交通網から観る北伐 中編

今回も焼け太って長くなったので
章立てを付けます。

 

はじめに

1、曹真の反撃
1-1、武都失陥と反撃の画策
1-2、多くを語らない歴史の教科書
1-3、それでもオモシロい三国志

2、司馬仲達の登場
2-1 秦嶺への転戦前夜
2-2、仲達とは何者か

3、当時の地図を見てみよう
3-1、郡、治所の県とヒラの県の距離感
3-2、自己責任、手抜き地図の作り方?!
【追記】要注意!地図の取り扱い

4、歴史学と地理学の交差点
4-1 狩猟・放牧・開発
4-2、自然環境と役人のメンタリティ
4-3、古代中国の農学事始め?!

5、決戦前夜
5-1 蜀軍の隴西郡への進出
5-2 フロンティアの地名
5-3 動き出す両軍主力
5-4 仲達と張郃の思惑
5-5 古強者・張郃の半生
5-6 売れっ子張郃と将軍号
【追記】前後左右将軍について
5-7 古強者、張郃と魏延
5-8 今も昔も揉めまくるラインとスタッフ
5-9 総力戦と戦力の管理
5-10 1+1はプラス?マイナス?
5-11 全兵力を祁山へ
5-12 ヨコシマな仲達の孔明リサーチ
5-13 王朝簒奪の見本?!
【追記】曹叡と司馬仲達の横顔を垣間見る
5-14 知識人の「不純」な軍務とその理想像

6、会戦の行方
6-1、机上の鶴翼
6-2、麦はどちらが刈ったのか
6-3 上官を喰うタカ派も好き好き
6-4 祁山の死闘
【追記】鹵城は何処にある?
6-5 名将の迷采配
6-6 戦死こそ古強者の華?!

7 兵站と政争
7-1、兵を退いた理由は?
7-2 デキる孔明先生の憂鬱

おわりに

 

はじめに

前編から間が空き過ぎて大変恐縮です。

近日中と予告したものの、

書き始めると1週間も掛かり、
大変申し訳ありません。

そのうえ五丈原の話まで行かないと来ます。

 

1、曹真の反撃
1-1、武都失陥と反撃の画策

さて、
いよいよ、
諸葛孔明の北伐も佳境に入ります。
宿敵・司馬懿(仲達)との
対決と相成ります。

司馬仲達の登場の経緯は以下。

 

それまで長安方面の部隊を
指揮していた曹真が、

230年の夏に漢中に兵を進めて
長雨に見舞われて失敗しまして、

魏にとってなお悪いことに、
当人はどうもこれで心を病んで死去します。

孔明キラーの名将の
呆気ない最期であったと言えます。

 

余談ながら、
サイト制作者としては、

北伐に限っては、
司馬仲達よりも
遥かにマトモな仕事をしたと思います。

―そもそも、踏んだ場数が違うと言われれば
それまでですが。

 

この戦いは、
別の回で詳しく書こうと思いますが、
経緯は以下。

 

手始めに、
対呉戦線では合肥の新城
この歳の春に完成し、

揚州方面で長江を渡って
何度も攻めて来る孫権を黙らせて
後顧の憂いを断ったうえでの
蜀への反撃だったのですが、

夏に兵を出したのが
アダになりました。

 

これについて、
先の記事にも書きましたが、

秦嶺界隈の夏
当時も雨の降り方が雨季とでも
言うべき激しいものでして、

桟道が壊れるレベルの長雨は
230年の夏に限った話では
ありません。

 

その意味では、
サイト制作者としては、どうも、
古強者らしからぬ短慮に思えて仕方なく。

 

とはいえ、
柿沼陽平先生によれば、

大掛かりな出兵の準備には
数ヶ月の準備を見るべきのようで、

例えば、
曹真の蜀攻めの半年前である
230年の年頭と言えば、

蜀軍が武都郡を占領した時期
当たります。

 

あくまで仮定の話ですが、

武都郡の陥落で焦った曹真が、
なるだけ早い反撃を画策して
夏の出撃となったのかしら。

 

 

1-2、多くを語らない歴史の教科書

サイト制作者自身、
これについて、

先の記事の追記も含めて毎回書く内容が
コロコロ変わるのを
歯痒く思っております。

例によって見苦しい言い訳をしますと、

この228冬~231年夏の約2年半は、
三国の攻勢作戦が入り乱れて
情勢の変化が激しい時期でして、

加えて、
陳寿は事実を中心に事務的に書き
確度の低い枝葉の話を端折るそうで、

 

その結果、

そういう肝心なタイミングに限って、
特に、蜀・魏の当事者が
当時軍事面で何を考えていたのかが
あまり判然とせず、

サイト制作者としては
困ったものだと思います。

 

余談ながら、
文科省の検定を通った歴史の教科書が
読み物としてつまらないのは
こういうメンタリティに起因します。

陳寿のスタンスは
歴史書執筆の美学なのでしょうし、
現在の実証的な歴史学自体も
概ねそういうものです。

 

歴史の教科書は、
創作文学のような面白さはない反面、
(学会の定説をなぞっているので)
虚偽記載もほぼありませんが、

同時に、
プロの歴史研究者が
史料の検証を楽しむプロセスも
気持ち良い位に煮飛ばしています。

 

―ですが、
物事、例え、仮定の与太話でも、

いくつか突き合わせると
見えて来る真実もありまして、

その意味では重宝するものです。

 

 

1-3、それでもオモシロい三国志

それでも、
まあその、
味気ない作りの御用歴史書とはいえ、

時代のヤバさは元より、

それを時の政権のタブーと
巧く付き合いながら
事実を淡々と書ける陳寿の筆力や胆力、

時代的制約から或る程度解放されたことで
嬉々として脚注を付けまくる裴松之の遊び心、

―加えて、

(失礼ながら、
恐らくは詳しくなさそうな分野も含めて)
日本語のニュアンスでは
どうも訳しにくそうな言葉を
辛抱強く和訳された井波律子先生等、
日本の先生方の努力といった
当世一流の知識人の努力の賜物で、

サイト制作者のような
浅学で口の軽い門外漢も
正史の内容を楽しめる時代になりました。

 

 

2、司馬仲達の登場
2-1 秦嶺への転戦前夜

何だか、ヘンな話で腰を折って恐縮です。
話を戻します。

 

曹真が死去して
その後任に、かの司馬仲達が
魏軍の長安界隈の
謂わば方面軍司令官になった、

という御話でしたね。

 

さて、この御仁、

対蜀戦線に出張って来るまでは、
荊州方面で
呉と干戈を交えていまして。

恐らく、荊州方面の一連の防衛戦は、
この人の軍歴の始まりだと思います。

また、現地では戦績も良かったのですが、
この時の同僚が、
この後イロイロ絡みのある張郃。
今回の御話の主役です。

 

そして、仲達は、実は、
先述の230年夏の曹真の蜀侵攻の折にも
一隊を率いていまして、

漢水(長江支流)から遡って
魏興郡の西城を目指しておりました。

 

因みに、司馬仲達が
曹真の後任に抜擢されたのは
この戦いのすぐ後につき、

当時から肩書が変わっていなければ大将軍。
(今日で言うところの軍の制服組では
一番エラい肩書!後述します。)

 

2-2、仲達とは何者か

さてこの御仁、

生まれは河内郡の名家。

仲達も含めて8名いた兄弟は皆優秀で、
字に達が付くことで、
司馬の八達と呼ばれていたそうな。

 

また、若い時分から
曹操の出仕要請を蹴っ飛ばして睨まれ
一方で、曹丕の学友に抜擢されたりと
イロイロありまして、

毛並みの良さと類稀なる才気を売りに
順調に出世し、

この時期の曹魏において、

王佐の才を謳われながらも
非業の死を遂げた荀彧亡き後の、

陳羣と双璧をなす
儒教名士の筆頭格になっておりました。

 

こういう事情があってか、この時は、
曹叡は司馬仲達に非常な期待を寄せて
司令官に抜擢しまして、

結果としては、
蜀軍を撃退したという点では
起用はどうにか当たった訳ではありますが。

 

 

3、当時の地図を見てみよう
3-1、郡、治所の県とヒラの県の距離感

さて、ここで、
下記の地図を御覧ください。

譚其驤『中国歴史地図集 三国・西晋時期』、久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて」(上・下)、宮川尚志『諸葛孔明』、渡邊義浩『三国志 運命の十二大決戦』、金文京『中国の歴史 04』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』より作成。

 

一応、曹真・司馬懿の
進撃ルートを確認しておきましょう。

 

曹真率いる本隊は、
東から子午谷道・褒斜道および
恐らく関山道と思われる幹道を南下し、
(子午谷道の南側の起点は
西城より西という説も有。)

仲達の支隊は、
荊州から漢水に沿って西城を目指す、
という魏軍の経路。

 

御参考まで。

余談ながら、
趙雲が焼き落とした筈の褒斜道が
魏軍の進撃ルートになっています。

残念ながら、
この辺りの経緯は、
サイト制作者は分かりかねております。

 

次いで、地図自体について、
アレコレ書きます。

 

―まあその、
例によって、手書きの怪しい地図ですが、
以前のものよりも
或る程度、精度が上がっています。

特に、当該地域の県は、
出来るだけ省略せずに書きました。

 

と、言いますのは、
それもその筈。

 

殆どが、譚其驤先生
『中国歴史地図集 三国・西晋時期』の転写につき。

こういう事情につき、
交通関係の御話としては、

サイト制作者も描きながら学んだことですが、

当時のひとつの郡の広さ、
大型河川の流域と都市との関係、
郡の治所と郡内の各々の県の距離感、

―といった感覚を、
多少なりとも把握して頂ければ幸いです。

 

恐らくは、河川付近≒道や居住区域でして、
それ以外の部分は
山岳や森林が多かったものと想像します。

 

例えば、前回の記事でも触れましたが、

今以って、
漢中・長安を
3000メートル級の秦嶺山脈が
隔てておりますし、

現在の

天水郡や街亭の界隈も、
当時は森林地帯が多かったそうな。

 

3-2、自己責任、手抜き地図の作り方?!

さて、この元ネタについてですが、

色々調べた甲斐あってか、
やっとのことで
この歴史地図の存在にたどり着きまして、

最寄りの国立大学までデジカメで複写しに行ったのですが、

このサイトにバッチリ載っていまして。
ttp://www.ccamc.co/chinese_historical_map/index.php
(1文字目に「h」を補って下さい。)

この地図は本当にスグレモノでして、
特に、都市・河川の当時と現在の位置が
詳細に記されていることで、

サイト制作者には
色々な発見がありました。

 

それはともかく、
先のサイトさんから
スクリーン・ショットで複写して
書き込むことも考えましたが、

情報が多くなって
結果として見辛くなることを
避けようと思い、
面倒な手書きにした次第。
―悪しからずです。

 

 

 

【追記】要注意!地図の取り扱い

で、コレ、何が手間だったか、
と、言いますと、

まずは、漢字の扱いです。

むこうの簡字
それもかなり古語を含む地名を、

字引は元より
IMEパッド、グーグルの検索等を
総動員して
調べるのですが、

モノによっては
ニホン語の音読みすら
分からない、
まして字の意味も
想像が付かないものもありまして、
(判明すると、
驚く程簡単な意味であったりします!)

古語も含めて
語学が堪能な方が羨ましい
心底思う次第。

 

のみならず、
地理学の浅学に起因する苦労もありまして。

デジカメで撮ったことで、
しかもメルカトール図法の地図につき、

撮り方が悪くて
肝心な部分でブツ切になったり、
複写の微妙な手振れにより
本の上下で距離に誤差が出たり、

また、地図そのものの性格としても、

地球が丸いことで
各々の地点間の距離が
緯度・経度ごとに一定ではなかったり
します。

 

これも、ネットで調べて分かったことで、
この歳になって
目からウロコが落ちました。

 

これに因みまして、

昔、光栄(現コーエー・テクモHD)の
「大航海時代」シリーズを
制作したスタッフさん達も、

パラドックスの
ゲームのスタッフさん達も、

恐らく、
ゲームそのものに必要な蘊蓄よりも、

例えば、
夜襲や空爆等に影響する時差やら、

グリーンランドが大陸に見えるような
地図と実情の致命的な誤差の修正やら、

リアルタイムで
物事が細かく動く様を再現するための
システム作り
苦労されたのかなあと
思った次第。

 

―で、無い知恵絞って考えた結果、
どういう対策を
取ったかと言いますと、

この地図の長所に即して、

この地図に記された
現在の都市の位置と、

割合正確な距離が計測出来る
別の現在の地図の都市の位置とを照合し、
(ですが、これもメルカトール図法の地図!)

大体の目安を作った上で、
河川や県(都市)を配置するという手法で
描きました。

 

例えば、今回の場合、

長安付近の西安
陳倉付近の宝鶏の間は
東西で大体168キロ・・・

―という具合です。

 

あまり役に立たない
ノウハウかもしれませんが、
御参考まで。

【了】

 

 

4、歴史学と地理学の交差点
4-1 狩猟・放牧・開発

さて、モノの本、と言いますか、
市来弘志先生によれば、

譚其驤先生は歴史地理学の先生で、
(こういうこと書いてる時点で
サイト制作者は
隠しようのない素人門外漢なのですが)

1962年に
「後漢以降黄河長期安流説」
というものを唱えまして。

具体的には、以下。

 

後漢以降に遊牧民が
オルドスや黄土高原に進出して
農地が減少し牧草地になったことで
黄土高原の土壌侵食が緩和され、

その結果、
後漢から唐末までは
黄河の氾濫が少なかった、
という御説。

 

で、この説は、
賛否を問わず
色々な議論を引き起こしながらも
基本的には広く支持されているそうな。

これに因みまして、
農業や環境関係の話で少々脱線します。
悪しからず。

 

さて、古代中国の数百年ごとの
気候・環境の変化や
農耕関係の乱開発の悪影響は、

実は、各々の時代の史書にも
見え隠れしているそうな。

 

例えば、戦国時代辺りから
動員体制の整備と鉄製農具の普及により
耕地面積が激増し、

秦漢時代には塩害でダメになる耕地
少なからず出始める、という具合です。

 

一方で、特に北方には
未開拓の森林地帯が大分残っており、
戦国時代の燕の地域で
栗や棗が採れるのもこれに起因します。

この段階では、
農耕と狩猟のバランスは
まだ狩猟にも相応の比重があったそうな。

 

さらに、柿沼陽平先生によれば、
楚が呆気なく滅んだのは、

秦の早い進撃と各国の併合によって、

物品の輸出大国であった
楚の交易圏が消滅したことが
大きかったそうな。

 

参考までに、以下に、
過去に掲載した戦国時代の特産物マップ
再掲します。

柿沼陽平先生の『中国古代の貨幣』より作成。

余談ながら、本当は、
こういう怪しい図解を多くやりたいのですが、

何故か交通の話の筈が
エラい人の話にズレ込んでしまい
大変恐縮です。

それはともかく―、

 

 

4-2、自然環境と役人のメンタリティ

つまり、山林での狩猟は
立派な富であるにもかかわらず、

法家や儒家の官僚共は、

農耕こそが民の生業の在り方だ
といった観念を
領民に押し付け、
実情との齟齬も少なからず来す、という具合。

穿った見方をすれば、

自分達が国を治め易くするためとはいえ、
こういう愚民観を振り回し、
非定住の騎馬民族との戦争や懐柔の際に
辛酸を嘗める訳です。

無論、中には、
そうした多様性に理解のある
中央官僚や地方官
少なからずいますが。

例えば、三国志の時代で言えば
自分が北方出身の郭淮等がそうですし、

諸葛孔明の南中統治も
勝者の強権的な政策ではあるものの、

地方官の中間搾取や職務怠慢を認めず、
一方で、肝心な納税・兵役以外は
割合自由にやらせた手法も、

それ程反乱が起きなかったという点では
成功例と言えると思います。

 

この辺りの役人のメンタリティは、
港湾都市の廻船問屋を
戸籍では「農民」扱いにする日本にも
似たような臭いを感じます。

モータリゼーション化以前の戦前でさえ、

峠には、
所謂「サンカ」と呼ばれる人々は元より
ガチの犯罪者の山賊が出没したのです。

 

 

4-3、古代中国の農学事始め?!

―話を昔々のチューゴクに戻します。

また、気候の話としては、
例えば、三国志の時代の後漢なんか、
急に寒くなったことで、

作物の不作が続くやら、
北方民族
それまでの場所に住めなくなって
南下を始めるやらに直結し、

至るところで、
社会不安や
漢人・「異民族」間の縄張り争いを
助長することとなった模様。

 

その意味では、

孔明先生の北伐の際に
秦嶺界隈が
魏蜀の羌族の草刈り場になったのも、
偶然の産物ではなさそうな。

 

こういう話について、

サイト制作者としては、
後日、農業について、
反収や年間の作付け・収穫のサイクル、
農耕技術、農作物の換金や兵糧の調達・・・、

といった流れで
後漢・三国時代の農村・農家の風景を
復元すべく、
何かしら書こうと
考えてはいますが、

カクカクシカジカのアホさ加減で
北伐と交通の話で
泥沼に足を取られてもがいている状態につき、
いつになるかまるで目途が立たないので
毎度のことながら泣けて来るのですが、

無駄話だけでは申し訳ないことで、

予習の教科書ともいうべき参考文献を
一冊紹介しておきます。

 

原宗子先生
『環境から解く古代中国』
(大修館書店・あじあブックス)

 

定価2000円以下で
上記のような話を
かなり平易な言葉で
分かり易く説明する御本。

この時代の農耕に興味がある方には
一読を御勧め致します。

 

加えまして、
何冊か読んだ限りでは、

「あじあブックス」のシリーズ自体も
良書が多い印象を受けますが、

刊行のペースが鈍っているところを見ると
それ程売れていないのかしら。

―確かに、立ち読みの後で買ったのは、
某大都市の駅前の大型書店でしたが。

 

 

5、決戦前夜
5-1 蜀軍の隴西郡への進出

何だか、前置きが長くなりましたが、

最高指揮官の死去と後任の配属という
ドタバタした魏軍の人事をヨソに、

若しくはそれに付け込んでか、
蜀軍は先手を打って部隊を展開します。

 

まずは、230年中
具体的な時期は不明ですが、
羌中(現・卓尼界隈一体)に
魏延・呉懿(壱)の部隊を派遣します。

呉「壱(大門社長の「壹岐君~!」の壹)」と書くのは
実質的に晋の屋台骨を作った
司馬「懿」と名前が被るから
畏れ多い、というロジック。

とはいえ、
時の呉懿にしてみれば、

畏れ多いどころか
敵軍で一番首を刎ねてやりたい奴
でしょうから、

こういう書かれ方をするのは
心外だと思いますが。

 

―それはともかく、

そして、迎撃に出た魏軍・
雍州刺史・郭淮の部隊を
陽谿(位置不明)で撃破します。

 

 

5-2 フロンティアの地名

因みに、卓尼は地図中の冀県より、
大体西に200キロの地点。

この辺りの地域の事情として、

山岳地帯なのは元より
付近にほとんど県城がなく、

最寄りの県の臨洮県は、
東に50キロ程の地点にあるという具合。

そのうえ付近の地名も、
「羌」中(これは俗称のようですが)以外にも、

北に100キロ程の場所に
「狄」道県(現・臨洮県、紛らわしいこと!)
だとか、

さら北西に200キロの地点に行けば
破「羌」県(現・海東市付近)だとか、

何だか穏やかではない
フロンティア感丸出し
ウラジオストークな名前の県城が
チラホラ見え隠れします。

これも世相を反映しているのかしら。

 

5-3 動き出す両軍主力

さて、西に兵力を展開した蜀軍にとって
さらに有利な点としては、

この時期に
曹魏と揉めた鮮卑の軻比能が加勢し、
長安の北の北地郡に進出して来たことでした。

 

つまり、天水より西の方面では
羌族を勢力下に置き、

そのうえ長安近辺まで攻め込めば
鮮卑との挟撃も
視野に入れることが出来るという状況。

 

こうして方々で地均しを行った蜀軍は、

いよいよ、
諸葛丞相自らの出撃による
祁山攻撃に着手した次第。

武都郡が勢力下にあることで、
その目と鼻の先にある祁山までは
進出が容易だった訳です。

 

一方、これに対して、

さすがに、魏も魏で、

この方面の本隊とも言うべき
長安の部隊も出撃に踏み切ります。

無論、司馬仲達直々の御出馬です。

時に、231年2月のことでした。

 

 

5-4 仲達と張郃の思惑

さて、このような祁山界隈で
魏蜀両軍の主力同士の激突が必至という
物々しい状況下で、

北伐前編の記事の冒頭に
紹介しましたような、

作戦計画をめぐる
司馬仲達と張郃の意見の
食い違いがありまして。

 

その要点は、以下。

司馬仲達は兵力の集中を主張。

前衛の部隊が敗れた場合に
全軍が動揺することを
危惧してのことです。

 

対する張郃は、
後方にも兵を置くことを具申。

 

この時の張郃の意見には
細かい根拠は示されていませんが、

サイト制作者としては、
張郃や、彼と似たような思考をした
蜀の魏延の伝の中に、

張郃の軍事ドクトリンめいたものや
この時の兵力の分散を主張した根拠を
読み解くカギがあるように
思います。

 

 

5-5 古強者・張郃の半生

石井仁先生によれば、
張郃(字は儁艾)は
河間郡の張氏の家系の模様。

この河間張氏は、

劉邦の軍師として名高い
張子房こと張良の子孫を自称し、

後漢時代には司空・張敏や
文人の張超(張邈の弟とは別人)を輩出した
名家です。

 

朝廷の募兵に応じて
黄巾の討伐に加わったのが軍歴の始まりで、

董卓が任命した地方官のひとりである
冀州の韓馥の下で司馬
袁紹の下で校尉を務め、

公孫瓚との戦いで戦功を挙げ、
(寧国)中郎将―将軍の手前、に昇進します。

 

ところが、御存知の通り、
袁紹の対曹操戦の失策―烏巣防衛戦で
人生の歯車が狂いますが、
曹操に降伏後に道が開けます。

早速、偏将軍に取り立てられ、
その後の烏丸征伐で(平狄)将軍に昇進。

 

曹丕の代には左将軍に任命されます。
ここまで来ると、
上の位で威張っている常設将官は
20名程度。

 

5-6 売れっ子・張郃と将軍号

因みに、
以下は、武官のヒエラルキー。

サイト制作者はこの部分は不勉強
さわりの部分だけで恐縮ですが、

興味のある話でもありまして。

 

陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳 『正史 三国志』各巻、 渡邊義浩『知識ゼロからのCGで読む三国志の戦い』より作成。

 

で、アレ!左将軍がない?!

―そう、左将軍とは雑号将軍のひとつ。
前後左右ありまして。

【追記】前後左右将軍について

参考文献に四鎮・四征将軍以下は
雑号将軍とあったので
そのように書きましたが、

この前後左右の将軍号は、

前漢の武帝の戦争狂時代に
軍号バブルが発生する前から存在した
由緒あるものの模様。

さらに曹魏の時代も結構なランクでして、

故・森本淳先生の研究によれば、
九品中正の三品官に相当し、

この将軍号に任命された者に
行政能力があれば、

刺史を兼務する、
所謂「領兵刺史」や都督クラスの
職責を伴うそうな。

森本淳「曹魏における刺史と将軍」
『人文研紀要』(中央大学)第58号
大庭脩「前漢の将軍」
『東洋史研究』第26巻・第4号

【了】

 

また、曹操の時代には、

能力主義を標榜した割には
高級将校は曹氏・夏侯氏で
占められておりまして、

それ以外は1万以上の兵権は
任されませんでした。

また、後漢王朝の教訓もあって、
外戚の皆様も御断り。

 

ですが、時代が下って
政権の規模が大きくなり、

夏侯楙や曹休のように
ヘマをやって
キャリアに終止符を打つ身内も出たことで、

所謂外様―非血縁の方々が
頭角を現すような様相を

呈して来たのでしょう。

もっとも、
家柄が良く有能であれば
閨閥人事で王朝の宗族に取り込まれるので、

血縁・非血縁の境目は
実質的には曖昧な部分もあるのですが。

 

そして、そういう事情もあってか、

曹操配下の屈指の名将として
各地を転戦した張郃は、

街亭の戦いでは右将軍で、
陳倉の戦いの後、(征西)車騎将軍に昇進。

余談ながら、
街亭の戦いの時、上司の曹真は大将軍。

 

因みに、当時、
この人は魏軍では売れっ子でして、

秦嶺界隈で蜀軍を追い払ったら

その残敵(離反した天水界隈の太守等)
掃討後、
すぐに荊州に飛んで
孫呉と対峙し、
また有事の際には長安に呼び戻されるという
ハード・スケジュール。

 

 

5-7 古強者、張郃と魏延

さて、こういう華々しい戦歴を持つ
張郃ですが、

実は、対曹操戦に先立ち、
以下のような
興味深い具申をしておりまして。

 

曹操の兵は精強につき、

正面から事を構えるのを避けて
軽装の騎兵で敵陣の南方の連絡を遮断する、

―という内容です。

 

確かに、その後も、

曹操の漢中侵攻の先鋒を務めたり、
成都制圧直後で
足場の固っていない劉備支配下の巴に
大胆な運動戦を仕掛けたりと、

機動力にモノを言わせる用兵が得意
武将に見受けます。

 

こういうタイプの将官が
敢えて後方の守備を具申することが
何を意味するかと言えば、

後方の奇襲を警戒してのことに
他なりません。

 

後述するように
奇襲にもイロイロありまして、

何も、乾坤一擲の強襲だけが能ではなく、

ゲリラ戦で後方を攪乱したり
それを示唆する動きをして
敵軍の鋭鋒を乱すことも
十分効果のある戦法です。

 

そして、
似たような冒険屋の敵将・魏延。

この人は、
先の記事にも書きましたように、

北伐開始の出端に、

自らの出撃による
5000の騎兵での
長安への奇襲を提言した猛者。

孔明の出撃の度に、
別動隊の指揮を具申したそうな。

 

特技としては、
勇猛で士卒の訓練に定評があり、

人物の鑑定に長けた劉備が、
張飛を差し置いて
対曹操の漢中防衛の守将に抜擢した程の
将官です。

 

ただ、管理する参謀本部の側としては、

損害を顧みない博奕的な用兵をすることで
物動計画の点では
極めて扱いにくいタイプの将官なのでしょう。

 

実際、奇襲を却下されて
孔明を臆病だと罵り、

参軍、そして230年以降は
丞相長史として
前線で兵站管理に辣腕を振るった
楊儀と揉めます。

 

確かに、楊儀も魏延も、
孔明亡き後の行いをみれば
器量が大きい訳でもなく、

そもそも、当の孔明先生自身、
限られた人的資源の中で
能力偏重の人事をやったものですから、
さあ大変。

 

これ自体、
有事には必要な措置とはいえ、

この両者以外にも、
野心家の李厳、
酒乱の劉琰(北伐時は車騎将軍!)、
口八丁手八丁の馬謖、
傲慢な鄧芝、

―という具合に、政権中枢に面倒な人が多く、

肝心な場面で
その人間的な脆さを露呈して
抜き差しならぬ問題を起こしたことも
否定出来ない事実です。

 

5-8 今も昔も揉めまくるラインとスタッフ

しかしながら、
魏延と楊儀の確執については、

人格的な話というよりは
軍隊の構造上の問題に起因する部分
大きいように思います。

具体的に言えば、

兵站を管理する側にとって
博奕的な作戦を具申する将官なんぞ
疫病神以外の何者でもありません。

 

違う時代の話をすれば、

例えば、
ナポレオン時代のフランスの
参謀総長のベルティエは、
あの膨大な規模のフランス軍の兵站を
一身に引き受け、
過労で自殺しました。

これがフランス軍の死命を制した
とも言われます。

 

少し時代が下りますと、

WWⅡの機動戦の名手である
ロンメルやグデーリアンと
兵站に負荷が掛かり過ぎて
頭を痛める参謀本部との柵もそうですし、

我が国でも、
太平洋戦争時の軍令部と海軍省の
燃料をめぐる遣り取りがありまして、

組織の面子にこだわって
ナケナシの燃料で
無用の長物の巨艦を動かす作戦を発動する、
という具合に、

いずれの案件も、
当事者にとっては何とも胃の痛い話です。

 

 

5-9 総力戦と戦力の管理

で、蜀の場合は、
その戦闘部署と兵站部署の対立を収拾したのが
実質上の国家元首である諸葛孔明ですが、

立場としては、
兵站部署寄りのモノの考え方と言えます。

魏の場合は、国家の戦力の
各戦線への配分といった
大局的な判断は
鄴の宮廷の仕事なのでしょうが、

長安の方面軍の動きとしては、

文官上がりの司令官の思考パターンが
用兵に色濃く反映されているように
見受けます。

 

つまり、
司馬仲達も孔明も楊儀も、
戦争を政治家・軍政家の立場から
管理しようとした訳です。

 

数字による戦力の把握と
作戦計画の立案・実行は、

目論んだこと以上の成功も
想定外の失敗も
少ないものの、

戦力に劣る側としては
ジリ貧を待つだけです。

 

余談ながら、

19世紀以降の国民国家時代の軍隊で
あれだけ参謀本部が重宝されたのは、

銃後の体制が整い
軍隊組織が急激に膨張したことで、

その管理・運用の正確さが
兵器の質や個々の将官の用兵以上に
戦力の増強に貢献したからでしょう。

 

極端な例えで
恐らく戦中の実話だと思いますが、

例え、目の前で、
敵機の爆撃で本土が焦土を化そうが、

その空襲の前に
その月に割り当てられた燃料を
使い切っていれば、
迎撃機を上げることが出来ないのが
物動計画の非情な本質です。

 

 

5-10 1+1はプラス?マイナス?

ですが、
この時代の人間の列伝に
目を通す限りでは、

恐らくは、

何処かの国の戦時内閣の首相が
1+1は70だとか宣ったように、

前線には前線の
中々数字には表しにくい
流儀というものも
ありまして。

 

―例えば、

今日中に
100キロ先の敵を
味方1名で10名殺せ、
というような極端に無謀な話はともかく、
(これに近い成功例もあるのが恐ろしいところですが)

時には、
不誠実な指揮官に
梅林が近くにあると言われて
一次的に疲れが取れたり、

守備力を度外視した
イカレた布陣で
激流を背にして馬鹿力を発揮したり、

そうかと言えば、
深酒や寝込みの時に襲われれば
人数分の働きが
サッパリ出来なかったりと、

 

軍隊の戦力は
人間の心理の変化に連動して
生物・水物な部分が多いのも見逃せない現実です。

 

そして、数多の兵書は、
相手にそういう隙を
少しでも多く作らせるべく
さまざまなコツを説き、

現場で指揮を執る将校も、
それを必死になって学びます。

 

 

5-11 全兵力を祁山へ

―ですが、
例え兵糧その他の物資を浪費してでも
臨機応変に動き回って
相手を弱らせるという発想は、

孔明や楊儀のようなタイプの将官には、

兵書で字面は理解出来ても、
具体的な用兵に落とし込むという段階には
至ってはいなかったようです。

 

結果として、蜀の別働部隊は
魏領の後方には現れず、
孔明は魏延を本隊の手駒として
使いましたが、

魏延が孔明を臆病と罵ったように、

張郃にしてみれば、

仲達はヘタを打ったが
孔明がそれ以上のナマクラ用兵で助かった、

―決戦主義に固執して柔軟性を欠いた、

と、言ったところでしょう。

 

先述の烏巣の戦いでは
曹操は自ら殴り込みを掛けましたし、

剣閣で膠着した最後の蜀攻めも、
鄧艾の捨て身の奇襲なくしては
成都攻略は在り得ませんでした。

 

無論、万事、計画にあたって、
戦力を数字で把握することは
必要不可欠ですが、

そうやって苦労して工面された戦力を
運用する側にも、
工面する側とは別の次元の思考領域が
存在するということなのでしょう。

 

当時の名将の用兵ですら、

戦争の勝利の裏には、

数字とは別の次元の

戦場特有の臨機応変の対応や
無謀と表裏一体の蛮勇
必要となる局面が
少なからずありました。

 

 

5-12 ヨコシマな仲達の孔明リサーチ

ただ、司馬仲達の兵力集中にも、
言い分が無いといえば
ウソになるかもしれません。

 

と、言いますのは、

諸葛孔明との対決に当たって、

元同僚の黄権から
その人となりや実績等を
聞き出していまして、

この人に
かなり強い興味を持ったものの、

謀り事は多いが決断力がない、
という評を下しました。

投降者とはいえ、
黄権は慎ましい人格者で、
魏でも人気のあった人です。

 

ところで、司馬仲達は、
この黄権との数多の面談の中で、

孔明の慎重な用兵を看破
―後方への奇襲はない、

と、読んだのであれば、
相当なものだと思いますが、

後述するように、

軍内の意見を纏め切れずに
支離滅裂な指揮を行ったことで、

サイト制作者としては、

この人も、孔明先生と同様に、
古強者になめられるような
頑迷な用兵に終始したように思えて
なりません。

 

 

5-13 王朝簒奪の見本?!

余談ながら、

司馬仲達が孔明に興味を持ち
その死後に最高の賛辞を以って褒めたのは、

サイト制作者としては、
本心で師と仰ぐ程のものであったと
想像(妄想)します。

 

―同じ、文官から身を起こした者同士、

そして、何より、

有事を理由に兵権を握って
事実上、既存の王朝を簒奪した
儒教名士の先駆として。

 

さらに、直接対決の時は、
相手は実質的な国家元首として
最前線に出張って来ており、

それを迎え撃つのが、

謂わば格下である、
方面軍司令官の自分。

 

5-14 知識人の「不純」な軍務とその理想像

ですが、見方を変えれば、

この戦いを巧く凌いで
その後の政争に勝てば、
眼前の諸葛亮のような立ち位置で
政治に軍事に辣腕を振るえる訳です。

 

そして、その眩い姿は、

司馬仲達のみならず、
その後、長きにわたって、
軍務にコンプレックスを持つ
中国人の知識人の本懐となりました。

今の中共とて、
国家主席は兵権は意地でも手放しません。
手放したら、手にした相手に殺されるからです。

歴史は繰り返す・・・。

で、そうした野心の反面教師であり、
屈折した思考のもうひとつの理想像が、
常山の趙子龍。

 

 

【追記】曹叡と司馬仲達の横顔を垣間見る

筆の勢いに任せて
ヘンなことまで書いてしまったので、
ここで少し、頭を冷やします。

さて、近年(ここ20年位)の研究によれば、

北伐の段階では司馬仲達は
王朝簒奪の意図を持っていたとは
言えなかった模様。

—と、言いますのは、
正史で悪く書かれた曹叡についての研究の進展
目覚ましかったことで、

彼の目指した現実に即した穏当な国家像
かなり鮮明になり、

その過程で司馬仲達との良好な関係
或る程度分かって来たようでして。

 

逆に言えば、
曹叡の政策が本人の短命が祟って
曹爽の時代に大筋が少なからず腰砕けになり、
(文化的な時代の潮流も影響しているのですが)

その中で、例えば、
洛陽の都市計画のように
割合巧くいったものもあれば、
教育機関の整備のように頓挫したものもある、
という具合。

その意味では
恐らくはクソ真面目な儒教名士の司馬仲達も、

補佐に足る英明な主君を相次いで失うという
時代の被害者という側面が
あるのかもしれませんし、

彼をして簒奪に向かわせた
時代の空気
—文化的な多様化・自由化が現実の政策を狂わせる、
といった要因も
考えたいものでして、

後日、そうした話について、

適当なタイミングで
論文のまとめや紹介が出来ればと思います。

 

【了】

 

しかしながら、例えば、
斜陽にあるイギリスの国力と軍事力を過信せず
捨て身の外交でナチに立ち向かった
ウィンストン・チャーチルは、

恐らく、自分の戦下手を
自覚していたのでしょう、

断末魔のヒトラーが
数多の閣僚を兼任して陣頭指揮を執る様を
嘲笑ったそうな。

もっとも、この人も、

終戦直前の選挙で落ちるという、

戦勝国の政治家としては
かなり情けないバッド・エンディングが
待っているのが
笑えるところで、

この人らしいと言えば
そうなのですが。

その意味では、

曲りなりにも
選挙のうえで終身の国家元首であった
ヒトラーを笑う資格があるのかどうか、

サイト制作者としては
判断が付きかねますが、

本筋とは関係のない
無駄話につき、
ヘタな冗談として御容赦下さい。

 

 

とはいえ、先述のように、
前線では裁量も度胸も機転も必要でして、

そういう人間を起用するには
責任者も心中する覚悟が必要になります。

当の諸葛亮とて、
自分の軍才の欠如にはとうに気付いており
嘆いていたそうですが、

 

宮川尚志先生によれば、

魏延では役不足で、
魏の張郃に匹敵するような
大規模な遊撃部隊を任せられる将官が
いなかった、と、言います。

馬謖に一軍を与えて懲りたか、

強いて言えば、王平に囮を任せたことか。

この御説には成程と思いますが、

一方では、
魏では、その張郃すら買い殺す始末で、
どうも釈然としない部分もあるにはあります。

人間社会おいて
人に重要な仕事を任せることの難しさ。

 

 

6、会戦の行方
6-1、机上の鶴翼

さて、ここで、

これまで長々と書き綴った
決戦前夜の状況について、
一応図解します。

譚其驤『中国歴史地図集 三国・西晋時期』、久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて」(上・下)、宮川尚志『諸葛孔明』、渡邊義浩『三国志 運命の十二大決戦』、金文京『中国の歴史 04』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』より作成。

 

一見、蜀軍が魏軍を包み込んで
有利に見える勢力図で、

こういう外交で段取を整えるところは
孔明先生らしいのですが、

事はそう簡単ではありません。

と、言いますのは、
総兵力では魏は蜀の倍。

柿沼陽平先生によれば、
蜀の外征の動員兵力は、

当時の人口から弾き出すと
大体数万から10万だそうな。

(ちゃんと定価で買って読んだので、
 取り敢えず「陽平、単位ほしい」などと。
 『劉備と諸葛亮』p51)

それも、
魏呉に比して
国力に対する負荷が強い
強固な戦時体制での数字。

そのうえ、その2割は、
常に交代制で休暇を取っています。

対するは、
20万以上の兵力を動員
事に当たります。

当時の守る側に有利な
戦争の事情を考慮すれば、

蜀にとっては、
是が非でも
兵力差がひっくり返り易い野戦に
魏を引き摺り出す必要がありました。

 

また、一方で、
祁山から
鮮卑族の軻比能の軍の駐屯する北地郡までは
300キロ以上の距離がありまして、

蜀軍が祁山を抜かない限りは、
軻比能との連携は空手形となります。

 

 

6-2、麦はどちらが刈ったのか

斯くして、
魏蜀両軍の主力が祁山界隈に出張り、
実際に干戈を交えることとなります。

 

譚其驤『中国歴史地図集』、柿沼陽平『劉備と諸葛亮』、宮川尚志『諸葛孔明』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』(順不同・敬称略)より作成。

 

まず、先制攻撃は蜀軍。
賈嗣・魏平の守る祁山を包囲します。

対する魏軍は、

費曜・戴陵が4000の精兵で
祁山より北東、
つまり魏軍にとっての後方に当たる
上邽を守備し、

司馬仲達の本隊―張郃・郭淮等は、
祁山の包囲軍を退けます。

この時、仲達の主力部隊は、
大別して、
仲達の本隊と張郃の支隊
別れていたようで、

 

蜀軍は、
祁山では王平を張郃の部隊に当て、

孔明の本隊は上邽方面に転進し、

仲達の本隊の先鋒である郭淮
上邽から出撃して来た費曜の部隊を
撃破します。

 

そのうえで、上邽で敵前で麦を刈って
魏軍を挑発するのですが、

おもしろいことに、

柿沼陽平先生によれば、
蜀贔屓の習鑿歯の『漢晋春秋』では
蜀軍は上邽で麦を刈ったといい、

『魏書』や『晋書』では、
麦を刈れなかった、と、
あるそうな。

『晋書』に至っては、
夜陰に紛れて撤退した蜀を追撃
1万以上の首級を得た、ですと。

 

ですが、この後、
魏の賈嗣・魏平、張郃といった好戦派が
仲達を突き上げていることで、

サイト制作者としては、
諸々の先生方が書かれたように
蜀軍が刈ったと考える方が
しっくり来ます。

 

6-3 上官を喰うタカ派も好き好き

ともあれ、
上邽で敗れた魏軍は軍を退きます。
追撃した蜀軍は鹵城に入ります。

残念ながら地図にはないのですが、
鹵城県は後漢時代に廃された県で、

木門の西北
大体西県のあたりに位置します。

 

 

【追記】鹵城は何処にある?

 

この辺りの位置関係の説明については、

文献によって
重要拠点の位置関係が異なるので
困ったものです。

詳細な地図は
目下作成中で、
後日掲載します。

譚其驤『中国歴史地図集』、柿沼陽平『劉備と諸葛亮』、宮川尚志『諸葛孔明』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』(順不同・敬称略)より作成。

 

―この怪しい地図が当該のものですが、

ほとんど、譚其驤先生と柿沼陽平先生の
御本に掲載された地図の模写です。

なお、右側は、所謂、祁山と呼ばれる孤山の砦。
現地に足を運ばれた
柿沼先生によれば、

砦の両側には険しい山がそびえ、

それを貫通する道を
この砦が居座って通せんぼしており、
これが祁山堡。

さらに、祁山堡の南東の山の尾根の先端
「観陣堡」という砦があり、

両者を隔てること約1.5キロ。

 

当時の曹魏では、
対呉戦線の襄陽・合肥(新城か?)と並ぶ
屈指の防衛拠点であったそうな。

なお、略図につき、
詳細なものを観たいという方は、

前者はネットで、

懐事情が苦しい方は、
後者は本屋で立ち読みで
現物を御覧頂ければ幸いです。

 

さて、拠点の位置について困ったもの、

―と、言いますのは、

記事を書き終わった後に
気付いたのも愚かな話ですが、

譚其驤先生の『中国歴史地図集』
三国時代のものと
宮川尚志先生の『諸葛孔明』
当該の地図を見比べると、

祁山界隈の
祁山・北門・鹵城といった
重要拠点が異なっておりまして、

篠田耕一先生の『三国志軍事ガイド』は
『中国歴史地図集』に準拠。

 

そこで、サイト制作者としては、

無い知恵絞って色々と考えた挙句、
譚其驤先生のものを基準にしよう
思います。

 

理由としては、

宮川尚志先生の地図は
現在の地名も混じっており、

しかも、その現在の地名というのも、
当時と同じ地名でも
位置や網羅する範囲が
時代ごとに異なるという
面倒なケースもあることで、

これを内包しているリスクを
避けるためです。

 

加えて、
正史の内容と位置関係を照合すると、
譚其驤先生の地図の方が
辻褄が合いそうな印象を受けまして、

苦渋の決断をしました。

 

ただ、興味深い点は、宮川先生によれば、

サイト制作者にとっては
特定の難しい鹵城の位置を
「天水市と伏羌県の間」
としておりまして、

サイト制作者の作成した
パクリ地図上では、
冀県と西県の間辺りに位置します。

篠田耕一先生の『三国志軍事ガイド』
大体この見立てで、
加えて、渭水の南岸としています。

『水経注』か何かの文献に
記載があるのかもしれません。

 

因みに、「伏羌県」とは、
冀県唐代の呼称。

また、宮川先生が『諸葛孔明』の
改訂版を御書きになるにあたって
参考にされたと思われる
1960年代の「天水市」は、

祁山と冀・上邽の両県を含む
三国時代の天水郡に相当する
広域的な地域でして、
現在もこれと変わらないと思います。

 

したがって、
少し考えまして、
当時天水市内の中心であった
秦州区やその前身の天水区辺りを想定し、

現在の秦州区と冀県の間と睨んだところ、

篠田耕一先生の『三国志軍事ガイド』と
大体同じ位置であったことで、

多分これで間違い無かろう、と。

 

学会の権威のような博学な先生をして
このような次第で、
80年代に刊行された『中国歴史地図集』が
どれ程重宝するものであったか
思い知った次第。

 

恐らく、日本語の中国の歴史地図には
このレベルのものは無いことで、

日本の出版社も、
三国志関係の文献の刊行と並行して
こういうものも和訳して売るべきだと
思います。

 

余談ながら、

「鹵城県」という地名は
山西省にもありまして、

こちらも何の偶然か
後漢時代に廃された模様。

 

何分、兵乱が長期化して
住民の逃散が激しかった時代のことです。

当時の県城は、街と同義ですが、

この時代に県が廃止される経緯として
考えられるのは、

悪い部類では、

あくまでサイト制作者の想像(妄想)ですが、
以下のようなパターンでは
ないでしょうか。

 

まずは、
住民の逃亡や餓死が甚だしく
県としての態をなさなかったか、

あるいは、
盗賊や「異民族」の類と干戈を交えて
落城の憂き目を見たかで、

防御施設だけが残る、
謂わばゴースト・タウンの状態であったの
かもしれません。

 

で、空き巣になった城を
盗賊の類の武装集団が占拠して
梁山泊を気取っていたところ、

いつの間にか
帝国同士の主戦場になり、
寝床が欲しい正規軍に叩き出された、と。

―あくまで、想像の話ですが、
何とも夢のある話ですね、などと。

 

因みに、諸葛先生が仕官早々に
劉備に軍拡を説いた際、

戸籍に載っていない人間は数多いるので
こういう逃亡した者を兵士として組み込め
言いました。

ですが、バックレた人は、
大体は、豪族の巣窟である塢(武装村)に
逃げ込むことで、

こういう豪族連中を手懐けて
兵力を確保せよ、
という話なのかもしれません。

 

斯く言う孔明先生も、20代後半で、
襄陽界隈の豪族のシンジゲート団を債権者とする
劉備の軍のハイリスク・ハイリターンな借款の連帯保証人になりました。

 

【了】

 

 

 

蜀軍が魏軍を追撃し
上邽から鹵城に軍を進めたということは、
魏軍は祁山の天険を頼んだのでしょう。

守りを固めて持久戦の構えを見せます。

 

しかしながら、魏の軍中では、
先述のようにタカ派の将が
司馬仲達を突き上げるので
面白いものです。

 

祁山で包囲を受けた賈嗣・魏平は、
蜀を虎のように怖れているので
天下の笑い物だ、と蔑みますが、

さすがに張郃の場合は
同じタカ派でも
かなり冷めていました。

これが、何とも興味深い情勢判断でして、
以下のように言います。

 

祁山界隈の治安は安定しているので、
奇襲部隊を編制して
敵の後方を攪乱すべきだ。

敵と対峙しながら何もせずに
領民の支持を失うべきではない。

敵は孤軍で食糧も乏しく、
そのうち退却するであろう。

―と。

 

蜀軍の食糧不足を看破し、

既に、勝利を見据えた攻勢、
それも馬鹿正直な正面攻撃ではなく、

退路を断つように見せ掛けて
動揺を与えろと説く訳です。

陳倉の時と同じことを説き、
また後方への奇襲
この人の御家芸。

敵の倍の兵力を擁しながら
緒戦で敗れたことでケツをまくる
仲達と違い、

戦争というものを
戦後処理も含めて
広い視野で捉えることが出来る
宿将の慧眼。

 

6-4 祁山の死闘

ですが、戦歴の浅い仲達にとっては、

張郃も、賈嗣・魏平も、
恐らくそれ以外にも
数多いたであろうタカ派など、

総じて決戦を急ぐうるさい奴にしか
見えなかったのでしょう。

 

結局は、

張郃を王平に当て、
自らの本隊は
孔明の本隊と正面から事を構えます。

 

西陵の戦いでの陸抗がそうでしたが、

こういう時の最高指揮官の心理としては、
まずは部下の言い分を認めて
ガス抜きをするようでして。

もっとも、勝てばそれで良し。

時に、231年5月のことです。

 

―ですが、結果は無残なものでした。

王平は張郃の攻撃を凌ぎ切り、
仲達の本隊は、
孔明指揮下の魏延・高翔・呉班等に
散々に打ち破られます。

一説には、
蜀軍の騎兵の優秀な装備が
効果的であったと言います。

 

蜀軍の発表によれば、

3000の首級、
5000の黒光鎧、
3100の弩を鹵獲。

何とも夥しい損失。

まして、負傷兵の数など、
飛んだ生首の数倍に登るでしょう。

 

―しかしながら、
一度の大会戦の敗戦ではビクともしないのが、
20万の大軍です。

果たして、
仲達は敗軍をまとめて
再度守勢を取り、

張郃が睨んだ通り、
程なくして蜀軍は撤退します。

原因は、やはり食糧不足。

会戦の翌月
231年6月のことでした。

 

 

6-5 名将の迷采配

ところが、魏軍の失態は、
これに止まりません。

撤退する蜀軍に対して
仲達が追撃を行うと言い出し、

一方の張郃は、

こういう時は、
戦争の常識として
相手も守りを固めているから無駄だと
中止を主張しますが、

先の決戦では
言うことを聞いてやったからと
言わんばかりに
強襲を敢行します。

 

―ですが、こういう目先の戦いなど、
当然ながら、叩き上げの軍人の方が
余程事情が良く分かっている訳で、

祁山南東の木門(山)にて
待ち伏せを受けて逆襲され、

当の張郃も膝に矢を受けて戦死します。

 

これに因みまして、

余談ながら、
日中戦争で日本軍が長沙を攻めた際、

戦いもたけなわになると、
国民党軍が
それまでになく激しい
砲撃や応射を始めまして、

何事かと思えば、
国民党軍はその日の夜に、
夜陰に乗じて撤退を始めまして、

面白いことに
日本側も数々の戦いで
それを熟知しており、
速やかに追撃戦を開始しました。

現場の空気なんぞ、
恐らくはこういうものと想像します。

—実は、孫子の兵書も、
「兵は詭道なり」の原則から
退却の時程派手に攻勢をチラ付かせろと
説くのですが、

こういうことを何回も繰り返していれば
相手も自ずと慣れる訳でして。

 

 

 

昔、兵糧集積地の烏巣が襲撃を受けた際、

郭図が曹操の本陣の強襲したのに対して
張郃が烏巣の防衛を主張したのも、

何度も現場で干戈を交えた相手につき、

何も、難しい戦略的な話ではなく、
現場の習慣的な感覚で
或る程度出方が分かっていたからだと
想像します。

 

 

6-6 戦死こそ古強者の華?!

さて、一連の北伐の戦いでは、
30万以上の将兵が干戈を交えた訳ですが、

雑号将軍を超える将軍号を持った
数多の高級将官の中で、

並外れた戦績を上げながら
敵軍の手に掛かって戦死したのは、
この張郃位のものです。

 

これはサイト制作者の想像と言いますか、
むしろ妄想の類ですが、

張郃は余程敵兵と近い位置で
偵察や強襲等を行っていたのでしょうし、

日頃の正確な状況判断も、
こういう捨て身の行動の賜物だと
拝察します。

 

以前の記事で、
この時代までは高級将官にも

一騎当千のメンタリティが残っていた、

と書いたのは、

まさに、黄巾の乱や地方官同士の
小競り合いの時代からの
叩き上げのこの人の存在があったからです。

 

また、これに近い例を挙げれば、

都督の身でありながら
僅か400の兵で逆茂木の修繕に出て
戦死した夏侯淵も、
得意な戦法は機動力を活かした奇襲。

 

曹操は夏侯淵の死に際して、
逆茂木の修繕等都督のやることか
嘆いたそうですが、

彼等が潜った修羅場が、

自分の流儀を簡単に変えられる程
生易しいものではなかったことの証左
言えましょうか。

 

7 兵站と政争
7-1、兵を退いた理由は?

さて、一方の撤退した蜀軍、
こちらの事情もキナ臭いものでした。

撤退の経緯は、
後方で兵站を担当する李厳
(この時は李平に改名)
輸送の目途が立たないことで
全軍撤退を具申します。

 

で、前線の孔明先生も、
それを是とし、
撤退するのですが、

南鄭まで戻って来ると、

どういう訳か、

李厳に何故兵を退いたのかと
詰問される始末。

何ともキツネに摘ままれたような
脈絡のアヤフヤな話。

 

―ええ、要は、
李厳が仕掛けた政争です。

 

7-2 デキる孔明先生の憂鬱

ところが、
仕事の方は孔明先生の方が
一枚上手でして、

几帳面に保存していた事務書類を
一から調べ直すと
李厳の計略が発覚し、

当然ながら
この人は解任されます。

この李厳は荊州の名士ですが、
以前から江州に隠然たる地盤を持ち
孔明の命令を無視して
揉めていたのですが、

この暗闘に白黒が付きました。

 

ですが、ここで注意したいのは、

弱い兵站が政争の具になったとはいえ、
恐らくは李厳の手落ちで
輸送が滞った訳ではない点です。

 

諸葛孔明のような、

些細な仕事まで自分で差配して
物品の保存記録は全て目を通すような人が
部下の手抜きで
兵糧輸送が滞るのを見抜けなかった、

というのも不思議な話で、

李厳の具申そのものには
過失を認めず
素直に撤退を可としています。

―まあその、この人は、
こういうことをやっていたから
パフォーマンスが良かった反面、
身を縮めたのですが。

 

ですが、何故か、
自分が撤退のトリガーを引いたことに
なっており、

事の次第を調べますと、
李厳による自分の失脚の画策
明らかになったという、
何とも御粗末な御話。

 

ただ、こういういびつな形で
優秀な幹部をひとり失うのは
人材不足の蜀にとっては痛手に他ならず、

何より、
中央志向の荊州出身の人士から
北伐への反対とも取れる
動きがあったことで、

孔明先生の心中を察するに
余りあると言いますか。

 

さらに悪いことに、

ここで派手な大立ち回りをやったことで、
曹魏の方も完全に警戒して
防御を固めてしまい、

蜀漢としては
折角、武都に橋頭保を持ったものの、

孔明先生の存命中は
この方面からの攻勢は
凍結されることと相成りました。

 

 

おわりに

本当に恐縮ですが、
この怠慢な北伐、次回にも引っ張ります。

―いえ、
怠慢なのは、孔明や仲達以上に、
遅筆で纏まりのない駄文を書く
サイト制作者なのですが。

最後に、例によって、
話の大筋をまとめますと、

大体は以下のようになります。

 

1、恐らくは、武都郡の失陥により、
曹真は230年の夏に
南鄭方面に反撃を仕掛けた。

ただし、長雨で桟道が壊れて
失敗に終わった。

 

2、この攻勢で一隊を率いた司馬仲達は、
程なくして死去した曹真の後任となった。

 

3、古代中国において、
史書は環境の変化についても
少なからず語っていた。

 

4、後漢・三国時代は寒冷期に当たり、
作物の不作や
騎馬民族の生計破壊等を引き起こして
社会不安を増長した。

 

5、蜀軍は曹真の反撃を受けた230年に
隴西郡に兵を出し、
迎撃に出た雍州刺史・郭淮の軍を破った。

 

6、同時に、鮮卑の軻比能とも連携し、
軻比能は長安の北の北地郡に駐屯していた。

 

7、司馬仲達は、蜀からの投降者である黄権から
諸葛孔明の人となりに強い興味を示した。

諸葛孔明の生き様は、
後世の知識人の理想像のひとつとなった。

 

8、魏蜀両軍の主力は祁山界隈に進出したが、
後方の奇襲を警戒する張郃の具申を
司馬仲達は却下した。

 

9、両軍の祁山界隈での対峙と小競り合いの後、
旗色の良くない魏軍は守勢に回った。

10、張郃は蜀軍の撤退を見越して
攻撃ではなく攻勢を掛けるように具申した。

しかし、好戦派の将の突き上げが強く、
司馬仲達は決戦に踏み切った。

 

11、決戦の結果、魏軍は大敗し、
数多の戦死者を出し、
物資を鹵獲されることとなった。

 

12、蜀軍はその後間もなく
食糧不足で撤退を開始したが、

司馬仲達は無理な追撃を敢行し、
中止を具申した張郃は攻撃を行うも、
待ち伏せを受けて戦死した。

 

13、蜀軍の後方で兵站を担う李厳は
輸送能力の限界から撤退を具申し、
孔明もそれに従った。

 

14、しかしながら、孔明の帰還後に
撤退の責任を追及し、

事の経緯の調査後に
李厳の孔明失脚を目論んだ計略が発覚した。

 

 

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻
宮川尚志『諸葛孔明』
金文京『中国の歴史 04』
柿沼陽平『劉備と諸葛亮』
「戦国時代における楚の都市と経済」
石井仁『曹操』
「六朝都督制研究の現状と課題」
窪添慶文編『魏晋南北朝史のいま』
原宗子『環境から解く古代中国』
譚其驤『中国歴史地図集』各巻
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
山口正晃「曹魏および西晋における都督と将軍」
渡邊義浩『知識ゼロからの
CGで読む三国志の戦い』
井波律子『三国志演義』
佐々木春隆『長沙作戦』
大井篤『海上護衛戦』

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