はじめに
鎧の話をするつもりが
いつの間にか鉄の話になるという具合に、
サイト制作者自身も
自分でやってる癖に、
こういう回りくどさに対して
いい加減気が滅入って来た次第ですが、
あきらめずに続けていく予定です。
1、鉄にこだわる理由
さて、そもそも、
どうしてこのような
訳の分からないことを
やっているかと言いますと、
過去の記事にも書きました通り、
要は、三国志関係の
さまざまな創作物に出て来る鎧と
出土品や学術論文等の内容との差異が大きく、
作品のデザインの関係上
或る程度フィクションが入るにしても、
両者の整合性をどこで取れば良いのか
分からないからです。
しかも、あの時代の現物が極端に少なく、
俑も儒家共の影響で
ヘッタクソなものしか
残っていないという具合。
(当時の人を責めても仕方がないのですが)
後漢・三国時代の鎧自体、
大体どういうものがあったかは分かっても、
(例えば、篠田耕一先生の
『武器と防具 中国編』等を参照)
そのディティールについては、
分からない部分が多いのです。
それならば、当時の製鉄の技術水準から
アプローチを掛けていけば
何かしら見えて来るものがあろう、
―という想定の下、
その斜め上を行くこと久しいのですが、
当分は、漢代に鉄で何を作ったかを
羅列していこうと思います。
2、鋳造と鍛造
さて、当時、鉄でモノを作る際、その方法は、
大別して、鋳造と鍛造の2種類あります。
鋳造は、溶かした鉄を鋳型に流し込む方法。
大雑把なものを作る時に
良く使われる方法です。
鋳型を外した直後は
表面がザラザラしています。
また、往々にして、
溶かした鉄の中に気泡が入ったまま
冷え固まったりしまして、
その結果、モノの中に
「巣」と呼ばれる穴が出来ることで、
現場の方は、
現在でもこれに苦しめられています。
で、鋳造製品の一例として、
今回、自筆のヘッタクソな絵を
掲載するのが、鏟(さん)。
字引によれば、かんなやスコップ、
と、あります。
【追記】
篠田耕一先生によれば、
農具としての鏟は、
新石器時代には既に存在したものであり
先端の部分は刃になっていて
除草にも使えたそうな。
また、武具としての利用は
明代以降だそうで、
これは先端の左右が広がっています。
【追記・了】
こういうところが
漢字の面倒なところでして、
時には、同じ漢字で
武器と民具の双方の意味を持つ
ケースもあり、
困ったものです。
3、実用大国・秦
また、道具をめぐる
零れ話のひとつとして、以下。
秦は遊牧から国を興した経緯もあり、
儀礼よりも実用性を重視したそうな。
その結果、もっとも完成度の高い生産品は
青銅製の武器で、
次いで、大型の建築部材、馬車、
生活用具の類なんですと。
逆に、他国に劣るのは、
精巧な装飾が施された
儀礼用の器の類。
日本の都市で言えば、
観光資源の多い東京や大阪
というよりは、
文化面では弱いが
モノ作りに強い名古屋のメンタリティに
近いという話かしら。
鍛造は、鉄の塊を数百℃で
加熱して叩くやり方。
比較的繊細でしなやかなものを作る場合は
この方法でやります。
例えば、刀剣や矛の頭のような鋭利な武器、
ノコギリのような切るための工具、
あるいは、ワイヤー、釘等の細い消耗品、等。
【追記】
正確には、漢代の剣や戟等は
鍛造だけでなく
鋳造で製作されたものもあります。
(河南省鶴壁市出土)
【追記・了】
ですが、精巧な装飾品のレベルとなると、
サイト制作者の愚見としては、
後漢や三国時代ですら
銅が主流だったのではないでしょうか。
そうだとすれば、
創作物で武将が身に纏う
精巧な装飾の施された鎧は
銅製ということになります。
これで鋭利な鉄器と遣り合うのですから、
さあ大変。
おわりに
今回は、結論めいた話はしません。
後日、もう少し体系的な話をして
然る後、論点を整理しようと思います。
加えまして、
雑談序と言っては大変失礼ですが、
鉄の御話で大変勉強になりました
佐藤武敏先生は
昨年夏に御亡くなりになられたとのことで、
御冥福を御祈り申し上げます。
過去の記事にて
折角和訳して頂いた『塩鉄論』の悪口を書いて
罰の悪いことこのうえなく。
【主要参考文献】(敬称略・順不同)
佐藤武敏「漢代における鉄の生産」
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史』4
林已奈夫『中国古代の生活史』
戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』第4版
【余禄・病気の話】
武漢発のヘンな肺炎で東アジア全体が
大騒動になっていますね。
邦人の方からも死者を出したそうで、
ともあれ、国を問わず、
亡くなられた方々の御冥福を
御祈り申し上げます。
さて、このブログで取り扱う範囲で
少々無駄話をしますと、
恥ずかしながら、今回の件で、
外征中の軍隊内で
現地の風土病が流行る怖さが
或る程度リアルに
想像出来るようになったと言いますか。
病気そのものの感染の速度の速さに加え、
医療品の不足や衛生環境の悪さが
それに拍車を掛けるのでしょう。
『三国志』の世界で言えば、
赤壁や北伐と連動して行った孫権の親征もそうで、
その他、『呉志』を読むと、周瑜父子等、
少なからずの数の要人が30代以下で亡くなっています。
あの政権の母体は、程普や韓当、張昭等の
北来の士も少なからずかかわっていることで、
(北も色々で、張昭は徐州、程普なんか右北平!)
残念ながら確証はありませんが、
夭折した人の中には、
彼等は慣れない風土で心身を酷使したことが
祟っているケースがあるのかもしれません。
もっとも、古代中国だけかと言えば、
太平天国も北伐で精兵がこれにやられて
国自体が勢いを失っています。
換言すれば、
前近代の戦争は
外征に風土病が付いて回るのが
当たり前なのでしょう。
もそっと調べると、
何かしら見えて来そうなもので。