交通網から観る北伐 前編

毎度のこととはいえ、

計画通りに行かずに

とにかく、
起承転結を付けて早く終わらせよう
焦りながら綴っていましたら、

書けば書く程
泥沼でもがく様相を呈しまして、
孔明先生の北伐を
笑えなくなりました、などと。

で、その結果、中身がない割には
15000字(除・追記分)に膨れ上がってしまいまして、
(日本人は1分間に500字程度読むそうな)

無駄な話も多いことで、

例によって、
章立てを付けます。

適当にスクロールして
興味のある箇所だけでも
御笑読頂ければ幸いです。

 

はじめに

1、仲達と張郃の用兵観を垣間見る
1-1、祁山出撃時の魏軍の軍議
1-2、陣頭で罵り合う秦漢時代の英雄達
1-3、デフォルメされる黥布の入れ墨
1-4、仲達の恐れたものとは?

2、北伐開始と街亭の戦い
2-1、魏の天水界隈の治安政策
2-2、祁山に出撃する蜀軍主力
2-3、古代中国における亭
2-4、蜀軍の異民族対策と馬謖の起用
2-5、蜀の軍中で一体何が起きたのか?
2-6、後漢・三国時代の地縁の話

3、城郭攻防の教材・陳倉攻防戦
3-1、蜀軍出兵の御粗末な経緯
3-2、郝昭の履歴書
3-3、城攻めの「歴史は繰り返す」
3-4、古代中国の籠城戦あれこれ
3-5、王双が切られた経緯を邪推する?!
3-6、張郃の恐るべき強行軍
3-7、郝昭の放言VS儒教の死生観

4、やっとこさ僻地で初勝利の蜀軍
4-1、魏の主力の野戦部隊はいずこ
4-2、端歩の橋頭保・陰平と英雄達の棋風?!

おわりに

 

 

はじめに

私事で恐縮ですが、

タダでさえ更新が遅れているうえに、

先日、安い肉ですき焼きをやった結果
生卵を食べて伏兵のサルモネラ菌にやられ、
(皆様は絶対になさらないように!)

腸炎を患って1週間入院するという
職場にも迷惑を掛けるという
大失態を犯しまして(アホの極みです)、

その結果、
読者の皆様には空振りばかりさせて
大変恐縮です。

季節も季節につき、
兵糧の管理は
くれぐれも慎重になさいますよう。

 

1、仲達と張郃の用兵観を垣間見る

1-1、祁山出撃時の魏軍の軍議

さて、長安~漢中間の交通網の話
いよいよ北伐に突入する訳ですが、

そのマクラとして、
『晋書』の司馬仲達の伝
以下のような話を挙げることとします。

まずは、この辺りの地図を挙げます。
ヘボい絵ながら。

久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」 篠田耕一『三国志軍事ガイド』 金文京『中国の歴史 04』 渡邊義浩『三国志 運命の十二大決戦』より作成。 赤の矢印は蜀軍、 青の矢印は魏軍の行軍経路。

頃は、北伐も佳境の
孔明先生の祁山出撃(231年春)の折、

全兵力で蜀の迎撃を企図する仲達に対して、

魏の名将・張郃は、
後方の雍や郿にも守備隊を置くよう
具申します。

しかしながら仲達は、

前衛の部隊が勝てば良いが
敗北した場合は、
軍を三分して黥布に敗れた
楚のようになる、と、

これを却下します。

因みにこの楚というのは、
劉邦の漢が中国を統一後、
弟の劉交を王に立てた国でして、

早い話、
劉邦が項羽を滅ぼして
不要になった猟犬・黥布を
処分しようとして、

逆に、その弟が獰猛な飼い犬に
手を噛まれたという御粗末な話。

 

1-2、陣頭で罵り合う秦漢時代の英雄達

余談ながら、この黥布という武将は、
泣く子も黙る項羽の軍の先鋒大将という戦歴は
決してダテではなく、

劉邦が繰り出す鎮圧軍を大いに苦しめます。

『史記』にある笑える逸話として、

黥布の軍が劉邦の軍と直接対峙した折、

何の恨みがあって乱を起こしたか、
という劉邦の問いに対して、

居直った黥布は、
皇帝になりたかったから、
と、言い放ち、

このラテンのノリの入ったような
人を喰った返答に対して、

怒り狂った劉邦は、
散々に黥布の悪態を突いたそうな。

 

因みに、
劉邦の時代の戦争の流儀のひとつに、
大将同士が
陣頭で丁々発止の遣り取りをすることが
少なからずあった模様。

今回の場合、
劉邦が城中から
野戦陣地の黥布に呼び掛けるという状況。

 

その他、この戦いの前にも、
劉邦と項羽が
広武山の野戦陣地から遣り合いまして、

項羽は劉邦に
一騎打ちを持ちかけまして、

頭で戦おうとかわす劉邦に対して

項羽も抜け目なく、

予め伏せた弓の名手に
劉邦を狙撃させて負傷させます。

 

 

1-3、デフォルメされる黥布の入れ墨

さらに現代史上でも、
黥布についての
多分笑える逸話も挙げておきます。

黥布の「黥」という字は、
何と、イレズミの意味。

本名は「英布」というのですが、
通名の方が有名になったという御仁。

歴史の表舞台に立つ頃には
罪状は不明ながら
履歴にマエが付いていました。

因みに、字引によれば、
罪人の額に刺し傷を付けて
入れ墨をするのが作法だそうな。

 

これに関して、
彼是30年程前に
本宮ひろ志先生の
『赤龍王』という漫画が描かれました。

確か、司馬遷、ではなく、
司馬遼太郎先生の『項羽と劉邦』を
叩き台にした作品と記憶しますが、

これに出て来る黥布の面相が
ブッ飛んでいまして、

髭モジャの坊主頭で
顔の上から下まで
瞼の幅で入れ墨が入るというもの。

—史実とは異なると思います。

 

さらにサイト制作者が驚いたのは、

その数年後に
光栄さん(現・コーエーテクモHD)の出した
『項劉記』というゲームで、

黥布の顔のグラフィックが
件の漫画のそれに
かなり似ていたことでした。

 

そもそも90年代自体(それ以前もか)が
版権についてかなりアバウトな時代でして、
(今が過剰な気がしないでもありませんが)

特に、当時はまだ利用者が少なかった
パソコンの(御子様がやってはいけない部類の)
ゲーム・ソフトなど、

有名キャラクターが無断で使われる例は
枚挙に暇がありませんでした。
(『項劉記』はコンシュマー機にも移植)

 

—もっとも、当時のパソコン・ゲームの
無法地帯な実態を知ったのは
少し後のことですが。

 

それはともかく、

本宮先生の描いたブッ飛んだ絵柄を
当時はまだ堅い歴史ゲームを作っていた光栄さんが
恐らく参考にした辺り、

当時、サイト制作者自身は
社会人どころかまだ中高生でしたが、

バブルが弾けた後とはいえ、
あの時代のエネルギッシュでいい加減な空気を
少し懐かしく思った次第。

 

もっとも、その10年後には、

ゲーム機の性能向上と相俟って、

この黥布の他にも
黒狼将軍・王離や
怪しい拳法を使う『龍狼伝』の仲達といった、

当時の漫画に出て来る異端児が
霞んで見えるようなのが
次々に登場するのですが。

 

で、こういう史実をモチーフにした
文学作品のデフォルメ化
エスカレートする現象について、

一時仕事で御世話になった
中国文学の博識な先生が、確か、
以下のような御話をされていたと
記憶します。

当時公開されていた
『レッド・クリフ』を例に、

こういうものは
後世の書き手によって
如何様にでもなるもので、

むしろ、それを、
個々の作品として楽しむための
度量を持つことこそが肝要だ、と。

例えば、時代劇の合戦や殺陣のシーンなど、
学術研究の進展と
その成果を反映した上でのデフォルメ化の
繰り返しなのかもしれません。

 

 

1-4、仲達の恐れたものとは?

話が脱線して恐縮です。
仲達がこだわった故事の話
戻します。

で、その『史記』によれば、
この折、劉交は自軍を三分して
互いに連携させようとしたものの、

ひとつが負けた後、
残りふたつが連携するどころか
逃げ出したという故事です。

仲達は、この二の轍を踏むのを恐れたのです。

 

さて、祁山の戦いは、

結果として、
魏は恐らく有りっ丈の兵力を注ぎ込んで大敗
不幸にして張郃も戦死しましたが、

敗北とは言うものの
戦線が崩壊する程の損害でもなく、

一方のも、
魏と睨み合って挑発する過程で
兵糧を消耗し、
撤退を余儀なくされました。

 

—兵力の分散を嫌う仲達と
後方の守備隊配置を説く張郃。

 

あくまで結果論としては、

蜀軍は後方には来ず、
さらに敗れても戦線を維持したことで、

どちらかと言えば、
仲達の見立てが正しかったように
思えますが、

良くも悪くも、

当時の戦争の経験の浅い知識人と
叩き上げの軍人の用兵思想の特徴が
浮彫になっているように見受けます。

そして、秦嶺界隈の急峻な地形の存在が、
両者の用兵思想の違いを
一層際立たせる訳でして。

 

この逸話を記憶の片隅に止めて頂きながら、
以下の北伐の話を御笑読頂ければ幸いです。

 

 

2、北伐開始と街亭の戦い

2-1、魏の天水界隈の治安政策

さて、夷陵で呉に大敗した劉備の死後、

諸葛孔明が生前の劉備のヘマの後始末を終え、

さらには塩鉄の専売等により
戦費捻出の体制を整え、

ついに悲願の北伐へと踏み切る訳ですが、

その頃には、魏も魏で、
秦嶺界隈の治安政策に目途が付く段階へと
突入していたようです。

例えば、郭淮は220年の曹丕の即位の折に
雍州刺史を代行して以降、
羌族の反乱の鎮圧や懐柔に勤しみます。

懐柔の方法も、
実に手の込んだものです。

降伏する羌族に対しては
親類関係や歳の長幼等の履歴を徹底的に洗い、

引見の際には
そうした情報に基づいて
肌理(きめ)の細かい対応をしたそうで、

こうした硬軟取り合わせて
粘り強い治安政策を展開した結果、

孔明の北伐の際には、
魏の兵站活動への動員に成功します。

 

2-2、祁山に出撃する蜀軍主力

久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」 篠田耕一『三国志軍事ガイド』 金文京『中国の歴史 04』 渡邊義浩『三国志 運命の十二大決戦』より作成。 赤の矢印は蜀軍、 青の矢印は魏軍の行軍経路。

孔明も孔明で、
恐らくそうした魏の事情も
弁えていたと思いますし、
それは後述しますが、

純軍事的な話としては、
自ら率いる本隊は祁山に出撃し、

当時の秦嶺の主要幹線である褒斜道には
趙雲を主将とする陽動部隊を
差し向けます。

さらに、事前には、
褒斜道経由で長安を攻撃すると
大々的に喧伝していたことで、

魏にとっては
虚を突かれた形となりました。

時に228年正月のことです。

 

ただ、事前の作戦計画策定の段階で、

魏延が5000の騎兵と
同数の輜重部隊で
子午谷経由での長安攻撃を具申し、

これを孔明が却下するという一幕が
ありました。

 

ですが、
ここで注目すべき
奇襲の成否ではなく、

先に挙げた張郃が
後方の奇襲を警戒するという用兵思想。

 

ただ、現実の侵攻経路は、
先述のように、祁山と褒斜道。

兵站関係のリスクを排除した正攻法と言えます。

 

対する魏も、
皇帝の曹叡は気鋭な君主でして、
即位早々に長安に出張ります。

 

さて、当時の漢中から関中に抜ける幹線のひとつに
関山道という道がありまして、
天水に至ります。

長安からは距離がありますが、
地形は険しくなく
兵站の制約が少ないのが特徴です。

 

歴史の追求様によれば、
詳細なルートは
漢中から陽平関を出て、下弁、岐山(祁山か?)
を経るとのこと。

非常に博学なサイト様です。
ww.rekishinoshinzui.com/entry/8879924
(一文字目に「w」を補って下さい。)

ただ、
西漢水の東西のどちらに出るのかは
サイト制作者の浅学で不明です。

恐らく、蜀軍の祁山への出撃は、
2回共この経路だと思うのですが、

この秦嶺界隈の、
渭水の北は東西の移動に有利、
南側は南北に有利、

—という地理上の性質を考慮すれば、

天水界隈で橋頭保を固めて
渭水の北岸に進出し、

本丸の長安を目標とした東進に
弾みを付けたかったのでしょう。

 

この折、蜀軍にとって幸いなことに、

刺史の郭淮が視察に出ていたこともあって
天水を含む三郡が蜀軍に離反しました。

この人の珍しいヘマとでも言いますか。

そして、ここで登場する橋頭保が
有名な街亭。

 

2-3、古代中国における亭

因みに、「亭」とは、

戦国時代には存在が確認出来る
軍事通信基地であり、

また、有事の際の
軍隊の野営地・集合地でもありました。

したがって、
例えば漢代の場合、

反乱が起きると
政府軍と反政府軍の間で
亭をめぐって熾烈な争奪戦が起きる
宿命にありました。

 

一方で、平時には、
役人御用達の宿舎である以外にも、

亭長以下数名の兵隊が常駐し、
管内を巡回して
犯罪を取り締まるという具合で、

そうなると
亭長は地域の顔役という側面も
ある訳ですが、

こうした施設や職務上の性格から
現在で言うところの「警察署」などと
称される訳でして、
それ自体は間違ってはいないと思います。

ただ、軍隊と警察の職務領域の境目が
不明確な前近代の話につき、
訳す方も悩ましいと言いますか。

余談ながら、
「亭」の責任者である亭長は、

職務放棄して飲んだくれた劉邦

その子孫で
上司の督郵を殴って
職務放棄した劉備経験したという、

由緒正しき官職です。

 

 

【追記】

誤記の訂正ですが、

劉備が亭長をやったのは演義の御話。
正しくは、安喜県の尉。

 

以下は、先の記事の復習となります。

尉は、県の軍隊(≒警察)の責任者ですが、
小規模の県では県の責任者が尉官を兼任します。

当時の地方行政には二系統ありまして、

具体的には、
民政部門の郡(太守)―県(令・長・相)―
郷(郷三役)―里(里正)の系統と、

治安部門の都尉(郡)―尉(県)
游徼(一部の郷)―亭長(亭)の系統が
存在します。

ただし、後漢になると都尉が廃止され、
県の責任者が兵権を手にします。

因みに、三国志の猛将の中には、
若い頃にこの「尉」をやった人が
少なからずいます。

(これ以下の役人の序列は、
研究のレベルでは、
定説がある部分と議論が分かれる部分が
混在します。)

さらに、治安部門の系統の末端には、
亭の他に郵という拠点もあり、
亭と郵が併設された拠点もあります。

で、これを統括したり、
あるいは監察の役目も帯びたのが
例の督郵でして、

後漢の動乱期には、

州の刺史や牧が、
治安部隊の下級指揮官である亭長や
監察官である督郵に直接指示を出し、

郡県の頭越しに支配力を発揮し軍閥化したそうな。

 

【了】

 

 

 

 

—それはともかく、
こういう風に考えると、

「亭」は、
当時の感覚としては、

地名というよりは
拠点の名称といった方が
恐らくは実相に近いのかもしれません。

 

例えば、現在で言えば、
ドラマの影響で某県警が開設した「湾岸署」、
サイト制作者が好む安酒の「フォート・ウィリアム」、
(西部劇なんかも、この感覚だと思います。)
—という具合。

県城のように場所の特定が難しいのは、
恐らくこういう事情かと想像しますし、

「街亭」という名前自体、
当時としては、何処の郡県にもありそうな
有り触れた名前にも思えます。

(これはサイト制作者の浅学の極みですが、
以下の追記分は、その件に関する善処と言いますか、
夏休み、ではない、休日の「自由研究」の成果です。)

 

 

【追記】

『グローバルマップル 世界&日本地図帳』p12を加工。

 

街亭略陽県について少々。

 

サイト制作者自身、

記事を書く前に、
多少なりとも
ネットで調べれば良かった
非常に後悔しております。

今更ながら思い知る、文明の利器の有難味。

「百度百科」・街亭
ttps://baike.baidu.com/item/%E8%A1%97%E4%BA%AD
(一文字目に「h」を補って下さい。)

これによりますと、
街亭は、正式名称「街泉亭」。

現在の甘粛省天水市秦安県
(例のヘンな地図の「街亭」の位置!)
に位置します。

 

この地は前漢時代には
天水郡「街泉県」と言いまして、

交通の要衝という事情に加え
文字通り年中枯れない泉があってか、
所謂「兵家必争之地」であったそうな。

 

さて、ここからが面倒なのですが、
後漢時代に「略陽県」と改称されました。

光武帝の時代のことだそうで、
1世紀の中頃の話かと思います。

 

―既に御気付きの方もいらっしゃるかと
思いますが、

この「略陽県」という地名、
実は雍州・武都郡にも存在しますが、
この話は後述します。

 

で、(街亭のあった)現・秦安県の話
戻りますが、

この地は、南北朝時代には
「略陽県」から「隴城県」に改称され、

隋代に「河陽県」に変わったかと思えば
また「隴城県」に戻され、

隋唐時代には大体は「隴城県」と呼ばれ、
金の時代以降、現在の「秦安県」の名称が
定着したようです。

 

因みに、現在のこの辺りの地理について
もう少し詳しく触れますと、

街亭の辺り
同県の「隴城鎮」という
県道462号沿いの集落でして、

渭河(渭水)の支流の南を県道が走り、

街道沿いには中華料理屋だの
バイクや自動車の販売店だのが
何軒か軒を連ねるという、

昨今の日本で言えば、察するに、
典型的な地方の郊外の風景と
似たようなものなのでしょう。

―もっとも、航空写真で観ると、
実際の県道や各々の店の位置が
グーグル・マップのそれと結構ズレているのが、
機密にうるさい共産圏らしいと言いますか。

 

現地の同地の写真については、
他の数多のサイトさんが興味深いものを
掲載していますので、

「街亭古戦場」で画像検索を掛ければ
「へえ~!」と思うものが
色々と出て来ます。

 

今度は雍州・武都郡の「略陽」の御話。

サイト制作者自身、以前から、
現・略陽と街亭の位置が離れ過ぎているのが
腑に落ちずにいました。

現在の略陽を治所と仮定すると、
ひとつの県の管轄地域にしては
街亭との距離が開き過ぎているからです。

で、その謎が、
事もあろうに百度検索で氷解したという
とんでもなくマヌケなオチ。

―それはともかく、

武都郡の「略陽県」は、
現在は陝西(せんせい)省略陽県
と言います。

秦の時代には蜀郡葭萌県
(葭萌関があったところでしょうか)、
前漢時代の前111年に武都郡略陽県と
相成りました。

で、229年の第3次北伐
蜀の陳式の部隊がこの地を制圧した後、
「沮県」に改称。

その後、ここも、イロイロありまして、
北魏の時代には「武興県」、
西魏の時代には「漢曲県」、
隋から五代王朝時代までは「順政県」

そして、宋代には再び「略陽県」となり、
今に至るという御話。

 

【了】

 

 

2-4、蜀軍の異民族対策と馬謖の起用

さて、蜀軍の侵攻に対して、

一方の魏も、当然ながら、
この方面において反撃に出て来まして、

部隊の指揮官は歴戦の古強者の張郃です。

この辺りの経緯については、

先の記事で何度となく触れましたように、
やはり並木先生の下記の論文の一読を
御勧めしたいと思います。

並木淳哉「曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次「北伐」」
ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を補って下さい。
また、同サイトで検索を掛けると
PDFのファイルが掲載されているページに
行けます。)

ここでは、
同論文の当該の箇所の要約となりますが、

この張郃は、

曹操の漢中攻略時には先鋒を務め、

板盾蛮の懐柔の折には、
足場の固まっていない劉備の足元を見る形で
漢中から巴郡まで進撃したという
過去があります。

したがって、
漢中・蜀の地理に精通し、

さらには、天水郡界隈に移住した
板循蛮にとっては救世主という、

類稀な軍才以外にも
戦地の事情にも精通した
うってつけの人材であった訳です。

対する蜀側は、
御周知の通り先鋒大将は馬謖、
副将は王平。

並木先生は、
特に王平については
板循蛮との生活が長かったことで、
その懐柔を期待したとおっしゃっていますが、

その文脈で考えれば、

これはサイト制作者の憶測(妄想)に過ぎませんが、
馬謖の起用についても
同じような側面が見え隠れします。

 

と、言いますのは、

孔明の南征の際、
南蛮地域の人心掌握を最優先するよう
孔明に具申したのが、
他ならぬ馬謖でありました。

 

その折の馬謖のこの言葉は、

劉備に口達者の烙印を押された
イメージから想像するような
(中国の知識人の大好きな)
何処ぞの書物からの孫引きめいた
根拠の薄弱な妄言ではなく、

成都より遥か南西のド田舎の
越嶲(えっすい)郡の太守として、

中原との生活習慣の違いは元より、
言葉もロクに通じないような住民相手に
治安政策に苦心した経験からの
金言でした。

これに因みまして、

孔明が劉備の失策の尻拭いとして
南蛮政策に奔走する過程で
若い人材を発掘したためか、

馬謖のみならず、

蜀の武将には、
例えば馬忠や張嶷等、
南蛮の事情に精通した武将が多いのですが、

反面、孔明の息の掛かった部下には、

身分の高い者の中では
北辺の事情に通じた者が
少なかったのでしょう。

この辺りは、
俄かに大権を掌握した孔明が
膝元(蜀・南蛮)の安定に
奔走せざるを得なかった事情
祟っているように思います。

 

結果として、

街亭の確保という重要な任務を帯びた
蜀軍の蜀側の先鋒の指揮官は、

御周知の通り馬謖、
副将は王平、

と、相成った訳ですが、

異民族の懐柔という観点からは、

刺史の身分で
この地の羌族を何年も掛けて懐柔した郭淮
一軍の指揮官として
敵地で張飛と50日も対陣して
板楯蛮の撤退を援護した張郃に対して、
(郭淮も広義では街亭の戦いに参戦しています。)

南蛮の治安政策の経験があるとはいえ
この地の異民族との接点のない馬謖と、

板楯蛮の事情に精通しているとはいえ
高々一介の雑号将軍で
人脈は大きいとは言えない王平では、

いささか役不足であることは
否定出来ないと思います。

言い換えれば、
蜀の人材不足を露呈している訳です。

で、挙句、後述するように、

どうも、
かつて板楯蛮の居住した
巴西郡の出身者で固めた部隊を
先鋒として送った模様。

そのやっつけぶりが、
結果として
孔明先生の足元を掬うことになりまして。

 

 

2-5、蜀の軍中で一体何が起きたのか?

果たして、戦いは蜀側の大敗に終わり、
軍は一部を除いて四散しました。

純軍事的に見れば、
直接的な敗因は水源を絶たれて
戦意を喪失したことなのでしょう。

 

一方で、
『魏書』の曹叡の伝によれば、
蜀軍は魏の軍旗を見ただけで逃走したとか
書いてありまして、

伝の文脈から考えれば
曹叡を褒めるための誇張にしか
取れないのですが、

サイト制作者としては、
存外真実に近かったのではないか
想像(妄想)します。

言い換えれば、

用兵の手違いどころか、

軍規の崩壊に相当するレベルの
ヤバい事情があったことを
匂わせてるとでも言いますか。

と、言いますのは、
先述の並木先生の論文に加えて、
先の記事にも少々書いたのですが、

確かに馬謖の指揮には
煩雑な命令が多く
王平が苦言を呈したそうで、

対して、敵将の張郃は、

当人の伝によれば、
作戦計画の綿密さやその遂行能力には
定評のある指揮官でして、

指揮官としての力量の差は
言わずものがなでしょう。

 

しかしながらその一方で、

有名な山に陣取る戦法自体は
この地域の防衛戦では
どうも常套手段であったようで、

実は後年の祁山界隈での戦の折、

かつて馬謖に平地に陣取るように指示した
孔明先生も、

鹵城の防衛の際、
仲達率いる魏軍との睨み合いでこれをやり、

やはり魏軍に水源を抑えられて
撤退しています。

―ですが、軍自体は崩壊には至っておらず、
魏軍の追撃に対して
逆襲して追い散らす余裕すらありました。

 

その意味では、
並木先生の御指摘の通り、

馬謖とて、あくまで用兵上は、
或る程度は現地の事情に即して
動いていた訳です。

 

さらには、
王平が軍鼓を掻き鳴らして
伏兵を擬装して善戦した話が
後世に残ったのは、

張郃の用兵以前に、

王平以外の部隊の動向が
あまりに醜かったことを

暗に示唆しているように見受けます。

 

サイト制作者が
何故そのように考えるのかと
言いますと、

(逃亡を企てた)馬謖以外にも、
戦後に処刑や兵権剥奪といった
キツい処分を受けた将軍が何名かいまして、

主将の用兵がアレなだけで
部下の将にも
こういう過酷な処分が下るものかと思う次第。

 

言い換えれば、
裁きが公平で職務怠慢を嫌う孔明が
こういう処分を降すこと自体、

少なからぬ部隊の間で
敵前逃亡のような醜態が横行した可能性は
否定出来ないと思います。

 

見方を変えれば、

色々な方が指摘されるように、
単に敗戦すれば重罪を喰うというルールであれば、

褒斜道を進んだ陽動部隊の趙雲や鄧芝も
降格処分程度では済まない筈です。

加えて孔明の死後、

北伐の終了により、
馬謖のレベルで責任を追及された将軍殿が
いらっしゃったでしょうか。

 

さらには、馬謖に連座して
処刑・処分された将軍―
張休・李盛・黄襲は、

王平と同じ巴西出身の可能性が
あるそうで、
(これは中国人の研究者の御説で
裏付けにはもう少し検討を要する
そうですが)

つまりは、
略陽県界隈に移住した板循蛮とのかつての地縁者で
構成される部曲(部隊)を
そのまま馬謖に預けて前線に送り出した、

とも取れる訳でして。

 

そう考えると、

王平は敵の懐柔こそ不首尾に終わったものの、

私情を滅して
蜀側の司令官としての責務を全うした訳で、
確かに孔明が好みそうな
見上げた仕事ぶりなのでしょう。

 

2-6、後漢・三国時代の地縁の話

余談ながら、
この時代における地縁(大体は郡レベル)による
連帯感の強さは相当なものです。

例えば、いつかの記事で触れたような
学閥や山賊を装った豪族の話もそうですし、

春秋時代は県単位の小領主が
支配地域を集権的に統治し、

孫臏の兵書にも
兵隊は里や郷のレベルで部曲を編成しろ
などと書かれています。

下々の世界どころか、
朝廷のゴタゴタのレベルですら、

例えば、曹操の後継者争いも、
特に曹植の側には
曹氏の出身地の地縁・血縁集団である
「譙沛集団」が背後に控えており、

この集団が、次の時代には、
曹叡の司馬仲達の牽制にも
一役買います。

 

―それはともかく、

穿った見方をすれば、

蜀軍が地縁者を使って
切り崩しに掛かったものの、

反対に、
魏軍に取り込まれたか、

あるいは、
兵隊のレベルで
巴西人同士の抗争を嫌って
露骨な戦闘放棄を行った、

と、いったような状況すら
想像出来るかと思います。

 

そのように考えると、

蜀軍の敗因は、

馬謖の実務レベルでの軍才の欠如も
さることながら、

それ以外にも、

現地での「異民族」関係のゴタゴタが
相当なものであったようにも
思えます。

 

で、蜀軍にとって
最悪の仮定を考えれば、

例えば、馬謖
「異民族対策」の観点から
先鋒部隊の部下の指揮官を選抜したとすれば、

自らの選んだ部曲の指揮官や兵卒
かつての同郷の連中と干戈を交えるのを嫌って
露骨な戦闘放棄を行い、

軍規の崩壊と敵前逃亡の罪状で
部下共々処刑された、と。

 

―もっとも、
この辺りは、サイト制作者の
想像(妄想)の域を出ませんが。

 

そして、この本隊の先鋒部隊が
敵の支隊に敗退した結果、

橋頭保の確保に失敗した蜀軍は
全軍の撤退を余儀なくされます。

 

一方、褒斜道・斜谷方面で
魏の曹真の本隊と対峙していた
趙雲・鄧芝の陽動部隊は、

桟道を焼き落として漢中に撤退します。

この正義の味方の器物損壊により、
進撃ルートに褒斜道を使うという選択肢は
最後の北伐まで消滅します。

 

 

3、城郭攻防の教材・陳倉攻防戦

久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」 篠田耕一『三国志軍事ガイド』 金文京『中国の歴史 04』 渡邊義浩『三国志 運命の十二大決戦』より作成。 赤の矢印は蜀軍、 青の矢印は魏軍の行軍経路。

3-1、蜀軍出兵の御粗末な経緯

第2回目の北伐は、
同228年12月のこと。

石亭で陸遜が曹休を破ったことを
受けての出兵で、
数万の兵力を動員します。

 

因みに、ルートは散関経由の故道ルートで、
陳倉が係争点となりました。

 

しかしながら蜀側にとっては、

機を衒ったためか、
結論から言えば、

蜀軍にとっては
大軍で寡兵に追い散らされるという
屈辱的な結果に帰しました。

 

まず、大将の曹真が、
蜀の陳倉攻撃を予想していたことで、
防衛の準備に抜かりがありません。

蜀軍が攻める前の段階で、
既に城の増築が始まっていました。

 

さらには、守備隊の指揮官として
叩き上げの武将の郝昭
恐らく経歴不明の王双を派遣します。

 

3-2、郝昭の履歴書

この郝昭という人は、

出身は太原郡
若くして軍人の道に飛び込み、
河西(長安の北西で黄河の西側の地域)で
10年以上異民族と戦って武名を馳せ、

部曲督から雑号将軍に
のし上がった叩き上げ。

謂わば、北辺の戦線の
エキスパートというべき人選です。

また、出身が太原郡ということで、

あるいは、
雍州刺史で同郷出身でもある
郭淮の引きがあったのかもしれません。

 

孔明も孔明で、
同郷の者を通じて
郝昭の投降を促すのですが、

郝昭は当然ながら拒絶します。

 

この時の蜀側の戦況判断としては、

相手が寡兵のうえに
援軍が来るまでには日がある
踏んだことで、

大軍での総攻撃に踏み切ります。

 

3-3、城攻めの「歴史は繰り返す」

そして、いよいよ戦いの火蓋が
切って落とされるのですが、

郝昭が率いた兵卒は
1000名程度でしたが、
蜀側の予想を覆すレベルでの善戦をします。

蜀軍は雲梯(梯子車)・
衝車(箱型で背の高い車両)といった
大掛かりな攻城兵器を押し出し、

女墻(城壁の上にある射撃用の狭間)
を壊そうとしたり
城壁を乗り越えようとするのですが、

守備側は火矢で雲梯や兵士を焼き、
縄で縛った石臼で衝車を潰して応戦します。

さらに蜀軍は、
井蘭(高い櫓)を組んで
城内に矢を射掛けますが、
その城内には二重の城壁があり、

城の地下に出る坑道を掘れば
守備側も城側から掘り返す、という、

謂わば、『墨子』の兵法の実践編のような
ベタな展開に終始します。

取り敢えず、
桟道のような険しい道でも
大掛かりな攻城兵器をバラして運ぶことは
出来るようです。

その分、労力を喰われて兵糧の運搬には
支障が出ているようにも見受けますが。

 

―で、結果として、
兵書に対して教条的な消耗戦が20日続きまして、
魏側の援軍が長安に到着したことで、

蜀軍は万策尽きて撤退します。

孔明が国力の不足を補うべく、
騎兵に重武装を施し、
連弩だの木牛・流馬だのの開発・運用を行ったとて、
(戦国時代の楚が連弩を運用し
現物が残っていたそうですが)

城郭や野戦陣地に立て籠る相手に
何か特別な戦法や兵器を繰り出せる訳でもなく、

加えて、兵站の脆弱さを解消出来た訳でもなく、
(五丈原では軍屯に手を出しています。)

マニュアル通りの
凡庸な総攻撃以外に打つ手がない時点で、

御世辞にも、
当時の戦争の常識を覆すようなレベルの
軍事改革とは言えなかった訳です。

 

 

3-4、古代中国の籠城戦あれこれ

—その、「当時の戦争の常識」とは、
ズバリ、何ヶ月も続くのが当たり前である
堅牢な城郭をめぐる攻防戦。

曹仁が関羽の大軍相手に善戦した
樊城のように、

防御施設が充実し
守備側の指揮官の力量があれば、
寡兵でも持ち応えることが出来るのです。

 

ですが、こういう戦いをする城内は、
当然ながら悲惨です。

件の樊城では、

籠城に際して、
守将の曹仁が牛を水に沈めて
将兵と玉砕を誓うという
凄まじい一幕がありますし、

かの韓愈の文にも人を喰う話が出て来るのは、

別にグロい趣味があるのではなく、
籠城で人を喰うという涙ぐましい時代背景があるからです。

当然、古代中国の戦争のド真ん中に位置する
『三国志』の籠城戦においても、
人肉を喰う話は枚挙に暇がありません。

この800年後の『水滸伝』のアレな饅頭も、
存外こういう文脈なのかもしれませんが、
これはサイト制作者の想像です。

 

一方で、あの戦上手の曹操
下邳や鄴の城攻めにおいて、

落城までに
どれだけの月日と労力を要したか
思い起こして頂ければ幸いです。

下邳は大規模な土木工事で水没させましたし、
袁尚配下の審配の守る鄴の熾烈な攻防戦も
やっていることはこの陳倉と大差ありません。

守備側の援軍や城中の内応者が
あるか無いかの違いです。

 

そして、その「常識」は、
事もあろうに、

孫子や伍子胥のやった
掟破りの平民歩兵の大量動員と機動戦に対する
苦肉の策として編み出されたものでした。

因みに、その中心的な技術集団が、
博愛を説き、儒学を偽善と罵り、
大国間の侵略戦争を否定し、
一方で、籠城の技術の研磨に余念が無かった「墨子」

—余談ながら、サイト制作者としては、
共〇党が軍事に詳しいのと似た臭いを感じますが、

そもそも、
諸子百家自体が戦争を哲学的に捉えて
学術論争に明け暮れていたこともあり。

したがって、

攻城側が城郭の攻撃に際して
大道具を用いるのは戦国時代からの伝統で、
必然的なことでもありました。

 

―で、孔明先生の引率する蜀の精兵は、

恐らく当時の戦争の常識よりも
かなり情けない形で
一敗地に塗れたと言えるでしょう、合掌。

 

3-5、王双が切られた経緯を邪推する?!

一方で、この陳倉の戦いでは、

確かに、
郝昭はしんどい戦いを貫徹したとは
思いますが、

二重の城壁や
大量の攻城兵器を潰すための
資材や燃料の存在は、

曹真の有益な準備の意義を匂わせます。

さらに、曹真の事前準備のみならず、

実は魏の陳倉への援軍は
ふたつの部隊が出動していたようです。

 

一隊は、恐らくは陳倉に向かう部隊。

指揮官は曹真だと想像しますが、
サイト制作者の調査不足で
詳細は分かりません。

この部隊が長安に到達したことが
蜀軍の撤退の引き金になります。

因みに、蜀軍の
数少ない戦果らしい戦果として、

騎兵で追撃を仕掛けて来た魏軍を撃退して
王双を斬ったのですが、

この王双という人物は
郝昭と共に陳倉に立て籠ったことで、

郝昭に対する王朝の軍監か護軍の類か
あるいは部下の部曲督かと想像します。

また、先述のように、
城の守備隊は1000名程度で、

さらには、蜀軍撤退直後の陳倉には
魏の大規模な野戦部隊が
存在しなかったことで、

如何に疲労困憊で敗勢の蜀軍が相手とはいえ、

数百程度の寡兵で
数万の敵の大軍に突っ込むという
イカレた状況であったことになります。

やり方から察するに
叩き上げの軍人の流儀で、

戦闘の経緯としては
奇襲を仕掛けてしくじったと想像します。

 

今日の後知恵があれば
無謀にも取れますが、

正史の色々な戦いの書かれ方を
読む分には、

あまり有名でない人物の伝にも
寡兵で大軍を急襲して
機制を制する戦いが少なからずあり、

これ位の蛮勇が無ければ
そもそも攻勢を掛ける戦争なんか
出来ないような気もします。

 

 

3-6、張郃の恐るべき強行軍

そして、魏の援軍のもう一隊の攻撃目標は、
なんと、蜀軍の策源地である南鄭。

 

指揮官は、かの張郃で、

3万の兵に加え、
皇帝・曹叡より武衛・虎賁といった
親衛隊の一部まで付与されます。

 

実は、この折、

曹叡は鄴から河南城(洛陽付近か?)まで
出張って来て
宴席を設けて張郃を慰労しており、

当人に戦況を確認しております。

その際、
張郃は蜀軍の兵糧が乏しいことを
看破しており、
撤退が始まる頃と回答します。

 

さらには、その足で、
昼夜を分かたぬ強行軍で
南鄭に到着したそうですが、

残念ながら
具体的な経路は分かりません。

蜀軍と遭遇していないところを見ると、
子午谷道か駱谷道だと想像します。

 

もっとも、最終的には
曹叡が帰還命令を出したことで
状況終了と相成る訳ですが。

 

残念ながら、
その企図するところは分かりかねますが、

サイト制作者が
無い知恵を絞って考えるに、

速攻で漢中を制圧した後で
疲弊して引き揚げて来た蜀軍に
決戦を挑むか、

あるいは、
長安まで到達した友軍と連携して
南北から蜀軍を挟み撃ちするか、

と、いったところでしょうか。

 

オフサイド・フラッグが上がって
頓挫したものの、

兵書の理論を体現したような
怖ろしいカウンターだと思います。

 

この奇襲に対する
蜀側の反応は分かりかねますが、

囲魏救趙の故事宜しく、

こういう敵の手薄な後方を急襲する用兵が
相手に動揺を与えて
ボロを出させる例は、

戦史上、枚挙に暇がありません。

 

張郃の用兵については
次回で詳しく綴ろうかと思います。

ただ、以降の戦いとの絡みで言えば、

別動隊の動きが
極めて敏捷であった点は、

後に魏が蜀を滅ぼす際の奇襲めいた用兵に
大いに示唆を与えるものと言えます。

 

 

3-7、郝昭の放言VS儒教の死生観

後、蛇足ながら、
郝昭の後日談として、
思想史「的」な話もひとつ紹介します。

この御仁、
無数の戦争で揉まれたためか
かなり合理的でアケスケな性格であったようで、

戦いの勝利後、
程なくして亡くなるのですが、

その遺言が振るっていまして。

具体的には、

将軍なんぞエラくもなんともない、

人間は死んだら終わりだから
自分の埋葬方法なんか適当にやれ、

と、息子に遺言します。

 

まるで、

課長、部長、包丁、盲腸、
頭とナントカは生きているうちに使え、
と、宣った、本〇宗一郎のようなヒト。

 

―それはともかく、

埋葬方法に拘らないのは、

自分が人の墓を暴いて
軍需の資材―戈の柄のための木材、
に宛てたからだそうな。

無論、戦場自体が
それだけ過酷な状況であったのでしょう。

 

ここで、儒教の話をしますと、

覆面レスラーの二畳あ・・・、
ではなかった、
(サイト制作者は
受験関係の〇会には縁がないのですが)

本気モードの
加地伸行先生によれば、

儒教を崇拝する人々は、

人が死ぬと
魂は雲となるものの、
骨(≒肉体)と融合させると再生する
信じていたそうな。

この考え方の延長に、
骨を管理する場所としての
墓の存在があり、

先祖を崇拝する祭祀があります。

もう少し露骨に言えば、

自分の存在を
この世から消したくないために、

子や孫に
先祖を祀ることを教える訳です。

で、こういう
当時の知識人のモノの考え方を、

兵隊上がりの郝昭の遺言が
自分の人生経験に基づくかたちで
真向から否定していることで、

戦時と平時の死生観の違いが
浮き彫りになっていると言いますか。

 

いえ、現実には、

孔明先生に卑劣な政争を仕掛けて
免職された李厳の息子が
太守になったりと、

こういうメンタリティが
現世における御利益を保障する側面も
少なからずあるような。

 

また、当時の将校と兵卒の世界で言えば、

孔明や仲達が
儒教のオピニオン・リーダーで
文化の支配者・体現者でもあり、

そのうえ、
大軍の兵権を握って
兵書の文言をそれらしく引用し、

方や、郝昭のような叩き上げの軍人は、

その種の上官の部下として
綺麗事ではどうにもならない戦場の現実を
ニヒルに達観するという、

何ともイカレた構図が
そこにあるような気がしてなりません。

 

 

【追記】

博学な読者様からの御指摘で、
曹操や諸葛亮も薄葬を望んだ模様。
(サイト制作者は知りませんでした!)

儒教から距離を置こうとした人も
儒教名士の典型のような人も望んだことで、

まして、件の郝昭といい、

当時としては
割合広範に行われていたと観るべきか。

 

以下は、論理の飛躍(妄想)かもしれませんが、

 

戦争に起因するカオスで
平時の死生観ブッ飛ぶ状況につき、

極端な例え話として、

集落の長や老人達が
先祖や父母の大切さや
墓や骨の重要さを説く傍らで、

敵味方を問わぬ兵隊が
墓荒らしに勤しむという
イカレた光景を目の当たりにすれば、

 

国教や体制学としての儒教とは別の次元で
仏教や道教が流行るのも
何だか、分かる気がします。

 

【了】

 

 

4、やっとこさ僻地で初勝利の蜀軍

久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」 篠田耕一『三国志軍事ガイド』 金文京『中国の歴史 04』 渡邊義浩『三国志 運命の十二大決戦』より作成。 赤の矢印は蜀軍、 青の矢印は魏軍の行軍経路。

4-1、魏の主力の野戦部隊はいずこ

さて、蜀軍は、
翌229年の春にも魏に出撃します。

この折は、諸葛亮の本隊が
迎撃に出た郭淮を武都近郊で破り、

陳式の先鋒部隊が
武都・陰平の両郡を占領します。

もっとも、
両軍が干戈を交えるまでには至らず、

数に優る蜀軍が
郭淮の軍の退路を絶つべく動き、
郭淮がそれを恐れて軍を返したという
経緯ですが。

 

渡邊義浩先生は、
先の陳倉攻撃が
この攻撃の陽動であったとしておりますが、

陳倉の戦いから1年も経過しており、
本当かなあとも思います。

もっとも、先の陳倉の戦いの結果、

魏側の防衛構想の重点が
秦嶺山脈の北側に置かれた可能性は
あるのでしょうが。

 

【追記】

これはサイト制作者の不勉強でして、
1年ではなく1ヶ月です。

成程、武都郡と陳倉の攻撃は
連動しているという説も
説得力があるように思います。

ただし、どちらが主攻でどちらが陽動かは
分かりかねます。

 

動員力10万の国家が
その半分の兵力を繰り出し、
そのうえ最高司令官が直々に出馬する戦地が
本当に陽動かと言われれば、
やはり、本当かなあ、と。

一方で、孔明先生は
武都・陳倉の双方の戦地に
顔を出していることで、

サイト制作者としては、
特に武都攻略については
成り行きで兵を出したような印象も
拭えないのが正直なところです。

【了】

 

さらに、金文京先生によれば、
孔明先生の北伐における
唯一の勝利らしい勝利だそうな。

元々が、地理的に
蜀側に張り出している
地域であったこともあり、

魏の野戦部隊の主力級が出て来なかったのも
大きいように思いますが。

で、この勝利で孔明先生は
めでたく丞相に返り咲く訳ですが、

前線の将兵はともかく、
田舎の嫌いな魏の宮廷にしてみれば、
果たして大きな負け戦と考えていたかどうか。

 

4-2、端歩の橋頭保・陰平と英雄達の棋風?!

さて、ここで、

記憶の片隅にでも
止めて頂きたいのは、
「陰平」という地名です。

何処ぞの省庁や鍾会の「得意技」である
公文書偽造やらの組織の体質の話では
ありません。

―それはともかく、

後に、司馬氏の曹氏に対する権力闘争や
その後の論功行賞により、

敗者側の夏侯覇
この地の道なき道を経由して
身一つで蜀に亡命し、

さらには、
鍾会の蜀攻めの際には、

魏の鄧艾の率いる別動隊が
この地を経由して
常識外れの山越えを成功させ、

蜀軍が漢中界隈に気を取られて無警戒であった
自国の膝元の四川盆地に
雪崩れ込む運命にあったからです。

 

余談ながら、
将棋の格言に
「手が無い時は端歩を突け」
というものがあります。

攻撃にも防御にも
良い手が見当たらない時には
盤面を広く見なさいよ、

という意味なのですが、

実戦では、

確かに端の筋は
小駒の移動先が集中して
守りが固いものの、

これを逆手に取って
香車の筋に大駒や小駒を集中させる
奇襲めいた戦法も存在します。

さらには、

別の筋で陽動攻撃を掛けた飛車を
機を見て端に持ってくるような
「地下鉄飛車」といった
戦法もあることで、

技量のある人程、
こういう大駒小駒の結節点を
面白がって利活用するものです。

この魏と蜀の抗争の場合、

恐らくは、
(決戦主義的で運動戦としての面白味に欠ける)
度重なる北伐が
魏蜀双方にとって反面教師となり、

次の時代には
係争点が秦嶺界隈からさらに北に移り、

さらには魏も大規模な反撃に出ることで
戦線自体も広がり、

この過程で、
思わぬ拠点が
俄かに脚光を浴びることになりまして、

そのひとつが、この陰平という訳です。

 

将棋の話の序に
つまらない例え話をすれば、

まずは、孔明と仲達の
大駒の切り合いしか眼中にない
居飛車対振り飛車のヘボ将棋。

それを岡目八目で観戦していた
姜維と郭淮(特に姜維)は、
先の試合を反面教師に
入玉・千日手を避けるべくイロイロ考えます。

姜維は居玉の急戦で
端攻めやら捻り飛車やらの
派手な空中戦を仕掛け、

対する郭淮は囲いを組んでの受け将棋。

で、晋の代になり、

狡猾な司馬昭は、
同じ規格の大駒を
懐に忍ばせるという反則をやり、

飛車が3枚とかいう狂気の盤面で
姜維は居玉のまま
受け将棋を強いられる、と。

 

【追記】

はい、ダウト!

唐突ながら、ここで問題です。

くだらない将棋の例え話の中で、
かなりアホな誤記はどこでしょうか?

正解は、以下。

 

蜀を滅ぼしたのは、
晋ではなく、断末魔の魏。

 

265年8月に司馬昭が死去し、
その長男の司馬炎が跡を継ぎ、

同年12月にめでたく禅譲と相成りました。

曹丕の時の同じ流れで、
代替わりと禅譲がセットになっています。

ですが、この王朝は、
ここでデカい不発弾を抱えまして。

 

と、言いますのは、

御存知、司馬昭は
先に急逝した司馬師の弟でして、

本来であれば甥に跡を継がせる筈が、
(当の司馬昭もこれを公言していたのですが)
何故か土壇場で弟の息子が継ぐことになり、

曹家からの簒奪より
まだ日が浅かったことも祟り、
後に、亡国モノの乱脈や御家騒動の火種
なりましたとさ。

 

秩序の大好きな儒家名士が
艱難辛苦のうえに樹立した王朝で
開闢当初からこういうことが起きるのですから、

歴史とは本当に皮肉なものだと思います。

 

―さて、基本的なことを間違った癖に、
かなりエラそうですね。

皆様はこういうのを絶対にマネをなさらぬよう。

正直なところ、
サイト制作者としては
情けなくて泣きたくなります。

年号で覚えられる類の知識につき、
世界史が得意な受験勉強中の高校生でも
間違えないでしょう。

こういう脇の甘いところが門外漢の急所か、
それとも人間的な欠陥か。

 

【了】

 

 

おわりに

例によって、締まりのない文章で恐縮ですが、
(ヨタ話を除いた)結論をまとめることとします。

 

1、祁山の戦い(第4次北伐)では、

兵力の集中を企図する司馬仲達が
後方の守備隊配置を具申する
張郃の意見を退けたが、

この背景には、
恐らくその履歴も関係するであろう
各々の用兵思想の違いが見え隠れする。

 

2、第1次北伐の際、
諸葛亮の本隊は関山道を通り、
秦嶺山脈の幹道には陽動部隊を派遣した。

つまり、急峻な山岳地帯や桟道を通るという
兵站上のリスクを極力排除した反面、

行軍距離は長くなった。

 

3、天水郡界隈は
魏が蜀の数多の「異民族」を
移住させた地域である。

さらには、街亭の戦いでは、
蜀軍が先鋒部隊を巴西人で固め、

結果として、
これが裏目に出た可能性がある。

 

4、第2次北伐は、
魏と呉の戦いの経緯を受けての
出兵であったが、

当時の戦争の様相から言えば、
何の変哲もない城攻めに終始し、

数万の兵で1000名程度の寡兵相手に
攻め切れずに撤退した。

恐らくは、
曹叡が蜀軍をナメる契機になった
可能性がある。

 

5、張郃は蜀の撤退を見据えて
恐らくは子午谷道か駱谷道経由で
昼夜兼行の強行軍で南鄭に到着したが、

曹叡の撤退命令で戦闘には至らなかった。

 

6、桟道のある故道経由での出兵であったが、
大掛かりな攻城兵器を
解体して運ぶことは可能であった。

 

7、第3次北伐では、
蜀軍が蜀側に張り出した
武都郡・陰平郡を占領した。

迎撃部隊は雍州刺史の郭淮の軍のみで、
魏の中央の野戦主力部隊の出撃はなかった。

 

 

 

さて、残念ながら、
今回の北伐の話も後編が存在しますが、

翌年の魏軍の反撃が長雨で頓挫した後に
古強者の曹真が寿命を迎えたことで、

いよいよ孔明先生のライバルである
司馬仲達の登場と相成ります。

 

北伐の山場である祁山の戦いも、

兵力に劣り、そのうえ、
どうも野戦しか取り柄のなさそうな
蜀軍の無謀さは元より、

(この歳になって、自分で調べて思うに、
驚く程、蜀側に褒める要素が
乏しいと言いますか。

昔やりこんだファミコン・ソフト(死語)の
『天地を喰らう2』のような
仮想戦記に面白味を感じる要素に乏しく、

逆に、猿のように
無理ゲーにハマるような心地で
少々ガッカリしまして。

余計なチエが付いて
心が醜く曇ったのでしょう。)

魏の側にも、

自分の戦争(対呉戦線)に熱中したい曹叡

王朝簒奪のための
ハク(≒軍功)が欲しい仲達

弱腰な上官と息が合わずに
得意の機動戦を封じられて
悶々とする張郃と、

イロイロとキナ臭い不協和音が見え隠れして
面白いのでありまして、

と、言いますか、

どうも仲達とその一族
一身上や一族の都合で、

蜀の正当性を主張したい陳寿を使って
孔明を強敵に仕立て上げた観が否めないのが
さる秀逸な論文から学んだ
サイト制作者の不毛な感想です。

で、そのロジックや、
そもそも孔明先生
アレな外征に拘った理由等も少々書きたいと
思います。

 

 

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」
並木淳哉「曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次「北伐」」
佐藤達郎「曹魏文・明帝期の政界と名族層の動向」
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
金文京『中国の歴史 04』
渡邊義浩『三国志 運命の十二大決戦』
『知識ゼロからのCGで読む三国志の戦い』
坂口和澄『もう一つの『三国志』異民族との戦い』
西川利文「漢代における郡県の構造について」
『佛教大学文学部論集』81
小嶋茂稔「漢代の国家統治機構における亭の位置」
『史学雑誌』112 巻 ・8号
加地伸行編『諸葛孔明の世界』
加地伸行『漢文法基礎』
『孝経』
浅野裕一『孫子』
『墨子』
金谷治訳・注『孫臏兵法』
小川環樹・今鷹真・福島吉彦 訳
『史記列伝 ニ』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻

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交通網から観る北伐 前編 への2件のフィードバック

  1. 韓什長 のコメント:

    三国志演義ベースの発想において、馬謖の敗因は水源のない山上に陣取るという愚をおかしたためであるとよく言われていますが、賢いはずの馬謖がむやみに山上に陣取ったわけないと釈然としない思いを抱えておりました。
    こちらの記事で、民族の問題や当時の戦法とからめて説明して頂き、目から鱗の思いです。こういう記事で馬謖の評価を考え直してくれる方が増えたら三国志ファンの世界がもっと盛り上がるかも!

    埋葬方法については、曹操も諸葛亮も自分の死後は薄葬にしろと言っていますね。
    当時のナウでクレヴァーな実務派人間のスタンダードだったのかもと思っております。
    (ナウとかクレヴァーとかいうカタカナ語の用法はシャレです)

    • aruaruchina のコメント:

      韓什長 様

      はじめまして。

      まずは、締まりのない文章を丁寧に御読み頂きまして、大変感謝致します。

      さて、私も韓什長様と同じような考え方です。
      もっとも、最近の三国志関係の研究の進展の恩恵の賜物ですが。

      モノの本によれば、

      特に、漢代の民族問題は深刻でして、
      もともと中原と長江以南との文化・習俗の違いに比べ、
      北方の「異民族」とのシガラミが本格化した時代でもあった模様です。

      清代の『三国志演義』も、識者に言わせれば、

      当時の博識な知識人が
      漢代以降の古典を相当読み込んで緻密な考証を重ねて
      書いたものだそうですが、
      (この点は私も驚いたのですが)

      後世の視点で観ると、確かに、韓什長の御指摘通り、
      抜けていたり隠していたりする部分が垣間見えます。

      さて、曹操も埋葬は薄葬と言っているのですね。

      やはり、自分で戦争を経験して死に掛けたりして苦労すると、
      どうしても感覚が儒教のスタンダードからズレてくるのでしょうね。

      私も、曹操自身が当時の新手の実務派だと思います。
      (ナウでクレーバー、冗談でも面白い表現で、言い得て妙です。)

      また、この人の場合は、
      自分が政界の中央に師匠のいる名士だけあって
      儒教官僚のメンタリティや限界を熟知しており、

      さらには、自前の王朝を立ち上げる際に、
      儒教に代わる価値観(詩歌)をブチ上げる大胆さもあったことで、

      当時としては桁違いのスケールの人物という評価は
      納得出来ます。

      諸葛亮も、曹操と同じ「猛政」という厳しい法治主義の人。
      (袁紹や劉備はこの対極の「寛治」というナアナアな人々。)

      高官の息子にもかかわらず
      庇護者の叔父を政争で殺され、
      漢が曹氏に簒奪される過程を目の当たりにしていることで、

      世の中のデタラメさを肌で感じ、

      そうでいながらも、
      儒教を捨てることが出来なかったというタイプの人。

      皮肉なことに、
      晋の実質的な創始者で宿敵の司馬仲達も確かこの類型。

      人は、生い立ちや性によって色々な化け方をするものだと
      感じた次第です。

      最後に、何か、御要望や誤記の御指摘等がありましたら、
      匿名でも結構ですので、
      御気軽に御知らせ頂ければ幸いです。

      まずは御返事まで。

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