呂布の戦い~190年代の寡兵での戦争の一事例

はじめに
~寡兵での戦いの前提条件

 

今回は、三国志の幕開けとも言うべき、西暦190年代の部隊編成について、
呂布の事例を中心に、アレコレ考えてみようという御話です。

黄巾の乱によって後漢末期の騒乱が本格化する訳ですが、

華北東部を制圧した袁紹が曹操と事を構える西暦200年以前の段階では、

それぞれの軍閥(刺史や州牧レベル)が遠征にあたって動員する兵力は、
多くとも数万程度という規模でした。

これは、各軍閥間の淘汰が進んでおらず、
支配領域がそれ程大きいものではなかったことと、

戦時に即した兵力の動員体制や食糧の増産体制が
未整備であったことに起因します。

 

 

1、失業者とエリート地方官の挙兵

 

例えば、董卓討伐の際、挙兵した「群雄」の顔ぶを見ると、
州牧以外には、河内の王匡、陳留の張邈、という具合に、
郡の太守レベルの者も少なからずいました。

—この中には、直前までは郷里でやさぐれていた
元・エリート地方官の曹操の姿も。

この時代に名刺というものがあれば、
彼の肩書は書かれていなかった筈です。

この190年代の戦いは、後の時代に比べて、
割合部隊の規模が小さいためか、

指揮官が矢面に立って命の遣り取りをすることで
三国志正史の記録が生々しいのが特徴だと思います。

具体的な群雄の名前を挙げるとすれば、
曹操と呂布。

 

 

2、抗争と裏切りの人生の幕開け

 

まず、正史の記録が生々しく臨場感があるのが曹操ですが、

動員兵力や部隊編成に関する記述が乏しいことで
今回の主題にはしませんでした。
面白そうな部分は後の機会に。

逆に、190年代の部隊編成について、
或る程度示唆を与えてくれるのが呂布。

コイツの戦闘力について言えば、直属の精強な騎兵の存在が見え隠れします。

この呂布は、御周知の通り、
190年代の典型的なトラブルメーカーの戦争屋。

出身は五原郡という太原(晋陽)の遥か南西の地域。
私の地図の見方が間違っていなければ、長城の向こう側のエリアです。

そういう事情があってか、弓馬の術に優れ、
幷州刺史・丁原の側近(職階は主簿)として重用されます。

因みに、丁原も北方の異民族関係の戦役で鳴らした似たような人。

その後、丁原を裏切って董卓にその首を持って参陣し、
騎都尉に昇進します。
因みに、1000名余の手勢があった張遼も、これに従います。

 

 

3-1、呂布は洛陽近郊で誰と戦ったのか?

 

正史における呂布のデビュー戦は、
反董卓の部隊の迎撃です。

以降の彼の部隊編成についての記述をまとめたものが、
以下の表となります。

【表】正史における呂布の部隊編成

注 『正史 三国志』各巻(ちくま学芸文庫)・『後漢書』より作成。

 

まず、陽人の戦い。
『三国志演義』では、汜水関・虎牢関の戦いとして描かれています。

小説の有名な御話としては、

董卓討伐軍の末席を汚す劉備の三兄弟
董卓軍の戦力の中核として諸侯の軍をあしらった華雄を斬り、
そのうえ呂布と互角に戦ったことで
諸侯にその実力を見せ付ける、

という内容ですが、

歴史の話としては、
孫堅が洛陽の南の梁県・陽人で董卓配下の胡軫の軍を破るという御話。

後述しますが、
話の前提からして、両者がまるで異なるので厄介なものです。

さらには、こういう歴史書と小説の内容の飛躍の過程
研究者の興味対象にすらなっているのですが、

ここでは、ブログのテーマが「古代中国の戦争」ということで、
当然ながら歴史書—つまり正史の話に即して話を進めます。

もっとも、赤壁の大本営発表のように、
疑うべき点は疑う必要があるのですが。

 

 

3-2、董卓の方面軍とその指揮官

 

で、当然の如くというか、残念ながら、

これが、読み物としては、
泥臭く面白くないうえに不明な部分も多い訳でして。

まず、反董卓の諸侯は、仰々しく挙兵したとはいうものの、
策源地が点在しており有効な連携が出来たとは言えませんでした。

対する董卓は、
どうも自軍の兵を少なくとも3つに分けて対応したようです。

もしくは、自分の息のかかった地方官の現地部隊を
そのまま諸侯に向けたのかもしれませんが。

それはともかく、3つの部隊とは、以下。

1、滎陽の徐栄の部隊
2、陜(現・河南省陜県か)の牛輔の部隊
3、梁県の胡軫の部隊

まず、曹操や張邈の部隊は、
1、の徐栄の部隊と真面目に戦って散々な目に遭いました。

孟津近郊の渡河戦で王匡を破ったのも、
戦場が近いことで、あるいはこの部隊かもしれません。

その後、曹操はリターン・マッチを期して揚州で兵を募るのですが、
ここでも雇った兵の大半が離反するという憂き目を見ます。

―ナポレオンのように、
出足から巧くいった英雄ではないのですなあ、この人は。

曽国藩のように、
戦場で戦争を学んだ知識人、という印象を多分に受けます。

 

次いで、2、牛輔の部隊。
牛輔は董卓の娘婿で中郎将。

この部隊の戦功は、
残念ながら筆者の浅学で分かりかねます。

ただ、その配下
校尉の李カク・郭汜・張済といった顔ぶれがいまして、
当時、これらの部隊が潁川・陳留の辺りに展開していました。

その「戦闘力」を発揮するのは主君の横死後のことですが、
それは後述します。

 

残るは、3、胡軫の部隊。
呂布は当時、この部隊に所属していました。

この部隊は、諸侯でも恐らく最強の孫堅の部隊と交戦した部隊。

孫堅の部隊は、袁術の配下として動いており、
荊州から北上して洛陽の南の梁県・陽人で胡軫の軍と対峙しました。

董卓はかつて孫堅と北方の異民族討伐に従事し、その手の内を知り、
大いに警戒していました。

そして、孫堅対策に数万の兵を用意したと史書にありますが、
この戦いでの兵力は歩兵・騎兵5000。

それでも、やはり呂布がいるだけあってか、
董卓の軍の中核であった由。

また、指揮官の胡軫は当時の陳郡太守でして、

河内の王匡、陳留の張邈といい、敵味方双方共、
太守クラスの地方官が現場レベルの指揮官だったようです。

さらにこの部隊には、
騎馬都督の呂布と都尉の華雄が配属されていました。

 

 

3-3 孫堅とのグダグダな死闘

 

ところが、いざ両軍激突の段、天下の大一番になる―と、思いきや、
一転して、双方ともキナ臭い動きを見せ始めます。

まず董卓側は、
敵を侮って部下から嘲笑を買った胡軫と呂布が不仲で、

胡軫が無理な進撃を命じ、
対する呂布は、
味方に大敵出現の誤報を流して軍を混乱させるという具合。

対する孫堅側も、
後方の袁術が戦後の孫堅の増長を警戒して
味方を兵糧攻めするというクズ上官ぶりを発揮します。

それでも、最終的には孫堅の勝利に帰し、
この過程で華雄は戦死。賊将として晒し首にされます。

その後、余波を駆って洛陽に殴り込むのですが、

当然のごとく遷都後で蛻の殻の廃墟であり、
孫堅自身、その惨状に落涙したそうな。

 

さて、双方の兵力の比較ですが、

董卓側は5000の兵のなかで
太守クラスの武将に都尉、都督と、揃っていることで、

その都督様の呂布が指揮した兵は、それ程多くはないと推測します。
多くとも、1000から2000程度ではなかろうかと。

対する孫堅も全軍で数万の軍勢を擁していたようですが、
この戦いにおける兵力は不明です。

ただ、孫堅が合戦の最中に死に掛けて影武者を使う位につき、
こちらの兵力も、それ程多くはないように見受けます。

 

 

4-1、狂気の世界の地獄絵図、長安防衛戦

 

呂布の戦いの第二幕は、長安の防衛線です。

事の経緯は、以下。

まず董卓の暗殺後、
その混乱の最中に逃亡を図った牛輔が部下に殺されます。

そこで、前線に取り残された2、牛輔の部下の李カク等は進退窮まり、
挙句の果てに、賈詡の策で都落ちした残党を吸収しながら
長安を目指して進撃します。

真偽はともかく、長安に乗り込む段階で10万いたそうな。

さらに、それを迎撃するのが、
孫堅に負けて長安まで兵を退いた3、胡軫の部隊と、
主君の暗殺後にやはり長安まで兵を退いた1、徐栄の部隊という、
このうえなくイカレた展開になります。

この時点で、反董卓の軍は既に空中分解し、
洛陽を制した孫堅がそれ以上西進する動きも見られなかったのですが、

事もあろうに、長安は、

当初想定された反董卓派の侵略ではなく、

その一族誅殺後の跡目争いという
まるで訳の分からない兵火を招くことになった訳です。

泣く泣く遷都した宮廷や洛陽からの移民を含めた現地の住民にとっては、
この連中は最早、厄災以外の何者でもありません。

 

それでも、董卓を謀殺した長安の守将・王允以下、
呂布・徐栄の勇将2名は元より
宮中の近衛部隊に至っては校尉が戦死するまで頑張ったのですが、

胡軫の造反もあって徐栄は戦死し、
呂布は数百騎を率いて長安を脱出します。

守備隊が崩壊した後の長安の惨状は、
推して知るべしです。

 

 

4-2、デタラメ軍人とスーダラ地方官

 

まあ、陽水の戦いで後ろから弾をはじく呂布も大概ですが、
胡軫も胡軫だと思います。

先の陽水の戦いもそうですが、
無能で腰抜けな地方官の所謂「あるある」
見え隠れすると言いますか。

この御仁がその後どうなったかは分かりませんが、

いやしくも董卓軍の主力部隊を率いた指揮官が
歴史の表舞台からいつの間にか退場したことだけは事実でしょう。

小説の方で汜水関で孫堅配下の程普に斬られたことにされる訳です。
確かにこちらの方が、話としては華があります。

それにしても、娘婿の牛輔といい、この胡軫といい、

董卓という人は、史書の通りであれば、
このような杜撰な人選で
よく凶暴な異民族相手に善戦したものだと思います。

 

 

5-1、冀州をめぐる仁義なき戦い

 

さて、独立後の呂布は、
諸侯に警戒されながらも傭兵として重宝される訳ですが、

面白い記録が残っているのが
袁紹傘下で張燕と戦った時のこと。

反董卓の錦の御旗も賞味期限は精々1年でして、

袁紹と公孫瓚は、

真面目に戦って死に掛けた曹操や
その親友で大勢の兵と有能な部下を失った張邈、
血みどろになって洛陽にたどりついた孫堅等を他所に、

他人の土地である冀州を取り合って抗争を始めます。

その冀州の牧の韓馥すら、
董卓が任命したとはいえ当人に反旗を翻した同志。

とはいえ、その裏では、
袁紹も公孫瓚も皇族の地方官である劉虞を
皇帝として擁立することも画策しており、

ここまで来れば、
タテマエもヘッタクレもない剥き出しの利権争いです。

群雄割拠に相応しいと言えばそれまでですが、

面白いことに、
有能で骨のある知識人がこういうのを見て唾棄するのも
あの国のひとつの側面です。

 

 

5-2 騎馬突撃こそ野戦の華

 

さて、この抗争で張燕は公孫瓚に組するのですが、
その兵力は精鋭1万余、騎兵数千騎。

ところが、これを長安からの落ち武者の呂布が撃破します。

再度、【表】を御覧下さい。

前表・再掲

戦いの仔細は残念ながら分かりませんが、
細部は珍しく細かい描写です。

側近の成廉・魏越等数十騎で敵陣に突っ込み、
首(所謂、兜首でしょう)を日に3、4取る戦いを10数日続ける、という、
並外れたバイタリティを感じさせる戦闘であった模様。

有名な「赤菟」の登場は、実はこの戦場です。

大雑把な計算ですが、例えば、
卒だの伯だのの100名程度の指揮官の首級であれば、

連日の戦闘の結果、
単純計算で5000名程度の戦力が総崩れに陥った計算になります。

張燕としては、
長安から脱出した騎兵数百に毛が生えた程度の部隊に
こんな目に遭わされれば割に合わないでしょうし、

見方を変えれば、
ひとりの軍閥が万単位の軍隊を有機的に運用する術がなく、
局地戦での勝利の意義がそれだけ大きかったのかもしれません。

こういうナントカ無双な状態は、何も張燕に限った話ではなく、

ほとんど同じ時期に行われた界境の戦いにおける
袁紹と公孫瓚についても、
どうもそのような傾向が見え隠れします。

 

 

6、荒くれ者の末路と兗州への片道切符

 

さて、殊勲賞の呂布様御一行ですが、

勝った後の彼の士卒が兵員の増員を要求し略奪を始めたことで、
これを煙たがった袁紹に刺客を放たれて逃亡する始末。

派手に戦ったのですから戦力補填の要求は当然なのでしょうが、
その要求の方法が穏当さを欠いたのでしょう。

オモシロイことに、界境の戦いのMVPの麹義も、
似たようなことで墓穴を掘っています。

この辺りは、後日、稿を改めたいと思います。

 

次に呂布の兵力について書かれた箇所は、
曹操の留守中に陳宮が離反して起こった濮陽の戦いの翌年の
鉅野の戦い。

曹操配下の陳宮と張邈の弟・張超が、
曹操が徐州遠征中に失業中の呂布を呼び込んで兗州の牧に担ぎ上げ、
曹操の盟友の陳留太守の張邈もこれに従った、という経緯。

要は、陳宮の離反で曹操と呂布の抗争が始まりました。
そして緒戦の濮陽の戦いは、曹操の勝利。

因みに、この濮陽の戦い両軍が100日以上も対峙したにもかかわらず、
兵力については詳細不明です。

その後、呂布・陳宮は、兗州での生き残りを賭けて、
恐らく総力であろう1万余の兵を動員してリターン・マッチを仕掛けます。

が、またしても曹操の計略で敗れ、劉備支配下の徐州に落ち延びます。

彼等を支援した県令や領民の信用を失い、
一転して厄介者に成り下がったからだと邪推します。

 

 

7-1、新天地は、陰謀と騒乱の結節点~徐州

 

ところが御周知の通り、またしても、
亡命先の徐州でも劉備の本拠地である下邳を乗っ取り、

それどころか、

賄賂を贈って造反を促した黒幕の袁術が
劉備の帰還先の小沛を攻めるや、
手勢を率いて大将の紀霊を威嚇します。

この時の手勢が歩兵1000、騎兵200という陣容。

廂を借りて母屋を乗っ取り、
そのうえ保護者面するという面の皮の厚さですが、

事の真相は、恐らくもっとブッ飛んでいまして、
造反の本丸として、
陳宮はこのドサクサで呂布を消そうとしていた
ようです。

具体的には、
恐らく呂布直属の配下であろう郝萌を抱き込んで呂布を闇討ちする手筈。

ところが、気配を察した呂布が着のみ着のまま妻と屋根を伝って脱出し、
これを救出したのが高順。

高順は呂布の証言から主犯を特定し、
即刻武装兵を呂布の宿所に差し向けて郝萌を討ち取ります。

その後、郝萌の離反者・曹性(演義で夏侯惇の目を射たヒト)が
陳宮の名をゲロするという御粗末な御話。

こういう類の話は、
如何に史書に書いてあるとはいえ
全部が全部信用出来るものでもありませんが、

曹操と陳宮の謀略合戦がこのレベルで行われていることで、
この種の未遂事件が頻発していたのでしょう。

 

 

7-2、良将でも兵の数は1000未満

 

さて、この高順。実は、陳宮と並び、今回の準主役ともいうべき存在です。
また、呂布の配下の中では、恐らく張遼と一、二を争うマトモな将です。

この人は700名の兵を統率し、1000と自称。
武器の手入れを常に怠らなかったそうな。

必ず敵陣を落とすので、付いた仇名が「陥陣営」。
こういうユニークな仇名が正史に書かれる人はかなり稀です。

後述する小沛攻めも、この人の手柄です。

人柄もこの時代にしてはかなり真面目で、
酒を飲まず、賄賂を受け取らなかった堅物。

ところが、陳宮の造反未遂で決まりの悪い呂布は、
高順が剛直なこともあり、こういう人材を干します。
兵権を取り上げ、同郷の魏続の指揮下に置く訳です。

それでも当人は腐らなかったそうな。

こういうメンタリティからして、

恐らく資産家の出で孝廉上がりか、
寒門でも志の高い役人上がりだったのかもしれません。

 

 

7-3、土俵際でひと暴れ

 

さてその後、皇帝を僭称して窮地に立った袁術
呂布を抱き込もうとして使者を斬られたことで、

今度は数万の兵で呂布を攻めるのですが、
この時の呂布の兵力は3000名と馬400頭。

下邳を取ったとはいえ、
さすがに兗州に落下傘した時程には
地盤は固まっていなかったのでしょう。

ところが袁術の軍も、その内情たるや、
かなり無理をしてあつらえた模様でして、

呂布側は徐州の名士・陳珪の策で
韓暹・楊奉に「大義」を説いて篭絡し、
これを散々に打ち破ります。

恐らく袁術凋落の決定打になった戦いです。

 

 

7-4、成算なき籠城戦への道

 

ですが、呂布の命運もここまででした。

呂布・陳宮は、袁術を破った返す刀で、
1万の兵を集めた劉備を小沛から叩き出したのですが、

徐州の側でも目の上のコブである袁術を追い払ったことで
呂布の暴力装置としての利用価値はなくなりまして、

先に袁術との同盟を蹴らせた陳珪が、
今度は曹操・劉備と連携して呂布を閉め出しに掛かります。

この辺りは、恐らくは、演義にあるような、
朝廷の御墨付で徐州に居座りたい呂布・陳宮と
何としても州の恥を摘み出したい陳珪の知恵比べでして、

その終局が、198年12月の有名な下邳の戦いです。

演義でも正史でも、
曹操配下の郭嘉が献策した水攻めの奇計と
落城後の敗将の処刑が見せ場と言えるでしょう。

 

 

7-5、出撃前の後顧の憂い

 

さてこの戦い、

まずは野戦で始まり、
呂布が曹操軍の糧道を断つべく自ら出撃するのですが、
この時の兵力が騎兵1000。

袁術との戦いの時は軍馬が400頭だったことで、
この時と小沛攻撃で
かなりの数を強奪したのかもしれません。

ですが、結果として作戦は失敗に帰し、
絶望的な抗戦へと突入します。

 

因みに、この呂布の出撃に関する逸話が笑えます。

陳宮・高順が不仲であったことで、

呂布の妻が
ふたりを留守部隊として置くのを嫌がったそうな。

野心家で周囲の迷惑を考えない陳宮
剛直で真面目な高順とでは、
確かにソリが合わなさそうな気もします。

大体、先刻、陳宮の造反に掣肘を加えたのもこの人。

 

 

7-6、謀臣も勇将もイロイロ

 

ところでこの陳宮というヒト
演義と正史では随分印象の異なる御仁に見受けます。

腹蔵なく言えば、
確かに、呂布の強欲さと素行の悪さは否定出来ませんが、

呂布のやらかした裏切りの半分は
この人のなせる業ではなかろうかとすら思います。

また、下邳の絞首台で泣きたかったのは、は、
散々好き勝手やって自分の策で破滅して
挙句、政敵に残った家族を頼むと居直る陳宮ではなく、

こういうムチャクチャな謀臣と
政局観に乏しく人選も駄目な上官の下で
かなりマトモな仕事をしたにもかかわらず、

都督の身分で兵権を取られても
(兵権を引き継いだ魏続が最後は呂布から離反)、
腐らず励んだ高順ではなかったのでしょうか。

因みに、陳宮が候成や魏続等の離反者に捕縛された後、
呂布は側近と白門楼に登ってしばらく抗戦したものの降伏し、
その後、3名とも縛り首になっています。

魏続等と行動を共にしなかったことで、
高順は側近として最後まで呂布の側に居たのかもしれません。

 

 

まとめ
~千の精兵が千の兵を破り、万の兵を走らせる戦場

 

結論として、話の要点を整理します。

190年代の中原の戦場で武名を轟かせた呂布。

ですが、自らが統率した兵力は、
身分や属した勢力の大小にかかわらず大体は1000名前後。

兵科は騎兵が中心ですが、騎射も派手にやったのでしょう。

逆に言えば、相手が万単位の兵力を動員しても、
この程度の寡兵で結構な確率で勝ちました。

しかも、その内幕は、
大将自らが数十騎で敵陣を突いて
日に将校の首を3つ取るというような具合です。

呂布や孫堅等、軍閥の長ですら
武勇に自身のある者はこういうことをやっていまして、
まして、呂布配下の高順の兵は700。

今回は詳しく触れませんでしたが、
袁紹配下で北方騎兵対策の名手の麹義も、
僅か800の歩兵で倍以上の公孫瓚の騎兵を圧倒しました。

それどころか、公孫瓚も公孫瓚で、
後方にかなりの予備兵力を用意していたにもかかわらず、
麹義の奮戦は戦局の帰趨まで決めてしまいました。

逆に、200年以降でも、曹操の存命中の彼の軍隊は、
本人がいないところでは結構負けています。

 

これらの逸話が意味するところは、

西暦190年代の軍閥が乱立する時代の戦争は、

大局的には例え万単位の兵力を動員出来ても
数の強味をそのまま引き出す要素が乏しく、

兵の数よりも、兵や指揮官の質、戦法といった要素の方が、
戦力的にははるかに重要であったことを
示唆しているように思います。

 

 

【主要参考文献】

陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』1~5巻
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
『知識ゼロからのCGで読む三国志の戦い』
『三国志 運命の十二大決戦』
堀敏一『曹操』
金文京『中国の歴史 04』
川勝義雄『魏晋南北朝』

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