はじめに
更新が滞りがちで大変申し訳ありません。
さて、漢中・長安間の交通と北伐の話をする予定でしたが、
通勤の間に、断片的に目を通して本棚の肥やしになっていた
孫呉の正史の和訳を読んでおり
このネタが少し溜まったことで、
この話も忘れないうちに
少しやろうかなあ、と。
もっとも、
交通の話も近いうちにする予定です。
1、黒幕・先代の無責任時代の泥沼抗争
さて、以前の記事に、孫呉政権について、
中原で働くことしか眼中にない名士の集合体と
書きましたが、
孫家にとって
本当に面倒であったのは
張昭等の外来名士よりも、
むしろ顧氏(顧雍等)や陸氏(陸遜等)のような
江南近辺の地元名士の方の模様。
と、言いますのは、以下のような御話。
まず、孫策の代に
袁術の暴力装置として揚州に手を出した際、
上記の数々の地元名士様および
劉繇や王朗等のような
既存の地方官(こちらは外様の名士様)と
血で血を洗う抗争を繰り広げ、
オマケに代理戦争の黒幕の袁術との主従関係は
御存知、皇帝を僭称したことで絶縁と相成り、
(ただし、袁術の娘を介して、
一応姻戚関係にはあるという不思議。
この方は、孫権の妾として、
袁家の衰退後も長らく後宮に身を置いており
聡明な婦人であったそうな。)
謂わば、孫家としては、
大黒柱と頼む後ろ盾を失った訳でして、
しかも台風の目である孫策本人も
こういう仁義なき戦いの渦中で
ヒットマンの手に掛かって横死を遂げるという
終局の見えない泥沼の展開。
余談ながら、あのシリーズが好きな方
(年配の方々と想像しますが)は、
1作目のラストの
「山守さん、弾はまだ残っとるがよ。」を
連想して頂ければ幸いです。
つまり、
目ぼしい連中が残らず抗争で倒れて
残った者も統率力が欠如している、
という具合で、
何人も死者を出した割には
誰が真の勝者だか判然としない状況を。
何の話か。
しかしながら、
孫策には別の顔もありました。
彼は単なる
戦争屋のトラブル・メーカーではなく、
名士から札付きの侠客まで
色々な社会階層の人と付き合い、
そして手厚くもてなしたことで、
彼の陣営には
文武を問わずに優秀な人材が
数多く集まったことも
見落とせません。
文にあっては
周瑜を筆頭に
呉の二張の張昭・張紘、
武あっては
太史慈・甘寧・蒋欽・周泰、
という具合に、
その後の孫呉政権の屋台骨を支える面々の
かなりの部分が、
既にこの段階で顔を揃えておりました。
無論、先代の孫堅の時代よりの
古参の武将も健在です。
2、ツンデレ名士共との馴れ初めは・・・
さて、孫家は飛ぶ鳥落とす勢いながらも
江南の地は未だ混乱状態で、
そのうえ当主が若くして斃れるという
カオス状態の中で、
孫策の跡を継いだのが、
今回の主役である
有名な孫仲謀こと孫権。
或る意味、袁術や孫策のやった
無責任な外交の負の遺産を整理すべく
江南界隈の名士に頭を下げ続けることと
相成りました。
陸遜との姻戚関係も恐らく
そうした文脈上のことですが、
この人の場合は
血統だけではなく、
地方官時代から
若年にもかかわらず
陽の当たらない辺境の治安対策で
桁外れの成績を上げたことに加え、
畑違いの荊州戦線についても
現実的な関羽の打倒策を腹蔵していたことで
呂蒙の眼鏡にかないまして、
関羽に無警戒な形で
最前線の要職に抜擢されました。
ただし、この時に陸遜が関羽に送った書面には
同盟関係を続けたいとありまして、
陸「遜」名前の如く、
遜(へりくだ)った文面ではあるものの、
浅学につき胸を借りる、
という類の宣戦布告ではありません。
その意味では、
警戒を怠る一方で
樊城攻略の際に呉の食糧を
ネコババしたりした関羽にも
非があるとはいえ、
こういう、
同盟を装い、
そのうえ兵隊を民間人に擬装して
狼煙大を制圧するような
呉の呂蒙や陸遜のやり口にも
どこか釈然としないものを感じます。
もっとも、
手紙は社交辞令で
軍人の擬装も常套手段というのが
当時の慣習がそういうものであれば、
どのような戦いであっても
勝てば官軍で戦後処理も円満にいくのでしょうが。
3、良薬は口に苦し
仕事は出来る儒家名士様。
―ですが、名士連中なんぞ、
実際に任用するとなると
面倒を起こす人が多いことで、
使う側としては
気苦労が絶えないものです。
公孫瓚なんか孝廉上がりの癖に
居直ってこういう連中を排除した位。
さて、具体的には、孫呉の顔ぶれは以下。
まずは、誰とでも揉める虞翻、
そして、張昭のように
やることは公明正大でも
頑固でワガママで口うるさい奴か、
(コイツに嫌われた魯粛なんぞ、
言うに及ばずです。)
顧雍のように、
温厚な人格者でも
酒席でもシラフの時と態度を変えないという具合に
(今の感覚で言えば、酒乱よりはマシなのでしょうが)
クソ真面目で付き合いにくい奴が多く、
そこへ行くと、
周瑜は非の打ちどころのない優等生で、
(演義に書かれたような陰湿さはありません)
闞沢は庶民の出の独学の苦労人ですが
性格が曲がらなかった円満な人で、
後、諸葛瑾も外様の苦労人で
有能ながら性格の丸い珍しい人。
あの政権連中の列伝を読むと、
知識人層はこういう人の方が稀な位です。
むしろ、蒋欽のような兵隊上がりの方が
人付き合いは丸そうな位。
呂蒙も年をとって学問を始めて
丸くなった印象を受けます。
(甘寧のようにブッ飛んだのも多いのですが)
とはいえ、稀有な軍歴のある陸遜でさえ、
学問大好きで
張昭と顧雍を足して2で割ったような感じの
真面目でズケズケとモノを言う人で、
しまいには島流し同然で憤死します。
―もっとも、時代も相当に悪かったのですが。
つまり、有能でもアクの強い人ばかりで、
人目も憚らずに
主君にとって耳の痛い諫言を
連発する訳でして、
こういう人材を使う方にも
相当な器量を要求される訳です。
しかも、家柄自体も
家臣の方が良かったりする訳で、
例えば魯粛なんか、
孫権に曹操との開戦を煽る際、
自分は名家だから心配ないが
あなたの場合は家柄が低いので
降伏してもロクな官職にはありつけない、と、
露骨なことを言う訳です。
魯粛としては
こういう嫌味は本意ではないにしても、
社会の実情がその通りであればこそ、
孫権の退路を絶つための言葉としての重みが
出て来る訳でして。
張昭等の名士も、この赤壁の開戦前の段階では、
事実、曲りなりにも
漢を背負った曹操への降伏こそが
主君や漢への忠節だと
大真面目に考えていました。
そして、曹操がグレて
本格的に簒奪を考え出して
荀彧等の儒家名士と揉めるのも、
この敗戦を契機とします。
4、酒と涙と名士と妾
ところが、
孫権も孫権で、元はかなりヤンチャな性質で、
幼少の頃には、
小遣い欲しさに下級官吏を抱き込んで
官金をチョロまかしたり、
(曹丕も同じようなことをやっていますが)
酒乱は元より
狩が大好きで、
家臣が下の者が心配するから止めろと諫言しても
多少の安全策を講じたものの
止めなかったり、
のみならず、特に、
歳を取ってからは
女性関係のトラブルが多く、
恐らくはこれが政権の致命傷になりました。
―詰まりは、無能な外戚の台頭です。
言い換えれば、
そういう生来は破天荒な人が
プライドの高い儒家連中に頭を下げ続けるという
胃薬の手放せない状態が
孫呉の一面でした。
―もっとも、
俗物・劉備の蜀漢も似たようなものですが。
まあその、人間社会、
不浄・不潔の中にこそ真理があると言いますか。
下情に通じていないと
得てして人の心も掴めないものでして。
また、孫権の人材起用の特徴のひとつに、
能力が高ければ、
過失や品行の悪さには目を瞑ったことが
挙げられます。
例えば、呂範や賀斉は浪費癖があり
身分不相応の派手な装いをしていたようで、
甘寧(名士ではなく軍人ですが)は
粗暴でよく人を殺すだとか
まあイロイロありまして。
で、仕事に支障が出ない限り、
こういうのを我慢し、
かつ、不満を言う人を宥めて
使い続ける訳です。
曹操の人材起用と或る意味似ていますが、
そもそも叩き上げの軍人や商人出身の武将と
衣食の心配をしたことがないような
儒家名士の政策通とでは
持って生まれた価値観が異なるでしょうし、
名士の間でも、
出身地域や学派等、
様々な対立要因があります。
ですが、
そうしたイザコザを少しでも丸く収めつつ
実力主義で仕事をさせなければ、
軍閥同志の熾烈な抗争を
勝ち抜けなかったのかもしれません。
名士を嫌って足場固めに失敗した公孫瓚、
特定の名士に好きにやらせて
大局を見失った呂布、
数多の名士の招聘には成功したものの
その調整に失敗した袁紹や劉表、
という具合に、
それまで馬群に沈んだ反面教師は
いくらでもいた訳でして。
しかしながら、
孫権が己の懐の深さを以って断行した
名士起用の対費用効果は
極めて高かったと言わざるを得ません。
民の心を掴むと称して
周辺の「異民族」を平らげて
その資力で国力・軍備の増強に貢献したのは
言うまでもなく、
その次のステップとして、
古典の重箱の隅を突いて
無理やり王朝をでっち上げるロジックまで
考え出すので恐るべし。
5、元祖、名士宅の放火犯?!
さて、孫権の名士関係の苦労話は
枚挙に暇がないのですが、
特に張昭との絡みは抱腹モノですので、
少し紹介します。
ある時、
孫権に非があって
張昭が怒ってヒッキーになりまして、
何度も詫びたのですが、
事態は改善しません。
そのような中、
孫権が何かの序に
張昭の自宅に出向く機会があったのですが、
門前で声を掛けても出て来ないので、
ついに逆ギレして
門に放火して燻り出そうとしました。
―何だか、襄陽近辺の
何処かの庵で聴いたような話ですが、
正史の〇飛や諸葛某の伝には出て来ないので、
存外、この話が元ネタなのかもしれません。
因みに、中国の歴代の三国志関係の古典では、
張飛にムチャクチャなことをやらせる
作品が多いそうで、
庶民のヒーローなんだそうな。
要は、『水滸伝』のコワいアンチャン宜しく、
破天荒に暴れ回る侠客のメンタリティを
この人に重ね合わせている模様。
さて、放火しても張昭は出て来ないので、
仕方なく門の火は消したものの
そこを動かずにいまして、
(孫権も孫権で意地になっていたのでしょう)
張昭の家の方でも
これをタダ事ではないと見たようで、
いい歳して駄々をこねる父親を
息子が無理やり引っ張り出して
主君・孫権に面会させました。
これで孫権も面子が立ち、
張昭を車で宮中に連れ帰って正式に謝罪し、
漸く張昭も出仕するようになりましたとさ。
孫権の名士層の家臣の中では
名声も実績もズバ抜けていた張昭が
丞相にも太傅(皇太子の教育係)
にもなれなかったのは、
当人のこういう「幼い」性格が災いした模様。
―因みに、当時の丞相は顧雍。
孫権曰く、
張昭に敬意を払わなかったのではなく、
あくまで適性の問題とのこと。
ゴネて引き籠ると政治が進まない、
ということなのでしょう。
6、落日の孫呉とキナ臭い魏呉の国境地帯
で、軍閥時代から王朝開闢までの
名士優遇の反動と言いますか、
「俗人」は易きに流れるとでも言いますか、
孫権の時代の末期から
孫静(孫堅の弟)の家系や外戚の無能連中が
台頭して来る背景には、
孫権が不運にして嫡子を早くに失い
後継者の選定が難しくなったことと、
本人がモウロクして
名士の諫言に耳を貸さなくなったことが
ありました。
さらに、こういう御家の危機にかこつけて
政策の主導権を名士層からの奪取を目論む
親族・外戚の醜い政治工作があり、
行き着くところは
二宮事件のような泥沼の御家騒動。
ここで注目すべきは、
一連の粛清で失脚したのは
陸遜だけではないことです。
孫権の代のかなりの数の名士の子息が、
優秀で品行方正にもかかわらず
粛清されています。
そして、ラスト・エンペラーの
孫晧の代になっても
政権自体からこういうメンタリティが抜けず、
加えて、当人の行いも醜かったことで
晋への投降者が続出し、
呉の王朝軍はその討伐に明け暮れることになります。
家臣の離反の大体のパターンとしては、
都の建業に召喚命令が出されたのを
粛清の兆候と受け取り、
籠城や亡命を企てるというもの。
要は、宮廷の政争の長期化で
地方の行政や軍隊の人心が離反している訳です。
もっとも、それ以前から魏呉の国境線では、
双方の陣営から投降者を出してはいましたが、
投降する兵力はそれ程多くはなく、
謂わば「埋伏の毒」とも謂うべき
フェイクも混じっており、
これに引っ掛かって軍歴を汚した者も
何名もいました。
7、切り札・陸抗の登板と三国統一前夜
ところが、司馬氏の簒奪辺りの時代から
政権の中枢で強大な軍権を掌握した者からも
離反者を出すケースが続出します。
司馬氏が毌丘倹・諸葛誕と
「膿」を出し切った後、
今度は、内情がボロボロの呉からも
一族部曲を挙げての離反が常態化しまして、
皮肉にも、その鎮圧のMVPが、
かの陸遜の次男の陸抗。
余談ながら、存命中の余命短い孫権が、
この若者に父親の非業の死について
泣いて謝ったそうな。
(孫権については、こういう逸話の多いこと。)
で、一連の家臣の離反の中で
特に規模が大きかったのは、
歩隲の息子の歩闡(ほせん)の離反です。
皮肉なことに、
歩闡が立て籠ったのは
かつて陸抗が修繕した西陵でして、
その守備の堅牢さがアダになり、
長期戦を強いられました。
諸葛恪がデタラメな補強して
任地を転々とするのに対して
この人は完璧主義を期すので、
諸葛恪がそれを知って
いたく恥じ入ったそうな。
当時の人間のメンタリティを考えれば、
陸抗のようなタイプが
少なかったのでしょうが。
そのような中、陸抗は、
こういう相次ぐ兵乱で軍隊が疲弊して
兵力も不足していたことで、
中央に上奏して内治の充実による
国力増強を進言すると共に、
国境では敵将の羊祜と慣れ合ったのですが、
この現実に即した措置が、
内応を疑った孫晧の怒りを買うという
末期状態を呈します。
謂わば、今年の〇足農業の吉田君や
90年代の中日や広島の新人王投手、
後にうどん屋さん(美味しいそうな)に転職された
巨人の某投手のように、
この人が戦列を離れればチーム自体が終わる、
というような状況か。
国力の疲弊と宮廷の腐敗が
末期レベルで同時進行しているという点では、
蜀漢の諸葛亮の時代とは
比べ物にならない程のヤバさだと思います。
なお悪いことに、その頃には、
荊州からの西進を阻んでいた同盟国の蜀も
滅んでいまして、
長江の天険も
以前のような神通力を
発揮出来なくなっていました。
それでも晋が呉への侵攻に着手するまでに
結構な歳月を要したのは、
晋の褒めようのない「大人の事情」のなせる技です。
その意味では、
めでたい三国時代の終焉、というよりは、
何だか既にこの段階から、
怠慢王朝の発足と失政による
さらなる動乱―
結果的として、三国どころかの予兆が
「国際色」豊かな十六国のバトルロイヤル
見えつつあった、と言いますか。
識者の説によれば、
大体孫権の時代辺りから、
地元の豪族が皇帝をないがしろにするという
南朝の風土が出来上がった模様。
もっとも、
孫家のような外様政権が
イロイロやった後にも、
三国統一後の
永嘉の乱による亡命政権の東晋も
当初は傑出した政治力で
地元豪族を飼い慣らす訳ですが、
次第に取り込まれていくという
流れになります。
(余談ながら、
むこうの言葉で前漢を「西漢」、
後漢を「東漢」と呼びます。
ネット検索等で御活用されたく。)
おわりに
例によって、ハナシの大筋を纏めますと、
以下にようになります。
1、袁術配下の孫策は揚州に出兵し、
在地勢力との熾烈な抗争の結果、
孫家と地元名士との仲は険悪になった。
2、孫策の跡を継いだ孫権は、
その関係の修復に奔走し、
国力の増強や王朝の樹立に成功した。
3、名士層は能力こそ際立っているが
剛直な人士が多く、
孫権にとっては
その起用には多くの困難が伴った。
4、孫権の時代の末期から、
外戚や親族が名士層を弾圧する類の
政治工作が激増した。
5、政争の長期化に伴い、
人心の離反を招いて国力が著しく低下した。
ただ、今回の御話は正史の和訳と
概説書による部分が多く
孫呉関係の学術論文を当たっていないので、
(プロの書いた概説書の内容を疑う訳ではないのですが)
正直なところ、
書き終わってからも内容が不安な部分が
いつもの記事以上にあるような気もします。
まあその、サイト制作者の
ノミの心臓が祟ってか、
細かい部分を抑えていないと
何だか不安になるものでして。
したがって、
例によって、
参考になると思われる部分以外は
話半分で御願い出来れば幸いです。
【主要参考文献】(敬称略・順不同)
陳寿・裴松之:注 今鷹真・井波律子他訳
『正史 三国志』各巻
金文京『中国の歴史 04』
石井仁『曹操』
渡邊義浩『「三国志」の政治と思想』
川勝義雄『魏晋南北朝』
岡田由美『漂泊のヒーロー』
井波律子『三国志演義』