交通網から観る北伐 後編

譚其驤『中国歴史地図集』、柿沼陽平『劉備と諸葛亮』、宮川尚志『諸葛孔明』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』(順不同・敬称略)より作成。

 

長くなりましたので、
以下に章立てを付けます。

適当にスクロールして
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

 

はじめに
1、出撃の下準備
2、物資集積拠点・邸閣
3、現地調達と兵戸制
4、仲達の防衛構想
5、またも尻込む孔明先生
6、西部戦線異状なし~両軍の屯田
7、孔明先生の王様ゲーム
8、魏軍の総力戦体制
9、ガキの使いの情報戦
10、五丈原に巨星墜つ
11、蜀軍の狂気の内訌
12、北伐自体が「孔明の罠」?!
13、敵役・曹魏は有能政権
14、無謀な出兵を続ける大人の事情
おわりに

【主要参考文献】

【番外乱闘編】
サイト制作者の『三国志』関係のアレな物学び

はじめに

1ヶ月以上も更新を怠り
大変恐縮です。

今回は五丈原の戦いについての御話。

実は、五丈原の戦い以外にも
イロイロ書こうと思ったのですが、

間が空き過ぎたことで、
一旦区切りを付けようと思った次第です。

 

 

1、出撃の下準備

さて、230年6月に祁山より兵を退いて
3年半の兵馬の休養期間を経て、
蜀漢は再び出撃します。

その下準備として、
232年には黄沙(南鄭と沔陽の間・沔水の西岸)で
孔明先生自ら農耕の指揮を執り、

剣閣近辺の山岳地帯で
運搬用の道具である
木牛・流馬の開発を行います。

木牛・流馬は、
物の本によれば、
詳細は判然としませんが、
(残された図面がデタラメで
後世の歴史家が復元不可能とのこと)
一輪車のようなものだそうな。

中共の主力戦闘機の件といい、

こういう使えそうで使えない、
奇天烈で怪しいところが
如何にも中国らしいと言いますか。

 

—それはともかく、

翌233年の冬には、
諸軍に命じて兵糧米を斜谷口に集め、
斜谷に邸閣を整備させました。

 

 

2、物資集積拠点・邸閣

ここで、
少しは交通史らしい話をします。

邸閣は当時の食糧倉庫でして、

例えば、黄河の舟運の結節点
長江沿岸の魏呉の国境地帯等、

交通の要衝や重要な戦地の最前線
所狭しと建てられた施設です。

下記のアレなイラストは、
以前の記事の説明用に
描き下ろしたものですが、

モノの本によれば、
赤枠のような倉楼が乱立している拠点の模様。

また、この倉楼1棟辺り
大体1万石の穀物が貯蔵可能で、

例えば、魏呉の国境地帯の
ある邸閣では20万石の収容量が
あったそうな。

上田早苗「後漢末期の襄陽豪族」、稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史4』、林已奈夫『中国古代生活史』等より作成。

 

つまり、今日で言うところの、

港湾の埠頭に隣接して建てられたサイロや
運送会社の大型の物流ターミナルに
相当するかと思います。

 

一方で、南方に目を向けると、

足元の南蛮で劉冑が反乱を起こし、
この鎮圧のために馬忠が差し向けられます。

長きの戦時体制に耐え抜いたという意味では
成功と言える南方の治安政策も、

綺麗事では済まないことを露呈した一例
と言えるでしょう。

 

 

3、現地調達と兵戸制

 

譚其驤『中国歴史地図集 三国・西晋時期』、久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて」(上・下)、宮川尚志『諸葛孔明』より作成。

 

そして、翌234年2月、
いよいよ蜀軍の出撃の運びとなります。

斜谷より軍を起こし、
かつて趙雲の焼き落とした褒斜道を
修復しながらの進撃です。

孔明先生最後の北伐の攻撃目標は
長安と見て間違いないでしょう。

 

なお、蜀の最大動員兵力は10万2千。
この戦いも、これに近いものであった模様。

さらには、北伐から亡国の段階まで
ほぼ変わらなかったそうな。
このカラクリは後述する兵戸制にあります。

その他、特筆すべき点としては、
旧暦の2月―
つまり、現在の太陽暦で言うところの
4月の出撃。

つまり、種まきに合わせて
事を起こす訳で、

換言すれば、
食糧の現地調達を見越しての出兵。

先の祁山の戦いも、
出兵は大体この時期でした。

柿沼陽平先生の御本によれば、
木牛・流馬の投入は、

加えて、機材の導入により、
運搬による労力軽減の効果が
あったことでしょう。

 

因みに、兵戸制とは、
三国時代の兵制の
結晶ともいうべき存在でして、

今日でいうところの難民や武装勢力
軍隊に取り込み、
妻帯させて多少の田畑を与えて
軍役を課して世襲化させる制度のことです。

実は、この制度については、
故・濱口重國先生の
一連の研究がありまして、
(何かの機会に記事にしたいと思います。)

恐らく今日でも
色褪せていないと思うのですが、
そのさわりの部分を紹介しますと、以下。

 

まず、兵士は、戸籍上は、
耕作民である「偏戸」とは別に
「兵戸」として登録されます。

戦乱の長期化に伴う人口減が背景にあり、
この制度の施行によって
一定の動員数を確保出来た訳です。

恐らく、
最初にやり出したのは曹操ですが、

徴兵制が不可能な中で
苦肉の策として
編み出されたにもかかわらず、

100年以上の間
何十万もの兵力の動員を可能にした
優秀な制度で、

三国統一後の
南朝の歴代の無能王朝が
濫用して制度疲労を起こすまで
継続しました。

 

4、仲達の防衛構想

さて、蜀の侵略に対する魏の対応も
早いものでした。

史書にも邸閣を整備したと
書かれている位ですから、

整備から出撃まで大体3、4ヶ月と見て、
その期間の中でも、
割合早い段階で諜報活動に
引っ掛かったのかもしれません。

加えて、先の戦いで
祁山の選択肢は消えたこともあり。

 

また、魏軍のこの戦線における総兵力は
30万と言われます。

魏は渭水南岸に人口密集地を抱えており、
(百姓が多い、とありますが、
当時の「百姓」は、平民といった意味。)

ここを制圧されて
住民を拉致されるか屯田に利用されるのを
煩わしいと考えたのか、

兵力にモノを言わせて
渭水の水際防衛を放棄し、
渡河して南岸に布陣します。

—謂わば、背水の陣。

 

とはいえ、
人のメンタリティなんぞ早々変わらないもので、

司馬仲達はこの時、
周囲に次のように漏らしたそうな。

(渭水支流の武功水沿いに)
西側の五丈原に出れば持久戦となり
安心出来るが、
武功方面に出れば憂慮すべき事態になる、と。

 

「憂慮すべき事態」は、
開けた地形での
決戦の意味合いの強い野戦でしょう。

あるいは、
かつての祁山での悪夢が
仲達の脳裏を過ったか。

 

5、またも尻込む孔明先生

ところが、
魏軍のハッタリに対して
日和ったのは蜀軍の方。

渭水南岸・武功水西岸の五丈原に陣取り、
長期戦の構えで
武功水を挟んで魏軍と対峙します。

 

一説には、
この地の氐族・羌族の懐柔のために
時間稼ぎを始めたそうな。

 

一方、対岸の魏軍は馬家という高地に陣取り、
孔明先生は呉の歩隲に
この攻略が難しいと親書を書き送ります。

―もっとも、この手紙で、
魏軍の陣取った場所と地形が分かったのですが。

 

そのうえ、斯く言う蜀軍も、
孔明先生の本陣は郭氏「塢」という
武装村にあったようでして、

のみならず、
蜀軍の陣地自体もあの辺りの高台にあり、
さらには防御陣地まで構築するという具合。

 

このように、

魏蜀両軍が
臆病な慎重な指揮官の用兵の下、

相手の出方を逐一把握しながら
御互いが幹線道路上に
大軍を進軍させた結果、

いざ対峙したとて、
双方共要害を頼んで
当然の如く睨み合いとなりました。

 

後世の歴史家の中には、

蜀軍のこの措置に対して
何も考えていない、と、
手厳しく指摘する方も
いらっしゃいまして、

浅学ながら、サイト製作者も、
大体これに同意しています。

 

私の知る限り、

不利な戦力で
敵地に居座って
睨み合いを続けることを勧める兵書は
ありません。

そうした行為が
国力の消耗につながることを
戒める文言があるからです。

 

 

6、西部戦線異状なし~両軍の屯田

ただ、蜀軍に肩入れするとすれば、
これまでの戦訓から学んだこともありまして、

有名な話ですが、
食糧不足に対して
軍屯で対応したことです。

先の祁山の戦いでは
上邽で麦を刈った軍隊が、
今度は軍規を厳正にして
略奪の禁止を徹底したそうで、

これで戦地の住民の
人心掌握に成功します。

 

しかしながら、屯田は、
五丈原一帯のみならず
武都郡の蘭坑(下弁の北西に位置)でも
行われました。

つまり、前線の兵隊が
現地で農作業に勤しむだけでは
10万もの軍隊の食糧を
確保出来なかった訳です。

加えて、武器糧秣といった消耗品の補充や
兵站活動に従事する数多の非戦闘員の労力や
その活動のための物資・食糧を考慮すれば、

本国からの物資の持ち出し分や
前線に労働力を供出する銃後の負担は、

依然として相当なものであったと
見るべきでしょう。

―兵站活動を担う人員は、
戦闘員と同じ数を必要とするそうな。

 

 

7、孔明先生の王様ゲーム

さて、こうして強固な自給体制で
魏軍と睨み合いを続ける蜀軍ですが、

当然ながら、
魏軍の足を掬うべく
イロイロと足掻く訳でして。

具体的には、
渭水北岸の北原(積石原)に攻勢に出るも、
郭淮が未完成の陣地をよく守り失敗。

また、武功水対岸への正面攻撃も行いまして、
南蛮西南夷の
虎歩(部隊名)監・孟琰の部隊が
武功水東岸の橋頭保構築には
成功したものの、

それ以上の成果はありません。

 

さて、こうしたなるべくしてなった
両軍の膠着状態に頭を悩ませた
孔明先生のヤケクソのが、

有名な、
仲達に巾幗
(字引によれば、女性用の頭巾と髪飾り。
片山まさゆき先生の『SWEET三国志』では、
パンティに意訳されていました。)
を贈って挑発するというもの。

この策の面白いところは、
どうも、これで憤ったのが仲達本人ではなく
部下の方でして、

祁山の時と同じく部下の積極論を
収拾出来ません。

皇帝・曹叡に上表して
出撃の許可を乞います。

 

 

8、魏軍の総力戦体制

ところが、
今回は前回と状況が異なります。

と、言いますのは、

東の方では、
234年5月より、
呉も合肥方面で攻勢に出ていました。

そして、曹叡自らこの防衛戦に出撃し、
長安方面の仲達には
勅使を派遣して積極的な迎撃を禁止します。

呉・蜀の二正面作戦の片方で
問題を起こされるのを嫌ったのでしょう。

 

加えて、その対価として、
司馬孚(仲達の弟で、この人も優秀だそうな。)
の入れ知恵で、

護軍の秦明に2万の兵を与えて
援軍として送り出し、
この方面に常駐させます。

 

これについては、
元来、秦嶺界隈には常駐する部隊がなく、
雍州刺史の郭淮の部隊も
恐らくは到着が遅かったことで、
有用な策であったそうな。

つまり、孔明先生の下品な秘策で
仲達が部下に煽られて出撃を考えていた矢先、

皇帝様直々に
出撃の禁止命令を出した、

―という御話。

のみならず、
華北の冀州より壮年農夫5000名を
上邽に移住させ、
春夏は農蚕、秋冬は軍事に従事させます。

 

要は、前線での屯田ということでしょうし、

蜀の複数個所での軍屯と同様に
史書に記されている以外に
ヨソでもやっていたと見るべきでしょう。

 

この話を漏れ聞いた姜維は、
曹叡の勅使が来たからには
仲達は出て来ないだろうと落胆します。

 

一方、孔明先生の方はと言えば、

出撃を打診したからには
攻勢の意思はあるし、

(兵書の原則に照らし合わせて)
一旦軍を預かって出撃したからには
仲達にはこれを蹴る権利がある。

と、言ったそうですが、

この遣り取りは、
ドライな部下と希望的観測を織り込んで
部下を鼓舞したい総司令官の立場の違いが
滲み出ていると言いますか。

 

ところが、結果として、
仲達は出て来ないわ
呉軍は疫病に悩まされて退却するわで、

曹叡など、
呉軍が退けば諸葛亮は肝を潰す、と、
ドヤる始末。

因みに、呉軍の撤退は234年7月。

―要は、蜀軍にとっては、
頼みの綱の外的要因は最悪の形に終わった訳でして。

 

 

9、ガキの使いの情報戦

余談ながら、

仲達に巾幗を贈った諸葛亮に対し、

仲達も仲達で、
呉から降伏の使者が来たという「想定」で
魏延の陣に向けて兵士に万歳をさせまして。

 

で、これを見た諸葛亮が、

魏の陣営に使者を派遣して
齢60の老人がやることか、と、
仲達を窘めたそうな。

 

サイト製作者としては、
どっちもどっちの
次元の低い諜報戦に見受けますが、

戦場での睨み合いの我慢比べは、

存外、こういう具合に
連日のように
流言飛語や煽り文句が飛び交い、

そうした中で敵の出方を探り合うという
胃の擦り切れるような
日常なのかもしれません。

 

仲達が蜀軍の使者との遣り取りから
孔明先生の褒めようのない健康状態を
看破したのも、
その一環なのでしょう。

有名な話ですが、
鞭罰20以上の微罪の司法判断まで自ら行い、
日々の食事は3、4升という小食。
(3、4合に相当。粟だそうな。)

 

柿沼陽平先生によれば、
当時の刑徒ですら6升食べるそうで、
如何に健康管理に手を抜いていたか
窺うことが出来ます。

 

因みに、魏軍の密偵の逸話によれば、

この時の姿が、
例の白羽扇に頭巾という
装束であったそうな。

 

10、五丈原に巨星墜つ

―そして、戦いの結末は
実に呆気ないものでして、

234年8月末、
つまり、呉軍の合肥からの撤退より
1ヶ月余り後、

蜀漢の大黒柱・諸葛亮の陣没によって、
幕引きとなります。

 

蜀軍は楊儀の指揮の下
撤退を開始し、

近隣の住民の通報を受けた魏軍
かねてからの宮廷の指示通り
追撃を開始します。

 

しかしながら、
蜀軍が姜維の策で反転し
迎撃の構えを見せたため、
魏軍は追撃を思い止まります。

 

11、蜀軍の狂気の内訌

さて、実は、
ここからが興味深い展開。

―特に魏延の未練がましい動き
何とも蜀漢の軍隊らしいところ
言いますか。

具体的な御話は、以下。

楊儀は斜谷まで兵を退いたところで
諸葛亮の喪を発表します。

ところが、魏延が撤退に反対し、
楊儀・魏延の双方が
成都の宮廷に相手を弾劾し合い
干戈まで交えるという
狂態を露呈します。

 

前回の記事でも触れましたように、
かねてから二人の仲は険悪で
これを仲裁していたのが費禕。

そして、今回の内訌では
諸葛亮の後継者である蔣琬と費禕が
楊儀を支持したことで、

魏延は部下の指示を失って孤立し、
漢中に逃れたものの、

王平や馬岱等の追手に
斬られることと相成ります。

 

蜀漢のメンタリティを体現したような
誇り高き急先鋒の将軍の、
何とも呆気ない最期でした。

 

12、北伐自体が「孔明の罠」?!

さて、ここまで、
都合3回の記事を以て
秦嶺界隈の地形と北伐について
綴りました。

その結果、
サイト製作者の雑感としては、

この辺りの地形が険しく
兵站に多いに支障を来したことを
実感する同時に、

蜀軍が果たして、

こうした阻害要因を織り込んで
魏を滅亡に追いやるような手段を
本気で講じたのかどうか
甚だ疑問に思う次第。

 

逆に、魏が漢中を狙う場合にも、
やはり峻険な地形が足枷になり、

蜀漢の政権が安定していれば、

魏の国力の差にモノを言わせる荒技が
通用しないのは、
劉備や費禕の時代の戦争が
証明するところです。

まあその、我ながら、
申し訳ないながら、
何とも月並みな感想かと。

 

13、敵役・曹魏は有能政権

まして、国力に劣る蜀漢の北伐など、

正攻法にこだわれば、

例えば、涼州を分断しようにも、
ダイレクトに長安を狙うにしても、

結局のところ、
魏の大軍に出張られて
寄り切られるのが関の山。

 

殊に、初回の北伐など、
天水界隈の太守が悉く離反するという
この上ない天祐に恵まれながらも、

街亭に迎撃に出た張郃の
歩兵・騎兵5万は、

蜀軍の動員可能兵力を考慮すれば、
馬謖の部隊を
兵力で凌駕していたことでしょう。

 

それだけではなく、
魏軍の中枢には
反撃を画策する有能な将官も存在し、

必要に応じて
辺境の労働力を前線に回すような
総力戦体制の構築も抜かりなく
進めて来ます。

 

―サイト制作者の愚見ではありますが、

魏軍の総司令官が張郃であれば、

逆に、漢中が落とされたか、
あるいは、蜀漢の本隊が
野戦で殲滅されたのではないかとすら
思えて来る次第。

 

つまり、蜀漢の北伐の相手は、

古の高祖や光武帝の壮挙の
引き立て役となった
王莽や項羽のような
図体だけが大きい無能政権ではなく、

国力相応の頭脳や対応力を持った
有能な政権であった、ということです。

 

 

14、無謀な出兵を続ける大人の事情

さらに、孫呉その他の兵書が説くような
事前の情報収集の徹底と
それに基づく短期決戦による決着という
原則から言えば、

孔明のやったような戦争
忌憚なく言えば、
赤点レベルの内容とさえ言えるかもしれません。

とはいえ、史実としては、
どうも冴えない内容の外征が数回も
行われた訳でして。

 

言い換えれば、

生前の劉備のヘマで崩壊寸前の
ボロボロの蜀漢を立て直し、

劉備の志を具現化するかたちで
強靭な継戦能力の備わった
戦闘国家の基盤を創った
当世第一級の政治家である諸葛亮が、

 

敢えて、純軍事的には全く勝ち目のない
無理な外征を、
骨身を削って何度もやった
政治的な理由を考えた方が、

モノの本質に近付くことが出来そう
思う次第です。

 

―穿った見方をすれば、
軽微な損害で外征を続けること自体が
政権の目的であった、
ということです。

 

次回は、そうした、
諸葛亮の外征の理由について
アレコレ考えるという御話になろうかと。

 

その際に注目すべきとしては、例えば、
以下のようなものが挙げられます。

 

1、数多の研究論文にあるような蜀漢政権の
モザイクのような不協和音な構造。

2、蜀の閉鎖的な地方性と
それを逆手に取った、
劉焉政権以来の
強兵を以て地元名士を抑圧する強権政治。

3、そして、それと連動する形で、

劉備のメンタリティを
兵戸制によって末代まで継承し
時の政権担当者に
劉備の軍人皇帝としての偶像を強要する
好戦的で発言権の強い軍隊の存在。

 

また、当然ながら、歴代の識者が
活発な議論を行ったことで、
論点はこれだけには止まりません。

例えば、大義名分や地政学的なもの
ありますので、
そうしたものも紹介する予定ですし、

サイト製作者の妄想としては、
史料の裏付けはないものの、
時代・世代的な要因もあるように感じます。

 

浅学を以て結論を急ぐのではなく、

いつものように、
御笑読頂くの皆様の
何かの参考になれば良いというスタンス
綴ろうと思います。

 

 

おわりに

最後に、今回の御話をまとめると、
以下のようになるかと思います。

 

1、蜀軍は、祁山の戦いより3年半の休養を経、
234年2月に長安方面に出撃した。

 

2、前年冬に斜谷口に邸閣を整備し、
褒谷道を修復しながら進撃したことで、
魏軍は早い段階で察知した。

 

3、魏軍は渭水南岸に、
蜀軍は渭水南岸・武功水西岸に
それぞれ布陣し、
両軍は武功水を挟んで対峙した。

 

4、散発的な戦闘こそ発生したものの、
膠着状態が数か月続き、
その過程で、両軍は屯田からも
食糧を補充した。

 

5、両軍が対峙する中、
呉は合肥方面に出撃したが、
魏軍が撃退した。

 

6、長期戦の最中には、
敵軍を挑発する、敵軍の戦意喪失を狙う、
あるいは敵の総司令官の体調を探る、
といった、さまざまな情報戦が行われた。

 

7、234年8月末の諸葛亮の陣没を以て
数か月にわたる戦いは蜀軍の敗戦に終わった。

8、蜀軍の漢中への撤退の最中、
撤退を指揮する楊儀と
それに反対する魏延との間に内訌が起き、
成都の宮廷の指示を得た楊儀が勝利した。

9、諸葛亮は、北伐に臨んで、
政治的な見地から
魏軍に対する決定的な勝利よりも
出撃自体に重点を置いた可能性がある。

 

 

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻
宮川尚志『諸葛孔明』
金文京『中国の歴史 04』
柿沼陽平『劉備と諸葛亮』
濱口重國『秦漢隋唐史の研究』上巻
石井仁「諸葛亮・北伐軍団の組織と編成について」
譚其驤『中国歴史地図集』各巻
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
湯浅邦弘『よみがえる中国の兵法』

 

【番外乱闘編】

サイト制作者の『三国志』関係のアレな物学び

大変恐縮ですが、
今回は、少々、
サイト制作者の自分語りを致します。

 

私が三国志に興味を持ったのは
小学生の頃でした。

親戚から貰った
数々の子供向けの本の中に
三国志演義の簡単な訳本が混じっており、
それに目を通したのが
始まりでした。

 

で、私自身、野球は観る癖に
運動があまり得意ではないこともあり、
孔明先生の神算鬼謀が
実に恰好良く思えまして。

 

ところが、
その神算鬼謀で他国を平らげて
天下統一で一件落着、と、思いきや、

確か、赤壁の戦いが終わった辺りから
ニュースのフラッシュのように
話がダイジェストされる展開になり、

そのオチたるや、
魏との戦いで陣没して話が終わるという
何だか御涙頂戴な結末になっており、

子供心に、
何だか納得出来ないものを感じたのを
覚えています。

今から思えば、
北伐について
アレコレ考えるようになった原点は、
この「不親切」な本であったような気がします。

さらには、

確か、解説の部分に、
孔明が陣没するシーンで
涙しない読者はいないとか書かれていまして、

確かに名場面だとは思いますが、

その文学的なラスト・シーンよりも、

そもそも、何故、
あの智謀で蜀が魏に勝てなかったのかの方が
どうも気になるクソガキでした。

当然、国語の成績なんか
良い訳がありません。

後、我が国の笑い話の
「嘘八百文、嘘の付き納め」も、
まさか、生ける仲達を追っ払った話が
元ネタではあるまいな。

そう言えば、
中学時代にやった
テレ東の『横山光輝 三国志』も
赤壁の戦いで終わっていまして、
(終了の理由は敢えて詮索しません。)

この戦いは、今にして思えば、
コンテンツの関係者にとっては
勧善懲悪で終わらせることが出来るという点では
最高の材料なのかもしれません。
『レッド・クリフ』とか。

そう言えば、最近知ったのですが、
毛〇東が出師の表に涙しない奴は不忠者だと
言い放ったそうな。自分の戦争を正当化ゴニョゴニョ。

向こうの文学では、
こういうのが常套句なのでしょう。

(序にと申しては不謹慎ですが、
文学の話に関連して、

武侠小説の先駆者で
開明的な政治記者でもあった金庸先生の
御冥福を御祈り申し上げます。)

 

―とはいえ、孔明先生との出会いが、
三国志への興味を掻き立てたことは
間違いありませんし、

儒教名士が王朝を創るモデルを示した
という点では、
この御仁こそ、真の主役かもしれません。

 

その後、少し経って、
今度は三国志演義の
もう少し対象年齢の高い本を
読む機会がありまして、

孔明先生の陣没後の
三国の三つ巴の争いの泥臭さや生臭さに
何ともリアリティが感じられて面白かった訳でして。

 

特に、司馬氏の王朝簒奪を契機とした
孫呉の介入戦争や滅亡の件が、
その三国志演義の本と後年読んだ通史とで
内容がそれ程変わらなかったことで、

今から思えば、

史書の内容をあまり脚色せずに
そのまま物語として扱ったことで、
却って説得力を感じたのだと思います。

 

もっとも、話がピーク・アウトしたことで
あるいは、書き手が手を抜いたのか、
史書を殆ど丸写しした部分なのかも
しれませんが。

 

さてその後、
さらに時代が下って余計な知恵が付き、
その副産物とでも言うのか、

王朝時代以降の中国の軍隊の
「兵匪一体」に象徴されるような
いい加減さと胡散臭さ、

そもそも、
そうした大元の体制を創り出した
中国の知識人の
頑迷さや胡散臭さ、

そして、武力を蔑視する癖に
暴力装置として利活用を企てるような
セコさといったようなことが、

社会構造上の欠陥から来るものだ
ということが
少しづつ分かって来ました。
(本当にロクなことを学ばないと思います。)

 

そして、挙句の果てには、
今から10年程前のことと記憶しますが、

気鋭の中国史の先生方による
三国志関係の市民講座を
拝聴する機会を得たことで、

(その講座のひとつでは、
董卓の政治について最新の研究を活用して再考するという
斬新なことをなさってまして、
これが何とも目からウロコな御説でした。)

 

学術の目線での
物学びの方法めいたものが
イロイロと垣間見えるようになりまして、

このような塩梅で
イロイロと学ぶうちに、

30年もの歳月を経て
一旦、自分の原点に回帰するとでも言いますか、

孔明先生の戦争について
自分なりにアレコレ考えてみようと
今回の作文を思い立った次第です。

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6 Responses to 交通網から観る北伐 後編

  1. 緑豆粥 のコメント:

    「知識人の頑迷さや胡散臭さ」ですか(。・w・。 )
    私も古代中国の儒者に対してはなんだかなぁという感覚を抱いておりまして、
    先日下記の本を見つけて読んだところ、とても面白かったです。
    極端な内容のようにも思えましたがなるほどと思うところも多々あり。
    もしまだご覧になっておられずかつご興味がおありでしたらぜひ……
    (ご興味なければ気になさらないで下さい)

    黄文雄『儒禍 中国二千年の呪縛』光文社 2014年9月20日

    • aruaruchina のコメント:

      緑豆粥 様

      まずは、コメントおよび
      御本の紹介を大変感謝致します。

      我ながら、
      浅学な癖に不遜なことを書くなあとも
      思いますが、

      緑豆粥様も恐らく同じようなことを思われたことで、
      或る部分は安堵したと言いますか。

      さて、私自身、中国の知識人のやることに
      恐らく最初に疑問を持ったのは
      もう随分前のことでして。

      ある時、
      学生時代の恩師の先生のひとり
      ―非常に漢籍に明るい方ですが、

      連中は、周の時代の
      ありもしなかったことを尊び、
      武力(≒自分が軍務に就くこと)を不当に嫌う、
      といったようなことをおっしゃりながら
      嘲笑っていたことが
      非常に印象的でした。

      その後、国民党軍について調べているうちに、
      幽霊部隊だの、重砲が扱えないだの、
      将校が地図に大書するだのと、
      将兵の資質・規律の悪さを失笑しつつも、

      どうもそのメンタリティが
      民国どころかその遥か前から
      継承されている気配が見え隠れしまして。

      で、決定打になったのは
      岡本隆司先生の『中国の論理』。

      通史等を読んだ時に見え隠れする
      王朝時代の中国の常識めいたものが
      綺麗にまとめられており、

      儒教のあの国における位置付け等、
      長年の疑問のかなりの部分が
      氷解した心地でした。

      また、このサイトの開設に際して
      イロイロと調べているうちに、
      儒教関係の話で目からウロコであったのは、
      高木智美先生の『孔子―戦えば則ち克つ』。

      そもそも儒教は春秋時代の戦時道徳が
      バック・ボーンであったという御話。

      この本の御蔭で、
      国教化されたりオカルトが入ったり
      曲学阿世されたりする過程が
      或る程度理解し易くなりました。

      私自身、思想・哲学には疎いのですが、

      後漢・三国時代の武将や政治家が儒教で育ち、
      その影響を強く受けていることで、
      苦手だからと喰わず嫌いをする訳にも行かず、

      さわりの部分だけでも学ぼうと
      いくつかの文献を当たりましたが、

      それらを読む分には、
      武将がドグマに愚直になる要素もあれば、
      一方では、法家や実務家と揉める思考パターンも
      少なからずあるように思った次第。

      もっとも、現実の政策としては、

      例えば、三国時代の役人の任用の場合、
      法家の役人が金銭的に強欲だったりして
      綱紀粛正も中々に難しいものでして。

      司馬仲達の九品中正の大改編に際しての
      夏侯玄の具申など、

      両者の政治的な立ち位置を抜きにしても
      思想と政治のバランスを取ることの難しさが
      垣間見えると言いますか。

      さらに、別の視点からは、

      孔子や優秀な御弟子さん達が
      いくら真面目に学問に励んで
      研ぎ澄まされた自説を開陳しても、

      一旦御用学や体制学の類になると、
      必ず体制固めや出世、政敵排除等に
      これらを拡大解釈する勢力が現れるという
      悲しい現実があります。

      私自身、専門分野の詳細は伏せますが、

      歴史学を専攻した際、

      特に1950~60年代の
      マル〇ス経済学の影響を受けた論文の内容が
      読み手をケムに巻くような文体等
      イロイロとひどかったことを記憶しますが、

      (一応、ソ連崩壊後の実証史観の世代でノンポリです。
      念の為。)

      漢代の儒教の発展と弊害の経緯を辿った際、
      件の〇ル経の話といい、

      どの学問にも該当しそうな
      もうひとつのダーク・サイドな顔を
      垣間見た心地です。

      何だか、取り留めのない話を長々と恐縮です。

  2. 緑豆粥 のコメント:

    『孔子―戦えば則ち克つ』、読みました(≧∇≦)ノ
    以前「肩肘張らずに読める?!良書アレコレ」でご紹介頂いてすぐ読みました!
    春秋時代のイメージが一新されました!!

    • aruaruchina のコメント:

       緑豆粥 様

       御読み頂きまして、大変感謝致します。

       哲学・戦争・歴史的背景の交錯する焦点を打ち抜き、
      かつ、読み易く単価も1000円を切る、という、
      三拍子・四拍子揃った二遊間を守れる四番打者めいた文献も
      珍しいことで、紹介させて頂いた次第です。

       以下は、あくまでサイト制作者の主観ですが、

       文学・哲学の先生が書かれる古代中国関係の文献は、

      対象物を説明する際、テーマが文学や哲学であるからにせよ、
      歴史的・社会的な背景や変遷の説明よりも、
      史料の一字一句の解釈や専門的な概念の説明を重視されることで、

       個人的には、どうも説明の対象物の全体像が掴みにくく、
      理解に難儀する傾向があったのですが、

       同書や湯浅邦弘先生の御本(何冊か御世話になっています)のように、
      多角的な視野でバランス良く説明して下さるスタンスには
      非常に助けられました。

       さて、私の方も、御紹介頂いた黄先生の御本を
      近いうちに手に取ろうと思います。

  3. てきとうマン のコメント:

    孔明の北伐の目的が出兵自体にあった説はありえそうに思える。

    その場合考えられるのは劉禅が創作モノのように愚鈍な場合、典型的な傀儡君主向きだと
    百官達に映っていて、目のタンコブなのは言わずと知れた先帝からの腹心で今上帝にも父として敬われ影響力を持っている孔明で、成都にいれば暗殺の危険性があったのではと。

    なので孔明はたびたび前線に滞陣し、しかも精兵を擁していることで、成都で劉禅を殺すようなクーデターを起こされることをも抑止してたのでは。
    蜀の主力を連れて出ていれば、変事があればとって返して討つのは簡単だろうし。

    それとは関係なく
    仮に、北伐を10年に一度程度に減らしたら途端に兵の練度や士気は落ちてしまう危険もあると思う。
    なんといっても蜀は僻地だし、漢中に引き篭もっていればどんどん士気は下がりそう。
    それでなくとも蜀の文官は三国で一番に後方意識が強いと思う。

    つまり総合すると、出兵自体が実戦訓練を兼ねつつ、北伐自体が自身の暗殺を遠ざけ、大軍を連れて行くことがクーデターを防ぎつつ、何かチャンスが来るのを待ってたのかもしれない。
    そのために大敗するリスクは負わず、軽微な損害で敵の失態を誘い、継続性こそを重視していたのかもしれない。

    • aruaruchina のコメント:

       てきとうマン 様

       まずは、御熟読に対して大変感謝致します。

       過去の記事の整理になるかもしれませんが、

       北伐が続いた理由として、
       個人的には、構造的な問題と時代的な環境のふたつが挙げられると思います。

       まず、構造的な問題で、これはほとんど石井仁先生の請売りですが、以下。

       蜀漢についての学術論文等を読む分には、
       外様の人士や軍隊がヨソ様の土地である蜀を治めるというコンプレックスが
      国家の滅亡まで付いて回った観が否めません。

       無論、外様の人士の中心は、出身はともかく荊州の人士である諸葛亮でして、
      劉璋の旧臣の筆頭格である李厳もこれまた荊州の人。

       軍隊はと言えば、紆余曲折を経て李厳が掌握した東州兵やその系譜の軍隊、
      孟獲等南中の大姓の豪族で構成される南蛮兵、
      その他、劉備の時代より存在したと思しき北方の騎兵等の有象無象です。

       言い換えれば、自分達が外征で点数を稼がないと巴蜀に居場所がない連中でして、
       孔明以下の歴代の丞相や録尚書事のような実質的な政権トップに
      軍人皇帝・劉備の偶像を強要します。

       地元名士で保守的な費禕ですら、
      膝元・成都の占い師(今で言えばコンサルの類でしょうか)に、
      ここに居ては運が開けない、と、追い立てられて
      前線寄りの漢陽だかに追い出されるというみっともない有様。

       事実、孔明のような簒奪を目の当たりにした世代が魏討つべし、と、喚くのならまだしも、

       鄧艾の奇襲部隊が成都を制圧した際、
      前線の剣閣に駐屯していた姜維の部隊の将兵は剣で石を叩き割って悔しがったそうな。

       では、どうしてこんな古臭いメンタリティが何十年も続いたのかと言えば、

       その背景には、当時の兵戸制という、
      軍人に土地を与えて世襲させるシステムの存在があります。

       現に、蜀漢の動員兵力も、魏が成都の制圧に応酬した帳簿を数えると、
      北伐とほぼ同数の10万余。

       欧州大戦前夜の、常備軍20万で、むしろ国内でイーハーやってた
      大草原の小さなリデンプションな〇メリカではなく、
      恐ろしいことに、戦乱が半世紀以上も続いた時代の、
      それも人口100万だかの小国の話です。

       民を慈しむのが大好きな儒教名士が国家の屋台骨を作り上げたというのが
      悪い冗談になるような薄気味悪い実話。

       また、時代が下った南朝時代の後半ような
      懲役と兵役が同義というイカレた状況とは異なり、
      当時は、この制度で或る程度マトモな兵士を供給出来ていた
      =益州では軍人の地位が高かったのかもしれません。

       続いて、諸葛亮をめぐる当時の時代的な環境について。

       実は、諸葛亮という御仁は、北伐を企てるに当たって、
      成都の防衛責任者にも自分の息の掛かった人間を置いていまして、
      自身の駐屯する漢中と成都の、謂わば、二元統治のようなことをやっていました。

       言い換えれば、そういうことが出来るレベルの強力な権力を掌握しておりました。

       劉備没後の危機的な状況の中、超人的な才覚で国家再建の過程で、
      劉備以来の古参の家臣を懐柔する一方、
      自ら発掘した人材を抜擢して要職に起用することで政治力を高めました。

       したがって、北伐以前は、蜀漢が諸葛亮に依存して国力を高めた時代でして、
       殺そうとする勢力は、成都の権力の中枢には恐らく存在しなかったと思います。

       また、恐らくは、対魏出兵が国力を度外視した大義として罷り通るという
      時代的な部分もあったことでしょう。

       確かに、同盟国の呉も例年の如く魏に出撃していまして、
       大体この時代までは、諸葛亮や魯粛が説いた三国鼎立が、即、魏の二正面作戦を意味し、
      魏の軍事行動の足枷となっていました。

       事実、曹叡がふんぞり返って洛陽の再開発に精を出すのも、諸葛亮の陣没を見届けた後。
       最近の研究では、浪費の類ではなく、貧相で首都の態をなしていなかったからだそうな。

       また、この人は、人材登用も堅実でして、
      儒教名士の中でも実務的で優秀な人材をドシドシ抜擢しています。

       霊帝が芸大を作り、曹操等が儒教やめてポエムやろうぜ、と、志向した学問の自由化が
      ヘンな方向に進んでふざけた連中がのさばって国政がガタガタになり、
      兵役逃れのアホばかりの大学だの、ロクに公文書も書けない官僚だの、無計画な外征だので
      干された仲達がブチ切れて一芝居打ったのは、この皇帝様が急死した後の御話。
       
       
       脱線して大変申し訳ありません。

       さて、諸葛亮が暗殺される可能性を考えれば、
      恐らくは負け戦が続いて銃後の負担が大きくなった時期でして、
       史書にも外征の負担の重さを示唆するような文言が出て来ます。

       そうなると、戦績不振でクビになるプロ野球監督宜しく、
      狡兎死して走狗煮らるの状況を生まないためにも、
       御指摘のように、前線で軍を掌握して戦時体制の緊張を保つ意図はあったのでしょう。

       諸葛亮の北伐は、個人的な見方としては、
       記事にも書きましたように、御粗末で逃げ腰な用兵だと思います。
       西方や北方の異民族との連携も、魏のインターセプトが入る以上は絵空事だと思います。

       さらに、蜀が勝てる状況を想定すれば、
       てきとうマン様と同じように、息の長い話ながら、
       八王の乱レベルの中央政府のゴタゴタを待って、
      それに付け込むような話になろうかと思います。

       その一方で、多くの識者の先生方がおっしゃる、
      占領地で兵を養ったり鍛えたりする屯田めいた行為が本当に有効かどうかは
      議論が分かれるように思います。

       北伐なり、姜維の北方への攻勢なりは、
      恐らくは占領地の収奪分以上に銃後の負担が格段に大きいことで、
      諸葛亮の没後は長らく沙汰止みとなり、蒋琬の時代には計画さえ頓挫しました。
      それどころか、姜維の場合は民心を離反させました。

       諸葛亮・姜維の両者を見ていると、
      一度外征を始めると、政争も絡んで白黒着くまで止められないこともあるように思います。

       姜維の場合は、確か、初めは成都の宮廷に足掛かりになるような人脈がなく、
      蒋琬の時代に荊州攻略作戦の陽動が史書に残る大きな初仕事という
      軍歴でキャリアを作ったような人で、
      政権の末期は成都の諸葛瞻と政権中枢の尚書内で対立関係にありました。

       こういう人が始める戦争です。

       陣頭指揮で死に物狂いで戦うに決まっていまして、
       確かに、用兵では見るべきところはあるものの、
      郭淮だの王経だの良将と戦って、結局は軍を殲滅されて漢中に逃げ帰ります。

       あくまで個人的な意見ですが、諸葛恪や曹爽と似たようなことをやって暗殺されなかったのは、
       蜀漢の多民族的で好戦的で政権の暴力装置でもあった軍の事情に救われた部分が大きいように思います。

       さて、秦嶺山脈の天険は、長安からの出撃も難儀を極めます。
       あの曹操とて、一歩間違えれば張魯に撃退されていました。

       鍾会の蜀攻めも、あれだけ周到な攪乱工作をやって、
      蜀の倍以上の兵力を準備しても、姜維の巧妙な用兵と天険に祟られてあのザマです。

       魏の本隊は鄧艾の奇襲がなければ剣閣で餓死していたのでしょうし、
       その鄧艾と綿竹で交戦し、最終的には敗れて戦死したのが
      諸葛亮の息子の諸葛瞻や黄権の息子。

       そもそも、前線の姜維が陰平方面の別動隊の存在を把握出来ず、

       さらには、高々1万を切る程度の鄧艾の奇襲部隊の存在で領内が大騒ぎになり、
      出城という出城が雪崩式に鄧艾の部隊に呼応していく中で、
      窮地に立った諸葛瞻はどういう胸中だったかと思います。

       例えば、費禕の時代の曹爽の撃退は、王平の用兵も際立って対応が早く見事なものでした。
       対して、諸葛瞻の部隊は、緒戦では鄧艾を破っても追撃を行わないだとか、
       マトモな動きをしていません。
       
       鄧艾の奇襲にしても、当時、前線の剣閣の姜維の兵力は数万でして、
      蜀漢の動員兵力を10万とすれば、机上では数万の兵が動員可能な計算です。

       ところが、結果は御周知の通り、本来領内を守るべき兵士が敵方に着いた訳でして、
       それだけ姜維の出兵が蜀では恨まれており、
       兵員供出や情報収集等の面で防衛作戦に大幅な支障を来した、という話かと思います。

       因みに、当時の中国の戦争では、郡の治所レベルであれば、
      城内の人間が本気になれば、数倍の兵力差であろうが、
      人肉を喰ってでも3か月や半年は籠城します。

       これは戦国時代からの流儀で、
      三国志の時代でも、そうした例は枚挙に暇がありません。

       そのように考えると、先述の剣閣で成都の陥落を悔しがった将兵との温度差。
       延いては、外征の光と闇。

       大分妄想も入ってあまり参考にならずに申し訳ありません。
       まずは、御返事迄。

       好痛制作者 拝

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