勝てなくても続ける、諸葛亮の北伐の理由とは?

はじめに

今回は、諸葛孔明の北伐の理由について
多角的に少々考えてみようかと思います。

早速ですが、諸葛孔明の北伐の理由として、

いくつかの文献を当たった限り、
大別して、以下のように4つ挙げられると思います。

 

1、漢王朝の復興
2、対魏戦線における橋頭保の確保
3、諸葛亮の兵権掌握
4、諸葛亮等、非益州人士の世代的要因

 

残念ながら、
「4、諸葛亮等、非益州人士の世代的要因」については
サイト制作者の想像と言いますか
妄想の類ですが、

当時の人士の言動を見ると
そこから透けて見えて来る部分もあり。

それでは、各々の理由について
考えていくこととします。

 

1、三国志の主役国家はフライング建国?!

まず、「1、漢王朝の復興」。

これは、孔明先生が
北伐に当たって起草したとされる出師の表にもあり、
どの識者も必ず挙げるものです。

例えば、渡邊義浩先生は、
国家の存在意義を賭けた戦いであるとし、

金文京先生は、

ドサクサに紛れて皇帝を名乗った孫権と
対等の同盟を結んだのも魏討伐のためで、

究極的には
高祖劉邦の天下制覇の再現が
悲願であったとします。

また、蜀漢建国当時の情勢について
調べますと、
ここでも見えて来るものがありまして。

 

と、言いますのは、

曹丕が禅譲で漢を滅ぼした折、

後漢のラスト・エンペラーである献帝の
行方不明・死亡説が流れました。

実は、劉備はこれに付け込んで
蜀の建国に踏み切ったそうで、

程なくして、
献帝が山陽公として健在であることが判明し、

フライングで劉備が帝位を僭称して
蜀漢が建国されたという
不名誉な既成事実だけが残った、

というみっともないオチ。

無論、献帝の行方不明説自体が
謀略臭を放っているような気もしますが、

建国を宣言して帝位に就いた
劉備やその補佐に当たる孔明の側としては、

例え、中原の人士の不興を買おうが
後戻りは出来ません。

 

こうした状況について、
加地伸行先生によれば、

古来よりある
中国人のメンタリティのひとつとして、
名実の懸け離れた状態をひどく嫌うそうな。

そして、その場合は、
名より実を取るとのこと。

そして、この法則を劉備の蜀漢に当てはめれば、
中原の人士に「実力」≒戦争で
帝位を認めさせる他はなくなった訳です。

―言い換えれば、
この国是=北伐をやらなければ
国家としての存在意義がなく、

益州内の人士の信用を失い
政権の瓦解につながるという
危機的な御話。

 

なお、蜀漢の戦争を国家の存在意義にするという
危険な賭けは、
同国の有象無象の人士・軍隊の性格と
表裏一体をなすものです。

余談ながら、

曹丕の息子で帝位を継承した曹叡は
献帝をないがしろにするどころか
逝去の際にも一定の敬意を払っており、

北伐という外圧が消えたのを見計らって
献帝の生き様を反面教師に
前漢の武帝をモデルに
国造りを始めたそうな。

 

2、天水界隈は蜀の生命線?!

「2、対魏戦線における橋頭保の確保」

実は、この個所は、
山口久和先生の『「三国志」の迷宮』からの
孫引きなのですが、

興味深い御説につき、
大筋を綴ります。

要は、地政学的に具体性のある話です。

 

蜀漢は国是として対魏戦を打ち出したのは
先に触れた通りですが、

魏と事を構える上で
現実的な国家の生命線として
明代の思想家・王夫之が指摘するのが、

天水・南安・安定という
関中の西側の地域。

 

本サイトの先の記事で
何度か触れたように、

蜀漢の策源地の漢中から
天水方面への街道は、

魏の策源地である長安に
ダイレクトに向かう秦嶺山脈の桟道よりも
地形が緩やかで
往来に難儀しません。

後世の後知恵ではあるものの、
この界隈を抑えて
住民を内地に拉致して
屯田に励んで馬を養うという具合に、

相手の褌で相撲を取れば、

国力に勝る魏相手の
相応の抗戦は可能という御話。

 

余談ながら、この先生、
ウィキペディアによれば、

科挙の郷試に通ったものの
事もあろうに就職先の国家が滅亡して
新政権に抗って隠士になったという
硬骨な御仁だそうですが、

レジスタンスに失敗したことで
陽明学的な脳筋を嫌った模様。

戦後の日本で言えば、
陸士や帝大で終戦を迎えたエリートと
言ったところでしょうか。

あるいは、まるで、結社系の武侠映画の
先生役に出て来そうな人物に見受けます。

 

―で、影響を受けた奴の中には
「戦争は政治の継続」と
何処のドイツから聴いたような文言を宣った
毛〇東もいた、と。

 

 

3、夷陵の敗戦の誤算と起死回生の南征

そして、こういう地道な現地調達戦術が
想像される背景には、

実は、夷陵の敗戦に伴う
荊州失陥の確定という
蜀漢にとっての想定外の大打撃がありまして。

故・史念海先生によれば、
実は、この敗戦により、
荊州から根拠地を失った大量の人員が流れ込み、
慢性的な物資不足に直面したそうな。

そして、この難局の解決のために
孔明先生が矛先を向けたのが所謂南蛮―南中。

反乱鎮圧を名目に武力進駐して
収奪の体制を作る訳でして、
具体的には以下のようになります。

まず、ここの貴重な交易産品を転売して
北伐の戦費を捻出します。

本国である益州の戦費負担を軽くし
北伐に反対の立場を取る地元名士に
配慮する訳です。

次いで、地域の有力者を
強制的に成都に移住させて
蜀漢の有力者との血縁関係を強いる一方、
(同化政策というやつです。)

その統率下の部曲を動員して
北伐を行う訳です。

で、その部曲というのが
非常に精強な「外人」部隊であったようで、

例えば、
南中の実力者の孟獲が北伐に従軍しており、

また、五丈原の戦いの際に
武功水の渡河に成功した
孟炎の率いる虎歩監も、
所謂、南蛮の部隊でした。

 

こうして南中から
大量の物資・兵員を供出させる一方で、

法令を適正に執行し
中間搾取をやる不正官吏を大量に処分して
或る程度の信用を得た訳ですが、

それでも反乱を起こす
気骨ある者もおりまして、

例えば、前回の記事でも触れた通り、
五丈原への出兵の直前にも起きました。

タイミングを考えると、
魏の根回しがあったのかもしれません。

―ともあれ、こういう武装蜂起は
現地に鎮圧部隊を派遣して遠慮なく叩く、
という政策的スタンス。

 

 

4、元祖キレ芸人?!諸葛孔明

「3、諸葛亮の兵権掌握」

これも渡邊義浩先生の御説。

有事を理由に
兵権を握って政権を掌握する、というのは、

確かに、孔明先生の個人な理由ではありますが、

一方で、国家≒中央志向の名士・軍が
国是を実行に移す実力者を望んでいたことも
歴史的な事実です。

こういうのは、
時代・地域を問わない
政治力の本質なのでしょう。

 

ですが、外征はリスクの大きい政策で、
兵権を握る者に戦争弱者は不要です。

例えば、この少し前の袁紹・曹操・劉備は、
足場の固まらないうちに
それぞれ官渡・赤壁・夷陵で敗れた直後に
勢力下で反乱を招きました。

中でも、袁紹・劉備は
敗戦の事実を直視出来ずにこの世を去りまして、

劉備の蜀漢の場合は
諸葛亮がその尻ぬぐいをして
危機の好機に変えたのは先述の通りです。

 

その際、諸葛亮自身もこの外征を止めず、
初代皇帝の劉備が
成都に還れぬまま崩御するという
無様な姿を目の当たりにしている訳です。

対呉の外征では
被征服者である地元名士の黄権等も
従軍していたことで、
それだけ益州の地元人士の風当たりが強かった
ということなのでしょう。

 

つまり、外征失敗の危険は当の本人が
嫌という程熟知していた筈です。

 

さらには、孔明没後も、
曹爽・孫綝・諸葛恪といった
時の政権の実力者も、

王朝という強固な縦社会の枠組みがありながらも
軍が壊滅するレベルの外征の失敗で政治力を失い
失脚どころか謀殺されました。

 

特に、諸葛恪の例の軍事介入については、

外征の失敗には
当人の狭量な資質にこそ原因があるものの、

サイト制作者としては、

一面では、名士の支配が幕引きとなり
孫呉自体の政策立案能力が下火になった転換点と
見ています。

 

【追記】外征軍と感動出来ない出師の表

一般論として、

時代や国を問わず、
外征向けの機動部隊は
国運を担う国軍中の精鋭です。

そして、そうした部隊を
拙い用兵で崩壊させた将帥が
タダで済むような道理はありません。

あるとすれば、
組織自体が末期症状を
呈している場合でしょう。

 

戦前の何処かの島国の軍隊どころか、

歴代の断末魔の中華王朝でも、

資質に欠ける将官が兵権を握り
前線の報告が途中で握り潰されるだとか、
枚挙に暇がありません。

 

そして、「三国志」の時代の外征も
そうした例に漏れない訳でして、

曹操の場合は
蔡瑁が孝廉の同期とはいえ、

荊州の有象無象の降兵も前線にブッ込んだものの
赤壁の敗戦が祟って威信が失墜し、

当初想定していた速戦即決の光武中興の再現
というエエ格好しい計画から、

自前の王朝設立よる
長期的で外道な簒奪プランに
切り替えざるを得ませんでした。

 

一方の劉備の場合は、

自身の政治力の泉源である
左将軍府(≒後漢王朝御墨付の幕府)の
直属部隊が、
事もあろうに
陸遜の若造如き殲滅されたことで、

対呉どころか孔明との暗闘にも敗れ、
息子を孔明に託さざるを得なくなるという
憂き目を見ました。

その意味では
出師の表など、

識者によれば、

解釈によっては、

孔明が劉禅に細かい注文を付け
余計なことをするなと釘を指すという、

感動とは程遠い内容とも
取れるそうな。

 

とはいえ、
その孔明先生から費禕の時代までは、

政治家の資質は元より、制度上も
宰相の権力が並外れて強かったことで、

御飾りの皇帝様に対して
簒奪までは行かなかったのが
蜀漢の面白いところと言いますか。

姜維の時代の亡国の理由は、
国力の疲弊もさりながら、

国政の中枢である尚書内ですら
一枚岩ではないという
政権内の分裂状況も大きかったそうな。

 

これに因んで、

孔明が拘った肩書のひとつである
蜀漢版・葵の印籠とも言うべき
録尚書事(尚書)の話をしたいところですが、

時代ごとに職務内容が異なる厄介な代物で、

漢代の外戚と宦官の内訌どころか、
戦国時代や漢初の
少府や王室財産の話まで遡らないと
話の大筋や事の本質が見えて来ない
ような気がしますが、

この話は近いうちに。

尚書関係の話
何とも小難しい話ですが、

一方で、
この時代の政治制度のキモとも言えまして、

『三国志』どころか
『キングダム』や中国王朝の制度に対する理解が
大分深まると思います。

サイト制作者の理解も怪しいのですが、
何ともオモシロそうな箇所だけに
出来るだけ噛砕いての説明を心掛けます。

今回、本当は、
尚書・軍府・行官といったような
蜀漢の政治や軍隊の構造まで
掘り下げるつもりだったのですが、

下調べやノート整理で
時間を使い過ぎたうえに、
投稿の折にも無駄話で尺を使い過ぎました。
本当に恐縮です。

こんなアホなことをやらかす位であれば、
テーマを絞って少しでも早く書けば良かったと
後悔しています、合掌。

【了】

 

 

話が大分脱線しましたが、

上記のような外征軍をめぐる事情につき、

諸葛亮としては、
例え負け戦であっても
軍を崩壊させることは避けたかった筈。

言い換えれば、恐らくは、
そういう政治的な力学が
消極的な用兵になって現れる訳です。

 

そうした中での唯一の積極策が、
例の、街亭で馬謖に一軍を預けたアレ。

 

こうした政治と軍事のバランスを取るような
慎重とも臆病とも取れる用兵思想を以て
望みが薄いと自覚しながも
何度も出兵したのは、

もし、自らが大局的な負けを認めてしまえば
政権中枢からも離反者を出して
自分の命どころか国是や国体まで
吹っ飛んでしまう可能性があったからでしょう。

 

よって、皇帝様、部下や国民に曰く、

第七〇隊には勝てないが、

一命を賭す代わりに
金〇島から台〇に花火をブチ込むだけで
戦争したことにしてくれ、
一応、攻勢作戦のつもりだ、と。

 

そう考えると、
天才軍師どころか
元祖キレ芸人と言いますか、
希代の詐欺師と言いますか、

希望を持たせることも
政策なのだということを
証明した政治家のようにも思えます。

 

5、デタラメな時代が生んだ法治主義の鬼

そして、諸葛亮が北伐を敢行した
最後の理由として、
「4、諸葛亮等、非益州人士の世代的要因」
について。

ここでは、諸葛亮や、
この人と似たような
時代・社会背景を持った人士の胸中について
考えてみよう思います。

まず、諸葛亮の出身は徐州琅邪郡

代々政府高官を輩出する
家系ではあったものの、

幼少期に父と死別したことで
叔父の諸葛玄に引き取られました。
これが195年の出来事。

そして、この諸葛玄と劉表が
交友関係にあったことが縁で
荊州に移り住みます。

因みに、この少し前の193年に
曹操の徐州侵攻がありまして、

この過程での現地における狼藉が
余りに醜かったことで、

諸葛亮の兄・諸葛謹や厳畯といった
徐州の人士を
呉に走らせる結果となりました。

延いては、
三国鼎立の最大の理由だそうな。

 

また、諸葛亮や同じく徐州出身の魯粛は、
後年この殺戮劇について
項羽の蛮行になぞらえました。
―咸陽での略奪のことと想像します。

つまり、孔明先生にとっての曹操は、
郷里の侵略者として
自分の半生に暗い影を落とした
仇敵に他ならなかった訳です。

 

三国志関係の作家の中には、
こういう話を以て
諸葛亮と曹操との因縁を書き立てる方が
いらっしゃるかもしれません。

この辺りの経緯は、
石井仁先生の『曹操』を御覧あれ。

 

その上、親との死別や
郷里の罹災のみならず、

荊州に着いたら着いたで、

今度は庇護者の叔父が
劉表と劉繇の、
謂わば地方官同士の抗争の煽りを喰って
殺されます。

―そう、時代の寵児が宿敵であり、

そのうえ、その時代のデタラメさによって
親とも頼む庇護者まで失った訳で、

そういう訳アリな次第につき、

士大夫の家系にもかかわらず、
家柄のポテンシャルを活かせずに
20代後半まで
職歴のない状態を続けていたのが
諸葛孔明その人でした。

そのうえ、
自宅の庭先を治める劉表とて、
見方によっては叔父の仇でもあり、

また、天下国家を論じることが大好きな
自分の学術グループからすれば、
どうも肌が合いません。

まあその、
こういう半生を送れば
不正を働く役人を目の敵にするのも
頷けようというものですし、

事実、この人が後にやったことは
猛政と呼ばれるバリバリの法治主義。

その手法は、
皮肉にも仇敵・曹操と同類のものであり。

 

例えば、劉備の時代には、

劉備が皇帝になっても
簡雍のような古参のふてぶてしい家臣は
皇帝様の前でも
足を投げ出すような有様だったのが、

北伐の時代には、
放言癖で酒乱の劉琰

この人も劉備の賓客で
当時は元老格でしたが、

何と、奥様へのDVで
極刑を喰らっています。

これは綱紀粛正の極端な例ですが、
それ位やらなければ
役人がマトモな仕事をしなかった時代
なのでしょう。

 

因みに、先述の加地伸行先生は、

諸葛孔明の蜀漢の国家経営を、
「全知全能を傾けての、
自己の理想像を描くことであった、」
と記していらっしゃいます。

つまり、清貧と表裏一体の野心の矛先が
仕事であったという御話。

あるいは、
こうした幼少期・青春時代の苦労が、

時を経て
国家創生の使命感に
転化したのかもしれません。

 

 

6、彼らは何と戦ったのか?

そして、遅咲きの天才が頭角を現す契機は、
思わぬかたちで到来する訳でして。

―と、言いますのは、

孔明先生にとっての閉塞状況の中に
俄かに飛び込んで来たのが、

皆様御存じの、
自分の居場所が悉く台風の目≒戦場になるという
ア〇ファトのような歴戦の傭兵隊長の劉玄徳。

で、この何だか怪しいオジサンが、
結果として益州を占領して
皇帝まで名乗るところに
この時代の面白さがありまして。

 

また、孔明先生のみならず、

戦乱で郷里が罹災して難民になって
イロイロあって益州に流れ着くか、

あるいは、
曹操のやり方を快く思わない人士
少なからずいる訳でして、

のみならず、
その曹操の勢力
この段階では長安を制圧し
漢中にも兵を向けるという段階に達しておりまして。

 

で、例えば、法正等のような非益州人士
劉璋を見限るにしても、

強力な軍事力・政治力を有する曹操が
益州を制圧した場合、
中原の人士に州内の政治の主導権を握られるのを
嫌ったと想像します。

で、結果として、
州外から流れ込んで
当然ながらヨソ者扱いされて
居心地の悪い人士

劉備の軍や東州兵という暴力装置を以て、
謂わば虎の威を借りて、
軍事力を背景に益州を支配するという訳です。

劉備も劉焉も
益州を統治するに当たり、

最初は地元人士の期待を以て
招かれたものの、

 

【追記】

地元人士が歓迎したのは劉焉だけですね。

【了】

 

結局は軍事力で地元名士を威嚇して
統治するという点では、
どうも共通していると言えます。

 

それはともかく、

こういう経歴を持つ孔明やその他の荊州人士、
あるいは李厳や呉懿等の
旧劉璋傘下の非益州人士
そうだと想像しますが、

劉備に賭けた人士は、

兵乱で漂白を余儀なくされるという
時代のデタラメさに
嫌気が指したことは元より、

兵馬で中原・華北、
果ては長江南岸まで蹂躙した曹操やその子孫が、

自分たちの心の拠り所であった劉氏を蔑ろにし、
果ては、漢を滅亡に追いやり
帝位まで簒奪したことが
我慢ならなかったのではなかろうか、と、

サイト制作者は想像します。

 

そのように考えると、
北伐は、自分達の尊厳を賭け、
存在意義を証明するための
聖戦であったのかもしれません。

 

果たして、孔明先生没後、
世代が変わるや、

国是こそ理念としては残ったものの
その実行力は
次第に薄れていく訳でありまして、

特に、地元・益州人士である
費禕の時代になるや、

国力相応の守勢中心の現実的な国防政策に
重点が置かれるようになります。

―ただし、暫くは北伐を経験した古強者が
軍の要職を占めていたことで、
防衛戦の対応は迅速でした。

 

もっとも、
蜀漢が守勢に回った理由は
世代的な理由だけではないのでしょうし、

一方で軍、
特に漢中の前線部隊は
戦闘意欲が旺盛で、

次の姜維の時代には
国家の滅亡まで戦意を失わなかったのは
何とも皮肉な話ですが。

 

とはいえ、

孔明没後から姜維の時代まで
外征の実行まで漕ぎ付けた
行動力のある政権が
なかったところを見ると、

曹氏の台頭と簒奪を目の当たりにした世代と
そうでない世代との価値観の断絶
少なからずあったものと想像します。

 

おわりに

そろそろ、
今回の御話をまとめることとします。
大筋は以下のようになります。

 

1、諸葛孔明が北伐を行った理由は
いくつか挙げられるが、
どの識者も挙げているのは
曹魏打倒による漢王朝の復興である。

 

2、1、に付随して、
地政学的な理由としては、
南安・安定・天水が
蜀漢の生命線であった。

 

3、蜀漢は荊州の失陥により
慢性的な物資不足に陥ったが、
南中よりの収奪で物資・兵員を賄い、
さらには北伐の戦費・戦力に充てた。

 

4、諸葛亮は南中侵攻・北伐という有事によって
軍権を掌握したが、
当時の政権担当者にとって
兵権掌握は諸刃の剣であった。

 

5、後漢・三国時代を通じて、
外征の失敗は、
内乱の誘発や政権担当者の失脚・謀殺に
直結するものであった。

 

6、蜀漢を構成する人士は、
曹操の軍事作戦の被害者や
曹操の抵抗勢力、
あるいは、軍事力を背景に蜀を支配する
勢力等が主流であり、
有事こそが彼らの存在意義を
際立たせていた。

 

7、6、に付随して、
曹氏の簒奪の過程を目の当たりにした世代が
自分達の存在意義を賭けて
戦争を継続した可能性がある。

 

 

【主要参考文献(敬称略・順不同)】

陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻
渡邉 義浩『「三国志」の政治と思想』
山口久和先生の『「三国志」の迷宮』
金文京『中国の歴史 04』
宮川尚史『諸葛孔明』
石井仁『曹操』
「諸葛亮・北伐軍団の組織と編成について」
上谷浩一「蜀漢政權論」(漢は旧字体)
満田 剛「蜀漢・蔣琬政権の北伐計画について」
上田早苗「後漢末期の襄陽の豪族」
加地伸行編『諸葛孔明の世界』
加地伸行『中国人の論理学』
大庭脩『秦漢法制史の研究』
並木淳哉「蜀漢政権における権力構造の再検討」
柴田聡子「姜維の北伐と蜀漢後期の政権構造」

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