『三国志』の時代の農村都市「郷」

今回も000字程度となったことで、
以下に章立てを付けます。

興味のある部分だけでも
御覧頂ければ幸いです。

加えて、
主要部分は以下の御本からの引用が多く、
それに後漢時代の状況を加味しています。
柿沼陽平先生の『中国古代の貨幣』(吉川弘文館)

 

はじめに
1、郡内における
「県」・「郷」・「里」の分布状況
2、ある郡の事情と某国の郡
3、「郷」の顔役と役人達
4、郷里の世間と群雄
 4-1、エリート群雄の登竜門・「孝廉」
 4-2、教育と学問と乱世の姦雄
5、県城の機能
 5-1、県城の規模と城内の里
 5-2、田畑の資産価値
 5-3、常設の市の概要
 5-4、軍事上の係争点としての末端拠点
おわりに

 

短くまとめるのが本当にヘタ
大変恐縮です。

 

はじめに

今回は『三国志』の時代の農村都市「郷(きょう)」の御話。

前回はこの時代の農村の話をしましたが、

『三国志』の時代の村・「里」(当該記事)

今回は、この「里(り)」が密集する、
もしくはいくつか点在して構成する「郷」について、
詳しく見ていこうと思います。

 

1、郡内における
「県」・「郷」・「里」の分布状況

漢代の言葉に「十里一郷」というのがあるのですが、

これが意味するところは、

行政側にとっては、
里が10箇所でひとつの郷を形成するのが
大体の目安ということです。

さて、前回「里」の話をしたことで、
折角ですので、「里」や「郷」を含めた
広域的な地図のモデルを見てみましょう。

具体的には、以下のようになります。
因みに、これはひとつの郡内の地図のモデルです。

 

柿沼陽平『中国古代の貨幣』p131の図を加工。

文献の地図が非常に分かり易いことで、
前回の記事でも
これを使って説明すれば良かったと後悔しております。

この図で、郡―県―郷―里、の、
末端自治体の位置関係がかなり整理出来たかと
思います。

目ぼしい拠点には防御施設があり、
主要な拠点同士は幹線で結ばれています。

青線を施したのは、
サイト制作者の主観ですが
軍道としての側面もあると想像したからです。

恐らく、王朝の治安の拠点である亭も、
こういう道を網羅していることでしょう。

因みに、
始皇帝の開削した主要幹線道路なんか
道幅70がメートルもありまして、

これは官民共用とはいえ、
その中央の7メートルは
自分の馬車専用であったそうな。

今日の田舎の国道も顔負けの規模です。

 

2、ある郡の事情と某国の郡

「郡」と「県」をめぐる話について、
実例も一応紹介しておきます。

例えば、首都・洛陽近郊に、
河内(かだい)郡という郡がありまして、
後漢時代には郡内に野王県・温県・朝歌県等
16の県がありました。

治所は時の政情で変わるようでして、

例えばこの郡も、
反・董卓の兵乱の際に
冀州刺史の某が県の治所を
野王から山間部の温に変えたことで、

住民が動揺して
国境地帯の住民(所謂「異民族」でしょう)
に付け込まれまして蹂躙されましたとさ。

そのうえ、
正義の諸侯の主力がここに集結したことで、
現地で略奪を働いて郡内が壊滅したという
救いようのない御話。

これを諫めたのが仲達の兄の司馬朗ですが、
当時は官界デビュー直後の若造につき
相手にされなかったそうな。

正史の文脈としては
某が無能というよりも、
晋の皇族の手柄話なのかもしれませんが。

後、蛇足ながら、東の何処かの国にも、
奇しくも「河内郡」(読み:かわち)
というのがありまして、

それも、「河内音頭」の大阪府河内郡以外にも、
茨城・栃木の2県も。

良く言われる話ですが、
日出る国と沈む国とでは
郡・県の上下関係が逆です。

―理由はサイト制作者の不勉強で、
御存知の方がいらっしゃれば
教えて頂きたい位ですが。

で、むこうは太守の治める郡の下に、
県令の治める県があります。

先述の反董卓で名乗りを上げた群雄が、
大体は郡の太守クラスです。

言い換えれば、
何十万という人口から徴税し、
さらにその資力で兵権を弄って
兵乱のトリガーを引く訳です。

一方、こちらは、大正時代まで郡長おり、
大抵は県庁の退官者が
形ばかりの試験を受けて就任したのですが、

地方社会への政治的な影響力は
或る程度あったものの、

決済する予算は少なく、
その実態は、
ほとんど名誉職のようなものでした。

広域的な合併が進み、
郊外の工業団地や農村も
「市内」となる前の時代の話です。

 

 

3、「郷」の顔役と役人達

つまらない話を恐縮です。
そろそろ、本題に戻ります。

そして、ここで注意すべきは、
里の分布状況です。

さて、先述のように、
ひとつの郷の中に里が点在している場合もあれば、
1ヶ所に密集している場合もあります。

もっとも、この図はモデルですので、
当然ながら、
6つの里が集まって
県城や郡城を構成するという訳ではありません。

ですが、「郷」クラスの地域になると、
その地域との政治的なつながりが強くなって来ます。

まず、郷の代表を「郷三役」と言います。

これは、役職名ですが、
自民党の「党三役」等とは違い、
構成員は郷の代表1名です。

郷三役は、
各々の里の指導層である「父老」から選出され、
郡や県の命令を、
里の代表である「里正」に下達します。

恐らく、その辺りの当局の政策の内容や意向は、
郷三役や父老、里正で共有されるのでしょう。

また、或る程度大きい郷になると、

訴訟を担当する「嗇夫(しょくふ)」
徴税を担当する「游徼(ゆうきょう)」

といった役人が駐在します。

この辺りは、
秦代からの制度が継承されていると推察します。

 

 

4、郷里の世間と群雄

4-1、エリート群雄の登竜門・「孝廉」

そして、
政策の下達だの、訴訟だの徴税だのと、
地方政治の実務にかかわる話が出て来ることは、

同時に、村落の富裕層にとっては、
中央政界への末端の入り口が
存在することも意味します。

具体的には、
漢代の人材登用制度に
「郷挙里選」というのがあります。

この人物評価システムは、
地方官が中央政府に
在地の優秀な人間を推薦する
というものです。

そして、その前の段階で、
末端の里郷が
地方官に推薦する候補者を選定します。

さらに、この選定の際、
最重要視された科目が、「孝廉」。

つまり、孝行と清廉潔白。

何故こういう小難しい話をするかと
言いますと、

曹操や袁紹、公孫瓚といった、
『三国志』の前半の軍閥で頭の切れる奴は、
大抵はこれをパスした
地域社会の名望家の出身だからです。

言い換えれば、彼等は、
教養の部分で価値観を共有している訳です。

 

 

4-2、教育と学問と乱世の姦雄

当然、その人材推薦のかなりの部分は
富裕層の猟官目的の功利主義
動いていまして、

例え田舎で推薦される人は
人格的にはアレでも、

孝行や清廉潔白をアピールをする
処世術や文言を、
幼少から英才教育で叩きこまれる訳です。

で、このバック・ボーンとなる思想としての
儒教の存在があると。

ところが、前漢の段階で、
孝廉については過度なアピールが目立つだの、

後漢に入って学生が増えてからは、
学生は大学でロクに勉強せず
コネ作りに励むだのと、

官界の人材システムには
色々と悪評はありました。

その意味では、曹操なんか、
試験の出来は悪かったが、
仕事は出来た上に教養もあったことで、

当時の制度と実態の乖離を
体現したような人物であったのかもしれません。

まあその、儒教の勉学は、

現在の感覚で言えば、

人間修養というよりも、
司法試験や公務員試験対策としての
六法の暗記に近いのでしょう。

もっとも、
全部が全部、功利主義ではないでしょうし、
社会道徳を学ぶ側面もあると思いますが。

 

 

5、県城の機能

5-1、県城の規模と城内の里

またしても、話が脱線して恐縮です。
拠点としての「里」の話に戻します。

さて、里が密集した「郷」は
特別な拠点でして、

その地域の中心的な都市として
さまざまな機能を兼ね備えます。

具体的には、

身分の高い役人が常駐したり、
こういう人々が日用品を買うためもあり
常設の市が立ち、

高い城壁のような防御施設も充実します。

で、その規模ですが、
里が10単位も密集すると、
同じ「郷」でも県の治所である「都郷(ときょう)」
となります。

対して、それ以外の郷を「離郷(りきょう)」
と言います。

ここで、密集した郷の実例を見てみましょう。
以下の、アレなイラストを御覧下さい。

なお、識者は
この古城を県城(都郷)と推測しています。
その前提で、以下を綴ります。

なお、周辺の田畑は、
サイト制作者の想像(妄想)ですが、
複数の文献の内容を参考にしました。

さて、まず、城壁の中に、
区画整備された「里」が
規則正しく配置されていまして、

各々の里は土塀で覆われており、
「監門」と呼ばれる門番が常駐し
決まった門限で門を開閉しています。

中の仕組みは、
前回の記事の内容と同じと推測します。

 

 

5-2、田畑の資産価値

また、郷の構内がこれだけ広くなると、
周辺の田畑への通勤の有利不利
出て来ます。

郷の富裕層は城壁の周辺に田畑を持ち、
これを「負郭」と言います。

通勤にも防衛にも有利で、
資産価値が高い訳です。

もっとも、
実際に農作業に従事するのは
使用人だそうですが。

対して、貧困層は、
城郭から遠い
「負郭窮巷」と呼ばれる田畑に通い、
繁忙期は泊まり込みで作業をします。

そのうえ、
籠城戦にでもなろうものなら
真っ先に荒らされる訳です。

守備隊が打って出て野戦を行うのも、
大抵はこういうところでしょう。

 

 

5-3、常設の市の概要

また、物流に関しては
先述のように常設の市が立ちます。

この市は大抵は城門の付近にありまして、

市は土塀に囲まれており
ここでも門番が門限で開閉しています。

また、市の中央の「旗亭」
謂わば警察署に加え、
集会所、飲食スペースを兼ねた施設でして、

地方官が演説をぶったり、あるいは、
塾なんかも開かれています。

施設の責任者である亭長は、
地方で信用のある年配者が担当しています。

村落の亭長とは
任用の基準が異なるのかもしれません。

その他、中央の高楼では、
城壁の外の外敵の監視も行うようです。

 

 

5-4、軍事上の係争点としての末端拠点

その他、注目すべき点としては、
点在する里が道沿いにあるのに対して
この種の主な集落は道を貫通していまして、

これが意味するところは、

侵攻軍の移動に際して
こういう集落を通過する必要があることを
意味します。

実際、『三国志』の時代にも、
「亭」(先述の県城内の「亭」とは異なる)等の
末端の交通の拠点が
戦場になっていまして、

施設の単体での防衛力はともかく、
要衝として争奪の対象になっていることは
注目に値します。

例えば、曹操の対袁紹戦における黄河渡河後の
演義の「十面埋伏」で有名な「倉『亭』の戦い」も、

恐らくその種の戦闘なのかもしれません。

 

 

おわりに

例によって
無駄に長くなりましたが、
纏めに入ります。

 

1、「里」が集まったものが「郷」。
点在するものもあれば、
密集するものもあります。

 

2、密集した「郷」の中でも、
大きな部類は地域の中心となります。

県の治所となる郷は「都郷」
そうでない郷は「里郷」。

 

3、郷の代表は「郷三役」。
里の指導層である「父老」の中から選出されます。

また、或る程度大きい郷になると、

訴訟を担当する「嗇夫(しょくふ)」
徴税を担当する「游徼(ゆうきょう)」

といった役人が駐在します。

 

4、中央政界に推薦する人材の候補者を
最初の段階で絞るのも、里や郷です。

 

5、県の治所である「都郷」になると、
常設の市が立ちます。

市は城門の付近にあり、土塀で囲まれています。

中央には「旗亭」が設置されており、
警察署・集会所等の機能があります。

 

6、城壁で囲まれている郷の中の里は
区画整理のうえ配置されています。

さらに、各々の里は土塀で囲まれており、
門番が門限で門を開閉しています。

 

7、県城クラスの郷の田畑は、
城壁からの遠近で資産価値が分かれます。

城壁から近い田畑は
「負郭」と呼ばれ資産価値が高く、

遠いものは「負郭窮巷」と呼ばれ、
通勤に不利で戦禍にも遭い易い状態にあります。

 

8、規模の大小にかかわらず、
交通の要衝で防衛施設のある拠点は、
戦争の際には係争点になる確率が高くなります。

 

 

【主要参考文献】

柿沼陽平『中国古代の貨幣』
川勝義雄『魏晋南北朝』
西嶋定生『秦漢帝国』
西川利文「漢代における郡県の構造について」
『佛教大学文学部論集』81
小嶋茂稔「漢代の国家統治機構における亭の位置」
『史学雑誌』112 巻 ・8号
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』

カテゴリー: 経済・地理 パーマリンク

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