はじめに
実は、伍の次の記事として、
什だの両だの、
野戦における
100名以下の歩兵戦の話をしようと
考えておりましたが、
サイトのアクセス状況を見るに、
鎧の話の需要があまりにも大きいことで、
まずは、このテーマで
まとまった話をするべきかと
思った次第。
今回は、差し当たって、
現段階で御話出来るものを
いくつか選った次第。
逸話程度で、
残念ながら仰々しい結論を出すような
大層話ではありませんので、
あくまで御参考まで。
1、古代中国の金属事情
当時の鉄、というよりは、金属自体が、
今日で言うところの
レアメタルそのものでした。
その理由のひとつに、
例えば、鉄の場合は、
特に、炭素の含有量の多い
銑鉄を経て鋼を作る場合は、
原料の鉄鉱石のみならず、
炉の温度を上げるための大量の酸素、
―を、送り込むための動力や労働力、
水や木炭等の資源を大量に
消費するという事情があります。
銅も銅で、
精錬には相当な手間が掛かりまして、
零細な資本が
安易に手を出せるものではありません。
事実、銅が武器の中心であった秦など、
用途や種類ごとに技術集団を編制して
生産体制を整える訳です。
2、鋼材の隠し味・炭素の含有量
因みに、炭素の含有量は
鋼材の質の生命線でして、
もう少し詳しく言えば、
コンマ何%の違いが、
武器かガッカリ農具かの分水嶺。
例えば、銑鉄は1.7%以上で4%程度。
これ位高いと固くてもろく、
そのままでは製品になりません。
そして、サイト制作者の理解が正しければ、
大体0.5%前後で
或る程度硬度としなやかさの双方を備え、
このレベルになると農具に使えます。
恐らく、武器となると、
0.25%程度かそれ以下の濃度。
このレベルを追及するとなると、
戦国時代の段階では
銑鉄を加熱して濃度を調整するのは
難しいことで、
鉄鉱石を加熱・冷却して
何度も叩きまくり、
このサイクルを繰り返すという面倒な方法で
製作する訳です。
あの時代の出土品の名剣は、
ほとんど例外なくこの方法と記憶します。
さらに、刀身と刃で使う鋼材が異なるだとか、
まあイロイロ面倒な構造でもあり。
ええ、精巧な紋様の施されている剣にせよ、
金属製の甲冑にせよ、
御大層な墓から出て来るような
この種の出土品は、
少なくとも、
兵卒が帯びるようなシロモノでは
決してありません。
とはいえ、前漢の時代には、
炭素の含有量をかなりの精度で
コントロールすることを可能にした
「炒鋼法」という技術が確立されました。
コレ、実は、何と、
西欧のパドル法に先んずること1000年という
当時としては世界レベルの
ハイテク中ハイテクの技術でして、
そのベースには銅の精錬技術があるという。
で、その技術や生産体制を背景に
ガチで切れる汎用性のある武器―
環首「刀」の普及と相成ります。
もう少し言えば、
刀が剣に取って代わる訳でして。
3、墓と副葬品と曹操
余談ながら、当時の墓は
死者の死後の世界を体現するものでした。
例えば、資産家が大真面目に大枚はたいて
貴重な副葬品を添えて
キメ細かい壁画を彫ったりする一方で、
その反対の方々の中には、
大金の空手形を大書して
自分の墓に入れるといった
パンクな奴も少なからず居たようでして、
その辺りは、何とも、
良くも悪くも利に聡い
中国人らしいと言いますか。
ところが、『三国志』の時代になると
戦乱の長期化に伴い盗掘が横行し、
既存の倫理観をブチ壊します。
そうした事情があってか、
そういうのを散々目の当たりにした
魏晋の曹魏政権―曹操の政権は
法令で厚葬を禁止します。
この御仁、当時は、
反董卓連合の略奪に
心を痛めるような真面目な人です。
また、陳倉で蜀軍を寡兵で撃退した
叩き上げ上げの軍人の郝昭なんか
散々盗掘をやったと居直る訳で、
果たして、
次の時代の司馬氏の晋も
この政策を継承します。
以前、博学な読者の方から
貴重な情報を頂きまして、
今回、後述する文献の裏付けを得るに至り、
成程、当時のコンセンサスだったのかと
改めて理解した次第。
さて、どうしてこんな話をしたかと言えば、
魏晋時代の出土品が少なく、
娯楽コンテンツの考証が
難しいことに対する
サイト制作者の愚痴に他なりません。
鉄の腐食に加えて、
時の政権のシブチン事情もあるようで。
因みに、最近の当人の墓の盗掘、ではなく、
発掘調査が話題になっていますが、
曹魏政権の墓の話の種本は、
蘇哲先生の『魏晋南北朝壁画墓の世界』。
(白帝社アジア史選書008)
誤植がチョコチョコみられるのが
難点ですが、
鄧艾が成都を落した時の兵は
羌族が中心だったとか
三国志関係の裏話がいくつか書いてあり、
その他、当時の社会事情について
色々と勉強になった本でした。
4、秦漢の鉄の国家管理
さて、鉄の生産水準は、
唐代の段階ですら
年間の徴税分の鉄が1200トンだそうで、
税率を1割と仮定しても
生産量自体が12000トンにしかなりません。
因みに、大体1万トンという数字は、
日本の大型製鉄所の日産の水準です。
したがって、戦国時代や
前漢の武帝の時代以降は、
戦時中という事情もあり、
鉄器は生産から使用まで
厳密な国家統制の下にありました。
例えば、漢代は『塩鉄論』で有名な桑弘羊の時代など、
国家が製鉄業者に対して、
鉄官として製鉄やその管理に従事するか
資本を安値で政府に引き渡すか迫った訳でして、
そりゃ、外戚に擦り寄って献金して
担当官庁に口達者な論客をけしかける位
するわな、と。
また、秦の場合、
武器は元より、農具についても、
今日で言うところの
脱税を企てないような
真面目な生産者に貸与あるいは支給し、
摩耗しても払い下げずに
鋳潰してリサイクルする訳です。
さて、戦国時代の鉄の先進的な生産拠点は
三晋地域や斉の辺り。
秦の場合、というよりも、
どこの国もそうなのかもしれませんが、
限られた鉄を、実は武器ではなく、
農具の生産に重点を置いて
供給していました。
そして、占領した製鉄の拠点から
既存の大資本を締め出して官営とし、
これらの資本家を
後進地域―例えば、南陽郡
(当時の漢民族の南側のフロンティア)等の
開発に宛てます。
5、本当に鉄製か?!黒光鎧と明光鎧
で、恐らく、
こういう金属の脆弱な生産事情が
時の武器―特に鎧の生産量にも
暗い影を落としていたものと想像します。
それらしき例え話として、
例えば、三国時代の北伐で
蜀軍が押収したという
「黒光鎧」という鎧がありますが、
その定義たるや、
この時代における最新型の鎧である
明光鎧の仲間などではなく、
材質はともかく
札甲の鎧の表面を漆で黒く塗装したものを
そう呼ぶのだそうな。
さらに救いようのない話をすれば、
唐宋時代の出土品に
皮革製の「黒光鎧」があった模様。
蜀軍が祁山で鹵獲した鎧が
全て皮革や銅とは言いません。
ただし、その一方で、
官渡の戦いの前の
飛ぶ鳥落とす勢いの曹操が、
「自軍の馬鎧は10両しかなく、
袁紹軍は300両保有している」
と、嘆いた話の背景を考えると、
鉄製の比重が高かったとは
言えないと思います。
因みに、南北朝自体ですら、
馬鎧は大国で1000両だとかその水準。
また、故・駒井和愛先生によれば、
「明光鎧」の「明光」は、
銅鏡が光り輝く様を言うのだそうで、
転じて、鎧自体が鉄製とは限らないのだそうな。
察するに、
物資不足の魏晋の時代なんぞ
言わずものがな。
因みに、『三国志』の時代から
数百年経った唐宋当時ですら、
どうも、鉄製の鎧が
末端の兵士の標準装備とも言えないようで、
「紙甲」と呼ばれる
布製でも割合堅牢な鎧が
大量に出回っておりました。
おわりに
おさらいとしては、
古代中国では金属自体が貴重で
大体、戦時下では国家統制下にあったことと、
そのような経済統制を通じても
どうも鉄製の鎧は
それ程出回っていなかったのではないか、
という御話で御座います。
次回以降、図解の改訂も含めて
以前やった鎧の話を
もう少し詳しくやることに加え、
鋼材等の話についても、
もう少し踏み込んでかつ平易な形で
行いたいと思います。
さて、余談ながら、
確か宋代だか、
民間人の鎧の着用自体が違法行為でして、
昨今の革命権が背景にある
銃社会のアメリカでも、
同じく、民間人の防弾チョッキの着用は
違法なんだそうな。
(連中の場合は、都市部で乱射事件を起こすので
話が拗れている気もしますが)
もっとも、犯罪者が真面目に順守するとは
思えませんし、
つい最近でも、普通の民間人ですら
ふざけて防弾チョッキで撃ち合いをやった
という事件すら起きていまして、
こういうのも州によって法規が異なるのかとも
思います。
グラセフなんかやると、
ドンパチ必携のアイテムだったりしまして。
まあその、例外めいた話はともかく、
今回の記事とこれらの御話を見るに、
多少なりとも治安政策と人殺しの本質を
少しばかり垣間見たような心地がします。
【主要参考文献(敬称略・順不同)】
角谷定俊『秦における製鉄業の一考察』
『秦における青銅工業の一考察』
駒井和愛『漢魏時代の甲鎧』
柿沼陽平『戦国時代における塩鉄政策と国家専制支配』
篠田耕一『武器と防具 中国編』
『三国志軍事ガイド』
田中和明『金属のキホン』
菅沼昭造監修・鉄と生活研究会編著
『トコトンやさしい鉄の本』
趙匡華著、廣川健監修、
尾関徹・庚凌峰訳『古代中国化学』
蘇哲『魏晋南北朝壁画墓の世界』
こんにちは。
私は今、主に古代中国の戦争を簡素化したゲームを開発している者です。
詳しいことをメールでお送りしたいのですが、下記のメールアドレスに一つご連絡いただいてもよろしいでしょうか。
なお、このコメントには返信は必要ありません。
お手数おかけしますが、よろしくお願いいたします。
以前、御便り頂いた折、gmailのアドレスにメールを御送り致しました。
確か、メールを頂いた翌日と記憶します。
恐れ要りますが、御確認頂ければ幸いです。