更新が遅れて大変恐縮です。
また、今回も長くなったことで、
以下に、章立てを付けます。
適当にスクロールして頂き、
興味のある部分だけでも
御笑読頂ければ幸いです。
はじめに
1、鎧の部位
1-1 どのような部位に分けられるのか?
1-2 冑
1-3 カッコいいものは、実は銅製?!
1-4 盆領
1-5 披搏
1-6 身甲の開口部
1-7 垂縁
1-8 膝裙
1-9 後漢・三国時代へのアプローチの一手法?!
2、鎧の構造
2-1 基本構造はいつ整ったか?
2-2、鎧の大雑把な作り方?!
2-3、可動部の甲片の繋ぎ方
2-4、甲片を繋ぐ紐とその特徴
3、兵科ごとの鎧の特徴
3-1 歩兵・騎兵・戦車兵の3区分
【雑談】飛び道具を扱う人々
3-2 歩兵の鎧の特徴
3-3 騎兵の鎧の特徴
【雑談】異文化交流は危険な香り
3-4 戦車兵の鎧の特徴
おわりに
はじめに
後漢・三国時代の鎧の話をする前に、
鎧そのものの基本を
もう少し掘り下げよう、という御話の2回目。
今回は、部位と構造について
綴ります。
1、鎧の部位
1-1 どのような部位に分けられるのか?
まずは、以下のアレなイラストを
御覧下さい。
一応説明しますと、
自撮りをやってるおねえさんが
着ているのは、
前漢の斉王の墓からの出土品の
そのまた復元品です。
何処の国でも
古代の出土品の現物でこんなことやったら
エライ事になると思います。
―それはともかく、
甲片の編み方は魚鱗甲につき、
少なくとも武帝期の後半以降と
推測します。
さて、イラストの主目的である
部位の解説ですが、
篠田耕一先生が
『武器と防具 中国編』で
設定された区分を元に、
サイト制作者が
諸々の文献や字引から
それっぽいと思うものを書き足すという
少々横着な内容です。
それはともかく、
古代中国の鎧の部位は
大体このような区分に
分けられるかと思います。
また、この中でも、
魏晋―つまり、
大体、三国志の時代までは
存在そのものが怪しい部位も
ありまして、
これは後述します。
それでは、まずは、
頭―日本でいうところの兜から
順に観ていくとしましょう。
1-2 冑
古代中国では、
頭を守る部位を「冑」といいます。
そう、時代劇や軍記物に出て来る
所謂、甲「冑」とは、
鎧・兜を意味する訳です。
別名、首鎧・兜鍪(とうぼう)。
さて、「冑」は部位のみならず、
頭を守る武具も意味します。
例えば、イラストにあるような皮冑。
これは、戦国時代の戦車兵が
装備したものです。
具体的な武具の名称は、
当然ながら別に存在します。
また、盔(かい)や鍪(ぼう)は
金属製の兜を意味します。
因みに、鍪は元は釜の意。
兜と形状が似ていることから
派生したそうな。
戦国時代の雑兵が
陣笠を食事の器にしたという話が
何かの本に書いてあったと
記憶しますが、
戦国時代の士大夫が
鉄兜をこういう使い方をしたのかは
残念ながら分かりかねます。
1-3 カッコいいものは、実は銅製?!
また、後漢末から大体5世紀位までの兜は、
サイト制作者が出土品を見る限りは、
鉄製であれば甲片(小さい鉄のプレート)を
繋ぎ合わせたものばかりです。
専門用語で蒙古鉢形冑と言いまして、
兜全体を小さい鉄の甲片で繋いで
頭頂部に半球形の蓋を付けるタイプ。
つまり、鋳型を用いて
左右対称の大型のプレートを
接合したタイプのものは
観たことがありません。
NHKの『人形劇三国志』や
横山光輝先生の漫画等に出て来るような
鋳型で作って左右を接合するタイプの兜は、
恐らくは銅製だと想像します。
と、言いますのは、
この時代の製鉄技術から考えれば、
過去の記事で触れましたように、
炒鋼法という
当時世界最先端の
製鋼技術自体は存在したとはいえ、
大型で複雑な形をして
人命を預かるレベルの
相応の強度を持った製鉄製品を
鋳型で作る段階には
至っていなかったからでしょう。
駒井和愛先生の
三国時代の明光鎧は
銅製であった可能性が高い、
という学説についても、
技術史的には、恐らくは、
鎧の核となる胸部の大型の金属板を
鋼鉄で作ることが出来ないという
背景があったことと推測します。
1-4 盆領
首を守る、謂わば、
襟に相当する部位です。
別名:鐚鍜(あか)。
これは、偶然字引で見つけた言葉です。
さて、実は、この部位は、
戦車兵の鎧の大きな特徴です。
ですが、さるモノの本には、
イラストにある
前漢時代の盆領付きの筒袖鎧は
騎兵のものと紹介されています。
兵科あるいは兵種ごとの特徴については
詳しくは後述しますが、
あくまでサイト制作者の愚見としては、
戦車兵の鎧と思います。
その根拠として、
袖・盆領があり、
甲片の繋ぎ方が
武帝時代以前のものだからです。
つまり、戦車が匈奴との本格的な戦いで
弱点を露呈して戦力的に下火になる
以前のものと推測します。
1-5 披搏
次に、腕の上半分に相当する披搏。
兵科あるいは兵種ごとの
鎧の特徴については後述しますが、
この部位に即して掻い摘んで言えば、
歩兵や戦車兵の鎧には、
肩乃至腕を防護する機能があります。
例えば、イラストの中心に描かれている
前漢の鎧は歩兵用のものです。
―歩兵どころか、
王様の愛用のものの可能性がありますが。
また、後述する秦の戦列歩兵用のものには
肩甲が付いていますし、
イラストにもありますように、
戦車兵のものともなると、
腕の上半分が完全防御となります。
さらに、前漢に入ると、
歩兵の鎧にも
筒袖が標準装備となりまして、
時代が下って
三国時代の蜀や西晋の筒袖鎧へと
継承される流れになると想像します。
また、鎧の腕の下半分の部位を
臂護(ひご)と言います。
ただ、この部位については、
サイト制作者の浅学故か、
少なくとも南北朝時代辺りまでは、
秦代の戦車兵の例を除いて
存在を確認出来ませんでした。
出土品は元より、
どの時代の俑を観ても、
戦袍の袖が剥き出しになっています。
1-6 身甲の開口部
鎧の定義ともなるべき部位です。
そうした事情もあり、
基本的な構造については後述します。
また、甲片の材質や繋ぎ方については、
後の回の話とします。悪しからず。
材質の話は、
製鉄が絡むことで
少々取っ付き難い内容ですが、
(サイト制作者もド文系!)
鎧を含めた武器の話をするうえでは
不可欠だとも思いますし、
一旦学び始めると、
少なくとも雑学としては
色々な分野に応用が効くことで、
ハマる要素もあろうかと思います。
したがって、ここでは、
話を鎧の開口部に絞ります。
結論から言えば、
色々なタイプがありまして、
不明な部分もあれば、
試行錯誤の痕跡もある、という具合。
後述する
秦代の戦列歩兵の鎧のように、
セーターのように鎧の裾から被って
首回りを紐で調整するタイプもあれば、
先述の前漢の
盆領付きの筒袖鎧のような
前開きのタイプもあります。
これまた、先述の前漢の斉王墓の鎧は、
右の鎖骨、脇、そしてその真下の腰と、
謂わばチャイナ服のような
切れ目のラインがあり、
この3箇所を紐止めします。
もう少し時代が下ると、
例えば、三国時代以降の両当甲は、
肩の部分にベルトがあり、
これと帯の上下で固定・着脱します。
残念ながら、
この時代のそれ以外のものは
開口部の詳細は不明です。
以下は、
あくまでサイト制作者の推測ですが、
蜀や西晋の筒袖鎧については
当時の俑を観る限り、
魚鱗甲という甲片の繋ぎ方に加え、
前漢に比して
前開きを止めていることから、
先述の前漢斉王墓の鎧と
同じタイプではないかと
睨んでいます。
また、4、5世紀位になると、
朝鮮や日本では、
かなり大きめの甲片を接合した鎧が
登場します。
―当然、技術は大陸のものと思いますが。
で、この種の鎧は、
両当甲に脇を補強したような形状で、
脇部分を蝶番で開閉します。
隋唐の明光鎧も
モノによっては
肩の部分にベルトが付いていることで、
こういうのは被るタイプと想像します。
さらに、もう少し時代が弱下ると、
宋代の歩人甲という鎧がありまして、
これは何と、
身甲・垂縁(裾部分、後述)が一体で
エプロンのような形状で、
背面を紐で縛るタイプでして、
我が国の胴丸やその前の大鎧の
先祖のようなものかもしれません。
さらに披搏部分はこれとは別にあり、
両腕が一体で
前面と背面に分かれるという形状。
蓑の肩部分のような形をしています。
1-7 垂縁
鎧の裾部分の部位です。
ですが、兵科によって丈が異なりまして、
股間や尻までスッポリ覆うとは
いかないようです。
この辺りの事情は後述します。
さて、変遷めいたものについても、
すこし触れます。
まず、殷周時代以前は、
鎧も戦車も
貴族階級の専有物のような状態です。
その理由は、
平地での戦車戦が主流の時代につき、
平民が構成員の大半を占める歩兵は、
謂わば添え物のような存在です。
したがって、
鎧≒戦車兵の鎧、という構図。
さらに、戦車兵は
車体の防護設備があることで
下半身への攻撃を想定していないためか、
身甲と垂縁が一体になった、
腰のくびれのない
ズングリした鎧となる訳です。
言い換えれば、
身甲と垂縁の区別のある鎧は、
御貴族様の戦車の添え物の
謂わば、随伴歩兵のような存在ではなく、
単独での作戦行動の可能な
独立兵科としての歩兵部隊の登場と
軌を一にするかと思われます。
つまり、早くとも
春秋時代の末期以降かと。
次いで、武霊王の胡服騎射による
騎兵の登場と相成りますが、
秦の重装騎兵、
つまり、鎧を着用した騎兵の存在は
戦国時代では珍しかったようで、
騎兵用鎧の登場については、
さらに時代が下ると思います。
騎兵用の鎧は、
大体秦も前漢も、
そして、三国時代の両当甲も、
似たような形状をしています。
歩兵より動き易いが
防護の死角も多い作りをしています。
垂縁も、歩兵用の鎧よりも
丈が短くなっています。
これも、後程図解します。
1-8 膝裙
残念ながら、
男子の証たる股間の部位は
サイト制作者の浅学につき不明です。
悪しからず。
まあその、
今日で言うところの
ファール・カップのようなものの
存在が確認出来れば、
性格の悪さから
ドヤ顔で図解していると思います。
それはともかく、
垂縁の下の部位に
膝裙というのがあります。
字義から察するに、
膝を守るためのスカート、
といったところでしょう。
ですが、
どうもスカートにしては
スリットが大き過ぎて
露〇狂を疑わせる何かがあり、
―ではなく、
膝掛や腿当てに近い形状の模様。
もう少し具体的に言えば、
西洋の鎧のように、
膝関節の前面を
金属で隙間なく覆うタイプの
防具ではなく、
膝とその周辺の前面を
一枚の大きめの板で覆う
タイプのものです。
日本の戦国時代後期の
当世具足なんかに付いている
膝を覆うための板を御想像下さい。
この部位、
読者の方よりの貴重な情報や
むこうの復元品によれば、
前漢の騎兵が
髀褌(ひこん)という腿当てを
着用していた模様。
さらには、西晋時代の俑の中には、
足首まで魚鱗甲めいた装甲に
覆われているものがあります。
これも、さる読者の方の御指摘で
気付いた点です。
慧眼の至り。
1-9 後漢・三国時代へのアプローチの一手法?!
以前、鎧関係の記事で、
兵器―この場合、鎧、の、
著しい技術向上の背景には、
必ず長きにわたる戦乱があると
書きました。
無論、サイト制作者の妄言の類ではなく、
楊泓先生の受け売りです。
例えば、魚鱗甲が登場した背景には
武帝の対匈奴戦があります。
また、始皇帝の兵馬俑の甲片と
前漢前期の出土品の甲片は、
前者が正方形に近く、
後者は長い短冊型をしています。
この技術革新を長期化した戦乱に
見出すとすれば、
秦末の反乱から楚漢戦争までの
動乱の時代に他なりません。
そして、このような思考パターンで、
膝裙の導入の契機となった
軍事的な画期を
その西晋時代の
少し前の戦乱の時代と仮定すると、
何と、三国志の時代の
終り頃と相成る訳ですワ、これが。
戦火を蒙った当事者としては
忌まわしい事実でしょうが、
三国志のファンとしては
何とも夢のある話で。
つまり、強気なことを言えば、
三国志の鎧には身甲や垂縁に加え、
膝裙付きの、
食前酒も食後のスイーツやコーヒーも付いた
フルコースな鎧があった!
―と、言えなくもありません。
まず、兵卒の鎧ではないと思いますが。
2、鎧の構造
2-1 基本構造はいつ整ったか?
一通り、部位について確認したところで、
次は、鎧の構造の話をします。
早速ですが、
以下のアレなイラストを御覧下さい。
楊泓先生によれば、
古代中国の鎧の基本構造は
大体戦国時代に出来上がったと
しています。
戦車兵、歩兵、そして騎兵の
3つの兵科が確立し、
各々の兵科ごとの戦術も
或る程度完成したことに起因すると
想像します。
また、時代が下るにつれて
鎧に色々なパーツが付いたり
甲片の繋ぎ方が複雑になったりしますが、
そうした鎧の進化の際の
最大公約数めいた御約束も、
この段階で出揃った、
ということなのでしょう。
サイト制作者が
他人様の褌で鎧の構造を図解するに当たって、
イラストにあるような
秦の歩兵用の鎧を事例にしたのも、
上記の点が理由です。
2-2、鎧の大雑把な作り方?!
それでは、まず、
鎧の作り方から見ていきます。
復元品を作ったり
イラストを描いたりする際、
一儲けを企むための
参考にでもなればと思います。
さて、最初に胸部正面の甲片を作り、
その左右に甲片を繋いでいき、
環状のものを作ります。
つまり、胸囲に相当する
横一列の環状の甲片を作ります。
それを、何本も作り、
上から順につないでいきます。
因みに、イラストでは
鎧の中央の縦一列の甲片の色を
薄くしてありますが、
これは説明用の色分けです。
残念ながら、
シ〇レー・カマロのような
ツートン・カラーだった訳ではありません。
後、漫画や小説でも書く際、
3倍速く動ける設定で赤く塗ろう、
というような
何処かで聴いたような話の盛り方は、
当然ながら、
法務関係の話も含めて
自己責任で御願い致します、などと。
―それはともかく。
2-3、可動部の甲片の繋ぎ方
また、胸部と腹部の違いは、
胸部の甲片は、
鎧の内側で紐で縛って固定します。
また、上下の甲片が重なる部分は、
上の甲片を外(前)に出します。
腹部の甲片は、
鎧の外側にも綴じ紐を出し、
上下の甲片が重なる部分は、
胸部とは逆に、
下の甲片を外(前)に出します。
これは可動部であることを意味します。
悪く言えば、
遊びの部分があることで
多少腹が出てもキツくはならない訳です。
そのための機能かどうかは
分かりませんが。
また、こうした可能部は、
歩兵用の鎧の場合は、
肩甲―つまり、披搏にも同じことが言えます。
ただ、恐らくデメリットもありまして、
いくら可動部とはいえ、
そもそも肩甲があること自体、
腕の可動域が狭まることも
意味するのでしょう。
もう少し具体的に言えば、
サイト制作者の想像の域を出ませんが、
鎧を付けない秦の弩兵・弓兵と
肩の防護のない鎧を着用する
秦・漢・魏晋の騎兵を観る限り、
この時代の肩甲のある鎧では
可動域が狭いことで
弓が引きにくいものと想像します。
(特に、仰角で曲射を行う場合)
また、全長約64cmとあるのは、
種本の兵馬俑の鎧の丈だと思います。
色々なサイズがあるのでしょう。
因みに、当時の兵士の身長は
大体150cm弱。
戦国時代の趙の精鋭は平均171cm。
御参考まで。
2-4、甲片を繋ぐ紐とその特徴
最後に、鎧の甲片を繋ぐ紐についても
言及します。前漢の事例です。
まず、紐は麻縄です。
次いで、3つの特徴があります。
1、細いものを大量に使用。
鎧の全ての部位に言える話だと思います。
2、1、より細いものを3本撚ったものを
可動部位に使用。
3、撚られていない紐を1本乃至複数本を
重要でない部位―恐らく固定部位、に使用。
つまり、動きが激しく摩耗し易い可動部位には、
頑丈なものを使うという御話です。
3、兵科ごとの鎧の特徴
3-1 歩兵・騎兵・戦車兵の3区分
続いて、兵科ごとの鎧の特徴について触れます。
因みに、以下は
サイト制作者個人の意見に過ぎませんが、
兵科は国家や軍が法や命令で決めるもの、
兵種はもう少し抽象的・概念的なもの、
―という具合に考えています。
【雑談】 飛び道具を扱う人々
例えば、この時代で言えば、
同じ矢を扱う兵士でも、
密集隊形で弩を放つのと
伍の戦列で弓を射るのでは、
軍隊の中でも
運用の方法が異なるのですが、
そもそも、
弓弩を扱う徒歩の兵士は、
基本的に鎧を付けないという―。
とはいえ、厳密には、
秦代の兵馬俑には
鎧を着用して弩を構えたものも
あるのですが、
この国の場合、そもそもの前提として、
飛び道具を扱う兵士は、
商人や囚人等、
(農本)国家にとって
体制上、都合の悪い人々で
構成されています。
―要は、弾除けのための人員です。
さらには、
どうも、この種の人員の存在は、
古今東西を問わぬようです。
例えば、
『阿呆物語』なんか読むと、
ドイツの三十年戦争の時も、
火縄銃の銃手を「全滅小隊」と
呼んだそうです。
(先込めで装填速度も遅く、
暴発も多い時代です。)
で、こういう人員を
どこから連れてくるのかと言えば、
前線から少し離れたところに、
喰い詰めたあぶれ者が
群れて野営しており、
(勿論、自給自足略奪もします!)
こういうのを
「マロード」(確か、狼の群の意!)
とかいうそうで、
悪く言えば、
戦地の住民の癌ですが、
良く言えば、
対峙する軍や傭兵団にとっては
戦力の供給源になっている訳です。
要は、劉邦や李自成みたいな
所謂「余剰人員」
―やくざ者とも言いますが、を、
国家が集めるか
傭兵団が集めるかの違いです。
―武器と身分の関係について、
御参考まで。
【了】
また、ここで扱う
歩兵・騎兵・戦車兵の3種類は、
恐らくは、先述の「兵科」のレベルで
それぞれ異なった運用が
なされています。
さて、早速ですが、
下記のこれまたアレなイラストを御覧下さい。
イラストにある各々の兵科ごとの鎧は、
秦代の兵馬俑のヘッタクソな模写です。
あれだけ強大な権力の王朝ともなれば、
自ずと軍隊の構造自体も
体系的なものになるようでして、
こういうもを説明するには
打って付けの事例となるかと思います。
さらには、少なくとも魏晋の頃までは、
歩兵・騎兵の鎧については
このイラストにあるような
特徴が保たれます。
ただし、戦車兵については、
前漢の匈奴との戦争以降は
兵科自体が廃れていきますが、
曹魏の時代にも
『三国志』の魏史に
訓練を行ったという記録があることで、
実態はともかく、
消滅した訳ではありません。
3-2 歩兵の鎧の特徴
それでは、各兵科ごとの
鎧の特徴の説明に入ります。
恐らくは、もっとも大量に
製造されたと思しき
歩兵用の鎧から観ていきます。
まず、部位で言えば、
身甲・披搏・垂縁に区分出来ます。
披搏は腕の上半分を防護する
肩甲が付きます。
これが前漢の武帝期以降になると、
筒袖のタイプのものも登場します。
三国時代は、蜀や西晋を観る限り、
筒袖タイプが主流だったのでしょう。
呉、と言いますか、南方の王朝は、
少なくとも東晋辺りまでは、
ヒラの兵士は鎧を付けません。
また、垂縁は、
丈は股間辺りまであります。
実は、この点は、
騎兵の鎧との大きな相違点につき、
御注目下さい。
3-3 騎兵の鎧の特徴
次いで、騎兵用の鎧。
胡服騎射の時代は、
騎射等、戦闘用のレベルで
馬を乗りこなすこと自体が
曲芸に近い間隔であった模様。
恐らく、秦の「重装」騎兵が
物珍しかったのも、
練度の賜物だったのかもしれません。
その一方で、
騎兵の用兵思想のひとつに、
軽量化による機動力の重視があります。
具体的には、
北方の騎馬民族の常套手段でして、
極力接近戦を避け、
距離を取って相手の疲弊を待ち、
頃合いを図って
狩りの要領で包囲して
弓で仕留めに掛かるという戦法を取ります。
匈奴との戦いで揉まれた
前漢の軍隊には、
鎧を着用して
敵軍を白兵戦で駆逐する騎兵もいれば、
この種の鎧を付けない軽弓騎兵も
あったようです。
それでは、騎兵の鎧の特徴ですが、
秦から魏晋の頃までは、
簡単に言えば、
披搏がなく、
垂縁が臍の辺りまでの
丈の短い鎧でした。
今風に言えば、
女性の下着の一種である
キャミソールのような形状。
で、前後二枚の板、
あるいは脇も覆われた胴巻を
肩のベルトなり紐なりで固定します。
【雑談】異文化交流は危険な香り
以前の記事でも
触れたと記憶しますが、
騎兵用の鎧の一種である
両当甲の「両当」は、
北方の遊牧民の衣類の一種。
ええ、そのキャミソールが
前後に分かれた形をした上着です。
で、この衣装を
軍事転用したのが両当甲。
欧州大戦の泥沼の塹壕戦で重宝した
トレンチ・コートが
戦後にファッションになったのとは
逆の話ですナ。
その他、六合帽だの、長靴だの、
色々入って来るんですワ。
そもそも、こういうものが
中原に入って来た背景に、
主に、後漢以降の遊牧民の強制移住やら
反乱やらのゴタゴタの副産物で
文化交流も急速に進んだことがあります。
世界史で習う
北魏の孝文帝の漢化政策は、
そうした文脈の中で行われたものです。
―で、大抵の場合、
南下してこういうことをやった王朝は、
軍事的には弱体化し
馬の調達経路も閉塞し、
オマケに王侯貴族共は
人類の叡智を享受するどころか、
贅沢を覚えて堕落して
宮中政争に明け暮れ、
その結果、
次の時代には、
雨後の竹の子の如く現れる
北辺の凶悪な異民族に絡まれる、と。
これも、何世紀も連綿と続く、
華北界隈に足を踏み入れた異民族王朝が
ダメになるという
御約束のパターンです。
―ですが、その一方で、
こういう先進文明に対する憧憬が
原動力となり、
そもそもの物理的な距離やら身内の反対やら、
血の滲むような苦労の末に、
標準規格の浸透が進むのでしょうねえ。
そして、洒落た言語や文化や
卓越した化学技術も、
一方で、大人の事情で売るに売れない
基軸通貨国の国債や
高価な癖にブラック・ボックスが多くて
奇怪な事故ばかり起こす主力戦闘機も、
品行方正でコスト・パフォーマンスも良く
何年も在籍するような優良外国人選手も、
誰とは言いませんが
破格の年俸を満額受け取った癖に
怪我と不振で早々に帰国する
ダメ外国人選手も、
ヒト・モノ・カネの往来がある以上、
同時並行でイロイロ入って来るのが
浮世の摂理か。
【了】
さて、高橋工先生の研究によれば、
実は、ほぼこの時代である
4~5世紀のものとされる
朝鮮や日本で出土した鉄製の鎧も
これに似た形状でして、
胸・脇・腰が覆われており、
脇の部分を蝶番で開閉します。
また、前面は鎖骨より上、
背面は背中の上半分がありません。
さらに分かり易く言えば、
女性の下着の一種である
ビスチェのような形状。
―ヘンな話ばかりしていますが、
本当にこういう形状をしているので
困ったもので。
まあその、
サイト制作者の変態趣味は否定しませんが、
ヒトの体形にフィットするということは、
それだけ無駄のない作りであることをも
意味します。
因みに、当時は、
日本・朝鮮の両地域共、内戦状態でして、
大陸からの輸入か模倣品と想像します。
さて、部位の話をしますと、
恐らく、披搏がないのは
騎射の射角や視界確保に有利なためで、
丈が短いのは、
乗馬の際に
鞍に干渉しないためだと思います。
とはいえ、
南北朝時代になると、
エプロン・タイプの両当甲は
前後の装甲板をつなぐベルトが
肩の少し上の辺りまで高くなり、
肩甲と身甲のつなぎ目が
前後の装甲板の中に収まる作りに
なります。
こういうタイプの鎧の騎兵は、
騎射をやらない
接近戦専用なのでしょう。
余談ながら、
秦代の騎兵用の鎧には
少し特徴があります。
残念ながら、イラストの方は、
縮小で潰れて見辛くて
申し訳ありませんが、
身甲部分の胸部と腹部で、
装甲の形が異なります。
具体的には、
胸部が立方体、
腹部が円柱になっています。
3-4 戦車兵の鎧の特徴
最後に、戦車兵の鎧について。
戦車兵は、
戦場の花形であった
殷周時代は元より、
戦国時代においても、
歩兵戦が盛んになったとはいえ
平地の決戦部隊として
重要な兵科でした。
それ故、例えば、
秦においては、
戦車兵には定期的に
技量検査が行われまして、
スコアが悪ければ
罰則の対象になりました。
また、馭者がやられれば、
左右の精鋭2名も
巻き添えを喰う訳で、
こういう実用的な観点からも、
万全を期した重装備になるのでしょう。
因みに、戦国時代の場合、
馭者の左右の戦闘員は、
歩兵用の鎧だそうな。
それでは、
鎧の具体的な機能の話に入ります。
まず、首を守る部位・盆領ですが、
これは、同じ戦国時代における
秦以外の地域の出土品にもありました。
また、前漢の前期と思しき
短冊型の甲片を綴った鎧にも
コレが付いていました。
で、愚見として、
盆領付きの鎧が
戦車兵のものと思う理由は、
弓を引いたり
馬を乗りこなす際に
視界を狭めるからです。
参考までに、『三国志』の董卓の伝に、
この御仁は騎射の際、
左右に射ることが出来た、
と、ありまして、
つまり、これは、利き腕の反対である
弓手(ゆんで)でも
射ることが出来るという離れ技。
ですが、言い換えれば、
真正面には馬の首があることで
射ることが出来ない、
―という御話なのでしょう。
恥かしい話、サイト制作者は、
馬も弓もやったことがないので
実務レベルでは分からないのです。
ただ、その、
仮に、騎射の際、
左右にしか射ることが出来ないとすれば、
例えば、高地から低地の敵を
俯角で敵を射る場合、
盆領があると視角を遮る訳です。
また、腕についても、
筒袖タイプもあれば、
イラストにある秦の戦車兵のように、
腕の外半分と手の甲が
覆われているものもあります。
サイト制作者の想像の域を出ませんが、
このタイプの鎧は、
甲片の形を観るに、
腕の可動域は
相当小さいように思います。
また、腰の部分の割れ目は
歩兵や騎兵の鎧より小さくなっています。
先述のように、
どういう形であれ、
必要条件として、
恐らくは、
戦車の車体からはみ出た上の部分が
甲片で覆われてさえいれば良い訳です。
余談ながら、
脚絆=ゲートルについても少々触れます。
裾を絞ったズボン=褌に
脚絆を巻くかどうかは、
兵馬俑を観る限り、
あまり兵科とは関係なさそうに
思います。
あまり歩かなそうな戦車兵が
巻いており、
鎧を着た歩兵が
巻かなかったりしているからです。
要は、常時携帯し、
長い距離を行軍する際に
巻くのでしょう。
おわりに
最後に、今回の内容を整理すると、大体、以下にようになります。
1、大体、五体ごとに防護部位が存在するが、
時代によっては防護されない部位もあった。
例えば、臂護は南北朝時代の鎧にも確認出来なかった。
2、魏晋の頃までは、鉄製の部分については、
小さい甲片を繋ぐものしか存在せず、
大型の金属のプレートのあるものは、
銅製の可能性が高い。
3、大体の鎧の身甲部分の製作手順は、
最初に中央の甲片を作り、
横の甲片を環状に繋ぎ、それを何列も縦に繋ぐ。
4、可動部(腹部・肩)は外側から縦の甲片を紐で縛る。
また、上下の甲片の重複部分は、
下側の甲片を前に出す。
5、固定部(胸部)の甲片の繋ぎ方は、可動部と逆。
6、鎧の甲片を繋ぐ紐は、接合部分の重要度によって、
太い細いを選ぶ、本数を変える、あるいは、
撚るか撚らないかを調整する。
7、歩兵用の鎧の特徴は、
裾が大体股間を覆う位まであり、
肩や腕を守る部位が存在する。
前漢の武帝期以降は筒袖型が登場する。
8、騎兵用の鎧の特徴は、
裾が臍辺りまでしかなく、
後漢以降登場するごく少数の重騎兵を除いて、
腕を守る部位もない。
9、騎兵用の鎧の特徴は、
乗馬や騎射に支障を来さないための
機能である可能性がある。
10、戦車兵の防護部位は上半身は多彩で、
特に、袖への部位は戦国時代から存在した。
一方で、下半身への防御はあまりなされていない。
【主要参考文献】(敬称略・順不同)
楊泓『中国古兵器論叢』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』
駒井和愛『漢魏時代の甲鎧』
西野広祥『「馬と黄河と長城」の中国史』
学研『戦略戦術兵器事典 1』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』
峰幸幸人
「五胡十六国~北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給」
『東洋学報100(2)』
高木 智見『孔子』
来村 多加史『万里の長城 攻防三千年史』
朱和平『中国服飾史稿』
The Creative Assembly製作の『Total War THREE KIGDOMS』
おそらく欧米の企業が主体となって開発された戦闘シミュレーションゲームとしては
史上初の三国志を扱った作品ですが、ご覧になりましたでしょうか?
原点となる絵物語に則って唐代以降の武具を纏った姿で描かれているコーエー他、
日本の三国志作品と比べると、より古代的で史実に則した姿で描かれています。
武具の材質も鉄の他に皮や布っぽい材質を多く使った複合的な感じで
これはこれで中々味のあるというデザインの英雄たちが見られます。
広くは普及していなかったであろう膝裙や手甲は着けている者と
そうでない者がいたり・・・流石に関張は従来通り偃月刀と蛇矛を持っていますが
披搏
1-6 身甲の開口部
1-8 膝裙
返信が遅れて大変恐縮です。
確か、ナポレオン時代の戦争なんかで
鳴らしたシリーズと記憶します。
貧乏している身としては
この種のパソコン・ソフトには非常に憧れます。
90年代後半から2000年代位迄のような、
欧米の優秀なゲームも低スペックのパソコンで動く時代が
懐かしくもあり。
それはともかく、
制作にはセガさんが関わっているようですね。
折角ですから、『龍が〇く』の次回作は、
桐生さんに我が中〇ドラ〇ンズの軍師に就任して頂き、
チームを再建してもらい、
巨〇、広〇もしくは横〇と天下を三分する話を希望します、
―とは言え、万が一にでも実現した日には
古参のユーザーの方々が叛旗を翻すのが目に見えていますので、
妄想は妄想に止めておきます。
ノイズはともかく、
先には、
パラドックスなんかも三国志のゲームを出しており、
良くも悪くもゲーム業界のグローバル化も
ここまで来たかと思います。
ただ、物心付いた時から洋画が身近にあった
戦後以降の世代の日本人とは違い、
西洋人が中国史に興味を持つような文化的な基盤が
何処にあるのか、知りたくもあります。
さて、同ゲームの内容ですが、
広告記事にはダウンロード・コンテンツに
八王の乱とか書かれており、
個人的には笑えました。
勝者の王朝のゴタゴタまで
ゲームのシナリオに含まれるとなると、
「三国志」という枠自体に意味があるのかとも
思いますが、
西部劇の癖に、
治安が最悪だった1870年代ではなく
敢えて開拓時代の末期を扱った
『レッド・デッド・リデンプション』宜しく、
兵器の発展史としては面白いのかもしれません。
後、真面目な考証の話をすれば、
後漢・三国時代は
小説として脚色されているから面白いのであって、
実は、調べれば調べる程つまらないと感じる部分も
ありまして。
書き手も七分実事としているのもむべなるかな。
で、個人的には、こういうのをやり過ぎた感があるのが
コー〇ー・テ〇モさんかと思います。
で、武器の話ですが、
演義では、主要な登場人物が
個性的な得物を持ち出すのですが、
これ、内実は実に味気ないものでして。
例えば、正史の張飛・程普・丁奉と、
この人達の伝に共通して出て来る
「矛」という武器があります。
これは、偶然の産物などではなく、
鉄器の普及によって刺突系の攻撃が盛んになり、
その最たる攻撃方法として、
重武装の騎兵が矛を持ち出した、という御話。
で、この時代、既に使われていた可能性もありますが、
矛といっても、
その実態は「槊」と言いまして、
重さ10キロ弱、長さ4メートル以上のエグいもので、
「槍」の前身に当たるものです。
一説では、
孔明先生が発明にかかわったとされていますが、
長兵器の筆頭格である戟ですら
既に前漢の段階で刺突系重視の形状に変わっている御時世。
個人的には怪しいと思います。
で、これを振り回して鍔迫り合いでもすれば
恰好良いのですが、
残念ながらそうではなかったようで、
中近世の西洋の騎士階級の重装騎兵宜しく
騎馬の突進力でズブリとやります。
―で、抜けなくなったりもします。
つまり、張飛も程普も丁奉も、
格闘ゲームで言えば、
抜きんでたチート・キャラを選択し、
互いに、相手につまらないを連呼するような
つまらない状況かと推測します。
その意味では、適度な脚色は必要かもしれません。
鎧の話も多少しますと、
ゲームに出て来る兵卒の甲片の繋ぎ方は短い短冊型につき、
前漢時代のものと拝察します。
もっとも、魚鱗甲の普及率など調べようもないでしょうし、
札甲もあれば、材質も鉄のみならず、皮から銅から、
色々な規格のものが混在していたのでしょう。
鎧ではなく剣かと記憶しますが、
クロム塗装のものまであったそうな。
感想のつもりが次回の記事の予告となり恐縮です。
大体、以上のような話にしようかと考えております。
膝裙に関しては多分、最初は垂縁の丈を伸ばそうとしたんじゃないかと思います
それで可動部位に限界が出たみたいな理由で分離したんじゃないかと
それも最初は西晋時代の俑のようにふくらはぎまで覆うものではなく
せいぜい大腿部か膝辺りまで、それも攻撃にさらされ易い前面だけという風な
簡素な物だったでしょう(黄巾~三国鼎立辺りか?)
ついでに膝裙の原型と思しき髀褌は、地面に膝を突いた秦の兵馬俑の中に
下袴の裾のようなものが見えている個体があり、これが大腿を守る防具の最初期の
形態ではないかということです
まずは、有意義なコメントを大変感謝します。
確かに、垂縁と膝裙の関係については、
垂縁を伸ばし続けた―既存の武器の改良が続いた、
という理解の方が自然ですね。
特に、漢代の鉄製武器の普及は
刺突系の攻撃を非常に盛んにしました。
これが意味するところは、
恐らくは、
鋭利さが殺傷能力を高めたのみならず、
従来の銅製の武器のように
相手の首を中心に狙うだけではなく、
下半身を突く攻撃が
それまでに比して
かなり有効になったこともあるのかもしれません。
その他、髀褌についてですが、
「地面に膝を突いた秦の兵馬俑」は、
私の思い込みが間違っていなければ
歩兵用の鎧を着た(肝心の弩が欠けてる)弩兵かと思います。
正直なところ、サイト制作者の浅学につき、
鎧の普及率の低い当時、
弩兵に歩兵用の鎧どころか
髀褌まで支給する理由が分かりかねます。
しかしながら、実際に装備していることで、
無い知恵を絞って考えれば、
燕や斉と戦って鉄器の洗礼を受けてそうなったのか、
あるいは、一定の身分を有する者の装備なのか、
実際の現場では、弓も弩も結構チャンポンされていて
歩兵の伍で弩も扱ったのか。
(近距離で装填に時間の掛かる弩を構えるのも
度胸がいると思いますが。)
恐縮ですが、この辺りは、
今後の課題とさせて頂ければ幸いです。
中国の鎧の歴史については『中国古代甲冑図鑑』著:劉永華が一番詳しいと思います。
と言うか、これがほぼ唯一の一級資料のような気が。
20年以上前に出たきりの絶版で入手困難みたいですがオススメです
匿名 様
まずは、御笑読及び情報の御提供に対して
大変感謝致します。
先程、あまり期待せずに蔵書検索を掛けましたら
幸いにして、住んでいる県の県立図書館にあったことで、
コロナ関係の外出自粛が収まったのを見計らってから
一度見て来ようと思います。
ネットで断片的に観る分には、
南北朝期の蒙古鉢型兜の分解図があったことで
楽しみな限り。
甲片の繋ぎ方のレベルで復元を考えるとなると、
各部位同士の大きさの整合性やら繋ぎ目やら、
縦横1列当たりの甲片の数やら、という具合に、
面倒な課題が一気に噴出しまして、
これが祟って面倒な計算等で時間を喰い、
イラストの作成が
想定外に遅れております。
こういう煩わしい負担を
少しでも軽減出来ればと思う次第。
後、劉永華先生の本の軍装の方は、
最寄りの国立大学が抱えてはいるものの、
面倒なことに、研究室の所属になっており、
他を当たることも考えています。