古代中国の幹線道路のパターンその1・直道

まずは、更新が大幅に遅れて大変申し訳ありません。

私事で恐縮ですが、
身の回りの環境が激変したことで
先月までのペースでの更新が難しくなりまして、

色々と考えた結果、

差し当たって、

文章なりイラストなり、
書き起こした分だけでも
小分けにして綴ることにしました。

早速ですが、
今回は交通関係の話。

以前の記事で、
古代中国の城塞都市の設立条件は
交通の結節点である可能性が高い、
と記しました。

こうした文脈を受けてか、
中国の統一に成功した秦の始皇帝は、

首都・咸陽を基点に
巨大な道路網の整備に乗り出す訳です。

さて、当時の幹線道路には
いくつかのパターンが存在します。

そのひとつのが、

「直道」と呼ばれる

今日で言うところの
ナチのアウトバーンのような、

謂わば、
軍用の高速道路に相当する道路です。

咸陽(雲陽の林光宮)を基点とし、
北辺の国境地帯である九原郡までの
1800里(約700キロ)を結ぶ大道です。

 

早速ですが、
以下のヘボいイラストを御覧下さい。

 

稲畑耕一郎監修『図説 中国文明史 4』p97-99等を参考に作成。

これが、その「直道」の概要です。

広い道幅を有し、
急なカーブや勾配を排したことで
車両の高速移動を可能にしました。

オマケに、
道路に砂利まで敷いて
砂塵が舞い上がるのを防ぐという徹底ぶり。

敷設どころが維持にも相当の予算が掛かることが
容易に想像出来ます。

なお、道幅については、文献によっては、
平地で20メートル程度、
山地で4、5メートル程度、
としているものもあります。

で、中国の統一後、
こんな手の込んだ道路を必要とする仮想敵国
一体どこにいるのか、
と言えば、

当時北方で猛威を振るっていた
匈奴だったりしまして。

ですが、皮肉なことに、
当時のこの道路の用途は、

地方巡察中に身罷った始皇帝の遺体を
迅速に咸陽に運ぶために使われたというオチ。

最後を迎えたのが山東半島付近の沙丘で、
そこから西に転進して直道に乗ったそうな。

そのうえ、その臨終の段階では未完成でした。

 

【主要参考文献】
稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳
『図説 中国文明史4』
江村治樹『戦国秦漢時代の都市と国家』
学習研究社『戦略戦術兵器事典1』

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