戦国時代の部隊編成

はじめに ~減少する定員

まず、簡単に春秋時代の部隊編成のおさらいをします。

戦争は野戦の戦車戦が中心であったことで、
大本となる周の制度では、最小単位「伍」・5名、そして、次に小さい編成単位は「卒」・100名。
そして覇権を握った斉の制度では、

最小単位「伍」・5名、次に「小戎」・50名、さらに卒・「200」名。
この「卒」という編成単位は、

また、周の「卒」や斉の「戎」は、
戦車1台とそれに付随する歩兵で構成される「乗」という単位に
対応すると思われます。

 

1、大量動員時代の戦争の風景

ところが、孫武・伍子胥の呉が農民歩兵の大量動員を始め、
他国がこれに倣うと、戦争の風景は一変します。

平地の戦いでは密集隊形の歩兵が出現し、

また、平地だけでなく丘陵・森林地帯等の広汎な地形で戦争が行われ、
奇襲・伏兵、何でも御座れの騙し合いになります。

この戦争のノウハウ本が、『孫子』や『六韜』等。

また作戦区域の急拡大により、守る側も国中を城郭だらけにしたことで、
その争奪戦が主になります。

それまでの堅苦しく古めかしい戦争の流儀も、
互いにそれを遵守することで、

国家レベルでは軍縮になり得
将兵の目線では戦地では命が助かる等して
互恵的な関係の維持に役立っていた訳ですが、

各国が互いに禁断の果実を舐めたことで、後には退けなくなります。

 

2、食客は凄腕の軍事顧問様

さて、そういう世相の中で、斉は兵制改革を行うのですが、
その担当者・司馬(嬀)穰苴のモデル・ケース。

遅刻した上官を処刑したり、統帥権を盾に王様の命令をゴネたりして、
有名になった人です。

自分の言うことを聞かない王様の側室を斬った孫武といい、
良くも悪くも、後世の所謂「意識高い系」の軍人が好きそうな人ではないかなあと。

当時の大国には、小国の統廃合によって、
即戦力となる亡命貴族が大勢集まるのですが、
大国はこういう所謂「食客」を使い捨てにして勢力を拡大します。

そう、「士は己を知る者の為に死す」は、
まさに、こういう尻に火が付いた状況下での食客の心情を吐露した名言。

とはいえ、この「食客」の層の厚味は、中々面白いものです。

戦闘部隊の立ち上げや指揮、徴税や法令関係の決裁、各種外交交渉、
といった国家の統治にかかわる実務のみならず、斬り合い・モノマネと多士済々でして、

後世ではむしろ、後者の異能ぶりの方が有名になっている感が無きにしもあらず。

で、こうして再就職した「食客」は、ひとかどの仕事をしようとすれば、
必ず身分が足枷になる訳でして、
有能で勝気な人程、古株の貴族と揉めるリスクを取って荒療治を行います。

その典型が、孫武や司馬穰苴。

 

3、戦国時代の編成単位と後世への影響

 

【表3】

さて、本題の編成単位の話に戻ります。

やはり、注目すべきは、100名以下の小規模な編制単位だと思います。
烈・5名、火・10名、隊・50名、官・100名と、
5名単位、10名単位の組織が整備されている訳です。

因みに、隊や官といった名詞は、恐らくここから来ているのかと思いました。
加えて、文字の由来が分かりにくいところから、古い制度なのかしらと想像します。

分かりにくい序(ついで)に、
「部」・「曲」は、後の世の三国時代の有象無象の私兵集団を指す言葉でもあり、
良くも悪くも、色々な意味で、後世への影響の大きさが垣間見えます。

余談ながら、ネットで、それも分かり易い活字で「通典」が読めるのですから、
いい時代になったものだと思いますが、
私のアヤフヤな理解で、ヘンな解釈になっていることを予め御断り申し上げます。

 

4、受爵制度と連動する部隊編成

次に掲載する【表4】は、最終的に覇者となった秦の二十爵の制度。

前359年に有名な商鞅が行った政策です。

当時問題になっていた貴族の世襲の存在を否定し、
軍功爵体制を図ったことが主眼にあったそうな。

当然、貴族の反発を受け、政争に敗れた商鞅は刑死するのですが、
制度は残ります。

『キングダム』の幼少期に赤貧を洗った政の話も、
多分こういう改革が背景にあるのでしょう。

【表4】

残念ながら、これは貴族の受爵の制度につき、士大夫・卿はあっても、
中国文明下の下層の身分である「庶」の部分がありません。

したがって、50名未満の小規模編成の実態は筆者の浅学で分かりかねます。

ただ、この国が各国の制度改革の上澄みの部分を取捨選択して富国強兵を図ったことで、
庶と軍事に関する制度は必ずあると思います。

【追記】
商鞅が先述の二十爵と連動させる形で前359年に始めた什伍制というものがあり、
これが生産と軍事で連動していることで5名・10名の単位は説明が付きます。

民を5戸単位と10戸に分け、各々の単位で刑罰の連座制を取るという仕組み。

これが軍事の編成単位として横滑りするということは、
1戸につき1名徴兵するという想定なのでしょう。

また、11以上の級は、俸給も兵権も「客卿」と同じにつき、省略しました。
後述しますが、このような少ない兵権も重要な点のひとつかもしれません。

さて、ここで注目すべきは、貴族の受爵制度と兵権が連動している点です。

どこの国のゴタゴタもそうだと思いますが、
特に秦の場合は、食客がよく働き国力も増強されたことで、

真面目に仕事をして勢力の拡張を図りたい食客と
既得権益の温存を図りたい旧貴族との政争が
シャレにならないレベルに発展しており、

それを調整する仕組みが不可欠になったのでしょう。

また一方で、先の記事で取り上げた、斉の「三国五鄙の制」とは違い、
行政と軍事が乖離している点も垣間見えます。

600家分の税金が俸給、というのは、
恐らく、大国の有力な家臣が持つ政治的な影響力を考えれば、
それだけの権勢で領地を直轄して得られる財貨にしては少ないと考えられます。

つまり、この制度からは、同じ君主の臣下でも、

春秋時代のような、自分の土地では何でも屋である小領主の連合体ではなく、
軍事なり行政なりに特化した官僚という存在が浮かび上がる訳です。

物の本によっては、こういう歩兵の大量動員と集権化の段階で、
身分制度上の貴族は一旦消滅した(後漢~晋の過渡期に復活)と説くものもあります。

 

5、少ない兵権と、何とも多い最大動員兵力

そして、こういう「官僚国家」めいた秦の指揮官の兵権についてですが、
驚くべきことに、最大でも1000名。

後の世のように、臨時の将軍職でもあるのかもしれませんが、
それでも、平時のシステマティックなものにしては少ない気がします。

特に、秦が楚を滅ぼす時の戦争など、公称60万もの軍隊を動員しています。

さらに、秦だけかと言えば、先述の司馬穰苴の斉にしても、
「将軍」職で3200名。

このような脆弱な組織体系で、史書にあるような数十万の軍隊をどう動かすのか、
個人的には不思議でなりません。

因みに、戦前の帝國陸軍は、
太平洋戦争直前の段階で大陸に100万の兵力を送っていましたが、
戦時の師団は大体2万程度の兵力です。
さらに、師団の下には、指揮下の歩兵を二分する
「旅団」という組織もあります。

周代の「旅」が語源なのでしょうが。

さらに、戦時の上位組織として、いくつかの軍に分けていました。
当時の各国の実情も、これとあまり変わりません。

帝國陸軍の話は参考程度にしても、

春秋時代の周代の制度と戦国時代の斉や秦の制度を比較した際、
小部隊の編成単位が整備されている反面
大部隊の編制単位の整備が等閑になっているところを見ると、

平時の最大組織と公称の最大動員兵力の乖離が
どれ程大きいかを示唆していると思います。

もっとも、幕僚組織めいたものがあったのかもしれませんが、
それでも、一人の優秀な将軍が数百名もの指揮官に逐一指示を出したのか、

若しくは、何十万の人数を動かすための組織力として、
軍隊とは異なる上位組織や貴族の人脈で動いていたのか。

軍事は元より、もう少し広い視野(政治史等)で見るべく、
通史等をいくつか紐説いても、どうも納得出来る応えが見つかりません。

 

7、実は、動員兵力は、

一桁もサバを読むハッタリだった?!

ですが、前後の時代の実情を考えれば、
思い当たるフシが無い訳でもありません。

愚見を開陳すれば、答えは、そもそも実数は一桁小さいのではないかと思います。

つまり、周の時代の制度に基づく最大動員数が、
存外いい線いっていた、という御話。

どの本を読んでも、数十万の兵力が、と書いてあるので、
中々こういうことを考え付かなかったのですが、

こういうのが的外れであれば、笑って下さい。

確かに、社会を狂わせるレベルの歩兵の大量動員はあったと思いますが、
兵力が一桁増える程ではなかった、ということなのでしょう。

逆に言えば、
周の時代には乗もしくは卒の定員100名に対して極めて充足率は極めて低く、
さらには、時代が下って春秋時代の斉の三国五鄙の制の50名は、
恐らく実数に近かったと思われます。

そして、戦国時代には、多くても周の時代の3倍程度であったと邪推しますが、
その程度でも戦争をやる側にとっては銃後も含めて大きい負担であり、

戦争に勝つためには、
前線での戦法どころか兵力・物資の動員体制まで変えざるを得なかった、という御話。

 

8、小部隊が活躍する大開発時代の戦争

戦国の七雄共の兵力の鯖読みの根拠として説得力のあるのは、
恐らくこの時代より500年弱後の後漢末期の御話。

秦が滅亡した後の漢は、大規模の外征をやって財政は逼迫したものの、
国内では、前漢の滅亡時の内乱以外は目立った内乱がなく、

経済的には生産力が大幅に向上した大開発時代でした。

ところが、その戦国時代に比して増強された生産力を前提にした
三国時代の戦争でさえ、

演義では100万だとか物々しい数字が出て来るものの、

戦国の七雄以上の支配地域を有する勢力が、
国運を賭けて国力を総動員して行った「官渡の戦い」や「夷陵の戦い」等の
大きな戦役ですら、

大抵は、双方合わせても20万の兵力にも満たないのが実相の模様。

さらに、その三国時代の正史を読むと、

編成単位と兵数の話を整理した場合、

先鋒や陽動といった単独で作戦を預かる支隊、
他勢力に離反する部隊、
挙兵に際に君主に合流する部隊等の兵力が、

大半は200名~3000名以下、という話が非常に多いのです。

しかも、その中でも1000名前後かそれ以下、というケースが大半。

これが意味するところが、
ひとりの指揮官が単独で作戦行動を行う場合、

当時の戦闘のノウハウやインフラ事情からすれば、
これ位の人数が適正であったことを示唆していると思われます。

そして、戦時の大部隊の実態は、
平時の小規模な部隊の連合体ではなかったのかと推測します。

つまり、派遣兵力が何万という単位になると、

指揮下の部隊も、自分の息の掛かった直系部隊だけではなく、
さらにはその規模の兵力に見合った指揮官なり組織体系がないことで、

兵力の規模が逆にアダになり、
寄り合い所帯と化し、効率的な動きが難しかった、
ということなのでしょう。

―三国時代のこの辺りの話については、後日、別の記事を書く予定です。

また、どの時代にも通ずる調べ事の原則としても、

こういう事務的な話は、人の耳目をひく大言壮語の逸話の類とは異なり、
登場する回数が多いことで真実味を増します。

例えば、江戸時代の法令等、
贅沢・殺生・喧嘩沙汰といった類の禁止令が何度も出ていれば、
違反者が多かったのが実情だと解釈する訳です。

こういうロジックにつき、

個人的に、部隊の末端の編成単位にこだわったのは、
戦闘の実相が知りたかったのが最大の理由ですが、
要は、こういうヘンな仮説を立てるに至った点にもあります。

【追記】

『尉繚子』に記された単位編成も掲載します。

下記のようになりますが、漢代の部隊編成と内容が近いことから、
成立年代はかなり新しいのかなあと思います。

 

余談ながら、『六韜』といい『尉繚子』といい、
執筆の経緯が怪しかったり成立年代が不明なところを見ると、

中国では、当時から、
思想関係の書物以外の
こういうハウツー本の価値が低かったのかなあと邪推します。

なお、特に漢代以降は、
読書とは、儒教関係の本を読むことを意味したのだそうな。

つまり、今日で言えば、
『キングダム』も『ナミヤ雑貨店の奇蹟』も本のうちには入らない訳で、

さらには、西洋の本なんか禁書扱いでコピーが出回るという位で、

そりゃ、19世紀に現体制に嫌気が指して洪秀全が兵乱を起こした時も、

少しばかりキリスト教をかじった程度では、
新政権の枠組みが王朝しか思い付かなかったのも分かる気がします。

因みに、もう少し秦の軍隊について詳しく知りたい方は、
以下の記事を御覧頂ければ幸いです。

解剖?!戦国・秦の軍隊

【主要参考文献】
高木智見『孔子 我、戦えば則ち克つ』
貝塚茂樹 伊藤道治『古代中国』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
浅野裕一『孫子』
西嶋定生『秦漢帝国』
川勝義雄『魏晋南北朝』
宮崎市定『中国史(上)』
飯尾秀幸『中国史のなかの家族』
堀敏一『曹操』
陳寿・裴松之注・井波律子訳『正史三国志5』
金文京『中国の歴史4』
岡本隆司『中国の論理』

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色々ブッ飛んでいる戦国時代

はじめに

戦国時代の部隊編成の話に入る前に、
この時代のアウトラインについて書きます。

何故、これをやるかと言いますと、
識者の方の御意見によれば、中国史上でも社会変革が極めて大きかった時代だからです。

特に、戦争については、
この時代に歩兵中心の大部隊の運用、大量の攻城兵器投入による大規模城郭の攻略が主体、
という骨格が定まり、

以降、ある程度の兵器の改良はあったものの、

この枠組みが、火砲の登場する明代まで継続します。

 

1、辺境国・呉の兵制改革とその背景

春秋時代の戦争は、平地での少数精鋭の貴族による戦車戦が主体でしたが、
こうした構図が一変するのは、その終わり頃の前500年前後ことです。

呉という辺境の国が、平民の大量動員と歩兵主体の巧みな部隊運用を行い、
これによって急速に勢力を拡張しまして、
中原の国々がこれをこぞって模倣し始めました。

この背景には、以下のふたつが挙げられます。

 

1、呉自体が当時の感覚で言うところの、
中原の文明や中華思想の範囲外・適用外の所謂「異民族」の支配地域であり、
卿・大夫・士に象徴されるような
他国と価値観を共有出来る貴族社会が存在しなかったこと。

2、国土の地形自体が山岳・河川・森林地帯が多く、
戦車の運用に適していなかったこと。

 

因みに、「南船北馬」は各地を忙しく駆け回ることを意味する言葉ですが、
戦争はおろか、交通手段やカンフーの流儀等の南北の違いも示唆しています。

そして呉は、こういう特異性を活かし、

中原から腕利きの軍事顧問を招聘し、工作員を使って質の良い情報を集め、
緻密な作戦計画を練った上で、隣国の大国・楚を蹂躙するのですが、
その立役者となった軍事顧問こそが、有名な孫武と伍子胥。

辺境の地でこそ、
中央でくすぶっていた潜在能力のある人材や技術が活気付くという構図は、

中原での政治・兵制の改革の波が最後に波及した(同じく辺境の後進国の)秦が
一番新しいものを吸収したという皮肉を彷彿とさせます。

 

2、戦争の総力戦化

さて、この呉の大立ち回りの結果、戦争の質が劇的に変化しまして、
中国の戦争は、モラルのある制限戦争から、
情報戦や戦時体制の構築も含めた総力戦の時代に突入しました。

その意味では、『孫子』の革新性は、

本屋さんや(私も大好きな)ゲーム・メーカーが喜びそうな、
今日に通ずるような人を騙すための普遍的なノウハウを提示した、というよりは、

それまでの一定の秩序のある制限戦争と差別化を図る前提で、
仁義なき総力戦のノウハウを説いたことにありそうです。

誤解を恐れずに言えば、
事の善悪はともかく、弱小国が核を持って実際に撃ったのが呉。

ところが現在と異なるのは、

楚が「核」なるものの炎で丸焼けになった城下の誓いの憂き目を見るまで、
呉や一部の専門家以外はその有用性を理解していなかった、ということです。

そして、こういう戦争の流儀が各国のスタンダードになるや、

それまでは、長くても1ヶ月を切るような野戦の短期決戦が中心であったのが、

巨大な城郭を夥しい数の攻城兵器で何年も掛けて攻略する
土木工事めいた攻城戦・籠城戦が主体になりました。

当然、銃後も巻き添えを喰う訳で、

例えば、領内の壮丁が兵士として大量に駆り出されることで、
隊列を組んで凄惨な白兵戦を展開する一方で、後方の田畑は荒れますし、

城に籠る側も安全という訳ではなく、

籠城戦が長引くのが常態化する中で、
自分の妻子を隣家と取り換え、互いに食用の肉にするような悲惨な故事も、
こういう極限状況に起因します。

その結果、中原は、春秋時代には国の数が大小200以上あったのに対し、

戦国時代には大幅な淘汰が進み、
こういう桁違いの規模の消耗戦を戦える強国の寡占状態となります。

 

3、総力戦のもたらす社会の変容

戦争の在り様は、社会の様相も一変させます。

まず、戦争の総力戦化の過程で、

勝つ側の国王は、
他国の勢力を自分の勢力に組み込む形で、
自国内における自らの影響力の強化を図ります。

そしてこの時代、国境が消えることは、
同時に経済活動の活発化と富の集中をも意味しました。

その結果、広大な土地を所有し、広い交易圏で活動する大商人も現れるようになりました。
始皇帝のパトロンである呂不韋も、こういう文脈で登場した富商です。

その一方で、血縁・地縁・祖先崇拝でつながっていた
旧小国の地域的な人間関係・社会関係は崩壊し、

この間隙を縫うかたちで「俠」という人間本位の社会関係を結ぶ動きも現れます。

また、社会の在り方が激変したのに対して、
学問の在り方も影響を受けた訳でして、世に言う諸子百家。

学者連中も、世の中を変えた戦争を哲学的にとらえようとして、
長きにわたり活発な議論を展開します。

無論、その中には、実学として重宝されたものもありまして、
例えば、孫子・呉子等の兵家、平和を説きながら籠城戦では無類の強さを誇った墨家、
儒家の鬼子の法家等。

儒家の場合は、失業軍人の孔子が身分を問わず人間修養を説いたのですが、

面白いことに、弟子の出来が良かったことで、
世の中が平和になってから国教として2000年の我が世の春を謳歌しました。

もっとも、その一方で、
軍隊を軽視する風潮を作り、国軍の弱体化につながった面も見過ごせませんが。

 

4、王朝時代への胎動

三国時代が好きな方は、思い当たるところがあろうかと思いますが、

面白いことに、
戦争によって、国家が貴族の権力基盤を侵食し集権化を進め、
その延長で王朝国家の骨組みが整えられていく過程で、

土地の集積や「俠」の概念等、
漢代以降の王朝国家の支配を揺るがしかねない火種も同時に燻ぶり始めていた訳です。

土地の集積は、貧農の増加による社会不安につながりますし、

「俠」の概念は、今日でいうところの(非合法も含む)職業団体や地域等、
横のつながりを多く作ることで、
事を起こす際に、これに加担する人の数が桁外れになる危険性があります。

 

皮肉なことに、こういう戦争を始めた呉は、
当初は隆盛を誇ったものの、その勢いは続かず、100年で馬群に沈みました。

そして、孫武らの始めた戦争は、
自らの説いた速戦即結どころか、ぼくらの300年戦争の幕開けに過ぎなかったのです。

 

【主要参考文献】

高木智見『孔子 我、戦えば則ち克つ』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
浅野裕一『孫子』
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』
西嶋定生『秦漢帝国』

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春秋時代の部隊の編制単位

春秋時代(前770~403)の周王朝の天子および諸侯の軍隊の編成単位は以下。
色々なサイトでも触れられていますが、一応確認しておきます。

1、規模を意味する「軍」と戦車の単位を示す「乗」

さらに、当時の戦争は平地における戦車戦が主体。
そこで、特に春秋時代には、
「乗(じょう)」という単位が表中の編成単位とは別に使用されました。

では、どういう単位かと言いますと、まず、定員は、一乗:30~100名。
卒長クラスがこの単位の隊長に相当すると思われます。

『論語』で孔子の弟子の子路が、
「戦車を千乗出せる国であれば」というような話をするのですが、

1乗30名と考えても3万の兵力を動員出来る国ということで、
こういう国は、諸侯の中でもかなり上位の部類の国を意味します。

また、軍隊そのものを意味する「三軍」という言葉は、
ここでいう軍の数=規模の話ではなく、

縦隊で行軍する時の、上軍(先鋒)・中軍(本隊)・下軍(後衛)の隊形のことで、
歩兵の大量動員という禁じ手を犯した孫武の『孫子』の概念です。

例えば、出先の軍隊を統率する将軍が、統帥権を盾に君命を無視して居直る時などに、
ちょくちょく、こういうシャレた言葉が登場します。

 

2、「一乗」の内訳

そして、その内訳は、戦車の搭乗員である「甲士」と、これに付随する歩兵・補給要因。

戦車1台には3名の甲士—完全武装した搭乗員が乗り込み、
これに付随する歩兵は最大で72名。

戦車は漢代の前半まで野戦部隊の主力ですが、

春秋時代の終わり頃に各国で歩兵の大量動員が始まることで
歩兵の数は時代が下る程増えます。

また、補給要員は25名で、これに輸送車1台が付きます。

序に、最小単位の「伍」という単位についても触れておきます。
旧軍の12名の分隊長の「伍長」の語源だと思います。

発掘された前5世紀の盥(たらい)に書かれた戦争の影絵によれば、

文字通り、「伍」は5名の編成単位で、内訳は、2名が戟(十字の矛)、2名が弓。
戟で相手を引き寄せて髪を掴み、剣で止めを刺します。

隊長の伍長は戟と弓の双方を持ち、部下を指揮しながら、状況に応じて弓か戟で参戦。

 

3、「乗」の構成員

3-1 戦車戦は貴族同士の殺し合い

続いて、構成員の属性について触れます。

まず、甲士は当然貴族ですが、

当時の戦争は、後の時代とは異なり、
諸侯だろうが小領主だろうが、身分の高い者が率先して突撃を掛け、
陣頭指揮で敵の戦車と斬り結ぶのが流儀につき、

独ソ戦のタンク・デサントの随伴歩兵とは趣を異にします。

戦車長に当たる車左が、左側に乗り込み、弓や弩を構えて指揮することで、
車左を正面に向けないために、左旋回が鉄則でした。

もっとも、時代が下ると共に、
こういうルールはいい加減になっていったようですが。

 

3-2 戦車長・孔丘

恐らく、司馬遼太郎が戦車兵だったことよりも真に迫る逸話ですが、

儒学の祖・孔子は、学者どころか当時の花形の戦士様で、
戦車の操縦と弓の名手でした。

さらに孔子は元より、その弟子の何名かもこういう貴族≒戦士階層の出身であり、
戦車戦を得意としておりました。

で、偉大な孔子様は、
衛で就活した際に、霊公に戦陣=歩兵の集団戦に詳しいか、と聞かれて、
機甲科につき、普通科のことは分かりません、と、答え、
御祈りメールをもらう前に、衛を後にします。

岩波本の解説によれば、孔子は霊公の好戦性を嫌ったようで、

事実、この王様の策士策に溺れるデタラメで、当人の没後間もなく、
衛は御家騒動で滅亡します。

ただ、その一方で、方々の文献から判断するに、

当人は、単なる平和主義者でもければ、
戦列歩兵の登場によって戦車の乗り手としての
貴族の地位が下がるのを恐れるという了見の狭い話でもなく、

戦士・行政官僚としての経験から、

平民歩兵の大量動員が、勝敗如何にかかわらず、
どれ程戦禍を大きく広げ、国の経済に重い負担を掛けるかを、
よく弁えていたように思います。

因みに、当時、子路は兵隊ひとりを育てるのに7年かかると言ってまして、
大体その頃に歩兵の大量動員が始まり、質が劣悪になりました。

参考までに、帝國陸軍の兵役は、当初は3年で、後に2年。
それでも、試験で体格の良い者を選抜した精鋭です。

古代中国の実情と単純な比較は出来ませんが、

自国で戦争をやると兵隊は逃げるとか、孫武の兵書は、
7年もかけて育てる精鋭の用兵を想定しているようには到底思えません。

 

3-3 歩兵の出自

次いで、脇を固める歩兵。

これが細部がよく分からないのですが、
一般には農村や都市で掻き集めた兵隊と言われています。

しかしながら、日頃から軍事訓練を欠かさない、
共同体(国や領地)の軍事力の中核を担う社会階層も含まれていたと思います。

因みに、当時は武芸、殊に弓の修練は、
(今日の感覚でいう)学問や組織の昇進試験の一部でした。

「兵匪一体」に象徴されるような後の世に比して
武芸と学問の領域がかなり重複している時代だったのです。

したがって、孔子は頭デッカチではなく文武両道で、
これが当時の優秀な人間の花形。

そして、後の世の儒者が、儒教の国教化だの色々あって、
点取り虫で戦争嫌いの頭デッカチになったということになります。

その癖、兵権を欲しがる煩わしさ。
孔明や司馬仲達のことです。

 

3-4 電信柱に花を咲かせない補給要員

さて、最後に補給要員ですが、
こういう部隊こそ、徴募の数合わせの集団ではないかと思います。

その理由として、当時の戦争では、
老兵や幼兵、負傷兵、態勢の整わない敵には手に掛けないのも流儀でして、
実は、こういうマナーこそが、孔子の説いた儒教の母胎でした。

戦時下という極限状態の中での倫理が儒教を生んだ訳です。

一方で、皮肉にも、この思想が発展してあの国の軍事力を腐らせるのですが、
その話はまた別の機会に。

こういう事情につき、全部が全部でもないかもしれませんが、
基本的には、マトモな戦闘部隊と見なされていたようには思えません。

 

4、大国・斉の統治制度(追記)

また、この時代は、大小200余りの国があったことで、
当然ながら、国の規模によって統治の方法も変わって来ます。

下記の【表2】は、斉の三国五鄙の制。

孔子も孔明も褒める管仲が、桓公に献策したとされる政策で、

簡単に言えば、領内をいくつかの地域に区分し、
この行政区域と軍事組織を連動させる制度です。

 

 

具体的な内容について触れます。
斉の国内を、まず、1、首都と2、郊外に区分します。

1、首都の地域には、貴族の領地と商工業者の領地があり、
これらを3つの「国」という単位に分け、
それぞれの編成単位ごとに、軍事・行政を兼ねる責任者を置きます。

余談ながら、「国」という言葉が、この段階では、
必ずしも支配地域全体を意味しない時代であったことを知った次第です。

2、郊外の地域は、首都周辺の地域と、東西南北の4つの地域に区分され、
この5つの地域を「鄙」という単位とし、
首都周辺の地域は、斉王の直轄地。
なお、この「鄙」の地域には、兵役は存在しません。

また、軍隊の編成単位、特に、
現代の軍隊でいうところの中隊以下の小規模のところが
注目に値すると思います。

まだ前650年前後の段階では、
「伍」・5名の次に小さい編成単位が「小戎」・50名。
しかも、その次の編成単位は「卒」・200名。

周の制度では100名であった単位が、さらに100名増えています。

盛んに戦車戦が行われていた時代背景を考えると、
1乗当たりの歩兵は100名も要らないという程度の話だと思われます。

要は、首都に色々な機能を集中させて、
郊外の地域を生産に専念させる制度で、
軍事面で言えば、部隊運用の効率化を図った、といったところか。

後の世との絡みで言えば、
小国の諸侯が軍事・政治の何でも屋であった時代において、
大国の実情に見合う政策の担い手の分業化の嚆矢になった制度なのでしょう。

【主要参考文献】

高木智見『孔子 我、戦えば則ち克つ』
貝塚茂樹伊藤道治『古代中国』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
金谷治 訳注『論語』
浅野裕一『孫子』
澁谷由里『〈軍〉の中国史』

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