まずは、更新が大幅に遅れて
大変申し訳ありません。
その理由として、
まず、盆に
ゲームに狂っていたのも
悪いのですが、
恐らく、それ以上に、
調べたことを書くに当たって
中々その切り口が見つからず、
その試行錯誤で
時間浪費したことが
最大の理由です。
さて、目下作成中の記事は、
『周礼』地官の
軍事動員についてのものです。
ですが、史料の性格柄
虚実定かならざる部分も
あることで、
思い切って、
これに関する
西周末と春秋時代の
時代背景の整理にまで
踏み込むこととしました。
『管子』や『逸周書』等
一応は、この時代のものとされる
文献を読むための
下準備という
スケベ心があり、
さらには、サイト制作者の
当面の目標である
戦闘単位・「両」の理解にも
役に立つと考えたからです。
もう少し言えば、
戦国時代以降の俸給制の軍隊と、
平時の民政組織が
有事の軍隊組織に横滑りする
封建制の軍隊との違いを
知りたかったことも
ありまして。
―ところが、
サイト制作者の
作業量の見積もりが
あまりにも杜撰でして、
結果として、
これでエラい目に遭いまして。
具体的に言えば、
国野の概念の整理に追われ、
「県」の定義や
時代ごとの
支配領域の変遷に攪乱され、
挙句、「邑」そのものの性質や
邑と領土との関係が
イマイチ分からない、
―という具合です。
因みに、
「県」は、春秋時代は
紀元前6世紀中頃までは
諸侯が他国より併合した
属領を意味し、
それ以降は、
秦漢時代程ではないにせよ、
直轄支配を伴う意味合いが
出て来ます。
ですが、
後日紹介する予定ながら、
周制では、
郊外の地域「野」の
2500戸の行政単位も
「県」と呼び、
そのうえ、
「県」の領域自体も
一定ではありません。
国ごとまるっと併合して
県と呼ぶ場合もあれば、
併合した領土を細分化して
県と呼ぶ場合もあり、
挙句、時代が下ると
恐らくは画一的な動員基準で
兵隊を供給する県にもなる、
―という具合で、
こういう概念の整理が
面倒なこと
このうえなく。
また、「邑」は、
規模の大小を問わず
防御施設を伴った居住区です。
一国の中心的な大邑を
「国邑」などと呼びます。
首都でもあります。
―このような次第で、
調べ事を進める度に
1歩進んで2歩後退で、
新な疑問が生じるという悪循環。
そのような中、
冒頭のイラスト中の
参考文献の中にある
土口先生の論文、
土口史記「春秋時代の領域支配
―邑の支配をめぐって」
『東洋史研究』65-4
(PDFで無料ダウンロード可)
に出会ったことで、
漸く解決の糸口が
見出せた心地につき、
今回の見苦しい言い訳を
思い付いた次第です。
また、この場を借りて、
イラストの内容の正否はともかく
土口先生に厚く御礼申し上げます。
【主要参考文献】
土口史記「春秋時代の領域支配」
増淵龍夫「春秋時代の縣について」
五井直弘「春秋時代の縣についての覺書」
稲畑耕一郎監修「図説 中国文明史3」