三国時代の募兵—魏の事例

はじめに

 

漸く、三国時代の部隊編成の話に入ることが出来ます。

結論から言えば、

魏・呉・蜀といった国家や袁紹・董卓といった軍閥が、
組織単位で伍長・什長・都伯、といような編成単位を決めているというのではなく、

大抵の場合は、
都尉だの、校尉だの、鍋将軍だの野次将軍だのと、
兵隊を扱う「尉」以上の職階を持った武将が

自らが(県令や太守等の身分で統治する)赴任地や
地縁・人脈等のツテを頼って兵を集め、

そして集めた兵隊を独学で勉強した兵法(孫呉や司馬穰苴等)で訓練を施し、
その延長として、編成単位なり個別の戦法なりを各自決めていた、

というのが、当時の実態ではないかと思います。

 

1、何故か史書に書かれていない
漢代の部隊編成

こういう結論を出すに至った理由として、

三国志は元より、『漢書』や『後漢書』、
『通典』や『文献通考』といった、

漢やその後の王朝公式の史書の「志」の部分を紐説いても、

何故か漢代の部隊編成だけがスッポリ抜けているか、
あるいはその前の時代の状況を鑑みたうえで想像で書かれているという具合で、

部隊の編成単位について漢の王朝が定めた痕跡が確認出来なかったことです。

 

渡邊義浩先生は 伍長(5名)・什長(10名)・都伯(100名)となさっていますが、
浅学な私は、色々と骨を折ったものの、残念ながらこれを確認する術は分からず終い。

また、研究史としては、軍制の研究こそ少なからずあるものの、
この辺りの制度論と乖離した話は、どうも穴になっているように見受けます。

 

いくつか読んだ通史も、軍閥の軍隊の寄せ集めだったという程度の話しか出て来ません。

そのうえ、頼みの正史も、
兵力は単位ではなく数で表記
されていることで用をなしません。

仕方がないので、素人の手作業として、兵力に関する記述を逐一整理した結果、

やはり、識者の説くようなデタラメな兵制だったという、
自分で言うのも気が退けますが、まあその、デタラメな結論を出すことになった次第です。

 

 

2、募兵巧者と訓練巧者 ~劉備と魏延の場合

 

2-1、劉備の「悪運」のカラクリ

さて、兵隊を集めるのも訓練するのも武将の嗜み、ということで、
残念ながら魏ではないのですが、
適当な事例として、蜀からふたり挙げることと致します。

そのふたりとは、劉備と魏延。

兵隊集めが巧かったのが劉備で、
兵隊の訓練が巧かったのが魏延。

両名の特技を見ることで、
当時の募兵と訓練の理想的な在り方が垣間見えるように思えます。

まず、劉備ですが、地方の資産家と仲良くなるのが巧かったことで、
無一文で見知らぬ土地に飛び込んでも、行く先々ですぐに兵隊が集まったそうな。

これに因んで、

コイツが地方官の折、
督郵(自治体の監察官)を殴る話が正史に一度ならず出て来るのですが、
面会を拒否されて暴力に訴えるのが御約束につき、

賄賂を要求されたのではなく、
渡そうとして拒まれたのが実情ではないかと思います。

事の善悪はともかく、情実と汚職は表裏一体、という御話。

それはともかく、曹操が警戒したのは、

こういう、何度負けて部隊が四散しようが、
必ず劉備の支援者が現れてすぐに戦力を回復するという、

ゲリラ部隊の設立・運営に必要な
悪運が強く粘り強い類の資質だったのかもしれません。

 

2-2 訓練巧者は戦上手 ~名将・魏延

次に魏延について。

いつ劉備の軍に加わったのかは分かりませんが、
叩き上げの軍人として牙門(独立部隊)将軍に昇進した猛者。
王平もこの昇進経路です。

つまり、自らが率いる遊撃部隊の実力という訳です。

さらに、劉備が成都に入った際、
張飛を差し置いて対曹操の最前線の漢中太守・鎮遠将軍になり、

孔明の北伐では武官の随一の実力を誇っていた訳ですから、
相当な手練れには違いありません。

で、この人の得意技が、生来の勇猛さに加え、士卒の訓練でした。

一方で、奇抜な作戦を考え付く頭脳も持ち合わせる頭脳派であったものの、
性格が傲慢で周囲とよく揉めたことで、

単細胞な猪突型の武将というよりは、

戦国時代に出て来るような、
優秀ながらも特権意識が強くて扱いにくい軍人と似た臭い
少なからず感じます。

似たような人としては、姜維も恐らくこのタイプで、
性格は魏延よりはもう少し丸いものの、やはり訓練・用兵が巧みで面倒くさい人。

何故この人を取り上げたかと言いますと、
正史で部隊の訓練について書かれた箇所が少ないことが理由です。
当時の感覚としては、こういう募兵と訓練が一対なのが当たり前だったのでしょうが。

 

2-3 兵士の原隊と勢力への帰属意識 

     ~鐘会と鄧艾の場合

視点を変えると、兵隊の帰属意識も、
直系部隊の指揮官に対しては大きかったのではないかと想像します。

例えば、蜀を滅ぼした鐘会が出先の成都で司馬昭に対して反乱を起こすのですが、
兵隊の支持を得られず、逆に殺されます。

実は鐘会は、蜀への行軍の折、
諸葛緒(当時3万の部隊を指揮)のような有力な部下を失脚させて
その兵権を奪い取るというゲスなことを頻繁に行っていたのですが、

敵の数倍の兵力を擁しても剣閣を攻めあぐねる等、
肝心の軍才に恵まれなかったこともあってか、

書類上の兵権の掌握のような事務的な話だけでは、事は前に進みませんでした。

逆に、鐘会の部下である鄧艾の兵は、
鐘会の謀略(と鄧艾のヘマ)で逮捕された鄧艾を救い出そうと必死に動きました。

とはいえ、魏延の場合は、
孔明没後に撤退の命令違反を犯して後任の楊儀指揮下の本隊と対峙し、
楊儀の部隊の論客に陣頭でその非を詰られたことで部隊が崩壊するのですから、

所属勢力の力が強ければ、
兵隊の帰属意識の優先順位は、直属の指揮官よりも所属勢力の方が高い、
ということになりましょうが。

また、あまり問題にはならなかったものの、
蜀の鄧芝のように、
老いて定年を越えても引退せずに兵権を返さなかった人もいまして、

数多の識者が指摘するように、
官僚の私兵としての性格が強かったことは間違いないでしょう。

 

 

3、武功に先立つ募兵行脚

 

3-1、千・万の兵力の運用

続いて、募兵の過程について、
もう少し具体的に見てみることにします。

以下の表は、
魏書に記されていた曹操配下および盟友の募兵に関係する記述をまとめたものです。

 

表 曹操配下および盟友の募兵の状況

注1 『正史三国志』1~4巻(『魏書』)より作成。

 

注目すべきは、記録に残っているだけでもこれだけある点です。
したがって、日常的に行われていたと見るべきだと思います。

まず、一度に行う募兵の数ですが、
表にあるように、大体1000名程度であろうかと思います。

言い換えれば、指揮官ひとりが統率出来る兵力が大体1000名前後でして、

名のある将軍が統率するような1万といった規模の兵力になると、

恐らくその実態は、
指揮官の指ひとつで1万の兵隊が機敏に動くのではなく、
こういう1000名程度の指揮官の寄り合い所帯という制約の中で、
兵隊は動くのではなかろうかと想像します。

また、万単位の部隊の指揮官は、
日頃から誰がどの位の動員兵力を有するのかを大体は把握しており、

状況に応じて、何某に何名の動員を命ずる、
というような指示を出していたのではないかと思います。

 

その理由としては、以下。

時代が下って群雄の寡占化が進むと、

武将の兵集めの話がほとんどなくなり
部隊運用の規模も万単位で記されることが多くなるものの、

反対に、単独で1000名程度の部隊を運用する話も
チラホラ出て来るからです。

指揮官が集めたばかりの兵隊で
単独で陽動や別働等の作戦行動を行うと思われるケースです。

例えば、222年の孫権の江夏侵攻において、
治書侍御史の荀禹1000の兵で高地から狼煙を上げて退却させました。

因みにこの部隊は、
自ら募兵した兵と戦地に赴く際に通過した県で募った兵の混成部隊でしたが、
こういう部隊が222年の段階でも無数に存在したのでしょう。

 

また、あまり参考にならないかもしれませんが、

戦前の帝國陸軍の師団長(1、2万名の部隊の指揮官)の日記に多かったのが、
上位部隊および師団の内部での会議の話です。

後漢の時代に比べて遥かにインフラの進化した時代でさえ、
部隊の動きの調整のために多くの会議を開催しているのが実情。

無数の無名武将の千単位の募兵や単独での作戦行動と
万単位の兵力運用が同時進行していたのが、
三国鼎立後の募兵と用兵の実態であったと想像します。

 

 

3-2、五・十・百の兵力の運用 ~曹操の用兵マニュアル

一方で、兵隊の10名までの統率については、

自治制度として秦代から継承されている什伍制が
軍隊組織としても機能していたことで、
民間人を徴兵する際の最低限の社会基盤になっていたと想像します。

さらに、軍閥特有の事情としては、

曹操の場合は実戦経験が豊富で指揮官としての能力がズバ抜けていたことで、
100名単位の戦い方のマニュアルを作ることが出来た模様。

兵法書に脚注を付けるだけはあります。

具体的な内容としては、太鼓が鳴らされる数によって、
装備や戦列を整える、馬に乗る、進む、といった動きを決め、

実戦でこういう命令に逆らった奴は上官が片っ端から斬る、
あるいは鞭打ちにする、という内容です。

 

因みに、近代国家の軍隊の場合、
ひとりの指揮官が直接指揮可能な兵隊は200名程度。
つまり、1個中隊とのこと。

中隊という単位が非常に重要なのは、このためです。

さらに、ノモンハンの事例では、
交戦距離ゼロの白兵戦になると、
伍長ですら末端の兵隊を一々指揮出来なかったそうな。

この種の軍隊は、
三国時代よりも交戦距離が長く、隊列を組む時の兵士の間の歩幅が広く、
そのうえ複雑で激しい動きをすることで、
両者の比較はあまり用を為しませんが、

ここでは、人間の能力の一般論として、
ひとりの人間が直接指示を出して動かすことの出来る人間の数など
多寡が知れている、という点を強調したいと思います。

 

 

3-3、中央の政争の影響による募兵

さて、【表】で羅列した各部将の募兵について、
時期や事の性質を大雑把に分けると、大体以下の3つに区分出来ると思います。

 

1)何進の宦官討伐や董卓討伐といった中央の政局に影響された募兵。
2)曹操の戦争に伴う機動的な募兵。
3)辺境の地での騒乱に伴う募兵。

 

まず、1)ですが、
鮑信のような名士も、若き日の無名地方官の張遼のような武将も
兵集めに奔走していることで、

大半の当時の武将にとっては、
部隊の立ち上げに際しての通過儀礼だったのでしょう。

無論、張遼や楽進のように募兵から始めて部隊を立ち上げた人もいれば、

李典のように豪族出身で、
曹操の配下となった時点で既に多くの手勢を有していた者もいます。

その一方で、張楊のように、募兵の目的が消滅し、
集まった連中がそっくりそのまま山賊になるのも
国情がデタラメな中国らしいと言いますか。

 

 

3-4、地方政治の血生臭い現場 ~本日の主役・杜畿

続いて、2)。
曹操自体がほとんど死ぬまで従軍して戦い続けていた人ということもあり、
領内は日常的に募兵で忙しかった様子が垣間見えます。

笑えるのが張喜のケースでして、
赤壁の敗戦の後始末を、こういう投げ遣りな形でも行っていたのでしょう。

 

さて、ここで唐突に登場する杜畿という男。

無論、北斗の拳とそれに付随する怪しい拳法の話でもなければ、
中央の政局に深く絡む重要な話でもありません。

むしろ、その種のゴタゴタに振り回される類の話です。

また、この杜畿というヒト、
三国志のゲームの武将ファイルで言えば
無名の内政系の文官の話に過ぎないのですが、

そういう叩き上げの地方官の話だけに、

当時の募兵をめぐる地方の実情を垣間見る上では、
良い材料に成り得ると言いますか。

頃は、官渡の戦いが曹操の勝利に帰した時分のことです。

洛陽の北西、平陽郡の南に河東郡という郡がありまして、
この郡でのイザコザの御話。

杜畿という人がこの河東郡に太守として赴任するのですが、

その人となりは、
曹操が北方の守りのひとりとして見込んだ優秀な官僚です。

一方、この郡では、要人の衛固(杜畿と旧知)・范先が幅を利かせ、
袁紹の甥の高幹と内通していました。

そして、橋を落として杜機の赴任を遅らせたり、
郡内で主簿以下の役人を30名も殺して脅したりして更迭を企てるのですが、
杜畿の方が一枚上手で、まるで意に介しません。

それどころか、募兵を手際よくこなして、
范先・衛固よりも人心を得るようになります。

 

 

3-5、募兵システムと幽霊部隊

さて、ここの重要なのは、その募兵。

当時のシステムは、
募兵の担当者が人数を申告して上役から資金を受け取るという方法でしたが、

担当者が人数を過大に報告して中抜きをするので、
マトモにやれば、兵隊が思うように集まらないのが常でした。

 

—そう、俗に言う「幽霊部隊」。

 

こういうのは時代が下って国民党政権下ですら横行していまして、
最近の報道では、アフガンでも頻発してアメリカの頭痛の種だそうな。

要は、時代を問わず、誰でも考え付くような小賢しい汚職です。

そこで、杜畿は、
将校や官吏に頻繁に休暇をやるなどして時間を掛けて集め、
一方で人心掌握にもつとめたことで、
高幹に攻められる前に4000の兵力を準備することが出来ました。

余談ながら、この杜畿の孫が仲達の娘婿の杜預。
晋の総司令官として呉を攻め、三国時代に終止符を打った大物です。

 

さて、杜畿は将校や官吏は人情として自分の家ことが気に掛かると言いまして、
もう少し露骨に言えば、職務の傍ら、
地元で色々な副業をやっていたのでしょう。

兵役に関係する仕事を強いられることで、商売に差し障る、ということなのでしょう。

そして、こういう土地の実情に即してその利害を犯さないように兵隊を集めれば、
結構な兵隊が集まる、という、当時の世の中の仕組みが垣間見えます。

逆に、曹操が揚州で募兵に失敗したのは、
権力基盤が弱い状態で、
こういう論理を無視して州外に兵隊を連れ出すことを目論んだからかもしれません。

 

 

3-6、正規軍の供給元としての流民と盗賊~青州兵・東州兵

これに因んで、曹操配下の青州兵、劉焉配下の東州兵というのがいますが、

この部隊は、曹操や劉焉が、行き場のない兵隊の足元を見て、
直属の兵として抱え込んだ兵隊—つまり、君主の言うことを聞く兵隊です。

 

当時は曹操も劉焉も、騒乱の最中に兵力不足に悩まされていまして、
曹操の場合は黄巾賊残党の投降兵、劉焉の場合は長安からの移民を得、
これを兵隊に再編した訳です。

青州や長安の出身だから強兵であった、という訳ではないと思います。

 

そして、こういう兵隊を自勢力に積極的に組み込んだ背景としては、

曹操の場合は黄河流域で寡兵を以って山賊の戦いに明け暮れていたことで、
(追記:先に官渡の戦いの後、と書きましたが、これは誤りです。)

劉焉の場合は、
占いと言うかカルト儒教というか
讖緯思想で天子になれると吹き込まれて落下傘で益州に入り、
地元の豪族と権謀術数の限りを尽くして熾烈な争いを行う最中という具合で、

自分に忠実な兵隊がひとりでも多く欲しかったのです。

 

その結果、当初はこの種の兵隊が自軍に占める割合が非常に高かったことで、
狼藉を働いても曹操も劉焉も強く咎めることは出来ませんでした。

東州兵は言うに及ばず、
規則にやかましい曹操ですら青州兵の狼藉を収拾出来なかったことで、
余程ツケ上がって軍規を乱していたのでしょう。

 

 

3-7、リアル敦煌、西遊記~無法地帯の募兵

話を【表】に戻します。3)辺境の地での騒乱に伴う募兵。

「中心」が好きな連中のことで、
こういう話を馬鹿にしている部分もあるのでしょう。

私の世見落としであったら恐縮ですが、
陳寿も裴松之も、正確な年号すら書いていません。

陳寿にとっては、同じ田舎でも、
蜀と敦煌とでは存在価値が天と地程に異なるのでしょう。

ただ、地域自体が甚だしく荒れていて、
情報が錯綜していた可能性があるのもひとつの側面かもしれません。

事実、王朝自体がハチャメチャな世の中、辺境の地が安定している訳はなく、

特に、敦煌界隈なんか、異民族の大部隊が出没して中央との連絡が断たれたり、
郡によってはン十年も太守不在だったりと、フロンティアそのものの様相。

その意味では、1000年もズレがあるとはいえ、
まさに、井上靖の『敦煌』そのものの世界です。

かなり古い映画ですが、
甲冑姿で「リゲンコー!」と叫んで得物をブン回す西田敏行のようなのが、
三国時代の西域にもいっぱいいます。

余談ながらあの映画、
ウイグルと西夏の野戦は必見の価値があると思いますが、

それはともかく、

あの土地の募兵については、
やっていることが中原の危険地帯と変わらなかったりしまして、
この辺りが面白いと言いますか。

アウトローの跋扈する土地の事情は、
万国共通とでも言いますか。

さて、西域や辺境のゴタゴタの大体の構図として、
王朝側に組するにしても、勝手に太守を名乗って反乱を起こすにしても、
中原の曹操の軍隊なんか辺境の地には中々現れないものですが、

それでも太守と豪族がその動向を注視しながら、

場合によっては異民族を巻き込みつつ、
基本は自力救済で兵隊を集めて抗争を行う訳です。

で、やはり、募兵の単位は1000程度。

異民族の動員力も、中原程ではありません。
1万騎を切る程度の話が多いです。

後日、詳しく調べたいと思いますが、
人口の制約があるのでしょう。

また、ここで名を為して中央で認められる地方官も少なからずいるのですが、
例えば張既等、寒門出身で荒事に慣れた人が多いような印象を受けます。

 

 

おわりに ~募兵の話の整理

そろそろ、結論を導くこととします。

まず、魏の募兵の仕組みとして、

「尉」の職階を持った武将が、赴任先の自治体や縁故を頼って兵を集め、
集めた兵隊を自分の兵学で訓練します。
兵力の規模は、大体1000名程度。

詳細な編成単位は恐らく学んだ兵法によって異なることで、
漢の朝廷は、職階だけ定めて兵の管理にまでは口を出しません。

もっとも、近衛部隊のように、
各校尉ごとに700名の定員を定めているケースもありますが、
これは例外だと思います。

ところが、いざ、地方で兵隊集めにかかろうとすると、
現地の役人が腐っていて経費を中抜きする奴が多く、
集める人間が人心を得ていないことには巧く行きません。

また、正史には、若い頃に募兵に従事していた武将がエラくなった後、
次の世代の武将が何をやったかについては記録がないのですが、

1000名前後の部隊が動く話が少なからず出て来るところを見ると、
万単位の大部隊の運用と、千単位の募兵が、
同時進行していたのではないかと推察します。

一方で、兵力不足の解消策として、山賊や移民・流民等、
行き場のない人間を兵隊に組み込むという選択肢もあります。

戦地となった地域では食糧が高騰し、必ず大量の流民が発生します。
時代の副産物でもあります。

さらには、本文には書いていませんが、
辺境の異民族を組み込むケースもあります。
魏もそうですが、特に呉は、辺境での人さらいが国家公認の稼業でした。

 

 

【主要参考文献】

陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』1~5巻
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
『知識ゼロからのCGで読む三国志の戦い』
『三国志 運命の十二大決戦』
『三國志研究入門』(三国志学会監修)
堀敏一『曹操』
古川 隆久・鈴木淳・劉傑編著『第百一師団長日誌』
金文京『中国の歴史 04』
川勝義雄『魏晋南北朝』

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