実録?!五十歩百歩(小記事)

はじめに

鎧の話の続きを纏めている最中で恐縮ですが、

以前の記事に関して、
興味深い御本を見付けましたので、今回は、その御話。

 

 

1、罪と罰~敵前逃亡

 

当該の記事は、以下。

伍の戦闘訓練と連帯責任

要は、以前、当時の戦闘訓練の御話に事寄せて
孟子の五十歩百歩について、
怪しい考察を試みたのですが、

実は、サイト制作者がやる大分前に、

それも、遥かにマトモな方法で
この種の考察をなさっていた先生が
いらっしゃいまして。

 

その種本は、以下。

 

鶴間和幸先生の
『人間・始皇帝』(岩波新書)

 

早速、事の経緯について、
同書の当該の部分を要約します。

要は、今で言えば、
裁判の審議の記録が残っていた、
というようなお話です。

 

まず、事の起こりは、

統一戦争も大詰めの前221年9月、
秦の軍中で戦闘中の敵前逃亡が
発生したことです。

 

もう少し具体的に言えば、

前進すべき局面で
12歩(1歩=1.38メートル)後退し、
追撃してきた敵兵に弓を射た兵士
いました。

 

そして、この兵士に対して
どのような罰則を与えるべきか
焦点になる訳ですが、

実は、この案件自体が、
現場で決裁出来ずに
上級官庁に送られるという
由々しきものでありました。

 

そうした事情もあってか、

取り調べの過程で、
掴みどころのない
前線の実相が見えて来る訳でして―。

 

例えば、
12歩どころか、46歩逃げた奴もいれば、
孟子の言葉通り100歩逃げた「猛者」も
おりまして、

そういう不誠実な兵士ばかりかと思えば、

弓で殺された者や、
短剣で敵と渡り合って戦死した殊勝な者もいる、
という具合。

 

で、結局、
どのような沙汰が下ったかと言えば、

先に逃亡した12名には
完城旦鬼薪という罰則。

前者は、頭髪を剃らないまま
辺境の築城と防衛。

また、城旦は、
昼は見張り、夜は築城や補修。
要は、休みなしの重労働。

後者は、鬼神祭祀の薪を集める労役。
これも、ヤバ気なことを
やるのかもしれません。

 

次に逃亡した兵士14名には、
耐刑という罰則。

これは、髭を剃っての労役。

―ということは、
当時の成人男子の身嗜みには
髭は不可欠、ということになりますか。

 

つまり、戦場で逃げた歩数は
量刑の材料となった、
という御話で御座います。

 

 

 

【追記】弓矢の運用と隊列の間隔

 

1、弓矢の自己中な使い方

 

この逸話から、

当時の小規模戦闘について、
興味深い点をふたつ
垣間見ることが出来ます。

ひとつ目は、弓矢の運用について。

軍法に反して、
本来前進すべきところを
逃げながら追手に矢を放つ、

―という行為について、
もう少し踏み込んで考えてみます。

 

弓兵同士でびっしり隊列を組んで
一斉射撃を行うのではなく、

最小戦闘単位「伍」の枠組みの中で、

(まあ、厳密に言えば、
敵前逃亡を企てる時点で
枠組みから逸脱しているのですが)

 

近距離でやり合う歩兵の武器のひとつとして、

形勢や交戦距離に応じて
射ているように思います。

 

兵書の想定する模範的な内容を
現場の史料で裏付けることが出来る
稀有な事例だと思います。

 

―ただし、記録に残った理由は
触法行為という不名誉なものですが。

 

 

 

2、敵前逃亡のススメ?!

 

ふたつ目は、敵前逃亡の距離について。

軍法に問われた兵士の逃げた歩数は12歩、
つまり、高々17メートル弱。

小学校のプールより短い距離です。

ですが、ここで、
少し考えてみましょう。

前近代の戦列歩兵同士の戦いは、
兵士間の間隔をびっしり詰めて
隊列を作ります。

つまり、自分の伍の後ろには、
後詰の伍が臨戦態勢で
控えている訳です。

 

因みに、『尉繚子』経卒令によれば、
各両(縦5名×横5名、指揮官は両司馬)
ごとに色のことなる記章が配布され、

指揮下の伍の兵卒には
先頭から首→項→胸→腹→腰と、
記章を付ける位置が決まっています。

 

つまり、順番を抜かせば
瞬時に発覚するという
仕組みになっています。

 

実際、曹操の『歩戦令』なんぞ、
こういう奴は即刻斬れと
書かれています。

 

―で、このような管理システムを前提に、
部隊の間隔について
考えます。

 

以前、サイト制作者は、

『李衛公問対』を典拠に
伍の縦隊間の間隔を
唐代の2歩=3.11m、
としましたが、

これは、当然ながら、
かなり緩い場合の間隔です。

 

藍永蔚先生など
『春秋時期的歩兵』において、

当時の武器の長さやその運用から
5名(内、弓兵1名)分の間隔を
7.2mと算出しています。

 

いくつかの古代中国の
軍事関係の文献(日本語文献)も、
この数字をそのまま掲載していますので、
信憑性があるのでしょう。

因みに、サイト制作者は、
双方が短兵器で渡り合えば
もう少し距離は縮むと思います。

 

―それはともかく、

ひとつの伍の縦隊間隔を7.2mと仮定すれば、

先述の兵士が逃げた17メートル弱の距離は、
伍の縦隊ふたつ分を越えるものとなります。

これが、実際の戦場で
どれだけ危険で戦意を喪失させる行為かは
言わずものがな。

 

余談ながら、こういうのが頻発して
敵軍のなすがままになったのが、

日本の事例ですが、
戦国末期の徳川の大坂攻め。

喰い詰めた戦闘のプロの浪人部隊を相手に
戦争未経験の寄せ集めが挑んだ結果です。

島原の乱もこのパターンだそうですが、
特に戦国の末期は
こんなアウトローな逆転劇が
方々で起こっていたそうな。

まあその、
17世紀の日本自体が物騒な時代で、

有名な赤穂浪士の討入りなんかは
その名残でもあった訳ですが。

話を古代中国に戻します。

 

―さて、泣く子も黙る秦軍の軍中で
こういうことをやった連中は、

極刑を喰らったのかと言えば、

意外にやれなかったのが
この時代の面白いところでして。

 

当時の兵隊の質を考えれば、

命の相場が
建前よりは少しばかり高かった、
というような話なのかもしれません。

もっとも、北方での長城建設なんか
生き地獄そのもので、
重罪には変わりないのでしょうが。

 

【了】

 

 

2、対決?!司馬遷対現代歴史家

 

さて、この御話、
そもそもどういう本かと言えば、

1970年代以降の
書簡群の発見の成果を元に、

司〇遷に喧嘩を売ろう、ではなく、
始皇帝の生涯の実相に迫ろうという
野心的な御本。

先の軍法会議の御話は、
謂わばその副産物とでもいうような
逸話です。

 

鶴間先生によれば、

司馬遷も時代の人、人の子でして、

始皇帝を意識した武帝に忖度したり、
一方で、秦の時代との常識のズレもあったり、
という具合。

 

したがって、

一次史料
(リアルタイムで当事者によって書かれたもの)
である事務的な文書である
一連の書簡群と各種史料を照合すると、

『史記』の内容が
必ずしも正しいとは言えないとして、

当該の箇所について、

時には、例えば暦や字の用法、避諱、
天体観測の作法等のような
当時の慣習にも照らし合わせて
丁寧に指摘されています。

 

(こういうキメ細かい芸当が出来るのが、
研究者とサイト制作者のような素人との
決定的な違いだと拝察します。)

―後、始皇帝の姓名は、
正しくは趙「正」なんですと。

 

 

 

3、井戸端や書簡投げ込む水の音

 

さて、1970年代以降に発見された
書簡群の威力については、

サイト制作者も
種々の文献によって
何となくは知っていまして、

例えば、戦争関係で
明らかになったことで知る限りは、

目下、思い付くだけでも、

武人としての孔子像、
前漢時代の前線や後方での兵器の配備、
通信制度の詳細、等。

 

民政関係など言うに及ばずでして、

サイト制作者がこれまで読んだ
僅かな数の論文だけでも、

例えば、漢代の下級役人の
ヒエラルキーや生活等の実相が
かなり明確になって来ている、
という具合です。

 

無論、研究者の方々の視点からすれば、
こんなレベルの話ではないと思います。

 

そして、こういうものの成果が
中国史関係のゲームや小説等の娯楽にも
本格的に反映されてくると、

関連する娯楽そのものの概念が
劇的に変わる予感すらします。

 

さて、こういう一見華のない事務書類の威力
どの時代の研究にも共通する話ですが、

一方で、その出処については
各々の文化圏や時代ごとに
事情が異なるようでして。

 

例えば、古代中国の場合、

面白いことに、
こういう書簡が
どこから発見されたのかと言えば、
古井戸だったりしまして、

多いケースとしては、

役人が井戸に竹簡や木簡を投棄し、
水脈が枯れて程々の湿度が保たれたことで
残っているというパターン。

 

井戸が新しければ、
民国時代の軍閥のハンコでも
出土するのかしら。

夢のある話ですね、などと。

 

ただ、贋作も横行していることで、
出土状況やら入手経路やら、
あらゆる点からチェックを入れる必要が
あるそうな。

この辺りの事情は、確か、
柿沼陽平先生も
御書きになっていたと記憶します。

 

要は、現地で一山当てたければ、
仲買と結託して古井戸と偽書を用意すべし、と。

漢中近辺の古城を狙い、

諸〇孔明には女装趣味があった、とか、
あまり歴史の本筋に関係ない話であれば、

あるいは信じる人がいたり
買い手が付く、かもしれません。

―バレた後が怖そうですが。

 

 

【追記】

先日、確かNHKのBSで、

後漢・三国時代の成都から
漢中界隈までの道のりを
ドローンの空撮でたどるという
番組をやっていまして、

面白く観させて頂きました。

 

成程、秦嶺界隈の映像は想像を絶するものでして、

殊に剣門関など、
両側に絶壁のある隘路で
関所が行く手を阻むことで、

姜維が数万の兵力で
鍾会の軍勢10万を
足止め出来た難所だけのことはあると
感心した次第です。

 

一方で、肝心の諸葛孔明の
北伐の道のりについては、

陳倉攻撃の際に通った故道と街亭、
五丈原の映像があっただけでした。

 

言い換えれば、

趙雲が陽動部隊を率いたり
諸葛亮が五丈原に出撃した時に通った
当時の幹線道路であった褒斜道や、

魏軍と激戦を戦った
秦嶺界隈の魏軍の最重要拠点である
祁山堡近郊の映像がありませんで、

穿った見方をすれば、あの辺りは、
今以て軍事機密にでも
なっているのかしらと思った次第。

サイト制作者の想像と言いますか、妄想の類です。

 

【了】

 

 

 

おわりに

 

一応、結論をまとめます。

 

1、戦闘中の敵前逃亡は、
逃げた歩数が量刑の目安のひとつになった。

 

2、1970年代以降の書簡群の発見により、
既存の歴史研究の内容に
大きな変更点が生じつつある。

 

3、古代中国では、
井戸に行政文書を投棄したことで、
遺跡の古井戸から
書簡群が発見される事例が多発した。

 

 

【追伸】
これだけでは申し訳ないので、
次回掲載予定の説明用イラストも
載せておきます。

楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。

これ以外に、もう1枚、あるいは2枚描いた後、
記事本文をまとめる予定です。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
鶴間和幸『人間・始皇帝』
柿沼陽平『中国古代の貨幣』
高木 智見『孔子』

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3 Responses to 実録?!五十歩百歩(小記事)

  1. 匿名 のコメント:

    今月発売の歴史探訪 vol4に、当時の出土品を元に軍装を再現した
    イラストが掲載されています。興味深いので見てみてください

    • aruaruchina のコメント:

      情報感謝致します。

      何分、不明な点の多い時代のことにつき、
      近いうちに当たってみようかと思います。

  2. aruaruchina のコメント:

     御勧め頂いた『歴史探訪 vol.4』を拝読致しました。

     『三国志』の後世への影響等、
     色々と学ぶところの多い冊子でしたが、

     何と言いましても、買って得したなあと思ったのは、
    ロジャー・ルー先生の圧巻のイラストでして、
    御勧め頂いたのは、これのことだと思います。

     特に、鎧の質感の緻密さについては、
    サイト制作者の描くような粗いナマクラな
    落書きとは違い、

    細かい甲片一枚一枚が丁寧に着色されていることで、
    鉄がくすんだようなそれっぽさが出ています。

     また、兵士や武将の何気ない動きひとつ取っても、
    決して派手な動きをしている訳ではありませんが、
    地に足が付いた格好良さがあります。

     考証学的なものも、色々勉強になりました。
    例えば、さまざまな甲片の繋ぎ方の鎧が
    混在しており、得てして軍装とはそういうものか、と。

     また、馬鎧も、存在こそ史書で確認されているものの、
    大体の構造が分かっているのは次の南北朝の時代のものと
    記憶します。

     武帝期以降の甲片の繋ぎ方や、殷周から戦国時代迄の
    戦車の馬の防具の構造等を考えれば、成程、
    冊子にあるようなイラストになるのかなあと、
    感心した次第です。

     蛇足ながら、ロジャー・ルー先生のイラストを観たり
    『三国志』正史の記述等を読む分には、

     当時は、新編成の皇帝直属部隊や部曲に
    部隊名を付けるのが広く行われたようですね。

     例えば、第5師団、防諜名・広〇カープ、
     ―というのは、つまらない冗談ですが、

     冊子に掲載されているもの以外でも、

     例えば、蜀の赤甲軍だとか、その他、
    『蜀書』にも実態の分からないのが
    イロイロ出て来まして、

     呉の末期にも、
    曹操が昔、あそこで募兵して痛い目に遭った
    丹陽青巾兵だとかいます。
     諸葛誕の近衛部隊も、ここの荒くれ者の集団。
     土地柄がそうなのでしょう。

     参考までに、故・大庭脩先生によれば、
    将軍号が乱発されたのは
    武帝期の匈奴との戦い以降だそうで、

    以降は、国内向けの宣伝もあって、
    将軍号と部隊がセットで
    編制されるようになったそうな。

    「前漢の将軍」『東洋史研究』26-4(PDF)
    https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/152753/1/jor026_4_452.pdf

    また、皇帝の親衛隊も、
    宮中の機能の拡充に比例して
    漸次増設されます。

    長安で王莽を守って全滅したのも
    恐らくこの部隊。

    で、こういう政府中枢の作法というものは、

    驕り高ぶって皇帝の典礼の作法の
    猿真似を始めた劉表宜しく、
    (陶謙と組んだ奴も皇帝を詐称しまして、
    袁術のみならず、こういうのが結構いたのでしょう)、
    時代が下ると軍閥風情もミニチュア版をやり出すもので、

    また、この頃には、
    将軍号や校尉等のような職階や職務内容も
    形骸化していまして、

    例えば蜀漢は、将軍号を乱発する一方、
    独自に「行官」というヒエラルキーを
    作り出すことになりました。

    これは、石井仁先生の下記の論文に
    詳しいのですが、
    残念ながらPDFがないんですワ。

    「諸葛亮・北伐軍団の組織と編制について
    -蜀漢における軍府の発展形態-」
    『東北大学東洋史論集』 4

    このように考えると、

    後漢・三国時代の軍隊の部隊名の多さは、

    恐らくは、後漢時代の軍事的な空白と
    黄巾の乱以降の戦乱の時代の
    副産物なのかもしれません。

    イラストの感想を書くだけのつもりが
    暴走して恐縮です。

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