中原から呉まで 01

はじめに

今回は、

古代中国における
中原から呉までの
距離、


あるいは、
距離感覚
めいたもの

当該の場所の
大体の地理

について考えます。

その足掛かり
として、

『春秋左氏伝』
(以下、『左伝』)
哀公七年の伝

(前488)
以下の件を挙げます。

孔子の出身地の
魯の近郊にある
小国・邾の
国君の言
でして、

原文は以下。

魯撃析聞于邾、
呉二千里、
不三月不至、
何及于我。

魯は析を撃つに
邾に聞こえ、
呉はニ千里にして、
三月ならざれば
至らず、
なんぞ我に及ぶ。

里:周尺換算で
1里≒18cm余。
1里=1800尺、
=約324m。
析:小倉芳彦先生は
拍子木と邦訳。
杜預の注によれば、
以两木相撃
以行夜也。
とのことで、
これを受けての
ことか。

大意を取れば、

魯(現・山東省曲阜市)
で撃たれた
拍子木が、
30km程東南の
(現・鄒城市峰山鎮)
にも聞こえる。

一方で、は、
(現・江蘇省蘇州市)

曲阜や邾から二千里
離れており、

到着には
三ヶ月以上掛かる。

したがって、

魯の侵攻を受ける
我が国・邾への
呉よりの来援には
用を為さない、

という旨。

臣下の大夫の具申を
却下するという
文脈です。

まあその、

馬鹿正直に
解釈すれば、

国境近辺の
邑であれば
まだしも、

さすがに
30kmも
離れていれば、

拍子木の音
どころか
防災無線の
夕焼け小焼けだのの
試験放送すら
聞えんと
思いますが、

むこうの
レトリックに
文句を付けるのも
野暮な話で。

それはさておき、

この行程や
「二千里」の内訳や
地理について
少し詳しい状況
等について、

これまた
馬鹿正直に
考察を試みることが、

今回から
むこう何回かの
記事の
中心になります。

1、地図の作成手順

1-1、
地図制作の意図


まずは、
邾から呉までの
「二千里」を
地図で確認します。
まずは、
邾から呉までの
「二千里」を
地図で確認します。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、グーグルマップや、各史料の内容等を踏まえて作成。

現在の中国の東側で、
山東省から
江蘇省までの
地域
です。

距離にして
約800km
といったところ
でしょうか。

次いで、

史料の取捨選択
について。

各拠点ごとの
時代を問わない
大体の遠さ

弾き出すべく、

拠点から
州境までではなく、

治所の
中心間の遠さ

書かれた地理書
主な情報源と
しました。

本当は、

冒頭の話の詳細を
詰めるべく、

春秋時代の状況に
絞りたかった

ですが、

その方法が分からず、

素人の悲しさで
こういう
ムチャクチャな
やり方

なったとさ。

まあその、

各拠点間の
遠さ
自体は、

案外、
唐代から現代まで
それ程
変わっていない

ことで、
(詳細な経路は
別の話ですが)

その前の
千年ばかりも
多分それ程
変わらない、と、
良いなあ、

と、
何とも頼りなく。

当然、

方法が雑な分
その粗も
大きいのですが、

例えば、

元や金、明代等が
欠落
しており
恐縮です。

その辺りは
各王朝の正史の
地理志や
他の地理書等で、

多少なりとも
補完出来る
かもしれません。

識者の手による
良いものを
待ちたいと思います。

続いて、
この地図の
作成手順について。

1-2、
制作の手順


初手として、

以前用意した
春秋時代の河川地図に、

魯(曲阜市)から
呉(蘇州市)まで
直線
を引きます。

次いで、

その線から
大体東西各々
50km程度の
地域に点在する
春秋時代の地名
を、

主に『左伝』から
転載し、

これに
現在の地名を
落とし込みます。

イメージは以下。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、グーグルマップや、各史料の内容等を踏まえて作成。

メインとなるのは
春秋時代の
地名ですが、

出来るだけ
正確な位置
割り出すために、

当該の地点と
その現在地を
照合
させました。

これは、
『中国歴史地図集成』
の手法を
参考にした次第。

最後に、

歴代の地理書
用いて、

各々の時代ごとに
それらの地点間の
道のり

弾き出します。

先述の如く、

残念ながら、

春秋戦国時代における
各拠点間の
距離なり
道のりなりを
体系的に記した史料
見当たりませんで、

後代の地理感覚
頼った次第。

なお、
後漢時代のものは、

サイト制作者の
興味本位で
三国志関係の
オマケです。

2、魯から
呉までは三千里

上記の手順で
地図を作成し、

魯から呉までの
大体の道のりを
弾き出した結果、

曲阜に程近い
(東に20km程度)
済寧市兗州区から
呉の首都があった

蘇州市までは、

清代の感覚で
1890里≒
約1089km。

1100km弱
道のりになります。

今日の日本で言えば、

東京から、大体、
九州の西側までの
距離に相当します。

一応、ここで、

先の地図に
少々書き込んだものを
掲載します。

緑の点線
幹道として
機能したであろう
経路
です。

戸川芳郎『全訳 漢辞海』第4版の巻末地図をベースに、譚其驤編集『中国歴史地図集』各巻、グーグルマップや、各史料の内容等を踏まえて作成。

さて、ここで、

上記のルート・
大体1089kmを
周尺換算すると、
(1尺≒18cm)

約3360里。

―二千どころか、
呉をたずねて三千里!

そして、その、
約1089kmを、

杜預曰く
「一舎三十里」

―1日30里
(周尺換算で
約9.72km)
歩けますよ、という、
古代中国の感覚で
計算すると、

約112日、
―4か月弱
掛かる
計算になります。

かなりアバウトな
計算ですが。

その意味では、

先述の
邾の国君の
呉から中原まで
「三月ならざれば
至らざる」

という話は、

まあ、
当たらずも遠からず、

といったところ
かしらん。

おわりに

そろそろ、
以下に
結論を整理します。


1、濟寧市兗州区から
蘇州市姑蘇区までは、


前近代の道のりで
約1100km
である。

周尺に換算して
3360里。


因みに、

春秋時代の
邾から呉の遠さは
これに近く、
30km程短い。


2、『春秋左氏伝』
哀公7年の伝にある
「呉二千里、
不三月不至、」
については、


恐らく、

「呉二千里」より
1000里余遠い。


一方で、

「不三月不至」
については、


「一舎三十里」で
計算すれば
約112日となり、


当たらずも遠からず、
と言ったところ
であろう。

【雑談】
川船による移動

記事本文では、

陸路による
移動速度は
「一舎三十里」
としているものの、

実際の
兵士や物資の
戦略移動
には、

かなりの頻度で
川船を用いている

痕跡が、

少なくとも
春秋時代から
あります。

とはいえ、

サイト制作者の
調べ方が悪いためか、

目下、

陸路の
「一舎三十里」
に相当するような

川船の
速度計測の基準
めいたものを
見付けられて
いません。


もっとも、

世界の前近代の
日本や西洋等の
方々の事例

言えば、

ネットで
検索を掛けたところ、

大体、
時速5km程度
言われていますが、

どうも、

その内情が
一筋縄では
行きません。


長所としては、

環境さえ良ければ、

陸路に比して、

速い速度と
少ない労力
で、

大量の人員・物資
運ぶことが
出来ます。

ところが
逆もまた然り。

読み易いものでは、

例えば
イザベラ・バードの
『中国奥地紀行』

が詳しいのですが、

同書も踏まえて
細かい状況を以下。

まずは、

天候や
地形によっては、

何日も
進まないことも
あります。

川下りでも
悪天候や渇水等が
障壁となり、

蛇行したり
岩礁の点在する
急流では、

加速度による
操船ミスが
座礁や沈没に
繋がります。

そのうえ、

大国の軍船の
動員ともなれば
何百里もの
列をなすことで、

河川の許容量や
運航速度にも
制約が掛かった
ことでしょう。

さらには、

川上りの
曳舟の場合は、

流れや
傾斜によっては
大量の人員を擁し、

綱は頻繁に切れ、

足場が悪ければ
死者も出るという
重労働。

そのうえ、

何時間やっても
ゼロどころか
逆戻りという
ケースもあります。

そうした
事情につき、

あくまで
サイト制作者の
愚見ですが、

水路は陸路よりも、

速度の基準という
捉え方が
難しかったの
ではないか、
と、

考えております。

と、言いますか、

古代中国における
その種の基準が
あれば、

何方かに
御教授頂きたく。


【主要参考文献
及び史料】
(敬称略)

左丘明・小倉芳彦訳
『春秋左氏伝』各巻
杜預『春秋経伝集解』
譚其驤
『中国歴史地図集』
各巻
戸川芳郎監修
『全訳 漢辞海』
第4版
酈道元『水経注』
楊守敬・熊会貞
『水経注図』
司馬遷『史記』
班固・班超『漢書』
陳寿『三國志』
李吉甫
『元和郡縣圖志』
北宋楽史
『太平寰宇記』
顧祖禹
『讀史方與紀要』
徐乾学、他
『大清一統志』

カテゴリー: 軍制 パーマリンク

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