色々ブッ飛んでいる戦国時代

はじめに

戦国時代の部隊編成の話に入る前に、
この時代のアウトラインについて書きます。

何故、これをやるかと言いますと、
識者の方の御意見によれば、中国史上でも社会変革が極めて大きかった時代だからです。

特に、戦争については、
この時代に歩兵中心の大部隊の運用、大量の攻城兵器投入による大規模城郭の攻略が主体、
という骨格が定まり、

以降、ある程度の兵器の改良はあったものの、

この枠組みが、火砲の登場する明代まで継続します。

 

1、辺境国・呉の兵制改革とその背景

春秋時代の戦争は、平地での少数精鋭の貴族による戦車戦が主体でしたが、
こうした構図が一変するのは、その終わり頃の前500年前後ことです。

呉という辺境の国が、平民の大量動員と歩兵主体の巧みな部隊運用を行い、
これによって急速に勢力を拡張しまして、
中原の国々がこれをこぞって模倣し始めました。

この背景には、以下のふたつが挙げられます。

 

1、呉自体が当時の感覚で言うところの、
中原の文明や中華思想の範囲外・適用外の所謂「異民族」の支配地域であり、
卿・大夫・士に象徴されるような
他国と価値観を共有出来る貴族社会が存在しなかったこと。

2、国土の地形自体が山岳・河川・森林地帯が多く、
戦車の運用に適していなかったこと。

 

因みに、「南船北馬」は各地を忙しく駆け回ることを意味する言葉ですが、
戦争はおろか、交通手段やカンフーの流儀等の南北の違いも示唆しています。

そして呉は、こういう特異性を活かし、

中原から腕利きの軍事顧問を招聘し、工作員を使って質の良い情報を集め、
緻密な作戦計画を練った上で、隣国の大国・楚を蹂躙するのですが、
その立役者となった軍事顧問こそが、有名な孫武と伍子胥。

辺境の地でこそ、
中央でくすぶっていた潜在能力のある人材や技術が活気付くという構図は、

中原での政治・兵制の改革の波が最後に波及した(同じく辺境の後進国の)秦が
一番新しいものを吸収したという皮肉を彷彿とさせます。

 

2、戦争の総力戦化

さて、この呉の大立ち回りの結果、戦争の質が劇的に変化しまして、
中国の戦争は、モラルのある制限戦争から、
情報戦や戦時体制の構築も含めた総力戦の時代に突入しました。

その意味では、『孫子』の革新性は、

本屋さんや(私も大好きな)ゲーム・メーカーが喜びそうな、
今日に通ずるような人を騙すための普遍的なノウハウを提示した、というよりは、

それまでの一定の秩序のある制限戦争と差別化を図る前提で、
仁義なき総力戦のノウハウを説いたことにありそうです。

誤解を恐れずに言えば、
事の善悪はともかく、弱小国が核を持って実際に撃ったのが呉。

ところが現在と異なるのは、

楚が「核」なるものの炎で丸焼けになった城下の誓いの憂き目を見るまで、
呉や一部の専門家以外はその有用性を理解していなかった、ということです。

そして、こういう戦争の流儀が各国のスタンダードになるや、

それまでは、長くても1ヶ月を切るような野戦の短期決戦が中心であったのが、

巨大な城郭を夥しい数の攻城兵器で何年も掛けて攻略する
土木工事めいた攻城戦・籠城戦が主体になりました。

当然、銃後も巻き添えを喰う訳で、

例えば、領内の壮丁が兵士として大量に駆り出されることで、
隊列を組んで凄惨な白兵戦を展開する一方で、後方の田畑は荒れますし、

城に籠る側も安全という訳ではなく、

籠城戦が長引くのが常態化する中で、
自分の妻子を隣家と取り換え、互いに食用の肉にするような悲惨な故事も、
こういう極限状況に起因します。

その結果、中原は、春秋時代には国の数が大小200以上あったのに対し、

戦国時代には大幅な淘汰が進み、
こういう桁違いの規模の消耗戦を戦える強国の寡占状態となります。

 

3、総力戦のもたらす社会の変容

戦争の在り様は、社会の様相も一変させます。

まず、戦争の総力戦化の過程で、

勝つ側の国王は、
他国の勢力を自分の勢力に組み込む形で、
自国内における自らの影響力の強化を図ります。

そしてこの時代、国境が消えることは、
同時に経済活動の活発化と富の集中をも意味しました。

その結果、広大な土地を所有し、広い交易圏で活動する大商人も現れるようになりました。
始皇帝のパトロンである呂不韋も、こういう文脈で登場した富商です。

その一方で、血縁・地縁・祖先崇拝でつながっていた
旧小国の地域的な人間関係・社会関係は崩壊し、

この間隙を縫うかたちで「俠」という人間本位の社会関係を結ぶ動きも現れます。

また、社会の在り方が激変したのに対して、
学問の在り方も影響を受けた訳でして、世に言う諸子百家。

学者連中も、世の中を変えた戦争を哲学的にとらえようとして、
長きにわたり活発な議論を展開します。

無論、その中には、実学として重宝されたものもありまして、
例えば、孫子・呉子等の兵家、平和を説きながら籠城戦では無類の強さを誇った墨家、
儒家の鬼子の法家等。

儒家の場合は、失業軍人の孔子が身分を問わず人間修養を説いたのですが、

面白いことに、弟子の出来が良かったことで、
世の中が平和になってから国教として2000年の我が世の春を謳歌しました。

もっとも、その一方で、
軍隊を軽視する風潮を作り、国軍の弱体化につながった面も見過ごせませんが。

 

4、王朝時代への胎動

三国時代が好きな方は、思い当たるところがあろうかと思いますが、

面白いことに、
戦争によって、国家が貴族の権力基盤を侵食し集権化を進め、
その延長で王朝国家の骨組みが整えられていく過程で、

土地の集積や「俠」の概念等、
漢代以降の王朝国家の支配を揺るがしかねない火種も同時に燻ぶり始めていた訳です。

土地の集積は、貧農の増加による社会不安につながりますし、

「俠」の概念は、今日でいうところの(非合法も含む)職業団体や地域等、
横のつながりを多く作ることで、
事を起こす際に、これに加担する人の数が桁外れになる危険性があります。

 

皮肉なことに、こういう戦争を始めた呉は、
当初は隆盛を誇ったものの、その勢いは続かず、100年で馬群に沈みました。

そして、孫武らの始めた戦争は、
自らの説いた速戦即結どころか、ぼくらの300年戦争の幕開けに過ぎなかったのです。

 

【主要参考文献】

高木智見『孔子 我、戦えば則ち克つ』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
浅野裕一『孫子』
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』
西嶋定生『秦漢帝国』

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春秋時代の部隊の編制単位

春秋時代(前770~403)の周王朝の天子および諸侯の軍隊の編成単位は以下。
色々なサイトでも触れられていますが、一応確認しておきます。

1、規模を意味する「軍」と戦車の単位を示す「乗」

さらに、当時の戦争は平地における戦車戦が主体。
そこで、特に春秋時代には、
「乗(じょう)」という単位が表中の編成単位とは別に使用されました。

では、どういう単位かと言いますと、まず、定員は、一乗:30~100名。
卒長クラスがこの単位の隊長に相当すると思われます。

『論語』で孔子の弟子の子路が、
「戦車を千乗出せる国であれば」というような話をするのですが、

1乗30名と考えても3万の兵力を動員出来る国ということで、
こういう国は、諸侯の中でもかなり上位の部類の国を意味します。

また、軍隊そのものを意味する「三軍」という言葉は、
ここでいう軍の数=規模の話ではなく、

縦隊で行軍する時の、上軍(先鋒)・中軍(本隊)・下軍(後衛)の隊形のことで、
歩兵の大量動員という禁じ手を犯した孫武の『孫子』の概念です。

例えば、出先の軍隊を統率する将軍が、統帥権を盾に君命を無視して居直る時などに、
ちょくちょく、こういうシャレた言葉が登場します。

 

2、「一乗」の内訳

そして、その内訳は、戦車の搭乗員である「甲士」と、これに付随する歩兵・補給要因。

戦車1台には3名の甲士—完全武装した搭乗員が乗り込み、
これに付随する歩兵は最大で72名。

戦車は漢代の前半まで野戦部隊の主力ですが、

春秋時代の終わり頃に各国で歩兵の大量動員が始まることで
歩兵の数は時代が下る程増えます。

また、補給要員は25名で、これに輸送車1台が付きます。

序に、最小単位の「伍」という単位についても触れておきます。
旧軍の12名の分隊長の「伍長」の語源だと思います。

発掘された前5世紀の盥(たらい)に書かれた戦争の影絵によれば、

文字通り、「伍」は5名の編成単位で、内訳は、2名が戟(十字の矛)、2名が弓。
戟で相手を引き寄せて髪を掴み、剣で止めを刺します。

隊長の伍長は戟と弓の双方を持ち、部下を指揮しながら、状況に応じて弓か戟で参戦。

 

3、「乗」の構成員

3-1 戦車戦は貴族同士の殺し合い

続いて、構成員の属性について触れます。

まず、甲士は当然貴族ですが、

当時の戦争は、後の時代とは異なり、
諸侯だろうが小領主だろうが、身分の高い者が率先して突撃を掛け、
陣頭指揮で敵の戦車と斬り結ぶのが流儀につき、

独ソ戦のタンク・デサントの随伴歩兵とは趣を異にします。

戦車長に当たる車左が、左側に乗り込み、弓や弩を構えて指揮することで、
車左を正面に向けないために、左旋回が鉄則でした。

もっとも、時代が下ると共に、
こういうルールはいい加減になっていったようですが。

 

3-2 戦車長・孔丘

恐らく、司馬遼太郎が戦車兵だったことよりも真に迫る逸話ですが、

儒学の祖・孔子は、学者どころか当時の花形の戦士様で、
戦車の操縦と弓の名手でした。

さらに孔子は元より、その弟子の何名かもこういう貴族≒戦士階層の出身であり、
戦車戦を得意としておりました。

で、偉大な孔子様は、
衛で就活した際に、霊公に戦陣=歩兵の集団戦に詳しいか、と聞かれて、
機甲科につき、普通科のことは分かりません、と、答え、
御祈りメールをもらう前に、衛を後にします。

岩波本の解説によれば、孔子は霊公の好戦性を嫌ったようで、

事実、この王様の策士策に溺れるデタラメで、当人の没後間もなく、
衛は御家騒動で滅亡します。

ただ、その一方で、方々の文献から判断するに、

当人は、単なる平和主義者でもければ、
戦列歩兵の登場によって戦車の乗り手としての
貴族の地位が下がるのを恐れるという了見の狭い話でもなく、

戦士・行政官僚としての経験から、

平民歩兵の大量動員が、勝敗如何にかかわらず、
どれ程戦禍を大きく広げ、国の経済に重い負担を掛けるかを、
よく弁えていたように思います。

因みに、当時、子路は兵隊ひとりを育てるのに7年かかると言ってまして、
大体その頃に歩兵の大量動員が始まり、質が劣悪になりました。

参考までに、帝國陸軍の兵役は、当初は3年で、後に2年。
それでも、試験で体格の良い者を選抜した精鋭です。

古代中国の実情と単純な比較は出来ませんが、

自国で戦争をやると兵隊は逃げるとか、孫武の兵書は、
7年もかけて育てる精鋭の用兵を想定しているようには到底思えません。

 

3-3 歩兵の出自

次いで、脇を固める歩兵。

これが細部がよく分からないのですが、
一般には農村や都市で掻き集めた兵隊と言われています。

しかしながら、日頃から軍事訓練を欠かさない、
共同体(国や領地)の軍事力の中核を担う社会階層も含まれていたと思います。

因みに、当時は武芸、殊に弓の修練は、
(今日の感覚でいう)学問や組織の昇進試験の一部でした。

「兵匪一体」に象徴されるような後の世に比して
武芸と学問の領域がかなり重複している時代だったのです。

したがって、孔子は頭デッカチではなく文武両道で、
これが当時の優秀な人間の花形。

そして、後の世の儒者が、儒教の国教化だの色々あって、
点取り虫で戦争嫌いの頭デッカチになったということになります。

その癖、兵権を欲しがる煩わしさ。
孔明や司馬仲達のことです。

 

3-4 電信柱に花を咲かせない補給要員

さて、最後に補給要員ですが、
こういう部隊こそ、徴募の数合わせの集団ではないかと思います。

その理由として、当時の戦争では、
老兵や幼兵、負傷兵、態勢の整わない敵には手に掛けないのも流儀でして、
実は、こういうマナーこそが、孔子の説いた儒教の母胎でした。

戦時下という極限状態の中での倫理が儒教を生んだ訳です。

一方で、皮肉にも、この思想が発展してあの国の軍事力を腐らせるのですが、
その話はまた別の機会に。

こういう事情につき、全部が全部でもないかもしれませんが、
基本的には、マトモな戦闘部隊と見なされていたようには思えません。

 

4、大国・斉の統治制度(追記)

また、この時代は、大小200余りの国があったことで、
当然ながら、国の規模によって統治の方法も変わって来ます。

下記の【表2】は、斉の三国五鄙の制。

孔子も孔明も褒める管仲が、桓公に献策したとされる政策で、

簡単に言えば、領内をいくつかの地域に区分し、
この行政区域と軍事組織を連動させる制度です。

 

 

具体的な内容について触れます。
斉の国内を、まず、1、首都と2、郊外に区分します。

1、首都の地域には、貴族の領地と商工業者の領地があり、
これらを3つの「国」という単位に分け、
それぞれの編成単位ごとに、軍事・行政を兼ねる責任者を置きます。

余談ながら、「国」という言葉が、この段階では、
必ずしも支配地域全体を意味しない時代であったことを知った次第です。

2、郊外の地域は、首都周辺の地域と、東西南北の4つの地域に区分され、
この5つの地域を「鄙」という単位とし、
首都周辺の地域は、斉王の直轄地。
なお、この「鄙」の地域には、兵役は存在しません。

また、軍隊の編成単位、特に、
現代の軍隊でいうところの中隊以下の小規模のところが
注目に値すると思います。

まだ前650年前後の段階では、
「伍」・5名の次に小さい編成単位が「小戎」・50名。
しかも、その次の編成単位は「卒」・200名。

周の制度では100名であった単位が、さらに100名増えています。

盛んに戦車戦が行われていた時代背景を考えると、
1乗当たりの歩兵は100名も要らないという程度の話だと思われます。

要は、首都に色々な機能を集中させて、
郊外の地域を生産に専念させる制度で、
軍事面で言えば、部隊運用の効率化を図った、といったところか。

後の世との絡みで言えば、
小国の諸侯が軍事・政治の何でも屋であった時代において、
大国の実情に見合う政策の担い手の分業化の嚆矢になった制度なのでしょう。

【主要参考文献】

高木智見『孔子 我、戦えば則ち克つ』
貝塚茂樹伊藤道治『古代中国』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
金谷治 訳注『論語』
浅野裕一『孫子』
澁谷由里『〈軍〉の中国史』

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