『三国志』に登場する鎧アレコレ

今回も無駄に長いので、
以下に、章立てを付けます。

適当にスクロールして
御覧になりたい箇所だけでも御読み頂ければ幸いです。

 

はじめに

1、前漢時代の甲冑

1-1、後漢王朝の軍の事情
1-2、古代中国における鎧の部位と前漢時代の鎧
1-3、前漢時代の軍装
1-4、有り触れている被り物と武器
1-5、意外に重要な(?)履物の話

2、後漢・三国時代の鎧の特徴

2-1 兜の主流・蒙古鉢形冑
2-2 泥臭い「文化交流」の産物・両当鎧
2-3 筒袖鎧とその運用
2-4 明光鎧とNHK人形劇の話
2-5 『三国志』の鎧とドラマの考証の話

3、当時の常識?!鎧を纏わない無名の戦士達

3-1、官渡の戦いとそれまでの曹操の用兵
3-2、古代中国の戦闘の流儀と鎧
3-3、昔の民兵?!豪族の私兵
3-4、鎧を必要としない?!南方の兵士

おわりに

 

 

はじめに

 

今回の元ネタは、主にこの論文。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」
『日本考古学 2(2)』

当時の鎧のディティールや発掘場所等、その他について、
詳細に論じられていまして、
オマケに無料でPDFで閲覧可能。

ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/2/2/2_2_139/_article/-char/ja/
(一文字目に「h」を補って下さい。)

あるいは、
NII学術情報ナビゲータで、
同論文を検索なさって頂ければ幸いです。

ttps://ci.nii.ac.jp/

サイト制作者としては、
マニア必見の価値有と思います。

さて、まずは、
更新が大幅に遅れて大変申し訳ありません。

と、言いますのは、
当初は靴の話をしようかと考えていましたが、

私事で色々と取り込んでいたことと、
氷の上で滑って右手を痛めたという名誉の負傷と、

『三国無双』の新作発売に託けて
少々それっぽい話に変更しようと
色気を出したことが見事に裏目に出、

イラストの準備等に時間がかかり
このような悲惨な結果になった次第です。

それでは、今回の話に入ります。
今回は『三国志』の時代の鎧の話。

この『三国志』の時代というのは、

単に乱世が1世紀続いたこと以外にも
武具や服飾の変遷が大きい時代でもありまして、

その意味では、
時代考証の厄介な時代でもあろうかと思います。

もっとも、戦乱を伴う過渡期は
いつの時代もそのようなものですが、

例えば、中国における衣服や靴等の服飾史の文献では、
王朝ごとに漢、魏晋という区切りをしまして、

『三国志』という枠組みで捉える場合、
後漢・魏晋のふたつの時代の状況を
付き合わせる必要がある訳です。

一昔前の通史なんか目を通すと、
こういう傾向が非常に強い訳でして、

最近までは、
歴史学としては『三国志』という枠組みは
あくまで小説の話でしかなかったような
印象を受けます。

ところが、ここ20年位で、
そのような状況に或る程度の変化がみられまして、

私の知る限りでも、10年程前、
さる若い中国史の気鋭の大学の準教授が、
講談社の『中国の歴史』の刊行に際して、

『三国志』の時代で1冊を使うとは驚いた
おっしゃっていたのが印象に残っています。
(その先生も三国志が大好きな方ですが)

もっとも、そこは、
学術界の悪い面―成果主義と言いますか。

歴史学一般の内部事情として、

中国史に限らず、どの時代の研究ついても、

史料が乏しくて分かりにくかったり、
パラダイムから逸れたりした部分には
中々研究に労力が割かれないという事情がありまして、

私のようなゲーム好きの素人の関心事と
研究者の目線の違いのズレを強く感じる次第です。

もっとも、
先生方の論文を読む分には、テーマからして、
研究者(三国志や関連するゲーム等が大好きな方は
絶対に少なからずいらっしゃると思いますが、
あくまで個人的な妄想の話です)の立場としては、

東洋史の授業で、
政治や経済等の話を差し置いて
ゲームの考証の話なんか
する訳にはいかないのでしょうが。

それでも、
昨今の現役の研究者の書かれた
『三国志』関係の書籍の
ラインナップの豊富さを見るに、

相応の史的・文学的意義の下、

素人目に見ても、
漸く『三国志』の枠組みでの研究に
焦点が当たりつつあるのかしらと思う次第です。

 

 

1、前漢時代の甲冑

1-1、後漢王朝の軍の事情

前置きが長くなりましたが、
鎧の話に入ります。

「はじめに」の話は、
漢・魏晋という時代区分―分け方がある、
という程度の認識で御願いします。

さて、まずは漢代の話から始めたいと思うのですが、

厄介なことに、

『三国志』の幕開けとなる後漢時代は
発掘物の残存状況が悪いようで、
早い話、実情がイマイチ判然としません。

その理由として、恐らく、
まずは後漢王朝の権力基盤が弱いことが挙げられます。

手始めに、
王莽政権以後の乱世を収束して後漢を建国した光武帝
その権力基盤である豪族層の疲弊を緩和すべく、
常備軍を削減したため、

当初の兵力の供給源の大半は
洛陽・長安近郊の兵営でした。

ですが、それ以降は、

時代が下るにつれて
北方の国境地帯への軍備増強や
地方官の勝手な募兵によって
国内になし崩し的に兵隊が溢れ返り、
(その「兵隊」の鎧の話は後述)

そのうえ2世紀に入ると、
策源地の長安以西の地域は
羌族の大反乱でエラいことになるという具合。

―因みに、このゴタゴタの最終局面で
頭角をあらわしたのが董卓。

つまり、後漢王朝には、
或る程度規格の整った鎧を大量に運用する力がなく、

始皇帝や武帝の時代のような
まとまった数の兵馬俑や立派な現物が
出土せず、

実態の把握が難しい訳です。

因みに、小林聡先生の研究から進展がなければ、
後漢王朝は軍の統廃合が激しいこともあり、

或る程度の改廃こそ判明しているものの、
その概要はイマイチ判然としません。

前回の話で少々部曲の話をしましたが、

秦や前漢から時代が下っているにもかかわらず
状況が掴みにくいのは、
政権の事情によるところが大きいように思います。

 

 

1-2、古代中国における鎧の部位と
前漢時代の鎧

 

そこで、まずは前漢時代の鎧を見ていることにします。

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」等を元に作成。

例によって、ヘボいイラストで恐縮ですが、
もう少し実感のあるものを御覧になりたい場合は、

「百度検索」等を使って
イラストに出て来るような言葉で画像検索を掛けると
実写の復元品の写真が出て来ます。

プログラムの仕組みは分かりかねますが、

どういう訳か、
同じグーグル系で同じ漢字で検索を掛けても、

中国に関するものでは
むこうのエンジンの方が
それっぽいものが引っ掛かり易いので驚きです。

―ああいう国体につき、
国家の治安対策の副産物かもしれませんが。

さて、手始めに、
古代中国の甲冑の部位ですが、

高橋工先生によれば、

上(頭)から順に、

頸部を守る「盆領」
胸部を守る「身甲」
腕・手を守る「披膞」・「甲袖」
腰から下を守る「垂縁」・「甲裙」

以上の4部位に区分出来ます。

ただし、
残念ながら、以上の語句は、
本場中国でも
あまり馴染みのあるものではなさそうです。

また、盆領や甲袖、甲裙といった周辺の部位は、
この時代の甲冑としては、
付いていないものが多い印象を受けます。

次いで、鎧のタイプですが、
前漢のものは大体、札甲と魚鱗甲に区分出来ます。
因みに、技術的には、秦代のものと大差無いようです。

札甲は、布や革の衣類に一定の大きさの鉄の札を、
あるいは鉄の札同士を概ね規則的に縫い合わせたもの、

魚鱗甲は、小さい鉄片を糸(縅)で
縫い合わせたものです。

恐らく、魚鱗甲は身分の高い将官のものと推察します。

また、前漢と一口に言えど、

武帝の前の時代は
同じ郡国制下でも
皇帝の親戚の王様が東の方で威張っていまして、
王の支配領域が格段に広かったのです。

イラストにある金銀の魚鱗甲が出土した斉等は、
まさにそのような地域であったと推察します。

件の鎧が、
呉楚七国の乱で暴れた王様の
富の象徴ではなかろうかという御話。

もっとも、この兵乱は早々に鎮圧され
戦禍に見舞われた地域も限定的であったことで、

王莽政権以降の乱世の時代にも
武帝時代の武具が使われたそうな。

ですが、これ以降は三国時代まで
武具の変遷が判然としないことと、

(あくまで素人目に見てですが)
魚鱗甲に比して構造が簡単なことで、

前漢時代の札甲と同じ規格のものが
黄巾の乱以降の軍閥割拠の時代まで使用された可能性は
否定出来ないと思います。

因みに、魚鱗甲については後漢時代でも使われますし、
後漢時代の鎧が判然としないことは、
同時にもっとヤバい状況も意味しますが、
それは後述します。

 

 

1-3、前漢時代の軍装

鎧に続いて、軍装についても触れます。

このアレなイラストは、
当時の兵馬俑やネット上の復元写真やらを見て
無い知恵を絞って描いたものです。

如何せん、現物がないことで、

兵馬俑の写真だけでは細部の質感めいたものが分からず、
先学の復元写真が参考になるのですが、

復元写真を付き合わせても納得がいかない部分は
想像(妄想ともいいますが)で描くより他はなく、

その意味では、話半分で御願いしたく思います。

それでも、或る程度、
古代中国の歩兵や騎兵の特徴は浮彫になります。

まず上着ですが、

衣類の長さが膝までないことで、

イラストでは、
「袍」ではなく「襦」と書きましたが、
正確には「戦袍」とでも言うのでしょう。

歩兵に比べて騎兵の戦袍は短く、
腿当てを下着の上から
サスペンダーのように装着します。

もっとも、
「騎士」というのも紛らわしい言葉で、
色々な文献に出て来るので仕方なく使いましたが、

残念ながらサイト制作者には、

集団戦の兵科としての騎兵を表すのか、
騎乗の指揮官を表すのかは分かりません。

靴を履いていることと
馬に乗ること自体がステータスでもあることで、
身分は高いのでしょうが、

兵科自体が
国民国家時代の騎兵や
途上国の空軍パイロット宜しく、
富裕層の子弟や選抜された精鋭で
構成されている可能性もあり、

いずれにしても
平民で構成される戦列歩兵に比して
資力か戦闘技術の裏付けが伴う訳でして、

三国時代の騎兵は
まさにそういう集団であったという説もありますが、

詳細な検討は後日にさせて頂ければ幸いです。

 

 

1-4、有り触れている被り物と武器

さらに被り物ですが、

当時の出土品は、
魚鱗甲を纏って靴を履いた身分の高そうな俑ですら、
兵卒と同じ「幘(さく)」という
平時と同じような被り物をしています。

以前の回でも触れました通り、
色々なタイプが存在する、
当時としてはかなり有り触れた帽子です。

一方で、前漢の俑(人形)には、前後の時代に比して、
兜を被ったものがほとんど見られません。

もっとも、斉の魚鱗甲の現物の出土品もあることで、
戦地に臨んでは一定の身分の将校は
被っているのでしょうが、

如何せんサンプルめいたものが
それ以外になく、
描く方としては困ったものだと思います。

次いで武器ですが、

イラスト中の環首刀と戟は
春秋戦国時代から三国時代までは
歩兵の武器としては最も汎用性のあるものです。

特に前者・環首刀は、
装備の劣悪な兵隊でも必携の装備で、
知っておいて損はないと思います。

戟は両手の武器ですが、
曹操の親衛隊長の典韋位の怪力になると、
小型の戟を左右の手に1本ずつ持ち、連射で投げ付けるという
スイッチ・ヒッターな離れ業をやってのける訳です。

『三国志』の初期の弱小軍閥同士抗争の時代には
こういう曹操配下の命知らずか、あるいは、
呂布や麹義のような
凄腕の傭兵隊長が戦場の花形であったように思います。

 

1-5、意外に重要な(?)履物の話

最後に履物ですが、
サイト制作者個人としては、
実は、この部分が結構重要だと思う次第。

と、言いますのは、
当時の履物の事情として、

漢代には、
貨幣需要や匈奴への貢ぎ物の工面等を背景に
屑糸から絹まで―ピンからキリまで
繊維産業が広汎に伸びたとはいえ、
当時は履物にまで生地が回らない時代でした。

当時の事情として、
農村部の庶民の履物は草鞋が中心で、
布の靴が普及するのは元・宋以降の御話。

まして、靴下に至っては、
広汎に普及したのは三国時代以降の話です。

そうした中で、
正規軍の装備として、
ゲートルや靴下が支給されている訳でして、

軍隊の維持に如何に資金や物資が必要とされるかが
こういう部分に如実に表れていると思います。

そう、「運動戦」や「機動戦」の言葉通り、

少なくとも、遥か2000年も昔から、
兵隊は歩くのが商売であったことの
確たる証拠だと思います。

 

 

2、後漢・三国時代の鎧の特徴

2-1 兜の主流・蒙古鉢形冑

モノの本(天下の共産党様の軍事史研究の御本!)
によれば、

後漢時代の鎧は、

前漢に比して、
鉄の増産により保護される部位が
多くなったのが特徴だそうな。

早速ですが、
以下のヘボいイラストを御覧下さい。

ラインナップは、ほぼ、
篠田耕一先生の『三国志軍事ガイド』と同じですが、

それでも
後漢・三国時代の鎧を平たく言えば、

魚鱗甲タイプの鎧、
鉄片を繋ぎ合わせた袖の付いたもの、
あるいは披膞の付いたものが主体になっていきます。

とはいえ、
この中で後漢時代とされるものは、
鮮卑の魚鱗甲だけです。

また、兜ですが、

高橋工先生によれば、
頭の中心に擂鉢のようなものがあり、
その裾に放射線状に鉄片を繋ぐタイプのものを
「蒙古鉢形冑」と呼ぶそうな。

東アジアでは、
むこう何世紀かにわたって
この形式の兜が主流であったようです。

例えば、左側のイラストは、
後で詳述しますが、晋代の俑の模写ですが、
当時の俑は、鎧はともかく、
被っているのが悉くこのタイプの兜です。

 

 

2-2 泥臭い「文化交流」の産物・両当鎧

また、大体2世紀頃から
北方の「異民族」の(強制も含む)内地移住が
活発になったことと、

前漢の時代には高等指揮官が纏っていた魚鱗甲が
この時代には鮮卑も着用されていたことから、

『三国志』の時代には、
漢民族と「異民族」の間では、

習俗や服飾はともかく、
使用する甲冑の差異は
それ程大きくなかったのかもしれません。

そして、この種の泥臭い民族交流の話の延長として
登場するのが、両当鎧。

向こうの文献を見ると漢字に示偏が付いていますが、
こちらの表記でも間違いはないと思います。

三国時代にこのタイプの鎧の原型が
登場したようでして、
騎兵戦(特に騎射)を想定して
腕の稼働領域が大きいのが特徴だそうな。

因みに、胸部の装甲は、
南北朝時代の俑を見る限り札甲でして、

その意味では、
前の時代と大差無いような印象を受けます。

兵卒の鎧なんか
いつの時代も雑な作りなのでしょう。

さて、このタイプの鎧が
他の鎧に比して興味深い点がひとつありまして、
それは、当時の服飾の派生であったことです。

つまり、民需の衣服の機能性が
そのまま軍需の最たる鎧に化けているという点です。

以前の記事でも触れたような、
褲の普及のように北方民族の衣服の機能性が
そのまま中原に流入するのであればともかく、

衣服の運動性が鎧に活かされ
さらには中原に流入するというのは、

サイト制作者としては珍しいケースに見受けます。

ですが、その話は、稿を改めたいと思います。
悪しからず。

 

 

2-3 筒袖鎧とその運用

次いで、筒袖鎧について。

筒袖鎧のタイプの鎧自体は
既に前漢には存在していたものの、
諸葛孔明が完成させたと言われていまして、

蜀軍では騎兵を中心にこの鎧が標準装備であった模様。

その画期的な特徴は、字面の如く、

前漢の札甲や魚鱗甲に比して
袖の部分全体が鉄片で覆われ、
かつ可動な点なのでしょう。

加えて、前漢の札甲では急所であった
脇の下も保護されています。

また、敢えて諸葛孔明の名前が出て来るのは、

当人が科学オタクという点以外にも、

或る程度大きい資本力のある集権的な政権があって
初めて調達と集中運用が可能になる、という、

武帝や始皇帝と同様の文脈であろうかと
想像します。

もっとも、その割には、
三国時代の鎧は現物が残っておらず
不明な部分が大きいそうですが、

晋代の筒袖鎧の俑をいくつか見る限り、
鉄片の繋ぎ方は、
札甲ではなく魚鱗甲が中心であったと想像します。

 

 

2-4 明光鎧とNHK人形劇の話

次いで、明光鎧について。

その特徴は、
左右の胸部や背面に丸い鉄板を当てるというもの。

私の描いたアレなイラストは
残念ながらその少し後の南北朝時代の俑を
模写したものにつき、
質感が掴めなかったのですが、

私と似たような世代かそれ以前方々は、
NHKの『人形劇 三国志』の

曹操の鎧を思い出して頂ければと思います。

若い読者の皆様は、
「人形劇 曹操」で検索を掛けると
いくつか画像が出ますので、
御参考まで。

あの鎧が明光鎧。
加えて、あのタイプで黒い漆を塗ったのが黒光鎧。

蛇足ながら、
あの人形劇で劉備や張飛が付けているのが
先述の「札甲」タイプの鎧です。

さて、曹魏にはこの類似品の黒光鎧が
まとまった数が存在したようですが、

それが発覚した経緯が
北伐の祁山にて蜀に大敗して
大量に鹵獲されたことで
記録に残ったという、

何とも御粗末な話。

その数5000。

『三国志』を書いた陳寿の父が
馬謖の幕僚であったという
漢に対するノスタルジーというか
当人の性格の悪さを感じなくもありません。

曹植の伝にも、
この種の鎧の話が存在したという話が出て来ます。

ですが、明光鎧・黒光鎧の完成は南北朝で、
最盛期は隋唐時代という、
時代を先取りする存在でありました。

 

 

2-5 『三国志』の鎧とドラマの考証の話

これも程度が過ぎると野暮なのですが、
折角ですので少々致します。

先程人形劇の話をしましたが、
サイト制作者がこういうことを調べる過程で、

故・川本喜八郎氏が人形を制作されるうえで、
敢えてハイテクの明光鎧とロー・テクの札甲を
併存させたのは、

無論、曹操と劉備のキャラクターのイメージが
あるのでしょうが、

失礼ながら穿った見方をすれば、

元になる情報が少ないことで、

何十年も後に
サイト制作者が悩んだような問題に直面した末の
苦肉の策であったのではないかと想像します。

つまり、後漢や三国時代の
スタンダードと言えるような鎧の現物がないことで、

当時の文献の内容やその前後の時代の発掘物という
極めて断片的な物証から
ムリにでもそれっぽいもののイメージを作り出す作業に
迫られたのではなかろうか、と。

また、最近BS12で放送している『趙雲伝』を観ると、

主要な登場人物の派手な装束はともかく、

(確かに、ケニー・リンは格好良いと思いますが、
サイト制作者個人としては、当時の発掘物からは、
形状・色彩共にあのコスプレをどうにも想像出来ません。)

札甲を纏った兵卒が何名も出て来たことで
自分の予想した通り、
前漢の武具のタイプが後漢にも横滑りしている
という解釈で当たっているのかと、

少々安堵する反面、

人形劇やドラマの制作スタッフの方々も、

あるいは、私と同じようなレベルの情報を元に、
同じようなアタマの使い方をしている
可能性もあります。

―当然、実情はそうではないと信じますが。

ですが、言い換えれば、
研究が進展して後漢時代の甲冑の発掘物でも出土すれば、
こういう想像(妄想)の産物は一発で消し飛ぶ訳でして、

その意味では薄氷を踏む心地です。

こういうことを考える割には、
『Three Kingdoms』の武将の鎧には
鋲打ちのものもありまして、

先述の高橋先生の論文を読む分には
鋲打ちはもう少し後の時代の技術で、

この時代の鉄片の接合は縅ではなかったか、と、
余計なツッコミを入れたくなった次第。

【追記】
鋲打ちの技術自体はこの時代にもあったようでして、
例えば、既にこの時代の400年も前に、
始皇帝の専用馬車の製造に駆使されたそうな。

漢代に製鉄技術が躍進したことを考えると、
武具にも使われたと考える方が
妥当かしら。

―もっとも、作品としてはクオリティが高く、
放送当時は丁度夜勤につき、
毎日アレを観るのが
楽しみで仕方なかったことも付言しておきます。

まあその、大人の事情と言いますか、
他の時代の作品に使い廻すこともあるのでしょう。

 

 

3、当時の常識?!

鎧を纏わない無名の戦士達

 

3-1、官渡の戦いとそれまでの曹操の用兵

さて、これまで鎧の話をして来ましたが、

ここでは、
そもそも鎧が全兵士に行き渡ったのか、という、
敢えて、それまでの話の前提をブチ壊す話をします。

と、言いますのは、
サイト制作者自身、少し前まで、

質の違いこそあれ、
兵士である以上は鎧が支給されるのは当然と
思っていまして。

で、色々調べていくうちに、
当時のブラックな事情が色々分かって来たと言いますか。

読者の中に、
こういう疑問を持たれた方がひとりでもいらっしゃれば、
サイト制作者としては、
今回の記事は書いて正解であったと思います。

前回の記事で、秦の弓兵は鎧を纏っておらず、
階級で言えば50人隊長である屯長ですら
纏っているものとそうでない者が混在した、

と、書きましたが、

『三国志』の時代も、どうも、
三国鼎立以前は、これと大差なかった可能性があります。

例えば、官渡の戦いでは、
曹操の軍隊はほとんどが鎧を付けていなかったそうです。
対する袁紹側は、捕虜の鎧の装備率は大体14%程度の模様。

当時の先進地域である
華北・華中を代表する軍閥同士の主戦場ですら
この有様です。

こういうヤバい事情を考えれば、

190年代の段階では
曹操が相手の裏をかくような奇襲を多用したのも
分かるような気がします。

そりゃ、システマティックかつ執拗に突っ込んで来る
呂布の騎兵相手に、
ロクに鎧も付けない兵隊で戦列を組んで
「〇〇の陣」とか気取って正面から迎え撃てば、

まず殺戮されると思います。

もっとも、唐代になると、
兵士の鎧の装備率は6割にまで上がるそうですが。

 

 

3-2、古代中国の戦闘の流儀と鎧

また、古代中国の戦争の流儀を見ても、
鎧の装備率はこの程度のような印象を受けます。

と言うのは、
古代中国の歩兵の用兵には、春秋以前より、
「五兵」という考え方があります。

これは、5名で5種類の武器を運用することで
最小の戦闘集団をなすという意味です。

五は「伍」を意味し、
早い話、秦の什伍制の「伍」の戦闘単位も
恐らくこれに準拠していますし、

テレビ朝日の戦隊モノや
その元ネタであろう時代劇、
テレビゲームの『飛龍の拳』シリーズの
5名の「龍戦士」
(こんなの知ってるのは、大体アラフォー世代でしょう)
なんかも、

存外この「五兵」がモデルではなかろうかと
想像します。

―まあその、見方を変えれば、

近代国家の軍隊でいうところの、
歩兵1個分隊の感覚です。

WWⅡの歩兵が好きな方は、
錐型の陣形で戦闘の兵士が軽機関銃を使うアレを
御想像下さい。

さて、この5種類の武器というのは
諸説あるようですが、
大体は矛や戟、弓、といったような武器です。

で、実際の戦闘では、この伍が縦隊を組み、
この無数の縦隊が横に並ぶことで横隊になります。

ここで漸く鎧の話になるのですが、

古代の手抜きブラック軍隊では、
鎧を纏うのは大体は最前列の1名だけでして、

利腕に得物(短めの戟だったります)、片方に盾を持ち、
敵兵と血みどろの殴り合いを演じます。

因みに、孫子は利腕は右手を想定しています。

くれぐれも、北方の戦線で氷の上で滑って怪我をして、
病院の皆様に御厄介にならぬよう御注意下さい。

―それはともかく、
二列目以降は長い得物でそれを援護し、
あるいは弓や弩で敵兵を狙撃します。

【追記】
これも交戦距離に応じた作法があります。

敵軍との距離がある場合は、まずは弓合戦。

次いで、次第に距離が縮まると、

長い得物で殴り合う
日本の戦国時代の合戦でいうところの槍合戦、

そして、ゼロ距離では、
使徒の胴体に軍艦の主砲を、ではなかった、

最終フェイズである
先述の甲士同士の
白兵戦に移行するという流れです。

つまるところ、「五兵」の意味するところは、
当座の殺し合いでは

どのような状況にも
或る程度柔軟に対応するための
武器の組み合わせということなのでしょう。

ですが、日本の戦国時代の経験則で言えば、
弓なんかヘタな者が撃っても
飛ばない、曲射(山なりの弾道)につき当たらない、
あるいは威力がない訳でして、

交戦距離の長い野戦では、
弩の破壊力がモノを言う訳です。

既に、戦国時代の段階で、
楚の王墓から連弩の実物が出土したそうな。

飛び道具序に、もう少し言えば、
この千年後の日本で鉄砲があれだけ脚光を浴びたのは、

直射(直線の弾道)で有効射程(殺せる距離)が
弓の倍以上の100メートル以上もあったからです。

さらに、弩の製法はむこうの国家機密で、
日本で弩が普及せずに弓から鉄砲に移行したのは
確か、こうした事情だそうな。

ニホンの話はともかく、
袁紹の軍隊の鎧の装備率が14%という数字の背景には、
大体こういう理屈がありそうだ、という御話。

似たような例として、
前漢時代の咸陽の兵馬俑はもう少しマシですが、
それでもこうした特徴がよく出ていると思います。

因みに、鎧を纏っているのは精々二列目までです。

百度の画像検索で「咸陽 楊家 兵馬俑」とやると、
当該の画像が出て来ますが、

こういう戦場の風景を想像すると、
医薬品の調達もままならなさそうな状況につき
ゾッとする心地です。

この兵馬俑が当時の事情を表していたと仮定すれば、

国庫にダブついたカネで匈奴との戦端を開いたという
金満の武帝の軍隊ですら
鎧の装備率は大体4割程度ということで。

 

3-3、昔の民兵?!豪族の私兵

教則としての戦術上の話以外にも、
鎧を纏わない、あるいは纏えない事情があります。

またしても、アレなイラストですが、
以下を御覧下さい。

まずは左側、豪族の私兵について。

後漢の発掘物で比較的多く残っているのが
農民、というよりは民兵めいた豪族の私兵の俑。
このイラストは、その模写です。

大体こういう感じの襦褲に上着を羽織って
腰を環首刀を提げたスタイルでして、

幘を被ったり、裸足であったりするものもあります。

また、農繁期には農作業にも従事します。
さらには血縁による結束が固く、
土地集積や小農からの収奪の際には
暴力装置として稼働したことで、

心ある地方官にとっては
極めて厄介な存在でした。

そう、農繁期には農作業に従事するとはいえ、
黄巾の乱を誘発する豪族の横暴の
実行部隊でもあった訳です。

その意味では、
良くも悪くも、
政府が役に立たない地域社会における
自力救済の究極の在り方なのでしょう。

例えは良くないかもしれませんが、
今で言えば、
途上国の銃を構えた兵隊上がりの警備員や
ギャングと紙一重の武装ゲリラ等が
これに近いのかもしれません。

とは言え、先述のように、
後漢の弱い常備軍を補完して治安活動に当たったのが
こういう豪族の私兵でして、

三国志の時代には、李典や許褚、あるいは、
潼関で曹操と争った馬超傘下の梁興等の私兵が
これに相当します。

史書には、兵力の多寡は、
人数ではなく家で「三千家」だとか記されていまして、
正確な人数が把握出来ていなかったことを示唆しています。

因みに、当時の家族は大体1家辺り4、5名で
夫婦各々が田畑を持ち課税されるという形式ですが、

さすがに全員が戦闘員という訳ではなかろうと思います。

加えて、残念ながらと言いますか、当然と言いますか、
配偶者控除はありません。

で、政権側の曹操等は、
この私兵集団の解体に非常に苦労した訳です。

一方で、鎧の話を絡めますと、

秦代には鎧の製造や出納は
郡の太守以上の地方官に権限がありました。

漢も内政面では秦の制度をかなり継承しており、
漢代にもこれが継承されていたと仮定すれば、

県以下の田舎(?!)では、
太守の裁量如何で
官製の鎧が出回らないケースも考えられます。

資本力が弱く地方官と揉めた豪族は、
タダでさえ数の少ない鎧の調達に難儀した
可能性があります。

 

 

3-4、鎧を必要としない?!南方の兵士

また、鎧を平地程には必要としない地方もありまして、
山岳・森林・河川の多い南方
それに当たります。

右側のイラストは、東晋時代の俑の模写ですが、
諸々の文献を読む限り、
恐らくは前の時代も大差無いと想像します。

見ての通り、
盾と剣、あるいは刀で武装するというスタイルです。

方々旅をして廻ることを意味する
「南船北馬」という言葉がありますが、

騎乗で動き回る北方の兵士と
船でどっしり構える南方の兵士の差異は、
後世のカンフーの流儀にも影響しているそうな。

もっとも、孫呉政権自体は同盟国や馬を欲しがって
陸遜が止めろというのを無視して
方々に使節を送ってエラい目に遭うのですが。

大体230年代から240年代位までの
孔明と同じく毎年にように魏を侵して
連中に「劇賊」と蔑まれた時代のことです。

ただ、一連の孫呉の出兵が略奪に終始し、
一方で孫権が馬を欲しがったところを見ると、

長江北岸での地上戦は、
孫呉にとっては装備面で
不利であったのかもしれません。

 

 

おわりに

例によって、無駄話で長くなり恐縮ですが、
まとめに入ることと致します。

まず、後漢・三国の時代は色々な鎧が混在した時代です。

後漢時代は前漢のタイプのものがそのまま使われたり、

あるいは、
前漢の技術で保護部位が広がったりしまして、

三国時代になると、資本力の大きい政権の元で、
新しい型の鎧の集中運用が始まったり、
北方の技術が流入したりと、
新しい局面に突入します。

ところが、そもそも、
鎧を着ている兵士自体が少ないのが
この時代の大前提でして、

その背景には、
政権の権力基盤の弱さや地域性が関係した、
という御話です。

―あまりゲームの攻略の足しになるような話ではなく
悪しからずです。

 

 

【主要参考文献】

高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」
『日本考古学 2(2)』
小林聡「後漢の軍事組織に関する一考察」
張学鋒「曹魏租調制度についての考察」
『史林』第81巻6号
柿沼陽平「三国時代の曹魏における
税制改革と貨幣経済の質的変化」
『東洋学報 第92巻第3号』
菊池大「孫呉政権の対外政策について」
『駿台史学』第116号
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
林漢済編著・吉田光男訳『中国歴史地図』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
冨田健之『武帝』
赵秀昆、他『中国軍事史』第2巻・第3巻
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』
江村治樹『戦国秦漢時代の都市と国家』
学研『戦略戦術兵器事典1』
金文京『中国の歴史 04』
朱和平『中国服飾史稿』
周錫保『中國古代服飾史』
高島俊男『三国志 きらめく群像』
陳寿・裴松之:注
今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』1~6巻
藍永蔚『春秋時代的歩兵』
華梅『中国服装史』
徐清泉『中国服飾芸術論』
呉剛『中国古代的城市生活』
駱崇騏『中国歴代鞋履』

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