前漢斉王墓出土の札甲 ~劉永華『中国古代甲冑図鑑』を中心に その3

はじめに

今回は、前漢西王墓出土の札甲の
紹介記事の最終回。

前回までに網羅出来なかった
冑(兜)の御話で御座います。

―「近いうちに」とは書いたものの、

蓋を開ければ2週間を越え、
大変申し訳ありません。

口ならぬ、予告は災いの元、
かしら。

1、冑の全体像

それでは、早速、
モノを見ることとします。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」、劉永華『中国古代甲冑図鑑』より作成。

このアレな図は、

高橋先生の論文
掲載されていた
復元品と思しき図
その解説と、

『中国古代甲冑図鑑』
掲載されていた展開図
その説明を元に
描き起こしたものです。

なお、高橋先生の論文は、
以下のアドレス(論文検索サイト)より
論文名や著者名等で
検索を掛ければ
PDFでファイルが入手出来ます。

ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

毎度、同じようなことを
書いていますが、
このサイトを
初めて御覧になる方々の為。

因みに、冑には
甲片に装飾はありません。

以前の記事でも触れましたが、
前漢斉王墓からは
同じタイプの鎧が
2領出土しまして、

そのもう片方、つまり、

前回に説明した鎧と
同型ながら
甲片に装飾のない
「素面甲」と呼ばれるものと
一組となる冑なのだそうで。

続いて、
甲片の繋ぎ方
後述しますが、

展開図を見る限り、
前回に説明した鎧と
同じ方法です。

また、高橋先生の論文の
復元品と思しき図には
下辺と上辺に縁取りがありました。

冑と鎧の本体が
同じ構造であれば、

冑の縁取りは、
皮革を織物で包んだ裏当てだと
思います。

因みに、上辺には
かすかに
ギザギザになっており、

高橋先生の論文によれば、
繊維質のものが
付着していたそうで。

また、残念ながら、
下辺の縁取りの詳細は
分かりません。

その他、頭頂部は
になっています。

穴を織物で覆ったのか
その他の装飾があったのかは
残念ながら
分かりかねます。

【雑談】冑の穴の理由を想像する

想像と言いますか、
根拠に乏しい妄想話の類です、
一応。

因みに、前漢以前の
冑の出土品や復元品は、

例えば、周代の銅製の鋳型で
装飾の施されたもの、

春秋時代の
甲片を繋ぎ合わせた皮冑、

戦国時代の燕より出土した
鉄製の甲片を繋ぎ合わせたもの、と、

いくつかあるのですが、

自身が浅学なだけ
かもしれませんが、

サイト制作者が知る限り、
頭の形にフィットするタイプしか
知りません。

さらに、後漢の鮮卑と思しき墓からは、

やはり、
「蒙古鉢形冑」と呼ばれる、

冑の本体の形は砲弾型
頭頂部に半球の蓋があり、

後頭部の覆いが浅く
項(うなじ)が
裸になるタイプのものが
出土しています。

この辺りは、
先述の高橋先生の論文が
詳しいので、

PDFで復元図を御覧頂ければ
分かり易いかと思います。

以下は、
あくまで主観と想像ですが、

こうした
高さを求める理由として、

あくまで想像ですが、

当時の男性の
重要な身嗜みである
髷を納める工夫の
ひとつではないか、

と、思う次第です。

図解すると、
このようになろうかと。

そして、鮮卑の墓から
出た理由は、

漢の鉄の加工技術の高さから、

漢よりの渡来品では
なかろうか、と、想像します。

それも、王墓と思しき墓より
出土した、

甲片の小さい魚鱗甲タイプで
漢で言えば王が纏うレベルの
札甲につき、

その調達は、
交易ではなく
政治絡みの話かもしれません。

さて、ここで、
北方の習俗について少々触れます。

『後漢書』南匈奴列傳
「烏桓」の項には、

父子男女相對踞蹲。
髡頭為輕便。

父子男女相對し踞蹲す。
髡頭を以て輕便となす。

踞蹲(きょそん):うずくまる。
(字引の典拠がこの部分!)
髡(こん):頭を剃る

と、あります。

文脈や字引の内容から、

「男女」は息子と娘
解釈します。

で、性別を問わず、
父親の立ち合いで
髪を落して身軽になる、

という話か。

因みに、女性の場合は、

「嫁時乃養髮、分為髻」と、
あります。

「髻(けい)」は髷(まげ)。
頭上や後頭部に結うものです。

よって、

嫁いだ時に伸ばして
分けて纏める、

という話かと思います。

さらに、肝心な
「鮮卑」の伝は以下。

其言語習俗烏桓同
婚姻先髡頭

その言語習俗を
烏桓と同じくす。
ただ、婚姻に先んじて髡頭す。

要は、鮮卑は婚姻の前に髪を剃り、

烏桓はいつ髪を剃るのかは
正確には分からないものの、

女性が嫁ぐ時に伸ばす
ということは、

未婚の段階で行う、
という話かしら。

訳が悪いうえに
話が回りくどくて恐縮ですが、

詰まる所、

丈の長い冑が出土した
鮮卑の土地には、

成人の男性には
髪を結う習慣がない訳です。

で、そこに、
どういう訳か、

髷を納めるための
のっぽな兜が
王墓の副葬品として
存在した、

という、サイト制作者の仮説、
と言いますか、
妄想の類の与太話。

因みに、漢民族はその真逆。

あの曹操も自分の頭をやった
髡刑というのがあります。

この辺りの話は、
故・林巳奈夫先生
『中国古代の生活史』
詳しくあり。

それはともかく、

察するに、
一昔前の話で言えば、

左ハンドルの外車を
輸入する感覚に
近いのかなあ、と。

モノが良ければ、

土地の事情の違いに起因する
実用性に欠ける機能も
そのままの形で入って来る、

という御話と推察します。

その他、
以下も重要な点だと思いますが、

冑が高さを要する工夫が
何故、前漢以降に施されたのかは
残念ながら分かりませんので、

この話は、
これ位にさせて頂きます。

【雑談・了】

2、冑本体の甲片

それでは、以降、

斉王墓出土の冑の
部分ごとの
甲片の繋ぎ方について
触れます。

まず、本体の甲片の繋ぎ方は、
以下のようになります。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」、劉永華『中国古代甲冑図鑑』より作成。

判明している部分は、

高さ5.3cm、幅3.7cm
という大きさと、
縦横の甲片の
規則的な配列だけです。

なお、実線は、に来る甲片、

破線は、そのにある、
―言い換えれば、
内外で重複する部分
意味します。

配列について言えば
前回触れたような
鎧と同じ構造です。

具体的には、

まずは、中央の甲片を決め、

その左右の甲片は、

中央側の甲片と結ぶ側は
内側に入れ、
その横の甲片に繋ぐ側は
外に出します。

こうして横一列になった甲片を
環状にし、

これを3列用意するのですが、

(あるいは、
3列を上下で繋いだ後に
環状にするか)

上下に繋ぐ際は、
下段を外側に出します。

穴の位置については、

先述の高橋先生の論文に
掲載されている復元図より
大体の位置が分かる、

―具体的に言えば、

上下左右の真ん中、
という程度のことで、

前回のようなミリ単位での
推測はあきらめました。

もっとも、どの鎧や冑にも
言える話かもしれませんが、

復元品の写真や
『中国古代甲冑図鑑』の
展開図等を見る限り、

段数や横の枚数が
狂わない程度には、

公差めいた
甲片の大小のバラつきは
少なからず
あるような気がします。

3、耳当ての甲片

続いて、耳当ての部分の
甲片の繋ぎ方は、
以下のようになります。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」、劉永華『中国古代甲冑図鑑』より作成。

作成の要領は
先のものと同じで、

『中国古代甲冑図鑑』の展開図に
近所のモールの文具屋さんで
小銭で買った定規を当てて
計測した、と、称する、

如何にも、
サイト制作者のような
いい加減な文系脳のやりそうな
原始的な手法です。

したがって、
表中の数字は、

あくまで
サイト制作者の推測です。
悪しからず。

さて、耳当ての最上段は、

甲片を本体と上下が逆
千鳥(ジグザグ)
繋がれています。

また、一番後ろに当たる甲片は、
横に0.5枚程度広いもの
宛がわれています。

さらに、下の段には、
下段側を内側に繋ぎますが、
千鳥にクロスさせずに、

真下の甲片と
上下で垂直になるように
繋ぎます。

おわりに

最後に、例によって、
今回の記事の内容を
以下に纏めます。

1、冑の甲片には装飾はない。

2、冑の本体の構造は
鎧と同じである。

つまり、中央の甲片を決め、
両側に繋げたものを複数用意し、
これを上下に繋ぐものである。

3、冑の頭頂部は穴になっている。

4、冑の上下辺は縁取りされている。
内部も鎧と同じ構造であれば、
裏当てがされていた可能性が高い。

5、耳当てについては、
甲片の並べ方は本体と逆である。

その他、本体と耳当てとの接合部は
千鳥で繋ぎ、
耳当ての上下は垂直に繋ぐ。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
劉永華『中国古代甲冑図鑑』
楊泓『中国古兵器論叢』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」
林巳奈夫『中国古代の生活史』
范曄『後漢書』
戸川芳郎監修『漢辞海』第4版

カテゴリー: 兵器・防具, 学術まがい, 情報収集 パーマリンク

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