【追記】23年7月7日
少々長いので、
章立てを付けます。
(6000字程度)
はじめに
1、崤で武器を振り回す
2、中原の要衝・崤
3、リアル落鳳坡と二嶺
4、羊の群れが幹道に
5、曹操の新道
6、洛陽へ行きたいか
6-1、
秦から鄭への千里行
【雑談】花の都で西部劇
6-2、
晋秦の最前線
・桃林塞
6-3、
崤以東も要衝続き
おわりに
【主要参考文献】
【補足】
はじめに
長らく更新が滞って
大変恐縮です。
今回は地理の御話。
長安・洛陽間の
幹道についての
大雑把な御話と、
両都市の往来の
障壁となる
要衝・崤の界隈の
図解の開陳です。
これに因んで
恐縮ですが、
以降何回かは、
崤の戦いに
関連する話を
予定しているため、
史料等の
正確な引用や
崤界隈の
細かいルートの話
については、
次回以降に
回します。
1、崤で武器を振り回す
さて、
これまで
武器の話を
続けて来たにも
かかわらず、
ここで唐突に
地理の話を
始めた理由は以下。
これまで
綴って来た
『周礼』「考工記」の
廬人為廬器の
文言の中に、
「攻國の兵は
短きを欲し」云々、
遠征を行う側は
短い兵器を望む
等々、
という件があります。
要は、
攻める側は、
物量・地形・
武器の長さ等で
物理的な制約が
生じる、
という御話です。
さらに
サイト制作者は、
この件の
実務レベルの
一事例として、
春秋時代は
僖公33年
(前627年)の
崤の戦いを
想定しています。
まあその、
前提が怪しいと
言われれば
御手上げですが。
要は、
元の史料の
文脈に沿った結果、
斯様な次第に
相成りまして。
2、中原の要衝・崤
まず、崤は、
ざっくり言えば、
洛陽と長安の
中間点の
山岳地帯。
河南省三門峡市より
東南に15キロ程の
地点です。
この辺りは
両都市の障壁となる
古来よりの要衝。
『淮南子』の説く
「九塞」のひとつ
です。
春秋時代以降も、
例えば
戦国時代には、
「崤塞」として
(戦国策)
長らく
秦と東の国々とを
隔て、
前漢末の内乱に
おいても
赤眉と劉秀が
洛陽の玄関口
として
ここで干戈を交え、
三国志の時代には、
長安に遷都した
董卓の政権の
東の防衛線として
機能しました。
3、リアル落鳳坡と二嶺
で、
この界隈の
詳細な地理ですが、
個人的には
グーグルマップ等で
確認なさって
頂いた方が
為になるかと
思いますが、
こちらでも
主要な山河を軸に
図解すると以下。
酈道元『水経注』その他の史料、辛徳勇「崤山古道瑣征」、グーグル・マップ、百度地図、中国の方々のサイトさん等の内容を照合して作成。
大体は
『水経注』の内容の
図解ですが、
その理由は、
他の史料に比して、
山河や都市の
位置関係が明確で、
そのうえ、
恐らくは、
この界隈については、
書かれた時代の
状況と
現在の地理とで
大差なさそうな事
でして。
さて、
この辺りの地形を
グーグルマップの
写真を見る限り、
ざっくり言えば
急峻な山岳地帯
ですが、
その中で
ポイントになる山が
ふたつあります。
少なくとも
春秋時代には
北嶺・南嶺と
称された山。
辛徳勇先生
によれば、
現在の名前で
北嶺は金銀山、
南嶺は响屏山。
(きょうへい、
あるいは、
きょうびょう、か?
チュゴクゴ
難しアルヨ!)
図解の典拠である
「崤山古道瑣征」は
中文ですが、
ほとんど頭の
「崤山古道示意図」
だけでも
必見の価値があると
思います。
以下は、
同論文のアドレス。
道客巴巴さんより。
ttps://www.doc88.com/p-6945684119641.html
(1文字目に「h」)
そして、
『春秋左氏伝』や
その注釈によれば、
どうも
この辺りの山道で
崤の戦いが
起こった模様。
4、羊の群れが幹道に
先の図解を
もう少し
フォーカスしたものが
以下。
さて、
今回の2枚の図解は
先述の
「崤山古道示意図」が
ネタ元でして、
先生すげ~、謝謝!
と、拝みつつ、
多分『水経注』が
大体の典拠かしらん、
と、当たりを付け、
これを自分なりに
目ぼしいポイントを
史料や地図等で
確認したうえで、
色々付け足しました。
―まあその、
それが裏目に出て
「不純物」が
混入しているかも
しれませんが。
それはさておき、
現在の崤界隈は、
急峻な山岳地帯を
高架の高速や
トンネルが
ブチ抜き、
隔世の感も
極まれり
という訳ですが、
これ位はやらんと
文明社会自体が
成り立たんの
でしょう。
以下、
御参考までに、
現地の映像も
紹介します。
「好看視聴」
游崤函古道之
雁翎关、
吃三门峡特色
美食小酥肉
(アドレスが
コロコロ変わるので、
「百度一下」等で
上記の言葉を
コピー・ペースト
なさって下さい。)
上記の動画の
1分前後、
249号線の
雁翎関
(がんれいかん)
の辺り等、
高低差だの、
ヘアピン・カーブ
だの、
道を羊の群れが
占拠するだの、
初見で
ハ〇ジの世界かと
思いました。
それはともかく、
南嶺から北嶺に
向かう道としては、
グーグルマップを
見る限り、
以下の2本が
考えられます。
ひとつ目は、
南嶺から
北上するルート。
ふたつ目は、
南嶺より
さらに東南に進み、
宮前郷から
北上するルート。
ですが、
『左伝』や
その注釈によると、
どうも、
当時通行出来た道が
前者に限られていた
印象を受けます。
そのうえ
『西征記』によれば、
この道の様子として、
凄まじい風雨で
戦争用の楽器の音が
聞こえなかった
そうな。
事実、
晋が秦を破ったのも
史書によれば奇襲。
一方で、
部分的には、
道の両側に
切り立った峰が
あることで、
風雨を避けられる
場所がある模様。
—風雨を避けたのが
周の文王だそうで、
といった
エラいところ。
もっとも、
そういうところは
風雨の代わりに
矢や落石が
飛んで来るの
でしょうが。
そして、
こういうのを
危惧して
遠征に反対した
秦の重臣が、
北嶺と南嶺の間の
山道で
晋の要撃を受けると
予言し、
これが
的中するという、
何だか、
孔明の得意技
のような
芝居掛かった予言が
話の幕開けに
なる訳です。
―と、言いますか、
こういう
レトリックの
元ネタかしらん。
5、曹操の新道
そして、
さらに興味深いのが、
そのような
凶悪な
ボトルネック
について、
崤の戦い
—春秋時代から
1000年弱も下った
後漢時代に、
かの曹操が
この道を嫌った、と、
孫世代の杜預が
書き残している点。
で、実は、
その旧道の
二嶺近辺の
正確なルートが、
どうも
諸説入り乱れる
議論の的の模様。
そして、
その曹操が、
旧道を回避すべく
北嶺・金銀山の
北側に
新道を開削した模様。
先述の
1枚目の
図解で言えば、
地図の
真ん中辺りの、
張茅郷から
清水河沿いに
観音堂鎮に抜ける
道でして、
『水経注』に曰く、
「二道を
纏絡(てんらく)
し」。
で、曹操が
この道を嫌って
新道を開削した
という事は、
言い換えれば、
それまでは、
この悪路が
現役であった事を
意味します。
献帝や
その女官の皆様も、
董卓の遷都で
この山越えを
やった事に
なりまして、
王朝の引っ越しに
半年掛かった模様。
—難儀なことで。
6、洛陽へ行きたいか
6-1、
秦から鄭への
千里行
最早、死語。
次いで、
長安・洛陽間
における
崤の位置付け
について、
崤の戦いを参考に
少し考えます。
まず、
崤の戦いにおける
秦の策源地と
目標ですが、
秦の策源地は雍
(陝西省宝鶏市
鳳翔区)。
そして、
鄭(現・河南省
新鄭市)を
目指します。
現地の
駐留部隊の
武装蜂起に
呼応するためです。
ですが、
この阻止に動く晋の
秦に対する
綺麗な防衛戦とも
言い切れませんで、
洛陽の東に
到達した段階で
目論見が頓挫して
撤退する秦が、
崤で
晋の待ち伏せを
受けた戦いです。
これに因んで、
以下に、
位置関係を
整理します。
雍は
長安(現・西安市)
から
距離にして
西に170km程。
洛陽
(現・洛陽市)は
春秋時代の周で、
長安より東に
330km弱。
鄭は洛陽より
東に120km弱。
〆て延べ
600km余の
長征と
相成ります。
そのうえ、
それを
万単位の軍隊で
奇襲として
行うという
破天荒な計画。
当然ながら、
この作戦計画は
当時の感覚でも
イカレてまして、
反対した人の言葉が
秀逸につき、
歴代の地理書に
引用されています。
先述の
予告ゲッツーですワ。
【雑談】花の都で西部劇
本論から脱線します。
念の為。
さて、ここでは、
その中でも、
隘路の要衝続きで
割合経路が
絞り易いであろう、
長安・洛陽間の
行程について
考えたい
ところですが、
その前置きとして、
その起点となる
西安界隈の
春秋当時の
状況について、
少し考えたいと
思います。
さて、春秋当時、
特にその前半の
長安の辺りは、
どうも
周の西遷の
空白を突いて
諸勢力が
混在してまして、
これを
秦が掃討する
構図の模様。
言い換えれば、
当時の
この辺りは、
鎬京や咸陽の
ような
存在感のある
大都市のイメージでは
ありませんで。
例えば、
譚其驤先生の
『中国歴史地図集』
「春秋」秦、晋
によれば、
まず、
西安の辺りには、
少なくとも、
涇陽(けいよう)と
杜という
ふたつの主要拠点が
あります。
以下は、
当該のアドレス。
ttp://www.ccamc.co/chinese_historical_map/index.php#atlas/03/%E7%A7%A6%E3%80%81%E6%99%8B.jpg
(頭に「h」を。)
とはいえ、
その前の
西周時代の状況と
比べると、
随分閑散とした
印象。
さて、
そうした中、
まず、涇陽は、
渭水の北岸に
あります。
(東の方で
黄河に
合流しますが。)
正確には、
渭水のすぐ北を
東南に流れる
涇水の北。
河川の北につき、
「陽」。
西周の膝元の
畿内とはいえ、
異民族の
獫允(けんいん)の
制圧下に
あった模様。
―『詩経』より。
杜は、
西周支配下の
杜(伯)国。
もっとも、
前685年には
秦の武公が
ここを県とします。
亳という国も
この辺りですが、
サイト制作者の
浅学にして
詳細は不明。
因みに、
当時の秦は、
西安以西で
征服戦争を
手広く
やっていたようで、
この辺りは
『史記』秦本紀の
始めを参照されたく。
余談ながら、
攻める側の秦も
国君が
殺されたりと、
まさに、
血を血で洗う
仁義なき抗争。
さらには、
ここでの敗者が
遺恨をもって
晋の傘下に入り、
先述の崤の戦いで
報復に及ぶ訳です。
散らかった話を
感傷的に
纏めますと、
大王朝の首都が、
その衰退と
遷都により、
周辺国の
拡張戦争の
フロンティアと
化した、
―という、
栄枯盛衰な
御話かしらん。
先述の地図が
空白になってる辺り、
秦漢の遺跡の下を
掘ったら
色々出て来るかも
しれませんねえ。
夢のある話で。
維新期に、一時、
諸藩が退去して
ゴーストタウン化した
江戸を御想像下さい。
―知らんけど。
(便利な言葉!)
したがって、
言い出して
何ですが、
この時代の目線で
洛陽・長安間、
と、言うのも、
どうも、
コレジャナイ感が
少なからずあると
言いますか。
もっとも、
その後に
咸陽となるので、
地政学的な価値が
落ちた訳ではないと
思いますが。
―で、こういう
身も蓋もない
オチにつき、
「雑談」扱いに
した次第。
【追記】
この箇所については、
もう少し調べ直します。
【追記2】
以下、御参考まで。
小寺 敦
清華簡『繫年』
譯注・解題
『東洋文化研究所
紀要』170号
ttps://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224624287744
(1文字目に「h」)
史料の
ヘンな漢字の対策も
含めた
書き下しどころか、
読み易い和訳や
丁寧な解説まで
添えられてまして、
まさに
必読の価値あり。
さて、
『清華簡』は、
要は、
中国の名門、
精華大学さんの
所有する
戦国時代の竹簡。
で、その中の
『繫年』には、
周の東遷の時期
についても、
色々と
書かれています。
ところが
その内容たるや、
上記の解説論文
によれば、
新規の発見が
ある反面、
『史記』や
『竹書紀年』等の
他の史料と
突き合わせると、
内容や時系列等で
矛盾する点が
続出するそうな。
もっとも、
そうした矛盾点を
炙り出す過程の
説明が
充実してまして、
繰り返しますが、
個人的には、
これだけでも
御勧めしたい
次第。
6-2、
晋秦の最前線
・桃林塞
さて、
雍から
渭水沿いに
西進して
先述の西部劇な
西安界隈を
抜けると、
黄河との
合流点である
潼関に出ます。
もっとも、
春秋当時は、
その呼称は
なかったようで、
後漢時代から
だそうな。
その辺りの話は、
塩沢裕仁先生の
「函谷関遺跡考証」
を参照されたく。
「函谷関遺跡考証
―四つの
函谷関遺跡に
ついて―」
『東京大学
東洋文化研究所
紀要』
169号
アドレスは以下。
PDFです。
ile:///C:/Users/monog/Downloads/ioc169009%20(7).pdf
(頭に「f」。)
その他、
今回の記事の
函谷関関係の
御話も、
大体は
この論文からです。
さて、
潼関を過ぎると、
黄河南岸の
南に山岳地帯に
なっている
回廊に出ます。
ここが桃林塞。
史料によれば、
文字通り
桃林が名物
だそうな。
『左伝』によれば、
崤の戦いの
少し後の
前615年に、
渭水と黄河の
合流点の
すぐ東北岸の
河曲において、
晋と秦が
干戈を交えて
痛み分けて
います。
さらに
その少し後の
前607年には、
秦が
この少し東の焦を
包囲するのですが、
晋がしっかり
迎撃に出て来る
という次第。
やはり
潼関の辺りは
当時から
西の玄関口で、
関所でなくとも
兵家必争の
要衝中の要衝
なのでしょう。
で、晋が
これを受けて、
件の桃林塞の
真ん中の
瑕(か)に
守備隊を
置きます。
この戦いは、
崤の戦いのような
隠密裡の
越境ではなく、
両国の
正面衝突につき、
ここらが、
当時の両国の、
実質的な
最前線では
なかったかと
見ています。
さらに、
ここを抜けると、
焦(現・三門峡市)に
出ます。
—時代が下って
地名が峡となります。
東は周(洛陽)、
北(東)は晋の国邑の
絳(こう)に通じる
要衝です。
6-3、
崤以東も要衝続き
で、秦の東進で
本当の意味で
悩ましいのは
ここから!
峡(三門峡市)
以東は、
幹道が黄河から
逸れます。
黄河北岸の地形が
急峻な為です。
そこで、
水源や目印を
その支流に変更する
という訳です。
ですが、
その支流にも
切れ目がありまして、
そのうえ、
その界隈は
急峻な峡谷と
来ます。
ここが
泣く子も黙る崤!
その図解が
先述のもの、
という訳です。
南嶺の麓に
関所が
置かれたのも、
随分と
時代が下ってからの
明代辺りの話。
言い換えれば、
遠征軍にとっては、
敵の所在の
分かり易い
城塞攻撃ではなく、
分の悪い
遭遇戦を強いられる
恰好の要撃ポイント
なのでしょう。
さて、
ここを抜けると、
観音堂鎮から
澗河沿いに
一路、洛陽を
目指す訳ですが、
崤同様、
渓谷沿いの難路には
変わりなく。
『水経注』の
この辺りの描写の
エグいこと!
その中で、
澗河沿いの
めぼしい
拠点としては、
現在の地名で
言えば、
西から、澠池県
(めんち、あるいは、
べんち)、
義馬市、新安県が
あります。
澠池県は
崤の界隈の
歴代の治所。
―後漢時代に
蠡(れい)城
(現・洛寧県)に
移ったり
するのですが。
因みに、
戦国時代の
後半に、
秦の昭王と
趙の恵文王が
会合を持ったという
俱利城は、
大体
この辺りに
あります。
義馬市には
千秋亭があります。
版築が
標準の時代に
石造りですと。
さらに
新安県には、
前漢時代から
曹操の時代まで
函谷関が
置かれていました。
余談ながら、
その前後の時代の
函谷関は、
潼関の西の
霊宝県の辺り。
曹操が移した
函谷関も
その辺りですが、
交通の便が
重視されて
少し黄河寄りの
立地。
西を攻める側の
論理ですね。
この辺りの御話は、
先述の塩沢先生の
論文を
参照されたく。
その他、
白超塁も
函谷関のすぐ北。
黄巾賊に備えて
白超が防塁を建て、
南北朝時代に
城に化けたそうな。
説明が
長くなりましたが、
要は、
上記の三拠点は、
澗河沿いの
東西の往来に
おいては
不可避の要地
という訳です。
とはいえ、
新安県まで
来れば、
洛陽はもう
目と鼻の先。
ここらの
春秋時代の
詳細な状況
については、
サイト制作者の
浅学にして
分かりかねます。
ただ、
人の往来の痕跡は
なきにしもあらず。
例えば、
『左伝』や『国語』
には、
前6世紀の中頃に、
周が斉と結んで
晋に備える文脈で、
洛陽の王城の西に
宮殿や門を壊して
築城した、
という話が
出て来ます。
当時の穀水沿いに
幹道があった
証拠でしょう。
その他、
新安県の
函谷関の遺跡から、
春秋時代にも
使われていたと
思しき
道路の存在が
確認出来た模様。
これも
塩沢先生の論文より。
土地勘と発掘調査の
威力の凄まじさ。
結論
そろそろ、
今回の御話の結論を
整理すると、以下。
1、長安・洛陽間の
往来は、
河川沿いの隘路が
多いことで、
割合、経路が
特定し易い。
2、その中で、
際立って
急峻な山岳地帯
である崤は、
古来から
軍事的に重要な
係争点であった。
3、さらに、
崤の東西には、
歴代の王朝が
堅固な防衛拠点を
置いた。
4、史書にある
崤の主峰や
その周辺の幹道は、
現在の研究で
或る程度は
判明している。
【主要参考文献】
(敬称略・順不同、
副題省略)
『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』(国学導航)
聞人軍『考工記訳注』
小倉芳彦訳
『春秋左氏伝』各巻
杜預『春秋経伝集解』
酈道元『水経注』
(維基文庫)
譚其驤
『中国歴史地図集』
辛徳勇「崤山古道瑣征」
塩沢裕仁
「函谷関遺跡考証」
【補足】
武器の話を
続けるつもりが、
元の史料・
『周礼』考工記が
どうも
地理の話を
混ぜてそうなことで、
それに引っ張られて
この1年は
地理関係の調べ事で
悪戦苦闘中です。
サイト制作者の
土地勘や
基礎知識の欠如も
さりながら、
識者のレベルで
意見が割れている
重要箇所も
ありまして、
そのうえ、
史料に出て来る
地名と
現在地の照合にも
かなり苦労しました。
で、これらの整理に
想定外の時間を
要したことで、
結果として、
更新が
長らく滞った次第。
本当に
申し訳ありません。