まずは、更新が大幅に遅れて大変申し訳ありません。
私事で恐縮ですが、
身の回りの環境が激変したことで
先月までのペースでの更新が難しくなりまして、
色々と考えた結果、
差し当たって、
文章なりイラストなり、
書き起こした分だけでも
小分けにして綴ることにしました。
早速ですが、
今回は交通関係の話。
以前の記事で、
古代中国の城塞都市の設立条件は
交通の結節点である可能性が高い、
と記しました。
こうした文脈を受けてか、
中国の統一に成功した秦の始皇帝は、
首都・咸陽を基点に
巨大な道路網の整備に乗り出す訳です。
さて、当時の幹線道路には
いくつかのパターンが存在します。
そのひとつのが、
「直道」と呼ばれる
今日で言うところの
ナチのアウトバーンのような、
謂わば、
軍用の高速道路に相当する道路です。
咸陽(雲陽の林光宮)を基点とし、
北辺の国境地帯である九原郡までの
1800里(約700キロ)を結ぶ大道です。
早速ですが、
以下のヘボいイラストを御覧下さい。
![](http://paulbeauchamp.org/wp-content/uploads/2018/04/road-01.jpg)
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』p97-99等を参考に作成。
これが、その「直道」の概要です。
広い道幅を有し、
急なカーブや勾配を排したことで
車両の高速移動を可能にしました。
オマケに、
道路に砂利まで敷いて
砂塵が舞い上がるのを防ぐという徹底ぶり。
敷設どころが維持にも相当の予算が掛かることが
容易に想像出来ます。
なお、道幅については、文献によっては、
平地で20メートル程度、
山地で4、5メートル程度、
としているものもあります。
で、中国の統一後、
こんな手の込んだ道路を必要とする仮想敵国が
一体どこにいるのか、
と言えば、
当時北方で猛威を振るっていた
匈奴だったりしまして。
ですが、皮肉なことに、
当時のこの道路の用途は、
地方巡察中に身罷った始皇帝の遺体を
迅速に咸陽に運ぶために使われたというオチ。
最後を迎えたのが山東半島付近の沙丘で、
そこから西に転進して直道に乗ったそうな。
そのうえ、その臨終の段階では未完成でした。
【主要参考文献】
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』
江村治樹『戦国秦漢時代の都市と国家』
学習研究社『戦略戦術兵器事典1』