漢王朝の宮中政争の切り札・尚書 ~前漢編

例によって無駄に長くなったことで、
以下に章立てを付けます。

適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

 

はじめに
1、そもそも尚書とは?
2、外戚と宦官の暗闘と地方軍閥
3、董卓政権の行方
4、董卓政権を採点する?!
5、魏蜀と尚書
6、尚書はタダの事務職か
7、前漢の大転機、呉楚七国の乱
 7-1、勝者の機構改革
 7-2、古代王朝の御約束、「外朝化」
 7-3、王国が手放した機能とは?
8、武帝の反面教師・始皇帝
9、強い王朝ありきの尚書の威力
10、武帝は政務をどこで執ったのか
11、機密の把握と公文書の取り扱い
12、因縁の対決、宦官 対 外戚
13、『塩鉄論』のナナメ読み
 13-1 不毛な「政策論争」の争点
 13-2 で、実際、何が書かれているのか
 13-3 対決!銭ゲバ官僚 対 腐れ儒者
14、天子様の本気!平尚書事と中書令
15、宮廷三国志、出る杭ならぬ、士人は討て?!
16、外戚王氏の勝利と簒奪への布石
17、簒奪前夜の王莽の肩書
おわりに

 

 

はじめに

今回は漢代の尚書についての話。

やってることが戦争から随分遠くなっていますが、
政府の権力構造も軍の戦力の一部だと
サイト制作者に無理やり暗示を掛けることとします。

で、そもそも、
こういうことを調べ始めた理由は、
尚書が北伐をやった
孔明の政治力の泉源のひとつだからでして。

とは言うものの、

こういう皇帝権力の中枢の関するハナシ
当然の如く先行研究が分厚い訳で、

早い話、
サイト制作者の手に余るものです。

そのような事情につき、

横着で先生方に失礼な手法で
恐縮だとは思うものの、

手元にある論文をつまみ喰いして
さわりの部分を紹介する程度に留め、
例によって無責任な感想を付け足します。

 

二千年弱経過していることと
売名にも貢献することで、

時の英雄の皆様も、
広い心で笑って許して頂けると信じます。

 

ただ、王朝の権力闘争の本丸であり、

受験生泣かせの小難しい中国王朝史の
本質的な部分でもあり、

三国志の英雄諸氏も
漢代の一連の政争を
最良の反面教師として
(扱いに失敗しても)いることで、

このテーマに少しでも興味を持って頂ければ
綴る目的を達成したということに致します。

 

 

1、そもそも尚書とは?

 

さて、尚書とは、
皇帝の詔書を下達
臣下の上奏を皇帝に伝達する仕事。

簡単に言えば、

皇帝と臣下の間に入って
伝言ゲームをやるという
「カンタン」な御仕事です。

当然、皇帝陛下の御意思を忖度しないと
御叱責を賜る訳ですが。

ところが、
「カンタン」な御仕事程
応用が利くものでして、

 

もう少し言えば、

職権を乱用して
自分達に都合の悪い上奏文を
握り潰すケースも
往々にしてある訳です。

 

したがって、

前漢の武帝時代以降、後漢末期まで、

皇帝権力の強大な
漢代の政府中枢の権力闘争では、

常に、このポストの掌握が
勝敗のカギを握っていました。

 

その大体のパターンとしては、
本命の外戚(皇后の家族や親族)・宦官
そしてダーク・ホースである士人官僚
三つ巴の争奪戦。

 

 

2、外戚と宦官の暗闘と地方軍閥

 

序に言えば、

三国志の序盤の悪の主役である
張譲等、十常侍は、
実は、こうした政争の勝者でして、

政敵の牙城であった尚書を
骨抜きにします。

ですが、その頃には、
中央政府の権威は失墜していまして、
どうやら宮中の政争自体が
意味を持たなくなります。

 

もう少し具体的に言えば、

地方の軍隊を動員した政敵の外戚・何進
先手を打ってその何進を倒した宦官勢力
共倒れ状態になり、

何進に呼応した
一介の地方軍閥である董卓
この権力の空白を突いて
洛陽を掌握したのは御承知の通り。

 

 

3、董卓政権の行方

 

董卓の政権掌握が意味するところは、

それに呼応した董卓が
中央の権力の空白を突いたこと以外にも、

(そもそも、何進が
地方の軍隊に触手を伸ばしたとはいえ)

中央の政争に地方の軍隊を巻き込むという、

(王莽関係の兵乱を除いて)
何百年続いた中央の政争のルールが
根底から覆るレベルの番狂わせ
現実に起こったところに意味がありました。

 

ところが、董卓にしてみれば、
如何に漁夫の利を得たとはいえ、

宮廷や地方官、
そして、その金脈である地方豪族にコネのある
外戚や宦官がいないことで、

国政運営にあたって、
扱いの面倒な士人官僚と
連携せざるを得なくなります。

果たして、
コイツ等を登用して地方官に起用するや、

胡軫や徐栄のように自分に味方する者もいれば、
袁紹の門生故吏(官界の縁者)である韓馥のように
むこうに走る人も少なからずいる、

という具合でして、

結局、泥沼の戦争になり、

名ばかりの遷都、
要は、都落ちを余儀なくされます。

 

 

4、董卓政権を採点する?!

 

董卓の一介の軍閥の権謀術数としては、

長安への撤退は
軍事的には必要な措置であり、

政策的には
諸侯の離間策として成功したとはいえ、

 

洛陽での権力掌握後の
一国の中央政府の行う政策としての
文脈から考えれば、

諸侯の利害の調整に失敗して
兵乱を招くこと自体が、

政治力の限界を露呈していると
言わざるを得ません。

 

一方で、董卓以外の
地方の群雄にとっても、

要は、黄巾の乱から宮中抗争の過程で
諸々の地方官や豪族が色気を出して
兵馬の抗争に乗り出したのは、

地方の兵馬で中央の権力を掌握出来る好機、

あるいは、地方レベルであっても、
「実力」で既存の秩序をひっくり返す好機
到来する機運が
この上なく高まったからでしょう。

 

 

5、魏蜀と尚書

で、こういう政争・兵乱の元凶である尚書は、

何処ぞの映画のように
パンドラの箱にでも封印されたかといえば、
当然そのようなことはなく、

と、言うよりは、

こういう箱を作っても
開ける奴が必ずいるのが
人間社会の真理と言いますか、

官房組織の有用性と職権乱用とは
別の話と言いますか。

 

事実、曹操は、一旦は
尚書のヘッドの録尚書事になっていますし、

特に、後漢の亡霊のような蜀漢では、
滅亡前夜まで
尚書は権力の中枢で在り続けました。

孔明以下、歴代の権力者は、
悉く録尚書事の肩書を持ちます。

 

蜀漢特有の事情としては、

御飾りでも相応に賢い皇帝様や、
侍中(後漢の官職)の肩書を持つ
荀彧のような有能でもカタブツな漢臣のいる
曹操政権とは異なり、

曹操のように、
既存の王朝を
制度面からなし崩しにするような
面倒な細工が必要なかったのでしょう。

 

恐らく次回に詳述しますが、

サイト制作者の愚見としては、
後漢王朝の最盛期の制度を
イイトコ取りした側面を強く感じます。

因みに、曹操や孔明の時代は、
尚書からは外戚も宦官もパージされ、
骨太の士人官僚が担い手でありました。

 

その意味では、

戦時下の必要措置とはいえ
能力主義に特化した理想の人的配置であったと
言えるかもしれません。

特に曹操なんか、自分の祖父が宦官で
当人が後漢の政争でエラい目を見たこともあり、

外戚を政権中枢に入れないスタンス
明確にしていたようです。

 

 

6、尚書はタダの事務職か

 

前置きが長くなって恐縮ですが、
以後、尚書の歴史や機能について
綴ることと致します。

まず、漢代の尚書の仕事は、
識者によれば、簡単に言えば、
以下のふたつだそうで。

 

即ち、
1、天子の詔令、臣下の上奏を司る。
2、枢機に預り綱紀を統べる。

 

要は、皇帝様の命令書を臣下に配布し、
臣下からの意見書を皇帝に渡すこと、

そして、皇帝を中心として
国家の中枢で政策を考え、
規律を正すための法律を出す、

―という話だと思います。
(大丈夫かしら、こういう理解で。)

 

つまり、皇帝の側近として、

1、のような事務仕事に加え、
2、のような管理職の頭脳労働もある、
という部署。

 

言い換えれば、皇帝に力がなければ、
今日で言えば、どこの会社や役所にもあるような
一介の秘書業務という具合。

外戚と宦官が一族の存亡を賭けて
争奪戦を繰り広げるような
価値を見出すことは出来ません。

 

 

7、前漢の大転機、呉楚七国の乱
7-1、勝者の機構改革

 

前漢の建国当初も、

長安の政権が
呉楚七国の乱を鎮圧するまで
各地の王国の王様が
広大な領地を支配しており、

しかも、それぞれの王国
旧戦国時代の王国と同じ権限
持っていたことで、

皇帝の権力は、実は、
それ程強かった訳ではありません。

言い換えれば、

世界史の授業でいうところの
「郡国制」の「国」の力が
桁違いに強かったのです。

 

その理由のひとつは、

反秦で結束した諸侯の大義名分
秦によって滅ぼされた国の
再興にあったからでした。

 

ところが、
この乱の鎮圧によって
漢の皇帝の力が俄かに強大になりまして。

王国の領地の大半を
直轄地である郡に変えたばかりでなく、

王国から、

当時の中央政府の職務である
御史大夫(監察)・廷尉(法務)・
少府(宮内関係の業務)・
宗正(皇帝の親族に関する職務)の権限を
召し上げます。

 

特に、御史大夫・少府は、
元は王が側近に諮問して
政策を立案・公布する部署でして、

御史大夫の監察の御仕事は、
官房関係の職務から
派生したものだそうな。

 

 

7-2、古代王朝の御約束、「外朝化」

 

もう少し言えば、

戦国時代以降の官制の流れで言えば、
御史大夫も尚書も、実は、
少府から派生した経緯があります。

 

因みに、
古代中国の王朝の官制における
御約束のひとつに、

元は皇帝の側近として、

蛍光灯の取り換えから
暴〇団との付き合いまで
イロイロやっていた総務な部署が
専属の仕事を持った途端、

権威こそ上がるものの
権力の中枢(≒立法機関)から外れ、

それと並行して
次の何でも屋が現れ、
皇帝の威を借りて実権を握ります。

手に職が付くと、
却ってエラくなれないという皮肉。

 

大きい組織では、
事務屋が技術屋に使われる構図の
本質なのでしょう。

のみならず、
この時代の尚書や唐代の六部等も
そうですが、

官職名と実際の仕事が
時代ごとにどのように変わっているのかを
吟味することが肝。

こういう類の官制の変遷を、
専門用語で
「外朝化」とか言ったりするそうな。

 

 

7-3、王国が手放した機能とは?

さて、戦争に負けて
長安の政権に
頭が上がらなくなった王国では、

御史大夫や少府のような、
王朝の設立・運営に必要な
重要な組織を取り上げられます。

そして、その代わりに、
中央政府の息の掛かった相(丞相を改称)
送り込まれ、

この地方官が
内史(王都の行政を担当)、
中尉(王都の軍事・防衛を担当)、
郎中令(王の身辺警備を担当)、
太僕(王国の車馬の管理を担当)、
を統率するのですから、

王にとっては、
謀反を企てようが登楼してハメを外そうが
何をやるにも中央政府に筒抜けでして、

 

誤解を恐れずに言えば、

要は、「国」は、
宗室・劉家の、
態の良い捨扶持に改編されたという訳です。

無論、実質的に牛耳るのは、
長安の息の掛かった地方官。

 

実質的な郡県制と称されるのは
以上のような行革が背景にありまして、

さらには、この構図は、

王莽関係のゴタゴタの時期を除いて、
大体は、後漢滅亡まで続きます。

 

因みに、曹操の官歴のひとつ
「済南国の相」というのがありますが、

郡レベルのチンケな王国に派遣され、
王族を監視しつつ
行政を見るという御仕事。
(多分、これで間違っていないと思います。)

 

 

8、武帝の反面教師・始皇帝

そして、上記のように
皇帝の権限が強くなり、

そのうえ、
うるさい太后や老臣が
政治の一線から引いたタイミングで、

外征だの増税だの、
儒教を国教化して
それをダシに人事制度の改変するだの、
カルトに凝った皇太子を手に掛けるだの、

イロイロやったのが、
有名な武帝でした。

 

既に御気付きの方がいらっしゃるかと
思いますが、

さて、これに酷似した状況、
少し前にもあったかと。

そう、かの有名な、
『キングダム』の始皇帝様が
一気呵成に統一を成し遂げた直後のそれ。

 

ですが、
物事が早く進み過ぎたことに対して
その処理が追い付かず、

結局、クソ真面目な始皇帝が
オーバー・ワークで倒れた後、

やることなすこと後手に廻り、
そのうえ政権の腐敗にも自浄作用が働かず、

結局、僅か15年で国が滅びました。

 

ですが、始皇帝の政策の
セッカチな進め方は賛否こそあれ、

中央集権体制を志向したこと自体は
間違っておらず、

呉楚七国の乱の戦後処理が
それを物語っております。

いえ、集権体制の方向性どころか、

秦の制度の大半を
アク抜きしてイイトコ取りしたのが
建国当初の漢。

当時の官職名に
秦制の横滑りが多かったのは、
そうした事情が背景にあります。

 

大体、人間社会において、
権力を握ったヒトが考えるのは、
まずは自分の裁量を増やすことです。

職務上、
入って来る情報量が多いことで、

早急になすべきことが一気に増えて
焦るからだと思いますが。

 

余談ながら、
一説によれば、

球界の盟主を自称する
某球団の名ショート、
今や球界の元老格ですが、

自分の現役当時の監督を、

現役時代に練習時間の大半を
打撃に注ぎ込んだ我儘ぶりと、

監督としての
チーム・プレイを強要する采配との矛盾を
クソミソにけなしていたものの、

(年配の方の御話ですと、
当時のプロ野球は、勝手にマウンドを降りるなど
ベテランの名選手がムチャクチャやっていたようで、
客としてはそれが面白かったそうな。)

自分が監督になるや、
「管理野球」なる集権体制で臨み、

今度は選手や記者から、
自分は肉食で選手はダイエットという具合の
現行不一致を叩かれる羽目になりました。

中国の戦国時代の名のある兵家が
寝食を兵隊と共にした故事を
思い起こされたく。

まあその、要は、

自分が権力を握った途端、
あれだけ嫌った恩師と
同じことをやり始めた訳です。

―ただし、この方は、
監督としての実績は
見事なものであり。

因みに、
現役時代の「管理野球」の人を管理した人は、
旧帝國陸軍の戦時中の下士官―少尉殿でして
数年前に鬼籍に入られた方ですが、

指揮下の兵隊を暴力でシゴき、

戦後、大御所の某俳優から、
あの人は人間的に信用出来ない、だとか
ボロクソに言われておりました。
(もっとも、この方も当時から態度が大いことで
よく上官から殴られたそうですが。)

当時は殴るのが当たり前でしたが、

他の方も、
下士官時代のこの方の鉄拳制裁は
凄まじかったと
書いていることで、

当時の水準でも
余程のものだったのかもしれません。

ただし、その方の手記では、

確か、親族の葬儀で勝手に抜けた兵隊を
殴った後で、「二度とやるなよ」と諭し、
軍法には問わなかったという具合に、

血も涙もない人ではなかった模様。

まあその、

終戦後、
兵役に就いた知識人が公の場で
当時の上官をボロクソに言う例に
枚挙に暇がないのは、

要は戦争に負けて
組織の権威が失墜したからです。

フォークランド紛争も、
それまでコンドル作戦とかやって
威張っていた軍事政権が倒れたことで、

それまで反政府運動や従軍で
ひどい目に遭った人が
言いたい放題言っていますね。

でも、国家はカネの勘定がマトモに出来ず、
サッカーでは散々にやり返す癖に。

中国序に、
『少林サッカー』の「サッカーは戦争だ」は
映画の文脈では半ば冗談にも見えますが、

一面では、個人的には真理だと思います。

こぼれ話を纏めますと、

情報と裁量と時代の空気の話で、
何かの参考になる、訳がありませんね。
失礼しました。

 

 

9、強い王朝ありきの尚書の威力

―話がかなりヘンな方向に飛んだことで、
武帝と尚書の話に戻します。

とはいえ、
俄かに権力が転がり込んで来た
ということは、

同時に、
管轄部署に対して事細かな命令を出したり
膨大な予算を執行したりと、

義務としての仕事も
膨大に増えることを意味します。

そこで、武帝が始皇帝の失敗を踏まえて
何をやったかと言えば、

今回のテーマ、
尚書の活用であります。

 

具体的には、

元来、
皇帝に関係する公文書を
扱う部署に過ぎなかった尚書を、

権力の中枢の諮問機関に改組して
大いに利活用します。

もう少し言えば、

自分の志向する政策の完成度を高めて
的確に下達させる仕組みを整えた訳です。

このあたりの経緯は、
読み易い本としては、

 

冨田健之先生の
『武帝 始皇帝をこえた皇帝』
(山川出版社 世界史リブレット012)

 

に詳しく記されております。

因みに、
武帝時代の直前頃には、
尚書令―丞(役人のランク)―尚書、
という職階があったそうな。

また、冨田先生は他の論文で曰く、

武帝以降、後漢末までを通じて、
外戚と宦官の職権乱用があったとはいえ、

尚書の役割は、
基本的には変わらなかったそうな。

 

 

10、武帝は政務をどこで執ったのか

 

これ以降、前漢末までの
尚書関係の権力闘争の経緯については、

鎌田重雄先生の御論文、
「漢代の尚書官
―領尚書事と録尚書事とを中心として―」
(『東洋史研究』 第26巻・第4号)

に詳しいので、これを中心に綴ります。

 

因みに、この号、
かなり古い雑誌ですが、

大庭脩先生の『前漢の将軍』等、
他の論文も
大御所の先生が御書きになった
春秋秦漢の戦争関係の面白い論文が多く、

ゲーム狂いのサイト制作者としては、
大当たりの号だと思います。

 

後、人文系の論文が
何十年も読まれる(引用される)
理由のひとつは、
先生方の学識の豊富さ以外には、

それだけ研究者が喰えない
≒書ける人が少ない分野だからです。

 

さて、武帝の肝いりで改組された尚書ですが、

理想に燃えた皇帝様の
清く正しく美しい組織かと言えば、

一面では、どうも、そうでもなく。

―と、言いますのは、

武帝がどこで政務を執ったかと言えば、
事もあろうに、後宮だったりします。

そう、皇帝の奥様の話になれば、
必ず登場するのが宦官というのが
中国の王朝の御約束のひとつ。

 

言い換えれば、この時点で、

士人官僚が政治の中枢から
締め出されます。

 

 

11、機密の把握と公文書の取り扱い

 

この辺り仕組みを、
もう少し詳しく触れますと、

まず、「謁者」という官職があります。

この官職の役割は、以下のふたつ。

 

1、賓客を助け、天使の命を受けて、
その使者になります。

2、章奏=上奏文を皇帝に奉り、
皇帝の下問を当該の官に伝えます。

 

要は、皇帝と臣下・賓客の間を
取次ぐ御仕事です。

この謁者を率いるのが「中謁者令」。
「中」中人、つまり宦官
「令」は部署の責任者の意。

この中謁者令に尚書の職務を加えたのが、
「中書謁者令」。

そして、この略称が、「中書令」。

序に、その次官である「僕射」
置かれます。

 

そして、かつてないレベルの
強大な国政権限を持つ皇帝
外部の人間との取次役が
全員宦官であり、

皇帝様が目を通す
公文書の遣り取りのみならず、

いつの間にか
国家の機密にも参画したのが、

当時の尚書の特徴でした。

 

そして、この御仕事の醍醐味である
公文書の取り扱いですが、

まず、上書者(犯罪者でも出来ます!)は、
正・副と2通作りまして、

次に、これを受け取ったクソな宦官共の場合は、
まず副書を開封し、

書式に沿わないもの、
そして、内容如何によっては、
上奏しません。

コレがミソ!

要は、自分達に都合の悪いものは
職権を乱用して握り潰す訳です。

 

―で、次の昭帝の代には
中書令は置かれませんでしたとさ。

 

 

12、因縁の対決、宦官 対 外戚

 

そして、権力闘争の流れが
真逆のベクトルに振れたのが、
次の宣帝の時代。

 

何があったかと言えば、
以後の宦官の宿敵である外戚の台頭です。

 

具体的には、
この時代には、

匈奴相手の外征で大功を立てた
霍去病の異母弟である霍光が、

大司馬・領尚書事として、
政治の実権を握ります。

因みに、領尚書事とは、
臨時の尚書の責任者です。

 

―が、実際には終身でやる訳でして。

 

尚書の実務の担い手は宦官か士人かは
分かりませんが、
統括したのはこの人だったのでしょう。

数ある肩書の中での
宮中における政治力の泉源は、
この「領尚書事」でした。

 

 

13、『塩鉄論』のナナメ読み
13-1 不毛な「政策論争」の争点

 

余談ながら、
この霍光の時代には、

匈奴との対峙を続けるうえでの
戦費を捻出したい
御史府の桑弘羊との政争がありました。

桑弘羊は、御存じ、
塩・鉄の専売その他、
辺境の屯田等による歳入増加を
企てており、

国庫の収支の安定に
大きく寄与しました。

 

ですが、国民のウケは悪く、
当時の経済官僚は
「酷吏」と蔑まれていました。

 

御史大夫の役職にあったのは、
捜粟都尉や大司農等の
財務畑を歩いた後の、

謂わば、
上がりの肩書とでも言いますか、
前漢の執行機関の最高位である
三公のひとつ。

 

対する霍光は、

こうした強引な経済政策によって
収奪を受けた商工業者の
不満の受け皿としての
バラマキを志向しておりました。

 

で、恐らく霍光が仕掛けたであろう、

政敵に役人志望の書生をけしかけて
両者の間で不毛な論戦を繰り広げる、
という、

くだらない茶番を、

殆ど同世代の知識人が
議事録風に脚色したのが
有名な『塩鉄論』。

 

 

13-2 で、実際、何が書かれているのか

 

で、サイト制作者も、
当時の庶民の生活が分かるというので

「三國志」シリーズのように
少しばかり「政治力」でも上がるかと期待して
わざわざ(中古で)買って読んだのですが、

確かに、
争点が明確な論争だけに、

政策論や当時の世相から、
儒家の答弁のロジックから、

イロイロと為になる話も
記してあるものの、

読み物の論旨としては失笑モノ、
というのが、
サイト制作者の率直な感想です。

 

もう少し言えば、

リアルな遣り取りが
2000年弱も残ったことに
意味がある、という類の御話。

 

具体的には、

役人候補生の書生連中が、

現役バリバリの敏腕官僚相手に
マトモな対案もなく儒家の理想郷を問き
散々に論破されるという、

どうしようもない
話がダラダラと続きます。

 

今日で言えば、

政党御抱えの
記者や言論人が
国会や公聴会での議事録の
かなりアホな部分を
摘まみ喰いし、

「御史大夫は返す言葉がなかった」だとか、
応援勢力が優勢なように
脚色・編集した類の文章に見受けます。

 

それでも、

具体的な政策論が
書き物の大半を占めていれば
面白かったのですが、

儒家の愚昧な説教が
ページの大半を占めており、
個人的にはかなり辟易しました。

このサイトで
無駄話が多いようなものです。

 

 

13-3 対決、銭ゲバ官僚 対 腐れ儒者

もっとも、時代が時代だけに、

ライターの楊寛が
霍光の悪口が書けなかった事情も
あるのかもしれませんが。

あるいは、
桑弘羊に恨みでもあるのか。

で、その一幕を紹介しますと、

桑弘羊その他の財務担当者が、
前線では将兵が物資に事欠いている、
と言えば、

賢良・文学が、
徳治を行えば匈奴は自ずと降伏して来る、
戦費で民を苦しめるな、と、
反論します。

 

当然、この人達は富裕層の出の癖に
清貧を説き、

一方で、
恐らくは、彼らの実家が
桑弘羊の政策で打撃を受けてまして、

桑弘羊らもその辺りの経緯を熟知しています。

 

で、桑弘羊が、
孔子やその弟子が
身の処し方を誤って赤貧を洗って
開き直っているとか
(かなり笑える)悪態を突き、

対する賢良・文学は、

現職の官僚共は人品卑しく
政策の内容も相応なものだ、と、
やり返すという、

毒にもクスリにもならない泥仕合。

 

後、桑弘羊が
書生共のあまりに抽象的な議論に
ガチで切れるのには
説得力がありまして。

 

 

13-4 剣は実は、ペンよりも強し

 

さて、この政争の結末は、
外戚・霍光の勝利に帰します。

桑弘羊等が担ぐ王族が
ヘタを打って誅殺され、
その煽りを喰って殺されるという
何とも呆気ないオチ。

 

ですが、
財務官僚の本懐とでも言いますか、

歳入強化策のかなりの部分は、
その後の政権が引き継ぎます。

 

話がかなり尚書から逸れて恐縮ですが、
ここで注目すべきは、

立法機関である尚書を牛耳った外戚が
執行機関の敏腕官僚の一派を
政争で一網打尽にしたという展開。

 

これはサイト制作者の推測ですが、

機密レベルの情報統制の権限が
そのまま政治力に直結したのでしょう。

 

いつの時代の首都での政争も、

大抵は、情報担当部署と
それから派生した治安を握った者が
勝つもので。

 

とはいえ、さしもの皇帝様も
一連の政争で思うところがあったのか、

目障りな外戚を除きに掛かります。
まさに、霍光にとっての
「ラスボス」の登場。

 

 

14、天子様の本気!平尚書事と中書令

 

宣帝は手始めに、

于定國・張敞というふたりの役人
平尚書事に起用し、
霍光を牽制します。

「領」尚書事を「補佐」する
「平」尚書事、

補佐とは名ばかりの監視役、
と、いったところでしょう。

 

余談ながら、
この種の内訌が再発するのは、
実は、随分後の蜀「漢」だったりしまして。

後に、「領」尚書事が常職として格上げされて
「録」尚書事になり、
これに姜維が就任し、
(孔明以後、歴代の政権担当者の御約束!)

対して、
後方勤務の「平」尚書事の諸葛瞻が
前線の姜維に掣肘を加える、
という、何とも穏やかではない構図。

 

さて、話を前漢の尚書に戻しますと、

宣帝の霍光への牽制は
これに止まりません。

何と、中書令を復活させ、
これを経由した皇帝への上奏を
許可します。

 

つまりは、
それまで霍光が
尚書の権限で
皇帝への上奏文を
残らず検閲していたのが、

バイパスが出来たことで、

霍光の弾劾文が
本人の与り知らぬところで
皇帝の目に触れる、

いえ、もう少しハッキリ言えば、

霍光の悪口(失脚させる材料)が、
カンタンに
皇帝の耳に入るにようになった訳で。

 

当然、霍光は怒り狂い、
こういうのが史料にも残りますが
どうにもなりません。

果たして、これが決定打になり、

追い詰められた霍氏は
息子・禹の時代に謀反を企て、

カウンター・クーデターで
一族が誅殺されます。

 

そう、宦官を使って外戚を叩くという、
皇帝様の対外戚の政争における
常套手段の実践。

無論、その後、
宣帝は親政を行い、
領尚書事を置きませんでした。

 

そして、今度は、
その揺り戻し
宦官の時代がやって来ます。

―余談ながら、
軍のトップの「大司馬」という官職、

元は皇帝の側近の
内朝(≒立法機関)官である太尉で、
劉邦の悪友の周勃等が就任しています。

で、宣帝は霍禹から兵権を取り上げるべく
大司馬から将軍号を取り去り、

以後、政権の(オトナの)事情で
将軍号があったりなかったりと
理解の面倒な官職なんだそうな。

その後、後漢に太尉が復活し、
周瑜の親族の先祖が就任したりします。

 

 

15、宮廷三国志、出る杭ならぬ、士人は討て?!

さて、親政を始め、
領尚書事を置かなかった宣帝ですが、

末年には皇太子(後の元帝)を
補佐させるべく、

蕭望之・史高・周堪の3名を
領尚書事に任命します。

 

蕭望之の肩書は
前将軍・光禄勲(郎中令)、
さらに、皇太子の教育係である太傅を
8年経験しています。

剛直な性格が災いして
霍光に嫌われたという硬骨の士。

 

史高は外戚で大司馬・車騎将軍。
周堪は光禄大夫。

 

つまり、3名とも、
兵権、あるいは、
皇帝の警護役である郎官に影響力をもつ
人物という訳です。

 

また、周堪太子少傅として
蕭望之と共に
皇太子の教育に当たっており、

このふたりは、謂わば、
元帝の側近とも言うべき
存在でありました。

 

ここに、領尚書事の3名には、
外戚対皇帝側近の士人官僚という
構図が見て取れる訳でして。

 

加えて、宣帝の重用した
中書の宦官の動向も見落とせません。

当時、中書令には弘恭、
僕射には石顕がその任にあり、

宣帝の逝去後には
中書が外戚の史高に接近します。

 

結果として、
霍光の時代と同じく、

蕭望之の担いだ皇族が墓穴を掘り
当人は自殺し、周堪も免官されます。

史高も後に免官され、
さらにその後、弘恭は病死。

その後は、
政治は石顕の率いる
中書令の独断場となります。

士人の率いる尚書令も、
中書令の影響下にある、
という具合です。

 

 

16、外戚王氏の勝利と簒奪への布石

ところが、国政を牛耳った
宦官政権にも弱点がありまして。

何かと言えば、
皇帝の代替わり。

次の成帝の時代には、
外戚・王鳳が
大司馬大将軍・領尚書事に就任し、

石顕中太僕、
そして長信中太僕「栄転」させます。

俸給を意味する秩禄では
中書令が600石、
長信中太僕が2000石と、
3倍以上値の俸給を貰える計算になります。

―とはいえ、政争時の
政敵の指示する「栄転」なんぞ
実権を剥奪する名目に過ぎません。

この「栄転」は、
情報統制の権限のある中書から
車馬の管理部門へと放逐することを
意味します。

 

果たして、その途端、
外朝の丞相・御史大夫から
自分の悪事を上奏され、

自分の息の掛かった部下諸共
免官の憂き目を
見ることと相成りました。

 

そして、石顕は
帰郷中病死し、
この外戚対宦官の政争に
終止符が打たれました。

 

ところが、この外戚の勝利は、
実は、これまでの叩き合いとは
趣を異にしていました。

と、言いますのは、

この一族が、
まずは目障りな宦官共を
政府の中枢から締め出し、

そして、なんと、
事もあろうに
「ラスボス」皇帝に
「挑戦」(=簒奪を企図)する訳でして。

 

まずは、政争の戦後処理について
見ていくこととします。

王鳳は尚書の改革を行いますが、
要点は、以下のふたつ。

 

1、尚書令―僕射―尚書4あるいは5名、
2、中書宦官の廃止

 

補足しますと、

1、で、尚書内の指揮系統を整え、
末端の尚書は、
各々、「曹」という担当部署をもちます。

2、は、言うまでもなく、
尚書の職務からの宦官の排除を意味します。

 

 

17、簒奪前夜の王莽の肩書

さて、この王鳳の甥に、
王莽という人がいまして、
むしろ、この人の方が有名でしょう。

この人は大司馬・領尚書事として
政治の実権を掌握したのですが、

 

この時代の大司馬は、

紆余曲折あったものの、

最終的には、
将軍号がない代わりに
位は司徒(丞相)より上となり、

一方で、皇帝の側近を意味する
内朝官を統率する立場にもありました。

 

因みに、三公は、
成帝の時代に
大司馬・丞相・大司空、

その次の哀帝の時代に
大司馬・司徒・大司空、と、
それぞれ改称されましたが、

丞相(司徒)・大司空は
外朝官(≒執行機関)で、
大司空は改称前は御史大夫。

また、成帝の時代には、
三公のうえに太傅が置かれました。

 

余談ながら、
丞相の指揮下に「九卿」という
今日で言うところの
国務大臣級のポストがありまして、

ややこしいことに、
その九卿のひとつの「少府」の中に
尚書があるのですが、
何故か、これは内朝官だったりします。

 

さて、王莽の肩書の話に戻りますが、

王莽は、
大司馬として内朝官を率い、
領尚書事として政策の枢機に預ります。

 

そして、ちゃっかり、
簒奪後には、
太傅の領尚書事との兼任を禁止します。

当時、現任の太傅に釘を指したのは
かつての蕭望之の存在が
脳裏を過ったのかもしれません。

 

また、三公を凌ぐ官と領尚書事を
敢えて切り離すことが意味するのは、

やはり、権力掌握のキモは
領尚書事にあったことです。

 

因みに、
太傅と尚書のトップ(録尚書事)の兼任が
常態化するのは
後漢時代の御話。

 

余談ながら、
この人は極めてマジメな儒者ですが、

幼少期の苦労もあってか、

権力を守るためには
我が子もひとりならず手に掛けるし、

カルトに頼ってでも
政敵の追い落としに躊躇しないという
非情で権力欲の強い人でもありました。

 

 

おわりに

本当は、
今回で後漢までやりたかったのですが、

無駄話が多くなったうえに、

サイト制作者の理解不足も祟り
想定外に長くなり過ぎたことで、

ここで、一旦打ち止めと致します。

 

最後に、例によって、
御話の骨子をまとめることとします。

 

1、尚書とは、本来、
王・皇帝と臣下の間を往来する公文書を
取次ぐ官職であった。

 

2、武帝の時代以降
皇帝の権力が強力になり、
また、果たすべき職務が激増した。

 

この処理能力を高めるため、
尚書の組織が拡張され、
政策立案・情報統制の職務が
付与された。

 

3、武帝は後宮でも政務を執ったため、
尚書に宦官を起用して
政務の枢密を預からせた。

 

4、宦官と外戚が尚書の権を利用して
政治力を保ち、あるいは争奪戦を繰り広げた。

 

5、皇帝が宦官を使って外戚を叩く際にも、
尚書の権を利用した。

 

6、外戚の王莽が
漢から帝位を簒奪する直前の段階でも、
政治権力の核は領尚書事であった。

 

7、黄巾の乱による地方軍閥の台頭と
董卓の洛陽掌握は、
それまでの宮中抗争のルールを
根底から覆すものであった。

 

 

【主要参考文献(敬称略・順不動)】

鎌田重雄「漢代の尚書官」(「漢」は旧字体)
大庭脩『秦漢法制史の研究』
冨田健之『武帝』
「後漢後半期の政局と尚書体制」
「後漢前半期における皇帝支配と尚書体制」
西嶋定生『秦漢帝国』
好並隆司「曹魏王国の成立」
石井仁「諸葛亮・北伐軍団の組織と編成について」
並木淳哉「蜀漢政権における権力構造の再検討」
柴田聡子「姜維の北伐と蜀漢後期の政権構造」

カテゴリー: 世相, 人材, 軍制 パーマリンク

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