近況報告 『司馬法』に関する話

はじめに

今回は、申し訳ありませんが
近況報告です。

と、言いますのは、

『司馬法』の説く
小規模戦闘について
記事をいくつか書こうと思い、

その準備を進めていますが、

残念ながら
進捗状況が良くないことで、

せめて、
何をやっているのか位は
御知らせして、

序に、『司馬法』に関する
初歩的な話をすることを
思い立った次第です。

1、大体の内容と調べ事の方法

ただ、「武経七書」
ひとつだけあって
言葉少なながらも
含蓄の多い兵書です。

「小規模戦闘」に絞っても、
(定義自体も曖昧ですが)

どうも、
切り口がひとつならず
ありまして、

例えば、
今のところ
想定しているものでは、

前回の『逸周書』の記事とも
重複する、
装備の長短や軽重に加え、

隊形の疎密戦闘姿勢、
隠密行動といった要素が
あります。

これらの要素を、
例によって
『周礼』や『逸周書』、
その他の史料等と比較し、

同書が言わんとするところ
同時代の相場めいたもの
炙り出すことを考えています。

加えて、たまたま、
ネットで劉仲平先生
『司馬法今註今譯』
見付けました。

以下はそのアドレスです。
ttps://www.doc88.com/p-9035449019763.html
(1文字目に「h」を補って下さい。)

もしくは、「百度一下」
書名で検索を掛けて
それらしいのを探す手も
あります。

さて、この御本、
要は、『司馬法』の
大意や語句の解釈を記した
ものです。

日本人離れした感覚での
細かい言い回しの説明や、

原文の背景にある概念等が
分かり易く書いてありました。
(と、言っても、
中国語古語→中国語→二ホン語
という煩雑な回路!)

これで和訳や解釈の精度を
上げたいと思います。

まあ、その、
こういう本があること自体、

ネイティブの人々にとっても、
古典の解読には
難儀しているのかと
思った次第です。

もっとも、
サイト制作者とて、

インバウンドの
ガイジンさんから、
対〇の境〇仁みたく
ぶっつけで和歌を詠んでくれと
頼まれたところで、
色々誤魔化そうとして
110手にて投了が関の山で、

こういうのは
万国共通かしら。

なお、劉仲平先生
南京政府時代からの軍人で、

キャリアの後半は
台湾で戦史研究に従事
されていた模様。

2、『司馬法』の概要
2-1、内容のあらまし

ここでは、
その成立の背景や内容の
概要について
簡単に触れます。

まず、その内容ですが、

さわりの部分を
簡単にまとめるとなると、

サイト制作者のアタマでは、
思想史的な話しか
思い付きません。

そこで、
書き物の紹介となりますが、

PDFで読めるものとしては、
湯浅邦弘先生の論文
詳しいです。

「『司馬法』に於ける
支配原理の峻別」

ttps://ci.nii.ac.jp/
(論文検索サイトのアドレスです。
1文字目に「h」を補って下さい。)

あるいは、
そのダイジェスト版
と思われる記述のある

『よみがえる中国の兵法』
(大修館書店・あじあブックス)

これらによれば、

まず、今で言えば、

世の中の状態
平時・有事に区別します。

平時を「正」とし、
仁義を理念に治めることを説き、

対して、有事の際の非常措置として
「権」の発動、つまり、
戦争で解決せよ、と、します。

下品な言い方をすれば、

儒家のように
仁義礼智で万事の解決を
図るのではなく、

兵家と儒家のイイトコ取りで
軍隊と仁義を
臨機応変に使い分けて、

これぞ仁義なき戦い、ではなく、

ま~るく納めて見せまっせ。

ただし、その際、
双方とも、
別のルールで運用すべし。

―という理解で
合ってますかしらん。

さらに、以下も重要な部分です。

平時と有事の原理
「国容」「軍容」に分け、

互いに干渉しないように
説きます。

近代国家で言うところの
政軍関係の話かと思います。

「国容」は、
平時における国内の原理。

先述の「正」に相当します。

そして、
「国」と「朝」に分けられます。

サイト制作者の愚見で
誤解があれば恐縮ですが、

例えば、官庁や政策、法規等が
イメージし易いかと思います。

そして、対する「軍容」

これは非常時
軍内における原理です。

「正」に対する「権」
相当します。

これは、近代軍で言えば、

統帥権や戒厳令の発動といった、
軍の命令が絶対な状況かと
思いますが、

これもサイト制作者の
イメージにつき。

因みに、「軍容」は、

「刃上」と「在軍」に
分けられます。

軍中での戦闘行為と
それ以外の部分、
ということだと思います。

そして、「正」と「権」、
「国容」と「軍容」は、各々、
対等の関係にある、と説きます。

序に、泣く子も黙る
秦の商鞅の
耕戦一体のアレは、

湯浅先生によれば、

『司馬法』どころか
平時の国政も
有事のルールで運用するという、

〇4時間戦えますかの
鬼のルールだそうで。
(勿論、こういう言葉は
使っていませんが)

―ざっくり言えば、

『司馬法』のアウトラインは
大体こういう話で、

管見の限り、

いくつかの文献の解説も
大差ないと思うのですが、

何分、素人のあやふやな
読み方につき、

やはり、正確な理解を
御望みであれば

先述の論文か書籍の御一読を
御勧めします。

2-2、穰苴と『司馬法』の関係

続いて、成立の背景について。

同書と不可分の関係にある
田穰苴(じょうしょ)
については、

『史記』
この人の伝があります。

まず、田穰苴は、

後に斉の王族になる
田氏とはいえ、
身分の低い人でした。

で、この人が、
時の斉の実力者である
晏嬰の抜擢で将軍となり、

厳しい統帥で
将兵の信頼を勝ち得て
目の上のコブであった
斉や燕を追い払い、

めでたく
大司馬となり、
これにて一件落着、

ですが、その後、
当の本人はと言えば、
政争に巻き込まれて
ゴニョゴニョ、

―という、

華やかな武功の裏には
陰の部分もある
軍功立志伝の
あるあるな御話。

で、司馬遷によれば、

その後、戦国時代威王が、

その家臣に
この人の兵法を研究させ、

従来の司馬の兵法に
それを追加・編集して
刷り上がったのが、

彼の『司馬法』

という次第。

次に、田穰苴の
生きた時代について触れます。

まず、晏嬰が景公に穰苴を
推薦したことで、

景公の在位は
前547~490年
(何とも長いこと!)

さらに、晏嬰の没年は
前500年。

景公の前の二代の王にも
敏腕を以て仕えていることで、

この人の
重鎮としての政治生命も
実に長いこと。

これらの話からして、

前6世紀後半
御話であることは
確実です。

ですが、
サイト制作者の寡聞にして、

穰苴が活躍した
年代については、

これ以上に
時期を絞り込んだものは
観たことがありません。

あくまで、サイト制作者の
愚見ですが、

例えば、編年体で書かれた
『春秋左氏伝』の
当該の時期には、

田穰苴の名が見えず、
燕の自体話も少ないことで、

学術レベルでは
確実なことが
言えないのかもしれません。

そこで、

こういう怪しいサイトの
特権と言いますか、
暴挙と言いますか、

サイト制作者の妄想次いでに
その時期とやらを想像すると、

田穰苴が
将軍として活躍したのは
前540~30年代辺りで、

その前に、
晋や燕との負け戦を経験した
叩き上げの軍人と思います。

その根拠は、以下。

前6世紀後半の中で、

斉が晋と
何度も干戈を交えて
旗色が悪かったのは
前550~540年代の話で、

これ以上に
対晋関係が悪かった
時期はありません。

【追記】

これは誤りでして、

前6世紀の終わり頃には
再度、晋と揉めました。

一方で、この時は、
前回とは国際状況が異なりまして、

晋の同盟内における行動に
(慢心した類の)ヘマが多く、

同盟の最大の仮想敵国であった
楚の影響力も低下していたことで、

斉以外にも衛等の離反も
招きました。

そうした事情もあり、
それに地理的な要因も絡み、

当初は衛、魯、宋といった
晋や斉の周辺国同士の戦争が主。

したがって、
晏嬰の晩年は、

前6世紀の中頃のような、

斉の国軍の主力が
晋のそれと直接やりあって
敗戦を繰り返して
国境線が後退していく
というレベルの危機感は
なかったものと想像します。

【追記・了】

そもそも、景公の即位自体、

対晋強硬派の先代が
重臣の崔杼に殺され、
(謀殺の直接的なトリガーは
女性関係ですが)

これ(国君の死去)で
晋との戦を手打ちにするという
オッソロシイ経緯がありまして。

その後、前530年代には
燕に攻め込んだり
対外工作を行っていることで、

晋との負け戦は
景公の代ではないものの、

それに悩まされるという
『史記』の文脈から考えれば、

大体このあたりの時期では
なかろうかと
踏んでいます。

あくまで想像の域を
出ませんので
悪しからず。

2-3、『司馬法』の成立

穰苴の生きた時代に続いて、
『司馬法』の成立過程について
綴ります。

同論文によれば、
現段階で有効と思われるのものは
二説あります。

ひとつ目は、穰苴の自著で、
『隋書』等がその典拠。

ふたつ目は、先述の司馬遷の説。

旧来の軍事マニュアルに
穰苴の兵法を混ぜたやつです。

もっとも、残念ながら、

『史記』の穰苴の伝や
『隋書』芸文志には、

誰それが書いた、以外の
細かい根拠めいた記載は
ありませんでした。

ただ、穰苴の関与自体は
間違いなく、という次第。

しかしながら、
残念なことに、

漢代には105篇あったものが、
現状は僅か5篇を残すのみ。

もっとも、

この時代の書物は、
前回の『逸周書』もそうですが、
消失が当たり前だそうな。

その他、偽書の説もあり、

実は、これが長らく有効で、
あまり研究が進まなかったのも
これが原因だとか、

香ばしいことが書いてあります。

詳しくは、同論文を御読みあれ。

余談ながら、

『司馬法』以外にも
有名な兵書が偽書という学説は
少なからずありまして、

これらの説のいくつかが
引っ繰り返ったのが、

1972年の
銀雀山漢墓の発見だそうな。

大人子供の
サイト制作者が生まれる
僅か数年前の御話で御座います。

そう言えば、中公文庫の『六韜』の
解説を読んで
驚いたのを覚えています。

2-4、『司馬法』の影響力や時代的価値観

話を『司馬法』に戻します。

湯浅先生によれば、

前漢の故事・説話集である
『説苑』
『司馬法』の引用が
見られることから、

『説苑』編集以前の段階で
その思想的特質が
広く理解されていたそうな。

その他、薛永蔚先生
『春秋時期的歩兵』にも、

偽書関係も含めて
詳しい解説が
掲載されていますが、

読んだ御仁がアレにつき、
ほんの少しだけ。

湯浅先生の御話に
引き続いて、

この『司馬法』は、

その後、
曹操等、
後漢の要人の書き物の
典拠の要所にあり、

少なくとも唐代までは
一定の階級以上の将校の
必読書であった模様。

また、同書の兵法の
時代的な価値観として、

春秋中期以前までの兵法は
当然この通りで、

春秋末期から
戦国初期までの状況とも
大差ない、

と、しています。

つまり、

時の軍事マニュアルとして
時代考証に使う分には
非常に適している、と。

おわりに

例によって
取り留めない話で恐縮ですが、

「2、『司馬法』の概要」
だけでも、

以下に、
要点を纏めておきます。

1、湯浅邦弘先生によれば、
『司馬法』の特徴は、

平時の対応である
「正」・「国容」と、

有事の対応である
「権」・「軍容器」に分けられ、

両者は対等の関係である。

2、田穰苴と『司馬法』は
不可分の関係にあるものの、
関与の程度には
議論の余地がある。

3、『司馬法』の内容は
春秋時代の戦争の状況を
強く反映している。

また、少なくとも前漢の段階で
広く読まれていた。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)

湯浅邦弘
「『司馬法』に於ける支配原理の峻別」
守屋洋・守屋淳『全訳「武経七書」2』
劉仲平『司馬法今註今譯』
薛永蔚『春秋時期的歩兵』
小倉芳彦訳『春秋左氏伝』各巻

カテゴリー: 学術まがい, 言い訳, 軍事 パーマリンク

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