はじめに
今回は、
描き掛けの図解について
アレコレ言う回です。
完成まで
更新を引っ張ると
結構な日数を
要することで、
その一部でも
御見せして
記事にしようと
思った次第です。
1、殷代の戈の出土品
描き掛けの図解の
具体的な内容は、
『周礼』「考工記」・
「盧人為盧器」の
戈戟の件に関する
図解の一部です。
まずは、以下。
さて、このアレな図解の
抑えるべき重要事項は、
以下の2点。
1、柄の断面が楕円形。
2、援・戟刺・内が
一体の戟体。
次に、
図解の
左右の出土品について
ひとつひとつ
見ていきます。
まずは、左側の戈ですが、
これは
『中国兵器史稿』にある
殷代の戈の図の模写です。
で、同書によれば、
これは転載のようで、
以下のような解説文が
付いています。
原形二分之一大
見李済氏著
《殷墟銅器五種及
其相関之問題》
因みに、李済という人は、
内戦以前の中華民国・台湾の
中国考古学の先生で、
既に亡くなられています。
さらに、
『殷墟銅器五種及
其相関之問題』も、
サイト制作者の
やり方が悪いのか、
検索を掛けた限りでは
詳細不明で、
つまり、
元となる図解の
正確な大きさが
分かりません。
そもそもそれを引用した
『中国兵器史稿』も
1940年代以前の
文献です。
そこで、仕方なく、
『中国兵器史稿』
にある図解を
定規で測り、
馬鹿正直に2倍したものを
図解中の「比率」として
書き込みました。
したがって、
図解の1=実寸1mmを
想定しています。
例えば、援の長さは
図解の数字では42で、
実寸は4.2cm
となる訳です。
で、さらに注意したいのは、
『中国兵器史稿』は
再版であるという点です。
言い換えれば、
初版のサイズは
判然としない点です。
以上のフクザツな経緯を
纏めると、
元となる図と
それを転載した文献の
双方共、
困ったことに
正確な大きさが
分かりません。
【追記】
図解中の数字は
絶対値は想定しておらず、
あくまで
比率という御理解で
御願いします。
早速やらかした、
とでも言いますか、
読み返すと、どうも、
脇が甘かったようです。
どういう話かと
言いますと、
サイト制作者には、
肝心の「原型」が
何を指すか、が、
分かりません。
つまり、
出土品の現物の大きさか、
もしくは、
李済先生の御本の
図の大きさか、
という御話。
例えば、
座右の中華書局版の
『中国兵器史稿』の
当該の図の柄の長半径が
僅か4mm。
ヨソの出版社の初版との
大きさの比率は分からず、
一方で、
その4mmの半分が
実物の大きさである、
というのもヘンな話。
早い話、
大きさの推測は
不確定要因が多いことで
用を為さないことで、
藪蛇な部分で御座います。
【追記・了】
一方で、
本や論文に
原寸大の2倍のサイズで
掲載出来ることから、
それ程大きいものではない、
―サイト制作者の
感覚としては、
大きく見積もっても
幅10cm以下か、
ということが
言えそうなもので。
そして、
援がこれ位の大きさ
しかなければ、
人様の首を
横から引っ掛けて
切り落とすのは
難しいと思います。
そうなると、
『戦争の中国古代史』
にある通り、
この殷代のものと
思しき戈は、当時は、
相手の盾に打ち込んで
引き寄せるための武器と
考える方が
自然なのでしょう。
2、出土品の柄の形
さて、「句兵」が、
相手の首にせよ、
盾にせよ、
引っ掛けて引き寄せる、
となると、
重宝するのが柄の形。
『周礼』原文に曰く、
「句兵は椑」。
図解の形の戈の
注目すべきな点は、
まさにこれです。
つまり、この戈は、
戈頭の柄との接続部分が
柄の周囲を
楕円形に取り巻くタイプ。
こういう形状につき、
柄の断面形が
分かった訳です。
言い換えれば、
それ以降のように
戈頭・戟体の
側面に穴があり、
柄とその穴を
紐で連結する
タイプではありません。
余談ながら、
サイト制作者は、最近、
と、いいますか、今頃、
仕事で使う鋸の柄の
断面図の形が
楕円形であったことに
気付きまして。
確かに、曳く分には、
円形に比べて
指や手の形が
柄に馴染むことで
力が入り易いと
感じました。
そういえば、
日本刀も包丁もそうですね。
仮に、鎧同様、こういうのも
渡来系だとすれば、
古の技術が
今日の日常生活に
溶け込んでいる実例か。
3、西周時代の戟体の一例
続いて、
西周時代の戟体について。
図解を再掲します。
右側のものを御覧下さい。
これは、
『中国古兵器論叢』にあった
西周時代の戟体の
図の中で、
特に多かった
タイプのひとつを
模写したものです。
描き方について、
一応、触れます。
さて、まず、
元の図中で
中心となる点を
適当に定め、
重要な部分を、
(例えば、
援や戟刺の頂点等)
先に定めた中心点から、
縦何cm、横何cm、と、
座標を割り出し、
(二次元だから
コレで何とかなってますが)
それを線で結びます。
こういう方法につき、
元の図に対して
それ程大きな誤差はないと
考えています。
さて、過去の記事でも、
この時代の戟体は
援と戟刺が一体であった、と、
何度も書きましたが、
こういうのは
百聞は一見に如かず、で、
その機会を窺っていた次第。
で、楊泓先生曰く、
この形状では、
相手の首を
引っ掛けることと、
戟刺で突くことの、
ふたつの動作を
こなすには脆かったそうな。
果たして、
次の春秋時代には、
援・内と戟刺が「分鋳」、
つまり、分離した、
という次第。
例えば、
春秋時代や
戦国末期の『キングダム』、
そしてそのン百年後の
『三国志』の数々の戦いで
使われた戈戟も、
援の角度等の詳細は
異なるものの、
そうした
援・内と戟刺が
別の鋳物という形状です。
おわりに
今回も、残念ながら、
箇条書きでまとめるに
値するような
結論はありません。
強いて言えば、
柄の形が楕円形の戈、
援・戟刺・内が一体の
戟体、
これらの実例の模写を
見て頂いた、
という程度の御話です。
この流れで、
恐らくは、
次回も、
戈戟の図解の手直しを
行うかと思います。
一昔前の
テレビ番組の予告であれば、
乞う御期待、
といった台詞が入る
ところですが、
自身のヘマの
後始末が続くことで、
読者の皆様には
申し訳ない限りです。
【主要参考文献】(敬称略・順不同)
『周礼』(維基文庫)
鄭玄・賈公彦
『周礼注疏』(国学導航)
聞人軍『考工記訳注』
楊泓『中国古兵器論叢』
佐藤信弥『戦争の中国古代史』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版