はじめに
更新が遅々として進まず、
読者の皆様には御迷惑を御掛けして大変恐縮です。
さて、今回は幹線道路の3つ目のパターンである
桟道についての御話。
戦国から前漢までと後漢・三国時代の
二本立てとなりまして、
今回は前者の方。
三国志のファンの方、悪しからず。
1、当時の科学技術の粋?!
桟道とその敷設の区間とは?
で、この桟道ですが、
簡単に言えば、
絶壁に沿って作られた木造の橋桁の道です。
向こうの国には、
「桟道」以外にも
「鳥道」という文字通りブッ飛んだ言葉もあります。
また、前回触れました直道・馳道とは異なり、
急峻な地形に
無理やり道路を開削するパターンにつき、
存在する地域も限られます。
具体的には、
サイト制作者の知る限りでは、
蜀、及び、咸陽―南陽郡の直道の区間の山間部の
ふたつの地域。
まず、南陽郡自体は
(始皇帝没後の)前漢時代は
漢民族の開発のフロンティアの南端
であったとはいえ、
そもそも始皇帝の地方巡察や
旧楚の王都である江陵近辺への侵攻ルートである
馳道の終点のひとつ。
さらには、今回のメイン・テーマである
咸陽・長安から漢中までの桟道も、
後述するように
秦の領土拡張の過程で国家戦略として
大々的に整備された経緯があります。
蜀・四川盆地は沃野であり、
銅や塩等の国政に必要な貴重資源も眠る土地。
つまり、ポンコツ道路をデッチ上げてでも
物資や兵隊を往来させる価値があった訳です。
2、沃野を守る天険・秦嶺山脈
では、その蜀とはどのような地形をしているのかを、
現在の地図で確認すると、以下のようになります。
地形など、
河川の流れは変わっても山の形までは
早々変わらないものでして、
特に、蜀の喉首である漢中から
咸陽・長安までの道のりは、
2、3000メートル級の山々で構成される
秦嶺山脈が大きな障害になっていることが
窺えるかと思います。
その蜀への経路ですが、
この話も含めて
今回の御話のタネ本として紹介するのが、
久村因先生の論文
「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」。
ttps://ci.nii.ac.jp/
(アドレスの一文字目に「h」を補って下さい。)
著者検索「久村因」等で辿って頂ければ幸いです。
PDFがアップ・ロードされています。
さて、現在は、1950年代当時とは異なり、
現地では事務レベルの行政文書が
数多く発掘されていることで、
この分野の研究がどこまで進んでいるのかは
分かりかねますが、
その一方で、
論文検索を行っても
桟道関係の研究がそれ程多くはないことと、
論文の内容自体も
物の考え方としても非常に参考になることで、
ここで紹介させて頂きます。
ただ、この論文を地図なしで読むのは、
都市や道、河川等の位置が想像出来ないことで
苦痛に感じるでしょうから、
(サイト制作者がそうでした!)
ヘッタクソながら、後で図解します。
論文とイラストを照合しながら
御読み頂ければと思います。
また、論文自体も、
イマイチ結論を整理出来ていないところが
ありまして、
着想が面白いだけに、
その辺りも少々残念に思います。
―良くも悪くも、
昔の論文だという感じがしないでもありません。
余談ながら、
歴史学であれば、
大体この年代の論文は
文章が支離滅裂であったり
前後で内容に整合性が無かったりするものが
結構多いです。
―ええ、このサイトの駄文のように。
で、エラい先生方が先行研究を整理する際、
そうした複雑怪奇な文章を
しっかりと読み込んで
整理されたのかと言えば、
そういう部分は無視して
実証的な部分のみを相手にした、
という具合。
その意味では、
この論文は相当良心的な部類です。
まあその、
上のヘンなノイズは
ともかくとしまして。
したがって、久村先生には大変失礼ながら、
この論文の面白そうな部分を
ツマミ喰いするかたちで
話を進めていこうと思います。
3、どれもヤバい?!入蜀の経路
3-1 最も有用な漢中経由
早速ですが、先生によれば、
当時は3つのルートが存在したそうな。
それを地図に表したものが以下。
見ての通り、
1、漢中経由
2、長江経由
3、南方経由
というルートがありまして、
さらにその中で
一番現実的であったのが、
この怪しげな橋桁道で構成される
1、漢中経由という、
ウソのような本当の御話。
3-2 長江の東征は危険な香り
こういうものは、
恐らく消去法で考えた方が納得が行きます。
まず2、長江経由ですが、
陸路を踏破する際の
水の確保であればともかく、
船舶を用いた移動ともなれば、
上流の蜀から下流の東シナ海までの
川の流れが大きな阻害要因になります。
で、三国時代に
これを逆手に取って蜀から東へ出撃したのが
劉備と晋の王濬ですが、
攻勢の際には
移動や補給を円滑にするものの、
敗勢になると
川の流れがアダになって
逆に撤退に支障を来すことで、
その意味では
大きなリスクを背負う作戦でもありました。
―これは次回の御話。
また、当時の実情としても、
このルートよりも
咸陽・長安―漢中のルートの方が
人の往来が格段に多かったようです。
人夫や物資等の首都関係の需要に加え、
当時の人民の怨嗟の的であったとはいえ、
馳道開削の恩恵がそれだけ大きかったことを
示唆していると思います。
3-3 知る人ぞ知る秘境の補給路
最後に3、南方経由。
古代中国の入蜀については、
商用や旅行であればともかく、
中原の政権の
蜀に対する軍事侵攻ルートとしては
主流とは言えません。
山がちな地形なうえに
インドシナ半島に
策源地が必要だからです。
むしろ、例えば三国時代の蜀漢がそうですが、
この鉄壁の四川盆地を抑える政権にとっては
南方への有用な交易路・軍道であったという御話。
つまり、この3つの入蜀経路の状況が物語るのは、
それだけ往来に難儀する地域であった、
ということです。
余談ながら、
20世紀の日本とて
占領地の守備に起因する兵力不足が祟って
この天険を攻めあぐね、
参謀本部は
対米戦が始まっても
暫くは重慶攻略の作戦計画を
練り続けていました。
方や、その日本の侵略に対して、
四川盆地を根拠地として
交戦を続ける国民党は、
英領であるインド・ビルマから
昆明を経由して首都・重慶に至る、
所謂「援蒋ルート」で
日本の北仏進駐
(要は、ナチの侵攻で瀕死の
フランス植民地の火事場ドロ)まで
米英から軍事支援を受けていました。
―してみれば、
こういう急峻な地形に起因する
地政学的な構図は、
科学技術の発達を以ってしても
簡単には変わりにくいことを
暗示しているように見受けます。
4、図解、秦嶺山脈の山越えルート
4-1 渭水水系沿いに伸びる桟道
それでは、次に、
当時の入蜀の主要ルートであった
咸陽・長安から漢中に至る経路について
触れることとします。
以下の、例によってアレなイラストを御覧下さい。
サイト制作者の浅学で恐縮ですが、
もし、後漢時代以降に登場した地名が
混じっていれば
大変申し訳ありません。
加えて、漢中郡の治所は
特に漢代を通じてコロコロ変わっていまして、
主に南鄭県にあった、
という程度の御話で御願い出来れば幸いです。
さて、長安―漢中間の距離は、
直線で大体300キロ程度。
しかしながら、
両都市の間を秦嶺山脈の天険が
遮っていまして、
劉邦や光武帝はおろか、
蜀漢や曹魏の名将殿各位も、
この山越えに手を焼いた訳です。
その一方で、
秦嶺山脈の北側を流れる
渭水の水系の支流に沿うかたちで
同山脈の南に位置する
漢中に向かう道が伸びており、
このうちのいくつかが
当時を代表する幹線道路となっています。
具体的には東から、
子午(谷)道、褒斜道、故道が
存在しました。
子午道は前漢の終わり頃から
存在が確認されたそうで、
さらには、後漢に入ると、
子午道と褒斜道の間に
駱谷道が開削されます。
また、この他の入蜀の経路として、
陰平道という道もあるそうですが、
サイト制作者の浅学につき
具体的な経路は不明です。
そして、これらのルートのかなりの区間が
桟道という形で開削されたということ
なのでしょう。
4-2 劉邦の足跡、褒斜道と故道
さて、これらの道路の中で
戦国時代から秦代までの最も主要な道路は
褒斜道でした。
因みに、この道の北半分の地域を
斜谷と言います。
この褒斜道は、
紀元前260~250年頃に
秦の名臣・范雎の肝煎りで
大々的に整備された桟道のようでして、
秦を滅ぼす過程で
項羽に干されて
(公約である関中どころか)
僻地の蜀に飛ばされた劉邦が、
自分の領地に涙目で入蜀した直後に
焼き払ったのも、
この道だそうな。
もっとも、
元々損傷が激しかったことで、
北上の意志がないことを示すための
政治的な理由で破却した可能性がある
とのこと。
そして、その後、
戦後処理で躓いた項羽を後目に、
自力で関中を制圧すべく
劉邦が蜀を出撃した際の経路は
故道でした。
どうもこの道は、当時は、
この少し前まで使われていた道の模様。
さらには、
元々渭水の南は、
東西の移動については
小水系が入り乱れて移動に適さず、
渭水の北で行われていたようです。
事実、劉邦の関中攻略は、
こうした事情の下、
故道を通って渭水の北に出てから
東進します。
ただし、この時点では、
項羽との対立を避けるために
咸陽には手を出さなかった模様。
おわりに
今回の御話をまとめると、
概ね以下のようになります。
1、桟道が確認出来るのは、
秦王朝の幹線道路であった。
2、古代中国の入蜀の経路は、
以下の3つの経路が存在する。
一、咸陽・長安から南下し、
秦嶺山脈に掛かる桟道を超えて
漢中に入る経路
二、長江やその水系を遡って西進する経路
三、雲南・貴州から北上する経路
3、上の3つの経路の中で主流であったのは、
一、の秦嶺山脈を超える経路。
4、秦嶺山脈を超えるルートの中で、
秦の時代から劉邦の入蜀の時代までは、
褒斜道が最大の幹道であった。
5、劉邦が褒斜道を焼き払い、
これより西に位置する故道を通って
関中を攻撃した。
6、渭水水系の桟道は南北の移動に適していたが、
東西の移動は、主に渭水の北で行われた。
7、渭水水系の長安―漢中の経路に、
前漢の終わりには子午道、後漢には駱谷道が、
それぞれ加わった。
【主要参考文献】
久村因「秦漢時代の入蜀路に就いて(上)・(下)」
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
金文京『中国の歴史 04』
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻