はじめに
今回も幹線道路の御話。
更新のペースが遅いのに法螺を吹くのも
何だか申し訳ないのですが、
次回は桟道や入蜀の経路について触れ、
その話が終わり次第、
亭や郵といった施設や旅券発行の手続きといった、
秦から三国時代あたりまでの
(軍事も含めた)逓信政策について
書きたいと思います、が、
いつになることか。
1、馳道の構造と建設目的
さて、始皇帝の中国の統一後の代表的な道路建設の
もうひとつの代表例が、今回の「馳道」。
まずは、どういう道路かと言いますと、
道幅70メートルで
そのうち、中央の7メートルが
皇帝専用道路として隆起しているというもの。
因みに、前回触れた「直道」との違いは、
直道程には直線が多くはなく
車両の高速移動には向きません。
次いで、その工法ですが、
「版築法」と呼ばれる、
土を建材に使う方法です。
上記のへぼいイラストのように、
木の枠に建材となる土を入れて
鉄錘(鉄槌)で叩きまくるというやり方。
城壁等のような頑丈な建築物を作るための工法でして、
当時は最新技術でした。
―ウィキによれば、
現在は建材がセメントに変わったようですが。
さらには、道路建設の目的と経路ですが、
制服した各国の連携と報復を警戒し、
その芽を摘むのが目的です。
具体的には、
多方面への派兵を可能にするための
道路建設という訳です。
さらにその経路ですが、
西への経路―隴西郡は、
秦が東進する前の策源地との連絡路を意味します。
雲中郡への経路は、直道と同じく、
北辺への備えと同時に、旧斉・燕地域への派兵も
視野に入っていることでしょう。
この流れで言えば、
函谷関経由の洛陽への経路は旧・魏領等の中原への
幹道、
桟道を経て南陽郡に至る経路は、
荊州や江南の旧・呉楚の地域への睨み
ということなのでしょう。
また、現地の看板によれば、
馳道はコーエーの『三國志』シリーズの全国マップ並の
広範な道路網であったようですが、
残念ながら、筆者浅学さか、
これについては別の文献・史料で確認出来なかったので、
掲載は控えました。
事の真偽の調査は今後の課題と致します。
2、県単位での人の管理
さて、こうした巨大な幹線道路の用途ですが、
始皇帝の巡察以外では、
サイト制作者の個人的な意見としては、
利用者の大半は、国家や自治体、
あるいは或る程度大きな資本か無法者の集団
であろうと予想します。
と、言いますのは、
当時は県から出るのに
イチイチ旅券発行という
面倒な手続きを取る必要がありました。
これには、目的や目的地の明記は当然のこと、
経由する関所やら、これを通過する人馬さえも
記入する必要がありまして、
生半可な目的では
遠出が難しかったことを意味します。
まず、識字率の壁があり、
次いで、役人や地域の目があるという具合。
3、自治体の枠組みから見る『三国志』
ここで少し脱線話をしますと、
春秋・戦国時代には県レベル
漢代(武帝の時代以降)には郡レベル
三国時代以降は州レベルの地方行政が
実質的に可能になったと言われていますが、
県・郡・州の各々の長が、
官僚機構の整備の進展によって
分相応の権限を手にしたのが
各々の時代であったという話です。
例えば、春秋時代の場合は、
小領主の支配地域が大体県レベルであり、
当時は県城(=都郷)と
郷(この場合は離郷、城塞がない)は
上下の関係がなく併存していたこともあり、
当時の領主が実行支配出来る領域が
大体このレベルでして、
この枠組みが次の時代にも横滑りしたことでしょう。
例えば、漢代の戸籍の話をしますと、
各々の「里」の戸籍を統括して
個人名のレベルで把握しているのが県だそうな。
(県の組織の中枢を、当時の言葉で「県廷」と言います。)
対して、県の上位の自治体である郡では、
人の数は把握していても
個人名までは分からなかった模様。
その他、以前の記事でも触れたように、
秦の時代は武器の製造や移動は
郡の太守以上の許可が必要であるだとか、
自治体のランクに応じて
独自の権限が付与されるのですが、
州については、後漢末までは、
地理上の区分はあっても
その区分された地域を丸ごと治める職階はなかった、
ということです。
因みに、当時の自治体の単位である
「里」・「郷」・「県」については、
この回を参照。
ところが、後漢末期の動乱の過程で、
暴動や反乱の規模が大きくなったことで
郡レベルでは治安活動が難しくなりまして、
本来は州の監察官であった刺史が
郡太守を指揮して事態の収拾を図る過程で
統治の責任者として実効支配を始めたという御話。
例えば『三国志』では、
荊州の劉表や益州の劉焉なんかが
その典型の模様。
要は、始皇帝が中国を統一たものの
圧政が祟って自滅し、
直後に漢がそのオイシイところをさらって
長い歳月をかけて発展させる過程で、
その州の監察官が統治者になるまでに
数世紀の歳月を要した訳です。
とはいえ、その頃にはそもそもの国家自体が
ステージ4の末期ガン状態でして、
皇帝様が木偶の坊につき、
州の支配者が必然的に軍閥化せざるを得なかった
というやっつけぶり。
そのうえ、そういう軍閥同士の抗争の結果、
やれ曹氏だ司馬氏だと新しい王朝を造ったところで、
仲達のように
王朝自体を乗っ取ろうとする奴がいれば、
諸葛誕のように
その報復とばかりに
州ごと離反するような奴も出て来る訳で、
安定した王朝の枠組みの中で
州という自治体が
官僚機構の一部として安定的に機能するのは
もう少し後の時代の模様。
もっとも、曹魏の軍政下での
都督だの諸軍事だのといった州の統治者を
こういうのを同等に扱うべきか否かは
議論の分かれるところかもしれませんが。
この話は、
色々と先行研究もあることで、
もう少し私の方でも勉強することと致します。
4、人々の度肝を抜く始皇帝の行列
さて、話を馳道に戻します。
今回の最後の話となりますが、皇帝の馬車の御話。
70メートルの大道の中央を走る
始皇帝の専用馬車ですが、
「轀輬車(おんりょうしゃ)」といった
大層な名前が付いています。
意味は、温かく涼しい―つまり、
車内の温度の調整機能がある、
ということです。
とはいえ、
21世紀の現代の視点で見れば、
エアコンも付いていないのに
空調機能があると吹く
何の変哲もない密閉式の馬車ですが、
当時の車両の技術水準からすれば
実に画期的なものでして。
と、言いますのは、
大体、漢代までの馬車というのは、
二輪が基本で、
座席と言えば座るスペースしかありません。
そのうえ、悪天候の備えなど、
あって無きが如しでして、
露天なんかザラで
精々、天蓋が付けば上等な位です。
次の時代の漢代における
朝廷の大臣クラスの公用車でさえ、
天蓋と側面に簾か板みたいなものが
付く程度の御粗末なもの。
―そういう時代に、
完全な密閉式でドアはおろか開閉式の窓がつき、
オマケに姿勢を崩すスペースのある車両が
どれ程貴重なものであったかを
御想像下さい。
今日のセレブ御用達の
胴長のリムジンを彷彿とさせるものを感じる
と言いますか。
そうした車両が
1000名程度の親衛隊の
車列や人馬に護衛されながら
道幅70メートルの道路の
隆起した中央の7メートルの部分を走るのですから、
物々しい行列であったことは
想像に難くありません。
現に、次の時代には秦に反乱を企てることになる
項羽も劉邦も、
この始皇帝の地方巡察の車列を見て
色々と思うところがあった模様。
まず項羽は、
不敵にも、始皇帝に取って代わってやると言い、
対して劉邦は、
男と生まれたからにはああなりたい、と、
単に憧れた、という逸話がありまして。
後の世の英雄となる若き日の両者ならずとも、
人々が羨望と怨嗟を向けた行列
であったことでしょう。
因みに、当時の車両関係の話の種本は、
劉永華『中國古代車輿馬具』(清華大学出版社)。
イラストの轀輬車のカラーも、
この本の復元図を参考にしました。
サイト制作者のヘボいイラストとは違い、
車体は実に緻密な紋様に彩られていたようです。
なお、同書は、
説明の多さは元より、
復元イラストや史料の図版も多いので、
特に考証本として重宝する良書だと思いますが、
如何せん、中文で高い本
(サイト制作者は4000円余で購入!
泣けてきます)なので、
まずは、近くの大学図書館で手に取られるか、
図書館に買わせるのが良いかもしれません。
おわりに
今回の取り留めない話の馳道に関する要点を
一応整理しておきます。
馳道は始皇帝が建設を進めた道幅の広い道路で、
中央は皇帝の専用道路です。
首都の咸陽を基点に
多方面への派兵や巡察を可能にしました。
ただ、道路の両側は
一般にも開放されていたとはいえ、
恐らく利用者は
公用者か資本力のある商人に限られていたであろう、
というサイト制作者の見立て(妄想とも言いますが)。
専用道路を突っ走る皇帝の馬車は
当時としては極めて居住性に優れていました。
また、馬車自体が壮麗なうえに
親衛隊の車列を引率して
堂々と数度の地方巡察を行ったため、
当然ながら、
良くも悪くも、
人々の耳目を曳く結果となりました。
【主要参考文献】
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』
劉永華『中國古代車輿馬具』
藤田勝久「里耶秦簡の交通資料と県社会」
「秦漢時代の交通と情報伝達」
小嶋茂稔「漢代の国家統治機構における亭の位置」
学習研究社『戦略戦術兵器事典1』
林巳奈夫『中国古代の生活史』