前漢から北伐前夜までの秦嶺越え


かなり長くなったので(13000字程度)、
章立てを付けます。

興味のある部分だけでも
御目を通して頂ければ幸いです。

 

はじめに
1、秦嶺界隈の地域事情
2、西城はどこにある?!
3、『孫子』・『六韜』の説く山岳戦
 3-1、孫武と一緒に山登り
 3-2、軍令と矛盾する実用知識?!
 3-3、窮地はカンフーで切り抜けよ
 3-4、どこか胡散臭い『六韜』
 3-5、香ばしい過去との対話、
    今ではアレなトンデモ用兵論
 3-6、詰まるところ、
    兵書の説く山岳戦のキモとは?
 3-7、或る愚昧の徒の『孫子』評
4、子午谷道と西城
 4-1、やはり幹道は褒斜道
 4-2、王莽の置き土産・子午谷道
5、劉備と曹操の漢中攻防戦
 5-1、蜀を狙う劉備と曹操
 5-2、陽平関の名物は鹿煎餅と盆踊り?!
 5-3、張郃の巴侵攻とその後の因縁
 5-4、「異民族」部隊の暗躍
6、漢中決戦のヤマ・定軍山の戦い
 6-1、話の見えない夏侯淵戦死の状況
 6-2 羹に懲りて膾を吹く知識人の用兵
 6-3、事態を収拾した人材の面々
 6-4、秦嶺の霧?戦場の霧?
    そもそも「史料の霧」?
7、経済戦争の一戦法・移住のススメ
 7-1、当時の戦争は人の奪い合い?!
 7-2、人材の層に一日の長?!
おわりに

 

はじめに

前回、桟道の話をしましたが、
今回はその続きと言いますか、

桟道のメッカ・秦嶺山脈を挟んだ
漢中-長安間の交通と戦争について
綴ろうと思います。

頃は前漢から北伐前夜迄。

―実は、恥ずかしながら、

桟道に話を絞って
1回の記事で『三国志』の話を終わらせようとか
妄想していたのですが、

色々調べているうちに
書きたいことがボロボロ出て来まして、

少々予定を変更することにしました。

したがって、読者の皆様には
大変申し訳ないのですが、

魏蜀両軍共にナマクラ用兵の北伐と
その対をなす鄧艾の「大冒険」の御話は
次回とさせて頂きます。
―先送りが続きますが、悪しからず御了承の程を。

序と言いますか、
当サイトのアクセス解析を行っていますと、

10分以上も掛けて記事を読んで頂ける方が
少なからずいらっしゃる反面、

閲覧時間が殆どない「直帰率」も
サイト開設当初より高くなっていまして、

察するところ、

更新の頻度があまりに遅いことで
かなりの読者の皆様に
無駄足を踏ませているという
救いようのない状態かと。

ナマクラなサイト制作者の
作業時間・執筆能力双方の不足により
本当に申し訳ない限りです。

 

1、秦嶺界隈の地域事情

さて、そろそろ本題に入りますが、
まずは、下記のヘボいイラストを御覧下さい。

金文京『中国の歴史 04』・篠田耕一『三国志軍事ガイド』・久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(下)」より作成。

このアレな地図は、
前漢から孔明先生の北伐の時代の頃までの
漢中・長安界隈の地図です。

前回の復習も兼ねて
この辺りの地形のその他の事情の
概要を挙げますと、

概ね以下のようになります。

 

1、蜀(現・四川盆地)の喉首にあたる漢中と
西域の玄関口である長安の間には、
交通の大きな障害となる秦嶺山脈が
立ちはだかっている。

 

2、漢中・長安間の交通路は、
渭水の水系(支流)に沿って南北に展開する。
桟道は、主にこのルートに存在する。

 

3、渭水の北岸は東西の移動、
渭水の南岸は南北の移動に適している。

 

4、夏から秋にかけて雨季があり、
その雨量は桟道を破壊するレベルである。

 

5、桟道は脆い道路であり、
維持には定期的な修繕が必要であった。
そのうえ、戦禍により、
頻繁に通行止めが生じた。

 

6、所謂「異民族」(羌族・板循蛮等)が
少なからず雑居しており、
戦争の際にはこれらの勢力の懐柔が
戦況を大きく左右した。

 

7、大兵力の運用・展開が難しく、
輜重にも大きな制約が生じた。

 

以上の点は、

孔明の北伐はおろか、

今回扱う漢代の内乱とそれに付随する
漢中の治所の移転
劉備と曹操の漢中をめぐる抗争にも
大きく影響しています。

 

2、西城はどこにある?!

残念ながら、
先日御亡くなりになられました。

県令や県長になったからといって、
若返ったりブーメランが飛んで来たり、
まして正直者になったりはしません。

いえ、むしろ、正直者どころか、
賄賂を取って私腹を肥やすのが
当時の(今もか)官僚の「常識」でしょう、

というのは、
当サイトとはあまり関係のない分野の
訃報ですが、

御冥福を御祈り申し上げます。

因みに、西城の読み方は、
「せいじょう」。

―それはともかく、

この地図を描く際に、
最初に基準にしたのは、
渭水・漢水の河川の流れでした。

ですが、これが曲者で、
参考文献によって微妙に形が
異なっていまして、
この折衷作業に苦労しました。

また、サイト制作者が自信がないのが
西城の詳細な位置。

ここは魏興郡の治所で、
長安直通で子午谷道の入り口付近に位置し、

北伐の緒戦の段階で
魏から離反を企てた孟達が守っていた
戦略上の要地なのですが、

 

 

【追記】

孟達は当時、新城郡(西城より南東)の太守。
訂正致します。

西城のある魏興郡の太守は申儀でして、

諸葛亮は北伐に先立ち、

申儀と孟達の不仲を利用して
申儀に孟達の造反をリークし
孟達の尻に火を付けましたが、

司馬仲達の対応が早く新城は陥落し、
申儀も公文書偽造のカドで逮捕を喰らいました。

要は、仲達にしてみれば、
危険分子を摘発して国境地帯を安定させた
という御話。

 

 

 

子午谷道の入り口付近で
漢水の北岸で長安の南にあるという点以外は
正確な場所を特定出来ていません。

したがって、
西城の位置に関しては、
他の拠点以上にアバウト
悪しからずです。

大体この位置だ、
という程度の認識で御願い出来れば幸いです。

これに因みまして、

サイト制作者としては、
当時の全県レベルの拠点と街道が記された
正確な地図が欲しいところですが、

浅学が祟って中々見つからず、
何方か当該の文献等を御教授願えれば
幸いです。

 

3、『孫子』・『六韜』の説く山岳戦

3-1、孫武と一緒に山登り

さらに、少し視点を変えてまして、

当時の山岳戦のイロハを
『孫子』や『六韜』(の和訳)
少々おさらいしようと思います。

まずは『孫子』から。

「行軍篇」では、

山を越えるには谷を進み、
高みを見付けては高地に休息場所を占め、
戦闘に入るには高地から攻め下れ、

と、説いております。

その理由として、

稜線を乗り越えるかたちで行軍すると
敵に発見され易く落雷に遭う、
とのこと。

対して、谷沿いの低地は行軍が楽で、
敵に発見されにくく、
オマケに水や飼料となる草を得易いそうな。

この辺りの事情は、
現在で言えば、
アウト・ドアの趣味を持つ方が詳しそうに
思いますが、

サイト制作者の拙い経験からも、

山歩きで山賊(戦前まではいたそうな)
に遭わなくとも、

山間部は平地に比して
天気が変わり易い上に、

落雷も数が多く迫力があり、
落ちるのも早い(近い)ように思います。

 

3-2、軍令と矛盾する実用知識?!

次いで、
「地形篇」にも該当する箇所があります。

例えば、

両側から岩壁が張り出して
急に地形が狭まっている地形では、

自軍が占領している場合には、
隘路に兵力を集中させて迎撃し、

敵軍が完全に制圧している場合には
手を出すな、と、
説きます。

一方で、
敵が占領しても
隘路を埋め尽くしていない場合には
攻撃を掛けよ、と。

 

リクツは分かりますが、

作戦計画がある以上
他の部隊との連携を無視出来ないことで、

時には、
数にモノを言わせて
不利を承知でやらざるを得ないのが
戦争だろう、とも思います。

そりゃ、現場に裁量があれば、

相手を騙したり怒らせたりして
隘路から引っ張り出したり
隊列を乱させたりするような
小細工を用いることが出来ましょうが、

無ければ、
「天佑神助ヲ信ジテ全軍突撃セヨ」で
自分の躯を味方に乗り越えて貰うしか
手立てがない訳で、

100名以下の下級指揮官が
なまじ兵書なんか齧ったら
命の遣り取りが馬鹿馬鹿しくなって
やる気を無くすだろうなあ、

と、穿った見方を。

逆に、
1万前後の兵を指揮して
神出鬼没の用兵で鳴らした
兵書オタクの曹操が、

大軍を指揮するや、

今度は赤壁・潼関・漢中と、
何度もヤバい戦をやらかしたことで、

特に、規模の大きい戦争ともなると、

兵書の理屈だけでは
対応出来ない領域があることを、
身を以って証明したと言いますか。

「帯に短し襷に流し」とは、
良く言ったものです。

 

3-3、窮地はカンフーで切り抜けよ

無駄話はこれ位にして、
話を山岳戦と『孫子』の説教に戻します。

同書には、
こういう教えもあります。

高く険しい地形では、
自軍が先に占領している場合には、
必ず高地の南側に陣取ったうえで
迎撃せよ、

と、説きます。

反対の場合は、
やはり手を出すな、と。

最後に、有名な「九地篇」から。

進軍が難渋する地形を
「泛地(はんち)」と言います。

因みに、訓読みで「うかぶ」。

孫武先生は、
この「泛地」に山林・沼沢を
想定しています。

で、こういう地形は、

足場が不安定で行軍に難渋し、

敵の奇襲や待ち伏せに対して
迅速な反撃が出来ないので、

一刻も早く通り抜けろ、
と、説きます。

さらには、「囲地」・「死地」、
というのもあります。

まず、「囲地」とは、

視界の効かない蛇行した山道を行軍中に
不意に盆地に入り込み、

辺りを見回すと三方は険しい山で
前方は両側に山が迫る、
という具合の地形。

こういう地形で怖ろしいのは、

仮に待ち伏せを受ければ、

包囲を恐れて
山道を引き返した際に、

前方の隘路から
盆地に雪崩れ込んだ敵の追撃を受け、

さらには、
自軍の後方の山道からも
敵軍が迫って来るので、

前後の二方向から攻撃を受け、
双方共、連携が取れないまま全滅を待つ、
という状況。

こういう場合は、
隘路を確保して
余裕を持って引き返せ、

と、説きます。

そして、この延長に「死地」があります。

つまり、囲地に迷い込んだ際、
前方の隘路が敵に抑えられた状況
指します。

こういう時は、
前面の敵に飛び込んで死中に活を得よ、
と、説きます。

最早、兵法とは呼ぶには値しない荒技で、
成程、「死」という字を使う訳ですね。

ジェット・リーのレベルのカンフーでも
齧っていれば、
あるいは生還出来るでしょう。

ですが、こういうのも、
どうも極論の笑い話とも言えませんで、

後述する、名将の張郃ですら、
恐らくは「囲地」や「死地」の類で痩せ我慢して
ボロ負けしていまして、

そこには、
兵書がドヤ顔で説くようなセオリー通りに行かない
山岳戦闘の難しさが
どうもあるようでして。

 

3-4、どこか胡散臭い『六韜』

『六韜』も、「烏雲山兵」という
山岳戦について触れている箇所があります。

この書物、太公望が周の王に
(存命中には存在しなかった)騎兵について
解説するという
何とも奇怪な内容ではありますが、

偽もまた真なりと言いますか、
ナントカと鋏は使いようと言いますか、

戦国時代の後期以降の
戦争の常識という風に考えれば
さもありなん、と。

それはともかく、
まず、軍隊は山の高地に陣取れば進退に不自由し、
低地に陣取れば敵に補足される、

と、山岳戦の前提条件を明示します。

そのうえで、

山の陽である南側に宿営した場合は
山の陰である北側を防備せよ、

山の陰である北側に宿営した場合は、
山の陽である南側を防備せよ、

と、説きます。

陰である北側、陽である南側に
屯集することであり、

これを、
(陰陽を兼ね備えた)「烏雲の陣」というそうな。

白黒の陰陽の話なのか
陣地の死角を守れという意味なのかは、
サイト制作者には分かりかねます。

一方で、

山の左である東側に陣を敷いたら
山の右である西側を防御せよ、

敵兵が山を登って来たら
正面に兵を配置して迎撃せよ、

交差点や深い谷あいの小道では
戦車で通行を遮断せよ、

と、説きます。

孤山に布陣した場合、
稜線を挟んで宿営と反対側に
防御陣地を構築し、

隘路は戦車で封鎖せよ、

という意味かと。

 

3-5、香ばしい過去との対話、
    今ではアレなトンデモ用兵論

因みに、古代中国の兵学思想の話として、

湯浅邦弘先生によれば、

『孫子』のような
理詰めの書物もあれば、

「陰陽流兵学」
(当時の言葉ではないでしょうが)という、

天文・気象・
敵陣から立ち上る「運気」の状態・易の卦等から
攻守の日時・場所の吉凶を判断し、
勝敗を事前に予測しようとする流派も
ありまして、

この流派も
大きな影響力を持っていたそうな。

―そういえば、

『太平記』で楠木正成の軍略に
口出しする公家も、
恐らくこれで勉強したクチに見受けます。

都を捨てろという政治に無感覚な楠公と
生兵法を振り翳す内弁慶な公家衆の
一方通行な軍議。

後世から見れば笑い話に過ぎぬとはいえ、

大局的な打開より
セクショナリズムと非科学が優先される光景は
国や時代を問わぬものなのでしょう。

―それはともかく、

『六韜』は理詰めな部類の兵書だそうですが、

当該の箇所を読む限り、
何だかケムに巻かれている気が
しないでもありません。

余談ながら、『六韜』については、

個人的には成程と思う部分もあれば、
正論ではあっても実行は難しいと思しき部分も
少なからずあります。

「烏雲山兵」の箇所は、
同書の中では
どうもトンデモな部類の部分に思えます。

サイト制作者の理解力が
欠如しているのかもしれませんが。

 

3-6、詰まるところ、
    兵書の説く山岳戦のキモとは?

さて、ここで少し整理しますと、

『孫子』・『六韜』が説く要点は、
以下の2点となるかと思います。

 

1、隘路の対処
2、高低差の対処

 

まず、1、隘路の対処、ですが、

『孫子』・『六韜』双方が説くのは、
山岳戦では
隘路の確保が肝要という点。

また、その対処については、
『孫子』の方が具体的でして、

不利であれば手を出すな、と、
説きます。

さらには、2、高低差の対処、については、

『孫子』は高地に布陣して
低地に対して迎撃せよ、と説き、

一方で、『孫子』も『六韜』も、
高地での移動の不利を説きます。

また、索敵については

『孫子』は、
稜線の移動は発見され易く、
谷あいの移動は発見されにくい、
と、説き、

『六韜』は、
高地の方が敵を発見し易い、
と、説きます。

発見され易いリスクを取る分、
監視や防御には有利である、と。

 

3-7、或る愚昧の徒の『孫子』評

サイト制作者の感想(妄想)
少し差し挟みます。

自身は捻くれた性分でして、

世間様の褒める不磨の大典を、

中身もあらためずに、

まして、
書かれた時代背景を度外視して、

馬鹿正直に有難がるのは
どうも気が進みません。

また、孫武のやった戦争自体も、

例え、当事者としては
悲壮な覚悟で心血を注いで行ったにせよ、

当時の時代背景や結果を考えると、

戦争倫理としてどうかと思う部分も
少なからずあります。

ただ、山岳戦の話については、

後漢・三国時代の戦争を見る限り、
かなり実情に即していたのではなかろうか、

というのが、
サイト制作者の率直な感想です。

 

4、子午谷道と西城

4-1、やはり幹道は褒斜道

これまで、秦嶺界隈の地域事情と
山岳戦のイロハについて
触れたことで、

この辺りの地形については
或る程度イメージし易くなったかと
思います。

次に、漢代における、
秦嶺越えの道路の使用状況の
変遷について
見て行こうと思います。

その種本は、

久村因先生の御論文
「秦漢時代の入蜀路に就いて(下)」

下記のサイトから
論文名か著者名で検索を掛けてたどれば、
PDFのファイルをダウンロード可能です。

ttps://ci.nii.ac.jp/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

ここで、再度、
先程のインチキ地図を御覧ください。

先に挙げたものを再掲。

前回、秦代までの主要な幹線道路は
褒斜道(ほうやどう)で、

劉邦は入蜀の際にこれを焼き、
出撃には故道を通った、

と、説明しました。

その後、武帝から前漢末期までは、
褒斜道が修繕され、
再度、幹線道路として
使用されることとなりました。

 

4-2、王莽の置き土産・子午谷道

ところが、
王莽怪しい王朝を建国した折に
子午(谷)道が開削され、

これが一時的に幹線道路として
機能します。

そして、これを受け、

漢中郡の治所が、
南鄭から
長安と子午谷道を通じて直通である
先述の西城に変更されたとそうな。

もっとも、
更始2年(西暦24年)には
治所が南鄭に戻されており、

その後の赤眉の乱以降の
群雄割拠の時代における
公孫述統治下の蜀においても、

やはり南鄭が漢中郡の治所でした。

このことから、
新の滅亡後の秦嶺越えの幹線道路は
褒斜道に戻っていた可能性が高いそうな。

ところが、
再び子午谷道の存在意義が際立つ時代が
やって来ます。

2世紀に入って羌族の大反乱により、

この界隈―というよりは、
長安以西の地域が
大々的に戦禍に見舞われまして、

事も有ろうに赴任した太守が
2名も殺されるような
カオスな事態に陥ります。

この折、幹線道路も、
褒斜道が不通になったことで
子午谷道がその代用となり、

治所も南鄭から西城に移った模様。

で、そのゴタゴタが収まるや、

治所・南鄭、幹線道路・褒斜道の組み合わせに
戻されたという御話。

その後、子午谷道は、
蜀漢の北伐で使われてからは、
唐代までは余り利用されなかったそうな。

因みに、その幹線道路である褒斜道を
焼き落としたのは
正義の味方の常山の趙子龍。

祁山に出撃した本隊の擬装行動につき、
当然ながら敗退し、

殿を務めてこの措置を講じました。

さらには孔明先生がこれを修繕して
最後の戦いに臨む訳ですが、

この時期は、魏と蜀の双方が、
モグラ叩き宜しくこの界隈のルートを
互いに探り合うという

戦時下の異常な状態であったことは
言うまでもありません。

 

5、劉備と曹操の漢中攻防戦

5-1、蜀を狙う劉備と曹操

こうした秦嶺越えの道路の
使用状況の変遷の中で、

軍隊の秦嶺越えの
特筆すべき事例として、

劉備と曹操の漢中をめぐる攻防戦について
考察を行おうと思います。

さて、このテーマは、
『三国志』における
劉備と曹操の一連の抗争の
ハイライトとも言うべきもので、

当然の如く、
他のサイトさんでも多々扱われており、

中には詳細な地図を用意して
興味深い考察を行っていらしゃることで、

こういうのは(当サイトはともかく)
色々なサイトさんを見てじっくり考えた方が
為になるかと思います。

ただ、当サイトの
このテーマでの売りとしては、

学術研究の成果も踏まえて(つまみ喰いして)
少々広い視野で捉え直すことにあるかとも
思います。

他人様のフンドシで相撲を取ることに
何ら変わりはないのですが。

 

それでは、内容の吟味に移ります。

まず、初動の曹操の漢中攻めですが、

事の経緯は、

曹操は赤壁で敗れたことで
中国統一を断念し、
西進を開始したことが発端の模様。

この敗戦は、物語の名場面のみならず、
中国史においても大きな転換期であったそうな。

一方、勝者の劉備も、

曹操(おに)の居ぬ間に
益州を洗濯しようとして
内応者の手引きで押し込み強盗を企て、

入蜀こそ長江経由で簡単に叶ったものの、

漢中の支配者である張魯をあしらってから
母屋の主の劉璋に牙を剥いた後は、

苦戦の末、
214年に益州の制圧に成功します。

殊に、要地の雒城攻略には1年、
成都の攻略には3ヶ月も掛かりまして、

このレベルの籠城戦になると
餓死者も多数出たことと推察します。

以降の展開ですが、
以下の地図を御覧下さい。

 

『正史 三国志6』巻末地図を加工。

〇で囲んだ数字は、
行動の順番を意味します。

潼関で馬超・韓遂を破った曹操は、
さらに西へと触手を伸ばし、

地図中の⓵となりますが、

215年3月には、
故道経由で
漢中の張魯攻めに着手します。

なお、この時の先鋒を務めたのが、
恐らく、以後北伐までの
一連の漢中の戦いの主役であろう張郃

校尉からの叩き上げです。

 

5-2、陽平関の名物は鹿煎餅と盆踊り?!

さて、この曹操の漢中攻めは、
実はかなり危ない戦いでした。

張魯方の主戦派の張衛が
大軍を掻き集めて陽平関に籠ったことで、

睨み合いが続いて
曹操軍の食糧が尽きます。

―ですが、ここで寄せ手にとって、
冗談のような天祐が到来します。

数千頭の野生の鹿
張衛の陣地を突き崩し、

オマケに曹操軍の高祚の部隊が
誤って敵陣に紛れ込み、
軍鼓を鳴らして軍勢を掻き集めたことで、

張衛の部隊が混乱
自壊したという御粗末な戦闘経緯。

何故この季節に食糧が尽きたかと言えば、
あくまで想像の域を出ませんが、

桟道が壊れる雨季まで戦争を続ける予定は
無かったからだと思います。

後述する劉備との抗争でも、
全軍の撤退は5月につき。

 

なお、この時曹操は、
漢中の守将に夏侯淵・張郃等を残して
鄴に帰還します。

劉備の足場が固まっていないうちに
蜀を取れと息巻く司馬仲達に対して、

「人の欲にはキリがない」と
もっともらしいことを言ったそうな。

何のことはありません。
対呉戦線がキナ臭かったからです。

 

5-3、張郃の巴侵攻とその後の因縁

さて、漢中を制圧した曹操軍は
巴の板循蛮の懐柔にも着手するのですが、

劉備がこの勢力を軍事力で放逐します。

で、恐らく、この撤退を支援したのが、
先述の張郃
地図上の⓶の動向です。

張郃は巴の宕渠近郊で
張飛の率いる迎撃部隊と対峙し、

這う這うの体で漢中に逃げ帰ります。

『蜀書』の張飛の伝によれば、

両軍の対峙は50日に及び、
張郃の部隊は前後の連携が取れずに壊滅し、

10騎前後の側近と共に
馬を乗り潰して南鄭に帰還したそうな。

隘路の制圧が鍵を握る山岳戦そのものの模様。

また、不利な状況で睨み合いを続けたことで、
それを強いられた事情があったのでしょう。

―つまり、友軍の撤退援護。

そして、何の因果か、
この時漢中に収容された板循蛮が
略陽県界隈
(地図で言えば、天水の少し北)に移住し、

後年の北伐では、
どうも当時の庇護者である張郃と
共闘したらしい、と。

その後、216・217年には、
漢中界隈では
目立った軍事行動はなかったものの、

劉備配下の法正は、

217年の段階で夏侯淵や張郃の
行政官としての力量不足を指摘し、
漢中の奪取を進言します。

加えて、軍事面での具体的な筋書きを書いたのが、
黄権だそうな。

共に元・劉璋配下で、
謂わば、地元を知り尽くした土着の行政官です。

 

5-4、「異民族」部隊の暗躍

果たして、次に動いたのは劉備側でして、
218年3月に、
張飛・馬超の部隊が下弁に進駐します。

余談ながら、
地図中に武都がふたつあるのは
誤植ではなく、

劉備と曹操が互いに大人げなく
自分達の支配領域が
ホンモノの武都郡だと言い張るという
面倒な事態になってまして。

で、曹操側が自分達の武都郡の治所を
下弁とまして、

これを蜀の軍閥の義弟の酔っ払いオヤジが
不法占拠した、と。

当然、曹操は迎撃部隊を差し向けまして、
この指揮官が後にケチで身を滅ぼしたという
曹操の弟の曹洪
―早い話、古強者です。

それはともかく、
戦闘の結果、張飛・馬超は
この地を追われ、漢中に撤退します。

蜀軍はこの戦いで
配下の呉蘭・任夔(じんき)を失いまして、

殊に呉蘭については、
陰平(武都の南西)の氐族の強端が
その首を曹操に送ったそうな。

馬超の配下には勇猛な羌族がおり、
曹操側には氐族がおり、という具合で、

「異民族」の陰が
少なからず見え隠れします。

また、巴を攻撃した張郃もそうですが、

恐らく足場の固まっていない地域への突出は
相当なリスクを伴うものでして、

下弁に進出した張飛も、
ひどい負け戦であったと推察します。

ですが、この種のリスクを伴う
無謀とも取れる果敢な運動戦こそが、

実は、恐らくは、
難所である秦嶺越えと
漢中あるいは長安制圧のキモであり、

後年の北伐と鄧艾の奇襲との対比
それを物語っているような気がして
なりません。

そして、この動きを受けて、
曹操が鄴から長安に乗り込んで来ます。

これが、地図上の⓸。
曹洪の下弁での勝利から半年後のことです。

この頃には、孫権との関係は安定していまして、
劉備との抗争に
本腰を入れたということなのでしょう。

 

6、漢中決戦のヤマ・定軍山の戦い

6-1、話の見えない夏侯淵戦死の状況

そして、劉備も動きます。

翌年の頭には
陽平関経由で南鄭の西の定軍山に出撃し、

漢水と西漢水の間にある武興
(南鄭のすぐ西)にも兵力を展開して

曹魏の夏侯淵の本隊と対峙します。
地図上の⓹。

実は、この定軍山の戦い、
『魏書』や『蜀書』における
当事者の伝を整理しても、

徐晃や趙雲等の各々の手柄話ばかりが目立ち、
時系列的にも戦局の推移としても
要領を得ません。

もっとも、列伝なんぞ、
そもそもそういうものでしょうが。

ただ、漠然と見えて来るのものも
ありまして、
それは、以下の2点です。

 

1、主将・夏侯淵の頓死により、
一時的に軍中が混乱した。

2、無数の山岳戦闘が起きたが、
片方を総崩れに追いやるレベルの
決定的なものは無かった。

 

やはり注目すべきは、
1、の夏侯淵の戦死です。

劉備の軍が曹操軍の逆茂木に火を放ち、
夏侯淵が自ら反撃に出たところを
黄忠の部隊が討ち取った模様。

ですが、夜襲を受けた張郃の陣地に
援軍を送り、
夏侯淵の本陣が手薄になったところ狙われた、
という話もありまして。

要は、各人の伝の話に
あまり共通性がないことで、

空白部分を補完する史料がなければ
正確を期す復元作業自体がどうも無駄に思えます。

さて、夏侯淵本人については、

急襲が得意とする反面、
曹操が用兵が軽率だと警鐘を鳴らしていた
そうですが、

サイト制作者の愚見としては、
曹操の宿将なんか、
大体こんなメンタリティに見受けます。

合肥の戦いの張遼や南城の戦いの曹仁も然り。

笑える話として、

南城の戦いで曹仁に救われた牛金が、
石橋を叩いても渡らない司馬仲達の軍の
先鋒大将として活躍しています。

コイツは寡兵で周瑜の陣地に突撃を掛けた奴で、
それを救い出した曹仁も率いたのは数十騎。

【追記】

またしても、訂正記事。

牛金が300名の兵で孫権軍に突っ込んだのは、
(赤壁の戦いの後の)江陵の迎撃戦の折。

因みに、相手は周瑜の先鋒部隊数千。

他にも何かやらかしていそうで怖いのですが、
苦笑しながら御指摘頂ければ幸いです。

 

 

 

 

6-2 羹に懲りて膾を吹く知識人の用兵

対して、用兵に慎重に慎重を期した北伐なんか、

俄かに兵権に手を出して
腰の引けた知識人同士の

大駒を惜しんだヘボ将棋の末の
千日手・持将棋の如しで、

両軍共、兵隊の命以上に
膨大な量の食糧と時間を無駄にした挙句、
当事者の死亡によって幕引きとなりました。

その内容も、

周到な準備の割には、

孔明も司馬仲達も
本気で勝つ気があるのか怪しいような
ナマクラな用兵ぶり。

その癖、戦功を焦るスケベ心
両人ともしっかりと持っているという。

この辺りの詳細な話は次回とさせて頂きます。

まあその、言葉は悪いですが、

頭がどこかイカレてなければ、

兵卒の心を掴んで
機動力で主導権を握るような戦争なんか
出来なかったのが、

恐らくは当時の実情だったのでしょう。

後世の人間の身勝手な感想としては、

夏侯淵の場合は、
無念ではあろうが、同時に、
当時の軍人としては
本懐であったようにも思えます。

 

6-3、事態を収拾した人材の面々

当然、この頓死のツケは高くつきましたが、

軍中の混乱に際して、
これを郭淮や杜襲といった知恵者
曹操に対して沈着な張郃を後任に推薦することで
事なきを得ます。

因みに、この時、

護軍として
暫定的に組織内の調整の権限を
与えられたのが曹真

この人は曹操の一族の古強者で、
後の孔明先生の好敵手。

また、郭淮についても、
もう少し触れておきます。

夏侯淵戦死の直後に
渡河戦における絶妙な用兵
劉備の追撃を断念させまして、

後の曹魏の対蜀戦線における
主将の一角に喰い込む片鱗を見せます。

因みに、当人の略歴ですが、

当時の高級官吏登用制度である
高廉を突破した
ほとんど最後の世代と推察します。

北方の出身で羌族に対する理解が深く、

地域の利害に積極的にかかわった
当時の古き良き名士を体現したような
人材です。

個人的には、異民族対策も含めて、
秦嶺界隈における
曹魏の屈指のキーマンと思います。

余談ながら、曹魏の終わり頃からは、
いつしか地域の実情から目を背けるのが
地方官や名士の「流行り」になっていたようで、

そんなことやってりゃ、
誰が皇帝になっても国が滅びるわなあ、と。

 

6-4、秦嶺の霧?戦場の霧?
    そもそも「史料の霧」?

さて、次に、
2、の無数の山岳戦闘について。

劉備が陳式等の10程度の部曲を編成して
魏軍を攻撃したり、

趙雲が空城の計で曹操の大軍を破ったり、

徐晃が蜀軍を谷に追い落としたり、

―といった具合に、

何度となく激戦が戦われたことは
間違いなさそうですが、

その記録から透けて見えるのは、

「谷」だの
「閣」(架け橋の意)だのと、
急峻な地形を想起させる文字
踊っておりまして、

中々、大兵力を展開して
短期間で雌雄を決するような
大規模な野戦にはなりにくかったのかしら、
という印象を受けます。

したがって、
両軍が相応の措置を講じたことで
主将が戦死した位では
戦線が動かなかったという次第で、

これを見た曹操が、ついに、
斜谷、つまり、褒斜道経由で
陽平関に出馬しまして、
これが地図上の⓺。

とはいえ、

在陣すること高々2ヶ月で
全軍を長安に撤退させます。

もっとも、
それまでの激戦や
夏侯淵の戦死を考慮すると、

曹操の陽平関着陣以降、
目立った攻勢がなかったという
大人しさも不気味なもので、

思うに、

陽平関への出馬自体が、
撤退戦の陣頭指揮を
視野入れたものである可能性も
ありそうな。

しかし、転んでもタダでは起きない曹操。
この漢中争奪戦には、

実は、トンデモナイ裏の顔がありまして。

 

7、経済戦争の一戦法・移住のススメ

7-1、当時の戦争は人の奪い合い?!

4年にわたる劉備と曹操の漢中争奪戦、

結論から言えば、
土地を手にしたのは劉備、
住民を手にしたのは曹操、という、

奇怪な結果に終わりました。

で、ほとんどもぬけの殻の漢中を
制圧した劉備は、
屯田をやる羽目になりまして。

というのも、

占領地の住民を
根こそぎ移住させるという悪智恵を
曹操に授けた敏腕行政官
少なくとも何名かいた模様。

以下の地図は、
その移住の状況を示したものですが、

これは役人の手柄話で
明らかになったことにつき、

その実態は、
もっと規模が大きかったものと想像します。

『正史 三国志6』巻末地図を加工。同書各巻の当時者の伝の内容を参照。

数の規模としては、
例えば漢代は1県辺り20万程度の人口でして、

そのうえ、『三国志』の時代は、
戦乱が続いて激減し、
慢性的な人手不足の状態が続いていました。

そもそも劉備とて、
新野から江夏に逃亡を図る際に
領民を随行しました。

【追記】
江夏ではなく江陵だそうな。
何ともツッコミどころの多いこと。

―もっとも、
戦闘員と非戦闘員の区別が曖昧で、
一族郎党を含めて
部曲ごと引っ越したからそうなった、
という側面もあるのかもしれませんが。

まあその、人間狩の目的として、
悪く言えば、
異民族に3K(死語ですね)をやらせて
労力の不足分を補う訳でして、

孫呉が山越相手にやったのも
この類。

で、特に北方では、

これにたいする積年の恨みが
八王・永嘉の乱の伏線にもなるという
社会的な動向でもあります。

さて、こういう状況下で、
当時、史書に記されているだけでも、
8万余だの
5万(人ではなく)「部落」だのの規模の人間が
曹操の支配地域に移住するとなると、

漢中や巴の界隈に
ゴースト・タウンが急増する状況が
容易に想像出来る訳でして、

このマンパワーが、
曹魏の主要都市の開発や屯田に
充当された訳です。

無論、それ以前から
許昌等の根拠地で
大体的に屯田を行ったノウハウが
活かされたことと想像します。

 

7-2、人材の層に一日の長?!

さらには、
これを画策した魏の行政官共も
したたかなもので、

早く移住した者には恩賞を出す、
などとやり出す始末。

担い手の具体的な姓名を挙げますと、

張既杜襲といった
恐らくは曹操が門地を問わず
能力主義で抜擢した
実力派の行政官でして
(張既なんか寒門の出身で郷里でもイロイロあったそうな)、

有能かつ
異民族対策も老練な顔触れでもあり、
適材適所と言えます。

こういう地均しの延長に
郭淮のような裏方の人材の
活躍の素地がある訳でして、

北伐についても、
存外、こういう人材の層の違いが
明暗を分けた部分もありそうな。

以後、劉備の蜀漢は、
漢中での予想外のトラブルに加え、

引き際を欠いた
対呉交渉のこじれが祟って
関羽と荊州の双方を失い、

漢魏革命のドサクサ
(譲位後、献帝の死亡説が流布)に紛れて
皇帝を僭称して方々の名士の反発を買い、
(先述の張某や杜某のような人材から
そっぽ向かれる訳です)

関羽の報復と荊州奪回を兼ねた外征も
失敗に終わり、

極め付けの事態としては、

劉備の没後に
事も有ろうに蜀漢の支配地域でも
大規模な反乱が起きるという具合に、

一転して危機的な状況に直面しまして、

この国家未曾有の有事に際して、
例の孔明先生の双肩に
国運が委ねられる、という、

物語も大きなヤマ場を迎える展開と
相成ります。

 

おわりに

例によって
結論を整理しますと、
概ね以下のようになります。

 

1、漢中―長安間の山間部・秦嶺は難所で、
夏から秋には雨季がある。

2、渭水の北岸は東西の移動、
南岸は南北の移動に適している。

3、種々の「異民族」が雑居している
地域でもあり、

戦争にも統治にも、
これらの勢力の懐柔が不可欠であった。

4、古代の兵書によると、
山岳戦は隘路の確保と
地形の高低の利用がキモである。

5、複数存在するうちの
最も主要な幹線道路は褒斜道であり、

戦禍等で使えない場合は、
子午谷道がその代替となった。

6、曹操は最初の漢中攻めで食糧不足に陥り、

劉備との抗争では、
長期間の対峙の末、撤退した。

なお、双方共、
本隊の壊滅や根拠地の失陥はなかった。

7、ただし、曹操は漢中・巴の住民の移住を
積極的に行い、
支配地域の開発に充当した。

 

【主要参考文献】(敬語省略)
久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」
石井仁「曹魏の護軍について」
並木淳哉「曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次「北伐」」
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
坂口和澄『もう一つの『三国志』異民族との戦い』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
金文京『中国の歴史 04』
加地伸行編『諸葛孔明の世界』
浅野裕一『孫子』
林富士馬訳『六韜』
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻

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2 Responses to 前漢から北伐前夜までの秦嶺越え

  1. 匿名希望 のコメント:

    「はじめに」の部分でおっしゃっていた直帰率についてですが、
    すみません、私が直帰率を押し上げてしまっているかもしれません。
    aruaruchina様は平日のこんな時間帯に更新しないだろうな~と思いつつ
    一日3回ぐらい訪問してしまっております。

    更新を期待されている!とプレッシャーに思わずにマイペースで
    続けて頂ければ嬉しいです!

    • aruaruchina のコメント:

       匿名希望 様

       まずは、返信が遅れて大変恐縮です。

       さて、何度も御目を通して頂き大変感謝致します。

       個人的な事情で恐縮ですが、サイトを始めた時とは環境が激変しまして、
       以前とは違い、何かを調べたり書いたりするにつけ、

       (自身の浅学は元より)諸事、こんなに時間が掛かるものか、と、
      溜息が出るようなことばかりですが、

       こうして御覧頂ける方々が少なからずいらっしゃることで、
       励みになるのは勿論のこと、少しでも皆様の役に立つ記事を書けるよう
      粘り強くやっていこうと思いますので、

       今後とも宜しく御願い申し上げます。

      aruaruchina 拝

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