三国時代の魏の兵力動員の底力—諸葛誕の不毛な兵乱

はじめに

三国時代の部隊編成について調べる過程で、
個人的にブッ飛んだ話だなあと思った部分を少し綴ります。

残念ながら編成の話ではなく、動員規模の話です。

編成の方は、
整理する事象が多い上に色々と基準も不明確で、
半ば泣きそうになりながら個々の情報を整理しています。

また、軍事動員の規模については、
時代が下って来ると、数字に対する感覚が狂って来ます。

正直なところ、北伐の8万、官渡の10数万、赤壁の20万という動員兵力が
可愛く思えて来る三国時代の後半戦。

自身の不勉強さを強く痛感します。

 

1、演義が終わっても戦乱は終わらない

三国時代もかなり下ると、孔明が陣没した後は、

魏呉蜀いずれの君主に肩入れして物語風に解釈するにしても、

書き手が入り乱れたような太平記宜しく、
儒教の忠孝の観念で推し量れるような類の
志のある英雄がのし上がる話ではなくなるのですが、

逆に言えば、良くも悪くも、
中国の王朝臭い権謀術数の泥臭さが浮き彫りになるところが面白くもあり。

発展的な史観という意味での中国史としては、恐らく建設的な話ではないと思うですが、
(古い中国史の通史がこの時代についてあまり詳しく書かなかったことで)

後世の日本人としては、

喧嘩はやる方よりも見る方が面白い、あるいは、
権謀術数の優良なモデル・ケースとでも言いますか、

所謂、野次馬根性的な意味で興味をそそる御話の類。

 

 

2、大部隊集結の条件

さて、いくら人口が減った時代とはいえ、

三国時代も勢力図が或る程度固定し、魏呉蜀各々で物資・人員の双方
動員体制が整ってくると、
前線に出張って来る兵の数もハンパな数字ではなくなって来ます。

軍事力のピークは、どうも君主の有能な曹操の時代ではなく、
時代が下ってから迎えたようです。

そのうえ、
特に、ふたつの国が睨み合うだけであればまだしも、

中央のゴタゴタで前線に動揺が走ると、

離反を画策した者が出先で勝手に兵隊を集め、
中央はそれを抑えにかかり、

敵対陣営は反乱に介入するための援軍を用意することで、

最前線やその付近の策源地では、
勢力を問わず、局地的に凄まじい規模の兵力動員が起こります。

 

3、兵力動員の台風の目、諸葛誕

何の話かと言えば、
具体的には、257年に起きた寿春での諸葛誕の反乱のことです。

元々揚州は魏と呉の国境地帯
魏の内政が実を結んで屯田兵が多く駐屯していたうえに、

都督の諸葛誕は先の毌丘倹の反乱から学ぶところ多く、
動員に謀略にと、周到な準備を進めていました。

そのうえ、呉も呉で、赤壁以後は頻繁に魏の国境を侵しているうえに、
この少し前には諸葛恪が大軍で攻め込むといった具合で、
こういう泥臭い略奪戦争は手慣れたもの。

 

極め付けは闇将軍の司馬昭(追記:訂正前は司馬師と書いていました)で、
宮廷内での政争の延長として諸葛誕の離反を早くから察し、
加えて呉の手口も熟知していることで、

ここぞとばかりに大軍を動員して潰しに掛かりました。

 

結果として、司馬昭は26万、諸葛誕は10数万、
呉は少なく見積もっても数万の兵力を動員します。

司馬昭が兵の数で鯖を読んでいなければ、
寿春城近辺に〆て50万弱の兵隊が集まる計算になります。

事実、寿春城が包囲されてからは、

籠城部隊の出撃は元より、
呉の野戦部隊が寿春城への突入を何度も試みて失敗していることから、
魏の体制側も相当な兵力を動員していることは間違いないと思います。

 

4、この兵乱の特異性

また、見方を換えれば、
晋が呉を滅ぼす時も、確かに凄まじい規模の大軍でしたが、

その種の戦役に比してこの反乱の怖ろしいところは、

揚州北部一帯にこれだけの兵隊が集結し、
そのうえ野戦も城攻めも含めて1年弱もガチの戦争をやってのけた点です。

さらに長安の山奥でも蜀と事を構えていることで、

存外、孔明の北伐よりも、

(三国にとっては)こういう勝者も敗者もない不毛な兵乱にこそ、
魏の国力の底力を見出した心地です。

 

5、勝った官軍も無能な御家騒動

こういう戦役の根っこに何があるのかと言えば、
結局は中央での不毛な権力闘争ありきでして。

金文京先生が指摘していることですが、
諸葛誕にせよ、毌丘倹にせよ、司馬氏が曹氏を押さえつける過程で
反乱を起こした訳です。

しかも、事を起こしたのは、対呉戦線の最高指揮官。
諸葛誕も、司馬仲達に粛清された曹爽のグループでした。

出先の軍隊ですらこの有様で、

その前には、洛陽の宮廷では、
王淩が皇帝の廃位(マトモな王子の曹彪の擁立)を画策して
粛清されていることで、

つまりは、内に外にと御家騒動の混乱を露呈している訳です。

確かに、曹操の時代も、曹丕の禅譲の際にもクーデター未遂はありましたが、
10万越えの前線部隊が離反するレベルの醜い兵乱は起きていません。

曹爽等の浮ついた政策は
良識派の官人にとっては怨嗟の的であったのかもしれませんが、

司馬氏の権力掌握の過程も、
裁量のある軍人・官僚の離反を招く程度に御粗末だった、ということになります。

さらに司馬氏はこの後、禅譲どころか皇帝を手に掛け、
その汚名が払拭出来ぬまま、程なくして国が亡ぶので、

こうなると、曹氏の末期も司馬氏の覇権も、

中華王朝としての政権基盤の強化という意味では、
無策同然の泥仕合という域を出なかったことになります。

 

ともあれ、今の感覚で言えば、軍人であれ、文官であれ、

高い職階にあり強い権力を持った官僚が職権を乱用すれば
社会に与える影響がそれだけ大きいことを、
身を以って証明したと言えます。

さりながら、国を乗っ取った癖に、
三国の統一後は民にとっては害悪でしかなかった司馬氏。

そもそも、権力中枢が宮廷化と無能化が並走した結果、
司馬氏の台頭を許した曹氏。

今回の「主役」の諸葛誕とて、如何に曹氏に忠誠心があるとはいえ、
そういう風潮を助長した無能な高級官僚のひとりに過ぎません。

 

6、寿春、籠城始末

参考までに、
毌丘倹の乱の時の(その本拠の)寿春の守備隊や住民なんか哀れなもので、

毌丘倹や文欽の指揮する城外の反乱軍本隊の敗報が伝わった時、

体制側の処刑を恐れて、自ら城門を破って、付近の山や沢、果ては、
呉の領内に逃げ込んだそうな。

さらに、この諸葛誕の乱では、
当人の地盤である淮南近辺で盛んに金子をばら撒いて人心収攬に努めました。
ここまではともかく、続きがあります。

さらに、揚州出身の侠客数千を集め、
緩い軍規で子飼いの兵に仕立て上げました。

人を殺しても罪に問われなかったそうな。

で、こういう兵隊が戦時体制にかこつけて何をしたかなど、

それまでの英雄達の武勇伝からすれば、
察するに余りあります。

既に、戦争が始まる前からこの有様。

当然、戦争が始まったら、
籠城戦は御決まりの飢餓と守備兵の疑心暗鬼の地獄絵図。
内応者・投降者もボロボロ出ます。

そのうえこのクズは、数多の将兵を戦乱に巻き込みながら、
公孫淵と同じく逃亡を企てて斬られる始末。

この時代の激しい籠城戦をいくつか見る限り、

こういう長丁場の窮地では、

軍人・文官の垣根なく、
まして、軍才や武勇、物資の遣り繰りや神算鬼謀とも別の次元の、

まさに人物本位での指導者としての価値を問われるものです。

 

 

【追記】 諸葛誕の直属部隊

 

ここまでクソミソに書きましたが、

この人の名誉のために言えば、当人の直属部隊で捕縛された者は、
誰ひとりとして降伏しなかったそうな。

それも、司馬昭が降伏を促しながらひとりひとり斬っていくという
やられる方にとっては残酷な状況下でのことで、
忠誠心は筋金入りだったのでしょう。

恐らく、こういうメンタリティからして、
先述の揚州出身の荒くれの侠客数千の生き残りであったと推測します。

だとすれば、落城後に捕縛された段階で生存率1割ということで、

寿春城内に入った呉の兵が多目に見積もっても3万程度と仮定しても、
籠城中に数千の投降者を出し
落城後に1万の降伏者を出しているところを見ると、
相当激しく戦ったことになります。

参考までに、落城の前の月の258年正月に、
守備側は包囲陣を破るべく数日間の攻勢に出たものの、

包囲側の猛反撃の結果、大量の死傷者を出して撃退されています。

また終局の場面も、そのトリガーは、
司馬昭自らが包囲陣で指揮を取るかたちでの総攻撃でして、

その文脈からすれば、
諸葛誕も逃げたのではなく、玉砕突撃だったのかもしれませんが、
私にはそれを知る術を持ち合わせていません。

 

 

おわりに ~国破れて山河あり

私個人の意見として、
世の中には、必要悪としてやらざるを得ない戦争はあると思いますが、
こういう内乱に存在意義はあるのでしょうか。

特に、泉下の曹操に、感想を聴いてみたいものです。

 

自分の無能な子孫と権力闘争だけは得意な一族との政争。
そして、その喧嘩の道具が、自分が礎を作った動員体制。

で、兵乱の結果、動員体制の威力だけは検証出来たものの、
カウンター・クデーターと返す刀で呉が屈服した訳でもなく、
呉が滅亡する280年まで20年以上間があります。

 

しかも、これだけの威力の動員体制が、その司馬氏の統一後に活きたかと言えば、

こういう動員体制でまたもや御家騒動を始め、

それどころか、毒を以って毒を制すべく、
北方の大型メジャーが欲しくて外人枠を拡大した結果、

いつの間にか自分達の国土が、
チューゴク人から見た

西遊記で言うところの妖怪みたいなのの馬蹄で踏みにじられている始末。

 

確かに、外人部隊の起用には、

「異民族」の漢人居住区への流入深刻な労働力不足という時代の実情に加え、
それを積極的に利用して兵乱のタネを作った曹操にも責任があるとはいえ、

中国史上稀な大改革や最高レベルの中国産優良コンテンツのオチ
無能の浅知恵の再生産の帰結としての八王の乱

ゲームのマルチエンディングで言うところの、
典型的なバッド・エンドではなかろうかと思います。

 

私が昔読んだいくつかの三国志演義の要約本は
秋風五丈原で終わっていたのですが、

まあその、書き手がここで話を止めたがる気持ちも
分からんでもないと言いますか。

 

その意味では、ファミコンの『天地を喰らう』なんか、

三国志というコンテンツ自体が
今のようなレベルで認知されていないあの時代に、

2作も続けて、よくまあ蜀が魏を滅ぼす展開を準備したものだと思います。

しかも御丁寧に、1作目と2作目で洛陽までの侵攻ルートも異なるという。

ゲームのプロットを自分達で作って「本宮先生の絵でなければ駄目なんです!」とか、
『スト2』も『ファイナルファイト』も『殿様の野望』も大体あの時代の作品につき、

当時は、蛮勇の雰囲気を巧く遊び道具に持ち込むという点で、
スタッフのセンスが神懸っていたのでしょうねえ。

昔のゲームの話はともかく―、

 

 

孔明の死によって、
蜀の命運が尽きた≒三国鼎立の条件が崩れた、というより、

書かれた時代の知識人階級の偶像としての
品行方正で辣腕を振るった登場人物が全て幕を下り、後に残るは俗物ばかり、
というのがミソなのでしょう。仲達も含めて。

後の部分は、自分達の欠点を羅列することになるので、
臭いもの(言葉遊びと不毛な政争)にはフタをしよう、と。

その意味では、諸葛誕の乱は、
三国時代後半の混沌とした時代の不毛な消耗戦の象徴であると言えましょうか。

 

 

—それなりに調べて書いたつもりですが、
こんなこと書いてて、後で読み返したら、

演義に書かれた王朗みたいに赤面して憤死するのかしら。

 

 

【主要参考文献】

陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子訳『正史 三国志』1~4巻
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
金文京『中国の歴史 04』
井波律子『三国志演義』
湯浅 邦弘 編著『概説 中国思想史』

カテゴリー: 軍事 パーマリンク

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