【追記】21年10月21日
大変な誤読に気付きましたので、
その旨御知らせします。
まずは、申し訳ありません。
で、誤読の部分ですが、
「囲」というのは、
柄の中の手に持つ部分、
上端の金属部分、
末端の石突―「鐏」の部分です。
後日、図解を描き直して
訂正記事を書く予定です。
恐らくは、
こういうのが
素人の独学のコワさで、
むこうの古典を読む際、
内容が分かりにくいと
感じた場合には、
中国語の現代語の訳文にも
目を通した方が良いことを
痛感した次第。
中文の文献の入手が
難しい場合でも、
訳本の転写と思しき
古典の訳文のサイトが
結構ありまして、
例えば、「百度検索」で
「周礼」や「司馬法」等で
検索を掛けると、
原文と訳文の揃ったものが
出て来ます。
で、こういうものを
見る際、
例え、
中国語が分からなくても、
いくつかの漢字を
見るだけでも、
中国人の常識と
サイト制作者のような
素人の危うい読解の
認識の隔たりを
或る程度は埋めることが
出来るかと思います。
で、今回のような
(他の箇所でもやってる気が
しないでもありませんが)
サイトを辞めたくなるレベルの
誤読を防ぐ確率が
高くなる、と。
聞人軍『考工記訳注』
【追記・了】
はじめに
まずは、更新が大幅に遅れて
大変申し訳ありません。
春秋時代の
100名、あるいは75名の
戦闘隊形について
調べているうちに、
サイト制作者としては
これといった収穫がないまま
1ヶ月以上を溶かしまして、
生半可な時間と準備で
余分なことを
するものではないことを
痛感した次第です。
後、こんなブログ
やってる割には、
軍隊の指揮や
作戦計画立案の統括なんか
絶対にやってはいけない
人種だと思います。
それでは、
戈、殳、に引き続いて、
矛の話をしようと思います。
1、『周礼』冬官の説く矛の構造
1-1、矛の前史と全長
まず、故・周緯先生の
『中国兵器史稿』には、
矛の殷代までの進化について、
次のように記されています。
・「初期人類」の段階では、
(原人の類だと思います。)
獣角・竹木・尖った石を
矛頭とした。
・矛は戈の前から存在し、
戈戟よりも進化が早く、
殷代には精巧なものが
存在した。
そして、以降の話として、
銅製以前の矛には
銎管(きょうかん)があり、
周代のものは
殷代のそれよりも長く、
玉矛(装飾の施されたもの)が
少ない、と説きます。
長さや銎管については、
後述します。
次いで、矛の全長ですが、
サイト制作者の忘備も含めて
以前掲載した図解を
ここに再掲します。
以前の記事でも
紹介したように、
「車有六等之数」の箇所には
「酋矛常有四尺」とあります。
要は、戦車に搭乗する兵士が
用いる武器です。
「常」は2尋、
さらに、1尋=8尺。
(これが、西周時代辺りの、
成人男子の平均身長で、
同時に、両手を広げた時の幅。)
で、「常有四尺」=20尺。
周尺換算(1尺=大体18cm)
で約360cm。
春秋時代の尺であれば、
これに+5%程度。
さらに、
「廬人為廬器」の部分では、
「夷矛三尋」とあります。
周尺換算で、
24尺=432cm。
で、この長さを超えると、
武器としては
使い物にならない、と、
説かれています。
因みに、「車有六等之数」では
夷矛について
言及されていないことで、
「夷矛」は歩兵用、
あるいは白兵戦の
武器なのかもしれません。
一方で、
『釈名』「釈兵」には、
「夷矛」は
「車上に持つところなり」
と、あります。
戦車に搭乗する兵士の武器、
という訳で、
後漢・魏晋時代の解釈では
そうなるのか、と。
もっとも、
サイト制作者としては、
確実な史料が
見当たらないことで、
残念ながら、
これ以上のことは言えません。
どうも、個人的には、
漢から魏晋時代の
周の時代考証に、
信用が置けない部分も
少々ありまして。
1-2、矛頭の部位
次いで、部位の説明に入ります。
以下のアレな図解は、
いくつかの文献の内容を
まとめたものです。
如何せん、
柄が残っている出土例が
少ないことで、
必然的に矛頭の説明が
多くなりますが、
まずは、その矛頭から。
図解自体が
ゴチャゴチャしているので
ひとつひとつ
触れていきます。
左上の赤枠の部分を
御覧下さい。
矛の定義は、
先端が尖って
底面に穴が開いた鋳物に
柄を挿し込む武器です。
で、その穴を
「銎」(きょう)と言います。
余談ながら、逆に、
柄の上端に穴、
先端の鋳物に
茎(なかご)がある
槍状の武器を、
鈹(ひ)と言います。
さて、銎以外の部位ですが、
先端を「鋒」(ほう)、
鋒の後方の左右の
切れる部分を「刃」(じん)、
さらに、
刃の内側の平たい部分を
「葉」(よう)と言います。
事例の矛が六角形につき、
分かりにくくて
恐縮ですが。
また、葉に中心線が入ると、
その線を、
「脊」(せき)と
言います。
脊は、座右の字引きによれば、
背骨のように隆起した部分、
という意味です。
以下は後述しますが、
矛の種類によっては、
この脊の部分が
レール状になっているという
凝ったものもあります。
次いで、この出土品についても
少々触れます。
この矛は、
燕の最後の王となった
喜のものだそうな。
『図説 中国文明史 3』
にあった写真の
ヘッタクソな模写です。
で、どうして
時代や人物名等が
特定出来るか、
と、言いますと、
出土状況や形状で
特定する他、
文字が彫ってあるものが
存在します。
この矛の場合は、その中で、
文字が彫ってあるという
パターン。
次に、矛頭の全長が
17.5cmというのは、
サイト制作者の管見の範囲では
短い部類のものです。
さらに、
先端の「刺囲」と
柄の装着部分である「晋囲」の
長さの比率は大体2:1程度で、
後述しますが、
この点は『周礼』冬官の内容と
合致します。
因みに、
「推定約」という表現は、
サイト制作者が
文献の写真に定規を当てて
計ったことによるもので、
大変申し訳ありませんが
アバウトな数字です。
何cmも誤差があるとは
思いませんが、
mm単位での正確さは
ありません。
サイト制作者の未熟さで
巧く説明出来ませんが、
目安となるような
大体の長さめいたものを
弾き出したかったことで、
敢えて、こうした
正確さに欠ける措置を
取りました。
最後に、
この矛を所有する易県ですが、
地図で確認すると、
燕の首都である薊のあった
北京市から
南西に100キロ余の地点に
位置します。
この矛よりも、
清朝の陵墓群で
世界遺産でもある
清西陵の方が
有名な土地の模様。
因みに、易県の上位自治体は
河北省保定市。
余談ながら、
日本と中国では
市と県の関係が
逆転していますが、
「県」という文字には、
古語では
辺境という意味もありまして。
2、矛頭と柄の関係
2-1、矛頭と柄の比率
次いで、柄について触れます。
『周礼』冬官の
「廬人為廬器」によれば、
これについて
以下のような件があります。
凡為酋矛、参分其長、
二在前、一在後而囲之
五分其囲、去一以為晋囲
参分其晋囲、去一以為刺囲
おおよそ酋矛をなすに、
その長を参分し、
二は前に在り、
一は後に在りこれを囲む
その囲を五分し、
一を去りもって晋囲となす
その晋囲を参分し、
一を去りもって刺囲となす
参:三
要は、
全長の先端の5分の1が「囲」
「囲」の5分の4が「晋囲」
「晋囲」の3分の2が「刺囲」
と、言う訳です。
図解すると、以下。
真ん中の太い矛の部分。
この矛頭は、
呉の最後の王となった
夫差の矛をモデルに、
『周礼』冬官の説く長さに
無理やり合わせた
歪(いびつ)なものです。
それはともかく、
「矛頭」と呼ばれて
出土品が数多残る
金属部分は、
ここでは、
「刺囲」と「晋囲」を
合わせた部分に相当します。
残念ながら、
両者の機能は
『周礼』には記されていません。
その中で、
いくつかの出土品を見る限り、
大別して、
・「刺囲」は相手を殺傷する部分、
・「晋囲」は柄を差し込む
「銎」の部分、
で、両者の長さの比率が、
『周礼』によれば2:1。
と、考えております。
さらに、「囲」の部分ですが、
いずれの時代に出土した
矛頭にも
紐を結ぶ穴があることで、
サイト制作者としては、
矛頭と柄を繋ぐ紐を
柄に結んだ部分であると
見ています。
以前、「殳」の記事で、
布を噛ませて太さを調整する、
と、書きましたが、
(断定は避けましたが)
確かに、こちらの方が
仕掛けとしては
合理的に思えます。
2-2 『周礼』の内容と出土例
次いで、『周礼』の内容と
出土例の比較を試みます。
幸い、管見の限りでは
一例あります。
以下の再掲図の
赤枠の部分です。
以前の記事でも
触れましたが、
柄の部分は
腐食が激しいことで
出土例が少なく、
漆痕でも残っていれば
御の字という状況です。
これに因みまして、
図解の柄の黄色い部分も
写真の模写なのですが、
(対象が白黒の写真につき、
この着色は想像です。)
塗装が剥げたか、
あるいは、
巻いてあるものが
欠落したのかも
しれません。
で、今回挙げる柄は
木製ではなく、
藤か竹の模様。
赤枠の上の矛は、
湖南省長沙市の瀏城橋より
出土したものです。
因みに、楊泓先生の
『中国古兵器論叢』には、
この遺跡について
「東周木椁墓」と
書かれていまして、
さらに、
故・林巳奈夫先生の
『中国古代の生活史』には、
ここの「一号墓」から
出土した戈を、
「前4世紀」のものと
しています。
したがって、
ここに挙げた矛も
同じ墓からの出土につき、
戦国時代のものと
考えるのが妥当かと
思います。
恥ずかしながら、
以前の記事で
ここから出土した戈を
春秋時代のものと
書いてしまいました。
当該部分には
訂正を入れましたが、
ここでも念の為。
大変申し訳ありません。
さて、この矛の長さですが、
写真の解説によれば、
「約1/14」とありまして、
馬鹿正直に14倍で
計算したのがこの図解。
その結果、
長さは大体3メートル前後で、
『周礼』の定める
酋矛の長さからは
数十cmの違いがあります。
以前紹介した記事で、
西周時代の戟体の形状が
『周礼』の内容と
ほぼ一致したことからすれば、
実用面での隔たりを
考えてしまいます。
さらには、
矛頭と全長の比率も
『周礼』の説くような
数字どころの話ではありません。
矛頭の長さも
大体約16cm程度と、
図解の上段・左右両端の
戦国時代末期から
秦代の出土例の長さに近く、
時代が下って
歩兵戦が主流になると、
この辺りの長さに
落ち着くのかしらと
想像します。
最後に、
矛の後端の「鐏」(そん)
について。
所謂、石突きの部分です。
長物の尻にある、
地面に刺す部分。
瀏城橋出土の矛と戈のそれは
細長い以外は
内部のよく分かりませんで、
武器の解説書の図解に
あるような
銅製の鋳物か彫刻のような
立派なものでは
ありませんでした。
3、矛頭の類型
3-1、スペード型の矛頭
ここでは、
矛頭の形状について触れます。
例の図解を
再度見てみましょう。
右上の赤枠部分です。
この類型は、
周緯先生の
『中国兵器史稿』にある
「矛頭之形式」の模写に、
サイト制作者が
恐らく該当するであろう事例を
添えたものです。
ただし、浅学故か、
一番右のものについては、
矛頭側面の突起部分である
「英」(えい:はなびら)が
縦にふたつ並んだものを
見つけることが
出来ませんでした。
よって、
この事例は
少々怪しいかもしれません。
また、この周緯先生が
提示された類型
以外のタイプも存在します。
例えば、
先述の夫差の矛頭は、
当時の剣の
剣身(柄より上)の部分に
晋囲を足した形状を
しています。
図解で言うところの
右下のチャチな絵です。
この矛頭については
後述します。
それでは、
件の類型について
ひとつひとつ
見ていきます。
一番左の類型は、
殷代が主流のものです。
また、この出土例は
殷墟から出土したもので、
スペード型の葉・刃と
側面の環紐(かんちゅう)
と呼ばれる
紐を通す穴が特徴です。
類型図の下にある要領で
柄と矛頭を繋ぎますが、
残念ながら細かい結び方は
分かりません。
後代のものと比較すると、
矛頭の結び目が
側面に剥き出しに
なっている点が
レトロに思えます。
一方で、この形状の矛頭が
戦国時代の遺跡からも
出土しているのが驚くべき点。
河南省淅川県出土の
楚の令尹(今で言う宰相相当)
の矛で、
『図説 中国文明史3』に
カラー写真があります。
で、写真を見ると、
矛頭の尻に折れた木の柄が
そのまま付いています。
因みに、サイト制作者は、
これを見て、
布を噛ませて太さを調整する、
という自らの怪しい推測を
疑いました。
もっとも、その矛頭には
装飾が施されていることで、
あるいは
古風な儀仗用の武器かも
しれませんが、
色々な時代の矛頭が
使われていた可能性も
否定出来ないと思います。
とはいえ、
周代や戦国時代に使われたものが
殷代に存在した、
という逆のパターンは
考えにくいとも思いますが。
3-2、片刃型の類型
次に、右からふたつ目の
周代の矛頭。
残念ながら、
これについては
詳細が分かりません。
ただ、長さが50cm余
ありまして、
『周礼』の規格に
一番近いのがこれ。
とはいえ、仮に、
この矛頭の長さを
規格通り5倍にしても
2.5m余にしか
なりませんで、
全長と「囲」の比率を
どう考えたものかと思います。
戦前に、
那法叶というロンドンの方が
所有していたことについては、
同書には、他にも
西洋人の方の所有する
矛頭の図が掲載されています。
と、言いますのは、
1935年にロンドンで
「中国芸術国際展覧会」が
開催されたようで、
こういう類の展覧会の陳列品等、
骨董品というカテゴリーで
存在が発覚したのかもしれません。
3-3、両刃型の類型と
美術品との接点?!
この流れで、
周代の片刃の矛頭の右にある、
両刃で環紐のない類型に
触れます。
事例の品は、
戦前・戦後双方に
首相を輩出した
細川家に伝来する美術品の
博物館である
都内の永青文庫さんの所蔵品。
【追記】
戦前・戦後の双方は
誤りです。
細川護熙氏の祖父が
故・近衛文麿氏という
先入観が祟って
間違ったことを書き、
大変失礼致しました。
【追記・了】
HPによれば、
10年弱前の展覧会の
展示物であった模様。
以下は、当該のページの
アドレスです。
小さいですが、
現物の写真が載っています。
このサイトのチャチな絵よりも
現物の写真の方が
遥かに実感が湧くかと思います。
優美な矛頭だと思います。
(一文字目に「h」)
ttps://www.eiseibunko.com/end_exhibition/2013.html
惜しむらくは
写真が上から撮った平面図で
立体的作りが
分かりにくいのですが、
恐らく、
晋囲の中央の装飾が
柄と矛頭を繋ぐ
紐を通すための
輪になっていると
想像します。
後述する、
夫差の矛と同じ構造かと。
周緯先生の最後の類型は、
側面に「英」のあるタイプ。
これも、最早、
美術品の範疇のようで、
ニューヨークの
メトロポリタン美術館が
所有する模様。
ここまで来ると、何だか、
古兵器の調べ事自体が
『〇ャラリーフェイク』の
世界に思えて来ます。
余談ながら、
美術品に疎い身としては、
あそこの
HPやドメインを見て、
漫画にある通り、
ホントに「メット」と
呼ぶんだなあ、と。
(モノの価値が
分からないので、
地に足が付かない感じが
増幅している心地!)
で、これも、
現物の写真を御覧になった方が
絶対に宜しいかと思います。
以下は、当該の矛頭の
写真のアドレスです。
ttps://www.metmuseum.org/art/collection/search/640808
保存状態が良いのか、
後で緑青を落としたのか、
金色の地肌が見え、
そのうえ、
葉・刃・脊、
紐を通すための穴等が
明確に浮かび上がり、
武器としての
機能や凄みを感じます。
ただ、残念ながら、
自身の浅学につき、
この矛頭が作られた時代を
特定した根拠は
分かりません。
もっとも、その形状は、
明らかに戦国時代の
ものですが。
【追記】
同ページの英文の説明に、
秦代に入っても
使われ続けた、と、
書いてありますね。
横文字を適当に読み飛ばす
怠慢な悪癖が祟った模様。
図解中の
「統一後」のみならず、
戦国時代の段階で
現役の模様。
ここに、訂正します。
同ページの左下の年代にだけ
目が行ってしまいました。
申し訳ありません。
【追記・了】
4、夫差の矛頭アレコレ
ここでは、
夫差の矛(頭)について
触れます。
図解の右下の赤枠です。
この矛頭は、恐らくは、
周緯先生が挙げた類型とは、
別のタイプかと思います。
繰り返しますが、
剣身に晋囲を加えたような
形状。
脊の部分が
レール状になっており、
真ん中の線が凹んで
「血槽」となっています。
文字通り、
人を斬った時に、
返り血をここに流すための
工夫かと想像します。
その他、
晋囲と剣身の
境界線の辺りに
獣面の装飾があります。
これが「鼻紐」、
つまり、矛頭と柄を繋ぐ紐を
通すための
穴になっています。
こうした細部の工夫が
この図解では
分かりにくいことと、
幸いにして、
ウェブサイトに
写真が数多あることで、
この矛頭の写真のアドレスを
二例添えておきます。
ウィキペディアさんの「呉王夫差矛」
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E7%8E%8B%E5%A4%AB%E5%B7%AE%E7%9F%9B
Doctor’s Gateさんのコラム
https://www.drsgate.com/company/c00071/54.php?
写真をクリックして
拡大すると
分かるかと思いますが、
葉の部分に
ひし形の紋様の入った
実に見事な矛頭です。
素人目に観ても、
日本刀の銘刀宜しく、
武器でありながら
美術品の範疇にも
入ろうかというもの。
因みに、
菱形の紋様を
矛頭に付ける方法は
『中国文明史図説 3』
にあります。
引用すると、以下。
まずは、
高錫(すず)合金の粉末を
天然の粘着料に混ぜて
ペーストにします。
次に、これを
武器の表面(ここでは葉か)
に塗り、
さらに、紋様の刻みを入れ、
刻んだ部分を剝がします。
で、この状態で
炉で加熱すると、
ペーストを塗った部分は
銀白色、
周囲を刻んで剥がした部分は
銅黄色に、
それぞれ変化します。
この方法で、
紋様の色分けをしたそうな。
余談ながら、
夫差の好敵手である
越の句践の剣にも
同様の紋様が入っています。
はじめ、
サイト制作者は、
『左伝』における
夫差の浪費癖の件から
こういう凝ったつくりの矛は
その一端かしら、とも、
考えたのですが、
成程、手間暇掛かった
優美な逸品には
違いないとはいえ、
剣の製造で
有名な地域における
国君の持ち物で、
そのうえ、
句践の剣にも
同じ装飾が施されている、
―独自性がない、
と、あっては、
それとの因果関係は
分かりかねます。
おわりに
そろそろ、例によって、
今回の御話の結論を
以下に整理しようと
思います。
矛の使用例については、
大変恐縮ですが、
稿を改めさせて頂きます。
1、矛は戈よりも進化が早く、
矛頭の材質は、
石・骨・竹木から銅に変化した。
2、柄を挿し込むための
銎管があるのが定義である。
また、矛頭には、
柄とそれを繋ぐための
穴がある。
そして、その穴は、
矛頭の側面の
剥き出しの状態から、
矛頭の内部に収める型に
変遷していった。
3、『周礼』冬官によれば、
矛頭の長さは
周尺換算で96cm、
全長の27%弱である。
しかしながら、
これに見合うか
近い長さの出土品は
管見の限り存在しない。
柄は出土品自体が少なく、
一例は全長で3メートル前後。
4、ただし、
『周礼』冬官の説く
刺囲・晋囲の長さの比率が
2:1という件については、
戦国時代の出土品を見る限り
かなり近いものが
いくつかある。
5、周緯先生の類型をもとに
いくつかの出土品を見る限り、
時代が下るにつれて
矛頭の長さは短くなる
傾向にあり、
15~20cm程度に
収まる傾向にあるように
推察する。
ただし、これについては、
サンプルを増やして
考察を深めたい。
6、殷代に主流であったと
思しき矛頭が、
戦国時代にも使われていた
可能性がある。
時代が下っても
それ以前時代に
登場した型の矛頭も
使われていた可能性を
考えたい。
7、周緯先生が提示した
以外の矛頭の類型も存在する。
【主要参考文献】(敬称略・順不同)
『周礼』(維基文庫)
『釈名』(天涯知識庫)
周緯『中国兵器史稿』
楊泓『中国古兵器論叢』
稲畑耕一郎監修
『図説中国文明史 3』
伯仲編著
『図説 中国の伝統武器』
林巳奈夫『中国古代の生活史』
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』第4版