前漢斉王墓出土の札甲 ~劉永華『中国古代甲冑図鑑』を中心に その1

はじめに

そろそろ、
以前約束した鎧の話
一度挟みます。

今回は、前漢時代の
斉王墓から出土した
魚鱗甲タイプの札甲について
見ていこうと思います。

もっとも、劉永華先生
『中国古代甲冑図鑑』の内容が
大半につき、

いっそのこと
文献紹介にでもしようかとも
考えましたが、

記事の目的
鎧の観察にあることと、

周辺の事情の説明もあり、

こういう半端な題目
なった次第です。

この御本を紹介して頂いた
読者の方には、改めて、
厚く御礼申し上げます。

一方で、図解の作成にも
時間が掛かりそうなことで、

大変申し訳ありませんが
続き物にさせて頂きます。

今回は、斉王墓札甲
鎧としての類型や、
展開図を通じた
部位の区分等について
触れます。

それでは、本文に入ります。

1、斉王墓より出土した札甲とは?
1-1、先に掲載した図解の添削

今回観察を試みるのは、
以下のタイプの鎧です。

楊泓『中国古兵器論叢』、篠田耕一『三国志軍事ガイド』・『武器と防具 中国編』、伯仲編著『図説 中国の伝統武器』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』(敬称略・順不同)等より作成。漢~魏晋時代の鎧のパターン

実は、以前の記事でも
何度か触れたのですが、

今回、細部まで描くために
文献を読み直して
腰を落として
何枚か写真を観察したところ、

恥ずかしながら
現段階で判明しているだけで
3箇所も誤りがありまして、

このように
添削させて頂くことと
相成りました。

深く御詫び申し上げます。

多少なりとも、
鎧の観察の御参考になればと
思います。

ヘンな構図で描いた
バチが当たったのでしょう。

因みに、この辺りの話は、

高橋工先生の論文、
「東アジアにおける
甲冑の系統と日本」
に詳しく記されています。

PDFでダウンロード可能です。

ttps://ci.nii.ac.jp/
(1文字目に「h」を補って下さい。)

まず、(兜)ですが、

図の赤枠にある通り、
最上段は前面のみ甲片があり、
頂上は開いています。
内部で布等で覆う模様。

また、披膊は可動性がありません。

この部分は
少しややこしいのですが、

現物を見ると、
甲片の繋ぎ方自体は
可動性―、

つまり、上段の甲片の下端を
外側に出す形で
下段の甲片の上端に繋ぐ
タイプではあるものの、

披膊の内側に
割合堅い裏当てが
施されていることで、
(詳細は後述)

それ程曲がらない、
ということなのでしょう。

したがって、
図のようなポーズは
恐らく難しい訳です。

1-2、出土品の履歴

さて、この種の鎧ですが、
同じタイプ
(前開きではなく
鎖骨と脇を紐で縛る
魚鱗甲タイプの札甲)
と思われるものが
計3領あります。

内、2領は、
山東省臨淄県大武村の
前漢斉王墓第5号から
1979年に出土したものです。

で、その1領は、
鎧の甲片に装飾が施されたもの。

もう1領は、
「素面甲」と呼ばれる
装飾がないものです。

さらに、冑も出土していまして、
これは甲片に装飾がなく、
素面甲と一対
言われています。

因みに、

これに付随して
斉王劉襄の没年が
前179年

劉襄は高祖の孫で、
子がなかったことで、

死後、絶国となるところを
皇帝の恩恵で分国されます。

察するに、
斉国のピークの時代の墓、
ということになりますか。

この辺りの経緯は、

入手し易い本では、

例えば、西嶋定生先生
『秦漢帝国』等を御参考に。

また、残りの1領は、

広州の前漢・南越王墓よりの
1983年の出土品。

南越の鎧は、後でチラと
図を載せます。

因みに、復元されたものは
身甲(胴体)のみで、
披膊(腕)と垂縁(裾)は
ありません。

なお、『中国古代甲冑図鑑』によれば、
この墓の建造が
紀元前128~111年
とのことですが、

どうも、元の論文である、

『考古』1987年9期
中国社会科学院考古学研究所
技術室・広州市文物管理委員会
「広州西漢南越王墓出土
鉄鎧甲的復原」

よりの引用に見受けます。

これに因みまして、
斉王墓の方の論文は、
『考古』1987年第11期
山東省臨湽博物館・
臨湽文区管所・
中国社会科学院
考古研究所技術室
「西漢斉王鉄甲冑的復原」

と、思われます。

―で、サイト制作者は、未だ、
入手出来ずにいまして、

相互貸借等も時節柄
利用しにくいことで、

非常に残念ですが、
今後の課題とさせて頂きます。

アクセス出来る
ツテのある方のために、

せめて存在だけでも
御知らせ致します。

2、漢~魏晋時代の鎧のパターン
2-1 劉永華先生の区分

以前の記事で、
漢代から魏晋時代の鎧について
いくつか触れましたが、

劉永華先生が
『中国古代甲冑図鑑』で
そのパターンの整理
行っていらっしゃいます。

これが興味深いのものでして、
その模写を以下に掲載します。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』、楊泓『中国古代兵器論叢』より作成。

さて、劉永華先生は、

漢代から魏晋時代までの鎧を、
脇閉じ式・前開式・套(とう)衣式の
3種類に分類されています。

で、下段の3種類の鎧が
各々の形式の一例でして、

これは僭越ながら
サイト制作者が選びました。

とはいえ、ほとんど
選択の余地がありません。

まず、脇閉じ式ですが、
これは先述した
斉王墓と南越王墓の副葬品。

埋葬されたと時期としては、
前漢の前半から中頃のもの
ということになります。

次いで、前開式ですが、

図解にある鎧は、
武帝の弟で劉備の先祖の
中山靖王・劉勝の墓よりの
出土品の復元図の模写です。

河北省満城県より
1968年に出土したものです。

絵が潰れていて
分かり辛くて
大変申し訳ありませんが、

披膊が筒袖になっており、

垂縁にも
似たような形状の縅
施されています。

また、鎧のタイプの分類も
一様ではありませんで、

先述の脇閉じ式の3領と
この鎧を「魚鱗甲」とする
分類もあります。

因みに、劉勝の没年は
前113年。

2-2、魏晋時代の筒袖鎧を想像する

最後の形式・套衣式ですが、

残念ながら、
モデルは現物ではなく

いくつかの文献を読む限り、
この時代より出土した現物は
ありません。

そうした事情を受けてか、

劉永華先生が選んだものは
河南省偃師県杏園村より
出土したものの模様。

先生の見立てによれば、
筒袖・魚鱗甲タイプで
垂縁も縅が表に来る可動式。

ただし、着脱は後ろで行う、
というもの。

因みに、サイト制作者は、
晋代の俑の写真からは
これが想像出来ず、

伯仲先生の
『図説 中国の伝統武器』
にあるように、
脇閉じ式かと
思っておりました。

とはいえ、双方共、
出土品の状況や史料に基づいた
具体的な根拠を
示していないことで、

サイト制作者としては
双方共、可能性はある、
という程度の認識です。

ここで、余談ながら、

大体、このタイプの
鎧だと思うのですが、

三国時代の筒袖鎧について
同書に『南史』殷孝祖に云々、
と、ありまして、ああ、これかと。

禦仗先有諸葛亮筒袖鎧、鐵帽、
二十五石弩射之不能入

仗を禦(ふせ)ぐに
まず諸葛亮筒袖鎧、鐵帽あり、
二十五石弩之を射るに
入るあたわず

仗は刃物の付いた兵器の総称、
石は要は矢の威力ですが、

25石はかなり強力なもので、
漢代の平均の倍以上のレベル。

これで有効打を与えられなかった
という訳です。

兵器の考証については、
入手し易い本としては、
篠田耕一先生の
『武器と防具 中国編』
御参考まで。

さらに、劉永華先生によれば、

魏晋時代は鎧の形状には
左程進展が見られなかったものの、

鋼材は別で、
炒鋼法と百錬鋼の合わせ技
堅いものが出来たそうな。

下記の図を御参考に。
以前に掲載したものです。

趙匡華『古代中国化学』・篠田耕一『武器と防具 中国編』・菅野照造監修『トコトンやさしい鉄の本』・柿沼陽平「戦国秦漢時代における塩鉄政策と国家的専制支配」等(順不同・敬称略)より作成。

2-3、前漢の鉄製鎧の変遷

さて、ここで、

前漢に出土した鉄製鎧の中で、
復元されたか
保存状態が良かったもの
時系列(推定)的に並べると、

大体以下のようになります。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』、楊泓『中国古兵器論叢』、高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』より作成。

左が一番古いと思われるもので、
右に順に時代が下っていきます。

サイト制作者が、以前、
身の程知らずにも復元を試みた
札甲のアレは、
正確性を欠くので省きます。

因みに、最後の前開きの鎧は、
内モンゴル自治区の
フフホト市郊外の
二十家子漢代古城より
1959年に出土したもので、

楊泓先生によれば、
武帝時代末期のものとのこと。

これを見ると、
一見、筒袖と前開きが
主流になったように見えますが、

後漢時代
鮮卑の王墓から出土した鎧
脇閉じ式の魚鱗甲タイプの
札甲です。

で、サイト制作者は、
成程、鎧が作られた
大体の時代は分かっても、

その鎧の技術が
いつまで現役であったかまでは
正確には分かりません。

その意味では、
先述の劉永華先生の分類は、

恐らく、出土品を最新式と捉え、

その後の後漢・魏晋時代に
色々な技術が交錯している状況
想定した、

かなり慎重で手堅い
見方ではないかと思います。

確かに、王墓の副葬品ともなれば、
当時の最高レベルの
ものだと思います。

3、斉王墓札甲の展開図

『中国古代甲冑図鑑』には、
今回扱う鎧の展開図まで
掲載されていまして、

元の論文の引用かもしれませんが、

いずれにせよ、
サイト制作者は、

そもそも、

その存在や
展開図という考え方に
驚くばかりです。

残念ながら、
展開図の模写は
同文献で御覧頂きたいのですが、

ここではその略図を掲載します。

劉永華『中国古代甲冑図鑑』より作成。

まず、大体の部位として、
胸・腹・脇(肋)・背・腰・肩
に、大別出来ます。

なお、冑と披膊は
省略しました。

説明は次回にします。

さて、描く視点で驚いたのは、
胴回りを脇で分ける点です。

確かに、この区分は、

その前後の部分と
1段当たりの甲片の数が
異なったりして
面倒なので、
合理的であると思いました。

次いで、長さですが、
これは展開図の等倍のコピーの
実寸(cm)です。

ただ、これをやったのには
理由があります。

この鎧の復元品の写真複数枚と
展開図を比べた結果、

恐らく、縦横の縮尺自体は
かなり実物に近い
判断しまして、

思い切ってこの数字を掲載しました。

甲片の数を含めた図解は
次回にしますが、

絵を描いたり
復元品を作ったりする際に
多少なりとも
参考になればと思います。

また、正面より背中が広かったり、

あるいは、鎧の正面は平坦で
脇腹の当たりで窪ませる
といった点は、

写真と展開図を見ながら
模写を行った段階で
どうも違和感を感じ、

改めて見直して
初めて分かった点です。

―サイト制作者が
服飾の知識に乏しいだけかも
しれませんが。

その他、右肩部が
左より少し長いのは、

この部分で着脱を行うためです。

要は、肩部1箇所と脇に3箇所を
紐で綴じる仕組みです。

最後に、鎧の裏側や縁の部分の
コーティングの方法ですが、

同書によれば、

斉王墓・南越王墓・
劉勝墓には、

「皮革を絹などの織物で包んだ
裏当てがあった。
甲の各部分の縁は
錦織で包まれていた。
裏当てには
皮革や絹布以外に
麻布を用いたものもある。」

―とのことで、

ここまで具体的に書かれた本は
初めてでして、
目からウロコが落ちました。

おわりに

そろそろ、今回の御話を纏めます。
要点は、概ね以下の通り。

1、前漢斉王墓より出土した鉄製鎧は
魚鱗甲タイプの札甲で、
甲片に装飾のないものは
「素面甲」と呼ばれ、
冑と一対とされる。

2、劉永華先生は
漢から魏晋までの鎧について、
脇閉じ式・前開式・
套(とう)衣式の3種類に
区分した。

前漢斉王墓の札甲は
脇閉じ式に分類される。

3、前漢斉王墓の札甲には
展開図が作成されている。

それによると、大体、
胸・腹・脇(肋)・背・腰・肩
に区分される。

4、前漢時代の高級品の鎧には
皮革を織物で包んだ裏当てがあった。
また、鎧の縁は、
錦織でコーティングされていた。

【主要参考文献】(敬称略・順不同)
劉永華『中国古代甲冑図鑑』
楊泓『中国古代兵器論叢』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
西嶋定生『秦漢帝国』
趙匡華『古代中国化学』

カテゴリー: 兵器・防具, 学術まがい, パーマリンク

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