7000字弱。
章立てを付けます。
興味のある
部分だけでも
御笑読頂ければ
幸いです。
はじめに
1、寄せ手の負荷と
崤の戦い
2、遠征反対の諫言
3、蹇叔の逸話
【雑談・年齢の話】
4、出征時の悶着
5、名言の裏事情
6、幽霊様の軍略
7、遠征の背景
7-1、
晋秦の亀裂
7-2、
東方を占領せよ
おわりに
はじめに
今回も、
主に地理の御話です。
1、寄せ手の負荷と
崤の戦い
『周礼』「考工記」
廬人為廬器の中で、
次のような件が
あります。
故攻國之兵欲短、
守國之兵欲長
攻國之人衆、行地遠、
食飲饑
且涉山林之阻、
是故兵欲短
守国之人寡、食飲飽、
行地不遠
且不涉山林之阻、
是故兵欲長
衆:多い
饑:飢える
寡:少ない
阻:険しい場所
故に攻国の兵は
短きを欲し、
守国の兵は
長きを欲す。
攻国の人は衆にして、
地を行くに遠く、
食飲に饑す。
かつ山林の阻を渉り、
これ故兵は短きを欲す。
守国の人は寡にして、
食飲に飽き、
地を行くに遠からず。
かつ山林之阻を渉らず、
これ故兵は長きを欲す。
国を攻めるには、
取り回しの良い武器と
大人数の兵士と
大量の食糧を必要とし、
オマケに
険しい地形を
踏破する必要がある、
という、
今日日の某所の
痛ましい大戦争でも
何処か
通用しているように
見受ける
一般論。
2、遠征反対の諫言
この文言について、
サイト制作者の
感覚に過ぎませんが、
この件の実例に
どうも
近そうな話として、
『春秋左氏伝』
(以下『左伝』)は、
僖公33
(前627)年の
崤の戦いの
前年における、
秦の大夫・
蹇叔(けんしゅく)の
予言が、
それに当たると
思いました。
秦の穆公が
同盟国の晋に内緒で
鄭を攻め取ることを
企てまして、
今回の主役の
蹇叔がその中止を
具申する訳です。
その際、
蹇叔は、
タダでさえ
目的地が遠いうえに、
敵国の晋は、
必ず、
険峻な崤
(河南省三門峡市の
南を東西に広がる
山岳地帯)
―北嶺と南嶺の間の
山道に
迎撃に出て来ると
言います。
以下に、
当該箇所の原文を
引用します。
労師以襲遠、
非所聞也。
師労力竭、
遠主備之、
無乃不可。
師之所為、
鄭必知之。
勤而無所、
必有悖心。
且行千里、
其誰不知。
労:疲弊する
竭:出し尽くす
悖:背く、外れる
『春秋穀梁伝』の
当該の箇所には、
「虚國(国)に
入りても、
進みて守るあたわず、
その師
徒(いたずら)に退敗し、
人に子女の教えを
亂(乱)し、
男女の別なし。」
とある。
これを受けてか、
『春秋経典集解』は
「悖」について、
「まさに
良善を害す」と
注釈する。
要は軍紀の弛緩か。
労師をもって
遠を襲うは、
聞くところに
あらざるなり。
師は労して
力竭(つ)き、
遠主はこれに備え、
無にしてすなわち
可ならず。
師のなす所は、
鄭必ずこれを知る。
勤んで
無きところに、
必ず悖(はい)心あり。
且千里を行くに、
其を誰か知らざる。
要は、
目的地が
遠過ぎることで、
軍隊が疲弊する
のみならず、
相手に気取られて
備えられる、
という訳です。
地図で
策源地と目的地を
確認すると、以下。
秦の国邑の
雍(現・陝西省
宝鶏市鳳翔区)から、
鄭の国邑の
鄭(現・河南省
新鄭市)までの
直線距離は、
約600キロ。
周尺は約18cmで、
1里=1800尺
≒324m。
比喩に突っ込むのも
何ですが、
馬鹿正直に
数えると、
文字通りの千里行、
それどころか、
倍近くの
遠さになりますね。
3、蹇叔の逸話
さて、
国君・穆公に
耳の痛い諫言を
呈した
この蹇叔ですが、
『史記』秦本紀に
当人について
多少記述があります。
この一件から
遡ること
30年弱の
穆公5年のこと。
(前655)
秦が有能で評判な
百里傒(けい)を
要職(五穀大夫)への
抜擢を試みた折、
当人は既に齢70を
超えており、
代わりに推したのが
この蹇叔。
若い頃に
仕官先を求めて
諸国を放浪した際、
何でも
その蹇叔より、
方々で、
あそこの国は
採る気がなかったり
面倒事が多かったり
するので
止めておけ、
といった
忠告を受けたことで、
難を逃れた―
殺されずに済んだ
そうな。
この御仁、要は、
外国事情に明るく
目先が効く、
ということ
なのでしょう。
とはいえ、
その百里傒の
秦の前の仕官先は、
晋に道を貸して
同盟国の虢(かく)
共々滅んだ
虞(ぐ)と来ます。
―苦労人ですワ。
4、出征時の悶着
さて、
こうした
推薦書付きの
硬骨漢の諫言を
ものともしない
秦・穆公は、
孟明・西乞(きつ)
・白乙(いつ)の
三将と、
少なくとも
300両の戦車を
雍より鄭に向けて
進発させます。
標準の編成で
大体2、3万
程度の兵力か。
『史記』
「秦本記」の内容を
西暦に換算すれば、
時に、
前627年春のこと。
蹇叔は
軍の出征を
見送るのですが、
その際、
「これを哭して」
総司令官の孟明に
帰還には
立ち会えそうにない、
―生きては帰れない、
と、出征前の軍中で
不吉なことを
言う訳です。
当然、
怒った穆公は、
勤続30年の
蹇叔に対して、
使者を介して
ジジイ呼ばわり
します。
臣下や将兵の手前、
こういう行為が
捨て置けぬ
という事情も
あるのでしょう。
【雑談・年齢の話】
穆公や蹇叔等の
年齢を
推測するに
当たって、
イロイロと
思うところが
ありまして、
その辺りを少々。
まずは、
先述の穆公の
蹇叔を
ジジイ呼ばわりした
暴言を、
一応、原文で
声に出して
読んでみましょう。
中寿、
尓墓之木拱矣。
中寿にして、
なんじが墓の木は
拱(きょう)する
なり。
中寿:ここでは、
小倉芳彦先生は、
6、70とする。
当時の蹇叔の
年齢か。
中寿は、長寿の
三段階中の中位。
上寿・中寿・下寿
が存在する。
具体的な年齢は
諸説あり、
各々の階層ごとに
10~20歳
程度の間隔がある。
さらに、最大で、
100歳を
上寿とする
史料もある。
拱:一抱えある様。
もしくは、
両手を胸の前で
重ね合わせて
敬意を表す。
杜預によれば、
「手を合わせるを
拱と曰う。」
因みに、
小倉芳彦先生は、
岩波文庫の
訳書にて、
この部分を
以下のように
訳されています。
中寿で
死んでくれて
いたら、
汝(なんじ)の墓に
植えた樹は
もう一抱えほどに
なっているぞ。
成程、
原文の文法に
忠実な
綺麗な訳だと
思います。
ただ、
サイト制作者は、
コレについて、
原文自体の
言い回しとして、
どうも
不自然なものを
感じます。
大胆なことを
言えば、
恐らくは、
「(我)
拱尓墓之木矣。」
なんじが墓の木を
拱するなり。
と書くべき
原文の誤記かと
思います。
そうであれば、
くたばったら
貴様の墓標を
拝んでやる、
程度の意味では
解釈出来るかと
思います。
もっとも、
誤記の有無を
抜きにしても、
老人呼ばわりして
罵倒することに
変わりは
ありませんで、
古人暴言録の
頁を彩る訳ですね。
恐らく
試験には
出ませんわナ。
受験生の皆様、
安心されたし。
まあその、
当ブログでは、
残念ながら、
漢文読解の足しには
ならんと思いますが。
―それはともかく、
人を
ジジイ呼ばわりした
穆公の年齢を
推測するに当たって、
『史記』「秦本記」の
内容を整理すると、
以下。
穆公の父の徳公は
33歳で国君となり
在位僅か2年、
35歳で死去。
徳公には
子が3名おり、
各々が年齢順に
即位しまして、
その期間は、
長男の宣公は12年、
次男の成公は4年、
そして三男の穆公は
何と39年。
で、先述の、
墓がどうたらの
一件は、
何と、
在位32年目の
イベント。
察するに、
穆公も穆公で
結構な年齢に
見受けます。
極端な話、
先代の徳公が
息子の穆公を
20歳で孕ませた
としても、
齢50越え
という勘定に
なります。
要は、
大体同世代の
老人に対する罵倒。
さて、
年齢関係で
どうも
整合性の
付かない話が
もうひとつ。
先述の、
蹇叔が
穆公を諫めた
場面では、
実は、
もうひとり
居合わせた人物が
いる模様。
『史記』「秦本記」
によれば、
穆公を諫めたのは
蹇叔と百里傒と
なっています。
一方、
『公羊伝』や
『穀梁伝』は、
これを「百里子」と
しています。
倭人の
「ゆりこ」では
ありません。
サイト制作者は、
さすがに
「秦本記」は誤記で、
(齢90越えと
なります)
あるいは、
「百里」は氏姓で
百里傒の血縁者
かしらん、
と、見ていますが、
憶測の域を出ません。
【雑談・了】
5、名言の裏事情
さて、
良かれと思い
諫言したところ
主君・穆公に
キレられた
蹇叔ですが、
スネて、ではなく、
哭して曰く。
―実は、以下が、
歴代の地理書に
引用される
名言となります。
晋人禦師必于崤。
崤有二陵焉
・・(ママ)
其南陵、
夏后皋之墓也、
其北陵、
文王之所辟風雨也。
必死是間、
余収尓骨焉。
禦:防ぐ
于:赴く
崤:崤山山脈
陵:大きな丘、山頂
夏后皋:殷の紂王の
祖父
文王:周の文王
辟:かわす、逃れる
尓:あなた。
ここでは蹇叔の息子。
引用箇所の前文に
「蹇叔の子、
師に与(くみ)し、
哭してこれを
送り」と、ある。
晋人は師を禦ぐに
必ず崤に于(ゆ)く。
崤には二陵有るなり。
・・(ママ)
その南陵は、
夏后皋の墓なり、
その北陵は、
文王の
風雨を辟(く)
ところなり。
必ずこの間に死し、
余は
尓(なんじ)が骨を
収むるなり。
崤の界隈には
南北に
ふたつの頂きがあり、
友軍は
その間の地点で
秦に敗れる、
と言う訳です。
「二陵」の
場所や性格を
示唆している
貴重な部分。
そして、恐らくは、
大体の地形は、
現在も、
当時とは
それ程
変わっていない
印象を受けます。
一応、
現地の地図を
以下に。
過去の記事で
使ったものの
再掲です。
この辺りの地理の
細かい話は
また後日。
悪しからず。
そして、
唐突に出て来る
原文中の「尓」
というのは、
事もあろうに、
この遠征に従軍する
蹇叔の息子と来ます。
稚拙な作戦で
我が子を
殺されかねないので
シャレにならん
訳です。
察するに、
レトリックとしても、
我が子の死を
予言する体の
痛ましいものにつき、
後世に残る言葉と
なったのかも
しれません。
因みに、
『穀梁伝』や
『公羊伝』、
『史記』「秦本紀」
といった
他の史料等も、
この辺りの内容は
大同小異。
そのうえ、
秦にとって
悪いことに、
同年冬の
晋・重耳の葬式の折、
晋の上層部は
この秦の秘密裡の
領土侵犯を
把握します。
『史記』秦本紀の
解釈を採れば、
既に、
秦の出征前の段階で
露見したことに
なります。
6、幽霊様の軍略
事が漏れる過程が
怪談めいて
オモシロいので、
以下に少々。
『左伝』
僖公32年の件の
原文は以下。
冬、晋文公卒。
庚辰、将殯于曲沃、
出絳、柩有声如牛。
卜偃使大夫拝。
曰君命大事。
将有西師過軼我、
撃之、必大捷焉。
庚辰:干支の
60日中17日目。
当該部分の
「経」には
「冬十有二月己卯、
晋公重耳卒。」
とあり、その翌日。
殯:浅く埋葬して
改葬を待つ
曲沃:現・山西省
臨汾市曲沃県
絳:臨汾市翼城県。
曲沃県より
北東40キロ程。
当時の晋の首都。
卜偃:卜官、郭偃。
大事:杜預によれば
戦争。
西師:師は軍隊。
ここでは秦軍。
過軼:ここでは
飛び地を襲う、か。
軼は、突然襲う、
追い越す、といった
意味がある。
冬、晋文公卒す。
庚辰、まさに曲沃に
殯(かりもがり)す。
絳を出るに、
柩に牛の如き
声あり。
卜偃使大夫をして
拝せしむ。
いわく、
君は大事を命ず。
まさに西師は我を
過軼(かいつ)し、
これを撃つに、
必ず大いに
捷(勝)つなり。
仮葬の
野辺送りの折、
柩から
低い声が
したんですと。
ゾ~。
で、
そのエラい
幽霊様が
おっしゃるには、
秦が自領を
通過するので、
これを攻撃せよ、
さすれば
味方の大勝利は
間違いなし、と。
とはいえ
この怪談話、
種明かしをすれば
何のことは
ありませんで。
杜預によれば、
卜偃が
秦の「密謀」を
聞いたそうな。
弔問に訪れていた
要人の密談かしらん。
で、晋の卜偃は
その「密謀」を受け、
柩から声がした、
これは君命である、
というロジックで
人心を
纏めたのですと。
ところが、
このレベルの報告が
上がってすら、
晋の上層部の中には、
喪中を理由に
出兵を渋る声も
出ます。
まず、原軫は、
穆公が
蹇叔の諫言を
無視したことを、
「天は我を
奉ずるなり。」
とします。
この遣り取り
―廟算
(出陣を決める軍議)
だと思うのですが、
の段階では、
晋は秦の内部の
意見対立を
把握している訳です。
対して、
欒枝(らんし)は、
未だ、
秦の恩義に
報いていないので、
迎撃は
先君(重耳)の
意向に反する。
と、反対します。
余談ながら、
原氏も欒氏も
晋の屈指の勢家。
それはともかく、
これについて
原軫は
重ねて反論します。
喪に服さず
同姓を
(周王室・姫姓)
討たんとするのは
秦の方である。
これを
野放しにすれば
後々面倒なので、
晋の子孫のため
—長期的な視野で、
事を起こす。
先君に対しては、
これで
申し開きが出来る、
と、します。
―モノは言いようで。
結局、
この原軫の居直りが
決め手になり、
ついに晋も、
出撃に踏み切ります。
ですが、
この
原軫と欒枝の
遣り取り自体が
いつの話かは、
残念ながら
サイト制作者には
分かりません。
後に、
崤で晋と秦が
干戈を交えたのは、
翌、前627年の
春のこと。
恐らくは、
重耳の葬式からは
或る程度
時が経過していたか、
あるいは、
重耳の葬式の折の
密儀の時点で、
既に、
崤での迎撃には
手遅れであったの
かもしれません。
少なくとも、
秦の初動の山越えを
見送っている
訳です。
さて、
遠征の結果は、
蹇叔の予言通り、
秦の軍隊は
増長するわ、
鄭には
動きを気取られるわ、
挙句、
本国への
撤退の途中に、
その崤にて、
欺いた筈の
同盟国の晋の
待ち伏せを受けて
殲滅されるわと、
散々な結果に
終わりますが、
この過程も、
今回は端折ります。
7、遠征の背景
7-1、晋秦の亀裂
秦の遠征には、
上記のような、
国君が
賢臣の意見を
無視した
経緯があるのですが、
このような
在り来たりな話が
罷り通る理由
について、
もう少し
掘り下げてみます。
『左伝』を中心に
大雑把に纏めます。
出来れば
一言二言で
片付けたいのですが、
状況が
結構ややこしいので、
大体の流れを
抑えるかたちで
以下に綴ります。
頃は春秋時代半ばの
前7世紀後半。
情勢は
晋楚の覇権争いの
真っただ中でして、
それも晋の最盛期の
文公・重耳の時代。
—絵に描いたような
苦労人の人格者。
で、その時分、
関中(西安界隈)で
勢力を張っていた
秦の穆公は、
その東の
絳(こう、
現・山西省翼城県)
を根拠地とする
最強国・晋との
姻戚関係を
ダシに、
その晋を
後押しするかたちで
中原の戦争に
積極的に
介入します。
さて、
そうした流れの中の、
前630年のこと。
鄭の計略により
晋秦の同盟関係に
亀裂が入ります。
事の起こりは、
晋秦両国
その他による、
楚に付いた
鄭の包囲と
城下の誓いの強要。
その鄭は、
晋楚の国境地帯に
位置して
気苦労の絶えない
国です。
さらには、
その少し前の
城濮の戦いで
宗主国・楚が
敗れたことで、
後ろ盾を
失っています。
とはいえ、
その鄭も
亡国に
リーチが掛かって
必死でして、
燻っていた老臣の
奇計を採用して
起死回生を
図ります。
具体的には、
盟主の晋を
差し置いての
秦との単独講和、
という挙に出ます。
その結果、
鄭は秦に
国邑(河南省新鄭市)の
城門の鍵を預け、
そのうえ
部隊の駐屯も
認めます。
対する晋は
両国の蚊帳の外。
謂わば、鄭の、
毒(秦)を以て
毒(晋)を
制せんとする
苦肉の分断策。
当然、晋は、
秦への不信を
募らせ、
即時の
秦の野営地の
攻撃まで
検討されますが、
これを制したのが
かの重耳。
自分の擁立に動いた
キングメーカーの
秦への恩義に
他なりません。
—蛇足ながら、
諸国の盟主として
権勢を誇る立場で、
目先の利害に
とらわれずに
かつての恩義に
報いるのが、
この人の
エラいところか。
何せ、
盟主の国が
傘下の国と
頻繁に会合を持ち、
多額の財貨を
徴発する代わりに
コチコチの儀礼で
信義を守ることで、
どうにか
同盟国を繋ぎ止める
という時代の御話。
そのうえ、
そうした
息苦しい時代にも
かかわらず、
晋の先の代の
国君の中には、
ここでは
誰とは
言いませんが、
散々
空手形を切って
不義理を働いて
秦の怒りを買い、
戦場で
捕虜になった人も
います。
そういうのを
知っている故
かもしれませんが。
それはともかく、
関係が拗れつつある
晋秦両国にとって
さらに悪いことに、
その重耳が
程なくして
この世を去ります。
7-2、東方を占領せよ
そして、
この訃報によって、
両国の関係の破綻は
決定的になります。
秦は、
事もあろうに、
重耳の喪中を
突いて、
動けない晋を
出し抜くかたちで、
鄭を電撃的に
占領すべく
動き出します。
鄭の駐屯部隊からの、
現地の占領の好機
という報告を
受けての出撃。
今で言えば、
やくざ映画の
悪役さながらの
蛮勇ですワ。
対して、
その報復に
応じる晋も
目には目を。
その辺りの
生臭い経緯も、
外交・社交としての
信義の時代に潜む
リアリズム
かしらん。
そして、
蹇叔の
先述の諫言は、
まさに
このタイミングで
なされたものです。
ただし、
当人の立場も、
外交政策として
鄭の占領そのものに
反対した訳ではなく、
軍事作戦として
やり方が悪いので
中止せよ、
というもの。
当然、晋の介入も
折り込んでの
ことです。
その辺りの打算が、
当時の秦の
メンタリティを
反映しているように
思えます。
その背景として、
それまでの
領土拡張の結果、
東の境が
同盟国の晋と
接したことで、
同方面での
領土拡張が頭打ち
という現状。
その国境も、
晋と散々
戦争をやった末に
確定した
血の対価。
さらには、
その後の
穆公の時代の
中原での戦争は、
晋の同盟軍
というかたちで
行われています。
したがって、
目上の瘤の晋を
出し抜いてでも、
中原への足場が
喉から手が出る程
欲しかったことは、
想像に
難くありません。
しかしながら、
見方を変えれば、
難所における
軍隊の先導や
兵站の確保について、
それまでの
晋への依存から
脱却することを
意味します。
そのうえ、
それを、
初手から
正攻法ではなく
奇襲でやると
来ます。
懸念する人が
いない方が
ヘンな話ですが、
実際の両軍の
行軍経路等の御話は、
また後日。
おわりに
今回の御話の内容を
整理すると、以下。
1、サイト制作者は、
『周礼』「考工記」
廬人為廬器の
「故攻國之兵」の件の
実務レベルの一事例
として、
前627年の
崤の戦いを
想定している。
2、崤の戦いは、
秦が晋に秘密裡に
晋の傘下の鄭の
占領を企図して
起こった。
3、秦の蹇叔は
これに反対した。
秦から鄭への
距離が遠いことで、
軍紀が弛緩し、
さらには、
敵に発見される
確率が高いのが
理由である。
結果として、
諫言は無視された。
4、蹇叔は
晋の迎撃地点を、
現・河南省
三門峡市付近の
崤であると
予想した。
崤は、
当時の中国の
国内では、
屈指の難所の
峡谷である。
5、晋は、
秦の背信的な行動
については
かなり早い段階で
把握していたが、
喪中の派兵には
反対意見があった。
それとの因果関係は
不明であるが、
具体的な軍事行動は
出遅れた
可能性がある。
【主要参考文献】
(敬称略・順不同)
『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』(国学導航)
聞人軍『考工記訳注』
左丘明・小倉芳彦訳
『春秋左氏伝』各巻
杜預『春秋経伝集解』
『春秋穀梁伝』
(維基文庫)
『春秋公羊伝』
(維基文庫)
司馬遷『史記』
(維基文庫)
酈道元『水経注』
(維基文庫)
譚其驤
『中国歴史地図集』
辛徳勇
「崤山古道瑣征」
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』
第4版