相変わらず、
無駄に長くなったので章立てを付けます。
興味のある部分だけでも
スクロールのうえ御笑読頂ければ幸いです。
はじめに
1、追跡!魚鱗甲の300年
1-1、炎ちゃんに叱られる
1-2、魚鱗甲の登場
1-3、昔もあった、低コスト版
1-4 300年の意味とは?
2、鎧の定義と藤甲
3、実は違う?!甲と鎧
4、鎧も衣服?!気になる肌触り
5、鎧の収納性について考える
6、百聞に如く現物は何処(いずこ)
【雑談】野暮な時代考証を試みる
7、鎧の重ね着の事例
8、重ね着のパターンを妄想する?!
【雑談】騎兵の本質を考える
1、馬を取り巻く環境・要因
2、案外難しい騎兵の重装化
3、攻勢の軍隊は拙速を聞く
おわりに
はじめに
今回は、古代中国の鎧の
定義や特徴めいた初歩的な御話を致します。
―で、その前に恒例の見苦しい言い訳ですが、
最早悪弊と言いますか、
タダでさえ少ない持ち時間に加えて
中文の読解と説明用のイラストの作成に
時間が掛かり過ぎたことで、
取り合えず、
五月雨式にでも綴ることとします。
そして、最終的には、
後漢・三国時代の鎧について
詳しく触れたいのですが、
その前に、
何回かに分けて、
先の記事で出来なかった
鎧そのものの定義や構造・材質等について
整理することを試みます。
そもそもの構造以外にも、
兵科ごとの形状、
甲片(中国語:大体数センチ四方の板)の
材質・形状・綴り方、
製造・管理等が、
時代の状況と相俟って
複雑に絡み合うことで、
文献の内容を整理して
説明する側としても、
一筋縄にはいかんのですワ、これが。
しかも、肝心の後漢・三国時代の出土品と言えば、
ごく僅かな現物と
数百年前の秦代の兵馬俑に比べれば、
デフォルメとすら呼べぬようなレベルの
ヘタクソな人形しか残っていないという
ブラック・ボックスに近い状況、
という・・・。
―もっとも、
その人形の制作者も、
サイト制作者のような
ヘッタクソな絵を描く奴に
言われたくはないでしょうが。
【追記】
こういうものを残す側にも言い分がある模様。
鶴間和幸先生によれば、
人の魂を移したようなリアルな俑を
作るべきではない、
というのが、
儒家の発想だそうな。
この時代の家屋の俑は
割合丁寧に作り込まれているので、
その違いの理由が氷解した心地です。
また、北朝時代の俑も
写実的で精巧なものにつき、
儒教の影響は小さいのかもしれません。
一方、秦の兵馬俑が作られた
目的のひとつは、
モノの本(タイトル失念!)
他の六国の怨霊から国を守るためだそうで。
さらに、あの握手を求めるように
手を差し出すヘンなポーズの理由は、
平和を求める証、などではなく、
その怨霊対策の要となる銅剣を
持たせるためのもの
なのだそうな。
剣が消失した理由は、
―詮索しない方が
夢があって良いのかもしれません。
現在とて、キロ単価700円もするので、
銅線だのマンホールだのが、
窃盗の対象になっていることにつき。
【了】
1、追跡!魚鱗甲の300年
1-1、炎ちゃんに叱られる
さて、その辺りの事情を邪推すれば、
例えば、西晋代の魚鱗甲の俑なんぞ、
サイトの製作者のような
妄想癖のあるファンが
如何に鉄製を期待しようが、
枕元で司馬炎の亡霊に、
「アレは皮甲ぢゃ、
ぼーっとゲーム(以下省略)」と叱られ、
ガックリと肩を落として、
「はあ、左様で。」となろうかと思います。
―否定出来る程の材料がないからです。
その一方で、心の中で、
「そんなフェイクばかり使ってるから
アンタ等の王朝は短命で潰れたんだよ!
孔明先生に謝れ~!」
と、舌を出す、と。
1-2、魚鱗甲の登場
斯様な、
つまらない与太話をする理由として、
既に前漢末の段階で、
当時の鉄製の鎧(魚鱗甲)と同じ形状の皮甲が
出回っていました。
以前使用したイラストの再掲で
恐縮ですが、
前漢末の魚鱗甲は、
以下のようなものです。
呼んで字の如く、
小さい甲片を
魚のウロコのように綴ります。
因みに、それ以前の鎧は、
短冊状の甲片を縦3、4列に綴る、
あるいは、
垂縁(裾部分)が付いて
もう1列増えるタイプが
主流でした。
具体的には、
以下のようになります。
これも再掲で恐縮です。
因みに、左が歩兵用で、右が騎兵用。
で、魚鱗甲は、
武帝の対匈奴戦の戦訓を反映して
開発された
当時の漢王朝における
最新型の鉄製の鎧です。
1-3、昔もあった、低コスト版
そして、
これと同型の皮甲が
登場したということは、
早い話、
鉄製の鎧の製作技術を流用した、
謂わば低コスト版。
北方の前線に
最新式の鉄製の魚鱗甲を配備する一方で、
こういうのが内地の軍隊に
数多く支給されていた可能性があります。
その具体的な根拠として、
当時の東郡―河南省濮陽市の辺りの、
さる亭の亭卒に関する事務的な記録が
残っておりまして、
それによれば、
皮甲の配備が記載されておりました。
また、別の地域からは、
当時の魚鱗甲の皮甲の現物が
発掘されたという次第。
以上のような事例から、
後世の政権、
―特に、深刻な物不足の三国時代の王朝が
「廉価版」の大量生産を
やっていないという証拠もなく、
それどころか、唐宋時代ですら、
革製の黒光鎧が出土したこともあり、
(この辺りは、多少、後述します。)
あの種の人形だけでは、
恐らく、大体の形状だけで
材質は判断出来ないものと想像します。
ですが、侮る勿れ。
皮甲は、
銅製の武器であれば
貫通しなかったそうな。
同時代の曹魏の鏃は銅製です。
―とはいえ、
こういうのも
ケース・バイ・ケースでしょう。
近距離で弩の直射を受けて
無傷で済むとは
到底思えません。
1-4 300年の意味とは?
さて、魚鱗甲をめぐる一連の状況について
少々堅く纏めるとすれば、
概ね以下のようなことが
言えるかと思います。
以前、サイト制作者は
軍事技術の開発期間について、
有事の1年は平時の10年に相当する、
という言葉を聞いたことがあります。
WWⅡの戦車や航空機等の開発競争等が
その一例でして、
目先の戦争に勝つために、
平時の経済体制では
到底工面出来ないような
予算や人員を投入し、
そのうえ、
潤沢な量の
血塗られた実戦「データ」を
恐るべきスピードで解析して、
その成果を兵器開発に
素早くフィードバックさせることが
出来たからだと思います。
そしてそれは、恐らく、
魚鱗甲その他の鎧の開発についても
当てはまる話ではないかと思います。
具体的には、
西晋時代の鎧の
甲片の詳細は不明ながら、
前漢末から300年近く
似たような綴り方をしていたことが
注目に値するかと思います。
特に、後漢時代の最初の100年は、
辺境や主要都市にこそ精鋭部隊を
駐屯させていたものの、
基本的には
地方の常備軍をほとんど全廃するような
軍縮の時代。
そして、次の100年は、
主に西部の地方が
なし崩しに軍備を拡大したとはいえ、
相手は組織力のある
遊牧民族の強大な王朝ではなく、
暴発当初は
武器さえ所持していなかった
羌族の反乱軍です。
その意味では、
董卓の軍隊が並外れて強かったのも、
長きにわたって国防方針で優遇された
国軍中の最精鋭部隊だったからに
他なりません。
そして、こうした状況を受けて、
博学な先生方の中には、
王朝時代の軍隊の宿痾とも言うべき、
そして、どうも中共の軍隊をも
浸食していそうな
文を尊び武を卑しむメンタリティも
この時代に形成されたと
指摘される方もいらっしゃいます。
あくまでサイト制作者の意見ですが、
三国時代の軍事を調べるのが手間なのは、
理由のひとつとしては、
その直前の時代が
軍事的には空白に近かったのが
大きいように思います。
―つまり、兵站や武器等の事務的な史料が
残りにくかったものと想像します。
そして、延いては、
対外戦争の切り札として登場した魚鱗甲が、
王朝が乱立して抗争する
謂わば内乱状態の三国時代に入るまで
鎧の進化がそれ程進まなかったのも、
恐らくは、
こうした事情が影響しているように思います。
―というような、
ややこしい話を
少しづつ整理することで、
少しでも、
三国志の時代の実相に
近付くことを試みる次第です。
で、今回は、
差し当たって、
古代中国における鎧について、
定義や特徴といった御話を少々。
なお、中心となる参考文献は、
恐らく、古代中国の武具関係の
大抵の文献の主なタネ本であろう
楊泓先生の『中国古兵器論集』。
サイト制作者の場合、
灯台下暗し、でして、
在住する田舎県の最寄りの国立大学の、
それも、何故か理系の学部の
附属図書館にありました。
2、鎧の定義と藤甲
さて、まずは、
鎧の定義めいたものについて触れます。
件の楊泓先生によれば、
最低限の機能として、
胸の背中を防護する点を
挙げていらっしゃいます。
なお、原始時代は
材質は皮革や藤、木等でして、
機動性を重視して
四肢は守らなかったそうな。
で、その際、
鎧の原始的な形状として参考となるのが、
台湾の藤甲だそうで、
こういうのは
民族学的なアプローチとのこと。
そう、『三国志演義』において
孔明先生の南征で登場して、
油でコーティングしたのがアダになって
火矢で丸焼けになったというアレ。
そして、恐らく、
こういうものが
演義に登場した理由として、
『中国古兵器論集』を読む分には、
南宋時代の雲南地方で
藤甲の現物を見たという
記録が残っているからだと思います。
ですが、愚見を開陳させて頂ければ、
『中国古兵器論集』の図録に
掲載されていた写真は、
アレなイラストに描いたような
20世紀初頭に存在した
前開きのものだの、
現地で12世紀に使用されたという
まさに、日本の鎌倉時代の大鎧に
似たようなやつだの、
どこかしらの文化圏の手垢が付いたとしか
思えないようなシロモノです。
したがって、
この種の鎧の存在が
いつの時代まで遡ることが出来るのかは
残念ながら、
サイト製作者には分かりかねます。
もっとも、民族学の立場にしてみれば、
文献史料とは無縁の
周辺地域からの物証等が
数多あるのかもしれませんね。
因みに、この藤甲、
骨格部分に藤蔓を使うのを
最低条件に、
形状も材質も色々あるようです。
まず、形状については、
冒頭のヘンなイラストにあるような
胸部をスッポリ覆うものもあれば、
エプロンのような形状で
背中は網羅するものの
脇がガラ空きのものもあります。
次いで、藤甲の材質については、
表面には藤蔓以外に、
皮や魚皮等を使うものもあります。
なお、油の塗装については
説明はありませんでした。
元ネタも分かりかねます。
もっとも、
黒や赤の漆の塗装により
防御力や防腐効果を高めるのは、
少なくとも戦国時代には
行われていました。
3、実は違う?!甲と鎧
その他、鎧の材質が
時代が下って皮革→銅→鉄と
進化するのは御承知のことと
思いますが、
面白いのはその呼称。
古来より、
皮革製の鎧は「甲」、
金属製の鎧は「鎧」、と、
呼ばれていましたが、
唐宋時代以降は
その区別がなくなり、
「鎧甲」となったそうな。
と、なれば、
北伐で蜀が鹵獲した黒光鎧も、
一応、金属製、
ということになるのかしら。
ですが、この話、
どうも正確なものとも言い切れず、
例えば、前漢の鉄製の鎧を
「玄甲」と呼んだりしています。
因みに、玄は黒を意味します。
4、鎧も衣服?!気になる肌触り
以下の章では、大体は、
古代中国における鎧の特徴について
いくつか挙げることとします。
ひとつ目の大きな特徴として、
鎧の肌触り対策について記します。
何だか、兵器の癖に、
衣料関係の
テレビ・ショッピングのようなことを
書いていますが、
実用とは、
得てして身近なものでもありまして。
それはともかく―、
篠田耕一先生によれば、
大別してふたつあるようです。
1、鎧の首・袖・裾等を布で裏打ちする方法。
2、鎧の中に厚手の戦袍を着込む方法。
この他にも、種々の文献によれば、
後漢時代には戦袍の中に鎧を着込むものも
あったようですが、
サイト制作者の調べた限りでは、
その詳細は元より、
古典や書簡、出土品等による典拠は
残念ながら不明です。
願わくば、
どなたか御教授頂ければ幸いです。
それでは、
1、首・袖・裾を布で裏打ちするもの、
について。
これは、無論、堅い部分で
皮膚を切るのを防ぐための措置です。
具体的には、例えば、
秦の、謂わば将校用(等級は不明)の
鎧でして、
暴騰のイラストにあるもの以外にも、
何種類か存在します。
今日で言えば、
防弾性のあるコートのような
感覚なのかもしれません。
また、この種の鎧は、形状としては
割合古い世代のものだそうな。
兵馬俑の戦列歩兵用の鎧を
最新型と仮定すれば、
この型の鎧も歩兵用につき、
春秋時代の戦車用の皮甲よりも
後の世代と考えられることで、
登場した時代を推測すれば、
戦国時代前期辺りまで
遡れるのかもしれません。
また、この鎧の別の特徴として、
主要な部分は、
材質は不明ながら、
金属で覆われています。
因みに、
冒頭のイラストにあるタイプのものは、
背中の金属部分が腹のそれよりも
やや高く(長く)なっています。
また、次に紹介する、
厚手の戦袍を着込むタイプの鎧にも、
復元品には、
首・袖・裾の先端が1、2cm程
布で裏打ちされていました。
次いで、
2、鎧の中に厚手の戦袍を着込む方法。
古代のみならず、前近代を通じて、
こちらの方がイメージし易い
かもしれません。
特に、騎兵の鎧の場合、
魏晋の頃までは
肩や脇腹が
剥き出しになっているものが
多かったのです。
厚手の戦袍が重宝したのは、
そうした事情もあったことでしょう。
5、鎧の収納性について考える
次に、モノによっては
折り畳む、あるいは、巻くのが可能、
という性質。
古典に出て来る、
甲を巻くという言葉通り、
或る程度の収納性があったようです。
ただ、鎧の構造から考えると、
サイト製作者としては、
モノによるのではないか、と、
考える次第。
詳しくは、
恐らく次回以降触れるかと思いますが、
具体的には、
以下のような理由です。
特に、古代中国における
戦列歩兵用の鎧は、
先述の無数の「甲片」を
縦横に繋いだものです。
通称、「札甲」と呼ばれるもので、
冒頭のアレなイラストで言えば、
右側の秦のヒラの歩兵用の皮甲。
主に、先述の、
2、鎧の中に厚手の戦袍を着込む、
というタイプのものです。
そして、ここが重要なのですが、
この種の鎧は、
横の列の甲片は固定されており、
さらには、各々の甲片が
漆で塗装されて堅くなっています。
したがって、
甲片が厚ければ、
恐らくは、
胸囲に相当する空間を
潰すことが出来ません。
つまり、巻くのも畳むのも出来ません。
―あくまで、サイト制作者の理解が
間違っていなければの話ですが。
で、具体的に、
どのような鎧が
畳んだり折ったりするのが
難しそうかと言えば、
これも、あくまで私見ですが、
例えば、戦国時代の戦車兵の皮甲や
兵馬俑の戦列歩兵用の皮甲です。
特に前者は、
袖部分の各々の甲片が湾曲しており、
胴体の甲片の最大の長さが
26.5cmもあるという具合。
無論、漆で塗装されております。
その他、
時代が下ると、
折ったり畳んだりとはいかずとも
バラせるものが出て来まして、
例えば、宋代の歩人甲なんか、
少し後の時代に
各々のパーツが
兵書で図解されています。
一方で、唐代の紙甲のような
布・紙製のものもあれば、
(これも、鎧やベスト等、
色々形状があるので説明が難しいのですが)
漢代の札甲のように
時代が下って
甲片が小型化していることで、
その収納性に
或る程度融通が利きそうな
ものもあります。
もっとも、
実物の甲片の厚さが不明につき、
サイト製作者が
動画や写真等で観た復元品が
たまたまチャチでペラかった、
―という、
情けない話なのかもしれませんが。
6、百聞に如く現物は何処(いずこ)
では、肝心のその実物はどうかと言えば、
先述の『中国古兵器論集』によれば、
特に、漢代の兵卒用の鎧
―特に魚鱗甲ともなると、
出土品が腐食した数珠繋ぎの甲片、
といったケースが大半で、
残念ながら、
完全無欠の綺麗な現物が存在しません。
その結果、
発掘物の甲片と俑、
文献史料等を照合して
全体像を推測する、
という方法にならざるを得ぬ模様。
もっとも、
これは1980年代の研究水準ですが、
ネットに掲載されている写真等を見る限り、
発掘をめぐる状況には
あまり変化はないように思います。
で、浅学なサイト制作者の場合も、
無い知恵絞って色々調べたものの、
特に、鎧の内側の構造や着脱の方法、
可動部も含めた形状の変化の程度等が
どうも分からず終いとなりました。
【雑談】野暮な時代考証を試みる
余談ながら、時代も近いことで、
ここで、公開中の『キングダム』について少々。
写真で観る限り、
山崎賢人さんの鎧の
甲片のサイズや綴じ方は、
前漢のものだと思います。
ここは、
当たらずもイイ線行っている、
と、言うべきか。
後、衛兵の鎧は
金属製で甲片が多く、
腕の防護も
袖状ではなく肩甲が付いているので、
魏晋時代ですら最先端の技術水準。
さらには、
甲裙(裾部分)が長く膝までありまして、
裾の形状は、
残念ながら南北朝まで下ると思います。
恐らく、こういう備品は、
向こうからレンタルしたものかしら。
とは言え、そもそも、
フィクションに突っ込むのは
野暮でしょうし、
本場の向こうの映像物にも
いい加減なものが多いのも
事実です。
一方で、映像で観れば、
そういうものが気にならない位に
迫力と説得力があるのでしょう。
あくまで、
モノの見方のひとつ、
あるいは、
鎧の細部や時代ごとの進化に
興味を持つための
契機のひとつとして、
御寛恕下されば幸いです。
7、鎧の重ね着の事例
~孫権の夏口攻略戦
今回、最後に挙げる鎧の特徴として、
二重の着用―重ね着について触れます。
これは、史書にも事例があります。
例えば、
サイト制作者が唯一知っているのは、
後漢時代―『三国志』の、
208年の孫権の黄祖攻めの時の御話。
『呉書』・董襲の伝にありまして、
概要を以下に記します。
まず、黄祖の軍は沔口を守備しており、
2隻の蒙衝(小型の軍用船)を横に並べて
碇を落して河川を封鎖していました。
なお、甲板には、
弩で武装した兵士1000名が待機。
対する孫権の軍は、
大型船(原文:大舸船―艦種不明)に
決死隊100名を乗船させ、
さらに、
この部隊に鎧を重ね着させます。
(原文:各將敢死百人、人被兩鎧)
で、この時の斬り込み隊長が、
猛将で名高い董襲と淩統。
結果として、
決死隊は矢の雨を掻い潜って
首尾よく敵船に乗り込み、
碇の縄を切って
河川の封鎖を解くことに
成功しました。
要は、ここぞという大一番で、
作戦の成否を担う
少数の精鋭部隊に支給された、
という御話です。
また、董襲の伝からは、
重ね着した鎧の詳細は、
金属製の可能性があること以外は
不明です。
8、重ね着のパターンを妄想する?!
先の話だけでは、どうも全貌が見ませんで、
春秋戦国から前漢末辺りまでの
鎧の形状から、
在り得る選択肢を
少々考えることとします。
まあその、
如何に史上の実例があるとはいえ
そもそもがムチャクチャな話なので、
こちらも相応の荒技で臨もうかと
思います。
さて、まず、重ね着する鎧の外側ですが、
四肢の可動性の高いものが考えられます。
サイト制作者としては、
冒頭のイラストにあるような、
肩甲がなく首元に余裕があって
着脱が容易な、
騎兵用の鎧が適していると思います。
それも、
その中に鎧を着込むことを考えれば、
胸囲のサイズも
一回り大きいものと想像します。
もっとも、こういう妄想も、
甲片の厚さや縛り方等によっては、
鎧の形状が
殊の外強く固定されている等して
用を為さないかもしれません。
逆に、重ね着が難しいパターンを考えると、
以下のようになるのかもしれません。
例えば、前漢の前開きの袖付き鎧や、
堅牢な袖の付いた戦車兵の鎧、
あるいは、
秦代以降の戦列歩兵が着用するような
肩甲付きのものは、
重ね着の際、
表側に着るものとしては
不適当かもしれません。
因みに、
前漢の前開きの袖付き鎧は
以下のイラストの右側。
これも再掲で恐縮です。
当時はサイト制作者は
浅学にして知らなかったのですが、
右側のタイプの鎧は、
少し前の世代の
甲片が短冊状で盆領(襟)付きの現物が
割合良好な状態で
発掘されていました。
なお、左側は、
先述のアレな俑の模写ですが、
大雑把に言えば
筒袖付きの魚鱗甲でして、
諸葛孔明が開発に携わったという
「筒袖鎧」も、
大体この形状なのでしょう。
―話を重ね着に戻します。
さて、
肩甲付きの歩兵用の鎧を
強引に重ね着しようとすれば、
例えば、
身甲(胴体部分)と肩甲を繋ぐ紐を外し、
一旦両者をバラすだとか、
色々とやりようはあるのかもしれませんが、
重ね着するものは、
やはり一回り大きいサイズに
なろうかと思います。
因みに、先述の冒頭のイラストに描いた
秦代の歩兵用の鎧は、
首回りに巻かれている紐を緩めて
頭から被るタイプです。
ただ、前漢の歩兵用の鎧は、
前開きの袖付き鎧(現物有)以外は
着脱や胴を開く方法等は不明です。
首回りの隙間が広いことで、
頭から被るタイプだとは思いますが。
秦代の兵馬俑は、
そうした着脱に関する細かい部分も
丁寧に彫られているところに
有難みがあるように思います。
―もっとも、統一早々
そういうことをやっていたから
滅亡も早かったのでしょうが。
その辺りの事情は、
現世の負債は後世の遺産、
そのように理解すべきなのかしら。
とは言え、泉下の始皇帝様は、
かつては
自分の国の木っ端役人であった
不良中年が建国した漢に
美味しいところを持っていかれるわ、
そのブレーンである後世の儒家連中からは
クソミソにけなされるわ、
オマケに、『キ〇グダム』その他の
知財関係の恩恵には預かれないわ、
こういうアホが勝手なことを喚く
怪しいブログで
玩具にされるわで、
何とも散々なことで。
【雑談】騎兵の本質を考える
1、馬を取り巻く環境・要因
色々やりたいテーマのひとつに
騎兵というのがあります。
具体的には、
易戦の法等の集団戦法から
装備・品種・産地・「燃費」、
農業における他の家畜との相関関係等に
至るまで、
整理したい項目が
いくつもあるのですが、
今回は、テーマに沿って、
騎兵の鎧について少々触れます。
と、言いますのは、
優良な文献に出会ったからでして。
したがって、以下は、
西野広祥先生の
『「馬と黄河と長城」の中国史』
(PHP文庫)
―の内容にかなり準拠します。
同書は残念ながら絶版ですが、
2019年6月時点では
ネット中古市場では捨て値の模様。
著者の先生の
馬そのものは元より、
対象となる地域(主にオルドス)
の地形や気候といった要因に対する
造詣の深さにより、
サイト制作者にとっては、
馬・騎兵やその用兵思想について
根本から考えさせられた
一書となりました。
2、案外難しい騎兵の重装化
因みに、
兵科ごとの鎧も、
後日の記事で触れたいと思うのですが、
秦代、漢代、そして、
魏晋以降の裲襠甲
(両当甲でも良いような気もしますが)と、
実は、騎兵用の鎧のコンセプトは
それ程変わりません。
色々な先生に言わせれば、
馬狂いの武帝以降の
漢の歴代政権が、
目先の食糧事情に窮して
馬の改良を怠ったことで
その積載量や速度等が自ずと頭打ちになります。
何だか、限られたエンジンの排気量の中で
武装やエアコン、足回り等のオプションを
遣り繰りするという
戦中の航空機や最近のEV車の話、
その他、『フロントミッション』や
『メタルマックス』といった、
機械いじりのゲーム等を
思い出した次第。
しかも、漢民族の乗馬のセンスたるや、
鞍や鐙(三国末~晋代に実用化)が無ければ
行動に大いに支障があるという具合で、
こうした点が騎兵の重装化の足枷に
なっていたようです。
―もっとも、現実的には、
こういう部隊は
烏丸や鮮卑等の異民族が
下請けしたことでしょう。
例えば、劉備の軍もかなり早い段階で
異民族の騎兵を抱えていました。
3、攻勢の軍隊は拙速を聞く
とはいえ、
事はそうは簡単ではありません。
今日の感覚で言えば、
武帝が
競走馬タイプと思しき
血汗馬を求めた
謂わば、ハイ・スペックの外車狂い
だとすれば、
その真逆と言いますか、
軽のジープの大量配備で
連戦連勝したのがジンギス・カン
であったりする訳でして。
具体的には、以下。
元朝が、
粗食に耐えて悪路に強い小型の馬と
軽装騎兵による運動戦によって
ユーラシアを制覇したのも
揺ぎ無い事実。
しかも、
小型の馬で運動戦を展開するのは
昔からの北方遊牧民の
御家芸と来ます。
言い換えれば、
遊牧民族が
大型の馬に穀物を喰わせると、
行動範囲が極端に狭まるどころか
食糧不足で軍が破産するのです。
その意味では、
騎兵の装備や馬の質以前に、
漢民族と遊牧民族の
馬に対する知識量の差が
そのまま戦力の差として
如実に表れているそうな。
要は、重装騎兵は、
配備に手間暇掛かるうえに、
特に戦略的な運用面で
大きな弱点があるので、
勇壮なイメージとは裏腹に
中々具現化しない、という、
あまり夢のない御話です。
おわりに
例によって、結論を整理します。
概ね、以下にようになります。
1、前漢末の段階で、
既存の鉄製鎧と同じ規格の皮製の鎧が
製造されていた。
2、前漢末から三国時代までの300年弱に
鎧がそれ程進化しなかったのは、
軍事的な空白が影響している可能性がある。
3、古代中国における鎧の定義は、
胸と背中を防護する機能である。
4、鎧を着易くするための工夫として、
裏側や首・袖・裾等を布で裏打ちしたり、
あるいは、厚手の衣服の上に鎧を着用した。
5、モノによっては、
巻いたり畳んだり、
あるいは重ね着も可能であった。
しかしながら、現物が少ないことで、
不明な部分が多い。
6、資本力や戦力の大きい勢力同士の
激しい戦乱があると、
技術開発の速度が上がる。
魚鱗甲は対匈奴戦の産物であり、
明光鎧や筒袖鎧といった
三国時代に登場した新種の鎧も、
そうした事情が背景にある可能性が高い。
【主要参考文献】(敬称略・順不同)
楊泓『中国古兵器論叢』
篠田耕一『三国志軍事ガイド』
『武器と防具 中国編』
伯仲編著『図説 中国の伝統武器』
高橋工「東アジアにおける甲冑の系統と日本」『日本考古学 2(2)』
駒井和愛『漢魏時代の甲鎧』
西野広祥『「馬と黄河と長城」の中国史』
学研『戦略戦術兵器事典 1』
稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』
峰幸幸人
「五胡十六国~北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給」
『東洋学報100(2)』
浜口重国『秦漢隋唐史の研究』上巻
こんにちは。三国志に関心がある人です。 とても素敵な文を読んで感謝するという話を申し上げたくてコメントを付けました。
まずは、御笑読頂き大変感謝致します。
加えまして、更新が遅れており本当に恐縮しております。
毎度のことながら締りのない文章で
書き手として反省することばかりですが、
読者の皆様が何かしら得るところがあることを
願うばかりです。
こんにちは。つい数ヶ月ほど前にこちらのサイトを発見し、順はまばらながら度々読ませていただいており、その熱心な書きように驚くばかりです。
さて、鎧の衣服性等の所で少々考えたことがあったのですが、ここで取り上げる厚手の戦袍とはどのようなものなのでしょうか? ただ単に袍を厚くしたものなのか、あるいは中世の欧州でチェーンメイルの下に着られたギャンベゾンのようなものなのであったりするのでしょうか? ここらの時代でいえば、スキタイを始めとした遊牧民が防寒のために勿論身につけていましたし、地中海世界においても防寒・防護のため頻繁に着られておりましたから、古代中国にも勿論あったと思われるのですが……ご意見をいただけますと幸いです。
まずは、御丁寧に御読み頂いた上に、
コメント迄頂きまして、大変感謝申し上げます。
さて、御質問に対する回答ですが、
厳密に言えば、
残念ながら現段階では分かりかねます。
大変申し訳ありません。
―と、言いますのは、
今迄当たった武具・服飾関係の文献には、
そもそも戦袍について詳細に記されたものがなかった、
か、私の読み落としかの何れかでして。
ギャンベゾンの御話も含めて、
如何に前近代とはいえ、
不勉強さで足を掬われて驚いている、
とでも言いますか、
軍服の在り方を考える上で
目からウロコが出た次第です。
ですが、これだけでは身も蓋もなく、
折角御質問頂いたにもかかわらず申し訳ないので、
分かる範囲で愚見を開陳致します。
残念ながら、
過去の記事のおさらいが多く恐縮ですが、
多少なりとも御参考になれば幸いです。
まず、結論から言えば、
普段着に比すれば、
恐らくは、
戦袍は厚手で作業着に近い軍服でして、
鎧の着用を前提にしたギャンベゾンや、
近代における複雑な姿勢を取る
散兵戦に対応するレベルの
高度な設計思想があるようには思えません。
むしろ、鎧が戦袍の弱点を補うように
進化しているように思います。
以下は、その根拠めいたものです。
長くなります。
まず、戦袍の形状ですが、
秦漢時代の兵馬俑を観る限りでは、
長袖で膝迄の丈。
これは、当時の都市の普段着、
及び公の場で着用された「袍」の丈が
短いものでも脛まであることを考えると、
同じ「袍」の字を使うにしても、
普段着としての用途は
考えにくいと思います。
色彩にも特徴がありまして、
例えば前漢の戦袍は
鮮やかな朱色一色です。
一重の着物でも
襟や袖には違う色や生地を用いるのが
当時の服飾の御約束であることを考えると、
やはり目立つ衣装であり、
軍用以外での着用は考えられないと思います。
また、着こなし方を考えても、
当時の男女兼用の上半身の
国民的なカジュアルな衣類である「襦」は、
戦袍の下に着込まれています。
秦代には、中国初の
仕送り催促の書簡とされるものが
出土していますが、
この催促の対象が、その襦。
つまり、機能性はともかく、
当時の服飾的な感覚から考えれば、
恐らくは、軍事、
あるいはそれに付随する作業に特化したものと
想像します。
次いで、機能的な側面ですが、
やはり兵馬俑―特に、非常に精巧な秦代のものが
分かり易くて参考になると思いますが、
袖部分を観ると
かなり厚手の生地であることが分かります。
また、別の視点の話となりますが、
前漢時代に出土した
保存状態の良い鎧がありまして、
実は、これには、
その模写を観る限り、
袖口や裾等の部分は
金属との摩擦で衣類が擦り切れやすい筈ですが、
それらの部分を
布等の緩衝材で裏打ちされた痕跡が
ありませんでした。
これが意味するところは、
戦袍には、設計思想はともかく、
それだけの耐久性があった証拠だと思います。
一方で、機能面で怪しい部分も
あるにはありまして。
具体的には、当時の兵士は、
戦袍や下着の襦に加えて、
わざわざ厚手の布を
マフラーのように巻いていました。
モノの本(『図説 中国文明史4』p81)には、
「マフラー状の立ちえり」と書かれています。
ですが、
愚見としては、
どうも襟と戦袍が
一体となっているようには見えません。
私としては、
実は、ここが不審な点でして、
ギャンベゾンのように、
鎧の着用を前提にして
要所要所に詰め物をするような
周到な設計思想であれば、
戦袍のみで白兵戦を行う想定としては、
当時の白兵戦で必ず狙われる首回りを
無防備にするような稚拙な設計にはしない筈です。
さらには、戦国時代の戦車の馭者の鎧には、
左右に歩兵が付いて
自らは白兵戦をせずに操車に特化するにも関わらず
必ず襟が付いています。
このように考えると、戦袍は、
普段着に比べれば、
作業着寄りの軍服といったようなもので、
その弱点を鎧で補った、
というのが実情ではなかろうか、と、思います。
後、気候との関係についても言及します。
その際、参考になるのが、南方の軍装です。
例えば、東晋時代の俑を観ると、
上下は襦褲でして、
さらに上半身には、裾が股間辺りまである
丈の短い上着を着る、
という装束です。
この上着は普通の襦か、
あるいは南方の戦袍なのかもしれません。
因みに、南方では、
ヒラの兵士は鎧を付けませんが、
幅の広い褲を履きます。
これは、山林・河川のような遮蔽物の多い地形が
影響しているそうな。
これを前提に考えると、
仮に、この上着が戦袍であるにせよ、
丈は膝までの長さはありません。
また、後漢時代の豪族の半農の私兵も、
褲の幅が狭い以外は
東晋時代の兵士と似たような恰好をしています。
仮に、東晋時代の兵士の上着が、
襦ではなく、丈の短い戦袍だとしても、
秦漢時代の北方の兵士のような
目立つ形状でもないことで、
私個人としては、
戦袍の機能には、
鎧の着用で怪我をしない程度の強度、
防寒、軍民・敵味方の識別以外の合理性は
どうも感じません。
また、調べ事に進展があれば、
その都度記事にしたいと思います。
浅学につき要領を得ない回答で、
本当に恐縮です。
最後に、余談ながら、
鎧に関する記事は、今少し御待ち頂ければ幸いです。
漸く、説明用の落書きめいたイラストを描き終え、
本文執筆に入った所です。