っ換え引っ換える
やるのでしょう。

今回は
原文は引用しませんが

例えば、
『左伝』
宣公12年
譲公24年に、

個人レベルの車戦
―威力偵察と言うべきか、
詳細な描写があります。

いつか、
こういうのを精査して
手順を図解しようと
思うのですが、

絵に描いた餅の
妄想レシピはともかく、

それら描写によると、

前進して会敵の後
(恐らく車上で)
弓の射撃を行い、

さらに、

降車して
敵の防御陣地に斬り込み
白兵戦を行う、

という流れがあります。

で、今回の
鉄の戦いの場合は
遭遇戦につき、

白兵戦によって、

敵陣の攻撃ではなく、
荷車を護衛する部隊を
蹴散掃討する、

ということに
なりますか。

3000両も
鹵獲したそうな。

で、この、
ゼロ距離での戦い、

「人に付きもって投げ」
と、肉弾戦の様相。

投げ飛ばすんですと。

こういうのは、
時代が下っても
やっているのでは
なかろうかと
思います。

例えば、

後漢から三国時代の
状況として、

『釈名』
「釈兵」によれば
後漢末の矛頭は
松であったそうで、
(金属のものもあった
とは思いますが)

これで
俑や実物の出土品に
見られるような
魚鱗甲の鉄の鎧を
確実に抜ける
とも思えませんで。

さらに、
馭者とむながいの関係は、

今回のように、

切そうなものを
なんとかもたせる
ケースもあれば、

馬が暴れて
収拾出来ないので
やむなく切る、

という話が
『左伝』には一度ならず。

蒯聵のその後
については、

記事の主旨からして
書かぬが華かも
しれません。

そろそろ、
次の矛の件に
話を移そうかと
思います。

余談ながら、杜預は、

鉄の戦いについて、

以下のように
付言しています。

伝言簡子不譲下自伐

伝:言い伝え、
譲:退く

伝は言うに
簡子は譲らず
下りて自ら伐つ。

趙鞅は、
言い伝えによれば、

負傷して
蒯聵に庇われた
だけではなく、

その後の降車戦闘で
果敢に戦った、と。

当時から
数百年以上も経った
後漢・三国時代でさえ、

この種の伝聞が
少なからず
あったのでしょう。

4、歩兵陣を切り裂く
車上の矛

4-1、呉の北進と魯

哀公11年の
「冉有斉師に矛を用い」
(見出し)

これは鉄の戦いから
10年弱後の魯の御話。

先述の晋の内乱で
中原は依然荒れてまして、

そのうえ
南方では呉が台頭して
北進を企てます。

で、これが
中原の東半分の勢力図を
散々に引っ掻き回す
大事になりまして。

そして、
その矢面に立つ
呉と干戈を交えた末、

呉の傘下に降り、

その後ろ盾で
斉と事を構えることと
なります。

3、哀公11年
(前484)の
「冉有斉師に矛を用い」
は、

以上の流れで起こった
斉の侵攻に対する
魯の本土防衛戦、
郊の戦いの一幕です。

因みに、「郊」は、

具体的な地名ではなく、

魯の国邑(国都)である
曲阜の郊外、
という訳です。

念の為。

さて、ですが、

座右の字引きによれば、
国都の城外。

城から50里を近郊、
100里を遠郊
称するものの、

時代が下って
城外や野外を指すように
なったのですと。

4-2、
どのように
矛を用いたか

さて、件の
「斉師に矛を用い」
ですが、

これに対して、
孔子「義なり」
誉めています。

今風に言えば、
親指を立てて
「ぐっじょぶ!」
とでもやる
感覚かしらん、
ホントかね。

サイト制作者の
浅学につき、

この「矛を用い」と
「義なり」の
意味するところを
掴みかねていまして、

以下に
ふた通りの解釈を
用意しました。

1、矛の使用の
軍事面での合理性。

2、司令官の車左が
自ら矛を手に執って
敵陣に突入する武勇。

まずは、
1、の合理性について
触れます。

『左伝』における
哀公11年の
郊の戦いの描写は、

いくつかの引用を
見る分には、

春秋時代の
激戦のひとつ
というよりも、

嫌味な言い方を
すれば、

孔子の弟子の
冉有のカッコイイ話で
有名になっているように
見受けます。

郊の戦いの話は初耳だ、
という方は、

すぐに読めるもの
としては、

九去堂様の
訳や書き下しが
良く出来ている
思いまして、

そちらで
大体の内容を
御確認頂ければ
思います。

『論語』全文・現代語訳
『春秋左氏伝』
現代日本語訳・哀公十一年
ttps://hayaron.kyukyodo.work/fuki/saden_aikou11-2.html
(1文字目に「h」を
補って下さい。)

個人的には、

細かい部分では
気になるところも
多少ありますが、

全体としては、

漢文の読み方や
言葉の理解の方法等、
色々と
勉強になりました。

この場を借りて
御礼申し上げます。

さて、
この曲阜郊外の戦いは、

孔子の弟子の冉有が
戦車で頑張った描写
目立つものの、

一方では、

相当に、
歩兵が入り乱れた
戦いであった模様。

【雑談】
300名の戦闘単位

余談ながら、

冉有の直属の部隊
武城から引率した
「徒卒」300名。
杜預によれば
「歩卒、精兵」。)

実は、
300名の編成単位

『左伝』でいくつか
例があることで、

これについて
少し考えてみます。

『逸周書』「武順」
300名の編成単位
「佐」としています。

その指揮下には
100名の部隊
である「伯」
3隊あります。

さらに、その下には
25名の「卒」

そして、
「佐」と「伯」の
関係は以下。

均伯勤、労而無携、
携則不和
均佐和、敬而無留、
留則無成

勤:力を尽くす
労:真面目に勤める
携:離れる、分離する
和:調和する、整える
留:拘泥する
成:実現する

均しく伯は勤め、
労たりして、
携(はな)れるなく、
携(はな)れれば
すなわち和ならず
均しく佐は和し、
敬いて留まるなく、
留まればすなわち
成すなく

大意を取れば、

100名の部隊は
勤勉さと
他の伯との連携が
必要とされ、

対して、

300名の部隊は
上位部隊との協調性と
戦術面での柔軟性
必要とされる、と。

要は、
300名の意味は、

指揮官に
或る程度大きい
裁量があり
戦術面で独立性の高い
戦闘部隊。

さて、
『左伝』で
いくつか見られるのが、

特別な作戦を
行うために
精兵を選抜して
部隊を編成する
ケース。

次に挙げる事例は、

残念ながら
『逸周書』に
基づいている
確証はないのですが、

謂わば、

300名あるある
につき、
御参考まで。

襄公17年
(前556)に
斉が魯に侵攻した際、

曲阜から
20キロ程度東に
位置する
防が包囲されまして、

これを守る魯の守備隊
城外の友軍と呼応して
夜襲を行うのですが、

その部隊の内訳として、

郰叔紇、藏畴、藏賈
帥甲三百

郰叔紇(すうしゅくこつ)、
藏畴(ぞうちゅう)、
藏賈(ぞうか)
甲三百を帥いて

と、あります。

この郰叔紇
(すうしゅくこつ)が
孔子の父の叔梁紇
(しゅくりょうこつ)。

藏畴・藏賈の詳細は
残念ながら
分かりません。

で、先述の
『逸周書』「武順」
前提に読めば、

叔梁紇が
2名の部下と自分で
各々100名、
計300名を率い、

さらに、
伯1隊は直属であった
ということかと
思います。

さらには、
「甲」というのは、

ここでは
夜戦が出来る―

『管子』
匡君小匡・第二十
にあるような、

敵に目立つ
旗や鳴り物に頼らず、

互いの声で
意思疎通が出来る程
結束力のある、

言い換えれば
巧妙な夜襲が出来る、

(地縁・血縁のある
兵士より選抜された)
精兵であろう、と。

因みに、
『管子』の
この部分の解釈は、

高木智見先生の
『孔子』
参考にしました。

【雑談・了】

4-3、魯軍の概要

さて、

武城発の300名の
冉有様御一行が
いくら強いと
言えども、

これだけで
戦争する訳では
ありませんで、

戦いの詳細について
考えるための
材料として、

一応、魯軍の概要
少しばかり。

直近の再編は
昭公5年(前537)。

その折、

魯の国軍を
季孫・叔孫・孟孫が
2:1:1の割合で
保有する、

で、国君の兵は?

―という、
どうもヘンな内容。

もっとも、

再編の本丸は、

兵士というよりも
動員を下支えする
領地・領民でして、

その30年弱前の
襄公11年(前562)
の「改革」を
前進させたもの。

早い話、

国君の力を削ぐための
政争の御話です。

大人の事情はともかく、

今回の郊の戦いでは、

最有力の卿の季孫
7000の兵を有し、

相手の斉の兵車の数
叔孫・孟孫のいずれか
よりも下回る、

という明らかな戦力差。

軍の、中・左右という
割り振りが
平時から存在するのかは
分かりませんが、

以上の経緯から、

先発して斉に突っ込んだ
左軍が季孫の軍、

寄せ手の先発部隊を
迎撃して
エラい目に遭った
右軍が、

その顔ぶれからして
叔孫の軍、

ということになるかと
思います。

さらに斉軍ですが、

この時の司令官は
国書で、
国氏は斉の有力勢族。

郊の戦いの
翌年に勃発した
呉・魯と斉の
大会戦である
艾陵の戦いも、
この人の指揮。

艾陵の戦いでは
上・中・下の三軍
呉に当たり、

国書は中軍に
属していたことと、

晋楚は元より鄭にせよ、
艾陵の戦いの呉も
然りで、

野戦で
三軍を並べるのが
当時のスタンダード
であることから、

兵の多寡はともかく、

は、さらにもう1隊を
展開させていた
可能性がある
思います。

4-4、
車戦の影にある歩兵戦

さて、武城の300名の
冉有様御一行を含めた
魯の左軍、
—額面通り7000も
いたのかは不明、は、

自分の息が
掛かった筈の
兵隊共が
言うこと聞かんわ、

それを見かねた
同門で若くて
血の気の多い
某(後述)に
アレコレ言われるわと、

紆余曲折を経たものの、

首尾良く
斉軍に殴り込みを
掛けまして、

挙げた戦果は
「甲首八十」。

余談ながら、

少なくとも当時から
死体から耳を切って
ボディ・カウント
するんですと。
―「馘」。

いえ、正確には、

車上の戦士が
同僚が気に喰わん
とかで、

生きてる人間の耳も
バッサリやる世間。

ゾ~っ。

それはともかく、

「甲首八十」の
被害によって、

斉のこの部隊
態勢を立て直せず
戦線離脱と相成ります。

この時代の「甲」は
身分の高い人か
選抜された精鋭か、

今のところ
厳密な定義は
サイト制作者には
分かりかねます。

その他、余談ながら、

甲士とは
恐らく
別のカテゴリーの
猛者として、

「大力」というのが
います。

残念ながら
座右の字引きには
なかったのですが、

用例からして、

身分の高い人が
身辺警護等のために
抱えている武芸者で、

城中の要人襲撃等で
活躍します。

【追記】

「大力」というのは
『左伝』を和訳された
小倉芳彦先生の
言葉です。

原文では、
「力臣」「有力」等
と称し―、

まあその、
名称がないような
ものです。

ですが、

「武芸者」
というよりは、

怪力の人が
有事の暗闘の
殺し屋として
重宝されたのは、

恐らく事実です。

エラい人々は、
普段は、

こういうのに
馬の飼育等を
させています。

対して、その政敵は、

どこそこの館には
誰其というのがいる、

という具合に、

平時から情報を集めて
警戒します。

社交で
方々の館に
足を運んだりする
訳でして。

『左伝』荘公32年、
襄公23年等を参照。

【雑談・了】

話を本筋へ。

さて、ここで、

魯が取った
斉の甲士の
首の数の意味
考えてみましょう。

斉軍の数は、

総数
どうも3500未満。

仮に、
2部隊展開していれば、

単純に考えれば、
1隊あたり
2000名を
切ります。

さらには、

当時の車歩の
大体の割合、

『逸周書』
100名当たり1両、

『司馬法』
後世の引用
75名当たり1両、

からして、

件の首80は、
戦闘に参加した
車上の戦士を
上回る数。

負傷者など
言うに及ばずで。

これが
意味するところは、

御約束の
車戦に加えて、

戦車が
敵の戦列歩兵に
突っ込っこむどころか、

歩兵同士でも
激しい白兵戦をやった
可能性が高い、

ということだと
思います。

こういう経緯から、

「斉師に矛を用い」の
軍事面での解釈は、

九去堂様が
解釈されているような
突破戦における
矛の威力、

もう少し言えば、

歩兵陣に対する
車上の矛の威力
なのでしょう。

4-5、
意味深な杜預の注

さて、サイト制作者が、

2、司令官の車左が
自ら矛を手に執って
敵陣に突入する武勇。

という
仰々しい解釈
用意した理由は、

戦いの件の末尾の
杜預の注
あります。

引用すると、以下。

言能以義勇
不書戦、不皆陣也
不書敗、勝負不殊

言うをあたうに
義勇をもってす
戦いを書かざれば、
皆陣せざるなり
敗れるを書かざれば、
勝負は殊にせず

書いて
後世に伝えるにも
勇気や正義感が
必要である。
書かなければ
何も残らない、と。

直接的には、

『西部戦線異状なし』な
『穀梁伝』や『公羊伝』
のことかと想像します。

さて、
これが意味する
ところですが、

サイト制作者の
想像ですが、

魯の太史を務めた
左丘明が
自分の国の恥を
暴露したことかと
思います。

と言うのは、

この郊の戦いの
構図として、

冉有の奮闘と
対をなすかたちで、

本来、

軍事力の中核を
担うべき立場にある
国人が、

実際の戦闘での
不甲斐さを
露呈しました。

その背景には、

直接的には、

寄せ手の斉の兵力が
少なかったことで、

その対応が
魯を牛耳っていた
三卿の政争が
見え隠れします。

【雑談】
厭戦の理由を考える

とはいえ、
サイト制作者としては、

この郊の戦いの件を、

孔子側の武勇伝だけで
済ませて良いものか、

どうも
疑問に思う部分も
見え隠れしまして。

ですが、

矛の話とは
どうも関係なさそうで、

春秋時代の
捻くれた捉え方、

あるいは、
『左伝』の歪な読み方の
ひとつとして
御参考まで。

さて、

郊の戦いの
何年か前の段階では、

魯と斉は、
姻戚による
同盟関係にありました。

この辺りは
季氏の動きが
になるので、

以下に記します。

まず、

魯の最高実力者である
季康子が、

自分の膝元に
亡命していた
公子時代の悼公に
妹君を嫁がせたのですが、

身内の痴話が拗れて
そのさんが
魯を出ないと来ます。

その後、

陳(田)氏の
後ろ盾で斉に帰国して
首尾良く国君になった
悼公の怒りを買い、

魯は斉の侵攻を
受けます。

で、その
後始末として、

魯は妹君を斉に出して
失った領土を
取り戻して
手打ちにする、

—という具合に、

スッタモンダの上に
斉と結んだ同盟が、

事もあろうに
北進して来た
呉の圧力で
御破算になった、

という
ややこしい経緯が
あります。

季氏と呉の事情で、

御隣の強国・
斉との関係が
猫の目にように
変わる訳です。

しかも、

北上する呉の
目の前でやった
小国・邾(ちゅ)
への侵攻も、

それらしい成果を
得られません。

これも、

季氏が
周囲の反対を
押し切って
強行するという
曰く付き。

で、その台風の目の
はといえば、

恐らく中原の目線では、

自分達の流儀の
軍事教練を
受けておきながら、

魯に周王以上の
過剰な接待を要求する
という
イカレ具合。

そのうえ、

その呉の影響力の強い
武城から
精兵を引率し、

その兵で
斉と戦おうと
息巻くのが、

季氏の家臣の冉有。

当然、
冉有の背後には、

その少し前に、

現職の司寇として
国君の権力強化を
推し進め、

反対分子の兵乱を
武力で鎮圧した
師匠・孔子の影が
見え隠れ。

例えば、

冉有は弟弟子の樊遅を
車右に抜擢しますが、

周囲の
若い(当時31歳前後)
という意見を
押しのけています。

当時、は、
呉の勢いを
一時的なものと
看破しており、

長い目で見れば、

策源地が
曲阜やから程遠い
(当時の感覚で3ヶ月)
呉の勢いが
盛りを過ぎれば、

拗れた斉との関係を
見直さざるを
得ません。

穿った見方をすれば、

呉に振り回される
季氏と、

その勝ち馬に乗って
自分達の利害に反して
暗躍する
怪しい政策集団の
台頭、

—という構図で、

曲阜の中で
対斉戦への消極論が
燻るのも
分からん話ではないと
思います。

【雑談・了】

まあその、

いくら国内で
ゴタゴタが
あるとはいえ、

目先の国防にも
手を抜かないという
心ある人々
いまして。

崩れた右軍の話として、

御丁寧にも、

気骨のある人や公族が
戦死する描写まで
網羅されています。

左丘明が生きた時代が
近かったか、
あるいは存命中に、

それも郷里で起こった
戦いにつき、

見聞きした話が
多かったのではないかと
想像します。

こうした状況を受けて、

サイト制作者は、
敢えて、

「斉師に矛を用い」は、

国人の劣勢を尻目に
奮闘した冉有の武勇を
象徴している、

という解釈も
出来るでのはないか、と、
考えた次第です。

と、言うのは、

はじめに挙げた
3箇所の
「矛」の件のうち、

先述のように、

焉陵の戦いの欒鍼、
鉄の戦いの蒯聵と、
この2箇所については、

機能的な話ではなく
武勇の象徴
取りまして、

この郊の戦いの
それにも、

機能的な理由以外にも
同じニュアンスを
感じたからです。

おわりに

無駄話で焼け太って
長くなりましたので、

以下に要点を纏めます。」

1、『左伝』における
矛の描写は、
少なくとも3例あり、

いずれも
戦場における武勇を
象徴していると思われる。

2、もっとも、3例中、
哀公11年の1例は、

歩兵陣に対する
車上の矛の有効性を
示している可能性がある。

3、春秋時代の車戦には、

まず、車上での射撃戦、
次いで、長柄の武器での
斬り合い、

そして、降車後の
白兵戦という流れがある。

4、実際の戦闘では
かなり臨機応変に
武器を使い分け、

特に降車戦闘では
肉弾戦も行う。

5、長柄の武器や
弓については、

車戦に加えて
降車戦闘も
行うことから、

搭乗員全てが
所持している
可能性を考えたい。

6、以上の1~4、の
項目より、

当時の武器に対する
効能として、

臨機応変に使い分ける
機能的なものと、

外見の与える
精神的なものが
存在する。

後者は、
本文では触れなかったが、

管見の限り、例えば、

飾りのついた
儀仗的な戈や斧等が
少なからず出土している。

【主要参考文献】
(敬称略・順不同)

左丘明著・小倉芳彦訳
『春秋左氏伝』(各巻)
杜預『春秋経伝集解』
『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』
(国学導航)
司馬遷
『史記』(維基文庫)
金谷治訳注『論語』
劉熙
『釈名』(天涯知識庫)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
周緯『中国兵器史稿』
篠田耕一
『武器と防具 中国編』
稲畑耕一郎監修
『図説 中国文明史3』
薛永蔚
『春秋時期的歩兵』
高木智見『孔子』
愛宕元・冨谷至編
『新版
中国の歴史 上』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版
香坂順一編著
『簡約 現代中国語辞典』

【言い訳】

思い出すのは、

トイレに籠って
長時間粘った割には
戦果の乏しかった時の
徒労感と絶望感。

あまり
論旨とは関係ない
魯・呉・斉の
関係の整理に
思いの他
手間取りました。

その他、
孔子関係の話は、

弟子や本人を
誉める話の裏で
色々ありそうで
ムツカシアルヨ。

サイト制作者の性格が
曲がっているといえば
それまでですが。

それはさておき、

御笑読頂いている
皆様には
本当に申し訳なく
思います。

カテゴリー: 軍制 パーマリンク

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